課題曲レッスン2
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【「恋人たち」入門39916】
【「幸福を売る男」③391021】
【「思い出の瞳」391221】
【「エルザの瞳」④ 391214】
【「思い出の瞳」④ 00121】
【「青色のジャバ」② 391221】
【「マンマ」391119】
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【「恋人たち」入門 39916】
トレーニングにおいては、その人が今、何をやっていようが、その人が自分で何をやっているかがわかっていたらよいと思います。ただずれているところでやっているのを中心だと思ってやっている人が多いのです。だからおかしくなってしまいます。
トレーニングは中心でやるのでなく、ずれているところをやるのですが、そのずれを知って、自分でフィードバックする力をつけてください。
イヴ・モンタンやシャルルアズナブールは今だに名声を保っています。その違いは何なのかということです。
シャンソンを研究しなくても、本能的に感じてください。曲によってあまりにもレベルが落ちてしまうというのは、その人というよりプロデューサーの責任もありますが、やはりその人が安定した力を持っていないからです。日本の場合はそういうのが多いです。
今、美空ひばりさんの全集を聞いています。個性の入り込みの差がやや激しいのですが、それでも、他の歌い手に比べたら、安定しています。流しているように歌っているものはあっても、だめにしている作品がないのです。最高のものも、多いのです。日本の他のプロ歌手は、他人の歌などでは、かなりレベルを落とすことが多いので、そこは、さすがです。☆
そう考えると、日本は一発勝負、至芸の世界。
欧米は、アーティックなカフェでカプチーノを飲むように歌っているともいえます。
やってほしいことは、このフレーズをきちんと入れるということ、あるいはフレーズのなかにきちんと入るということです。入ってきたら、当然、言葉で読んでいることが、いろいろと変わってくると思います。
「えがおで」でにこっと笑う必要はないのですが、その「えがお」ということに入っていかなくてはいけないし、「こたえる」というのにも入っていかなければいけません。そうしたら4つくらいの変化は起きてくるはずです。
そこで表現したものが全部伝わるわけではなくても、「あなたは」に入る前から、「いつでも」までの間も含めて全部表現というのです。
そういうものの一番わかりやすいものが、今回の合宿の映像だと思います。見方まで教えることもないのですが、この人の歌い出すところを見てみてください。そこで2、3秒もちます。そのときに観客は、さらにしんとするわけです。それから下からきちんと入っていくわけです。
上から入っていったら、お客さんがびっくりしてしまいます。バッターでも打席にいってすぐには打たないでしょう。そこで構えて一瞬止まります。芸事のできている人というのはみんなそうでしょう。
若手の下手人は、ワーッと出てきてそのまま入りますが、きちんとしたベテランになると、落語家でも、そこで静寂を待ちます。それは単に時間を長く取れというのではなく、そういう状態に自分の心の伝わるようにまわりの感覚まで整えるのです。
そのくらい繊細に扱わないと音の世界は出てこないということです。いきなり入ってくるようなものも中にはありますが、それはそのまえにきちんと感じていなくてはいけません。
「あなたは いつでも えがおで こたえる」
ひとことずついっていくと、たとえばO君の場合はとてもわかりやすくて、「つ」のところのひっかかりと、「え」のところが邪魔しているほか、そんなに問題はないわけです。声量を出してやれればよいのです。問題なのはこの4つのなかの気持ちの展開と、出すときにこの世界のなかに入っているか、入っていないかです。
Kさんの場合は、何もなくてただ出しているだけです。合宿では今までに比べたら全然よかったです。でもそのことは全部忘れているのです。それはどういうことなのかということです。それは声からしか読み取れないのです。
私たちも表情を見ているわけではありません。こうやってそこのなかに何が働きかけているかということを聞いているのです。そして、その働きかけが今どうかということから、そこに後でいろんなものが盛り込めたり、応用性がきくかということが可能性、おもしろさです。
基本というのは基本の線だけをきちんと出していればよいのです。素振りを見て、どまんなかにきたらホームランの打てる振りということがみれていたらよいわけです。すぐにカーブとか、変化球の打ち方をやる必要はないのです。
それが感覚的にわかっていればよいのです。1回振っただけで、軸とかスタンスとかがわかるのです。それを音の世界のなかで感知していくことをやっていかなくてはいけません。
「こいに おびえる わたしの このむねに」
楽譜を渡さないで勉強をさせているのは、どうしてでしょう。本当は楽譜が一番正しいし、そこにものすごいたくさんの情報が入っているのですが、ここには感覚は入ってはいないからです。作曲家がつくりたい感覚は入っています。
ただ歌い手の感覚のなかでのその人の癖の部分とベースの部分というのがありますから、そのベースの部分を、歌い手が癖があっても、伴奏をしている人とか、アレンジしている人とか、演奏の感覚からも学ぶこともできるわけです。
読みの練習をしてください。たとえば、読みで、「あーなたの、あーかるい、わーらいは、ふーたりの」とやっていたら笑われます。ところが楽譜がついているからと、なんとなくそういう感覚になってしまい疑わないのです。
そうしたら、そういう感覚になってしまうがためにその感覚を裏切って表現しない限り、本当の表現にはたどり着けません。そこの部分の修正をかける感覚というのは誰も教えられないということです。
これはこうやりなさいといっていたら、カラオケの先生と同じです。それを1000の歌に1000回教えるのかということになってきます。1つの歌について100くらい教えなくてはいけない、では、その曲に対して100教えたからといって、次の歌に応用が利くのかというと、その人が感じていないとしかたないわけです。いわれてみたらあたりまえのことなのです。
だから、そのことはもう聞いてわかっているという顔をする人もいます。でもいわれてもわからないから、何回も何回もいっているのです。感じて変えていたら、いわれません。
まず、自分が何をやったのかをきちんと聞くことです。それから定型パターン化したものとか、自分が気を抜いたり、自分のなかで決めつけたものというのも絶対に通用しないです。
「あーなたの、あーかるい、わーらいは、ふーたりの」といってみても、いえたからなんだということになります。大切なことというのは、それがなぜ「ふーたりの」と伸ばしているのかではなくて、その前にそこで伸ばしたくなるような感覚を持っているかで、そうでなければ、その伸ばしていることは邪道になるだけです。
その感覚をつないでいくということが、ヴォイストレーニングを声だけでやっていったり、体だけでやっていくとどんどん欠けていきます。結果として声を調整する機能さえ、おかしくさせてしまいます。
そんなに難しいことではなくて、「あなたはいつでも笑顔でこたえる」ということに対して「恋におびえるわたしのこの胸に」があるのです。本当のことでいうならば、そこまでは一つの線で入っていなければいけません。「あなたの、あかるい、わらいは、ふたりの」と、こういうふうに入っていたらこういうふうに歌ってしまいます。それがみえみえのものというのは通用しないんだということです。
歌い手の方が厳しく解釈し、たくさんのものを想像し、それで聞き手の期待する以上のものを与えてはじめて、そこに斬新な表現であったり、何か動きというのが感じられるわけです。
聞き手のイメージの100倍もっていますか。だから大したことがないような歌だと思ったり、そういうステージを見たときにこれくらいは2、3年経てばなれるなと思っているところに、どれだけの差があるのか、たった一つのフレーズのなかにあるのかということを気づいていって欲しいのです。
どういう選択をえて、それが出たのかは同じ次元にならないとわからないのです。それは総合的なものですから、一つのところに関しては一つの決め方しかないのです。何パターンかを、音色の7色を混ぜてから使ってみるという複雑なことはないわけです。ただ感覚のなかでいろんなものが混じっているから、外からはわかりにくいのです。
でも取り出された音の世界はそんなに難しくないはずです。それがきちんと聞けるということは入っているということ、あなたのは、入っていないということ、最終目的というのは、それを動かすというのが目的なわけです。「あなたはいつでも笑顔でこたえる」というのは誰でもいえる。いえるのだけど、それを動かすことは難しいのです。
「恋におびえるわたしのこの胸に」というところに、音の世界としてつくり上げていくことが難しいのです。だからそれが「このむねに」というのを、「ハイ」とか「ララ」でやっているところできちんといえるように、「ハイ」や「ララ」で練習するのです。そのまま「このむねに」といったからといって、何も伝わらないわけです。それはその人がもっと深く入っていって、それから取り出してこなければいけないのです。
音楽を聞くところの感覚は、もっと線としてつながっていて、もっと動きがあります。みんなが読んでいるところというのは、楽譜的に読んでいるだけです。その間のところの動きをみていません。みんなのなかでの程度の問題もありますが、声のあるなしよりも、(声のないのはそんなに心配してません。マイクでも音響もありますし、すごい声があるというタイプばかりではないです。)アカペラで歌って、ここの数倍のスペースがあっても、一番遠くまできちんと息で届くことです。
それは声量でなく、一つの技術であり、体です。
劇団ではマイクを使わないところで、何百人にもきちんと届く声を要求されます。そういう意味では厳しい勝負をしているということです。
かなりゆっくりした曲ですが、その人が頭で考えるのではなくて、そこで感じながらその音をきちんとつなぎ、何かを落としていくということを実感しながら作品にしていっているから、余裕があるわけです。
多くの人がやっているみたいに、これはこうだと勝手に決めつけて作業を雑にしているのではなく、音楽をくみこんでください。それを一本引いたことによって、自分の感覚も変わるし、次に何を読んで、その次にどこに置きたいかいうことを、その場でできるからヴォーカルなのです。
プロは何ヶ所か入り損ねたところがあっても、そのあとにそれ以外の新しいやり方でそれをカバーしているのです。私たちはリハから見ているからわかるのですが、普通の人はそこを間違ったことさえ、たぶん気づかないはずです。音程とかリズムの間違いではないからです。
声の使い方のところで若干間違えても、その瞬間違うことでカバーをしています。そこで本人がしっかりと音を動かしているから、ちょっと左にいきすぎたと思ったら、次に右に書き換えられるのです。
今それをやれということではなく、それがあとでできるような声とか、音のつかみ方を今しておかないといけません。いつまでたっても声だけが大きくなるだけのでは困ります。
一度、音大生の人数だけ集めたようなコンサートでも見てくればよいと思います。そういうのをみると、いかに声の出ることだけに満足しているのかというのがわかると思います。よい見本と悪い見本がありますから、それがきちんとわかることです。
歌もまた感性の差なり、感覚の差なり、音の世界を知っている知っていないの差です。大した言葉で歌ってないわけです。そんなにすごいことでもありません。
でも、同じようにレコーディングをやってみると、片方は無神経、無感覚、音楽の世界が全然わかっていないものが出て、片方はそれなりに心地よい世界を確実に出すのです。そこの差をみていかないと、それよりも大きな声で歌っているだけではしかたありません。
「こころに あいのうたを」
自分でカセットに入れてみて、「こころに、あいの」といってみても、「こころにー」「こーころに」「あいーの」「あーいの」いろんな表現があるでしょう。技術は、それを忘れるのに時間がかかります。20年なんとかやっているからできるのでなく、あるときの最高の前の感覚がなければ、技術も声も何も使えません。その感覚は勉強してくださいというよりは、歌のもとにあるわけですから、それを感じる力を鋭くしていってください。
少なくとも、ここのトレーナーは、そこに関してはとても厳しいです。ポップスの場合はトータルの勝負ですから、表情も含め、声の世界といいながら、声の世界ではないということです。
それは画家も、漫画家でも同じでしょう。絵がうまい必要はありません。手法やアイデア、イマジネーションの問題です。絵が下手な漫画家もたくさんいます。その絵の人物が動いているか動いていないかが勝負です。そのキャラクターのリアリティが描けているかどうかです。
うまい人というのはいくらでもいます。誰だって誰々流には書けるわけです。やれていく人というのはそうではないのです。もっと鋭くやってみてください。もっとすぐれた歌い手をたくさん聞いてみてください。どう学ぶかということが才能です。
【「幸福を売る男」③ 3910.21】
「甘い恋の 口づけ」
坂本九さんのを2曲くらい、今まで使うことはないと思っていました。今日のはご存知のナンバーで、プレスリーのを中心。世良さんにしろ、坂本さんにしろ、ある部分、落ちている部分もあります。
昨日③のライブ実習があって、同じようなことをいいました。
ただ、プレスリーの原曲を聞いてみると、この原曲で歌いたいなと思って、歌ったにも関わらず、同世代ですから、とにかく聞きまくったのだと思うのですが、それで何をつかみ、何を落としたかということを、われわれの時代では勉強できます。
これもよく聞いてみたら、彼ら音大出身の歌い手さんたちが、ポップスに入るときに落としてしまうものと同じです。
パワーもインパクトもある意味では落としています。でも器用だったり、声を当てることはうまかったり、おもしろく言葉にしているという部分はあります。でもそういうものも結局、こういう中で消えていく、それが消えたときにこっちがもっている部分というのはどういうところかということです。
呼吸が違うでしょう。これでせいぜい4つです。これを4つで捉えられる呼吸というのは、われわれには大変なことです。その1行が1つです。よくカンツォーネでも同じように、4フレーズで1つくらいの感覚なんだと、何回もいっているのですが、なかなかわからないのです。
16フレーズで1呼吸です。これを、4つ、4つ、4つ、4つと捉えるわけですが、彼らは、われわれが4つで捉えているところを1つで捉えているのです。楽譜をみて歌ったら、こんなふうには歌えないと思います。これだけうるさいはずなのですが、基本的にバックの音ときちんと溶け合っていますから、それほどうるさく聞こえません。
日本人のは、伴奏は伴奏で進んでいて、そこに歌がはまっていっていない、そこのなかのコミュニケーションがある意味だと取れていないということです。取れていないといっても、彼らだって楽器もできるのですが、結局ヴォーカルというスタンスになったときに、別のものになってしまうのです。バンドとしての1パートということではなくなってきます。こういう歌い方もそうだと思います。
その辺をどんどん聞いていけば、もう少し音楽ということがわかってくると思います。人のことに関してはいえますが、とても難しいことです。歌うことは難しいとは思いませんが、そこに音楽を生じさせるということは、すぐにはやれません。難しいと思いますし、ただ、やれているのかどうかというのを、きちんと自分でみることが、まず大切だと思います。
「春も 夏も 秋も 冬も 歩くときはいつも 空は晴れて海は青く」
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【「思い出の瞳」391221】
今、できることは、今までみんなに入っていたものを出すことです。今日、与えるものはだいたいみんなに嫌われるようなもの、3拍子のやりにくいものです。それはやる必要があるかからです。ただ、3拍子とか6/8のリズムがわかることによって、4拍子だけをやっているよりも4拍子もわかるということです。
アズナブールと日本人のとで聞いても、2つしか聞き比べられないでしょう。それをまわりの人と比べてみる、するとわかりやすい材料が得られるのです。
日本人で歌い手の人から学ぶと、いつも同じで似てしまうからだめなのです。いろいろな歌い手がいて、いろいろなやり方があって、いろいろなテンポがあって、そういうなかで何をどう正せばよいかをみていくのです。
それは私の仕事でもありますが、たとえば、こういう歌い方はどういうふうに直せばよいかということです。その前にあなたの感性が必要になりますが、それは磨いていくしかありません。私の感性とはまた違います。でも、あるところまでは、絶対的な基準があるのです。
これは原曲を聞いてこういうふうに歌われたものです。歌われたというのは、この人のくせが聞こえてきたり、なんか納得できないというので、応用をしすぎている場合が多いわけです。自分の声そのものとか、呼吸から離れていくからです。特に日本人の場合は、それが、とても多いのです。
表現をしたり、感情移入をするがために、息がまわらなかったり、体が使えなくなる、だから表向き整えようとでやってしまうのです。
日本人にとって2オクターブを3分間歌うということは大変なことなのです。それが、向こうの人たちがしゃべっている感覚と思えばよいのです。
しゃべっている感覚でいろいろと遊んだり、間を詰めてみたり、冗談が浮かんだら話題を取りかえたりできるわけです。彼らのなかでは、そういうことを音楽のなかでやることは、お手のものなのです。声自体がそこで裏返るとか、違うことが起きないわけです。
日本人の場合は、音をとるだけでも集中して、この歌をがんばって歌わなくてはいけないということを考えなくてはいけないのです。
そうなると、自分がやっても、5年後には必ずこうなるという方向にトレーニングをとることです。それが嫌だとしたら感覚のところでまず変えておくことです。
次にどう変えるかということです。お手本というより、原盤をきちんと聞いてみることです。歌詞を考えてやるというのは、大変でしょうから、いろいろな感覚を勉強するということです。
これはこれで入れてみるということです。これを入れて、次に原曲を聞いてみて、歌詞だけを取って、原曲の方に直せばよいのですのです。
曲がよいからもっているようなもので、すごくわかりにくいです。結局、このなかで何が起きて、一体何を歌っているのか、歌っている本人は声も出ているし、音もとれているし、音楽をつくろうとはしているのですが、それだけが目的になっています。
今のを聞いて、ストーリーを書いてみなさいといっても、何か元気な音楽が聞こえてきたというくらいしかわからないのです。
「ある朝、夢から覚めて ニ人は別れるでしょう」
音は原曲から取ってください。
これを聞いても何が起きたかわかりにくいと思います。このなかの世界が見えていかなければいけないということです。
ピアニストでもトランペットでも同じで、音符が見えているわけではないのです。その線がどうゆれて、相手にどう伝わるのかというのことです。最終的に誰かが聞きとって書いてみたら、音符になっていたというだけです。
できるだけ即興で聞いてみて、音もとれなくて、言葉もわからないけど、音楽が出てきたらよいのです。
自分の好きなように変えてしまうだけなら、それは自分のただの自己満足にしか過ぎません。ここで得た感覚、何かおもしろいと思ったこと、あるいは何か発見したり、そして自分が出している間に何かが動いてくる、そういうことからやってください。
言葉がこの音符にあうのではなく、まずイメージがこの音にあうかどうかです。自分のイメージを音にしていくのが音楽ですから、そこを忘れないできちんとやることです。
歌は応用ですから、そこから取ってよいものと、取ってはいけないものがあります。根本的な感覚、リズムの感覚なり、そういったものの創造的なもののベース、その人のくせではなくて、理にあっているものがあれば取った方がよいでしょう。
そのことによって自分の足らないものとか、あるいは歌の応用性が広がります。しかし、そのまままねてしまうがために、自分の呼吸を殺してしまったり、その人の歌い方のくせに入っていってしまうと、何も出てこないのです。応用をまねてはいけないというのはそういうことです。
歌い方がどうこうということではありません。これは根本的な間違いで、聞くだけでわかります。本当はこのくらいのものであれば、もう少しどこかでけじめをつけておけば、1曲聞いた中で、ここがこういう歌い方でよいのかどうかというのも決まってきます。それは誰かが判断するということより、感覚のある人が聞けばすぐにわかることです。
他の人がやってみて、簡単にまねしてしまうようなことはやってはいけないのです。こういうものを聞いたときに、速いと感じて何がおきているかわからないとか、どのくらい音符があるかわからないとかいう人は、そういう速いリズムのものを聞いてみましょう。
その速さに体がついていかなかったら、すぐに息を吐いて、すぐにその状態が整えられるようなことをやらなければいけないから、ヴォイストレーニングがあるわけです。☆
そういう必要性を入れていってください。実際のテンポからいうと、日本人の方が速く歌っています。速く歌っているのに、アズナブールの方が速く聞こえるというのは、それだけ間をあけているからです。それは凝縮するところに、より強く入れたり、より速く入れてみたりしているということです。
「だけど だけど 好きなのさ」
たとえば今みたいに、反射的に体を動かして、元の歌を聞ききこんで声を出していくようなことは、慣れてきたらあたりまえのようになります。けれども、ひとつのことをやるために、今は部分的なトレーニングを置いています。
大切なことは、それをここで受け止めるのではなく、あくまで中心をやるために、それはみなさんにとって声を使うことだったり、歌だったり、あるいはそれを使って何かをすることかも知れませんが、それを組み立てるべきだと思います。
ここにも、いろいろ才能のある人、個性のある人、おもしろい人たちが入ってはきます。それはここだけというわけではなく、世の中の人は誰でもそういう何かを持っているわけです。ただ、それをうまく生かせるかというのは、その人の考え方とか、精神的なものが大きいのです。それをここでよい方向に使って欲しいので、やはり場に出ることです。
「シンコーミュージックのCD付の3冊の本が出たから、それでやります、時間もお金ももったいないから」という人がいました。
そういうものではないと思うのです。歌がうまく歌えるとか、声がよく出るということが目的だったら、それでもよいのです。もちろん、それも自主トレーニングでは、難しいですが、カラオケ機器で練習するくらいには、よくなるでしょう。
でも、ステージや作品は、人に問わなくてはいけないのです。問うて、認めてもらって、舞台や作品とは、それで初めて価値がつくのものなのです。
ここはあくまでその舞台ということでの表現をめざしています。
ライブステージ実習を見たとき、ここの先輩がどうやっているのかを知る、そして、それ以上か、そこにないステージをする、その力をつける、一般の人をひきつけるための力が必要です。
舞台側でやることは試合で、こちらでやることがトレーニングです。
たとえば、今やってみて、ぐらつくとしたら、それは体力が足らないのです。これで声の状態が変わってしまうのならば、悪い方に変わるのです。そこに足らないことがあるわけです。
1時間も声を出していたら、どこかで声を休めなければいけないでしょう。そのなかでよりテンションを集中させていって、変なところに負担がこないようにする、そのことが無意識のなかでできなくてはいけません。
ファインプレーというのは無意識のなかで行われるものです。トレーニングは意識的にしていきますが、最近見ていて、あまり意識が強すぎるとだめなようです。
スポーツというのは、それを強制的にやるところがあります。できもしないのに腕立て50回を3回やれといわれて、ごまかしながらやって、ボーっとしてきたり、筋肉が動かなくなったりしていくのはよくありません。しかし、自分の設けた限界を他の力で広げるためにはよいでしょう。
そのなかで中心的なものが消えていくと、悪いものが入ってくるときもあります。それは、よりトレーニングをやっていない人の口にする話です。
こうやった方が体は楽になるなということを、自分の頭ではなくて、体全体で考えるようになることがとても大切です。
そういうことを、この期間を使ってやって欲しいものです。それから出られるものすべての、場を踏んで欲しいと思います。
舞台を与えているのは、どこでやるのかを明確にしておいた方がよいからです。それはここでやるわけではないでしょうけど、ただ、そのひとつの窓としてみることはできます。
ここでも普通の人が大半きているわけですから、そこで誰がみても認められるものを出せることでしょう。誰がみても変だとか、どうやっても理解できないというものが、ほかのところに行ってみて何かなるかというのはないと思います。
よくなった人は歌がうまいわけでもないし、声がよいわけでもないし、ただ何が違うかといったら、学ぶ姿勢が違っていたのです。
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【「エルザの瞳」④ 391214】
「日の光が 煌いていた」
「煌いていた 身も心も吸い込まれて」
「君は 全てを 忘れさせる」
「深い瞳を除きこめば 日の光が煌いていた 身も心も吸い込まれて」
たまには声をていねいに扱ってみようということで、やっています。
ピークをどこにつくるのかです。あまり余裕が出すぎてしまうとダメです。密度の問題、それはどこかでつかんで動かしていくというようなことです。
先のクラスでは村田英雄でやりました。演歌の場合は、上の方にかなり集中させていくような部分がありますが、下のところになると、その分、遊びが出て、独特な持っていき方をします。
ポピュラーの場合は、緩やかでありながら、テンションである程度持っていけばよいと思います。
「身も心も吸い込まれて」のところも、どこに山をつくるというのは、その人が決めていかなければいけないのです。どこにも山がないとダメでしょう。そのなかでできたものを、また1行目から3行目までのなかで、自分で配置して、最初は計算でやりつつ、何か気づいていけばいいと思います。ゆっくりした曲でしたので、もう1つ違う曲にします。
「想い出の瞳」
「ある朝 夢から覚めて 2人は別れるでしょう」
できたらこの歌い方をはずしたいのです。
この平たい歌い方を立体的にしてみてください。日本語としては入りやすいと思います。
【「思い出の瞳」④ 00121】
「ある朝ゆめから覚めて二人は別れるでしょう。 愛野きずなをふりほどいて だけど だけど」
日本語できちんと歯切れよくフレーズで持っていくというのは難しいことです。
「あなたは涙も見せず 未練ものぞみもなく さよならと手も振らずに 未知の果てに消えるでしょう」
2番の歌詞でやってみいましょう。音を変えることによって、フレーズの感覚を変えることができると思います。
「あたは幸せ求め 気ままに旅するでしょう 遠く遠く消えるでしょう 闇の中に消えるでしょう」
「だけどだけど好きなのさ だけどだけど好きなのさ だけどだけど好きなのさ だけどだけどある朝」
「愛野絆をほどいて だけど だけど」
フェイドアウトはできないので、3回まわして終わりにしましょう。
「だけどだけど好きなのさ だけどだけど好きなのさ だけどだけど好きなのさ だけど」
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【「青色のジャバ」② 391221】
この2曲を比べてみると、どこが落ちているかというのは明確です。ただ、この明確なことが自分にもってきたときにわからないのです。それが音楽なり、歌の難しいところだと思います。
ピアニストやバイオリニストなどは、他の天才的な演奏家のパターンを全部入れながら、そういうことは器用にまねができる人がいます。あるいは、作曲の分野でも、日本のアレンジャーであれば、ここをこうやれば誰々ふうにとできるわけです。
では、自分のもので、それに替わるものは何なのかというのが、なければいけないでしょう。というよりも、自分のものが何なのかということを知るために、他の人のものが何であるかを知らないといけません。人間が考えることは大体同じです。同じ時代に生きていたら同じようなものが出てきます。
歌とか音楽の場合は、特にポップスの場合、日本においてはスタンダードというのが成り立っていません。とても不思議なことです。たとえ落語家であっても、過去のものを全ておさらいをした上で、そのなかの第一人者をきちんと踏まえ、それに対してどういうふうに変えていくか、どう創作していくかということになるのです。
パターンというのは、いくつかしかないのです。たとえば笑いも、分類してみたら、そのなかで使えるもの、使えないものがあります。音楽の場合でも、似たようなことがいえます。
リズムがここまで発達してしまって、新たなリズムパターンへの冒険というのは、ほとんど20世紀にやられたわけです。その後、前衛の方にいくと、それは人間の生理とあったものではありませんから、また戻ってくるしかないわけです。より戻ったところで深めていくということです。
そういうスタンスをみていくということは、大切なことです。そうでないと、向こうのものをみて、向こうのものをまねてみたら、結局、こんな程度になってしまうということです。
これでもヴォイストレーニングの目的としてはよいと思いますが、オーディションに通るのは厳しいと思います。
ただ、音程がとれて、リズムがとれて、高い声が出て、何でもこなせるということであれば、日本の場合はプロといわれるわけです。ただ、何をもってプロといっているのかということがずれています。技術でなくて、金を稼げばプロとなる人もいるわけでしょう。
でも、結局、心に残らないし、向こうのものを聞きたいという人が、代用として日本語で聞く分にはよいのでしょう。しかし、だんだんとそういう時代でもなくなってきました。
また時間をみてやってみようと思います。できるだけ皆さんのなかに入れたいのは、そういう基本のパターンのものです。ここの会報とか書物を見てもらえば、いかにここでやっていること、実際にめざしていることというのが、日本人のなかで欠けているものかがわかるでしょうか。
私たち会話が108の音の世界で成り立っているのに、2500も使っている人間がいる。それを使えということではないのですが、少なくとも1000とか2000とかがあることを承知の上で、もう一度100を選びなおしてくるということをしなければ、見えるものも見えなくなってしまいます。そして、退屈なものでさえも、何が退屈なのかがわからないという、おかしなことになっていきます。
音楽のもつ要素、リズム、音色は、特に日本の歌には欠けています。そういうことに対して、聞きなさいといっても、なかなか聞けません。自分でやってみる、自分でやってみてもわからない、わからないから自分で聞いてみる、それで結局は通用するのか、働きかけるのかという、大まかな基準でしか最初はみれないのです。
もう少し細かくみている人が世の中にはいますから、そういうところを参考にとっかかりをつくっていくことです。
この前ジャズのプレーヤーと勉強していたら、4拍子がどうしてもとれなくてといっていました。日本人が思っている4拍子と、彼が思っている4拍子というのは、レベルの差が違うのでしょう。
きっと向こうの高い基準からいうと、その4拍子というのは、日本人にとってみたら不可能というようなことです。
歌のなかで問題になっているのは、8分の6で、それを知るために4分の3もやるのです。知識では楽典とかWのレッスンとかで知っていても、なかなかわからないのです。
ファドとか、ジャバをやると、いかにこれが難しいかがわかると思います。ジャバというのは3拍子で2拍目にリズムの強拍がくる。わからなくて、アコーディオンでやって、でもまだわかりませんでした。わからないものはわからないと認めること、リズムを叩くことはできますが、それをどうつくるかということです。
そんな意味で、深いところには深いものがあるということを、知っておけばよいと思います。ただ、シャンソンのベースにはこういうものがあり、同じ4拍子のなかにも、ジャズでも、3拍子というのは基本です。
日本人は農耕民族で2拍子で、向こうは乗馬ですから3拍子が元になっているというのは俗説ですが、向こうの人たちには3拍子の感覚が入っていて、我々にとってはとても難しいということはいえます。
ロックとか、ボサノバになると、あまりその感覚は必要ではなくなってきます。たしかし、リズムに反応できるように、こういう曲もやっておくと、刺激されると思います。3拍子がわかると、4拍子がもう少しみやすくなると思います。
それでも、プレーヤーが4拍子がわからないという、そのわからないというところがこちらはわからないという、そんなにすごく弾けているのに、なぜそれで4拍子がわからないんだとこちらが思う、その差が結局レベルの差だと思います。
日本のプレーヤーはすぐれています。わからないことがわかるというのがすごいのです。それは楽譜に書かれていない世界ですから、歌でも同じです。これは8分音符か、4分音符かといわれても、どちらともいえない楽譜はたくさんあるわけです。実際、全部はいえないわけです。だから動かせるのです。
1番と2番を混ぜたような歌詞にしまして、もう今では死語になっているわけがあって、イメージが湧きにくいと思いますので、少し変えました。いける人は2行までいって、いけない人はいけるところまででよいです。
ー
「ウキウキと ジャバを踊ろう リズムに乗って 目と目を移しながら」
音程がとれていないです。リズムを考えながらやってください。この歌い手は力がありますから、音があまり上下していないようでいて上下しています。簡単そうに見えますが、男性に合わせるとちょっと低くてとりにくいと思います。よく聞いて、今注意した2ヶ所を、音からとってもとりにくいので、流れでとってください。
「大好きよ 朝まで 頬と頬を寄せ合い リズムのまにまに 舵の取れた船だよ」
②クラスでは、いろいろなパターンのものに慣れてください。自分の反応をきちんとみていく、前にオリジナルのフレーズのときにいいましたけれど、できないものは難しいのではなくて、自分のなかに入っていないのです。
たとえば3拍子でも、やったことがあるかもしれませんが、本当の意味で叩きこんできているわけではないから、応用がきいていないのです。応用がきかないということは、基本がないわけです。基本をやるしかないのです。
この曲をやったことがあるとか、ないとかいうことではありません。
でももし去年やったことがあるならば、今日やるときに楽でしょう。その曲を覚えているからではなく、その曲に大切なものが入っていたか、どうかということです。
それがなくても、他のもので代用してやればよいのです。ここでは、好きな曲はやれませんが、その代わりいろいろなものをやることによって、本当に好きなものは何かというものを、きちんと明確につかんでいくことができるのです。
いろいろな曲のことを知らないと、自分の中心がわかりません。10年も20年もやれといっているのではなく、ある期間、2年でも4年でもよいから、自分の器を大きくして、その器のなかで、大変だとは思いますが、自己規定していかないといけません。
どこを深めるのかということもわからないと思います。同じことをやって、すぐにできる人、なかなかできない人、それはすぐにできる人がすぐれているということではないのですが、そのことを踏まえなければいけないし、できないよりはできたほうがよいというのも事実です。
もちろん、歌い手というのは1回できてしまったことが、深まっていけばよいということもあります。他の人よりも不器用であっても、それはよいのです。でもそこに課題があるということは、どこかで覚えておけばよいし、そこで何年たっても勝負できないのであれば、自分はそういうタイプなんだと思って、自分ができることと、できないことを知っていくということです。できないことは人前に出さなければよいのです。
いろいろな意味で2年目3年目というのは、大変だとは思うのですが、そこの感覚がなくなってしまうと、レッスンに出ていてもマンネリ化してしまうだけです。とにかく、レッスンをこなす必要はありませんから、できないものがでてきたら、儲けだということです。
たっぷりと時間があって、誰でもできて自分もできるのであれば、何の意味もありません。
私のレッスンでは、いつもぎりぎりの時間、でも絶対にできない時間で与えるのではなくて、本当はできてほしいなと思っているところの最低ラインで聞かせてからやっています。もう20回聞かせたらできるのにというところを、5回でできるようにしていくことが、勉強であり、進歩です。
そういうことでいうと、若干無茶はしております。人によっても違いますし、簡単すぎると思う人も、難しいと感じる人もいるわけです。同じ曲を続けてやる人と、始めてやる人もいます。でもそこで言い訳をつくってしまったらダメなのです。前にやったことがなかろうが、そこでできればよいのです。だから、言い訳をなくしてください。
できないものもできるくらいの応用力をつけていくことです。そのために基本のことが必要なのです。そういう勉強の仕方をしてください。どちらにしろ耳の力が必要だと思います。
クリスマスライブを自分なりに楽しんでください。どういう風ふうにそこに出る人たちは耳をつくっているのかを、勉強してもらえばよいと思います。声の勉強ではなく、耳と感覚の問題です。
前に基準を置かないと、自分のことを正せないというのは、その基準というのは感覚の部分だからです。体は伴います。体が伴わないところは伴わないのは、はっきりとしているのですから、それを見極めていけばよいのです。
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【「マンマ」391119】
「バラ色の顔に ほほえみをたたえ」
まだ入って何カ月も経っていないから、難しいとは思うのですが、外国人の感覚に変わって捉えてみましょう。日本で生活して、外国にも行っていないのですから、外国人の感覚で日本語を使ってきていないのですから、向こうの感覚で言語を使っても、それは外国語でしゃべるということにはならはないのです。外国語でしゃべっていても、日本語の感覚でしゃべっているわけです。しかし、続けていくといつか切り替わるわけです。
まずイタリア語を聞いてみて、それを日本語に置き換えます。キーもそのままとられないこと、ましてやこの2人の歌い方は、まったく違います。だから、そこで自分が出せるものというのは、限られてくるわけです。
自分のはよくわからないと思いますので、他の人のを聞いてみてばわかるとおり、その人のなかに入っているものです。そこでどう変化するとか、どういうリズムや、音が出るというのは、あたふたやって読み込みが遅いわけです。
しかし、何度もやると否応なしに入ってくるのです。すると違うところを聞いていくのです。それは、その人がどうごまかすのか、自分が理解できないことに対して、自分の感覚がどう働いて、どう出るのかと、どのキィで出るのかということもあります。慣れていなければ同じキィしかとれません。それからリズムが入らないし、日本語に切り替わったところでバタバタしてしまいます。だから、難しいかもしれないのです。
その人のなかに音楽の感覚が入ってきたら、たかだか7つの音=スケールの組み合わせと、8ビートといっても、8つの強弱の2つくらいしかないわけです。その組み合わせですべてができているわけですから、それに対応できるところを磨いていくことです。
いろいろなものを聞いたときに、その人がどちらかの歌い手のパターンをとろうとしているために、よっていく場合もあります。どちらにもよれないで自分のものが出る場合もあります。これは両方とも本当のことをいうと間違いです。
読み込むのに、たとえば30回ほど聞かなければいけない、それから自分のスタンスで出そうとするのに30回、そうしたら60回かかるかもしれません。しかし、それを3回でできる人がいる、同じくらいのキャリアというよりも、キャリアは違っても、そこで差として出てくるものが、一つは力なのです。
器用であることというのはそんなに問わないのですが、最終的にそれだけのパターンが入っていたら、否応なしにそれは当たってくるのです。今コピーしようと思って間違うこと、コピーができない、あるいはコピーをしなくて自分のものを出そうとして間違うこと、この両方のことを明確にしていくことです。まずそれが一つです。
結局プロの感覚の部分で変えていくというのは、そういうものを読み込めるようにしていくということです。一つは音程とかリズムとかの勉強をしていって、たとえば、これをぱっと楽譜で書ける人です。そうしたら、早くコピーができるわけです。そういう学び方がよいかというより、それができる音の感覚、まずどこにいこうとしているのか、どこがスタートで、それをどうつないでいくかということです。
音楽を単純に考えてみたら、ひとつの音をどこに定めるかということが、スタートラインです。それからその次の音と2音の繰り返しなのです。すべてがその繰り返しです。その繰り返しのなかで1フレーズを聞いてみたら、いくつか変えられる部分はあっても、その1フレーズで規制されてしまうことがほとんど多いのです。たとえば、2番の頭のところでは、1番とほぼ同じ入り方しかできません。そういうルールができているのです。
ですから、楽譜というのはいくつかの箇所だけみれば、あとのつなぎ方というのは決まってくるのです。だからそれに反するような感覚にならなければよいのです。
この歌を覚えてほしいのではなくて、この歌に接することで、要は働かない感覚を働くようにしていくのです。それとともに入っていない感覚のことを知って、それは入れていくしかないのです。たぶんロックを歌うにしろ、最近の曲を歌うのに、こういうリズムとか、曲調ではないかもしれません。でも基本的には、同じ中の感覚ということで簡単な部分です。
総合的に全部を捉えて、そのなかで統括していくという作業を増やしてほしいです。レッスンをていねいにしてきて、わからないところは、トレーナーが、自分はこうわかったと部分的に説明していますので、部分的なところはそれで必要充分なのですが、それを自分のなかで統括していかなければいけないのです。それはリズムとか、音程がわかるとかわからないということではなくて、そんなものを考えないうちに、体がそういうふうに動き出して、結果的に音楽が出てくればよいわけです。
あなたの悪いくせが出てくるのではなくて、今みんながこれを入れようと思って、それで入りきれないから、何で補うかというと、自分にあるもので補うわけです。それは自分にあるもので補えばよいのですが、音楽になっていないといけないということです。
彼らは1回聞いて、それで最初の音と最後の音を好きにつなげます。それは最終的にはコードのなかでだいたいできているのです。特別にコード理論を勉強しているわけでもないのに、いくつかの音や音楽が、たとえばみんなの1000倍くらい入っていればできてしまうのです。その方が大切なのです。
コピー能力とはまた違うのですが、そういうものが入っていれば、入っているほどコピーはしやすくなります。現に今日これをやって、明日またやると少しは簡単になります。イタリア語でも、今日よりも明日の方が簡単に読めると思います。結局、繰り返すということは、それだけのことなのです。
半年後にまた同じ曲をやるとすると、前の感覚が残っている人には簡単だし、忘れた人も最初よりは簡単にできるのです。そのことを2年間で4回くらい繰り返してみると、1曲くらいは終わるのです。これよりも複雑なリズムであったり、これより早かったり、もっとくせのある歌い手を使ったりしても、いろいろな形でいろんなところをつついていけばよいのです。
でも一番違うのは、その人によっての伸び率も、伸びる時期です。教え方というのも全然違うのです。
全部、違うレッスンなのは、何かすごいレッスンが1回行われて、それから全部得たということではないのです。それぞれいろいろなところから得ていたということは、あとになってわかることです。
そういう意味でいうと、難しいとは思うのですが、難しいことが簡単になるようにしていけばよいと思います。難しい難しいと思わないで、自分の思うように取り組んでみればよいのです。できなくてあたりまえでよいわけです。できないできないとやっているうちに、何かが変わっていって、聞いてみたら音楽が口ずさめていたということでよいと思います。
これを家に帰って思い出してみて、10回でも100回でも歌ってみればよいのです。そうしたら、10パターンも100パターンも出てこないはずです。この歌は全部忘れられてしまい、結局何が出てくるのかというと、自分のなかに入っていたものです。
曲をつくったり、詩をつくったりしても、同じことしか書けないものです。同じメロディしか出てこないし、歌ってみたら同じ節回しにしかならないのです。それが全部音楽に反しているか、音楽になっているかです。
反しているのがわかれば、直ってきます。そんなに簡単に音楽は出てきません。本当に小さいときから余程恵まれた環境にいない限り無理です。だから反していると思っては、悔しいと思ってください。
この二人はきちんと歌っていますが、もっと楽につぶやくように歌っているものはたくさんいて、それにさえ及ばないのです。それは何なのかということです。
そうしたらそれは声のことではないのです。その人のなかにある、音楽性とか、精神性みたいなものです。それをきちんと獲得していくことです。
声や体のことは、長くやればやるほど助けてくれます。でも、体でも息でも、声も、リズムや音感もそれは部分にしかすぎません。そういうものをぐちゃぐちゃに混ぜてみて、統括する一つの方向性というか、その働きが必要です。それがバラバラになっているときというのは、動くのです。
たとえば今日のレッスンから、フレーズや、イタリア語の感覚や、リズムを勉強する、これを10回使ったとしても、いろいろと勉強できるわけです。
最終的には本当によい曲の1曲のなかにすべてのノウハウ入っているわけです。でも、その1曲から全ては得られないから、わかりやすいようにいろんなものを使っていきます。それから私が得てきたものと、あなたが得やすいものというのは違うわけですから、わからなくてもよい。ただ、自分で何か苦手だったとか、今日のは何かやりにくかったと思うようなものを、できたらやってほしいのです。
ここにいる2年くらいしか、こういうことは押しつけられないのです。あとは自分の好きな曲を好きなようにしか歌っていかないのでしょう。その期間にこそ、ナポリターナを聞いて、カンツォーネっぽいものを入れてみることです。
比較という勉強はやりやすいものです。今のでも、二人のヴォーカリストに対しての自分という対峙ができるからです。