一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン3 19559字  1213

レッスン3

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【レッスン①  39128】☆

【レッスン③  39128】

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【レッスン①  39128】☆

 特別レッスンというのは、通常のレッスンと何か違ったことをやった方がよいと思い、それぞれのトレーナーのいろいろな才能、得意分野を出すために、つくりました。

ここのレッスンになると、生徒の状況にあわせなければいけませんので、必ずしもトレーナーが一番よいところでなかなか使われていないのです。

それに対して特別というのは、あまり生徒のことを考えずに、必要だと思われることを、あるいは好きなことをやってくれということです。昔はオールデイズやゴスペルを歌ったりもしていました。

 私の場合、特別は、予定があいたときにやっています。半年から1年前くらいは、毎月1、2回か、もっと前は3回くらいやっていました。
 今回みたいに大人数でやることはなく、大体グレードを分けてやっていました。こういうものにすぐに対応できる人と、できない人がいます。

ただ、レッスンもずいぶんスローテンポになってきていますから、たまにハイテンションでいろいろな人と触れ合ってもらうのもよいと思います。

 オリジナルな声というのは、それは楽器づくりということです。声という楽器をきちんとつくっていくということです。日本人に私が一番求めていることです。
 人間の身体の場合、特別な楽器がなければ歌えないということではありません。もう楽器として人並みにはあるわけです。ただ、より音楽性とか、芸術性とか、あるいは時代を超えたり、国を超えて通じるレベルでやるときには、身体楽器の力というのが大きな力になります。

 


 ヴォーカルの場合は、その音色自体を変えて、そのほかの条件も変えていきます。役者さんとか、声優さんとかは、声の地力をつけることでよいと思います。劇団で、成果を出していますし、体に結びついていたら、出てくるものだと思います。

 

本当はオリジナルのフレーズのところとか、感覚のところというのは、やらなくても済んでいたところなのですが、最近は、きちんと立場がつくれていない、スタンスが決まっていない、入れるものが入ってきていないから、感覚の勉強の仕方にまで入らざるを得ません。

むしろ感覚を勉強することによって体をつけていかないと、体の勝負でやっていたら、勝てっこないというより、何年やっていてもよくわからないということになります。

 そういう意味で日本のヴォーカルの曲も使うようになりました。日本のヴォーカルは、そんなにみんなと体が違うわけでもないし、むしろ声量がなかったり、声域がない人もたくさんいるわけです。そういう人がそこまで表現できるということは、一体なんなのかということです。そこは、勉強してほしいものです。

 


 好き嫌いで、昔より学びにくくなったのではないでしょうか。人によって伸びる時期も違えば、伸び方も違うし、それからやり方も違うのに、横並びで上達しようとか、同じ年齢だからどうだとか、同じ時期に入ったからどうだとかにこだわっています。

そういうことは全然関係ないのです。もっとこういう世界は深いです。

芸術家、作家の世界でも、そんなことはいいません。


 ここの利用の仕方では、好むものは自分でやるのですから、そのこと以外のことに出て欲しいのです。嫌なレッスンというより、古いもの、シャンソンとか、カンツォーネとかは、聞いて苦痛かもしれません。ただ、大切なものを伝えようとしたときに、今のヒップホップとか、J-POPではわかっていても、あなたに伝えられないことが多く、もう少し伝えやすくするために、そういうものの方がわかりやすく身につきやすいから使うのです。

 あなたが感覚できないようなものとか、人間の体として受け継がれていることを、もう一度掘り下げることをきちんとやっていくということです。

歌は勉強しなくても、今を生きていたら、口から出てくるものです。誰かを追いかけていたり、どこかに似させることがうまいとか思ってしまうからだめなのです。自分のなかにきちんと正解があるのです。

 


 みんなに聞こえない大きさでしゃべっていたら伝わらないのと同じで、表現の手段として、歌で使う以上は、最低限のルールというものがあります。それは音程やリズムということではなく、もっと根本的にその人のなかできちんとつかまえていたり、いだいていたり、動かしたりしているものがあるというのが前提です。それが人様に届いたあとから価値が生じるのです。

 

その人のなかでどんなに回っていても、価値は生じないのです。そこが自分のためにやっている人と、自分の活動を通じて何かを伝えようとするには、受け手が必要です。だからといって受け手に媚びる必要はないのです。

 こういうところに問いにくるのは、どうしても一人でやっていると勝手にやれてしまいますので、それを正せる場を持たなくてはいけないのです。みんなにいい加減になってもらうと困りますので、いろいろなところに出て、いろいろな外の情報を入れて、いろいろな感覚で、いろいろな判断をして欲しいものです。5年も10年も付き合って、そこの前に立って恥ずかしくないようにしていくのです。
 初心者はいくらでもだませるのです。他の情報を入れなければ、そういうことは全部正しくなってしまうのです。そういう道とまったく逆の方法をとっているのが、ここなのです。

 


 最近の音楽ファンというのは、ずいぶん洗脳されているようです。ファンだからそうなるし、似たようなものかもしれません。本当は好きなアーティストに対してこそ、ここはよいけどここはだめというところをはっきりいえる、そういうファンがたくさんいて、初めてアーティストも高まり、成り立っていくわけです。

ポップスの場合は、なぜかそういう批判とか、批評という分野が成り立ちません。外国に行くと、最悪のアルバムという批判もあります。

日本の場合は全部を誉めてしまいます。全部を誉めてしまったら、もっとよくは育ちません。

 この曲から、ぱっと言葉を覚えて、音程とリズムを取ってみていえばいいというのでなく、感覚を早く切り替え表現するということです。
 歌のなかでも、何回も切り替えなくてはいけません。

 

みんなもここにきたら、少しは何か切り替わっていきます。少し高まった自分になると思います。切り替え、悪いときはそれでしかたないわけです。自分に入ってくる、よいところを切り取っていくことです。悪いところは、悪いところで批判していくことです。

 


 ここの基本で扱うものは、比較的わかりやすいものだと思います。ここは勉強になるとか、いうのは、簡単にはいきません。

でも50回も、聞いてみたら退屈するとか、細かく拡大していくとわけのわからないところがあると思います。でも、そういうところを突き抜ける、そこで感じると、学べます。

 

自分もこういう歌を歌っているのかもしれないし、そういう歌しか歌えないのかもしれないということもわかります。そこで、それはどうして悪いのか、どう直せばよいのか、それを勉強していって欲しいのです。


 声のことではなく、曲とか、歌とか、音楽の話も、です。

こういう日本の歌を使ったりするのも、この歌い手を最低限で考えて、それをより直して、よりよくみせるためにどうすればよいのかというふうに学ぶためです。これがすごいなと、これに追いついていこうと考えないで、そういう見方をして欲しいのです。

 


 それ以上のものに関しては、すごいと感心して聞いているしかないからです。そうではないものに対して、きちんと高いレベルで判断して、自分で判断できるところまでは伸びます。あとは、それがどう浮き上がってくるかということは、それは、神様だけしかわかりません。

 自分で自分のことをやるのはあたりまえです。人のことは人のことで見るのもあたりまえです。そうでないもう1つ、神様とはいいませんが、もう1つ基準があるということです。

それは、よくわからないし、よくわからないままいってしまうのですが、わからないままに接しててもよいから、なるべくそういうものを大切にしなさいということです。それがあとで利いてくるということです。☆


 こういうものを聞くときも、他の人たちをみるときも、その人のなかの体を読みこんだり、感覚を読みこんでみることです。

 

 

ヴォイストレーニングというのは、基本的に、声を柔軟に、繊細に使えるようにしていくことです。強くするとか、高く出るようにとか、大きく出るようにするのではなく、それはプロセスのなかで生じてくることです。感覚がより原理的にきちんと使えていたら、あとで獲得できるものです。


 結果を目的にしてしまわないことです。今は歌が少々うまかろうが、声がよいとか大きく出ることでは、やっていける世の中ではありません。何なんだといったら、その人の個性なり、そのフィーリングなり、感覚のところに、どれだけ他に感じられる人がいるかどうかです。


 私も今を生きているつもりでが、皆さんの今とは違うでしょう。皆さんの生活とも違います。

皆さんが感じたように、感じるのは正解です。そこから出すところも正解でないとはいえないのですが、その抽出度を高めるというか、深めなければいけません。そうでないと、他の人にはどうでもよい、あなたの身内の世界になってしまいます。

そういうところを学んでもらえばよいと思います。


 昔の日本の歌は、世代を超えて愛されたといいます。今の歌が劣っているとは思いませんが、ただ、わけがわからないのは、実が落ちてしまっているからです。実から形に移行して、その形はどう取れていても正解だということなのに、形に正解を決めてしまって、そこに実を何とかつめようというところがあります。それは選択されたものでしかありません。


 ゲームのなかでどんなにできても、食べてはいけないし、クリエーターはゲームの枠外で勝負するのです。新しいゲームを開発するとか、ゲームでないものをつくるとか、そういう道があるということは知っておかなければいけません。


 それがその土俵の上でやるのはよいのですが、結局、たどり着いたと思っても、プログラマーが組んだ通りにいっただけなのです。

 

 

皆さんはいろいろなものを選ぶことには長けていると思います。しかし、何もなければ人間はつくるのです。選んでも自分の満足するものは絶対に出てきません。選んだものを参考にして、自分のものをつくるために役立てるのです。


 お金がなければ、お金を稼ごうと思うし、パンがなければパンを買おうと思うし、まずいなと思ったらもっとおいしいものをつくろうと思います。そういう実感のものが離れてしまうと、少なくともここでいっているように、体とか、血とか、息とかが通っているような歌にはならないのです。

デジタル的にコンピューターに入れてみて、違う音楽性とか、違う演奏とかが出ないわけではないでしょう。でもあくまで技術は技術です。


 そうでなければ、バイオリニストやドラマーの世界もとっくにコンピューターに替わられていると思います。実際は、ドラムマシーンの方がずっと有能なのです。ただ、その人の人間の持つズレとか、アンバランスみたいなものがあります。

人は、人の一所懸命にやっているところをみたいのです。歌は、特にそこが強調されますから、正確に歌っているとつまらなくなってしまうのです。もちろん正確にできていた上で、そこでズラしたくてズラすのです。そこを間違ってはいけません。

 


「ラララ」、「アアア」、「オオオ」 「ガゲゴ」
 
 最初はついていくのが、やっとという人もいると思います。自分でいろんなメニューをつくってください。速くするのは、頭で考えさせないようにしているからです。

これも、ピアノに引きずられるようについていく人と、ゆっくりとそれを待っていて、ピアノの音が少し変わってもすぐに対応できる人もいます。感覚の能力が、かなり違います。あとは体と声の対応性です。

 

1つずつていねいに考えながらやっていくというやり方もあります。どのやり方がよいとか悪いとかではなく、いろいろと変えてみればよいと思います。そのことによって、最終的にはどれだけ気づけたかということです。自分の現状を把握し、そこに課題に気づいてください。

 

テンションを高く保つこと、基本というのは面倒くさいものです。それは頭を使わなければいけないし、体を使うことでもめんどうです。逆に両方ともやらないようにして、反射的に繰り返してやってみるとか、いろいろとやってみることです。


「ハイ」だけでやってみましょう。
 いろんなやり方があります。ここがよいと思うやり方は残っていきます。どうしてもだめだというものは消えていきます。

それとあなた個人にとってよいのか悪いのかというのはまた別です。最初は、平均値としてのやり方からです。


 型からやるというのは、自分がそういうことをやったときに声が出やすかったとか、他の人にやらせたときに早くそういうものができるようになったとか、あるいは声が取れないときに、それが元に戻ったとかを早く知るためです。

 

そういうことは、何かの原理にあっているのです。

あとでいろいろと理屈をつけたり、人に教えるときにも便利です。

 


 「ハイ、あおい、とおいそら」

強弱のアクセント、要は、音を1つに捉えてみて、もう一度置き換えてみるという練習です。
 たとえば、「くわんど」というときに、彼らが「クワンド」と1つに捉えているのか、2つに捉えているのか、それは分けているわけではないから、分析してもしょうがないのですが、少なくとも、「くわあんどー」と歌わなければいけないと思っている人とは違うわけです。

 

その感覚だったら、そうとしか声も出ないし、音のフレーズも出ないのです。

そういうものを考えたときに日本人には勉強すれば勉強するほど、求めるのとは逆の方向にいってしまうということです。


 これはボニージャックスです。彼らが歌うと、こういうふうになります。日本人の感覚というのはこういうことです。今の時代、皆さんが歌ってもこうならないと思います。

どう歌うんだということでは、クラシックを聞いてみればよいと思います。彼らも勉強したため、一つひとつの音符のなかに、言葉を当てはめていっています。

レクチャーのなかで述べた等時性ということをいいましたが、まさに歌のなかに表れているのです。

わからない人は、たとえば「青い空」を、とにかく1つでいうと、いわれるままにやっていたら、そのうちなんとなく感覚が変わってきます。



「ハイ、あおい」でいきましょう。
 「ハイ」では100でいえたけど、「あおい」になったときに80になったとしたら、言葉の数だけ薄められているわけです。「あおい」の方が難しいわけです。それだけテンションか息か、何かで補充しなければいけないのです。


 これでもう1回まわして終わりますが、音が高くなっていくのも、音が2つついていくのも難しくなるのです。それを支えられるかどうかではなく、その練習をすることによって、支えられる力をつけていくことです。

それは歌う声とか、歌とは違います。その結び付きをつけたり、声をぱっとつかむために、基本の素振りみたいなことです。やりにくければ、「あおいそら」だけでもよいです。


「ハイ、あおいそら」
 こういうのは、「ハイ、あおいそら」と1つで捉えておいて、それを1つで歌うためではなくて、「あおいそら」を、いろいろとそこから自分の感覚に応じて言葉が動くようにしていくためのトレーニングです。


 今やっているのは、役者のレベルです。それに音がついて、リズムがついて、メロディがついてくると、音楽に高まります。そこはあまり区別していません。

区別のない音楽もありますし、言葉だけでたたみかける音楽とかリズムだけでラップのようにやっていくものもあります。

そういうものに自由に対応できるようにしていきます。応用しては、この基本のところに戻ってみるのです。


 「ハイ」をベースの型にしていますが、それはやればよいということではありません。ただ、より深く感じられるようにするためです。

始めはわからないかもしれませんが、たくさんやっていくうちに、そのうち自分のなかで一番出しやすいようなところがわかるようになってきます。

そのベースの部分は「ハイ」でなくてもよいのです。セリフでも自分が一番体と心が入るなと思うものを持てばよいのです。そういうメニューを自分でつくってください。


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【レッスン③  39128】

 今、立つことをいっています。3ヵ月くらいは音楽を聞かせることと立つことをやる方がよいと思っています。

昔は出すところからやっていました。今度のオリジナルフレーズの特別レッスンがありますが、あれが最初のレッスンだったのです。

本来そ、立っていて音楽を入れてきている人であれば、その学び方が一番よいのです。結局、出したものしか人には見られないわけですから、何が出てくるかということを、きちんとみていけばよいからです。


 ただ、いろいろな人が来るようになり、入れるということ、それから立つということ、これは時代も世の中も変わっていきますから、その都度、立場を見なければいけません。

感覚もあいまいなもので、鈍いか鈍くないかということは、その人の生活というか日常のなかでも出ているわけです。日常のなかで鈍い人がステージで鋭いことができるわけがないのです。


 だからといって生活のなかで鋭くしようといっても、そこで一から学ばせるのは大変なことです。生活は、寝ている時間も含めて、一日24時間あるということで、練習の時間がそれと一致すればよいのですが、練習というのはそこまでの高いテンションでできません。

練習の時間をただ長くしていったり、たくさん声を出すことによって、だめになってしまう場合もみられます。

 

 

特に最近の音楽や歌の傾向もありますが、どんなに声が高く出ようと、大きく出たから、声がよくなったからといっても、大して何にもならないということです。歌に関しても同じです。どんなにうまいからといって、やっていけることとは関係ないのです。やっていくことを中心で考えるのであれば、出ているものをきちんと評価し、足らないところを補うことです。


 新しい人も、ここに来ると声を出すことをやりたいわけです。しかし、それでは子供と同じです。歌いたければ自分で歌えばよいのです。声も好きに出せばよいのです。それでだめだから、こういう場にきてやるわけです。
 ここでは、出したものに責任を持たなくてはいけないのです。その責任がどの程度あるのかということです。学び方の本も読んだからといって身につくわけではないのです。それを我慢して、入れている時期を大切にとっていくことです。


 みていると、まだ何か違うような気がします。体を動かすことや、息吐くことを目的にしたい人もいます。そんなことは自分でやることなのです。そういうことに、ここでの時間を使うのは、もったいないことです。

自分でできるところは自分でやればよいのです。場に出て、レッスンでやることというのは、気づくことです。そして自分のことを磨くことをきちんとやらなくてはいけないのです。


 いろいろな曲を使うのは、大きな理由があります。同じ分野の曲を1000曲聞いて1つか2つわかることを、100曲、違う分野の曲を聞いたら、もっとわかるからです。

わかるというよりも、逆にわからないことも増えます。それだけ感覚が刺激されるのです。

 プロの人であれば、自分が伸びたければ、今までにないことを入れるしかないのです。
 人間、なかなか一人では、それができないのです。

特に音楽になってくると、わがままになってくる、いや、歌では。好きな音楽を好きなように歌っていればよいということになるのです。


 でも、大切なことというのは、好きなことを好きなように歌ってきて、こうだったではないかという現実をまず捉えるということです。

それで足らないとか、さらに伸びたいと思ったときに、そこには、立ってなかったり入ってなかったりするのでは、上達はのぞめません。



 ある時期そ、基礎の材料を詰め込まなければいけないときもあるのです。☆

自分の調子のベストでだめだったときに、どうするのかということの問題に早く入ればよいのです。

 

だから、選択の技です。自分のことを知ることも必要だし、他の人のことも知ることも必要です。でも、この分野に関しては、答えはそのどちらにもないのです。

だから音楽は神様といわれるわけです。

 

 いくらこういうものを聞いて、そこから選んでも、とれない人は、とり方に気づくしかないのです。いつも私が材料という言い方をしているのはそういうことです。そこから自分でつくらなければいけないのです。

 


 もっと根本に考えてみたら、何もなければ自分でつくるしかないのです。ところが、たぶん時代の傾向だと思うのですが、そういうことができなくなってきているのです。どこか選んだり組み合わせるだけで、何かつくれると思ってしまう、そこでゆがんでしまうのです。


 たとえば、お金がなければお金を稼ぐでしょうし、パンがなければ、パンを求めたり食べ物を求めたりするでしょうし、それでなければその代用をするでしょう。そういうことでいうと、何もない分野の方が大きいわけです。まったく何もないのです。

 

私の考えはまったく逆です。他の人がみんなやっている、そしたら他の人にやらせておく、そして他人がやらないところをやるのです。ああいうふうに歌っているから、ああいうふうに歌うのはやめようと、でも、自分の考えることは大体世界のどこかで誰かが考えやっているのです。そうしたら、そのことから学ぶのです。

 


 今までの人間がどれだけのことをやってきて、今生きている人間達が世界中でどういうことをやっているのかということをです。そこにないところに立てば一番よいわけです。
 今の若い人の傾向というのは、誰かがやったことをあとを追っていきたい、そうじゃないと安心できないのです。それは要は、目立たないように、まんなかにいたら、安心のような教育をされてきたのです。


 こういう分野というのはそれと相反します。選択する前に創造しなければだめです。創造するには選択しなければいけないし、その前には集めなければいけないのです。全ての曲を聞くわけでもないし、全ての本を読むわけでもないのですが、そこのポイントをきちんと踏まえておかないと、どんどん鈍くなってしまいます。
 
 日本人のフレーズを使ってやるのも、日本人でも歌えていたり、プロとして認められている人というのは、感覚があるからです。楽器として、そのレベルまで音楽的に仕上げていないだけであって、その分、何が足らないのかを知って、それを何かで補っているわけです。それがお客さんにみえてしまったり、お客さんはわからないにしても、私にみえてしまうから、何か飽きられてしまったり、1曲でわかってしまったり、全部の曲が同じようだといわれたりするのです。
 それがわからないところのお客に対しては、きちんと余力をもって接するというのは、それはそれでプロとしての仕事だと思います。



 余談ですが、できる人がやれていないというのと、できない人がやれているというのは、どちらが偉いのかと思うのです。よくあいつは才能がないのにとか能力がないのにとかいいますが、じゃあそれでやれているというのは、もっと大変なことだし、がんばっているわけだから、偉いと思います。

逆に、そんなにできるのにどこにも出ていないというのは、何なんだということです。むろん、それがポリシーならばよいのですが。


 結局、人前に出ているか、出ていないかがよいとか悪いとかではなく、大切なことは、それがやれる力があるかないかということです。それをどう選択して使おうとしているかということです。その辺は、その人のポリシーなり、スタンスになってくると思います。


 ある意味では、音楽は芸術です。こういうことも芸術で捉えてしまったら、たとえばこういうところでは歌えない人もいるわけです。ドラムもついていないし、音ももっとよくないと嫌でしょう。客も、たくさんきて欲しいと、完璧主義になるほどそういうものはでてくるわけです。

しかしどこの国に行ってもギター1本でやっている人もいるし、それはどちらが偉いとかいうことではなく、そういうものも含めて、その人のスタンスだと思うのです。
 そういう意味で、こういうところにあるスタンスをきちんと決めて、把握して、その出口をきちんと見ていくことです。

 


 今は選択のなかで、コンビニみたいに、そこに入ったら何か買える、今回これを取ろう、次はこれを取ろうとする。本当に食べたいものを決めるのは難しいのだと思います。しかし、そっちの方から考えていかないと、最終的に歌も決まっていかないと思います。
 自分の歌なんて誰も聞いていないし、求めていないと、そうしたら歌ということさえ疑わなくてはいけないでしょう。

 その人の心とか、感覚というものを、歌の場合は声で飛ばすわけです。2メーター先くらいから先が勝負です。2メーター以内で起こることというのは、あんたの勝手でしょう、ということです。

その人がどんなに傷んでいても、その人がどんなに気持ちよく歌っていようが、どんなにきらびやかであろうが関係ありません。今のミュージックシーンはビジュアル的な部分がとても入っていますが、ここでいうのであれば、そこの先に届いてくるものです。


 たぶん歌として歌われていたり、声として出ているものでは届きません。その人のポリシーなり、主張したいこととか、心で感じていることであり、それが歌だという原点にいくわけです。
 この発声練習でも、その感覚にぱっとついていけるかということです。頭では当然ついていけないわけで、頭で認知して、それから出そうというのは無理です。そのためにヴォイストレーニングというのは、繊細に柔軟に対応できるためにあるのです。大きな声を出すためにやるとか、体が使えるようにやるとか、体を使って充実感があるからやるというものではないのです。
 その辺は勘違いするなというより、勘違いして、間違えてでもよいから、ただ、そこでそこまでいったなとか、だめだったなと思ったら、しっかりと見直さなければいけないということです。



 スタンスとか立場づくりというのは大切です。これが1日でできるとか、1時間ずつできるとか、もっと鋭い人は1フレーズずつできるとか、一瞬でぱっと変えられるのです。練習においては大きくは、1ヵ月単位でしょう。そこで1ヵ月ごとの反省を書かせていますが、やはり入ったばかりの人だと、半年か1年単位と思います。どこか自分で思いこんだやり方でやって、壁にぶち当たるというのに半年か1年くらいかかると思います。


 トレーニングをして、声をつぶすのは、それが悪いのではなくて、それが今の限界というか、1つの思いこみの間違いということをみて、元に戻せばよいのです。繰り返さなければよいのです。
 合宿とか、特別講座とかがよいというのは、あまり1ヵ月とか半年とかではなく、一気に3日間で降りかかってきますから、そのなかで大切なことに気づけるからです。
 そのときの密度の気づき方とか、濃さをもって、日常を生きていくこと、そして1つ1つのレッスンに望んでいくことです。

 

こういうところに来るということは、そのためでしょう。人間というのは愚かなもので、本を読んでも、レッスンを受けても、なかなか気づけなくて、そこで誰かの一言や、反省の会報でわかるのです。映画見てみたり、本を読んでみても学べるものですから、なるべく幅を広くとって、好き嫌いをしないでください。


 日本人があたりまえのまま、あたりまえの感覚で、何年やっても出ないし、もっとすぐれた人もいたし、もっと努力した人もいたけど、その人たちが歌えないのは、そのあたりまえにいるということ自体を、それは世界の非常識なんだということを知ってください。きちんと自分に身にもって体験しないうちに、自分がこうやりたいなとか、こっちの方が気持ちよいなとか思ったら、そこでまず疑わなければいけないのです。


 それでみんな10年経ったということです。これはとても難しいことなのですが、自分の感覚を信じろといっています。トレーナーの方が正しいということではなく、もっと正しいものがあって、それは私がいっても、まだあなたが感じていても、わからないところにあるのですが、そこからつくり出すということです。そういうことに敏感になっていってください。
 ④クラスあたりにも、なぜ伸びていないのかという理由をいっているのですが、つまりは、自分自身でそんなものでよいのかということです。


 人間というのは愚かなもので、2年制というと2年間いたら大体7割くらいはできているように思っているのです。年月は何の基準にもなりません。では4年いたら9割できるのかといったら、そんなものでもないのです。

 1年経ったから、大体5割くらいはいっているとか、みんなと同じくらいにグレードが上がっているからとか、関係ないのです。

 

 

こういうここを利用するというのは、そういうところを、もっと大きな評価の軸があって、それをきちんと感じられるようにしなければ、本当におかしくになってしまいます。
 どんどん情報を入れ、たくさんのものに接しなければいけないのです。宗教も教祖も共産主義も否定されるのはあたりまえのことです。新しいものを生み出すというのはそういうことです。


 ここは根本的にそういう考えで、トレーナーが最低ラインなのです。彼らが10年でやったのならば、あなたが6年でやらなければ、努力不足なのです。

ただ、その考え方とか、価値観とか、育ちとか、どうしてもそれを妨げてしまっているものがあるのです。豊かになってくると、そこのプロセスがみえないので、好き嫌いで動けてしまうのです。

時況によって好きなことを1つもできなくなると、そこで貯められたエネルギーというものがずいぶん大きく働くのです。


 音楽でも、難しいところに入ったら我慢です。その我慢をしなくてよいという世の中なのですが、その我慢を続けていることによって初めてわかることは我慢しない人にはわからないことです。
 スポーツの世界ではその辺がわかりやすいのですが、芸術の場合は、その我慢自体で何かやれているつもりになる人も多いのです。自虐的に、自分の体を傷つけていることが、気持ちよくなってくる人もいるでしょう。でもそれだとやっていけません。

 

人間は美しいものとか、強いものとかに惹かれるのです。そこが実際に何なのかということです。宗教とかも、所詮、言葉の世界では、言葉というのは言葉で覆されてしまうのです。別に画家でもよかったのかもしれませんが、やはり形で示せるもの、しかも声は自分の身そのもので示せるものとしてあるのです。

 


 音程とろうとかリズムとろうとか歌詞を覚えようとか、そういうことを抜かしてみたときに、何が出てくるかということです。歌でも、オリジナルのフレーズでも、その人が心で感じていることを放り投げる、それが落ちてきたものを、聞いている人がきちんと受け止め、戻してもらい、次の働きを起こせばよいわけです。これが表現です。


 ヴォイストレーニングで、2つ、1つはオリジナルな声、これは日本人が欠けていることだから、それをきちんとやっていくこと、そして、オリジナルなフレーズになったときに、その分自由にもなるし、多彩な展開ができるということです。
 その選択や創造をする前に、その材料が入っていなければだめです。使うために必要な声と、声の使い方です。


 どこかで歌はシンプルに捉えておいて欲しいのです。歌は、小さな子が歌っても感動することがあるということです。素人とか、アマチュアとか関係なく、本当に感動することがあるのです。
 音程とかリズムとか、そういう正確さとかではありません。上手に歌えたからといって、感動するわけで、だから文化なのです。

 

どちらをやりたいかというところで間違えてしまうのです。体をつくることや声をつくることやレッスンは必要条件でしかないのです。
 こういう条件はある分にはあった方がよいですが、なくてもやっている人もいるということです。その辺が楽器との違いです。


 体と声帯があったら、その辺の高校生でも歌えてしまうというのは、逆にいうと、自分にあるものをしっかりとさせて、その使い方、それを最大限、使うことをしなければいけないということです。それで、最大限使ったところで、それでも足らないから、あるものを増やしていくべきなのです。


 より高いところを出そうとか、声を完璧にしていこうとか、いうのはそれで目的にはなるのですが、それはあくまで結果としてそうなっていたらよいということです。それが最終目的ではないのです。


 今のフレーズでもトレーニングをやっているがために、その方に安易に逃げ込んだらだめだということです。トレーニングやっているから、歌にならないということも、おかしいことなのです。

そういう時期もあります。それは出口を見て、そこに向かっているための潜在時間であればよいのです。ただ、一方的にだめにしていくというのも多いと思うのです。


 他のところに行ったら、すぐにその出し方やめなさいとか、こう歌ったらよいと教えてくれることを、ここにすぐにやらないのは、その人の潜り方がよくわからない場合があるからです。

5年~10年くらい今のペースできていたら、ようやくその辺についていえるほど難しいのです。深く潜ったがために、すごくよく出てくるという場合もあるのです。

だから、くせで歌っている人に、体に結びつきそうなものは止めないでみています。今の間違えを、それを容認しています。


 2年くらいそういうことが起きて、それで声を壊しても、そこで本人が気づいたときに、何ができていくんだということです。それを誰かから止められてしまうと、自分の枠の限界までいっていないということで、本当の意味で本人も自信が持てないと思います。


 ここストップ、ここストップといわれて、そのなかでやっていて、そういうやり方で通用するのは、音大かスクールの平均点が取れるというくらいです。それでは一人でやれる力にはならないのです。
 ここのスタンスが逃げになっては困るわけです。長くいるから上達するわけでもないということもわかると思います。一つ一つのなかでどう感じていくかということだと思います。それをきちんとつかむということです。


 あなたに一番足らないところというのは、この先の意識です。それは自分が楽しければよいとか、自分の声が出ればよいということよりも、声でどう音を奏でたいかということです。
 自分で何かやっている感覚がつかめたらよいという、その感覚のところのミスだと思います。それはどこかで直していかなければいけないのです。

たとえば、きちんと歌えたときというのは、小さな子が歌って感動したときでも、そのときは生き生きとしているし、体も柔軟になっているし、息の流れも状態がよいわけです。不幸なこととで、落ち込んでいたりしたときには、そういう歌にはなかなか出てきません。
 

それがプロとの違いで、プロは自分でそれを正しく切り替えます。その切り替え方を悪い方向にしていく人もいるのです。だらだらと練習をやっていると、悪い方に切り替えてしまうのです。そういう人はきちんと立つことです。
 要は、あなたの立ったところで何を起こすかという世界です。そこによって初めて価値が生じるわけです。常にそこで勝負しながら、トレーニングだから意識的にするのです。


 オリジナルのフレーズだから、それをどう見せていくかということ、見せていくというと形から入るみたいですが、ここは形を整えるということはしません。実から形になるところをみんなは見ているのです。要は、それは形だけなのか、それは身があって、それが形をとろうとしているのか、そこでの失敗だったら、失敗ではないという見方をしています。


恋の季節

 歌い手がやっていることも、書家の人が、筆でどう書くかということと、音の世界では同じことをやっているのです。
 「恋は」、「わたしの恋は」とか、そういうところにイメージというのが出るのですが、あなたのなかに「恋」とか、「燃えた」、「死ぬまで」というのが、本当の意味でのリアリティをもってあるかです。

別にそういうことを経験してなくとも、歌うときに切り替えて、そこのものを持たなくては通用しないのです。


 よく言葉を飛んでこなければだめだといいますが、それは、言葉が発音として飛んでこなければいけないのではありません。言葉が飛んでくるというのは、そのストーリーや物語なりが、そのリアリティが出てくることです。そういう意味でいっているわけです。


 発音が少々、不明瞭であってもよいわけです。なにをいったかが聞こえなくても、それはそれで飛んでくればよいわけです。ただ、飛ばす人間自体がそれをつかまえていなければ、つかまえていないものは動かせないということです。声も同じで、つかまえなければ動かせなくて、日本人みたいに、マイクで動かそうとするよりは、体で動かすことをここでは勉強しているのです。

 


 「恋は」といって、「わたしの、恋は」といっているのですから、ここに意味があるわけです。「恋は、わたしの恋は」と2回も繰り返しているわけです。こういうことは、解釈するときの勉強でさせています。そういうものが歌詞解釈の世界ではなく、実際の音の展開のなかでわかってくるかということです。音の展開のなかで、あなたはここのどこにピークをもってくるかです。


 始めの「恋」よりも、次の「わたしの恋」の方が強くなるのか、「わたしの」のところが強いのか、「空を染めて」なのか、「空をそーめーてー」となるのか、そこの心の働きとか、感覚とか、そういったものがでていないのです。

 感覚は難しいというかもしれませんが、それが歌でいつもいっている、展開とか、構成とか、あるいは実から形を取るときのピーク、方向性です。どこが高まりあって、どこから落ちるんだとか、そういうことです。

 


 ④のクラスのレッスンで、みんなと一番違うのは、そのリバウンドをどう受け止めるかということをやっているかどうかです。結局、ワーッと振り込んだら、そこに何かが落ちてくる、その声をこの響きのなかで取っていくのか、それともそこで踏みとどまって、シャウトのようにして、リバウンドしたときにもう一度握りなおすのか、というようなことでの効果です。

 

それを、1、2、3、ハイ次に「空を染めて燃えたよ」と歌うのか、「空を染めてー」と、そこで普通の人が予期する以上に伸ばしてやるのか、それとも早めに切り上げていくのかです。こういうものは、説明していてもしょうがなくて、正解はないのです。


 でも、そういうところで勝負しなくて、何の感覚の勝負かということです。感受性があるとか、ないとか、そういうものはどうでもよいことです。でも、感じないと出ません。要は、そこのところで細かく、繊細に動かせるかということなのです。

それを鈍い感覚でやったら、鈍い声しかでないし、声を張り上げようと思ったら、声しか張りあがらないのはあたりまえです。息しか使わないと思ったら、息しか聞こえません。自分の体とか自分の声で、もっと歌えるということです。



「夜が明けたら 一番早い汽車に乗るから」
 この見本よりも声量がある人もいますし、ない人もいます。あるものを全部使っていくことです。限界まで使えということではないのです。心の問題です。声量を上げてもそういうものは限界がみえてしまって、乱れてしまうだけです。一番足らないことというのは、体のことは準備しているし、それから音のことも勉強しているのでしょうが、感覚の素振りというようなものです。


 たとえば音楽は、そこでぱっと入らなければいけないのに、そこで考え込んだり、体の準備をしている時間はないのです。水泳のスタートも1、2、3で入るのではなく、1、2、ドンで飛びこむのです。それをいつも構えてカウントしている人がいます。それはフライングか、出遅れかどちらかです。全部を感覚に任せるしかないのです。


 1回目は失敗することもありますが、2回目失敗したら失格ですから、全部が無駄になってしまうのです。だから1秒よりも細かい感覚で捉えていて、少なくとも0.1秒違ったらわかるわけです。100メートルで0.1秒違ってもわかるのですから、出るときにそんなに早く出たり、遅く出てしまったら、すぐにわかるのです。
 音楽はもっと早いのです。体というより声が伴えばよいのです。そういうところをきちんと整えなければいけません。こういう人も、なんやかんや表現にしてしまうのです。


 全てある人が何もできないよりは、何もない人が目一杯吐き出して歌っていた方が、人間は感動するというか、完成度がどうこうというよりも、そっちの方が大切だということです。
 声が完全になったら歌おうとか、ヴォイストレーニングをやってそれから歌い出そうとするよりも、声そのものが目的だったらそれでもよいかもしれませんが、そうでなければ辞めなさいといっています。


 結局、人様はそんなに声なんて聞いてないし、声がなくても歌えている人や、プロはたくさんいるのです。それに声があったら、さらによいと考えるようにしなさいといっています。もっと大切で9割を決めていることがあるだろうということです。
 自分よりも何かをプロでやっていた人というのは、プロでない人よりも、うまいとはいいませんが、何かあるわけだから、その人たちが、楽器的な性能とか抜かしたときに、ではその人はどうしているんだと、方向性をどこにもっていっているのかと、それは別に自分と意見がわかれてもよいのです。ここはこうやった方がよかったと思えるくらいでよいのです。

 

もし何か働きかけがあると思ったら、何か成り立っているわけで、何かそういうものを動かしているし、呼吸のなかで、私がいっているようなことは踏まえてやっているわけです。だから、そういうところをきちんとみていかないといけません。
 それが入れるということです。それから自分のを聞いてみて、そうでないということを思ったのであれば、まねしろとはいいません。そういう感覚をみるところから何か変えていかないと変わらないということです。
 あまりに声の扱い方が雑すぎるということもありますが、それをていねいにやれというと、教え方として間違ってしまいます。ていねいに心をこめてというよりは、ある意味ではテンションを高めなければいけないし、もっと前に出さなくてはいけません。


あずさ2号
 ここの「あなたから アン 旅立ちます」のところも、こんな「アン」なんて入れなくてもよいとか、こういうのは大嫌いと思うでしょう。でも、練習の課題としたときに、自分はそうやらなければよいだけであって、その時代に流行ったものというのは、何かしらそれがアマチュアではないなと思わせるものを出してきたから、プロになったのでしょう。

 

今の歌い手でもそうです。全然知らない歌い手がたくさんテレビに出ています。下手でも、そういう人ほど何かあるでしょう。それが歌のなかにあるのか、音楽のなかにあるのかは疑問ですが、このころの方がわかりやすいわけです。


 以前は、プロとしてうまいということがどういうことかという共通の基盤がありました。それと、音の加工があまりありません。ライブで歌っても、これかこれよりはよく歌うくらいですから、あまり音響に助けられていません。そういうものを手本にするというか、1つのタッチなり、感覚としてみて、そのなかで、人間が感じたものを伝えようとしてやってきたものが、どう働いているのか、わかりやすいでしょう。それに対して自分のものはどうしてこんなに直線的なんだろう、どうしてこんなに固いのだろう、どうして力が入っているようにしか聞こえないんだろうと、いうところから変えていかないといけません。
 

 

歌はその人の感覚がそのまま出てきますから、それが声が伴わないとか、条件ができていないがために完成されていないというのであれば、それはよいのです。でも、完成されていないから全然だめでよいのかというと、そうではなくて、それは完成されていく可能性がみえないとおかしいでしょう。
 自分のことを本当によく知っていたら、そういうところを切り捨ててみせられるわけです。

 今の日本のヴォーカルでも自分のことをよく知っているのです。ここでこうやったらだめになるから、その前でやめればよいとか、そこでぱっと声をそらすとか、そのことでさらに表現効果を高めるということです。
 ヴォイストレーニングにおいては、それを粘ってみたり、声を長くしてみたりする、そういうことも練習かもしれません。でも、オリジナルのフレーズにおいては、そのことによって、そっちが優先されたらだめだということです。歌い手にとって9割は、オリジナルなフレーズだと思っていますから、だからここのレッスンでもこういうことをコピーさせています。

 

オリジナルの声が完成するのを待っていても、それはいつになるかわからないのです。それより、それがどう使えるか、自分のあるものをどう使わなければいけないかということを考えることが大切なのです。
 だから、両方必要なのです。今の自分だったら、こう見せた方が最高だなということをきちんと持っているということと、それから、そういうことでいうと本当はそれでやっていけるのですが、もっと根本の楽器の性能の部分とか、体の強化とか、入れられる音楽とか、センスとかたくさんあるわけです。
 それはその人の求める基準に応じてきます。今皆さんが持っている声量を全部使うことではなく、その声があるのであれば、その息があるのであれば、もっと見せられるという、そこのところをきちんと捉えて見せることです。


 特に舞台とはそういうものです。あなたの本当の力とか、本当のところのセンスとか力量とか、わかりっこないのです。そこで出たものでしかわからないのです。出たものにあなたが象徴されているのです。ヴォーカルが一番はったりをきかせるところです。楽器とかにはそういうことはできません。
 歌の場合は、人間が生きてきて、声を使って、人とコミュニケーション取っていると、そこで基本というのができているのです。それが崩れてきているから難しいのですが、そうしたら、もっとそのことを取り出すことができるはずです。


 そういうこともKさんのレッスンでも気づけることが多いと思います。そのなかの感覚のこと、そこをきちんと見つめることをやって、フィードバックしなければいけないということです。
 体のことも、その出口のところをきちんと見ておかなければ、その方向性が違っていきます。
 ヴォイストレーニングでやることというのは、可能性を広げることです。可能性ということに対しての選択をしなければいけません。ピークをつくるのも、バウンドさせるのも、どこでつかんでどこで放すかということも選択です。そういうことを感じながら歌を聞かないと変わらないし、それからその感じを歌で出そうとしてみては失敗したり、そのレベルをどこでやっているかです。


 合宿などにきていた人はわかると思いますが、作品の出来が悪い班は、みんなで同じ数だけのセリフをいおうとしてみて、配分してだめにしていってしまうのです。要は、チームプレーは、個人のもち味を生かすところにしか成立しないということです。すぐれたところをやるのであれば、すぐれた人が全部やって、あとの人がどうそれを生かしていくかということです。

歌でも同じです。あなたは一人でヴォーカルをしなくてはいけないのです。今の歌が弱くなってしまったのは、バンドをつけて、始めから責任をみんなで分担しているからでしょう。