レクチャー録2
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【「歌唱論1-2」4563】
【京都 基本の基本 4053】
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○体がベース、ベースにオンする
レッスンとトレーニングということについて、いつも私は、一番いいやり方があったら、そのやり方をとっていこうと思ってきました。
私のレッスンは今、月に15分だけというのもあります。15分で何ができるのかといったら、さっきいったとおり、半オクターブ、4フレーズくらいであれば、充分にできる。1分の曲だって15回できるのです。だから長いのです。歌は3分といっても、ワンコーラスやるのにたかだか1分かかるかどうかです。
とことん短くしたのは理由があります。ステージと同じで、その15分のなかで、勝負できなければいけない。人間が本当に集中したときには15分も持たない。今、日本のヴォーカルを見ていても、だいたい1番くらいしか持っていない集中力。外国のヴォーカルが3分あれば3分持っているテンションを、キープできていない。
それをレッスンので、15分といって短い、60分ならいいのかというと、そのなかで何をしているかというと、30分以上、遊んでいるわけです。そういうふうな時間の感覚がついてしまう方が怖い。一般にベーシックには30分ということでやっています。
レッスンの目的や、内容に対しては指示をせず、トレーナーにお願いする時点で信用しています。信用できなくなったときには、受講生がいなくなっています。
レッスンで何をするかというと、気づきにくるのです。これが一番メインです。ここに関してはプロもアマチュアもないですね。レベルが違うだけです。
気づくということは、まず気づいていないに気づくことからです。次に気づいていないこと、足りないこと、入っていないことに気づく。気づけばそれを埋めていけます。このことの流れをつくるのがレッスンです。トレーニングというのは、このプロセスを繰り返してやるわけです。
ヴォイストレーニングは、リピートからです。日本人は真面目ですから、何かをやっていけば、必ず身につくはずだと思う。確かにそういう部分もあります。
体をベースにおいているのは、体はある部分まで変わるからです。年齢とかで変わらないことです。皆が、たとえば腕立てを30回ずつ毎日したら、たぶん1年たったら30回は、そんなに辛くならないですね。今、1キロ走っていたら、辛くても、皆さんくらいであれば、1年続けたらけっこう走れるようになると思います。
そういう部分にベースをおくというのは、トレーニングがここの場合、とくに素質で選別して引き受けているわけではない。やる気で引き受けていることだからです。そうすると誰でも共通するところにベースを置かないと、だめだろうと。
だから、体がベース、それゆえ時間がかかります。1ヵ月2ヵ月で、そんなに体が変わるわけではないです。でも確実に変わります。
2年3年4年と、それは呼吸の部分、体の部分、それからそういうものをコントロールする部分に関してです。だからそこに重きをおきます。ここがリピートの部分です。
ただレッスンで一番大切な部分は、そんなに体をつくっていないのに、もっとうまく歌えている人がいるじゃないかという、すぐれた人間のほうに目を向けるということです。そこから勉強したときに、オンする、オンをどこまで次元を高めていくかというのがレッスンですね。
そうでないと続けてはこないです。毎回毎回新しいことを起こしていけるかというと、それっぽくやれば簡単なのです。なんか出たねとかいって、本人のかたち、本人のクセに押し込んでほめたりすればいいのですが、そういうやり方が一番まずい。
いろいろなトレーナーやスクールを見たら、それはしかたない部分がある。生徒が1回ごとに結果を問うからです。今回は何か勉強できた、今回はどのくらい達成できたというふうになると、それを求められるトレーナーでは、ここのように長期的にみるようにはいかない。
○成果を急がないこと
その一ヵ月が終わった後に、次の一ヵ月がくるかどうかというのは、その一ヵ月に効果を出さなければいけない。だからどうしても短期的な上達をみて指導をさせざるをえない。これはトレーナーが悪いというより、その人の考え方です。
ここに来られる人は、他のところで満足していたら来ません。
いろいろなトレーナーや学校のことでいうと、良心的なところやきちんとやっているところは、そんなに早く成果は現れないです。成果を早くうたうところは、そのやり方があるのです。リラックスさせ、声をほめたらよい。それだけです。
今日こんなことをやっているのなら、高いところを出す方法を教えましょうとか、ロングトーンを出すやり方を教えましょうと、そういうことでまわす。
その人が初心者ならともかく、何ヵ月も何年もやって、それができないというのであれば、その前のところに問題があります。
たとえばこの歌の音程がとれないのですといわれても、ここで教えたら簡単でしょう。丸暗記していく。でも音程がとれなかったというのは、もっと前のところに問題があるのです。
普通の人がやってみたら、意識しないでとれてしまうところにひっかかってしまう。それではその音をいくら教えてみたって、次の曲、違う曲になってみたら、同じ問題が来るのです。
そういうのを私は教えたとか、勉強させたとかはいわない。ごまかしてこなしたという話です。
それは声域、声量に関しても、同じです。単に一瞬高い音をとる、そこの技法はなぜいけないのかというと、通じないからです。
私は現場でやっていますから、実際、その日のそのステージにたいして歌えなくなってしまったというときがありますので、応急処置としてやらなければいけない。応急処置をメインのレッスンにおくというのは、違います。
昔、公開レッスンなんかをていねいにやっていたとき、だいたいは、一生に一回会うだけ、地方の人はなおさらですから、体験レッスンをやって、私が親切に接して、その日の満足になるようなことをやっていました。ファンサービスです。今は、そういうことはやりたくなくなってきました。
そこはむずかしいのです。こういう私の催しをひとつのエンターテインメント、ショーとして考え、それ自体をひとつのライブとして考えるなら、その人の、その日の満足を最大限にやっていく。その辺をどうするか。
○後のためにやる
今日のように、ここに関連をつけて勉強しようという人が多いなら、どちらかいうと、1回目のレッスンに近いかたちでお話したほうがいい。後々につながっていくことはどういうことなのかをいったほうがいい。
そういうことが共通しているようでいて、案外と違うのです。1回でやるやり方、3ヵ月で仕上げるやり方、半年でやるやり方、それから2年、4年でやるやり方、ここはそういう条件が全部整った後のことを考えています。
もっというのであれば、最初に引き受けるときに、ここを出るときのこと、出たあとにその人がどうやっていけるのかということから考えるから、さっきのような答え方になってしまうのです。
声優をやるのなら、ここに入って声優の勉強をしましょうというふうにはならない。そんなことをやってやれる人は、世の中にはたくさんいます。
2年ここで勉強したことは、声優学校で4年くらいやれば、似たようなことはできるのです。じゃあ、4年が2年になったからいいのかというと、そうでもないのです。
そういう学校に行くと、そういうコネクションがあったり事務所に入りやすかったり、また有利な面もあるのです。そういう意味でいうと、すべての条件を比べて、考えていかなければいけない。
そんな難しいことはともかく、足りない入っていないということに気づく。ここもいろいろな人がきます。ベーシックなところで、感覚的なことを扱うのです。ここに来る人は日本人でたまにそうでない人もいるので、けっこう困るのです。日本に住んで日本語を扱う。この辺から、考えていこうと。
そのこと自体が音声にとって有利な条件ではない。むしろ、世界的にみたらかなり弱い条件で、声を強く使えない日本人、それからそういう必要ない日本語、外国というより人間といっています。しかし、もし人間として、こういう音に恵まれた環境にいたら、どうなっていたのだろうというところで考えてみようというところで、やってください。
すると結局、日本人にとって気づかないこと足りないこと、入っていないことは、中には英語でやってきた人もいるので、重なる人もいますが、本当の意味でとれている人は少ない。
ここでもこんな話をすると、今日感覚が切り替わったように錯覚する人もいるのですが、そう思ってから2、3年は感覚は切り替わらないのです。本当に3年くらいかかっているというのが7割、2年で6割切り替わったら相当早いほうです。では、何が切り替わるのかという話も含めてやっていきましょう。
○呼吸について
腹式呼吸などということでやると、わからなくなってきてしまうのです。皆さんが今やっているのは、腹式呼吸で、呼吸法として少しも間違っているわけではない。息の吐き方が間違っていますかと聞く人がいますが、そんなことがあるわけない。
多くの人はトレーニングはすごく特別なことだと考えています。私たちがこうやって生きて、ここで話ができる。そういうときに息がきちんと動いていることが、どんなに奇跡的なバランスの上で成り立っているかという、その前提がないのです。
その前提の上にどのくらいトレーニングをしていけばいいのか、考えることです。それでいうと1、2パーセントのことでしょう。まったく何もないところで100パーセントの呼吸法を身につけようという考え方は、とことんおかしくなってしまいます。
もしわからなければ、皆さんが大病や事故で入院でもして、酸素でも吸っていたら、映画みたいですが、そうなったときには深呼吸することでさえ、つらいわけです。ふつうの呼吸ですらできなくなる。そういうところから入ってみましょう。
現場で、きちんと一流の歌のなかで見てほしい。というのは、その歌のなかで使われている呼吸が、自分のなかでできればいいというふうに考えたほうが間違いがない。
現実に使われているのですから。だから、「呼吸法は息を5秒吐いて5秒止めるのですか」、「それとも長く10秒くらい吐いたほうがいいのですか」とか、「ドックブレスは何回やればいいのですか」とかは、意味のないのです。そういう質問ばかりくるのです。
私がたまたまそういうふうにいったのにすぎない。
この前斉藤孝さんに会ったら、彼は3秒吸って2秒止めて、15秒吐くと、その根拠は何ですかと聞いたら、「3回やったら1分になるから覚えやすいでしょう」と、それは間違いではない。一般の人は覚えやすくなければやらない。やらないことを考えたらどんなやり方でもやったほうがいい。健康法と同じです☆。 私は「吸うからはじめるより吐くからはじめたほうが楽になります」といっています。そんなものです。
テキストにとっても、その5秒が6秒だったら間違いなのか、20秒吐きなさいというのは25秒だったらだめなのか、何の根拠もないです。検証したこともないです。できればやっています。
もっというのであれば、長くなれば呼吸の支えは崩れてしまうし、姿勢も崩れてしまうから、歌からいうと、マイナスでしかならないのです。
でもアマチュアの人が息を意識するのに、長く吐いてみたから息が足りなくなる、今は20秒だけどトレーニングしたら25秒伸ばせるようになったというのはよい。こんなことはプロのヴォーカルからいうと何の意味もないのですが、そうやるとトレーニングらしくなります。やらない人がやれるようになります。どんな歌であれ20秒伸ばす箇所なんてないという話です。
使わないもののためにトレーニングをやっておくのはいいのですが、そのために余計に姿勢が悪くなってしまったり、支えが崩れてしまうのであれば、何のためのトレーニングかわからないでしょう。現実にトレーニングはそうやってやられていることばかりです。
○難しい発声練習って
つきはなさなければいけない。たとえばポップスの歌い手にきてもらいます。他の学校のトレーナーを見ていると、歌わせたら楽に出ている高い音程のところで、発声練習をやらせ、それよりも低いところでひっかかっているのです。そうしたら、発声練習をやってはいけないのです。
発声練習は何のためにやるのかというと、日本では、歌でやる音域がうまく出ないからです。そのときには音程がついていたり、そのことばが複雑だったりして難しいから、簡単な母音で、それで半音ずつ上げていって、ていねいに上げて、もっと高いところまで出しましょう。つまり、歌より高いところを楽に出せるように、発声練習をやって、ここでマスターしたことを歌詞にもって、歌もここで高く出せるようにしましょうというのがもともとの考えでしょう。
ところが発声練習で、ひっかかってしまう人が実際の発声練習になってしまったら、楽に出ているのです。そうしたら歌を使ってやるほうがいいじゃないですか。こんなことばかりが本当にあたりまえに行われているのです。
それはトレーナーでなく、受ける人がそれを考えなければならないと思うのです。おかしいじゃないか、発声は歌のためにやるんだろう、ところがトレーニングの学校に入ってしまうと、口をふさぐ。
トレーニングが独立してあるかのように。発声練習のための発声練習になってしまう。そこに出口はありません。そこを考えるとともに、一流のものの実際、歌われているところのなかの息、皆さんが歌ってみると、きっとこうならないと思います。これを3年か5年後に歌ってみたら、一流の歌手のようにきたら、そこで呼吸が深くなってきた、身についてきた、そういうふうに考えればいい。そのために何をやったらいいのかを考えて、自分で決めてやっていけばいい。
○マニュアルでは、オンしない
トレーナーがいうのは、たたき台です。それを15分やればいいのか5分やればいいのか、1時間やればいいのか、わからない。だから、やって決めていく。
本もそうやって使われる場合が多いのです。「先生、1年、自主トレでやってきたので見てください」と、だいたい偏ったおかしなかたちになってきますね。それは何もやらないよりいいと思うのですが、だから何なのという話になってしまうのですね。それが後でどう効いてくるかはわからないです。そのことが無駄だとは思わないし、そこにかけた情熱ややる気は無駄ではないと思います。
それをさらに繰り返していくことにはあまり意味がない、繰り返してやれることは、あくまでやっていない人に対して差別化することです。多くのアマチュアの人は5年10年やってうまくなると思っている。うまくはなるのです。やるのだから。ピアノでも何でもやればうまくなるのです。ところが長くやったことでうまくなったところまでというのは、プロの人でもっとたくさんいるのですから、勝負にならない。長さは、ベースの再現性にすぎず、そこにオンした部分しか勝負にならないです☆。
だからやれている人の世界のなかで、何を違って出せるのかというのが勝負なのです。やれない人のなかでやったというのは、それだけのことでしかない。
ところがトレーニングというのが、けっこう日本人は好きなのですね。だからヴォイストレーナーもいい先生がいて、そこでやられているようなことは健康法のようなことなのに、それをずっとやっているとプロになれると思い込んでいるわけですね。絶対になれない。そうやって神経が麻痺して、気持ちよくなっていっているだけです。それは別の意味の呼吸法です。
それがだめなのではない。体が弱い人がやるとか、他の仕事でいろいろな業績を上げている人がそういうところにきて、発声をやってすっきりするというのは、いいことです。
ただアーティストのベーシックなものとは違ってくる場合があります。共通する部分もあるので、一概には否定できません。
○ベースの声と息
ベースの声があるのは、今では、外国とのハーフみたいな人が多いです。日本語以外の言語をペラペラしゃべれるような人のなかにたまにいますね。韓国、中国のロックというのは、私は耳で聞いてみると、区別がつかない。日本人のロック、ジャズなどは瞬間的にそれだとわかります。ジャズもほぼわかります。外国語の8割の歌に関して、これは日本人だということがわかってしまう。発音がきちんとしているということも逆にいうと日本人らしいということでわかりますが、まず深い息が聞こえない。
今のレコーディングは、デジタル加工して、こういうものを聞こえなくしているものが多いです。エコーがかかってしまうとよくわからなくなりますが、だいたい日本人が吹き込んだものは、音だけを並べていっている場合が多いです。
息を吐いて言語をつくることが、日本人の持っていない部分です。
もうひとつは、声楽出身の人は、声のひびきに変えてしまうことに重点を当てています。だから単純です。
ここで取り上げるヴォーカルが特殊なヴォーカルなわけではありません。むしろあまり加工していないヴォーカル。音響で加工してしまったり、自分のなかのテクニックで違う出し方をしていない。ストレートに歌っている人を並べています。
今の息の使い方は、聞こえましたか。浅い息と深い息というのは、何となくわかるでしょう。ヴォーカルが使っていくところは、本来は深い息です。クラシックも同じです。
深い息を声にするポジションというのは、日本語の場合は必要ないのです。イタリア語やドイツ語にはあります。英語のほうが歌いやすい、声になりやすいというのも、リズムの言語で、かつ、そのポジショニングの問題です。日本語は浅いところです。
その辺の問題を考えていかないと、本来、外国人の高音はそんなに高いところで出されているわけではないのです。ピッチではその高さの音には届いているのですが、子音中心、少なくとも日本人が考えるソプラノやテノールではないということです。息もです。深いポジションでとったときに音色が違ってくる。
自分で勉強をするときに気をつけてほしいのは、ふつうの人は大きな波があるのです。すごい調子がいいときと悪いときがあります。この悪いところよりさらに悪いところでトレーニングされていることが多いのです。
調子がよくて自分でも笑っていたり2、3年に1回のすごい声が出たというベースのところからやるのです。本来トレーニングは、ここから上のことをやらなければ意味がないのです。
ところが緊張してドキドキしている。さらに悪いところから伸びたということが行われるのです。
私はこれの声を本のなかではベターな声といっています。これを鍛えられた感覚や磨かれた体、鍛えられた体でベストにしていく。その人が持って生まれたものを鍛えたところのものまで、もっていけるようにすることがトレーニングですべきことだと思っているのです☆。
普通の場合は、単に調律がされているだけです。
あなたがすでに持っている声のなかで、よかったり悪かったりしているのを、せいぜいそのなかの一番いい声にしようとしている。歌のときに悪くなってしまう人が多いからです。台詞にしたらしっかりと声になって、歌でないようなものをやらせてみたりすると、けっこう響いて、いい声が出ていたりする。なのに、歌うなり何か違うことをやってしまって、その声を生かせない。
多くの場合、今の上下の範囲のなかでやるのですが、それではトレーニングの意味がないのです☆。
ここをやるためには感覚をつくらなければいけないし、それから体としての楽器をつくらなければいけない。だからここがトレーニングだという考えなのです。
ワークショップはどういうことをやるかというと、鬼ごっこをしてみたり、皆でわーっと騒いでみたり、コミュニケーションをよくしてみる。外国人が日本人とゴスペルをやっているのもそうだと思います。楽しく明るく元気にやることによって、この状態をつくろうということです。それもわかります。この状態の人、ステージにきて上がってしまって悪い状態になってしまうような人が、いい状態にしないことには何も始まらないです。ここだけで終わってしまうのです。ここがヴォイストレーニングだといわれている傾向があります。
そういう場合は、どちらかというと悪いものをニュートラルに持っていくということ、これも必要なのです。喉の手術をしたような人は、ふつうに話せるようにしていく。
健康な状態の人に、これを目標にとらせるのはどうかと思うのです。私から見ると、ここが最低限です。ここからどう伸びるかということでやっていかないと、差別化できないのです。
だからここまでで一番よくなっても、カラオケのうまいサラリーマンやOLに負けてしまうのではないかと思います。苦手でそういうトレーニングをしたところで。
○力で鍛えるのではない
調律というのは、感覚と楽器を高めたところで必要になってくることです。皆さんの場合、今まで使っていた中で一番よい声が出るようにするということが、一番よいことです。それをすぐに高い声を出そうとしたり、大きな声を出そうとしたり、無理に息を使おうとしたら、声は出なくなってしまいます。
ヴォイストレーニングで実際にやられていることは、声を壊すことが多いです。カラオケで歌って、それで日常を送っている人が、1時間も声を出していたらどうなりますか。だんだん疲れていって声が出なくなってしまいます。これはステージや舞台をやっている人もそうです。それでもう喉がガサガサになってしまって、喉が疲れてドクターストップがかかってしまって、また出ていって、結局オンしていない。悪くなっては普通に戻し、というようなこと。
スポーツはそういうことをやっていくと、何やかんや力の抜き方を覚えていったり、筋肉がついていったりして、案外うまくいくのですが、ヴォイストレーニングを体育会系の人は、「他の人が5年以上かかることを私は1年でできるぞ」と、すごい勢いでがんばってやるのだけど、大体が喉を壊してしまいます。
時間がかかる部分はあるのです。要は、喉自体が強い楽器や筋肉ではないので、それを力で鍛えるということ自体が、スポーツでも効率が悪いやり方だと思うのです。それでもスポーツの場合は、使えるところまで使ったら、それ以上使えないわけでしょう。ダウンして、倒れてしまう。人間が生きていくためにそういうシステムです。
ところが喉の場合は、そういうことがないのだから、壊せるところまで使ってしまう。壊しても使ってしまうのです。そういうところでは気をつけないと本当はいけない。
ここのところでずっと抜け出せない人のほうが多いです。歌もそうです。プロになれた人は努力しないで、デビューできるのに対して、トレーニングをして10年やっても歌の音程がとれない人とか、うまくない人は世の中にたくさんいます。ピアノでも10年やっていたら、相当怠けていた人でもバイエルくらいは弾けるようになる。ゼロから始めるから、5年やっているのならこのくらい弾けるでしょうと、英会話もそうですが、時間軸で見れます。ヴォーカルに関してはそういうことは一切成り立たない。
今まで歌ったことがないのですという人がすごくうまかったりする。それは絶対歌っていないわけではない。そんなにはやっていないのにうまい人もいれば、レッスンにいろいろなところに行っても、歌ってみたら、下手だという人もいるのです。
そういう意味でいうと、こういう感覚のことをとても重視していかなければいけない。役者は年月やることで変わっていけることがあるのですが、ヴォーカルの場合は、感覚のよし悪しというのが、とても大きい。
それをどこかで入れておいてください。今日聞いたものでもそうです。普通の人が聞くと、声を大量に出しているところと高く出しているところしか聞かないのです。そこができないからといって、まねして、声を壊してしまう。
人間の体であるかぎり、限界が必ずあります。どこまでも高い声や大きな声が出るわけでもない。与えられた体を鍛えたところのベストの限界までしか出ないし、それで歌うには充分すぎるということです。
それで歌のほうが大変であれば、自分に合っていない歌、選曲してはいけない歌なのです。好きとか嫌いとかではないのです。自分がそこの作品に価値を出せない歌なのです。
1オクターブしか音域がない人でも、すごい歌唱力で歌っているふうに聞こえる場合もあります。表現がわかっていたら、声量や歌唱力があるといわれてしまう。声から見るとまったく限定された、喉頭がんで手術をし、楽器としては壊れ、ことばもいいにくい、リズムもとりにくい。なのに、きちんと聞けるというのは、彼女の持つ音楽性です。
楽器もすぐれているほうがいいのですが、音楽性がないことには、本当の意味で人をひきつけない。感覚というのを体だけの感覚でとるというよりは、ヴォーカルの場合であれば音楽の感覚からとっていったほうが実際は早いと思います。
ヴォーカルの場合は、マイクを前提に考えていく。たまにアカペラという人が来ますが、それは声楽から考えたほうが、日本の場合はいいような気がします。
○サラブレッドをはずす
私は、万が一ですが、こういう人が受講生ができたら、トレーナーからやりませんかといいます。それは2つの意味、いい面と悪い面とです。ここまで、歌える人はなかなかいないというレベルがまずひとつ、それから声のどまんなかのところでやってきているということがあります。
もうひとつは、これでソロをやってもJ-POPや日本の今の音楽業界は、こういう人は受け入れない。ということはどういうことなんでしょう、今の10代20代が聞くマーケットと、この歌い方は相容れないのです。
こういう歌い方の人は日本でもたくさんいます。トレーナーはこういうものを目標にするかもしれませんが、私はここで目標にしない。こういうものはオーディションで選ぶしかないです。1万人いて、こういうふうになれる人は1人か2人です。これはわかります。
芸大に入っても、トップをとれる人とビリになる人は、努力だけが違うのではないのです。もって生まれたものとか体とか、そういう声帯の出来が違う部分があるのです。これはクラシックの世界で、サラブレッド的な意味で持ってうまれたものが半分くらい、努力をしています。でも努力を5倍したからといって成果が5倍上がるわけではないのです。むしろその分野に向いてない人が方向違いの努力してしまうと、結果としては出せなくなってしまいます。
私はここを目標にとりません。この2つの意味があります。目標にとるとしたら、オーディションして、こういうふうになれるという人だけをとります。これはある意味では良心的なことだと思います。
トレーナーは混同してしまう。その目標がこのくらいならいいのですが、大体自分の目標くらいのところにしてしまう。それは無理です。
要はプロになりたいという人に、プロに教えたこともないトレーナーが、何ができるのかというあたりまえの疑問です。トレーナーがプロのように歌える必要はないのです。トレーナーに必要なことは、そこに何が欠けていて、それを何をやれば補えるかという、相手をどうするかということです。これに対して、バンデラスはどういうふうにやっているかと。
この手のタイプは、役者からはみ出してきたタイプしか日本ではあまりいないですね。正統的にクラシックや発声をやってしまうと、頭から切られます。おかしなことで、これを禁じてしまったら、世界中のロックはすべて禁じなければいけなくなってしまう。ジャズもそうです。その現実と遊離してしまったところで回っている。それが、トレーニングになっている。
○内から変えていく大切さ
日本人と外国人の感覚を、比べてもらおうと思います。こういうふうに聞かせていることが本来のレッスンです。
その聞き比べることができる耳においてしか、本当のことでは自分の声も変わってこないのです。まったくの未経験者はやればやったところまで何とかなりますが、今まで歌を歌ってきた方は、ヴォイストレーニングや発声をやっていないといっていながら、そのことはある意味で人についたことがないだけであって歌のなかには含まれているのです。
よくプロの歌手に「ヴォイストレーニングなんかをやってみても」といわれることがあるのですが、でもその歌い手がきちんとやっているということは、どこかのフレーズを何回も歌い変えたり、歌い直したり、プロとしてやってきているわけです、私たちからいったら、それもヴォイストレーニングなのです。
ただ、ヴォイストレーナーについていることがヴォイストレーニングだと思っているから、そういうことをやっていないという話になるのです。
ということは、あなた方も同じことがいえるのであって、今までヴォイストレーニングを受けていないといっていても、その歌のなかで歌を研究してみたり、節回しをちょっと変えてみたりキーを変えてみたりしていたら、それはヴォイストレーニングなのです。
発声というのはコールユーブンゲンだったりドミソドソミドというものということではないのです。歌を歌うということ自体が、もう発声練習になっている場合もあります。ここはそういう使い方をします。
レパートリーにする歌というのはあまり使わないです。それは自分で考えて自分でまとめるしかないからです。ここでやるのは歌を壊すことです。そうすると壊した歌を、使えませんから、喉を壊すよりはましです。
だから声というのは、ある程度やってくると、今度は感覚を変えないかぎりは声の出し方は変わらない。どんなに外側から声を出そうとしても、それはきっかけにすぎない。
たとえば、ここを上げなさいとか顎を引きなさいとかありますね。でも本当のことでわかっていたら、映像で歌い手は見られるわけです。だから自分のを録ったり鏡で見たりすると、外側だって直せるわけです。
内面的なものをどう得ていくかというのは、まず耳です。耳なのですが、聞こえる音ではないのです。聞こえている声のベースにあるところの体の感覚をとっていかなければいけない。頭だけでいくら考えてもだめ、そこに入っていくしかないのです。
○自分を壊すこと
最近若い人とやりにくくなっているのは、自分を守るのです。要は自分が自分であり、自分の歌だということを守るのですが、それだとトレーニングは成り立たないのです。
本当の効果を上げていくトレーニングというのは、自分が壊れてでもいいからもっと深い自分を引き出す。そのやり方というのはひとつしかないのです。
高校生ならクラブでどんな一所懸命やっても、試合で負けた。練習時間を2倍にしようとしても、相手もそのくらいやるわけだから、かないっこない。そういうときに何が違うのかというと、イメージを入れるため、バスケットの試合を見る。もうひとつは大学生やプロと混じってやってみる。
混じってみたら5秒も持たない。ふっとばされたりする。でもそういうところで一瞬でもついていけたり一瞬でも違う動きが起きたとしたら、それは唯一今のレベルから抜け出せるチャンスなのです。
だから一流のものに引きずられるようにして、感覚や体が持っていかれたときではないと、本当のものは身につかない。
そういうことを経験した人でないと。それがわからなければ、厳しい舞台に出なさいということです。お笑いの人のように舞台に出て、歌ったときに、本当に客に伝えられるものをやるには何をすればいいのかがあれば、少しはわかるようになる。
仲間内で、サークルをやって身内を呼んで、そこでうまかった下手だったといわれているところでは、どんな感覚が必要か、あなたが元気でやれば、それで喜んでくれるじゃない、そうしたら元気にやることだけがすべてで、芸術的なものにはならない。レベルの高いものにはならない、問われるものが違います。
○虚飾をはずす
ほとんど日本の場合の歌のステージは消費されている。歌手は昔の歌を歌いこなす。それはイベントです。月に一回、年に一回、その人が元気な姿を見て、元気じゃない人が元気を出すということになってくる。それも意味のあることです。ひとつの大きな活動です。
しかし、そういうこととレベルを上げて創っていくことは、また少し違うのです。両方の工夫が必要です。芸術的に皆が聞きたいわけではない。そこで皆楽しみたいし、そこですっきりしたい部分もあります。それが音楽ですっきりさせられる。
プロですから、そこで力が足りないことを皆知っていますから、いろいろな脚色をつけるのです。本来はベースの力があって、その上に振りや照明をつけて、バンドをつけていたことが、日本の場合は逆ですね。それが全部つくと何となく持つから、どんどん声や歌がおろそかになってしまう。かたちだけがつくられる。それでも客が許します。
本来ならば、客がいなくなって、また元に戻るのです。ゼロからまたやり出す。ところが日本の場合はそうではなく、消費されて飽きられて、また新しい子が出てくる。誰も育たないという、悪い循環です。
歌ほどごまかしてお金をとれるものはないからです。アイドルで、かわいいだけの子に歌を吹き込ませて、まわりにプロを置けば、お金も稼げるしCDも売れる。コンサートもできる。こんな楽な商売はないですね。
漫才でもやらせても、数年はまともな漫才はできないでしょう。歌は、1ヵ月でできてしまいます。かわいいとかスタイルがいいとかが必要なんでしょう。そうやって日本の音楽が動いてきたところがあります。まともな人もいますが。
こういう変わったものは、耳を鍛えるにはいいと思います。
ここでやることはストレートなことではないかもしれません。ストレートなことでは変わらないのです。外側からどうやるかは、本なんかで書きやすいです。口のなかを開けましょうとか、でもそういうことは感覚から入ったら開いてくるのです。その感覚がないのにやっても、顔だけ発声顔で、声が伴わない変な合唱団のような人ができ上がってくる。
これは日本人の感覚です。ひとつ前の歌い方です。
「キサス・キサス・キサス」
A B Aというサビがひとつあって、あとは全部同じ。これは日本のラテンの女王といわれた方が昔歌ったものです。最初すごく小さく入って、淡谷のりこさんのように。「キサス・キサス・キサス」は有名なラテンの音楽です。
この前キューバでもらってきた歌い手が歌ったのは、こういうものです。A B Aだけど、最初からフェイクが入っている。有名な歌なので最初からどんどん変えていっている。小さく入って大きくする。短く入って長くする、それから低く入って高くするというような日本人の感覚ではない。どちらがいい悪いということではないのです。
私たちの耳や体は、どちらかというとこういう感覚で動いているから、そういう感覚になってしまうということに対して、これが世界の標準だと考えてください。
○日本語の感覚を切れない
そこが問題になってしまうということは、それができていないということではなくて、そのイメージと置き方の部分で、まだまだ解決できることが同じ体のなかでもあるのです。それを踏まえないでやっていくと、テノールのような歌い方で解決しようとしていく、それの典型的なのは、ミュージカルのようなものだと思います。とても高音が目立ったと思います。
「エー バー ハー マ、タ」といってしまう。それはしかたないのです。日本語自体がそういう特徴にあって(テキストに書いてあるのであまりいいませんが、)日本語というのは、音になってしまう。高低アクセントで、両方音を発する。「あめ」「あめ」「はし」「はし」、これが「はし」となったら、どちらの「はし」かわからなくなってしまう。だから必ず発音します。音を響かせます。その辺がクラシックと似ています。これが母音中心の言語で、とても珍しいです。ポリネシア語と日本語くらいしかないといわれています。
響かす、発音、ことばにする。高低アクセントはご存知のとおり、音程アクセントといわれる。メロディアクセント。日本の歌はこれで動いていく。その結果、小さく出て大きくやる。長く伸ばす。高くする。そういうことが目立ってきます。その感覚から発声もそういうことを勉強しようということになってくる。
ところがそういうことを勉強したトップの人の歌い方がこういうふうなものになっていく。向こうの人たちと、日本人の歌を比べてみると、何か古いなという感覚になってしまうのです。
今の若い子たちはそういう歌い方をしていない。原曲も古いのです。1950年代の曲です。
それを日本の場合は、向こうから入れて向こうより後に歌っているのに、なぜかグループサウンズでも何でも、今聞くと全部古いでしょう。ポップスだからいいのですが、向こうのものはビートルズでもクイーンでも今だからといって、全然古くないのです。
それがどういうことなのか、ことばで聞いていることもあります。日本の場合、ことば自体が古くなることがあります。こんな歌詞では歌わないとかこんな男と女の時代ではないとかいうようなことがあるのですが、外国語というのは、そう変わらない。
英語でいうとHでハーと吐きます。
「H――――」と吐いているひとつのなかに、拍ができてきます。強拍。これに全部が巻き込まれます。
日本人の英語が、発音は正しいけれど、それっぽく聞こえないのは、弱拍の部分をきちんと巻き込まないでいってしまうからです。ここまで発音してしまう。これは子音が中心、息を吐くことに対して何かを邪魔させるのが子音です。発声からいうと肺があって、息があって、声帯があって、このまま共鳴して出てくると母音になります。ここまでは楽器と同じつくりです。
これを唇や舌や歯で妨げると子音が出てきます。同時に息を妨げるところに、音色が表れてきます。強弱というのはリズムです。向こうのヴォーカルは、いわゆる音色とリズム中心です。
この辺が本来の発声に関わってくる。なんで高いところがあんなに楽にとれるのかというと、子音の周波数自体が高いからです。周波数というのは音の高さ、ピッチです。もう一曲聞いてみますね。ここで音楽ということの違いを聞いてみてください。
○歌で不自由にしないこと
日本人は形を受け継ぐようなことで行われてしまうことが多いのです。もっというのであれば、創造するとか新しく何かを起こすことに対して、否定的なのです。思い入れ、ノスタルジーに浸りたいというところで成り立っています。
ジャズのヴォーカリストのプロもここにも何人かいます。お客さんにいつも歌わされるのはスタンダード、自分のオリジナルや新しい作品を持ってきても、受けがよくない。
海外のアーティストがきてもそういっています。日本で一番拍手をもらえるのは、今、私が一番歌いたい歌ではなくて、昔のヒット曲だ、それをラストにもってこないと、お客は満足しない、でもそれがあるとお客さんはきてくれる。他の国に行ったときは一切やらないし、やりたくもない。今のことをやりたい。今、生きている世界、今、自分が思っていることをやりたい、あたりまえの話です。それは日本人の心情なので、あたりまえのことができない。
いい加減に歌っているところもあれば、歌詞を変えてみても、フェイクしているのもよくわからない。そのいい加減さがポップスの自由さです。声を問うているわけでも響きを問うているわけでもない。
何が決まってしまうかというと、あのなかであの人が3回歌ったら、どの回が一番よかったのかはっきりわかってしまいます。それからオーディションをしたときに、誰が一番いいのかもわかります。要は個性ではないのです。ひとつの土俵の上で、その技術を争っている。だから技術点としては、高い人がよいとなります。
ただバンデラスのように、けっこう適当にやっているような歌い方は、自由度があるから、人と比べられないのです。何をやってもいいというところがある。
私から見ると、そっちのほうが歌。歌は自由になるためにやるものだと思っています。日本人のようにしゃべったほうが自由なほうが、わざわざ歌って、客を退屈させているという、その構図自体がわからない。
音楽や歌を歌えば何でもありだという。日本でも、そういうところはわける必要は全然ないわけです。実際、今お笑いをやっている人の何人かはミュージシャン志望でしょう。あれなんかを見ているとそれが歌なのです。あれを歌といっていいと思います。ラップといっても。さだまさしさんなんかは、噺家になりたくて上京してきた人ですから、それも分ける必要がない。彼のコンサートはどちらかというと話ですから。歌もいいものをつくっていますが、作詞作曲の才能が入ってしまうと訳がわからなくなってしまう。
創造する製作するといった場合、日本の場合の創造性はメロディメーカーや詞をつくることにかぎられる場合が多いですね。歌のなかでどう歌唱するかの創造ではなかなか認められなかったりします。
お客さんの問題というより、アーティストがそこまでの創造をしないことに対して求めない。でもトータル力ですから、歌唱力がなくてもいい曲はつくる、いいアレンジができるのであれば、それは作品として認められるのであって、その辺のスタンスの取り方がヴォーカルはいろいろありなのです。
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【京都 基本の基本 4053】
○イメージと聞く力
この前の合宿では、課題曲から脚本をくみあげ、それを音の世界にもっていき、ことばと音でつないで表現するステージを、25分をやりました。
自分がどこで勝負ができるかということを知っていかなくてはいけません。自分がやったことに対して、それをフィードバックしてより正しいものをとっていくことをやっていくのです。
いろいろと必要なことがありました。筋力トレーニングや、心肺機能のトレーニングも必要です。集中力を高めることも大切です。今回は2年前後の人が中心でした。期間は関係なく、トレーニングをきちんと積んでいる人、基本がきちんとできている人というのはすぐにわかります。
ポップスの場合は、声楽からみると、間違った発声が作品に使われていることが多いのです。でもそれを間違えだとすると、その人の個性のなかのある種一番いいところがなくなってしまうこともあります。そこが難しいのです。
人間の体の原理として、声の出てくるシステムの部分は同じ、声楽の場合と違うのは、上に立つところの出口が決まっていることです。始めに音が決まっていて、音が下げられない、移調できない。ということは、そのキィまでの音域をとることが絶対的な条件としてあるわけです。すると取れないような声の出し方をしていると、間違いということになります。
でも最初はよくわからないのです。大体は、それが正しいとか、正しくないと判定できる以前の状態なのです。声というのは自分の思ったとおりに出ます。自分で思っているのと違う形でできている人もいますが、少なくとも自分が全然イメージしないようには出ないと思います。
ピアノというのは、勉強したらある程度までスムーズに上達していく。というのは、ミスタッチしたら、それがすぐに跳ね返ってきて瞬時にわかるからです。歌の場合は、音程ミスでさえ、どこがややフラットしているとか、シャープしているとか、なかなかわからないのです。発声に関しても同じです。
今みたいに声を回している時に、どれくらい声を聞き込めるかということです。それを自分でフィードバックして、それに対して調整する機能がどのくらい働いているかということです。
だからステージでも同じですが、自分で引き受けなくてはいけません。今のでも、何人かの人はピアノに反応していますが、あとの残り大勢はまわりの声に反応して出しているのです。もうすでにそこで遅れているわけです。
東京では、クラスが5つに分かれています。入ったばかりの人とは、立っているだけで、顔つきからして見ただけでわかります。眠そうな人なんかは上のクラスにはいません。初めての人たちがダメということではなく、そういうふうに体や心の状態も変わっていかなくてはいけないのです。
レッスンというのは、自分が先に何か出して初めて成り立つものです。自分のなかでそういうものをコントロールしていかない限り、常にオンしてはいけないということです。
レッスンに来ることはできるし、声を出すこともできます。それはその辺の高校生でもできるのです。
ある時期おかしくなるのは構わないのです。本当に基本を身に付けるということは、自分が出したものを、感覚のなかで正していくということです。たとえば、息を吐けるようになる、体が使えるようになる、大きな声が出るようになると、どういうふうに自分で選んでいけばいいのかということです。やっているうちにいろんなものが出てくるのです。それを私たちが選ぶのではなくて、本人が選んでいかないといけないのです。
器が大きくなればなるほど、そのなかでどれを選び、他の全てのものを捨てていかなくてはいけないのです。そういう感覚をきちんと働かせているかどうかです。そうしないとステップはアップしていきません。
○走らせていく
たったひとつの「ハイ」からでもいいのです。ピアノと一緒にすぐに「ハイ」と入れる人と、すぐにパッと入れない人では、それが明らかに大きな力の差のひとつになってくるということです。
楽器を弾くように、自分のなかに音楽を走らせていくということは、大切なことです。声の世界、音の世界は見えにくいものです。
初心者の人は、頭で計算して考えているので、リズムでも遅れてしまうのです。上のクラスであれば、15分で1曲終わってしまいます。20分後にはメロディが完全に頭に入ってしまいます。
日本語はつけますが、中にはイタリア語でやる人もいます。
その人のなかに音楽が入っていたら、それをベースに音楽は作られているわけですから、そうすると、新しく覚えることというのはほとんどないわけです。その人のなかにどんなにイメージがあっても、どんなに考えていても、出たものでしか判断できないのです。出たもののなかで、どこが悪いかを本人が踏まえ、何が足らないかを付け加え、そして変えていかなくてはいけません。
1回目やったことと、2回目やったことが何も変わらなければ、その人のなかで何も働いていないということになります。
そのレッスンで何がやれるかということよりも、レッスンでやったことができていないということをきちんとつかんで、家に帰ってから補充しておいてください。だからまず他の人の声や作品に厳しくなってください。そうしないと基準ができていきません。
「ハイ、ハイ、ハイ」
基本ができていない場合に、トレーニングが成り立たないことがあります。今やりたいことは、息とか声の方に神経がいくようにしておくことです。
ストライクゾーンで勝負しなくてはいけない世界で、ボールのくそっ球とか、ワンバウンドしたものまで、全部を打とうとしているような気がします。必要がないものは、切り捨てていってよいのです。
確かに音楽は自由だし、ポップスというのはいろんなものがあります。しかし、基本の勉強をするときには、一応そういうものを外してみなくては、どれを選ぶのかというのがわかりにくいのです。
だから人間の体の原理に基づいたところで見ていかなくてはいけません。自分の自習練習というのもあります。歌というのは本来、人前でやるのが前提ですから、そこで何を奏でられるかということを自分が実感しなくてはいけません。その実感があって初めて、他の人たちに伝わるということなのです。
1年くらいはほとんどよくならなくても、2年くらいは力が伸びなくてもいいのです。それでは何にもならないと思うかもしれませんが、まったく声しか響いていない空間において、声というのはこういうふうに聞こえてくるということがわかってくる。それとともに、力がついてくればよいのです。
半年前に比べ、今はこんなふうに歌えている方が最初はよかったけれど、声も全然変わらないし、一人よがりのままだというより、よい。そういう判断がついてきます。「ハイ」をもう一度やりましょう。
他人のなかで自分のことを判断する、そして自分のなかで他の人のことも判断することです。他の基準からいったら、違うという高い基準がもてると思います。基本的にできるということを、問うのであれば、他の才能で外の世界でやっている人はいますが、音を問うこと、声で問うこと、それがあろうがなかろうが、オリジナルのフレーズ、音楽のなかで働きかけられるようにしていくことが表現です。今考えてほしいのは、レッスンも含めて可能性です。こいつは何かなりそうだなというものを出してもらえればいい、それだけです。
○働きかけ
いろんな思い込みのなかで声が扱われています。こうやって全部まねされてしまうということは、感覚として鈍いわけです。
野球でも、感覚的に打点のところに最高のスピードで送り出すのです。バレーでも、全身を使って、一番自分が、物理的現象として力が出せるところにボールをもっていく。体を一つにして使うということは、声の場合はスポーツよりも難しいことです。歌ももっと難しいです。それはイメージした通りに、できてしまうからです。
スポーツの場合は、肉体的限界とその問題がすぐに突きつけられますからわかりやすいのです。こんなことをやっていても通用しない、無理だということがわかるのです。そうすると、試合をやらないで基本のトレーニングをやります。
歌の場合は、大きな声が出る、高い声が出るというだけで、歌だと思ってしまう。そんなはずはないはずなのに、実際に自分でやったときにそれしか見えなくなってしまう人が多いのです。
「ハイ、ララ」
単純なことですが、働きかけてくるかどうかです。「ハイーラーラー」だと思ってやっている人は、これ以上のことはできません。それを許してしまう自分を変えなくてはいけません。
できないのはよいし、体がまだ伴っていないのはしかたないのですが、それよりも先に感覚が伴っていかないと、直らないのです。
そのことを伝えることは難しいです。その人のなかで「ハイーラーラー」という感覚しかなければ、「どこが悪いんですか」と聞かれても、「通用しない」というしかないのです。他の世界、スポーツとか、学校の勉強とかは優秀かもしれませんが、ただ歌とかトレーニングに関して、そのテンションでやっていてもしかたないということです。
そんなことに自覚がある人であれば、くる必要はありません。自分でやっていればうまくなります。普通の生活のなかで実践している人がヴォーカルにはたくさんいるのです。これが楽器と一番違うことです。
日常の生活のなかで、声を使うことに関して、それだけの厳しさを要求されるような世界もあります。そうすると、そういう中から、表現力を獲得できる人というのは、稀にいるのです。
まわりの人に合わせないで下さい。それは、どこにいってもいっています。他の人に合わせていたら、全部間違いになります。それが集団でやるときのデメリットです。それが悪いのかというより、それに気づかない方がおかしいのです。自分でおかしいと思うものは、おかしいのです。どれだけ、それはおかしい、違うといえるかという世界です。そういうことでいうと、ステージの基準というのも簡単なことなのです。
「お前を」「あなたを」
目をつぶってみて「私は」だけでやってみましょう。それで自分がよいと思ってしまったら、それでよいのです。「私は」の練習をやるのは、ことばとか、声に対して、それだけ神経を働かせるということです。
それがわからないうちは、わかろうと努力していかなくてはいけません。でも本気になってそれを伝えようとしたら、相当伝わるものなのです。そのときには、自分のよい表情とか、表現が出ているはず、あるいは出せるはずなのです。それは音楽とか、歌から考えてもみたら、かけ離れてしまいますが、年月の問題です。
才能の違いでも何でもありません。自分で「お前は」といってみて、それをOKにするか、嫌だと思うかどちらかです。それはよいものを聞かないとわからないのです。それはその人がどこをとり、どこを捨てるかというような、その人の本当の内部での判断力になります。そういうことを実感していくことです。
今はできなくてもよいのです。できたと思った瞬間、そこで進歩が止まります。できていないということが、どういうことなのかを少しずつ感じて、感じていたら、やがて力をもつようになってきます。