レッスン録1
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【「そして親父は」入42525】
【②クラス42216】
【「アルディラ」(1)京都42210】
【「アルディラ」(2)京都42210】
【レッスン1京都42421】
【レッスン2京都42421】
【「帰り来ぬ青春」京都42722】
【「恋の季節」京都42811】
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【「そして親父は」入42525】
○自分の寸法
この曲は、プロを呼んでやっても楽しめる課題だと思います。我々日本人は全体の流れをつかんでから部分をやるのですが、歌をつくる場合というのは、作曲家も作詞家でもゼロからつくるわけです。私が見ているのは、歌唱においても、そこでの組み立て方です。
全体を覚えて、さらっと歌ってしまうと、成り立ったかどうかなんてわからないでしょう。ところが、今みたいな曲をよく知らない状態でやっても、成り立ちそうな人もいれば、成り立たない人もいるのです。
多くの場合は、リズムとか音の動かし方で曲を捉えられていないのです。
それは日本語がいえたとかどうかという問題ではありません。
歌は、音楽の本質的なところを取らなくてはいけないのです。いわゆる歌い手を抜かしたところでこの音楽を理解しなくてはいけないということです☆。その歌い手の代わりに自分が歌うのですから、そこは違ってもよいのです。しかし、ほとんどの人が自分の寸法を取れていないと思います。
○プロに求められるレベル
こういうレッスンというのは、このペースで進んでいく、本当の実力というのは、この課題を2、3回歌っている間に修正できて作品になるということです。それが自分でわかるということです。
場合によっては歌詞を変えたり、テンポを変えたりして逃げなくてはいけません。ここでは逃げる方向は勧めていません。
この課題も、ことばのたたみかけの練習ではなくて、声が柔軟性をもって、音楽という作品に入っていくかどうかです。そのためには音楽のツボなり、その骨組みを知っているということです。
たとえ英語や中国語でやらせてみても、そこに音楽が成り立つような力をつけていくことです。歌詞を変えてやった人は、もう一度元に戻してみて、そことどう違うのかということをみてください。
今のでも1、2割のアプローチはできているのです。やらなくてはいけないのは、3回くらい聞いてみたら修正できて、そのあとすぐ出せるように、自分の足らないところを補っていかなくてはいけないと思います。
2、3時間練習すれば誰でもそのくらいはできる、今のでできたとか、音が取れたと喜んでもしかたがない、作品としてできたかどうかというところを見てください。
もちろん一人ひとり違ってもよいのですが、単に上滑りで歌っても、音楽の構図を取っているかどうかは、聞く人が聞けばわかるのです。こういうところは、そういう部分のきっかけになるところだと思います。
○人の聞かないものを入れる
作詞作曲の勉強も、こういうことを徹底してやっていればよいのです。人が聞いていないものをたくさん聞き、人のないものをたくさん入れておくと、それが作詞作曲の一番のベースの力になり、新鮮な感覚となります。
最近はこういう難しい曲をやると、だんだんできないからといって落ちていくのです。難しい曲というのは最初からわかっている、できの問題ではないのです。
そこで創るという姿勢をもち続け、1割でも2割でも自分のものを作っていくことが勉強なのです。単にこの曲が取れたというような、練習をしていてもしかたがないのです。
できない、難しいということを毎回自分に突き付け、徹底してやっていくことが大切です。こういう曲は1年分くらいの課題はある、本当にセンスのある人であれば、4、5年は充分に使える課題です。
できたできないの勝負ではなくて、常に自分で創っていけば、いろんな方面で勉強できることがたくさんあると思います。
こういうところでやると、人のアイデアとか発想を盗ることもできる、得たものを大切にしていくことです。最終的には自分を知っていくということになります。当然これからの可能性も大きくしていくことは、誰でもできることとしてあるのです。
今でも一回目と最後のとを比べてみると、それなりに最後は形がついてきたと思います。ただ、ほとんどの人がそれを詰めていかないのです。
今はできるとかできないよりも、たくさんの音楽に接しながら、自分はそれに対応できるかどうかということをみてください。
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【②クラス42216】
○スタンス
「あなたの声を聞けば」
一緒に聞いてみましょう。他の人について何か感じることがあれば、一人一言ずついってみてください。トレーニングを三つに分けなさいということではないのですが、これでは意味がないと思います。
トレーニングというのは、人に見せられるものではないのです。それにしても、あなたが出した表現というのは、ステージでのスタンスを想定していません。
たとえば、この前に家族や、高齢者、友達や同級生がいたとしたら、結婚式で歌うとしたら、今のような歌い方はしないはずです。
練習だからよいというかもしれませんが、そのスタンスというものをもっていなければ、トレーニングしても変わらないのです。
○声と音の可能性
ミルバから勉強して欲しいことは、同じドミソという音に対しても、どれだけたくさんの可能性があるのか、正解は一つではないということです。逆にどうやっても何とでもなるということは、どんなに難しいことかということです。それをきちんと落としていかなければいけません。彼女は、こういう線をすごい速さで動かしている、これはできないと思います。
でも感覚かイメージから入るしかないのです。声で先に入れればよいのですが、それはかなり難しいことです。
○伝えられること、伝えられないこと
たとえば、私があなたに伝えたいことというのは、こうなんだとことばで説明することによって、その大部分を落としてしまっているのです。仮にそれをことばで伝えたとしても、あなたが理解できるギリギリの速度となります。私の頭のなかは数倍の速さで回転しているのですが、皆さんに合せてゆっくりいうしかないわけです。
勉強しなくてはいけないことは、そこのギャップを自分のなかで感じ、それを客に対して見せていくことです。
今の皆さんがやっていることは、絵を見て、単に赤い色だなと思って、赤く塗っているだけです。本当のことでいえば、色はまだ必要がないのです。それは赤くなくてもよいし、人の形でなくてもよいのです。
ただ大切なことは、そこのなかで受けたものを、実際に自分のなかで咀嚼(そしゃく)する、これはこういう構図のバランスがあって、ポイントはここという捉え方ができるかということです。
○気持ちと心地よさ
この音程をどう取ろうかとか、ことばを取ろうとするのではありません。これが古くならないのは、表現から入っているからです。相手に伝えることを前提にし、自分の気持ちを出すことを目的にしているからです。当然、音楽的な処理も、秩序立ててもいます。
でも最初に勉強して欲しいことは、ドミソという音があって音楽が始まるのではなく、どう出したときにミの音にいきたくなって、それが最後にソにいかないと、何となく落ち着かないという気持ちをもっておいた上で、ショートカットとして、この和音だとか、こうやったら音が心地よいということに入っていくのです。
○バックグラウンド
こういう声一つのなかに、世界の人が全て受け入れるものが全てあるとはいいません。この先を聞いてみたいとか、この人はどうやって生きてきたんだろうとか思いませんか。その人の考え方、行動がその人のバックグラウンドになってくるのです。みんなそれをもっているのです。ただ音楽にしたときに崩れてしまうから、それを大切にして、そこから決めて、表現を覚えていきましょう。
鋭い感覚があたりまえになってくると、鋭くないことがはっきりと鈍いとわかってきます。環境はすごく大切です。音楽の世界はとても厳しいものです。でもヴォーカルの世界は甘いし、ヴォーカル自身も甘いので、他のところにいっても、あまり勉強にならないよといっています。
まわりにやれる人しかいなければ、やれない方がおかしいと思って、育っていきます。タレントの二世、三世がやれるのと同じです。それは悪いことではあるのですが、そういう状況に自分を置いてみたときに、何でやれるのでしょう。必要でないものを自分のなかで排除していかなくてはいけません。
○総合していく
音楽は整理された世界です。秩序のある世界です。単なる自分の気持ちだけでやればできるものではないのです。その気持ちを出し、それを整理することをトレーニングでやっておかなければ、気持ちも出せない、音もとれない、どれも出せないとなってしまいます。
イタリア語の歌の発音を勉強するなど、ここを一つの目的のために利用するのもよいですが、それには私のレッスンはあまりふさわしくないと思います。
統合するためのトレーニングを自分に課してやっておかないと、今やっていることが、3年経っても変わらないままになりかねません。声だけが大きくなったり、長く伸ばせるようになったとしても、そのことと表現とは別だということです。自分の色を出せたかどうかという基準をもたなくてはいけません。他人のことをまねできることが、自分の上達だと思ってしまうのは、錯覚です。
音程やことばで聞くのも大切な勉強ですが、こういう基本から勉強するときには、そういうものは全部捨てて、そこで自分の一番深いところに、聞こえないものや見えないものをきちんと捉えてください。それをヒントに自分を正せるようにすることです。また自分から出たものを認めていく。しかし、もっと覇気のあるところで出して欲しいと思います。
この人たちは、一本の線が一貫して通っているでしょう。すると、そこで体が足りないとか、感覚が鈍いという問題がはっきりと突きつけられるのです。とにかく、こういう一貫した一本の線を通した上で、レッスンもやっていかないと、今日は息だけ使ってみたとか、声だけ出してみたといっても、何もならないわけです。
彼らの歌がうまいとかどうこうではなくて、これらの要素があり、その上に乗っていくものがあるわけです。そういうふうに思いながら、一年も経たないうちにやめる人もいるし、気持ちが変わってしまう人もいます。そうやって、夢は消えていくのです。そういうことに結びつけながら、体のことや声のこともやってください。
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【「アルディラ」(1)京都42210】
○「自分の歌を歌おう」方法論の否定
何をどう伝えるかということは迷うところです。何を教えるかとか、何を与えるかというよりも、あなた方のなかで何を受けとめるのか、どういうふうにレッスンを消化するのかではなく、どう創造できるかが大切です。
音楽の友社から「自分の歌をうたおう」という本を出しています。ここのレクチャーで話していることのまとめです。
要するに、声や歌の時代ではないからこそ、声や歌をやらなくてはいけないということを書いています。ただ、これまでのヴォーカリスト向けの本というよりは、アーティスト向けになっています。自分の歌というのをどう捉えるかということが問題です。その人のなかに自分の歌がなければ、ステージに立ってみても伝わらないということです。あとは読んでもらえばよいと思います。今まであなた方にいってきたことと同じです。
昨日東京のオーディションをやってきました。声とか歌に入ってしまうがために、狭くなって、そこから抜け出せなくなる。学校でもどこでも、人に教えてもらおうと思った途端によくなくなってしまう。こういう芸事は、盗める人しか得ることができません。当人のなかで発掘されずに眠っていたものが、そのあとどういう形で出てくるかということが伴っていかなければいけない。
誰でも努力はできる、その一所懸命な姿に心を打たれる人はいる。しかし継続的なオンはしていかないと思います。こういう世界においては、どこまでオンしていくかということにしか、意味がないのです。
今回の本で一番いいたかったことは、方法論の否定です。正解としてのやり方があるのではないということです。当人がそこに接点をきちんとつけられていることが問題なのです。その接点を付けられないことは、主として感覚や体や声の問題なので、そこを補強する。つまり、アプローチを試みていくのです☆。
ただし、その接点の先を見ておかなければ、声とか歌は40年経っても解決しないのです。世界でもそういうことを解決した歌い手は、あまりいない。そういうものがなくても、それを感じる心が開放されることによって、体が自然と正されてくるような接点をつけられていれば、歌や声という個別の問題にはならないのです。
声も歌も、一つの手段だという割り切り方をどこかにもっていないと、そのなかに入ってしまいます。日本人というのは真面目で、それを壊そうとしないのです。もちろん、そういうところから、何とか出口を見つけたいと思っています。
○評価 演出家平田さん
平田さんという演出家にきてもらいます。彼がその日は自分のところの稽古があるから、延期して欲しいといってきたので、スケジュール変更です。自分の劇団の稽古が優先というのはあたりまえのことです。人様のところを手伝うのは、余力があるからで、自分の劇団の作品で勝負している以上、そこでやれなくては、評価されないからです。
彼は劇団の座長の他にも、市民のため、大学のためにいろんなことをしています。自分のところがしっかりしているからできる。自分へのこだわりの部分を捨てて人様の世界を優先し、人のために合わせてやろうと思っても、大きな意味で人のためにもならない。
他人にできることというのは限られています。自分のことをしっかりとやることが、他人のためになるのです。その接点がついているところに、きちんと足をつけておかなくてはいけないということです。
今回のオーディション426は、他の演出家とプロモーターと私の三人で見ます。そのときに何が問われるでしょうか。声や歌のうまさだけに関心を示すのではない。路上ライブは誰でもできます。プロデューサがなぜこいつはおもしろいと感じるのかというと、何か普通の人とは違うところがある、はみだしている部分があるからでしょう。そこで足を止めさせるためには、そこから普通の人にはない感覚や体が問われます。そこでの必要性の補強のためにトレーニングがあるのです。これはあたりまえの位置付けなのですが、声とか歌だけをやればよいと思っていませんか。
○ポイントを絞り込む
自分の映像をきちんと見て欲しい。それが一つの切り出された作品になっているのかどうかということです。自分の映像を見て、100個チェックしてください。そうやって課題をあげていかない限り、何年経っても変わっていかないのです。ライブのときに、評価が高かった人は歌のうまさ、声のよさではないのです。歌がよかった、声が心に残ったということだけで、ステージやライブが動いているのではありません。
私がいつも気にしているのは、出口のない迷路のなかに入ってしまったら、声も歌も何もならないということです。出口さえあれば、それに向かって繰り返してオンしていくことはそれほど難しいことではないからです。
たとえば、感覚の鋭さがあれば、そこに歌を入れていくと脹らみます。そこにフレーズをつけていくので、必ずズレができるのです。みんなが1秒くらいで感じるところを、0.1秒や0.01秒くらいで到達するために、そういう細やかな感覚をもっていなくてはよくないのです。
よくバッティングの例で取り上げていますが、いくら素振りだけしていてもよくはなりません。ミートポイントのところに絞り込んで、そこに最大の力が働くようにしなければいけないのです。単にボールに当てたというのを喜んでいても、試合では使えません。声でも同じことがいえます。それはトレーナーや音楽を知っている人でなくても、普通のお客さんでもわかるということです。
○バカになり切る
つまらなくないものに、面白いものになるように、勉強してできるのかということです。それには勉強したり頭で計算したりすることを伴いますが、それだけでは所詮その程度のものしか出てこないわけです。あなたが直感的に感じたり、感覚的に入ってきたもののなかから、心が表出してくるようなことを、レッスンで体験して欲しい。それはすごく創造的で、パワーのいることです。やれているのは全体でいつも1割くらいの人だと思います。そういう人はバカだからやれている。徹底して、やるからです。
なまじ頭のよい人というのは、中に閉じこもって、こうやったらこうなると考えてやっているので、そこで遅れてしまうのです。スポーツでも芸事でも、瞬間的な判断で進んでいく。頭はよく働く、でも考えている余裕はないのです。
○感覚
そのことをスローペースでできるのがトレーニングです。もちろんレッスンをスローペースでやってはよくないのです。感覚の速さに対して、人間が表していくことば、声というのは、必ずズレができてくるのです。
それはあたりまえで、私が実際に考えていることは、こうやって話している速度よりも数倍速いのです。その速さで皆さんに与えたら、理解不可能でしょう。相手の心を受け入れられるところまで、こちらが調整しています。ただ、その感覚を鈍くしてしまってはよくないのです。
同じようなことが歌のなかでもいえるのです。歌のなかで相手に見せていくことが発声であったり、歌の技量になってくるのです。ですから鋭い人はどこで見るのかというと、その感覚を見るのです。技量が追いついていない部分くらいは、今の時代、音響で直せるということで大目に見ることもあるのです。その人の発想がない、その人独自の切り込み方がないとしたら、それは直しようがないという判断になるのです。
○位置づけ
先ほどの発声トレーニングのようなものが簡単にこなされているように感じているなら、レッスンにはならないのです。「ハイ」「ララ」でも同じです。本当はそのなかに皆さんのトレーニングの位置付けがでてこなければ嘘です。
そこでできたことの結果はそれでよいのですが、それをどこに向けて、自分がどのプロセスを踏んでいるかということはきちんと把握しておかなくてはいけません。スポーツでも、美しいフォームの方が強いし速い、何か格好がついてきたということが上達なのです☆。
ここでも映像を渡しているのは、自分とそこのギャップを見て、それを埋めていくことはそんなに難しいことではないのです。そのためには客観視する力が必要になってきます。
声や音のなかの世界を見るのは難しいことです。実際に歌っている姿、表情、身振り手振りというのは見て判断できるでしょう。これはよいとか、これは格好が悪いとわかるはずです。
それが計算されたように見えてしまうとつまらない。でも、実際に自分がそれを破って自由にやるとしたら、大変なことです。もちろん、それも含めてその人のアピールの仕方であり、作品です。そういうものが出てくるトレーニングを、どこかでやっておかないと、感覚も声も正されずに、リピートの繰り返しで終ってしまうのです。
○デッサンの繰り返し
今回のオーディションでは、私が一人一人コメントをして直していきました。直してよくなるということは、こちらが繰り返しやらせることで、その人のよい線がより純粋に出てくる。それがぼやけないように輪郭が出てくればよいだけで、それ以上、無理をしないことです☆。
その輪郭をぼかすことが歌だと思っていたり、単にそれを押しつけることが歌だと思っている人は、そこの感覚から変えていかなくてはいけません。それはどこのスクールでもよく起きている勘違いです。
息を吐けば、声を出せば歌になるということはありません。最初は当人が相当強い意識で歌をコントロールし、動かそうとしない限り、声も歌もだらしなくなってしまいます。
○伝わるもの、せめぎ合い
これは声のミスではなくて、イメージのミスです。それでは何も起きません。
まわりのみんなに合わせてしまう。そこで自分の感覚を殺してしまったり、自分のイメージを小さくしてしまったら、何も出てこなくなります。これが特に日本人にはとても難しいことなのです。
今やったことをプロデューサがみても、何の練習をやっているのかがよくわからない、つまらないことをしていると思うかもしれません。そのときに今は体を作っている、声を調整しているという言い訳をしない。確かにそういうトレーニングのために、表面的にはうまく聞こえなくなる時期はあってもよい。
ただし、そのプロセスにおいて、すでに伝わるものがあるのです。当人がより繊細な神経を働かせようとして、まだ体が対応できない、ならば、苦しんでいるというせめぎ合いのようなものが見られなければレッスンになりません。
○準備する
レッスンというのはできないことをやりにくるのです。体、感覚とも準備の必要性を重ねていくのです☆。
結局、自分ができないことは何かを発見し、そのできないことに挑戦するのです。おのずと自己矛盾を起こすのです☆。
だからレッスンになる、その自己矛盾を引きうけた上で、その先のイメージを強くもっておかなくてはいけません。
○個性とは
単純なことでいうと、オーディションで面白いと思うのは、個性のある人です。風貌からファッションまで、何か個性がある人も面白い、それを歌にしたら、さらに、おもしろい、これが最低条件です。しかし、このステップのまえに不通になってしまうという人が大半です。
ではここで問われる個性というのは何なのかというと、音や声のなかで、その組み合わせで示される個性なのです。それは誰かの個性ではなく独自性のあるものなのです。
○体と心を一致させる
二つの条件があります。
自分のなかのイメージをきちんと持つということ、もう一つは自分の頭が邪魔しないということです。自分の体とか心のところで動いてきたものを、そこに一致させていくのです。
そこで自分の体や心が動いてこないとしたら、それをレッスン、トレーニングだけではなく、そういう状態を自分のなかで読み込んでいかなくてはいけないのです。これがとても難しい。
レッスンの場ですぐにその状態をつくることは、日本人にとって苦手なことです。だから、レッスンがものまねの場となる。日頃から自分を押さえることばかりをやってきているからです。歌というのは、先にイメージがあって、それが動き出すところを歌い手が拾っていかなくてはいけないのです。
こう歌いなさいということは一つもない。少なくともこれが歌になるための条件が、このくらいはあるということを知っておく、少し具体的にやっていきます。
まず「アルディラ」の「ア ル」のところは音を作らないでください。
レッスンで、わざわざ人のところに行って人の経験を使うということは、皆さんが持っていないいろんなイメージを参考に、自分の世界を広げていくためでしょう。いわれたとおりにやることではないのです。いわゆる舞台のスタンスの問題と、表現をイメージすることが抜けているところに、音声や音程、リズムのことをやるのでなく、そこは自分で切り替えていかなくてはいけません。
○歌わされてはいけない、歌ってはいけない
トレーナーやまわりのペースに巻き込まれているときは、本当の練習はできていないと思った方がよい☆。
単にテンションをあげればよいということではないのです。自分のやったこと、人のやったことをきちんと聞けることが大切です。「ア」だけでやっていきましょう。
「ア」
お互いに聞けばわかると思います。声だけでしょう。感覚も伴っていないし、体も伴っていません。発声練習というのは、確かにそういう部分もあるのですが、ポップスの場合は、その「ア」がイメージを伴って動いていたら、結果的にそれが歌になっていればよいのです。歌える人が、発声練習で惚れ惚れするような声を出しているわけではないのです。
それが必要ないからポップスを歌っているのでしょう。確かにより柔軟に、より自由に出せるために、声量も声域も最低限、必要なのです。しかし、そのために他のものを殺しているのであれば、練習をやらない方がよい。今度は「ア」から「ディ」のところまでを、自分の感覚でとってください。
「アルディ」
お互いに聞いてください。そこに音楽が生じたり、歌が聞こえてくる瞬間、あるいはそういう傾向があるのかどうかということです。皆さんのイメージがまっすぐな棒みたいであれば、そうとしか出てこないのです。皆さんが感じたり、イメージした以上のものは出ません。計算したり、頭を使ったりしたらよくないのです。音楽というのは、大きな流れができているのですから、そこを頭で計算してしまうと、音楽を壊してしまいかねないのです。
ひとことでいうと、歌ってはいけないということです。本当は自分のなかでそれが聞こえてくるまで待つしかないのです。最初は無理に入れ、無理に接点がつくようにやる。
「アルディラ」をもっと脹らませて、少し流れをつけてみましょう。自分がどう動かしたいかというデッサンを描くことです。もう一度やってみます。
○自分の歌のつくり方
自分は一回ではデッサンができないと思ったら、それは自分のトレーニングでやっておく、そういうことが大切なのです。
たとえば「なんて青い瞳」のところでも、ほとんどの人が音に合わせるだけ、こちらは本当にどう感じているのかといいたくなるわけです。
皆さんもことばでやればできると思うのです。それを音楽的にするためには、自分のイマジネーションで補わなければいけません。
そのバックグラウンドとして、情景や感情移入をするのではなく、この「なんて」というフレーズに対して、「青い」がどう置かれ、次の「瞳」がどうくるのかということが問題なのです。そのアプローチが見えないと、その先も聞けないのです。
「じっと見つめ」
役者のように感情を入れていくやり方もあります。でも音楽というのは一つの流れがありますから、下手にそれに逆らわなければ自然に進んでいくのです。それを活かしながら、そこのなかに自分なりのちょっとしたニュアンスのズレを作っていくのです。そんなに高度なことを求めているわけではないのです。
それだけいろいろと動かせる余地、創出する可能性がそこにはあるのです。そこは皆さんが感じて、自分の「じっと見つめておくれ」という心を持ちながら、音楽の秩序を乱さないように作っていくのです。長く続けてやっていく人は、そういうところに出てくる、世界の人たちが共通して捉えているような感覚を感じて、それを自分のものとしてやることが面白いから、辞められなくなってしまう。残念ながら今の歌い手の大半は自分の歌さえ歌っていないのです。
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【「アルディラ」(2)京都42210】
○のせられる声
「ハイ、ララ」
ポップスの世界では、私は発声練習と歌で、基本として使う声は同じに考えてよいと思っています。みて欲しいことは、今出している声自体に何か乗せられる可能性があるか、柔軟に動かせるか、応用できるかということです☆。
トレーニングでは、自分ができないこととぶつかってもよいのです。
ヴォーカルのレッスンで気をつけなくてはいけないのは、部分的な目標が最終的な目標になってしまうことです。多くのことは何かのために必要なのであって、そのことがそのまま、出口ではないのです。
「アルディラ」というのをつけてみましょう。それを歌うのではなくて、それを発することで、人が自然に聞いてしまうような表現を出すことです。
声の問題はトレーニングのなかで片付けていけるのです。ところがイメージの問題というのは、その人のスタンスの問題と、その人が音楽をどういうふうに理解し、どう出したいかということが必要です。そこに自分の感性や感覚を働かせておかなければ、何も出ずに終ってしまうのです。もう一度やってみましょう。
もっと自分の体と心の動きが一致する方向に開いておくことです。皆さんのイメージは、まだ「タ・タ・タ」という三つの音に「アル・ディ・ラ」と置いて、それで声が出ていればよいとやっているのです。そこに当人が何も乗せていないから、表現にはならないのです。そして、そこにパワーを加えたら、音楽からは離れてしまうでしょう。
もう少しわかりやすくやってみます。「アルディラ」の「ア」から「ラ」につなげてみてください。
「アーラ」
○ドキドキ、ワクワク
今ここでやりたいことは、スタンスのことと、イメージ創造のことです。でも、皆さんがやっていることはソルフェージュで、音を取るための練習です☆。
レッスンや人に学ぶということは、お互いの感性を刺激したり、鋭くなるためにあるのです。その創造の努力がなかったり、感覚が鈍くなるのであれば、やらない方がよい。日本の学校はどこでもそうなってしまいがちで、その状態を破らなくてはいけません。何人かの人がたまにそういうことをやるようでは、場が成り立っていません。
それがどういうことかということは、伝えにくいのですが、常に創造するというところにきちんと接点を持っていなくてはいけないということです。創造することは、面白いことだし、すごくドキドキ、ワクワクすることです。集中力も使えば、体力も気力も使う、そういうレッスンになっていますか。
その結果、作品がボロボロに崩れることがあっても、それはレッスンだからよいのです。でも、今のは全然作っていないでしょう。何も成していないことを恐れなくてはなりません。
○矛盾を起こす
その辺は二つの方向でみています。一つは個人的な部分の資質で、個性そのもの、もう一つはそれを音で取り出すときのイメージや感覚、演奏技術のことです。
二番目のことは、研究所でもできる、一番目は研究所だけではできません。
たとえば、一つの絵を見たときに、「なんだ絵か」と思う人と「すごい」と感動できる人との違いみたいなものです。そこで感動して泣けるということは、自分のなかでの生の葛藤が始まるから泣ける、泣けるから偉いというより、それが創造する人間としてのエネルギーみたいなものです。そういうものとレッスンとは、かけ離れたものではありません。その部分が足らないと、どこかで習っている人の弱点になっているような気がします。毎日の生活で補うことです。
本来であれば、ストリートでやって、何をどうすればよいのかわからない、わからないことがわかったという人が、好ましい☆。それを具体化するためにこういうところに来るとよい。息とか声も問題になっていない場合が多いのです。そのことが本当に突き付けられていなければ、レッスンも成り立ちません。レッスンというのは、その矛盾を起こしていく場です。その矛盾を起こすためには、自分の意志をもって鋭くやらないといけないのです。
今のようにやっていては、ただ無難なだけ、こちらはもっと元気を出しなさいというくらいしかいえません。それは本当のレッスンではないということを知っておいてください。自分のなかでこうだと思っていることをやって確かめ、それでは全然よくないということを自分のなかに叩き込みにくる場所なのです。そのためには、もっと感覚のところで鋭くしておかなくてはいけないと思います。
○声よりも感覚
音程があってことばがあるのではありません。先にイメージがあるのです。今のではスケッチブックにお星様を描いただけで、輝いてもいないし星もみえません。
何をやりたいと思っていますか。それでは星は輝かないし、人も引きつけられない。声がないからできないのではなく、イメージがないからできないのです☆。
そういうことがレッスンをやることによって鈍くなるのであれば、レッスンなんて辞めた方がよい。星を見たら何かを感じるでしょう。
誰でも感覚や感性というものを持っていないのではないのですが、それがここで取り出されていないのです。そういう創造的ではないレッスンではお互いに退屈でしょう。
そのまま10年かけて声を鍛えていったとしても、今の感覚ではどうにもならないとしたら、どうしますか。声がよくなると多くの人は上達と思います。でも完全にあさっての方向を向いているのです。
今つかんでいる程度の感覚や体の使い方では、到底何も出てこないでしょう。
皆さんにその感覚とか体がないのかといったら、あるけれども本気で使っていないのです。ストレートに入れる人にとっては、レッスンをすれば伸びていく、それを持っている人はそれを自ら出さないうちは、レッスンしても本当の意味で伸びるわけがありません。それこそが大きな問題です。
○精一杯やる
サラリーマンでも同じでしょう。2、3割の仕事しかやらずに、おれはもっとできるといっている人は、本当にやりたいときには、もうそのくらいにしかできなくなっているのです。
それは人に動かされているからです。その人が「やればあいつくらいにはできるだろう」と思っている“あいつ”は、すでにやっている。そこに、どれだけ大きな差が日々、生じていくかがわからないから、よくないのです。
本当にやる気のある人であれば、常に10割のことをやっているでしょう。
自分ができることを今精一杯やっていないと、本当にやりたいときに、それ以上のことができないのです。トレーニングをしたり、どこかに習いに行くことで、そういう目が曇らされていくのであれば、本当に害にしかならないと思います。
○デッサン練習
「アルディラ、輝く星」
「なんて、青い」
これを何度か回していくうちに、もう少し立体感なり、生命力を出していきましょう。単に感情移入をするのではなく、そこに音楽が生じるようにやってください。
ほとんどの人のイメージが、声とことばだけのイメージなのです。リズムもフレーズもことばのニュアンスもなく、そういう感覚が感じられません。
先に「なんて」というイメージがあり、そのフレーズ上に声が乗っていくわけです。その内部の感覚を持って欲しいのです。「な・ん・て・あ・お・い」ではなくて、もっと音としての連関を強く持つようにして、やってください。体がまだ起きていない人は、少し大きめに出してもよいと思います。
「なんて青い」
「なんて」
どんなニュアンスでも構わないのですが、その裏にあるいろんなものをきちんと導きださなくてはいけません。それを助けてくれるのが音楽やリズムです。
そうやって音が動いているイメージを持つ必要があると思います。たった一つの音を確実に出すことと、その次の音にどうもっていくかということ、音楽では、その音とその次の音との関係が一番大切なのです。
「じっとみつめて」
まだデッサンの線が一つくらいしかないようです。それを柔軟にして欲しい、もう一つは、音楽の自然な流れの上にフレーズをうまく乗せてやることです。
○ドライブ、フォーム
「じっとみつめておくれ」
「ティ、セイトゥ」
ほとんどそんなところでやっても、何の練習にもならないでしょう。その辺のおばさんでもできます。問題は、そのフレーズの色とか、ドライブのかけ方とか動かし方。というのは、いったいどういうイメージを持っているのかということです。
そのためには気もつかわなくてはいけないし、体も使わなければいけません。これができたかどうかということは、そんなに大きな問題ではないのです。今は練習です、できるだけ大きめにつくることです。
「セイトゥ」
そういう上っ張りのところでやってしまうと、歌には使えるかもしれませんが、トレーニングとしてはあまり意味がないところです。そこの部分ではいろんなことが起きます。その息のなかに一つ、確実なフォームを持っておくことです。音楽というのは、そのなかに一つの流れがあるのです。それを自分のことばで邪魔しないことです。
「ペルケ ペルケ」
何のために息を吐くのでしょうか。何のために「ハイ」をやっているのかということを、常に忘れないようにしてください。息や「ハイ」の練習ではないのです。
今日話したことは、いつも、いっていることの繰り返しです。毎回のレッスンでは、いつもそれをふまえ、できるだけ新鮮な感覚で取り組んでください。
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【レッスン1京都42421】
○好き嫌いをおく
研究所にいる期間くらいは、自分が絶対にやらなかった、絶対に歌いたくないというようなものを勉強しなさいといっています。
10代くらいで入ってくると、たまたま偶然出会った音楽だけに縛られてしまっている場合もあります。
それも必然ではあるのですが、音楽の世界もいろいろあるし、さらにめざすべき自分の世界というのがあるわけです。
自分はこの曲は嫌いだけれども、自分が歌ったら映えるというものもあるのです。でもそれが本当の意味でのその人の個性とか、才能を活かせる歌です。
日本人は、自分が昔から好きだった曲とか、小さい頃に歌っていた曲を選ぶのです。しかし、プロはそれだけでは通用しないから、自分が嫌いであっても、それをやることによって自分の魅力が出てくる曲というように、常に評価される側に立って選んでくるのです。
日本でも本当にできる人たちというのは、この曲は売れるけれど嫌い、この曲は売れないけど好きだから客のいないところでやっておこうと、分けているものです。自分が好きでやりたいと思っているものが、本当に自分の力を発揮できるものとは限りません。
○ステージの準備に学ぶ
プロでも、落ち着いてある程度、力が安定している人は、声もそんなに変わらないのですが、より過酷な状況になったときに、アマチュアの域まで力がおちないということが大切です。
ステージは、その日の勝負ではなくて、少なくとも2、3ヵ月前から用意して、それに対しどういうふうにやるかということをつかんでいくためです。ステージの緊張感などはできるだけ日頃からイメージしておくことが大切です。そういうことはホームで練習のときからやっておかなくてはいけません。
○すぐれていること
すぐれている人とすぐれていない人との違いの第一番目は、どこまで集中してやれるかということです。たくさんやっているとか長くやっているのが価値を生じるということではありません。ある一定の時間のなかに、どれだけのことを深く、感じられたり、出せるかということです。これは、小説や絵を描く人も同じだと思います。
今の若い人たちの一番弱い部分は、すぐれている人との差を見ることができないところです。
誰でも同じにできるくらいにしか思っていないから、そこまでも伸びないのです。昔は、少しの差にどれだけの時間や神経が必要なのかということが、実感できていたのですが、今はあまりそれが感じられない人が多いのです。
○自己投資☆
研究所の本が置いてある一室を見て、「本がこんなにたくさんあるとは知りませんでした」と驚いていた人がいたのですが、私の自宅にはその数倍はあるのです。ましてや私よりも年配の人にはそれ以上の本を読んでいる人もたくさんいるでしょう。そうでなければ、仕事なんてできません。
そういうことが簡単にいえてしまうというのは、その程度で仕事ができたり、学者ができるくらいに思っているわけです。
こんな人がとても多くなった。たくさん本を読んだり、たくさんCDを買っていたとしても、それに適わない人もいます。
何かやれた人たちがどのくらい自己投資をしてきたかということを知って欲しいと思います。その辺がわからなくなってきているというのは、よいことではないと思います。
○感覚とイメージで切り出す
本来、いうまでもなく音楽も創造したり、表現したりすることです。しかし、日本の音楽教育でやられていないのはイメージやアイデアを創出することです。
ですから一番必要なのは、感覚とイメージ、それからそれに対応できる体となるのです。
結局、トレーニングはその二つを両方磨くことが目的なのですが、他のことばかりやっているわけです。
歌がうまくなりたいとか、声がよくなりたいというのは、その補助にしか過ぎないのです。ところが、ほとんどのヴォイストレーニングはそれが目的になっています。
考えなくてはいけないことは、作品として切り出さない限り、人々は理解してくれないということです。私がいろんなことを考えていたとしても、それを本という形でまとめたり、人前に出て話したり実演しない限り、相手には理解されません。
そういう切り口を作らなくてはいけない。そのためにはバックグラウンドが必要になってくるから、トレーニングすべきことが出てくるのです。
○トレーニングの位置づけ
トレーニングで一番混乱しやすいのは、本番でやることとの位置づけの違いです。それは、目的や実力のレベルによっても大きく違ってきます。
ヴォイストレーニングでは、声を使う、鍛えることだけをしっかりとやって、あとは歌のなかで、歌い方のテクニックを覚えたり、高いところを出したりすることも一つの方法です。
ところが多くのヴォイストレーナーというのは、発声のなかで歌でできることを全部やろうとするのです。私はそれをやらない、というのは、声にいろんな出し方があり、何を選ぶかということは、当人の出口が決まらなければわからないからです。
なぜそれが決めつけられるのかというと、声楽家の発声をメインにするからです。声楽家というのは一つの条件があるので、ある程度そこで問われる要素というのが決まっているのです。
でもポップスの場合は、ルックスがよくて、踊れるだけでデビューできる人もいる国ですから、自分のことを知ることが先決となると思います。
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【レッスン2京都42421】
○理想
昔から日本のポップスの歌い方というのは、音大の声楽家出身の人がリードしてきたので、かなり声楽がかっている歌が多いでしょう。また日本語も母音中心のため、そういう歌に合わせて作られていたのです。
「ここに幸あり」という曲、我々がそれをこういうふうに歌おうとすると、難しくなります。声が声楽家のように使え、息も混ぜられて、それをポップス的に処理できなければ歌えないからです。
そういう意味では、たとえば岸洋子さんなども、技術や歌唱力があるがゆえに、今の時代においては、そのスタイルを継承して歌っている人はほとんどいません。曲のつくりそのものが、欧米のリズムをとっている形になってきたので、音色、呼吸でもっていくのが多いです。
スティングのは、20曲続けても飽きずに聞けます。今はポリスのときのような突っ張った感じや声の伸びもなく、俳優の色気がある男が、たださりげなく歌っているだけ、でも続けて聞けるというのはそこに音楽が詰まっているということでしょう。
普通なら退屈してしまいます。別に歌詞や内容や声を聞いているわけでもない、そのステージをみさせてしまうというのは、そこにそれだけのものがあるということ、それを聞かせる力があるということです。
その安定感、その処理はどこでやっているのかというと、彼のなかの呼吸、体から息で送ったところに、もう音楽が乗っているのです。
○音楽が入っていることの例 スティング
曲自体は私にとって昔のようにおもしろくもないのですが、何曲聞いても飽きないし、最後まで聞かされてしまうのです。それが音楽が入っている、そして出せるということだと思います。
要は、音楽とその人のことばと内容と、体とが一体になっているわけです。歌わずに歌えてしまう人ほど、高い境地にいるわけです。そういう高度の表現のもつ安定度というのは、日本人はあまりもっていないような気がします。
○発声から歌をつくるな
トレーニングと歌との関係において、トレーニングでは基本をやるだけで、高音とか長く伸ばすところは、歌から直接勉強して、自分でつくったメニューにおとすのが、一番よいのです。
なぜなら、高く出たらよいとか、長く伸びたらよいというまえに、音色のイメージにおいて決めるべきことであるからです。
ところが、そのイメージがないから、他人にあわせようとしてしまいます☆。
要はトレーニングのところで、声楽のような器があれば、高音までつくり、声量もつくり、それを歌に移すというやり方もできるのですが、ポップスの場合は、そんなプロセスを経ずに歌い手になった人が大半なのです☆。
つまり、歌のなかでできることはそこで全てやるべきです。そして歌のなかでできないことについて、部分的な補助として、ヴォイストレーニングに落としていくのが正しい。なぜなら、発声から歌をつくるのではないからです☆。
体づくりと筋力づくりをやり、あとは柔軟をやっておけば、声を出さなくても、実際の歌のなかでやればよいという考え方もできると思います。ピアニストとかバイオリニストが、指のスケール練習をしないでプロになれる人はいないが、ヴォーカルや役者の世界では、いきなりプロデビュすることもできる。自分の出口をどういう形でもつかということは、最初からきちんと見ておくことだと思います。
○切り出し方
音楽を入れるというのがいったいどういうことかということをもう一度見ていきたいと思います。ピアフと金子由香里を使ったのは、ことばのメロディ処理の勉強のためです。シャンソンはことばの歌と思われています。でも、アズナブールもピアフもモンタンも、みんな体や声を目一杯もって、個性的なところまで音色が磨かれています。実際歌うときに、その使い方を変えているのです。
モンタンの「枯葉」などは、声があるのかと思えるくらいですが、その他の作品では体も声もあり、それをスタイルとして取り出していたのがわかります。
そういう意味では、金子さんはベースの部分は全部持っていながら、新しい日本人スタイルを作った、作品の切り取り方がこういう形であったということです。それが多くの人に認められ、はまるファンもいるのですから、結果として彼女が正しいのです。それを声とか音楽で見ること自体が邪道です。
ただ勉強するときには、形でなく実のベースのところをつかんだ方がよいということです。
○共通の感覚とオリジナリティ
ハンブルクという曲は、ピアフがアルバムのなかにも入っています。金子さんが歌っているものを聞きましょう。この一番はピアフの感覚がストレートに入っているのですが、二番、三番になるに従って、彼女の地が出てきます。それは音楽、ピアフの感覚から離れて、あるいは、その感覚に追いつけなくなって自分で作っているのです。
どちらがよいかというと、私の耳では一番のピアフの感覚を取っている方がすんなりと聞ける、金子由香里という歌い手の声の地力がここに伺えます。彼女のファンにとっては、二番、三番の方が彼女の独自の世界が出ている。それを聞き分けるだけで目一杯でしょうが、最初の入りだしの部分をやってみましょう。
ピアフも金子さんも取っている共通の感覚を自分もとり、それぞれが作っているところでは、自分も作ってみましょうというのが、勉強です☆。
これを3回くらい聞いて、そういうことができればよい、わからなくても自分で作っていく勉強からするべきです。そのためには聞けなくてはいけない、このなかに金子さんがいたら、3回聞けばできる、自分が創り出したスタイル、タッチがあるからです☆。
なぜすぐれた人は聞いたらすぐにコピーできるのかというと、捉え方が違うのです。聞いているときに、メロディを覚えようとか、音程を取ろうとか、そういうところではない部分で聞くのです。
○感覚の優先度の違い
「ハンブルグでも サンチャゴの町も 世界の港は どこでも同じさ」
自分たちでやっていると、なんかバタバタしているなとか、スタッカートの点でとっているなということがわかると思います。最初に全体の構成を考えなくてはいけません。本当にうまい人は、最初にその配分を考え、構成を捉えながら細かいところを詰めるのです。
ところが日本人の耳では、音程をとってそこにことばを乗せていく、うまく取れなくて間違えたときに、何が間違っているかということをみる。
そこでことばを優先しているのか、リズムやテンポを優先しているのかというのでも、大きく違ってくる、その人の間違い方で、その人がどの順番に耳のなかで組み立てているかということがわかるのです。歌そのものでなく、こういうバックの演奏に対して、自分はどう演奏し、どうことばを置いていくかということを考えてください。
「ハンブルクの港に 降りしきる雨は 疲れたはしけを 岸辺に運んだ」
楽譜を音に変換したり、ことばにメロディをつけることは誰でもできることです。それをどうしたいかということと、どうすればよいのかということは違うのです☆。こうしたいと思ってやって、ここは違う、これではもたない、創造に対しての判断をしていく☆。消しゴムで消しては、何度も描き直すような作業が必要です。そのためにベースとして、こういう優秀な見本から共通のパターンを体に入れていくのです。
パッとできてしまうような人は、そういうものが入っていたり、それを取り出す訓練をしているからです。一回、二回とくり返すにつれて、よくしていかなくてはいけません。
○構成のアイデア
たとえばこういうフレーズでも、「男は」「愛に」に対して「私は」「夢に」という対比のフレーズができています。彼女の歌い方は、12、34ではなくて、1、23、4という構成を取っています。こういう構成をまねしてみるのも一つの練習方法です。
ただ、もっといろんなパターンが入っている人は、自分だったら1で切らずに23まで続けてみようとか、この場合は最初から切った方がよいかもしれないなど、そういうことがだんだんわかってくるのです。でもそれはやっていないとわかりません。自分で必ずフィードバックすることが必要です。
楽譜上では12、34と進むのに、2で切らないやり方もある、そういう初歩的な発見も含めて、いろんな人のアイデアや着想を盗んで自分のものにするのです。ただ、その通りでは使えない、そこで使えないものはどんどん捨てていかなくてはいけません。
○引っかかり
「男は誰でも愛に飢えていた 私の心は夢に満ちていた」
今やっていることは、メロディにことばを乗せていることですが、大きな意味ではイメージすること、また残像として、描き終わった全体の絵として相手に見せるために、どうすればよいかということです☆。
結局、そのイメージを自分で作らなくてはいけない、それは歌うときに伝わるだけではなく、歌い終わったあとに相手に残っているかどうかということが大切なのです。そういう判断を、自分でやってはフィードバックしながら、練習していくことが大事だと思います。いくらきれいに歌ってみても残せなくては、何も生じません。どこかで何かの引っかかりを作らなければ、相手の心に残っていかないのです。
○パターンと選択
トレーニングにより、3回くらい聞けば対応できるようになると思います。自分が1年経ってたら、同じようにできるためには、今何が欠けているのかということを考えてみればよいのです。
たくさん自分のパターンをもっているのは有利な条件です。でも、たくさんもっているからといって、全部を使えるわけではありません。自分がこういう課題に対して切り込むときに、どのパターンを使って、どういうやり方を取れば一番よいかということを判断する力が必要なのです☆。
そういうことを練習で繰り返していくうちに、直感的にわかってくる、それが曲のレパートリーを増やしていくことよりも、本当の意味で上達していく条件です。
最終的に自分が歌えない歌は切り捨ててもよい、練習のプロセスにおいては、自分が苦手なもの、やれないものほど自分に入っていない感覚なのですから、そういう感覚を補強していくことも大切です。
○創造する力
ただそのためには条件があります。先ほどのKさんのような歌い方を取り入れてしまうと、逆に何をやってもこなせるようになって、どれでもやれるようになってしまう。そのために、誰でもできるパターン化=形になるのです☆。
そういうことはやらない方がよいのです。誰でもできるようなやり方を取るということは、表現やオリジナリティにおいては、一番難しいのです。
ですから、体の強さ、息の強さという年月でしか差がつかないところを最大限、ベースをつけていった方がよいというのが唯一の方法なのです。
勘が鈍ければよくない、こういう感覚の鋭さをもたなければ通用しません。世の中には彼女のまねをして歌っている人はすごくたくさんいる、でもベースの力が全然違うのです。
それは二つ、体や声といった基本の力が違うということと、もう一つは、こういうスタイルを自分の作品にまで高めて変えていった、彼女のアイデアや発想やセンスです。その二つをもっていないところでいくらまねしてみても、一見似ているようでいても、まったく違うものなのです。
金子さんの歌い方と比べて、比較的、ピアフはこの曲を柔らかく歌っています。エラやサラと綾戸智絵さんを比べているような感じです。どれがよいということではなく、自分が勉強していくときに、どういう基準をつけながらやっていくかというためにどう選ぶかということだと思います。
常にたくさんの材料とパターンの入れてやっていくことです。ここと同じような学び方は自分でもできると思います。こういう材料を大切にして欲しいと思います。
○勉強法のヒント
これでもいつも30曲くらいのなかから選び、さらにそのなかの1フレーズを選んでやっている。なかなかよい材料は見つかりません。
今日のレッスンも、誰かにはすごく役に立つかもしれませんし、誰かには一時役に立ったけれども、あとではもういらなくなってしまうことかもしれません。
皆さんは、一年、二年を通したレッスンのなかで、自分と接点がついたヴォーカル、ここから学べると思えたものから、自分なりの実験や修正を怠らないことです。
そこから先のことを創ることにしか、本当の意味での勉強は、できないのです。今ここでやっていることは、高校生のクラスでもできることです。
本当の勉強というのは、自分で接点がついた部分を自分で深めていくことなのです。いつもの自分の意識を変えるだけで、学び方はまったく変わってくる、そこに自分の学ぶスタイルがあるはずです。
たとえばテスト勉強でも、何回も書いた方が頭に入る人と、録音で聞いた方がわかる人もいます。目で何度も読んだ方がよい人もいると思います。みんな勉強方法が違うのです。歌の勉強法もまた自分で考えていくしかないのです。
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【「帰り来ぬ青春」京都 42722】
○スタンス
オリジナリティとか歌の構成などは、本当はいくら頭で考えてもしかたがないことなのです。音声を使って舞台で表現するための、根本的なスタンス。
まず一つ目は、できないということを相当自覚しないと、できるようにはならないということです☆。自分でできるつもりでいても、それは何もなってない以上、何にもならないからです。
もう一つは、今の課題ができないのは、皆さんの発声が原因でも、音域が広いからでも、キィが高いからでもないということです。このなかで何が起きているのかがわかりますか。ここでいえることは、これをきちんと聞かないうちに、自分で勝手に取ってしまったらダメということ、そこを聞き取れるようになるしかないということです。
○気づき
普通の人が100回聞けばやっと気づくことを、一回で気づいていくのがプロの耳です。そういう耳をもつためには、日頃からそういう聞き方をしていくしかありません。
もしそういうふうに聞こえていて、自分がそう出したいと思っていても、体が動かないとか、声で持っていけないということであってこそ、トレーニングで解決ができるのです。でもそこで何が起きているのかがわからないとか、どうすればよいのかがまったく見当もつかないという状態であれば、何年やっても変わらないのです。
ここでもう一度現実的なことを思い出してください。その歌い手の一曲のなかに、その歌い方のノウハウは全て入っているわけです。でも今までいろんな曲を聞いてきて、自分の歌がそうはならなかったのです。
そこで歌い手の持っている感覚ほどには深く聞き取れなったということです。つまり、そういうふう聞き取る勉強をしなければ、発声トレーニングなどをどんなにやっても何にもならないということです。どんなにやりたくても、自分が見えないものは実現していきません。わからないときはわからないでもよいのです。しかし私はそれをことばにする努力をしていますから、できるだけ自分で実感できるようにしていってください。
○機敏さ、鋭さ
「目をつぶって」
感覚というのは、こういう人のを聞いて、この程度動かしているのだろうくらいに思うのですが、実際に自分でやるときにはもっと大きくとらなくてはいけません。こういう歌い手の感覚というのは、皆さんが感じているよりももっと鋭いのです。それが舞台で使う声や人前で歌う声だとすれば、一種の鋭さ、機敏さは絶対にもっておくべきです。
気持ちよく、心地よく歌っても、絶対に眠いような声を出してはよくないのです。そういう声は舞台では使えません。仮にそう聞こえたとしても、それは結果としてその人が調整している声で、そんな感覚で歌っているプロなんて一人もいません。みんなそこですごい鋭い感覚で、集中してやっているのです。そこは間違わないでください。
一つずつやっていきますが、自分の好きなように動かしてみてください。
○動きをつくるために
「目を」
これは1、2音のことばの練習みたいなものです。
次はことばでやっていきましょう。いつもいっていますが、発声、表現の練習というのは、まずは一つで捉える、それがきちんと完結して次につながっていく動きがあることが大切です。その上でそれを次の流れにつなげていくのです☆。
今の「目を」の部分も、これをどうもっていけばよいかというのは自分で選べばよいのです。ここではそこで柔軟に動けるような声の使い方、体の使い方を覚えていってください。
早く決めて欲しいことはそこのイメージだけです。今皆さんが出したものであれば、そんなに声も体も必要ないと思います。今の声でも充分間に合うでしょう。
今日やっていることは、メロディ処理のところまでで、まだオリジナルのフレーズまでは入っていません。最後にはつなげたいと思っています。
次は「目を」から「つぶって」の「て」のなかで、そこで舞台が成り立つように作ってみましょう。
「目を……て」
二つ問題があります。一つは気力、もう一つは集中力です。これは普通の人であればやはり目一杯高めなくてはいけないと思います。イチロー並とはいわないまでも、高校野球の球児くらいの集中力や気力は必要です。今年合宿が成り立たないのはそういうことです。
テキパキとした行動ができない、舞台の人間の意識がないのです。人前でやるということは、誰かが常に見ているということです。日頃から意識しておかなくてはいけないと思います。
「目をつぶって」というのを三つに分けると、「目を」「つぶっ」「て」に分けられます。ここのレッスンでやっていることは、そのなかの動きを一つに自分で常に作っていくことです。
○ズレと流れ
「目をつぶって、走っていた、止まらないで、走っていた」を4つに分ける、このフレーズのなかで、ズレとか自分の動きを作っていくわけです。そういうズレは実際の楽譜のなかにはないのですが、歌い手の感覚のなかに入っているのです。
聞き手の方がその歌を心地よいと感じるときは、必ず歌い手が一つのルールを新しく打ち出して、そのルールをきちんと歌い手が守るから心地よいわけです。
だから楽譜の通りに歌っているわけではないのですが、でも結果として楽譜から離れているわけではありません。そのなかのギリギリのところでいろんなことをやっているのです。まずはそういう部分を聞き取れるようになることです。
「目をつぶって走っていた、止まらないで走っていた」
ルールというのは、そこで気力をもって、フレーズが走っていればよいということではないのです。部分部分の完成度は必要ですが、それよりも優先させなくてはいけないのは全体の流れの方です。
今のように歌うことは誰でもできることですから、そういうことをここでやる必要はないのです。
歌唱技術をやるのはよいのですが、それをやることによって、より基本のことがわかってくるためにするのです。基本のことをやらなければ、いつまでたっても解決はしないと思います。その前に自分のイメージと、すぐれた人のものをどういうふうに読み込むかということが必要になってきます。
すぐれた人たちの一曲のなかには、いや、一フレーズには、我々が一生かかってもわからないだけのノウハウがたくさん詰まっているのですが、それを聞き取れない、それを理解できない、自分に置き換えられないから進歩が止まってしまうのです。それを唯一きちんと見ていくしかありません。
○結果と目標
歌を上達したいとか、うまくなりたいと思った時点で間違えるのだと思うのです☆。声がよく出た方がよいとか、きれいに声が通った方がよいとなるべきです。それは条件の一つなのですが、やれている人たちがそのことを第一に重視していないということはどういうことかでしょう。
今ある声でよいから、自分の感情をきちんと届けられるように使おうということに、プロの人は専念しているからです。
私は妥協するつもりはありませんが、それが舞台で一番強いということはいえます。第二に、どうせ強いのであれば、外国人にもわかるくらい声も鍛えた方がよいということです。ただ舞台においては、人それぞれでいろんな勝負があります。
ほとんどの人が自分のオリジナリティらしき、いろんなものが出てくると、発声技術を勉強したり、テノールを勉強したりする方向に行くのです。それはとてももったいないことだと思います。
でも結局、日本人というのは、そちらを主にしてしまうと、自分だけで考えなくてもよいから楽で安心なのです。だから10年経っても何一つできません。
自分の素のものを出したらすごい下手なのですが、通用する部分があります。今回よかったものは全部そういうものです。うまくないけれども素直だなと思えるものとか、無心でやっているなと思えるものは、伝わるのです。そうでなくて、歌をうまく歌おうとしてきた人たちはいったい何なのだろうという気がします。声がよいとか歌がうまいということは、あくまで結果であるべきで、そのことを目的にすべきではないということです。
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【「恋の季節」京都42811】
○接点のつけ方
「青いシャツ着てさ 海を見てたわ」
こういうフレーズ実習というには、大きな意味があるのです。絵の教室に行ったつもりで、好きなように描いてくださいといわれたと思ってください。でも好きなように描いているだけで上達する人というのはほとんどいないわけです。
特に音の世界というのは、絵のように向かい合いができないのです。だから難しいわけです。どちらにせよ自分がどういう切り取り方をするか、あるいはどうもっていくかということが大切です。そのためにいろんな音楽を聞き、その他にも勉強が必要になるのです。また自分とこの歌との接点を持つことが必要です。
ここではそのやり方は自由に取らせています。今の自分の目的は何で、どこに向かってやっているのかということを、常に明確にしていくことです。
考えて欲しいことは、まずこの曲を聞いたときにどう感じたかということ、もう一つは自分なりに接点をつけて、どう切り取って出すかということです。それは、その人がどう感じたかによっても大きく違ってくるのです。聞き取っていくためには力が必要です。
たとえば、モーツァルト風にやってみようと実際にやってみるのはよいのですが、それを人前でやってもしかたがない。それは、自分の練習でやっておくことです。この曲では比較的後半部分をきちんと持たせています。音楽に関しては、どういう気づきをもって音楽を聞いているかということが大きいと思います。
ダラッと聞こえるからといって、テンションを下げてはよくないのです。たとえば、役者がしぜんに演技をしているように見えても、それは高いテンションで、計算した上でやっているのです。皆さんが実際にやるときはもっと高いテンションを保っていなくてはいけません。
○飛び出す
「空を染めて燃えたよ」
自分のキィに設定してください。彼女と同じアプローチを取る必要はありません。そこで何を起こすかということが問題です。どういう声を出すかとか、どう歌うかということは、その上で成り立つことです。最初の問題ではないのです。このフレーズを彼女の通りにまねするだけなら、あまり意味のないことです。でも、そこでベースのこと、その足らないことは学べます。
一番得て欲しいことは、体の接点と心との接点が一致して、そこから何かが飛び出すことです。そのためには音楽に素直になることでしょう。あまり飾りをつけないようにしましょう。
○目的と不足
歌として伝わるかどうかというのは、誰にでもすぐにわかることです。マイクや伴奏をつけたら有利になる人もいると思いますが、ほとんどがその前の問題です。自分がイメージしたことに対して、体とか声が足りないということで、トレーニングする目的が見えるのです☆。まずそのイメージを持ったり、聞き込んでいく必要があります。
「過ぎ行く昔よ 唇には歌があふれ」
私がメロディ処理の勉強といっているのは、ことばと音楽に乗せて音楽化させる中で、どう自分の息吹をそこに吹き込むか、感じさせるかということです。それが大切です。そういう面ではていねいに扱っています。皆さんが二色くらいで描いているところを、八色くらいで使い分けています。いろんな意味でのペース配分はしているのです。そういう部分は勉強してもらってよいのですが、それをまねしてしまうと間違えてしまいます。それにはそうなるまで歌い込むしかありません。
○動き方
「目をつぶって走っていた 止まらないで走っていた」
半オクターブくらいのところですが、四つくらいでしか捉えていないのです。もっと細かく読み込めるようになることです。詞の朗読でも同じことです。いくら「目をつぶって、走っていた、止まらないで、走っていた」と四つにいってもいえただけで、そこでは何も起きてこないのです。
皆さんのなかで聞き比べてください。共通しているのは、どこではためて、どこでは少し早く入る、そういう動き方をとっているわけです。そこはミュージシャンの要素です。ヴォーカルもそういう動きを徹底して勉強していくことが大切です。楽譜の世界に命を吹き込むために、どういう動きをしているかということを聞き込むことです。
ヴォイストレーニングでも、体よりも大切なのは耳です。でもどんなに聞くことができても、それが体で支えられなければバラバラになってきます。それは待つしかありません。
○乱されない
音が正しく取れているのはあまりいませんでしたが、聞きとりも一つの力です。他の人のを聞くこと、それに習ったり、乱されたりしないことも勉強になると思います☆。
上達していくということは、最初は10回聞いてわからないことが、1回でわかるようになるということです。あるいは10回やってできなかったことが、一回で自分の無意識のなかでできていくということです。
こんなことは、すぐにできる人たちがいるということは、知っておいてください。それは高いレベルではなく、ここのなかにもいます。そういう人は声がなくて目立たなくとも、聞く人が聞けばわかるわけです。
そういうことができる条件というのは、イマジネーションの力になってくるのです。そこは役者と同じです。役者の場合はそれになりきってみることも必要でしょう。ミュージシャンの場合は、音だけで表現するということですからもっと難しいわけです。でも音の世界でも、最初はそれに入りきって、その部分から、突き放して自ら出していくという気持ちは必要だと思います☆。
○自分が創っていく世界
声がよく出る人とか、歌がうまい人というのはたくさんいるのです。しかし本当の意味でそれが伝わるとか、やれている人たちというのは、そのことよりも、そこで自分が作っていく世界を重視しているのです☆。
その必要性がわからないと本当の声は身につかないし、体も感覚も変わっていかないと思います。でもほとんどの場合、声を得てもそれをもてあましている人たちの方がずっと多いのです。
そうであれば今活躍している人たちのように、最低限のものしかもっていなくても、それを使えるところまで使っている人の方がよいのです。
こういう突き放した見方というのが必要です。そこに埋もれていったら何もできなくなってしまいます。トレーニングでは一時、そういう状態に陥るものですから、それを恐れる必要はありません。そこは常に自分の目的と照らし合わせながらやってください。