一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

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おすすめアーカイブ  748

 

 

ビリー・ホリデイ 

何なのだろう。情趣のある表現をする人だからだろうか、それは心の問題もあるが、声や技術においても効果を生み出しているはずだ。映像が見えてくる。このI coverthe water front"という歌だからなのか。とにかくこの曲は、彼女の歌は温度湿度まで感じられる。雑念のない集中力をもった歌い方をしているからだろう。彼女のなかに情景と世界がしっかりあって、ある程度、客観性をもってくれてもいるのかも。それにしても、冒頭のフレーズを歌ってみたら、サラッと聴こえるのに、かなり体を使い息の踏み込みがあった。大きく伝わる表現の源って、こんなところにもあるのかなーと思った。

 

Eins:Vier、ラクリマ・クリスティー

ライブを観てきました。両方とも歌詞観が大好きなんですよね。かなり夢想家入ってる奴ね。ヴィジュアル系の中でもこのバンドのヴォーカルはかなりいい発声してると思うんですけど。Eins:Vierはブリティッシュ・ポップなのか?もろ日本節だと思うけど。SHAZNAむかついた。それに熱狂するファン達も許せないけど。けどばっかり言ってるけど。Eins:Vierですわ。メタリカラクリマ・クリスティー

 

シンニード・オコナー

前から気になっていたので「蒼い囁き」という彼女のアルバムを購入。なんだか彼女の声を聞いていると水の奥底で、注ぎ込む光の乱反射をただ呆然と眺めているような気分にさせられる。特に「フイール・ソー・ディファレント」や「愛の哀しみ」などバラード系を聴いているとそんな気分になる。歌詞の対訳など見るだけ野暮に思える。

 

リッチー・バイラーク

PianoSolo彼自身の音楽は聴いたことがない。彼の関わってきた人には私の好きなミュージシャンが多い。Pianoの即興演奏には関心がある。勉強していきたい。その時期、この芸術館で開催されている「日本の夏1960~69」を観ることも楽しみにしてる。この時代の日本を今学びたいと思っている。

 

エリック・クラプトン

武道館、音楽の歴史を見に行く気持ちがしてます。

 

よみうりランド

ボサノバのイベント ジョイスイヴァン・リンスのデュエットが素晴らしかった。優しく、深く包み込んでくれる歌声。人の声が、どんな楽器よりも優れた楽器だと初めて思った。

 

ミシェル・ペトルチアーニ(P)

Blue Noteにて3年ぶりくらいの来日。あこがれの人。

 

Carol King

最近のお気に入りです。彼女のTAPESTORY”というアルバムを購入しました。一番よかったのは「So Far Way」という曲。音域も自分に近いものがあるし、スタンダードふうなものが多いので、ぜひ挑戦してみようと思っ

ています。

 

木下順二「夕鶴」

つう"を演じるのは坂東玉三郎。長年の女形アレルギーから僕を救ってくれた人である。ある日、与ひょうは矢で射られた鶴を助けてやった。すると数日後、美しい女つう”が女房にして欲しいとやってきた。つう"はただ与ひょうの喜ぶ顔が見たくて「鶴の千羽織り」を作ってやる。その美しい布は、都で売れば大金になる。「惣ど」と「ず」にそそのかされた与ひょうは(根が善良なのに)だんだん欲に目がくらんでいくのだった。

玉三郎は、小児麻痺の影響で右足が少し不自由らしいのだが、そんな気配は全く見せない。ときどき無重力状態出からだが横滑りするような不思議な動きを見せる(冒頭の登場シーンがそうだった)。あんな動き始めてみた。重力を感じさせないのだ。この世のものとは思えん。男が女を演じるわけだから、声にしても、裏声に近い不自然な出し方になる。しかし、ちゃんと音色が出ていたし、感情表現はさすがである。玉三郎の前は、山本安英さんという女優が37年間(!)にわたりつう”を演じていたそうだが、玉三郎にとっても当たり役になりそうな気がする。女形は女ではない。つう”は鶴の化身であって人間ではない。このあたり、虚構と虚構が見事に融合していくと思うのだが。玉三郎の舞台を見ていて、シルヴィ・ギエムのバレエを思い出した。彼女の表現力・存在感は他を圧倒していて、まわりのダンサーはついていくのが精一杯なのだ。(ついていっているだけエライ!さすがはロイヤルバレエ団)。「夕鶴」に出てくる他の役者も悪くはないが、玉三郎は遥かに格が上なのだ。歌舞伎役者とバレエダンサーを同列に論じるのは無理があるが、表現者として玉三郎シルヴィ・ギエムもすう十年に一人の人だと思う。与表を演じたのは渡辺徹。あのコロコロした体型を見ていると農民というより庄屋みたい。舞台で演じるには声のパワーがやや不足。そうした部分を差し引いても、与ひょうの好人物ぶりが良く出ていたと思う。あまり重要ではないのかもしれないけど、与ひょうがお金儲けについて話すと"つう”は意味がわからず、「何だか私の知らない言葉」に聞こえ、与ひょうが思いやりを込めて優しく話したときだけ意味が通じる、そんな設定になっていた。この設定が妙に気になって今も胸に残っている。古典は現代にも相通じるから、古典として生き残ったのだと言う。

「夕鶴」を観ていると、バブルの頃の日本を思い出さずにはいられなかった。オイラは財テクともブランド品とも縁がなかったので、詳しい事情は知らない。ただ根は善良なはずの与ひょう傷ついた鶴を助けた人)が惣どや運ずにそそのかされて、欲に目がくらんでいく有り様は、多くの日本人がたどった道だったのだろうか。惣どやずの性格設定を見てみると、惣どは正真正銘の悪党で、ずは未来の与表の成れの果てに見えなくもない(わずかに良心が残っている)。経済が最盛期を迎えた国で、財テクブームが起きた例は珍しくない。オランダでは珍しい球根ひとつに家一軒の値段がつき、イギリスでは「宴のあとは悪魔がほほえむ」ということわざが生まれた。アメリカではウォール街の大暴落が起きて世界恐慌の引き金となり、第2次世界大戦の遠因ともなった。そして日本でも21世紀には中国で同じ様な事が起こるのだろうか。ある人がたずねた、「富に限界はあるのか?」聞かれたその人は答えました、「富の限界は富に満足するところにあります。しかし人間は満足する事を知らず、ひたすら富を追い求め、ついにはわが身を滅ぼしてしまう。あるいはこれが富の限界かもしれません。」これ、いつの時代の話だと思います?古代中国、春秋時代の箱者、斉の垣公が賢臣と名高い管件に尋ねたときのやりとりです。歴史を振り返ると、人間性は違い、本能は弱まり、技術は進歩してきた。そんな印象がある。トータルではあまり変わっていないのだろうか。違いがあるとすればこめた憎しみが同じでも、石斧を振り回すのとミサイルをぶっ放すのでは、与えるイメージが違うということか。成功は、富や権力や名声で計られる。幸せは、心で感じるもの。成功と幸せは一致することもあるが、同じものではない。つう”は幸せを求めていた。そんなつう”だから与ひょうがお金儲けについて話しても「何だか私の知らな「い言葉」にきこえたのだろう。与ひょうは二百両と引き替えにつう”と幸せを失った。つう”は与ひょうとなら幸せになれると思っていたのに。多くの羽を失い、よろめきなが空高く去っていった。成功を収めるより幸せをつかむ方がずっと難しいのだろうか?

 

美輪明宏

著書「紫の履歴書」を読んだ。昭和43年までのことということで、ずいぶん以前のことなのだと驚いた。TVなどで観る姿のもう30年近くも前のことなのかと。彼のStageを観たが、そこで彼が語り、歌っていたことの真実が、こういうことだったのかと理解できた。本当に若くてひたすら生き、歌いながら、彼がつかみとってきたことの大きさ、重さが、読むものに、あなたはどう生きているか?”と1つの啓示のごとく突き刺さるようだった。彼は、決して特例ではなくて、人間として、正直に生きていけば彼のようになるんじゃないかそう思える。たまたま、彼が傾倒したのが芸術だった、それが彼の人間性とFeelingを最も正直に発揮できるものだったということでは?それにしても、自分の過去を、こんなに鮮明に覚えているというだけで、凄いと思う。

本の中で、美輪さんが握りの人間の思惑で、世界が悪い方向へ傾いてしまうことに人々は気づかなければというようなことを訴えていたが、その言葉で思い出したメッセージ本を紹介します。「地球はわが身体~イタリアのアッシジから世界の首脳に送った緊急メッセージ集~('95)」澤田高というアッシジ在の牧師さんが、主に核の使用をはじめ、もの凄いスピードで地球が自滅へと向かっていることに対し、世界各国の首脳に直接送ったメッセージと助安由吉さんのとても、ダイレクトな詩、地球の素晴らしい写真が収められたずっしりと重い1冊。世の中には、自分と同じ気持ちの人がいて、それに向かって大きな動きをしている人がいることを知り、本当にうれしくたのもしく、又、自分の力の小ささ、自分の人生のあやふやさを思い知らされた1冊でした。答えが出ないことを、必死でその答えを求めて戦うこと”その時、私が決意したことでした。半年以上前に読みましたが今の私には、こんな気持ちがあのときと同じレベルで持っていない。決して忘れてはいけないこと、決して目を閉ざして、避けてはいけないことと、戦うことを今改めて決意し直したい。<人であることから、逃げることはできないのと同じことなのだから。

 

ミック

生命がしなやかにリズムを刻んでゆくのが具体的に見え”てしまう。生命のエネルギーが躍動している。もちろん抑えられたというか、研ぎ済まされたものはあるのだけれど、お定まりのかっこつけのいつものアクションでさえ200%かっこいいヘロヘロでヤクやけしちゃったことがあろうが何しようが、もう絶対音楽のことでは徹底的にやってきた人だよなと改めて思います。(当たり前なんですけどね)ミックも要するに俺も基本的には未だに熱心な音楽ファンの一人だ”と言ってますし。キースの言葉は一見熱くてキースらしくないけれど、実はムチャクチャキースっぽくて気に入ったものがあります。"Rockほどきわめればきわめるほど追求欲をかき立ててくれるものは他にはない。単に自分の表現テクを向上させるだけじゃどうしても達することの出来ない、聖域みたいな所があらゆるところにある。頭でっかちの理論詰め作戦でも駄目。もっと本能的、プリミティブな部分で感応して掴みとれる以外ないんだよ”やってきた人の言葉だから、結果出してきた人の言葉だから言葉面だけじゃなく凄いと思います。、

 

Billy Joel

彼の曲は中・高生の時かそういえば知っている。しかしCDと無縁だと自分で思っていたのでちゃんと聴いたことがない。Honestyもいいし、初期の頃の彼の歌の優しい感じに包まれたい。

 

「The夜もヒッパレ

歌番組。最新チャートを他の人が歌うという番組なのですが、尾崎紀世彦など歌のうまい人が多数出ていて面白い。なかでも日系ペルー(?)人のアルベルト城間が本当にうまい。声量の豊かさ、声のハリ、発声は、ずっとよかった。つまらないヒット曲でも、彼が歌うといい歌に聞こえるのは不思議だ。

 

ロビー・ロバートソン(ザ・バンド)

彼はブルースのあるワンフレーズのギターに感動してどうしてもそれが弾きたくて指のまめのうえにまめができ血だらけになるほど練習したそうです。そしてもっとギターが弾きたくて、弾けるようになりたくて毎日12時間、目がさめたらギターを持ち寝る直前まで離さないくらい練習したといいます。だけどそれは全く苦労や努力ではなく好きなことだから嬉しかったそうです。すごい人というのはどんな面においてもやっぱりすごいのだと思いました。感動してしまいます。何かの本に書いてありました。才能というものは後からついてくるのだと。

 

Billy Porter

聞いてみると結構よかったです。ゴスペル出身だと思われる、歌いまわしは、歌のうまさをたっぷり聞ける感じです。何でこういう人は売れないのだろう。

 

Kenny Hamber

This is R&B”というアルバムがおすすめです。太ったオヤジですが、聞かせてくれるっていう感じがあります。ハスキーで太い声で、スロー、ミディアム、アップとすべてハマっています。久々にうまい人の歌を聞きました。やっぱり、黒人はこうでなくてはと思いました。

 

Tania Maria

彼女と一緒にやっているSteve Thornton(パーカッション)という人が好きです。

 

ロン・カーター(ジャズベーシスト)

「Very well」というアルバムに入っている「Sunset on Mt.Pelee」という曲がすごくいいです。コード進行が素晴らしくジャズならではだなと思います。

 

ブライアン・フェリー

マレーナ・アンド・レア・トラックス」

 

ドゥルッティ・コラム

「ヴィニ・ライリー」(の再販版?)ポール・ディアノの新しいCDアルバム

 

ドロレスケーン

(アイルランド女性歌手)大自然を感じさせる声、歌い方。メルセデスソーサもそうだけど彼女の声や歌い方は神がかっているように聴こえるのに対してドロレスの声は大平原に優しい風を巻き起こすような声なのだ。以前は外人の声が皆同じように聴こえたりしたのだが今では少しずついろんな言葉で違いを言えるようになってきた。音楽を愛している人の声って押しつけがましいところが何もない。ただそこにいて自然の中に溶け込んでいる感じがする。

 

ルクプルの日だまりの歌

こういう曲があります。メロディーの美しい曲だと思っていましたが、先日、ラジオでクラシックギター一本に乗せて歌っているのを聴きました。オーケストラに乗せたものより、情感こもっていて、良いものだと思います。

 

ホワイトスネイク

ラストアルバム「スターカーズライブフロムトーキョー」このアルバムを最後にヴォーカルのデビットカバーデールは、ソロとしてブルースシンガーになってしまうらしい。このアルバムでも過去の名曲をブルースフィーリングにアレンジして、ヴォーカルとアコースティックギター一本で演奏したライブ録音。

 

Soulful Oldies Hits Selection”

感情のこもった歌が沢山入っています。

 

ジョーン・アーマトレーディン

カリブ海生まれの英国個人女性がお勧めです。

 

クリスティー

(グラシェラ・スサーナの姉妹だそうですが)フォルクローレのヴォーカルですが、彼女の歌い方・表現のバリエーションの広さには圧倒されます。声が強い!フォルセットもよく使いますが胸で、強く強く響かせていたりソプラノ歌手のように美しく聞かせたり。又、まるでケーナの様な声(音?)で歌ったり。彼女がもうこの世にいないことが残念でなりません。クリスティーナを聞くと、本当に「歌」って自由で、羽が生えているみたいだと思わされる。自分が1つの枠にとらわれ、その中で、うじうじ、ぐちぐちやっているのが、浮き彫りになる。そんなところで、ごちゃごちゃやっていないで、ここまでおいて!”はやく出ておいで!"と、上の方から声をかけられているような気持ちになる。

 

矢野顕子

ベストアルバム「ひとつだけ」アイドル全盛期、バンドブームなど、性急な文化がある一方、その同じ時代のある一面でしっかりとした歴史を刻み流れている、しっかりとしたスタンスを感じます。解説を読んでも、その時代のステキな人々との豊かな関わりを感じます。言葉にもメロディにも日本のポップスの良さ(決して可能性でなく、すでによい)を感じます。こんな人もいるのだ。

 

ケニー・ロジャース

「You Are So Beautiful」ジョー・コッカーの声もそうだけど、彼らのハスキー+ダミな声で"beautiful"と歌う(語る)のを聴くと、言葉のイメージと、その声とのギャップがとても想像力をふくらませてくれる。歌詞もとても単純な曲。でも、そのおかげで、聴く側各々にイメージの余地を多大に与えてくれる。こういう曲は、歌い手”自身が本当に問われてくると感じた。

 

ピエール・バルー

昔作ったブラジルの旅のビデオを入手。(今は廃盤になっている)マリア・ベタ・ニアの歌がすごい。ベーデンパウェルも出てくる。本当に見れて良かった。そのVIDEOを見たら、昔は良さがわからなかったショーロのLPが聞きたくなって、そしてとても好きになった。その音楽の土地の様子やにおい演奏してる雰囲気などを感じると、その音楽にも入り込みやすくなるんだ、と感じた。

 

ロシア愛唱歌

ロシアというと日本人はあまり興味ないし音楽も知らない人が多いと思うが、私は、小5・中2の夏を旧ソ連で過ごしたことがあるので私にとってソ連は親しみのある国だ。独特の雰囲気のある国だった。人々は暖かく物質的に豊かでなくても彼らは人間的に豊かだと思った。「カリンカ」や「黒い瞳」「モスクワ郊外の夕べ」を聞きながらとてもなつかしく感じた。

 

スザンヌ・ベガ・アルバム

Lukaという曲の入っているアルバム。この曲は私が中学生の頃夜のヒットスタジオをラジオで録音したことがあったという思い出の曲。曲名も歌っている人も知らないまま月日が流れていて、最近ラジオで歌手がスザンヌ・ベガだということを知った。その上Lukaの入ってるアルバムも発見。

 

CARMEN LUNDYのOLD DEVIL MOON”、TUCK&PATTIのONE HAND,ONE HEART

(「ウエストサイド物語」)より”目白のカテドラルでの「マザー・テレサ追悼ミサ」に参加した。献花の間カリタス会のシスター達がずっと賛美歌を歌っていたのだが、聴いているだけで涙が出るくらい澄んだ美しい歌声だった。いつも思うのだがシスター達の歌って本当に純粋で清々しい。

 

夜もヒッパレ~」

ダイアナ・キングとWILD~?"が日本人の曲を歌った。ものすごく深いポジションにしっかりした芯のある声で、そうそうこれなのよ”と一人で喜んでいた。Love is all Music”立ったがこんなにいい曲だったけ?と思うほどだった。また、テレ朝ではゴスペラーズアメリカに行って現地のアーティストと交流するという主旨の番組をやっていた。彼らは日本人にしてはまぁ認められる発声で秘かに頑張ってくれと思っている私だった。彼らは本場のアーティストとのセッション等でやっぱりリズム感が違うなぁ」と言っていた。が、「絶対的なポジションの深さとしっかりした芯のある声が常に出せること」が違うんだよな、と私は感じました。英語を母国語としている人々と差が付く一方だわ。どうすればいいのかしらと思いつつ「I love it」HOLLYWOODと聖子ちゃんのようにつぶやいている私であった。

 

フォルクローレ

「コンドルカンキ」というグループのビデオを観ました。メンバーの一人のヴォーカルの人はチャランゴサンポーニャ、パーカッションとほとんどの楽器もこなしつつ歌ってしまう。また、作曲もしてしまうという凄い女性なのです。ビビアーナさんというのですが、とってもカワイイ人で華のある人だなぁとつくづく感心させられます。特にケーナとの掛け合いでデュエットして歌うのがよいです。

 

Hanson(Middle of Nowhere)

14歳の声とは思えないほど、完成されてしまったような声で、カッコイイです。曲も詩もバラードもあればアップテンポもあり、どれもよくて才能を感じた。アメリカというのは、どこまでも力のある国だと思った。

 

ボーノ

彼の歌を聴いていると何でこんなに暖かさを感じるのだろうかと思った。シャウトし続けるインパクトではなく歌い終わった後もっと聴きたいという思いを残させるヴォーカリストだ。人間性が歌に現れているんだな。

 

アレクサンダー・オニール

「Ah~」とか「Oh~」で歌っているのだよ。でも考えてみればことばのなかった大昔、人間は「Ah~」とか「Oh~」で感情表現をしていたわけでその中にうれしさとか悲しみ、怒りがすべてつまっていたのだから同じことだ。芸術の中に音楽というものが位置づけられて価値あるものとされているけれど、歌は日常の中にある人間のしぜんの欲求だと思う。

彼の声はものすごく太くて自分の体の中からあんな声が出てきたら驚くだろうなぁ。でも彼にのりうつった気になるとものすごーく息が深くて自由自在に呼吸をコントロールできて、吐いたと思ったらスッと息が入ってきて、ものすごく気持ちいい。

 

ホリーコール

そこまですごいとは気付かなかった。でも、注意してやっていると自分が出来ないところは見えてくる。特に何度もやってると、コントロールできているところと逃がしてしまった部分と見えてくる。人のフレーズを聞いて何か感じることが出来るか、人のがすごいと思ったときは、その人はものすごいんだと思え、自分が成長していく材料はここにはたくさんころがっている。

前の自分よりどうなったのか?しっかりチェックする、基本講座にしっかりと書いてある。でも自分は今までそれをしたことがない。声を出すことに自分の声に責任を持たなければいけない。ただ、毎日息を吐いてりゃいいってもんでもない。

 

アマリアロドリゲス

声は声が太くて音色が暗いが艶がある。出しやすい声をより太くした感じ。ボズ・スキャッグスの歌で「l am Down~」というはじめのフレーズ。何となく浅く高いイメージでとらわれがちだがお腹から深い息に乗せている。

「Back in to your Self~」でも16ビートのリズムやはねるところなど息を吐くことで表現している。これは言われてよく分かった部分である。「I am Down~」のはじめの「I am」も、みんなにフレーズを回すととてもおそく入ってしまっていることが分かる。アカペラで体を入れようとするとそうなってしまうのだろうか?鋭く入るイメージを持ってないと遅れる。そうするとなんとなくダラダラした感じになる。ステージ実習で歌っていて何となくつまらない感じになるのはそういう鋭さがないからかもしれない。

 

イヴアザニッキ

素晴らしいのは、盛り上げるべき所が必ずしも一番高い音でなくても、音色でしっかり見せ場として作れるところだと思う。期待したところでちゃんと盛り上げてくれる。ピークももってこれる。2オクターブもある曲を苦もなく歌えることからして、私にとってはスゴイし、何でこういう風に出せるのかナ、と今だにいつも思う。「同じ100の力の中でも見せ方が違う」というお話も今日もされていたが、彼女のを聞いてると本当にそう思う。それでも計算したようにギクシャクしないのは、深いところでつかんでおいて、息を吐くことで高低強弱をつける、一つにつかんで同じところでとっているからだと思う。

 

ファド

すごく古ーいオムニバスを入手したら、ちょっと入りにくい点があったが、“アマリオ・ロドリゲス”という歌手のファドはとても入りやすい。カンツォーネシャンソンとも違うけれど、似ているサウンドです。独特の自由さと、何か少しクラシカルな感じもします。とても素敵な歌声、よかったら、是非、聞いてみて下さい。

 

声明

お坊さんの声明にビックリした。迫力がある。毎日やっていればどんなお坊さんもあんなに声が出るようになるものなのか。「中に入って聞く」=その音のなかに入って聞く。体で音を聞き、音を体で表現する。完成されたものを聞き、そのなかで自分でできそうなものをとり出して、自分のものにする。歌のなかの「喜」「怒」「哀」「楽」を表現するためには、その心をもっていなければいけない。

 

ジャニス・ジョプリン

他の人と別格だということ。何故だろう?想いか?何が違うのか?何が圧倒的なんだろう?どこを切り取ってもその歌い手そのもの。いつでもしぜんなその歌い手そのもの。(気付いたこと)ある意味でのこのバリバリの緊張感が自分にはない。何故?イメージを始まりから最後まで持ち続けられるくらい、しっかり持つということが大変?ポイントだということだろうか。

 

ポプコンの曲」

もう技術(考え方)なんてブッとばされた。もう手放しで引きずり込まれた。声を出して泣きたくなるほど想いを満たしている歌だった。森進一の「おふくろさん」を聞いた時にも感じたことだが、もうこの一曲にすべてをかける、というか、この曲のためにのどがさけて歌えなくなってもいい、というくらいの気迫を感じる。

 

Marvin Gaye

歌声は、高い声、低い声、緩めた声、柔らかい声が次々入れ変わり、短いことばのみの継ぎ合わせから成っていて、それでいてスムーズに表現されていました。Sly &the Family Stoneは、芯の強いよくひびく声でした。悪い声との指摘がありましたが、確かに喉声になっていると思いました。Bessie Smithの声は迫力がありました。トランペットのひびきが美しい曲でしたが、声が負けずに出ていて、曲を通してその迫力が続き、まとまっていることを知りました。

 

西野式呼吸法

かなりすごかった。気の力だけで大の大人があんなに吹き飛ばされるなんて目に見えないものだけににわかには信じがたい。由美かおるさんのデモンストレーションを見ていると、一連の動きがとても滑らかでしぜんできれいだった。人間の体は小宇宙と言われているが、本当に未知の世界がたくさんあると思う。

 

カラヤン

ドキュメンタリーをみた。言っていることばが理解できなくて次元の違いを感じた。彼はどんな風に音をききその世界に住んでいるのかと同じ人間ながら違う星に住んでいる人のよう。彼がいっていたことをいくつか、「邪魔をするな全てについて言えること正しくやることを妨げるなこれは愛についても同じ」「ポイントは表面に出しては駄目だ。あるべきところにあればいいんだ」「音はピアニッシモでも表現はフォルテで」「君が感じないところでも大事なことが流れているんだ」人のオペラ歌手が一曲の中でPからFまで50の段階を要求されていた。

 

釋英勝ハッピーピープル

このまんがは本当におもしろい。いろいろなことをナナメから見るような作者の視点(?)がおもしろくて、ぐっとひきこまれる。読んだあとの後味の悪さ(たまにいいときもあるけど)も好き。3巻目がおススメ。

 

「日本の誕生」

吉田孝著(岩波新書)。やはり日本は特殊な国か?世界でも稀な万世一系天皇をいただく特殊な国であり、そこに日本の歴史の本質がある!?過去をふり返って、事実は何か確かめよう。

The Sinpsons

アメリカのアニメだけど、日本語版でビデオが出てる。シンプソン一家のいろんなお話。父:ホーマー、とにかく間抜けなの。しかしサイコーのキャラ。母:マージー、優しく理解そして愛のある母親。兄:バート、超いたずらっ子。悪ガキ。しかしキュート。妹:リサ、頭のいい少女。赤ちゃん:マギー、泣かない強い子。この家族がさざえさんよりもグッと人間に働きかけるいろんな騒動を起こす。ためにもなるし、考えさせられるし、大人向けのマンガだと思う。今ハマってる。

 

ヒクソン

東京ドーム格闘技の試合 グレイシー柔術ヒクソングレイシーとプロレスラーの高田延彦の戦いです。僕はヒクソンのファンです。彼から漂うものや、オーラは「侍」を思わせます。これから死闘があるリングでなんと静かでリラックスしているのか。僕は彼のような男になりたい。

 

「秘伝」

武術雑誌ですが、その中のDS理論成るものを説いている人物の連載記事は興味深い。どの分野の名人達人(スポーツ,芸術家も含む)も一般の人と違った身体の感覚があり、それを解明し、その感覚をつかむトレーニングをすることにより格段の上達をするというものです。

 

「クルーベ・ド・ブラジル」

日系ブラジル人とブラジルが好きな人の交流の場。表参道に6畳程のスペースで、様々な人が出入りしてます。ここに行くと4時間くらい平気でおしゃべりしてしまう。陽気で元気な場所です。「人と話すってすごく大切なことなのよね。」とは主催者の女性の言葉。本当にそうだ!と思う。年会費6000円だったかな。ブラジル関係の本やCDも売ってます。食料品も。

 

K-1グランプリ

戦ってる人よりも、レフリーのすごさに私は目を奪われました。素早い動き!大きな声!頭ははげてても体はすごい!

 

SPRIGGAN

小学館皆川亮二のマンガがすごく面白い。超古代文明の遺跡を各国や企業から守特殊工作貝のSFアクション話だが、設定や発想がビックリするくらいすごい絵もとても達者でTRIP感覚が味わえて熱く(?)なってきます。

 

ゴッホと四季」展

ゴッホは27歳で画家を目指し、37歳で自ら命を絶つまでに900点という作品を世に残した。その中の12点を観たが、どの絵もその絵に吸い込まれていきそうなほどインパクトがあり、力強いタッチ、それでいて繊細であざやかな色彩だ。言葉で言い表せる事なんて出来ない。何かを強く訴え、絵に生命が宿っているかのように絵に一つ一つが生きている。そんな印象を受けた。母が絵をやっていて、小さい頃画集を見せてもらったとき彼の描く夜の風景月や星が皎々と輝き、風が吹いているような明るい夜の絵に特に強い印象を受けたのを覚えている。今回はまだ観たことのない作品ばかりだったが、彼の絵はその風景が本当に動いていて、実際にその世界に行けそうな気がする。彼が生きている間に売れた絵はたったの1点。しかしゴッホは一つ一つの作品に自分を燃焼させながら絵を描き続けた。私は彼の生き様をほとんど知らないが、それでも絵は時を越えて私に語りかけてくれた。彼の人生や彼の生きた時代、そして彼の愛した自然を。

 

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体がただ単に柔らかいというのではなく、心とつながった体の動きがしぜんにできるかということだと思う。体にしても心にしても自分を知っているということが歌に影響してくる。以前、他のレッスンで希望の表情をしてくださいという課題があって、ひとりの人がよくわからないと言っていた。

私にはちょっと信じられないことだったけど人は表情にしろ、体の動きにしろ自分で体験して知覚したものしか表現できないのではないかと思う。他人のものをみて演じることはできてもそれは心と直結した表情や動きにはならないのではないだろうか。いろんな経験が歌に生きてくると思うけれど経験しただけでは普通の人と同じだ。

 

花を見たとしたら、その匂い、感触、色、味と自分の感覚をフルにつかって感じることが大切だと思う。どんなことでも自分の体と心すべてを使って感じることが全身で表現することにつながってくるのではないだろうか。生活のなかでうれしいときにはうれしい顔、悲しいとき、頭にきたときいろんな感情に素直になってこそ表情もことばも自分のものとなる。だから嘘ばかりついて縛って生きていれば歌うときにだって同じようにしかできない。

 

バーバラ・ストライザンドがスティービーワンダーのハーモニカ(この場合は声、歌ではなくハーモニカだったが、同じ事だと思う)を表して「魂のひびき」と言っていたが、まさにスティービーワンダーは歌そのものの世界に生きているからこそ、バーバラをしてこう言わしめているのではないかと思う。

これは彼の心のきれいさ、純粋さ、純真さからくるものではないかと僕は思っている。だから何をやるにも結局は同じ事なのだろうが、心を磨くことの重要性を痛切に感じている。これは感性の豊かさにもつながるのだろう。そして、心は常に常に怠らず磨いていないと、すぐ元に戻ってしまうと言うことにも注意せねばならない。一度できたからといって油断していては、痛い目にあうのが関の山だ。僕自身、少しうぬぼれやすい面があるので気を付けねばならない。しかし、だからといってあまりにもストイックになるのは考え物なので、その辺のバランスをとれるようにはなりたいがなかなか容易なことではない。

 

聞いているときその歌の世界ではなくて、他のことが頭の中にイメージされたときがあった。その歌を聞くことによって、そのイメージが喚起されたのだろうが、この時フッと思ったことは「歌なんてめし食ってる時のBGMみてえなもんだな」ということだった。これは歌という者を少々卑下しているようにもとれるが、今改めてこのことを考えてみると、それぐらい心に余裕を持って、歌に取り組めよ、取り組む姿勢も必要なんだよということのような気がする。要するに心を充実させて、楽しくやる姿勢も大切だということ。「もうこれしかない」という気迫や真剣さも必要だが、どこかで楽しむという部分もあるのではないのだろうか。

 

本当に楽しむという心が欠けている。こんな状態では聞いている方は余計楽しくないということになる。何とか楽しみを見出さねばと思う。さらに、思ったことは客のことを考えて選曲するということだ。聞く者がどんな人間達で、どんな種類の人で、何を要求しているかという事を考え、曲を選ぶ。自分の歌の中に入れるという気迫、信念、テンションが必要だ。

いずれにしても聞く者の心を満たすことができなければプロとは言えないだろう。自分はどっちなのだろうか。客によって曲を変えるのか、客とは関係なく自分の歌いたい曲を選ぶのか。難しく考えなくてもいいかもしれない。自分の歌いたい曲を聞こきたい人達が集まって来るものなのかもしれないから。まとめとして、自分を知る、自分の分を知る、足るを知るということの大切さをとっても感じた。でもこれは今の若すぎる僕にはわからない。しかし、自分を知らない限りいろいろな面で不自然が生じ、それは自分以外の人に伝わるものだと思う。やっぱり素直になりたい、素直に自然に生きたい。

 

西野流呼吸法にはとても興味をもった。「気」というものは存在すると思うし、実際自分は体験していないけど信じている。何かをコンスタントにそれも自分の力を最大に保ちながら続けていくには相当なエネルギーがいる。このエネルギーというものは出せば出すほど増えていくから不思議だ。使わなかったらたまると思いがちだけど全く反対だと思う。よい気をもっている人はみていてわかる。健全な肉体と健全な精神は片方だけもてるものではなく、両方同時につくられていくものだと思う。健全な肉体というのは筋肉隆々というのではなく、きれいな血が流れているような体のことだと思う。姿勢はよい呼吸をするのにも歌うことにも大事なことだ。

自分が姿勢を意識しはじめたのは5、6年前ぐらいだが、最初の頃は板についていないものだから不しぜんきわまりなく、友達にも「気取っている」など言われたりした。毎日意識しているうちに不思議としぜんになってくるものだ。どんなことでもしぜんになるためには長い長い時間がかかる。それも常に意識し続けなければ身につかない。結局しつこくやり続けるに値する思いがないと続かないと思う。西野氏が「いま使われている人間の能力は氷山の一角にすぎず、その下に秘められている能力をいかすことができるのなら、もっといろんなことができるのではないだろうか」と言っていた。自分でも自分の体、心のことをどれだけ知っているのだろうかと思わされる。いつも私の一緒にいる奴なんだが何も知らないのではないかと思う。歌を歌っていくことは自分の体を心を知っていくことだと思う。それじゃなければ歌っていけないんじゃないだろうか。自分の能力が一体どのくらいあるのかなんて他人にわかるわけないし、ましてやこの自分さえわからない。でもわからないからこそ探究していきたいという思いがある。この世で一番不思議でおもしろいのは、この自分という人間かもしれない。人は目にみえること、耳に聞ここえることだけを信じがちだけどこの世には目にみえない不思議なことがたくさん存在すると思う。心の目はどんなものをみることができるのだろうか。

 

ついにこの前ストリートライブをやりました。ギターが弾けないので練習のために予定より随分遅くなってしまいましたが、田舎街の駅まではそんなことをやっている奴もなく、人が少ないのでかえって根性がいります。聞こいてくれるのは酔っぱらったヤンキーニーチャン達。一人でも聞こいていると思うとすごく緊張しました。聞こいてくれる人、拍手してくれる人、「よかったですよ!」といってくれる人がいるとやっぱりうれしいです。

 

エイズのドキュメント 何気なくつけたテレビ(BS1)でやっていた番組を見て-ある女の写真家がアフリカでエイズを防ぐために活動しているグループと行動を共にするドキュメント番組でした。彼女は写真で表現していた、エイズに苦しんでいる人、死んでゆく人にカメラを向ける。それはいいことなのか。彼女は表現する者として苦しんでいた。彼女が写真を撮ることに対してまわりはよく思っていなかった。その地域の社会、モラルを充分知らないのに、自分勝手に行動した結果だった。彼女が仲良くしていたジョイスという人(エイズ患者で彼女の写真を多く撮っていた)が亡くなった。つい昨日まで話をして、写真を撮っていたのに。最後はあっけないものだった。彼女にとって本当につらいことだった。患者のみんなが必死になって生きる姿、その姿が自分を勇気づけてくれる。その生きている輝きを残したいからといって彼女は写真をとり続けた。その写真の中の患者のみんなの姿は、なぜこんなにも生きていることを感じさせるのだろう。なぜそんな目をするの、その生きる姿は強烈に訴えかけてくる。自分はそれに対して何をしているのか、もっともっと生きて、その生き様が歌に表れてこなくては歌を歌う意味なんてない。

 

音楽に限って言えば、解釈とアレンジさえ新しければ、提示する曲はオリジナルより、ノスタルジー(郷愁)に訴えた方が近道だと思います。もしも、スナックに毛のはえたくらいの価格で、ちゃんとしたレシビのお酒が出せて、お金のことをちゃんとやってくれる人がいて、40代後半のおとなしいサラリーマン相手にショーのお店がやれたと仮定して─美空ひばりくらい、超スタンダードはJAZZと一緒だから全曲使えるけど、普通はちょっと懐かしいのを使うけど、プレイクしたのは使わない。黛ジュンの「天使の誘惑」は使えないけど「ハレルヤ」と「雲に乗りた「い」なら使えるという感覚です(ふるい)。あとは、構成そのものが文化対比論になるようにつくってみるとか、英語の歌は送り手ばかりが勉強して受け手に不親切ですから、作品をおかさない程度に手助けをする(英詞を掲げるとかね)。話は違うけど、美空ひばりって美人でもなく、かわいくもなく、かといってプスでなく、不思議な顔してますよね。夕イムリーには知らないけど、きっと女性ファンが多かったんじゃないかと思います。バブル期に出稼ぎに来ていた白人の人としゃべったり、洋画を見たりしていると、外人は“二ュアンスのある顔”を好むんだなと感じます。日本人のいうところの“べっぴんさん”ではなく。もし、ひばりさんが今の人だったら、世界に問うこともできたかもと感じる。美空ひばりは長年、新宿コマや梅田コマで熱狂的なファンにかたずを飲んで見守られてきた。アムロミスチルや何万人を埋めつくす若いビーローもいるけど、趣味が多様化してきた現代では、2000人劇場のうねりでなく、500人劇場でのホットな密空間が、あちこちで見られるという現象が望ましいんじゃないかと感じたりします。コンサートに限って言えば。好みの問題といえばそうだけど、それが客席の成熟を示すような気もします。

 

「ヘンメン」(漢字を忘れた)簡単に書けば「変面」という中国映画をみた。中国の秘伝、変面王と8才の少女の芸を通して、生きることとは人間の心とはといったものなのだが、こういう映画をみるとトレーニングしなくても息が深くなっていく。自分の心が動かされるということは、ものすごいことなのだよ。この少女は、実は父親に何度も売られては女だからと返され、変面王に売ったときは男といつわったわけなのだが、結局、嘘がばれて一人で生きろと言われてしまう。時代や環境によるところも大きいけれど、もともと芸人というものは社会から軽んじられていて、その日暮らしで生きてるようなものだったと思う。それでも心はどんな人間より人間味あるものをもっていたと思う。この映画の中で「芸とはこの殺伐とした世の中にあたたかいものをつくりだす。そしてそれが芸人の喜び」ということばがあったのだが、本当は、本当はそういうもののはずなのに、今の世の中、忘れ去られている気がする。少女は変面の秘俺を教えてもらいたくとも、女ということで無視され続ける。変面王はとにかく後を継いでくれる男の子が欲しくて欲しくてしょうがない。それならと、少女は男の子を連れてくるのだが、その子は誘拐された子どもだったので、変面王は誘拐犯として処刑されることになってしまう。最後は、少女の命がけの訴えで変面王は助かり、少女に変面を教えて終わる。人間は環境に慣れてしまう生き物だ。自分がどんな環境にいようと、ぐっとつかんで離さないものをもたない限り、自分の世界も芸も手に入らない。

 

香港返還をニュースでチラッと見たが、チャールズ皇太子のスピーチがすごく印象に残った。それはまさしく、イングランドっぽいってこともあるけど、何よりも声が渋くて太くて大きくよく通る声ですごくかっこよかったからだ。中世のキングのようにいさましかった。本当にびっくりしてどきもを抜かれた。チャールズ皇太子の声はあまり聞いたことがなかったので、細くて頼りなさそうなおぼっちゃまじみた声かなぁと思っていたが、全然そんなことはない。Not at allだ。むしろ、お手本としたいようなすごいスピーチだった!!さすが、グレートブリテンの皇太子だ。

 

先日僕の大切な人が死にました。僕を育ててくれたおばあちゃんです。僕の人生の中で一番温かく包んでくれた人。なの僕はあまり悲しくなかった。やはり涙も出なかった。俺はそういう人間なのだろうか。そうは思いたくない。だけれどやっぱりそうなのだろうな。でも人間なんてたぶんそんなものだろう。しょうがないんだと言い聞かせる。おばあちゃんにはなにも恩返しすることができなかった。死んでしまった今、俺ができる恩返しは、あなたのように温かい人間になることだけだ。

 

高校生の男の子にビデオ屋の場所を聞いた。教えられたとおり行ってみたらなくて、まあその辺にあるだろうと思っていた。するとその男の子が走って追い掛けてきたらしくそこに立っていた。「あの、教えた道間違っちゃって…」悪ガキそうにみえたその子が300メートルくらい暗い中を走ってきたことを思ってなんだか心があったかくなった。心というものは与えようと思ったときには届かなくて、その人の心が自然に動いたときに何か与えられるのかなと思った。

 

最近、英会話を独学で始めたが、テープに吹き込まれている文章を同じようについて発音していると、意識しないと息を流していないことに気づいた。つまり日常会話で自分たちが話しているときは息はそれほど流れていない体を使って声を出していない=イントネーションがほとんどない、ということだ。これが日本語の特性なのだろう。それならば意識して息を流して会話をしていれば体を使うようになるのではないだろうか。ちょっと試してみようと思う。

 

「才能という賜物の優劣について他人と競ったり、思い上がったり、劣等感を抱いたりすることは無益なことです。人生の大事とは、自分に与えられた能力、才能などを伸ばし、それに応じて世のため人のために尽くすことにほかなりません。それこそがこの世に生まれてきた一人ひとりの人間の神聖な使命だからです。もし私たちが、この世でそれぞれの使命を忠実に果たすならば、それが生き甲斐や自己表現につながってゆくのです。」~「心のともしび12月号」より

 

やらなくちゃ/やれるはずだ/やりたい/やりたいからやるだけ

体の中は歌にあわせて動いているか(感情・映像)体の外も歌にあわせて動いているか(姿勢・表情)心も汗をかいているか(矢沢永吉)

 

<今月印象に残った言葉>止まっているところから作ると嘘になる。

出だしで勢い余って息を出し過ぎない/高めの声は少し遠くの人を呼ぶような感じで。

切った後の間で伝えている。

体に入れてしまい、その中で動かす。

これが自分ですと言えるものを出せるか。

悔しいけれど聞こかされてしまう、心地よいのは何故か。

より重いものが早く動く。

声楽的に正しいのに声楽的に聞こえないのは何故か

 

愛の讃歌訳 空が落ちてきても大地が壊れても2人でいるなら恐くはないわ。あなたの腕の中愛してくれるときどうでもいいのよ世界のことなんて。何でもするわ月でも盗ります。あなたが言えば何もいらない、友でも捨てます。あなたが望めばどこでも行くわ地の果てだって。あなたが呼べばこんな私を笑ってもいい。あなたしか見えないの。あなたを失くす日がいつか来るとしても愛は消えないわ。終わりはしない。死んでも愛してる。あなたもきっとそう。信じているなら永遠に愛し合える。

 

“自分たちのいいと思うものに共感してくれる人は必ずいると信じていた”と言っていた彼ら。自分が歌を歌えるとか声を手に入れるとかそういうものの前に、どんなことをどんなふうに表現したいのか考えさせられる。多くの一流アーティストがいて皆、自分の世界をもっている。それは本当に大切なことだ。常に考え続けていかなくてはいけないことだと思う。それは受け入れられるか、受け入れられないかということではなく、自分がどうしたいかということ。そして本物を知っている人に認められること。歌というか音楽は何でもありの世界だと思うが、何でもできる奴はいらない。何か一つ強烈な世界をもつことで人を引きつけていくのだと思う。自分の世界をつくっていくということは自分を深く知っていくことだ。自分の心ほど、広い世界はないこの世界。旅のしがいがあるというものだ。歌うということは、あらゆることで多くの責任を追うことだ。それは自分の生をしっかりとみつめることともいえる。

 

子供の頃、家から15kmくらい離れているところから歩いて帰った。いつも電車からみている風景の中をどうしても歩きたくなって、突然ひとりで歩きたくなった。線路づたいの道しか知らなかったけど本当に楽しくて、楽しくて、心が踊った。家にたどり着ける確信はあったけど、私の歩いた道はどんな道より素敵な道だった。家にたどり着いたことよりも、いつもみているだけだった道を歩いたことの方がずっとうれしかった。どんなことも結果以上にやっていることが喜びであるといいと思う。結果なんて誰でも頭で考えて、さも自分の答えのように言うけれど、本当の答えは自分で感じたものからしか生まれてこない。この感じるということも結構難しいことだ。点で生きていく人は、点と点の間がないから中身はスカスカだ。線で生きようとする人にだってもちろん点はある。でもそういう人の点は他の人と違うところにあるだろうし、線だって直線、曲線とさまざまだと思う。こういうことは歌にも言えると思う。音符だけを歌っていく歌と、それを線でつなぎ、線の中に自分をこめていく。簡単にはできないのだが、やりたきゃやっていくしかないと思う。枠があるからこそ、それを破ろうとして新しいもの、自分というものが生まれると彼は言っていた。彼のいうルールとは、社会のルールであったり、音楽の中のルール(基本)であったり、自分の心の中のルールであるのかもしれない。ルールに縛られるのは嫌だと、大地と縁を切ってしまったらものはつくれない。大地とつながりながらどこまで枠を超えていけるかということだと思う。枠の中は不自由だろうか。私は、この世に枠なんてものはないと思う。枠は自分の頭の中にあるものであって、生きている人間に共通のものじゃない。枠は自分の肉体なのではないかと思う。その枠を破るには表現の世界に入り込んでいくしかないのだと思う。聞く耳をもつには訓練が必要だと言っていた。自分にも人間に共通の感覚が備わっているけれど、それらすべてを本当に使えているのかと考えさせられる。世の中に一流といわれる人がいろんなジャンルで活躍していて、多くの人々に認められている。その認められているもののよさがわからなければ結局、私の耳は使われていないのだと思う。あまりにも今までいいものを求めてこなかったということもあるし、求める環境もなかったといえる。私がピアノを弾いても何の感動もひきおこさないだろう(あたりまえか)。でも、いいものに対して感動する心はもっている。

 

自分の中で先入観をもたず、いろいろなことに興味をもち続けることは大切だ。アンテナをピンッとはっていないと見過ごしてしまうから。何か一つを極めた人は、その他のことからいろんなものを吸収している。自分の世界以外のことを見ないわけではない。かえって普通に生活している人なんかより、ずっと多くのことを見ていると思う。自分の世界をもっといいものにしたいから学び続ける。学んでいる人がまわりにたくさんいれば自分も、もっと学ぶことができる。学ぶことは本当に楽しいことだと思う。それは学校で知識をつめこむようなことではなく、1+1=3かもしれない4かもしれない、いや10かもしれないと悩み、考え、な~んだ2だったのか!と発見することだ。答えを与えられちゃおもしろくもなんともない。学校の授業がつまらないのは、なんにでも答えが用意されているからだ。

 

「自分の感受性くらい」茨木のり子。ばさばさに乾いてゆく心をひとつのせいにはするな。自ら水やりを怠っておいて、気むずかしくなってきたのを友人のせいにするな。しなやかさを失ったのはどちらなのか。いらだつのを近親のせいにするな。何もかも下手だったのはわたくし。初心消えかかるのを暮らしのせいにするな。そもそもがひよわな志に過ぎなかった。駄目なことの一切を時代のせいにするな。わずかに光る尊厳の放棄。自分の感受性くらい自分でまもればかものよ。これを読むたび腹に力を入れなおし「やらねば」という気にさせられる。

 

弓の先生「岡部教子さん」のお話。「物事はとにかく10年間続けることにしている。一度握ったもの、握ってしまったものはそう簡単に話す訳にはいかない。何故一緒に勉強を始めた人達が私と同じにならないのか、ここまで来ないのか。」教えてもらえることが、同じ空間にいることがとても幸せです。すごく、素晴らしく、好奇心が旺盛で、とにかく凄い人です。弓を引く姿は拝みたくなります。何故だろう。

 

フラッと教会の日曜夕礼拝に参加してみた。教会なんて15年ぶりだった。(というわけで、私は信者ではありません。)何が印象深かったかといえば牧師さ 30代半ばの男性)の声だ。毎週のように賛美歌を歌ったり、聖書を読んだり、説教したり、いわゆる“声を使う職業”なので、何らかのトレーニングをしてもらっているのかもしれない。声そのものも大変魅力だったのだが、参考にしたいと思ったのが語りの“間”。もう絶妙なのだ。確かに久しぶりに慣れない神聖な場に身を置いて、その気にさせられたというのは多分にあるだろうが、聞いていて心地よかったし(少し寝てしまっ要所要所のことばが胸を打つという感じ。この技はどこから?と考えてみたところ、「定めた相手に語りかける」という姿勢から来るものなのだろうと思う。

 

バスケットをやっていた時、自分が死んでるとか背中が死んでるとしょっちゅう言われていた。だから体育館に入る前から自分の精神状態を最高にたかめておかなければ練習にならなかった。物事に真剣に取り組むというのはそういうことだと思う。歌というものは自分で明確な目標をおかない限りせっぱつまったものも感じないだろうし、ひとつのレッスンで学校の授業を受けるように終わったとしても自分の中の問題にはならないのだと思う。あまりにも目に見えないことが多すぎて見えなければその時間は確実に流れてゆく。先生が何度となく言われてる「中と外は同じ」ということばにいつもうなづく自分がいる。結局中も外もないということだし、私の中にわきあがる怒りというものも外だろうとここだろうと同じ。人のことをとやかく言っている暇はない、自分だけを見つめてやってゆきたいのだが根っこが腐ってきているような人を見るとこみ上げてくるものがある。いろんな人間がいていろんな心があってそれはいいことだけど、自分の大事にしているものに対しではまっすぐみつめたいという気持ちが強い。自分の大切な時間を無駄にはしたくない。

 

無駄遣い、あらゆるものの。何やってんだろう。片隅に不安がある。何か恐い。どんどんどんどん時間が過ぎていってくれないかなと思っている。私は、甘い。弱い。何でもない。「松山バレエ学校創立50周年松山バレエ学校発表会」簡易保険ホール)趣味だなというのと、命かけてるなというのは、出て来た瞬間、パッと見ただけで違う。各学校の習い事的な生徒の踊りは、はっきり言って、見ている方がつらいかも。表彰式で出て来た、松山校長森下洋子さん、清水哲太郎さん、踊っていないのに踊っているよう。魅きつけられる。

 

楽器も歌も自分を表現するただの手段にすぎなくて、弾くことも歌うことももちろん好きで楽しいと思うが、それ以上に表現する喜び、それを人と共有する楽しみ、分かち合う喜びを知っているように思いました。歌は、その人を感じれるその部分にもとても大きな魅力があるんだなぁと。自分を素直に表現していくことの意味深さを何だか観る度に感じます。いろんなジャンルが存在していて好みもいろいろあるわけだけれど、何かを感じさせられる歌声が、とにかく共通して存在している。安心したり、興奮したり、悲しくなったり、嬉しくなったり、元気になったり、情熱的になったり、と感じる感情はさまざまだけれど発している人によってその深さが違うならより深いものを人は求めるだろうし、求めて欲しいと思う。発する人の中の深さが深くなることはとても魅力的なことだと思う。

 

技術面と精神面とでどんどん深くなっていきたいし、深いものを求め、創っていく自分でいようと動く。その動きはきっと人にも、そして自分にも興味深いものだというふうに感じる。笑顔にも深みのあるそんな彼だからこそ本当にしてきた苦労は大きかったんじゃないかと、私は思う。あんなふうに笑える自分って逃げずに何事へも立ち向かっていった自分なんだろうなぁ。

 

何かが違うのではないかという気がしてしょうがない。今まで「耳が聞ける」ということをわからないとは思っていたけど心の底から全くわからないとは思っていなかった。今いろんな外国の歌を聞いていてもボーッとしてしまう。以前はことばを一所懸命におって、「ここは強くして弱くして伸ばして」という聞き方をしていたのだけど何か違うような気がしてしょうがない。それが何なのかは全然わからないのだけど、今初めて「何か違う」ということばが私の頭に飛び込んできたのだ。このひっかかりを大事にして毎日聞き続けていこうと思う。

 

どんなことも、目の前には、いろいろなチャンスが転がっている。拾おうと思えば、どんな材料だって手に入る。私は、自分でも詞に書いているし、先生の文章でも読んだことがある気がするけれど、見ようとしないことは、見えないのと同じで、目は開いていてもその本質は見えていない。そこに意志が宿っていなければ、目をつぶっているのと同じことだ。一つ、チャンスを貰うたびに思う。ちゃんと目を開けて、心の窓も開けて、いつもいつも、こんな気持ちを持ち続けることが大切なんだなぁ···と思う。

 

日本の古くからのことばで、"言霊(ことだま)"というものがあるが、まさにことば自体が生き物であって、それ自体にパワーがある。何かを起こす力があるということを知っていたのだと思うが、このことをふまえて、ことばを表現し切るのはとても難しいものだとつくづく思っている。技巧も重要なポイントだと思うようになってきた。

 

一声発した時から世界が繰り広げられている。凄い人はみんなこうだ。歌い始めるときのあの集中した、一つの想いに集中した表情。あれだけの凄い人ですらそうだ。自分はどれだけ想いの強さで集中してもし過ぎることなどあるはずがない。そこをキチッと詰めないからおかしなことになる。詰めなきゃいけないことはたくさんあるけれども大事な一つ。でも集中するためには、その歌が何を言いたいかそして自分は何を感じ、何を誰に言いたいかがはっきりしていないと、歌う前のその作業にはとうてい入れない。しかし、本当に素晴らしい声だ。どうして声に艶を感じるんだろう、と思うが艶がある。ギスギスしたりギリギリでなくのびがある。のびやかだ。聞いていてのびのびする。ダラダラしていない。ムチがしなる様に。天性のものだけでは決してない。

 

同じ歌を歌うのに口先でうたっていればどうしても感情表現はことばに込められてしまい音に込めることができないと思う。ことばだけに感情を込めてしまうと一極の中で音色として統一されたものがなくなってしまう。もちろ彼女だってことばに感情を込めたりしているのだろうがひとつに捉えられていることばとそうでないことばでは表現されるものが違ってくる。ことば一つにいろいろなことを込めようとすると音は小さくなってゆくし視野の広い見方ができなくなってしまう。サビの部分だけ聞いてもその迫力と向かってくる勢いに圧倒されるけれどサビに行く前の段階に隙がないからこそサビが引き立つとも言える。全てが感情のピークのサビに向かうためにあるようなものだ。サビがくるとわかっていても予想以上の大きさに度肝を抜かれ時間が経つのを忘れ聞き入ってしまう。気付いた時には次の曲がはじまっている。観客を飽きさせないというのは息つく暇を与えないということかもしれない。

 

自分自身の歌を振り返ってみれば良くわかるが思っている以上に聞かせたいところとそうでないところの差をつけないと一本調子になってしまう。どんなにいい刺激だろうと同じ強さの物を与え続けられたら感覚は麻痺してしまうのと同じで慣らさせてはいけない。それと向こうの観客が歌のどういうところで興奮し、また拍手をしたくなるのか。感覚というものは頭で理解できるものではないから、こういう感じではないだろうかとしか言いようがないが歌い手の声を楽器の音色と同じように聞いている気がする。人間の声程、生々しいものはないし変化するものもないと思う。

 

最近、最後は自分の生き方をどうするかということだと思うのです。ここは、納得して入ってくる人達の場。でも何故でしょう。私も努力が足りない人間の一人ですが、頭の中は24H、語りについて、芸術について考え、アンテナを立てているつもりです。このつもりも、個人差があり、物差しが違い、怪しいものです。なんだかなあ、確かに、劇団のようにできなくて、隅っこで、真ん中でギャーギャー泣いている人がいない。こんな私だって体あるわしながら、“泣くもんか、おまえが出来ないからだ!”と云いきかせながらけいこして、“出来たじゃないか!”と言われたときドッと泣けたこともあったし。ここには切羽つまった空気がない。確かに何かヘン。“自分でつかめ”という最終的には一番自分の為になり力が付く方法をとっているからかもしれない。わかりにくいから、必死で考えている時間が個々にあって、クールな空気になってしまうのかも知れない。そんな気が今日のお話を聞いていてしました。

そうか、劇団やプロダクションは、そのまま、役がつくかとかオーディションに受かるかとか目の前に迫った目的が近いから、切羽詰まるんだ!ということはアンダーグランドでも本物指向(私もそうですが)のここでは、あまりにも目標への道が遠いのですね。そうなると、それこそ恐ろしいぐらいの精神力と欲求・欲望・野心でも何でもなくてはいけないということです。私も声のことで悩み続けていますがそれこそ10年スパンの話。“焦らずに焦り、焦りながら焦らず”などと周りでは云いますが、やる気がすべてなのだと。目標の高さなのだと思います。

 

私は、その人が感じている世界を私も感じたいし、それによって何か得るものがあったりすることがとても嬉しい。私は、自分を表現することを音楽で表現したいと思った。世の中、たくさんの表現方法のある中から歌をとった。私にもまだ不安定ながらも私の世界というものがあり、それはこれからも多くの経験をしながら確固たるものとなっていく。感性を研ぎ澄まし、内なるものを歌として浄化して外の世界へとときはなつ。とても感動してしまうときどき、先ばかりを見てしまうことがある。先ばかり追っているとあせりと不安でいっぱいになってしまう。どうしようもない、何もない自分と向かい、落ちるまで落ちて思うことは「今」ということ。今があるから未来がみえてくるのだし、自分が在るのは「今」だけなのだから、少しもおなざりになんてできない。そして「自分というものを考える」という環境を与えられたこと、気がついたことにも感謝したい。まず心があって、それを完璧に伝えるために足りない体を、声をつくる。すべてがひとつになるために、やるしかないのであると思う。自分が選んだ道なのだし、それができるのだからありがたい。誰かの本で読んだのだけれど、才能なんて後からついてくるものだという。天才は生まれながらに天才なのではなく、量をこなしそれがある時、質に転換し、それからもまだ量をこなし続け、天才と呼ばれるほどになる。だから天才はすごいのだと思う。

 

見える部分見えない部分、具体化される前の実体を見ていく。日本人の場合はひびきに逃げる。動いていなくてはならない。体=リズム←日本人が見えないところ。出し切ること、出し切らないと課題が明確にならない。役者になる訓練、歌うことと大変な結びつきがある。基本線を作っておいて、見えない部分を作っていく。母音をつなぐ、見えないところは子音の“形←音にならないところ”の部分か?一流、実際に出る前に取っている。できるかできないかということは別にして、「歌ってそんなに単純なのかなあ」と思った。「そんな簡単でいいの」って。

 

チーフタンズWithフレンズから、スティングのことば。

「詞を理解する必要はないと思う。作詞者の感情が分かればいい。(中略)会話ではないのだから、音楽と一体化し「て考えている」福島先生が授業でおっしゃっていたのもこういうことかなと思った。

 

疲れて来るとかたまりにするのが難しくなり、霧吹きみたいにファーッと広がってしまう気がする。もっとダメな時は口元からデレーッとこぼしてしまう(生玉子みたいに)。今日も後半は後者の吹き状態で、こうなってしまうとなかなか元の緊張感を身体に呼び戻すのが難しいことがわかった。

ライブハウスなどで歌ってたころ、95パーセントはこの「生玉子状態」で、歌ってる最中自分でもさびしくなってしまうようなことがあった。よいヴォーカリストはきっと95%が「ゆで玉子状態」なんだ。だから聴衆の胸にとどくし、つづけ様に撃ち込める手応えがある。一曲3分間でとても難しい。そういうことが身を持ってやっと分かりつつある、今日この頃。

 

霧島という力士がいた。太れない身体をもっと大きくするため、毎日ウェイトトレーニングをしつつ、夕食後に麺類を数杯、プロテインを一リットル飲んで、満腹のためすわっていられないから横になりさらに玉子豆腐などを口に押し込んで眠ったという。それでも負け込んだ彼はウェイトトレーニングを倍にした。

 

小林亜星の葉書の中より…。勉強してはいけない。溺れることだ。漬かることだ。

 

日本語になると、他にもましてリズムを失う。スピード感とは程遠く、子音が入り口でうなぎの寝床のような母音と作りすぎのひびき。楽譜を歌ってしまっている。日本語の“私の中での概念”の大きな要素に俳句や和歌がある。学校が小学校から大学までかなりちゃんとしたその分野では現役研究者の先生が何人か必ずいて、授業でも(受験のなかったせいもあって)かなりそこらを深くやるものがあった。一語の中にある深み、ひびきが醸し出す香り、リズム、本来の呼吸のようなもの、現代までの時の流れの中で人々の中でことばがどう意味を変えてきたのかなど、専門分野としては、ごく一部だが、そういう人達の練り込んだ研究結果に触れられた。式子内親王だろうが、人麿だろうがリアルタイムな情景が流れ込むところまで授業で踏み込んだ。本格的に自ら進んで洋楽も聞きはじめた時だったので、そういう並行の中で、やはりリズムが違うということをずっと思ってきた。本来の本当の良さをそれぞれに表現することができるベストのリズムが違うのだと思った。それは実は今も変わっていない。日本語の香を生かすのなら曲のリズムの捉え方自体の方を変えてやるのが正解ではないか?そうでなければ日本語を“意味を共通化させる記号”として位置づけて、伝えることに主眼をおいてひびきやイントネーションを音楽に同化させてやるよいうようにしてゆく形をとる。すけベ心を出して中途半端なところでやってゆくから私はずるずるになってしまっているのではないだろうか。、

 

ある格闘家(大山培達だったか?)が、「ケンカで一番恐いのは死ぬ気で向かってくるヤツだ。」と語っていたが、この歌にはその気迫があると思った。「歌の中で一度死ね」ということばの意味を考えている。頭で考えず身体で考えること。

 

誰もいないAスタの前にたたずんで、静かだ。

流した汗も涙も悔しさも、まだ味わっていない、喜び鳴々、嘘の様だ。

すべてはここから始まった。半分脅されて鉛を抱えるように帰ったレクチャー。

胸がかき乱され頭がひっかきまわされ、奈落の底に落ちていくように降りた階段。

逃げ出したかった、でも逃げるわけにいかない舞台。

舞台。そうわかっていたか?否。

でも今ここでならわかる。ここは舞台。ここが歌う人間を待っている。

ここは、すべてを知っている。すべてを見てきた。

塾生の涙も汗も喜びも悲しみも。福島先生の喜びも悲しみも。

でも今は黙っている。でもライトを浴びて歌う人間を待っている。

では、誰に向かって歌う。有り難うのことばのかわりに歌を捧げたい人間がいる。

伝えきれないことばを捧げたい人間がいる。

私に背を向けたあの人に。

それでも私はただただかたわらでたたずんでいると伝えたい。

対立するもしないも生きているという点では大差はないと伝えたい人間がいる。

共に生きていると伝えたい人間がいる。

目に見えるものは苦しい時があるかもしれなくても世界は愛にあふれていると伝えたい子供達がいる。

私も自由じゃないが、自由に生きる道もあると伝えたい子供達がいる。

私に世界を教えてくれたタクシーの運転手さんに歌いたい。

ここの前の地下鉄工事をしている人間に歌いたい。

月が美しい。月はみんな知っている。

 

 

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課題曲レッスン感想

ステージ実習感想

 

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課題曲レッスン感想

 

雲が流れる空をあなたの胸を~と、話してることばが音楽になってるようなフレーズは、先生は先ずことばに戻って、基本的な条件を身につけること、と言われて納得。ことばできちんと表現できれば音はおのずとついてくるものだと思った。その、ことばを言う、ことばの表現が私は徹底的に鍛えなければならないところ。ことばに、どうしたら命を吹き込むことができるのか。自分の気持ちを入れるまで、どんなイメージをしていったらいいのか…。“ことばの演劇”の授業があったらおもしろそうだ。その前に、自分一人のことばでその場を変えられなければならないことが先決だが。

 

カンツォーネシャンソン特集の、“あなたと私はランデブー”の歌詞をあてて歌ってみるメニューは凄くおもしろかった。ステージ実習の曲を覚える時、(特に元は外国の曲で日本語で歌う曲などは)いつも、この繰り返した。本当にハマらなくて、何回やっても不しぜんで、“やっぱりことばだ!”とか思ったり。いろいろあるけれど、今まで“コピー人間”だった私が、コピーではなく、自分の歌う曲として“創っていこう”としていることが最近大きく変わったところだ。自分自身と息と相談するようになった課題曲でも、“覚えよう”ではなくて(もちろん始めは覚えるが)じゃあ、どう創ろうかな···と考える。

 

元の曲のイメージ、メロディーは大幅にくずすとやはりカッコ悪くなる場合が多い。やはり、作品としてできあがってるメロディーというのは、作曲家により、考えられて作られているもので、それを崩すということは、あまり好まないし、やはりオリジナルを生かさなければあまり意味はない。しかし、ことばは、各人言い回しとか、ほんの少しの伸ばし方、切り方で、これはあまり計算をするものではないと思うが)素晴らしい歌に変化する。しかしオリジナルのままという…。まだ、自分のことばが、未完成な身体の中で動いているだけなので、今の私には計算をしないと仕上げられない。しかし、それが、しぜんに出るように、出たものが、私のオリジナルになるように、この作業を重ねていきたい。

 

歌の始めから一つひとつ魂を込めて作っていくという作業が全くできていない。自分で作るというのと歌詞を覚えてメロディにのせるだけというのは全く違うと頭で分かっていてもできていない。一つひとつ全力で作って、それをトータルー曲でみたときにダメなところ、もっと変えたほうがいいところ、それをやらないと何のために歌うのか。ただ歌う歌とアーティストの歌は全然違う。自分はただ歌っているだけだ。うまくことばにできないけれど、「作る」ということ、作品を出すということ、魂を歌で表していること、歌というのはあくまで手段であって目的ではないこと。

 

最近の自分は歌を上手に歌おうとかいい声で歌おうとか、のど声でなく歌おうとか口では伝えることが一番大事とかいって、心の底からそう思っていたのか。歌うことが目的になって、歌えば伝わると大きな勘違いをしていた。でもそんなものはくそだと思った。ピアノとかサックスとかトランペットとか聞いていると、決してその楽器の良さとか大きい音で弾いているとか聞いているわけはなくて、その意志とか気持ちとかもっと大きな汗ばった何かを聞いているんだ。それで感動しているんだ。またぽたぽた流れる汗でなくて、じとーっとしてくる、にじんでくる汗とか、ほとばしる魂を聞いてるんだ。演るほうもそのつもりでやっているに違いない。

 

途中で音楽の聞き方として、外人とかは20才ぐらいまでに20年かけて、ここでやっているようなことを完成させているから、私たちは外人の20年分を考えて聴かなきゃいけないとおっしゃったのがすごい頭に残っている。そう考えると途方もないように感じる。

 

最初に言われたことばに、何回も来ることがよいわけじゃない、とおっしゃられて、どきっとした。今月遅れをとるまいと、とれる限りびっしり取ってしまい、自分の練習がおろそかになって、アテンダンスも追いつかない状態で焦っていた。そこへドカーンと見抜かれたようなことばがきて驚いた。その時はじめて自分を振り返ることができて、「焦り」に押しつぶされている自分に気づく。自分の中にあるレベルをもってやること、自分がどこにいて、どこに行けばいいかをわかってないとだめ。と言われ、すごい反省した。前回と同じ曲を使って、同じ課題をやった。2のクラスの人のを聞いたが、ことばを早口でいわなければいけないようなフレーズでもしっかりリズムに入り込んで聞いてて不快さを感じない人が一人いた。クラスでも前回一緒に授業を受けたときより、うまくなっていると感じた人がいた。フレーズのつくりと、リズムの速度感、あと何か分からないけれど、先生の言うように決してうまくないけど、続きを聞きたくなる歌、という感じだった。

 

最低の材料で最高をつくる。そのためには、自分を殺す、自分を出し切る。99%捨てて残りの1%にヒントがある。そのうまくなっていた人は、自分でリズムを体で作って、自分の歌のことをどうだすかを考えているようにみえた。私はどうも邪念が入って、発声のことなど気にしてしまう。自分を殺したことなんて、今まで一度もない。最初の時、学ぶ方がギリギリまでやって初めてアドバイスすることができる、といわれたのに、頭でわかってても実行できなかった。できなかったら、何が足りないのかを分かり、後は家でやる。といわれた。こういうことをしっかりやってきた人が一週間でこんな差がひらくのだと思う。仲間から学ぶ方が勉強になるから仲間の声にも集中する。と言われたその意味を実感した。

 

言っている意味は正直よく解らないけど出だしの部分、または前奏が始まれば一流の人たちは顔つきが違って見えることを思い出した。

 

弱超から、強拍をびしっととっていく。あまりその他のところは歌ってしまわない。見るところ。見せるところ。勝ちにいくところ。そして行く先を把握していること。そらさない。ベクトルの流れの中で。母音でつなげる。強弱は体で読み込みにいく。体でとったもの。オリジナル。ひびきでもりあげるのとちがう構成。Power、スピード。伝わるもの。Popsの要素。

 

声は伝わったものなら正しい。その歌の時代の空気を流す。歌や歌い手に抱きしめられること。けれど入り込んでしまわず自分のものを出す。ひびきはある程度統一できる。ことばに息を通わせる。何か一つでも“触れる”ものを読み込んでいく。。その時代の空気/きっかけ/音でもっていっているのか。心をとりにいく。その人間がやったもの。本物は非常にシンプルである。クリエイティブな心を刺激する本物の力。人よりよりやっている人がPowerを受けるもの=時代で残ってきたもの。

 

肉体の強化。強い声を求めても体が対応できなければ形が崩れてしまう。感覚を鍛える。。見えないもの、聞こえない音音の根っこ(歌唱法や声ではなく、もっと根元的なもの)。気がつかないうちに習得し、気付かないうちに発揮するもの)音楽とは立体的なもの。音の高低によるメロディに表せないもの。メロディ以外の動き。時間的、空間的。声が不足している?。では心で…。

 

結局、声を出しているときの体(筋肉)の動きを肉眼で確認することはできない。手足を動かすスポーツならばある程度視覚的にフォームのチェックを行い、それを実動作に反映していくことができる。良い結果(早く走る、豪速球を投げる)⇔正しいフォーム⇔正しい感覚発声の動作は感覚と結果を直接つなげていくしかない。良い結果(良い声、正確な音)⇔正しい感覚。当然「正しいフォーム」も「正しい肉体」も必要だが、直接矯正していくことはできない。何度も声をだして、良い結果のでたときの感覚を記憶する。そのパターンを肉体に登録する。つまり「悟る」。先は長いなぁ。

 

自分の中で考え方が変化したことは多いのですが、中でも「声」に関しては随分意識が変わりました。以前は素晴らしい声さえ手に入れば!と思っていました。もちろん今でも、美しく、すばらしい声が欲しいと思っていることに変わりはないのですが、声とは歌に必要なたくさんの要素のうちの一つにすぎないといことも理解できるようになりました。

そして今まで好きだった歌い手は、単にきれいな声だったから好きなわけではなく、その中にある表現に魅かれていたということも分かりました。だから、以前は「汚い声」というだけで片づけて、聞こうとしなかったミュージシャンの歌も、今では、積極的に聞きその素晴らしさもわかるようになってきました。

 

すごく静かな、素直な気持ちでトレーニングに臨むことができた。走り込みの成果で腰が安定してきた。背筋もシャンとしてきたみたいだ。ワンフレーズごとにしっかり注意して、身体の動きを実感した。三回くらい立ち眩みがした。(真剣にやった証明だ【まだ身体ができていない!!】)できるかぎり最大限の声を出した。もっと、もっと出せるはずだ!!

 

先生がすごく的確なアドバイスとリードをして下さった。ライブだった。すごくスリリングな一時間だった。細かい音選びは全然できなかった。まだまだだ。でも楽しかった。嬉しかった。少しではあったけど、自分の身体をとして何か別の声がわき出てくるのを感じた気がする。もっと感情をフレーズに繰り込みたい。・硬く歌ったり、やわらかく歌ったりも試してみよう。鮮やかな流れを描いたり、一言一言ぶつけるみたいにちぎってみたり・一息で数フレーズ続けてみたり。

 

自分や人の発声することばに気をつけたり、大切にすると、発したことばに責任を持つように(と言おうか、持たざるを得ないので)なり人との付き合い方(自分が)変わっていく。自分のことばを探すようになる。 

 

身体を使って(腰を据えて)胸の奥から声を出す感覚がすごく実感できるようになった気がする。声を(無理に)押し出すのでなく、息が身体に入ってきた反動のようなリズムでボンとミートする感覚が解る気がする。息を吐ききるとしぜんに空気が入ってくる感覚も解り始めた。リズムをとらえてやるとより感じられる。サッチモジョー・コッカーのように息を吐ききる。最後までしっかりと放さず。魚の形で吐いてみる。イイイイアアアア~を一息で速く動かす。難しい。くやしい。。できるようになる。する。歌っている気持ちを込めてフレージング。

 

人前に立っている気持ちを常に持っていよう。

初心者気分を捨てろ。初心者をいいわけにするな。

仕掛けろ、撃ち込め、受け身になるな。(生徒気分でいるな)

自分をへンな型にはめるな。もっとふくらませろ。自分の色にしろ。できる。(トレーニング通り忠実に歌え、とは誰も言っていない。)

常に見せる(魅せる)意識を持つ。そのための準備をおこたるな。まだまだ普通のことしかやっていないな。

聞き流すのなら何千曲聞いたところで意味がない。

歌い流すのなら何万曲歌っても何の意味もない。もっと歌の中に入れるように、感じられるようになろう。なる。自分の歌にする。自分のものにする。

 

若葉マークをちらつかせて、いかにも初心者ですよと言わんばかりの態度ではいけない。甘えを依頼心を捨てなければならない。なぜならここは教えてもらう場ではなく、自ら学ぶ場であり、相互啓発の場であるのだから、一人のアーティストとしての自覚を持ち続けなければならないということ。

 

歌は感じなければ歌えない。うまく歌うということがどういうことなのか考えてしまう。自分の心からでてくるものでなければ歌う意味もない。歌うということ自体伝えたいという思いに他ならないのだから。声の表情、フレーズの表情を計算しているようで計算していないように聴かせるにはやはり技術がなければ無理だ。自分の生の感情をそのまま歌で表現することはできても繰り返して歌うことはできないだろう。

 

自分の部屋でやっていることがいかに作られたもので嘘だらけだということ。自分の部屋ではできているのに本番では、人前ではできないということはやっぱり嘘で自分の部屋でもできていないということを痛感した。今出ているその声を聞かないで頭の中の理想の型を聞いていてはダメだ。オリジナルを創っていくのもそうかもしれないが、自分の歌、トレーニングを判断するのは悲しいほどに自分一人だけですることなのだ。だから厳しい基準を持つことが必要なんだ。

 

「ハイ」だけやっていればいいということではない。歌ってみて、自分のできないところをトレーニングすることが大事。歌ってみてそれをトレーニングに落とす作業。そのためにステージ実習があるんだということに初めて納得というか気づいたというかステージ実習の大事さ有益さに何だか頭が下がる思いになった。そうしないと発声のための声になったり、おかしな歌になったりする。それと同時に表現することを第一の目標としてやっているのだから、ただ単に声が良ければということはなく、本当にトータルでみなくてはならないのだ。

身ぶり手ぶり、表情。表現、歌のために足りないところを補い、そのためにトレーニングして、そのために時間のほとんどを割くということに対する情熱、執念、こだわり、それを一つのステージにねじ込んで、悩みに悩んで声を出す。練習で厳しく、悩み、自分に失望し、絶望しかけても、またトレーニングする。そしてそれをステージで考えもせず開放、放出、奇跡を起こす。これがステージに出る最低条件で、プロなら皆やっていることで、そんなこともしない自分の歌を金払って見ようなどという奇特な人はどこにもいない。同情なれ合い以外は。この条件の上にオリジナルをつくっていくこと。できなくてもそれが何か気づくことさえできたらと思った。

 

ヴォイスコントロールの技術や考え方にばかり気持ちがいき、頭で計算するようなことばかりしていた。もちろんトレーニング時はそれが必要なのだ。が、ある歌を聞き、それから受けた想いを持って自分はどう歌いたいのか歌ってみる。そして足りないものを知り、補う。「技術を備えたらいい歌が歌えるだろうか?」それは本末転倒だということ。

 

自分の最低限の音階までハイ・ララなどで下げていき、ひびきを実感する。そのひびきを失わぬよう身体でささえながら高音へ移していく。

 

腹回りを外側にふくらませつつ、息を吐くのが難しく硬く縮めてしまいがち。

息を吸いながらふくらます。息をはきながらふくらます。両方やってみるといいかも。

 

声をより深いところから出そうとするとこもってしまうようだ。

息を強く吐けるようになること。そして声と息のタイミングが合ってくれば、声が前に向かって出せるようになる。息はきをとにかくしっかりやる。

 

第一声をクリアに出すべき、という意味、理由が少しわかる気がした。アォイイォイラララを例にとると、やはり最初の音に後のことばメロディーが引っ張られてつながって流れる感じ。ジェットコースターか、長いフンをつけた金魚のようなイメージかな、と現在は考えている。ピアノのリズムにドンピシャで当てようとした。福島先生がリズムを打つ少し前から予想しつつ身体は動き始めている、ということばを思い出し、実践。バッティングセンターのマシンをイメージして腹の底からあらかじめ準備した息を胸板のあたりで声に当ててみた。

 

トレーナーの皆さんも語ることばをたくさん持っているなあと、よく感心させられるけれど、1つのものを、アーティスティックなものに換えるには、“例えば~”と言って、次から次へとイメージが広がっていく。ただ単に、歌詞を乗せても歌は歌だけれど、あんなにも深く、その曲に込められたメッセージをつかんで、それを覆線として歌に託す彼の歌は芸術の世界だと思った。歌詞を読み込むってどういうことか、自分の考えがまだまだ全然甘いことが浮き彫りになった。

レッスンで先生に“ウソ”と言われるのは当然だし、曲を聞いていないと言われるのは更に当然だと思った。よく、曲紹介で“~こんな歌です”と言うが、彼の言う“こんな”はとても具体的だ。現実に起こっている、人間社会での諸々のことを曲に重ねてイメージさせてくれる。

 

息を吐いてみる(曲ききながら)。一曲から多くを学べる。2年でどれだけ多くを体験しつかんでゆくか。1については、頭の声からすごい迫力があり、そのパワー(声の)に圧倒された。とても濃密な太くしっかりした声で、リズムもノッて歌っているということは気付いたことだった。しかし、これぐらいしかわからないことが問題。もっと聞き込んで、具体的にどこがすごいところなのかが、先生の様に分かるようにしてゆきたい。もっと自分の体に置き換えて、取り入れてみてゆかなくてはならない。2については、わかりやすかったせいか、すごさがわかった。

英語のことをよく理解していないといけない(発音アクセント等)というのも痛感。この歌はその力強さと感情のこもった歌で、目頭が熱くなってしまった。3については、子供でこれだけ歌えているのはすごいと改めて感じた。リズムに正確なのはもちろん、一曲の中での歌の動かし方、伴奏と合ったシャウトの仕方、声での表情の付け方などすごく一つの作品によくまとまっていると思った。

 

「太陽は~」

歌い続ける中、いろいろ考えてやりながらももう一つどこかでほんと抜けた瞬間があった。Bandがみえた。“演る”という感覚がライブできた。なのに体がのどが、どんどん落ちてゆく。パワーは出続けているのに遠ざかってゆくミーナの歌。それは入り込んでゆくことによってより具体的な距離がみえたのかもしれないと今思う。、

 

「あなたはいつでも笑顔で答える」を12個に聞こえないようにすること。

“心が聞こえるように表現することが人に伝わる”

子供から“お母さん”と叫ぶこと以下のことはやらないこと。上のは非常に重要なこと。特にそれ以下のことはやらないといっても“それ”がとても難しい大変なことであるので、まずその素直な原点に戻らなければならない。信頼とすがるような気持ちの中で、それがベースにあって心の底から溢れ出てしまうような“叫び。媚びることも、周囲を気にすることも何も考えず、障害になるものが全くない状況での“叫び"。結局、そこにたどり着いてしまう。

 

ピアフ

こういう話になると説得力がある。

ピアフの声について、以前“楽器のようだというお話があったが、今日意味が分かった気がする。それにピアフに「ちりめんビブラートをとって下さい」といってお願いしてもすぐにそのとぎすまされた声が一本芯になって我々の前に現れるだろうという風に思う。ピアフの表現は豊か。彫りも深みも広がりも大きさもすべて。ここまで技術も声も使いこなさないと、彼女の表現はできないのだなあと思った。ピアフの前には、自分がまっさらになって向いてしまう。相手の心にまっすぐに飛び込んでくる。やっぱり偉人です。

 

カルーソ

ふと思い出したことだが、イタリアの昔の名テノール、エンリーコ・カルーソーは、英語の歌詞を歌う時、一度イタリア語風に変えて(書き直して)それを元にして歌っていたそうである。加えて、そのことが書いてあった本によると、イタリア語は歌う(話す)のに最も無駄の無いことばだそうで、今回の授業でそれもそうなのかもしれないとふと感じた。ことばとして成立し得ない音のみの表現をつきつめていく。声のみで通用するものを考える。「表現の技術のみでつたわる部分」がり「つたえたいという意志のみで伝わる部分」がある。

 

スタンドバイミー

ベース音は1小節言うのが足りなくて失敗した。リズムとれているかどうかをチェックするのに、ベース音を口で言ってみることは、大変役に立つことがわかった。感じがつかめる人そうでない人がはっきり出る。つまり歌う以前に歌をきかくてもその人がどの程度歌えるのかがわかる気がした。

 

「太陽はひとりぼっち」

プロの声はするどく、つややかに私に向かってくる。とにかく少しでもそれに近いものを出そうとイメージしてやっているが、自分から出てくるものはなんともまあどんくさい。声を出すときの「構え」が違っている。こういう曲をまず、同じようにやってみると、足りないところだらけということと、埋めていくべき課題がたくさん見つかる。鋭く、つややかに、お客さんに向かって投げよう、という心ももちろん大切。でも心だけじゃ伝わらないからそれを伝えたい形で伝えられるように、基本トレーニングを続ける必要があるのだ。声をよく聞き何でもそうなのかをきく。そして歌へつなぐ。

 

Joe Turner

跳ねすぎず、ぶっきらぼうに言っているようで普通に聞こえるところ。棒歌いではなく、どっかにポイントを置いてある所。息を流しておいて、ポイントの音をおいている歌い方。体使えていないと跳ねてしまうのである。どこもとぎれていないにもかかわらずふくらみある感じ。そこに息つまっている。声そのものに音色ある所。などをきいてまなべるように。

 

Gladys Knight&thePips

体に力が入っている動きがわかりやすので、よく聞く。どこをふみこんではなしているか。線(一本の)の中心も揺れを作っている所。こんなに体の動きが聞こえてくるほど、それ以上によっぽど体の中に入れて動いて歌っているということがわかること。サビのことばがわかりやすい。曲の入り方、もっていき方。3.ジャクソン5からは、子供でこのリズム感と歌がうたえる実力があって今の音楽があるということ。キャリア30年から生まれてきているアーティスト性であることを学ぶ。

 

青空に住もう

「アモール・ノンピアンジェレ・ペルメ」日本語「アモール・泣いてはだめ」日本語だと均等に切れるのに対して、外国語は線を読み込んでゆく。カラダを使って外人が喋っているのを思い出してやってみる。ことばの中にリズムの強弱をとる。外国語の踏み込んで出すのをよく捉える。日本語は頭にくること多い。にぎるというのは落ちるところ、はなすというのははずむところのこと。これらのことは徐々にわかるようにしてゆく。

1「ア(モ)ーレ」〜きちっとカラダに入れて(意識して)やり、息をはくこと。「レ」とはっきり言わない。2「ノン(ピア)ンジェレ」~声の観を作る。親とは体の親であり、音の親でもある。線が止まってはいけない。転がらないといけない。あまりカタカナのイメージでとらえない。「ビィ」の「ィ」を意識しない。「レ」をハッキリ言わない。「ペルメ」の「メ」は伸ばさない。3「セクエスト(モン)ド」4「ノナッソ(リー)ジィ」「モン」「リィ」はアクセントがきて少し伸ばすとどこか早くなるところある。日本語の場合、どこかぼかしてうたった方が線が作れる。

 

ノアの箱船

ことばから入ると分かり易い材料。1「死んだ貝殻集めて船につめる(砂に埋める)水夫達」〜一つの線を体で捉えられるようにする。2「枯れた花と白い月、船を飾る」~言う前に呼吸の準備をしないといけない。「人という名の船、積んだ荷物は苦労だけ」〜アナウンサーの場合。だが、この場合1オクターブ以上になるので、一〇の感じの方がよい。○のところはスピード付けて言う。頭で作りすぎて引っ込んでは駄目。「ノアの箱船それは人生」51~4を順に音付けてみる。~1の前半は「ラ・ソ・ファ」にことばをのせて歌う。「ハイ・ハイ・ハイ」または「ラー・ラー・ラン」と同じように体で一つに捉えられるようにして歌う。2や3にある「と」にアクセントをとらない様にする。高く入らない様にする。なるだけストレートにするのだるが、音を単調にしないで、動かせる感覚が必要。3は「名の船」にアクセントくるのでそこは絶対はずさないで歌うようにする。大きく捉える。息で読む。ことばの読み込みをもっと行い、ことばに意識を入れられるように感覚を柔軟にしておくことが大事。

 

“太陽はひとりぼっち”

テンポのはやさに、意識がついていかなかった。アクセントで強く体を使うだけでせいいっぱい。でも、それ以上にちゃんとフレーズをつけてる人もいて、できる人にはできるんだ、と反省。何が足りない?もっと、息をしっかりよみこむこと?表面の中の内側の線をはっきりととらえられるように。勢いの強い"太陽はひとりぼっち”に比べると、かなり勢いをおさえ、きかせる方に重心をおいている“さよならも言わずに”が私には歌いにくく思えてしまった。結局、体をコントロールしきっていないから、音程差があるところで、いつの間にか体がはずれている。体がまだまだ使えていない。中音域で使えるくらいの体を低音域でも楽に使いこなせることが課題だ。

 

「男が女を愛するとき」

ベース音をきいてから、曲をきいたら、そのベース音がずっと流れているのがきけてすごく嬉しかった。上にメロディをのせたくなるベースを刻めるとよい。ガイドに楽譜があって安心して音を把握できたし、ジョニーエンジェルでコードをいってくれたので音をイメージしやすかった。どんな声、どのキーでと考えてしまった。ベースをコーラスすることはできるが、1人でStain By Meのベース音を作り出すとなると何の音で、どのキーでと考えると把握していないのですっかりわからなくなった。きいたままをそのままできるはずだ。新しく入った子たちの4分はリズム感がないのがわかった。自分のは8分が無意識にやったらずれてしまった。常に意識して練習を繰り返す必要を感じた。すごく得るものの多い授業でした。最後に皆で輪になってベース音で歌ったのがすごく良かった。思い切りやってもそれに重ねてくれるし、一緒に盛り上がってくれるのでいい方に回った気がする。「男が女を愛するとき」のソロベースをやったとき、慣れててうまいのに本人はあがって固くなっちゃってる子とかいたので井伊さんの笑顔は本当、リラックスして安心します。

 

メルセデス・ソーサ

集団的意識という歌はすごく異質だった。印象に残った。もとはRockの歌手の歌だと聞いてなんか納得した。サイケデリックな民謡(?)という感じでおもしろかった。

 

クリスコナー

本当にこうやって軽く歌っているように見えて実際はものすごい体があるからこそこういう風に歌えるのだと思う。

 

ダニー・ハサウェイ

息の流れや声やリズム感、フレーズの動かし方、歌の背景等を学ぶ。声そのものの魅力がある(のびもつやも明るさなど)。余裕ある柔らかい歌になっていること。テンポが早いのに余裕をもって動かしている所、フレーズのふくらませ方が立体的な感じをつかむ。サビでの音を置いて、開放しているところ(音を置けないと開放できない)。伴奏とのからみで気持ちよくなる所。感情入れるがクールに歌って体の踏ん張りや動きをきわめていって結果的にそこはかとないものを表現しているところを聞き取る。世界の一流の歌をもっとたくさん聞いていろいろなことを学ばなくてはいけない。曲を深く聞き取れるようにする。もっと体や息の流れや声などを注意して聞くこと。一曲一曲新鮮な感覚でとらえるように(素直に)しないと得られないし、発見もないということ。黒人ヴォーカルのソウルフルな歌い方ということで皆一色にとらえては決していけない。自分には聞こえてくるものを判断する以前の姿勢のところで、そのような感覚を間違って持っていることに気付く。

 

「Flying Easy」

リズム感のすごさとそれを歌にあれだけ表現していることに大変驚いた。今まで知らなかったことが恥ずかしく思うほど、凄い歌手だと思った。ただ正確に難しいリズムで歌っているのではなく、しっかり歌を聞く人に届けようとする気持ちから、歌詞にメリハリがつけられたり、リズムのノリの良いところをもっとオーバーにやったり、効果的にやったり、伴奏との掛け合いで聞き所を作ったり、一つ一つのフレーズを詩の意味を最大限伝えるべくいろいろな動かし方をしたり等々しているのだと感じた。また歌(音楽)とは聞いて気持ちが良くならなければいけないので、そのためにはプレイヤーが気持ちよいところ、ツボなどをよく知っていて、それを体と感覚を使って表現しているのだということをとてもストレートに教えてくれた。

 

「Someday We'l AllBe Free」

歌詞の意味やその歌詞が出来た歴史的背景を詳しく説明していただいた上、曲を改めて聞いたり、フレーズの取り組みをしたりしたので、大変勉強になった。フレーズを学ぶために、その前にいろいろなことを知り、考え、詩の意味を深く理解することがいかに大切なことなのかを学んだ。表面的なことでなく、歌の心なり、本質的な部分を捉えなければいけない。

 

カルメン・マキ

私は大げさな人間なのでこんな書き方になってしまうが、「運命の出会いだ」と思った。感動した。ことばが音楽になってる。この、カルメン・マキの伝えたいこと、歌に込めた思い、そしその歌(詩)が音楽に乗って入ってきた。というか、音楽はとてもハードに鳴っているがそれよりも、ことばが、気持ちが、もうそれしか聞こえなかった。声もとても気持ちがいい。今まで福島先生も、いろいろな方法でことばをフレーズにするという説明をしてくれましたが、改めて“だから、ああいう説明だったのか”と何か理解し始めてきた。例えば、カルメン・マキの歌のフレーズで“(私の)(心の)(隙間に)(6月の(風が吹いても)”こんな感じで、フレーズに大きな()をつけてこの塊を1つにするという説明や、“ハイ"と言った後、“私の”と言うとか、ことばで“私の"と言った後、メロディーをつけるとか今までぜーんぜん理解してなかった。その意味が分かってなかった。でも、詩を読み込み、その歌での“(私の)(心の)"という感情はことばで何回も言わないと出てこないし、出てきたところに、力を加え、音程になる。高名先生の今日の説明でことばを強くすると言っていたのが先生は実践も交えてやってくれたので、凄くよくわかった。“歌おうとしない”という意味も、少しつかんできた。伝えたいと思う気持ちは、歌の中ではとても強い力が必要になるので、だからトレーニングがある、というアドヴァイスがとても身に染みた。

 

“Summertime”

曲が全く異なる雰囲気になっていて驚きました。フレーズ、'50年代のアメリカのポップス、暗い感じなど様々でした(一部歌詞も異なっていました)が、曲を通しての一貫性は、どのアーティストにもあり、独自の世界を造り上げていることを学びました。baby baby…と、ライブで同じことばを繰り返していましたが、自分の声を知り尽くしているのだと思いました。同じフレーズを積み重ねる練習を繰り返し行った成果であろうと思いました。

 

ロネッツ「Be my Baby」低いところから高いところまで胸でとり続けるということ感じた。ウオッウオッウオッウオッの部分。高いのだけれど深く、胸についていて、全然浮いていない。私がやったら深くとろうとするために押しつけた暗い、ベターッとした「ウオッ」になってしまうし、軽くしようとすると頭の方に響いてしまうだろうと思う。

 

マイケルジャクソン「I'll be There」とオーテイス「Try a little Tenderness」では、「空間」というものを聞きましたが、これはすごいと思いました。感動します。曲全体をつかんだうえで、空間を使える。普通に歌ったらここで入るという部分で、待てるのです。ほんの少しの間によって気持ちが伝わってきます。演奏があってそれに歌がのっかるのではなくヴォーカリストが歌を作り、リズムを創り、そして曲ができる。本当にすごいと思います。

 

「愛、さんさんと」

まずリズムをしっかり刻んだつもり。声がもたついていると思う。メロディーラインがとぎれてしまっているかもしれない。気持ちがしっかりと歌の中へ落ちていないあるいは歌が身体の中へ落ちきれない、入りきれない。自分自身が一番嫌う「技術に頼ろうとするような」歌になってき。きっと。短時間に歌を取り込まず、無難な、それらしいフレーズにまとめようとしているか?なにはともあれまだ頭で考えるレベルということか。身体が動いていないんだ。先生が言うようにとにかく歌い込むことだ。

 

「そして親父は」

何度か聞いて身になじんできた。(なれあいはいけない)どの辺まで深く聞けているか、というとまだうわっつらしか聞けてない。・1拍・3拍をしっかりとして、踏み込み、飛ばす(泳ぐ?)○つまりグッと引きつけ、ゆるやかに踊らせる(社交ダンス的←タンゴだ。)メリハリ、気持ちの抑揚○それは絶対に楽譜通り均等にいくものではない。・基本の型と試合・実践の違いを知れ!!詞を感じ、同化する。ことばを読む。1000回読めば100通りのフレーズが出る。それを10に絞った中から1つのフレーズを選び出せているか?〇フレーズのブレーンストーミングだ。サムネイルだ。そうか!!歌に自分をはめこまない。歌を自分のものにする。食って消化する。歌が自分自身になる。

 

あたりまえのことですが、曲によってきちんと彼女の世界が雰囲気としてでていて、声の色が違う。これはすごいことだと思う。私がやったらきっとただ曲が違うだけになてしまうだろう。「声の明るさ」の違いは、なんとなくわかるけれども、何がどう違うのか何度も言うことができません。聞きこみが、ぜんぜんできていないのだと思いました。実感として自分でとらえることができなければ、自分のものにならないものでしょう。また「息の流れ」のすごさにも驚きます。

 

「Don't    it Rain」では息の回転がすごく、一緒にやってみるとどんどん遅れるし、ものすごく疲れました。

「Take My Hand ,Precious Road」は息がものすごく長く吐かれていて、私にはとうていできませんでした。苦しくなってしまいます。これも体にくる負担がすごくてこんな状態で何曲も歌えないだろうと思いました。「Walk on by face」も深いところから息が、声がでていること、またとらえていることを感じ、そのうえ盛り上がれるのはすごいと思います。

 

いつも思うのですが、ゴスペルやソウルなどを歌う女性は皆、すごく太い声をしていて、音質も似ているようですが、私もゴスペルやソウルを歌ってみたいと思うものの、もちろん私なりにですが、歌えるのかなという不安が起こります。できるでいないとかの問題ではないのですが、私なりのものがでてくる、だせるのだろうか…と。それから、今日の反省というか後悔ですが、もっと曲を体全体で感じる姿勢でなければと思いました。音楽に入ろうと、すわって聞いていただけだったし、すわりながらやってみても実感なんかでていないということです。音楽に入れるかという以前の問題でした。

 

Quick。Slow。Deep息がDeepではゆれやすい。声もゆれる。ごまかしがきかない。フレーズの最後とか。歌い手として使えない息はどこからなのか聞きわける。フルフルしはじめてしまうようなところはもうダメだということ。おなかに息をとらえられるということは、コントロール可ということ。前からみるだけでも胸に力が入ってしまっているかどうかわかる。、

 

Black Man

すごい速いリズムの中に、いろいろ遊びながら、でも気持ちのいいところで歌が入っていた。真似してみようとしたけど、できなかった。リズムに追いつくのが大変。軽すぎてしまう。深さがないから、メリハリがなく聞こえてしまう。これだけのものをこれから自分は身につけていかなくてはいけないんだなあと、しみじみと考えてしまい、技量の凄さを知った。

先生は自分に入ってないからできないというのではなく、自分で探すしかない。と言った。そうだ、と思った。嘆く前にとにかくやってみなくては。

 

“Isn't She Lovely”

感動した。ブラインドだけど、子供が産まれたとき、何もかも吹き飛んで本当に嬉しかったんだと思う。子供の顔を見ることができる人以上に喜んでいるようなすごい喜びがあふれていて、涙が出そうなくらいに感動した。ハーモニカの音色が愛しく感じた。

 

"Living for the City"

声の重さについてだったが、聞いていてつらいほどの重さはなく、リズムが気持ちよく入ってくる。先生がバーベルを持ち上げる感じの重さがあるとおっしゃったけど、まさにそのとおり重い。ポイントが一定一直線に流れるというか、Keepされつづけている。歌ってみると、難しいポジションを一定にしようとすると苦しそうに聞こえ、重苦しくて、リズム感が消えた。For the Cityのtyのときに、深くスティーヴィーワンダーは入っているのがわかったけど、それを意識してやろうとすると、リズム感が消えて、体、特に背中の上の方とか前の肩や首に力が入りまくっていたのに気づいた。抜こうと思っても、歌うと、どうしても力が入って最後まで抜いた感覚を得ることができなかった。自分の体の動きを意識することができたので、今度から抜いて、下の方のおなかを意識してやることにしよう。

 

「昔の恋うた〜わびしく」と転回しているのだが、昔のうた〜わびしくの間にどういった呼吸でおわり次へとつなげているのか、聞かなければいけないと思った。自分でやってみて形だけ真似たような結果になっていた。「昔のうた」でおわりではなく続くようなおわり方をしないと次の転回が不しぜんになってしまう。

 

無名塾

仲代さんと生徒の読みの違い。「目に見えてもさわらせぬというのか」生徒の言い方は「さわらせぬ〜」の「わ」のところですっと息があがってしまって「ら」からまた言い直した。仲代さんはしっかりとにぎったままひとつのことばとして言い切っていた。表現するにはことばをひとつにとらえることが技術として必要だしそれができるからこそそのことばの裏にある感情を表現できるのだと思う。仲代さんは作品をどこまで深くよみこんでいるかが表現につながるといっていた。読み込みの時点で文章の奥にあるものをよみとるとも。今やろうとしていることと全く同じ事だと思う。頭でわかったからといって伝えられるものではないと思う。芝居も歌も表現したものを伝えるということにおいては全く同じだしこの表現するということは永遠の課題なのかもしれない。仲代さんは技術の面でひとつひとつの音を押しているというか息にしっかりとのった音になっていてぐーんと声が飛び出してくる感じがしたけど生徒の方は一音を押す力がないからことばになってものってこない。だからメリハリも感じられないしただ喋っているという感じになってしまうのだと思う。仲代さんが低い声で胸でとるようにさせその後生徒の声の高さに戻したら最初とは違ってなんとか一つのまとまりとして聞こえていた。芝居も歌も何度も同じことを表現するわけだからどうしたって技術が必要だ。そしてことばも繰り返し繰り返し読むことで自分の中にすべていれこんでゆくのだと思う。ステージの上では声もことばも意識せずただ表現のみに集中する。

 

 

 

 

 

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ステージ・ライブ実習感想

 

 

またしてもマイクの力に頼ってしまった部分が何カ所かあった。気持ちよいときほど危ない。何度やってもまたやってしまうのは困ったものだ。曲が自分の中でピンと来ないからかもしれないが、こんな風に歌っていいの?何が正解なの?そもそも、形が見えないなと歌いながら思ってしまった。ことばの語尾の処理にもう少し気を配ること。それをして助きを止めないこと。人を圧倒するほどに愉快に歌えなくて残念だ。私が歌うと、何とせかせか聞こえるのだろう。

 

この曲をゆったり歌うのにはまだまだ全然体の力が足りないのがわかる。英語の発音も難しかったが、S・ワンダーを観て、勉強になったので良かった。お腹から口まで開いていなければ、発音できないし、母音を腹で発音するかのような感覚が少しつかめた。同志がたくさんいたんだな。少し嬉しい。

 

自由曲は意識した訳では決してないが、引き技になってしまう選曲だった。いつも曲を選ぶときはちゃんと自分が唄いたいのを選んでいるが、今回は課題曲とは逆の意味でメチャクチャ難しかった。唯、いつも思っているように、話すように唄っただけで、西洋人のように深く胸について声になっていれば?もっと何かが伝わるものに出来たと思うし、あんな平面的なメロディーでメッセージを発信したボブ・ディランやトリビュート・コンサートで同曲を唄っているトレイシー・チャップマンは、あたりまえのことだけれど、本当にすごいと思う。「声がいいなあ」とか「唄が上手いなあ」とか、そんな部分的な感想を決して言わせないモノ。それをもう一回考え直せたという意味では、やって良かったという事にはなる。そして最初に、“引き技”と書いたが、課題曲をもう少しまともに出来ていれば相撲のセオリーではないけれど、一度思いっきりぶつかっておいてから引くという形になって、効果があったかもしれないが(こういう曲も唄なんですよというメッセージとして)、あんな出来ではただの敵前逃亡だった。

 

インパクト」人それぞれ武器にしているものが違うと感じた。声のパワーでどんどん押してゆく人、表情、しぐさで表現を強調しようとしている人、人とは違う構成で引きつける人と様々だった。個人差はあっても皆挑んでくるという姿勢が見えていた。絶対にひかずどんなことがあっても常に前へ前へと出し続けてゆかなければあれだけ真剣な観客の視親に負けてしまう。声量があるからといってそれがよいインパクトになるとは限らない。課題曲を聞き自由曲も聞きたいと思わせるには一曲目にその人らしさがみられないとだめなのだと思う。

 

一つの曲を自分のものとして歌っている人はわかる。歌うことに対して余裕が見られる。それはゆるんだものではなくきちっと張りつめたものがあり、その上にその人の自信らしきものがみえるから余裕となって客を安心させるのだろう。声のパワーを手に入れてそれをただそのまま使うだけでは「声量がある」という印象は残るけれどその人の歌への思いとか伝えたいという思いはどこかにそれていってしまう気がした。ことばや声に自分の思いをすべてこめているからこそ伝わってゆくのだと思う。ステージというのは恐ろしいものがある。とにかく前へ前へ出てゆかないと崖から落ちてしまうような感覚。今私があのステージに立ったとしたらあの空気にのまれてしまうかもしれない。いろんなタイプの人がいたが、自分が評価している要素が私の中にも確実にあると思う。

 

一人一ステージ。よい意味でひとくくりにできないばらばらさがあったと思います。見ていた順に思いつくままに。それなりに続けてきた人は凡庸になろうともぎりぎり踏みはずさないやっとのところでも。ぎりぎりOKだなと言った仲代さんのことばのように、ラインをたぐり乱れながらものせてくる。自分の中のリズムを取り出しながら一般化してゆくことを知ってやろうとする。ただはめどころが固定され、安全圏や、踏みしめられて歩きやすくなった(自分で踏んだ)コースをたどる時、緊張感が薄れて形に向かってひびきが固定されてゆく。本当のところ?つかみ所のない広がりの予想を裏切るひびき。安全圏手慣れた失敗のない範囲。定型フォームに近い予想範囲内のひびき。本当であっても、届かないと動きを生まない。フレーズの途中で逃げてはいけない。自分の中の逃げたさから、歌の鼓動を勇気を持って守る。一瞬のことではあるが、歌全体の格が決まってしまう大切なことだと思う。まっすぐなものは伝わる。たくまざるまっすぐ。客が重い。客を引きずっても行こうとする歌い手。足を離陸させようとする。はずみさえついてしまえばこの重さは推進力になれるのに。縄跳びの縄はだらりと客席の中に垂れたまま。後ろ隅で、私は縄の端を勝手に手にとり、うんたうんたとのってみるが。歌い手は歌と客から逃げない。うねりは歌い手と歌の対話になっても不思議ではないのに、あきらめない。ジェット機は飛ぶ。届くものときちんとはまっているものは、イコールではない。見事な技術も、そこに本人の注意がはらわれ、誇りの中心とされると、ガラスケースに入る。客席で聞いている一人が、歌い手を突き抜けて曲と対話しはじめて揺れている。そこで心で聞いている人の背中からの方が伝わる。腹の底までさわる。腹の底にはずませて放す。まなざしがななめに逃がす。目がはずれる。自分もやっている気がする。客を求めるとき、社交辞令のように距離を保って何の結果を求めているのか。歌に程々も手加減もない。行きすぎることはないが…行き過ぎるというのはベクトルの方向だろう。まっすぐに自分から取り出されたものだけが、まっすぐにのびてゆけるのかもしれない。ラインを平行に保とうとするとコーナーがなくなる。うねらない上手なフォーム。決まっているのだろうと思えるもの。こんなに大きくても動かせないもの。、

 

今日の客はほとんどみんなわかっていた。拍手が表す。繰り返しのテンションは歌い手の心地よさだけでは保てない。聞き手として歌ってしまっている。歌い手がいなくなる。訳がわからないのに逃がしてくれなかった歌い手と歌うことを愛する歌い手。思いだそうとしなくても浮かんでくる二人。今日は反省はしない。歌い手としてなら何も言えなくなる程遠いから。客として金を払って参加した。あの場を客という立場から高めたいと、目と耳と心をこらして聞いた。一方では楽しんだ部分も持てた。ばらばらの可能性が乱数のようにちらばっていた。どちらへころがるか(ダメになるか、抜けてゆくのか)わからないものがいくつもあったように思う。平凡の中にも乱れの中にも。可もなく不可もなくと言うことばを否定的でなくて、使えるのではないかと思った。期待も失望もいらない。素のままの過程。厳しく正解もない深く果てのない世界の中の一瞬の中のまたほんの一瞬。ただそれだけの時間。また一番思い通りにならず、見えず聞けない“自分”との毎日に戻る。-自分自身のためにはなりました。おもしろかったです。-ありがとうございました。、

 

オリジナリティというものを意識した結果、自分なりのフレーズを持つということに気がいくのだが、なんだかそれがわざとらしくなることが多い。オリジナルのフレーズをもとうとした時、それを実現するだけの声がないから、他人と差をつけるために曲調にアレンジを加えることで、オリジナリティが出せたと錯覚してしまうのではないだろうか。少なくとも私はそうであると気付いた。しかもそのアレンジが、自分が歌いこむ上で生まれたものではなく、どこかで聞いた他の歌手の歌い回しを盗んで切り貼りしたようなものだから、底の部分だけ代わり物であり、わざとらしく聞こえるのだ。

 

以前TVで、松崎しげるがF.シナトラの魅力について「メロディーを崩さず、譜面どおりに歌ってくれる」と話していた。それでもシナトラの歌は誰にも真似できない。オリジナリティと、メロディにアレンジを加えることとはイコールではない。その曲を大いに理解し、今まで培ってきたセンスや、経験、しぜんとわく感情etc.自分にしかないエッセンスを加えた結果、しぜんと生まれてくる物がオリジナリティなのではないか?と感じている。ただ、これを実現することは非常に難しい。理想と現実のギャップをもどかしく思う。

 

歌い手の心の中で起きている自意識が、せめぎあいが見て取れて、いたたまれない。少なくとも本人が音楽に入り込んでいることが最低条件だと思う。出だしの1フレーズが本当に丁寧で、心がこもっていて、立派だと思う。出だしは、自分にとって大きな課題だけに、この出だしを実現するためにどれだけの努力があったのか想像が出来る。頭が下がる。グルーブはただノルことではなく、こんなにも頑張って産み出すものと知る。気持ちの良さはそのご褒美だ。もし80%の力で歌うのなら、その意味が欲しい。

 

課題曲だから歌うというのではなく、どんな曲であれその人と曲が感応し合う箇所がどこかあるはずで、それを教えて欲しい。そこを力一杯じゃなく、80%で歌うことによって、そこがより良くなると、少なくとも本人は感じているという事を観せて欲しい。ある特定の歌詞を歌うときの息の深さが、そのことばこそ、その曲のKEY WORDであることを感じさせてくれる。そのことばによって、歌い手の心と曲が深く結びついていることがわかる。その人にとってその時点で出来る限りの最大の構成だったんじゃないかと想像される。「よくがんばったな」という感じ。

 

音楽の出方は一定ではない。光り方も一定ではない。歌い手の気持ちとうまくよりそって、ぐんぐん温度を増すときもあれば、しゅるしゅると収束してしまうこともある。これを完全にコントロールできたら素晴らしいのだろうが、簡単なことではない。もし、途中までうまくいっていたとしても、どこかで音楽が逃げていくのを感じたら、すぐに自分の方向を考え直すべきだ。いつまでも過去の(直前までの)感触にすがってはいけない。ズルズルになって、結局構成が失われてしまう。今、今、今を瞬時に感じていくことの難しさ。でもそれをしないと、前へ進む力がだんだん弱ってくる。

 

1.マイクを武器として使う、うまく使うリハーサルのときにいろいろ試してチェックする。自分のスピーカーから出てくる声をよく聞きながら歌うことを気をつける。マイクを近づけた方がよく聞こえる。少し話した方がよく聞こえる。声がゆれていないか、マイクを揺らしてるから、ゆれて聞こえる声のノイズ。低音をよく聞かせるために口に近づける。などいろいろある。2.気持ちが盛り上がるとキーが上がる-スピーカーからの声に耳を傾ける。

 

1.ことばの練り込み不足2.声ことばにねばりがない一体で楽にさせている。3.細かい部分、語尾、出だしなどが雑。ただ出しているだけ、もっと丁寧に練り込む。4息が不足。出したいところで出てこない。5.プロのステージとしての魅せ方を考える-余計な動き、無意味な動きが多い。6.息が充分に声になっていない。息もれ。7.浮ついた声にならないためにはことばの練り込みが大切だ。このとき、体の負担がある。8.何が出したかったのかというビジョンが不明確。だから何を歌ってもいいということであり、逆に言うと歌わなくてもいいということになる。9.声に嘘がある。いい声をつくって出そうとしている。今は根を深くするときだ。ガマンガマン。10.体の奥深くから出る、体にひびく声ではない。ひびきかたが単純すぎる、単調すぎる感じがする。

 

こういう曲は、声のポジショニング、集中力、声の力の問題としてトレーニングする。流れ、展開を感じること。入りのポジションのキープ大切。次に入るために切っていくことも大切。基本は元に戻れること。(呼吸)聞き手のイマジネーションに働きかけ大切。スピード、角度、方向性を示せること。<リズムの取り方のトレーニング>1.踏み込み易いことば(ex.ダガヤバなど)で13拍目を感じて、メロディに合わせて歌う。こういう音楽は均等ににラララとかなってはダメ。早く遅くとか速度を変えてやってみる。アフタービートの所をどう伸ばすかを工夫してみる。こういうトレーニングしておくと聞き方が変わっていく。

 

音楽に反応できないといけない。自分の体を自由に動かせること。リズムに声あてていけるのは最低の基準である。入れると動いてる。2.サビをことばで言ってみる。フレーズをつくる(息が入っていること)。心と体を意識的に入れなくてはいけない。何回もやって動いた所(伝わるところ)に気付くこと。頭で入ってはダメで、何通りものパターンがあって、それを出せること(選んで)。心と体をしぜんな動きでやること。接点をみつけること。オリジナルフレーズへとつながる。与えられた課題に入れること。一行ももたなければ一曲は無理。まずは100%出すことからスタートする。この曲は何がおもしろいのか、から入ること。3.音つけてまわす。

 

1.「ダ」でやってみる、バシっと決まらなかった。アフタービートの動きがつけられなかった。呼吸がしっかり取れていなかった。メロディを気にしすぎて、リズムにノレてできなかった。2.棒読みはしなかったが、まだフレーズ感が弱い。体にもっと入れなくては動きが出ないと思った。パターンが自分の中に少ししかないような気がした。読み込みが不足。そして一番合っていて決まるフレーズを出せるようにしていく。3.この曲のおもしろさは、リズム感がとても動きのあるところだと自分なりに解釈。リズムにノッて聞いていると、横になった「8の字」を描きながら踊りたくなるのに気付く。特に裏拍のアコーデイオンの音が自分にはとても気持ちよく感じた。音をつけて歌ったところ、まだことばに負けているというか、早口ことばになってしまい、自分の意志で動かした感じがしなかった。流れになっていなかった。ポジションをキープできていない。

 

踊って歌ったが、心も本当に入り切れてやれていなかった。歌が前に出ていない。緊張して固くなっていた。もっとリズムに慣れてリラックスした心で歌いたい。今日のレッスンでは「遊ばせる」ということばが気になった。「遊びの気持ち・心」そこから生まれる自由な動き、自由な感性、イマジネーションのふくらみが、聞き手の心に伝わる源となりえるということだと思う。マニュアルにとらわれないで、トレーニングするということも大切だということかもしれない。また、フレーズとして自分から出すことば声にも遊ばせてあげる必要もある(まるで自分の分身・子供のよう(?))ということかもしれない。確かに「動かす」と固く考えがちなことも、「遊ばせる」の方が、意味はよくわからなくてもとらえやすいような感じがする。

 

お客さんと目を合わせない、というのは、お客さんとの間を閉じている、ということ。曲の中で理由があって…しぜんに「目を閉じる」のはもちろん何も思わない。本当は開けていたいのに何かの理由でできないのだれば、それはもうドボン!と頭までつかるしかない。たとえ、目を白黒させても、ひきつっても、どんなにおそろしくてもとにかく一回ドボン!しないと駄目なんだ、きっと。なぜなら、その一曲の中でお客との間を新たに創り出そうという気持ちなどないと、全く反対の方に誤解されてしまう。目を開けて微笑んでこっちを見てくれたら、全く違ってくる。動き出す、何かがうごめく。生き始める。お客と歌い手とでつくる新しい生命が。そうか歌とは新しい生命をお客と歌い手で創り出すことか!歌い手が投げかけてくる、投げかけられて何かを感じたその瞬間でその歌い手と対する。それはどうしたって歌い手に伝わる。伝わったところから、その場その一瞬での他のどのときにもあり得ないその一瞬がまたお客に投げかけられる。両者のコミュニケーションで成り立つ。お客は投げかけ、投げつけられることを待ってる。キャッチボールか。だからまずなげなきゃいけないんだけ。これが生。CDじゃない。生身の人間同志。聞き手になって自分との間を創って!創って欲しい!とはっきり思えた。目を閉じるのは、ある意味でお客との間を閉じること。見て!見て!私はここにいる。どこに歌っているのコミュニケーションとりたい!でも、これは今日歌った人があるレベルまで歌い込んでいたから他のことがあまり気にならずに、ここに目がいったのだろう。まず、そこまで自分の場合はいかなきゃ駄目だ。でも、いや、いつでもなのかもしれない。どんなレベルでもだ。大事なこと。少なくとも、こう意識してやったことは今までなかったのだから。

 

先生に言われた通り、力ずくでくせに逃げ込んでしまったこと。結局何一つできていない。声なんか出たってしょうがない。声量でなくて、息の量、深さ、流れが大事でそれに声、歌がのっかっているだけなんだと思う。先生が言っている“まとめようとしないこと”と“純化すること”というのは同じ事を言っているのかもと思った。小さくまとまらないように器を広げていくという事と、いらないものをどんどんなくして純化することというのは一見矛盾しているようだが、つめこめるだけつめこんでその袋をぶんぶん振り回してやると、いらないものが落ちて、否が応でも大事なものが残っていくということなのだと思った。それを持てるかどうかというのも大切だ。

 

私は今まで“表現する"=“感情を露にする”=“一人よがりになる”“見苦しい”という見方しか出来なかった。今日、福島先生のコメントで感情を出しすぎると、自分にまとわりついてくるから、これを技術で離して、前に出していくのだというようなものがあった。

伝える力のある人にはこれが備わっているのだろう。恥ずかしいからと感情を押し殺す方向へ行こうとしている自分は完全に間違いであったと気付いた。出すものもないのに、前に出て行くはずはないのだから。

 

フリートークは、歌から比べたらウソではない。

1.自分のこと、自分のことば

2.朗読は他人の作品を読み込み自分の音声を入れてゆく。ここは、音声で表現する舞台である。ステージ実習は音を付けてゆく。

3.自由曲を選ぶことのむずかしさにつきあたる。

4.音がつく。

ライブ実習。1~4への課題の中進むほど本当のことを出そうとすると大変になる。本当のことを出そうとしなければ、逆にどんどん楽になってゆく。自分のことをきちっと見つめることが(1)でほとんどの人が終わってしまう。

“客のベテラン”ではなく、いかに音楽と出会ってきたかということである。100人中10人もいない(?)。出会ってこなかったことのフォローは、レッスンでやっていく。自分自身に対して自分自身でシステムを活用する。自分を見つめるところに戻る。

レッスンが進行するのではいけない。教わることをプログラム化してはいけない。わかったつもりが一番いけない。わかったつもりになっていても。できていないということはわかっていない。気迫と、自分自身をどうつかんでいるか、でしかステージは乗り切れない。そのためには“何か”がわかってここに来た。今ここにいる。この“何か”を生かしてゆかないとだめになる。

それをおさえていないということは、たまたま道に来たタクシーに乗っただけになってしまう。自分の行く先がわかっていないと動かない。どこへも行けない。自分が正しく自分を知らなくてはいけない。ただ、わからないならわからないままやってゆけばよい。自分でわかるわかってゆくためにやっている。自分で分かったことは他の何かに似たりしない。自分で対話する。コンスタントにやる。応用してゆく。自分で状況を活かす。体の動かし方なども結果がよく出ていればOK。

“ハイ"だけすごくても何にもならない。人に伝える努力が大切。音楽的要素も、基本として役立てればよい。ベースの力にする。自分で自分に限界をもうけてしまってはもう終わり。そこまでになってしまう。一流の音楽家の言うことは耳を傾ける。見ている人は見ている。アーティストが売れるということはやはり付加価値をちゃんと持っている。続けることも才能である。その人達の体の中で何がおこっているかを読む。自分で分かったことはできることできていないことはわかっていないこと。自分でわかったこと以外はわかっていないこと。歌と一緒で、読み込んでオリジナルの“わかった”にしなくてはならない。“本当にわかる”ために、自分で“きづいたこと”“わかること”をへ練り上げるのが練習で努力。たりないからわからない。できない。あたりまえで、たった一つの道。たりていない。、

 

今日やったところはサビということもあったが、歌は結局「ピークを見せる」ものだと最近思う。自分の練習での課題も、モロにそうで、いかに一番盛り上げたいところを盛り上がりのピークとして聞かせられるか。

 

気付いてきたのは、ステージ実習の課題曲を歌ってきて、課題曲というのは、今まで歌ったことのない曲ばかり。自分で選ぶ曲というのは、ある程度選んでいるときに思い入れや気持ちが込められているから、聴かせどころが自分の個性と合うところにあるので、少しは自分のものになりやすい場合がある。が、課題曲をやってきていると、“なんてウソつきなのかしら私”と、すべてがガラガラと崩れてくる。でも、それを続けていくことで、自分の声や、自分のフレーズ、ことばを改めて考えるようになる。勉強するなら、やはり、こういう形で未知なところに入っていかないと、全然身にならないんだなとつくづく思う。これで、好きな歌ばかり歌っていたら、何も気付かなかっただろう。

 

99%を捨てて1%のいいところを残し、生かしていく。落とす。ハイ。にも音色を生じさせる。感覚に音色をとらえようとしない。一音目でオリジナルの声をとらえてゆかないとオリジナルフレーズは出せない。一つの始点で始める。動かしすぎても自分の中で作りものになる。集中力/体力/気力で出せていくもの一出てゆかなければ放つところまえに100%行かない。こびてはいけない。重いが込もりすぎて、大きく作っても通用しない。大きくつかめなかったら捨ててしまうくらいの厳しい判断を。計算間違い計算するほど間違う。わからなくなる。(読み込みを感じるまでは?)丸見えのものもだめ。たくさんやってみて選んでいく。自分の中で厳しい基準を持つ。抱え込む。あれもこれもで両手からこぼれての中に残ったものも不安定な状態になる。捨てる。コントロールまですてる。フランスパンをバリバリ手でちぎるような断面。ベクトルのみの声。立ち上がりも終わりも雑なので、結局大きかろうが何しようが方向性が見えない。見えたとしても音声表現としては何も伝わらない。ヒステリーをおこしてまわりの人間の迷惑も考えずにわめきちらすだけみたいなもの。かといって余分なものを捨て、テンションをあげて出せるところ。ここから先に予期せぬことがおこるところ。まで行かなくては絶対に出ないのだから。“フルバワーでちゃんときめ細かくコントロール”するという単純なこと。単純だから難しい。言われて気づいたが、自分が声を出そうとするときの体の準備が全くできていなかった。フレーズのことを考えているうちにこうした基本的なことができなくなっていた。いや、こういうことはすでに無意識のうちにできるよう体に覚えこませていなければならなかったのだ。未だにこうした基本中の基本ができていない自分に腹が立った。また頭で計算するとやはり体が動かない。これを自己トレーニングの中で頭の中で考えなくても体がしぜんに動いてくるように練習しなければならない。まず一曲の中の一フレーズを完全に自分のオリジナルフレーズにすることから始めてみようと思った。こう思うことさえかなり遅いことなのだが。、

 

聞いていいと思う曲、好きな曲と歌える曲、歌って良い曲、ちゃんとわかること。色としては、合わなくてもある程度自分の土俵に引き込んで色を移していくことができるが、できもしないもの、体の呼吸のリズムと合わないものを選ばない。自分の曲と創唱の歌い手の歌った歌そしてスタンダードナンバーとの位置関係をとらえる。ただのマネにしない。オリジナルの声(オリジナルの呼吸)でオリジナルのフレーズを出していく。意志やベースの部分からはなれられないでいくと歌にならない。そこから音が動くところ/その状態にいかなくてはいけない。オリジナルの声でくせなどとの区別。同じにしておいていいものと悪いところをわかっておく。自分のリズム/音感/ことばをスルーさせることによってオリジナルに。そこをスルーさせてさらに音を動かして出ていくようにしなくてはいけない。ずれや距離も計算したら、計算したところまでしか行かない。計算しない。思わぬファインプレー。これを常に取り出せるようにするのがプロ。ファインプレーを出す状況までの感覚に対する本能のようなものを身につけていく。意志に支配されたり計算することは動きを止める。but計算しないで偶然出た“うごき”は安定しないのでフラフラしてしまう。ビークに向かっていく感覚を身につけてしまうこと。“一度死ぬ”にしてもピークまで行かなくては死にきれない。ピークまでいく道の外側に生まれてくるのが“うごき”である。“うごいてしまった”に近いもの。“音”というものの特性。表現。音をとってゆこうとしたとたんに死んでしまうもの。フルで玉砕覚悟でやらないとその道筋の外側ににじみ出、生まれ出ないもの。自由になるためにはオリジナルな声できちんととっていく。自分の“コイル”の道すがら音をおいていく。曲を選ぶとき合っていないのは。歌い手に合っていない以外には処理が間違っている。人前でやることはだらだらしてはいけない。退屈させるかさせないかの差がプロ・アマの差、テンションの低い状態からは決して取り出せない。精神的はいり込み以外でも技術的に非常に高いテンションによるコントロールが必要とされそれで、勝負する力もある。、

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アドライブ。まず、3人の皆さんに共通して思ったのは、声が太いということ。ポジションの深さ(低さ)高低差を感じさせない点が印象的だった。パッと耳に飛び込んでくる声のイメージとして、「低」「太」という感じで、声としての存在感が大きかった。稚拙な子供っぽさのない大人っぽいところがよかった。練られた声とは、こういうものかとおもった。

 

ステージ実習などのコメントで先生のおっしゃる「熱」とか「自分を前に出す」ということばの意味の一端が垣間見えるようなステージだった。その場で発信されているものは、具体的には歌なのだけれど、それを発信するまでのプロセスの深さ、幅広さ、そしてその量そんな並々ならぬものが、ひしひしと伝わってきて結果としてステージという一つの世界を作り出していることにとても感動した。この前のオープンライブ実習の時、先生がおっしゃった「プロセスが見える」とはこのことなのだろうか。

 

彼女だけ歌に入っているのか。彼女だけより歌を理解してその中に入り込めているだけなのだろうか。他の2人よりも。何かそれ以外の要因があるように思えてきてしまう。具体的に何かと言われてもよくわからないが、何か歌とか声とかそういうことになる前のその人の気迫とか度胸とかそういう内面的なもののような気がする。また、歌を聞いているときに、その歌を通じてイメージが広がり気持ちが良くなった瞬間があった。そのイメージはその歌の世界の中のものである場合もあるが、自分の中のイメージの世界のものである場合もあった。ちょうど歌というものを通して、歌い手の人と会話をしているという感じだ。これは歌い手にとっても聞き手にとっても気持ちのいいことだ。また歌い手の狙い通りという気もする。理想は歌の世界に聞いている者を連れていくという事なのだろうか。具体的にはどうすればいいのだろうか。前記したが、その歌に入り込んで浸りきるということなのだろうか。しかし、浸りきるというのも容易なことではない。さらに進んでその歌そのものの世界に生きてしまうと言うこともこの先あるのだろうか。

 

ここにくるまで歌うということがこんなにも体を動かすことと関係があるとは思っていなかった。そもそも歌うということが肉体芸術だとか、体は楽器だなどという考えはもったことがなかったもの。でもそういうものだからこそ歌うことによって自分が生きているということを実感できるのだと思う。自分が長い間スポーツをやってきたことはとても役立っているのか今はよくわからないのだが、体を動かすことが苦もなくしぜんにできるということは体をつくっていくうえでいいことだと思っている。

 

スポーツの中であらゆる体の動きを経験してきたから自分の体がしぜんと覚えていることがたくさんある。私の意志ではなく体が勝手に動いてくれる。歌うということでは私の体はまだ身についていないし、一晩寝たら忘れているだろう。繰り返すことでしか身についていかないと思うから、毎日教え込んでいかなくてはいけない。こういうことを考えていると自分の肉体は自分のものなんだけど自分のものではないという気になってくるから不思議だ。瞑想の世界かなんかで、自分のなかの意識がもうひとりの自分をじっと見守っているというような状態だろうか。柔軟性ということで、最近体の内側から感じるものがある。もともと体はやわらかかったのだがその柔軟性とは違い、手足の先や顔が内側からやわらかくなっているという感覚がある。細胞の一つひとつに酸素がいきとどいているような感じでこの体の変化を不思議な気持ちでみつめている。

 

その声には意志がある。声自体に意志がある。声がことばにまだなっていないのに何か感じる。例えば「ウォー!」と一声上げただけで、何か言っているように感じる、聞ここえる。他の2人にはそれはなかった。僕以外の聴衆もそう感じているのだろうか。なぜそう聞こえるのだろうか。声自体が生き物のようだ。福島先生の言うように、結局人間のからだで何かをおこしているはずなのだろうが、ぼくにはわかりません。そこに息、息吹からだがあると言っているが、僕が感じたものは息、息吹だったのだろうか。それでは、そうだとして、何故他の2人には感じなかったのだろうか。ぼくに感性がないのか(これは原因の一つだと思う)でもそれもひとつの原因には違いないが、それが全てではないと思う。他の2人には声に意志が感じられなかった。声自体が生き物のように感情を持って何かを言ってるように思えなかった。この2人に息、息吹を感じることがでいなかっただけなのだろうか。わからない。前からずっとわからなかった。前からずっとわかりいと思っている。でもわからない。とことん追求してみたいテーマだ。結局ただの息だけだったりして。

 

広い世界にはもっと凄いのがいるのだろうか。きっといるのだろう。世界の一流ともなると、声だけで聴衆を酔わすことができるんじゃないのだろうかと思ってしまう。生の声だけで聴衆を酔わすぐらいのレベルにいる人はマイクを使って、ことばになって、歌になって、伴奏もあって、なんてことになったら、聞き取りにいろいろなものを伝えることぐらい簡単なのだろうか。いや、奥に行けば行くだけ奥行きを感じるものなのだろうから、そこまで行った人にはその人なりの感じかたがあるのだろう。歌と対話をする必要があると感じた。歌いながら歌と会話をする。何となくこんなことが頭に浮かんできたが、要するに歌の中に入り込むということなのだろう。

 

このヴォーカルの声はかなり高いと思ったが、外国の歌手は性別に関係なく、さまざまな音色をもっている。日本は性別で枠をつくることによって人間の可能性を閉ざしてしまっていると思う。「女らしさ」「男らしさ」なんてことばをいつまでも大事にしている。そういうものを超えた世界で生きるには、性別を超えた人間の大きさをもっていかなければいけない(女を忘れるということではない)。この国では、あらゆる行動が性別で判断されかねない。枠をつくるということは枠の中にいたい人にとっては都合のいい世界だ。枠の中にいたくない人間にとっては闘い。柵の外を見るには柵の外に出るしかない。柵の中からじゃ本当の柵の外の世界をみることはできない。歌っていくということはいろんんことを考えさせられる、というより考えざるを得ない。それは、あるときは苦しみであり、あるときは喜びでもある。結局、離れられないということだ。本物の集団は何てひとりひとりが輝いているのだろうか。

 

日本のバンドのようにヴォーカル以外の人たちが目立たないというのではなく皆、強烈に自分をアピールしている。そして誰ひとりとして埋もれることはない。それは、それぞれが自分の世界をもっているからだ。自分の能力をどこまでも追求した者たちが一つのものをつくる。もちろん日本だってそういう人はたくさんいるだろうけど、パワーの差は認めなくてはいけない。その差というのは何か一つを究めていくというエネルギーの差ではないだろうか。歌うことと生きることに境界線のない人がつくりだすものには、凄味を感じる。手を合わせて拝みたくなってしまうような心境になる。なかなかできることじゃないとわかるから凄いと思うのだ。楽器の音も声の音も段々、同じように聞ここえてくる。それぞれがとても高いテンションで、渦を巻いていく。音というものは人の心を酔わせてくれる。音の中に入っていけばいくほど、気持ちよくなっていく。たぶん、人間の本能の血が騒ぐのかもしれない。

 

日本にいると音というものに鈍感になってしまうのだろうか。私は今まで音楽を音として聞くより、詞やメロディで聞くことの方がずっと多かった。私以外の日本人も似たりよったりだと思うが、どうだろうか。彼らは自分たちが最高に楽しむことで多くの人を楽しませると言っていた。そりゃそうだ、楽しんでない人のステージなぞみていてつまらないもの。こういう人はステージをおりても人生を楽しんでいると思う。人生を心の底から楽しめるという人はなかなかいない。自分の好きなことをやっている者にとっては、人からみたらつらそうでも、本人はとても楽しいものなのだ。自分の心に嘘がないからしぜんなままの自分でいられる。そういう心をもっていればステージの上は最高に楽しいものとなるだろう。ステージというものは人間の心がつくりあげていくものなんだなと痛感する。心と心の触れ合いがいろんなステージとなる。ことばを交わすわけではないけれどお互いの気持ちが通じ合う。心のないステージはただの見せ物に過ぎない。ステージにあがるには、一期一会の気持ちで望まなければいけないと思う。そこの時の時間も空間も出会う人もそして自分も、その場限りのものだから。「一期一会」を大切にしよう。

 

「耳がない」今回もそう感じた。一番最初に歌っていた女性がサビの部分を歌ったとき、観客がものすごく盛り上がっていたけれど、私は「なんで。」という思いしかもてなかった。「かわいらしい人だな」というぐらいにしかみえない。その人間の魅力みたいなものを感じても歌のこと、声のことがよくわからない。

 

クラウディオ・ビルラはあの声を聞けばものすごいはりと伸び、呼吸の長さに驚かされる。耳がないということは認めた上で書いていかないと何も書けなくなりそうなので、ひとまずおいておいて書くことにする。ステージの上と下をみていたら、その態度が逆じゃなかろうかという感じがした。ステージの上の歌手はまるで歌わせてもらっているという感じで、客席の人々は聞いてやるという態度だった。言い方を変えれば客が皆、堂々としているといったらいいのか。ヴォーカルは皆、素朴で「私、歌を歌いたいの!」という顔をしていてみていて心があったかくなった。歌ってそんなに肩に力入れて歌うものじゃない。「歌が好きだ」とか「この歌を聞いて」とか「私をみて」とか本当にシンプルな思いがみている者に伝わっていくんじゃないだろうか。この人、歌が好きなんだろうかとか本当に歌いたいのだろうかと、みている人に思わせるような歌は歌ってはいけない。その表情にも体から出るエネルギーにも滲み出てくるものだ。いろんな想いで皆、歌いはじめるのだろうけど、歌うということを大切に思わなきゃ人に伝わる歌は歌えないだろう。

 

スティービー・ワンダールイ・アームストロングが歌うと、アメリカのパワーを感じる。国民性というのかパワーで押しまくっていく歌い方をもっている。それにまるで自分のオン・ステージかのように歌い動いている。本当にそういう感覚で歌っているのだろう。ハーモニカやトランペットを使いながら歌うなんて、いろんな見せ場をつくるところがショ一的な感じがする。それがいいとか悪いとかではなく表現のスタイルの違いだと思う。音に対する感覚の違いというのはどういうことか。外国人は本物と言われる人々の歌を聞いて何にあんなにも感動しているのか。

 

私は今になってやっと本当に最初にもつべき素朴な疑問にたどり着けた気がする。会報は、何度も何度も読んでもわからないものだ。でも繰り返し読むなかで、その都度ひっかかることばがある。そのひっかかりを大事にして考え続けていくしかない。それ以外に気づいていく方法はないような気がする。

地球は一つといいながら、同じものに感動できないなんて嫌だ。日本は島国だけど心まで離れることはない。地球を渡り歩きたいと思ったら地球に住む大半の人々がもつ感覚をもたなくては。自分の感覚の世界は磨いていけるし、それは自分の努力次第だ。どういう感覚になっていくのか想像できないけれど無限の広がりを感じる。自分を創っていくということは、感覚を磨いていくということだと思う。感覚は鍛えれば鍛えられるのだ。ただこの自分ができると思いさえすればできていくという単純なことだと思う。ただ、本気で思うということは、できそうでいてなかなかできないことだ。

人はいろんなことを考えるけれど、本気で『できる」と思うことってなかなかないのではないだろうか。思うことと思わないことの間には、大きな差がある。本気で思い、考え、行動することの大切さを知る。

 

これを見て、歌はパワーがなくても歌えるなんて言う人はいないよ。あの中にパワーのない人がひとりでもいたら浮き上がってしまう。人に何かを与えるということは並大抵のエネルギーじゃだめだ。これでもか、これでもかというくらい表に出していかなきゃ届きやしない。歌うということは「私はここにいて、歌っています」じゃだめなんだ。「ここにいるぞー!ガオー!ガオー!」と叫んでいるようなものだもの。それぐらいエネルギーのある人じゃなきゃ、歌えたとしてもその人間の溢れ出る命のエネルギーは伝わっていかない。

 

声があるからってそれで歌は完璧なんてことは、絶対にないけれど、これがなきゃ今、日本人が歌っているようなレベルでしか歌えない。日本の歌手は声がないかもしれないけれど、このあきられやすい時代の中で、生き残っている歌手は何かしら大きなものを与え続けているということだ。与えることも声もないしその辺の人と何の変わりもないな。なぜ声を手に入れたいかといえば、日本の音楽の世界を変えていきたい、世界のレベルと同じところで歌いたいと思うからであって、そういう思いがなければ声を手に入れようという気持ちは続かない。必要のないものはどんなにいいものでも邪魔なだけだ。邪魔になる云々の前に手に入らないか。

 

いい声を聞けば聞くほど、日本人の声は何て、何て薄っぺらで苦しそうに話すんだろうと思ってしまう。そしてこの自分もその苦しさの中にいるひとりなのだと気づく。多くの人々はその苦しさ、気持ち悪さを感じないから平気な顔して、日々過ごしていけるのだと思う。気づいてしまった人間は、人の声にも自分の感覚にもしぜんなものを求めていくのが当然だ。感じないものを感じろと言ったって無理なことだけど、感じるものがあれば、どうしたらしぜんになれるか、自分が気持ちよくなれるか探すだろう。だって生きていること自体、自分が気持ちよくなることだと思うから、そうならないのは生きている気がしない。自分が自分でいないということだから。

 

叫べる人間は何て自由なのだろうと思った。ステージに立ち、歌で心を伝えられる者は幸せだ。その瞬間、生きていることを実感できるのだから。一流のアーティストは、男も女も関係なく文句なしにかっこいい。その人間の命が輝いている。輝いている者は、太陽や月のように人々にエネルギーとパワーを与える。自分が、かっこいいと思う人間のモデルをもつことは大切だと思う。それは姿形の問題ではなく、生き方やポリシーといった精神的なもの。そういうモデルを何ももてな自分の中でこう生きたいという方向性がつかめないかもしれない。身近な人がモデルになるのが一番いいと思うが、なかなかいないだろうから自分で探すことだ。

 

私の思うかっこいい人というのは、強烈な光を放って立っている人。ひとり立つことのできる人は群衆のなかにいてもわかる(でも、そういう人は群衆のなかにはいないかもしれない)。ひとり立つ人間は、自分の声でことばでいろいろなことを主張する。自分を打ち出していくことを恐れない。あらゆることを恐れず立ち向かっていく人なのだ。そして人間としての誇りをもち度胸のある人。そういう人間になりたい。

 

このステージは本当にすごい。炎が立ちのぼったかと思うと波になり消えることがない。音楽は人間の内に秘められているパワーをひきだす。ステージの上も下もなくすべての人間が一体となっている。それも後になればなるほど高まっていく。多くのアーテイストが登場したが、皆ものすごい気で包まれていた。あの人たちが日本のステージで歌ったら、ちょっと太刀打ちできないものがあると思う。とにかく体を動かすと歌うことが半端じゃないのだ。これでもかというぐらい走り回り、ジャンプし、声を絞り出す。人間のパワーって皆体の中にあるものだと思うけれど、それを大きなものにつくりあげていくには、だしていかなければいけないのだと思う。パワーは出すとなくなるのではなく増えていくのだから。ヴォーカルは次々と変わっていったが、バンドのメンバーが最後まで同じだった。ドラムなんて腕がおかしくなるんじゃないかと思った。

 

誰もかれも一つのステージを成功させようと今、出せる自分の力を出し切っている。一流のアーティストは皆、限られた時間の中いろんなことをしていると思う。それを思うと今自分がどれだけ、こういう人たちと同じような精神的環境をもてるかということは重要だと思う。一日の時間はどの人間にとっても同じだ。でもそれをどう使うかによって大きな違いがあると思う。限られた時間の中でやってもやってもやり尽くせないものがあれば、どうしたって優先順位を決め、集中してやらなければならないと思うだろう。やりたいことがあればあるほど、自分の大事な時間を粗末にはできない。別に寝なくとも、食事をしなくとも死ななきゃいいと思う。そういう状態でも楽しいと思えるからこそ続けていけるのだろう。歌うことだけが大切なのではなく、それ以外のことの方にこそ歌に生きてくるものがたくさんあると思う。出演していたアーティストは皆メッセージをもっていた。そして自分の愛する歌をもっている。

 

なぜ歌じゃなくてはだめなのか。自分の心の中にはいろんな思いがあり、それをことばで伝えるには限界がある。私は自分の思いを自分のことばで、より多くの人々に伝えたいと思ったから歌を選んだ。小説や絵だって伝えることに変わりはないけれど、歌に比べたら間接的だし作品からつくり手を想像してもらう面が大きい。歌だって作品を通してのコミュニケーションだが、そこには生きている人間と人間の触れ合いがある。普通に生活していたら一生に出会える人なんてたかが知れている。どんなに輪を広げようとしたって限界があるだろう。一つの曲が多くの人間を出会わせ、そこから波紋は広がっていく。

 

生きていくことは出会いと別れみたいなものだから、私は生きている限り少しでもいい出会いをしたい。そしてこの世を去るとき、いい別れをしたい。歌は歌っていた人間が死んでも残っていく。本物の歌は世代を超えて聞かれ続けていく。歌手にとっては生きているうちが花かもしれないけれど、歌にとっては歌い手がいなくなってからが花なのかもしれない。一つの歌の受けとり方、感じ方は人それぞれ違うからこそ、多くの人々の心に残っていくのだと思う。出演した人間すべて個性的だが、女性3人は特に印象に残った。

 

声のパワーに男も女もない。太い声にこしたことないかもしれないが、命が宿っているような声なら必ず伝わっていく。声の芯というものがその人のポリシーであり命であるのかもしれない。女らしい声、男らしい声なんていうことを言っているのは日本ぐらいじゃないだろうか。なぜそんな考えが未だ消えずに残っているのか不思議だ。国際化なんて言うけれど、この国のどこが国際化されているというのか。視点は外国ではなく隣の人のままだし、外国と触れ合っても表面だけで心の中をみようとしない。島国だからこそ一致団結してこれたというが、本当に団結しているのだろうか。日本が世界の音楽の仲間入りをするには、日本人ではなく地球人にならなければいけないと思う。広い視野でいろんなものを見ることのできる目。これは限られた人間しかもつことができないように思う。人は驚くほど身近なことしか考えていない気がするし、大きなことを考えても大したことないように思える。いろんなものみるたび、自分の考えたように生きようと思う。それじゃなければ命がもったいない。

 

体をいかに柔らかく使うことが大切かとメラが強調しているのが印象に残っている。ソプラノの生徒が、指導を受けているとき、確かに私の目から見ても、歌っている姿勢がかなり不しぜんでぎこちなく見える。肩が上がってしまい、状態も前傾気味で胸が狭くなっていた。これでは体の共鳴は難しく、音質も固くなると思う。下アゴを柔らかく使うということも言われていたが、起きているときは、難しい。力を抜こうと意識すればするほど、力が入ってしまうからだ(寝ているときは、口が半開きになって、涎が垂れてしまうなんてことがよくあるのに)。

 

まず思ったのは、3人でこの音の厚さはすごいということだ。ドラムはたたけるものは何でもたたいてやろうという感じだし、ベース、ヴォーカル、キーボードを一人でやってしまうのには驚いた。また彼の言っていたことばも勉強になった。アーティストは観客よりもまず自分を感動させるためにやっている。音楽は常に楽しみ、より複雑な領域にも入っていく。そして自分たちの好きなもの興味をもったものだけを追求してそれと同じ考えを持っている人がいると信じる。これは理想だし、今の自分がその段階にいないということは充分わかっているが、常に心に留めながらレッスンに出なければと思う。特に私は盲目的なトレーニングになりやすいので、なおさらこのことばをかみしめたい。彼の声は自分からするとややキイが高いが、決してのどにひっかかることなく出ていて、支える力がやはりすごいのだと思った。

 

レッスンで過ごす時間がとても有意義なものに思えました。けれども、私は大切なことを見ようとしていなかった。常々日頃の自分のあり方が問われているにも関わらず、“レッスン”にスポットライトを当ててしまっていた自分が今日、明らかになりました。レッスンに出るまでの方こそ、有意義でなければ。3ヶ月やってみて、色々なことに触れて、こんなあたりまえのことが見えなくなっていました。理屈でわかったつもりになり、レポートにも色々書いたけれど、全然わかっていませんでした。自分のやっていたトレーニングではレッスンに出る資格なんてなかったと思います。トレーニングの真剣勝負でなく、ただこなすもの“カリキュラム”になっていた。その内容にも迷いだらけで、何をどうやればいいか、自分で決められずにいたくせにわかった様なつもりになっていました。

 

今日のレッスンが私にとって本当に大きなことでした。トレーナー自身もあまりレッスンに行けなかったことを聞き、目が覚める思いでした。自分で色々納得させようとしても、どうしても迷ってしまうのが私の弱いところ。バシッと言ってもらって踏ん切りがつきました。自分が迷ったりもやもやとたまっていく思いを聞いてもらいたかった気持ちがあるだろうことは確かでした。私を個人として認めて欲しかったのでしょう。が、レッスンの場で認めて欲しければ、その中でトレーニングの成果を発揮すれば自然に認められるはず。人に頼りたいとか、泣きつきたいとか、そんな思いをかかえて、私は根本的に勝負すべきことをはき違えていたと思います。もう一度トレーニングを見直し、頂いたアドバイスを忘れずに毎日必死に取り組んでみようと思います。小さなこともとことん向き合ってみて、そして絶対につかみとりたい。全ては音楽・歌につながっていることを見失わないようコツコツと積み上げていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

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レッスン感想1  747             

 

体が強くなければ、のどが開いてお腹から息がまっすぐ出たとしても弱々しいものにしかならないだろう。一流は皆、強い体をもっているけど、カンツォーネは本当に体の強い人が多い。それも皆、平気な顔して歌っている(あたりまえか)。こう歌いたいという思いと体の差は大きい。この人の歌い方を聞いていると、どこで休むのだろうというぐらい休んでいない。最初から最後まで全力投球だけど、のどをしめて大声張り上げているのとは全然違って、ためこんだ玉を大砲のようにズドーン!!ズドーン!!ととばしているよう。同じような強さで歌いたいと思うが、もうスタッカートの息の強さが全然違うし、深い息を流しながら強くして弱くしてなんてことも全然できない。体が本当に強いということはこういうことなのだ。

 

のどが開いて声が出たときは、どこにも邪魔されないわけだから、ストレートに腰の方に負担がきて力が入らなくなる。下半身の支えも甘いし姿勢なんてくずれにくずれて、叫ぶことさえまともにできないんだなと改めて考えさせられる。でも!!トレーニングすれば体は必ず強くなっていくという確信がある。

 

考えるのではなく、やらなくてはみえてこないことがたくさんある。自分の体の感覚は自分にしかわからないし、自分にとっても未知のものだ。私は時間を無駄にしたくない。遠回りしたくないということではなく、トレーニングの一つの呼吸でも、ここでのワンフレーズでも、今、自分ができる最高の力と思いを込めてやっていっても、どうなるかわからないのだから、とにかく全力でわかろうとしていかないと、何もみえてこないだろう。自分の体と心を自由にさせてあげるには、器を大きくしていくことを考えていかなくては。ことばの息読みを徹底してやっていく。

 

本質に、はまること。(1)音楽の本質(2)体(に入れ使い切る、あまらせない)(3)表現(加工)(4)ここから先が勝負の世界。ここまでいってからが本当のスタート。流れのなかで何が飛び出してくるかイメージを出していく。体とオリジナル体のできること/呼吸にのせていくbut気持ちよさのうち。音を聞くとき素直に。子どものように聞く。同じ体のなかでできないことがある。自分のピークを残すとか考えてやるのでなく本能でやる。どうしてできないのか、できるところまでの距離に気がつく。伴奏が入ってきても、ヴォーカルが方向を決めていく。何もなくても自立できていることが前提。リズムのあるものが好きだ。入りやすい。よいことなのかもしれないし、悪い部分もあるのかもしれない。、

 

胸でとれない。体でつかめない。だから放すこともできない。体と息が結びついていない。息が吐けない。楽をしようとすると、前のクセでのどにきてしまう。体を使うと確かにきついがのどにこないし、しっかりした声になる。もっと体を有効に使い深いところで息を声にできるようになりたい。ここで息を入れたいというところでその通りにならない。手拍子からリズムをとっていく訓練が必要。だんだん体でとっていき、体に入れていく。全力でやると、その分みえてくるものが大きくて多い。中途半端でやると、その分しかみえてこない。全力でやったからこそ、みえてくるものがある。体のしんどい方に表現を引き受けていく。その人間がどう伝えようとしている。その人の練り込み方を考える。

 

ヴォイストレーニングの声で歌うのではなく、そこから取り出したものを歌に活かせるようにする。また深くつかんだり、ねばり過ぎるのも退屈な歌になってしまう。そろそろ歌の動きまでを感じとれるようなトレーニングも取り入れていく。

 

歌とはしぜんなもの(人間にとって生理的にも感覚的感情的にも)であるから、しぜんなものから学んでいく。たとえば息は吐けば入ってくる、その次にまた吐くものである。普段の生活のなかで話したりするところから学んでいく、考えていく。呼吸、発声、ブレス。体を無理して使っているのは却って不しぜんである。また、頭でばかり考えて、ここでブレスを入れて体をこう使って、というようにしていると不しぜんになる。頭はもっと違うところに使わねばならない。

 

ヴォイストレーニングとは、息をいかにコントロールできるかというトレーニングである。これは、声のコントロールに直結する。表現としての技が備わってくるかどうかということが大切である。体が使えたからといって歌が歌えているわけではない。ただ息を吐くだけとか、体を使うだけということは無駄であり、トレーニングとしてはおかしい。トレーニングのためのトレーニングにしてはいけない。パワーも必要だ。しかし、コントロールされたパワーでなければ使えない。しぜんな感覚がわかってくると、コントロールするということがわかってくる。深いところでコントロールする。

 

何のためのトレーニングかということを常に問うていく。中途半端な感覚を捨てていく。常に確実なところをみていく。コントロールされているかいないか。コントロールとは、そうしなければというよりも、そこにしぜんな力が働いてくる。「こういうふうにやると確実だったんだ」と問い正していく。自分はどういうふうに出しているんだろうということを見ていく。一音一音確実に出していく。ただ出しているというのはだめ。歌とは普段の感覚、特にポップスはそうである。普段の感覚をもっと考えていく。自分のペースをつかんでいくことも大切。声がよく出るペース、体のペースなど。

 

本来出しやすいはずの音域が一番クセがついている。「ハイ」と同じ感覚でフレーズが歌えない。ストレートに声が出ない。最初からクセのついた無駄な声の出し方をしているので、フレーズの最後までたどりつけない。もっとねらいを定めて発声すること。“4つのフレーズを一つに捉える”ということ。

一つのポイントを捉えて動かす感じは聞いていて徐々にわかってきた。

 

「スタンドマイクを使っているから、お腹のひびきがよくわかる」と言った先生の指摘は興味深かった。自分の体におきかえて声を聞くためには、こういうことがわかる耳が必要だと感じた。マイクや録音状態によってどのように音が変わるのか、それぞれ比較しながら違いを感じることができるレッスンを機会があったらお願いします。

 

まず、本質をきちんと捉える(リズム、音程、音の動き、ヴォリューム)-イメージをもつ、ねらいをもつ-音におきかえる、動きをつくる表現(音楽が入っていれば、すぐ表現に移行できる)-次につなげる、余力をみせる。出ている部分、引いている部分、広がっている部分、しぼんでいる部分という捉え方。日本語…一つの音に一つのことばもっとことばを入れてみる。抜いてみる。大きく一つに。

 

とても内容が濃い授業で、わかったつもりではあるけれど消化不良のまま腹の中に大きく固まっている状態です。ひとつひとつほぐして、自分に吸収されるかたちに分解するために、時間が必要です。歌のフレージングのリズムは常に均等ではない。そこにうねりが生まれる。拍を打つ瞬間よりわずかに早く入る感覚を磨く。ヴォーカル声は曲のブレイクからビブラートに至るまで一定のリズムに乗っ取って動いている。特に外国のヴォーカリストの歌うスピード感に注意して聞いてみる。例えばF-1のスピードでカーブを曲がる(コントロールする)場合にF-1ドライバーはコース全体を頭に入れている(描いている)からスムーズに行える。一曲全体のイメージにつながるワンフレーズになっているか。

 

「リラックスすればホームランが打てるか」という、まさにそれなんだ。まず足して足して、そこから余分なものを引いていく。もつと多くの攻撃パターン、コンビネーションを試してみるべきだ。あらゆる角度からパンチが撃てることができて始めて得意の必殺パンチが活きる。必殺パンチがあればの話だが…。声で表現する、していたかという点でもまったくできていなかったろう。たとえ大きなアクションをつけずに、淡々と語るにせよ、気持ちをともなわせて深く伝えようとすれば、おのずと息が必要になるだろう。今日はからだも棒立ち。全然使えていなかった。棒立ち⇔棒読み、つながりがありそうだ。

 

もっと厳密によりわける作業を耳と体の中でしてゆく必要があると思う。音楽や音声は自分の体の中のリズムや呼吸に合っているものを出してゆくものであるが、そこのところの選別作業に甘えやマンネリ、自分の出しているものへの客観的なチェックの不足があるとたぶん似て非なる方向に行ってしまう。目的をきちんと(仮定でも暫定でも)持って、そことの間へ不足しているものや必要な要素を盛り込んでゆく。、

 

イメージとしては手縫いで2枚を縫い合わせる作業をしてゆくとき(長い距離を縫うとき)まち針を打つようなものだろうか。2枚の布も必ずしも同じ材質や長さではない。まち針というあるポイントまで進むには、針を持つ手にも、布を調節する左手にもそれぞれのポイントまでの間のこと、そこに焦点が合うようにの逆算が一針一針に必要になる。どのへんまでどのくらいの強さ(結構肝心)で縫ってゆくか、どんな糸がいいか、どの縫い方が目的に合っているか、ぴたりとおさまるか。もっとも表現ということでは不測の条件は必要だろうが、基本としての、押さえるべき焦点への目的意識がないと一つのものにならない。、

 

話しとかはもちろん学びにつながったけど、グレードの上の人達の取り組み方や態度を肌で感した。だって、アドバイザーの人とかもいるんだもん。びっくりだ。オレが教わった人も一緒に学ぼうとしてる。ああ、ここはそういう所だ。レベルは違うけれど同じ状況から数々を得ようとするもの、一つでも何とかして得ようとするものさまざまだ。そしてなんとリラックスしている人の多いことだろう。アーティストってゆうか、グレードが上なら当然だろうがそれを肌で感じれたのが大きい。こんなに動いていいんだって思うようにやっていいんだって。入門の人達ばかりの授業ではそう得られないように思う。人のやり方というのがみれた。得たものの一つがこれかな。まだあるような、ないような。

 

やったことはフレーズを聞いてそれを次々にうたっていくということ。大事なことは、要は感覚で捉えそれを自分の感覚に変えて音声で表現するってこと。らしい。それを意識してやろうとすると困難の度合いが身にしみる。何故ってまず捉えることもできていないってこと、つまりきけてないのだと思う。そしてね、自分の感覚てナニヨ?それが、あるって確信的なものがなきゃダメでしょ。

オレなんかここをこうしてみようとか、弱くとか強くとか小さくとかのばすとか切るとか音ちょっと変えたらどうかとかってまさに計算的。感覚の世界じゃないよ。音ってさ。見えないし、書けないし、どこに存在してるかもあいまいなものでしょ。美しくふるえた空気みたいに。一瞬。時ととけあってる。そんな宇宙みたいな不思議なもの、計算で操れる気がしない。一つの手としてはあるかもしれないけどね。自分の感覚すら定かではない。歌が上手くてもそれがついてないと悲劇というものだろう。なぜか深みがない。思い出のラブソングなんてものにはなりにくいんじゃないかって思う。

 

いい曲がたくさんでている。それをみんな秀でた外人ボーカリストに歌わせたら大ヒット名曲になる曲だってたくさんあるはずだ。そんな名曲をさ、もったいないよね。ちょっとアイドルなんかにあてがうのはさ。オレはね。作曲については別に日本は外国より、劣っているってことはないみたい。歌みたいに。そう、それで話を戻すと、オレはいい声だそうと、大きく出そうと形にはしょうってことで音とろうってことで精一杯。最後の方はようやくやりたいようにできはじめたけど計算づくし。

あとやったのは、フランス語かなんかの歌の日本語の歌詞が書いてあって、その歌詞を好きに自分で当てはめていくというやつ。前にも似たのをやった。一通りはできたけど、アカペラではまずムリ。足りないのはリズム感とそれに歌詞を乗せていくという独特の感覚、そしてそれらのもとを感じとり聞き取る感覚と耳。足りないものばかりだ。でもそれを知ったせいで気が切迫してきた、やらなきゃならないことの多さに気付いただけでもいい時間といえた。

 

歌は「自分」の象徴だと思う。だから、それはすぐにわかってしまう。どんなに感情を込めようとしても、どんなに一生懸命やっていても、それはまだまだ余裕のある状態でやっているからわざとらしいし、伝わらない。自分は一生懸命やってるんだと思い込んでいるだけなのしょう。自分をもっともっと極限まで追いつめないと…。いつかは事前に内にあるものをとりだせるようになる。しかし、そうなるために、今は自分で自分をどん底までたたき落として、そのもがいている中で始めて何かがつかめるのだと思う。ふとした時にわかる時もあるけど、それは毎日毎日つきつめてやっていて、そういう開ける時にでくわす。たった今は、自分がちゃんと進んでいっているのかよくわからないし、求めるものと現実とのギャップの中、ジレンマに落ち込んで不安定でしょうがないけれど、求めるものがあるのだからやっていこう。

 

先生の声を聞くたびにすごいなと思ってしまう。とても安定したすごく落ち着いた声。うしろ向きに話していてもちゃんと聞こえる。先生の言うこともすごく納得してしまう。あたりまえだけれど、私よりずーっとずーっと前から音楽と一緒で、体をつくり、声をつくり、また、様々な世界を見て、先生の世界というものを築いてこられたのだなあといろいろ思うことがあります。

 

今日のレッスンはとてもたくさん人がいて、そのたくさんの人の中に私がいて。そしたら、そこで「私」をきづいてもらい、また私が場の雰囲気を変えようと思っていても、そうならない自分にどうしようもなく、イヤになってしまう。まだまだ音に入り込めていない自分、体のなさ、ことばそのものの力の宿る声のなさ、つめの甘い自分を感じずにはいられません。そしたらどうするか。求めるものの為にはどうしたらいいのか、追求し、追求し、全力で取り組んでいくしかないのです。

 

知っている顔が増えたせいか、ステージ実習1の時のような緊張感がうすれてきたように思う。「なかなか良かったですよ」なんて会話がなされているのを端から見て、なんだかなと思ってしまう。自分の歌の評価は結局自分がするしかないと思うので(他人の評価がどうであれ)他の人の歌の評価は口に出して言うまいと思った。どうしても迎合したことばが混じってしまうので。

 

せっぱつまった、ギリギリの感覚。言わずにはいられない、歌わずにはいられない感情。自分の歌っている歌が本能のままの自分の肉体から発せられているものなのか、今一度間うてみる事だ。ただ気持ちだけが先走りそれが歌として出ていなければしょうがない。そのためにはそれを表現するだけの基礎的な事、技量が必要となってくる。その音の細部にまで神経をゆき渡らせなければならない。そうするためにはどうしたらよいかと考えれば課題が次から次へと出てくるはずだし、その課題への取り組み方にも慎重にならなければならない。こんな事はいまさらここで甘くまでもない事かもしれないが恥ずかしながら私にはかなり欠けている点である。その事柄に対してどれだけ自分が素直な気持ちで向き合うことができるのか。私にとって重要な問題。本当に心からのってるの?心から叫んでいるの?あらゆる疑問の礫が私に投げつけられる。それはもう自分の中の問題であるから当然自分で処理していかなければならない事。かといって体がガチガチになりっぱなしでは体力ももたないしある程度の柔軟性も必要なのだろうか。それにしても音楽をことばで表現するのは難しい。

 

本当はこういいたいんだけどうまくことばにならないことが多い。間違ってとられたくないし…と思うともうことばにつまってしまうか無意味にだらだらとことばを並べてしまったり…。ことばって難しいですね…。そういえば今日は“暗い”という類の曲をいろいろ聞いたのですが、普段私は実はのりのよい曲を聞く方が多い。というのもそういう曲を聞くと暗くなってしまうからという理由があったのだが、今日のレッスンにでてみて本当に心から暗くなっているか疑問に思った。ただ感覚的なものだけにすぎないと思う。昨日も先生がおっしゃっていたが、ここですでに私は先入観を持ってしまっているということだ。自分の中の壊さなければいけないものがまだまだありそうだ。

 

ジムで危険だなと思ったのは声を出しているとやった気になってしまう事。ここでは流れて最後までいくのが目的ではない。これだけの疑問をもつという事は結局できていないという事なのだからそれを頭に置き原点に戻って自分がどういう状態で発声しているのかという事をもっと感じなければならないと思った。

 

表現の欠乏、感受性の欠乏が改めて大問題になりました。もちろん“声”の勉強をしているのですが、それが押し寄せてきて、“歌を歌っている”のではなく“声を出してる”だけになってきているという、デンジャラス・タイムです。ヴォイストレーニングと歌がごちゃ混ぜで、わからなくなり、自分の声、歌を録りまくって、悪いところ(歌になっていないところ)と、良いところ(歌になるところ。自分の声のポイントのところ)などPickUpし、少しずる、何か、暴かれてきたようにおもう。

 

自分が適当にソルフェージュを歌ったとして、その時出てくるメロディーが割と、バックで古めかしい音楽がなってる感じ、何か、自分のリズムみたいなものがある事に気づいた。声が少しずつ出てくるようになると、意外な発見がある。それがワルツだったりして、じゃあシャンソンをもうちょっと聞いてみようかなーとか、それに、何と言っても、(オーケストラ)クラシック(映画音楽にもハマッていますが、特に映像を知ってるものは、心に入ってくる。音楽に入り込める。)を改めて聞くようになった。抑揚とか、組曲になると、そのシーンごとの表現(演奏にしてもオペラにしても)や、曲作りのされ方など、とっても勉強になる。というか、今、身体は、それを求めているらしい。

 

何もない自分を知る気づくた為のレッスン。何も無いことに気づくということは全然気づかないよりましだけど、気づいただけじゃなんにもならない。そこから動かなくちゃ自分の生きたいところへたどり着かなくちゃ何も気づいていない。わかっていないのと同じ。

 

コメントを聞いてビックリ!!「声」は心の状態がそのまんまあらわれるということをまたまた実感させられた瞬間でした。「体は出したがってるのに自分で邪魔してる」ここのところ現在の生活とか、この先のこととか、自分は今どうしたいのか何をすべきなのかetc…。うだうだと考え込んでいて、まだまだ余計なものをたくさんたくさんひっつけているなぁと思いながら1日が過ぎています。きっと無意識のところではちゃんとしたこたえみたいなものがあるのに、あーだこーだと逃げ道を作ってわざわざ遠回りしている。すごくもどかしい。がー、すべて自分の中で起こっていることなんだ。他人のせいにしたりかんきょうのせいにしたり都合よく考えようとしても、全部自分で思いこんでがんじがらめにしているんだ。余計なことばっかり考えて邪魔してしまうこの頭がカポッととりはずせればいいのに…。でも、取り外せなくてもスイッチを切ることぐらいはできると思うようになってきました。何が何だかわからなくなったら、とりあえず呼吸をしていることだけで幸せな情愛にもどってみようと思います。そして、自分に起こっていることを客観的に観察してみようと思います。

 

私は自分の声というものがこんなに勢いよく出るとは思わなかった。発声する時、歌う時上半身がかたまってしまうのはわかっているのだけど声を出さねばという意識がそうさせてしまうのだと思う。上半身を動かしながら声を出していたら自分の声が生き物みたいに体から飛び出していって限りなく出るような気になった。ピアノの音程とかは意識になく自分のからだの感覚だけで声を出していたように思う。思うという言い方は何だか変だけど実際考えるとか意識するということが全くなく体がやったことと思っている。純粋に声を出すということはこんなに楽しいことなのだ。

 

音が、自分の中にすんなりと入ってこないことにはイメージは湧いてこない。音楽を聞いてしぜんに自分だったらこうしたいというものが出てくるようにならないと。(体と耳が同時にできてくるとわかってくるのだけれど、何としても把握する)

 

「できているできていないの問題ではなくて、本人の意志の問題で、自分がどうやりたいのかどううごかしたいのかその意志がでてこないとダメ」という先生のお話だった。

最近特に感じるのは、伸びる人、伸びない人というのがどの世界においても存在するが何故そうなるのだろう?と考えるとそのポイントは、気づくことにあると思う。伸びない人というのは目標が漠然としていて、何をどうしていったらよいのかというポイントをつかんでいないのだと思う。

目標はハッキリしていてもそのための対策として何をどうしていくべきかこれがものすごく大切でそれをできるだけ具体的に挙げてそれを実行しそれが正しく効果を出しているか厳しくチェックし反省し謝っていれば対策を修正する。それを面倒に思わず実行することによって他の人よりも無駄な事(トレーニング)をしなくなるのだと思う。そのチェックする行動の大切さに気づけるかどうかで伸びる伸びないが決まってくるように最近は思う。

 

何かしようとしないで自然体で表現するとおっしゃったが、やはり表現する意志や自分の感じたものを盛り込む作業をしないとダメだと思う。課題をやらされてるという感じがやはり出てしまっている気がする。できる、できないは別として表現する意志が前に出ないと、いくらこの練習を続けても進歩はないと思う。

 

時間という空気を手で掻いて、容易にすり抜けようとした。いわゆる逃げたいと思っている。自分を確立させようと。うたえる海に着いたのに。なぜか心が抓られるよう。早く深呼吸の出来る場所を、自分の手でつかまえたい。それには、今日の何倍も苦しみたい。体の中からあふれ落ちるほど、歌や音楽、美しいものが入っていない。隙間があるから、現実が入って来て、追っ払えず、何でもない人、普通の人、つまらない人になってしまう。もっといっぱい入れようと思った。

 

何度聞いても、いくら集中して聞こうとしても、どうしても耳コピーできないヴォーカルがあることを知る。(「待ちましょう」ハードロック調のアレンジのもの。誰なのかわからない)声を、まるでギターのフレット上を自由に行ったり来たりするかのようにひずませているので、こちらの耳がついて行かない。音に対する感覚、体の中にある音の種類が違う。彼の音が3次元にあるなら、私のは2次元、という感じ。

 

外国人との音を出すときのイメージの違い。音が上に上がる時体は低いイメージをとっている。今までずっと高音に行く時は心も体も一緒に上がるイメージで過ごしてきた。すっかりその感覚が身についているようだ。言われてみると高音域と低音域でのひびきや質感が変わってしまって一定な音質を感じない。今までしみついてしまったイメージを変え、それを体に覚え込ませることをしなくてはいけない。日本とむこうの人は音のイメージがずいぶん違うんだとしみじみ思った。故に出てくる音も違うのだなと…ことばの違いというのも影響が大きい。

 

自分でやってみると一点に集中してしまって全体的に見ることができないし、おろそかになってしまう部分がでてくる。例えば「オニジョルノ」の一言をとってみてもここで大きくする!という事で頭の中はいっぱい。最初と最後はすでに頭からはずれている。他の人のを聞いているとやはり日本語的なのっぺりとした感じに聞こえてしまった。はぎれがない、リズムがない。フレーズを一つに捉える事が難しい。まずそれがイメージできない。外国の曲は一音がたくさん入っていたりするのだが、それを聞いた時音として捉えるよりまず何を言っているのかとことばを一つ一つ明らかにしたいという聞き方のくせがあるという事に気づいた。そうするとその時点で一つのフレーズがバラバラになってしまう。正しいイメージを作るためにも聞き方も変えなくてはいけないなと思った。

 

先生に講師やアドバイザーの使い方が悪いと言われて、その通りだと思った。アドバイザーに頼るとか、教えてもらうとかそういうことではなくて、自分が最高のものを出して、アドバイザーをあおれるぐらいになって良い時間を作ろうとしないとダメだと思った。

 

走っている時は体を意識しないという所から(しぜんに体が使われているので)体に覚え込ませる。力を入れる事と抜く事をしないと体がもたなくなってしまう。解放してあげる事も大事。このバランスがたもてないと声ももたない。トレーニング後の体の調整をしてあげないと楽器もこわれてしまう。

 

60分間、腰で支えて声を出すということをやれた。今までも、充分に意識をおいてはやっていた。でも、今までのそれは、声を発する前の腰で支えるための構えを作らずに絞り込む感じだったので、絞ってゆくにつれ不安定になることが多かった。その点に関して、「息を入れて腰を外に出し、吐くとき更に外にふんばる」というアドバイスを参考にして、息、或いは声を出す直に一瞬にして息をためる=構えをつくる)ことをすると、そこを起点にして声をストレートに掴まえ易くなった。声を加工せず、直に出すという感覚に近づき易くなった。

 

今日のようなレッスンは初めてだった。内容は、耳で聞いた事、自分の声で取り出す。こんな単純な事だった。なのにどうしてか今までの中で一番レッスンらしく感じた。正直言って、ことばなんて聞こえてこなかった。それでも、少しでも近づけようとなんとなくにでも感じが出るようにと必死になってた。こんなに歌に集中して聞いた事、今までなかったと思う。それでもハッキリと聞こえてくるものなんてなかった。それが、今のボクの耳なんだと思う。それはそれはガッカリするけど、それでも今日は良かった。自分の聞く力のなさがハッキリとわかった。

 

スタジオに入って音楽が流れていたら、すぐそこに入っていける集中力でレッスンにのぞまなければ意味がない。1フレーズを回していったとき、うわべでなく体で思いっきりやる。そしてそこで自分と本物とどこが違うのか、それをうめるには何をしたらよいのかを理解し、それを日々のトレーニングにしていく。

 

1上のひびきを残したまま、胸にも入れる。体の中が瞬間的に開いて胸から頭まで一体化した感じがした。音は押し出されるのではなく、いくつ音があっても瞬間の中にすべてがはじける感じがした。

2「姿勢」「体が動いて「いる」を踊りなどに合わせて消化していく感覚もある。声を出している内に体が一つに固定していく。声を含めた連続した動きを感じていきたい。一つの音の中に次の音の線をつなげていくこと。これをやるためには、最初に自分の出したい音のイメージがあることが大切だと感じた。出したい音の感覚に体中がなっていることが大切。

 

体と相談しながらやるのがフレージングの練習。体に相談するという発想が自分に無いように思う。サビ、歌いたいところのために歌い手として向かっているか?最初からそのつもりか?フレーズを1つとしてとらえてみた。1つとしてとらえるってなんだろう。〜こういう大きな弧の中に1フレーズをあてはめて考えてきたが、何だか薄っぺらな解釈…と思ったとたん、分からなく見えてきた。

 

ロングブレスは“エス”の音で。ハーでやると音が抜けやすい。エスの“ス”だと抵抗があるのでよい。吸う息は深く、丹田までのイメージ。短い時間で深く吸えるように鍛える。歌うと体がしぜんに息を吸ったり吐いたりできるようになるまで体のバランスやフォームをもっていくこと。声のまとまりについての自分勝手な考察~声の芯があってはじめてそこからまとまりの第一歩なのではないか。声の芯をもっと深く、太く、丸く。意識して意識して吸うこと。(私は特に吸うのが苦手)吸わないと吐けない。日常、胸で呼吸したら自分で罰金ぐらいの気持ちでいること。

 

「構えをつくるというのは別におなかに力を入れるということではない。不しぜんにふくらませたりすことでもない。変に頭で難しく考えすぎている」今日の先生のコメントは目からボロッとうろこが落ちました。強化トレーニングとして行ってきたメニューは確かにわざとおなかをふくらませたりへっこませたり、意識してやってきたので、変なふうに頭にしみついてしまっている。もう一度同じメニューを違った意識で、もっと自然体ということを一番優先してやり直してみようと思う。

 

福島先生に指摘されたことで、もう一度やり直すつもりだったが、全く同じ意識でやり直すのではなくやっぱりそれなりに工夫をしないといけないんだということを感じた。トレーナーの「別に迷うようなことじゃないよ」ということばはとても心強い。いろいろな先生からいろいろな角度で指導してもらっても、それに迷ってあたふたするのではなくて自分の中でしっかりそれぞれを消化したところで行動にうつさないと身(実?)にはならないと思った。何か今日はとても幸せな気分になった。自分がとても贅沢な環境にいるということを感謝したい。 

 

自分が経験によって積み上げてきたものをベースにしてアドバイスをする力はもちろんだけど、自分が通ってこなかったものが教えている人の中からひょっこり出てきた場合の対応の仕方がどうかという点がいい指導者かどうかを問われる一つの要素にもなるのかな……。一流選手が引退後に一流の指導者になるとはかぎらないのって多分そういうことかな。ただし、大大大前提として教わる者の意識がなければ何の意味もないということ。肝に命じておくこと。

 

踏み込んだら、次も一つの線上につなげていく。送り渡していく。先でフレーズを捉える。音をバラバラにしないこと。音が前へ飛んで行かなくなってしまう。伝える=ベタベタさせないこと。音符のまま歌わない、コードの中に何を感じるか。コードでフレーズを作っていく、乗せていく。シャンソンは、そういう意味では優しくもあり逆に難しくもある。

 

息の通り道を感じること。まず仰向けに寝て腰の膨らみを感じるように息吐きを行う。4段階に分けて段階的に息を送り込んでゆく。その逆も行う。それを、体でしっかり感じながら、息の流れを通り道を探る。その後、立ち姿勢になって行う。前傾の方が、身体の動きは感じやすい。寝ている時のトレーニング時に息の道を感じられなかった。普段の息吐きから、腰回りにちゅういを入れてやりすぎていたからか、リラックス「脱力」してやらなかったからだと思う。

 

立ち姿勢に関して、今までずっとどう立てば良いのか分からず、統一できていなかった。今回、教科書通りに、シンプルに戻ってみた。してみると、作らない声で出せている瞬間があった。息がツーと通っで声がいつの間にかついているという感じ。そのまま、音に合わせて昇っていけた。楽だった。でも、下りていく時に(上昇の際途中で止めた音)から入ると、体に力の入った息の流れのない声になってしまった。でも、とりあえずは今日の姿勢でやってみようと思う。

 

その曲を知っているのと自分の体に入っているかとは違う。いかに先入観に左右されて聞いているか。また、知っていても実際自分がやってみると出来ない。音が取れない。音がすっと入ってくる体になっていないということが明らかになる。初歩的なことがでいていない。ハーモニーを感じられるように。何故その音がそこにあるのか、全体の流れからそこに行き着くことを捉える。舞台に立つものは聞いているもの以上の膨大なエネルギーを持っている、出している。

 

最近、自分の過去の「好き嫌い」はあまりあてにならないなと感じる。音楽は自分がその時に体の中に持っているものや欲しているものによって感じ方が違ってくる。今まで退屈だなと思っていたジャンルでも飛び込んでくる音があるし、また自分が好きだと思っていた曲でも全然違った印象を受け新鮮に聞こえる事がある。今まで気がつかなかった音がふと耳に入ったりする。今も全然聞けていないのだが前はもっと聞けていなかったんだと思う。今まで曲を覚えるやり方として先ずはメロディーばかりを追っていた。さらには感想の所など数で数えたりしていた。これはまずいと思う。もっと音楽の全体を見なくてはいけないと思う。流れの中でなぜこの音があるのか、曲が高揚していく感覚をつかむ、取り入れる、曲自体の感情と自分の感情を一致させたい。

 

もっと音楽に対して誠実でありたい。そこにたどり着くまでには自分の中にある固定観念を取り払わなくてはならないし、これが結構くせ者で今まで一緒に過ごしてきてしまったからつきまとってくる。そして基本的な事ができていないということ。キラークイーンを聞いたとき難しいハーモニーだと思ってしまった。結局自分の中にハーモニー・コード感がない。短音で鳴っていてもハーモニーを感じられるようでなければだめ。リズムにしても例えばリズムに合わせて息吐きなどしてもそれがずれていれば声にした時でも戸迂遠リズムは出せない。そういった所からも注意して取り組まなければならないし、もっと体で感じられるようにならなければならない。

 

プロの声は表情豊かだ、どんな顔で歌っているのか、想像がつく。なぜなのか?まず自分の体と呼吸が一致している。あたりまえのこと、いや今となっては、であって、昔は福島先生にそう言われて「そうなのか」と思っていたけれど、実の所、自分の体でそれが判るようになったのは、ずいぶんあとになってからだ。それから、メリハリがきいている点。これも自分に足りないことは充分わかってはいたが、どうメリハリつければいいのか、これもまた、体ではわかっていなかった。そのため、表面的に音量を小さくしてみたり、大きくしてみたりしたが、大きくして、上の方で横に広がっているだけなので(呼吸と不一致であるし、メリハリとは程遠い…という状態だった。そして、前に出ているかどうかということ、これに関しては一時「前に出ていない」ことにも気付いていなかった。

 

何のためにトレーニングしているのか、完全に見失う。恐ろしいことだ。トレーニングのプロのためにトレーニングしているのではない、歌うために、人の前に出て表現するためにトレーニングしているという事を忘れていたときがあった。これは途中で気付いて、自分を必死に変えようといろいろと試み、今やっと少し前に出てきていると思う。結局声の表情を豊かにするためには基本的な所を目的を見失わず、あたりまえのことを「あたりまえ」のように思っているつもりになっていることを、いつもいつも自分に問うて、トレーニングしていくことだと感じました。

 

自分で自分の目をあけなければ見えない。見えていても自分でとらえようとしなければ気付けない。気付いても、見極めようとしないこと、本当の意味では気付けない。本当に気付いてもやらなければ、やれなければ結果は出ない。何も出てこない。何かが出せても、やっとそこからがスタートで、本当の意味での勝負はそこまでのものの何乘にもなってゆく。、

 

線(ライン)の中をころがす。旋律にことばをのせる。はみ出してゆく(感覚ではのせながら)最小の力で最大の効果を常に考える伝わっていたら使っていることになる(最小でも)伝えることを考えたらどうしてゆくかということ。声は入門1で基本をやりながら、大きなものもとらえてゆく。この時自分が読み込めなかったこと、自分が気付かなかったことを気付く。気付けないと実現できない。

ヴォイストレーニングは音楽的に伝えるために特化させてゆくことである。太く広く/細く他、その状態を意識的に取り出せることから、区別しなくても体がしぜんに取り出してこられるところまで持ってゆく。感覚がはたらきいろいろな声をセレクトして使えるようにすること、取り出したいときに取り出せるようにすることができるようになること=ヴォイストレーニングの目的。

歌は感覚によってセレクトされた完成品である。ヴォイストレーニングはセレクトのできる大きな器づくりであり、一つの正しい声息の中で、ミックスしずらしていく。

ミーナのように感覚を優先して体を捨てるようなずらし方もある。感性が成り立つときからだがついてくるようにするそこまで本来としては不しぜんなヴォイストレーニングをやってゆかなくてはいかない。本番で考えたときは失敗している。トレーニングを裏切る方向が歌としては正しいが、しかし体は使えていなくてはならない普段の練習不足が無意識下で、体が使えていない状況になる。ポジションは動いてゆく、感覚は狂いやすいこれを正しくとらえ直せるためのトレーニング。

体だけを元にするのも感覚だけを元にするのも両方が危険なこと。意識が声をともなっている体の力が抜けているが体が使えているように。そこで通用したものからだけそこから先に行ける。常に器を広げ、外側の限界を決めずに拡がってゆけるように、どうやっているのか、どうしたいのかを調整できるように。どうしたいのかの感性のところ(=きいてきたものとオリジナルの部分)を出してゆけるように。今には今しか歌えない歌がある。体にきいてみる。心にきいてみる。人がどう聞いているのかにも耳と心をかたむけてゆく。、

 

“音をつかんでいれば、歌は止まらない”すごくこのことばが残った。キープするとか、呼吸をつかむとか、いつもどの先生もいろいろいうが、つまりはこういう事だと、がっちりと、体が息が声を逃さなければ、声はつかんでいられる、それを話さなければ歌は止まらない。ミーナもビルラも、またトレーナーも何らかの形で共通するものがあると思う。体の強さとかそういう部分だと思うが、今は“これだ”と言えない、わからない。もう一度聞いて研究したい。

 

サビの部分を聞いてから、「このフレーズを聞いて何を気付けるか、自分がやるときに、それをいくつ感じることが出来るか?」正直言って一つも分からなかった。息を吐ききっているとか、一気に戻るとか、情けないくらい何も分からなかった。自分の耳の甘さを痛感した。

 

声を出すとき心がけること喉をあけておこう、喉をあけて吐ききろうとして出す。入ったところを支えにしてまた出す(そうなのか!)とばして放した瞬間に、投げた瞬間に入る(そうなのか!)テキストどれでもいいから一冊読む。いつでも、どこでも、自らの初心であり続けることが難しいからこそ、その最も大事なことを繰り返し伝えてくれる気がしています。

 

「自分のスタイルに気付いたら、足下を固めていけ」というお話が耳に残りました。今の私はといえば、自分のスタイルというものに漠然と気付き始めているのだが、それがあまり気に入らないので、もっと別の自分が出てくるのを待っている状態。“出す”ためには“入れ”なければならない。

 

人の声というものはここまで圧倒させる威力を持っているものなのかとトレーナーの歌を聞いて驚くばかりだった。どうしてあんな風に音を動かせて音を保てるのだろう。私があまりにもすごいと思うことでも先生にとってはあたりまえの事であって何を基準にしているのかが全然違うのだなという事。その人にはそれぞれ自分の世界があってそれで作られていく生まれていくもので、それで自分におきかるとはっきりしないところがあってこの状態では何をやってみても生まれない。一番大切なものが欠けている。

 

正しい声があるという事ではなく、正しく声を使う。声には良い悪いがあるのではない。一人の中に100通りとかのこえがあり、それをどう取り出せるか。どうコントロールして出せるかということ。といっても絶対的に良くない声は直してゆく。取り出す声が100回同じ様に出せるか、そうでないかが、判断の目安にしてもよい。(「ハイ」を一人ずつまわす)~喉から上で鳴っているイメージではダメ。深くとってゆく。やってみた時体に不しぜんさが出ていれば(どこか変に動いている)おかしいということ。

 

歌の大切な所とは、最初に声や歌の後ろからきこえてくるものである。そのためには、1自分の声をきっちと把握すること2自分の声を作らないこと3体をしぜんにすること。まだ、体がバラバラになっている。自分の判断でやる。1234の積み重ねでもなく、10のことをやってみて伸ばしていくこと。最小の力で、最大の効果が出せるようにすることが目標でもある。

 

練り込みとは、例えば、「セ・シ・ボン」の所を「ハイハイ・ハイ」から「ハイ・ハー・ラー」とかでトレーニングしてゆくことである。まずは体からとってゆくこと。力を抜いて小さい声で「ハァー」と言ってみて、楽に吐けていると感じるならば、自分の体はここまでしか体は出来ていないと思うこと。息だけを出していて、そこにしぜんに声にするのが本当である。そうするために、いろんな条件を整えてゆくこと。(集中。脱力。体作り。柔軟。ウォーミングアップ。etc.)

 

個人の「ハイ」チェックにて〜「ハイ」となっている。アゴ使いすぎ。外に出しすぎ。息広がっているので、息を縦にとること。楽にしぜんに出すこと。などとアドバイス頂く。「ハイ」を言ってみて、少しずつは言えてきてるという手応えは感じ、先生に言われていることが分かるようになってきてるということも思った。一回一回いろいろな出し方をしていて、全然一つの安定した「ハイ」と出ていないと痛感した。体づくりと息吐きがまだまだ足りないとわかる。また、体を90度前に曲げてこうなのだから、まっすぐ立ってはとうていできないということ。体の動きをもっと確認しながらトレーニングをしてゆかなければならない。というのが一番印象に残る。どんな声の出し方でも、100回出せて、使えるかがポップスの大事なところと言うこと。

 

自分で“線を出していく”こと。10の力をイメージの中では70.80…100で取っていくこと。オリジナルのフレーズについて考えなければいけない要素はいくつもある。基本を置いてその上に自分の色をのせていく。いろいろな置き方がある。今は音程の世界でしか聞こえてこない。音を切らないこと、フレーズの大きさは保つこと。何年後にはこう歌う、というのを見えておく。感覚で全体をとっていく流れルールからはずれない、聞いてる人があきるようではダメ。盛り上がって“どこへ行く?"と思っても必ず戻ってくる。ある意味、音楽ではなく、聞こえさせる。でも作ってはだめ。センスを磨くこと、問題があることに気付くこと。高い方が盛り上げられてもこういう低いところが持たないとすべてがむちゃくちゃになる。

 

最近はイメージングが重要だとすごく痛感しています。これなくしては、歌は歌えないだろうと思います。だからしっかりイメージを描けるようになりたいと思います。そしてビッチを整えようとして、自分の声を聞いて、ピッチをあわせていたんではいつまでも不安定のままでしょう。そうじゃなく、すべてイメージングの中で行う自分の体の感覚で処理する。それをこれからの課題として、やっていこうと思います。今まで、やって来なかったものを、やってゆかなければ、進歩はないと思います。そして、世界の一流の見本、一流のものを徹底して聞くこと、そのイメージが心に残るまで聞くこと、とにかくヴォーカルを追いかけること、そして明確にそのイメージ・コード感が描けるくらいに集中して聞く。

 

ナチュラルヴォイスの発見「ハイ」と言う寸前にどこに余計な力が入るか自分で確認できるようにすること。ナチュラルヴォイスはぶっきらぼうな声というイメージ。

・喉が開く支えがある(声を出すこと)。「ハイ」「ラオ」「ララ」でもはじめの「ハイ」の「イ」で喉が閉まるのが普通であるが、そこを開かないと次の「ラオ」へ入れない。

 

もっと声を聞くこと。もっといろいろ体を使い分けてみること。正しいと思ってることのすべてが正しいわけではないし、間違ってるっておもってる事のすべてが間違ってるわけではない。私の声と先生の声の違いをただ漠然と“違っている”でかたずけないこと。参考になるものは徹底的に利用すること。もっとじぶんでためすこと。

 

自分の意識が甘すぎてた。自分に自信を持つこと。他のみんなから違うよって言われてもすぐにそれをうのみにしないこと。自分が納得するまでつきつめること。自信がないのは、つきつめが甘いから。ムリに私は正しいって思いこまないで、つきつめた事から私は正しいって、思うようにすること。思いこみの強さは自分を傷つけるだけ。

 

声を出す前に息の準備をすること。息が深く入ってくる感覚をつかむために一度息をはききってしまいしぜんに体の中に息が入ってくる感覚を覚える。この呼吸の流れに従って声をのせていく。息のタイミングのよい時と悪いときの自分の声の違いを感じとっていかければならない。使う息の量は必要最小限。使いすぎてもだめ。効率よく使う。

 

よく、先生が「声にするのが早すぎる」とおっしゃっていたが、本当にそうだと自覚した。大きな声を出そうとか、声を出すことを急いで、自分の中に充分に溜めて出せていない。感覚的には出すというよりも、溜める感覚だった。過去の自分の一番良かった時を思い出すと。充分に待つということができずに出してしまうから、力が先攻した、深みのない音になるんだと思う。音質が明らかに違う。溜めて出さないと踏ん張れないし。深さ、キャパシティ、プロにしても、ここが違くて私が欲しいものは、それで、だからトレーニングをしている。コントロールができる。そしてその範囲が広いということ。すべてをコントロールするというか。

 

この授業に出て、この場に立つと、自分の中の優劣が(過去のものを全部含めて)急にものすごくはっきりとわかる。こうじゃない、こうではない!やっぱり誰よりも自分が感覚の違いを感じる。ひとつは、体。息。声のタイミングが違うんじゃないだろうか。声にするタイミング。今の方が、何だか不しぜんだ。また、ひびきに逃げ気味じゃないだろうか?芯の部分が弱くなっていないか。「ハイッ!」と言いきることすら、充分に芯が体に縦に深いところに入りきってなかった。力先攻、溜められてない、上のひびきだけ。以前は「ハイッ!」で常にしっかり入れられたのに!!ショックだった。その一方で、体、声はあると、私も認める人のフレーズが発声的にはいいけど、ちっとも良くないのを感じて考えさせられた。おそらく彼女も私同様、発声のことに集中してしまって、歌を歌えていないんだと思う。人のを聞くと「そこまで全部強く言う必要ないのに」と思う。「それは発声だよ」と。まさに他人のふりみて…である。

 

最近の自分のトレーニングに何かが足りないと思っていたが、それが何かを思い出した。それは“怒り”だ。これはどうして自分はこんなに出来ないのかという怒りだ。自分は少々“怒り”があったほうが、集中出きるしやる気も出てきて、変な感じだがリラックスもできる。

よくスポーツ選手が試合前に集中しようとして他の人が近づけないほどのものを出すことがあるというが、自分もそのタイプだと思う。今日感じたくやしさを忘れずに、100倍にしてお返ししてやると思いながらトレーニングしていきたい。

 

自分の弱点はガーと出して声になるし、よく現れる。雑になるし、体から離れてのど声になるし、冷静になれないし。自分の今の声を壊したい。すべて捨てて、また1から「ハイ」からできるように作っていきたい。それが出来たら、「ハイラララ」「ハイアオイ」と納得できるものが出来たら、それを捨ててもう一度はじめから。

 

今日福島先生の「ハイ」がとてつもなく深くて、同時にするどくて切れがあって、それでいて包み込むような力があるという事がわかった。今ではただ漠然と深いものだと思っていたが、今日はじんじんと心に響いた。

 

素直なところでやってゆくこと。ex.見る。感じる。平面を表現する。写実よりもそれとして見るものに見える。デッサン(絵)。歌も同じ音声としての表現。そのもののフォルム(模倣と言うよりマネ)よりも自分の中で感じたものを音の世界で音声で表現してゆく。本質を捉える。自分の大切な時間を費やすトレーニングならもっと意味のある時間を得る。出ているだけ。たくさん出ていても内容に対して自分の精一杯(今/瞬間瞬間のベスト/本質への渇望/トレーニングと表現の位置づけ…etc.)をつくさなければ、いくら積み上げても0でしかない。

テンションを得る、曲の持つパワーを写し取っていく中で、自分自身のものとして変換する力のなさ。自分のものとして音楽を表現してこなかったことに改めて気付く。いいものには出会えてきたかも知れない。聞く機会にも恵まれてきたかも知れない。ただ演る時私は、こんなにいい音楽が、曲が、この曲に対しての音があるよとおすすめ紹介していただけだったのだろう。そのアーティストに対して、聞き手としての敬愛を示してきたに過ぎない。だから与えられるもの、表現されたものとしての聞き方、人のものは批評できても、自分で表現する事や自分自身の体の中も自分をあえて出せるためでなく、形をまねるために動かしてきた。自分を表現しようとした時、力みかえるのは、自分を出す事への不安なのだろうか。、

 

前屈姿勢で「ハイ」のチェックをしていただいて初めて自分なりに正しい声の感覚をつかんだ気がする。それはまるでおなかの中から声を落っことしたような感覚で「あっしまった声を下に落としちゃった」というようなまるで落とし物が下にストンと真っ直ぐに落ちた感じだった。あまりにも簡単に楽にしぜんに出たので、私は一体何をしてたんだろうと思って、驚きとうれしさと同時にとてもショックでもあった。これがトレーナーの言ってた泉から湧き出る水のように出る声なのだろうか、たりない一滴ということか。毎日声をしぜんに体を使って出そうとしていたが、そして感覚をつかもうとしていたが、すべてムダだったということか?確かにどうやっても体のどこかに力が入っていてどれも満足のいく声ではなかった。先生がいぜん言っていた100やってできたものを完全にいつでもどこでもできるよう完璧にしておくこと、とおっしゃってた意味を大切にしたい。

 

どんな音程でもどんなスピードでも、自分の呼吸をすべて一本に丁寧につなげていくことを心がけること。表面上の体裁にとらわれすぎず、体の中身をつなげていくこと。30分の間には、いろいろな山がある。最初からフルに出し切ることを目指すのでなく、いつも今の位置から丁寧につなげていく、身体の中心で捉える。

 

息と体をもっと一体化させて、ボリュームを作っていく。まだ、ボリュームのある声のイメージがしっかり体に入っていない。あごがまだ出る。「い」の音がまだ全然捉えられていない。つかめる鍵がまだ見つからない。出したい声のイメージが明確でない。「今なんなのか、どうなのか」これをつかめてないと、本当の統一は得られないと思う。

 

音楽を聞くにも、声を出すにも感じることが大切だということ。繰り返しやっていくことが必要だけど必ず慣れて甘くなるところが出てくる。そうすると感じることに関しても鈍感になってゆく。繰り返しの中で慣れずにいるには常に新鮮な気持ちでぶつかってゆかなければならない。聞いていれば、息を吐いていれば、アテンダンスをかいていればという考えはないけどそうなっている自分がいるといことも確か。気を付けろ!

 

前に出ている自分を後ろから見ているときの距離のあけ方が問題。イメージで体を決めつけない。頭で考えたら体は遅れる。つに捉える。ひとつの方向に展開する(集中力が必要)楽器として反映されているか・表現力のなさを声のせいにはでいない。やってみる。やれない。できるところまで戻るフレーズを捉える時点で焦点がぼやけている。ポイントを集中させれば自ずとその前後は開けるようになるはず。結局クセも個性も自分の捉え方。

 

自分でイヤだと思うところは直し、欲しい部分は取り入れるようにする。そこを煮詰めれば方向性は決まってくる。ことばで言いきることで勢いを作るという感覚はわかりかけてきている。(コントロールはまだまだできない)「死にもの狂いでやっている人に対してはぶしつけなことは言えない」ということばを聞いて、自分の状態について考えた。

「死にもの狂いでやっている人はぶしつけなことを言われても動じない」と考えるととても自分は「死にもの狂い」にはなり切れていない。やろうとすればできるのにやっていない事が多すぎる。そこを突かれると今の所何も言えない。

 

ポジションの動かなさ。ゆるぎないテンポ感/声とグルーヴ。普通に聞こえるという事の凄さ。共通のものを取り出しておいて、普通に聞こえるというのは、完成度の高いものということで、本質を取り出しているという事。本物に近い。アーチストの中の本物/本質。奇をてらわなくてもそれの香りが出せる。ポジションの中での自由度。これは大変なことだ。自分はポジションをキープするためにそのことだけに全身の能力が手いっぱいになってしまう。

あ、ずれた、あ、ここがあさくなった、あ、上に上がったなどということの修整に終始してしまう。彼女の歌の中、または多くの一流の歌い手の中ではそこが踏み板で、軸足ポイント(支点)であるだけだ。それが確実であるために、それはそれは自由に様々なものを繰り出せる。保ち、放ち、ゆらし、沈め、爆発させ、でも彼女自分としての本質が源であるというところから、離れはしない。自分に置き換えてみたとき思うことは、いつもじぶんは2通り前後のやり方…というかやり様しかないということだ。ポイントとしての支点を守るがあまり、音色としての自由度を全く失うか、変な自由度というか“はなしてやる”ことを中途半端な理解でやるためのまねや自己満足や感情移入過多になり支点を失うかだ。ほんと共存出来ないものかと思う。、

 

声がそんなにでないプロが歌っている歌をいい声とか、よくでる声で歌って通用するものではない。声の他にもいっぱいやることがあって、その中の1つでも通用するものがあればプロとしてやっていける。ということは頭では分かっているつもりだったが、心のどこかで、声が出れば何とかなるとか思っていたかも知れない。

 

頭で考えるのでなく、体で覚えなくてはいけない。ヴォイストレーニングは音楽の中ではスポーツと思ってやる。息を吐くときに姿勢を崩さないこと。声は息の流れに乗せて前に出すこと。下の方に出さない。今トレーニングしていることが5年後とか10年後とかに表れる世界。

 

アーティストによって、ことばの捉え方、流し方、つかみ方、それに伴う間の取り方、違っておもしろい。歌の世界ががらりと変わってしまう。解釈とか思い入れとかいうことばでは表すことの出来ないもっと素直な生のことば、生の気持ちが伝わってくる。おそらくそれは、深く正しい発声によってはじめて表出されるものなのだろう。時を心に入れる、取り込むというより、体を感受性で吸収して細胞や血にしていくこと。また、鍛えられた体によって、細胞や血がぬくもりを供えて具現化されること。そんなことを感じた。

 

今まで取り込む感性やスポンジのように吸収する集中力(緩んだ)は、表出する力、エネルギー(鍛えた体)とは別のものと思っていたが、同じなのかも知れないと何となく思い出した。そして、そんな正しい発声から“美しく魅力的な血の通った音色”が出てくるのだろう。複式発声と音色の考え方も、同一だろうと思ってはいても、どこか統一感の取れないときもある。技術は必要、しかし、気持ちがその音色を生み出すものだろうと思っているところもあり、その辺のバランスが難しい。気持ちが(例えば子供に話しかけるとき)優しくなって、優しい音色が出てきたとき、それがブロとして磨かれ鍛えられたものであることが理想なのかななどと考えた。

 

今日は得ることが多く、すっきりした感じで気分が良く帰れた。何が何だか分からないまま授業に出ていて不安が多かったが、授業を受ける生徒側の立場になっていろいろおっしゃってくれて、不安が吹っ飛んだ気がした。発声も、あってるか間違ってるかでなく、イメージして自分で見つけていくことの大切さを分かった気がする。最初はわからなくていい、すぐにわかるもんじゃないとおっしゃったとき、焦っていた自分が凄い解放された気がした。

 

息吐きをして(ハー)(ハー)(ハー)空気を取り入れるとき「カッ」と舌根を下げることで息の通り道が出来る感覚が良く分かった。のどは固定されたものでそこを空気が出たり入ったりしているだけ。呼吸のリズム(流れ)を止めてはいけない。息を吸うときはしぜんに行うことお尻の方まで空気が入ったのを感じること。そして息を押し出す。のどがしまってくると声は当然口先になってくる。口の中で操作してもだめ。上半身をリラックスして息の出し入れに集中する。

 

リズムがあったら、そこにフレーズをどう巻いていくか、テンションの方向性と声が一致していない。メリハリとは気持ちの抑揚、気持ちのピーク(⇔声のピーク⇔からだのピーク)。70年代は声の中にリズムを入れていた。コントロールできるかどうか、声が大きいとか小さいとかということではない。個を伝えてもしょうがない。何が言いたいのか。歌い上げて、それで?どうしたいのか?今の自分に一番欠けているところ。感覚・それを受け止めたか。からだそれをどう出すか、技術。その感覚、感性をみがくためにいい音楽を聞きなさい。何の目的のために体を鍛えているか。一つの独立した世界を作れば誰も何もいわなくなる。しかし、それを持続させるものは何か?歌いたいことを歌いたいように歌う。そのための技術。ことばの世界をいかに音の世界にするか。ことばの読み込みの重要性。技術でカバー出来るのは1割か2割。

 

いろんな線がある。絵(音楽、映画,歌、文学、芸術すべて)この人間が何を見てこの絵のタッチにしたか。伝えたい心が先にある。それをどう出すか、どう出せば効果的か、3分間ずっと一生懸命ということではない。そこに表現が宿ってくる。芝居と一緒だ!!気持ちを表すことば。それに音を乗せる。より効果的にするために。声、歌にリズムが入っていない、だから出てこない。声が落ち着くところに落ちついていない。これは居心地が悪い。浮いた浅い声になっているせいだと思う。イメージの線をまず描く。その通りに歌おうとする。どこができたか、どこが出来なかったか。出だしの音は完全にイメージしないと浮いたり、高い音になったりする。なぜこの線はこの線なのか、後でどんな線に発展するのか、どんな線のためにこの線があるのか。息をコントロールできないから、ただ勢いよく出すだけというフレーズしか描けない。体を充分使って小さい声が出せない。もっと乾いた声を出したい。よりしぜん(あるがまま)というものを表現するために。

 

今日は発声がどうとか、どの声がいいかとか声がどのとか、そういうことを考えずに見本の歌を聞いてそれをいかに表に出すか、そのことばをいかによりよく表に取り出すかということに意識を集中させてレッスンに臨んだ。それが良かったのか、いつもよりマシなことができた。線があるということ、その線をはっきりイメージして歌うということ、そのためにはやはりからだが一致していなければならないということ、体が先にあるのではないということ、心とからだは同時で、一つのものだということを体験した。からだは必要だ。しかし、トレーニングのためのトレーニングでは最も大切なことができなくなる。最も大切なものを大切に扱うために体を鍛えよう。

 

「歌いたいことを歌いたいように歌えばよい。勝手に難しくしない」「自分が聞き取った感覚をそのまま体と気持ちを一致させて出す」「カを入れるのが説得力ではない」頭で考えれば考えるほど、すべてにブレーキがかかることを実感した。

 

よく聞いてみると意外とみんな最後を伸ばしていないのに気がつくことがあります。彼らは、空気を聞かせているのですね。最適な判断を下すことが出来るようになりたいです。

 

絶叫しなくても出せるテンション。全面にそして前面に表現する。かえってこれによって“出したら出せない”状態になる。声をあててゆかない。全体の中でこらえる。一つとして捉える。客に伝えることは100倍、200倍の出していくものが必要となる。気付いたこと、課題(自分の弱点など)息を使って自分の声でやっていく。客に伝えたい気持ち。好きな人にいい自分を見せたいような想い。一番今の時点でいい自分を見せる。普通に歌うこと。シンプルに伝わる。

 

上面だけのものはうそ。自分で取り出して、自分で両手いっぱいに抱えて、聞き手の目の前に「ほら見て!見て!見て!」とおしつけていく。共感を得るべくもない自分の楽なやり方、自分にしかわからないような、または使い古されたやり方で並べて。伝えるのは何のために、誰のために、何を?というあの問いが自分に向けられる。やればやる程自分を見つめれば見つめる程わからなくなってくる。今の自分にとって声を出すこと、歌うことは「すいません、ちょっと耳ふさいでて下さい。少しの間「歌いますから」に近くなっている。へんなところにはまっているのか。正しい通過点なのか。、

 

凄く精神的にしんどい授業だったが、充実した内容だった。しんどかったのは、ワンフレーズが次から次へと出てきて、そこにイメージを持ってくるのが大仕事だった。“気持ちのピークをフレーズに入れる”とは、その感情をイメージして、その気持ちになり、それを、そのままではなく、歌として伝えるという難しさがある。歌一曲を歌うということの大変さが、また身にしみる。そして、特に聞かせどころへの執念の取り出し方は、まだまだ足りないし、そのための体力がまだまだ足りない。自分の声はなかなかわかりにくく、全体的にヴォリュームは上がってきているとは思うが、それでもそれは自分だけで、実は平べったく聞こえるというのも体力だと感じる。それは、始めの1音をハッキリと強く始められないところにもある。

 

“原点へ”もう、「お勉強」の歌は歌いたくない。もう「やらされる」歌は歌いたくない。「私」が死んでる。私の心を、私の思いを、思いきりぶつけるための手段が、私であるための場所が、自分で自分を追い込んだ。決めつけて、手かせ足かせ、勝手につけてった。「バカ」がつくストイックさが。ふと気がつけば私の中からは一曲の歌も出てこない。詞も一年も書いていない。鳴ってたはずの音楽も何も聞こえない。これはどうしたことか!?「私」が死んだ!?すべてを忘れて、伝えたかった気持ちに戻りたい。何故歌いたかったのか、というところに。自分がいない、生きた自分の血を、肉を感じない、ただの「お歌」になるのなら私はもう歌をやめる。ロボットのようにただ歌うならばやめる。あぁ、私は、私のすべてを賭けた歌を歌いたい。想いのすべてを現した歌を。「私の命はここにあり」と。原点へ。そんな気持ちでのぞみたい。「歌う心」が死ぬ前に。

 

体を入れていくこと。音もリズムでつなげていくことだけで安心してはいけない。(“い”など大きく深く入れにくいものもより一層体を使うことによってとっていく。)体を読む、ただリズムにのっているような所でもどうやって入れているかどういう方向に体・息が使われているか。自分が思いこんでいることより、もっとシンプルなことなのかもしれない。体を読む。自分の体でやってみる。自分を知る。これが伝えることの核かもしれない。この香りを伝えよう、これをこう表現してとか、細かいことをどこかでやろうとしてしまっていないだろうか?核を得る、芯を得る、声を得ることが本質。わかっていない自分にことばだけでなく、トレーニングで言い聞かせてやる。黒板に沢山同じことばを書かせる。バケツを持たせて立たせる。それは罰されているのではなく先へ行くためのものだから、苦しみではないのだけれど、充分なものにはとうていなっていない。時間や体力が限られるのならもっと効率を考える。

 

理屈だけならもうほとんど頭の中にはこれまでもさんざんたたき込まれているので、在籍する意味はもうあまり残っていないのかもしれない。ただ、この頭の中の理屈が体で表現できないからこそ、まだ私にとって、ここが必要なんだ。そして、もしかしたら今の私に一番必要なのは指名制ライブ実習のように力量差のある人と同じ舞台に立って、恥をさんざんかくというような体ごとたたきつけられるような荒っぽいレッスンなのかもしれない

 

縄跳びを使ってリズムの円のイメージをつかめた。今までは何となく円のイメージだと頭では理解していたけれど、実際に大きな跳びを目の前で回してもらうとそれが良くわかった。あとはこれを体に入れて体の感覚として掴むところまでやっていけばよい。体を動かす方向が細の回転と反対の方向に動かしていた。前からのクセでそうなってしまっていたのだが、いまいちリズムにのれない気がした。これからは前に動かして体にしぜんに回転する感覚が入るまでやっていこうと思う。

 

伝える感じをキープしないと自分がのみこまれていってしまうこと、方向を見せる、ということは外側(聞き手)が感じるかどうか強烈に意識することだ。それを相手でなく絶対に自分のやり方の中で動かす。その意識がないと、特にことばやフレーズの語尾でもう雑に流れてしまうことに注意。だいたい知らない曲でも、自分と接点をつけることはできる。でもリズムやその音の中で動く自由度が全く足りない。そういうことに弱い。音楽を展開させていくのは、形的には微妙なのだが体の中では強い気持ち、冷静な情熱みたいな事が必要だ。この歌い手のリピートの部分を変化させている、かえって繰り返しを気持ちよくさせるところ。

 

私は動けないからリピートしていて自分で不快になってくる。線をまっすぐに引こうとするとかえって曲がってたどたどしくなってしまうように、私のフレーズはそうなってしまっている。サビの部分を歌ってみると、その手前までの部分より早くなる気がして余裕が持てなくなるのに対し、CDを聞くとその逆になっていて、サビでのノリはかえってゆったりしている、この違い!この弱点を何とかするにはやっぱりこの曲をフランス語できちんととって、部分的に練習し、1曲として歌えるようにする。そこで体に入ってくるものがあるはずなので、スキャットの曲とかやってみようと思う。

 

何年たっても取り組まなかったこと、後回しにしてきたことのツケはついてまわる。今でもこういう課題は課題として触れることはあったけれども、曲として仕上げることはしてこなかった。今までは、それは私の強みじゃないからと、過ごしてきてしまった。まず課題に入る前に、曲を覚えるためフランス語にまた苦しむことだろう。いい気味だ。とにかく弱点というのは徹底して乗り越えないと、1番やりたい部分、色とかタッチとか伸ばしたところにゆっくり浸れないから。

 

こういう始まりの歌は特に、イントロから(胸の中で)歌っているのがわかりやすい。時の状況が思い出から現在へ移るにしたがい、ドラムの導入が効果的にされている。元のラインからはずれた歌い方をするために、すごく細かいリズムを感じ、捉えているのがわかる。詩の意味する事のすべては不明だが語りかけるように、思い出すように。声にしていることばの先に、間に、広がる想いが詰まっていて、そんな風景を心に描いて歌っているはずだ。この曲を聞く人に対して、詩の風景にとどまらず、個人の想いでにもうったえかけているはずだ。流れてきた時間、時代と、大きく捉えれば人生だとか人の一生だとかそんなものにたどりつくのかと気付く。単に「昔は良かった」って事ではなしに。それを理屈でなく、感覚的に聞き手に共鳴させられなければわざわざ大声で訴える意味がない。

 

先生が歌を色で表現していたのはとてもわかる気がしました。僕はイラストも描きます。例えば楽しいキャラクターを描くときは自分もにこにこしながら描きます。そのキャラクターにのりうつります。マンガ家や画家はある絵を描くためにその数倍、数十倍の想いを込めてるはずだと思うのです。歌もその通りなんだろうなと思います。歌が乗り移るのか、歌にのりうつるのか、すごいと思う。感動させられるヴォーカリストの歌は、歌を超えてその人自身になっている。

 

声は息にのって出てくる。深く太く…。まだのどに力が入ってしまいすべての息が声にならない私には、やっぱり息は気が一番大事だと思う。もちろん他の事もとても大事だけれど、その中でも息吐きに重点をおこう。体から使う感覚。そして全身を感覚にして、自分の声を聞く。本当に最高の一音を出せてそれが聞けたら感動するだろう。自分のベストの声がいつでも取り出せて体と声にリズムが入っていたらそれは歌になって出てくる。想像しただけでもうずうずしてきます。

 

音とはメロディーに逃げると伝わらない。逆に「心」を伝えることがそれをはずす理由ならばそれは体に根ざしていてそれほどおかしくはならないはず。以上のことから考えたこと。これから2つの方向でのトレーニングが必要であるということである。

一つは自分をほっていくということ、自分のメッセージを持ち、アイデンティティを確認したうえで、自己の責任において叫ぶ。二つ目は歌の心を掴むための力を強化することである。そのためにはいままでのようにただ多くの曲に触れるだけでは遠回りである。一度に一つの曲を何回も聞いてその曲の良いところをわかるようにする。「わかる」曲のストックをためていくことによって、その他の曲の良い点も(新しく触れる曲の良い点も)より速くわかるようになる、感じることができるようになる、まとめると、自分について考えることと名曲から学ぶことの二つのトレーニングが必要である。

 

実にあたりまえのことであるが、とても大事なことがある。それは毎日体を使って鍛えて行くだけではダメだということである。それだけでは毎日トレーニングをしているとは言えない。大事なことは、毎日表現を試みているかどうかである。自分の連取はやみくもに声を出し、発声マシーンと化した練習をしていては、レッスンに出ていきなり表現することなど当然無理である。(しかし私はそうしていた)あまりにバカげている。レッスンの場でだけでなく、また自分の連取でたまに調子がノッている時だけでなく、毎日心と体を一致させるように試みることが必要なのだ。表現者なら当然である。

 

自分の練習においても一生懸命という点においてはレッスンでのそれと同じレベルを保っていたので大丈夫と思っていたが、テンションが(表現としての)全然保てていなかったのだ。毎日心に刺激を与え続けることだ。それで初めてトレーニングと言える。そのためにはことばの読みを頑張ることだ。ことばで感じられることは感じきることだ。その上でメロディのことば以外の感情が加わってはじめて歌に近づくはずだ。ことばを一つに捉え体と心も一つにする。その毎日を積み重ねることだ。

 

レッスンで失敗を恐れることはなくなった。恐いのは通り過ぎてしまうこと。強くなるのではなく慣れていってしまうこと。少しでもその場に何か残せればいいのじゃない。圧倒的に何か起こしているんもではないと意味はない。そしてそれができない。貯えが足りなすぎる。自分の体で知らないことをもっとたくさん知りたいのと、自分でやろうとしていることや感覚をもっと鋭く、明確にすることをやる。

 

自分一人では何もできてなくて、何も変えられないという力のなさを知った。具体的にいうと、今日はいつものメンバーがいない日で(自分の中で)の空気が全く違った。いかに自分がいつも周りの人によって助けられているかを思い知らされた。誰がいようと自分は変わらない強さが欲しい。このことを考えると、自分が知ってか知らずか、ここにいることで甘えていたり、いる人の中でしか考えてなかったり、視野が狭くなっていたり、自分だけは違うとか思ったり、ごちゃごちゃ狭いところでやっているなあと思った。また、全開の自分がやったテープを聞かせてもらい、その後の福島先生のコメントのほうが深くて心にぐっとくる声だったと思ってしまった自分って何と思った。

 

ねばって放す。欧米は立ち上がりがはやい、強拍の頭ないしはいる時間にピークがくる。その前のタイム・パルスのループ、体の入れるスピードによってそれができる。。きこえているものがちがう。歌歌にならないのは、みえているところだけでなく、見えていないところのスピードも違うから。遅れても速くいれられる。大きなTempo感。歌い手の器。変化を遊べること。感覚を入れる。骨や肉にする。ことばや音の方向性をとらえる。止まったら(止めるというのとちがう)死んでしまう。感覚が違っている。とらえられていない。だから体ができない。強弱の中で細分化されてばらばらになってしまってはだめ。音の持っている動き。線としてどううごかすか。声だけでもってゆこうとしているもの。最後まで分かってしまう。みえてしまう。奥行き、見えないところを作っていく。

精神/感覚。自分の感じたものをどう出して客に共有できる形にもっていくか。どう裏切れるか。ピアノがタッチなら、歌はフレージングがオリジナルの部分である。感情を押しつけない。基本を守った上でどう動かせるか。曲に親しむ。作り手の心、楽しむ、統合していく、生きていくスピード。感覚の思いこみのところを排除していく。歌ってしまってはいけない。読み込みをやっていく。情感と技術のぎりぎりのかけひき/バランスのところで出していく。何だったら伝えられるのか、努力して学ぶ。これが90パーセント以上選んだものを提示(失敗しても)してみるのがレッスン。、

 

息を均一に出せるようにすること。声の焦点を合わせないと息もれするということ。

1仰向けに横になり、曲に合わせて息吐き及び声だしを行う。ex.「花」~ブレスを早くとるトレーニング「椰子の実」~フロー、フレーズ長いので、息のコントロールが必要。おなかでブレスし、おなかでコントロールが基本。

2声の保持(P.30)声は作らないでしぜんな声でチェックする。声帯をしめる強さが、おなかの息の強さより強いと、のど声(硬い声)となり逆だと息もれ声になるので、一致させることが効率の良い声となる。声を切るのは喉でなくおなかの方で切る。(喉で切ると振動がしなくなる)P.31のトレーニング実践。

3「ハイ」で出しやすい音、高い音、低い音など自分の声をよく聞くと、声を当てているところ違うことを知る。まずは低音をきれいに出すようにすると、ひびきはしぜんに後からついてくる。自分で思っている以上に声が上がったり、胸の方で息をしたりしている点を鏡をみながら家で発声練習する。

 

1曲に合わせての息はきは、思ってた以上につかった。ブレスを目立たないように早くとることも、フレーズをもたせられるだけのブレスとコントロールすることの両方とも大変なことであるとわかる。もっと体(おなか)を使わないといけない。

2自分は声帯のしめる強さがおなかの息の強さよりも強いため、硬いのど声になるとわかったが、これらを一致させていくことが課題。声はおなかで切ることを体に染み込ませる。

3低音から自分の声を整えていくこと。素直に自分の声を出せること。歌うとよく、声が上がるので、今日言われたとおり、家で鏡でチェックすること。スタッカートがいつもきつい。体がつかえてないのと体力がないからきついのだろうし、喉に逃げてしまっていたことがわかった。

 

完全にコントロールするためには、完全に余分なものを取り除くこと。動きを作っておく。感覚で踏み込む。息はまわって動いている渋み。みえることとみえないことの差がイマジネーションを生み、言わない空間が共有になる。メッセージをとどけようという想いが声を前に届かせる。一つ言うことで九失う。音楽は一つで一瞬である。つかめない。。大切にPowerをこめて。音楽の中の風景をとらえる。裏切り。こんなものだろうと頭が思っていたことは煮詰めていないと体に裏切られる。これは圧倒的な量の不足である。でいないというのは勉強できていないということ。取り組み方である。歌の中でつめていく作業が足りない。出せている時というのは、ぎりぎりのさまざまな要素のバランスである。。その出せた瞬間が一つの単位で、それが集まっての歌にしていくこと。たくさんのことを自分で決めていかなくてはならない。古典をどう解釈するかのように、自分ならできるというものヘ。もとの形に対してぎりぎりのところまでねばってみる。自分が責任を持ってスタートさせるということ。自分で全部決めていく。、

 

「見えないもの、流れているものがあること」それが本物のすばらしいところだと思う。確かに歌声がよかったり、良い曲だったり、演奏がプロだったりする部分ですごいと思うこともあるけれど、何に感動するかといえばそのアーティストが作り出す、または醸し出す空気であり、それが私たちに叫びかけてきて、私たちの心は共鳴する。ライブに行くのも人を見に、そして感じにいく。

 

自分のしっかりした声でことばを言えることの大切さ。ことばがしっかりと言えるようになってくるとメロディにのせ流して歌うという感覚がなくなってくる。息の中にことばを入れていく感覚がわかる。点でとっていくのではなく大きな息の流れをつくって動かしていくということ。実際できないのだが、イメージとしてわかった。息の流れでフレーズをつくっていくということ、ことばをいいきることでリズムをつくっていくということ、どんな歌でも自分の中に曲を流してから始め、歌っている間も流れ続けていること。

 

歌はすべて自分の意思。意思あるものでプロは音と音のつなぎに必ず何かを入れ込んでいる。それは計算されたうえでの部分もあるかも知れないが入り込んでいかなければ声の表情なんてでてこない。

 

1.今の自分の力でも100パーセント出し切ればかなりのことができる。2.後で何とかなると思わないこと、今何とかならない人は後でも何とかならない。3.ベースの声の確立4.エンターティナーはライブのステージで評価する。客の前のエンターティナーとして見る。5.その人の中にどれだけ音楽が宿っているか(技術・熱意)どれだけ取り出せるか。ひたすら聞く、入り込む、気づく、それをとり出していく。この繰り返し。6.自分のスタイルを持たないとやっていけない世界。7.時間がかかってもいいから、すぐれたものをまず一つ作る。。いろいろなものが見えてくる。そこから学べる。8.必要以上に感情移入しない。9.全神経を集中して一回で覚えようとする。。普段の心がけ次第で、驚くほど力つく。10.伝える努力、表現になっているか、なっていないかを問う。常に問う。11.試みの中で、何か違うことができるのか、何を納得させることが出いるのかを問う。

 

1.思った通りの線を出すのに回数がいる。自分の番が回ってきて「さあ」というときに、全く違った線が出てくる。イメージ力、集中力、呼吸・からだの準備。出す前の情愛を大切にする。出る以前のものをまず作る。2.中音域を安定させる。3.動かし方は自分の感覚で。4.伝わるとはどういうことか?を問う。

 

簡単なようで難しくて、難しいようで楽しくて時に生きる気力を呼び覚ましてくれることもあれば、いっこうに進んでいかない自分の弱さを、実力のなさに嘆いてみたりして、音楽歌の深さと、自分ができない歯がゆさ、本当に自分にはやっていけるんだろうかという疑問の中で、その迷いと戦いながら必死で生きている。人間だから、その日のその時の気分と体調が様々で、本番一発で自分のすべてと実力を出し切ることの難しさを痛感する。ときどき練習の中で百回に一回くらい、うまくできたことを、いつでもどこでもどんな状況でも、すぐに取り出せ、人に提示でき、人をうならせ、感動させられることの難しさ。体調も悪くて、気分も乗ってなくて、ただ無意味にデカイ声でどなってる。その無神経さで歌を、声を大切に、本当に大切にできないで、ただ一本調子の無味乾燥な歌を作り出している。

 

自分の才能とやらに腹が立つ。歌に流れがないことと、構成が自分でまだ完全に把握できていないこと、そして、気持ちが前に飛び出ていかないこと。気持ちが前に出ていかないと、声も前に出てかなくて、もっともっと前へ上へ飛び出させて飛び抜かしていかなきゃいけない。リズム、音程もまだ全然不安定で落ちついて歌に、表現に入っていけない。すべてのことが一つになってはじめて音楽として、歌として、成り立つわけで、まだまだ不安定な所が多すぎ、なんだか聞いてて退屈しちゃうようなくそくらえな歌うたってる。気持ちと、心と体と、体で覚える技術と、歌に対するセンスと、集中力、自分への厳しさすべてが一体になって一つになって初めて、まあまあ人に聞かせられる程度で、今、そのうち自分はどれだけのことができ、どれだけの練習と、どれだけのことをやってるのかを自分に問うと、ほんの微々たることしかやれてない。発声練習もそうだけど、ただ無意味に声出したってしょうがないんだから、その出す声に、音楽と音の流れを入れて、作り出してやること。前へ前へ流していく。とどこおらせて、歌の流れを止めてしまわない。気持ちと声を前へ前へ流しだしていく。気持ちを前へ、声も前へ、川の流れのように流していく。

 

体全体はリラックス。おさえるべきとこはおさえる。腹腰の支え、お尻の穴そして上へ声が貫通していくぐらい、流しだしてやる。そしてことば!息の流れを止めてしまわないよう、息のしぜんな流れを阻害してしまわないように。でも、人にはしっかり聞こえるように、発音をしっかりし、口の形をそのことば通りにしてやる。そして感じ、つられてく感じで、口もそのことば通りに動かし、ある程度はっきりさせてやる。でも、あまりあごや、口を動かし過ぎて、息のしぜんな流れと、歌の流れを止めてしまわないこと。あくまで、しぜんに息を流し、その息にしぜんにことばをのっけて、しぜんに口が動いていく感じ。声を詰まらせないこと。前へ前へ流しだしていくこと。気持ちも前へ前へ流しだしていく。あまり頭で考えない。考えすぎない。すべて全開。変なところで遠慮したり、弱気になって声を殺してしまわないこと。

 

声全開、気持ち全開、全部前へ前へ流して、上へ突き抜けさせていく。でもおさえるべきところはおさえられていること。発音、ことば、口の動き、音程、リズム、腹・腰の支え、お尻の筋肉、お尻の穴、下腹前に突き出さず、引っ込める喉の開き。胸でも声が取れ、腹の底から一本芯の通った声であることとにかく遠慮したり、中途半端にやると、何も伝わらないし、かえってヘタクソに聞こえ、声も殺してしまうし、聞いてて気持ちよくないので、どこもおさえつけることなく、遠慮せず、中途半端にやらず、全開でやること。全開で、人前で、本番でできることも、才能の一つ。気持ちと歌の技術が一体になること。気持ちは全開で無我夢中くらい必死で全力なんだけど、押さえるべきところはちゃんとおさえられてて、ただ暴走せず、自分が今どういうことをやっていて、体がどう動いていて、どう使えているのかがちゃんと分かった上で、爆発させること。ただ無茶苦茶に全開で暴走してしまわないことも大切。

全開で声を頭のてっぺんから、天井を突き抜けて空の果てまで届くくらい、声を突き抜けさせ、そのくらいの意識と気持ちをだしていくこと。とにかくだしている声が、歌になり音楽になってることが大切。それには、中途半端におさえるべきところはおさえることができて、ちょうどいいくらい。歌をたくさん歌うこととフレーズ練習の量をたくさんして、その感覚を覚え、研ぎすまさせていくこと。

 

漫然と、ただダラダラいい加減に歌ったり、声をだしたり、そういう練習はしないこと。そして歌の構成の仕方と、そのもっていき方も大事で、ただ漠然とやったり、いい加減に歌い流したりせず、ハッキリさせることが大切。声に強弱をつけたり抑揚をつけるのはいいが、こういうこともいい加減にやれた気になって、歌い流してしまうと、聞くに耐えないものになっていることが多いのでいい加減にやらないこと。歌の流れを止めてしまわないことと、ハッキリとしたその声の流れは持続しつつも、その声に変化をつけられること。流れを止めないことと、ことばののせ方をハッキリすること。ことばをいい加減に歌い流さない。歌とことばと声のハッキリした流れの中で強弱、大小、その歌い回しの仕方など変化させ、歌に色づけをすることが大切。

 

基盤となる歌のハッキリした流れと、ことばののせ方をしっかりとすること。当然ことばの中に音程の正確さも含まれ、流れの中にリズムの正確さと、安定も含まれる。ことばがリズムにしっかりのり、歌が流れ続け、そのことばがはっきりしてることと、そのことばに音程がしっかりくっついて、のっかって、ちゃんと音楽のメロディーになってることが大切。その上で様々な変化と、色づけができること。歌心を理解すること。出てていないことをあまり悔やまない。落ち込まない。悔やんでも、落ち込んでみても、結果は一緒で、結果がだせる訳じゃないから、できないことをあまりクドクド追求しないこと。できるように努力する。やれるところまでやってみる。結果はそれから。あわてない。急がない。自分のペースで、できることをやり、やりたいことをやれるところまでやる。ことば一つひとつの処理を大切にすることと、歌の流れを大切にすること。歌い方だとか発声だとか、技術だとかがいくらついても、気持ちがなかったらダメ。すべては気持ちの問題。後は気持ちと、生きることと、生き方の問題。

 

プロと自分のを比べて、同じ時間でどのくらいのことをやれるかを考えて捉えてみる。シャンソンカンツォーネでポピュラーになったのは、多くの国で受け入れられているということ。何がどう音楽になっているのかが聞いて分かるようになること。自分の感じたことしか出てこないということ。ステージでは、その人の中にどれだけ音楽はいっているかが大事であり、それに技術や熱意などが加わって成り立っていくものである。結局は歌の中に表れたもので決まる。自分で歌をつくらなくてはいけない。時間がかかってもいいから、優れたものを一つ作ることが大切。

 

一回目から覚えるつもりで聞くこと。歌詞とかも五回で覚えるつもりで聞く。聞こえた曲に何かを感じるはず。体と心が入ってないところでやっている人が多い。詞の中のキーワードは一回でわかること。自分からそいう状態にならないとダメ。出し切ること。心を動かして、どう伝えたいかをやるために、練習では無理矢理にでも心を動かしてやる。音の動きをとってみて、何が表現なのかをつかもうとしなければいけない。リズムからとるのも一つの方法。少し後に残るものが表現である。音程やことばよりも大事なことがある。まずは伝わらなくてはいけない。最初のフレーズで伝わってこないといけない。お金をとる価値のステージができるかということ。できてるできてないよりも表現できるかが大事。その時その時入ってやること。忘れてはいけないのは、作ること(組み立てること)。

 

一拍一拍ローリングさせていくという感じをはじめて知った。つねにその感覚を意識していないとたかが4分音符でもローリングというようにはいかない。無意識にその感じをキープするには今後の練習が要求されるところだろう。前へ前へだそうだ。巻き込んで、聞こえるリズムに合わせるのではなくて自分がそのリズムを出してるというよう。そんな感じが分かった。ドラムになる。音程をさず。そのダッやチキとかタッとかの言い方やなんかでもグループ感がでる。ようはそのドラムのつもりで口でいっているのを他人が聞いてリズミカルに聞こえてるかどうかだろう。ただの8ビートでもいろいろだ。バラドラムに強弱をつけたりスネアをのばしてみたり。聞こえたのをどうリズミカルに表現するか、言われたのはリズムと別のことだけど「ドウッ」て言うのが声として前に出てないってこと。俺もそう思う。発声的に問題があるそうだ。いえてる。「つかみ」とは違うのだろうか。ボリューム感と前に出るってのは違うのか。

 

 

1リズムは腰を中心に体全体でとる。このとき、ぼくのような初心者は手を打つと良い。すると案外リズムがとれていないことがわかる。

2メトロノームなどで練習するときは、まずジャストで当てることを目標とする。次にずっとやっていても、くるわなくなるまでやる。体全体で打つこと。

3リズムが不安定。まずジャストで打てない。キープできない。体全体で感じることが出来ない。

4練習するときの音域が高すぎる。まず、中音域を安定させ、太くする。

5今できないことでも先々出来るようになりたいことをイメージして練習する。

6踏み込むとは一瞬鋭く息を吹き込むこと。踏み込む前の音にも気を付ける。ここをしっかりしないと甘くなる。

7入れやすいフレーズ、とりやすいことばでどんどん練習する。太く安定させる。出来るようになったら次の段階へ。

8一回自分がやったフレーズ、出した結果についてもっと真剣につきつめていく。

 

スピード感、落とし込みの感覚、たて立体感、全部同じ配分にしない。下の線をキープしているから。上の線(フレーズ)を動かせる。これがなかったら、浮いてるだけになってしまう。

Ma cosa messo nel caffeのmessoで骨を入れる感覚。Ma cosa haiのフェルマータは大きな線上においている. 遅れない、落とし込む感覚(フレーズを作る)がとても楽しかった。落としこみが中途半端で効果が上がってないと単にアタックが強くなるのかも。

 

リズムを肉体(カラダ)でとらえる「普通通りにこなす」のではなく、「肉体(カラダ)の中からリズムを創る」感覚。あるフレーズを肉体(カラダ)の中に取り込み、自分の中で消化して打ち出すトレーニング、その曲が訴える世界の中に入る込む訓練。

 

Rhythmの何が出いていないか分かること。(声以上に分かりづらいのでは??)課題をきちんと理解すること。リズムの回転を感じて耳で聞くこと。リズムを回転で感じられるように。点で取らないこと。回っている様な感覚を感じられること。腰でリズムを取る、リズムのずれ(自分ではなかなかこれが分からない)最初の1・2・3・4をキープできないとそれはリズムがとれていないということ。Tempo遅くなる方か、早くなる方か自分で自覚を持つ。クセをみつけること。

 

どういうリズムかということにとらわれず回転を感じてみること。曲をとめるリズムを見失ってしまう。それをなくす。適当にのれてればなんとかなるということはない。続けることによって、体に入ってくるから。条件・手でも拍を打って。そのリズムが出せる。リズムを口で言ってそのリズムのノリが出せる。歌っただけでそのリズムのノリが出せる。全部同時に出来る。BASSの音を聞くこと(特にゆっくりの曲)

 

リズムのあるものは、ボクシングやバスケやフェンシングのようなもののような、予備のフットワークを体のなかにつくってくれる気がする。“次の動きのために常に動いている”という、あの基本のように、体のなかにリズムによって動きが生じている部分から、次がくり出しやすい。本当はゆったりとした曲でも何でも、Rのクラスでもやるように、体のなかにパルスやコイル状のリズムの鼓動が“うって”いなくてはいけないのだなと思う。それがないから、急にばーっと吐き出すようになるのだ。できるだけ、一小節は自分のなかで無意識にとり、跳び箱の踏み台のように、一拍前から音を動かすようにしているのだが、入った途端、コントロールに気をとられて、その流れが途切れてしまう。楽しい曲でも楽しくなくなってしまっている。、

 

1.なわとびの円をイメージし、4分音符を体に大きくとっていれる。

2.4分音符と8分音符を口で「ダーン」「ダッ」で言ってみる。4分きちんときざまないと8分言えない。

3.曲のベース音をとって、曲に合わせて口で言ってみる。ベースの音色で言ってみる。楽譜にとらわれないで、リズムをとるトレーニング 

・男が女を愛するとき~3連符の歌なので、根底に3連を流して4分言う。 

・ジョニーエンジェル~タイのリズムに注意、コード感覚つかんで音をとる。リズム喰った感じつかむ。 ・スタンド・バイ・ミー~「ポン」で言ったのに合わせて他の人うたう。下(ベース)でしっかり刻むと上(歌)のりやすい。

 

なわとびの音をよく聞くと床にあたる音と、空気を切る音できちんとリズムになっている。ループの感覚がとてもつかみやすい。

4分をしっかりとらないと8分がふらつく。自分の場合少し前のり気味になる。。

声が息と共にしっかり出ないと、マイクを使っても声が入らないようだ。音程ちょっと悪い所あったが、リズムはだいたいとれた。

鑑賞レポート2 芸術文化 26968字  746

鑑賞レポート2

 

【五代目 古今亭志ん生

 

彼の落後をいくつか聞いていた。なんだか可愛く、ゆるせてしまうキャラクターでことばを聞きとりにくいところもあるが独特のフレーズを持っていて、フレーズの力で笑ってしまう時もある。独自のことばで聞き手の気持ちを引き込み、グッと力を込めて歯切れよく言い放ち、グッと空白を(タメ)作っておいて聞き手のイメージをふくらませ、めぐらせるあたりは歌に共通点がありそうだ。噺を忠実に聴かせる「さくしん派」との比較が解りやすく面白い。一方は演歌の忠実さ、志ん生にはブルースの自由さがある。(つらい生活を笑い飛ばす当たりも)すごいヴォーカリストたちを知るにつれ感じたことがあるが、自分の歌にしてしまう、歌と一体になってしまう感覚が志ん生にもある。ジャニスと志ん生には共通点がある。その瞬間の気持ち、ライブを大切にする人だ。歌を伝えることはもちろんだが、それを通して自分の存在、人間というものを表現する、ということか。

 

貧困だから創造力が育つのか、天性なのか。奥さんの苦労を考えるといろいろと恐ろしいが、芸のためならということばが昔あったのがうなづけた実話だった。望ましいとは思わないが、そこまで芸に人生を賭けられる志ん生の芸人根性は凄い。人生は自分が「よし」としてしまったらそれ以上は望めないしくみになっているように思う。今以上の幸福や成功は有り得ない、なんてことはそうそう言えるものじゃないと私は思う。もっと上がという気持ちが、何かを自分に与えられてどんな方法を取ろうとしても前に、上に進もうとする人間を創るんじゃないだろうか。進む方向にもいろいろあるが、志ん生さんは芸のことでどんどん上へと駆けていったんじゃないかな。

他のことは全部といっていいほど捨てて。しかし、他のものをすべて捨てる(失う)勇気のある人には、後からそのすべてが追うようにしてついてくるんじゃないかと思う。志ん生さんちは死ぬまでずっーと貧乏だったのだろうか。まぁお金がもしなかったとしても、目では見えにくいが、何か強いもので繋がれている夫婦が、家族があったような気がしました。芸だけに没頭できるということは、自分のありのままで生きられるということは、それを支えてるものがしっかりと固まっているということを示しているんだと思います。

それを固めるということは、それ(固い絆)だけを強めようという行動よりも、何か違ったものから生まれるものの方が強いと思います。自分の弟子たちが自分を語り、そして多くの人々に伝えようとしている、この現実を見ても志ん生さんの生きざまや志、信念が残した影響力なんだなぁと思います。自分が自分であることを舞台の上で表現していく。人が受け入れてくれるくれないは、後からついてくるもんだ。そんなふうにしてとにかく一所懸命だったんだろうと思う。作品を創るのと自分自身をありのまま表現する。どちらが楽とか大変とかということではなく、本人がどこに重きを置いて、どう価値を見出すか、というところに見るべき質は眠っているように想う。

 

その人本人がどんな人間でどう生きてきたかは、その人のまわりを見ればわかると思うし、素晴らしい人々のまわりにはどんな人が集まってくるかってことは、本人以上にまわりの人たちも痛く感じることではないだろうか。映像の中で奥さんが「あの人も捨てたもんじゃないねェ」と、はおりをわざわざ忘れに来てくれた師匠たちを見て言ったあのことばがそれを表しているし、奥さんは本人の倍、嬉しかったんじゃないだろうか。何かに一途な人生、素晴らしいと思う。何に誠実に生きるか、それは本人が選ぶことだし、大事に守っていくものも本人がそうと決めていくことだ。これが人生に何か残せたり、人々に何か与えられる唯一の方法じゃないだろうか。自分で選び、そしてそれを自分自身で守ったり、創ったりしていく。そんな一途さが人の心を動かすんだろうと私は想う。

 

最初のステージで二人の落語を聞き比べたとき、志ん生さんの語りは実にいきいきとしていた。ことばはその人間の命が入っていないと伝わらないと思う。命が入るには、ことばを言う人間が生き生きとしていないとだめだ。普段一緒にいて、話していてつまらない人間が何かを表現してもつまらないのはあたりまえだろう。おもしろい人間というのは、サービス精神があるのだと思う。というより本当におもしろい人は天然のもので、ありのままのその人でいることが既におもしろいのだろう。志ん生さんがステージで5分ぐらい本当に眠ってしまった間、皆ずっと笑っていたなんて本当おかしい。しぜんなんだなぁ。

ステージにあがるまではものすごい努力をしているはずだし、いろんなことにこだわり、やってきていると思う。そんなものすべてがステージにあがったとき、志ん生さんという人間の魅力につながっていくんだろうな。どんなジャンルの表現にもつながることだと思う。ステージでしぜんになるためにはとにかく体にいれこんで、いれこんでよくかみくだいて、消化しておかないとだめなんだ。それができた者だけが、観客に伝わる心ある表現がつくれるのだと思う。

 

志ん生さんのステージでの笑顔は何とも言えないほどかわいらしい。恵比寿様のようでこっちまで微笑んでしまう顔。声にも勢いがあって会話の受け答えにリズムがある。何言ってるんだか聞きとれないところもあったけれど、べらんめえ調は味がある。志ん生さんのことばになっているから観客はステージをみているという感覚を忘れてしまうのではないだろうか。その辺の道端で「ちょいとあんた!」と話しかけられてる気がしてくるもの。芸名を16回も変えたというけど余程、気に入らなかったのだろうか。話ではその時代の「落語とはこういうものだ」というものにあわなかったため、売れなかったということだけど、こんなに変えてたら自分の名前がわからなくならなかっただろうか。私も今から運のよさそうな芸名を考えておくとするか。

 

 

 

アンディ・ウォーホル

 

真にオリジナルなものがあるとは思えないが、その人間にしかできないことは必ずあると思う。彼のブレスリーマリリン・モンローの作品を見て誰でもできると言う人はたくさんいるかもしれない。誰かがやった後ならば誰でもできるのはあたりまえだ。最初にやったということに価値があるのだから。かといって自分と全くつながっていないところで新しいものと称して作り出してもそれは続いてゆかないだろう。結局オリジナルというものは、蚕がまゆをつくるように少しずつ、少しずつ形となってゆくものだと思う。そして決して完成しないものだという気がする。表現するということはどうしたって自分をみつめることをさけては通れない。自分の直感を信じて少しでも心にひっかかったことにこだわってゆくしかない。心地よいと感じるものに常に敏感になっていなければならない。

 

私は彼のアート作品より映画の方に興味がある。アートは結果的にかもしれないが商業的なものに偏っているのに対して映画の方は彼自身本当に楽しんでいるという感じがする。視点ひとつ変えただけで見慣れた物が新鮮に見えてくる。物事をあらゆる角度からみる柔軟性は必要だと思う。いろいろな見方の組み合わせが一人の人間の考え方をつくってゆく。彼の場合、その発想のおもしろさと、それに伴った行動力があったからこそ、世の中で形になったのだろう。一つのことに価値を持たせるには徹底してやらなければだめだと思う。彼が銀色に魅かれたように。彼は多くの人間に注目されたいという願望が強かったらしいが、だからこそ時代の顔になり得たのだと思う。自分のやりたいことだけをやっていたようにもみえるが頭の中には、常に大衆をハッとさせられるものは何かという考えがあったのではないか。そして多くの人々が長きにわたって魅きつけられたのは、彼自身の魅力より、作られたイメージの方だと思う。もちろん彼はそこにいたのだが、何かつかみどころのない者に出会ってしまったという気がした。作品にしても人間にしても何かのインパクトがなければ、人は振り向かない。自分のやりたいことをやるには強烈なインパクトをもって大衆をひきつけることができなければだめだろう。それがつくられたものだろうとかまわない。とにかく出なければはじまらない。しかし世に出た後、生き残ってゆけるかは本人の実力次第だ。魅きつける要素が全て、つくられたものならば長続きはしないだろう。その人間の中に一貫したものがなければ信頼できないであろうから。

 

彼の生き方をうらやましいとは思わない。人に認められなくてもいいというとそれでは意味がないといわれるかもしれないが、私は自分の心の動きに誠実でいたい。それで作られたものが認められないならば仕方がないと思う。自分のものをださないことこそ意味がない。結局表現するということは、どう生きたいかということにつながってゆくことだと思っている。アーティストの世界は人間は皆、感じ方も考え方も違うということを認めあっている世界だ。あれは良い、これは悪いということ自体おかしな話で、本人が満足さえすればいいと思う。いつでも自分を見つめていきたい。

 

 

 

【ウェイニー顔面気功】

 

見ながらやってみた。必ず始めるときは手の平をひざの内側でこすりあわせて暖かくしてから患部にあてる。なぜあんなに温まるのだろう。膝に全身の熱が集まりやすい。密着して温めたい手の平を置ける場所がたまたまひざだったということか。でも、なぜあんなに温まる。身体のぬくもりが移るのか。とにかく不思議だ。また、温かい手を当てると、当てられただけで非常に気持ちいい。なぜだろう。これは、でも個人差がある気がする。ヒンヤリした手を気持ちいいと思う人もいそうだし。病気の人が具合の悪い所へ

 

ある看護婦さんの手をその患部にあてがわれただけで痛みがおさまった、という話を聞いたことがある。手には力がある。ことばを持っている。使い方では拒絶も愛情伝達にも、どうにでも。やはりことばだ。手にしか語れないことばがある。ステージでどう動かすも動かさないも自分次第だ。アカペラなら2本の、2つの手、マイクを持っても1つの手がある。声、顔、手。ずいぶん語る手段はある。生かし切れてない。落ち着きのなさは“気”を丹田におろす気功で何とかしよう。一日を始める前にだ。

 

 

 

永平寺

 

苦しむことのできる幸せ雲水とは仏の弟子である、と。だからそれなりの覚悟と態度が必要である、と。覚悟とは。態度とは。曹洞宗大本山永平寺740年、修業の第一道場、大本山。740年。修業。道場。伽藍の数70。最初の関所。修業の心構えをたたきこまれる、という。最初の。という事は後にまだ関所がある、という事。修業とはただすればいいのではなく心構えが必要なのか。しかし、たたき込んでくれるのか。「山ではな、声の小さな奴は駄目なんだ」。なぜだ。

 

道元は13歳で仏門には入った、という。中学一年生だ。いわく「我見を離れるべす」。我見とは狭い自分だけの考え、と辞書にある。そして我を捨てなければならない、と。我とは、執着すること、とある。そして、人間は元々仏である、と。ではなぜ修業するのか。それは修業する姿そのものが仏だから、と。顔を洗う習わしを日本に取り入れた人だという。形の中に仏の姿が現れる、という。道元のおかげで私は毎朝顔を洗いさわやかに一日を始められる。普段あたりまえに何気なくしていることの中に凄いものが含まれている。息も然り。地蔵院から永平寺山門へ。覚悟を問われ続ける。

「お前やる気あんのか。覚悟はできているんだな」と。「何があってもうだうだ言わないな」と。許されるまでの零下5度の中でひたすら直立不動でたち続ける。やる気のないものにはその場で帰ってもらうためだ。随分と違うもんだ。私がここに入る時と。ここは暖かく暖房がきいていて椅子まであり、先生は怒鳴らず丁寧なことばで話して下さり、しまいには質問まで受け付けてもらい、その場で答えてもらえる。そのかわり帰り道は心が凍てつきそうだったけれども。結局山門で立たされて問われ続けたことを時間差を持ってどっちみちやらなければならなかった訳だ。

道だから。その道はどこへ行く道。顔を洗う作法。その意味はものみな全てを荒い清める意味があるという。確かにこの人の顔を洗う姿は美しい。どこが。無駄がない。動きが流れるようだ。時が止まる。見ているだけで何かがサッパリする様に感じる。これはどういうことなのだろう。行いの全てが天地の全てにつながっている、という。この美しい顔を洗う動作のどこが天地の全てにつながっているのだろう。そういう事なのか。信心一如。身全体が心、心全体が体。二つに分けない。体が真っ直ぐなとき体もまっすぐだという。わかりますか。わからない。宿題。朝3時半に起きてから夜9時に床に就くまで、雲水とはまだ、みられない。ひたすら我を捨てることを求められる。

掃除、追い立てられるように、駆けるようにしていく。鉄則:時間を無駄にしてはならない。これはなぜだろう。神様からいただいた命の時間という意味だろうか。必ず来る終わりの日から逆算しての心して一分一秒を生きるべし、という事だろうか。なぜだろう。しかし、時間を無駄にするということは、生きることを無駄にする、ということか!生きる人生と無駄に生きた人生と。そう考えると恐ろしい。

そしてこの大事なことは本人にしかわからない。でも、どんなに護摩化そうとしても本人だけはわかっている。与えられた命。どう生きるかは私が握っている。与えられた環境の中でどう生きるか。無駄に生きちまった、と思いたくない。笑って「まあこんなもんでしょう」と言いたい。いや「上でき!」と言いたい。生きたいなら、するべき事はわかっているつもり。やんなさい。涙で目があかない青年。夢で泣くか。夢で泣いたことはあるけれど、ヴォイス塾に入ってからじゃない。まだまだ余力がある、という事だろう。別に泣かなきゃいけない訳ではないけれども、そういう事だ。

 

暗いトンネルの中に今はいるけれども、ここまで行けば明るい色が見えるのでは、と思える、という。どうだろう。私は違う。大海原に小舟を漕ぎだした、こぎ出せた感じか。やっと自分のこぎ出すべき大海原を見つけた。寄港地でそこのどんな素晴らしい風景、素晴らしい人々、素晴らしい文化、素晴らしい食べ物、素晴らしい笑顔、それらみんなに出会えるかは私次第。その寄港地が一つの歌であり一つの曲であり歌い手でありその人を支え培ってきた風土であり歴史であり生きること全てか。出会いたいと思っているか。思っている!こぎ続ける覚悟はあるか。ある。体力は。今作っている。漕ぐオールの一かきの質は。駄目だ。私よりずっと高い質の一かきする人がわんさかいる。イヤだ。思ったらやるの!船旅の友はいるか。いる。笑い笑顔、先輩、友達、自然(日太陽風とか)。航海地図はあるか。ある。私は幸せだ。こういう風に生きれるんだ!生きることは旅か。

人を創っていく工法の一つだという。一度自分を一つの型の中にはめ込む。はめがたいものもはめ込む。その時にゆずれないものだけが見えてくる。今の自分に当てはめるとどういうことか。出されている様々な課題は最初に枠決めせず、とにかくその中に身をドボンと投げ込むということだろうか。当然もがいてできることとできないの結果が出て、そしてできないことの中に次につながる糸口を見つける。ゆずれないものとは。いろいろできない所があるけれど、ここは何よりも第一に手にしたい。例えばそういうことか。そうだとしたらそれは何。

聞いてていいなあと思える声量。聞いてていいな、と思える音色。無理じゃなく自然に出てくるなあと思える声。さ、どうする。息吐き。息吐きを聞き取れる耳。耳は一流の音、声を耳を澄まして心を澄まして聞く。体に問いかけながらの息吐き。どこかに力が加わってないか。

只管打座。外に向かう心をおのれに向けるために壁に向かう。向き合うべきはおのれのみか!音のない静かな修業。外に向かってばかりおるなあ。おのれ。修業中の身。一生。おのれの声にのみ向かっていく。そうすれば必ず自分の中の素晴らしい声に出会える。必ず。法戦。ことばによる修業。主座のみが挑める。主座は模範にならなくてはならない。3時半みんなを起こすために駆け抜けてる。必死だ。3年目で念願の主座になれた、という。念願のだ。イメージしてきている。こうなりたい姿を。だからできた。彼曰く「言われたことを精一杯やることが修業。人の言うことを聞いて規則通りやる。年とってからそれが何たるかを感じたい」と。このあたりまえに聞こえる事がなかなかできなくて四苦八苦している訳だ。でも彼はやってる。なぜだ。法戦をしている時の面構えは凄い。相手と戦っていない。自分とだ。すさまじい形相とも言えるかもしれないが、むしろ神々しい。自らと戦う姿は神々しいのか。絶対やりきるんだ、という気迫か。彼を支えているものは。

しかし凄い声だ。この人の正に今の嘘ののない声だ。あの法戦中の彼の声の前には全ての人が黙る様な、でもこの法戦が終わったところで修業が完了する訳じゃない。幕が切って落とされた、というところか。眠るとき、畳一条を越えない眠り方があるという。6時間の睡眠も修業だと。我身を清める事が世の人々をも清めることになるという。どういうことだろう。反対を考えてみる。自分をより良くしていこうとしないでそのままで生き続ける。書を広めっぱなし。努力し続ける。少しずつ変わる。害の量が少し減る。身を清め続ける人を見る。想う。考える。そして行動する。人々は互いに影響し合う。世に背を向けながらも人々ともに、人々のために生きたいと願う、という。共に生きる。自分の為に生きるのではなく人の為に生きる。鳴々。遠く離れたまるで隔離された様な場所でその身を仏に捧げるかの様な人々が実は人のために生きたい、と願っていると一体誰が想像できよう。世に背を向けてですらだ。背を向けていない自分は。人のために生きたいか。生きたい。なぜ1000%位に愛されたから。私には過分だ。返さなければ駄目だ。どうやって。歌届けたい想いがある。相手に通じるか。通じるところまで持っていかなければ駄目だ。相手は喜ぶか。喜ぶところまで磨かなければ駄目だ。愛されなかったらやらないのか。できないかもしれない。愛することがどういうことなのか愛されたことが一度でもあればわかる。考える:生まれてから一度も愛されたことがない、と思う人間として自分がここにいたら。わからない。でも一度でいい、無条件に愛されることがありさえすれば。過分に愛された理由は、返しなさい、と神様がいわれていることだと勝手に確信している。私も心に光りを念じて眠ろう。わからなくていい。その通りとにかくやってみればいい。その時、必ず何かが見えてくる。人の中に生きた仏を見る。

福島先生の中に生きた仏を見る。全てのつぼみに同じ水を上げる力。ぶつけてくることばを吸い取り立ち向かい無視しひっぱたき、コミュニケーションをとり続ける力。愛し続ける力。なぜ愛するのか。なぜ愛せるのか。神から愛されたから。福島先生という人間を私に出会いと存在そのもので与えてくれた神は私に一体何を学べと、何をしなさいと言っているのだろう。答えはどこにある。歌の中か。先生の声の中か。背中にか。私は。出会いを繰り返す。同じ人に同じ物に同じ歌に同じ曲に新たな、いつでも新たな出会いを見いだせる柔らかい心でいたい。

泣くことすら許されぬ雲水たち。夢の中で泣くことしかできない。若者たちだ。もう、いいだろう。全てやってきただろう。人の為に生きよ!そうしてでしか本当の幸せにはなれない。人の為に生きてですら、生きるからこそが幸せになれるのだから。これ以上の何かを望もう。今だって、この身一つで人のためにできることはゴマンとある。でも全く足りない。力を付けよ!億万、兆万と力をつけよ!普通苦しまないと力はつかない。

 

 

 

パトリック・デュポンの肖像】

 

世界中の人間を全て同時に見ることのできる眼鏡で見たら皆その人なりに必死で生きていると思う。そういう中でも他のことには脇目もふらず打ち込んでいる人がいる。一般社会が光とすると穴蔵で黙々と何かをしている人達。そしてその人たちは突然穴蔵から出たかと思うとものすごい光の中に立っている。光の中にいるのかと思ったらその人間が強烈な光を発していたと気づく。

多くの人間は光を求めて動き回るが本物は光を求めたりはしない。自分がどれだけ輝けるかを求めている。なぜこういう人間ばかりで世の中がいっぱいにならないのか。それはひとつのことに心底打ち込む生き方をしたいと多くの人は思わないということだと思う。

自分はなぜひとつのことにかける生き方を選んでいるのかと考える。人生は長いようで短い短いようで長い。その人の生き方によって感じ方が全然違ってくる。誰もが一回きりの人生なら思う存分楽しみたいと思うだろう。わたしだってそう思うが、どうも多くの人々が言う楽しいことというものは私の心を満たしてはくれない。それらは繰り返しにすぎず何度も同じような楽しみで自分の心の穴を埋めているようにしか感じない。本当の楽しみは自分でみつけてこそ最高の喜びになると思う。私にとっては何かを発見してゆくということこそ楽しみであり大きな喜びとなる。

彼のように常に最高のものを求め続ける人間はどんなレベルにいようと大変さは変わらないと思う。その時々の自分の実力で最高の人の為、自分の為というものを超えて彼自身使命みたいに思っているのではないだろうか。

 

私はこの世に偶然生まれ出た人間は皆、使命を与えられているのだと思う。そういうものを人は「運命」とか「宿命」といったりするけれど自分で人生を選択しているようで選ばされている気がする。そしてどの人間も生きるということにおいては同じように大変だ。彼のようにひとつのことにどこまでもこだわってゆく生き方を選択する人は、生きること以外に大変さを引き受ける勇気をもっていると思う。生きること以外にというより生の中にそのひとつのことが含まれ、膨らみを持っていると言った方がいいかもしれない。完成などないことを知りながら完成を求め続けて生きてゆく。彼の息づかい、指先の緊張、空を見据える瞳、ひとつひとつの動きに彼の生が凝縮されている。肉体を自由自在に動かせるようになったとき、人の心は解き放たれるのだと思う。

 

彼の動きを見ているとそこにどれだけの想いがこめられているのだろうと、彼が想いをこめ続けてきた年月を思わざるを得ない。生きることに想いをこめている人間の命は光輝く。命なんてものは目に見えないけれども心の目はまぶしすぎて目をあけていられないという。世の中の大切なことは目に見えないものが多すぎるな。入間は大半の人が同じ器官をもっているけど心がなければ本当の意味で一生使われずに終わってしまう気がする。彼は自分の若い頃の動きをみて体型がどうとか動きはどうとか他人をみるような目で評価していた。

自分のことを客観的にみれる目は絶対必要だ。自分の肉体を自分のものとして動かす為には自分の体をよく知っていかなくてはできないことだ。彼はあの鏡の前でどのくらいの時間を自分と向き合うことに費やしてきたのだろうか。彼がバレーをはじめた時に才能があったかどうかはわからない。何かひとつのことに打ち込んでゆく時、自分の才能に絶対的な自信をもってはじめる人っているだろうか。こうなりたいという強い想いはあったとしても未来が約束されていることなんて何ひとつない。

情熱を失わずに一つのことをやり続けるって本当にすごいことだと思う。どんなことも、ひとつのことをものにしてゆく過程は似ている。その人間がどの程度のレベルを望んでいるかにもよるけれど、これがだめだったからあれというふうに変えてみたって同じことだ。こういう考え方は結局それをやることで自分の心がワクワクするか。というのが基準ではなく他の人に認められるかどうか、どう思われるかということが基準になってしまうから繰り返しになってしまうのだと思う。

 

自分という人間は本当によくわからないと思う時もあるけど、考えてわかろうとしても限界があるような気がする。どう感じるか、どう働きたいのかという直感みたいなものを大事にしていくしかない。感じることに素直になってゆくことで少しずつ自分というものが明確になって形づくられていくんじゃないだろうか。表現するということにこだわって生きている人はたくさんいる。その人たちはステージの上で「観客を絶対に感動させてやる!!」なんて気持ちで演技したり、歌ったりしているわけではないと思う。

 

自分の経験の中で自分はただただ必死にやっただけなのに、それをみて、何だか感動して涙が出ちゃったよ。と言われたことがあった。それはスポーツをやっていた時のことだけど練習しても練習してもゲームに出れずにそれでも毎日同じ事を繰り返し、やっと出ることができた時私の思いとは又違った思いでみていた人がいたということだと思う。ステージの上の表現とか人の心を動かすものとかはステージに上がる前までにその人間がどれだけの想いをこめてきたかが全て出てくるのだろう。そういうものは頭で考えて評価しているわけではなく、やっぱり心が感じてしまうのだろう。全ての人がそういう見方、感じ方をするとは思えないけれど、感じる人は感じるのだと思う。全くわからないことばかりなのだが自分の感覚に忠実に動いてゆくしかない。そういうなかでしか私という人間、人々の深いところにある感情をは触れ合えないと思う。

 

 

 

【36歌仙】

 

美しい。36人の歌人たちは、今、何をつぶやき、離ればなれになった他の歌人に対して何を語りかけているのだろうか。月並みだが36人揃って一本の絵巻になっているものこそ価値があろうかというものだが、この絵巻は一人一人の完成度が高いせいか、ばらばらになって又新たな生命を持ったような気がする。別れた隣人にテレパシーでも送って近況報告でもしているのではないか。所有者もそんな関係に興を覚えているのではないか。こんな風に考えるのはロマンチシズムに偏り過ぎだろうか。ともあれ、本来先祖の偉大な文化に対して、いくら生きるためとはいえ手を加えるというのは冒涜であろう。しかし、第2次大戦中だったらどうか等、時代の波に逆らうことができないこともあるかもしれないと思うと、何とも複雑な思いである。

 

重要文化財認定制度ができる以前のこと、財閥の手に所蔵されたのは、それでも幸福なことだったのかもしれない。芸術は、金は無くとも心ある。理解と造詣の深い人に所有されることがその作品にとって命輝くことになるのかもしれない。作品を所有していること自体がステイタスになるというのはやはり悲しいことだ。何人もの過去の所有者達が登場したが、昭和電工の会長にその気配があったのが悔しい。逆に愛しんで来た人もいる。国が国宝なりにして、回収(。)することはできないのか。いやこれは回収ではなく、各々から買うことになるのだろうが、又36人勢揃いさせてあげたいと切に思う。せめて七夕のように、一年に一回でも顔合わせができないものか。そして、一般に公開されないか、切に望んでしまう。仏様などでも日本、又海外まで巡って大切にされているものもあれば、悲惨な末路をたどってしまうものもあり、時代の波に翻弄されるのは、人間だけでなく、その人間が生み出した芸術も同じである。人間が生み出したものだからこそ、その作者を替え尊重すべきであると同時に、自由にされてしまう運命を伴ったものなのかもしれない。修復士によって、新しい時代の命をえているたくさんの芸術がある。先祖への畏敬と功績への感謝だ。金銭と芸術は切っても切れない関係にあることは、これからも変わらない。しかし、この絵巻のような切断ということを今後許してはならない。36人、みな元気で、ともかくは良かった。それにしても、斉宮は美しい。··

 

 

 

【日本柔道物語】

 

世界が目標の人は、目が違う。空気が違う、発するエネルギーがとても大きく豊かだ。目指す事が大きいと小さい事は自分をマイナスへ引っ張る要因にはならない。そこがその人の強さの部分だと思った。地味な練習の繰り返しが試合とかそういう一瞬の部分にきっちり出てくる。この恐ろしさを皆体でわかっているんだと思う。だから手は抜けない。気が抜けない。集中する。集中してない人の動きはきっと周りの人がすぐ気づくと思う。空気とか目とかそういうもの全てが体から外へ放たれてると思う。

自分もトレーニングへの取り組み方や授業の受け方、今という時を使う過ごす自分を判断すればすぐそこにその「気」の状態がわかるはずだ。そこで自分を引き締めるかどうかが自分の器という力にかかっていることだと思う。

 

自分と戦い(闘い)世界を目指した人、目指している人の深さはやはり素晴らしい。小さな事に負けそうで立ち止まりそうな自分が恥ずかしい。そんなことはあってあたりまえでいい。あるからって困るな。不安が在るのは生きてる証拠だ。傷みがあるから強くなれる。そう思えることが本当に有り難いことです。

 

山下さんや斉藤さんがにこやかに自分の瞬間を語っているのを見て、自分は自分の瞬間を語れないまだまだ未熟者。という事を実感しました。その道のプロは、意識が流れていてはダメだな、と。深くなってゆこうとする自分ならば、今を全て先へつなげてゆこうとする自分と、今が全て先へつながってゆくんだという意識を持っている自分をどんどん見つめてゆく事が大切だという事。そしてそれをどんどん具体的にしてゆく事。具体的にしてゆけないのは本当に見つめきってない証拠です。とは言い切った自分だけれど、まだまだそんな深いレベルに居ません。その現実は確かですね。それを受けとめて心して進むこと。求め続けること。自分の一瞬一瞬を大切にしている人は、その一瞬を後の方に活かしてゆけるんだな、という事をとても感じた。私もその時の輝きを大切にしてゆくことで先が明るくなっていくんじゃないかってことを思います。だから今よりもっと今への意識を強めてゆこうと思うわけです。

 

武道においては、武技を駆使しての命がけの勝負にその本質があるが、ヴォーカリストにおけるステージングにおいても、主観的には勝負そのものといってよいのではなかろうか。それまでにつちかわれてきた全人格を賭してのステージングを行う。それぐらいの覚悟がなければとても人を感動させることなどできぬのではないか。武道と言わぬまでも、スポーツの世界における試合に臨むまでのプレッシャーに打ち勝つ精神力や、試合における集中力などは大いに学ぶこと大であろう。武道における勝負は命がけ、つまり負ければ死であり、求められる精神力は大変なものである。

 

ヴォーカリストにとってのステージでは、負ければ(とちれば)死ということはないが、平時から「歌わなければ生きていけない」「生きるために歌う」といった精神状態に自らを追い込む必要があると思う。そのぐらいの気構え、心構えがなければ、歌に人生が、人格が投影されないのではないだろうか。私の歌に対する取り組み、姿勢はどうであろうか。おぼっちゃんの遊びにならぬように自らを追い込もう。

 

 

 

【久保田一竹】

 

一竹さんの存在を知ったが、とんでもないおじいさまが居るもんだ、とびっくりした。まず60近くになってからのデビュー、成功、80の今でも100まで頑張って布を染めると言い切るこの前向きさは凄いと思った(だって、時代、60才になったら無理矢理人生の墓場へおいやられるような世の中、って感じなのに)。

 

一竹さんのことばで3つ印象に残ったものがあって(1つは100まで頑張るお話)、まず“赤を赤でかかずあとで見た人にあれは赤だったのでは、と思わせる”というのと、“痛んだ筆を捨てず、ためておいてお礼を言ってから処分するのが筆に対しての礼”と言われたことです。これがすごく心に残った。

あと最後、SymphonyoflightとBurningsunをみて、Burningsunの方はまるで太陽の中でシヴァ神がDanceをしているかのように見えた。シベリアの夕日の美しさ、一瞬私も感じられた様な錯覚を受けた。

 

 

 

アイルトン・セナ

 

人はいつの日か必ず死ぬわけだが彼らは自ら生死の舞台に立っている。彼らの顔を見ていると自分のやっていることからもう離れなれないという顔をしている。何の迷いもない何もかもそぎ落とされたような顔。きっと心もそのままなのだろう。一つの世界で生ききっている人間には隙がない。自分音能力の限界に腸炎するとうこは自分自身でラインを決めなければ底なし沼のように闘いは永遠に続いてゆくのだろう。どんなことをやろうと生きることは苦しみやつらさを伴うものだ。生きるといこと自体塊のようなもの。命というものは自分で握りつぶしてしまわない限りいつ失くなるかわからない。彼らは自らの生死の中で生きているけれど、他の人間だって皆意識しないだけで舞台は彼らと同じなのだ。レースの為にこれ以上できないという準備をし極度の緊張状態に自分を追い込み、そんな中でも冷静に自分を見つめている。ふつうの人間はそういう生活をというより生き方を選べない。選びたいと思っていても選ばないということは選べないということだ。彼らがそういう生き方をするのは、やっぱり生きている充実感がそこにあるからだろう。

 

一つのことにかけている人間というのはブラックホールが凝縮されてものすごい質量を持ったようなものに見えてくる。強烈に燃えている一つの塊。人間は生きている間に実にたくさんの事をやるけれど結局自分が満足できればいい世界だと思っている。だから人の生き方に対してそんなもので満足していいのかという気持ちはない。でも自分が死ぬ時、この世からいなくなる時、自分の生にありがというというには今思いをこめて生きなければできない。それはどんな結果を出したということではなく、どんな思いをもってどういうふうに生きたかを大切にしたい。

 

結果が出なくては意味がないという人もいるが、他人から見れば社会的に認められることがひとつの結果だと思うが、やっている人間にとったら自分の思いが全て結果だと思う。彼らの仕事は回りの人間の支えと力がなければ成し得ない。ひとつのことを完璧に仕上げる為に一体どのくらいの人間の思いがかけられているのだろうか。人間の能力とか心の素晴らしさに胸が熱くなる。1ミリや100分の1の世界で生きている人のこだわり、集中力、思いは予想以上にものすごい。

生死につながっている分妥協は許されないメカを設計する人間、作業する人間、デザインを考える人間、ボルトを作る人間皆自分のやるべきことに力と思いを全て注いでいる。ドライバーは主役かもしれないが一人では絶対に主役にはなり得ない。もちろん主役になるには才能や能力、その人間の正確とか気質とかいったものが関係してくると思う。誰もが表舞台に立てるわけじゃない。かといって裏舞台を影とも思わない。やっている人間にとってそこが表舞台なのだから。

 

 

 

丹田開発法】

 

自分の体という呼吸力の極意ものは今もって謎が多い。腹式呼吸を意識してするようになってから皮膚が薄くなり柔らかくなった。感覚というものは自分が体験しないと本当の意味ではわかったことにならないようだ。なんだかとても不思議な気分でまじまじと見てしまう。一流の歌手が若々しく見えるのもたくさんの空気を食べて吐き出しているからだろう。呼吸なんてあまりにも日常的で意識しないことの方が多いがそういうあたりまえのようなことの中にこそ奥深いものが秘められている気がする。世の中はあまりにもサイクルが速い。朝に夜のことを考え、今日ではなく明日のこと、老後を考える。ゆっくりと呼吸することもないのだろう。自分の呼吸に神経を集中していると心の中が冬の夜空のようにビーンとはりつめてくる。そして自分の意識はあるのだけれど呼吸が主人になった気がしてくる。それは全然嫌なことではなく結構気持ちいいものだ。

 

呼吸について考える時どうしたっても自分の体と心について考えざるを得ない。体というものは今まで記憶したことにあまりにも従順で新しいことに対して反応はするけれどすぐ忘れる。教え込むには時間がかかるけれど動物に芸を教えるように繰り返しやっていけば必ず覚える。でも自分の意思で正しくやろうとしなければ体は「ああこんなものでいいのね」と楽することに慣れてしまう。こんな時自分の体といものが自分勝手な子供のように思えてくる。「上虚下実」ということばがあったがこれは今もってできていない。気がつくと必ず方に力が入っている。多分それはここでいう丹田への意識、集中力が足りないからだということだろう。お尻の筋肉がゆるんでしまうと当然丹田周辺もリラックスしてしまい、その結果上半身が緊張するという逆の型になってしまう。これはどうにかして自分の意志の力で自然にできるようにしていかなければならない。自分の感覚に敏感になり、できているのかいないのかを知ること、そしてできたらそれを何度も何度も繰り返すことが大切。自分の体のことは自分にしかできないのだ。この呼吸法を見ながらやっただけでかなり息が深くなるのを感じた。丹田に意識を集中するとじぶんの目も一転を見つめるようになってくる。腰は要ということばは本当にその通りだが意識せずに動けるようになるには大変だ。腰が入っている人の動きはとても自然だし美しい。基本というものは習得するのに時間がかかるし、完璧になるということはあり得ない。どんな分野でも動きが美しいという裏にはその人間が長い期間繰り返して身につけた基本というものが必ずある。基本は自分がこだわろうと思った分だけやれるものだけれど、基本がなけりゃ何の発展性もないと思う。

 

自分でトレーニングをしていてもそれが歌につかえるかつかえるかの判断はやっぱり基本ができているかどうかだと思う。自分にあったトレーニングの形は人それぞれだと思うが続けなきゃ意味がない。でもこの続けてゆくって事は本当に大変なことで、何か強い思いを持っていなくてはできないだろう。繰り返し何かをやるということを「なぜやるんだ。」と考え出すと芋づる式にどんどん疑問がわいてくる。歌をうたいたい。本物のうたを、今やってることが歌にどうやって表れてくるのか。それは私にもわからない。結局スポーツと同じだと思う。基本練習をたくさんやる。ゲームを想定してあらゆることを部分的に強化する。ゲームが終わった時何ができていて何ができていなかったかを知る、そして又トレーニングをする。どんなこともそういう繰り返しをしていくことでしか身に付かない。情熱って形としてみえないけれど歌をうたってしまうとその人が赤く燃えているか青白く消えかかりそうか見えてしまう。いろんなことを考えるけれどいつも行き着くところは「私は私の人生を生きたい」ということ。それで生きているようなものだ。

 

 

トキワ荘

 

(創造万歳!)西陽がよくあたる路地裏だったのか!いつも集まっていた求心力がったということか!手塚氏の「色紙とは文字を書くためにある。間違ってるんだ、日本だけだ、こんなことやってるのは」こう思って書いていたのか!送り手の気持ちを考えたことがあったか。否!電車が来るギリギリまで子供たちにサインを書く藤子不二雄。鳴々!有名人は辛いヨ、ということか。この二人にみる不思議な人と人との出会い。|漫画少年」は表現させるスペースだったんだ。表現させたかったんだ、表現する喜びを与えたかったんだ!こういう有形無形のエネルギーが手塚治虫につづく漫画家たちを創り出していったのか!そのエネルギーの核をなすものは何か。漫画界の発展か。子供たちへの深い愛情か。「漫画少年」がなかったら絶対、漫画家になっていなかったという二人。絶対ということばを使うまでのことなのか!自分の命を自分の力をどの世界のために尽くすのか!宿題!「漫画少年」に載る手塚氏の漫画を読むのが儀式だったという。まるで神との会話じゃないか!動かない絵が動く!音のない絵から音がする!手塚氏の中に絵があり確かな音がまずあり、そしてそれを確かに伝える腕力があったということか!そこは映画。読み終えた後、身動きできなかった二人。二人のその感受性は何だ!送り手と受け手の交信。これも創ることの醍醐味!笑う手塚治虫、弾けるように笑う手塚治虫!しかし、赤塚氏のところの猫は素晴らしい!石森氏の膨大なビデオ(映画、ドキュメンタリーなど他人に撮ってもらってでもみたいという気持ち)、瞑想室、創り出すための創意工夫。転じて森安氏。日給8000円、妻子に逃げられる。「25年のブランクは取り戻せない」何ということばだろう。簡単に言っているように見えるかもしれないが、何と苦汁に満ちたことば!その対極にもがくような「取り戻したい!」がみえる。

トキワ荘のメンバーの現在の活躍に対して「スタートを知っているから、うまいと言えばうまいし、へたと言えばへた」半分は確かにそうだろうだが半分は。裏腹なのではないか!だが彼にはこういう一見残酷なまともな。アホな。質問にできうる限り体の中心から答えていこうという強さがある、腹をくくった姿がある、つき抜けた明るさ(残酷なまでのしたたかな)がある。それは一体何なのか。わからない。そして水野女史。徹夜2日目。顔洗わず風呂入らず、食べていられない。家族は。徹夜4日目、何にもしたくない、とりあえず寝たい!息子は一体何を思う。夫は一体何を思う。編集者も格闘!新人を励ます赤塚。うわっずべりの「賭けて生き抜くことは素晴らしいと思います」のことば。そして森安氏と赤塚氏。「天才とまともにつきあえるはずがない」と思い、でもそこで逃げずに踏みとどまって「そこから僕の人生が始まる」と、このとき語れる赤塚氏。その強さ。仕込みが違うんだ、圧倒的な量と質の仕込みがあるんだ。身銭を切った膨大な創り出すための材料があるんだ。再び新人。賞をとっても仕事なんかない。いつだって誰だって揺れてる!大事なことは踏ん張れるかどうか!手塚治虫の意志の強い口角のあがった唇。「あと一作みせて!是非お願いします」漫画界全体を考えている、ということか!トキワ荘の頃は新人漫画家に光なんか当たらなかった。でもそれは創るという面から言えば幸いなのかもしれない。5年10年20年と描き続けて欲しいと祈らずにいられないどんどん消え去っていくのか!生み出すために苦しむ赤塚氏。細かい場面設定、編集者とブレーンとで絞り出すように考えあぐねた末のゴーサイン。題材は家庭内暴力。社会に、今にアンテナを鋭く自分なりにはっていなければ出していけない。トキワ荘に入るにあたっての寺さんの長い手紙。同じ志を持ったもの、それはただいい漫画を描きたい、というその一点。寺さんがいたからトキワ荘はある意味でエネルギーを持てたんだ!空気が濁らなかったんだ!祭りの日々をそこで過ごせたんだ。こういう形の漫画への情熱の表現の仕方があるのか。一体どんな手紙だったのだろう。熱中して書いているとき、自分でも感動する一瞬の素晴らしい絵が描けたと思える時間がある。それが忘れられないから今でも描ける、という森安氏。これこそが創作の喜びか!トキワ荘とり壊しに際し、ビデオをまわす藤子不二雄。記録せずにおれぬものがここにあるんだ!いつも笑顔の手塚氏。なぜだろう。編集の人が来るとよく飛び降りたという窓。何という修羅場!10何軒目で逃げる手塚氏をやっと見つけた編集者。刑事が高飛び寸前の犯人をつかまえた喜び、またつかまったかと笑う手塚氏。まさに闘いの場で笑う手塚氏に空気が一瞬和む。なぜ何年も経って笑って会えるのか。まさに生きていたからか!好奇心を持ちながら食べる手塚氏。寺さんが気弱なことをいうと慮るみんな。寺さんは15年前に漫画をやめた。「まんが少年史」を自費出版、漫画に対する気持ちは一貫しているトキワ荘のメンバーに対して純粋に子供のために100%思っているとは思わない、と言う。この人にとってトキワ荘とは、漫画とはなんなのか。この人にとっての漫画への闘い挑みとはどういう形で今この時あるのか。空気を濁らせまいと志を抱いていた人がこうなる。人間の重さ、人生の重さ。10年間発表し続けるのは奇跡に近いとのこと。森安氏、漫画をみてもらいたいと持ち込む。描き続ける森安氏。闘い続ける森安氏。「長い」と門前払い。あきらめず次へ持ち込む。20数年間のギャップは取り戻しようがないと自ら語る森安氏。励ます少年ジャンプの編集者。本当にいいものをささえる志、本当にいいものを育てる志。その視点。「やっててよかったと思う」森安氏の一言。笑みの中で号泣!ふるい立ってるしぜんとふるい立っている、イヤ、しぜんとじゃない、イヤ心の底からふるい立って立ち向かっている。ギャップをものとしながらものともしない強さ。頭が下がる。崇高ですらある。何ちゅう男だ!何なんだ!一瞬の喜びに賭ける、理屈じゃない。これは物を創り出す喜び、苦しみ森安氏が主人公の話だ。

 

 

 

金子みすず

 

この酒井大岳さんの金子みすずさんへの惚れ込み方はすごい。この人自身が「私に惚れられたら恐いですよ」と言っているくらいだから。確かに恐そうだみすずさんが生きていなくてよかったかもしれない。世に広められた作品や人間の裏には必ずといっていいほど「こいつを世に出さなくては」と思う人間が存在する。たとえばその人がアーティストではなくても、本物を見る目をもっているからわかるのだろう。人間、本気でどうにかしようと思えばどうにかなるものだ。どうにもならないのは本気で思っていないからだ。多くの「なんとなくいい」と思っている人に認められるより、「これは絶対、世に出さなくては」と思っている一人の人に認められることの方がどんなにいいか。金子みすずさんを最初に認めた人は16年間も山口に通い続け、出版にこぎつけた。16年間もだ。何てあつく強い情熱をもった人なんだろうと思った。こういう人間に認められたら生きてきた甲斐があったというものだろう。彼女の作品は、人間がなくしてはいけないなと思えるようなものがたくさんある。子供の頃っていろんなことに興味があったはずなのに、いつからなくなっていくのだろうか。学校で学んでいることって生きることに役立っているのかと考えてしまう。ひとりで生きられない人間を増やし、協調性は個性より重要ですと教えこまれ気づいたときに「私って生きているのだろうか」なんてことになる。みすずさんはひとりの時間を本当に大切にしていたのだと思う。考えることというより感じる心を大事にしていたみたいだ。ひとりでばかりいる人間にむかってまわりの人間が言うことは、「人間はひとりでは生きていけない」ということばかなり的外れなことなのだが、この日本ではひとりでいることや考えごとをしていることが孤独にみえるらしく、どうもいいようにはみてくれない。何かを感じることは、ひとりでないとできないのだ。他人が存在することで自分の感覚に集中できなくなる。人は段々と心からの感動をなくしていく。それは本当にさみしいこと。たぶん、生きていることがあたりまえと思うことが、すべての感動を奪っていってしまうのだろう。今、生きていることほど不思議なことはないのに。いつの間にか自分の視点からしか、ものごとをみれなくなってしまう。みすずさんの視点はすべて自分じゃなく、まわりのものの気持ちと同化している。酒井さんがものを深くみつめて考える「観る」という見方のできる人」と言っている。ものを深くみつめて考えることは誰にでもできるものじゃない。これは詩だけに言えることではなく、表現していこうとする者にとって必要なことだと思う。絵心があるとかないとかいうけれど、それは物をよくみつめているかいないかの違いだと思う。よくみない人の絵はいきていないから中身がみえない。平面に描くわけだから、それが平面のまま終わってしまったら描かなくてもいいのだ。りんごを描くとする。じーっとみつめる。触れてみる。転がしてみる。食べて中身をじっとみる。一緒にねてみる(。)とにかくあらゆる角度からみつめて、はじめて中身のある絵が描けていくのだと思う。絵に例えてみたけれど、いろんなことに言えることだろう。表面だけみることは誰にでもできる。目があるのだから。心の目はたぶん、瞳の輝きとして表われてくるのだと思う。目は誰もがもっているけれどその人の瞳をみればすべてがみえてしまうくらい恐ろしいものなのだ。いくら目薬をさしたり、目にいい食物を食べたり、化粧したって瞳は誤魔化せない。話題を転ずるということは難しいことかもしれない。人は人の話が大好きだから話しだしたらきりなく話している。そもそも黙っているということができないのだ。じっと座り黙っていることなど不可能に近いと思っている人が多そうだ。なかなか本当のコミュニケーションをとれる人間がいないのは、さみしいことだ。自分ひとりで楽しむことができないものだから人を求める。求められる人も求めているからいいのだが。どうして、こんなにもひとりの人間として、立っている人間がいないのだろうか。ひとりで立つ人間は、その人の精神的なものが表に出ているはずなのだがみえない。「人間はひとりでは生きてはゆけな「い」ということばの意味を間違えている人が多すぎる。アジアの死生観は、死後また生まれ変わるというが私はそうあってほしいとは思っても、信じているわけではない。死んだら星になるという考えの方が好きだ。死んで土にかえっていくのだけど、私は天に昇りたいな。そして宇宙から多くの人々をみていたい。どんな人間も必ず死ぬ。どんな死に方とかいくつで死ぬかなんてわからないが必ず死ぬ。死んでから考えればいいのだ。それは無理か。

 

 

 

大山倍達

 

教えている時の気迫・真剣さ・緊張した空気がすごく、見る方へもそれが伝わってくる程だった。そこの場にいる人、一人一人が師に近いテンションで練習しているが、70歳近い師の迫力にはかなわない様だった。一人で何十人も相手に戦っている雰囲気だった。

 

空手のことは何も知らなくても、一度観ただけですごさに圧倒された、この気迫!いるだけでパワーを出せるようになるのだったら空手を習ってみたくなる。意外だったのは、師の人間らしい弱さを持っている所を人前で語っていたことだった。空手階のNo.1になってからの孤立や、心の中の恐怖、プレッシャーなどと戦うことが、人間にはどれだけ大変なことであるのかを身を持って語っていたと思う。どの場面でも真剣に人と接し、真剣に取り組み、真剣に語る人であり、そこにはすごい説得力が生まれ、多くの人の心をつかんだのだと思う。海外で師はたくさん崇められ、そして賞賛されていた。このことをしっかり捉えなくてはいけないのだ。

 

 

 

【詩人 坂本真民】

 

午前3時30分。大宇宙の波動が最も強いときだという。波動、というくらいだからやはり強い時と弱い時がある訳だ。字宙のうねりか、いや、大宇宙のうねりだ。確かに宇宙でなく大宇宙で見えてくるものがある。確かな広がりと確かにいだかれる実感か。未明混沌の一時。悪魔の声、神の声、阿修羅の声、生命に満ち、生命に溢れる時、だという。そういう時があるのか。素晴らしい。

坂村氏はそれを感じることができる。混沌の素晴らしさ。それは何かを生み出すための必然の形なのか。人間は生身なんだからいつだって混沌としている。じゃあいつでも何かを生み出せる状態にあるのか。そこに何を加えれば、何を引けば突き抜けて生み出すところまで行けるのだろう。川の流れの音から何を訴えようとしているか聞き分けることができる、という。川が自分を育て作り上げてきたと生命の川だと。自然に教えられる。自然が親。自然がことばを持っている。風のことば、土のことば、川のことば、海のことば、空のことば、雑草のことば、植物のことば樹木のことば、形あるもの形ないもの、全てがことばを発している。問題は自分の心。心はどこにある。丹田にある。私の中の太陽。いつでも私の中にある太陽は光り輝いているだろうか。本来ある、神から今までを生きた人々から頂いた力を使って本来やるべき事をやっているだろうか。

 

太陽は、暖かい。暖かい、と思える距離にいてくれている。まわりを暖かくしているだろうか。こういうことだ。やるべき事はいつでも無になれ。いつも白になれそうできた時に自然のことばが聞こえてくる。人間の想いが伝わってくる。冷たくされても罵倒されても無になれ。必ずそこで見えてくるものがある、と思う。子供はいつでも無だ。世界と素早くごまかされないでいい意味の折り合いを付ける。あの集中力。お手本は子供だ。やわらかく豊かな子供。私だって子供の時があったのだから、どこかにその感覚が残っているはずだ。呼び覚ませ。貪欲に楽しく生きる腕力を。海からの風を粋に行こう、海に吐き捨てよう、母の父の香りがする、大いなる人の教えがある、古くなった袋に新しい風を取り入れよう。何て素晴らしい詩だろう。子供になって、謙虚に海の前にたたずんでいる姿だ。しかし、海は懐が大きいんだなぁ。吐き捨てても許してくれるのか。甘えさせてもくれるのか。しかってもくれるし。大事なことはどういう自分で海と向き合うか、ということなのだろう。タランコタランコしてたら相手にしてくれないし何も言ってもらえないかもしれない。でも自分が生きていれば優しいんだな。福島先生は海のようでもある。太陽にしたり海にしたり忙しい。でも、そう思う。「念ずれば花ひらく」それをへそのある石に彫る。東向きに太陽のあたる方へ置く。いつしかその石を人々が拝むようになる。そりゃそうだろう。念ずれば花ひらくのか。言い切っている。信念か。ひらいた方がもちろんいいに決まっているけれども大事なのは花ひらかせようと念じることではないか。

 

素晴らしい花を傷だらけになって血みどろになって見せてくれる人もいる。結局ひらかけられない人もいるかもしれない。でも大事なことはだれのでもない自分の嘘ではない花をひらかせようと念じ続けることなのではないか。続けること。ただ生き続けること。そういう熱さを胸に持って。一つのことを念じ続ける。しかし、何故石にへそをつけたのだろう。風は感動を運んできてくれるか。そう思えたことあるだろうか。風には笑いに似たものを感じる。虚栄を笑う。悲嘆にくれる様を笑う、喜びを一人のものにしない。耐えろ、と吹き付ける、転換、分かち合い。風には確かに力がある。微風にも強風にも、ことばがある。

そうか、あのチベットでの賢明に高い美意識の中に今生きているあの人々のそこここで吹いたのと同じ風がこの日本のこの私にも吹き語りかけてくるのか。風でつなげてもらっているのか。風は自由で力があるんだな。人間を包み込むような豊かな瞳のチベットの人々。学びに行きたい。午前3時30分の風の中に立てば会えるだろうか。声が聞こえるだろうか。山は父だからそこに厳しく立っていてくれればいい。川は母だから体をすっぽりつけて抱かれていよう。いい詩だなあ。にただただすっぽり抱かれたい、と思う時がある。人に厳しくたちはだかって欲しいと思うときがある。それはこういうことなのだろうか。人間はいつでも父や母を求めているのだろうか。自らを育ててくれた川へ感謝をする。

 

坂村氏の表現の仕方。自然に感謝する。私は一体どうやって今多くのことを教えてくれている自然に感謝できるだろう。思いだけか。自然の楽しい声を聞くのは何といいことでしょうか、か。川と呼吸を合わせ、私の心を伝えるであろう、か。そうかこの人は自然の声を聞くだけでなく話しかけるのか。樹に風に川に空に雲に花に全てに。何と豊かな人だろう。幸せだろう。

「ハイ」何にもかえがたい程美しいことばだ。という。日本の美しいことばだ、と。美しい返事だ、と。本当にそう思う。相手の前に謙虚にたたずむ姿が見える。清濁併せのむ度量が見える。こらえるけなげさが見える。たった二文字。無限に広がる。暖かさが。ことばは素晴らしい。長年連れ添った妻が思い病にかかる。「死なせてなるものか」。病に挑む。一人にみんなが力を合わせる。

 

映画「クレヨンしんちゃん暗黒タマタマ大追跡」の中で、ひまわり一人を両親、兄、オカマ3人、サタケが命を掛けて助ける。身を挺してだ。「死なせてなるものか」。死んでは駄目だ。生きよ。ほうの木の下で祈る。手と手が重なり合ってる。手は重なり合えるものだ。手にはそういう力がある。手には命がある。計算ができるようになった事を3人で乾杯するという。生きることを知っている3人。豊かに今を生きる3人。「青ホウ人形」何とたおやかで暖かい表情だろう。生きて話をしてくれる、という。「多くの人を幸せにせよ」と。多くの人を幸せにせよか。多くの人をか。そして念ずれば花ひらくか。それができたらどんなに幸せだろう。

四国は仏島だという。88ヶ所の札場が巡りつないでいると。大師の徳を今も伝えている喜び、安らぎを与えている、と。そうか、今をどう生きるかは自分の子供だけでなく、綿々と連らない明日を未来を生きる人々に関わってくるのか。未来に向けても私は一人ではないんだけ。一遍上人は素足か。鳴呼、生きるとは、こんなにも豊かで厳しく喜びに満ちているものか。生きる。坂村氏のつややかな子供のような顔、忘れまい。

 

 

 

福島泰樹寺山修司 追悼短歌絶叫コンサート】

 

寺山修司氏に対する考察や自分の見解がなくても伝わってくる、飛んで来てくれることを期待していたが、難解になってしまっただけだった。ならば、この寺山氏に対する“想い”がつ伝わるかとも想ったが、それは構成や短歌のならびを考えれば分からないでもないが、“表現”声にして、自分の中にあるものを外に放り出すという作業においては感じられなかった。

なぜなのだろう。叫んでいるからだと私は思う。叫びたい所はストレートに叫ぶべきだし、でもその他の“ひだ”のような部分においてはもっともっといろいろな表現があって良いと思う。それに合わせて曲が止まっても良いし、しゃがみこんだって良いと思う。

ささやき、うめき、笑い、涙等々。ただ個人的には、この福島さんの自分勝手な感情(本当にそうなのかどうかもよくわからないが)を、「私は寺山さんが好きだ〜」という気持ちだけで渡されても、“そうなんですか、それで。”で寺山さん自身の詩の意味とか中原中也を捧げる意味とかが曖昧で分からなくなる。例えば、パンク、セックスピストルズスラッシュメタル等々も私は聞いてみたいし、叫ぶ詩人の会も知っていて云っている。だから、福島さんにとっての寺山氏は“そういうことなんだ-”と思うわけで、寺山氏自身を観客に訴えるものではないのなら、これでもいいのかも知れないし。

しかし、それが私のように寺山氏の作品を、氏を、どう料理して出してくれるのかと思っているものには重すぎてしまう。いずれにせよ、私自身がもっと寺山修司を研究しない限りこのコンサートに近づくことはできないと思った。また、"語って"くれる方がわかりやすいと思った。歌でも語りでもない部分が効果的である部分もあったが、まずは何をいわんとするのかわからなければ、こちらも受け止められない。云っている“ことばがわからないのではなく、“語り”もしくは“歌ってしまう”方が伝わりやすいと思う。シャンソンがいい例のように思う。何となく美輪明宏氏の「老女優は去りゆく」のシーンが流れ続けていた。(以前TVでやったのを録画して持っているのですが)ものは違えど、鳥肌が立つのは、美輪さんの方。これは個人的な好みだろうけれど。更に中原中也の「生い立ちの歌」については、一過言持っている私としては、「ああ、こういう叫びの部分があっても面白いかも。いつもならば昼夜のじめじめした心理描写を別の箇所でしっかりとやった方がいいかも」とも思った。その方が“叫び”が生きてくることも考えてのこと。さて、このビデオは今の若い20歳ぐらいの人はどう思うのでしょう。かんばみちこさんは、どんな人か知らない世代(私だってリアルタイムではないが)にとっても興味があります。聞いてみたいです。

 

 

 

宮沢賢治

 

見ている最中も、映像の世界へ引き込まれていくとても不思議な空間と雰囲気。宮沢賢治の物語だったからこんなかんじだったのかなとか思うが、あの化学の実験カラーの鮮やかなことといえば、本当に幻想的でした。自分の創る世界にどんどん人を引き込めるというのは素晴らしい。そして凄い。簡単じゃない。最初の方に草野心平の朗読があった。日本昔話以上の深さを感じた。とても切なく、そして生きてきた長い道のりを感じさせるような芯を感じさせる声。優しく暖かい世界のような、不思議な感覚だった。いるだけで価値のある人とは、こういう何かオーラを発している人。存在感のある人。宮沢賢治はどう生きたのだろう。草野さんの「とてちてけんじゃ」のリズムやひびきがとても心和むものだった。ああやって読むのか。と感心しました。字だけでは何のことだか、何を表現しているのか方言なのかさえわからなかったから。宮沢賢治の原稿をみて、健闘した様子を見て、「生きてるなぁ」というふうに感じました。ものを創る人間はああやって自分と作品と闘うもので、長い闘いを繰り返していく中で本当にそれが意味するものを、探ることは、とても深い。最善をみつけることや、より以上のものに変えていくことは、創る側の苦痛とそして喜びとを両方抱えている。どちらを選んでいくかは、本人次第だ。どういう自分がどういうものを選んでいくのか。深いものはたとシンプルでも人の心の奥に残り、時や国境を越えるんだということを改めて感じました。あ、シンプルだからですね。余計なものがないということは実は凄くて、やろうってすぐできるもんじゃないのと、余計なものって一体何かということを判断できる力があること、その力をつけることがとても凄かったりすることを考えても、シンプルって偉大です。目指すに値することだと思います。常に思ってはは実行しなくては、本当にそういう生き方や人間へ向かえない。感覚の鋭さがより要求されるんだと思う。シンプルなものは、素材をより活かす方法であったりもするし、質の部分が見えていないと、どうも成り立たない。宮沢賢治の作品にもっと触れてみようと思いました。彼の創る世界に触れてみようと。ことばだけで見えない世界や、見えないけど感じる感情を伝えていく(イラストや絵も入っているけれど)、このことの重さは宮沢賢治にもよくわかっていたことだろう。しかもこの重さに気づきだすと、妙に慎重になったり、ただひたすらに思慮深くなったりする。裏目に出るのは怖いけれど、この重さ知らずして筆は持てないだろうと思う。いろんなことが意味ありで、それでいてしぜんなことは本当に美しいと思います。ジョバンニの銀河をもう一度、活字で触れてみてその美しさにひたってみよう。

 

 

永平寺

 

私は一つの訳で20の解釈があるといっていた。など一つの解釈も1フレーズでも出せないのに、一体どのくらい差が離れているのか。まず、一つ出すことが課題か。お腹の動きがよく見えた。出し切って息が入るときに一瞬ゆるむ感じがして、またぐ一と力が入ってまたすごく姿勢がいい。それには声を出すということの力みがないし不安もないからか。腹から声が出ているのがあたりまえで、これができないとフォームのことなど気にできないのか。体のことだけでいうと、まず息が吐けて、それが声になり、その声をいくら使っても大丈夫なフォームができてくるのだろう。それと同時に表現を出していき歌にしていく。サザーランドという3人は3~18才の時点で15年もしていて、そういう人に追いつけないまでも同じ土俵に立つにはもっととにかくやるしかない。

 

(命を賭けて望むもの)凄まじい。何をそう思うのか。失敗したら死ね、という不文律があること。どんなことがあっても休んではならないこと。命を賭ける。命を賭ける。なぜ。どういう理由があるにせよ命を賭ける。命を賭けても手に入れたいものがある。今日一日、無事に過ごせるかが最大の関心事になるという。万一のとき、自然に溶け込んで生きたいというこの世での営利栄達と全く離れたところにいる。本当に欲しいものだけに命を賭ける。その中にも一日だけ人のための修業の日がある。それはなぜか。やはり生きた仏様に思えるだろう。それはなぜか。命を賭けて極めているからか。このためなら死んでもいい、と思えるもの。いったい何なのだろう。とにかくこの人は極めている。とにかくやっている。そして成し遂げた。そして今、日本国中のために拝みたおしたいという。こういうのも欲というのだろうか。他人のために生きる。彼に掃除・洗濯・子守に6年間を費やした小僧時代があることが大事な気がする。

 

 

 

【お水取り]

二月堂で、世の平安と人々の幸せを祈っていたとは。世の平安と幸せを祈ったことがあるか。ない。祈りとは段階を踏んで成り立つもの。それをすべて引き受けてくれる人がいる。自らの務めとして。燃え上がる松明の火の粉を頂く身になりたいのか、炎を創り出す人になりたいのか。すべて万事間違いなくいくわけじゃない。声明も若い僧が間違えるのを直されながら覚えていく。直す僧も昔は若かった。

僧が頭数そろえばできるというわけでもなく、様になる人々が大きく小さく支えている。どれ一つなくなっても駄目。互いに支えあっている。人々がいるから幸せを祈りたいと思う。無人島ではこういう形になれない。祈ってもらえることに感謝する。支える。私も日本の国の一人として祈ってもらっている。私はどう生きる。どうしようもないものを抱えながらも平安を祈らずにいられない。同居している。自分にできる祈りとは。

 

 

 

 

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鑑賞レポート1  746

 

 

 

 

エルトン・ジョン

 

何を人々に届けたいか(どういうステージを創りたいか)不思識な舞台だ、宇宙をイメージしたんだろうか。ピアノ弾きながらだから座っている訳だけれども握り拳つくりながらだ。歌の世界に入り込んでいる、ということか。しかしピアノ弾きながらどうして歌えるんだろう。踏み込む、ぬくののはっきりした弾き方だから分かり易い。鉄琴の音が美しい。タンバリンの人が鳴らしている間ずっと左手を上げていた。ニコニコしながら、イイナ。しかしピアノ弾きながら歌ってもの凄い力仕事じゃないだろうか。下手な20代のそれより体ごとやってる。席がすごく離れている人だって相手する訳だ、その熱気が演じ手の暑さが伝わるんだけ。熱いものがあって初めて伝わるか。伝えたい熱いものをもっているか。それが最初で最後。泣くギター。弾き手は恍惚状態だ。あれでなくっちゃ駄目なんだろう。音の世界に入り込まないと本当の喜怒哀楽は出てこない。入ったから表現されたギターが泣いて聞こえる。

 

エルトン・ジョンがこんなに激しく歌うなんて。マイクに口付けてる。息の音がした。息を吸っている気配だ。しかしあんな大音響の中で自分の声が聞こえてるんだろうか。でも、聞こえなきゃ駄目だ。メリハリのある歌い方をする人だなぁ、ピアノも。音程が動いても、低→高、動いてもポジションが同じだ。響き方が同じ、いつも腹で支えているのがわかる。観客席にあんなに人数が多いのか。目をつぶって歌っているが、時々客席を見ている。あんなにお客さん喜んでいる。お客さんを喜ばしてあげている。曲の構成:激しいノリのいい曲の後にしっとりしたもの。鉄琴のかわいい音がいいです。もう立っちゃった。座ってたら自分の体の力に沸き上がってくるものにも逆らうことになるのだろう。踊りだしちゃった。踊りながらピアノ弾いている、たたいてる、凄いステージ。持ってる力全部出し切ってる。太いテープが舞い、風船が舞い。コーラスの人も踊ってる。楽しいステージ。こういうステージもある。自分ならどういうステージを作りたいか。どうやってそのステージをしめくくるかは大事かもしれない。人々の心の中に残る。何をお客さんの心に一番届けたいか。

 

 

 

【ミッシッピ・クロニウルズ】

 

パワーと、説得力。そしてSOUL。これにつきる。あとリズム。シンプルだけど強くて、支えのある音楽。ブルース、そしてゴスペル。人々が何を求め、プルースやゴスペルを聞くのかが少しでも感じられた気がします。音と映像の力です。そして彼らの力。黒人の人のパワーは体の底から、心の底から、魂の底から湧いてくるものだなあって思うんですよね。そう思わせてくれる何かが、彼らの音楽や歌やハープには宿っていてそれがとても人間らしくも神聖なものとも感じられて聞いているこっちの人間に伝わってきます。彼らが愛しているものが何かという部分に強烈に触れられる瞬間のような気がします。彼らにとって音楽や歌はそういう高い位置のものなんじゃないかなと思いました。自分にとって音楽が深く根強く自分を支えているかどうかと、自問自答すると、まだまだです。悲しけれどまだまだです。けれど、自分にあるものを深めてゆく楽しみがあるってものです。人々が音楽を求め、何かを癒すことを音楽の世界の中に求めていっていることがとても自然だなぁという風に感じました。

 

ゴスペルとブルースの違いについて語っているミュージシャン・アーティストの人達の誇り高いあの顔がまたとても印象的だったし、見ていてこっちまでわくわくしてきたりして、何を求めて人がそこへ(彼らの居る場所)集まっていくのかが少しながらわかる気がします。心や体が踊るっていうのは、とても人間にとって必要なエネルギー。パワーだと思う。若返るし、心の底から、体の芯から力が湧いてくるってことはとても素晴らしいことです。フランク・フロイトのハープはまさに魂、ソウルって感じのする音色で、どうしてあんなに気持ちいい音が、気持ちのいいところで出せるんだって感じのするもので、ことばでは表現しにくいけど胸のあたりがぐっとくるようなそんな感覚におそわれます。体も勝手に動き出したくなってる。そんな状態です。

 

人に影響を与えられるということが、自分への快感としても残っていくだろうし、やってる方もプルースと観客の興奮と両方に触れていられる瞬間をとても大切にしてると思うし、私がこんな風に書くよりも、本人が体でビシッとわかって求めていることだろう。深い歴史がゴスペルにもブルースにもある。それが体に染みている人達の音楽はとても深いなとやはり思う。もちろんかなわない世界だ。

けど、体に何も藩みていない人にも楽しめるのが音楽なわけで、けど、提供する側には、その染みてる部分が何かの形で絶対に必要だなとも思う。どんどん染み込ませていきたいし、柔軟かつ吸収の容量の多いヴォーカリストを目指すってのはとても大きく気持ちのいい夢だと思う。少しずつでも染みていけるように、染みているものを大切にできるように。そう心がけている自分でいようと青い空や白い雲、大雨の日にも思う。

 

 

 

【ビル・T・ジョーンズ】

 

足の裏だけでとるリズムが、強く、正確だった。「重要なのは、演じている人間」だと、言っていた。確かに、同じタイトルで、それぞれ違うものが、表現できる。自分をどう出していくかが、課題なのだ。時間をかけて、自己の探求をする。これが、以外と難しい。

 

 

 

モータウン25周年ライブ】

 

ホセ・フェリシアーノ

素晴らしいギター。何が。韻をふんでいる様なリズムの心地よさか。何とも言えない和音、そしてあの弾きおろす指のはじき方。三味線のバチの感じとも違うし。やっぱりあの手であの指で5本で出るリズムを持った音なのだろうか。

 

アダム・アント

「行かないでくれ」が別に大きく歌いあげるんじゃなくて、ああいう表現の中に詰まっている。張り上げるだけが能じゃない。様は想いがどこにあるか、なのか。「君の笑顔が見た「いんだ」で始まる少女を前にしての歌。人から人へ。温もり。笑っている。心が、少女の心が溶けていってる。終わって少女を抱いたのは「聞いてくれて有り難う」「笑顔を見せてくれて有り難う」。伝える、伝わる。伝わったと思える。伝えてもらって嬉しいと思える。これにつきるのでは。一つの全うしている表現。

 

ジャクソン・ファイプ

マイケル・ジャクソンは、他の人の踊りと何かが全く違う。見て狂喜している子供がいる。どう感覚しているのだろう。リズムの素晴らしさか。踊りをものすごく練習しているんだろう。どんな歌い方でもいいんだ。自分の表現したいものがあれば自ずと自分のスタイルが出て来て。完成度を求めた遠い道のり。踊りながら歌っている。じっとして歌っちゃいない。自由だ!それでも。それだから。地団駄を踏んでいる。これでは足りない。何が。まだ伝えきれないほど想いがある。

 

モータウンの音とは、の質問に対して:これだけ見方が違うんだ。そうなんだ。それでいいんだ。イメージはひとりひとりのもの。でもイメージを持っている感じている。歌う人間の想いも同時に歌っていても違う。それでいい。でも、それがなければ駄目。それぞれでいい。でもそれぞれをみつける旅をつづけていなくちゃ見つからない。モータウンの歌い手はお互いを競争相手としながらその旅をし自分を見つけてそれを差し出してくれ。

 

 

 

【マイルス・アヘッド】

 

マイルスはまず存在感が強烈だ。何をしなくてもそこに立っているだけでオーラを感じる。すごく人を引きつけるものを持っている。私はマイルスに関する知識がほとんどないのでがもっと知りたいという気持ちになった。彼は時代がたつにつれ自分のスタイルがどんどん変わっていくのだが、根底にある音楽に対する誠実さは変わらないと思う。故の変貌なのだろうか。

 

数々のセッションを経てそこからいろいろなものを取り入れてきた、盗んできた。マイルスにしか出せない音をもっている。多くの偉大なミュージシャンは自分の音をもっている。楽器でも歌でも。では自分の音とはどうやって生まれるのだろう。今思うことは音楽に対してどれだけ自分が誠実に向き合っていたかという事。果たして今まで聞いてきた音楽にどれだけ心を開いていたか。素直で純粋でいられたか。まわりの雑音に振り回されない強さをもっているか。この事をいつも自分に問いかけていこうと思う。

 

 

 

【三大テノール

 

コンサートに向けてのリハーサルから、ドキュメンタリー形式で追い掛けていますが、見ているだけで、彼らの世界に引っ張り込まれて、コンサート直前には私も緊張してしまいました。三人とも、自分の最高の声を知っていてそれを自由に引き出しているところがすごいと思いました。時に、あまりに高音域で、自分に出せない声は、息だけの表現にしていましたが、声が裏がえるような無理はしないのだな、と思いました。P.ドミンゴ氏が「冷静さと集中力が大切」と言っておりましたが、重要なこととして認識しました。歌うときに、片手をピアノに置いて、片手を空中でゆらしていたかと思うと、次に両手を広げてみたり、全身を使って表現しないといけないのだと思いました。L.パパロッティ氏が「自分の好みの音楽を人に押しつけることはできない」と晴々と言ってのけてましたが、自分が納得する音楽を喜んでくれる人のために表現していれば、それ以上を望む必要はないし、潔いと思いました。感動しました。

 

 

【ミーナ】

 

「世界」のレベルを思い知らされる歌だった。ここまで、一曲一曲が違ったイメージに聞こえたヴォーカリストは初めてだ。有名なヴォーカリストでも“これぞ、この人の味”というところに落ちついている感じが強い人は多いし、それがあたりまえのように思っていた。曲のジャンルによる歌い分けと、単純には言い切れないのが、ミーナの世界だと思った。とにかく、一曲ごとのここで言う“取り組み”としてこなしている要素が、あまりにも多いのだ。全ての曲に共通していたのは、その歌声にリズムが宿っているのを感じさせるところだろうか。

 

ミーナの中には、年齢も性別も、国籍さえも様々な歌の数だけの人間が住んでいて、彼女の歌う時、その人間達は彼女の姿を借りて、それぞれの歌の主人公として物語っているように思えてしまった。私にとっては、理想とも言えるスタイルだ。ミーナの一曲にかける情熱・愛情の深さが伝わってくる。カラー映像の中で、彼女の心が、とても暖かいのを感じた。冷たい心であんな風には、とても歌えない。究極的な言い方になってしまうけれど、彼女の歌の背後には、愛が満ちていると思う。彼女は、自分の満足のために歌っているのだと思った。ミーナは、今の私に足りない物を、たくさん教えてくれたし、それを身につけたい、という気持ちを起こさせてくれた。

 

 

 

ベット・ミドラー

 

高校の初めの頃、ローズの主題歌が好きになって映画を見た。当時の私にはベッド・ミドラーが歌うロックやブルースはどうしても理解できなかった。でも最後のローズが倒れて主題歌が流れるラスト・シーンだけはすごく心に今でも残っている。

そして久しぶりに映画で流れる歌を聞くと、なんだか初めて見るような、開くような新鮮さがあった。ジャニス・ジョプリンをモデルにした映画といわれているが、ベッド・ミドラーはジャニスにひけを取られていない。彼女は彼女なりの個性とパワーを思いっきり歌と演技にぶつけていると思った。ローズというシンガーの役をしているのに、もうベッドミドラー本人にしか思えないくらい役に入り込んで熱演している。さすが、映画界でも音楽界でも活躍している大物ぶりをこのころから発揮していると思った。いやはや、あのエネルギーは一体どこから来るのだろうと考えてしまった。彼女の熱狂的なライプとエンディングのギャップがあって主題歌がすごく生きている。言いたいことは全て“ローズなんだ!"(主題歌)とこの映画は語っていると感じた。

 

すごかった。ベット・ミドラーの息の量は半端じゃなかった。それを支えるには、驚くほどの体の力が必要なはずだ。でも、そんな客観的な分析で割り切れるものではない。まず第一に心の底というより魂の内からの叫びがある。しかもこれは、演技。であるのだ。ペット・ミドラーはヴォーカリストか女優かは知らないがあれほどのパワーには恐れ入った。

しかし日本人が女性のあれほどのパワーをみせられても観客として引いてしまうかもしれないと思う。日本文化の中の女性に対するイメージ、たとえば、おしとやかな大和撫子のような、とは、大きくかけ離れているからだ。それに特に男性は、女性のあれほどのパワーに対抗できる人など、そうはいないはずだ。私も途中画面の彼女の迫力に唖然としてしまった。それでも彼女の何か伝えようとする気持ちは充分過ぎるほど体に伝わってきた。

 

 

 

ドメニコ・モドゥーニョ

 

ドメニコ・モドーニョが話しているのを聞いたとき、「一体いつ息継ぎをしているんだ。」と思った。ことばは何を言っているか全くわからないけど、その音の流れはわかる。話しているだけで歌を聞いているようだ。イタリア語の歌の訳詞(日本語)をみるとたくさんのことばが並んでいる。日本語とは一音いえることばの量が全然違うのだ。日本語もイタリア語のように歌えないだろうか。ことばをたくさんつめると早口にならざるを得ないけど、それを大きなフレーズの中にうまくつめこみとにかく外国語を知るということは日本語を知ることにつながる。世界の本物の歌からみると日本の歌というものは違うジャンルではないかと思ってしまう。全然違うのだもの。メロディはあってもリズムも音程もつかまえているのは歌い手だ。そしてことばが流れていない。強くしたり、弱くしたり伸ばしたりしていてもことばの終わりは必ずとまっている。普通に話している声をより強くしたり弱くしたりして表現しているだけだ。ことばとことばの間で音は聞こえてこないけれど、音楽は続いている。歌い手の表情をみればわかる。一つの世界を自分でつくっているのだから、一曲終わるまでその世界は途切れることはない。歌っているときだけが歌なのではない。全身で一つの世界を伝えようとしているし、彼は体での表現がとても大きいそれが歌を大きくみせる理由の一つになっているのかもしれない。歌を大きくみせることが必要だと言われたことがあるけどどうしたらそうみえるかはまだはっきりとわからない。

 

彼の場合は声量があるから、それだけで大きく聞こえるのだけど、声量がない人が、大きく聞かせるには体の表現が大切なのかもしれない。ギターの弦を簡単そうに弾きながら歌っていたが、その指先のリズムは正確かつ見入ってしまうものがあった。正確なだけならおもしろくも何ともないのだろうけど、それだけではなく躍動感みたいなものまで感じられた。彼は指先になんて集中していないそれは体にしみついたしぜんなリズムで、彼が表現しているのはその歌の世界だけ。表情で声で自分の世界をつくっていた。

それと結構速いテンポの曲の中で、歌の合間に(ことばの間で)「ハッ」というかけ声のようなものが入っている曲があった。その「ハッ」という声のヴォリュームのあること。自分の「ハッ」とは大違いなのである。いろんなプロの曲を聞く中で「ハッ」とか「フーッ」とか短いことばのヴォリュームの違いを感じる。そしてそれは、ヴォリュームだけの差じゃなく、その一つ一つの音がとても魅力あるんだ。大切なのは一つひとつのことばのヴォリュームと表現力。

 

ヴォラーレ」を聞いて想像していた通りの人だった。スケールの大きな感じの声に似つかわしいヒゲを生やした陽気なおじさん。初めて画面を通して見た彼はそんな表現がピッタリだと思った。ステージやセットなどはジャンニ・モランディのものと似ていたのできっと同じ頃なのだろう。この頃の映像はイタリアらしい陽気な感じと遊びゴコロがあって見ていて面白い。でもやはり驚いてしまうのが彼らの声の凄さだ。話していると思ったらいつの間にか歌っていたり、高音の部分になっても声が太いままなので、ヘンにカッコつけて「歌をうたう」というのではなく、自然に歌をうたっていると感じる。しかも、メロディーがきれいでスケールが大きいので、聞いていて思わず感嘆の声が出てしまう。ライブステージでは彼の力強さと陽気さ、そして大人の暖かさのようなものが出ていて、モランディとは又違った魅力を感じた。個人的に彼のような太くてストレートな声質は好きなので、とてもよかった。

 

 

 

バーブラ・ストライサンド

 

女優らしい構成と、よく練られたステージはまるで、一人ミュージカル。“洗練”ということばがよく似合う一流のステージを見れてとても良かった。ストーリーがあって、セリフを表現力豊かに話しているかと思えば、いつのまにか音にのせてメロディアスになり、自然に歌となってゆく様見事としか言いようがなかった。

 

感情の入り具合がちょうど良い感じで聞き易い。全身に神経がいき届いており、決して無駄なところがない。それだけ見る者に飽きさせず、欠点を(荒)をみせることのない完全なステージだ。ことば以前に、息の中に感情が入っていて、息吐きの感じだけでも表現が成り立つことを感じた。ことばの意味はよくわからなくても、表現・動作そして声の音色で充分感動する。流しているようでとても表現力のある“追憶"他、座ったまますごく息を使う歌を歌ったり、ラストでもあれだけ“サムホエア”を歌うことができるパワーにもとても驚いた。自己主張をラストでしっかり行うところなどは、人間として一人のアーチストとしてのあるべき姿を表している。とても新鮮に思えた。

 

バーバラの言うように「芸術の基本は感性、技巧は感性で裏打ちされていなければならない」のだと思う。やはり表現はそれ自体は表に現れている“結果”なのだが、その出処の心の部分に裏打ちされていなければ、相手には伝わらないものなのだろう。いやことば自体にパワーがあるので何かは伝わるだろうが、自分の考えていることはその通りには伝わらない。

今のぼくにはわからない。しかし、結局は人間の体で何かが起こっていることが伝わっているはずだ。アーティストたちが魔法を使っているようには見えない(使っているものもいるかもしれないが、そんなものはその場限りのまやかしだ)。ほくと同じ人間の体を持った彼らが、彼らの体を使って何かを起こして伝えているはずだ。心の部分の裏打ちは、心のきれいさにかかってくるのだと思う。

 

バーバラがスティービーワンダーのハーモニカを評して「魂の響き」と言っていたが、心のきれいさなくしてはできることではない。そして「魂の響き」を形にする技巧があって、初めて表現となる。心を磨き、体を鍛える、そして心と体を一体化して使う。これだと思う。最後にバーバラが言った印象的なことばを記して終わりたいと思う。「芸術は生きているもの。人とともに成長するものです。」

 

 

 

[ジョルジュ・ムスタキ]

 

歌い終わった後、司会者が感想を言っていた。たとえば、アリアを聞けば、“叙情的だ"とすぐに感じられるけれど、彼の歌は淡々とボソボソっと歌っているだけに聞こえてしまう。あまり盛り上がりがなく、表情も無表情ではないけれど、変化が少ない。けれど、彼の歌には、何かが入っている筈なのだ。風貌から、彼が仙人のように見えた。彼は、人生の中で、いろいろな経験をして、怒りや不安、悲しみや喜び、そして人を愛する気持ち、そういう諸々の感情を客観的に見ることができるというか。彼の静かな歌い方はそんな感じだ。感情を抑えているのではない。遠い目をして、昔を懐かしむかのように、又、第三者的に歌を語っているかのようだった。けれど、とても自然で、ことばをころころと転がしている様でもあった。これが叙情的というものだろうか。

 

彼とは、とても同じ呼吸でできなかった。ただ、マイクからかなり離れているのに、しっかりことばが聞き取れるし、何げなく語っているようでいて、リズムが崩れずに流れていく。この、ちょっとアンバランスな感じは、もう“味わい”としか言えないんじゃないだろうか。こういう感じは、よくわからない。自分が歌うのだれば、やっぱりあんな雰囲気が出せたらいいなとは思う。なんとなく、漂ってくる香りのようなそんな表現なのだろうか。こういう歌い方こそ、難しいのでは、と思った。どんなに思い入れの強い曲だって、全てを強くやる訳にはいかない。落ちつかせる部分があるから、強い部分が引き立つ。全体的に静かな曲は、聞く側も落ちつけるから、歌う側としては、やっぱり落ちつきを大切にして、その中でことば、その背景、浮かび上がってくる情景が作る雰囲気をツンツンと突き出るものが無く、じわじわっと包み込むような感じで、まとめていくこう考えると、静かに歌うにもパワーと精神力が必要だなぁ。ジョルジュ・ムスタキも、そんなパワーの元に、歌っていたのだろうか。シンプルなギターの弾き語りがいっそう“そこはかとなく漂う”感じに手を貸している。歌詞をボンとそこに置いてしまって、残りの空間を(私ではどうにもできないような間を)作り出して、ことばの余韻でもたせてしまうように思えた。

 

バーバラ・ストライザンドは"The Way We Were"のヴォーカルと、女優としてのイメージしかなく、あんなに舞台などでも活躍してきた実力派だとは知らなかった。鍛えられた歌声だと思った。音楽に対するこだわりがとてもハッキリと打ち出され、彼女の歌い方が、クセがなくて素直な感じがしたように、表現もストレートで彼女の人間性の表れじゃないかと思った。歌うことが幸せ、自分の大好きな世界で、目一杯やりたいのよ!そんな気持ちが伝わってきた。魂の響きだと言っていたスティービー・ワンダーのハーモニカをちゃんと聞きたいと思った。彼の姿勢も、素晴らしいなぁと思った。

 

 

 

ジュリエット・グレコ

 

ことばは言う人のものになっているからこそ聞いている人の胸に深く入り込んでくる。何か伝えたいことがあって、それが棒読みになるなんてことはありえない。自分の心の中から出たことばだからこそ声だっていろんな色を持ってくるんだ。

彼女の歌は全て自分自身のことばだろうけど、人の歌をうたおうと自分が歌の世界にすっぽりとはいらなければ伝える歌は歌えない。ことばってたくさんあるけれど自分の口にしたことのないものの方が多いんじゃないか。日常生活のコミュニケーションで必要なことばって少ないものだもの。それに必要なことばの中でさ自分のその時の気持ちにぴったりあっているかどうか疑ってしまう。自分の感情をひとつのことばであらわすなんて本当はできっこないのだけど、伝える為にはそのことばは何なのか真剣に考えなくてはならない。

彼女だけではなく世界のプロは皆、役者的な要素をもってる。歌の世界に入り込むというのは技術ちうより自分の気持ちをどこまで高められるかだと思う。自分が入り込めない原因は何だろうと考えると、ことばが完全に自分のものになっていないから伝えることに意識が集中しない。表現する事より、声やことばの方に気がいっている。そうなってしまうと歌う意味なんてなくなってしまう。ことばを自分のものにすること。自分の内からわき上がる感情とともにことばを吐き出すこと。

 

彼女の動きは大空をはばたいている鳥のようだと思った。そして視線はいつもどこか遠くを見ている。表情がこわばっているけれど体が動くなんてことはあり得ない。自分のステージを思い出すと表情も動きも固いと思う。ちっとも自然ではない。結局これもことばが自分のものになっていないから。いろんなことばを使って他人とコミュニケーションしているし、自分の気持ちを伝えたりしているけれど意識して同じことばを言ってみるとそのことばを本当に知っていたの。と自分を疑ってしまう。

何度も何度もひとつのことばを伝えようとしているといつの間にか自分の口の動きとことばが一体化してとてもすんなりと出てくるようになる。役者の人が本番でセリフを忘れる為に何度も何度も読み込むというのと同じなのだろう。歌詞のことばはみなとてもわかり易いのだが彼女でなければ出てこないようなことばがたくさんある。

自分の感情を表すのにどういうことばが一番あっているかということに、どこまでもこだわるからこそ自分の表現ができるのだ。何かを伝えたいと思えばことばに対する感覚もするどくなってゆくはずだ。たった一つのことばが彼女の口から出るたびに聞いている私のイメージが広がってゆく。自分のことばとは一体何なのかすぐにはわからなくとも生み出せるまで考えていきたい。

 

 

 

シャルル・アズナブール

 

彼の歌は、とにかく自然体で“歌っていますよ、ハイ、うたってるんですよ、どーだ!"などという、外形のラインが感じられない。今私が最も欲している要素だ。私は、いつもやたらと構えてしまう。シャルルは強い表現をしている時も、ツンツンと尖っていなくて、柔らかい感じがする。音色だけであんな感じになるのかな。ちゃんと息が通っているから、ゴチゴチにならないのかなぁ。

 

私はよく「もっと優しい歌い方をしたら。」と言われる。曲のイメージの捉え方もあるけれど、今のところ「大きくやる」ことの手段(意味)として、たった一つのやり方しかわからないでいる。堅さが表面を固めてしまう。音量をある程度だして、フレーズも大きく作った上で、優しさ、丸さ、穏やかさ等を出すというのは本当に難しい。自分で無理に欠けている圧力を解放してあげなければ、シャルルのような自由な表現はとてもできそうもない。フレーズの作り方にしても、音色にしても、体のコントロールと気持ちの余裕が先ず必須という気がした。

 

彼があまりにも演技派なので映像を観ているとついついそれに乗せられているんじゃないか。と思い、ラ・ボエームは目を閉じて聞いてみた。語っている。ラ・ボエームのフレーズは何てさりげなく、ポンと吐くように、けれど胸にちくっとくるような切なさが残る。目を閉じていても、観られる歌だと思った。彼は、根っからのロマンチストなんだな。こういう感じが好きな人にはすっと、ツボに入り込むようでたまらない魅力だろう。観ていて、"よくやるなあ"などと思ってしまったが、こう思ってしまったということは、シャルルの魔術にひっかかってしまったということか。

 

 

 

【ロマンティック・ヴェルディ

 

形・型じゃないものが残るはずむ様なイラスト。いつ見ても気持ちがいい。

 

セビリアの理髪師

高い音をアーッ張り上げたとき、こんもり丘の様な舌が見えた。舌は下あごにベタッとむしろくっつけるんじゃないのか。どういうことか。上唇を歯にかぶせている。あれは何か意味が理由があるのだろうか。早口ことばの様によく動く口。練習してるんだ。

 

蝶々夫人

鳥肌が立つ。何故。その意志のある声に。その感情が宿る声に。意志があるからそう聞こえるのだろうか。感情が満ちているからそう聞こえるのだろうか。そう聞こえないときは意志がないからか。意志があっても表現にまでつなげることができないこともあるだろう。それは何故。意志を掘っていかないから。表現につなげようともがかにから。何がどう違うのか。

 

カルメン

あんなに音量あまりないままズーッとのばして一定の音。フラフラせず。強い腹。

 

アイーダ

おもしろいバレエの踊り。男の人もヒラヒラするスカートみたいのつけているのもおもしろい。こういうオペラもあるんだ。オペラの核をなすものは何なのだろう。

 

トゥーランドット

ファミー(ア)。「ア」のあの柔らかさは何。素晴らしい!圧倒的な迫力。歌い終わった後、一瞬聞き取を抱く様な抱かれる様な。自分を抱いている。

フィガロの結婚:表情豊か。オペラでも語っている様に歌う人いるんだナ。喋っているみたい。相手に。

ラ・ボエーム:心が溶けていってる。ジョールをとった。腕に抱かれ息を引き取るために帰ってきたとは、何と皮肉な。病い身であるならそれだけでも幸せと思うべきか。でも愛し合う2人が。可憐なミミ。帰って来られたことを確認している。可憐だから好きにならずにいられなかったのか。爪のあかでも煎じて飲めば可憐になれるだろうか。なりたいのだろうか。正反対のものに惹かれるっていうあれだろうか。どうもひっかかる。

 

カヴァレリア・ルスティカーナ

シチリアの人の燃える激情がぶつかる。教会の中で、神の前でさえ人間はこうか。罪深さ。

 

トスカ

前屈姿勢でよくあれだけ声が出るなあ!しかし、喋っているみたい。音量小さくてあれだけ響くのか!何故。腹で支えてポジションで響かせているか。そうか。

 

リゴレット

4人の掛け合いが楽しい。あれは台詞というのか歌というのか。音と音の切り方。フッと。

 

トゥーランドット

感情を完成された声で決まった形で表現している。うねる様なみんなの声。人間を知らないとオペラは歌えない。形だけが前に出ちゃわないか。ポップスは。同じ。形だけじゃ心に残らない。残したい!!!どうやって。(一つの形をとりながら豊かに語りかけてくれるオペラ)

 

セビリアの師

いい声だなあ!どうして働きながらあんなに大きな安定した声が出るのだろう。圧倒的!

 

蝶々婦人:何と柔らかく出てくる声!

 

カルメン

あまりにもさり気なさすぎて、この人がこの声を出していると思えない。なぜか。さり気なさと素晴らしさはあの迫力をもちながら同居できるのか!何とたっぷりした声!

 

アイーダ

本物の馬が登場したり、何とオペラは大がかりで楽しいのだろう!笑っちゃうほど!基本的に楽しんでやっているのではないだろうか。あれもやってみよう、どうせやるならこういうふうにやってみようとか。人数、舞台と歌、オーケストラ、すべて。対極にアカペラでたった一人でつくりだす、どういう形のポップスが確かにある。そいう凄みがあったのか!すべてを声に表現にのせていく。すべてをうけおうということか!わかっていなかった。おそろしさと楽しさと。自分の思い通りにできる。思いがどこまでどういう形であり、それを伝えるための体、技術があるのか、ということか。思いのないところに表現は存在しない。思いが存在するときとは。たとえは考えたとき。じゃあどういうときに少なくとも自分は考えるのか。ショックを受けたとき、感動した時、喜怒哀楽のとき。しかし心を柔らかくもっていないと文字通りには心が反応しない。心を柔らかく保つには。謙によくみることか。わからない。そうありたいと思いつづけることか。わからない。

 

トウルーラン

氷のように心を溶かす愛。なぜ賭けられたのか。歌い終わった後の感動のような表情は誰に、何に対するものなのか。

 

フィガロの結婚

大きな目!あまりにもさり気なさすぎてあんなに大きな声を出しているように見えない。ああいうふうに間近に歌われた人はどんな思いがするのだろう。

ラ・ボエームイーゼルにさわる彼女。確認する彼女。戻ってきたことを、彼の元に。ああ!うだうだ歌ってないで早く抱き締めてやればいいのに!エーイ、まどろっこしい!やっと手をとった。あーよかった。極みへ!何と可憐な所作のミミ!私と全然違う!年も違うか、ハハハ。

 

カヴァレシアスティルカーナ

シチリア人の激情!演じている!行ってみたい!

 

トスカ

美しい人!女優みたい。

 

リゴレット

すごいオッパイ。何だあの声は、背の高い女の人の声認識の外にある。

 

トゥーランドット

この世のものとも思えぬ美しさに挑むとはどういう意味か。高らかに鳴らすドラは何か。何への出陣なのか。何にひざまずくのか。オペラで背景を理解しないで、たとえ感動は確かに存在したとしても、送り手の伝えたいものに限りなく近づいていくことができるのか。自分が伝えたい歌に、歌の前に伝えたい背景がある時、背景をまず伝えるところから一つの歌が始まるのかもしれない。そういう形の歌もあるのかもしれない。

 

 

 

サンレモ音楽祭

 

何故、イタリアに、ミルバがいる、ミーナがいる、ビルラがいるのか。同じ時代を確かに生きている。でも、同じ一つの映像の中に納まっていると何か不思議。ステージで競い合っている。これからの人が順番待ちで十字を切っている。どこまでいっても同じだ。競い合う。競い合う意識でやっているか。違う。本当か。

 

性分。本当か。自分と闘うことだけ。闘っている、と言えるか。何故言い訳するのか。まだ自分が何をすべきかわかっていない、というのか。自分を大きくしたくないのか。苦しい時代は大きくなる前。苦しみのない時は留まるか後退するか。明日につながる今日を生きることが最大のこと。後悔しない。そして他者(ひと)が教えてくれる。

 

ビルラはやっぱり別格じゃないだろうか。他の人は同じ迫力を体全部使ってやっているのに、ビルラはただ立ったまま。どちらがどう良い悪いじゃなく、やはりビルラの体、声の凄さは歌い手の中でも凄いんだ。

 

強烈な髪型のミーナがいる。端然としたイメージを持っていたが決してそうじゃなかった。のどじゃなく体で。振りをつけ、口先だけじゃなく体全部で歌っている。しかし、何故イタリアでこういう音楽祭が生まれたのだろう。

 

 

 

美空ひばり

 

遊びたい年頃あたりまえのことをあたりまえにすることができず、何をその代わりするかと言えば、お金をいただいて歌う。生きることが歌うこと。そこから逃げなかった。趣味じゃない。アマチュアじゃない。商売。いただくお金に見合うものを出さないと次にもう買ってもらえない。商品として考えたってあたりまえ。でも、そういう厳しい世界で、なおかつ一線で子供の時から走り続けた。どんなに苦しかったろう。でも苦しみから逃げない。トンズラしない。誇りか。信念か。親族か。わからない。でも、とにかく逃げなかった。何度も何度も逃げたくて何度も何度も踏ん張った。そこにその人それぞれの理由がある。時代が滞ることを許さない。ゆずらない所はしっかりと握り、でも、新しいどんなものにも立ち向かっていく。

 

よい意味でねじ伏せ自分のものにする実力がある。実力は普段の力の集まり。この人は普段が凄い、ということだ。普段が凄い、ということは24時間歌に捧げているに決まっている。これ以上歌に使える時間はないか。工夫はこれ以上できないか。的はずれていないか。バランスをとる様心がけているか。全部駄目だ。なぜ。走り始めると足下が見えない。毎日足下を見ることを心がけているかいなかった。心がけること。朝。落ちついていく様に。ころばない様に。そして走る。そして考える。足りないことばかりだ。変わろうとすることを辞めない限り可能性だけは120%くらいある、ということだ。捧げる、捧げる人がここにもいる。いろんなところにいる。そういう人々に支えられている。いいのか。何でお返しするつもりか。返す努力をしているか。

 

これまで、何度となく美空ひばりの歌をTVなどで聞いてきたが、今日ほどその1曲に込められた重いの強さ、大きさ、そして彼女の凄さを感じたことはなかった。実際、ゾッとする程だった。「リンゴ追分」を聞いているときだった。最後の方の“リンゴー”が初めての方のフレーズの取り方に比べて、とても強く大きくなっていて、「あれ。」と思っていると、私の目の前にリンゴ園の情景がパーッと鮮やかに広がったのだ。この時本当にゾッとした。何だ、この力は!彼女は“リンゴー”と一節歌うのに、一体どのくらいの情熱をこめているのか!彼女は、広い音域にバラエティ豊かに対応できるとか、演技的な表現力があったり・・というだけでなく、聞く者にイメージを投げかけてくると思った。「人に伝わる」ということと、「自分がなり切っている」ということが、きちんとイコールで結ばれていると思った。

 

私は美空ひばりの本当の凄さをきっと分からなかったと思う。何かの苦明日で待ち時間に流れた歌で、美空ひばりがジャズを歌っているのを聞いたとき、「エッ!。」と驚かされた。はじめ美空ひばりだと気付かないほど、演歌からみごとに変身していたのだ。本当に、底知れない実力がある人なのだなぁ。

 

「歌で自分の全てが語れる」と彼女は言っていた。“自分の全て”なんて実際にいろいろ考えるととてつもないことだと思う。簡単に言えることばではない。彼女はもう完全に自分自身が歌になってしまっているのだなと感じた。8月の末頃だったろうか、TVで、秋を告げる花コスモスが咲いたと放送していた。“あぁ、きれいだ、かわいらしい”と心が素直に動かされ感動している自分がここにいるのにこの感動をどうして素直に歌にできないのかとはがゆく思う。今の私って、こんな風だ。簡単にことばで言えることや、目に見えることを歌で伝えるって事は、とても簡単そうに思えて本当はとても難しい者だと今回改めて思った。

 

 

 

江差追分

 

始まったとたん、もうくぎづけ状態、のめり込んでしまいました。はっきりいってすごくおもしろかったです。江差追分じたい、なんなのか(多分民謡かな)見るまで分かりませんでした。そこに出てくる人達みんなが一つのことにこだわり、深く掘り下げて、勉強に頑張っていました。たかが一曲のためにこれほど努力して毎年北海道は江差町で行われる全国大会に向け、何とか本場の地元の人々に負けまいと、本州勢のがんばる姿は本当、感動ものでした。こういうすごい大会が日本にもあったんだなぁと、何かアメリカのアポロシアターで行われるアマチュアナイトを思い浮かべてしまいました。どこか通じる所があると思います。何しろ観客がすごく厳しく滅多なことじゃ拍手はもらえません。ブーイングこそありませんが、普通かそれ以下だったら全く見てもらえず、寝てしまったり、休憩タイムになったり、喋ったり、反応、ハッキリしていました。予選だけでもぶっとうし(たぶん)8時間かそれ以上やるので、見ている方もたまったもんじゃありません。それなのにみんながこの日を楽しみにしているのです。

 

興味深いのは、江差追分の楽譜、まさしく日本独特。いや、江差の先住民達が生み出したその記述方は、ユニークです。音程よりも息の流れ、声の流れを重視して視覚的に分かり易く、その流れが線として描かれていました。声を大きく張るところは太い線で、息の流れでビブラートをかけるところはそのビブラートの量により、ジェットコースターのスクリューみたいな回転円の代償でかかれていました。これは福島先生のいつもおっしゃられている、歌とは点ではなく線の連続である。ということに通じていると思いました。やはり「流れ」が大切なのです。

見て感じたのは芸事とは一つの事にこだわって、とことん貫き通す、毎日毎日同じ事を繰り返していく。やはり継続は力になる。

 

 

 

早川義夫

 

高校の校舎の屋上だろうか。制服で抱き合う二人がいる。弁当食べて多二人の女学生は食べるのをやめて凝視する。なぜみつめるか。抱き合う二人とも哀しい。お金のやり取りをする前から哀しい。見つめる二人は見つめながら犯されている様なもんだ。抱き合う、という表現を目の前につきつけられている。グッサリと本人が意識しなくても深く刀は入り込んでいる。「なぜそんなことするのよ」。

善悪、価値判断はおき、第三者とはこんなに薄っぺらなのか。抱き合う二人は現場だ。血を流し精液も流れたかもしれない。それを各々の身にひきうけてだ。第三者。現場の当事者。現場を知りもしないくせに、わかろうともしないくせに語るな。これが自分が福島先生から注意をうけたことの一つの様な気がする。指摘されたその時はあまりよくわからなかった。でも逆に現場を離れた第三者の眼というのは存在しないのだろうか。むしろ現場にひたった第三者の眼というのは存在しないのだろうか。

 

早川義夫はマイナーが好き。マイナーが感じる、という。悲しいのがいい感じで、「悲し「いね」って言うとわかり合えた気がするという。「悲しい」言いたいことはこれなんだ、と。言いたいことは一つだけだ。早川義夫の場合は「悲しい」。私の場合は。それが歌う一曲の中に言いたいことはこれなんだ!と言い切れる様に。一つだけ。そして早川義夫は悲しいのが出てくるのかもしれないし、作ってるのかもしれない、と。だから自分も言いたいことは、さがし続けて出てくるのかもしれないし、作っていくのかもしれない。そうか。作っていく、というのは、よくわからない。歌いたい時に歌うのが一番素晴らしい、という。伝えたい、という思いも歌いたいに入るのだろうか。

 

 

 

ティナ・ターナー

 

彼女のようなスーパースターを観る前、必ず私は“ああ、きっと又、私は劣等感に押しつぶされるのだ”と思ってしまう。自分にできないことが多いと、何かと、自分はダメだなぁ···と沈んでしまうのだけれど、ティナのライブでちょっと吹っ切れたと思う。テキストなどで、“土台、体が違うのです”と、さんざん読んでいることを今更のように、“違う”こと、自分がそこまで今から向かっていくのだということを改めて感じた。思い悩む次元が違うのだ。そして、いい歌があっていい歌手で聞けることの幸せが、私の心にすうっと入り込んできたような気がした。素直に、歌・ステージを楽しめた。

 

一番期待していたのは、大ヒット曲であり、私の彼女のレパートリーでは一番のお気に入りの“プライベートダンサー”。本当に、彼女の声、歌い方、その声がピッタリと合った。名曲だと思う。この歌の主人公の気持ちになると、やりきれなくて、悲しくて、切なくてでも、そんな自分をあわれんだりせず、もうそんな境地からも脱してしまった、たった1つの夢だけを心に秘めていく。サビのメロディラインが、明るくも悲しいところは、どうしようもなく彼女を表している。素朴な心の叫びを歌う歌も、私の心を捉えるけれど、こんなおしゃれなフレーズにもやっぱり魅かれてしまう。この曲で、きっと踊るのだろうと思っていたら、特に振り付けてあるというのでなく、踊るよりも、もっとこの曲にふさわしいステージングでさすが!という感じだった。

 

彼女のライブにかける意気込みは、底知れないのだろう。正に、全てをかけてステージに存在している気がした。とにかく、手を抜かないところが凄い。これでこそ、世界に通じるプロフェッショナルのヴォーカルなのだなぁと、つくづく感じた。又、歌としての全体像では、細かいディテールを総合して、最終的にそのヴォーカリストの個性が確かなアウトラインを形作った曲、その全てが、ピタッとあっているものが、ヴォーカリストの心と聞き手の心をつなぐ曲になるのだろうと思った。

 

 

 

【ミーナ】

 

体と心と声が一つにならなければ歌っていてもつまらない。ことばだって自分の体が動いて出たものでなければ何か嘘くさい気がする。全身で歌うには声と息が合うまでやらなくては駄目だ。ミーナの声は深いと言うより強いという印象がある。高音なんてトランペットのような音色で一体どこから出しているのかと思ってしまう。人間の声なのだけどこの世にある音の一つとして聞くといい音だなと感じる。そういういい音を出すには自分をトランペットとかサックスだと思いこんだらいいと思う(この楽器を使ったことがないとわかりにくいかもしれない)。

 

かわいらしい女の子がミーナと一緒に歌っていたがその声のパワーは全然負けていないしステージに立つ人間の顔をしていて驚くばかり。声の強さが本当に凄くて自分が同じようにやろうとしたら全然出ないかのど声になるかのどちらかだ。一つ一つの音の鋭さは比べものにならない。日本的にそっと優しく歌う歌い方ではない。矢を射るように声が飛んでくる。表現の仕方も小さくまとまっていないで天に突き抜けていく感じ。この違いは絶対に口先か同胞の違いだと思う。声が前に出ていかなければ気持ちだって前に行かない。どんなに小さな声でも口先でなんか歌っていない。それに声の大小と表現の大小は比例しない。声量に関係なく、そこに何が込められているのか聞かなくてはいけない。声量を落としてそこに何か込めてゆくにはしっかりと息のコントロールがでいていなければ無理だろう。でもそういう部分を技術としてもっていなければ全部サビみたいな歌になって何も伝わらないことになる。

 

純粋に音というものに関心があるかないかで音楽の聞き方が違ってくる。彼女は声を使って本当にいろいろなことをやっている。トランペットを吹くかのように声を出したかと思うと感情の全てを声に込めるような歌い方をしたり幅が広い。彼女と一緒に歌っていた男性が語るようにうたいはじめた時人々の熱い拍手とかけ声が起こっていた。カンツォーネの他のでも同じ様な場面があってその反応の仕方にいつも頷けないものがあった。「なぜ拍手するのだろう」と多くの人々の感動がわからないというはがゆさがあった。だけどいろいろな音楽を繰り返し聞いているうちに、そういう歌い方をしている曲を何度も聞きたいと思うようになった。深い息にのった声が響いているその音が何だかとてもあったかくて、ひたっていたいと思うようになった。

 

感覚の部分は説明しにくいが自分の中で何だかわからないと思っていたものがいいもんだと感じるようになったのは、大きな変化だと思う。この時代の人達にとって音楽はなくてはならないものだったに違いない。そして彼らの歌う、聞く音楽は心のある暖かいものだったと思う。どんな時代になろうと赤い血が流れている限り人間はあたたかい心を求めるし必要とするだろう。今の時代だって人間の心の中にはあたたかいものに感じるところがあるはずだが、あまりにもつくられたものに慣らされて鈍くなってしまったのだろう。

 

 

 

パヴァロッティドミンゴなど、クリスマスソング集】

 

子供向けに作られたのかもしれないが、内容がとてもシンプルな所が、すうーっと入って良かった。出ている歌手が自然の雪景色の中で自然に動き(決して変な動き・表情はせず)雰囲気を出して歌を聞かせていてとても良い。オペラはどれも歌い方が似ていると思っていたのは間違いで、十数人の歌手が出ていたが、それぞれよく聞くとその個性声質・歌い方・伝わってくるものの違いをとても感じることができた。

 

ドミンゴの曲の構成をよくつかんだ歌い方をはっきり感じ、高い声の中にすがすがしさを感じた。パパロッティは一曲だけだったが、声が目立っており、つい聞き入ってしまうパワーが強くあった。どうしてそう感じるのか細かく考えてゆけるようにしたいが、まずは、彼らにはそれだけの上手さを持っているということだろう。バスの人で「クルト・リドル」の歌が、テノールとは違った表現の仕方で、魅力的に思った。とにかく皆の声のパワーがまず人を引きつけるのだと感じた。

 

 

 

【YES SONGS】

 

神秘的な雰囲気が漂い、その現実離れした空間と音に引き込まれた。その表現しようとする世界観は肌で感じることができた。特にギターの音とヴォーカルの声がバンドの音を引っ張っていて、ギターのスピードある演奏から何となくテレパシーみたいなものが出ている感じと、フレーズの気持ち良さがあり、ヴォーカルのハスキーな音自体に世界があって面白かった。

 

こんな音を出せるのも、しっかりしたテクニックがあるからできるのだと気付く。リズムがバシッと合うこと、ことばがリズムに合って発音できること、ハーモニーの美しさ始め、音程が上下しても均一した声を出せること、それを維持するパワーを身につけることなどいろんなことができていないといけないと思った。ギターを弾きながら太く芯のある声が出せてすごいのと、伸ばす音の多い曲で、だんだん全体的なフレーズをヴォリューム上げて、同じように伸ばして歌うのは大変難しいと思った。いろんなことに感嘆してしまった。

 

 

 

【リックウェイクマン】

 

冒頭でリックウェイクマンが日本にいたときの感想を言っていた。「彼らの言語には、RとLの区別と母音が無い。聖歌隊のリハーサルはひどかった。」日本人の聖歌隊への評価だが、日本語に母音がないのではなく、息の浅い発声で母音がないように感じたのだろう。それだけ日本人の発声は、世界的に(彼らは英語圏)みると不思議な言語に感じるのかと思った。やはり息は深く吐かねば、とうてい世界の人に伝わらない基本中の基本だ。

 

ライブは、物語になっていてナレーターがいた。そのナレーターは、やはり体から目一杯息を吐いて話していた。ブレスをする度に胸元が大きく動いていた。リックウェイクマンは、キーボードをとても気持ちよさそうに弾いていた。まさに音楽と一体になっているという感じだ。音楽と一体にならなければいい演奏はできないはずだ。歌い手を目指す人間も当然そうでなければ、いい歌は歌えないに違いない。

 

 

 

TAKE6

 

最初に驚いたのは、パーカッションまで声でやっていたこと、本当に楽器と声の差がなくわからなかった。あと、6人のぴったりと合った息、リズムがすごい。

リズム講座に出て、歌に出てくるリズム感はものすごい息が深くないとだめで、逆にある程度の声ができてくるとリズムができるのは、そういうことだとおっしゃった。以前から自分の声のリズムのなさに悩んでいてリズム通りピッタリと出しても歌に現れてこないのはどうしてかと思っていたけど息が浅かったんだと思った。息の深さ、体の使い方に注意して聞いてみると、すごかった。ほんのささやくような声でも、ものすごい深い息と、体を使っているのがよくわかった。それでいて、軽くて、速度感がある。簡単そうに聞こえるけど、ものすごいことをしているというのがわかった。自分の耳もそれが少しわかるようになったのは嬉しい。いつもRを見るとそうだが、自分の忘れていたものがよみがえってきて、気が引き締まる。

 

何が観客の心を捉えるのだろうと考えると、その人の忘れていた何かを思い出させてくれるからかなあと思う。その何かは、わからないから魅かれるのか。楽しさとか、包まれるような感覚がある。表現している楽しさなのか、本当に何を思い出させてくれるのかははっきりわからない。だけど、先生が、最初は数多く見ること、とおっしゃった。自分で考えるに、鑑賞するごとに、目指すところの視野も広がると同時に軌道修正をされている気が最近強く感じられる。練習をするのだけど、それは、今観ている表現するためにやっていることだ、と。まだ自分の中で、人前で表現することへの恐怖感がある。緊張して自分が出せなくて固まってしまう。そんな自分がいやになり、悔しくなりまた恐怖感としてさらにのしかかる。でも見ると、自分が本当にやりたいこと、これをやりたいんだと思い出させてくれる。

 

福島先生が観たものをすっかり忘れても、0.08とか0.0コンマの時限で何か残っていて、ひょんな時に出てくると、おっしやったときがあった。そのために授業をギリギリのところまでやって、出てくるものを多くする。観るときも、刻み込むように観なければいけないなあと思う。こう偉そうなことを誓ったところで、ことばに嘘が多い、自分はことばでいいこと言っても実行できない。それをわかった上でなんとか自分を持って行かなくては。

 

TAKE6と一緒に仕事をした「k.d.ラング」の声には驚き、鳥肌が立った。あったかい、丸い太い声、リズム感がすごくて感動した。もっと知りたくなった。あと、TAKE6、6人のメンバーが全員クリスチャンで、その考え方、アーティスト精神が何か洗練されているというか、見た目からは想像できないほど、自分の生き方をしっかり持った人達だった。「その日の気分で人を見る瞳を曇らせてはいけな「い」ということばが印象に残った。今の自分に言えることだ。他にも完璧はない。どんな時も全力で、とか、乱れた生活を送っていればいつか自分に返ってくる。とさらっと、でも、いやに真実味があるように言うから、いい生き方、考え方をしてるんだと思う。ステージにも、そういうものが出るから、人を包み込むような雰囲気、笑顔ができるのかなあ。すごい、いいものを観た。楽しかった。

 

 

 

【カリフォルニアスクリーミンVol.1】

 

全体的に言えることは、バンドごとの個性,カラーがしっかりと創られていること。「俺達はこうやるんだ」という独自性がとことん追求されているからだ。また、それを支える実力がなければ、特にこの時代の音楽界ではやっていけなかっただろうと思う。

 

サンタナ

ものすごく高いテンションの上で皆が一つになっている。宗教的というか潜在的な何かを呼び起こす力を感じる。ぼくも仲間に入ろうとしたがリズムを捉えることができなかった。聞くドラッグというかんじ。

 

ジェファーソン・エア・プレイン

不思議なコード進行。すごく開放感を放つ曲で、何が行くところまで上り詰めた曲をまとめるために丸まらない展開が僕には新鮮だった。

 

ステッペン・ウルフ

荒っぽくゴリゴリした音と声が絶妙にぶつかり、組み合っていて強い固まりとしてそこにある存在感。これぞロックバンドだ。かっこいいぞ。

 

ジャニス・ジョプリン

ここに並んだ映像の中でもひときわ異彩を放つパワ-。「ことだま」ということばがあるが、彼女は「火の玉」みたいだ。特にこのライブ映像は他にある彼女の映像の中では最も際立っまた、ベストなステージだと思う。ただただ、すごい。

 

クリーデンス・クリアウォーターリバイバル(C.C.R.)

ものすごいパワー、のどがちぎれそうな、ハンマーパンチのような歌。全身に浴びせる、たたきつけるようなシャウト。演奏曲もものすごく合っている。映像も時代がよく出ていて良かったが、ライブ映像を見たかった。

 

 

 

【ジャニス・ジョブリン】

 

彼女のアルバムを聞く限り、あまり強く魅かれる事はなかった。決して上手いヴォーカルだとも思わない。大好きな曲もない。でも、この映像を観て彼女という人間が好きになった。「何も考えない、感じること。瞬間と一体になる、宇宙なのよ。」ということばも、彼女なら素直に納得できる。

 

モントレーのあのステージは何度観ても鳥肌が立つ。“歌”が“歌”ではなくなる瞬間を観るのだ。あの大会場を真空にしてしまうようなパワーだ。「子供が泣き叫んで訴える」というのは、まさにこれなんだと気付く。話すように歌い、歌うように話す。歌の中で怒り、泣き、笑う。

 

「私は未だパワーだけ」と語ってた彼女に“いつか”が来なかったのが本当に残念。彼女がアレサやオーティスの表現力に関心を寄せていたのが興味深い。歌には確かに技術が必要で、しかしその技術をあやつり、創るのは「強烈な想い」でありその人が培ってきた「たましい」なんだな。

 

 

 

【LED ZEPPELINN】

 

LED ZEPPELINNに出会えたことは、本当に大きな財産になった。こんな凄いバンドを知らずに今まですごしていたなんて。今、彼らに出会えて、本当によかった。自分で曲を作ることだけに夢中になって、自分の価値観や、好みだけにとらわれて終わってしまうところだった。

彼らの名前は知っていたし、有名なStainway to Heavenは、聞けば、聞き覚えがある。彼らを深く知り得るチャンスは、幾らでもあったはずだ。けれど、私は、彼らに関わろうという気持ちすら持たずにいた。

 

LED  ZEPPELINを見て、一番に感じたことは、彼らの音楽は、一つのドラマだということ。Queenも、そう感じたけれど、ZEPPELINとは、種類が違うと思った。もっとサイケデリックで、象徴的で、精神性にあふれていると思った。社会に対する思いや、思想的なことを感じずにはいられない。SoulfulなFeelingにあふれている。ゴスペルやソウルのように、ヴォーカルがシャウトしたり、歌のフレーズのとり方が、ジャズを感じさせたり欲張りな音づくりというかここまで複雑にやれてしまうのは、本当に本当に凄い!次の展開が予想できない、バリエーションに富んだ、フレーズが次々とあふれ出してくる曲の数々は、一曲がまるで交響曲のように、楽章に分かれた構成のようで、並のロックバンドとは、レベルというか、ランというか、もう、全然違う。芸術性が高い。よくも、あれだけの才能が一つのバンドに集まったものだ。

 

レッスンで「本当に凄いバンドは、簡単にカラオケで歌えてしまったり、コピーしたりできるものではない」と言われていたが、ZEPPELINは、まさにこれだと思う。素人が見たら、あまりにも差が大きいことをつきつけられる。楽器とヴォーカルが同じヴォリュームで打ち出され、各パートが一つの音となって全体をつくり上げていた。他のバンドでは、ここまでやらない(できない。)んじゃないかと思った。こういうことが、はっきりと個性といえるものだろう。

 

歌詞の意味がほとんどわからないので、よけいに想像力がわく。そこに、必ず物語られているものがあるのが、表現力だ。彼らの音楽には、尽きせぬ表現が、全体を覆っている。果てしなく、どこまでも秘録、深いものに思えた。「RainSong」静かで、荒涼としていて、とても寂しい。でも、穏やかさが漂っている。「Dazed and Confused」社会に一石を投じ、その波紋が広がっていく感じ。とても、Soulful。ギターをバイオリンの弓で弾くなんて初めて見た。超音波のようで、ますます切なく、無情な気分が高まる。裏切られたり、出し抜かれたりして、漠然としていた情景が、だんだん、怒りを含み、狂っていくようだった。まさに、混乱の心情、混乱の社会といったところか。人生の営みを感じさせる映像とも合っていた。

 

「Stainway to heaven」希望の歌と紹介していたが、とても静かで、ちょっと憂鬱な抑圧されたものを感じた。この抑圧を脱け出して、生きていくことが、希望へのStairwayなのかと思った。生きるプロサスが、つまり、死への道を歩むことが、希望と結びついているということなんじゃないかな。“ほほえみを忘れるな”と歌っているようだったけれど、メロディがとても切々としていて、自分の人生はとても人に勧められたものじゃないけれど、せめて、お前だけは幸せに生きてくれ!と言っているようだった。心に残る一曲だ。

 

「ドラムのソロ」ドラマーの彼は、解放を求めていると思った。彼の手が直に弾き出す音、リズムの連続は、とても大きな自然、それをとり囲むもっと大きな宇宙、惑星が浮かぶ、空間、果てしない時間を感じた。スティックで叩くと、とても人工的な音になって、人間の営みというか、戦いや祭りの、高揚していく感じがした。とにもかくにも、見ごたえのあるステージ。音楽にひたれるのはもちろんだが、彼らが歌い、弾き、叩く、その姿、指使いに魅了され、感動してしまう。本当にこれだけやってくれば、文句はない。見にいく甲斐があるというものだ。本物のライブをこの目で見、体験したい。つくづくそう思った。歌詞も確かめたいと思う。

 

 

 

ABBAアバ】

 

歌う人間はステージでひとり立つものだ。それがグループだろうと意識は同じこと。このステージを見おわった客は一人ひとりの印象をちゃんと言えるだろう。あの人はどんな感じだったかしらなんてことは絶対にないと思う。4人それぞれが持ち味を出して自分を精一杯表現し、一つにまとまっていく。4人いてなんとか一つになるんじゃない。ひとりの力があるからこそ、その力が合わさって4人以上のパワーとエネルギーになるんだ。

 

女性2人と男性2人というと日本でいえば、サーカスというグループを思い出す。存在感の大きさの違いを感じる。カゲロウとアゲハチョウぐらいだろうか。日本とアメリカの観客の求めるものの違いもあるだろうけど、やっぱり声や人間のパワーは必要だと私は思う。あるのに出さないのと、ないから出せないというのは大きな違いだ。大声が出せるということは本当すごいことだよ。出そうと思えば出せてもそれを出し続けるということがどんなに大変で体が必要かということに心がうなづく。

このグループは歌を聞かせるというより、ステージをどうみせるかということを中心においていると思う。もちろん基本の力は当然もっているのだけど、歌を聞いて何かを感じとるというより決められた時間の中で、どれだけ客を楽しませ、喜ばせ、笑わせるかということに徹底していると思う。どんなステージも自分たちのやりたいものを徹底してつきつめていけば価値がでてくると思う。

 

4人の中の一人の男性は、それほど声にパワーがあると思えなかった。かえって女性2人の方が声のパワーや存在感はあったと思うけど、終わった後に印象に残っていたのは彼だった。それはステージでのパフォーマンスと全身をつかった表現があったから。会場に降りてきて観客の女性2人とキスをしてしまうところなんて(それも濃厚なやつを)日本じゃまずしないのではないかと思った。やりすぎだというくらいやっても受け入れる国民だからこそできることかもしれない。日本人には日本人にあった音楽があるということだろうか。ステージをやることは、一つのコミュニケーションなのだから自分が伝えたいこと、伝えたい人々というのは重要だと思う。でもそれは、自分が伝えたいことを強く出していく中で、聞きたいと思う人々が集まってくるのだと思う。聞きたくない人は当然、近づいてこない。彼らはステージの見せ方だけでなく、技術もしっかりともっている。

 

リズムの取り方なんて、とても気持ちよくて聞いているとこっちものらされてしまう。体がしぜんに動かされてしまうのだ。リズムって「さぁリズムをとって」といってとるものではなく、しぜんと体が動いてしまう感覚。4人の息がぴったりあっていて相手の呼吸を知っているように音をつないでいく。声を出しているというより、まるで楽器の音を出しているような感覚で音をつくり出している。ただ歌うだけではなく、いろんな趣向をこらして観客をあきさせない。何時間もあきさせず魅きつけておくということはすごいことなのだ。

 

このグループはパフォーマンス性が強いけれど、歌だけで何時間も観客を魅きつけておく歌手は本物だと思う。歌手にもいろんな表現方法があるからいい、悪いで判断できることじゃないけれど、歌だけであきさせないものをつくろうと目指しているわけだけど、それは本当にすごいことなのだと改めて考えさせられる。一つのステージを客から金をとってもたせる拍手をもらうということは、ものすごい影の努力が必要だ。彼らは声をはじめからもっていたかもしれない。声だけでステージはつくれない。声は手にはいると思ったうえで、何をやりたいのかということを考えなくては。自分のやり方を楽しみながら一つひとつやっていく。

 

 

 

TOTO

 

TOTOは、中学時代の私には、ヒーローとも言えるバンドの一つだった。兄がレコードを持っていたので、兄のいないスキにこっそり部屋に忍び込み、歌詞カードを見ながら、レコードと一緒に歌ったものだった。レコードの最後の一曲のラストを迎える時のあの寂しさが甦るようだ。今で歌詞を覚えている歌がある。カーペンターズの「Yesterday once more」の1フレーズと重なるような、思い出深いバンドだ。ヴォーカルが交代したり、メンバーが亡くなったりと、噂だけは聞いていた。当時はヴォーカルにボビー・キムボールがいた。一部の音楽雑誌では、彼はあまり評価されていなかったようだが、あの高く、ハリのある声には圧倒されたものだった。

 

何年ぶりかで、レコードを聞いてみた。ギターのスティーブ・ルカサーは、以前は、どちらかというと、甘い声だったが、今回のLDを見た後に聞くと、幼さすら覚えた。今は、おじさんになってしまったが、相変わらずの美しい前歯と、ちょっとハスキーさをかける声は、とてもセクシーだ。齢を重ねて、その人がよく思えてくるのは実力があるからこそだろう。彼も今の方が断然いい。口の中、というか、喉の奥の方でも音を膨めて出しているような印象を持っていた。ちょっと、ビリー・ジョエルと似た感じだ。あれが、深いポジションから出している声ということなのだろうか。

 

TOTOサウンドは、全体的に品があって、しっかりとTOTOWORLDになっているのに、各メンバーが個性的に光っているところが好きだ。これでもか、というほどの各パートのテクニックと、それをまとめ上げているキーボードのデビット・ペイチの才能が本当に凄い。また、皆がヴォーカルをやれる声を持っていて、しかもハーモニーで合わせると、とても美しいところも好きだ。今回のLDでは、女性がコーラスに入っていたが、やっぱりボビーの方がいいなぁと思った(彼女らが歌えるし、味な声だということはわかるが)。ボビーのヴォーカルがあったから、数々の曲がヒットしたのでは、とも思ってしまうのだ。新しいヴォーカリスト入り、外見的には、TOTOもおじさんふうだから、少し路線が変わったかなとも思った(ボビーなんて、マスタッシュ生やしていたから)。コーラスの彼女らの衣装が、TOTOとは少し異質だったとも思う。見方はいろいろある。とにかく、あれだけ質の高い音楽性に、直に触れられる機会をもてることは、とても幸せなことだ。ステージに立つ側と、観客とが、正に一体となった、熱い熱い空間であったと思う。

 

 

 

エディット・ピアフ

 

解説者の声、歌っているようだ。リズムがあって。フランス語はおもしろい。歌うピアフ。首のところすごい。太い首だ。歌っているうちに首は太くなるのだろうか。生まれつきだろうか。底の底から声を絞り出している。そのことだけで、ただもうそれだけでこんなに心がつかまれるのか。心より深い。魂。魂が聞くものの魂をつかむ。魂で歌うから魂がつかまれるのか。なぜピアフは魂を感じさせるのだろう。ピアフには魂があって私にはないのだろうか。いや、ピアフの歌声に揺さぶられるのは魂じゃないだろうか。

じゃあ、なぜピアフは魂をさらけ出せて私は魂をさらけ出せないのだろうか。出そうと思っているのか。自分のうわっつらの、カッコつけてるように聞こえる声を嫌だと思い、ピアフの声を素晴らしいと思い、そういう声を欲しいと思う。まず欲しいと思っている。じゃあ出そうと思っているのか。それにはこの世にたった一人の今の自分の魂をしらなきゃならない。自分が何にどう思い、どう考えているのか。何を感じているのか。歌一曲を目の前にしてとにかく自分は何をその中で今この時点での自分として何が言いたいのか、伝えたいのか。より多く知ったから正解に近づくわけじゃなく、今のこの時点のこの身体の中にそれ一魂がある。そこをまずみつめる。何の価値基準も判断も入らない、まずそのまま。いい悪いを超えた存在そのもの。生きている今。私の魂とは。

 

その登場人物になりきっている「アコーデオンひき」間のとり方。「アッ」「グ「ワッ」とあの人の心の底からそうか、ピアフの声は腹の底から出ているようには私にはきこえないんだ。心の底から声が出る、魂が歌う。場面が変わって隣にいる男性がどんどん変わる。人々の中にいるとき笑っている。

デュエット。男の人は歌っていると感じる。ピアフは語っているように聞こえる。対話している。メロディをつけてじっと相手をみつめている。自分の番じゃないときも口が動いている。なぜだろう。デュエットした人の部屋だろうか。ピアフの写真が飾ってある。本がたくさんある。彼が読んだのだろうか。私より余程ひびく話し声だが、ナレーターの人の方がずっとひびいている。舞台。笑った声、息が全部声になっている。ピアニストの笑い声は普通のじゃないだろうか。全然違う。何が。ピアフの声は口先で歌っていない、のどから声が出てるというようなものじゃなく深いところから。でもサラ・ヴォーンやマヘリア・ジャクソンの身体全身を思いおこす出方とも違って聞こえる。やっぱり魂から。戦闘機。が飛ぶ。そういう時代に歌う。直立不動で。握りこぶしで。泣いている。どういうことなのだろう。役者だ。

 

アン・ドゥ・トワの声が素晴らしい。どこが。強い声。話す声にも芯がある。フワフワしていない。聞く人を一回つかんだら離さない。歌っているのを聞く、というよりは説得されているような。伴奏なしで歌ってあれだけひきつけられるのか。でもやっぱり語っている女優。手が歌っている。手はあんなに歌うものか。表現があんなにできるものなのか、手に。楽屋裏だろうか。凄まじい。スポットライトを浴びるステージが華やかなぶんだけ逆に落差が際立つ。しかし、舞台とはあんなにたくさんの人の前で歌うことなのか。恐ろしい。

 

アコーディオンひき」の最後のフレーズで終わる。あのフレーズだけで素晴らしい。あのフレーズだけで心臓がギュッとつかまれる。それにしても、やはりなぜピアフの声は心臓をつかむのか。勘のいい人間だったのだろうか。意図していたのか。無意識に口ずさんでも口をついて出てくるものはすべてそこに魂があったのだろうか。彼女は幸せだったのだろうか、ということばがでない。それはなぜだろう。生きた。歌った。ピアフという人が確かにいた。その人の声がその人の魂が私の奥深くにギリギリと「あんたの魂は。」と切り込んでくる。

 

CDでよく聞く曲を、実際どんなふうにステージで歌っているのか興味があった。歌が始まるとピアフの姿にクギ付けにされた。表現するというのはこういうことかと気づかされた。声が違う。とても前に出ていて耳からのめりこまれる。でもいかにも聞いてよ、という嫌味は全然ない。そこには、真実を実感を込めて訴える素直な表現がある。喜び、悲しみ、勇気などがしぜんに伝わってくる。緊張したステージの中で、とてもシンプルだが、自分も歌を楽しみ、人へも楽しんでもらおうというサービス精神からなのか、一瞬たりとも飽きさせない空気が伝わってくる。

いろいろな人生経験からあれだけ深みのある歌が作られたのだと思う。それにしても、最愛の人が死んだときの気持ちを歌ったのがあったが、普通だったら涙が流れて歌えなくなるものを、よくあれだけ力強く歌えるなと驚いた。「歌は私にとってはけ口、歌は私を回復させてくれる。」のことばを聞いたらその理由が判った。涙などもう出ないくらいおもいっきり泣いたのだから。そして彼女はプロなのだから。

 

 

 

【 モーターシティマジック モータウン

 

3つのことを実感しながら観た。1.アメリカの音楽が洗練されていく過程、2.息の線が体と声を支えていること、3.感情・感覚の表現力。

グラミー賞などで観れる、まるでプロモーションビデオではないかと思えるほど、シャレた、スマートなステージやノリができるまでには、長い年月が必要だったのだなと思う。ダンサーの踊り方も、観客の手拍子も、まだ体がバラバラで、いわゆる「ダサイ」感じがする。しかし特にダンサーを観ていて皆、全身で思い切りやろうとするが故のかっこ悪さだと思う。この過程を通らなくては洗練されない。日本の音楽事情が育っていくにもこういう「ダサイ」時期は必要なのは、全身全霊で求めること、表現者はプロフェッショナルなものを提供していることだと思う。Diana RossやTemptations、Marvin Gageは、今観ても空間の感じ方が豊かで、体の開き方が充実していて、細やかな表現力ができている。

 

Diana Rossは他の二人と表情、瞳の輝きからして全く違っていて、あれを観た誰もが、彼女は特別だと感じ、当然ソロ・ヴォーカルとしての道を期待するだろう。言ってみればすごく単純な世界だ。誰にでもわかるんだ。逆に言えば、誰にでもわかるように表わせた人が、人の心をつかんでいくんだ。単純なことだ。でも私としては「売れたい」「人気が出たい」というのを目的にしたくない、あくまで「自分を表現したい」を原点にしたい。おかしな話かもしれないが「表現したい」から「人に伝えたい」までに私にはすごく遠い道のりがある。人への働きかけに喜びを感じられるようになったとき、もっと自分が開かれ、歌も変わっていくのだろうが、まだサービス精神などということは私には実感できない。

 

Temptationsの次に出た3人の女性グループのリードヴォーカルを見ていて突然その線が見えた。お腹、特に胸の辺りから喉頭までの息の柱がしっかりとあって、喉頭原音が豊かに発せられている感じがした。福島先生がよく、「Artistの息・体の線が見えてくるような判断基準を育てる」と話をされる。今までのRの観方が、表面的だったことを感じた。

 

TemptationsとSmokey Robinsonで最も感じたフレーズ毎に、音毎に、体の中身や空気の捉え方が変化していた。聞き方にも問題がある“よく耳を鍛える”というが、耳だけで聞こうとすると、頭で音楽を理解しようとする作用が働き、そうするとHeartは固くなって、何も感じることができなくなる。表現する側はもちろんだが、音楽を楽しむために、いかに聞く側も心と体を開いておけるかということが、とても大事だと思う。

 

 

 

【 R &R 】

 

あんなふうにロックに長くて暗い、そして何より力強い時代があったんだなぁと思いました。そして何にでも歴史があること(自分だっていきなり今があるわけじゃなくて、小さくても歴史がある)を改めて感じました。あたりまえのように存在することと、あたりまえのように存在しないもの。そこを知っていくことは深くてとても興味深いことだ。ものごとは結果ではなく経過が大事だということばもあるが、本当はよい経過にはよい結果がついてくる、ということだと思う。ロックンロールを創り上げてきた人々は常にいつでも最善を尽くしていて、目の前にある問題と壁とぶつかりながらも、決して音楽を辞めたり、捨てたりしなかった。そこに魂やパワーが存在し、人々を動かしていったのだろう。音楽の影響力を映像を見ているととても感じる。コメントをしているロックンロール先駆者たちは、その影響力の凄さを体で感じていた人たちだ。

 

画面に出てくるだけでその人たちの歴史が存在感として現われてくる。声の低さや渋さは、苦難や壁を乗り越えてきた自信に満ち溢れているし、説得力がありすぎるくらい。音楽に肌の色は関係ない。よいものをよいと選んでくれる聞き者がいる限り、不滅なのは確実かもしれない。音楽は人を幸せにするもんだと言っていた彼のことばはとても強くて温かい。目に見えなくてつかめないものだからこそ、より一層の魅力がある上に、なぜだか残る音楽は、人々の心から奪うことのできないものだ。奪うことのできない力強くパワーを秘めている音楽に魅せられ、支えられている人の数がどのくらいだろう。ほぼ全人類に言えることだろうと思う。

 

R&Rを聞いて自分の中から底から、押さえきれないような激しさが生まれていた若者たちの映像はかなり衝撃的だった。影響力の凄さに親たち(大人たち)が驚いたり、禁止したり、恐れたりするのもわからなくない。しかし、町が国が禁止するということは、笑いごとでは済まされないことだ。どんなに人を救う力が音楽に存在していたとしても、その存在自体を否定している人の数が多いと、苦労も多くあったことも理解できる。かっこいーってしびれるーって思えるパフォーマンスも角度を変えて見れば、いやらしいものとなってしまう。魅力的なものは、背中にリスクも背負っているというわけですね。何にでも表と裏、善と悪が存在する。しかしどちらを表現していくか、これこそが大事なことだと思う。裏があることも悪があることも否定はできない。けどそこに埋もれて生きる必要なんてない。歌だってどこを表現していくかってことなんだと思う。R&Rを創り守ってきた人々、世の中にあるすべてのものには長いような短いような繰り返しや苦闘がある。そういう存在を知らんぷりするような自分であってはいけない気がする。自分の歩いて来た道、歩いていく道、大事にそして誇れるものにしていきたい。

 

 

 

 

【アマリア・ロドリゲス】

 

アマリア・ロドリゲスはピアフとは違うけれど、同じようにことばが後から後からかぶさっていくようなものがある。そのリズムについていけない。追いついたと思ったら待ってるし、こっちがひと呼吸おいてる間にもう走りだしている。それは曲がスローだとかアップテンポだとかそういうことでの違いじゃない、とにかくつかまえられないのだ。歌が始まると、どんどん滑り出していくあの感覚は私にはわからない。ことばを言おうとすることが歌をとめてしまうもの。ファドというジャンルは聞いたことはあったけど、歌は聞いたことがなかった。

 

歌詞をみるとポルトガルという国の歴史や国に対する想い、生活している人々の姿などいろんなことがわかる。決して明るい曲ではないけれど、強く生きてゆこうとする姿勢がみえる。イワシの歌なんてかわいらしいのだけど、アマリアが歌うと歌詞のことばの世界が音によって、どんどん広がっていくのがわかる。アマリアのように生きてきたなかでのつらいこと、苦しいことを、歌にすることができるというのは幸せなことだ。幸せの価値観は人それぞれとはいうけれど、明らかに不幸と思えるような死に方をする人はいる。そういう人が歌を歌えばいい歌を歌えるかといったらそうとは限らない。幸せと思える人がいい歌を歌えるかと言ったらそうとは限らない。歌は歌えるけれど、人に伝えることはまた全然違うことではないだろうか。自分の経験やそのなかで感じたことを一回人生の大きな洗濯機に入れてから取り出さないと人には伝わっていかないのではないかと思う。

 

アマリアが「lalala」と何度も歌うところで、どんどん自分の感情が頂点に近づいていってるようにみえた。それによって、のりの悪い日本人も少しずつ盛り上がっていたようだ。たぶん私があの客席にいても同じようにしかできないだろう。世界的な歌手たちのライブで、外国の客は拍手喝采の総立ちだけど日本人はそうはならない。その違いは国民性とか気質の違いだけのことじゃないと思う。耳が、耳が違うからじゃないか。私の感動しているところは外国人とは違うところではないのだろうか。音に対する感覚でいったら外国のステージと客、日本のステージと客は同じなのではないだろうか。外国人の客の中にいて私は同じような感動を味わえない気がする。外国の歌手は日本人に聞ける耳がないということを知っているのだろうか。

 

ステージに立つアマリアは存在感に溢れていた。黒の衣装で身をつつみ、ほとんど動きもせずに、あごを少し上にして歌っていた。あごをすっと上にしたまま歌っていて苦しくないのかと思ったけれど、あれが彼女のしぜんなスタイルなのだろう。それに声に関しては、どんな態勢だろうと自分の声を出せるだろうから。歌うということは自分の感情を一つの世界にして伝えるだけだ。本物は皆そうだ。何の余計なものもついてこない。ことばを音に乗せ伝えるだけ。このことを教えてくれた。

 

 

 

【スィングタイム 】

 

なんというエネルギーか。アメリカ人という国民性もあるかもしれないがそんなものではなく、人間が生きていくエネルギーみたいなものを感じさせられた。ステージにいる人は自分のもてる最高の力を出し惜しみなどせずぶつけていた。考えると、生きている人間は皆、体の中にエネルギーがあるし、計り知れない可能性をもっているけれど、それを充分、使っていける人はほんの少数の人だけだ。そこにそういう違いがあるのかといえば、自分を信じることができるかということと、自分の感じたままに生きていく勇気をもっているかどうかだと思う。大抵の人は、自分の心のことばに真剣に耳を傾けないし、自分が価値あると思ってやりはじめたことを信じられなくなってしまう。このステージの上にいる人たちだって、私たちと同じ人間で気の遠くなる積み重ねをしてここまできたのだから。そういう人間だからこそ、人々を熱くさせるようなステージができるんだ。観客はステージに立っているような人と同じ生き方はできないかもしれない。でも冷めてなんかいやしない。心はステージの上も下も何の変わりもない。いろんな外国の歌い手のステージをみていると、日本という国がみえてくる。たくさんの金をかけてステージをつくり、顔にはりついている目しかもっていない人には素敵なものにみえるかもしれない。でも心の目をもっている人を感動させるステージは、本当に少ないんじゃないだろうか。日本人だって外国人と同じように歌の心はもっているし、いいものももっている。でも体の底から声が出せないために、ものすごく損をしていると思う。同じ人間として自分を出していくには、体の奥から出せる声がどうしても必要だと思った。それがないことには自分を生かしきれない。

 

歌っていうものは、シャンソンはフランス人、カンツォーネはイタリア人、JAZZはアメリカ人なんてわけるものではなく、人間のものだ。同じ人間が人間に共通の心を歌っているだけだ。印象に残ったのはサラ・ヴォーン。この人の場合、パワーで押していく歌手とは違って、声が音がどういうふうに動いていくのか全然予測できない。「待ってくれ-!どこに行くんだ」という気持ちで見入ってしまった。そしていつの間にか一曲が終わっていた。息の深さ、体の余裕が表現や仕草に感じられる。首がものすごく太かった(ただ肉がついているだけかと思ったがそうでもないらしい)。人間の声かと思わせるような低音がでるくらいだから、体も普通の人とは全然違うのだろう。私の今の体からあんな声が出たら驚いてしまう。

高音から低音に移り変わるところなんて聞いていると一瞬、山の上から飛び降りた感覚になる(夢の中で山から落ちたからイメージでわかる)。歌っている本人はどんな感覚なのだろうか。息が流れ続けていてもことばは途中でとまる。一曲とおして気持ちが吐く息となり、続いているということだろう。自分がやろうとしたって息にしてもイメージにしても全然違う。声はもちろんだけど、表現力が本当に豊かだ。表情、ジェスチャー、会話、すべてにおいて見ている者を引き込んでいく魅力がある。特別講座で表現力を学んだけど、ステージに立ったときオーラを発するぐらいになるためには、歌もそして人間的にもその人がいなくてはと思われるくらいにならないとでてこない。今日これをやったから明日こうなりますという世界じゃない。終わりのない道を一歩ずつ進んでいくだけだ。

 

 

 

ジョージ・マイケル

 

ジョージマイケルは、声がろうろうとでるわけではもちろんない。しかし自分が一所懸命、ステージを楽しんで観客も目いっぱい乗せようとしている。また伸ばしているように聞こえてもよく聞くとちゃんと切って、すぐにもとにもどる。エルトンジョンもシャウトしていても、次の瞬間にはもとにもどっている。意識しているわけではないだろうが、息を吸うのがとても速い。一つ出したらすぐ次に備える。

先生がいつも言っているのは、そういうことなのかと感じた。

キムワイルドの息の深さというのはすごいと思った。押さえて歌っているようなところでさえ、今にもこぼれてくる何かを感じる。大きいかめの水が溢れてこぼれるようを想像した。そしていざ歌い始めると太い一本の線のような息が見えるような気がした。ボーイ・ジョージの言っていた“どんなに苦しい病気でも歌があれば最高”と言っていたが、今の私にそれだけのものがあるかと考えさせられた。

 

 

 

【RUSU BROWN】

 

ギターを弾く指が踊っていた。歌ももちろんいいのだが、その指に目がいってしまい釘付けになった。あんなふうに人間の指って動くものなんだと不思議だった。リズムが体の中に入り込んでいる人の動きは、魅力いっぱいあふれている。自分のリズム感のレベルが足元にもおよばないことがわかる。体の中に入るどころか表面にとどまっているに過ぎない。この人のリズム感だって考えてやっているものではなく、心と体が一体になって動いていくものだと思う。体の芯からリズムを生み出している人は生命力にあふれている。それと彼の基本のリズムのとり方はドラムと同じだった。とても細かい拍でリズムをとって足で細かいリズムをとり、指で自由自在に弦を弾く。彼もまたドラマーだった。すべて基本があってその上に初めてその人らしさが出てくる。基本があるからこそ、そのうえに広がりをもっていくことができる。可能性を広げるためにはどうしたって揺らがない基本が必要だ。RUSU=BROWNという女性ヴォーカルは、その体だけで存在感にあふれている。

 

 

 

ビル・エヴァンス

 

悲しいことに私はビル・エヴァンスを知らなかった。ジャズにも興味がなかったし、洋楽にも興味がなかったから。本物を聞いて理解できない、いいと思えないというのならたくさん聞き続ければいいと思うが、知らないということは大損だと思う。

 

ビル・エヴァンスは人に教えるときヒントをあたえるだけと言っていた。発見する喜びを奪いたくないからとも言っていた。そういう真の喜びを知ることなく死んでしまう人もたくさんいるというのは悲しいことだ。

 

 

 

 

【 四大ソプラノの共演 】

 

彼女は歌っているだけでも充分に観客をひきこめるけどそれだけじゃない。常に観客とコミュニケーションをとる。あんなステージだったら何度も行きたいと絶対に思う。みていても楽しくてしょうがないもの。ああいう人間にずっと触れていたいたいと思うもの。観客の一人ひとりを心から大切にしているのがわかる。観客と一体となろうとするけれど媚はうらない。そんな姿勢が好きだ。表現するってことは人と人とのコミュニケーションなんだと思う。それは普段生活している場にあることと同じで、その表現の仕方が何百倍にも大きくなったのがステージなのだと思う。

 

彼女のステージのはこび方はMCで自分の気持ちを次の歌の世界にもっていくと同時に、観客も自分の世界にひきこんでいく。歌っているときも歌っていないときもすべて彼女の世界なのだ。そしてステージが終わっても観客の心の中には彼女の世界が残っている。魅力って何だろうといつも考えるけど、ひとりの人間に何度も会いたいと思わせるものをもっているかどうかなんだと思う。何度も会いたいと思うってことは、何度会ってもあきないということだ。あきっぽい人間に対して、あきさせないものをもつためには常に吸収するものがたくさんあって出し続けていなければできないことだと思う。毎日ただなんとなく会いたいのではなく、一年に数回でもどうしても会いたいと思われる人間になりたいものだ。それには自分を磨き続けるしかない。

 

 

 

ナット・キング・コールほか】

 

歌を歌うのを聞いて、とても聞きやすい声にひかれた。リラックスした雰囲気と、リズムにノッてスイングしていることと深い声だから(声質も多々あると思うが)だと思う。ことばも小気味よくメロディにのっていてまた、ピアノも素晴らしく、何と言ってもカメラ目線での笑顔がやけに印象深かった。サラ・ヴォーンからは、歌唱力が際立っていたのが印象的、声量・声城・声色・フレーズを自由にまわしていた。そこにオリジナルを強く感じた。ハーブ・ジャフリーズ。この人、全然知らなかったが、声については、やはりお腹から出ているのをとても感じた。太い管の中を圧力の高い息が通り抜けて出ているような声だった。3人の素晴らしいヴォーカリストを聞いて、プロの声、歌、ステージとはこういうものだと思った。ゆったり歌っているようでとても体を使っているということと、ボリュームを出しても、キイが高くなっても、声がそろってよく出ているというのが特に感じた。

 

「音楽のある人生だなぁ。」とナット・キング・コールを見て思いました。笑顔までもメロディのあるもののような雰囲気がありました。何だかすべてが軽やかで、存在自体がジャズと言えるような、軽やかだけれど深い存在感のあるそんな彼を囲む仲間たちもとても素晴らしかった。仲間の素晴らしさの前に、もっと彼の素晴らしさに触れようと思います。声の表情が本当にソフトだなぁという印象でした。ひびきがとても素直で素敵でした。そしてとても軽やか。弾むような、聞いていて笑みがこぼれてしまうようなそんな幸せな声。苦労がなかったわけは絶対にないのに、そんな暗さを感じさせない明るく賢明な声。これはルイ・アームストロングスにも感じたことのように思います。

 

私はナタリー・コールが好きになって、彼女はきっと偉大な父親を誇りに思っているだろうと思いLDを観ようと今回レンタルしたわけなんですが、父親の血で彼女が素晴らしくなったとかより、よい存在が近くにあったことの偉大さ、それを吸収してきた彼女の偉大さみたいなものを感じます。私の持っているCDに親子で歌っている写真があります。それを見ていると、自分の姿を見て育った娘が自分と同じように歌を音楽を愛していることをとても誇りに感じている、少々自慢げなナット・キング・コールがいて、彼もやはり親なんだなぁと思わされます。彼のように素直に音楽と、自分と向かい合う自分でいようと思います。

 

ナット・キング・コールの口は何て大きいんだ。あんな口の人は滅多にいない。その口から出てくる声は芯はあっても彼の瞳のようにあたたかさを感じる。深い息が流れている声というものはどう歌ってもあったかさを感じるんだよな。もちろん感情のない歌い方だったら伝わらないかもしれないけれど、薄っぺらな声とは全然違う。人の数ほど声はあり、その声をどう使うかはその人次第。彼の歌い方は声を吐き出すという感じは全くなく、太く深い息の流れの上に声をおくだけだ。吐き出す息がコントロールされて安定していなければこんなにゆったりと余裕もってなど決して歌えない。それは、サラ・ヴォーンも同じこと。歌に限らないけれど余裕をもって一つのことをやるということはすごいことなのだ。自分の体を考えると本物は皆、神様のような存在だ。

 

ナット・キング・コールはピアノを全く見ずに弾きながら歌っていた。しぜんになるほど、たくさんピアノに触れたということがわかる。何か一つ技術を身につけるためには同じことを繰り返していくしかない。あきることなくやっているうちに気がついたら体がしぜんと反応し、動くようになる。その身についた技術の上に表現が生まれてくるのだろう。感覚だけでやっていれば応用がきかなくなっていつか限界がくると思う。音楽だけではなく、どんな分野の一流も同じことの繰り返しで力をつけてきたはずで、こういうことは一生やっていく一つの楽しみと考えればいいと思う。

 

何かを成し遂げていく人間は、どんなことも自分の考え方一つで楽しめるということを知っているのだと思う。彼はピアノを弾きながら足ではずっとベースのリズムをとっていた。体の中に他の楽器のリズムもすべて入っているようで、そういうなかで自分の歌のリズムもつくっていく。

ヴォーカルがひとり浮き上がっているわけではなく、自分でペースをつかみまわりをひっぱっていってるようだった。リズムなんてものは体の中に入ってなければ歌の中に出てこないだろう。リズムをとるという感覚じゃなくリズムを生み出すといった方がいいかもしれない。

 

サラ・ヴォーンののは一つの芯のまわりにたくさんの波紋が広がっていくようで、ものすごい深さを感じる。声の出し方も直線的ではなく、いろんなカーブを描いていて、ジェットコースターのようにおもいきり落ちたかと思うとまた、さっと上がってきたりする。あの声の上にのることができたら、気持ちいいというより気分が悪くなるような気がする。それくらい落差が激しそうだ。息をコントロールするということはものすごいことだ。サラ・ヴォーンの首は男顔負けの太さだけど、あれは声の太さと関係があるのだろうか。首を息の通り道と考えるなら、太い方が太い息がでてくるのだと思う。折れそうな細い首から彼女のような太い声が出てきたら、驚くだろうな。声を出すということは首から上のことではなく本当に体すべてをつかった仕事なのだ。体の奥底からの息で声が出るということは、首から上と下が一つになっていくことだと思う。顔の表情というものだって体の中から沸き上がってくるものがあってしぜんと表情として、出てくるのであって、そうでないものはただ筋肉を動かしてつくっているに過ぎない。呼吸一つがその人間を全身で表現するということにつなげていくのだし、そうであってはじめて自分がしぜんに感じられるのだと思う。日本人を見ていると顔と体が分離してしまっているようで不しぜんだ。体の上にのせている顔といった感じがする。全身に血液は流れているけれど酸素はいきわたってないような体の動きだし、自分の足先や指先が自分のものという意識があまりないように感じる。全身で呼吸し体が動くから生きている実感があるし、この肉の塊が自分のものなんだと意識できるのだと思う。

 

ハーブ・ジェフリーズの姿勢はとても堂々としている。姿勢がいいか悪いかの基準てみていてしぜんかどうかだろう。真っ直ぐ立てばいいってもんじゃない。何事もしぜんにみえることが大事なのだ。息がお腹の底から出てくるようになると首の位置や胸のはり方一つで息の流れが変わってしまうのがわかる。そうなると自分でどうにかして一番気持ちのよい呼吸が出る姿勢はどうなんだ。と調整するようになる。たぶんそうやって少しずつ自分の姿勢というものがわかってくるのだろう。一流の人たちは常にベストの声が出せる姿勢を身につけたといえる。姿勢一つが声を得るのにも歌を歌うにもすべて影響してくる。あなどってはいけないのだ。それに姿勢はその人の生き方、考え方を表していると思う。どう考えたって高い志をもっている人が、猫背でうつむきながら歩いているとは思えないし、逆もまたしかり。自分という人間は外から見えないけれどイメージでつくりあげていくことはできる。彼の歌い方は、一つの音を伸ばしていく中でリズムをとっているように思えた。その伸ばしている声はとても安定していてコントロールされた息の流れを感じる。歌っているのを声ではなく呼吸で感じようとすると、本当に単純なことの繰り返しに思えてくる。伸ばして、止めて、ふみこんでまた流れだす。その単純なことがものすごくむずかしいのだが。ベースのないものの上には何一つでき上がってこないってことがわかる。

 

とってつけたようなものは自分のものにはならない。個性とかいうことより共通のベースになっているものを感じた。呼吸をコントロールできる体なくして、個性なんてものは出てこない。自分の体は自分で創って、コントロールしていくしかない。体と心と声が一つになっていくためには、自分をみつめ続けていくしかない。(黒坂)やはりリズム感がとざさまされているような感じがする。パーカッションの人の音がとても心地良く、ドラムの人との掛け合いは最高かっこよかった。あーゆう喜びが音楽をやっているとある。とても素晴らしかった。聞いていて心が踊る。コーラスはキレイすぎるくらいだった。2人で歌ったり、1人で歌ったときにコーラスのキレイさを打ち破るものがあって、とてもよかった。芯のある声とはこういう胸にひびいてくるようなぐっとくる声をいうのだろう。聞いていて胸がむずむずした。聞いていて高音よりちょっと下に落ちてるし、胸にひびいてるその人らしい声が聞きたいという気持ちだった。その一瞬がくるとわくわくドキドキする感じだ。その一瞬の創れる自分になること。統一された声であること。統一された声を聞くと胸のところに芯があって、体で支えられてる感じがする。自分の声もきちんとそういうイメージで出せるようにしてゆこう。

 

 

 

ニューオリンズ

 

ゴスペルについて語るとき、私には、この人なしではという人がいる。約10年前、学生時代に、偶然レンタルレコード店で出会った1枚のレコードは、その後の私に大きな影響を与えた。モノクロのレコードジャケットの黒人男性がグレイズヘアーをひとまとめに縛り、おもむろにうつむく様が、無性に私をひきつけた。それが“この人”、テレンス・トレントダービー(T.T.D)との初めての出会いだった。家でさっそく聞いてみた。それまでも、いろいろと好きな音楽はあったが、20才の私が、初めて“この音楽が最高!”と思えた感動的なものだった。自分の感性にあまりにもぴったりと合致してしまった。自分でやるなら、こんなカンジと私は漠然とイメージしていたように思うが、あまりにも彼のヴォーカルは、洗練されていて、繊細で、強くて、確かすぎて私などは当然、足元にもおよばない世界を作りだしていた。何と表現したらいいのか。とにかく私は、一週で彼の音楽性のすべてに惚れ込んでしまったのだった。偶然なのか、必然なのかあまりにも私好みの音に出会ってしまい、私はそのレコード屋さんに“ありがとう!”と10000回位いいたい気分だった。T.T.Dの歌は、=ゴスペルと言える。特に私が好きなのは、たとえるなら、RCサクセションの“スローバラード”ふうのもの。ダダダダダと、ドラマティックに盛り上がっていく歌だ。T.T.Dは、子供の頃からゴスペルしか許されずに育ってきた人だ。彼の体の根本にゴスペルが流れている以上、彼の音楽はみんなゴスペルなんだと思う。T.T.Dに出会う以前に、ゴスペルの存在を知っていたかどうか定かでないが、彼を知ってから、私はゴスペルを意識し始め、教会で歌われている風景を、TVや映画などで見たりして、だんだん、ゴスペルの意味するもの、その素晴らしさを知るようになっていった。

 

この「ニューオリンズライブ」を観て、ゴスペルって何なのか、私はまだまだ認識不足だったと思った。ジャズが生まれてきた背景に、黒人の悲しい歴史く人類が犯し続けている過ち>があるが、それらもすべてを包んで、ゴスペルは存在するのだろう。どんな宗教でもそうだが、それによって金を得たり、権力に利用したり、また元々人々が持っていた信仰を布教の名の下に無理やり改宗させ(西洋の)文明を押しつけて不幸な結果を招いたりと、キリスト教には、その長い歴史の中では最たるものがあったと思うが、末端の信者たちは純粋である。純粋にその宗教の神を信じ、神の教えに従い、よりよい人生を生きようとする。日々の苦しみ、悲しみ、また喜びを皆で分かち合い、神に畏敬の念を払い、神に感謝して生きる。こんな純粋な気持ちがゴスペルの根本だ。神に捧げる歌という意味でとらえるならば、ゴスペル的なものは日本にもあるし、聖歌もあるのだが、ゴスペルには、American Blackのジャズの心が息づいている。

 

American Blackの彼らの体質、そのものなのだと思う。Shoutこそ彼らの体質だし、魂だと思った。ビデオの中で、ゴスペルについて語られたことばは、とても印象深かった。「ゴスペルは自分の心の内にあるもの。ソウルというより、もっともっと深いところから出てくるFeelingが歌うことによって表現されるのだ。内なる神そのものなのだ」多くの人がゴスペルにひきつけられ、涙するのは正にこれだ。私も宗教は違うけれど、キリスト教の教えはよく知っているし、自分をこの世に存在させてくれる大きな力があることを感じずにはいられないと、つねづね思う。黒人シンガーたちが“ジーザス”とShoutしただけで、泣けてしまうのだ。T.T.Dが教えてくれた1本の道がどんどん広く、深くなっていくのを感じる。ビデオを観ていて、つくづく羨ましく思ったのは、ゴスペルに関わる人たちは、歌う体として成長していくことだった。赤ちゃんの頃から歌の中で育ち、その耳に、心に深くその真実の意味を刻み込まれる。生きていくこと、すなわち歌うことなのだから。1人が歌い始めれば、次のフレーズからは、もう家族全員が素晴らしいハーモニーでAmezing Graceを歌っている。何ということだ!またまた、私は大感動してしまった。“黒人は歌がうまい”などということばに一蹴り入れたい気分になってくる。彼らは誇り高いのだ。そこらの二流歌手なんぞとは、土台が違う。「世俗的な音楽とはFeelingが違う。個人的な表現であり、すべてのSwingがここにある」のだ。ビート、リズムすべてがゴスベルの大切なパートであり、何一つ欠けてはイケナイのだ。

 

もし、私が何もかも完璧にゴスペルを歌えたとしても、それは単なる偽物だ。私には、ゴスペルの歴史が体に刻まれていない。体の深いところに、Bibleを持っていない、本物のゴスペルを持っていないからだ。私がゴスペルをやりたければ、自分の内なる神になって、自ら表現する、新しいゴスペルを作りださなければならないだろうと思う。ゴスペルの名は貰えなくても、意味としてゴスペルといえるのではないかと思う。それにしてもステージに出ていたのは、そろって“おじいちゃん”や“おばちゃん”なのだから驚かされる。体の底から沸き出てくるFeeling、Shout!Shout!Shout!最高に心が揺さぶられる。最高にカッコイイ!あの俳優のJhon Gold wauも言っていた)本当に皆、凄い声だ。だてに年をとってるんじゃないんだぞと訴えるようなパワーだ。喋っている声から、もうゴスペルを感じさせる。とにかく強く、しかもコントロールされている。ハスキーにShoutした後に、すぐクリアーな声が戻ってくる。ファルセットも、ソフトなところも有効に表現している。魅力的なリズム感とスピード感、躍動感がステージ一杯に広がり、客を巻き込んでいく。Feelingからダンスが生まれ、見ている方も心だけでなく体も、しぜんに動いてしまう。観客へのことばの投げかけなどのタイミングも絶妙だ。パックのコーラスも、ソロ二人での掛け合いも、どんどん白熱さをPushしていく。次第に会場全体は一体になっていく。各々が自分の中にゴスペルのFeelingを見い出す瞬間だ。福音のシャワーを受けるような。ゴスペルには、いろいろなもののOriginがあるように思えてならない。

 

たとえば、ソウルダンスやプレイクダンスは、ゴスペルのリズムのブレイクダウンする(一瞬止まること)ところから生まれたのだ!と、ステージを見て確信してしまったし、ゴスペルがもっている音楽的なさまざまの要素は、他の音楽に生かされていると思えた。いろいろなビデオを見る度に私は、お尻を叩かれる気がする。今回のゴスペルは特にビシビシと痛いほどに叩いてくれた。モノクロのフィルムで、合唱隊をバックに、エレキギターを弾きまくり、Shoutしまくるおばあちゃんが出てきた。彼女は、どうしようもないほどに「生きるエネルギー」を与えてくれる力を発信していた。歌うために生き、生きることは歌うことだと、彼女の声は訴えていた。グレゴリー・ハインズ主演の映画「TAP」の中で、サミー・デイビス・Jrをはじめ、何人かの老人たちが出てくるのだが、彼らは実に熱いTAPを踏んでいたのを思い起こさせる。自分の体の内にあるもの、その歴史そのものが、表現となって、Feelingとなってあふれ出てくる。「あんなふうになれたらいいなぁ」と思わずにはいられない。彼女らが私に与えてくれたものを発進できる、本物のアーティストになりたいと、おこがましくも思ってしまった。

 

 

 

【 サイデリックロック】

 

人は皆、毎晩夢を見ているというが、ほとんどその内容は思い出せないことが多い。私もそうだが、最近思うのは、その日か、その前、後日辺りに、何か印象的なことがあると、それが夢に出てることだ。その夢に現実の中での“思いあたる節”が感じられるのだ。特に朝、目覚める寸前には、それが非常に鮮明である。特に、人との出会いとか、とても気味悪いTVや映画を観たりすると、具体的にその出会った人物が夢に出てきたり、何か気味の悪い雰囲気の夢になったりする。

夢というのは、とても非日常的な内容が多い。とんでもないことが突然起こり、人が死んだり、生き返ったり、実際には存在しないものがわんさかと登場したり。私が小さい頃、本当によく見た夢は、憧れが形となって、夢の中で実現されるものだった。たとえば、好きな男の子に告白されるとか、大好きな歌手が家に遊びに来るというもの。正に、潜在意識が夢の中では顕在意識となって、目の前に展開される。自分の脳が映し出す映画みたいなものだ。夜、寝入りばなや、朝、目覚める少し前は、この夢と現実が混ざり合っている。“夢うつつ”というが、この時間は、私に凄いアイデアをくれることがある。脳が潜在的に持っている何かを現実の世界に顕在化してくれる時間ではないかと思う。現実だが、現実ではないこの時間。歌のメロディや物語や詩(詞)も、この時間にひらめくことがよくあるが、これはよっぽど意識を明らかにしてメモしておかないと、本来の現実の自分に戻ったとき、もう忘れていたりして、がっかりするのだが、たぶん自分の作った曲の中には、この“夢うつつ”の中で生まれたものが入っているに違いないと思う。Psychedelicというのは、いわば、この“夢うつつ”なのではと思う。この“夢うつつ”の時間ほど、その状態から離れがたいものはないだろう。子供に返ったかのように、そこに陶酔している自分がいる。身の回りに何の囲いも壁もなく、おそらく素裸の赤ちゃんのような、むき出しの自分だ。実は、この文章を書くきっかけは、今朝の夢うつつの中から生まれたのである。昨夜、このビデオを自分の趣味でないので、少々辟易としながら観て寝て、今朝、夢うつつの中で私は“そうなんだなぁ”と、やっと内容を理解できた。なんだか喉が乾いてしかたがなく、頭が痛くなるような夢を見ていたと思うが、目覚める少し前の時間の中で、私は客観的に納得する自分を感じていたような気がした。とても不思議な、変てこな感覚なのだが、この夢うつつころがPsychedelicなのだろう。音楽も含め芸術というのは、すべてはPsychedelicだと思う。まるで中毒のようにそれにのめり込み、陶酔し、生まれてくるもの。それを目的にして行えば“創作活動”になるし、結果として生まれたものは“作品”となる。芸術はPsychedelicなしには語れないし、生まれないのだろう。Psychedelicだと人に映るのは、その表現が非常に極端であるからだろう。子供が夢中になって砂の山を作る姿はほほえましくとも、大人が同じことをやろうとすると、それはあまりにも象徴的で、現実的な顔では理解されたものではない。しかし、その姿に心打たれる人もいる。自分の心に訴えかけるものを、その姿に見いだせる人がいるのだ。人の夢うつつから生まれた一つのパワーや思想的な形のないものを、様式化したものを芸術とするなら、その根底に流れるものは同じはずだ。要は、何だっていいのだ。モーツァルトやベートーベンが入っていてもおかしくはないのである。さまざまな様式に表現が生まれ、それが一つの個性になる。完全に酔いしれて表現している姿は、人の心を動かす。いろいろなジャンルに人々が分かれていくのは、自分のもつ“酔いしれ度”とピッタリ合ったものを選びとっているということなのだろう。

 

Psychedelic Rockは、いわゆる美的感覚や音楽の価値観を180度くらい変えてしまう表現だと思った。TVという、当時の新しい媒体が、世の中に浸透してきた時代らしく、映像で見せることが一つの鍵になっている。映像+音によって作りだされたイメージは、その世界を深く深く表現している。とても絵画的だ。音楽のパターンはいろいろだが、いずれも象徴的な何かをつきつけられる。たとえば、宗教の儀式じみていたり、民族音楽的であったり、エロティシズムであったりという具合に。現実的な目で見れば、理解しがたく、また、目をそむけたくなるような嫌悪感をあえて叩きつける、この挑戦的な行為によって、一種の快感を得る。あるいは世の中に対する不満からか、とにかく破壊的な力を見せつけたり、カリスマ性をかきたてるバンドも多かった。執拗なまでにフレーズをくり返し、そして嵐のように高揚していく音。メロディのないようなシャウトの連続はそのまま昇天してもいいと思わせるほどの恍惚感を生む。麻薬でHighになったかのような“自由”を手に入れることができるのだ。表現そのものは、シュールレアリズム的なものが多く、何を言いたいのか、ストレートには伝わってこないが、Psychedelicに見えれば見えるほど、本質的には、非常にストレートな感覚、芸術のもつ根本的なものの最たるものではないかと思った。殆どのバンドが楽器や歌のテクニックは高いものをもっている。

 

ジミー・ヘンドリックスなどはギターの神様みたいな人だ。単に音だけでなく、彼らが全面的に打ち出してくるものは、中毒とも思えるほどの表現に対するこだわり、思い入れ、情熱だと思った。好きで好きでしょうがなくなってそうせずにはいられない。きっかけは何にしろ、彼らにはこういう感情が伴っていると思った。ヨーロッパの国々のもつ文化の底には、私は何か一種の暗さを感じる。それは、城壁や石畳などの石の持つ冷たく硬い、堅固なイメージだ。特にイギリスは曇りがちな天候のイメージが強いせいもあって、人々の内面にも、重たく、不動な何かが潜んでいるような気がする。それは長い歴史の中で行なわれてきた民族間の戦いであったり、国の中でも身分の差が大きく、ほんの一握りの人間の快楽のために、多くの人々が苦しんできた、気の遠くなるような時間の流れがつくってきたものではないかと思う。解放せれることや、自由を求めることに貪欲な内面を秘めて、表面ではさまざまな常識や規制の中を人々は生きている気がするのだ。アメリカは独立を勝ち取ったことで、そもそも出発点が自由であり、開拓者が成功を治めていくという、言わば、すべてがビジネスというイメージだ。Psychedelic Rockが、イギリスで沸騰し、アメリカの商業主義的なベースには乗れない理由が何となくわかる気がした。ハングリーな開拓精神でかきたてられるようなHard RockとPsychedelic Rockの形式的な違いは、それを受け取る側にも、その内に秘めたものも含めて、伝わるのだと思う。私は、この手の音楽は最も苦手な部類だったが、彼らほどに私は、音楽に対する思い入れをもっていたかあれほどに自分自身を注ぎ込んでいたかそう思い知らされた。我を忘れるほどにそれにのめり込んで初めて音楽をやっていると言えると思った。これは、いつも自分に問いかける一つの課題のようなものであり、また、一生かけてやり遂げる課題なのではと思う。

 

 

 

[布施明]

 

とてもスケールの大きな歌い方をするし、表情や、手などの体の動きでも、彼の内面から思わず出てくるものが伝わってくる気がする。「ラ・ボエーム」は、歌詞が男性側から書いてあった。若くて、あまり恋だの愛だの知らない男の子が、彼女(たぶん彼より年上)に振られてしまう。彼女は、彼のことを愛していたけれど、やっぱり限界を感じるものがあって出て行った。そんな情景がイメージされた。過ぎ去った楽しい日々、信じていた恋、それが破れた気持ち。なぜ。どうして。疑問がわき上がってくるけれど、どうにもでいないつらい気持ち。取り残された子供のように、わめき、叫んでいる。けれど、そんな彼の、そんな所が、彼女が去っていった理由だろう。そういう男の子の、ちょっとあさはかな感じが、布施さんの歌にはこもっていたように思えた。“ちょっと頭を冷やして、よく考えてごらんなさい”と彼女がいいたくなるような。彼が真剣になって、彼女を縛ろうとすればする程、彼女は飛び出して行きたくなるだろうから。捨て鉢になった、だだっ子のように少々言い訳がましく、押しつけがましく、「なん〜だね」とか「いたぁぁぁのにぃ〜」という風に歌っているのかなと思った。ラストは長く長く伸ばしていた。もう、やたらに悲しかったのねェ。

 

 

美輪明宏 】

 

日本人が日本人に向けてのシャンソンを歌うとこういう風になるのだなということがわかった。越路吹雪さんに対しても同じように思うことがあった。シャンソンは人生全てを歌っているというが、美輪さんのステージを見ていてなぜこんなに演技をするのか、そして明るい歌でも湿っぽく感じるのかということを考えさせられた。本場のシャンソンとの違いはたくさんある。それらは全て客が日本人で美輪さんが日本語を使って歌う日本人だからだろう。声に関しては表現できる深い声を持っているし、ことばにしてもものすごく強く叫んでも耐えられる強さを持っている。そして音とのつながりがとてもなめらかで、裏声と地声をうまく使って波がとぎれていない。声による表現の仕方にいろんな膨らみがあってその強弱の差は体がなければ作れないと思う。

でも私は聞いていてどうもスカッとせず何か自分の体にいろんなものがからみついてきてとれないという不快感があった。それは美輪さんの声とその歌い方にあるのだと思う。あの震えるような声をヴィブラートというのだろうか。ヴィブラートをかけると声の鋭さというものはなくなってしまうのか。

 

美輪さんの歌った曲の中にはイヴ・モンタンやピアフの歌もたくさんあったので比べて聞いてみた。自然と不自然という大きな違いを表現の中に感じた。そして声に関しても、美輪さんの話している声はそのまま歌に使われているように思えるけどやっぱりどこか歌うということへ向かっているように思える。話すように歌うということの大変さと素晴らしさを改めて感じた。客にストレートに伝える為には話している声がそのまま表現につながってこそ可能なことだ。

美輪さんの「ヨイトマケ」という曲が一番ストレートに伝わってくると思っている。ピアフなどの声を聞いているととても鋭く刺されるようだけど自分が同じように真似てみても深さが全然違うことがわかる。本当に体の深いところから息が流れていてポジションもずっと下の方なのだ。そして体の強さなんて並じゃない。あんなに鋭く深い声を出し続けるにはそのもととなる息を押し出す体の強さがなくては無理だ。

 

美輪さんのステージでのトークの声を聞いていてもいろんなもので包み込んで優しく伝えているような気がする。声を人にぶつけるという感覚ではなく差し上げますといった感じがする。それがいい、悪いではなく私が客席にいたら「もっとぶつかってきてよ!!」と言ってるかもしれない。ひとことでいたら物足りなさを感じてしまうというか。余裕をもってみることに耐えられない気がする。衣装はこんな感じで、表情は、動きはといろんなことをじっくりとみる隙を与えないくらいむかってきてほしい気がする。

伝えるということは声をぶつけていくことだと思うからそう感じるのかもしれない。いろいろいっても私は美輪さんほどに歌える声の深さもまだ持ち得ていないし一つの表現にかける思いにも大きな違いがあるともう。美輪さんの歌い方を聞いていると声をふくらましてフレーズの大きさにものすごく変化をつけているのがわかる。ことばをいうというより音と音のつなぎやふくらませ方が印象に残った。ひとつところにいつまでもねばっていないですぐ降りたりあがったりと変化をつけている。私が同じように歌おうとしたらくせだらけになるような気がする。これは美輪さんの歌い方であるから私が同じようにやってもしようがないけどどんなふうに声を使っているのかということは参考になる。

 

まっすぐにスッと立って、“シャンソンを歌って生きてきました”と歌った「愛しの銀巴里」。歌うことが生きること。歌うことが生きることの一部でなく、歌うことこそ生きることの全てそう言える人生だったのだな。これまでの彼の人生の重みが伝わってくる。

 

福島先生がレッスンで“美輪さんの歌に舞台なら世界に通じる曲が3曲くらいある”と言われていたが、私には、どの曲も凄くて、あれでもたった3曲かと、愕然としてしまった。CDの「紫の履歴書」で初めて彼の音楽性に触れ、そのバラエティの豊かな表現と、圧倒的な迫力の声に感心したのだが、このリサイタルでは、彼が“これで生きてきた”と、まさに聞き手に納得させるシャンソンの数だったと思う。1曲ごと、心から拍手を送りたいと思えた。彼の曲紹介を聞いて、その曲の歌詞の裏側にあるものを、とても深く広くつかんでいると思った。その曲紹介の後で聞く曲の歌詞には、彼が話した背景的なことや、内面的なことはそのまま出てくるというわけではない。“どうしてあんな解釈ができるのか、あそこまで具体的なことばで、イメージをぐっと広げて語れるものなのか”と思う。

 

彼が歌うフレーズには、心を込めたメッセージが感じられた。ピアフの歌は、彼の心と一致するところが多いんじゃないかと思った。ピアフの人生は人を愛し抜いた、そんな人生だった。美輪さんが、バラエティ番組などで話しているのを聞くと、よく説教じみたことを言っていたりするが、ある本で“ジャズは説教を歌にしたものだ”というような文を読んだことがある。説教って、人のことを思っていなければできないことだ。人に訴えたい気持ちから出てくるものだ。

 

美輪さんも、いつも人に手をさしのべて生きてきたんじゃないかなと思う。若くして銀巴里を任されて、必死でやってきた道を想像すると、信じがたいことの連続だろう。自分のことに必死な筈のハイティーンの頃、社会のことや、人のこと、お店のこと、彼の方にかかった重圧は凄いものだったろう。けれど、若かったから、彼もがむしゃらにやれてしまったのではないかな。考えるべきことはちゃんと考え、やれること全てやってきたんじゃないだろうか。

彼の青春時代は、芸術的なことに凄いパワーがあった時代だったから、その中で彼を始めたくさんの才能が集まったのは、私にしてみれば何だか裘ましい。銀巴里だったから、彼だったから、時代の力を借りて輝くことができたのだろうと思う。彼は、たくさんくろうして“何でも明るい方に考え”たり“エゴイステイックな人は前世がひどかった人”という風に、逆境に負けずに前向きに生きていくすべを発見して、身につけたんじゃないかと思った。

 

彼は、音楽学校に行っていたということだ。基本がしっかりしているから、彼の役者の部分がぐぐっと表に出てくる。女形が本物の女性よりより女らしいように、彼は女性の気持ちを、役者として歌っていると思う。手の動きや体全体の動きがとても柔らかい。強い表現をしていても、とても女らしいと思った。ささやくように歌っても、抜いている感じはしない。常に演じている。ラストで、最大の声を持ってくるところなど、ぶっ飛ばされそうだ。あれだけ大きな声で、一曲目一杯やって、本当に消耗するだろうと思うけれども、汗ひとつかいていないようだった。

 

彼の声を開くと、自分の「声」と思っているものって、「何じゃ。」と思えてくる。ひ弱で、薄っぺらくて、型にはまっていて。その差の大きさに、叩きのめされた。又、凄いお手本が現れた・・と思った。彼の表現は、全くバラエティにとんでいる。みごとにその曲を演じ、メッセージを込めてくる。聞くだけでもいいけれど、ライブで体験できたら本当に素晴らしい。

「メケ・メケ」のあのコミカルで物語性にあふれているところは、つくづく上手さを感じさせられる。人の心を動かすのは泣かせるより、ずっと難しい。声としてのポジションを崩さずに、あんな風に、おもしろくやってしまうのは表現力がなければ。「ラ・ボエーム」「愛の賛歌」歌詞もアレンジも、彼の個性が素晴らしく生かされたものだったと思う。ピアフの書いた詩も美輪さんのことばとなって歌われていたと思う。

 

 

合宿2 参加者アンケート  23383字  740

合宿2        参加者アンケート   740

 

 

 

 

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合宿に向けて    Before

 

合宿アンケート After

 

合宿アンケート設問一覧

 

<1>メニューでよかった順に下記の<2>より番号を記入してください。

 

 

<2>メニューで学んだこと感想

 

初日

1自己紹介ライブNo.1(持ち込み曲)

2トレーナーレッスン

3自主レッスン

4課題曲とグループ練習

5夜の瞑想

6夜の自主レッスン

 

なか日

7朝の自主レッスン

8グループ別指導トレーナー

9グループ別指導アドバイザー

10福島フレーズレッスン課題曲

11福島フレーズレッスン持ち込み曲

12福島コメント(今回のねらいと方法)

13トレーナーコメント(ステージ感覚)

14昼の自主レッスン

15夜の自主レッスン

16遅れて来た人の自己紹介ライブNo.2(持ち込み曲)

 

 最終日

17朝の自主レッスン

18ウォーミングアップ福島

19発表会ライブ1部

20発表会ライブ2部

21発表会ライブ3部(トレーナー独唱)

22テーマ曲合唱

23懇談ほか

 

 

<3>レッスンについて

1全体のメニュ構成について

2印象に残ったメニュと感想

3不要のメニュと感想

4ステージで印象に残った人(どのメニュで)

5その他に印象に残った人(できたら理由も)

 

 

<4>全体(レッスン外で)での感想

1セミナーハウス(部屋、食事、場所、他)

2印象に残ったできごと

3気づいたこと、学んだこと

4改良を期すること

5次回への要望(いつごろどういうふうにやるべきか、希望地、日程など)

 

<5>スタッフへのワンコメント

 

<6>他の参加メンバーへのワンコメント

 

<7>

1今回の合宿の目的

2今回の合宿の成果

3合宿中、メニュから学んだこと

4合宿中、講師スタッフから学んだこと

5合宿中、仲間(参加者)から学んだこと

6総括 結局この3日間、何ができたと思いますか

7今後のレッスンへの課題

8今後のレッスンへの期待、要望、改良点

 

<8>ライブ発表(リハーサルのときの曲は“リハーサル”と入れてください)

1)自分の曲について

1選曲理由

2練習のプロセス、難易

3オリジナルのよさ

4作品としてのしあげ方、方向、構成(ねらいとして)

5自分が加えた価値(結果として)

6リハーサルで気づいたこと7ライブで気づいたこと

 

2)他の人と他の曲について

1歌曲として印象に残ったものと理由(ポプコン曲、CDとして曲、歌詞、ヴォーカリスト)

2今回のメンバーで歌として印象に残った曲と人(メンバー名)

3今回のメンバーでステージとして印象に残った曲と人(メンバー名)

4今回の合宿で印象に残った人とできごと

5今回のような合宿の試み(意図)とその結果についての感想

 

 

上映会感想

 

 

 

 

 

 

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合宿に向けて  Before   

 

 

私の小さな足は、私自身の体のために、土の中からエネルギーを吸い上げ、私の体は私自身の情熱のもとにこうして立っているという感じが入ってきた。「はだか」になることを恐れてきた自分に、今やっと気づいている。歌の火中に、自分の身を投じることを逃げてきた自分がある。今こそ「歌」を選びとりたい。情熱を「歌」そのものにつなぎたい。心を開きたい。入ってくるものも胸の奥にとどまるものも抜け出ていくものも感じたい。いろんなエネルギーを私の体に通過させたい。「新しい土の上にいる」この感じが鈍らない内に、体に覚え込ませたい。

 

真正面から、歌に向かい合って、生きることをごまかさずにあいまいにせずに、歌をつなげていくことを怠けず、いつも限界に挑戦し続けることを。押しとどめているものや、つまらせているものや、にごらせているものや「今の私」と思い込んでいるものを、吐き出して、吐き出して、出し切って、軽井沢の空気が新しく注ぎ込んでくるまで出し切って、スタートラインに立つことのできた自分を、強く強く体中で実感してきたい。

 

恐いから逃げるということをくり返していては、自分自身、何も成長しないので、参加することに決めました。とにかく今年の合宿では、今までの自分をすべて壊したいと思っています。いつも合宿では、自分の愚かさ、醜さ、無力さをいやというほど思い知らされます。

おそらく、今回の合宿でも、とてつもなくカッコ悪い自分に出会います。人前でドキドキして何もできなくなる自分を目のあたりにします。参加している自分を想像しただけで、胃がキリキリ痛みます。でも今回は、そんな自分から目をそらさず、しっかりと見据えたいと思っています。なんとかクリアするのではなく、真正面から受けとめたいと思います。

 

3日間、逃げ出さずにがんばりたいと思います。声については、日頃、広い空間で大きな声を出すことがあまりないので、体と心を解放するいい機会だと思っています。トレーニングの本質を理解し、全力で取り組みたいと思います。

 

本当に歌が歌いたいのか歌うことを選んで生きていくのか。それは自分の歌、心か苦しいこと、嫌なことから目を背けているだけではないのかこのことを今一度、考えにいきます。

 

合宿と現在の生活の違いは何だろうか?心身の開放度が違う。音楽に接している時間が違う。表現している時間が違う。深く自分自身と向き合う時間が違う。普段の生活の中では、他のことに関心がいって、生活に音楽が流れていない。そして私の悪い癖は、考え込んでしまうと行動しなくなることだ。考え込んで頭でっかちになっているから、いつまでも開放されない。

合宿の目的は、自然を感じ、身体の内面を感じ、身体を開放すること。おもいきり表現できる場を有効に活かすこと。自然の中で、開放した状態で、奥深くから流れ出る声の感覚をつかむこと。その行動パターンを、日常に反映させること。

 

一番の目的は、自分を知るということ。そして私の中に流れている歌に腰をすえて向き合いたい。日常の生活の中でも、いろんな人間との関わりの中、自分のことばや行動の中で自分を知ることはある。でも今の私は、突っ走っている状態で見過ごしていることがたくさんある気がする。

 

自分の時間をすべて自分のやりたいことにつぎこむということは悪いとは思わないけれど、人と接する少ない時間は、大切にしなければと思っている。人にどう思われるかということは問題ではないのだけれど、目の前にいる人間に心を向けず歌う歌って何なのだろうと考えてしまう。自分が日常で感じていることすべてが、私の歌になるのだから、そのいろいろなことを感じさせてくれる人々を見ずして歌う歌は、ことばは、嘘のような気がする。最近はそういうことをよく考える。

 

自分が本当に手に入れたいと思ったら、なりふり構わず突っ走るのもしようがない。でも、道端に咲いている端、夜遅く帰ってテーブルの上にある食事や飼っていた犬の死…そういう私にとって大切なことに鈍感にはなりたくない。心ない人間になったらおしまいだ。歌は歌えないだろう。自分にとって本当に大切なことは何なのか、それをしっかりと握ったまま生きられる人間になりたい。

 

これからの研究所との関わり方も考えたいと思っている。これは、日常でも考えていることだけれど、時間的なことではなく精神的なことで。ここがなかったら、自分はどう生きていくのか、この世界に歌というものを通して、どう出ていくのかということを考えたい。あまりにも目の前は広すぎるし、円は狭すぎる。時間は止める術もなくどんどん流れていくけれど、私は合宿の3日間を止めたい。いろんな思いをたくさんつめこんだものにしたい。

 

自分はまだ種にしか過ぎず、この先、芽が出るかなんて誰にもわからない。ましてや、花開くなんてことは想像もできない。でも自分はできるという思いは、この胸にある。その可能性と自信を合宿でみつけたい。いくらまわりの人間に可能性があるとかできそうだと言われても(反対のことなら言う人はたくさんいます)、自分が思わなきゃ何ともならないと思う。

 

私の場合は、まわりの人間が何かを言っているということに対して「私は馬鹿だから絶対できる」と言っている。自分の言ったことばで自分を追い詰めてやっていくというやり方はしたくない。私は自分の素直な気持ち、こうなりたいんだという思いにのっかってやっていきたい。いろんな人間が同じものをめざしている中で、この自分は一体、何ができるんだということを考えたい。

 

すーっといなくなりたいものです。もう少し、よろしくおねがいします。

 

宇宙を感じたい(つながりたい、今は不定期、まだ安定していない)。

宇宙的な声(音楽→コードをなるべく勉強しておこうと思います)を降ろせたらいいと思います。

 

「一つでもいいから、自分の枠に気づくこと。そしてそれを壊すこと。」

 

絶対に、普段気づかない枠にぶつかるはず。そして、それを壊す

(過去の合宿で経験した)。一つでも枠が壊れれば、歌がより成長するはずだ。

 

自分の日常の頭(かしら)みたいのを取って、大げさだけどちょっとした奇跡と触れ合うコンディションをつくる。情緒面では、感心できないことが多く、自分の中で一つ越えられるよな自信の核、感動の核でもいい、気持ちの上での核(何かを好きな気持ちとか、何かをやりたい気持ちとか、目的とか…)。

 

ただ純粋に、この合宿というものに参加してみたい(僕にとっては初めてやので)。

 

人を見るため、自分を見るため。

 

ピカピカのスタジオに移って2年がたった。息吐きをする公園も、声を出す自宅の小さな金魚ばちのような部屋もなじみのものになってしまった。それは、ものや場所のせいではない。いつも原因は、自分の心のなかにある。卑怯で弱虫な私は、いつでも安全で心やすらかであることを求めて、下界との関係をコントロールしてしまう。

 

変わりたいという願う気持ちと、それを恐れる気持ちは必ずワンセットだ。だからどうにかして、動機を更新しなければ、トレーニングは簡単にただの習慣となり、何の恐怖も伴わない、処理すべき多くのことがらの一つになり下がってしまう。あらいなおしが必要だ。洗濯だ!感覚の大掃除だ!!

 

合宿という集団のなかに、徹底的に独りを探しにいく。家族と離れて、日常を離れて、なるべくゴチャゴチャあれこれしないで、森のエネルギーを借りて、単純で小さな自分の原形(元型?)に少しでも触れたい、近づきたい。

 

たくさんの本を読んで、話を聞いて、見て、勉強して、山ほど情報を仕入れても、へたをするとそれらはただの知識となってベッタリと私のまわりに貼りついているだけだったりする。体のこと、ことばのこと、音楽に限らず身体論といわれるようないろいろな説を知るにつけ、ここで学んだこととの共通項の多さに驚く。もしかして、全部、ことばが違うだけで、本当は同じことを言っているのではないかとも思う。

 

これもまだ知識にすぎない。頭はたぶん、定のボキャブラリーに汚染されたままで、ことばの向こうにあるものには届いていない。だから一回、シェイクするのだ。グチャグチャにかきまぜて、静かに沈むのを待って、ザンプリコとバケツをひっくり返してみて、私の原形は現われてくれるだろうか。その原形は、少しは変わっているだろうか。それを見てみたい。“自分の原形に近づくこと”なるべく迷惑をかけないでも“よい人”にはならない東にならない集団に甘えないむしろ利用して独りを極める何かを得よう。

 

可能な限りオープンでいること入ってくるものにも、あふれでるものにも・聞く、浸る(音楽に限らず、あらゆるもの、あらゆる時間・空間)急がない、グジャグジャをグジャグジャのままにかかえ、味わう勇気をもつべし。

 

できれば半日くらい腹式呼吸だけやってみるのもよいと思う知識の整理と撹拌と浸透と放棄。ここまで一度にするのはおそらく不可能であろうと思われるので、せめて、アカで汚れたことばに気をつけること自分でだまさないこと“知っていると思っていること”に対して、新鮮であること。

 

僕の歌や声にはクセがある。今まではトレーニングをやっていくうちにしぜんにとれてくるものだと思っていた。だが、ある人物にこう言われた。「歌にクセがあるのは発声とかの前に、人間的な難クセがあるんじゃないの」と。歌のクセは人生のクセだと言うのである。

歌が感情や精神をストレートで表現するものであるならば、いくら発声的にクセがとれたとしても、人間的なクセが歌から消えなければ本当の意味での素直な表現(芸術)とは言えない、というより素直でなければ芸術でも表現でもないのだと思う。

 

今までは、歌のため芸術のために生きている、そう思っていたが、今は「それ本当か?」と疑問に抱くようになってきている。もしかすると、違うのかもしれない…などと自分自身がわからなくなってきている。というより、今までもわかっていなかったのにわかったふりをしていただけなのかも。僕の合宿の目的は、そこにある。もう一度、自己の発見へのチャレンジと、今までの人生の相対的見直し、何が大事かを識別するために。

 

自分を見つめる。どのような方向で自分を活かしていくか、絶対にやりたくない表現すべきでない表現、自分に合っている表現、やりたい表現。歌でできること、できないこと。聞いてもらえる歌と、耳をふさぎたくなる歌の違い。

 

時流に合うことと自分流(どこまでだったら合わせられるか)。歌詞の可能性。真のメッセージ性とは?いったいこの人は何が言いたいのだろうと思うとき。歌とはそもそも何であるか(歌の限界、聞いてもらえなければ意味がないのか)。

 

究極の歌…人間にとって一番大切なこととは?上品、下品の違い。

なぐさみの歌、内側からゆさぶられる歌。究極の声…オペラ歌手でない場合の究極の声。

声はどの程度まで、その人・人間性を表現するものか?私が今の時代(日本)に生まれたわけ。

 

本当に歌でいいのか(歌があふれている世の中で歌う歌)、神様に捧げる歌、私の神様、信じてるつもりのものと、本当に信じているもの(その原因)、芸術は本当に意味があるか、アーティストばかりの世の中での、アーティスト活動。

 

 

 

 

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合宿アンケート   After

 

 

 

<1>メニューでよかった順に番号を記入してください。

 

[集計よかった順]…20、22、11、19、21、12、1、5、10、15、17、8、16、18、23、7、9、13

番号は、<2>のメニュNo. アンケート設問一覧を参照。

 

 

<2>メニュで学んだこと・感想

 

 

1自己紹介ライブNo.1

 

歌って嫌なモノで、その人の精神面の成熟度が出てしまいます。

第一声で頭悪いと思われないよう、中身も大変大切だなと思いました。

空気が薄いというか荒いというか、もっと密度が欲しかった。(自分も含めて)

自分以外ですが、自己紹介に歌を歌うのは本当に有効だと思いました。

 

 

2トレーナーレッスン

 

ブレスの感覚を教えてもらった。

ご自分の体で正しい動きをわかりやすく教えていただいた。

体の使い方における意識の改革が行われた。

 

 

3休憩中の自主レッスン

 

大きな柱のてっぺんに向かって声を出すのが快感でした。

 

 

5夜の瞑想

 

左の耳から虫の声、右の耳から音楽、お香と闇、まさしく極楽。

よだれが出そうな程いい気持ちになりながらボサノバと三味線を聞きつつ「寛容」を学ぶ。

気持ちがよければ犬も鳥も鳴くだろう。

どこからともなく聞こえる奇声を許して、音楽に集中する。

津軽三味線の空気をも含んだ録音に心引かれる。

お香のにおいがお寺臭かった。三味線とヨーデルは良かった。

香りと空気が、気分を一つ高いところへゆかせた。

こういうムードはすごく好きだ。

ネパールのにおいがした。

演出がとても良かった。凄く気持ちが暖かくなり、創作意欲を盛り上げてくれた。

ヨーデルがあんなに美しいとは…。

広い広い大地と空に響きわたるような音色は多分都会で聞いたとしても、私を大自然にトリップさせてくれる気がする。

 

 

6夜の自主レッスン

 

決めた曲の歌詞をききとってイメージを作る作業

わたしにとっては本番までは時間があるし、曲に接していられる安心感で一番落ちついた時間だったと思う。

 

 

7朝の自主レッスン

 

空気が良かったのでブレスが気持ちよかった。

曲を覚えるのが大変でしたが、覚えるというよりも入ってくるという感覚に努めた。

 

 

8グループ別指導 トレーナー

 

「聞き手を心配させちゃいけない」とのご意見に納得。

自らの過程を築いてきた人の体から発せられる言葉は突然殻が弾けるように目が覚める力がある。

ただ音をとって言葉を覚えるのではなくて、歌の雰囲気も一緒にすぐ入り込むところまで自分のものにできていないといけない。

先生に「この班は先が見えない」って言われたのはショックだった。

私自身ステージをこわがって一歩引いていた。前に出ようという意識がまだ足りない。

 

 

9グループ別指導 アドバイザー

 

一番言いたい1フレーズをつくっておく。

早い時期に他の人の意見をもらっておくこと。

自分の思いこみだけの世界に入り込むのを防げて助かりました。

共通して言われたのは、覚えた後の紋り込みの方を重点に置くということ。

“ここは伝えたい”というポイントを1つみつけるというのが大きなアドヴァイスでした。

 

 

10福島フレーズレッスン 課題曲