一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

「学ぶために大切なこと」1221

学ぶために大切なこと」1221   

 

 他の人は、いろんなことを教えてくれる。

 才能や能力を、そこから補っていく。

 素直に耳を傾け、いろいろと枝葉のついたことばから、幹を見分ける。

 今の、いや未来の自分にとって、大切な幹を、きちんと見分ける。

 

才能や能力、素質がいくらあっても、うまくいかない人の多くは、人の言葉で右往左往する。

自分の能力を持て余し、使い方を間違っている。

どうでもよいことに踊り、大切なことを忘れてしまう。

 

本当の実力とは、実力のある人を動かせること、

そこでの本気での関係づくりが、明日をつくる。

 

多くの人が、自分より多少、上で比較的、手の届きそうなところにいる人には、妬みをもちやすい。

しかし、事実は事実として、自分より何らかのことを、わずかでも成し遂げている人物には

「何かすごいところがあるから、そこにいる」と考えることでしょう。

 

これまで、ここで、あるいは、他のところで、ぐちしかいわない人をみて、

私は、声や歌のまえに、もっと大切なことを伝える必要を感じてきた。

 

 本気でこうやって欲しいということがあるなら、聞いてみたい。

 

 私を使える人は使えばよいし、使えない人は離れればよい。

こちらが頼んで使って欲しいというのではない。

私はこうやって生きてきたし、こうやって生きていく。

 

ここにいるのは、ここを必要とする人がいるからであり、

そういう人がいなければ、いつでもやめる。

気力、体力がもたなくなれば、いずれ退くことになる。

それまでは、一所懸命、伝えて残したい。

 

ここで少数のやり抜いた人を見習えばよいのに、もったいないことだ。

自分だけが正しいと思っているうちは、大切なことは学べないし、世の中でやっていけない。

 

 

 最近、私は外国で、Good Voiceと呼ばれることが多くなった。

反面、日本では、ややテンション不足、いや刺激不足なのか、

年に何度か、酷評をもらうこともある。そこで、素直に反省はしてみるのだが、

どう考えても声のことやトレーニングのことでない。

 

どうも今の日本人は、思ったことを何の根拠もなく、

自分の思うままに何でもいえばよいと思っているような気がする。

一人よがりな意見よりも、そこでの状況の把握力のなさに失望する。

 

私でなくとも、ここでなくとも、

誰もがそういう人を、人生の開けていかない人、成長できない人と思うだけである。

事実、そうであろう。

だから、ぐちになる。

ぐち集団になる。

 

ここにいるのなら、そういう人には、したくない。

ここも、そういうところにしたくない。

何事からも学び、自分の名前で発言し行動できる人であってほしい。

 

 

 

 

「真の創造を」

 

 「稽古は強かれ、情識はなかれとなり」

(稽古はたゆまなく行ない、我意のとりこになって、よい意見を無視するようなことはするな)

 

「日本という島国根性、村社会では、

 やっている人をいい気になっていると

 がんばった人、がんばっている人の裏や、

 その後にできたスキを突くことを生きがいとする。」

 

やれた人をひきずりおろし、皆一緒なのにと平均化する、ねたみと嫉妬の思考の村社会。

 他者の否定によってしか、自己を主張できない自己肯定のための群れがはびこる。

 よいところをみることでなく、悪いところを揚げ足をとり、へつろう。

 どっぷりとそこにつかると、みえたものもみえなくなる。

 左から右へ、うつしているだけの人が、一人で何もやれぬ人が、大口を叩く。

 そのことさえ、やれない人がそういう人に巻き込まれ、だめになっていく。

 

 あなたは、何を創った。そして、創っている。

 

 真に創造するとは、自分の世界をもつ。それは、どういうことだろうか。

 私は、自分の名において、自分の仕事をすること、

 他の誰にも替えようもない役割を荷なうこと、 

 死して何を残すか、伝えるかだと思う。

 

 

 

参考語録

 

「あなたはどうして、そう弾きたいの ことばで語ってごらん」

アイザックスターリンのレッスンより 諏訪内晶子

 

「日本の音楽家は、『先生の言われた通り』としか答えない。

 なぜそう弾くか、ことばで説明できる人は少ない。聴衆も情緒的で語ることができない」

三枝成彰氏)

 

「一流であるには、強者に対して、妬みでなく尊敬で接することが大切だ」

(野村監督)

 

 

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投稿 1228

 

【Ei塾題材】

(「プロパガンダ・デイ・ドリーム」 あとがき 鴻上尚史氏 白水社刊)
<インターネットのサイトを覗いて、胸潰れるような気持ちになることが何度かあります。
 匿名で書かれた、“何か”に対する悪口の固まりを読んだ時です。
 その悪口は、どんなことを書かれていても、文字の下から、「俺を見ろ!」「私を見て!」という叫びが立ち上がってくるような気がするのです。
 「俺は、本当はこんな人間じゃない」「私は、本当はもっとすごい人間なんだ」
 結局は、そういうことを書きたいだけなんじゃないかと僕は感じます。
 もちろん、ある映画や小説、テレビ、そして芝居を見て、その悪口を書くことは自由です。
 僕は、道徳とかエチケットの問題で言っているのではありません。
 僕自身も、僕の芝居に対して、「一行レビュー」という演劇のサイトで、クソミソに言われたことがあります。いえ、今も言われています。
 匿名のほんの数行の批評ですから、過激なことを書いた方が勝ちという傾向もあるでしょうが、僕はその“悪口”を読みながら、今までと違った傷つき方をします。
 それは、今まで経験したことのない傷つき方です。
 もちろん、昔から、アンケートでもクソミソに書かれたものはありました。
 一回のステージで、三百枚のアンケートがあって、それが全部、公演をほめているなんてことがあったら、その方が不健全だと僕は思っています。
 が、アンケートの“悪口”と、インターネット上のサイトの“悪口”は、はっきりと何かが違うのです。
 それは、活字として印刷された“悪口”と、サイトの“悪口”が違うということでもあります。
 僕とまったく関係のない“何か”に対するサイト上の“悪口”を読んだ時も、僕は今までとは違う傷つき方をします。
 それは、今までよりも、はるかに深く鈍い傷です。僕は自分自身、その感覚の深さに驚くのです。的確な批判を受けて、鋭く切り込まれた傷ではなく、なにか鈍器のようなものでごりごりと傷つけられた鈍さを感じるのです。
 いったい、この傷の深さはなんなのだろう。この傷の鈍い痛みはなんなのだろう。僕は、ずっと考えていました。
 もちろん、悪口は、「俺を見ろ!」と思って書く部分が多分にあります。
 僕だって、二十代の前半、第三舞台を旗揚げした前後、先輩達の悪口をさんざん言っていました。「あんな内容で、どうして観客が入るんだ」「あんな出来で、どうして評論家は褒めるんだ」
 そう言うことは、僕のエネルギーでもありました。
 酒の席で、そう語れば、相手は、二十代前半のどこの馬のホネとも分らない僕に向かって、「じゃあ、あんたはどうなのよ?」と残酷に突っ込んできました。
 その言葉を聞くたびに、「おうし、今に見ていろよお!」と僕はつぶやきました。昔から、酒癖は良かったので、乱れることはなかったのね。眠り酒という、一番、手のかからない(たんに酒に弱いだけということ)クセだったので、むにゃむにゃと眠りながら、つぶやいたのです。
 この記憶が、サイト上の悪口に対する傷を理解する手がかりになりました。
 あの当時、僕の口から出た悪口は、(原稿に書いた場合も)必ず、めぐりめぐって、僕に返ってきました。
 「じゃあ、あんたはどうなのよ?」
 という問いかけとなって、僕に戻ってきました。
 そして、僕は、それに答えるべく、自分の“表現”を磨かざるを得なくなりました。
 悪口だけを言って、決して、自分の表現として返さない人達は、やがて、誰にも相手にされなくなっていきました。
 表現を磨かない人の悪口は、悪口としても、つまらないものだと分かってきたからです。
 それでも、悪口を言い続ける人達は
内容を過激にして、注目を集めようとし続けました。そして、どんどんと孤立していきました。
 その人達は、結局、「俺を見ろ!」「私を見て!」と、言いたかったんだと僕は思いました。
 が、誰も、見ることはなかったのです。
が、サイト上の悪口は、どうなんだろうと考えれば、そこには、「読者」が存在するのだと気づきます。
 「観客」と言ってもいいでしょう。かつてのどんなミニコミでも採用しなかったような悪口が、堂々と、不特定多数の「読者」に開かれた形で存在している。
 実際、僕の芝居でも、「サイト上でボロクソに言われていましたが、全然、そんなことはなくておもしろかったです」というアンケートがここ数年、増えてきました。
 そして、この“悪口”は、「読者」が存在しながら、決して、「あんたはどうなのよ?」と問いかけることのない「読者」を持つ存在なのです。
 この奇妙な感覚。
 インターネットはインタラクティヴなメディアだと言われながら、ミニコミや酒の席より非インタラクティヴな書き放しの感覚。
 たまに、匿名の悪口に対して、匿名の人間がサイト上で、反論することがあります。反論もまた、匿名の悪口です。その悪口に対する匿名の反応の過剰なことに驚かされます。まるで、「読者」の反論は許さないような“熱意”を持って言葉は飛び交います。
 そのやりとりを読みながら、僕はまた、深く、鈍く、傷つくのです。
 僕は“悪口”を書いていますが、それは“表現”になる以前の“表出”のことです。
 これは、社会システム理論の用語らしいのですが、“表出”とは、そうすることで、本人がカタルシス(感情浄化)が起こるかどうかが基準になります。
 日記に思いのたけを書き続けてスーッとするのは、“表出”です。
 相手が理解したとか、相手に感動を与えたとかは、問題になりません。書くことで、自分が満足したかどうかが基準なのです。
 “表現”は、相手に理解させ、相手を感動させ、動かしたかどうかが基準になります。
 もう少し詳しく言えば、毎日、毎日、同じ歌ばかり歌ってうんざりしている歌手は、“表出”のレベルでは、成立していません。が、その歌を聞いて、聴衆が熱狂している場合は、“表出”のレベルではしっかりと成立しているのです。
 だから、“表出”が下で、“表現”が上だと単純に言うことはできません。
 あなたが子供の頃、親や教師が喜ぶ作文を書いた記憶はありませんか?その場合、“表出”ではありません。あなたは無理をして書いたのですから。なんのカタルシスも感じなかったはずです。その作文を書いて、スーッとしたとか嬉しくなったとか、経験しなかったでしょう。
 しかし、その文章を読んで、親や教師が喜んだとすれば、それは、立派な“表現”なのです。
 僕が胸潰れる悪口と書いたのは、“表出”のことです。サイト上の悪口でも、匿名ではなく、本名を名乗っている場合は、“表現”に近いものになる場合が多いです。本名を出した以上、しっかりとしたものを書こうと、“表現”を考えるからだと思います。
 で、話は、サイト上の“表出”としての悪口に戻るのですが、“表出”は、本来、「読者」を獲得できないものです。
 が、インターネットというメディアは、“表出”を、形だけ、“表現”のようにしてしまう力があるんだと僕は気づきました。
 そして、“表出”しただけの本人が、まるで自分は“表現”をしたのだと思えてしまう力もあるんだとも気づきました。
 すると、サイト上の悪口に感じる傷の深さと鈍さが見えてくるのです。
 それは、「俺を見ろ!」「そして、俺は見られている!」という歪んだ自己満足の感覚から始まるんじゃないかと思えます。
 本人は、“表出”を“表現”と感じている。だが、それは、インターネットという特殊なメディアが保証した仮の姿でしかない。
 しかし、本人は、とりあえずの満足をしている。
 でも、それは、本当の“表現”ではないと薄々感じているんじゃないか。それでも、インターネット上では、“表現”となることを喜んでいるんじゃないか。
 傷の鈍さは、その本人に対して僕が感じてしまうせつなさでした。
 余計なおせっかいなのに、僕が感じてしまうせつなさ。
 傷の深さは、「あなたは本当にそれでいいのか?」という僕自身の問いかけでした。
 サイト上で悪口を言われながら、相手に問いかけてしまうから、僕はより深く傷ついたのです。悪口を読みながら、「こんなことを書いているあなたは何をしているの?」と、反論ではなく、問いかけてしまうから、僕の最深部が傷つくのです。
 “表出”と“表現”に、上も下もないと書きましたが、しかし、人は、やがて、“表現”を求めるものだと僕は思います。
 それは、どんなにクールなふりをしてサイトを作っている人間だって、ヒット数が増えていくことは、確実に嬉しいと感じるだろうと思うからです。
 自分の自己満足のために、つまり“表出”のためにホームページを運営していると書いても、メールが来れば、間違いなく、その人は喜ぶだろうと思うからです。
 そして、かつては“表出”だけで議論し、問い返された人達は(僕もふくめて)、“表現”へ進もうと試行錯誤を続けました。
 が、“表出”が、そのまま“表現”として扱われてしまうインターネットというメディアで、人は、どうやって、“表現”への技術を磨くのだろうと思うのです。だって、「悪口=批判」は、誰にでも使える一番、手軽で安価な武器です。批判しながら創造して、初めてそれは、“表現”になるのです。
 と書きながら、僕は、僕が悪口を言っていた時代、“表出”を続けて、誰からも相手にされなくなり、孤立してしまった人達のことを思います。
 あの当時、インターネットさえあれば、毎日の生活のウップンをインターネット上に“表出”し続けることができたのにと思うのです。自分の劇団の観客が減り続け、とうとう解散した後、他の劇団の悪口を恍惚の表現で言い続けていたあの人も、インターネットさえあれば、激しく壊れることはなかったんじゃないかと。
 とすれば、インターネットとは、“表出”し続けながら、決して“表現”にたどり着けない人達を救済するメディアなのだろうか。
 そしてこれが、インターネットが自由なメディアだとか、メディアの革命だとかいう理由なのだろうか。
 もし、そうなら、僕は、このメディアがどこへ行くのか、はっきりと見届けたいと思っています。
 理想は、“表出”と“表現”が一致することです。それはなにも、文章を書くとか、映画や演劇をつくるということだけではありません。日常生活のなかで、「これをすると気持ちがいい」ということと、そして「それは、他人に感動を与える」ということが一致することを見つけることだと思うのです。
 素敵な服を着ることや、ベランダに花を咲かせることや、とびきり美味しい料理をつくることで、あなたが誰かを幸せにしたとしたら、それは、“表出”と“表現”が一致することです。そういうことは、いきがいでもあるだろうと私は思っています。
 さて、長い「あとがきにかえて」になりました。
 何を書こうかと思って、インターネットの話にしました。本当は、「世間」でも「記者クラブ」でも、なんでもよかったと思っています。
 ひとつひとつの題材には、語り尽くせない深さがあって、たまたま、インターネットを選んだだけとも言えます。
 ある有名な作家さんが、この公演を見にきて下さって、観劇後、僕に一言、「これは、恋愛の話ですね」と言って下さいました。
 本当は、こういう感想が一番、嬉しい。
 そして同時に、「しまった」と思ったのかは詳しくは書きません。
 ただ、ある恋愛が、この作品の“表出”を支えていることだけは事実です。
 “表出”が同時に“表現”になったかどうかは、読者のあなたが判断することです。
 そして、この“表現”が、あなたの“表出”を刺激し、なにかの“表現”になったとしたら、僕はそれが一番、嬉しいのです。
 それは、美味しい紅茶をあなたがいれて、誰かを幸せにしたなんてことかもしれません。不可能な恋愛をあきらめて、笑い話にしながら、苦しい恋をしている誰かを勇気づけてあげたなんてことかもしれません。
 あなたの“表出”と“表現”が一致することを願って。
 んじゃ。>