一流になるための真のヴォイストレーニング(アーカイブ版)

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

「複数のトレーナーにつくこと」1741

「複数のトレーナーにつくこと」1741

 

 

○研究所設立の理由

 

 医者には、セカンドオピニオンがつくことがあります。一人のドクターが考える治療の方針がよいのかを患者にアドバイスします。医療分業で、病院と薬局を分けたのも、医者が売り上げ利益優先で薬を選ぶことのないようにするためです。(国が補助金を出すのが大変だからできたのでしょうが)

 

 分業をしたり、違う角度からのアドバイスをとり入れる。このことで、トレーニングにおいても最良の選択や処置をしようというのが、私の考えた、この研究所の体制です。

 

 どんなすぐれたトレーナーでも、間違いを犯すことはあります。声のトレーニングは、間違いということさえ生じず、わかりにくいものです。(機会損失という考えもあります。同じ期間、費用を投じたら、もっと成果がでるべきだということから、実際に出た成果をさしひきます。)

 

 もっとも声は長期でみなくてはいけないので、その判断は、とても難しいものです。3年ほどたって平均的な伸びに至らないなら、方向性、方針、やり方、さらに必要に応じて担当を変えてみるのも、検討すべきことでしょう(もちろん、成果が著しく出ないことが、必ずしも誤りということではありません)。

 そのためにトレーナーは、あえて同じタイプ、同じ出身、同じ考え方にしない方がよいと思っています。あらゆる分野から異なる考えややり方、育ち方できているすぐれた人を集めた方がよい。

 

 ということで、最初、はえぬき(一門育ち)中心でやっていたのを、オープン(プロ実績による外部採用)としてきました。外の眼は、世の中という、ここの外でやっていく人に欠かせません。

 

 トレーナーを選んだり変えたりできること、また複数のトレーナーに相談をできることで、一人のトレーナーだけつくときの相性や主観的方法で左右される誤りも防げます。

 多くのトレーナーは、ただ一人、自分のノウハウしかもたず、他人に与えたことへの実証は、まったくしていないのです。

 誰にも同じようにやる方法やトレーナーはいても、誰にもすぐれた方法を選んで、くみかえられるトレーナーは、あまりにも、いないのです。相手もトレーナー自身もすぐれていてオリジナリティがあるほど、このことは難しくなります。

 

 

 

○レッスンの時間と回数について

 

 研究所での個人レッスンの平均は、30分ですが、実際、プロダクションなどの現場に伺うと一人1、2分しかアドバイスできないのですから、個別にみる30分というのは、短くありません。

 たとえ15分間でも、1コーラス1分で12回(12曲分)、10秒のフレーズなら1分5回、何も話さなければ75回できます。

 1回60分レッスンをやっている人でも、20分発声、歌1曲3分を5、6回、それに休みや相談などで、実質20分あればよい方です。

 

 私はオンしていく(次元をかえていく)レッスンとしては、最高の状態の15分を選びます。

あとの質疑などは、レポートでやりとりすればよいのです。

 もちろん初心者は、自分のよい状態をもってこられないから初心者です。そこで身体のことをやるには、正味で30分は欲しいと思っています。

 

 かつて月に30日、しかも1回2~3時間(2、3コマ)受けられる体制にしていたことがあります。ほぼ全日制でやっていたのです。つまり、1年365日、400時間、3年で1000~2000時間、月に15時間ほど、これは私自身が若いときにすごした環境でした。そこまでやらなければ、月に12回などといっても同じように思うのです。

 

 レッスンは、そこでトレーニングをやるところではありません。トレーニングやステージでやったこととやることの確認をしにくるのです。ですから、レッスン料金はレッスン回数で割るのでなく、自分のやった全トレーニング時間で割ることです。

 声は日常にも使っていますから、1ヵ月分の30日で割ってください。つまり、それだけレッスンを活かし切ってもらえば、月に4~10回で少ないなどということはないはずです。

 メールで質問も受け付けています。できたら自分の勉強のレポートをおよせください。もっと、研究所やトレーナーを使い切ってください。

 

 

 

 

今月のひとことアドバイス

 

 

・声に力でなく、人に力なのだ。

・声の力を抜くために、声のとり方を知る。

・声がとれたら、それをキープし、動かす。

・声が出ないところで、声にしないこと。

・声がとれたら、とらなくとも、声は動く。

 

・動くように動いた声のみが、しぜんに伝わる。

・声に力を入れすぎると、のどによくない。

・声は自由自在、自遊なものと心得よ。

・声はしなやかなもの、ムチのようなもの。

・声に技術を出すな、技術で出すな。

・声を求めず、精神を求めよ。

 

・力んでは失敗する。声に力むな。

・うまくてきれいなものなど、すぐ飽きられる。

・難のないものも、すぐ飽きられる。

 

・表面的なものを追求しているのは、まるみえになる。

・表面的なものを深いものと勘違いするな。

 

・なぜ通じない、伝わらないのかは、表しかみないからである。

・人は、支えているもの、バックグランドに魅かれる。

 

              

 

 

 

 

 

 

  レッスン録2   19,051字  1733

  レッスン録2     1733

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【「夢で会いましょう」40510】

【「夢で会いましょう」2 40510】

【「クリスコナー」40813】

 

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【「夢で会いましょう」40510】

 

○材料選択のミス

 

 「夜明けの歌」 「小指の思い出」 「リリーマルレーン」 「ヨイトマケ」 「夢で会いましょう」 

 

 また15日の反省会のときにいいますけれども、今回足らなかった部分をレッスンで補っていこうと思います。同じやり方がよいかどうかは、たくさんのレッスンがありすぎて、混乱してしまっている部分があるので、少し落ち着かせて、特別レッスンの形でやっていこうと思っています。  

 

最初の半年というのは、音楽とか歌は聞くだけ、それでことば、声、むしろ体の方中心です。合宿でいうと、体操みたいなことで、自分の体の状態をきちんともっていくということの方が大切なのだろうと思います。必修のプログラムとそれを補強するものをわけて、何本か立てようかと思っています。

 

 今回合宿で欠けていたのは、班長も含め、要は30個くらいやったうちの一つか二つしか通用しないにも関わらず、その一つはとったけれども、二つ目、三つ目は落としてしまい、あとはどうでもよいようなことをどう組み立てるかということに終始してしまったということ、結局、客観視する力の不足です。これは難しいことです。トレーナーには、はっきり見えていたのですが、班のなかに入ってしまって組み立てようとしたときに、二つの立場に立たされるのです。 

 

 ステージとして上演すべきものなのか、それとも練習としての成果を出すべきなのかということです。私は外から客の立場で見て、文句をいっていればよいのですが、班長の立場になると難しいことかもしれません。  

だからといって、その二番目、三番目にあったはずの材料が、目立たなかったけれどよいものが消えていったということ、なぜそれが班のなかでなくなってしまったのかということです。  

今、映像でみていても、そこの部分で、どういう打ち合わせがあったのか、当人がとりさげたのか、もう一度反省しなければいけないだろうということです。  

 

 

○構成での位置づけ

 

 それから構成の問題です。今回は脚本を最初に書かせて、それをユニットでつないでいくという形をやらせました。3つの曲をテーマとして使って、3つの脚本を作って、3つのユニット、そしてそれをつなぐためのソロフレーズ、それで25分です。  

 

足らないと感じたのは、セレクトの段階で、最初、みんなが選んだものは、サビの部分が多いのです。要は、自分の味が出せるところとか、強さになるところとか、他の人ができないところを選ぶのではなくて、うまい人が代わってやったら、力の差を見せつけられてしまうところを低次な次元で選んだ、そこが歌いたい、大きくやりたい、長くやりたいということに支配されているのです。 

 

 一つの曲を、本当はAメロ、Bメロが大切であって成り立つはずなのに、フレーズを回すため、2オクターブの曲で強いところ、一番ギャップがわかるところをやらせます。だからといって、他のところの意味がないわけではないのです。  

今日は、日本語の曲を使って、その構成を立てて、その構成のなかの位置付けでやってみようと思います。要は、どこかを強くしたら、どこかは弱くなってくる、この弱さに対して次にはどのくらいの強さで入ってくるかという、構成、展開のことです。 

 

 いつもピークをどこにもってくるかということをいっています。日本人の歌というのは、音楽的な楽器の動きに対して、ことばとかメロディで作られすぎている部分があるのです。ただ逆にいうと、そこで技術が出せるし、そこでうまく歌えている人はきちんと評価されるという、わかりやすい部分でもあります。

 

 ていねいに歌えるとか、いかに繊細な感覚を出せるかということでも、ロックとかポップスの場合はそれだけではないから、10代でもデビューできてしまったり、12、13歳くらいでも歌えてしまう。というのは、ある種そういうものを越えた音楽の進行するダイナミズムや、若さの、声だけでも訴えかけてくるものがあるということです。 

 

 必ずしもこういうレッスンがよいわけではありませんが、こういう内容がないことには、すぐに作品を組み立てろといったときに、サビのところだけを頭から最後までやって、分担しているということになりかねません。外目でみているとよくわかるのです。一本、構成、展開をみていくようなレッスンをしていこうと思います。  

 

 

○全体の方向性 

 

 「Time to say goodbye」、一つひとつを全部みていきました。1フレーズの構成を3つくらいにわけて、どう捉えてどう動かすかということをやりました。  

今回は全体のなかでやっていこうと思います。とりあえず音をとりながら、全体をみていきます。難しいことばがあります。このとおりにはやらなくてもよいです。  

ただ、この人のもっている部分を7割くらいはとってください。よく、自分で9割全部もっていく人がいるのですが、それではレッスンではないのです。それなら、自分の歌を自分の歌いたいように歌っていればよい。やはり3割から7割は何かをとっていくことです。

 

「うれしげに悲しげに楽しげに寂しげに」 

 こういうものをレッスンでやるときに、番号などをつけてしまうと、それで早く意味はわかるのですが、そのためにこれは4つにわけるんだという意識が働いてしまいます。本当は一つのものが4つのことばやメロディを導いているということがおろそかになってしまいます。だからといって、今はまだ意識しないでやれません。全部が平行に棒歌いにならないようにしてください。

 

「夢で夢で君も僕も夢で会いましょう」

 あまり強弱にとらわれずに、歌の方向性をきちんともつことです。計算するよりも、この辺をしっかりと抑えておくことです。この間合いとか、この高さみたいなものを、少なくともある種の動きが回っているようなところに乗せていかないと、作曲者の意図がなくなってしまいます。 

 

 「夜があなたを抱きしめ 夜があなたにささやく うれしげに」  

歌にピークがあるということは、逆にためておく部分があるわけです。そのためておくところできちんと我慢というか、きちんとそこでもたせられないとバタバタといってしまいます。日本の歌はそういうものが多いのです。

 

 

○動かし方

 

 どんどんたたみかけていって、崩れてしまう歌が多いのです。そこでサビと同じだけのスタンスをもたなくてはいけません。高い声や大きな声を出さなくても、それと同じだけか、より集中度が必要になってきます。それだけためていくことが、ある種、次の音色なり、新鮮さになってくるのです。

 

 この歌でも同じです。大きくは4つにわければよいと思うのですが、4つにわけて、それぞれ最初の「夢で」に対して、次の「夢で」は変えています。その二つに対して「夜」のところから変えています。その「夜」のところから、いきなり「うれしげに」ではまた変えています。変えているということは、その人の感覚が変わっているということです。 

 

 全部を我慢して歌う必要はないし、だからといって全部をはじけさせて歌うこともありません。はじけたという効果がありません。そういう意味でのメリハリづけというのは、体でつけるのではなくて、気持ちの部分です。もう少し聞き込んでみてください。   

 

他にもいろんな動かし方はあると思うのです。AからBにかけてこう変えたとか、Bからサビにかけてこう変えたというようなところでの、その変化のルールを最後まで守るということです。歌がへただというのは、自分で作ったルールをどんどん自分の思い込みで変えていくのです。だから結局、心地よくなくなってきます。 

 

 こういうものでも、もっと声が出せるのになぜ出さないのか、もっといろんなメリハリがつけられるのになぜつけないのかというのは、一番始めに自分がこの構成をたてたときのルールというのがあって、それは当然頭で考えるのではなく、歌いこんでいる中で出てくるものだからです。  

 

最初でこう出しサビにこう出した以上、最後はこう収めるしかないという、決まってくるわけです。  

それを全部やぶっていくと、一人よがりになってしまうのです。それはその部分しかみていないのです。そのルールは人がつくるわけではないのです。 

 

 この歌い方も私は好きではありませんが、これはこれで納得しなくてはいけないものがあります。自分のルールに対してあくまで誠実に歌っています。そこはおかしくない、技術的にはとても高いところもあります。  

それは技術をみているというより、そこの感覚でいうと、そんな出し方もあるのかとか、これだけ強くしておいてここまで弱くするのかと思わせます。そういうことはとても歌の流れをはずしがちになってしまうのですが、この人はこの形を一つのルールなり、自分のやり方としてやっています。それを必ず後半でも2番でも同じように使っています。それはそれで認められていくわけです。  

 

ところが皆さんの歌を聞いていると、たまにそういうことをやるのですが、それは次のところに全然関連しないし、あるいは2番の同じ箇所でも、そのことを忘れてしまったように新しいものをつくるのです。それでは1番、2番ではなく、違う歌なのです☆。  

 

 

○吟味する力 

 

 昨日やったことは、1フレーズのなかのメリハリです。これは全体の構成のメリハリです。それを考えないと、なぜそれを強くつけたのかということが生きません。こういうことをきちんとやっていくと、聞きやすくなるのです。  

この場合は二人ですから、二人のルールがあって、そのルールをはずしていません。どうしてそうやるのかなと思う前に、そのルールがあるから、そうなってしまうのです。それは頭で考えるのではなく、体が教えてくれることです。  

 

一番目に女性が歌い、二番目に男性が歌い、そして三番目にどうしてまた男性が歌うのかということは、そのあとのことを聞いたときに、どちらがよいのかというと、選ばれているのです。  

やはりプロはプロですから、私たちの及びもつかない判断のところで、結果としてよかれということでやっているわけです。そこのところをみていくことです。 

 

 これを一人ひとりが別に歌うと、また違う歌い方になります。とても巧みにうえのところにもっていっています。そこのところでことばにつなぐがために、こういうふうな置き方をしてやるから、次の「みつめあう」でこういう感じに止められるわけです。  

完全にためて、歌を歌っているのではなく止めています。歌を歌ってはいけないというのは、こういうところをきちんと出さないと、お客の心には受け止められないということです。  

 

声がある人たちが思いっきり歌っているようでも、そうでないことをやっているところで、伝わるのです。お互いに相手の土俵をきちんと作ってやっているから、もう間違えるとかどうとかではなく、成り立ってしまっているわけです。  

 

 あなた方もそういう力はあるのですが、その使い方とか、出し方とか、その空間で煮詰めていない。声を出すところとか、歌うことだけに判断がいって、どこを歌いたいかとか、それは全部個人の事情であって、このキャンパスのところにどう絵を描くかという絵が見えていない。  

議論はしているのですが、どういう意図でいくとか、どうやろうとか、内容を吟味しているようでいても、全部形が先行しているのです。それは今回一番大きな反省です。

 

 

○土俵

 

 とにかくこの空間のキャンパスに絵を描くのですから、その絵を誰かが見なくてはいけないわけで、そこの絵に外れる、外れないということを調整していかないといけません。  

この曲も与えていたものですが、ここまでのことをやれている人の土俵に乗れない。こんなに入れられないとか、こんなにヴォリュームが出せないとか、こんな高いところまで出せないとか、そういうところは選ばなければよいのです。ところが逆のことをしていたのです。彼らより難しいところを選んでは、声を出すだけで終わっています。すると課題になっていないということになってしまいます。 

 

 昔の日本人はとてもていねいに歌っていました。ていねいだけではダメなのです。そこのなかで客を飽きさせない、あるいは客が見えないところを加えてやることです。客がたどっていって、こう歌うのだなとわかってしまったらつまらないのです。そういう部分ではいろんなこともして構わないのですが、それは本人が発見し、アイデアをきちんと練っていなくてはいけません。それを頭でやってもしかたがないわけです。  

 

それぞれのフレーズをきちんとつくりながら、最終的に歌として一つに捉えなくてはいけないのです。その一つに捉えられることがいつもできないのです。  

ましてや25分のステージを全員でやろうとするときに、それが一つになるということはなかなか難しいのです。でもそれぞれの人のなかでそれがつかめていたら、相談する必要などないのです。  

 

 今回の失敗も全て話し合いのしすぎです。出していることを決めていくにも関わらず、出していないことをみんな求めてしまい、すでにあるものしか出てこない、またあるものはもっと使えるはずなのです。 

それは今日のレッスンでも同じ。もっと使えるはずです。それをパッと読み込み、特に今はよいものからとれるようにしましょう。  

 

彼らがわずか少しでも強めていたら、それをすごく強めて感じていく、少し遅らせていたら、ものすごく遅く感じてみるのです。そこで練習しておいて、実際のステージになったときには全体の流れの方が優先しますから、そんなところに拘ってはいられないから、そういうふうに体が自然に動いていくことです。それでよいのです。  

 

 

○ダイナミズムと舞台 

 

 基本というのは、スポーツと同じで、ゆっくりと「1、2、3」と覚えるのですが、実際の試合になると、そんなゆっくりとは絶対にやらずに、もっと瞬時に働きます。でもその「1、2、3」を確認してやっておかないと、瞬時に動いたときに必ず乱れてしまいます。うまくいかなくなってしまうのです。  

欠けているのはダイナミズムのようなものです。それが音楽の命だと思います。 私はメロディとかことばよりも、リズムの方をとりたいと思っています。価値観の問題にもなってきます。その人の作品になるということより、全体の作品になるというようなことです。

 

 確かにソロヴォーカルは一人なのですが、一人というのは一番学びにくいのです。自分が好きなように歌ってしまったらそれでよいし、認める人も中にはいるでしょう。でも勉強するということを考えたら、その感覚を全体に、お客さんにまで共有する。そのまえに、自分のメンバーには共有できるくらいの身体感覚で進めていけなくてはなりません。  

 

舞台の勉強としては、それが一番やりやすいことだと思います。これはスポーツでも、演劇でも同じです。厳しくするのは、どうして後ろから人が出てくるのに前は開けないんだとか、そういう全体の感覚が結びついていないこと、すると一曲の歌ももたないということです。そういうことは、徐々にわかる、というより、きっとそのなかに入っていたら、そういうふうに動いていくもののはずです。 

 

 同じところを慣れている人が5回くらいで聞けることを、50回聞いてみる。また違うときに聞いてみるなりして、気づくこと、ずっと聞いていても気づかないときは気づかないのです。  

だから、パッと聞こえ方が変わるということは、一瞬不安なことなのですが、チャンスです。  

 

私でも前はこういうふうに聞こえていたのにとか、わからなくなったのかなとか思うこともあるのです。でもそれはまた新しい気づきにもなります。ただあまり聞いていないと、甘くなってしまうこともあります。ですから常に最高峰のものをいくつか基準にもっておくと、理解しやすくなると思います☆。 

 

 

 

 

 

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【「夢で会いましょう」2 40510】   

 

 

○切り替える 

 

 本当はここを飛び越えてほしいのですが、とりあえずこの空間に描くわけです。時間を使って描くのです。合宿も同じで、3日間という時間のなかでまとめたものを、そこの前のおよそ30、40人の前でやるわけです。それが定まらないと、どれがよくてどれが悪いかということがわからなくなってきます。 

 

 それぞれの目的があると思いますから、研究所のものは土台にしておいて、最終目的に対して設定していかなくてはいけません。それが一つと、もう一つは構成です。誰も歌を聞いているわけでも、声を聞いているわけでもなく、そうじゃないところにある感覚とか、ためとか、イマジネーションとか、その人の感性のみたいなものを最終的には聞いているわけです。だからそれを読み取らなくてはいけません。 

 

日々のレッスンと合宿とはまったく同じことなのです。ただ、合宿の場合は24時間外を遮断しますから、もう少し中に入り込めるというだけの違いです。それは、本当はレッスンのなかでも切り替えていかなくてはいけないし、一曲一曲で変えていかなくてはいけません。一曲のなかでも変えていかなくてはいけないのです。切り替えるということがどういうことかということをやっていかないと、難しいような気がします。 

 

 音のなかの世界をきちんと読み込むということは、単純に思われているかもしれませんが、本当に10年がかり、20年がかりのことです。それを読み込んでいる人がたくさんいる箇所においては、やはり読み込んだ人でないと勝負できないのです。それは声が出るとか、歌がうまいということではないのです。別に外国にいって勝負しなさいということではないですが、最終的な共通な基盤というのはあって、それがないと作品が作品として成り立たないわけです。そのルールを得て、つくるということです。  

 

 

○教えられたものの限界 

 

 日本の教育とか学校のよくないところは、ここでも気をつけないといけないのは、人から教えられたものというのは、所詮それに気づくきっかけとしてしか使えないものです☆。自分で創造の活動を常にやっていかないといけないということです。皆さんが歌いたい歌とか、歌いたいやり方というのは、他人のものの場合が多いのです。ステージ実習をみていても、大体同じです。

 

 プロがここにきて「私の方がうまくできる」といわれるようなことをやっていても、土台勝負にはならないわけです☆。向こうが年上とか、ベテランとかいうのとは、まったく関係ない世界です。そうじゃないものをきちんと出さないことには、誰かに紹介したりするのも困るのです。

 

 私が一番困るのは、録音を聞いてくださいともってくるのです。聞くのはいいのですが、だからどうなんだということです。その人の何が出ているのかということです。他人の曲をその他人みたいに歌っているものを、私にどうしろというのかということです。  

 

どこを直したらよいかいってほしいといわれます。もともと他人のものを他人のようにやっているものに、何の改良もアドバイスもできないのです。考え方を変えることです。カラオケチャンピオンになるのだったら別ですが。 

 

 その辺のことを考えてみたら、ここのやり方というのも捨てたものではない。みんなが絶対に歌わないような歌を、みんなが絶対に歌わないようなところでやっているのですから。そこで自分が何を出せるかということです。  

結局、デッサンの練習をやらなくてはいけないのです。塗り絵をやっていてもしかたがないということです。  

 

スクールでやっているのは全て塗り絵で、誰が一番きれいに、はみださないように塗れますかということです。塗り絵が一番うまい人は何かできるかというと、塗り絵ができるだけです。それでいくと、どんどん間違っていくのです。  

 

 

○歌わされないこと 

 

 今、同じ曲だけを全部はじき出して一枚にしています。前に「枯葉」を使ってみました。「枯葉」のCDだけでも100曲くらいあるのです。楽器のものも含めると、もっとあるわけです。同じ歌がたくさんあれば、それを比べてみるということが一番早い勉強の仕方です。皆さんでもできないわけではないでしょう。そのために研究所はたくさんのCDを購入しています。  

 

多くの人は、どうしても視覚でみてしまうのです。それも大切なことではあるのですが、それを真っ暗にしてみて、音の世界だけでも成り立っている部分を程度知って、それを反映させていこうということから入っていこうと思います。すると、日本人でも捨てたものではない。ただどの辺にそれを置いておくかということです。

 

 「Time to say goodbye」を細かく1フレーズを寸断して、全体の構成ということをやります。構成から展開のところです。  

梓みちよさんという人は、ある程度日本人の感覚を外して歌っています。加藤登紀子さんなどは、語尾を浮かす。日本人的な処理の仕方なのですが、対照的です。  

 

原曲はアダモの「インシャラー」。女性の歌手のを3、4曲流してみます。日本の歌の場合は、コピーが多いし、塗り絵みたいなものが多いのですが、日本の歌そのもののレベルの低さは、こんなふうには歌いたくはないというのが原点になるので、反面教師です。少なくとも日本のトップレベルと外国のレベルが、どのくらい違うのかということを、体ではわからなくても、イメージとしてもっていたわけです。 

 

 

○日本人から学ぶ

 

 研究所でこういうものを使って教えなくてはいけないことは皮肉なことですが、ここ5年くらい、使い始めました。本当は使いたくはないのですが、同じ日本人、同じ日本語、それほど体の差もないなら、きちんと基本のことをやっていたら、できないはずがないからです。ジャズのものでも、もう瞬間的に違うわけです。音楽に対する考え方が違うというよりも、日本のようにうえから与えられて、それにそろえるようなことは考えない。だからやっていけるし、楽しいわけです。  

 

そういう部分のものをきちんともっていかないと、力がつけばわからなくなってしまいます。つかないうちはまだよいのでしょうが、こういうものはついたところで、どうやっていくかということをきちんとみていかなくてはいけないのです。二世代くらい前の宝塚のものであれば、まだ音色は出していました。歌い手がこれが私だけのデッサンだということを当然出していたわけです。 

 

 今はそういうことを勉強していないで、声のよさとか、ことばのよさでもっていってしまう、そこしか見えていないということです。ということは、本当の意味では聞いていないわけです。そうすると、その判断基準に関しても難しくなります。これもそんなによいわけではありませんが、構成をおってみるということで使います。  

 

 

○盲目的にプラス

 

 大切なことは、こういうものをレッスンで勉強しようとする、どこがサビでというようなことは、あくまで説明するときのいい方で、本当のことでいうと、こういう歌い手よりも歌えないのであれば、8割は盲目的に吸収した方がよいのです☆。

 

 全部まねる必要はないし、まねてはいけません。できることであれば、自分の出せるところはきちんと出しましょう。自分の歌は何なのかと、自分のデッサンは、自分の線は何なのかということです。画家でもデッサン一つでわかるのです。ただそのデッサンを知るためには、いろんな色や線があるということも知らなくてはいけません。その色や形がどう使われているかということも知らなくてはいけないし、重ねたらどうなるのかということもやっていかなくてはいけません。  

 

でもまずは、しっかりとしたプロセスはわからないとしても、こういうものは成り立っている、成り立っていない、これは一流品だとか、これはダメだということが直感的にわかること、そうでなくては、いくらデッサンの練習をしていてもダメです。

 

 あたりまえのことながら、どこかは強くなって、どこかは弱くなっていますから、それをまねるのではなくて、そのなかで彼女が出しているベースがある。  

歌がへたな人というのは、そのルールを無視してしまうのです。それは音楽のルールとか、音痴だとか、リズムをはずすということではない。自分のなかでこう打ち出したいというものがないから、高くなったら高く歌い、低くなったら低く歌うというように、歌わされているだけになってしまうのです☆。 

 

 わからない歌でも必ず全体のなかの展開、構成という部分は聞きます。  

1番目の出だしはこう出たなら、2番目の頭もそう出るはずだというのが瞬間的に入る。あるいはAメロからBメロにこういったと、そうしたら、Cメロはきっとこういうふうになるはずだというようなことが伏線としてひかれる。それが外れるのは構わないのですが、当然のこととして、よい作品として心地よくこちらが聞きたいと期待する線にそっていくのです。それに対して沿っていくような感覚はなくてはいけない。もう一つはそったままではつまらないから、それをより新鮮に変えていくことです。そこの部分をこういうものからでも勉強してほしいのです。

 

 

○こらえる 

 

 外国人のものが、そんなにうまくなくても成り立っていて、それなりにうまく聞こえるというのは、やはり一つのダイナミズムのなかで動いているからです。それが若干外れたり、よってみたところで、音楽自体が崩れないのです。  

そのために、とても強い部分があります。自分の声のなかにドラムとベースをもっているようなものです☆。  

 

日本人のものは大体そこが欠けています。うえの方でやってみて、響き方が悪かったらよくないなとか、そんなところでチェックされてしまいます。そういうのは損なのです。  

ましてトレーニングをやっていく人は、そんなに器用なわけではありませんから、きちんとしたところの部分でやっていった方がよいと思います。 

 

 「夢で会いましょう」のところの、こういうのほほんとした歌い方の方がよほど難しいということです。感情がきちんと込められて、ことばがていねいで、声もある程度よくなければいけないのです。  

「夜があなたを抱きしめ、夜があなたにささやく」、この歌で一番難しいところはこの部分です。ここをきちんとこらえるということ、ためるということ、我慢するということです。  

 

みんなサビを歌いたがるのです。サビなんていうのは、よりうまい人がきたらどうしようもないわけです。サビにいくためには、その前にためておかなくてはいけなくて、それができないのにサビが歌えるはずがないのです。 

 

 「夜があなたを抱きしめ」ではかなり苦しいのです。そして次のフレーズでは何かをやらないと客の心が外れてしまうということを、本当は歌い手が感じていなくてはいけません。  

自分でも退屈してこなければいけません。  

昔の歌というのは、歌詞と音の進行と気持ちとが一致するように作られています。今は逆にリズム中心にやっていて、そのリズムが日本人のリズムではないから、ぐちゃぐちゃになってしまうのです。 

 

 どうしてもそのリズムだけを打っていくというようなことで、ことばがまとめられてしまいますから、変なことばのつけ方になるのです。しかも日本人は、そのことばを日常でラップのようには使っていないわけです。ところが外国人はラップのように実際にことばを使っているのです。どうしてもそこが地に落ちてこないのです。それだったら、こういうもので勉強していた方が、自然とヴォイストレーニングができるということになります。 

 

 「うれしげに 悲しげに 楽しげに 寂しげに」 

 

 

 

 

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【「クリスコナー」40813】   

 

 

 

○複数のものをたくさん入れる

 

 少なくとも、ナポリターナの歌い手が歌ったものとは違って聞こえたと思います。それをどの次元で捉えていくかということが、一つの勉強の仕方です。なぜここではいろんな対比をしていくかというと、日本人と欧米人、あるいは外国人のなかでのいろんな曲、それからスタンダードをとるときに、ベースが入りやすいからです。  

 

今のJ-POPの曲では、一人のアーティストしか歌っていないわけです。その人のライブのものを全部集めてみるといっても、全部を同じ歌い方で歌っているからです。すると結局、自分のところにおとしていけません。自分の身に落ちてこないわけです。 

 

 複数のものをたくさん入れていくことが一番勉強になるわけです。たとえば、使い方はプロのレベルはあるけれども、声が全然ない人や、逆に声は充分あるけれども、使い方がない人がいて、それぞれ必要なことも違ってきます。集団の場で勉強するときには、手本の材料、トレーナーが持つ声という材料、あるいは仲間の材料を、空間軸でとることができます。それをたくさん集めればよいわけです。また時間軸でもとれます。それがどういうふうに変わっていくかということがわかると思います

 皆さんのなかではいろんな変化が起きてくるはずです。ある種偏ってきたり、また元に戻っていったり、いろんなことが起きてくると思います。  

 

2回聞くということはとても大切なことです。1回目できちんと入れるということ、そして2回目でそれを確認するということが、作業のなかでやられなくてはいけません。ここは語学の学校ではないので、これがどういう意味かということは試験には出ないし、また必要もないことです。でももし英語というのを知っていたら、今聞いた中でああこういう歌だということがわかります。そして次のときには、ここはこう歌おうということもわかるわけです。  

ここは音の世界を優先していて、あくまで歌詞というのは一つの要素にしか過ぎないのですが、でも、そういうことが音やメロディでできているのかということが、第一の問題です。  

 

 

○どこまで入っているか感知する 

 

 感覚とか、体をプロにしていくために、ここのレッスンの場では、絶えずそのやり方を知ったり、あるいは集中し、そこで深めていくということをやります。その深さを日常のなかでどのくらいキープできるかということです。自分が歌っているときに、リズムをとって、体を動かして歌うとしたら、普段音楽を聞いているときにも動いてくるはずです。その差がわかることをやりたいと思います。

 

 自分がどこまでできるかということの前提として、自分にどこまで入っているかということを知ることです。知識の世界ではなく、音楽の世界が入っていないといけません。曲のなかで、どういう音の動きがあったか、何本ぐらいの音の線が走っていたか、ことばでいってしまうと分析になるのですが、それをどのくらい体のなかで感じているかということです。頭で読み込みにいかなくてはいけないのですが、頭では身につかないのです。それを体の一つひとつの細胞のところで、どのくらい自分の身に接点をつけているかです。

 

 レッスンの場合は、こういう音楽を聞き、その状態を感知します。同じ人間ですから、ちょっとはそれに近い状態になるわけです☆。その状態でできなければ、自分との差をきちんと把握することです。 

 

 その差が見えてくると、よくなる。つまり、レッスンは単純なものなのです。  

いろんなテキストに書いていますが、歌が上達しない一番の原因というのは、うまいということがどういうことかがわからないことです。あいつはうまいなと思っていても、それがどういうことかということがわからない。声がきれいとか、高いところが出せるとしかいいようがない。それでは伸びない。それは絵の世界でいうと、色がきれいとか、描いているものがよいというような、関係がないことです。そこから何を見ていくかということが大切です。  

 

 

○必要性と素直さ

 

 息のトレーニングなどをしていても、わからないといって、みんな半年とか1年でやめてしまう。わかってやっている人などいない。そのうち、自分から深い声がパッと出たり、前と違う声がとれるようになってきて、結果的に効果が出てきたとなる。  

今日これをやったら、明日必ず効果が出ますということであれば、ここでもそう教えます。そうなるはずがないということはわかっているのです。現実に時間をかけてそうなっていった人がいるのです。クラシックの歌い手でも同じです。  

 

生まれたときからあんな声で歌っているわけではありません。普通に生きていたら、ああいう声にはならなかったのに、そういう声になったということは、どこかで何か人がわからないことを体で引き受けたということです。トレーニングしていたのです☆。  

 

 いつも考えて欲しいのは、研究所やレッスンのノウハウとかでやっていくのではないということ、そこで音を聞いたときに、一瞬でもそういう感覚が入ってきたら、それを24時間維持できることが、それが自分に入っているということになるのです。息でも同じで、日本で普通に生活していたら、深い息などは必要ありません。  

そのことに対応できるようになったり、あるいはそのことが日常的になってくれば、そこは切り替わっていくのです。  

 

ここでも必要性があれば身につくといっています。つまり、必要性がなければ身につきません。  

そのためには時間がかかるのです。あとはそのための気づきが必要です。素直に捉え、素直に出していくことが大切なのです。そのときに素直に捉えられなかったり、出すときに素直に出せない場合が多いのです。それは頭がやってしまうのです。  

 

 

○感覚を委ねる 

 

 声は声を動かそうと思って、動くものではないから、私が声を動かそうとしているときは、声に意識はまったくありません。伝えるという意志と体を使っているだけです。それは面倒くさいことで、体を使ってやらないと、のどにきてしまうということを体が知っているから、体が避けようとして体が使われるのです。 

 

 スポーツでも同じで、片手間でやっても打てるが、結果が体と勝負によくないとわかる。それでは自分の実感がきちんと持てないから、いつも偶然に頼ることになります。その確率を高くして、確実に自分がコントロールしようと思ったら、全体で支配している感覚が必要になります。  

 

こういうレッスンにおいては、場や空間を支配しなければいけないのです。それは歌い手でも同じで、声も同じです。どこかで握っていなくてはいけないし、その上で動かさなくてはいけません。そうやって握ろうとか、動かそうと考えるのは、トレーニングのなかでしかできません☆。実際の歌のなかではそんなことを考えることはできません。だから、結果オーライの世界、そのためのトレーニングなのです。  

 

 一番よいレッスンというのは、よいものを聞いてみて、日常の自分ではなく、その世界の体や感覚になっていて、それで何も考えずに出してみたら、自然にそうなっていたというものです。子供が歌ってみて、たまにすごくうまいと感じるのは、そういう瞬間でしょう。  

 

でもそれを確実に取り出せるために、トレーニングをするのです。どんなに調子が悪いときや、そういう状態になれないときにも、無理にでも自分で切り替えて、最低限の状態を作ってやれることが大切だからです。

 

一番大事なことは、たくさんよいものを聞き、わからなくてもよいから体に入れて、その入れたものの感覚が頭よりも優先することです。皆さんは大体頭でやるのですが、体も考えているのです☆。こういう芸事の世界では体の方が正しいのです。伸びない人は、そちらに委ねるということが、難しいのです。  

日本の場合、皆さんのモノローグなどを見ていても、ほとんど全部死んでいます。気持ちが死んで、頭と口だけが働いているのです。それでは人の心には伝わりません。 

 

 

○動きを入れる

 

 確かに役者の養成所やスクールでは、やり方やノウハウも教えます。しかし、それはあくまで自分で身につけていかなくてはいけないということです。私がしゃべっているとき、いつも体は声に自然に動いていますが、体が動かない人にとっては、こういう動かす練習が必要です。それを自分でやっていけば、動きやすくなるのです。

 

 そういうことは、歌とか芸事とは関係ないように思われていますが、伝えるということでは同じなのです。歌でも、全体を使って歌う人間と、部分的にしか使わない人間が勝負したら、もし同じ能力であれば、結果は違ってくるわけです。こういうものを聞いている中でも、できるだけこのリズムと感覚に委ねてみることです。 

 

 ほとんどの人は、2割くらいしか入れずに、1割程度しか出てこないのです。まずあなたが10割出し切りなさいということです。そこで問題が発見できる。1、2割の力のところでは本当の問題は発見できません。そこで直してしまうと、その人を限定してしまうことになるのです。その程度で直しても、所詮、通用するはずがないからです。  

 

その人の能力がないのかというとそうではない、まず入れないし、出さないわけですから、勝負以前です。まずそこに土俵の場をきちんとおくことが大切です。最初は普通の人よりも、集中して聞かなくてはいけません。本当は、楽器の演奏とか、インストの部分を聞いて欲しいのです。自分で聞いておいてください。こういうところは大切なところです。 

 

 音楽が一番難しいのは、全体の図を描いていなくてはいけないということです。日本の歌い手でも、いろんなテクニックを駆使して歌っている人はいますが、心に残らないとしたら、描いているところを見せているだけで、描きあがった全体像がはっきりしないからです。音楽の場合は、それを創りながら進んでいくわけです。ライブである以上、歌はちょっとした感覚でいろいろと変わっていきます。ただ、そのベースにあるところの、その人のこなし方というのは、決まってくるわけです。  

 

 

○すべての音に対して 

 

 「帰れソレント」などを聞くと、声がなければ歌えないとか、あの声を出すのに何十年かかるんだろうと考えても、こういうものを聞くと、声がなくても歌えるんじゃないかとか、身近なんだと感じるはずです。  

そこで気をつけなくてはいけないのは、身近で誰でもできそうなものほど、その人がプロであるということは、そこに見えないところの差があるということです☆。  

むしろ声だけのよさとか、声の大きさでやれる方が、楽な部分はあるのです。

 

 このなかでも、自分が歌ったものとどう違うのか、そういう安定性のようなものを聞いていってください。本当は、聞くところで9割くらいの勝負をして欲しいのです。接点をつけなくてはいけないので、ここでのレッスンは1、2ヶ所しか取りあげていません。よく1、2回しかやらせてくれないともいわれるのですが、その1、2回で大きく修正がかからなければ、あとは何回やっても同じなのです。自分が何回もとか長くやったから、やった充実感があるということでは困ります。

 

 やれている人というのは、たった一瞬で何かをつかんでいくし、たった一瞬で人に与えていくのです。そういうふうに考えてみてください。これを聞きなさいといってもほとんど聞けないと思います。少し部分的に聞いていきます。一番難しいのは、冒頭の部分です。  

 

 何もわからないとしても、息と呼吸だけでも聞いてみてください。それが音楽と一致しているという、一番ベースの部分です。日本人の場合、難しいのは、発音を口先で作ってしまうのです。このレッスンでは、声や息の線を意識してみてください。イメージだけを持っていても、それを出さなくてはいけません。そのイメージを持っていても、配分を間違えたとか、息や体が足らなかったという場合は、そういうことを知っていくしかありません。

 

 課題そのものは、常に小学生でも中学生でもできることなのです。ところがそこで違いを出せるということは何かというと、声量が大きさということも一つの要素にはなりますが、実際はどれだけ自分が確実に握っていて、動かしているかという部分なのです。  

 

一見みえないところですが、少しずつ長くすると、すぐに見えてきます。ここではすごい深い息が聞こえます。ジャズは、生の声を全面に出しますから、この息も合わせて音楽なのです。この息が、次の出だしの強さやスピードを決めていきます。特に加速度、インパクトの早さです。  

 

 今の判断基準は、言い損ねたとか、入り切れなかったということより、体の中心がきちんとつかめていること、空振りしても構わないから、それが当たったらホームランになるような部分に近づいていっているのかということです。発音が間違えたとか、言いそびれたとか、その場その場の勝負ではないのです。問題なのは、こういうテンションに対して、きちんと声を扱いにいくことです。日本の場合、テンションを上げるというと、声を大きく出すか、高く出すしかないのですが、それでは困るのです。  

 

全ての音に対して、どんなに小さい音でも、低い音でも、そこに表現を入れて出すということは、それだけ大変なことです。それをきちんと引き受けることです。歌い上げる必要もなければ、歌らしくする必要もありません。そうやってしまうと、本質が鈍ってしまいます。  

 

 

○わからなくても気づく 

 

 これを自分の呼吸の方に乗せてみたら、こんなものが出たというのでよいのです。今はそのデッサン練習をやってください。自分を知っていくことが、1年目の課題です。  

たとえば、このクリスコナーが、クラシックの歌手をみて、よいとは思うかもしれませんが、そうなりたいとは思わないはずです。自分がそういう声を出すよりも、もっと楽しく、気持ちよく歌いたいと思っていたときに、そこで自分が勝負できるものが必要で、それは自分を知るということです。  

 

その代わり、もっと繊細な感性とか、もっと違う意味での音楽性を出していかなくてはいけません。持っていても、出していかなくてはいけないのです。  

今やっていきたいことは、それがあとから変わっていく部分です。こういう最後の部分も、気持ちを離さないでいたら、そういうふうに声が使えているわけです。やはり心の部分と呼吸で捉えることが大切です。

 

「ラヴ イズ ウェーリング ヒァー」

 なるべくシンプルにやっていくということです。彼女のように歌までやらなくても、まだその歌のベースの部分でよいのです。ただ、そのイメージを何も持たずに、声も握っていなければ、単に声を垂れ流しているだけになってしまいます。それはだらしないだけです。いくら体を使っていても、それでは歌になりません。それはなぜかというと、一つの点できちんと捉えずに、焦点が曖昧になっているのです。 

 

今やっている練習は、素振りだったり、デッサンなのですが、そのときの要素というのは、それで完成されているということより、その人が呼吸を少し変えてみたら、いろいろと動いてくるだろうという可能性の部分です。それには当人が声を握っていて、方向性を出していることが必要なのです。感覚を鍛えるというのは、楽譜に書いてあるものを、どういうふうに自分が持っていくかということです。  

 

 私のレッスンは、わからないともいわれるのですが、生の音から気づくことが大切なのです。できないということが自分でわかれば、それが一番よいレッスンです。簡単にできてしまったというのであれば、もうレッスンをやらずに歌っていればよいのです。  

 

今の失敗というのは、音が取れるとか取れないということではなく、自分をそこにセッティングすることができていないことです。それは慣れていくしかありません。いくら画用紙があっても、そのまわりに描いてみても、みんなにはわからない。紙のなかに書くことです。 

 

 そういう意味では、今は自分が歌いやすいところではなく、体と心と声が一致できる、感覚のところでやっていくのです。日本人の場合は、日常のなかでケンカでもしない限り、音声で表現しないので難しいと思います。そういうところと歌は、基本的には同じ部分なのです。  

 

今はそのセッティングをつけていくということです。自分の頭で考えてやっても、それは違うだろうというものしか出てきません。そういうことは家で何回もやってみて、ここにきたときには、そのうちの一番よいものが取り出せるようにしてください。  

 

 

○肉声感覚 

 

「カンバックトュ」 

 音程の問題を全部抜かしてみても、いつも「ハイ」とか「ライ」でやっているところを、こういうところと結び付けなくてはいけません。これを頭で考えてやってしまうと、だんだんそれてしまいます。今はどまんなかで振り切り、ホームランが打てるところで、なるべくそれを体でコントロールすることが大切です。  

「タン、タン、タン」という3つの置き方をイメージして、今は体の一番根本のところで捉えて、この3つの間に、呼吸を入れて自分の肉声にしていくのです。それぞれでも若干差がありますが、それはスタンスの問題もあります。時間が解決してくれることもあります。  

 

要は、何ヵ月もかけて、自分の状態を有利に変えていけばよいのです。他の人のを見てみて、あいつの感覚は全部読めると思ったら、大した歌は歌えないのです。読めてしまうということは、その人のまねができるということなのです。 

 

 いろんな人の声の出し方がありますから、そういうものから勉強してみてください。ここでいっていることは、少々真面目で面白味にはかけるかもしれません。まず基本のベースの部分で、息と体を外さずに出てきたものを、大事するようにいっています。最初から完成形を求めて作ってしまうと、あとから伸びなくなってしまいます。常にそことレッスンを結び付けて欲しいと思います。   

 

日頃やっている「ハイ」とか息吐きの練習が、いかに歌と密接に関係しているのかということです。入ってくるときは、大体みんなバラバラでしょう。ことばの練習張を作ってみても、オレは役者になるんじゃないとか、こんなのは何も意味がないと思ったかもしれませんが、ことばと歌の世界は、同一線上にあるものなのです。歌の世界でも、それがそのまま使えるような部分がいくらでもあるんだということです。

 

 今まで歌っていたといっても、単に音を当てて、エコーをかけて歌っていたという場合が多いわけです。すごく雑なコントロール、雑な感覚でやっていた場合が多い。でも他の部分でステージは成り立っていたという人もいると思います。  

それをここでは音の世界だけで見ているのです。その音がきちんと提示されて、その音が音楽的に気持ちよく伝わるために、どうすればよいかということです。  

 

最後の終わり方も、日本人はこういう終わり方はしないと思います。よく聞くと、自分の絵を音のなかで描いているのがわかると思います。このどの部分が音楽的な感性なのかということは、自分で判断していく。そういう部分は日本のアーティストもみんな持っています。それぞれの勝負どころは知っています。そういうものも勉強してみてください。 

 

 

 

 

 

 

レッスン録1   20,593字 1733

レッスン録1   1733

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【日本の基準 40414】

【「ラストワルツ」2クラス 40414 】

【「ラストワルツ」3クラス 40414】

 

 

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【日本の基準 40414】

 

○入っているもの、出てくるもの

 

  こうやって何人も聞いていくと、その人に入っている順番みたいなものがわかります。それが歌になるとまた違ってきて、いろんな着色がついてくる。完成させていきますから、わかりにくくなってくるのです。  

 

歌になった形がこうしたいろんなCDなのですが、そのときにやはり落ちてしまう要素があるのです。本来なくてはならない、歌として必要な支えの部分、テンポ感、リズムのこと、呼吸の一つの動きみたいなものです。  

それは日本の場合は、たぶん日本人の客にとって、どう聞こえるかということで、レベルが問われます。実際に歌い手も客として判断するわけですから、それを自分で聞いてみて、自分の作品を厳しく判断して、よしとするわけです。それをよしとする基準と、それをよくないとする基準は一体何なのかということです。 

 

 日本は残念なことながら、演歌の先生などは厳しい人がいたからよいのでしょうが、ポピュラーの分野においては、ほとんど自分で判断しなくてはいけないのです。  

音楽面ではいろんなアドバイス、アレンジでもできます。しかし、まわりのスタッフの声や歌に対する未成熟性が、大問題です。  

 

自分の思いこみで、これでいいといってしまったら、歌い手のなかで起きている世界がわからないのです。楽器の人達は本当はわかるはずですが、日本の歌の場合は楽器と同じように声を扱っていませんから、違う意味で甘く許されてしまいます。それが基準を成り立たせなくして、いろんな歌の形が出ています。  

 

 

○品と格

 

 外国の方は、もっといろんな形があるのですが、ただ基準は成り立っています。少なくともこんな歌い方は認められることはありません。徹底して品がない歌い方はあっても、ダラダラした中で成り立っているものというのはないということです。  

それはパンクにしろ、ロックにしろ、やっている人の生活態度とか、生き方とか、ポリシーとか、考え方などとは関係なしに、できあがったものは品のあるものです。よいものは格があるのです。その辺が不思議なものなのです。 

 

 日本の場合はそこに精神的なものが入って、生き方を正しくしていなければ歌も正しく歌えないとか、みんな姿勢もきちんとして歌わないといけないとか、軍国主義的なところがあります。それは日本のいいところでもあり、悪いところでもあると思います。そういうところから自由になったところで、やりたいものです。  

 

自由に生きている人達がどんどんつくり出していく中でも、日本の場合はダラダラとしてしまいます。集団でつくるものほどおかしくなってしまいます。  

ところが向こうのものは違います。それをどうやって見つけていくのかというと、感覚しかないわけです。あなた方が今入門のレッスンをみたら、そこで彼らは理解できないことを、一所懸命にやっているのがわかる。

 

 それと同じように、結局自分が10分の1聞いていることは、実際は100分の1だという過程をもっていかなくてはいけません。そうすると、そこでまだ聞きとれることがたくさんあるのです。  

ほとんどの場合、応用力がないということは、その柔軟性に欠けるということです。それを柔軟にするための感覚、あるいはもっというのであればパターンかもしれません。

 

 一つの音と音をつないでいくということは、その一つの音の後ろに隠れている、100個の音を消してきたのです。それを選ばなかったが、そこで選んだ音にどれだけの余力があるということです。

 

 歌の揺れなども同じで、一つの点に当てていくということはない。それに当たっているが、そこにも可能性のようなものがあるのです。だから歌い手の歌というのは必ず余裕があるのです。それは、構えとか、ためということばでしか、いいようがないのです。  

 

 

○人を動かす聞き込む力

 

 要は、口先でしゃべっていること、声として飛んできていることは、客は本当の意味では聞いていないのです。そこで音程がはずれようが、リズムがおかしくなったりして、不愉快だなと思うかもしれませんが、そのことで信用関係が壊れたり、歌がうまいとかへただという評価にはならないのです。  

どこに評価があるのかというと、その人間がどう人を動かしているかということです。そこの部分で何が欠けているかというと、聞きこむ力だと思うのです。 

 

 自分で決めつけてしまったら他の情報というのは受けつけられません。だから一つの情報で、歌というのは汲みあげられるのですが、その一つの情報のときに、100とか、1000とかの情報があって、そこで確実な路線で選んでいる人と、それから余計なものを20も30もとってしまって、もっと大切な一つを切り離している人とがいます。  

 

そういうものがわかりやすいのは合宿ですが、今、プロに講座をお願いしているのは、研究所の基準があるわけではないのですが、それを外の人達から見てもらうためです。そのときに表向きで捉えられてしまうことが多いのです。  

逆にいうと、ここは音に関して限定してしまっている部分があります。世の中はもっと気安く考えて、キャラクターがあればいいなどでも認めます。

 

 ただそれだけではしかたがありません。キャラクターを伸ばすわけにはいきません。たぶん、他のトレーナーの基準と異なってくるのは、声そのものの力ではなく、トータルとしてのその人の説得性、存在感になってきます。そこの部分とルックスなどの生まれつきのものというのはその人の要素です。外見も中身の反映です。  

 

問題は、トレーニングでできる部分がどうなってくるのかということです。私はトレーニングできる部分でしか見ていませんから、それを中心に考えると、音声のなかでも、もともと声のいい人、悪い人、何にも努力しなくても高いところが出る人、出ない人がいます。でもそういう人達が必ずしも成功しているかというと、そうでもないのです。適当にできた人というのは、適当に辞めてしまいます。 

 

 その辺のことを考えると、人間というのはおもしろいと思います。その素質とか、才能の部分と、それが壁になっていて、打ち破ってきたというキャリアと、そこにかけた時間というのは、そのままの人生になってきます。そう簡単に引けなくなってくるのでしょう。  

 

あとは時代が要求するものというのがあります。その辺は何がどう働いているのかはわかりません。ただいえることは、わからないものをわからないままでもいいから、受け止める。その度量の大きさのようなものをある程度みていかなければいけないと思います。  

 

 

○寛容と不許可

 

 二つ矛盾してしまうのです。それを寛容するところの大きさと、それを絶対に許さないという厳しさの決定していかなければいけないところです。ここの場合、それを決めつけたときには卒業といっています。それはいい意味でも悪い意味でもです。  

 

要は、作品が完成したということは、そのことをここで問うてもしかたがない。それは客に問わなくてはいけないのです。  

それが一番自分の高いところになるということは、絶対にない。そのあとも自分は生きていくわけですから、そういう人がプロセスのなか道にあるのか、それとも横にそれたところにあるのかというのは、大切な問題だと思います。 

 

 日本の歌というのは、そういうことの判断基準がないので、アルバムを出す度にいいものが出てくるということは滅多にありません。外国ではあとで出したものの方がいい。日本の場合は、ファーストアルバムをこなせない。  

ヒットした一曲だけが一番うまく歌えているというのも多い。それをわかっていながら、なぜそれを最低基準にしないのかというのが、この国の甘いところです。  

 

そういうものがスタンダードになって、それが下敷きになって、あとの人達はそれ以上のことをやるのです。日本の場合は、そういう人がトップになって家元制のようなものができてくるのです。先生中心の集団です。本来はトレーナーは黒子であるべきです。  

 

 

○入っている日本 

 

 日本のものをよいとか嫌だとかいうより、もう一度日本のものを聞いてみないとわからないということです。日本のものを聞いてみて、影響されるのではなくて、そういうものを自分の感覚のなかでもう一度やってみるということです。日本のものが入っていると思って、自分の頭で否定しているものを、本当の意味で聞いてないのかもしれません。  

 

そういうことはレッスンでも起きていることです。判断基準は簡単なことです。  

トレーナーが簡単にまねできてしまうことは間違いということです☆。それも首から下を使わないでできてしまうようなことです。それを正すということが大切なことです。  

 

 

○どこにつけるか 

 

 それは「つめたい」のフレーズ処理の問題と同じで、そのときにどちらが先に働くかということです。  

たとえば英語と日本語だったら切り替えなくてはいけません。私たちは完全に切り替えます。ところがそこにドイツ語とかイタリア語とかスペイン語とかいろんなものが入ってきたら、切り替えというのは、相対的なものになってきます。それが薄められていくのです。 

 

 本来のことであれば、イタリア語で聞いて、それを日本語に置き換えてみるということを、そのイタリア語の感覚のなかで日本語が生じるような方向にしなくてはいけません。  

これは声楽のレッスンでも、本当は徹底してやっていくとできることなのです。それをことばやメロディが先行してしまうのは、日本人の昔からの音の捉え方の問題です。学校にいったり、きちんと音大に入っていったり、ポピュラースクールでうまいといわれてしまう人ほど、そういうふうになってしまうのです。要は、日本人以外のほとんど世界中の人達では、声が出ることが前提です☆。

 

 韓国の劇団の人が、「どうして日本の人は声が出ないのかしら」といっていたのです。それはなぜかというと、声が出るところじゃないところに音をつくるわけです。そういうふうに私たちは育ってきているのです。  

この場合も同じで、3分の2くらいは、「何を」のところまでは、強弱がついてきます。そこの強のアクセントをどういうふうにおくかということがその人の個性になって、それが「な」につくのか、「に」につくのか、「を」につくのかということではないのです。  

 

ここからはわからない世界になってくるのですが、「何を」という一つのなかの、それのどこにつくのかというよりは、その強のアクセントに踏みこんだときに、「何を」のどこがきているのかということです。これがリズムの捉え方になると思います。全部小手先でできてしまうことはダメだということです。  

 

 

○ことばの実感 

 

 大切なことは、ことばでいえるところの実感のものまで、歌で消す必要はないということです。そのときに歌をとってまとめていくと、メロディの方に精力を割いて、声をただ長く伸ばすことになりかねません。バランスを整える方に力を割くのではなくて、ここでの期間というのは、そこに必要とされるだけの体とか息をつけるところで基準を合わせていくようにということです。だからことばにしてみるとわかりやすいと思います。「何を」だけでもいいですが「何か求めて」をことばでいってみましょう。  

 

 

○マスをくずす 

 

 日本語というのは、勉強すれば勉強するほど、声を切っていくのです。マスにいれていきます。だからせっかく「なにを」くらいで入っていても、「も・と・め・て」でいろんなことが起きてしまうのです。それは音の世界でも許されているのですが、体の原理からいうと、そのまとめ方の深さで、浅い踏みこみ方だとのどにかかってきます。ここでの造作ということを止めればよいのです。  

「日本語を読みなさい」というときに、私たちが受けてしまう指令というのは、そこの呼吸のなかに「何を求めて」というのが一つに入っていても、展開しようという動きはとらないからです。 

 

 原理から外れたところで動いてきます。日本というのは、向こうの基本特許をとってきて、それを応用してみてつくる。たとえば携帯電話のように、それを細かい工夫のあるものはつくるのですが、その基本の部分は全部、向こうに押さえられています。そっちの方にはお金を使わない。  

もともと変えることが得意です。ポップスなんていうものはまさにそうですが、その味付けのやり方が、素材の味を全部壊してしまうといけないと思います。日本料理などは、その辺はしっかりと素材を生かしています。  

 

 

○音色を統一する 

 

 「何を求めて」を普通にとると「ラ・シ・ド・レ・ド・シ・ラ」と、「レ」のときにあがってしまうのです。三流の声楽の歌手でも見てみたらわかると思います。二流はきちんと同じに統一しています。それを統一したうえで、響きのバランスで変えるのは、歌のなかでも声のなかでも構わないのです。  

そうなったときに、普通の人の感覚だったら、高い方がテンションも体もいるわけです。  

 

普通の学校の発声練習では、「ドレミレド」のときに、「ド」に対して「ミ」の音を抜くような感覚があるのです。だから「ドレミレド」の「ミ」と、「ミファソファミ」の「ミ」が違うのです。そんな馬鹿な話はありません。同じ音なのですから、同じ体があったら、同じところで統一できるはずです。

 それは日本では多くの人に当てはまります。3年くらい徹底的にやると、それは直ってくるのです。それはなぜかというと、絶対的な楽器としてではなくて、相対な感覚でとってしまうからです。  

 

 

○踏み込む、つかむ

 

 「何を」に音をつけましょう。  

この辺が日本の歌の感覚で、必ず「なにをー」となってしまいます。それを裏切るようにとっていく練習をしてみることです。たとえば「ハイ、オイ」などの練習をしておいて、「にを」のところで踏みこんでみると、こういう感覚はない。外国語では強のところに弱が巻き込まれていきます。

 

実際にリズムがついていないところの発音は、いい加減でもよい、ということより、リズムがついているところをきちんと強くしなくてはいけません。それを声で大きく出すとか、音量で大きく出すとは必ずしも限らないのです。一つの拍の感覚があればよいのです。  

 

それゆえ、実際の歌のなかでそらしたりすることはいくらでもできるわけです。やらなくてはいけないのは、「ハイ」のところでつかんでいたら、そこで「オ」というのをつかんでみて、そこに「にを」というのを入れてみて、「なにを」になったときに「を」のところがきちんとキープできることです。 

 

 

○強く出す

 

 高い音になってくると、日本人の場合は、強く出す、高く出す、長く伸ばす、全部同じことなのです。とても音に鈍感な民族なのです。本当のことでいえば、強く出すことと大きく出すことさえ、違います。高く出すことと長く伸ばすことはまったく違います。強く出すということは、短く切るということです。  

「なにをー」と大きく伸ばしていくとそれだけ薄められていきます。「なにをっ」と一瞬でいうと、同じ強さでも強く聞えるわけです。日本の場合というのは大体逆です。  

その辺はいろいろな風習のなかで、自然と私たちの体が知ってきていることですから、それ以外の感覚をどんどん入れていけばいいのではないかと思います。「何を求めて」を「タタタタタタター」とやるのではなく「タータータ」のなかに音楽が出てくるように、呼吸でやっていくことです。  

 

 

○均等から強弱へ 

 

 これで半オクターブあるわけですから、難しいわけです。前半の「何を」で一つに捉えて、「求めて」でまた一つに捉えてみるのです。私たちが英語でいうときに、几帳面に「アイラブユウ」という。一つひとつの音を均等に捉えてしまって、強弱をなくして平等化させてしまうのです。そんな読み方は絶対に日常では使わないのに、なぜか教育になったり、人前でものを読むときにはそうなってしまいます。  

 

自分の体を使うこと、呼吸を送ること、伝えることが全部飛んでしまいます。そういう中で私たちは生きていますから、難しいことではあります。  

日本語は日本語で聞いてみて、そこで許せないところをはっきりさせることです。プロというのはそういう体がある人です。 

 

 このような人達は、徹底して声楽の勉強に音楽の勉強をやっていた人達なのです。  

それは体だけの問題ではなく、感覚の問題です。彼らの歌が悪いのではなくて、彼らの歌は彼らのファンに対して練りこんだもので、批判すべき対象ではないのですが、ルールが外れているなというところを私は感じます。皆さんも感じるとしたら、そこはまねてはいけないところです。彼らがやるからよくても、私たちがやったらダメになってしまうのです。そちら側に引っ張られてしまうということです。うまく見分けていってください。 

 

 

 

 

 

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【「ラストワルツ」2クラス 40414 】 

 

 

○歌のみせ方、うまさ 

 

 宮川さんのアレンジというのは、日本人にうまく合わせています。この三人娘、中尾ミエさん達の外国人の感覚というのが消えている部分があります。日本語でやりたいのは、英語でやるとあまりにあたりまえすぎてわからないことが、もしあなた方が英語の歌詞だけを与えられてつけていくやり方と、彼女達のつけ方は違うはずです。  

 

彼女達のつけ方は、英語というよりも、日本語ではないところの音楽を勉強して、理解している人達です。だから日本語で見た方が、わかりやすい部分はあると思います。  

フンパーティングの英語のものでやると、その感覚に乗って、問題がはっきりとしてきません。日本語のものでやってみようかと思います。  

「始めて会ったときに」のところも日本語の感覚じゃないようにやっています。

 

 これからいろんなステージを見ていくと思うのですが、向こうのことばというのは、基本的に最初にまとめるというような感覚で入っていくものが多いのです☆。

このアフタービートという感覚があまりありませんから難しいのです。  

 

どうして外国のものが入りやすいのかというと、最初につかめるからです。「はーじめーてー」と広がるのではなく、「はじめてー」とこれだけ凝縮しておくと、それだけそのあとが自由になるのです。そのバウンドでそのあとの動かしが自由になります。だから、うまいとかへたとか、音が外れたとか、そういうことがあまり起こらないようにできるのです。  

 

日本人の場合は、最初のところから開いていきます。どんどん広がっていきますから、次のフレーズくらいで体力を使ってしまうのです。

 ことばのこと、音の高低、それからメロディ処理をきちんとこなすのより、1年目のオリジナルな声だよといっています。これは日本の音楽のなかで、頑固に守られていることなのです。それを壊していけばよいのです。 

 

 ことばをことばではなく、音にすればよいのです。音の高低も音の強弱に変えていきたいし、メロディはリズムに変えていけばよいのです。それは日本人がダメということではなくて、今まで日本人ばかりをやってきたのだから、別のことをやってみましょうということです。そうやって外国語を聞けば、もう少し入りやすくなると思います。  

 

日本語で少しずらした感覚を調整しながら、実際は外国人の捉え方でとってみるということがとても有効ではないかと思います。日本のコーラスというのは、どうしてもメロディをとっていて、そこで合わせますから、二声でとっていても何か変な感じになってしまいます。「せめて」だけでもよいですが、ここの部分をやってみましょう。  

 

 

○呼吸で声を動かす 「せめてもう一度」 

 

 やってほしいことはたくさんあります。一つは声をきちんと取り出すということです。これをなるべく純粋に取り出すことです。今それがどこかに引っかかったりしてしまうのはしかたがありません。できることというのは、「ハイ、せめて」というように、器を持つこと、ためというのか、ある意味での余裕です。  

 

自分の頭のなかのイメージが「せーめーてー」となっていたら、そう出てきます。それがダメということではありません。やっていきたいことは、この曲をきれいに仕上げていきたいわけではなくて、そこのなかで自分の体の実感をきちんと得るということです。 

 

 いろんな「せめて」がありました。まずは呼吸で動かせることです。呼吸で動かそうと思ったら、大分整理されるのですが、どこかでつかんでおかなくてはいけません。  

ことばでやってみましょう。できるだけ先も読んでおいてほしい。というのは、今は「せめてもう一度」だけをしっかりいうのでもよいのですが、本当はことばでも先に進みたいのです。「せめてもう一度踊りたいあなたと」ということがいいたいのです。  

 

そういう構成は、順番が回っている間にいろいろと考えられると思いますので、自分のイメージはどうなのかということを考えてみてください。他の人のイメージや、トレーナーのイメージは、それぞれに違います。違うから歌うときに、みんな違った形に出てくるのです。そのときに間違いが起きます。自分のイメージで間違うこともあるのですが、やってみないとわからないことです。そして、同時に音楽をつくり出すということをやってほしいのです。  

 

 

○自分と離れない

 

 大切なことは、それが自分と離れないことです。いうだけならば誰でもいえるのです。読むだけなら誰でも読めます。その実感のところで何を入れるかです。  

いくつか自分のなかでできることがあると思います。たとえば自分を出そうと思って、自分の呼吸の方に引き寄せてしまう、大体の人がそこで違うことを起こしてしまうことがありますが、それは必ずしもダメではありません。それは音楽的にあとでもたないということになりますが、やってみるぶんにはよいと思います。 

 

 本当はそういうところでいいところだけを結びつけていかなければいけません。自分と音楽が離れているのではないのですが、そのなかで感じ取ったものを、展開させるためにどうすればよいのかということを、先に形から作らないで、実の方から作っていきます。そこにメロディという感覚を乗せたときに、自分がどう進みたいのかということです。  

 

一番簡単なのは「せめて」のところだけをやってみると、音は「ターターター」とあがっているのですが、そこで「せめて」といいたいわけで、何らかの接点をつけていかないといけません。外国語を使うときには、その意味というのは実感としてないでしょう。音でいうと4つです。実際のことばになるまえの部分を握っていないといけません。  

 

 

○感覚に変化を 

 

 この曲は比較的とりやすい歌です。そこでとれないというのは、英語で聞いて日本語に置き換えるときに、いろんなものが間に入ってしまうからです。それは曲を覚えられないとか、音程がとれないというのではない。自分のなかにある音楽の進行があって、邪魔する。絶対にそういうふうにはそれないというそれ方はしては、よくないわけです。  

 

たまにそういう曲を使うことがありますが、それは感覚に変化を起こすためです。今使っているものというのは、スタンダードなものですから、こういったらこういくというような、そういう流れをきちんと走らせておくことです。その走らせたところの表側で歌ってしまわないことです。これが難しいのです。 

 

 そうしたら、カラオケと同じです。両立させるというのは難しいのですが。  

それができているかできていないかということを判断するために、きちんと感覚をもっておくことです。だから実際に「初めて会った」のところでも、それが「はーじめてーあったー」となってしまうと、全部つくりものになってしまいます。そこで何が起きるのかということが聞きとれません。  

 

「は」から「め」にいく間に、そこで何を起こしているかということです。「はーじ」とか、「はじー」とか、「はーじめー」とか違うのです。それはリズム、コードなど、いろんなヒントが入っています。そういうヒントをもとに聞きとっていくと、メロディがそれることはないと思います。

 

 

○ことばでの実感

 

 「初めて会ったときに」と歌ったときに、息も体も使っていなくて、何か実感がこもっていないと思うならば、それをことばにしていってみるのです。それから「タタタター」と捉えていたものを、「タータータ」ととってみる。そのフレーズのなかでどういうふうに落とし込むかです。  

 

マスでとっていくとどうしようもできなくて、動かないわけです。今やってほしいことは、体のなかで一体で受け止めるということです。それをその都度応用してみて、一つに捉えることです。自分でことばでいえたと思ったときは、自分のなかで集中した持続があるはずです。それが歌になったとたんに、「はーじめーてー」となってしまったら、最初から外れているわけです。 

 

 歌の方が集中力が必要だし、声を動かす必要があるのです。そこで握っていながら、うまく声が離れないから、自滅してしまったとか、息がもたなかったとか、声として外に出なかったというのは、明確な課題ですから、それでよいのです。  

一番困るのは、この表面的なところだけをとってしまって、日本語で置き換えてしまう、英語を単にカタカナに変えるだけということになってしまうと、何にもならなくなってしまいます。  

 

 

○はみでたものに学ぶ 

 

 ことばで入るというのは一番実感としてはわかりやすいと思います。それから音楽的な面で進行をきちんと捉えて、音楽を進めている中に、ことばが発せられていくというような感覚でやってもらえばよいと思います。  

 

皆さんのなかに、いろんな音楽が入っているでしょう。そこにある種の傾向があって、それからはみ出ているものに関して対応できないというのは、補うとよいと思います☆。スタンダードなものとか、オールディズのものがあって、今の音楽があるわけですから、そういうものをたくさん聞いて、口ずさんでみましょう。

そのことに「あれっ」と思ったり、ついていけなかったりすることが起きたら、それが音楽的な変化なのか、それとも自分の方の感覚がわけがわからなくなっているのかをみましょう☆。そんなに複雑な世界ではありません。 

 

 複雑な曲でいいものというものはありません。そうすると、必ず共通している部分があります。どこにテンションが集まるのかとか、どこにピークをもっていくのかとか、それを感じていかないと、こういうものも盛りあがりがなしで終わりということになりかねません。  

この曲は、歌のテーマもはっきりしています。その解釈まではトレーニングのなかで入れる必要はありません。やってほしいことは、音の世界のなかにことばを読みこんだり、メロディを出していくということです。 

 

 もっというのであれば、オリジナルな声の原理に基づいて、ことば、音の高さ、メロディを処理していきましょうということです。「ハイ」とか「ララ」だけではマンネリ化したり、固まっていきます。いろんな曲を聞いてみて、それを揺らしながら、いろいろとやってみましょう。  

 

こういう曲を20曲くらいばーっと一気に歌ってみたりして反応性を鍛えるとよいです。あまり一気に歌うとのどに悪いし、自分で迷っていると声はなかなか前に出ません。このフレーズは自分に入ったなと思ったら、実際に声に出してみる、そういうことで自分のことを知っていってください。まだまだ空回りしている部分が多いと思います。それはいろんなことをやりながら、音楽とともに自分のことを知っていきましょう。 

 

 

 

 

 

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【「ラストワルツ」3クラス 40414】    

 

 

○散漫にしないベースを 

 

 フンパーティングが英語で歌っているものを使えば、一番簡単なのですが、簡単なために見えなくなってしまいがちです。日本語に変えてしまうと、そのなかで起きていることが明らかになります☆。それからこの三人娘が歌っている中で、日本人であるがためにとっている部分があります。  

 

たとえば今繰り返しているところなどは、声的にかなり限界があります。そこでもう少し踏みこめたらとか、もう少し声があったらとか、ポジションがキープできたらというのが見えるのです。逆にいうと、当人がそのことをわかっていてきちんと出しているから、ぎりぎりだけれども当然伝わるものというのはあるわけです。

 

 余裕を見せて歌う必要はなくて、他の部分で感情表現のために走ってしまったり、丸めてしまったり、息をわざと混ぜてしまったり、そういうかったるさはあります。しかし、日本人のなかの体でやっていくとなると、その判断は難しくなります。木琴などを入れてアレンジをして、それははっきりといって、歌い手の邪魔になっているのですが、コーラスという感覚でとっているのだと思います。

 

 日本人の感覚のなかで歌って、日本人的なアレンジはつけられているのですが、彼女達自身が向こうのものをきちんと理解して、勉強してきていますから、かなり向こうの感覚に近い処理ができています。  

たとえば、「はーじめーてあったーとーきにー」など鈍いことはしません。  

 

それはしっかりしたものが入っているから、自分のなかで正されてくるのです。あたりまえのことですが、英語で歌っていてもそうなるべきです。いろんな歌をきいていても、そこに判断の基準があれば、そのままにとっていきません。つけ方が悪いのではなくて、要は、散漫にしてはならないということなのです。  

 

 どこで踏みこめばよいのかわからないのは、感覚の問題です。サビのところをやっても、どうなるかが見える、出だしのところも、ああいうふうになってくるというのは、本人が認知できている場合は待てばよいのです。一つは体ということがあります。体のところで同じポジションがとれないときは、どうしても広がってしまうのです。  

 

「はーじめーて」と自分でもやりたくないと思っていても、引っ張らざるをえないのです。特に音域が広いとそういうふうになります。そこの問題は考慮しなくてはいけないと思います。  

 

 

○基準を入れるということ 

 

 私はこの前のプレを映像で見せてもらいました。感じたことというのは、まだ演奏に必要なものが入っていないのです☆。  

音楽を勉強しているのでも、歌い手としての音楽が全然入っていないのです。それから、他人事なのです。明後日の方向のところで声を置いているだけ、日本語というのはそうなりやすいのです。一所懸命に歌うほどそうなる、それを声でなく自分で引き受けないと、変わらないと思います☆。  

 

最初映像がおかしいのかと思ったのです。でも最後、トレーナーが出てきて、しっかりと撮れているとわかりました。ということはどういう感覚なのかというと、それは彼女がすぐれているということですが。

舞台のなかで今までセッティングしているものの基準で見たときに、明後日の方向のことをやっていたのです。ここのステージですから、完璧なものをやってくれとはいっていません。問題はそれをやり終わったときに、本人が気づいたのかということです。 

 

 

○創造性

 

 大切なことは、一曲を歌うということの大変さというのを、全然引き受けていないということです。その一曲を覚悟して歌うということは、どのくらいのものを要するのかということです。練りこめなくても、歌えなくてもよいのですが、もっと根本のことが9割足らないということを、その場で受けて出てこないということがいいたいのです。  

 

それではレッスンも成り立たなくなるし、トレーニングも必要ではなくなるのです。それは声の問題ではないのです。声があるがために、そういうものを見ないで引っ張ってしまうこともあるのです。その人のなかに入っている音楽の問題が大きいと思います。 

 

 何回もいってますが、いくらまねしてもダメだけれども、レイ・チャールズはきちんと自分の世界にもっていっているということです。どんな曲を与えられても、彼の世界のもっていき方でみせる。創造的な活動がやられていないのは、やれないことはやれないから、やれるものを選ばなくてはいけません。  

その辺は私だけが感じたことではなくて、見た人は誰でも感じているのです。ただ本人だけがきっと感じていないから、そういう選曲をし、そういう明後日の方向で歌ってしまうのだろうということです。 

 

 

○わかるということ

 

 6曲というのも大変です。1曲を歌うということはもっと大変なことなのです。その大変さを引き受けていたら、うまいとかへたとかは関係なく、伝わるものなのです。  

だから私がパッと聞いても、そういう出し方をするというのは、引き受けていないということです。それはやってみたというだけのことです。  

最初はいいのですが、それを実感できないところでの積み重ねというのは、形にならないのです。どういう形をやればよいのかは、考えましょう。 

 

 一番困っていることは、舞台の基準ということをきちんとしていかないと、できないのです。できたらこういう音楽のフレーズをやるときに、一部分のなかでその作品を動かさなくてはいけないし、そこでぶつかっていかなくてはいけません。ぶつかってできないという形にならないといけないのに、それを逃避してしまうから、できたつもりになるのです。それでいいのなら、指導の問題はありません。  

 

このクラスに限ったことではありませんが、昔2、3ヵ月で気づいたことや、合宿で気づいたことを、わかっていてできない人はしかたないのですが、それが2、3年というより、一生正さないままになってしまうのではないかという気がします。 

 

 それは個人差ではないのです。きちんとした共通の基準があります。この三人娘のなかにもある基準です。ただ、彼女達は作品を作ろうとして、彼女達のなかでやっています。逃がしている部分もあります。その逃がしていることを、彼女達はきちんとわかっているし、その方向が違うということもわかっています。歌というのは、どこをとって歌といっているのか、発声をとって歌ということではありません☆。そこのなかのものを、引き受けているのかいないのかということです。もう少しきちんとやってみればよいのではないかと思います。歌のなかではいえませんが、こういうことのなかでは簡単にいえます。  

 

 

○つきつめる 

 

 テクニックのいやらしさ、こうやったらこうもつという計算が働いているのはしかたないのですが、基本的に音の構成、動き、そこでは最低限どれをやらなくてはいけないということを、きちんと踏まえて正してはいきましょう。  

 

声が出るとか出ないというのは、個人の問題です。この構成は個人的には嫌いなのですが、三人が共通の呼吸で、ここはこうやるべきだ、そこはやってはいけない、ここはもっと出すべきだ、ここはもっと飛ばすぞというような、一致した感覚があるのです。

 

三人が相談するのではなくて、アレンジャーが決めてしまう場合もあると思いますが、ちょっとしたヒントであわせられるのです。それが読み取れないということでは困る。やらせたらできるし、声も出したら出るのですが、歌になったときに、歌は全然別のところにあるという気がします。

 

 

○ステージを描く

 

 そこのステージがよく見えないのです。そういう実感のないことをやっていて楽しいのか、できない人はしかたがないのですが、できるのになぜそこを突き詰めてやらないのかと思います。  

それは出し惜しみではないでしょうが、きっとまだどこかで勝負しようと思っているのでしょう。それでは一生できません。なけなしのものですべて出し切って勝負していくのが実績というか、それがイコール、実力とその結果です。それは構えの問題だと思うのです。レッスンの場も、発表の場もそうです。 

 

 トレーニングの場は、どこかに目標をおいて、その踏み台に使って構わないのですが、踏み台であればあるほど、大きくつくることです。  

これはある意味では雑です。もっときれいに歌おうとすれば、彼らはまとめられますが、どうして雑なのを私が選んだのかというと、そのなかの可能性があるからです。 

 

 こいつは今度また違うことができそうだと、そういうことが見えるものに、人というのは惹かれるわけです。  

ステージに作品を出してもらうのは構わないのですが、その作品がまとまっていて固定されたものであれば、この人はこういうスタンスなんだということが出だしで見えてしまいます。  

それがみえるような選曲をしてはいけません。自分が歌いきれる歌というのは、どういうものなのかということを考えなくてはいけません。大きな問題がたくさんあるような気がします。  

 

逆に考えてみればよいのです。実際にステージをやって、もたせた人のごまかし方なども。選曲の仕方というのは、結果としてフィットするようになっています。それはセンスということよりも、そのスタンスの差だと思うのです。  

 

 

○律する

 

 一番問題なのは、舞台というのはよりすぐれたものをぶつけたら、他のものが吹っ飛んでしまいます。そのときに自分が自分で律するということです。舞台の経験はここは内輪でやっています。いろんな機会を与えて、リラックスしてやってもらっていいのです。  

 

問題なのは、そのことはやっていることですから、そこから何を得るのかということが大切なことです。そこまでも一所懸命やって、その日も一所懸命やらなくてはいけませんが、簡単に歌えるものでありませんから、1曲でまともに歌えなくても、3000曲のなかでいいものが1つか2つあればいいといっています。2年か3年で1つ伝わるものがあればいいという基準で見ています。ステージすべてなどは、はなから期待していないわけです。

 

 自分がきちんと撮ったつもりの写真がどれだけずれているか、ピンぼけなのか、セットできていないのかということを見なおさない限り、直らないことです。次も同じステージになってしまいます。たとえば声が出るとか、音域がとれるとか、音感がいいとか、リズムがいいというだけなら、そのチェックしかしなければ、もうそれ以上、演奏ということでいうと発展しようがないのです。  

 

 

○テンション 

 

 知っておいてほしいことは、ステージでのテンションというのは、皆さんからみるとリラックスしているようにみえていても、普通の人が思っているよりも相当高いのです。それをゆるめたときには成り立たない。自分にすぐ跳ね返ってきます。普通の人が一番厳しいのです。  

結局その状態のなかで歌を動かすということが難しいから、いろんな妥協を入れたり、ごまかしを入れていくのです。そこを自分で見ておかなくてはいけないということです。 

 

 歌うのにごまかすのもいいのですが、それはトレーニングと同じで、その位置というのをきちんと把握しておくことです。力がついたら、基本のところに戻して後々にカバーしていくというように見ていく。そこの基準が曖昧になっています。すると普通の人からみると、テンションが低いようにみえます。宴会芸になってしまいます。他のところでは通用するのかもしれませんが、ここで通用するようになったときには、ヴォイストレーニングの必要性もなくなってしまいます。 

 

 彼女達のもっている音楽性を勉強しろとはいいませんが、あなたのなかに音楽もあり、声もあり、歌もあり、「ハイ」というポジションもあるとして、それがバラバラで、ステージがそうなってしまうのも、今はできなくてもいいのですが、そういう方向にいくということを、その場に瞬間的に提示しない限り、お客さんは二度とこないです。  

 

そういうところは厳しいのです。全部見えてしまうのです。その人はそれが歌だと思っているかもしれませんが、歌というところの一つの基準からいうと、私が寝起きで「せめてー」と歌えてしまうものは、何の価値もないということです。  

いろんなものを抱え込みすぎているのです。「ハイ」でも、1年目はそれでいいかもしれませんが、2年目になったら、1年目に得たポジションを捨てない限り、深まらないのです。 

 

 

○異変

 

 歌でも同じで、「せめて」というので1年目に通じたならば、そういうものを捨てない限り、より高い表現にはいかないのです。それでは守りの姿勢になってしまうのです。  

守りのものを見るよりは、ぶっ壊れているものを見た方がまだ面白い。問題は、こういうレッスンでも、自分が精一杯やって、集中力を高くやってみると、必ず異変が起きます。異変というよりも、できないということが突きつけられます。だからレッスンが成り立つわけです。 

 

 そこをカモフラージュする必要はここではありません。うまく歌う必要はないのです。うまく歌っているものほど、本人がそう思っているだけで、まわりの人には何とも伝わっていないのです。  

だから上のクラスの基準は正しいと思っています。私が決めているのではなくて、みんなが聞いて書いてくるものを読んでみたら、なるほどと思います。今は私が出なくても成り立つと思うのです。 

 

 でも本人が一番自分のことを知らないのです。本人が隣の人のことはわかっているのです。でも自分のことは知らないのです。そこが問題だと思います。隣のことを知るのは自分のことを知るためです。それを見たときに、自分のどこが落とせるかということだと思います。  

本当は1曲目が通用しなければ、2曲目ということは普通の世界では与えられません。そういう構えを客は信頼してくるのです。  

 

 

○是正する 

 

 あがってしまってうまくでなかったとか、練習不足でうまくできなかったとか、いろんないいわけがあると思いますが、できないものを超えてみて伝わるものをもたないと、難しい。それが人柄であったり、キャラクターであるということも一つの要素だと思います。できたらそのバックボーンのようなものを身につけていくことです。  

 

大切なことというのは、やり終わったあとからの問題です。どんどんやっていってほしいし、どんどん場に出てほしいのですが、そのあとにきちんと落とし込んでいるのかというのが気になります。他のレッスンは落とし込んでいるのかもしれません。ただステージというのは落とし込みにくい。そこを自分で見ていくしかないと思います。 

 

 それをどういう基準で見ればよいのかは、他の人の意見を掲示して、それを見てくださいという形もいいのかもしれません。私の基準ではなく、そこの場のなかで聞きにきた人達がこう思いましたというのをみて、葛藤すればよいのです。  

 

自分はこう思ったのに、それがそういうふうに思われてしまうというのは、どこの感覚とか、どこの呼吸とか、どの声がずれていたのかと、それはどちらが正しいということは別ですが、まわりの人の意見は正しいのです。  

それを舞台ですぐに正すということは難しいし、解釈の仕方がいろいろとありますから、一概にはいえません。 

 

 ただ見ていて思ったのは、あさっての方向になりすぎているのではないかということです。本人が、主体が引き受けていないのです。それでどこかの歌だけが回っているということになりかねないのです。そうすると、不利になります。それを引き受けるということはどういうことかということを考えてみればよいと思います。  

 

こういう曲で対応してみたときの、自分の感覚というものを、自分で是正していくということ、問題点をはっきりつかんでいたら、それは時間をかけて正していけばよいのです。  

それを握っていてくれたら、私は問題ないと思います。実際のステージではそれを楽しんでもらえばよいのです。問題はやり終わったあと、そこから次のステージにつながるようにしていかないといけません。 

 

 何ができたのか、何ができなかったのか、できなかったのはなぜか、そういう作業をやっていかないと、歌というのは感覚で流されやすいです。カメラマンでも、なんとなくそういう気分で撮ったというのが一番よかったりするのです。それを確実に出そうとしたときには、どこかでそれを練りこまなければいけないのです。そのときにはとても高い集中力が必要だと思います。  

 

いろんなヴォーカリストが皆さんのなかに入っていたら、そういうヴォーカリストだったらどう歌うだろうとか、そういう人が批評を求められたら何というだろうとか、いろんな多面的な角度から検討することはできると思います。  

 

 

○固有の体、感覚 

 

 ステージというのは、いろんなお客さんがきていますから、そこでいろんなものをやろうとしたら、声がうわずってしまったり、雰囲気だけになってしまったり、そうなるのは構わないのですが、でもそれを自分で許容してしまったら、次からも同じになってしまう、年をとったらもっと拡散していきます。  

 

そうしたらその辺で長年カラオケを歌っているおじさんやおばさんと変わらなくなってしまいます。そこと絶対に違うものはあるのです。その要素というのは、失ってはいけません。それがある人が何かやることに対しては、人は受け入れるけれども、それがないところで歌や、ことばが聞えてきても、人は飽きてしまいます。その人には興味もないのです。 

 

 作品で勝負するか、人間味で勝負するかということもあるかもしれません。ブレスヴォイストレーニングの、体で声を動かすということも、その問題に当たってきますから、器用な人はきっとあなたのまねができてしまうということです。そうでない部分というのは何なのかといったら、固有の体しかないし、固有の感覚しかないわけです。その人のくせが出るのも構わないのですが、きちんと練りこまれて磨かれているものと、練習を休んで、いい加減にやって出てくるくせとは、説得力が違うのです。 

 

 それは自分にしかわからないと思っているかもしれませんが、私でなくても、長くいる人ならば、わかることです。  

普通の人を甘くみてはいけません。そうじゃない普通の人もたくさんいます。もっと厳しくなります。だから一体感をもつということをやってみてください。当時の人達は、そこに何を込めるとか、音色のこととか、そこでどうやっているかということの共通の理解みたいなものがありました。それはまた、別の面でいい勉強になります。 

 

 ただこれをまねていくと、体も感覚も違いますから、何か昔ふうの歌い方になってしまったりしかねないところもあります。へんに抜いたり、浮かしてしまったりということもあります。まねるのはよくないのですが、外国のものをパッと聞いて、彼らの場合は、最初に変換機能を正すということを厳しくやっているのです。自分の限界のところで処理できないものは、その限界をみてその選曲を諦めるとか、そのことばを諦めるとか、そのキィを諦めるとか、それをしていけばよいのです。 

 

 その日初めてやってみて、出せるかもしれないとか、いろんな冒険をしてもらっても構わないのです。そこまでの準備や、テンションがきちんと高まって、ピークがあってそこにもっていきたいんだなという思いと構成感、そういう覚悟をその人がもっていなければ、歌というのは流れてしまいます。レッスンのなかでもそれはいえることだと思います。どこかで自分のなかで妥協してしまうと、コントロールは到底できません。皆さんよりも強い体の人達が、さらに集中してやるのですから、集中して動かせるために、強い体とか息とかを作っていくのです。  

 

 

○6曲の難しさ 

 

 いつも2曲やっていることを6曲やるときに、それがいかに大変かということをわかってくれればよいのです。単に2曲が3倍になったと考えてしまうと、それは違うのです。2曲というのは、単純にアップテンポとスローテンポのをもってくればもつのです。でも6曲というのは、最初の2曲できちんと惹きつけて置かない限り、違う可能性を出せない限り、3曲目からはまた同じかと見られてしまうのです。その辺は厳しいのです。 

 

 6曲もてば大体1時間半くらいのステージはできるのです。6曲を本当にもたせるということは、20曲くらいないと難しいと思います。だから6曲というのは、一人前というベースだと思います。  

1曲目は誰も聞いていないのです。2曲目くらいからはちょっとことばを聞いてやろうかとか、音楽を聞いてやろうかとなると、そこでベースが出てしまいます。そこからがその人の世界なのです。それをきちんと集約してもっていくことです。だから、録音とか映像をみて、1フレーズ1フレーズをきちんと聞きこんでいってほしいのです。そしてそこのなかのことを練習してください。 

 

 高いと感じたらもっと低くさげてみてもよいし、声量が出ないと思ったら声量を押さえてもいいので、そこで突き詰めたものというのは一体何なのかということを知ってください。  

実際の体とか声でできなくても、そういうものが得られたときにはこうなるべきだという方向性はもっておくべきです。それがあれば、そんなにステージで声が出なかったからといって失敗するわけではありません。 

 

 いろんな人を見ていても、相当間違えているのです。そのときにあいつ間違えやがったなと思われるのか、間違えやがって面白いなと思われるのか、そういう信頼関係が成り立っているのかというのは、ずいぶん違うのです。そういうステージをめざしてもらった方が楽だと思うのです。体調が完璧じゃないとできないステージは、それはそれで大変だとは思いますが、そのまえにまだまだやるべき課題がたくさんあるなと思っています。そこをきちんとみていってください。場に出て何を感じるかということは、大切なことだと思います。 

 

 これは難しい曲ですが、どういうところで気づくかということを知る。あまり自分で思いこんで先に走ってしまったら、やはり勉強になりません。いろんな人の、いろんなCDを聞いてください。そこのなかでこういうふうに動かしてみようとか、たくさんの応用ができるようにやってみてください。  

 

 この人は70年代の歌い手です。こういう歌い手を2オクターブ歌手と呼んでいるわけではありませんが、歌にとって2オクターブというのは音域でいうと一番広いレベルです。そのなかで低音、高音を使っていますから、発声の見本が全て入っているのです。  

 

習い始めの頃は、低いところで太い声が出るとか、高いところでは細くなるとか、あたりまえのように考えるのですが、そこのなかで何をつかんでいるかということです。声を握っていて、別に高音だから、低音だからこう歌うということではなくて、そのまま音楽の流れのなかに表現していくということでしょう。まさにここでやっているようなことを実現している歌です。このなかから聞かせます。ルイスミゲルでした。 

 

 

 

 

 

 

 

 

レクチャー録2 21,702字 1732

レクチャー録2

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【「歌唱論1-2」4563】

【京都 基本の基本 4053】

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○体がベース、ベースにオンする

 

 レッスンとトレーニングということについて、いつも私は、一番いいやり方があったら、そのやり方をとっていこうと思ってきました。

 私のレッスンは今、月に15分だけというのもあります。15分で何ができるのかといったら、さっきいったとおり、半オクターブ、4フレーズくらいであれば、充分にできる。1分の曲だって15回できるのです。だから長いのです。歌は3分といっても、ワンコーラスやるのにたかだか1分かかるかどうかです。

 

 とことん短くしたのは理由があります。ステージと同じで、その15分のなかで、勝負できなければいけない。人間が本当に集中したときには15分も持たない。今、日本のヴォーカルを見ていても、だいたい1番くらいしか持っていない集中力。外国のヴォーカルが3分あれば3分持っているテンションを、キープできていない。

 

 それをレッスンので、15分といって短い、60分ならいいのかというと、そのなかで何をしているかというと、30分以上、遊んでいるわけです。そういうふうな時間の感覚がついてしまう方が怖い。一般にベーシックには30分ということでやっています。

 レッスンの目的や、内容に対しては指示をせず、トレーナーにお願いする時点で信用しています。信用できなくなったときには、受講生がいなくなっています。

 

 レッスンで何をするかというと、気づきにくるのです。これが一番メインです。ここに関してはプロもアマチュアもないですね。レベルが違うだけです。

 気づくということは、まず気づいていないに気づくことからです。次に気づいていないこと、足りないこと、入っていないことに気づく。気づけばそれを埋めていけます。このことの流れをつくるのがレッスンです。トレーニングというのは、このプロセスを繰り返してやるわけです。

 

 ヴォイストレーニングは、リピートからです。日本人は真面目ですから、何かをやっていけば、必ず身につくはずだと思う。確かにそういう部分もあります。

 体をベースにおいているのは、体はある部分まで変わるからです。年齢とかで変わらないことです。皆が、たとえば腕立てを30回ずつ毎日したら、たぶん1年たったら30回は、そんなに辛くならないですね。今、1キロ走っていたら、辛くても、皆さんくらいであれば、1年続けたらけっこう走れるようになると思います。

 

 そういう部分にベースをおくというのは、トレーニングがここの場合、とくに素質で選別して引き受けているわけではない。やる気で引き受けていることだからです。そうすると誰でも共通するところにベースを置かないと、だめだろうと。

 

 だから、体がベース、それゆえ時間がかかります。1ヵ月2ヵ月で、そんなに体が変わるわけではないです。でも確実に変わります。

 2年3年4年と、それは呼吸の部分、体の部分、それからそういうものをコントロールする部分に関してです。だからそこに重きをおきます。ここがリピートの部分です。

 

 ただレッスンで一番大切な部分は、そんなに体をつくっていないのに、もっとうまく歌えている人がいるじゃないかという、すぐれた人間のほうに目を向けるということです。そこから勉強したときに、オンする、オンをどこまで次元を高めていくかというのがレッスンですね。

 そうでないと続けてはこないです。毎回毎回新しいことを起こしていけるかというと、それっぽくやれば簡単なのです。なんか出たねとかいって、本人のかたち、本人のクセに押し込んでほめたりすればいいのですが、そういうやり方が一番まずい。

 

 いろいろなトレーナーやスクールを見たら、それはしかたない部分がある。生徒が1回ごとに結果を問うからです。今回は何か勉強できた、今回はどのくらい達成できたというふうになると、それを求められるトレーナーでは、ここのように長期的にみるようにはいかない。

 

 

○成果を急がないこと

 

 その一ヵ月が終わった後に、次の一ヵ月がくるかどうかというのは、その一ヵ月に効果を出さなければいけない。だからどうしても短期的な上達をみて指導をさせざるをえない。これはトレーナーが悪いというより、その人の考え方です。

 ここに来られる人は、他のところで満足していたら来ません。

 

 いろいろなトレーナーや学校のことでいうと、良心的なところやきちんとやっているところは、そんなに早く成果は現れないです。成果を早くうたうところは、そのやり方があるのです。リラックスさせ、声をほめたらよい。それだけです。

 今日こんなことをやっているのなら、高いところを出す方法を教えましょうとか、ロングトーンを出すやり方を教えましょうと、そういうことでまわす。

 

 その人が初心者ならともかく、何ヵ月も何年もやって、それができないというのであれば、その前のところに問題があります。

 たとえばこの歌の音程がとれないのですといわれても、ここで教えたら簡単でしょう。丸暗記していく。でも音程がとれなかったというのは、もっと前のところに問題があるのです。

 普通の人がやってみたら、意識しないでとれてしまうところにひっかかってしまう。それではその音をいくら教えてみたって、次の曲、違う曲になってみたら、同じ問題が来るのです。

 

 そういうのを私は教えたとか、勉強させたとかはいわない。ごまかしてこなしたという話です。

 それは声域、声量に関しても、同じです。単に一瞬高い音をとる、そこの技法はなぜいけないのかというと、通じないからです。

 私は現場でやっていますから、実際、その日のそのステージにたいして歌えなくなってしまったというときがありますので、応急処置としてやらなければいけない。応急処置をメインのレッスンにおくというのは、違います。

 

 昔、公開レッスンなんかをていねいにやっていたとき、だいたいは、一生に一回会うだけ、地方の人はなおさらですから、体験レッスンをやって、私が親切に接して、その日の満足になるようなことをやっていました。ファンサービスです。今は、そういうことはやりたくなくなってきました。

 そこはむずかしいのです。こういう私の催しをひとつのエンターテインメント、ショーとして考え、それ自体をひとつのライブとして考えるなら、その人の、その日の満足を最大限にやっていく。その辺をどうするか。

 

 

○後のためにやる

 

 今日のように、ここに関連をつけて勉強しようという人が多いなら、どちらかいうと、1回目のレッスンに近いかたちでお話したほうがいい。後々につながっていくことはどういうことなのかをいったほうがいい。

 そういうことが共通しているようでいて、案外と違うのです。1回でやるやり方、3ヵ月で仕上げるやり方、半年でやるやり方、それから2年、4年でやるやり方、ここはそういう条件が全部整った後のことを考えています。

 

 もっというのであれば、最初に引き受けるときに、ここを出るときのこと、出たあとにその人がどうやっていけるのかということから考えるから、さっきのような答え方になってしまうのです。

 声優をやるのなら、ここに入って声優の勉強をしましょうというふうにはならない。そんなことをやってやれる人は、世の中にはたくさんいます。

 

 2年ここで勉強したことは、声優学校で4年くらいやれば、似たようなことはできるのです。じゃあ、4年が2年になったからいいのかというと、そうでもないのです。

 そういう学校に行くと、そういうコネクションがあったり事務所に入りやすかったり、また有利な面もあるのです。そういう意味でいうと、すべての条件を比べて、考えていかなければいけない。

 

 そんな難しいことはともかく、足りない入っていないということに気づく。ここもいろいろな人がきます。ベーシックなところで、感覚的なことを扱うのです。ここに来る人は日本人でたまにそうでない人もいるので、けっこう困るのです。日本に住んで日本語を扱う。この辺から、考えていこうと。

 

 そのこと自体が音声にとって有利な条件ではない。むしろ、世界的にみたらかなり弱い条件で、声を強く使えない日本人、それからそういう必要ない日本語、外国というより人間といっています。しかし、もし人間として、こういう音に恵まれた環境にいたら、どうなっていたのだろうというところで考えてみようというところで、やってください。

 

 すると結局、日本人にとって気づかないこと足りないこと、入っていないことは、中には英語でやってきた人もいるので、重なる人もいますが、本当の意味でとれている人は少ない。

 ここでもこんな話をすると、今日感覚が切り替わったように錯覚する人もいるのですが、そう思ってから2、3年は感覚は切り替わらないのです。本当に3年くらいかかっているというのが7割、2年で6割切り替わったら相当早いほうです。では、何が切り替わるのかという話も含めてやっていきましょう。

 

 

○呼吸について

 

 腹式呼吸などということでやると、わからなくなってきてしまうのです。皆さんが今やっているのは、腹式呼吸で、呼吸法として少しも間違っているわけではない。息の吐き方が間違っていますかと聞く人がいますが、そんなことがあるわけない。

 

 多くの人はトレーニングはすごく特別なことだと考えています。私たちがこうやって生きて、ここで話ができる。そういうときに息がきちんと動いていることが、どんなに奇跡的なバランスの上で成り立っているかという、その前提がないのです。

 

 その前提の上にどのくらいトレーニングをしていけばいいのか、考えることです。それでいうと1、2パーセントのことでしょう。まったく何もないところで100パーセントの呼吸法を身につけようという考え方は、とことんおかしくなってしまいます。

 

 もしわからなければ、皆さんが大病や事故で入院でもして、酸素でも吸っていたら、映画みたいですが、そうなったときには深呼吸することでさえ、つらいわけです。ふつうの呼吸ですらできなくなる。そういうところから入ってみましょう。

 現場で、きちんと一流の歌のなかで見てほしい。というのは、その歌のなかで使われている呼吸が、自分のなかでできればいいというふうに考えたほうが間違いがない。

 

 現実に使われているのですから。だから、「呼吸法は息を5秒吐いて5秒止めるのですか」、「それとも長く10秒くらい吐いたほうがいいのですか」とか、「ドックブレスは何回やればいいのですか」とかは、意味のないのです。そういう質問ばかりくるのです。

 私がたまたまそういうふうにいったのにすぎない。

 

 この前斉藤孝さんに会ったら、彼は3秒吸って2秒止めて、15秒吐くと、その根拠は何ですかと聞いたら、「3回やったら1分になるから覚えやすいでしょう」と、それは間違いではない。一般の人は覚えやすくなければやらない。やらないことを考えたらどんなやり方でもやったほうがいい。健康法と同じです☆。 私は「吸うからはじめるより吐くからはじめたほうが楽になります」といっています。そんなものです。

 

 テキストにとっても、その5秒が6秒だったら間違いなのか、20秒吐きなさいというのは25秒だったらだめなのか、何の根拠もないです。検証したこともないです。できればやっています。

 もっというのであれば、長くなれば呼吸の支えは崩れてしまうし、姿勢も崩れてしまうから、歌からいうと、マイナスでしかならないのです。

 

 でもアマチュアの人が息を意識するのに、長く吐いてみたから息が足りなくなる、今は20秒だけどトレーニングしたら25秒伸ばせるようになったというのはよい。こんなことはプロのヴォーカルからいうと何の意味もないのですが、そうやるとトレーニングらしくなります。やらない人がやれるようになります。どんな歌であれ20秒伸ばす箇所なんてないという話です。

 使わないもののためにトレーニングをやっておくのはいいのですが、そのために余計に姿勢が悪くなってしまったり、支えが崩れてしまうのであれば、何のためのトレーニングかわからないでしょう。現実にトレーニングはそうやってやられていることばかりです。

 

 

○難しい発声練習って

 

 つきはなさなければいけない。たとえばポップスの歌い手にきてもらいます。他の学校のトレーナーを見ていると、歌わせたら楽に出ている高い音程のところで、発声練習をやらせ、それよりも低いところでひっかかっているのです。そうしたら、発声練習をやってはいけないのです。

 

 発声練習は何のためにやるのかというと、日本では、歌でやる音域がうまく出ないからです。そのときには音程がついていたり、そのことばが複雑だったりして難しいから、簡単な母音で、それで半音ずつ上げていって、ていねいに上げて、もっと高いところまで出しましょう。つまり、歌より高いところを楽に出せるように、発声練習をやって、ここでマスターしたことを歌詞にもって、歌もここで高く出せるようにしましょうというのがもともとの考えでしょう。

 

 ところが発声練習で、ひっかかってしまう人が実際の発声練習になってしまったら、楽に出ているのです。そうしたら歌を使ってやるほうがいいじゃないですか。こんなことばかりが本当にあたりまえに行われているのです。

 

 それはトレーナーでなく、受ける人がそれを考えなければならないと思うのです。おかしいじゃないか、発声は歌のためにやるんだろう、ところがトレーニングの学校に入ってしまうと、口をふさぐ。

 トレーニングが独立してあるかのように。発声練習のための発声練習になってしまう。そこに出口はありません。そこを考えるとともに、一流のものの実際、歌われているところのなかの息、皆さんが歌ってみると、きっとこうならないと思います。これを3年か5年後に歌ってみたら、一流の歌手のようにきたら、そこで呼吸が深くなってきた、身についてきた、そういうふうに考えればいい。そのために何をやったらいいのかを考えて、自分で決めてやっていけばいい。

 

 

○マニュアルでは、オンしない

 

 トレーナーがいうのは、たたき台です。それを15分やればいいのか5分やればいいのか、1時間やればいいのか、わからない。だから、やって決めていく。

 本もそうやって使われる場合が多いのです。「先生、1年、自主トレでやってきたので見てください」と、だいたい偏ったおかしなかたちになってきますね。それは何もやらないよりいいと思うのですが、だから何なのという話になってしまうのですね。それが後でどう効いてくるかはわからないです。そのことが無駄だとは思わないし、そこにかけた情熱ややる気は無駄ではないと思います。

 

 それをさらに繰り返していくことにはあまり意味がない、繰り返してやれることは、あくまでやっていない人に対して差別化することです。多くのアマチュアの人は5年10年やってうまくなると思っている。うまくはなるのです。やるのだから。ピアノでも何でもやればうまくなるのです。ところが長くやったことでうまくなったところまでというのは、プロの人でもっとたくさんいるのですから、勝負にならない。長さは、ベースの再現性にすぎず、そこにオンした部分しか勝負にならないです☆。

 

 だからやれている人の世界のなかで、何を違って出せるのかというのが勝負なのです。やれない人のなかでやったというのは、それだけのことでしかない。

 

 ところがトレーニングというのが、けっこう日本人は好きなのですね。だからヴォイストレーナーもいい先生がいて、そこでやられているようなことは健康法のようなことなのに、それをずっとやっているとプロになれると思い込んでいるわけですね。絶対になれない。そうやって神経が麻痺して、気持ちよくなっていっているだけです。それは別の意味の呼吸法です。

 

 それがだめなのではない。体が弱い人がやるとか、他の仕事でいろいろな業績を上げている人がそういうところにきて、発声をやってすっきりするというのは、いいことです。

 ただアーティストのベーシックなものとは違ってくる場合があります。共通する部分もあるので、一概には否定できません。

 

 

○ベースの声と息

 

 ベースの声があるのは、今では、外国とのハーフみたいな人が多いです。日本語以外の言語をペラペラしゃべれるような人のなかにたまにいますね。韓国、中国のロックというのは、私は耳で聞いてみると、区別がつかない。日本人のロック、ジャズなどは瞬間的にそれだとわかります。ジャズもほぼわかります。外国語の8割の歌に関して、これは日本人だということがわかってしまう。発音がきちんとしているということも逆にいうと日本人らしいということでわかりますが、まず深い息が聞こえない。

 

 今のレコーディングは、デジタル加工して、こういうものを聞こえなくしているものが多いです。エコーがかかってしまうとよくわからなくなりますが、だいたい日本人が吹き込んだものは、音だけを並べていっている場合が多いです。

 息を吐いて言語をつくることが、日本人の持っていない部分です。

 

 もうひとつは、声楽出身の人は、声のひびきに変えてしまうことに重点を当てています。だから単純です。

 ここで取り上げるヴォーカルが特殊なヴォーカルなわけではありません。むしろあまり加工していないヴォーカル。音響で加工してしまったり、自分のなかのテクニックで違う出し方をしていない。ストレートに歌っている人を並べています。

 今の息の使い方は、聞こえましたか。浅い息と深い息というのは、何となくわかるでしょう。ヴォーカルが使っていくところは、本来は深い息です。クラシックも同じです。

 

 深い息を声にするポジションというのは、日本語の場合は必要ないのです。イタリア語やドイツ語にはあります。英語のほうが歌いやすい、声になりやすいというのも、リズムの言語で、かつ、そのポジショニングの問題です。日本語は浅いところです。

 

 その辺の問題を考えていかないと、本来、外国人の高音はそんなに高いところで出されているわけではないのです。ピッチではその高さの音には届いているのですが、子音中心、少なくとも日本人が考えるソプラノやテノールではないということです。息もです。深いポジションでとったときに音色が違ってくる。

 

 自分で勉強をするときに気をつけてほしいのは、ふつうの人は大きな波があるのです。すごい調子がいいときと悪いときがあります。この悪いところよりさらに悪いところでトレーニングされていることが多いのです。

 調子がよくて自分でも笑っていたり2、3年に1回のすごい声が出たというベースのところからやるのです。本来トレーニングは、ここから上のことをやらなければ意味がないのです。

 

 ところが緊張してドキドキしている。さらに悪いところから伸びたということが行われるのです。

 私はこれの声を本のなかではベターな声といっています。これを鍛えられた感覚や磨かれた体、鍛えられた体でベストにしていく。その人が持って生まれたものを鍛えたところのものまで、もっていけるようにすることがトレーニングですべきことだと思っているのです☆。

 普通の場合は、単に調律がされているだけです。

 

 あなたがすでに持っている声のなかで、よかったり悪かったりしているのを、せいぜいそのなかの一番いい声にしようとしている。歌のときに悪くなってしまう人が多いからです。台詞にしたらしっかりと声になって、歌でないようなものをやらせてみたりすると、けっこう響いて、いい声が出ていたりする。なのに、歌うなり何か違うことをやってしまって、その声を生かせない。

 

 多くの場合、今の上下の範囲のなかでやるのですが、それではトレーニングの意味がないのです☆。

 ここをやるためには感覚をつくらなければいけないし、それから体としての楽器をつくらなければいけない。だからここがトレーニングだという考えなのです。

 

 ワークショップはどういうことをやるかというと、鬼ごっこをしてみたり、皆でわーっと騒いでみたり、コミュニケーションをよくしてみる。外国人が日本人とゴスペルをやっているのもそうだと思います。楽しく明るく元気にやることによって、この状態をつくろうということです。それもわかります。この状態の人、ステージにきて上がってしまって悪い状態になってしまうような人が、いい状態にしないことには何も始まらないです。ここだけで終わってしまうのです。ここがヴォイストレーニングだといわれている傾向があります。

 

 そういう場合は、どちらかというと悪いものをニュートラルに持っていくということ、これも必要なのです。喉の手術をしたような人は、ふつうに話せるようにしていく。

 健康な状態の人に、これを目標にとらせるのはどうかと思うのです。私から見ると、ここが最低限です。ここからどう伸びるかということでやっていかないと、差別化できないのです。

 だからここまでで一番よくなっても、カラオケのうまいサラリーマンやOLに負けてしまうのではないかと思います。苦手でそういうトレーニングをしたところで。

 

 

○力で鍛えるのではない

 

 調律というのは、感覚と楽器を高めたところで必要になってくることです。皆さんの場合、今まで使っていた中で一番よい声が出るようにするということが、一番よいことです。それをすぐに高い声を出そうとしたり、大きな声を出そうとしたり、無理に息を使おうとしたら、声は出なくなってしまいます。

 

 ヴォイストレーニングで実際にやられていることは、声を壊すことが多いです。カラオケで歌って、それで日常を送っている人が、1時間も声を出していたらどうなりますか。だんだん疲れていって声が出なくなってしまいます。これはステージや舞台をやっている人もそうです。それでもう喉がガサガサになってしまって、喉が疲れてドクターストップがかかってしまって、また出ていって、結局オンしていない。悪くなっては普通に戻し、というようなこと。

 

 スポーツはそういうことをやっていくと、何やかんや力の抜き方を覚えていったり、筋肉がついていったりして、案外うまくいくのですが、ヴォイストレーニングを体育会系の人は、「他の人が5年以上かかることを私は1年でできるぞ」と、すごい勢いでがんばってやるのだけど、大体が喉を壊してしまいます。

 

 時間がかかる部分はあるのです。要は、喉自体が強い楽器や筋肉ではないので、それを力で鍛えるということ自体が、スポーツでも効率が悪いやり方だと思うのです。それでもスポーツの場合は、使えるところまで使ったら、それ以上使えないわけでしょう。ダウンして、倒れてしまう。人間が生きていくためにそういうシステムです。

 ところが喉の場合は、そういうことがないのだから、壊せるところまで使ってしまう。壊しても使ってしまうのです。そういうところでは気をつけないと本当はいけない。

 

 ここのところでずっと抜け出せない人のほうが多いです。歌もそうです。プロになれた人は努力しないで、デビューできるのに対して、トレーニングをして10年やっても歌の音程がとれない人とか、うまくない人は世の中にたくさんいます。ピアノでも10年やっていたら、相当怠けていた人でもバイエルくらいは弾けるようになる。ゼロから始めるから、5年やっているのならこのくらい弾けるでしょうと、英会話もそうですが、時間軸で見れます。ヴォーカルに関してはそういうことは一切成り立たない。

 

 今まで歌ったことがないのですという人がすごくうまかったりする。それは絶対歌っていないわけではない。そんなにはやっていないのにうまい人もいれば、レッスンにいろいろなところに行っても、歌ってみたら、下手だという人もいるのです。

 そういう意味でいうと、こういう感覚のことをとても重視していかなければいけない。役者は年月やることで変わっていけることがあるのですが、ヴォーカルの場合は、感覚のよし悪しというのが、とても大きい。

 

 それをどこかで入れておいてください。今日聞いたものでもそうです。普通の人が聞くと、声を大量に出しているところと高く出しているところしか聞かないのです。そこができないからといって、まねして、声を壊してしまう。

 人間の体であるかぎり、限界が必ずあります。どこまでも高い声や大きな声が出るわけでもない。与えられた体を鍛えたところのベストの限界までしか出ないし、それで歌うには充分すぎるということです。

 それで歌のほうが大変であれば、自分に合っていない歌、選曲してはいけない歌なのです。好きとか嫌いとかではないのです。自分がそこの作品に価値を出せない歌なのです。

 

 1オクターブしか音域がない人でも、すごい歌唱力で歌っているふうに聞こえる場合もあります。表現がわかっていたら、声量や歌唱力があるといわれてしまう。声から見るとまったく限定された、喉頭がんで手術をし、楽器としては壊れ、ことばもいいにくい、リズムもとりにくい。なのに、きちんと聞けるというのは、彼女の持つ音楽性です。

 楽器もすぐれているほうがいいのですが、音楽性がないことには、本当の意味で人をひきつけない。感覚というのを体だけの感覚でとるというよりは、ヴォーカルの場合であれば音楽の感覚からとっていったほうが実際は早いと思います。

 ヴォーカルの場合は、マイクを前提に考えていく。たまにアカペラという人が来ますが、それは声楽から考えたほうが、日本の場合はいいような気がします。

 

 

○サラブレッドをはずす

 

 私は、万が一ですが、こういう人が受講生ができたら、トレーナーからやりませんかといいます。それは2つの意味、いい面と悪い面とです。ここまで、歌える人はなかなかいないというレベルがまずひとつ、それから声のどまんなかのところでやってきているということがあります。

 もうひとつは、これでソロをやってもJ-POPや日本の今の音楽業界は、こういう人は受け入れない。ということはどういうことなんでしょう、今の10代20代が聞くマーケットと、この歌い方は相容れないのです。

 

 こういう歌い方の人は日本でもたくさんいます。トレーナーはこういうものを目標にするかもしれませんが、私はここで目標にしない。こういうものはオーディションで選ぶしかないです。1万人いて、こういうふうになれる人は1人か2人です。これはわかります。

 

 芸大に入っても、トップをとれる人とビリになる人は、努力だけが違うのではないのです。もって生まれたものとか体とか、そういう声帯の出来が違う部分があるのです。これはクラシックの世界で、サラブレッド的な意味で持ってうまれたものが半分くらい、努力をしています。でも努力を5倍したからといって成果が5倍上がるわけではないのです。むしろその分野に向いてない人が方向違いの努力してしまうと、結果としては出せなくなってしまいます。

 

 私はここを目標にとりません。この2つの意味があります。目標にとるとしたら、オーディションして、こういうふうになれるという人だけをとります。これはある意味では良心的なことだと思います。

 トレーナーは混同してしまう。その目標がこのくらいならいいのですが、大体自分の目標くらいのところにしてしまう。それは無理です。

 

 要はプロになりたいという人に、プロに教えたこともないトレーナーが、何ができるのかというあたりまえの疑問です。トレーナーがプロのように歌える必要はないのです。トレーナーに必要なことは、そこに何が欠けていて、それを何をやれば補えるかという、相手をどうするかということです。これに対して、バンデラスはどういうふうにやっているかと。

 

 この手のタイプは、役者からはみ出してきたタイプしか日本ではあまりいないですね。正統的にクラシックや発声をやってしまうと、頭から切られます。おかしなことで、これを禁じてしまったら、世界中のロックはすべて禁じなければいけなくなってしまう。ジャズもそうです。その現実と遊離してしまったところで回っている。それが、トレーニングになっている。

 

 

○内から変えていく大切さ

 

 日本人と外国人の感覚を、比べてもらおうと思います。こういうふうに聞かせていることが本来のレッスンです。

 その聞き比べることができる耳においてしか、本当のことでは自分の声も変わってこないのです。まったくの未経験者はやればやったところまで何とかなりますが、今まで歌を歌ってきた方は、ヴォイストレーニングや発声をやっていないといっていながら、そのことはある意味で人についたことがないだけであって歌のなかには含まれているのです。

 

 よくプロの歌手に「ヴォイストレーニングなんかをやってみても」といわれることがあるのですが、でもその歌い手がきちんとやっているということは、どこかのフレーズを何回も歌い変えたり、歌い直したり、プロとしてやってきているわけです、私たちからいったら、それもヴォイストレーニングなのです。

 ただ、ヴォイストレーナーについていることがヴォイストレーニングだと思っているから、そういうことをやっていないという話になるのです。

 

 ということは、あなた方も同じことがいえるのであって、今までヴォイストレーニングを受けていないといっていても、その歌のなかで歌を研究してみたり、節回しをちょっと変えてみたりキーを変えてみたりしていたら、それはヴォイストレーニングなのです。

 発声というのはコールユーブンゲンだったりドミソドソミドというものということではないのです。歌を歌うということ自体が、もう発声練習になっている場合もあります。ここはそういう使い方をします。

 

 レパートリーにする歌というのはあまり使わないです。それは自分で考えて自分でまとめるしかないからです。ここでやるのは歌を壊すことです。そうすると壊した歌を、使えませんから、喉を壊すよりはましです。

 だから声というのは、ある程度やってくると、今度は感覚を変えないかぎりは声の出し方は変わらない。どんなに外側から声を出そうとしても、それはきっかけにすぎない。

 

 たとえば、ここを上げなさいとか顎を引きなさいとかありますね。でも本当のことでわかっていたら、映像で歌い手は見られるわけです。だから自分のを録ったり鏡で見たりすると、外側だって直せるわけです。

 内面的なものをどう得ていくかというのは、まず耳です。耳なのですが、聞こえる音ではないのです。聞こえている声のベースにあるところの体の感覚をとっていかなければいけない。頭だけでいくら考えてもだめ、そこに入っていくしかないのです。

 

 

○自分を壊すこと

 

 最近若い人とやりにくくなっているのは、自分を守るのです。要は自分が自分であり、自分の歌だということを守るのですが、それだとトレーニングは成り立たないのです。

 本当の効果を上げていくトレーニングというのは、自分が壊れてでもいいからもっと深い自分を引き出す。そのやり方というのはひとつしかないのです。

 高校生ならクラブでどんな一所懸命やっても、試合で負けた。練習時間を2倍にしようとしても、相手もそのくらいやるわけだから、かないっこない。そういうときに何が違うのかというと、イメージを入れるため、バスケットの試合を見る。もうひとつは大学生やプロと混じってやってみる。

 

 混じってみたら5秒も持たない。ふっとばされたりする。でもそういうところで一瞬でもついていけたり一瞬でも違う動きが起きたとしたら、それは唯一今のレベルから抜け出せるチャンスなのです。

 だから一流のものに引きずられるようにして、感覚や体が持っていかれたときではないと、本当のものは身につかない。

 

 そういうことを経験した人でないと。それがわからなければ、厳しい舞台に出なさいということです。お笑いの人のように舞台に出て、歌ったときに、本当に客に伝えられるものをやるには何をすればいいのかがあれば、少しはわかるようになる。

 

 仲間内で、サークルをやって身内を呼んで、そこでうまかった下手だったといわれているところでは、どんな感覚が必要か、あなたが元気でやれば、それで喜んでくれるじゃない、そうしたら元気にやることだけがすべてで、芸術的なものにはならない。レベルの高いものにはならない、問われるものが違います。

 

 

○虚飾をはずす

 

 ほとんど日本の場合の歌のステージは消費されている。歌手は昔の歌を歌いこなす。それはイベントです。月に一回、年に一回、その人が元気な姿を見て、元気じゃない人が元気を出すということになってくる。それも意味のあることです。ひとつの大きな活動です。

 しかし、そういうこととレベルを上げて創っていくことは、また少し違うのです。両方の工夫が必要です。芸術的に皆が聞きたいわけではない。そこで皆楽しみたいし、そこですっきりしたい部分もあります。それが音楽ですっきりさせられる。

 

 プロですから、そこで力が足りないことを皆知っていますから、いろいろな脚色をつけるのです。本来はベースの力があって、その上に振りや照明をつけて、バンドをつけていたことが、日本の場合は逆ですね。それが全部つくと何となく持つから、どんどん声や歌がおろそかになってしまう。かたちだけがつくられる。それでも客が許します。

 

 本来ならば、客がいなくなって、また元に戻るのです。ゼロからまたやり出す。ところが日本の場合はそうではなく、消費されて飽きられて、また新しい子が出てくる。誰も育たないという、悪い循環です。

 歌ほどごまかしてお金をとれるものはないからです。アイドルで、かわいいだけの子に歌を吹き込ませて、まわりにプロを置けば、お金も稼げるしCDも売れる。コンサートもできる。こんな楽な商売はないですね。

 

 漫才でもやらせても、数年はまともな漫才はできないでしょう。歌は、1ヵ月でできてしまいます。かわいいとかスタイルがいいとかが必要なんでしょう。そうやって日本の音楽が動いてきたところがあります。まともな人もいますが。

 

 こういう変わったものは、耳を鍛えるにはいいと思います。

 ここでやることはストレートなことではないかもしれません。ストレートなことでは変わらないのです。外側からどうやるかは、本なんかで書きやすいです。口のなかを開けましょうとか、でもそういうことは感覚から入ったら開いてくるのです。その感覚がないのにやっても、顔だけ発声顔で、声が伴わない変な合唱団のような人ができ上がってくる。

 

 これは日本人の感覚です。ひとつ前の歌い方です。

 「キサス・キサス・キサス」

 A B Aというサビがひとつあって、あとは全部同じ。これは日本のラテンの女王といわれた方が昔歌ったものです。最初すごく小さく入って、淡谷のりこさんのように。「キサス・キサス・キサス」は有名なラテンの音楽です。

 

 この前キューバでもらってきた歌い手が歌ったのは、こういうものです。A B Aだけど、最初からフェイクが入っている。有名な歌なので最初からどんどん変えていっている。小さく入って大きくする。短く入って長くする、それから低く入って高くするというような日本人の感覚ではない。どちらがいい悪いということではないのです。

 私たちの耳や体は、どちらかというとこういう感覚で動いているから、そういう感覚になってしまうということに対して、これが世界の標準だと考えてください。

 

 

○日本語の感覚を切れない

 

 そこが問題になってしまうということは、それができていないということではなくて、そのイメージと置き方の部分で、まだまだ解決できることが同じ体のなかでもあるのです。それを踏まえないでやっていくと、テノールのような歌い方で解決しようとしていく、それの典型的なのは、ミュージカルのようなものだと思います。とても高音が目立ったと思います。

 

 「エー バー ハー マ、タ」といってしまう。それはしかたないのです。日本語自体がそういう特徴にあって(テキストに書いてあるのであまりいいませんが、)日本語というのは、音になってしまう。高低アクセントで、両方音を発する。「あめ」「あめ」「はし」「はし」、これが「はし」となったら、どちらの「はし」かわからなくなってしまう。だから必ず発音します。音を響かせます。その辺がクラシックと似ています。これが母音中心の言語で、とても珍しいです。ポリネシア語と日本語くらいしかないといわれています。

 

 響かす、発音、ことばにする。高低アクセントはご存知のとおり、音程アクセントといわれる。メロディアクセント。日本の歌はこれで動いていく。その結果、小さく出て大きくやる。長く伸ばす。高くする。そういうことが目立ってきます。その感覚から発声もそういうことを勉強しようということになってくる。

 

 ところがそういうことを勉強したトップの人の歌い方がこういうふうなものになっていく。向こうの人たちと、日本人の歌を比べてみると、何か古いなという感覚になってしまうのです。

 今の若い子たちはそういう歌い方をしていない。原曲も古いのです。1950年代の曲です。

 

 それを日本の場合は、向こうから入れて向こうより後に歌っているのに、なぜかグループサウンズでも何でも、今聞くと全部古いでしょう。ポップスだからいいのですが、向こうのものはビートルズでもクイーンでも今だからといって、全然古くないのです。

 

 それがどういうことなのか、ことばで聞いていることもあります。日本の場合、ことば自体が古くなることがあります。こんな歌詞では歌わないとかこんな男と女の時代ではないとかいうようなことがあるのですが、外国語というのは、そう変わらない。

 英語でいうとHでハーと吐きます。

「H――――」と吐いているひとつのなかに、拍ができてきます。強拍。これに全部が巻き込まれます。

 

 日本人の英語が、発音は正しいけれど、それっぽく聞こえないのは、弱拍の部分をきちんと巻き込まないでいってしまうからです。ここまで発音してしまう。これは子音が中心、息を吐くことに対して何かを邪魔させるのが子音です。発声からいうと肺があって、息があって、声帯があって、このまま共鳴して出てくると母音になります。ここまでは楽器と同じつくりです。

 

 これを唇や舌や歯で妨げると子音が出てきます。同時に息を妨げるところに、音色が表れてきます。強弱というのはリズムです。向こうのヴォーカルは、いわゆる音色とリズム中心です。

 この辺が本来の発声に関わってくる。なんで高いところがあんなに楽にとれるのかというと、子音の周波数自体が高いからです。周波数というのは音の高さ、ピッチです。もう一曲聞いてみますね。ここで音楽ということの違いを聞いてみてください。

 

 

○歌で不自由にしないこと

 

 日本人は形を受け継ぐようなことで行われてしまうことが多いのです。もっというのであれば、創造するとか新しく何かを起こすことに対して、否定的なのです。思い入れ、ノスタルジーに浸りたいというところで成り立っています。

 ジャズのヴォーカリストのプロもここにも何人かいます。お客さんにいつも歌わされるのはスタンダード、自分のオリジナルや新しい作品を持ってきても、受けがよくない。

 

 海外のアーティストがきてもそういっています。日本で一番拍手をもらえるのは、今、私が一番歌いたい歌ではなくて、昔のヒット曲だ、それをラストにもってこないと、お客は満足しない、でもそれがあるとお客さんはきてくれる。他の国に行ったときは一切やらないし、やりたくもない。今のことをやりたい。今、生きている世界、今、自分が思っていることをやりたい、あたりまえの話です。それは日本人の心情なので、あたりまえのことができない。

 

 いい加減に歌っているところもあれば、歌詞を変えてみても、フェイクしているのもよくわからない。そのいい加減さがポップスの自由さです。声を問うているわけでも響きを問うているわけでもない。

 

 何が決まってしまうかというと、あのなかであの人が3回歌ったら、どの回が一番よかったのかはっきりわかってしまいます。それからオーディションをしたときに、誰が一番いいのかもわかります。要は個性ではないのです。ひとつの土俵の上で、その技術を争っている。だから技術点としては、高い人がよいとなります。

 

 ただバンデラスのように、けっこう適当にやっているような歌い方は、自由度があるから、人と比べられないのです。何をやってもいいというところがある。

 私から見ると、そっちのほうが歌。歌は自由になるためにやるものだと思っています。日本人のようにしゃべったほうが自由なほうが、わざわざ歌って、客を退屈させているという、その構図自体がわからない。

 

 音楽や歌を歌えば何でもありだという。日本でも、そういうところはわける必要は全然ないわけです。実際、今お笑いをやっている人の何人かはミュージシャン志望でしょう。あれなんかを見ているとそれが歌なのです。あれを歌といっていいと思います。ラップといっても。さだまさしさんなんかは、噺家になりたくて上京してきた人ですから、それも分ける必要がない。彼のコンサートはどちらかというと話ですから。歌もいいものをつくっていますが、作詞作曲の才能が入ってしまうと訳がわからなくなってしまう。

 

 創造する製作するといった場合、日本の場合の創造性はメロディメーカーや詞をつくることにかぎられる場合が多いですね。歌のなかでどう歌唱するかの創造ではなかなか認められなかったりします。

 お客さんの問題というより、アーティストがそこまでの創造をしないことに対して求めない。でもトータル力ですから、歌唱力がなくてもいい曲はつくる、いいアレンジができるのであれば、それは作品として認められるのであって、その辺のスタンスの取り方がヴォーカルはいろいろありなのです。

 

 

 

 

 

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【京都 基本の基本 4053】

 

 

 

○イメージと聞く力 

 

 この前の合宿では、課題曲から脚本をくみあげ、それを音の世界にもっていき、ことばと音でつないで表現するステージを、25分をやりました。  

自分がどこで勝負ができるかということを知っていかなくてはいけません。自分がやったことに対して、それをフィードバックしてより正しいものをとっていくことをやっていくのです。  

 

いろいろと必要なことがありました。筋力トレーニングや、心肺機能のトレーニングも必要です。集中力を高めることも大切です。今回は2年前後の人が中心でした。期間は関係なく、トレーニングをきちんと積んでいる人、基本がきちんとできている人というのはすぐにわかります。 

 

 ポップスの場合は、声楽からみると、間違った発声が作品に使われていることが多いのです。でもそれを間違えだとすると、その人の個性のなかのある種一番いいところがなくなってしまうこともあります。そこが難しいのです。  

 

人間の体の原理として、声の出てくるシステムの部分は同じ、声楽の場合と違うのは、上に立つところの出口が決まっていることです。始めに音が決まっていて、音が下げられない、移調できない。ということは、そのキィまでの音域をとることが絶対的な条件としてあるわけです。すると取れないような声の出し方をしていると、間違いということになります。 

 

 でも最初はよくわからないのです。大体は、それが正しいとか、正しくないと判定できる以前の状態なのです。声というのは自分の思ったとおりに出ます。自分で思っているのと違う形でできている人もいますが、少なくとも自分が全然イメージしないようには出ないと思います。  

 

ピアノというのは、勉強したらある程度までスムーズに上達していく。というのは、ミスタッチしたら、それがすぐに跳ね返ってきて瞬時にわかるからです。歌の場合は、音程ミスでさえ、どこがややフラットしているとか、シャープしているとか、なかなかわからないのです。発声に関しても同じです。 

 

 今みたいに声を回している時に、どれくらい声を聞き込めるかということです。それを自分でフィードバックして、それに対して調整する機能がどのくらい働いているかということです。  

だからステージでも同じですが、自分で引き受けなくてはいけません。今のでも、何人かの人はピアノに反応していますが、あとの残り大勢はまわりの声に反応して出しているのです。もうすでにそこで遅れているわけです。 

 

 東京では、クラスが5つに分かれています。入ったばかりの人とは、立っているだけで、顔つきからして見ただけでわかります。眠そうな人なんかは上のクラスにはいません。初めての人たちがダメということではなく、そういうふうに体や心の状態も変わっていかなくてはいけないのです。  

 

レッスンというのは、自分が先に何か出して初めて成り立つものです。自分のなかでそういうものをコントロールしていかない限り、常にオンしてはいけないということです。  

レッスンに来ることはできるし、声を出すこともできます。それはその辺の高校生でもできるのです。 

 

 ある時期おかしくなるのは構わないのです。本当に基本を身に付けるということは、自分が出したものを、感覚のなかで正していくということです。たとえば、息を吐けるようになる、体が使えるようになる、大きな声が出るようになると、どういうふうに自分で選んでいけばいいのかということです。やっているうちにいろんなものが出てくるのです。それを私たちが選ぶのではなくて、本人が選んでいかないといけないのです。  

器が大きくなればなるほど、そのなかでどれを選び、他の全てのものを捨てていかなくてはいけないのです。そういう感覚をきちんと働かせているかどうかです。そうしないとステップはアップしていきません。  

 

 

○走らせていく 

 

 たったひとつの「ハイ」からでもいいのです。ピアノと一緒にすぐに「ハイ」と入れる人と、すぐにパッと入れない人では、それが明らかに大きな力の差のひとつになってくるということです。  

楽器を弾くように、自分のなかに音楽を走らせていくということは、大切なことです。声の世界、音の世界は見えにくいものです。  

初心者の人は、頭で計算して考えているので、リズムでも遅れてしまうのです。上のクラスであれば、15分で1曲終わってしまいます。20分後にはメロディが完全に頭に入ってしまいます。

 

 日本語はつけますが、中にはイタリア語でやる人もいます。  

その人のなかに音楽が入っていたら、それをベースに音楽は作られているわけですから、そうすると、新しく覚えることというのはほとんどないわけです。その人のなかにどんなにイメージがあっても、どんなに考えていても、出たものでしか判断できないのです。出たもののなかで、どこが悪いかを本人が踏まえ、何が足らないかを付け加え、そして変えていかなくてはいけません。 

 

 1回目やったことと、2回目やったことが何も変わらなければ、その人のなかで何も働いていないということになります。  

そのレッスンで何がやれるかということよりも、レッスンでやったことができていないということをきちんとつかんで、家に帰ってから補充しておいてください。だからまず他の人の声や作品に厳しくなってください。そうしないと基準ができていきません。  

 

「ハイ、ハイ、ハイ」  

基本ができていない場合に、トレーニングが成り立たないことがあります。今やりたいことは、息とか声の方に神経がいくようにしておくことです。  

ストライクゾーンで勝負しなくてはいけない世界で、ボールのくそっ球とか、ワンバウンドしたものまで、全部を打とうとしているような気がします。必要がないものは、切り捨てていってよいのです。 

 

 確かに音楽は自由だし、ポップスというのはいろんなものがあります。しかし、基本の勉強をするときには、一応そういうものを外してみなくては、どれを選ぶのかというのがわかりにくいのです。  

だから人間の体の原理に基づいたところで見ていかなくてはいけません。自分の自習練習というのもあります。歌というのは本来、人前でやるのが前提ですから、そこで何を奏でられるかということを自分が実感しなくてはいけません。その実感があって初めて、他の人たちに伝わるということなのです。  

 

1年くらいはほとんどよくならなくても、2年くらいは力が伸びなくてもいいのです。それでは何にもならないと思うかもしれませんが、まったく声しか響いていない空間において、声というのはこういうふうに聞こえてくるということがわかってくる。それとともに、力がついてくればよいのです。 

 

 半年前に比べ、今はこんなふうに歌えている方が最初はよかったけれど、声も全然変わらないし、一人よがりのままだというより、よい。そういう判断がついてきます。「ハイ」をもう一度やりましょう。   

 

他人のなかで自分のことを判断する、そして自分のなかで他の人のことも判断することです。他の基準からいったら、違うという高い基準がもてると思います。基本的にできるということを、問うのであれば、他の才能で外の世界でやっている人はいますが、音を問うこと、声で問うこと、それがあろうがなかろうが、オリジナルのフレーズ、音楽のなかで働きかけられるようにしていくことが表現です。今考えてほしいのは、レッスンも含めて可能性です。こいつは何かなりそうだなというものを出してもらえればいい、それだけです。  

 

 

○働きかけ 

 

 いろんな思い込みのなかで声が扱われています。こうやって全部まねされてしまうということは、感覚として鈍いわけです。  

野球でも、感覚的に打点のところに最高のスピードで送り出すのです。バレーでも、全身を使って、一番自分が、物理的現象として力が出せるところにボールをもっていく。体を一つにして使うということは、声の場合はスポーツよりも難しいことです。歌ももっと難しいです。それはイメージした通りに、できてしまうからです。 

 

 スポーツの場合は、肉体的限界とその問題がすぐに突きつけられますからわかりやすいのです。こんなことをやっていても通用しない、無理だということがわかるのです。そうすると、試合をやらないで基本のトレーニングをやります。  

歌の場合は、大きな声が出る、高い声が出るというだけで、歌だと思ってしまう。そんなはずはないはずなのに、実際に自分でやったときにそれしか見えなくなってしまう人が多いのです。 

 

 「ハイ、ララ」  

単純なことですが、働きかけてくるかどうかです。「ハイーラーラー」だと思ってやっている人は、これ以上のことはできません。それを許してしまう自分を変えなくてはいけません。 

 

 できないのはよいし、体がまだ伴っていないのはしかたないのですが、それよりも先に感覚が伴っていかないと、直らないのです。  

そのことを伝えることは難しいです。その人のなかで「ハイーラーラー」という感覚しかなければ、「どこが悪いんですか」と聞かれても、「通用しない」というしかないのです。他の世界、スポーツとか、学校の勉強とかは優秀かもしれませんが、ただ歌とかトレーニングに関して、そのテンションでやっていてもしかたないということです。  

そんなことに自覚がある人であれば、くる必要はありません。自分でやっていればうまくなります。普通の生活のなかで実践している人がヴォーカルにはたくさんいるのです。これが楽器と一番違うことです。 

 

 日常の生活のなかで、声を使うことに関して、それだけの厳しさを要求されるような世界もあります。そうすると、そういう中から、表現力を獲得できる人というのは、稀にいるのです。  

 

まわりの人に合わせないで下さい。それは、どこにいってもいっています。他の人に合わせていたら、全部間違いになります。それが集団でやるときのデメリットです。それが悪いのかというより、それに気づかない方がおかしいのです。自分でおかしいと思うものは、おかしいのです。どれだけ、それはおかしい、違うといえるかという世界です。そういうことでいうと、ステージの基準というのも簡単なことなのです。  

 

「お前を」「あなたを」  

目をつぶってみて「私は」だけでやってみましょう。それで自分がよいと思ってしまったら、それでよいのです。「私は」の練習をやるのは、ことばとか、声に対して、それだけ神経を働かせるということです。 

 

 それがわからないうちは、わかろうと努力していかなくてはいけません。でも本気になってそれを伝えようとしたら、相当伝わるものなのです。そのときには、自分のよい表情とか、表現が出ているはず、あるいは出せるはずなのです。それは音楽とか、歌から考えてもみたら、かけ離れてしまいますが、年月の問題です。  

 

才能の違いでも何でもありません。自分で「お前は」といってみて、それをOKにするか、嫌だと思うかどちらかです。それはよいものを聞かないとわからないのです。それはその人がどこをとり、どこを捨てるかというような、その人の本当の内部での判断力になります。そういうことを実感していくことです。  

今はできなくてもよいのです。できたと思った瞬間、そこで進歩が止まります。できていないということが、どういうことなのかを少しずつ感じて、感じていたら、やがて力をもつようになってきます。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レクチャー録1 【「歌唱論1」4563】22,691字 1732

レクチャー録1 【「歌唱論1」4563】  1732

 

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【レクチャー「歌唱論」4563】

 

 

○3つの問題

 

Q.自分が歌っていて、うまくないというのはわかるのですが、どこがどううまくなくて、どこをどういうふうに練習していったら、直っていくのかがわからないのです。

 

 ここ最近、紹介で来られる方が多いのです。いろいろなことを聞いて、いろいろなことを思う。ここでやっていることは、すごく難しいわけでない。ここで褒めて認められたら、どこでもやっていける。

 ある程度は論理的につめられるところがあります。うまくないということは、何かしら自分のうまくあるべきという理想像があるわけです。それに対して自分のほうがそれに伴っていない。何をするのかがわからなくても、理想像をきちんとイメージできていたら、いくつかの方策しかないのです。

 

 まずひとつは、そのことができるかできないか。たとえば私がマライア・キャリーのように歌おうというのは、まず男性として生まれている限り99パーセントはできない。1パーセントはできるかもしれない。日本人でも米良さんや岡本さんのような人がいます。あの声があったからできるかどうかというのはまた別として、まずできるできないのところで、すべてできるわけではないということは知っておいてもよい。持って生まれたもの、あるいは体の原点というところがあります。

 

 それからもうひとつは、方法はともかく、アプローチしだいでは今の声でもできるがあると思うのです。感覚がよければ、大体できる。リズム感や音感の問題であれば、そういうことを磨くことによって、できるかもしれない。

 そこに全ての方法があるというのではないのですが、もうすでに今の体でできることなら、やればよい。繰り返してやることなのです。

 

 3つ目は、今の自分を変えることによってできるかも知れないことがあります。

 それぞれにその3つをきちんと見ていくことが、自分の自主レッスンです。

 

 私は、そのイメージ自体、それをはっきりさせることをやっていくことがほとんどです。イメージというのは、ほとんどのアマチュアの人が思っている、こうなればいいなということが、本当にそうなればいいのかということです。

 私が見ている経験からすると、ほとんど違っています。まずひとつは、それは誰かでしかないということがほとんどです。若い人はほとんどそうです。

 

 マライア・キャリーになりたいというのは、適切なイメージの設定の時点でかなり無理なことがある。当人の能力どうこうではなくて、誰もが同じことができないし、同じことをやったところで意味がないということもあります。

 だからそこはイメージの設定です。

 

 要は自分の可能性の延長上のところに、目標を置いているのではなくて、他人のやってきたところ、あるいは自分のできないところに目標を置いていたら、これは誰でも失敗します。でも、多くの場合はそうなりがちなのです。

 それはしかたないのであって、歌い手は必ず、誰かの作品や歌に感動して、その世界に入っていき、その感覚で歌えていることを心地よく思います。

 

 プロの方でも案外とそういう部分があります。だからその思い込みを除かなければいけなません。その人として何ができるのか、上にイメージを置かなければいけない。これがまた大変な作業です。

 私たちも完全にできているとはいえない。というよりは、これはわからないのです。最後まで答えが、果たして、それがよかったのかどうか、検証できません。でも確実に上達します。

 

 

○トレーニングと実践と分けること

 

 「ミリオンダラー・ベイビー」こういうボクサーの世界だと、優秀なトレーナーであって、その経験がある。かなり確実に上達プロセスがわかるだろうなと思うのです。

   ヴォーカルの場合というのは、ひとつはその人が持って生まれたもの、ボクサーにもあるのでしょうが、もっと見えない部分でたくさんあります。

 それからもうひとつは、その時代によってルールからリングから、全部変わっていってしまう。ボクシングの場合はある程度、定められた中での勝負、まさに相対的な部分です。どういう条件が必要かというのは、スポーツはけっこう単純、といっては申し訳ありませんが、一流の分野においてのプレイは別としたら、基本の部分のあるところまでは、単純に早くとか高くとか遠くという力です。それに対して筋肉が、どれだけの強さを持てばいいかというのがわかるのですが、歌の場合は、その辺がわかりにくいというのがあります。だから、その人の延長上に目標が持てるというのは、私が見ているかぎり、ここでも4、5年いて、そのなかでも1、2割かなという感じです。ただ選ぶのは本人なのです。

 

 要は私たちは、材料として示すことはできても、最終的にその人がどう歌いたくて、どういうステージをやりたいかは、こちらは何もいえません。

 ただそのことがあまり有利ではない、できたらこういうほうが、あなたの本当のオリジナリティではないかというようなことを指摘はできます。3、4年付き合って、ようやく本音でいえるようになっていく、ここは早くやめる人はあまりいないので、その方もそのくらいになってきているのではないかと思うのです。そうなって初めて本当の面白さ、可能性が出てくる。

 

 当然、芸能界にデビューする分野と違うようなルートがないわけではありません。研究所で勉強してやっていこうという場合には、あまりそういうところは頼れない。抜群にルックスがいいとかオーディションに全部通ってしまうという人ばかりでない。そういう人がくるようになれば、日本のレベルも上がってくると思うのですが。

 

 皆、出てライブをやりますが、なかなか続けてやっていけない。それはあたりまえのこと、実力の通りなのです。

 いわゆるアマチュアかプロかいう分け方は、私の意識のなかにもないのです。プロの意識でアマチュアをやっていく。お客さんにお金を出してもらうのですから。皆、お金と捉えますが、プロだって儲かっていないのです。ライブをやったくらいでは、皆、赤字です。CDが売れるから何とかやっていけるだけで、ライブだけで、お金がざくざく入るということはない。日本の場合、規模が大きいほど、費用が莫大にかかります。

 向こうの連中のようにギター一本でアコースティックでやっていたら、何百人か集めてというようなかたちで、やれる人もいなくはない。タレントで、昔やっていたような人では、一部いなくはないですけれど、知名度がいります。

 

 時間の問題が大きいですね。今のお客さんが時間を割くということに対して積極的になれるものということになると、何をもってステージかというのが、難しくなってきますした。結局、昔は私は3倍くらいといっていたのです。たとえば5千円の値段としたら、1万5千円の価値を出せばいい。今どき3倍くらいではだめですね。人が紹介してくれない。10倍以上の価値を出さないと、人は動いてくれない。

 東京は、いろいろなイベントや楽しいことがたくさんあります。そういう意味でいうと表現に価値のあるものは、はっきりしてくるような気がします。全身で歌うということは、教わっても身につけるのはむずかしい、というより、必要性ですね。その必要性が叩き込まれていないかぎり、体は動きません。

 

 

○上達をめざしてよいのか

 

 歌というのは逆になりやすいのです。要は上達したいとかうまく歌いたいということは、下手に思われたくないわけです。ミスを指摘されたくない。するとその考え方自体がもう守りなのですから、全身を使えない。

 全身を使うというのは、それだけリスクが生じます。それを分けなければいけない。

 

 そもそもトレーナーの立場からいうと、トレーナーがいるということと教わるということ、学校で歌をやること自体が、上達をめざすことにならざるをえない。そこの見返り、お金を払った見返り、通っている見返りは何なんだ、それは上達することだということになる。本当は違うのですね。

 

 あるいは自分で練習してもそうですね。上達というのは何によって証明されるかというと、まわりの人がうまいねといってくれたり、うまくなったねといってくれたり、それは誰かのようになっていったね、プロが歌っているようなものに君は似てきたよということなのです。元々そこが間違いなのです。

 間違い正しいという言い方もおかしいでしょうが、それは下手に思われないようにやっていくだけのことで、間違いなく正しく歌をこなしたら、客が感動するかということでしょう。商品ではないレベル、芸術品である以上、そんな程度のもので人は感動もしなければ、感動しないということは、人が人を呼んでくるということもない。

 

 その辺が、私はトレーナーの指導で気づいたことです。

 トレーナー自身がいろいろな意味で迷ってくる。私はその答えを持っているわけではないのですが、ここの場合は、すぐれたトレーナーと連携してやっている。

 他のトレーナーはだいたいひとりでやっているので、他の人のことがわからないのです。ここにいるスタッフやトレーナーは、私なんかよりもずっと歌も声もいい人です。そのなかでずっとやってきているので、そうするといろんなトレーナーに対しても、どう判断すればいいのかということくらいはわかる。だから、その辺からは難しいですね。ただ本当の意味の必要性がないから、身につかないことでは、目的を明確にしていかなければいけないと思います。

 

 歌ったものを録音して、それを後で聞いてイメージを違うことというのが多いです。音程やリズムは音楽で入れていくしかないのです。本当の意味では解決できない問題です。歌ったものの録音とそのイメージというのは、これも判断は、難しいのですが、録音というのは録音であって、参考にはなるのですが、作品の、本当の意味での判断ベースにはならない。

 

 練習の場合は、自分がやっている感覚だけで歌がなおるかというと、それよりだったら、しゃべった声と同じです。録音したものを聞き返したほうが、客観性があるということです。結局は感覚だけで本当はやっていかなければいけない分野ですね。ただ録音も使いようによっては効果的だと思います。

 

 世の中のいろいろなものがたくさん見ることができることがなったということは、感覚や判断力を勉強するには、使い方によっては有効なことですね。

 だから、あまりいろいろなメソッドで、振り回されないことです。

 

 

○正しいということについて

 

 正しい発声というと、私は一回、音楽の分野を書くのをやめてしまったのですが、書きつくして、もう伝わらない、むしろ誤解のほうが大きくなってしまうのです。本で勉強したといってここに来られてしまうと、はぁー本なんて出すんじゃなかったと思うこともあるのです。

 

 正しい発声を考えることはいいのですが、正しいこと自体を定義していかないとなりません。私は以前から声楽家と組みはじめて、もともと15年くらい前には日本の声楽と違う立場て書いていたのですが、それは私が経験したなかでの自分の体に対してのことであって、世の中ではそうでない目標をもったり、そうではない歌い方をめざす人がずいぶんといます。

 今回の本にもはっきりと書きましたが、ほとんどの人が、自分の作品や製作することやアーティックなことを考えているのではなくて、誰かのように声を出したかったり、どこかで求められることに対応したいと思っています。

 

 そうなると声楽の方がいいのです。これは全世界で、アジアに対しても成果を上げてきた方法で、歴史も実績もあります。ただ声楽というのもピンからキリまであり、指導者によってもやり方も判断も違う。偉い先生だからといって、すべての人を偉くなるように育てたのかというと、そうはなっていない。相性みたいなものもあると思うのです。

 

 正しい正しくないというのは、案外と相性のようなところで判断されているような気がします。その方は、そこにいるのだから相性が合っていると思えばいい。そこがいいからそこにいるのではないと私は思っています。他にもいいところがあるのかもしれない。

 

 ただ、要はそういう考え方をなくしていくことですね。トレーナーのなかでいわれていることは、皆、自分のところだけは正しいということ、私なんかは自分のところが絶対的でないのをよく知っていますから、こんなことをいうと申し訳ないかもしれませんが、ここから未だにグラミー賞にもノミネートされていない。

 

 でもやればやるほどわからなくなってくるのです。自分にとっては正しかったことも、それが人に対して正しいっていえることはないのです。私は正直にそういっています。

 どこかに行って、伸びたからといっても、もしかして他のところに行けば、その3倍伸びていたかもしれないでしょう。ここでだめだからといっても、他のところにいっても、、もっとだめだったかもしれない。比べようがないのです。

 

 冗談ではないけれど、六つ子でも預からせてもらって、その6人に違う条件を与えて、それで育ててみたら、少しはわかるかもしれません。でもその六つ子にとって相性がよかっただけかもしれない。

 そういうふうに突き詰めていくと、科学的なことや医学的なことも勉強せざるをえなくなる。追い込まれて、いろいろやっています。だからといって、それを元に何らひとつ言い切れないですね。

 原点に戻ればいいのです。人様に対して価値を出しているというところでやれている人、声を使ってやっている人が、どういうステージをやっているか。

 

 

○実績ということ

 

 私は教えない、歌は教えることができないと、平気でいってきたのは、すべて個人がつくり上げるものだからです。よくプロって何ですか、ここに入ったらプロになれますか、いろいろなものをこなしていけばプロになれますか、と聞かれました。なれないです。プロというのは製作する人です。その製作したものが人々に対して価値を認められる、この2つの部分があって成り立ちます。

 

 声は、私は昔は、自信をもってメソッドを書いていました。自信を持って自分の声も他人の声もつくってきました。役者みたいにトレーニングしたら、声楽5、6年やるより、ここで2、3年やるほうが声が伸びる。その実績をここほど残しているところは、他にないのは確かでしょう。

 

 すでに、こんな話を聞いて、敷居の高いところに来るんだから、いい面でも悪い面でもふつうの人ではないというのはあるのです。すぐれた人ばかりがきているというふうには思いませんが、それだけのものをかけてやってきたから、それだけのものはとれると。

 ただ声が手に入って、歌がうまくなったからといって、そんな人は全国にいくらでもいる。そういう人たちがやれるということと全然違うわけです。

 

 やれる人はやれるやり方をとっているというので、私の興味外です。今の受講生には、そんな話も、要は商品や作品というかたちにすべきときに、やることは2つなのです。

 ひとつは、どの時代のヴォーカリストもヴォイストレーニングはやっていない。何をやってきたかというと、一世代前のアーティストのすぐれた作品からすぐれてとったということです。すぐれた作品は誰もが聞いています。音楽関係者は。

 

 そこで普通の人が、1本くらいのアンテナでとっていることを100本くらいのアンテナでとる人がいるのです。そういう存在を知ったときに、こういうところでできることというのは、残りの99本を努力によって何とか立ててみる。ひとつしか聞けないものをどうやって100聞くことができるんだろうということを学ぶしかないのです。それが根本的な私のベースの考えです。

 

 

○歌で起こる間違い

 

 歌というのは自分が気持ちがいいように、好きな曲を歌ってしまえば成り立つと思ってしまうのです。自分のなかでは成り立つ。それは客とはまったく違うことです。

 本なんかですぐれているすぐれていないと、好き嫌いは分けなければいけない。むしろ嫌いな曲ですぐれている曲で勉強したほうが、わかりやすいのです。

 好きな曲というのは感情移入してしまうのです。そのことでこの世界に入ってきたのですから、自分が間違わないことで気持ちよくなってしまうのです☆。

 

 間違えないで歌えただけの曲に、どこに価値があるのでしょうかと。それは声楽でもやっている人なら、皆歌えてしまうのです。そういうところでもっていくのがひとつ。

 もうひとつは、その時代にやれた人間を見ておくこと。それを徹底して研究しておくことです。その時代にやれた人間というのは、すでに研究するには遅いくらいなのですが、それでも自分がその後に出ていこうとするのなら、先輩になりますからね。

 

 その時代の接点がつかない人というのは、やれていないのですね。J-POPをしゃべるより、お笑いの子の話ばかりしています。そういうところで、声ってどう使われているかということをみていったほうがよいでしょう。

 今のヴォーカリストの声に対する鈍感さから見たら、よほど彼らのほうが鋭いし、声に対しても訓練、鍛錬をしています。それにお客さんが判断をします。今のヴォーカルがかわいそうなのは、よくても悪くても同じような反応しかしてくれないということです。客自体が、本来成り立っていないのですが、音楽がついてしまうと成り立ってしまうのです。それでお金が入ってきたり、与えられたりするから。

 

 あれがお笑いだったら、はっきりいうと成り立たないです。もう二度と聞きたくないといわれて終わりです。退屈してしまうだけで、閉じ込められたところから出れないわけですから。ところが音楽は摩訶不思議なもので、特に日本の場合はそういうふうに使われてきました。それも突き放して、本当に意味では見ていかなければいけない。

 

 ところが音楽を教えている人ややっている人は、音楽を愛していますから、そういう考え方を嫌うのです。皆で楽しくやっていればいい、楽しくやっていれば伝わるからと、私からいわせると、本人たちが楽しんでいるものを何で客が楽しめるんだという、あたりまえの話なのですが、求めるレベルでいうのであれば、違うのです。

 

 お客さんは金を払って、時間を費やして、何をしにくるかというと、やっぱりすっきりしたくてくるのです。うっぷんを晴らしたいとか。いろいろな思いがある。それに答えるステージをしなければいけない。延々といい声を聞かされたり、得意げに歌声を披露されても、そんなものはつまらない。

 声楽でも歌唱にすぐれた人が、ステージを全然できないというのは、そういう部分があります。それから時代というのもあります。

 

 何か音楽をいうのは、皆のプライドをすごく上げてしまうようです。私は役者やお笑いの奴らと接していますから、底辺で本当に虐げられる、灰皿をぶつけられながら生きている連中を見ると、これは5年10年経って、力が逆転するのはあたりまえだなと思います。

 というのは、日本のミュージシャンや歌い手というのは、自分を変えないことが正しいと思っているのです。今の若い人の多くがそうなのです。そんなもので自分が通用する面白い場があって、その面白いことを見せれると。

 

 私からいわれると芸事というのは、それで通用できるのならもうしているというのが現実です。17や18で、それで通用している人がいるのだから、その年齢をすぎてしまったら、変わる以外にないはずなのです。だから、そうすると変えたくないというのですが、役者でもお笑いでも、あれは地ではないです、芸ですから。歌でもそうです。

 

 日本の場合は、そういう地が出ている歌をサポートする人がいるわけで、複雑な問題がいろいろありますね。そこを見てしまうとわからなくなってしまう。それでやっていけるのだったら、やっぱり在日韓国人の方がよかった、目の見えない人の方がやれたのではないかとか、芸術的なことと関係ないところで行き来する。

 

 そういうものを背負って、芸術的なところでやれている人はいいのですが、少ない。そうでないところでやれていくというのは、本来おかしな話なのですが、日本の場合は、ストーリーで動いてしまっている。だからそういうストーリーづくりからプロデューサーも入っていける。

 そうやってしまうから余計に本人に訳がわからなくなってしまうというような気がします。

 

 

○はまり込まないために

 

 歌いたい曲や満足がいく曲に追求していくことが本質ですね。ところがトレーニングをしていくと、声にマニアックになって、そこからそれていく人が多いのです。レクチャーのレベルで判断していることのほうが案外と正しい。距離を開けて、その世界に入っていないと、案外見えるのです。歌って今の日本の歌は下手だと、正直に入ってきます。

 ところがトレーニングをやりはじめてしまうと、なまじ自分の声のことに全て関心がいってしまい、今度はそれが見えなくなってしまうのです。

 そういう人たちは決まってまわりを否定しはじめます。だからけっこう大変です。いろいろなところで習っている人たちがくると、机上の会議となる。

 

 私もよく本の感想で、「先生のおっしゃるとおりのことを私は考えていました」というようなことをいわれますが、そういう人もいるだろうなとは思いますが、だから何なのということです。そうでなくて私の作品はこれと送ってもらうなら、いいのですが、思想や論文でやりとりするわけではない。

 ただ同じことを何度もしゃべらなければいけないから、本にしておけば同じようなことをいわなくてすむという程度のことです。

 

 リズム感がいい悪いとか、音感がいい悪いとか、考えないほうがいいです。曲を聞いて、いいと思ったら、そういうことができている。悪いと思ったら分析して、あまり音やリズムがどうこうといっているより、やるだけです。

 声楽のところにも、組まれていくことがある。ポップス的な感覚が知りたいという、今の時代の歌も知りたいということです。別の時代で違うものではない。

 

 そういうところで出てくるのは、「サの発音がうまくいかない」、「それでお客さんが感動しない」とか、そんなわけない。そんなことで歌が成り立たないという話ではないのです。表現がないから、そこに逃げているだけなのです。

 クラシックなら当然、歯並びが悪い、歯が一本欠けているために、共鳴のレベルが落ちるということがあります。私からいわせるとクラシックもポップスも、ステージができていないということは、そんなことをお客さんは期待しているのではない。それをどう直すのかというようなことは、歯医者さんと相談すべきことの問題です。しかし、案外そういうふうになってしまう人が多いのです。

 

 音程が悪いとかリズムが悪いとか、それさえよくなれば、歌がうまくなると思っているというのは、カラオケのレベルの話で、それを直しても、すごい下手だ、音程が外れている、リズムを悪いとかいわれなくなるだけです。価値が出ることとは全然違う。

 

 学校の場合は、そういうことを第一段階におくのです。そこから入ったほうがわかりやすいということで、そういうレッスンをするのはよい。作品からいうと全然関係ない。作品をつくるときに、誰が音程やリズムを考えてやるかということです。

 

 伝えるということを考えたときに、きちんと効果を踏まえて、それをより人に残そうと思ったときに、その辺が整理されてくるものです。最終的にリズムも合わないはずがない。

 合っているというのは正しいことに対して合っているということだから、そういうものを無意識にふまえた上で表現をつくることによって、ようやく人に効果を与えてくるということになってきますね。

 

 もっとシンプルなものにしていかなければいけないのです。歌や音楽になると、いろいろなものを習って、それの総合力でやろうという考え自体がおかしいことです。裸で人の前に立って、何かを伝えたいということをやっていたら、音楽が生まれた、そのままで歌とかいう部分をもっていなければなりません。学校で周辺のことをやるほど、複雑になってわからなくなってしまうのです。

 

 

○補うという考え方

 

 戻ればいいのです。アーティストってそんなことをやったのだろうかなと。ほとんどの人はやっていない。でもそういう人は、とても鋭い勘があった、素質があった。といわれてしまうのだから、その部分が自分に欠けている。それをトレーニングで補うために音感やリズムのトレーニングをやるというのがいいことだと思うのです。

 それは補うことであって、それをやったから歌がうまく聞こえたりよくなることではない。もともと音感やリズム感って何なのかというと、人が聞いていたときにすごく心地がいいと思ったりノリがいいと思ったりする感覚でしょう。その感覚自体が自分のなかに入って、それによって正されていないことのほうが問題なのです☆。

 

 それは入れていくしかない、ある程度入れていけるものだと思います。音楽は再現芸術です。

 たまたま17、8歳で器用で、そういうことができているなという人は、音楽を聞く回数は少なかったかもしれないが、そのなかで、そういうものがうまく入れられた人です。いわゆる筋がいい人たちです。

 

 こういうところで勉強する人は、16や17歳ですごいことができない人を筋が悪いというと、筋が悪い人です。それをひとつの音で正していてというやり方だけではなく、もっと音楽のベースというところで、音符で書かれていないことやリズムで動いているところを知ることです。そこに、人の心を捉えるものという動きがあって、そこをきちんと捉えていかないかぎり、あまり意味がないのです。

 

 そういうあたりまえのことがレッスンやトレーニングになったら、出てこない。それをトレーニングにしたりメニューやグループにしたりすると、大切なことが欠けてしまうことが多いので、個人レッスンに切り替えていきます。

 

 どうメニューに落とすのかというのは、けっこう難しいことです。最終的にいうと聞くしかない。

 行き詰ったら、もっとたくさんの曲をよく聞きましょう。リズムのいいものを聞いたほうがいいのではというしかなくなってしまうのですね。そんなものを聞いてみたもので、そんなもので直っているのであったら、直っている。だから聞き方を学ぶ。

 

 

○記憶をつくる

 

 私がここでよく使うのは、徹底した比較です。ひとつの歌を何人も歌っているもののなかできちんと見ていく。とても細かく見ていく。

 

 耳をつくるのと同時に記憶をつくるということです☆。トレーナーの力というのは、声の力とは、私は今は思っていなくて、昔は、トレーナーが優秀かどうかは声を聞けばわかるといっていましたが、今はどうでもいいと思っている。耳です。

 どこまで、音楽が見えるか、細かいところで比較できるか、その人の何を認め伸ばすかというところがあります。

 

 私が最初にやりだしたときは、皆、私よりレベルが高かった。最初、引き受けたのは、皆プロでした。向こうは全部、歌える。何を頼られるかというと、それがどう歌になっているか、音楽になっているかというところなのです。

 今でも30年くらいプロをやっている人、ここで1曲歌ってもらうと、まわりが見にくるくらいにうまいのですが、そんな人がここに何をしにくるのかというと、思い込みの排除です☆。

 

 こう思ってそれだけで歌ってきたが、正しかったのか、ほかの可能性があったのか、そういうことを勉強したいということです。

 歌い手は決めたとおりに歌ってきますから、器用でやれてしまった人ほど、そこを落としていることがあるのです。

 

 自分では思い込んだままやっていったら、もしかするともっといけたのではないかとか、もっと世界的に通用するような歌にやりようによってはなっていたのではないかという、目標からのフィードバックもあるのです。

 そうなったときに自分だけでは客観視は当然できないわけですから、どうやっても自分のやり方は持っている。それを崩しにくるのがここです☆。

 

 プロでもレベルがそんなに高くなく、10年くらいやっているとして、そのなかでは優秀、日本のなかでも優秀でも、私はひとつのシミュレーションのなかだけで通用するものだと思っています。ソロで通用するというのも、シミュレーションのなかで通用すればいいわけです。ただ音や声の判断が必ずしも絶対的なものとして、あるわけではない。

 

 

○客観的基準のあり方

 

 私はこういうことをできるのは、ここしかないだろうと思っていましたが、ミュージカル劇団でも、主役級のことをやっていると、ほぼ同レベルには身につくようです。

 まずダブルキャストだから、比べられます。同じ演目をやっていくので、いろいろな人がその同じ役をやっていくのを見る。誰かがやったときによかった悪かったというのを、長期にわたって見ることができます。トレーナーとしての、すぐれた判断力がついていきます。

 

 10年くらいやっていてもソロではわからない人もいるのですが、そのレベルまで集団でやったらけっこうわかる。

 音大の声楽科ということでは、いろいろな先生について、ある程度、客観性が持てるということです。

 一番、とれないのはポップスの歌い手ですね。自分でしかやっていないから、自分に通用することが人に通用すると思っている。低いレベルではそうです。

 

 たとえば30年やっている人が20歳くらいの人に教える場合はいいのです。しかしプロに教えられるかといったら、合わないと思うのです。

 それは、共通の部分の根本の基本に戻っていないからです。しかたないと思うのです。

 

 現役活動をやっていると、どんなことをいっても自分の好きな歌が気持ちいいのです。それに対して基準が設けられる。それは発声の基準とは違うし、その人のオリジナルを生かす基準でもないのです。そういう意味がいうと、難しい。

 

 昔みたいに歌い手もアカペラみたいにマイクがあまりよくなくて、声量でがんばらなければいけないときは、ひとつの基準として発声が確固としてあったのです。

 まず声が大きくて響いてなければいけないというのがありました。そうするとそれが第一だから、基準が統一してとれたのですが、今のようにしゃべる声より小さく歌ってもよいというふうになったときに、何をもってプロの歌というかというのは難しくなっています。

 逆にいうと、全身で歌うとか声を細かく調整しなければいけないところまでの高い基準を求めないと、わからないということになるはずなのです。

 

 

○大きなギャップをつくる

 

 その人がどこまでいくのかはその人の人生で、プロであろうがアマチュアであろうが、プロがアマチュアの上であるとは私も思っていません、ただ、目標として、最高のものに設定しないとトレーニングが成り立たない。

 もっとはっきりいうと、ちょっとうまくなるのでいいというのなら、自分でやりなという。体や感覚を変える必要性がないのだから、マイクのエコーを調節したほうが、うまく聞こえるようになるわけです。

 

 そういうところになるとトレーニングは成り立たなくなるのです。それから選曲もそうです。たとえばここのクラスの10人くらいのほうがうまく歌えるような歌手の歌い方を、プロとして定義してしまったら、あのくらいには歌えてしまうのに、私には仕事がこない、となる。プロになりたいのに、目標にできないのです。

 

 すごいヴォーカリスト、すごい歌があって、それに自分は1秒も同じことができないということだから、ステップアップできるのです。ギャップがあるから伸びるのです。

 トレーニングは逆です。皆ギャップを埋めたいと思ってくるのですが、ギャップをつくることがレッスンです☆。

 

 プロの人は歌えていて、お客さんもいるしコンサートもできる。そういう人は、そこでのさらに大きな、細かいギャップを見たいから来るのです。

 この歌で通用しているつもりでも、本当に歌っているということとどう違うのということで来るのです。

 本当に歌うというのは大変です。1分のなかで奇跡のようなことが起きないと、本当の状態で歌えるとはいえない。初めて目標を設定してやったときには1秒も2秒ももっていないわけです。そのことをプロにわからせるのは、なまじやってきているだけに、難しい。

 

 いろいろなこなし方を知っているからです。こちらが破綻させるようなことをさせる。声を上げてください、3倍くらいに伸ばしてくださいとかいっても、それなりにこなしてしまう。今までの経験上うすめて、こなす。

 それがプロの強いところです。ステージに出てしまったら、お客さんに対して失敗は許されないところで感覚が研ぎ澄まされています。

 だからそこの矛盾を突いていけるのです。要は1分の曲を1オクターブ以上にわたって展開するというのは、そんなに簡単なことではないのです。

 

 日本人で本当にやれている人はいるのかほとんどいないくらいに大変なことなのです。

 ということは、プロもそれをきちんとやっていない。1ヶ所だけの1秒で、半オクターブやったらそれの10倍くらいの表現ができるということを、仮に1分のなかでやっていないとしたら、それはごまかしだけ。プロというステージでいうことであれば、それはバランスをとったということになるのです。

 

 

○ギャップをつめない

 

 たとえば体の流れから見てみたら、そこでは2秒空けないと、どうしてもその人が入れないという場合には、ここのトレーニングでは、そこで2秒空けさせます。抽象的な言い方でわかりにくいかもしれませんが。楽譜上、曲のテンポでは0.5秒しか空いていない。もちろん、プロはそこを0.5秒でさっとやるやり方を知っているのです。体を使わず、マイクや口先を使ってやる。ステージにいたら当然そのやり方をやるのですが、私のレッスンのなかではそれは許さない。それを許してしまったら、ここに来る必要がないのです。

 

 あなたの今の感覚では2秒が限度だ、きちんと歌をつなげるためには2秒空けなさい。半年たったら、もしかすると0.2秒縮まって1.8秒になるかもしれない。次に1.5秒になるかもしれない、1秒になるかもしれない。それで0.3秒くらいのところまで、自分でつなぐ感覚のところまできれば、ようやく0.5秒の歌がこなせるようになる。

 

 このように、あくまで体や感覚を中心に考えていく。歌はどこかから与えられたものですが、それにあわせてやること自体が大きな間違いですね。

 でも上達したいということは逆でしょう。素人が0.5秒で入れない、といったら、先生が、これを丸覚えしてみてといって、パッと入れるようなことをやる。そんなことを覚えてしまったら、勘のいい人は0.5秒なんて簡単に入れてしまいます。高校生でもいくらでもいます。そうするとトレーニングやレッスンは成り立たない。

 

 だから本当に難しい問題です。でも明確です。さっきの6人は皆さんはいろいろなことを書いていると思います。好き嫌いはあると思うのです。でもそれのどこかの一部分を切り取って、パッと聞いたら、これはアマチュアではないなというのはわかると思います。

 その部分をつくることがトレーニングの目的だと思います。今の日本のヴォーカルのなかでは必要条件ではないと思うのです。そんなものなくてもプロになっている人はいるし、そうでない人のほうが多いです。だからまた現場と両方をやっている私としては、難しくなるのです。

 

 

○歌の判断

 

 最終的には、ここに入ったあとも歌をどうつくるかは自分でやりなさいと。やったものに対してこんな可能性があるのではないかくらいはいえるけれども、こうやりなさいとかこうやったらこうなるというのは、あまりいえないということなのです。

 

 けっこうメインのことをいいました。歌をどう判断するかというのは、そういうことです。自分の判断力をつけていくということで、それは自分の作品のイメージなんだから、そういうふうに生きて、その感性を磨いて、そのうえで正されるように正されていくしかないというのが、最終的なことです。

 

 トレーナーはこの点、レベルがすごく低く、未経験の人が多い。プロデューサーや演出家のほうがずっといいです。同じように見てもらえばいい。

 

 演出家というのは何をやっているかというと、台本を音声に置き換えている。その音声で置き換えて人を感動させることを、指示しているのです。

 本来そのイメージなんだけれども、その人がそういう声のまわし方ができないから、そこにヴォイストレーナーというのが必要なわけです。

 

 演出家は、声のこともけっこう知っています。舞台で学んでいるのです。自分なりの経験でも知っている。彼らの求める声と、私たちのやっている声も、また少しずれるのです。彼らの場合は、演劇上のなかで通用する声で、昔の役者だったら、クラシックでも演劇でもまず声量が必要だということで一緒だったのですが、今は声量がなくてもいい。どちらかというとJ-POPと一緒ですね。

 

 この前、ミュージカルのオーディションをみました。もう生まれたて声がいいというレベル。それは私は認められないのです。説得力もない。でも演劇のなかで使えるのは、ミュージカルと同じで、役柄がある。きのこしかできないという子にも、可能性はある。 ところがソロのヴォーカルの世界は、オンリーワンといっても、それは、ベストワンなのです。

 

 人を不快にさせたりびびらせたり嫌な思いにさせる声のトレーニング、そういう声を出すと喉がつぶれる、あたりまえなのです。相手が不快になるということは、相手が不快になるということを起こさなければいけないわけです。そんなのはノウハウにはないのです。声で、人を不快にさせるやり方というのは、アンチノウハウ。

 

 特に声優や役者、特に悪役の吹き替えなんかは、すごみをきかせるとか、必要です。すごみがあったら歌でも通用するようなところがあります☆。

 そんな使い方があっても、日本でそういうことがなぜできないかというと、もともとオペラの人は正しく勉強してきたから、喉が弱いのです。外国のオペラ歌手は、私はたくさん知っていますが、しゃべり声がいいですね。

 

 日本のテノールなんかになってしまうと、普通の人より声が悪くなってしまいます。そこでロックをやらせてみたり芝居をやらせてみたりしたら、喉をすぐに壊してしまうからです。ミュージカルでは劇団によりますが、半分以上が声楽出身者、あとの半分は役者出身者、くっきり分かれています。

 

 役者のほうは感情移入ができて感情を伝えられるのですが、高い音が出ない。原調でやるミュージカルでは難しい問題が出てきます。どうしても声楽家を使わざるをえない。

 ところが声楽家の声はきれいなのですが、インパクトや説得力、個性があまり出てこない。本来はそんなに分けられるものではなく、両方があって歌手であるべきなのです。その辺は、課題です。

 

 最近はお笑いの人から学ぶことのほうが大きいです。彼らが4分45秒の作品をどうつくっているのかを、声だけで聞いて、彼らの振付やアクション、ギャグはともかく、声だけでつくられた間のとり方、つっこみ方、声の動かし方、そのなかのメリハリのつけ方、ドライブ感のつけ方、呼吸の間合いをみています。ひとつ外したら笑えなくなります。

 そういう漫才やコントを見て、それを他のプロの組がやってみたら通用しない。今のレベルの高さのなかでは、あのキャラクターがあって、あの声があって、ネタがきちんと生きる、それこそ、私が本来歌の世界やヴォーカルの世界でやりたかったことです☆。

 

 ギターやドラムがついていれば、そこで何を歌っていても通用するみたいな基準のない世界ではない。ただ音楽は音楽ですからという部分もあって、考えなければいけないことが多い。

 

 

○海外のトレーナー

 

Q.ジャズであろうがポップスであろうが、すべて基本は同じだといわれたことが印象的でした。ですが、先生の本のなかに、日本人がヴォイストレーニングをするときに、日本人に合ったヴォイストレーニングをするべきだということが、ありました。ジャズピアニストについてヴォーカルをやっております。フィーリングや感覚のために、ヴォイストレーニングをしたらもっとよくなるはずだというふうにいわれました。私が考えているのは、本当の基礎の発声です。とにかく自分の課題としては、お客様が聞いたときに、耳に心地いい音で残る声、それとロングトーン、それが課題だと思ってやってきました。

 

 ここを出て、15人くらい留学しています。アメリカだけではありませんが、L.A.はずいぶんと行っています。うちのトレーナーも今住んでいて今度、来ます。私もいくつかの学校も昔は関わりがありましたが、外国人のヴォイストレーナーで、アメリカはピンキリですが、それこそ日本にもきていますから、私がわかったことは、日本人に対してはとてもビジネスライクにサービス精神旺盛といったら変ですが、むしろコミュニケーションにおいて、音楽を楽しむことを主にしている。それはよいのですが、同じ土俵ではあまり相手にしていないということが多いですね。

 というのは、現地のヴォーカリストに対して、厳しくやるトレーナーが、日本人に対してはやさしく教えています。それだけ実力の差があるから、彼らが本当の意味の才能を発揮できない部分もあるし、ある意味では手を抜いている部分もあるのです。それは実力社会であるかぎりしかたないと思います。

 

 ヨーロッパあたりだといろいろな個性があって、むしろ教育的な考え方をとっている人が多い。トレーナーや国がどうこうというよりも、個人で全然違う。でも、レッスン生が、伸びるとかいうことではなく、本当はたいして伸びていないのに、そうみえるようにする。つまり、基本のなさを応用力でカバーする分にはプロフェッショナルですね。感心させられます。

 

 日本人に対しては、音楽を本当に楽しめていないのだから、ステージパフォーマンスからやるべき、最終的にヴォイストレーニングはステージパフォーマンスであるということ、それは私も似たような考えです。

 ステージで通用しなければ、意味がない。やっている間に、生徒が自分でやれたと思う。まるで今どきのサラリーマンの上司。その9割は私から見たら、彼らの才能の演出です。組み合わせによるものです。彼が抜けてしまったら、かたちだけは残るけれど、残らない。そういうことでワークショップなのです。

 

 個人レッスンでいうと、ほめて伸ばすという方針は、私は見習わなければいけないのですね。たしかにその上でデビューできるかは当人の問題です。

 根本的な問題のところには踏み入っていないというのは、もう10代でまわりから所望されている人、天才ですごいという人でないと、向こうはまずヴォーカルというのを選ばないのです。

 

 30歳になってからやりましょうということで入れる世界でもない。そういう人が10才までに育った環境というのは、意識下にない。彼ら自身はトレーニングをしては取り込めないのです。すでにそのレベルの高さからいって、大学で勉強して、ロックをやってオペラを勉強している。

 

 音楽的にすぐれた人に期待してつけたこともあるのです。喉を壊してしまったり、自己満足のなかで終わっていることが多い。言語の違いというのが、一番大きい。

 外国人に英語を勉強するというのもいいのですが、ネイティブにはなれない。だからといって、日本人が勉強しても無理。しかし、音楽は総合的なものですから、そこの部分がなくても、臨界期の壁まで戻して音を捉えるということは、できなくはない。それに近いことをやってきたつもりです。

 

 私も向こうの耳で聞いて、日本のものを受け入れられなかったのだと思います。日本で生まれて生きて、日本語を聞いて発してきた以上のことを、外国語でやれば、それに近い感覚になるというのはある。音楽に対してはたぶんそうです。その感覚の切り替えがないと、できない。日本人の考え方で伸ばしていくと、クラシックと同じになってしまうのです。テノールやソプラノと同じ発声で、歌っている人がいないわけではない。

 

 向こうの人の発声は、日本のなかでは日本人は少ないです。

 感覚では綾戸さんなんかは、日本の声でハンディキャップがあるなかで、音楽の動かし方を知っていてやっている部分はあります。日本の歌を歌ったら、向こうのヴォーカルより高いレベルの作品をつくっていける部分もある。そもそも比べると、違いがわかるので、イメージの設定になると思うのです。

 

 日本のジャズは、日本人の客が多い。外国人も聞くし、英語でやられている。そこでの感覚の切り替えができない。聞いてみるとわかると思います。

 ロングトーンの問題は、息の効率の問題にもなると思います。ヴォイストレーニングで、たったひとつの声を3秒キープするということからはじまる。レベルが高いか低いかわかりませんが、そのなかで多くの問題がありますから、それだけを徹底してやるひとつの方法だと思います。

 

 

○声優のトレーニング

 

 声優は、ここでも、けっこう引き受けるようになって、声優ブームのときに、近くに声優やナレーションの学校があるせいか、よくいらっしゃった。学校は、現場のことしかやらないのです。マイクや用語知識のこと、掛け合いのようなことばかり、すると声がある人はいいのですが、ない人は、何年やっていても変わらない。小さいころから大きな声を使いまくってきた人がどうしても有利な部分があるのです。

 

 ここの初期の目標というのは、役者が、3年や5年で声が変わって、そういう声になるなら、それを効率的にやれば、そのベースくらいのことが早くハイレベルにできるのではないか、そこから歌に入ろうというところです。

 声優役者は、そこだけ使おうという考え方でいらっしゃる。グループでやっていたときには、ヴォイス科をヴォーカル科から分けた。ヴォイス科のことを2年やって歌をやりたい人はヴォーカル科、そこまで高音発声もロングトーンも、複雑なリズムもやらない。聞き込むだけ。

 

 徹底して、体と声のことをやったら、2年でできるわけではないのですが、早い人はそういう感覚がつかめたり声が出るようになってくる。2年でできた人は、その前に8年以上ありました。本当の意味でいうと10年いるというのが、実感としてはあります。

 声優さんでも、私は出口から考えます。仕事が来なければ続かないのです。

 

 事務所に所属すること、もう一つ、そのなかで自分にくるキャラクターや絶対的な強みが必要です。ギャランティが安く、競争率が高い世界です。生計から考えたら何もできない。ヴォーカルも職業として成り立っているわけではないから、同じです。むしろ声を使う分野での仕事と考えたほうが、いい。

 今後、声優としての仕事は、たくさん出てくると思うのです。デジタル放送や世界中の翻訳など、でも、お笑いやタレントさんのほうがずっと使いやすい。

 

 レベルが違います。声優学校にいって、ちょこちょことやっているのと、人前での舞台を仕切ってきた人の使い方は、現場で磨かれ、実践的この上ない。今、どんどん変わってきています。この前吉本興業はアナウンス部をつくりました。アナウンサーも吉本出身でしめられかねない。要は放送局でルックスだけでとられた人は、アイドル的な要素、でもアイドルならもっとふさわしい人がいます。

 

 声のレッスンということより、役者とトレーニングをやっていると、メニューの効果ではない。教えているから、声がよくなるのではなく、現場に出てその必要性から直っていくわけです。最初5分で10回くらいかんでいたのに、本番になったら1回もかまなくなってしまう。練習量が違う。50倍くらいやっている、24時間それに生きている。そのため、とことん貧乏。優先順位が違います。

 

 携帯を持って、そこに5千円でも1万円かけるのであれば、自分の勉強にかけること、そういうことがまわっているのは、日本のなかでもかぎられて、そういうところでは人は育っています。一部の落語家のところでも育っていますが、あとはだめです。

 

 それは学ぶシステム、環境ができているところです。あなたが、目標を定めることです。声優の学校に行くのもいいと思います。

 誰でも入れるところに入ったことでは、何の価値もつきません。誰もが入れないところに入ったとしたら、少しは価値がある。

 

 声優であこがれている人も、何かから入ってきていると思うのですが、その人に直接つくのがいい。その人は弟子をとりませんという。でも、昔は弟子とらないという先生に、10回でも100回でも行って、それで弟子になったものです。

 「ミリオンダラー・ベイビー」ではないですけれど、人と何かしら違ったところで選択していかないかぎり、道は開けてこない。そういうことからだと思います。

 声優という職で考えるよりは、ヴォイスアクターという分野で、声を使って何かをやっていく。生活がしたいのなら、声優という肩書きだけではけっこう難しいです。ひとりで5役くらいのことをやれること。

 

 要は5役やって、2役分くらいのギャラをもらう。そうすることで何とかやっていく。

 そういうこと徹底してやっていくのであったら、やりようがあります。学校へ行って、それで卒業できるレベルでは通じない。そういうことに皆が関心を持つのはいいのですが、アニメの声のまねから始めないほうがいいです。自分に合っている声ではないから、けっこうつぶす可能性が多い。

 そういう人をも引き受けています。潰してしまった子やうまく声が出なくなった子は、同じことが再発するのです。そういうものをまねてトレーニングをすると、喉はつぶれてしまいます。本当の自分の声でないといけません。だから急がないことです。

 

 昔の声優さんのように、役者から入るほうがいいと思います。役者の養成所に行って、体から徹底的に演技をすることを勉強した上で、それを声優の分野に生かす。そうでなければ一人舞台や漫才、そういう分野から入るのもひとつの勉強だと思います。

 下手にヴォイストレーニングをやるくらいなら、そういう舞台をやってみたところから声の力がないと感じたほうが、早くよく身につくと思います。

 

 そのレベルの上で来ると、もう少し高いレベルに見合うことを与えられます。どこかに行けば身につくと思うと、依存症になってしまいます。私は音楽スクールに行っていて、アドバイスしています。「スクールに入れて依存症にしてはだめだ、ただでさえスクールにくるというのは依存症なのだから、ロックやるといってスクールに来るのはおかしい。」ロックやる資格がないわけです。

 でも、それでも行くというのは間違いではないと思う。すごく向上心があったらそうする。なのに、それで通うことで満足してしまうから、何も生まれてこない。そういう意味ではいろいろな経験をしていくのはよいと思います。

 

 

○研究所の利用法

 

Q.音楽をやったことをなく、本を読むのですが、どれをやったらいいのかがわからない。やっても自分のやっている練習が合っているのか判断がつかない。だからずっとやっていてもこれで合っているのかというの疑問が生まれてくる。しっかりと自分のやっていることが合っているか間違っているかを教えてくれる先生がいればいいと思います。

 昔、別のスクールに行ったのですが、いつも違う先生にやってもらうことになって、しっかりとひとりの先生に見てもらわないとわからないと思ってやめてしまいました。

 

 歌うために理想的な姿勢、深い息、体から声を響かせて出す、音域を広げるレッスン、迫力の声を出す、リズム感を養うなどは、練習方法のことですね。耳で聞いて、その音を正しい音におく方法、日常の練習、マンションでできる練習などもですね。

 

 ここは年代も、いろんな方がきている。職業欄のデータもありますが、私はあまり知らないです。昔から、ここにはどういう人たちがいて、その人たちから刺激を受けられるのかという質問、そういう人は入ってきてほしくないと私は思いますので、正直にそういうことをいって、遠ざけています。

 だいたいどこでも同じで、ステージだから自分は力を出せて、練習場所だったら、出せないというのは、おかしい。本当にやれる人は練習場所で目立ってきます。まわりがこいつやれなければおかしいのではないか、と思うようなことをぶつけてきます。

 そうでないタイプというのは、どこかで大化けするのをこちらが期待して待つしかないですね。とてもシャイな人も、ステージはすごく派手にやっているのに、こういうところに来ると猫かぶったようになる人もいる。それはそれで長いなかでわかる。地道にコツコツ積み上げていく子、最初だけの勢いという人と、いろいろな人がいる。

 

 私は、研究所のなかや外というふうに、分けて、考えていません。入ろうが入るまいが、いろいろな人から勉強しましょう。ただ、勉強する人とやっていく人はちがう。私もいろいろな人から勉強しました。いろいろなところに行ったり、いろいろなことをやったところで、足りないことがどんどん出てくる。

 たとえば、こういう組織をもっていると、毎日のように次々と問題が上がってきます。それに答えるためには、相当いろいろなことを勉強せざるを得ない。

 

 よくいろいろな話をすると、恵まれた人生を生きてきたんだなというようなふうに捉えられますが、そのときそのときは、とにかく前を見ている。やるしかないのです。その結果として、あとで人にしゃべるときには、研究所の方法の理屈や理論も、後からついてきたものです。

 

 直感的にやっていく。やっていった結果、結果は跳ね返ってきますね。それをフィードバックしてみて、またやっていく。プロになりたいというと、オーディションで、プロダクションに拾われる。というふうに、考える。

 そんなことは前の世代がやってきたことです。あなた方は若いのですから、何でも一からやればいいのです。今、何でもありますから。昔はCD1枚つくるのも本一冊出すのも大変だったのです。今は大学生でも高校生でもできる。全部のツールがあるでしょう。

 

 それから、親を扶養したりとか、苦労している人はいますけれど、苦労しているから偉いとは思いません。誰でも事情がある。作品ができてから偉いと思います。一所懸命やることと結果が出ることは、同じではないのです。そういうふうに自分が今、何かをできる状況であるのなら、やればいいのです。やらなければ時間だけがすぎていく。歌を歌いたければ歌えばいいのです。

 場所がない。どこでもいいのです。若いうちにやらないと、だんだんできなくなります。大変になってくるのです。

 

 やるなら、どこかで飛び出さないといけない。どちらにしろ、人様に自分をさらす商売です。体面とか恥ずかしいとか、言い訳が出てくるようであれば、向いていないと思って、やめたらよい。どうしても本当にやりたくなるまで、何か違う仕事をやったり、まったく向いていない仕事をやってみればいいと思うのです。

 

 そうしたら、本当にやりたくなるのかもしれない。やりたいではなくて、やるしかない。そのやることに対して、何かが足りなければその力をつけるしかない。迷っている時間は大切ですが、無駄です。本当にやりたければ人間というのはやっています。

 あなたの歳でもやっている人はたくさんいる。やったからといって、そこで何かが出てくるわけではないから、そこからの勝負です。でもやらなければどうしようもない。そのために人に会いに行ったり、こういうところに来るのは、とてもよい経験、勉強になると思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「行動しよう、声を出そう」 1731

「行動しよう、声を出そう」 1731

 

 

 あなたたちは、いま判断できるレベルよりも、ずっとたくさんの情報を得ています。

その結果、逆に行動しなくなります。情報から、結果を予測してしまうからです。

 しかも、情報があまりに多いため、目でみて手間をかけて比較することもできないので、

選択の判断さえ、情報にまかせてしまいます。

 

 やってみてもないのに「やってもムリだよ」と答え、動かないのです。

そこには、「やってムリなら、無駄、損した」というような、

せこい省エネ思考や経済観念が見受けられます。

「やってムリなら恥ずかしいし、バカみたい」

と安っぽいプライドみたいなものに支配されているようにも思います。

 

 声を出したり、他人に声をかけることも、

同じように思っているのではないかと、心配になります。

 

「あなたは、この二日間、何も食べていません。お金ももっていません。

さて、どうすればよいのでしょうか」

あなたにそのように聞けば、どうしますか。

「ネットで検索して調べます」と答えるかもしれません。

何十時間、ネットで調べても、おなかはふくれないでしょう。

メールで、食べものを送ってもらいますか。

 そんなものは投げだし、すぐに外に出て、通りすがりの人に片っぱしから事情を話してみたら、

どうでしょう。

 たぶん一時間以内に、あなたは一食分、食べているでしょう。声をかけたからです。それが、あなたのすべきことなのです。

 

 いろんな情報を得ると、そのうち「できない」という口グセになります。

もったいないことです。

 やってムリならやらないというのと、やってできなかったというのはまったくちがいます。そこで体験ができたということが大切なのです。

 その体験から学んでいけるからです。

すると、つぎにやってまたできなくても、少しは近づけるかもしれません。

そうして学んでいけばいいのです。

 

 やらなければ、また時間を費やし、情報だけとっていきます。

しかし何も変わらないのですから、無益なことです。

 すぐできてしまうものなどは、できたといわないのです。ただ、すんだだけです。

 できないようなことをやったから、できたというのです。

できたできていない、成功失敗を一時で決めないことです。

 できないことをやりつづけるのが、人生の醍醐味です。

 

何よりも成功よりも、失敗したときに味わいがあります。

人間関係も同じです。失敗しないと人のよさは味わえません。

 

 成功したときに誰もが楽しく失敗談を話します。

失敗せずに成功した人もいないのです。

 つまり、試みることに意味があるのです。

 

 成功、失敗と白黒に分けるのでなく、

成功か失敗かを体験しなかったことが、

いちばんもったいないことなのです。

 

 だから、行動しましょう。

はい、声をだしましょうということです。

 

(引用 岩波ジュニア新書「声のトレーニング」福島英 )

 

 

 

 

 

今月のひとことアドバイス

 

 

・客のいないうちに固めるな。               

・ほめられたら、おごるな、いさめよ。

・完成などありえない、励め。           

・生涯修業、修業の生涯。

・死ぬまで続けられるありがたさ。  

・足らぬことを知れば、やれる。

・足らぬを知るに努めよ。  

 

・春夏秋冬に応じて、芸も変わる。人の気分が変わるから。

・客の心との呼吸で生み出すこと。  

・客の心が芸を磨き、芸人を泣かす、だけの芸にせよ。

・どんな商品も傷一つで返品、作品なら一言、一字のミスで致命傷。

・人間は、失敗を生かせる。いつか、いや今すぐ、そこで。

 

・気のゆるみの失敗は、最悪。

・日頃より油断せずに、気をゆるめないで気負わない。

・意志の強さで克服しよう。

・結果がすべて、人々はそこしかみない。

・プロセスは、結果のよしあしに関わらず、自分にこそ重要。

・つみ重ねを怠らないところにしか結果はでない。

 

 

 

 

今月のひとことアドバイス2

 

 

・結果に一喜一憂しない。            

・常に結果を思い知ること。

・身構え、第一。   

 

・形は先達の到達点。それをふまえよ。   

・形には何百年、何万人もの試行錯誤がある。  

・完成した形を知って身につけることこそ基本。

・形を身につけて、そこからスタート。

 

・作法、形は、合理性を伴う。

・作法、形は、あとで効く。

・作法、形は、大きな器づくりとなる。    

・作法、形は、応用を可能とする。

・作法、形は、その人を元の力で生かす。

・作法、形からみたら、個人の創造は単なる思いつきかも。

・作法、形とは、天才の知恵といえる。

・作法、形とは衆人=人間の知恵といえる。

 

・単純な基礎は、高度な技術に勝る。  

・ゼロからイチは、イチからニよりもすごい。

・姿勢、身構、心がけを正せ。  

・初心とは、基本に戻ること。       

         

・心はそのまま、平常心。 

・平常心とは、無意識の日常にある。                

・場に臨んで、平常にあれ    

・場に臨んで、しぜんであれ      

 

・形をとるのでなく、形がとれるように。            

・形を盗りにいき、形が取れるのがよい。             

・形をとるのは、目標でなく前提である。

 

 

 

レクチャー録1-2【45521】23,333字 1722

レクチャー録1-2【45521】

 

 

○声に関心を

 

 声はすでに入ってきているのです。生まれてから声を出しているということは聞いて覚えたことです。

 ところが日本の場合というのは聞いてそれを話すというところで自然に幼稚園ぐらいのときに「あいうえお」がわかってしまうとそれで全部読めてしまいます。あとはもう膨大な漢字の読み書きを覚えなくてはいけないほうにエネルギーを集中してその練習ばかりしています。

 中学校になって英語の発音でようやく耳で聞いて音声をつくる。我々のころはヒヤリングもスピーキングもほとんど日本人のしゃべれない先生が教えていたわけですから、今は恵まれているのでしょう。でもそれで初めて音声のことをやって、英語だってきちんとしゃべれるわけではない。ほとんどの日本人が身についていないわけです。

 

 だから音声に対する教育ということがアナウンサーの学校や演劇養成所で初めての体験となる。それだけ声のことについてまったく知らないしやっていない。耳が鍛えられていないというのも大きいですね。

 どこまで自分の声が届くかなどというのは、欧米では常識的なことですね。新幹線で騒ぎ捲くったり団体客がお土産店でうるさかったりするのは日本ぐらいです。それは日本人の声が大きいのではなくて、程度がわからないのです。

 

 自分たちがどれだけ声で口害を発しているのか、日本の場合は無礼講みたいなところがありますからそれはそれでよいと思うのですが。そういう国において声に関心を持つということはこれから必要になってくることだと思います。まして声を扱う人にとっては尚さらです。

 

 

 

○体に入れる

 

 歌なんかは音域をとることに急いで高い音出そうと、そういうことでやっていくのでなかなかベースのことができてこないものです。

 最初私がそれに気づいたのは若いころ、役者の養成所に声楽を教えにくる先生の声というのは普通の人と変わらない、でも役者の声というのは、4、5年でみるみる変わってくるのです。役者の声になっていくのです。それというのはどういうことなのだろうか。と。

 私は10代のころに歳をとらないと声というのは深くなっていかないと思っていた。しかし海外に行ったら10代でもけっこう深い声、しっかりした声を皆出している。ということで、それは使っている量、これが必要という部分はあります。

 

 それとトレーニングで考えるということは誰でもができなくてはいけない、どこにその責任を持たせるかということです。こういうところくる人はふたとおり、とてもすぐれた人とそれから他の学校に行っても間に合わない、自分に大きな変化がない限りなんともならないという人です。上の層と下の層といったら申し訳ないですが、やってきた人と何もやってなかった人ですね。

 

 トレーニングとしてみたときに、どうして同じように生きてきてそれだけ声が使えないのかというと体に入れていないという部分がとても大きいです。体というのは単純にいうと鍛えたら変わります、みなさんが今1km走るのが厳しいというのも2年計画ぐらいでいったら今よりは走れるようになる。腕立てができないといっても1年やれば10回が20回でもできるようになる。

 そこの力においては体自体というのが器としてはあったらこれを変えていくというのが一番べーシックな考え方です。

 

 トレーニング引き受けるときの安全策です。要は勘とかセンスとかにまかせていたら、ある人はよいけどない人はどうなるのだろうとなりますね。

 歌って直感的にとらえるところがあるのです、10代なんかで歌える人というのはそういうアンテナがあるのです。それは海外でもそうです。

 

 

○比べられない

 

 カサンドラウィルソンの伝記読んでいたら5歳でマイルスデイビスに感動している。そういう環境とかそういう捉え方ができる人というのは、日本人ではあまりありえないですね。

 だいたい今の私だってわからないです。こういうのはきっとよいのだろうなというけど、5歳とか10歳の耳で聞いてみてどう感動できるのか、音がおもしろいとかいうレベルではできるのが音楽的にということは、何か見えてなければいけない。

 

 だから環境はあります。レッスンというのは、目的とすることは感覚でいうのだったら次元のオンです。要はオンしないと意味がないという考え方です。

 ここも10年20年長くいろんなところでやってこられた人がいて、長くやったことは偉い、でもそれが成果に身についてなければ意味がないのです。

 

 ヴォイストレーニングや歌の練習は他のもので比べられない。英会話3年やったら絶対上達します。あなただいたいこのレベルです、これだけのお金だしてこれだけの時間やればここまでなりますと。ヴォイストレーニングにおいてまだそこまでまだできないですね。相手みないとわからない。あなたもこのコースにすれば半年でここまでいくなんていうのは、低レベルでないといえない。自信は与えられるのですが、受け手によるところがとても多いです。

 

 その人たちがヴォイストレーニングをスタートするところまでの総量、どのぐらい声を使いどういう感覚できたのかというところが、アンテナですね。だから私なんか自分に置き換えて考えてみると自分が音楽を聞いて受け止めてたのが1だけど、そのときの同じような音楽を同じだけ聞いていても10とか100を受け止めていた人がいるのです。そうしたらいくら量を100倍にしても叶わないと、そのアンテナに対して増やしていなかくてはいけないのです。

 

 

 人間にも目で見て覚える人がよい人と口でいって覚えるほうがよい人とタイプがいますね、どちらかというと、日本人の学習形態が全部読み書きです。よくいうのですが、みなさんのように質問を書いてもらうと10項目簡単にかける。これ外国人にやらせるとけっこう難しいですよ。でもいわせると簡単にいえてしまう、10個いえてしまう、しかも10くらい覚えられてしまう。10個いうのに1分もかかりませんね。

 3分くらいのなかで彼らのなかで音の世界のなかの構築は、そこにできるのです。たとえば10個のことをこの順番でいおうと、それでこのあたりにはちょっとおもしろいこといってやってと、今の漫才はそのレベルだと思うのです。かなり高いレベルです。5分間の音の世界を自分のほうできちんと持っておいて、それをきちんと構成してしかもそれをお客さんの前に出たときに臨機応変に変化させてきちんと見せていくということです。お笑いのネタというのは昔から使っています。テツ&トモも日韓線のころ、4分45秒、耳だけで聞いてみてまったく隙がないのです。タイミングもドンピシャ。そういうレベルのことを彼らのなかではやれているのです。

 

 それは音楽家がやるべきことなのです。歌も同じ世界ですよ、ところが歌の世界って甘くて、メロディがあってバンドがついていて、どうやったら間違うのだろうというぐらいレールが引かれてしまっているでしょう。でも本当はそうではない。

 

 

○量とレベル

 

 いいたいことを言葉で出しているうちに音楽になっていくのです。そこに何かしら色気がついてきて人をひきつける。そういうのが出てくる、そのプロセスをとってしまっているのです、今の音楽というのは。最初から高音が出ませんとか、ピッチがどうこうのそんなもの最初はなかっただろうという話です。

 

 何かいいたいことがあってみて、音楽になっていったわけでしょう、そこのなかで実感をきちんと持っていかないといけません。

 このときに問題なのは、レベル。特に初心者の方の場合は声が出るときと出ないときがありますね、けっこう差があるのです、特に10代。このときに私はレッスンというのはここから上のことです。ところがほとんどのレッスンというのはここよりさらに悪いところでやっているのです。まったく意味のないことでしょう。

 

 劇団だったら、シロートのワークショップで鬼ごっこをやってみたり笑わせたりそういうことで体をリラックス状態にして声が楽に出るようにするわけです。普段出していない声でも、でてくる。みなさんでもこんなところで座っていたら声でなくなる、歌いなさいといったら大変でしょうけど、その辺走ってきて、ちょっと恥ずかしいことやってひらきなおったという感じになると、けっこうよい歌が楽に歌えるわけです。この状態が大切です。

 

 たとえばこんな時間があったらひとりひとりの姿勢を先生の前に出てやりましょうというセミナーもできるのです。ではここに出て体のところ、顎ひいてなんて、私がやったらあがってしまって出る声も出ないでしょう、そうではなくて自分のなかでコントロールして自分の一番ベストのものを求めます。これを私はベターなものから上にしましょうといっています。

 

 量をやるという考え方では、たまに10代の子なんかが「毎日6時間カラオケBOXでやっています」という。「それえらいね、でもそんなに集中力持たないだろう」と、そうしたら何をやっているのかというと声を壊すことをやっている。

 声というのは楽器ですから使い方を間違ってしまうと、悪い疲れが全部きて悪い状態になります。

 

 今日調子いいと思ってたくさん練習すると次の日悪くなります。仮に1日よかったと思っても残りの6日ダメだったら1日のステージとしてはよいのです。ところがトレーニングにしては最悪です。その1日がステージだったらその1日のために残りの6日をダメにしてしまっているわけです。その辺がちょっと体育会系のとにかく筋肉をいじめていったら力がついてくるというのでは、よくありません。

 

 日本的な考え方にも本当はもっと合理的なやり方がいや、感じ方があるのに、感じ方をふさいでやり方でやってしまう。これが諸悪の根源です☆☆☆。

 集中力とか忍耐力をつける分にはよいのでしょうが、声に関してはとにかく声になるところしか力ではないです。使い方をきちんとしなくてはいけない。

 

 

○聞き込み

 

 皆さんが考えることは、トレーニングの期間にできるだけつないでいけたらよいことレッスンはそのためにやるのです。今まで自分ができなかったことを、自分にとっては間違えもしくは奇跡ですがそれがひとつ起きると、そこだけがオンです。それがどの次元までいくかということです。

 あまり通常感覚でやらないことです。これをやるときの問題がトレーニングと相反するのです。レッスンの場というのも、そこに先生がいるというのもあまりよくない。そこで音程のこと考えるなど頭使おうということもよくないです。

 

 自信を持ってやれば出るのです。自信をなくしてしまったり考え出したり迷い出したりしたら出なくなってしまうのです。

 昨日やれたことが今日できないなとか去年できたことができないと思いだしたら悪循環に入ってくるのです。それだけ精神的なことと結びついているものです。切り替えですね。役者も同じです。この業界に向く人というのは切り替え能力ですね。役者は多重人格でなくてはつとまりません。

 

 

○やり方ではない

 

 歌のなかの練習でも同じです。

 レッスンでやるべきことというのは、全部できるようにとも全部が歌えるとも思わない。必要もないのです。三日間の合宿でも同じようにやるのです。グループで月4~8回で月18曲くらいやっています。実際にやるのは2、3曲でも聞かせるのはそのぐらい聞かせている。

 

 3日間のなかで18曲と思ったら、すぐれた人だったら2時間ぐらいでできます。歌詞を完全に覚えることを除けばベーシックなことはほとんどできてしまいます。普通の人がやったら3日間かけて1曲の歌がまともに歌えないです。そのぐらいの能力差がでます。何でそういうやり方をとるかというと、能力を伸ばすためにはそういうやり方しかないのです。最終的な結論を先にいってしまうとやり方というのはひとつしかない。プロの人がやってきたやり方を学ぶことです。しかしそれはやり方ではないのです。

 

 彼らはヴォイストレーニングとか発声とかやっていない。やっていないがその時代のひとつ前の一流のヴォーカリストを聞いてきています。レコード盤が擦り切れるぐらい聞いています。その条件がなくてまともなヴォーカリストになれた人間はひとりもいないです。ミュージシャンだったらヴォーカリストに限らずそうです。

 そのことと同じことをやるときにどう聞くかということです。そこに才能が現れるのです。

 声も出せるのと、歌えるのは違う。客と成り立ってはじめて歌えるといえるのです。

 

 ヴォイストレーナーの才能も同じです。「聞くこと」です。どれだけ耳のなかでその世界をとらえられるかということ。難しいです。1曲を暗記するのはそんな難しくない。それは棒読みと同じです。そのなかに音として何が起きて声として何が練りこまれどういう形で進んでどこにどう置いてどういう効果を相手に与えているかというようなことを1曲のなかにあるいはワンコーラスのなかにあるいはたった一声でもよいですね、そこから考えてみるのです☆。

 

 多分ほとんどの人は何もやっていない。それをやっている人は楽器のプロプレーヤーです。同じ楽器ですから、毎日8時間ぐらいやらないと自分の体と神経が結びつかないですね。私が口を動すぐらいにピアノの指が動かなくてはいけないので徹底して量をやります。すぐれた演奏を聞いて同じ速さで弾けるようにします。そこまでがアマチュアのトップのレベルなんですね。同じ速さで弾いているにも関わらず聞こえてくるものが違うのではないか。何で同じピアノ、ギターなのに同じ音色が違うのか、それは楽器のせいではないのですといって音の世界に入ります。

 

 ところがヴォーカリストの場合というのは体が違うからそういう比較が成り立たないですね。プレーヤーの場合同じテンポで弾けるようになったときに初めて何でこんなに音色が違うのだろう、何で音のつながりがこんなにスムーズなんだと、そこの音の世界にはいっていけるのです。

 ですからやれる人はやれるし、やれない人はギャップをきちんと知っています。やはりプロはプロなりにすぐれています。だからオーディションでも技術で明確に成り立つ。

 

 

○上達を目的にする間違い

 

 ヴォーカルは音の世界だけではないですから、とても判断がつけにくいです。ただ私が音の世界のほうにもってきているのは、そうではないとどうしても上達させますから。上達させることが目的で、上達しないのにくるという人はいないからです。目的を上達と出さなくてはいけない。

 私の古い本は全部目的があって今とのギャップを見なければいけない。ただ今難しいのは本当の目的が声だけではなくなっているからです。音楽だけでも歌だけでもないというところでけっこう難しくなっています。

 ヴォイストレーニングというのは、それの補強にしかすぎないと思っておいたほうがよいです。絶対条件ではないのです。

 

 ヴォイストレーニングをやれば声がよくなって、歌がうまくなってそれでプロになれるということではないのです。歌がうまいとか声が使えるということとプロになれるということは違います。歌がうまい人本当に世の中にたくさんいます。でも場を持たない人がほとんどです。

 歌が下手でも場を持っている人もたくさんいます。

 プロが目的ならステージをまずは目的にしなくてはいけない。

 自分の発声について生まれた体から探りたいということだったらヴォイストレーニングというのもストレートにつながるとは思います。何事にもやれるところとやれないところというのはあるのです。

 

 私も最近よくわかってきたのですが、他の学校を見ていて、どうしてそういう作品をよいというのか、何でみんな退屈しているのに退屈っていわないのだろうか、何でみんな他の生徒のつまらないものを笑顔で聞けるのだろうか、どんどん洗脳されてしまうのですね、そこでは拍手しなければいけない、そこではみんなで盛り上げてあげなくてはいけない、がんばってあげなくてはいけない、誉めてあげなければいけない、はっきりいうと、高校生の文化祭のレベルより低いです。幼稚園の子が一所懸命やったことで思わず拍手してしまうほうがレベルが高いというかしぜんなことですね。

 

 そういう面でいうのだったら上達を目的にしていること自体に、間違いがありますね、それから正しい間違いで判断していくことにも根本的な矛盾があります。「上達を目標にする間違い」というのは、誰でも最初は誰かのようになりたいから入ってくる、となると誰かのように近づいていくことが上達だとなりますね☆☆。

 

 ところがやれた人というのはみんなその誰かから離れていくのです。やれた人というのは誰かのようにから絶対に誰もできないところにいくのです、そうすると誰かのようにやりたいやり方というのが一番意味のないことだとわかります。

 

 どうしてそう成り立ってしまうかというと、たとえばサークルとかで評価されるとかまわりの家族がうまくなったねといってくれる、その評価は全部これでしょう。平井堅みたいになってくると何かすごいうまくなってきたねといってくれるし拍手も多くなるでしょう、でもプロからはどんどん遠ざかっていくわけですね、それはどちらでもよいと思うのです、アマチュアとして歌を楽しむのだったら、それで構わないまわりの人の評価もほしいでしょう。ただ、プロをやっていく人には違うように考えることを進めている。それは結局は誰でもできる仕事というのはその次になくなってしまうからです。

 

 

○ヴォーカルは肩書きになるのか

 

 二十歳くらいでかわいい子には仕事がきます、色んな場も持てます。でもそれというのはかわいさで得たのだから5年10年たっていくと減っていくだけで増えてはいかない。次のかわいい子がそこにくるだけの話です。

 それは音楽でも歌でもないとはっきりといっています。歌をそういう使い方を日本という国ではしてきたわけです。

 

 単にかわいいだけの子でお金をたくさん取る一番のよい方法というのは歌をやること、CDが売れる。声優でもそうでしょう。

 野球の監督でも昭和の頃なら、歌のCDはみんな出しています。何万枚も売っているのです。その辺のアマチュアのバンドなんてかなわないぐらい売っているのです。だからプロヴォーカルとはいわないのですが収益あげているのでプロです。

 そういうことでいうとヴォーカルという肩書き自体、エッセイストと同じで誰でもつけられる。だから要はあまりそういうところで考えないほうが若いうちはよいと思います。

 

 声というものの楽器が個人のものである以上アマチュアでやるとしても誰かのようにやっていくやり方というのはレベルの高いところから見れば、胡散臭くなります。低いところから見れば上達したように見えます。みんな目標にするのですが、それをやってダメになってきたのが演歌とかシャンソンです。

 

 昔の人たちは向こうのものから聞いてしっかり独自に色んな音色を出している。だんだんそういうやり方をとるようになってだめになる。そこのなかのトップの人はよいのですが。トレーナーというのは、音楽スクールでもよくわからないから声楽の人がやる場合が多いです、音大生で声楽をやった人がやります。

 

 

○ベストワンへの厳しさ

 

 みなさんが考えていて欲しいのは、できるだけベターな声のなかでやっていくようにしたほうがよいということ。気持ちがよい状況を自分でつくる。

 自分の過去に出した声のなかで一番心地よかったら、そういう状況から入っていったほうがよいですね。それと逆行することはあまりやらないほうがよいのです。でもトレーニングするところというのはだいたい逆行します。レッスンスタジオ入ってそこが一番くつろげるというのはいつまでもないと思います。その緊張も必要なのです。

 

 劇団はいろんな役があるからどんな人でもその人にあった役がある。ところがヴォーカルの場合というのはオンリーワンとはいってもベストワンなのです。そこのなかの中心、トップでないとやれないです。

 役者は脇役ですごいよい人がいます。悪役で役をやらせたら他に出ないとか、ばあさん役だとこの人しかいないとかいろんなキャラが作れる、ヴォーカルも確かにあるのですが、それでもそこのなかではすぐれてないとだめなのです。

 そういう意味でいうと、なるだけ敷居を高くし、レッスンも緊張状態のなかでやれてあたりまえだとします。逆にいうとどこのステージとかよりも、レコーディングスタジオよりも一番大変な場としてレッスンの場は置いてます。

 

 ここの先生は、ある意味ではとても厳しいです。音楽に対して、見方が厳しいです。

 ここはプロの人がきますから普通のプロでは対応できないという、特殊な事情があります。

 ただそういう人たちのほうが一般の人に対してもギャップをきちんと出してもらえるのでわかりやすいのです。

 誉めて伸ばすやり方というのは確かにシロートに対しては意気込みをさせるし何より、学校に親しみをもたせる。執着してそこにずっといたいとかここにくると気持ちがよいと思わせる。しかしそれはカラオケ教室と同じです。

 

 そこが居心地のよい場所になってしまうから、だめになる。私のところも人数が多かったときキャンパスライフみたいになって、そこにきたら音楽の仲間がいる、そこで歌を歌ったらみんな認めてくれる、それで私は壊してしまったのです。それでは人は育たない。

 

 要は内輪でやれても世の中でやれないとしかたないとはいいませんが、何をめざしたのかを、己の胸に問うてください。

 そんなのだったら歌でなく、日常に使っている声で、勤めている会社とかバイト先で、人々に尽くしなさいと、それができないのに何で歌う必要あるのという考え方です。だからあまり世間と切っていないのです。

 そこで声優さんでも役者でも映画監督の助手でも人形劇やっている人でもいろいろな人がくる。現実を見えなくしてしまうことのほうが私はよくないと思います。

 

 学校は目的が違います。学校は平均に全員をあげるところです。養成所というのは10年に1人でも世界的レベルの人が出たらよいのです。小出監督の高橋選手みたいなものです。ただスポーツほど順序がはっきりしていない。なるだけ他のところにいない人を出そうというのがここの目的です。

 

 その辺は今回の音楽之友社の本で、随分と書いたのです。プロ用に、ここを辞めた人と、ここの生徒に向けてです。今まではここにこない人に書いたのですが、これはここにきている人に書いたのです。

 今年の前半は私は一般向けに書きます。ジュニア向けとか女性向けも。後半にヴォイストレーニング全部まとめて20年やったことの全てを入れ込んで出して、今年は終わりです。

 

 

 

○一つの音

 

 こう考えてください、気づくということ、要は耳が変わらなければ声が変わらないよというふうに考えて内面から変えていくと考えてください。英語と同じです、聞こえなくてはいえないのです。

 気づくということは何に気づくのかというと気づいていないことに気づく、たとえば入っていないこと、足らないこと、あるいは補わなくてはいけないこと、こういうものに気づけばよい。

 

 歌1曲のなかでいくつぐらい気づいているかということになります。歌にメリハリついてないとか一本調子だと、みんな声のせいにしてしまうのですがそうではない。

 この歌でいいたいことを書いてください。そうするとここのところは柔らかく歌おうとかここのところは少し声を落としてとかここは張ってとかここは優しさを込めてとか書いて10個ぐらいですね。私からいわせてみせればひとつの音符でひとついえます。あるいは3つの音で5つは、そういうことがわかっていなくてはいけないです。

 

 ことばにできなくても感じているということであれば、そんな雑な捉え方はないとなる。歌が10ぐらいの解釈で動くものではない。ひとつの音からひとつにつながるところに相当な理由があって、だからそういうものにどう気づいていくかということを少しずつやっていくのです。

 

 それとプロの声というのは、みなさんが何も一曲聞いて判断する必要ないですね。多分2秒か3秒、鋭い人だったら1秒でわかる、あまり鋭くない人でも10秒ぐらい聞いたら、これはアマチュアではないだろうなというのはわかります。

 

 そこが声の一番ベーシックな部分の判断の練習です。ただ今のJ-POP歌っている人が同じことをやったようなときにどれぐらいプロなのかというのはわかりにくい部分はあります。マイクで入っています。音響効果を入れたところで判断すると先ほどのプロデューサーの世界になってしまう。下手でもどうみせていけばよいか、ここからやっていきます。

 

 

○日本以外の感覚を入れる理由

 

 一般の方がこれるということはそのベースのことが日本語と日本人ということにあるからです。

 トレーニングというのは誰かが気づいているけど誰かが気づいていないことを基準に取れない。ここにくる人というのは日本人で日本語で日本の生活してきているのだから、そういう人が気づいていないことからやっていったほうがよいということです。

 

 別に日本人がダメではない。欧米人がよいわけではない。しかし日本人だけがかなり特殊に声を音声の世界での表現力を失っている。それはあまりない。世界の人はもっと楽に声を出して歌っています、音楽性がどうこうということではない。もっと強い声をたくさん使っています。

 

 今度またサッカーの試合がありますが応援で一晩で声が涸れてしまう国民なんて日本人ぐらいです。エアロビのインストラクターでも選挙運動で後半に入ってくると声涸らしてますね、普通はおきないです。あんなことが起きたら政治家もトレーナーも失格です。普通の国では自分のことばでしゃべれなくなる、あるいはそういうふうなところまで自分の声をコントロールできない人が何ができるのだとなる。日本の場合は日頃声を出してませんから、できないのです。

 

 そういうことでいうと、こういうところで入っていないところの部分で日本以外の国、世界では、どうなのかから、みます。みなさんが違う環境に育っていたらその条件を得たのではないかという部分、人間だったらもうちょっと日本人も人間ということでとらえたらもう少し声が出たのではないかとところでやります。

 

 だからトレーニングの考え方というのは、よく正しい間違いとか対立されてどちらのやり方がよいとかいわれることがあるのですが、トレーニングというのは何でもやれるだけやっておけばよいのです。だから別にここをやったからこっちをやる。全部否定するということではなくて、こっちばっかりやっていたからこっちもやってバランスとりましょう。あるいはもっと大きな器になって、それでそこでやりたければもう一回ここを選べばよいのです。要は選択すればよいわけです。その選択の自由度を持っていくこと自体が器を大きくするということです☆。

 では日本人の聞けないところから入っていきましょう。

 

 

○呼吸法

 

 みなさんの歌のイメージと反するような言葉をいっていくと思います。たとえば響かせていないでしょう、歌っていないでしょう、発声切り替えていないでしょう、そういうことです。

 歌っていないというのか、どういうことかと考えてもらうとその定義が通用するでしょう。その上で本を読んでもらうとああいうことをいいたかったのだろうなというのがもう少しわかると思うのです。

 

 単純にいうともう10年ぐらい前から私は呼吸法とか発声法も、あと腹式呼吸なんていうのは使わないようにしてます。どうしてもそれを知りたくて入ってきて知りたいという人には、私でもトレーナーの先生でもそういうことはやってきていますから教えますが。

 

 では「腹式呼吸というのはこういうことですよ」と、やったりします。レクチャーにくる人はよく「腹式呼吸を知りたい」とか「呼吸法正しく教えてほしい」というからです。一番困るのは「自分の吐く息が間違っていますか」とか「この吐き方はダメなのですか」といわれること。全部程度問題なのです。

 

 程度問題というのは今みんなが座ってやっているのは全部腹式呼吸なのです。腹式も胸式もないのです。人間が考えてしまったから腹式胸式になっています。両方使ってやっています。切り離すこともできないです。

 ただ普通にいわれる悪い胸式というのは胸の位置が目だって出てきてしまったり、体がぶれてしまったりすることでしょう。でも酸素がどうしても足らなくて外側から見たときに目立った場合にそういうだけです。

 決してそんなものが3つの呼吸法があるわけではない、その辺から入ってくるとどんどん理屈っぽくなってしまって現実と違ってきます。

 だからもうそういうことばはあまり使わなくしたのです。

 

 それだけ息を吐く必要性がなければその呼吸法いらない。だから身につかないのはあたりまえです。本当の意味でヴォーカリストが持つべき腹式呼吸をきちんと身につけている人は、日本では声楽家とポップスのなかでも一部のヴォーカリストしかいないです。

 

 というのはそれ以上に歌う必要性が日本にない。それ以上の腹式呼吸あってもしかたがないのです。だから自分が使いたい程度に応じて体が鍛えられ、息が保てたらよいわけです。ただアマチュアのレベルでも5秒続かない、あるいは途中で言葉がいえなくなってしまったりするのは困る。それは程度問題です。

 

 みなさんが健康体としたらここで吐いている息で普通でしゃべる分には充分使えます。しかし、こういう歌を歌うには全然足らないのです。でもこういう歌を歌おうという人は本当にごく一部です。

 声もですが、声や息がありあまるほどあったら、それが自由に使えるというのはひとつの考え方です。

 

 たとえばトレーニングということで筋肉を余分なところまでつけておくとそうしたら、それは、いざといったときには役立つだろうと。ただ今私が考えているヴォーカリスト、役者の声レベルをめざすなら、そういう考え方でやりますが、ふつうのヴォーカリストに関しては自分が歌うのに必要にしないものは一切いらないのです。そんな時間があったら音楽を作ったり深めたり、ステージでやることを優先すべきです。体は最低限でよいのです。

 

 ただそれをどこまでというのがわかりにくいから最高のところからもってきたほうがわかりやすいということです。

 1年2年でこういう息にはならないです。最低で5年から7年ぐらいかかる。声楽家の世界でも呼吸に20年ぐらいといわれている。パバロッティとかになったらわからないですが彼なら日本の声楽家を見て、「これでは息が足りないよ」というかもしれない。呼吸法というのはすべての問題みたいにいわれている。だから呼吸法を知りたいとかいうことになってしまうのです。

 

 腹式呼吸というのは、みんな勉強してきたと思うし、本にもその辺で寝転んで息を吐いたらできるとある。間違いはないです。

 ただそれ以上の表現が必要が必要なときに身につけておかないと、実際の舞台で歌のなかでは正しい間違いということではなくて相手に及ぼす効果が違ってくるということです。

 

 たとえば役者が最後のところでひとつのセリフでエンディングにしなくてはいけない、あるいは場面をバッと変えなくてはいけないというときに、ひとつのセリフをいって息がなくなったり間があいてしまうともたない。歌い手でも同じです。速くなったり大きくなったりして急に小さくしなくてはいけない、そういうときに体がついていかなかったら本来は成り立たない。成り立たないのに歌のなかにはマイクなど便利なもの、まったく成り立っていない流れのなかで成り立ったように見えるような装置がある。それを使うとできてしまうのです。

 

 

○ギャップをつくる

 

 私がプロの歌い手とやっているのは、それを全部はいでいくことです。、プロというのはもう歌えているのだから教えることないのです。それでもくるということは、自分の歌に足らないと思っていることがあるからなのです。そうしたら足らないことをこちら側がめいっぱい見せてあげないとレッスンも成り立たないですね。

 歌は聞いていて安心できるぐらいうまいのです。でも何が足らないのかといったら基本なのです。こういうレベルの歌になったときにそれだけの呼吸が体が声がついてこない、それだけの速さで声が扱えない、同じ速さで扱ったときに伝わるものが全然ない、こういうことが起きてくるのです。

 

 多くの場合はマイクでのごまかしです。みなさんもおわかりだと思いますが、カラオケでやるととてもうまく歌えているものがエコー切るとかなり下手になって聞こえます。マイクなしで録音してみるとこんなにひどかったのかということになる。それを真の実力としないといけません。こういう人たちはそこで全てのオプションの効果をつけているのです。

 

 ややこしいのは実際ビブラートがきくような声では今の日本の音響のカラオケには悪く入ってしまうのです。装置自体でビブラートがかかり観客に効果が与えられることが工夫されているからです。プロの人はそういうのは嫌います。特にカラオケはまったく響きがなくて声が出ない人がやると一番うまく歌えるようにセッティングされているわけです。声出さないで歌ったほうがきれいに聞こえますね。

 

 もうひとつはコントロールの問題です。実際に感情を入れてそのことを伝えようと思ったらめいっぱいの声というのは使えないのです。「愛してるよ」と本当にいいたい、それを大声でいうということはないです。ヴォーカルの世界でもないです。

 でもトレーニングというのはそれを大声でいってみます。それは10分の1でいったときにも伝わるようにまず表現としての大きさを取っていくのです☆。

 

 こういうことから学んで欲しいこと、プロといっても別に発声法やっているわけではない、私は息吐いてもらって比べてみましたから徹底的にプロの体を知っているわけですが、どういう息を持っているかということです。その息が養われてくればどんなトレーニングでもよいのです。

 別にここのトレーニングではなく今やっているトレーニングも結果的に同じになってきます。

 

 

○トレーニングの検証

 

 どのトレーニングがどこまで正しいかというのは誰も実証できないのです。6つ子でもいてその母親がそれぞれ違う形にして構わないですといわれたら実験が一回できると思うのですが。

 みんな違う、筋肉も違う、その人に対して効果をあげたとしても、自分でなければあるいはもっとよい方法だったらもっと効果があがったかもしれないという疑問は常に持っているのですね☆。

 

 効果があがらなかったというときにも、私だからそこですんだが他のところに行っていたらもっとひどくなっていたかもしれないということもあるのです。それもだれもわからない、ヴォーカリスト自体があるいはヴォイストレーナー自体が思い込んでいるだけで進んできています。

 

 では「何秒吐くのですか」とか「どういうトレーニングをやればよいのですか」という問いも、そのトレーニングが本当にその人にぴったりかというのがわからないまま進んでいます。

 そういうことの問題というのは、トレーナーは「自分ができたら自分がやれたことが正しい」と押し付けます。そこがひとつの大きな間違いです。役者でもそうです。

 

 声というのは出していたら鍛えられていくのだという人もいますが、そういうやり方とってしまうと喉を壊す、違うやり方でないとできないという人もいます。声を壊してそれで鍛えられてよくなっている人もいます。

 応援団でもいると思いますが、そういう人がトップに立つとまたそういうやり方を押し付けていきます。するとそういうやり方に合わなかった人が能力なかったということになるのですが、必ずしもそうではありません。劇団も私からみると、ほとんど喉声発声です、でもたまたまそういうふうに、壊さない人もいる、そして伸びてくる、では壊さなかった人がダメなのかといったら、声というのは無理に出したら壊すようにできてますからそのほうが正常なわけです。トレーニングというのはそこからスタートしなくてはいけない。

 

 わからなくなったら現場をみること、ではこういう歌を聞いたときに息がどうなっているかをみる。歌を入れて比べてみる。そのなかにそういう息が入っているのと入っていないとが違うとしたら、そういう息がなくて音しか取れていないのだ、体と結びついていないということです。

 もしわからなければ同じことやってみればよいのです。ハーと吐いてみる。私は最初に深い息を吐いてごらんといわれ、「深い息?ハーッ」「それで歌ってみろ」といわれ結びつかなかった。

 

 体を使って息吐いただけですから、その先生がそこで求めたのは「ハーーー」(本当はのどの音もついていないのですけど)。これは別に特殊なことではないのです、英語とか発音したらそういうところが必要です。ドイツ語などでもそうです。深い母音を取ろうとしたらそういう息が必要なのです。日本語の「フ」とfとの違いに、そのぐらいの差があるのです。

 

 そういうものが現実面こういうところに現れているわけです。だから何もどこかに隠されているのではないのです。

 すぐれた歌い手が誰でもよいですが、音響によって見えにくくなっています。デジタル加工によって、森のなか、霧のなかから声が聞こえてくるようなのは勉強しにくいです。

 ところが30、40年前以前は、そんなに加工していませんから、けっこう生で聞こえますから、そういうのがトレーニングのときによいわけです。

 

 

○声よりも詞のイメージの日本

 

 日本人の歌というのは、心情的な面に入っていくから海外に出れないJ-POPは日本では売れるが海外では売れないといっています。レベルが低いだけの話です。当のヴォーカリストはみんな知っています。アメリカやヨーロッパ、あるいはブロードウェイでも見ればやっているのはどのレベルのことなのかということはわかります。それがよいか悪いというのはまた別の問題です。

 

 彼らの場合は音の組み立てのなかできちんと音楽を創っていくのです。音の組み立てというのはこのフレージングをどういうふうに組み立てていくかという、絵の世界でいうとレイアウトとか構成です。

 こういうことでの耳が日本でもジャズのバンドのプレーヤーみたいなものはみんな持っているはずなのです。持っているのにヴォーカルに適応してくれない。

 

 というのは、その人の声であるということがオリジナルに見られてしまうのと、それから言葉の持つ強さです。

 特に日本のお客さんは、向こうのリズムとか向こうの感覚でフレーズが動いていることよりは日本語としての言葉の裏にある世界のほうに惹かれます。

 

 それは今の時代でも同じだと思います。J-POPで流行っているのを見たって言葉の後ろにあるものと声の質感ですね。あの声の質感というのは磨かれているわけではなくて、使い方は器用ですがどちらかというと持って生まれたところの素直な声です。電話なんかで聞いたときにこの人の声よいなと思う程度のところでやれているのです。

 

 それは厳しいかもしれないが別に私ではなくて、多分あるレベル以上やっている人は昔のサッカーのリトルリーグぐらいかなというでしょう。はっきりいって音楽というのは国境を越えますから日本の文化がどうであれある国で何百万枚も売れているものが他の国で抹殺されるという時代ではもう全然ないです。日本人のダンサーでさえ世界的な活躍をしているのです。

 

 クラッシックのバレリーナも出ています。スポーツはともかくとして。あんな遺伝子によって体型が決まっているような分野で活躍できるだけの日本人になった。でも声では誰も出ていない、どういうことなのでしょうか。

 

 音楽的な能力がないのではないですね、バイオリニスト、ピアニスト、指揮者トップクラスいくらでもいます。

 まず環境があります。それからお客さんが期待する部分があって、我々も常に現場ではそこの要求に答え、そこで理想が崩れるのがいやだから。そこはわがままでできる場を持つという、もっと早く日本は追いつくと思ったのですが逆になってきましたね。

 

 音響の力が大きくなってきてそこで加工してしまえばよくなってしまう。だからCDの売上が落ちて、お笑い芸人のほうが流行っている時代ですね、でも、そうではないのです。単純にいったらヴォーカリストの力が落ちて、お笑い芸人の力が高いのです。声を使う力としてそうなのです。

 

 彼らの声の使い方とか声のなかでの表現力のほうが、ヴォーカリストの残念なことながらメロディに乗っかってしまって歌詞つけて歌っているものよりもインパクトがあるのです。それは我々にとってではなくて若い人たちにとってもそうなのです。それだけの話です。

 

 今勉強するのだったらお笑いの人、なんでもよいです。他のネタを他の組がやったとしたときにどのぐらいインパクト持つかというと、ダメになってしまうでしょう。ネタがよくても、ネタだけではだめなのです。

 私はまだ、二流三流のお笑いの人も見てます。もっとよいネタでやっている人もいます。でも声での表現力がないから客が聞き取れない、インパクトがないから笑いをとれないのです☆。

 テレビに出て毎回、自虐的にやっているほうはまあ、別として、声の個性を生かしきっています。要はあの声があるからネタが生きるということは彼らは知りつくしています。

 

 分ける必要はないのです、テツ&トモは、歌もうまい、元々歌い手志願です。人前で何かやるというのはお笑いも歌い手も同じです。さだまさしさんは落語家なりたくて歌い手になってしまった。中島みゆきさんだって、詞を描きたいといってそういうことに。そこは私はわけていないです。

 

 音楽やっているつもりの人ほどやたらと分けるのです。大したことやれていないのに、すごい聖域にいるみたいな、まるで音楽やっているのがそんなに偉いのかということです。世の中がどこを支持するかを見ておけばどこで学べばよいかなんていうのはよくわかります。

 

 

○日本人にない基礎

 

 それだけのことを6分間の歌であげるために、どういうことをやらなくてはいけないかみたいなノウハウというのは、彼女に限らずプロに全部入っているのです。このときのことを詩で書いたものをHPに入れてあります。ひとつの聞き方として、これが歌だということではないのですが、どこにもメロディ、音程リズム感も英語のうまさも声の大きさも表われない、そういうものを超えたところに乗って何かが伝わってくるという部分で必要です。

 

 もうひとつ音色ということを日本人聞き取れないのです。息の世界が日本人にないからです。日本語に強い息は要らないですから息を体から吐くことは、なかなかできない。

 

 こういうものを入れていくというのは内面から勉強していったほうが、いわれるとそう変わって聞こえる、気づいているというか聞こえているだけではだめなのです。実際日本語のなかだって英語と同じぐらいの色んな音というのがあるのです。「うん」だって5通り以上ある。

 ところが我々は「うん」ていうと「うん」はひとつしかないと聞いてしまっている。自然と聞き分けているのですが、ひとつしか聞いていないということは、ひとつしか気づいていないのです。だからそれを意識的にしていってより聞けるように耳を細かくしていくというのは勉強のひとつのアプローチです。

 

 いくつかの条件があります。これができるには音楽が入っていること、それから扱えること、呼吸が音楽の上に乗せて展開できることひとつでも狂ったらぎこちなくなってこういうふうにならないです。

 声を練りこめることあるいはその声を常につかめているどこでもはなせること、そのベースに音楽が必要ですけれど、簡単に見えますね、でもそこで日本人だとこういうのは「ラドソファ」変えてしまうのですね。

 

 特に今の若い子たちは高いところになってきてしまうとすぐに発声を変えてくる、トレーナーもそういうふうに教えます。

 要はその人の今の体をベースにしていますから、だからまずこういうふうに歌う感覚自体がないです。40年ぐらいさかのぼるとけっこういるのですが。

 

 歌い手が音楽としての構成を重視してないのです。日本人は、その音を取りに行こうとか言葉ひとつひとつをつなげてみようとやっています。

 そんな短絡的なことはやってはいけないのです。今のも1オクターブないわけです。かなり難しいです。

 

 私の本でも2年間で半オクターブできたら早い、2年間で1音でもよいよと。「ハイ」の練習はそういう深いところをやるトレーニングです。

 だからたとえば一般の方で声が出ないとかいう人は役者の養成所行ったりすると無理に声を使っています。ところが「ハイ」というのは何かというと「h」から入って「i」にひびかす。「ハイ」が100回できたから、別に歌がうまくなるわけではないのですが声をつかめるようになってきます。声門を開き、のどの奥をあける☆。日本人の喉のところをはずしてみて体のところで声を持てるようになるのです。

 

 

○音色

 

 映画を見たり歌を聞いたりしてみて何か世の中に芯のある声というのがあるのではないか、あるいは深いところで響いている声があるのではないか、あるいは深いところで響いている声があるのではないかと気づくのも、音色の問題なのです。

 

 私の声は日本人からいったら音色という観念がないから単に低いで見てしまう。でも、基本的には何が違うかというと体使っているだけ音色が深い、音色の問題。ただ日本人というのはそれがない。だからこういうのを自分たちでやろうとしたらいきなり音域がこんなにあるとなる。わかりやすければアレサでも、ベッドミドラーとかサッチモとかああいう声に合わせてやってみたら何か1オクターブ低いと思って歌っていたら何かもっと高いところで歌っているぞとわかります。

 

 五木ひろしさんあたりとサッチモの声域というのは同じぐらいのところで歌っています。それは日本人のは鼻側のほうにまとめていて柔らかく出していますし、彼らはけっこうストレートです。どちらを選ぶかはどうでもよいです。

 

 私がいっているのはトレーニングできるところをやるのだから息がついていくか鍛えられていくかということがベースです。それから歌がひとつになるかということです。

 日本人でワンコーラス1番つらぬいた集中力で持っていっている人というのはほとんどいないです。さっき聞いたような曲というのはそのなかでも稀な例です。2番、3番ぐらいになるとかなりテンションダウンしますね。

 

 ところが外国人はそういうこと絶対起こさないです。3番まであるということは3番までの理由があるから3番まであるわけです。日本のシャンソンなんかも向こうのが6番まであるからといって6番まで歌っているのです。そうではないでしょう。作品から考えたときには1番伝えられるのが3番までだったら3番までにすべきなのです。1番で全部いえてそれ以上2番からテンション落ちるのだったら1番で歌いあげておかなければいけないのです。

 

 最近短歌とか俳句と同じだなと思います。日本人でいうと半オクターブあれば4フレーズぐらいかなと15秒くらいのところで世界レベルにならないと。歌の世界というのは論理的に考えたら簡単ですね、1秒で同じことができない限り3分で同じことなど絶対できないわけです。まずその1秒です。1秒の世界のなかで、こういうレッスンでもそうですね。

 何かわからないけど2年でも5年でもやってみてピッチがどうこうリズムがどうこうというよりも一瞬でもこれってすごい声だなぁ、これがもし3分できたらプロになれるというのが、1音出るか出ないかです。

 

 

○ベストのキィー、ベストのテンポ

 

 音域が1オクターブか2オクターブか3オクターブどうでもよいのです。今の世の中1オクターブあればよい。ただ全体になったときに難しいのは1オクターブ半ぐらいで構成しなければいけないからで、それでやっていることは3年たっても5年たってもだいたい4フレーズぐらい半オクターブぐらいのなかで本当に表現ができる。

 

 自分の一番自分の出しやすいところのキーで自分の出しやすいところのテンポでなら、そんなにたくさんないのです。自分が選べるとしたら甘いだけです、私からいわせると。ひとつだって通用するところというのは本当に見つけられない、基準からいうと。そのひとつ通用するところを見つけてみて、半オクターブでやってみて、そこでプロと同じことができたなと思ったとしても、出だしだからもっと低いところでやらなくてはいけない。サビのところはもっと高いところで出さなくてはいけない、そうすると1オクターブぐらいは安定した声がないとできないし構成しなければいけないしということでまた難しくなるのです。

 

 場面場面は取れても、全体つなぐということから場面をやるためにはもっと力が必要になるのです。練習はまずそこからです。

 とにかく自分のキーというのか自分の一番できるところの声で一番できるテンポで流れを出すことです。それをお笑いの人というのは音楽ついてないからできる。流れを失ったら悲惨なものですね、シラーっとしてしまいます。

 ところが音楽というのは助けられてしまっているから、だから基本をやるというのはそういうことで、全部剥いでいかなくてはいけないのです。

 

 日本というのは悪いことに向こうから得てしまうと、そこの上に何か創ろうとしてしまいますね、ところが音楽だって文化なのだから全部剥いでいって一番底になったところに声があったり息があったり体があったりする。それでひとつの言葉を伝える。それが伝わった、では次に紡いでいこうと、それで1分になった。

 自分の声で伝えてここまで伝わったでもここのところでギターが入ってくれるともっと効果があがるぞとやってその理由の元でドラムをつけるのです。最初からワンセットあってそこに乗っかって歌っていたらこれはもうシロートもプロもわからないです。もう成り立っているのです。箱として。

 

 それをきちんと見ていかなくてはいけない。だから1曲歌うということはこういうのを聞いたら大変だなと思う。でも18歳の子でもセリーヌディオンだってマライアキャリーだって歌えるわけです。練習したら一ヵ月ぐらいで。ということは土俵が違うだろうということをまずみなくてはいけないわけです。そうすると1音でも2音でも半オクターブでもよいから土俵の同じところで勝負するということです。だからまねするということと少し違うのです。

 

 

○音程

 

 ほとんどの人がこういう曲を聞くと、気持ちよいままに歌ってしまいます。

 リズムや英語の発音を正すことなど、あまり見ません。他の先生に任せてます。ピッチトレーナーも別に置いています。

 それはどうしてかというとそんなこと考えていたら何も表現でないということです。元々基本となったときにそんなことを考えて誰も歌っていないからです。ピッチを考えて歌ったりしないでしょう。みんなでもそうですね。得意な曲で自信持っている曲でピッチなんか取らなくて取れていますね。カラオケで。

 

 だからもし取れていないとしたらそれはたまたまその曲が苦手だったりあるいは逆に変に間違えちゃって覚えてしまっただけの話です。そんな複雑なことを12個の音のなかでやっているわけではないのです。使っているのは7つ、プラス1つか2つですね。だからもっとダメなのはピッチを正されるというようなところです。何が起きているかというと音楽がずれているのです、ピッチがずれているのではないのです。

 

 プロの歌っているのでピッチずれているのたくさんあります。めちゃめちゃひどいのもっとたくさんあります。それでもそんなこと客は気にならないですね。

 それというのは、「サ」の音がきちんと聞こえないので、そんなものが気になる程度にしか歌えないのであれば元々成り立っていないという話なのです。そんなもので客は聞かないし批判もしない。

 

 

○まねない

 

 こういうのでいうとこれを拡大してみる練習の方法としてみて、まねてはだめだよと。なぜかというと、たとえばこういう動作をまねてみると、ここに行くと手が出なかったりそれからこうゆっくりになってみたりしてまねているつもりで同じことをやっているつもりで、だいたいスケールの小さいことになってしまいます。

 

 トレーニングですからプロはこう出せたということは本当はこのぐらいやれる能力があってこのぐらい出しているわけです。だから音を聞くときに自分のなかで少しゆっくりになったなと思ったらすごいゆっくりになったのだと、パッと入ったなと思ったら、それはすごい早く入って、ただその結果としてそのぐらい自分の耳に聞こえるのだと受け止めないと本質的な勉強はできないです。それが感覚を盗むことです。

 

 こういうものでもたとえば何回も聞いてみるとかあるいは大きな音で聞いてみる、「一緒に音楽を聞きましょう」と「そのことが一番大切なのですよ」と「歌ってばかりいるから歌えないのだよ」と特に歌ってきた人にはそういってます。歌えてて歌えるようになっているならもうなっているではないかと。あたりまえですね。

 

 そんな難しいことではないのだから、これだけの話で、何かすごいここに響かせる発声法があってそれをマスターしていないから私は歌えないのだとか、本とか読むとそうなってしまうのです。

 そんなものはないのです、感覚があれば何でもできるのだから。そうしたらその感覚がないというのはいったいどういうことなのかというと耳のなかで相手の体を読み込んだりそこのなかで何が起きているかという能力にまだ欠けているわけです。それを身につけていけばよいのです。

 

 これは私もトレーナーの研修なんかでよく使うわけです、「ハァ~」という最後のところ、こういうところを教えるのは日本もそろそろやめましょうと。こういうところというのは歌いきったあとにあくびしているみたいなもので流れとして出てくるものだから発声法でリラックスして出したりするようなものではないと。

 

 何か一ヶ所でもよいから入り込める部分とかこの歌でいうとこれだけ歌おうとしたら確かに難しいと思う、でも1秒でよいよ2秒でよいよといったら接点はついてくるのです。同じ人間だから。

 だからうちの生徒がこういうの全然できないわけではなくて、2秒とか3秒はできたりする。でもそのことを1分でやろうとしたらすごい難しいことなのだよということなのです。

 

 2秒3秒できないのがどうやって30秒できるのだと、あるいは3度とか1度のなかでできないことがどうしたら1オクターブ、1オクターブ半できるのかといったらあたりまえの話ですよね。もしできているとしたら基準が甘くなっているだけの話なのです。ギリギリのところで表現することでなんとかそこについていくしかない。

 

 だから、もし芸事を勉強しようというつもりで考えている人であれば上達法というのはひとつしかないです。自分よりすぐれた感覚のものに引きずられるようにしてみて自分を失っていってそこに巻き込まれていくやり方、それしかないのです。

 

 本当に上達しようとしたら。スポーツなんかはそうですね、自分たちのなかでどんなに努力してみてもダメだけど高校生だったら大学生のところ行ってみたりプロのところに入ってみてぶつかったりして、一瞬ニ瞬でも動けたらそれが革新するということですね。

 

 要は自分で考えたことでやってきた、自分の感覚でやっている、そしたらたいして上達しない、いや上達くらいしかしない。自分の体でやっているというところでもうやれるところまでは長くやっている人はやっているわけです。そこを壊さない限り次のものというのは得られません。芸術品はみんなそうだと思いますけれど、それを一般に戻すと普通に声が出ないとか大きな声が出ないとかいう場合には、一番簡単なのは日本人のところで限定しているものをはずすことです。

 

 たとえばイタリア語をやってみるとか少しオペラっぽいところの、何もオペラの練習をする必要なくてワンフレーズだけ出してみるとかしてみます。

 ポジションを深くするとか声のポジション喉を開けてみるとか、大きな声を一瞬出してみるというのでもよいのです。「ハイ」でもよいでしょう。

 

 大きな声を出すということで歌が大きく出るわけではないということです。そこがややこしいところです。要は力を働かせようと思ったら力が働かなくなってしまいます。それでフォームが必要になったり呼吸が必要になってきます。それがうまくまわったときに力が働きます。

 多分役者も同じです。ヴォーカリストがやらなくてはいけないのは全身を一体にすることです。一体にして声を出すという感覚をどこかでつかんでいくことです。

 

 これはスピーチなんかでもそうだと思います。外国人の映画俳優なんかから勉強するとよいと思います。私は役者には黒沢映画使っています。仲代さんとか三船敏郎さんとかああいう動きのなかで剣を切りあう動きのなかで「えい」とか「やぁ」とかいっているほうが声が背骨のほうから出てくるのです。そういうのが定着してきたら1年2年たって、声を再生してみましょう。