課題曲レッスン1 1213
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【「バナナボート」3883】
【「田舎の母」「アヴェマリア」単特3977】
【「悲しみのヴェニス」③39914】
【「愛は君のよう」①39914】
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【「バナナボート」3883】
「アモーレ、アモーレ、アモーレミオ」
厳密に前の線を踏んでいるのはわかると思います。
おなじ、「ア」に戻ってください。そういうのも原則です。
センスの問題もですが、体を使おうとするのではなく、体が使われている状態をつくり出すしかないのです。やろうとしてやるのではなく、やれている状態でしかそのことは起きないのです。やってはいけないのです。
そのことはとても難しいのですが、そこで計算が入ったり、意図が入ったり、ここはこうやろうというのがみえてしまったら、体で消化されません。頭で考えたままに、腕を使ったり、足を使ったりすると、それは形を取れるのですが、厳密には正しくは取れないのです。
その分自由にしておかなければいけないのです。その自由にしている中で動いてくる音があって、その幅のなかでその音をとっていくのです。だから、実際は感覚が決めていくわけですが、特に歌に関してはその自由度がとても高いでために大変なのです。
いろいろなことができるのですが、自分の体がつくり出している呼吸と、感覚に矛盾していることはできないのです。歌によっては、どんどん盛り上がっていく曲もありますが、ただ、ポピュラーのほとんどの歌や、それから歌のなかの出だしとか、サビ以外の支えている部分というのは、あまりつくっていないわけです。
前半に日本のをかけました。歌い方というものがいろいろとあったと思いますが、ただ、やはり欠けているのは、そのリズムのなかのコミュニケーションと、呼吸のなかのコミュニケーションの1つの厳密性です。それは向こうの人たちの場合は、開放しています。開放して楽に出している中で、ただ決めていっています。そこは1つのポイントです。
難しいのは、彼らの場合は声があるし、声の芯があるから、それを吐き出していけばよいのですが、われわれの場合は、声が取れなくなってくるから、そのときに声をつくろうとする、それで余計な力が働くのです。
本来ならば、それは同時にできないのです。今やりたいことは、そんなに高いところでなくてもよいし、音量があるところでなくてもよいのです。10割の力で10出すのであれば、まず、7割、6割、5割にしてみて、その10が出せるかどうかをやってみるのです。そこの余力の分を、よりメリハリをつけたり、高音にもっていったり、長く伸ばしたり、そちらに回さなければいけません。
だからポイントというのは必要になってきます。発声のポイントもその一つです。「アモーレ」と、どこかにビリビリと鳴らしてしまうと、そのポイントにはまらなくなってしまいます。
あとは、あまり歌わないことです。言葉でいっても難しいことは、難しいのですが、基本的には、「ア」といっているときに「モーレ」がつく、あるいは「モーレ」といっている前に 「ア」がつくのであって、「ア・モオレー」と、ここでつくってしまうと、この瞬間に歌が壊れてしまいます。とてもやりにくくなります。
若手の歌い手で、そういう歌い方している人が、外国でもとても多いのですが、それは響きを揃えることで調整させています。それ以上になってくると、大体言葉と同じところです。
言葉をはずしてみましょう。自分の一番やりやすいものでよいです。「アモ」を1つの言葉にしてみて、「モ」でもいいですが、要は、母音プラス子音プラス母音、「モ」というのは、「AMO」になっているのですが、これを子音プラス母音にしてみるのです。自分のなかで、息がまわっている中で出てくる声を取っていくのです。
よく、ハミングから響きにする練習で、「ア、アー、アモー、アモーレー」とやったりしますが、それを言葉のレベルのところでやるくらいに考えてください。
「タターター」にしましょう。バラバラにならないようにしてください。この「ソドドー」のときに、「ソドド」と意識はしないで、1、2と打つのではなく、2のところで打つのですが、その前に少しつくという感じです。「タ」でやってみましょう。「アモーレ」の方がやりやすい人は、それでも構いません。
「デーオ、デーオ、ティライコンマイミー ワンゴーホーム」
1行目は、もう少しインパクトが強くてもいいと思います。
「デーオ、デーオ、ティライコンマイミー ワンゴーホーム」
「デ、イデデ、イデデ、イデデ、イデデ、イデデデオー、ティライコンマイミー ワンゴーホーム」
アカペラでは自分の呼吸に合わせて取っていけばよいので、特に取りやすいフレーズだと思います。最初のところにインパクトを2倍、3倍もってくることです。
きちんと握るということ、そこにパッと入るということ、それからそれを2、3倍に展開するような練習をしてください。
やることは、自分が音色をどれだけ変化させられるかというところで、フレーズでその自由度がどのくらいあるかだと思います。
1考えて、1歌う、そのまま10の力を出して、10歌っていても、何も伝わらないわけです。その歌のなかの動きを自分で感知しながら、また先に導きながらやります。そこで変えながら、でもそれは頭で計算できることではないので、だから、高めのものは、逆にいうとフレーズの伏線のようなものをつくるのです。最初の1行目のところです。
そこを流しておく、流しておくことで、息を使う、体を使う、これは「ハイ」でやっていることと同じです。そのことで、体と心を一致させる、集中力が足りません。集中力ももう3倍くらい強くして、そこまでの状態であれば、次のフレーズは、言葉にしなくても、声にしなくても、口から吐き出されてくる、そこで一番よい状態に定まるということです。
体を使う勉強ばかりしていると、体を使うことばかりになってしまいます。できないといって体に力が入るのではなく、できないからこそ体の力を抜かなくてはいけないのです。いつもいっているように、体が使えている状態にすることが大切なのです。
体を使うことは、はっきりいうと必要悪です。具合が悪いとか、今日は声が出ないというときに、体を使って何とかフォローしなければいけないくらいで、体を使って高いところに届かせようとか、考えてはいけないのです。
日頃の練習ではやっておかなければいけませんが、考えて決めつけると自由度がなくなってしまうのです。せっかくいろいろなものがでてきたり、いろいろな音色の変化をしたり、そこでかすれることもあれば、ひっくり返ることもありますが、それは全部歌のなかでしぜんであればよいのです。それは、使えない要素ではなく、そこに1つのセンスとか感覚の上で、出てきているのであれば、本来ヴォーカルはそのことを追求しなくてはいけないのです。
全部をしゃべるように歌ってしまう、そういう歌い方もありますが、でもそれをやるならば、実際しゃべっていればよいわけです。どこを伸ばしてみたり、どこかを上に響かせてみたりしなくとも、いろいろなことが起きてくるわけです。その自由度を大きくするために、ヴォイストレーニングをやるべきです。
それを1つに決めつけて、そこから出られないようにするようなトレーニングをやっていたらよくありません。だいたいトレーニングはそうなりがちです。プロセスとしてはそうなってもよいのです。そうなることも必要だし、1つに捉えられなくてはいけないということもありますが、捉えたあとは、なるべく応用度が大きい方がよいのです。
あまりここで高音とか、ロングトーンとかをやらないのも、そこは自分でみつけていけばよいと思うからです。
基本で間違っていること、中音や低音で間違っていることは、高音で正されることはない難しいでしょう。下がしっかりしていたら、上のほうというのは、余程、勘が鈍くない限り、自分で録音を聞けばわかります。
中間音というのが、一番難しいのです。言葉でいっていようが、声をつくっていようが、体を使っていようが、自分にとってわかりにくいわけです。どんなことをやっても誰でも歌えるからです。そこの判断をどうおくのかということになります。それは歌っていないのが正しいわけです。
1行目できちんと体を使って準備をしていれば、2行目は歌えるということです。逆にいうと、1行目を歌う前に、その状態を自分のテンションなり、体の状態を置いてください。言葉がいえないときに、「ハイ」をいってから言葉をいう、あるいは言葉をいってからそれを音にする、なるだけ同じくらいの感覚で、置いてください。
あとは、その人のセンスのなのです。集中力が途切れないようにきちんともっていったら、流れるように流してあげればよいのです。それが歌にならなければ、音楽の勉強がまだ足りないということです。こういうものをたくさん聞いて、定石を覚えていくしかないと思います。
それ以上の変化をつけていかないことです。部分的に調節することをよくやりますが、それをやればやるほど、歌が細切れになって、発声にも障害がくるような気がします。シンプルに捉えていった方がよいと思います。
「デー 荷揚げ済めば(荷揚げが済んだらネ) デー 飛んで行きます(荷揚げが済んだらネ)
ラムでも飲んで待っていてね(明日の朝までね) 気が気じゃないけれど(気が気じゃないけれど)」
声を前に出していくことです。伴奏は音が低くなっているから、少しテンションが上がりにくいのでしょうけれど、何か気だるさだけが伝わってきて、よいのか悪いのかわかりません。
当時のは、バリッとしていますから、集中力の問題なのか、声の張りの問題なのか、あるいは歌に対する興味の問題なのかわかりません。では後半逆にして終わりましょう。
だんだん調子が上がってくるのが本来の練習ですが、6時間くらいで1回どのくらい自分の声が集中して使えるのか、やってみればよいかもしれません。あわせて声を出すのは、楽なのです。そんな負担は来ないし、のども悪くならない。合唱などで、自分に感じたことがすぐに反映できるようにやるとよいと思います。
いろいろなフレーズ、いろいろな冒険ができるはずですので、内部の感覚を、外に出してください。自分の身長と同じ大きさであれば、歌う必要はないわけです。それをいろいろと崩せ、大きくみせるわけです。また機会があればやってみましょう。
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【「田舎の母」「アヴェ・マリア」特3977】
日本人とイタリア人のフレージングの声のところのポジションのことです。音の世界と、声のことの両方が必要です。ファドの女王と呼ばれているアマリア・ロドリゲスのものが原曲です。
この前のライブ評価でもだいたい同じことをいっています。入門科や①クラスで見学した人の感想は、やはり何をもって評価するのかというのが違います。そこを間違えてはいけません。
その人の作品でみることです。そこのなかにある創造性のなかで見るのです。皆さんが書いてきたことというのは、ヴォーカリストとして求める基準が甘いのでしかたないのですが、ヴォーカリストの創造性のところではなく、その曲のよさとか、ピアノ伴奏の乗りやすさ、詩のよさ、演出的なよさす。実際の音のなかでの創造性ではないのです。
誰が自分の仕事をきちんとやったかという言葉で評価していましたが、それはどういうことかというと、自分の作品をつくり上げたかということです。少なくとも、みんなが知っていて名曲だと聞いているものを、そこで歌ったとしても、ビリージョエルがきたらそっちを聞くのを、その代わりに歌っているだけならば、作品としての価値がまったくないということです。それがここの見方です。
大学のキャンパスのヴォーカルなどであれば、それに近く歌えるということは大きく評価されるのかもしれません。ただ、それがピアニストによってもっているとか、当のオリジナルの人にどれだけ近づいているかで評価されるのであれば、つまらないことです。
ただ皆さんの評価基準というのはそんなものです。今まで聞いて感動した曲を、誰かが同じような歌い方をしたらそれだけで感動してしまうのです。それはオリジナルがいる限り、認められません。評価の規準が違うのも、好みが違うのもよいのですが、聞かなければいけないところは、正していくことです。
こういうのを聞いてみて、声もすごいし、フレーズも、向こうで認められるものはあると、そうしたらそこと実際のアマリア・ロドリゲスのなかにつくられている世界とどのくらいの差があるのか、そのなかでどういう創造性が違うのかというところで比べることです。日本の場合、歌というものはそういうことを抜きに評価されてしまうのです。だから歌っても自分の体からもそれてくるし、口のなかでいろいろなことをやってしまうのです。
そういうものが見えていた方が体も必要になって身についてくるし、声もそういう必要性に応じて変わってきます。ですからそういう意味で学ぶなら耳をもてということです。
100くらいの勝負の世界で、20くらいしか見えてない、そういうと意味がわからないと思うのですが、今、わかっていることが20くらいだとして、20と100の差がみえればよいということです。本人が10くらいにしかなろうとしていなければそこまでしかいきません。
彼も違う曲になるともっと悪い作品、よりよい作品もあります。曲によって大きな差があります。日本の歌い手の特色は、何回も何回も歌っているような曲や、ヒット曲はよいのですが、他の人の曲をやるとガタッっと落ちてしまいます。応用力がないのです。それは表面をまねていってしまうからです。向こうの人たちの場合はそんなに差はないのです。
最低限ここから上じゃないと、音楽としての創造性のある作品としてはみられないという基準をもっているから、他の人の曲を歌ってみてもかなり違うはずです。
皆さんが勉強するときには、やはりそこのものをみれるところに歌の基本を置いたほうがよいです。それは最終的には演奏の部分になるところです。
一番困るのは、歌ってしまってよくできたと思ってしまうことです。本当によくできた人たちというのは、本人の感想としては厳しく書いてきています。だから、私がわからないところで、そこは悪かったと書けているのなら、私と同じ感覚か、それ以上のものをすでにその人が持っているということです。
プロとアマチュアの基準というのはそういうものです。アマチュアは自分が間違っていないと思って、聞いている人が外したなと思う。本人は気づかないから、それで満足してしまうのです。プロになると、自分のなかでは十何ヶ所も間違えたけれど、お客さんは一つも気づかないのです。
ですから、きちんとこういうものを読みこんでいけば、ああ、ここはそらしたなということがわかってきます。そういう聞き方をしていってください。ここはそういう材料をたくさん与えています。勉強するということはそういうことが身についてくることだと思います。
なぜか日本で音楽を勉強するところはそういうことをやらせないのです。楽器だとやらなくてはいけないことを見ません。それがわかっていないから、何度やっても同じ方向にいったり、作品にならなかったりするのです。同じレッスン、同じ言葉で気づくよりも、よりそのことを気づくためにレッスンをおいています。
合宿でも3日間で3つ気づく人と、1時間で300、気づく人とはそこでの差なのです。1年で1つだけの人もいます。そうしたら、30年たっても30個しか気づかないわけです。それでは1時間で300気づいている人にかなうわけがないのです。
感覚と体を変えていかなくてはいけません。体はどんどんと強くなっていきます。感覚を変えるということがいかに難しいかということです。
まず、自分のものをきちんと出すということです。自分のものというのは、自分の体、自分のなかに入っている思い、感覚などからそれないことです。それより歌が優先するものではないのです。
自分の呼吸があって、この呼吸が歌に伴わないのであれば、歌の呼吸を重んじるのではなくて、その呼吸がその歌に対応できるところまで強くするわけです。そうやっていかないと変わりません。
そういう考え方をして欲しいです。時間がかかっても構わないです。まず、自分の寸法を知ること、それからそれに合わせて、歌とか感覚とかが出てきたところから、比較するということが大切になってきます。
自分の寸法を単に自分の思い込みだけで歌にすると、他に働きかけないものになります。他に働きかけている力があるものと、自分のなかで完結してしまっているものとの差を知ることです。セリフでも、まったく伝わらないということもあります。そういうことが声のなかでもあります。表現がないと何をやっても同じ歌い方だといわれてしまいます。
その完成度が高ければ高いなりに認められるときもあります。しかし、どこかでそれを開放しておかなければいけません。そのときの他人のベースとして、なるだけ一流のものをとりなさいといっているのです。
アマリア・ロドリゲスのものを聞いて勉強した方が間違いは少ないのです。今は音響の加工でいろんなことがみえにくくなっています。とれなければ、日本語の処理の仕方とかは日本人のプロから学んでもよいでしょう。もっととりにくければ、メンバーのすぐれた人から勉強してもよいのです。身近になればなるほど、自分との差というものがわかると思います。
「アヴェマリア」だけいってみましょう
自分の体とか、テンポとか、言葉の動かし方をみつけていってください。大事なことはこの音程を正しく取るということではなく、その音に左右されないくらいまで、自分の表現を出すということです。自分の呼吸、テンポ、キー、そうやって自分のことを知っていかなくてはいけません。
こういう課題を与えられたときに、一体自分はどこのキーが出しやすいのか、そういうことを知る練習をしてみてください。
いろいろなことが起きても構いません。そのなかに基準をつくっていくことです。出せたからよいということではないのです。
急につくれといっても難しいとは思いますが、2年で半オクターブを完成すればよいというのであれば、1年で本当にこれだけの処理に費やしてもよいわけです。自分が動かせる声のなかで、自分がどう動かせるかということを、きちんと神経を使って完全にコントロールできる力の方が、ポップスの場合は大切です。接点をきちんとつけていくということです。
「アヴェ」という中で、何が働くか、「アヴェ」と出したときに、自分なりの世界がある人というのは、それを次にどうもって行きたいかというのが走っていくのです。一つの音のなかでの完成度と同時に、それを次につなげていく、次のところにきちんと開放していく、そういうふうに声とか発声とかを捉えていったら、すぱっと「アヴェ」とは出ないわけです。
「アヴェ」と出したら次にどう進みたいか、そして「マリア」が入ってくるのです。そこで何もイメージしなかったら、それだけ心も体も使われないのです。音のわずか1秒くらいのフレーズのなかにいろんなものを感じられるようにしていくことです。その1秒がいかに長いのかということがわからない限り、そのなかでは動かせないです。
「アヴェマリア」と言葉でいって、そのあと音を乗せてみましょう。
ほとんどの人が音にしたら壊れてしまうというのは、高くしたり、強くしたり、長く伸ばしたり、それを体からはみ出したところでやってしまっているのです。それでも歌は持ちます。
でもいまやって欲しいことというのは、自分のなかからその寸法できちんと出すことです。だいたいの人が言葉で「アベマリア」といったときに、次の「ただひとつの」にいくのでも、「アベ・マリア」と同じように必ずどこかで踏み込んで展開しているわけです。「アベ・マリア」と、自分の呼吸を読みこんで、自分の体を動かしているのです。
ところがそれが歌のなかになると、もっと綿密にやらなくてはいけないのに、そういう感覚を全部とってしまって、「アベーマリアー」といきなり外に直線的に出してしまうのです。そこでは何もとってないし、起こしていないし、それを吸い上げて外にも出していっていないのです。だからとても雑に聞こえます。
元気のよさだけを狙って出したというのなら別ですが、課題は、声でできること、言葉でできることを、音がついても狂わないようにしようということです。音がついてもはみ出さないようにしようということです。
だから、同じ音域、同じスピード、同じテンポでよいから、「アベマリア」と自分が何かをそこに提示できたということからそらさずに、そのまま何もやらないのです。何もやらないから伝わるのです。
そこに余計なもの、余分なものを入れてしまうのは思い込みです。余った計算、分けまえです。それが、自分の体の息とか、声がきちんと出ることを邪魔をしているのです。そのまま高音域にしたり、いろいろと大きくしたら、もとに戻れなくなってしまうのです。
自分の呼吸はそういう意味でも大切です。それでもそんなに簡単にできるわけではないのですが、今のみんなの声だと、この半音くらいだったらできるはずです。それができないというのは、できていないのではなくて、みんなにうまく伝わってないのか、イメージ不足です。違うことをやろうとしています。
声を伸ばしてみたら、高く上げてみたら、確かに自分ではいっている感じはするのです。でも、そのなかでつくられているのではなくて、それはただ雑になっているだけです。こういう基本の練習のなかでは、言葉から捉えていった方がよいです。言葉をたくさんいって、そのなかで自分の体の状態を整えてやった方がよいでしょう。
「アベマリア ただひとつのよろこび」を言葉で読んでみましょう。
自分のことはなかなかわからないと思うのですが、録音を聞いてください。3割くらいは「アベマリア、ただひとつの」まではよいのですが、そのあとの「よろこび」まで気がもって、集中できていません。
そういうのは耳で聞いていてわかります。最後はポシャッタなとか、息が続かなかったなとか、あるいは「ただひとつの」で止めてしまったから、また次をつくるのが難しくなったなどとわかります。
歌も最終的にはその呼吸です。
間違わないでヴォイストレーニングをしていきたいのであれば、今のが1オクターブくらいの歌の感覚だと思ってよいです。逆にその感覚がないところに歌を歌ってみても、癖の声がついてみたり、当然高く出したり、強く張ったりするところは違ってきます。違ってはくるのですが、そこに戻れない、今日やったところに戻れないというのは、いろんなゆがみが出てきているのです。
基本というのは再現する力です。それを歌って歌声をつくって、それを響かせて、処理していくという、そういう安易なやり方もありますが、あまり感心しません。一人よがりになってしまいます。体と心を一致させてきちんと握っていくのです。それを揺らしてみたり、より速いスピードでやったり、ぱっと切ったりしても、きちんと基本に戻るということです。そういうのは日本語にはないのですが、向こうには言語のなかにその感覚があるのです。
「よろこび」だけにしてみましょう。これをイメージの方で「よろこーびー」となってしまうと、自分でも処理できなくなってしまいます。小さくなったら小さくなったので構わないのです。均等に同じ長さで歌わないと、歌っている気がしないというのは、日本人だけです。「よろ」に入れたり「こび」に入れたりしてもよいのです。
「よろこび」と言葉でいってから音をつけてみましょう。
今の時点では、体と呼吸と心が離れたところにつくらないことです。こんな音は誰でもとれるわけです。基準、価値が違うのです。そのなかで何ができているのかを、自分が考えてつくってみてもだめです。感じたものがどう出てくるのかというのを、コントロールしていかないといけません。
楽器と同じです。声を出すだけとか、音を届かせるだけとか、リズムをとるだけで難しいようなところでは絶対に練習できないのです。だからこんなつまらないことになるかもしれませんが、そこで自分できちんとコントロールしていくこと、自分の感覚に正直に出していくのです。
それとともに、自分の感覚に正直に合わせるだけではだめで、ひとつの音楽のよりよく聞こえるような言葉なり、音のルール、リズムのルールがあります。それも全部戻して一回やってください。
「ただひとつの」半オクターブあります。1年から2年の課題と思ってよいと思います。こういうピアノに合わせていくと、音に当てていくだけになりますが、それでは全然歌にはなっていきません。自分で捉えようと思ったときに、それは日本語というより、言語のところまで戻してみて、「ただひとつの」といってみます。「ただ」に対して「ひとつーのー」と、口のなかを変えたり、ポジションを変えたりして音をとることは誰でもできます。
ただそれが「ひとつの」のところでいえるために、どこに体を使い、どこにフレーズをまわしたらよいかということを考えてみればよいわけです。「ただひとつの」と直接入っていけば、よいです。それが「ただ一つの」と聞こえればよいです。感覚的に「ただーひとつーのー」としかなければ、そうしかなりませんし、感覚があって体が伴わないのならば、待てば直ります。でもそういう感覚がないのに単に声を上げているだけだったら、直らないのです。今は感覚の勉強です。
「ただひとつの」「ラシドレミレ」
意識をかなり強めにもっておいて、言語というのを捉えてなければ、「ただー」と開いていきます。そういう方向にいくと、体がどんなに強くても1オクターブは無理です。きちんと「ただ」と、縦の線に戻しておくことです。「アベーマリアー、ただーひとつーのー、よろこびー」と広げて歌うと、楽なのですが、歌った気がしません。
今みんなにやって欲しいことは、「アベ」といって、そこで「アベー」とひびくのなら構わないのですが、「べー」としてはいけないのです。これは大きな違いなのですが、ちょっとした感覚のズレで、紙一枚違うだけでそうなってしまうのです。
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【「悲しみのヴェニス③ 39914】
同じ時間を使うときに、いつも考えています。「ハイ」とか「ララ」とかを使ってやれるところは、それでやります。それを使わないのは、それでやれないところです。
やらなくてはいけないことで自分でやれることは、自分でやらなくてはいけません。
基本的に勉強するのでなく身につけることというのは、やれないこと、見えないこと、感じられないことを、どうやって感じていくかということです。
どうして1ヵ月目からステージを踏ませるのかというと、応用をやってみないと基本がいかにできていないかというものがわからないからです。
ですから、合宿などでも、プロの感覚、プロの体ということを問うことをやっています。
体は待つしかないし、感覚は感じるしかない。こういうフレーズの練習というのは全部、基本なのです。
合宿に行った人というのは、基本のなさが、とことん身にしみたと思いますが、こういうことのなかにすべて入っているわけです。それをいくつかのパターンでやっているのです。
皆さんは、メロディをとりたい、リズムをとりたい、言葉の意味もわからない、でもそういった問題ではなく、そのものをぱっと受け止めて、自分にあるものでどれだけ勝負できるかです。
うまくいかないところはイマジネーションと自分の今までのパターンで補うしかないのです。ですから何もなければ対応するのは、ほぼ不可能なのです。でも、それを可能にしてしまう力を出そうとしているのですが。☆
これを1曲覚えるのに3ヵ月くらいかかります。イタリアにいったり、歴史を調べなければいけないのではなく、ポピュラーでは、やらなければいけないことというのは、それに代わる何を持ってくるかということです。だから自分に置き換えるしかないわけです。
「悲しい街」といったら、街、自分にとっての「悲しい」ということ、「ヴェニス」という場所がわからなくても、ゴンドラが何であっても、言葉というのはメロディと同じく、シンボライズされたものです。そこに何を感じるかということで、自分できちんとした置き換え作業をやっていたら、どの歌も同じなのです。
今回「エビータ」をやった人はそれがわかったと思います。結局、自分の現実感が出ないとうそです。アルゼンチンのストーリーをどんなに演じてみたって、そこに住んでいるわけでもなければ、その時代を生きたわけでもないのです。
ただ、人生のなかでは同じことが繰り返されます。同じことが身近に起こり、自分にも起こり、これでも起きるのです。
それを踏んでどういうふうにもっていきたいかと思ったときに、声が足らないとか、その速度についていけない、リズムが足らないと分析しながらトレーニングで直していくようなものです。最終的には方向と目的地をきちんとみることです。これができれば到達します。
せりふ一つ読んでみても伝わらない、そうしたら歌になるわけがないのです。そのせりふをきちんと伝わるようにすることは教えられないのです。自分で1ヵ月、毎日やって、できるところまでやって、それでできない部分に気づいていくのです。
皆さんのなかでも、うまくできる人というのは、そのことと同じことをフレーズのなかでもやっているし、リズムのなかでもやっているし、いろんな楽器を聞いた中でもやっているでしょう。もしかしたら映画を見たり街を歩いていてもやっているかもしれません。すべてのことを利用しているのです。
だから歌い手とか役者さんというのは、人生のいいことも悪いことも芸の肥やしになるわけです。
皆さんも全てに恵まれて何も世の中を知らないで生きているわけではないのでしょう。いろんな場面で、いろんな心情は抱いたはずなのに、どうしてでしょう。
それを集約して取り出すのです。
自分にないものを出そうとしてもそれは上っ面になります。
そういうことで、私は日本のこういう歌い方は嫌いなのです。
でも技術でもっていけるところもあります。逆にいうと、こういうものから勉強できることもたくさんあるのです。でも基本的に心情と一致させてもっていくことです。
日本のものを聞いてやるとわかりやすいのですが、ものすごく影響を受けてしまいます。
そういう節回しになります。
すぐれた人のを聞けば聞くほど、自分よりもすぐれているわけですから、そこに感覚が表面だけ近寄っていきます。
こういう音楽を成り立たせている楽器、その楽器に言葉を処理していく方が自由です。自分の勝負どころにもっていきやすいはずです。
「悲しい街ヴェニス」
もう少し情感か何かあるでしょう。
「悲しい街ヴェニス、投げやりな私に、美しい街ヴェニス、それは残酷」
メロディでもっていくのと言葉でもっていくのとでは、若干、処理の仕方が違ってくることが日本の歌の場合多いですが、「悲しい街ヴェニス」というものに対して、初めて「美しい街ヴェニス」が対比されます。
そこに「それは残酷」という形で、展開するわけではないのですが、その前のところで1つのブロックが終わって、次はその残酷な理由が述べられていくわけです。メロディもそれに近い形でついています。解釈はしやすいとは思いますが、展開をくむことが必要です。
「悲しい街ヴェニス」というところの音色の展開、それから「投げやりな私に」、それに対して「美しい街ヴェニス」、そして「それは残酷」となるこの4つのなかで、少しは気持ちが入り動きませんか。それが、移っていかないと、歌のよさ、言葉のよさが全部死んでしまいます。
動かす余裕もなくとも、無理にでも動かしていかないと動かなくなっていきます。もう一度全体を聞いてみてください。
「別れの言葉も 慰めもなく 気だるさだけを 私に残し」
「悲しい街ヴェニス 昨日あなたは この街を捨て この街を離れた」
歌というのは、ひとつのリズムとか進行というのがあります。このなかで何をしようと自由なのです。たとえば「このまちを」のところも、そんなに大きな問題にはならないわです。
大切なことは「このまちをー はーなーれーたー」となってしまうと、全部が歌から離れたということです。 いろいろな変化の仕方というのがありますが、特にこういうふうな歌というのは言葉でたたみかけてますから、心をつめないで、頭でつめてしまうと、「このまちをはなれた」とこういうふうになってしまいます。
そこには呼吸とかリズムというのがあるわけです。ですから「このまちを」のところで早く入ったら「はなーれた」とも、「はーなれた」とも置けます。
そのイメージというのは自分でもっておかなければいけないのです。絶対にやってはいけないのは、「はーなーれーたー」というふうになってしまうことです。
そこの場合は何で決まってくるのかというと、ほとんどの場合はその前のフレーズの強弱、要はそこはつかんでいる部分なのか離している部分なのかということです。
「悲しい街ヴェニス」の場合も、「かなしいまちーヴェニースー」というかたちにはならないわけです。「タタタ、タータタ」そこの「ター」のところは「ま」に入るのか「ち」に入るのか「ヴェ」に入るのかどうでもいいわけです。音楽上では、です。
ただ自分がそういいたいときに「かなしいまちヴェー ニス」とはいわないでしょうから、やはり「かなしいまち ヴェニス」あるいは「かなしい まちヴェニス」という風になると思います。そこでの感覚です。
お客さんが聞くのは、そこの離した部分なのです。つかんだところというのは離したところを聞かせるためにやるわけです。
水泳の例でいうと、右側でぐっとかく、でもそのときに左側で伸ばしたところまでしか行かない、その距離しか進まないわけです。だから伸ばさないと、かいた分も進めません。伸びるのを待たずに、次にまたかくとなると、急げば急ぐほど伸びるところがないのです。伸びるところに足でビートを入れるから、さらにぐいっと行くわけです。☆
歌でも同じで、そういうつくりをしなければいけないのです。ところが日本語というのは、それを表面だけかぶせていきやすいわけです。
この歌い方はこの歌い方でいいのですが、抜いているところが多く、それがあまりよくないのです。こういう運びも悪くはないのですが、こうなると呼吸のテンポによる調整しかできないわけです。音色の展開ではできないのです。
こういうクラシックもどきのものは、日本人の心情にそういうのが合うからきっと流行ってきたんだと思うのですが、めめしいのです。萎縮に感じる、音声の表現における感じ方や求めているものが日本人の場合は違うのだと思います。中途半端です。
音の音色のなかで高めてもっていこうという構成を、音の世界で組み立てるとこういうふうになるということです。感覚的な違いはともかく、品位は高く、堂々として、威厳があるという形で歌っていった方がいいと思います。
内に入っているやり方をすると、歌のスケールが小さくなって、2番3番がもたなくなってくるのです。こういう歌い方は、1回聞くといいのですが、やはり間をあけないと、また聞く気にはならないのです。BGMでずっとかけていたら、いやになると思います。
そういう意味でいうと、音楽と違う意味で内側に入っているものでしょう。それは日本のシャンソンなどのひとつのスタイルだと思うので、それについては何もいいません。
表向きをまねてしまう危険性がありますので、基本を勉強するときにはあまり使わない方がいいということです。それに乗っかってしまったらなんとなくもってしまったような気がするし、自分も気持ちいいし、お客さんも気持ちいいという錯覚で成り立ってしまいます。
もちろん、いろいろな歌い方があると思ってもらえればいいと思います。
こういうところで勝負できる人は勝負していっていいとは思いますが、どこか壊さないと歌というのはおもしろくないでしょう。きれいに歌いあげてなんぼのものだということでしょう。
昔はきれいに歌いあげることが日本の歌の最高目的でした。コーラスでも乱れず、ちょっとでものどに引っかからないというようなことで限定されていくというような世界でした。
でも自由になれるから音を楽しむのではないでしょうか。
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【「愛は君のよう① 39914】
音の高さ、音の長さに声があって、
「きみーの ほほえみーは ぼくーの むねーを ゆするー」
となってしまっては、いくら音がとれていて、リズムがとれていても、それだけです。
基本のトレーニングのときには、そこで感情移入したり、歌い上げてみたり、大きく動かす必要はないのです。まともに体の原理にのっとった素振りをしていればよいわけです。
歌のなかに入っている音色とか、フレーズというのはリズム、音符として楽譜に書けるものだけではないのです。
歌は、あなたのイメージを音に出さなければならない。言葉のトレーニングなどは、日ごろから言葉を使っているのに、そのときよりも、血が通ってない、硬く、魅力がない声、音、表情を硬い体でやるならやめたほうがよいです。
トレーニングをやっているとそうなりがちなのは鈍いのです。表情づくりのトレーニングをしなさいということではなく、そこに入らなければどうしようもないのです。歌い手が入ってもいないのに、なんで観客が入っていくのかということです。
トレーニングはトレーニングをやっているのではないのです。腕立てとか素振りをやっていても、しっかりと伸びる人は素振りとか腕立てしながら夢見ているのです。
自分がどう動いているかという試合場のプレーを夢見ているのです。ホームランが入るとか、きちんと打てるということを夢見るから、そのことが糧になるのです。そういう感覚が死んでいます。
ですから音がとれていてもしかたない。それを目的にするのではなく、音は心が一致したらとれなくてはいけないのですから、自分できちんとした判断をもってやってください。
言葉からやってみましょう。どこでもやれるところでよいです。問題はあなたのなかにイメージがないことです。映画の世界でなくても、常にあなたがそれを表現するとか、演ずる、声に出していうとしたら、それはなんのためにいうのかということを考えていないとだめです。
ピアフは、電話帳を読んで歌に聞こえたといわれています。電話帳であろうと、詩であろうと、その人間に表現する心があればそれは全部働きかけてくるべきものでしょう。それができないのはいいのですが、それが思考されていないのであれば意味がないです。
「白いバラを手に君は踊っていた」(ことば)
へたな役者みたいになにも明るくつくってみたり、表情をつくってみたりする必要はないのですが、やれない人は、やってみることです。
まず自分が言葉を捉えていないといけません。歌もそうです。言葉というより声、その音色と考えてもいいです。「トワー」を、自分のやりやすいキーでやってください。
「トワー」
そこに「君に会った」でも「あなたに会った」でもいいから、せりふをつけてみてください。
「トワー、君に会った」
自分でやっていなければだめです。役でなくともいろいろな表情をつくり、いろいろな声色もつくることで、可能性を伸ばしていくことです。あなたのを聞いていると、そこから先にいけない、ただ「トワー、君に会った」といっても、だからどうなんだという話でしょう。そこで止まってしまうわけです。
「トワー」で止まってしまいます。いろいろな歌があって、自分の得意な歌、不得意な歌があります。しかし、これにリズムをつけて、メロディをつけて、それで歌い上げたら歌になるということでもないのです。実際、この世界をつくるものは、言葉だけの力でも伝えられるのだけど、もっと大きく働きかけるために、フレーズがあり、リズムがあり、音感があります。
もっと深いものが、9割なければ、たかだかリズムとか音感などは1割くらいなものです。イメージが全然ないから、音を超えというワープロに置き換えたみたいなものでしょう。自分でやっていてもつまらないと思いませんか。この歌じゃなければ、といっても、どの歌でも同じなのです。
歌は喜びか悲しみくらいしか歌わないわけです。そうしたら、どうやってつくっていくのかということです。
なかには無表情のままきちんと言葉を重ねることによって、つくっていく歌い方もあります。でもそれは絞り込まれたからそうなるわけであって、イメージを音にする作業はします。そして、修正をかけなければいけないのです。今のは修正がかからない。
そのレベルならどれでもよい、どれも通じないからということになります。高校生でもよいし、あなたでなくてもあってもどういう表現でもよいよということになってしまいます。
そういうところで直せることを瞬間的にできるように、日ごろトレーニングしておかなくてはいけないということです。詞を読みこんで、ストーリーをつくって、それからメロディを勉強して、音をとって、ということも大切です。それが統合されて出てこなければわからないからトレーニングをするのです。
この最後の方の1オクターブに展開するところなどは、声や技術がないといくらイメージがあってもできない。でも、あなたのはどんなに声があっても、どんなに歌があったとしても伝わらないです。伝えたい思いが出てないのですから。思いも、相手もいない。そのへんのサラリーマンの方がカラオケでもっと伝えています。
練習場でまじめになるのはよいのですが、その結果、心が働かないようなことをしたらだめです。その言葉がメロディを呼び、その言葉がリズムを呼んでくるのです。
表情をくるくる変えろとはいいませんが、少なくとも表情が心を伴って動かなければいけません。どんなに移しても、言葉にしか過ぎないのです。そこの「君」「光」「白いバラ」は何なんだということです。別に「白」と「赤」とどう違うのかという問題ではないのです。
そんなことにこだわる人もいるわけです。そういうところが問題ではなく、白であろうが、黄色であろうがそれを超えて通じてくるものは何かということです。それは何かを象徴しているわけです。全部重なっていくのです。その根本にある思いを感じることです。
これは1番だけですから、少しわかりにくかったかもしれませんが、そのシーンがあるわけです。そのシーンを思い浮かべ、この歌1曲をやる練習ではないのですが、声の出方というのはそういうものです。発声のやり方があって、それに歌を当てはめていくものではないのです。
日本で勉強するとみんなそうしてしまうのです。高いところになると、みんな高音発声をやれば高いところが歌えるようになると。そうではないのです。感情が高ぶって、そうなったら声がうわずって、高くいきたくなる、そうしたらいけばよいということです。
音を聞いて勉強することというのは、あくまでその下にあるものをとらなければいけないためですから、私は日本人のでやらないわけです。外国人の歌にはそのベースがあります。
だから日本人が聞いてみても、日本語でなくても伝わるのです。
何か温かいとか、何か甘いとか。そういうものもです。日本人もそれっぽく口先でまねてつくりますが、彼らはたった一つの体の音でそれを伝えるわけです。
そういう体の状態と声の状態をまずつくってくることです。それから自分のやったことをみること、せりふをしっかりと聞いてみることです。そのせりふを聞いてみたときに、その辺の高校生とかのせりふにも聞こえないようだったら、到底、歌の世界には入っていけないわけです。それは才能がないとか、難しいとかじゃなく、それだけやっていないだけです。高校生の劇団でももっとやっています。
そういうこととヴォイストレーニングというのは結びついています。むしろそういうことをやっていて、引っかかってきたり、そういうことをやっていてうまくいかないから、ヴォイストレーニングが必要なのです。そこの前提がないところにいくらヴォイストレーニングを入れてみても何にもならないです。
伸び悩んでいる人は、目的と方向がとれていないのです。ただ何かがやりたくてきているだけに見えるのです。やることを示したいのではなくて、歌いたいのではなくて、歌手というものをやってみたいというのと同じです。
だから書くものがあって書きたいのではなく、小説家をちょっとやってみたいとか、何か世の中に訴えたいとか、まあ動機はよいのですが、その動機のなかを埋めていく作業をしていかなければいけません。
言葉の解釈も、メロディの解釈も同じです。それはあなたの生きている現実から離れたものではないわけです。すべてです。現実とつながっている、そういう瞬間をもう少し気づいてほしいです。
あなたの人生にはそういうものがあるとかないとかではなく、人間のなかにそういうものがあり、人生のなかにもそういうものがあるのです。そこをやらないと、声をいくらつくっていってもできないと思います。
何年も学んでいても、ほとんどできていかないのは、何も目的にしていないからです。そこを間違えてはいけません。もし時間を無駄にしたくないのであればです。声は武器にしかすぎないのです。そういうことを注意してやってください。
いくらレッスンに出てみても、そこでいわれたことをやっていかないと、2、3年経ってもその課題のままです。スクールは甘いですから、どんどん先にいってしまったり、1曲全部をやってしまったりしますが、ここでは、基準ははっきりしています。
最初の「君に会った」というところで何か起こさない限り、次のところなんて誰も聞いてくれないわけです。一人で上っ面なめているということになります。そういう基準を厳しく身につけていってください。
人にいわれる前にまず自分で気づくこと、簡単に気づけます。
今の実力はよいのです。1週間も1ヵ月もやってみてこれしかできないというのであればよいのです。何もやってないところで、できないというのであれば、それはあたりまえの話です。全然トレーニングが足らないです。
これは入って1週目の注意です。自分で言葉の読みをきちんとしてください。それから朗読の読みをきちんとしてください。その上にリズムもメロディもついています。高音発声とか、声量のことばかりやっていたら、もうぐちゃぐちゃになってしまいます。
本当に表現ということをやっていきたいのであれば、1行1フレーズのことをきちんとやらないではだめです。自分がどれだけのことができるかということを、まず問うてくることです。そうでなければ何もできないのです。