レクチャー4
【レクチャー4146】腹式呼吸
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【レクチャー4146】腹式呼吸
○腹式呼吸の謎を解き明かす
プロの人の息と声を聞いてみてください。音声を大きくかけて聞くことによって、歌うの人の息や体を見るのです。すぐれた音響設備のもと、全身ですぐれた声を聞く体験が必要です。※
映像なども、目で見てしまうと、日本人はすぐに耳がおろそかになってしまうのです。
ライブやコンサートを映画などでも、その人の息使いが聞こえるようなものがよいでしょう。
映画を映画館で見ると、俳優の息使いまでわかるでしょう。そうして、音声の世界の感覚を体にとり入れていくのです。
次に、歌を聞いてください。歌というのは、ことばとメロディの世界で成り立っているようですが、実のところ、音色とリズムで音楽になるのです。
音声の世界で、歌に声を使うのであれば、声を音楽のレベルで処理できるようにするということです。
トランペットの世界のように器楽音と思えばよいです。
そのレベルでの演奏ができると、世界でも通用します。今、世界で成功するということは、アメリカで認められるということのようですが。
○息の深さ
息をよく聞いてみてください。歌声に全部、息が混ざっていると思います。息がとても深いのです。
最近は、日本人にもこういう息をまねて録音している人が多くなっています。しかし、大半はだらしなくなっています。
本当の意味で、息でもっていっているのではなく、作った息で歌っているからです。☆それっぽくやっているのですが、まったく違います。音響で加工して、その差をわかりにくくしています。
まるで声の芯がどこにあるのかがわからないでしょう。本当にきちんと歌ったものというのは、芯がしっかりとあるのです。しかし、今の録音の仕方は、点をとって、それをつなげるようにできます。
カラオケで歌っても、マイクやエコーを取ったら、ひどくなるでしょう。
本当に歌えるということは、そういうものを全部取ってみても同じということです。つまり、基本に戻るということは、そういうあとからついてきたものを取り除いてみる必要があるのです。
○呼吸法
よく腹式呼吸とか呼吸法を教えて欲しいといわれます。
腹式呼吸は皆さんでも普段からやっています。腹式呼吸と胸式呼吸がわかれているわけではありません。腹式ができない人というのは、いないのです。ただ、歌やせりふに必要とされる表現に、体が対応できないと、不用意に動いてはいけないところが動きます。
最近は、私は腹式呼吸や呼吸法というよりも、深い息といっています。使い方によって、胸や肩などに余計な動きが目立ってくると胸式といわれます。どうも、お腹から声が出ているという感じになっていないから、問題が起きます。
呼吸法とか、ヴォイストレーニングでは、息のコントロールを自分でできるようになるためにやるのです。
○歌のモチーフ
声を単純なフレーズで動かしているところがモチーフにあたるところです。
自分はこの歌をこういうデッサンの線と色で描いていくということです。歌とか音楽というのは、そういうことから始まっているわけです。
芸術作品を見たら、これは誰の作だとわかるでしょう。その根本になるのが、その人独自のタッチです。そのデッサンが歌に展開されているということです。
日本人のもつ歌という考え方は、メロディにことばをのせて、声でつないでいくというものです。それとは違うわけです。
ヴォーカリストは、自分がこの線をこのタッチで描くということを、一つの曲を使って創造しているわけです。そうやって自分の歌を創り出していっているのです。
○スタンダードとオリジナル
日本の場合は、スタンダードの曲を歌うとしても、基本のところに戻さずに、自分の好き嫌いで歌っていることが多いようです。これは自分たちの歌としての応用では通じても、自分で何をどうつくるかというベースの力は、ありません。
つまり、自分の本来のオリジナリティが何なのかということです。音楽のなかで、それは、音色とその使い方で問われます。それは、声質でないのです。
歌というのは、声そのものが一人ひとり違う上に、そこでいろんなことができるために、却って創造的なものになりにくいのです。
○オリジナルの世界とは
たとえば「明日があるさ」(坂本九、ウルフルズ)をつくり直してみましょう。そのときに他に替えられない、何が出せるかという力が、あなたの実力のすべてだということです。
ヴォイストレーニングや、呼吸法をやることも、そこで何がやりたいのかがなくては成立しません。
つまり、あなたが望む声や技量をもつまえに、それをも、どう使いたいのか、どんな絵を描きたいかということなのです。
確かに、そういうことはそれを持たなければわからないというかもしれません。
しかし、持てたらどうかということがなければ、何をどこまでもてばよいのかも定まらず、迷いのなかで上達は止まります。☆ そして、創造活動というのは始まらないのです。
プロは、彼らにしかできない、彼らの世界を歌うと思います。自分のものは何かということがなければ、自分の世界も出てこないということです。
○歌がうまくなることや声がよくなることは、目的ではない
もし、あなたが何かを手に入れたいとしたら、そのことが手に入ることがあたりまえになるような環境とシステムをセットしましょう。そして、その上の目標を持つべきです。☆
たぶん、この声とこの感覚があったら、自分がどんなことがやりたいのかということがあれば、そういうものは手に入るでしょう。それが、必要性です。
あの人の声だけが欲しいとか、こういう歌い方がしたいといくらがんばってまねしていても、大してものにはなりません。まして、決してこういう世界のクオリティには届かないでしょう。
一流のアーティストは、やりたいままに好き勝手に歌っているようにみえるでしょう。そのなかでどこが正しいとか、間違っているということはありません。ただ、すぐれているか、どのくらい深いのかどうかです。結果として、創っている私の描いた世界はみんな正しいというところでやっています。だからこそ創造物=アートなのです。
○状況に対応できるのが、プロ
歌がうまいとかへたということよりも、その前に客との信頼関係はどうやって築かれるのかということです。歌のうまさ、声のよさなどを見られているのでは、通用しないのです。
それは、人間性や人格でなく、歌が独立した作品として価値をもって働いていることです。それを支えるその人間が、その人間であるということがまず第一です。
それを他人の(歌の)ように歌ってしまうと、そこでその人の価値が出なくなるのはあたりまえです。
ヴォイストレーニングでも、そういうことに気づいたり、または近づくために徹底して、状況に鋭いトレーニングが必要なのです。
○トレーニングの目的
トレーニングは、あくまでトレーニングです。何かの目的を達成するためにあるのです。トレーニングが目的になっている人が、たくさんいます。ボクシングのボクササイズのようなものです。健康のためとか、ストレス発散のためにやるのは、よいでしょう。カラオケならばそれがよいのです。
しかし、表現活動というのは、同時に創造的な要素が不可欠です。それは自分が声とか歌を使って、何を表現したいかということです。
誰も大して歌も声も聞いてはいないのです。要は、歌や声に何を乗せるかということです。
やれている人というのは、それを明確にしているわけです。
それがない人たちは、誰かのように歌っているだけですから、何の価値にもなっていきません。やれていかないのは、あたりまえです。そのことも場でぶつけて知っていくことが大切です。
○レッスンは、オンすること
ここでレッスンの意味について、まとめておきます。
まず、レッスンというのは、どんなところにいたとしても、仮に毎日練習したとしても、それだけでは決して身にはつかないのです。
レッスンというのは、気づきにくる場所です。何かを変えるために、気づき発見するのであり、こなすのではないのです。だからレッスンが終わったあとは、レッスンノートを書くことです※。私は、全員のすべてのレッスンノート(アテンダンスシート)に目を通しています。そのなかで、よい内容のものは他の人に気づきをシェアできるように、会報に載せています。
気づかないこと、足らないこと、入っていないこと、それは直しようがないのです。その必要性を本人が自覚していないからです。だから気づくことです。
本当に必要のあるものは、必要のあるところまで身につきます。それを私は、自分の身と声をもって体験してきました。しかし、そのためには、気の遠くなるほどの時間や情熱が必要です。そして何よりも、レッスンで気づいたことを確実に身につけるトレーニングが必要です。
トレーニングというのは、一人静かに黙々とくり返しやるしかないのです。不安や迷いのなか、雑念を切り、ブルドーザーのようにパワフルに前進していくものだけが、得ていくのです。
○テンションの高いこと
Q.1日何分間やるのですか。
レッスンになるのは、今までの自分のできぬことができる瞬間ですから、1日に30~60分のレッスン時間としても、そこに1分どころか2、3声もあれば、すごいものです。スポーツでいうと、毎日、自己新記録を出すことにあたります。大半は、年に何度かそういう感覚や声を出せるくらいでしょう。
私は、たった1フレーズでよいから、プロとの接点がつけば、次はそれを4フレーズにするので充分と思っています。☆
それがいかに難しいかは、天才的なアーティストでさえ、歌では、1コーラス1分間くらいなのです。つまり、その4フレーズを、64から128フレーズくらいにすることで、すべてなのです。
○日本人の弱点
最初に気づいてもらいたいことは、日本に生まれ暮らし、日本語で生活していたら、当然のことながら欠けてしまう要素がたくさんあるということからです。
外国人のなかでの音声は、日常のことばレベルで、日本人からみると舞台と同じです。
歌を聞いても、高音発声をマスターして、歌に使っているのではありません。劇団での稽古と同じで、感情が高ぶるとか、怒りが込みあげるとか、悲しいから音がしぜんと高くなるのです。
相手を口説こう、なだめようとすると声が低くなってしまうというように、歌にもっていっているのです。それには、それだけの声の器があるからです。
裏声、ミックスヴォイス、ビブラート、シャウトも同じです。ビブラートやシャウトの方法があるわけではありません。そういう気持ちが音声にのってきたときにそうなるのです。
日本の歌は、そういうものから切り離されていました。その人が地べたで生きているというところと、違うところでやっています。しぜんより、技術を優先します。発声法で歌おうとして取り入れてきたのです。☆
○音声の判断力がない
向こうのアカデミー賞やグラミー賞のスピーチを見ていると、その人が生きていることがそのままスピーチという作品になっているような気がします。☆
この前イッセー尾形さんがおもしろいことをいっていました。他の国に行くと、笑いというのはそれぞれバラバラのところでおこるそうです。だから、作品を通してのざわめきが落ちないらしいのです。
ところが日本の場合は、みんなが笑ったところで一緒に笑うから、急にワッとなって、すぐしーんとなるというのです。向こうに慣れてしまうと、日本ではやりにくいそうです。
つまり、向こうではそれぞれが自分の判断で笑うのです。当然、受けるところが違ってくるのです。
クラシックコンサートでも、日本の場合は、どう拍手しなくてはいけないかと、まわりを気にして、同調しようとします。自分に判断がないのです。
とってつけたスタンディングオベレーションばかりで、ブーイングがない。だから外国からきた歌手などに歓迎されます。あるいは、なめられたりするのです。
○強弱リズムの感覚がない
向こうのものを聞き比べたときに、高いところを歌っているとか、低いところを歌っているということは、あまり感じないわけです。つまり、基本的に強く出しているか、弱く出しているかの繰り返しです。踏み込んではなす、あるいはぐっとつかんで突き放す、そのように歌い手が声を動かして魅きつけているのです。そこでは、統一した音色が、自由に心に働きかける音色に変わっていきます。
レッスンでは、こういうものを聞いて、統一した音声を獲得していきます。☆それが基本です。
彼ら自身は、高くとろうとか低くとろうとしていません。日本人と比べてみてどう違うのかということを、耳のなかで捉え直していきます。そして、その上で音色と感情をミックスさせ、もっとも効果的に働くように応用していくのです。これが、オリジナルフレーズ※のトレーニングなのです。
○本当の基本とは
かつてのヴォイストレーナーは、自分が歌って、それと同じようにやりなさいとやっていたらよかったのです。声や発声、歌のうまさがプロと結びついていたからです。
今、そういうヴォーカルアドバイスは、すでに売れている歌手や少なくともデビューが約束されている人にしか通用しません。
トレーナーと同じ声が出たり、それが使えたからといって、何の戦力にもならないわけです。現にそのトレーナーは、どうだったのかと考えればよいでしょう。それで通用するなら、トレーナーの歌が大ヒットしているはずでしょう。
いろんなことができた上で、そういうこともやりたいということであれば別ですが、昔の基本が今は基本ではなくなってきたのです。でも、それはもともと本当の基本でなく、声の応用技でしかなかったということです。
本当の基本というのは、変わりません。きちんと音の世界を聞いていくということ、そこで起きていることを見逃さないことと、その音楽を受けとめて、自分だったらどういう形で創るかということです。それを磨くのが、本当のレッスンだと思います。
○自分の音の創造する
楽器の世界というのは、みんな音色とその使い方で勝負しています。ピアニストもトランペッターも同じです。
私がピアニストになれないのは、自分の音がピアノで作れないからです。自分の気持ちを音に託して表現するということを知っていても、ピアノに同化できないのです。
それはどうしてかというと、ピアノでそういう聞き方と弾き方ができないからです。
ピアニストやバイオリニストは、楽器が体の外にあるため、それと自分とを一体化するのに膨大な時間がかかります。皆さんも、今からバイオリンのプロになれると思わないでしょう。
でもヴォーカルは、めざせるのです。それは、初心者であっても、すでに声は使ってきているからです。そして、現に演奏のへたなプロも、たくさんいる。
しかしヴォーカルだって、アメリカあたりでは10代でまわりに天才と思われなければ、やれないからやらないのです。
ヴォーカルが、20代からめざせる理由。
1.すでに初心者ではない。
2.日本ではパフォーマンス、作詞作曲、タレント性など、ミュージシャンとしてより、パーソナリティが問われる。
3.日本では、実際にやれている人がたくさんいる。
声というのは、もっと複雑なものが含まれてきます。
私は、4フレーズも使えたら、基礎は卒業だといっています。2年間で半オクターブが扱えればよいといっているのです。
ノンブレスで息に声をのせたり、おいたりしているレベルに、2年では至りません。
日本の歌というのは、歌っているわけです。そこで即興的に、ジャズマンのように創造するのでなく、こなしています。
向こうの歌手が、高いところになると、マイクを離すのに反し、息を吐けなくなって、マイクを近づけていきます。歌手にもよりますが。
○本物の歌、声とは
今のポップスも、向こうの形を取り入れているのは、昔と変わりません。浅い息のところで声を垂れ流して、形の悪いつながり方のまねしているので、きちんとした作品にならなくなってしまいます。でも聞き手は、そんなこと聞いてはいません。
そこで、今のJ-POPのシンガーの評価も難しいのです。
しかし、ポップスですから、それぞれの世界が出ていればよいというわけです。
声が出たり、歌がうまいからといって、人々に伝わるのではなくなってきています。生声やいい加減な発声の方がよいとさえいえます。
つまり、音声で表現する舞台の死の時代、誰もが表現を聞けなくなってきたのです。まあ、よくいえば日常化してしまったので、日常レベルの歌でよい。そして、日本の歌もしぜんになりつつあるわけです。
そこで、マニアックな発声を教えようとするトレーナーの鈍さにも、どうか気をつけていただきたいものです。
(特に日本のミュージカルのなかでは、いまだ昔のように、形や技術を前面に押し出したいやらしい歌、生声、こもり声、口内音、音響技術に頼った歌も、どちらも私のいうしぜんな歌ではないのです。)
○音響技術の進歩と声力の衰退
昔は、少なくとも声のよさ、ことばでのドラマが伝わるとか、そういう条件があったわけです。それからマイクに通りやすい声でなければよくなかったのです。ところが今ではどんな人の声でもマイクは拾えますし、機材もかなり進歩しました。
○基本に戻る
しかし基本というのは、時代や国によって変わらないものです。50年前でもあとでも、どこの国にいっても同じものです。
人間としての変わらないものに密接してあるからです。もちろん、その表わし方は時代や国によって違います。
自分の声を深めるなら、そういう体の部分とか感覚の部分を参考に聞いていくべきです。
体の原理と働きというのがあります。それを磨いてこそ、体を声の楽器として使えるわけです。自分の体の原理に基づいて、声を使っていこうというのが基本です。
そこの部分と、今のJ-POPで使われている声が、かけ離れているのがややこしいところです。
国や時代では変わっていかないところを見て、そこで創造できるためにどのくらいの声やその使い方が必要かということです。そうでなければ、トレーニングもあり得ないのです。
○レッスンとトレーナー
レッスンでやっていることの一つは、一つのフレーズから1分間に膨らましていくようなことです。いろんな音楽や表現のパターンを入れます。
私のレッスンを受けてきた人でも、自分がレッスンで何かを得て、何かに気づいたから上達したということがわかっていると、自分の気づいた点をみんなに伝えてくれます。それも、ライブです。
ただ、その人の気づいたように他の人が気づくかということは別です。そういうことでいうと、相性ということもあります。
私も一人よがりにならないように、他のトレーナーを置いています。声楽家や邦楽家も一流の人をお願いしています。それだけ研究生は混乱するのですが、それを超えてそのなかで自分にとっては何が必要かという選択ができなければ所詮、自ら学べるようにはならないのです。
○十人十様
ですから、ここでは声楽のレッスンを主に受けている人もたくさんいます。声楽は基準がはっきりしているので、はっきりさせたいときには便利です。まあ、それを補助にでなく全面的に頼ろうとするところで、だいたいだめなのです。
それは私のトレーニングも同じです。主体的に使い切る能力が問われるのです。☆
10代のうちは、まだ体ができていませんから、根詰めて声のことをやるよりも、むしろ基本の力をつけておくことです。
10人いたら10通りのやり方があってよいということです。それぞれが、伸びる時期も必要なレベル、年月とキャリアは違います。
○感覚の切り替え
日本人の感覚を一時、向こうの人の感覚に切り替えさせていきます。私は日本人は日本語をもっとも理解している以上、最終的にそれで表現を磨くべきだと思っています。しかし、声が楽に出やすく使えるような感覚にするために、他の国の人の言語や曲を使っているのです。
○どちらもできる分にはよい
日本人でなく欧米人がよいのではない。どちらもできた方がよい。あとで選べばよいのです。
たとえば、人によってそれぞれ出しやすいことばが違います。よいものを伸ばすのです。
○日本人の発声法
日本人の考える発声というのは、母音中心です。そこから共鳴させていく。のどのはずし方というのは、上の方にあてるという形がほとんどです。マ行とかナ行とか、鼻濁音で開くようにしていきます。それも一つの方法です。
○話す声と歌う声は同じ
しかし、もう一つ、日本のなかで忘れられつつあるのは、劇団の人の発声です。かつて劇団の人は、3年くらいでかなり舞台で通用するプロの声になったものです。話す声も、劇団の人たちの方がよいです。
劇団では、体に声を入れるというやり方をとっています。大半は、無理、無駄がかかり、声楽的にみると、胸に押しつけたり、のどを押しつけているようです。しかし、それは、勘がよくなるとギリギリのところで回避できるのです。
外国人の歌手の話し声は、役者と同じように素敵です。日本人は、話す声と歌う声は違うと思い込んでいます。本当にそうですか。
○歌は声の応用の一つ
声のよしあしをどこで判断するのかということは、難しいです。私の判断というのは、その声がよいとか悪いではなく、その声をどこまで繊細に、あとでコントロールできるような応用性をつけられるかという柔軟性でみます。せりふも歌も、応用した声でその一変形です。
人間が一番高いところをギリギリで出すと、そこはそれで何かは伝わるわけです。
ところがヴォイストレーニングでやっていくことは、あくまで基本のことです。応用というのは試合ですから、乱れても伝えるという目的を果たせばよいわけです。目的が違うのです。
○歌は教えられない
私が歌を教えないのは、歌は自由にその人が好きなように歌ってよいからです。歌は試合ですから、フォームが乱れようが何しようが、そこで勝てばよいわけです。十代のJ-POPに熱狂するファンは、アーティストやステージに魅せられている。それは否定しようもない事実です。
しかし、必ず乱れ、オンしていけなくなるから、基本に戻すのです。
そればかりをやっていると、試合ばかりをやっているようなものですから、声が出にくくなり、芸にも限界があります。それを体の原理にそって直すのが、基本のヴォイストレーニングです。これを歌の発声と、ごっちゃにしてしまうからいけないのです。
○歌の目的
歌の目的というのは、体の原理を使うことや、声をしっかりと出すことではありません。人に声で働きかけ(声だけではありませんが)、人を感動、興奮させたり、人の心を動かしたり、何かに気づかせることです。
たとえば、オペラでも、完全な発声のものが必ずしもプレスされているわけではありません。少々発声が崩れていようが、熱く、より伝わるものです。完全完璧な演奏でなく、個性的にして普遍的な何かを、かもし出すものです。つまり、新鮮、生命力、リアル感を失っては、だめなのです。
○タイムラグ
よく「一日でやり方を教えて欲しい」といわれます。教えられないのは、やり方こそ、経験が必要だからです。その人を離れた独自のメニューというのは、ないからです。
さらに、トレーニングというのは、身につくのに必ずタイムラグが出てくるからです。☆
歌というのは、誰でも歌えます。歌えればいいというのであれば、すぐに歌えます。
そこでできないということは、よりできる人に比べて、いろんな部分で欠けているものがあるからです。できない人は、それを音程、リズム、発音、声量、声域のことだと思うのです。
しかし、それがすべてあって、何も伝わらない歌の形、形の歌がどれだけ多いかわかりますか。それは弱点補強として、やることであっても、本当のメインの課題ではないのです。
まず、ヴォーカリストとしての、というよりアーティストの感性で生きているかということ、そして何をどう表現したいかということがあります。次に、それを充分に人々に伝えるために、手段として欠けているテンション、感覚、体をつけるという順なのです。体づくりはとても時間がかかります。これは状態でなく、条件だからです。
たとえば、腕の力が弱いから打てないといわれたときに、腕立て伏せを100回やって、すぐにバッターバックスに入る人はいないはずです。そんなことをしたら、余計にうまく使えないわけです。その腕立てが全然苦にならないくらいの力がついて、自分で気づかないうちに、それが試合に反映されたときに、初めて腕の力が抜けて、真の力がついたということがわかるのです。
信じることも必要です。他人のやり方で左右されてしまわないこと。トレーナーが誰であれ、正しいものは、現にあるのであり、そこで受け継がれていないなら、自分のミスなのです。
つまり、自分を信じられないから続かない。そういう人をみてきました。残念なことです。
本当に真剣に全力でやった人は、決して他人のせいにしません。それだけは覚えておいて欲しいと思います。先生やスクールをよく変える人も要注意です。
文化のベースは、まずは一処(ひとところ)で懸命にやること、どこでも3年間は学べるものがあります。☆
○トレーニングは必要悪
トレーニングというのは、部分的に、意識的にやるもので、必要悪なのです。だから、トレーニングが真のトレーニングとなることも、その日にはできません。
そのことを意識しなくても、自分の体で対応できるようになって初めて使えるわけです。
○トレーナーをみていたら、トレーナーを超せない
ところがほとんどのトレーナーというのは、それを同時にやってしまうのです。
高いところが出ないといったら、こう出しなさいと、音程が取れていないといったら、この音を覚えなさいと、見本をみせてまねさせるわけです。そのこと自体は悪いことではありません。でも、それならアーティストの映像をみていたら、すぐにできるということでしょう。
それができなかったり、それが調整できない感覚と、それに対応できない体が邪魔しているわけです。その条件を分析して作っていかないと、根本的な解決にはならないのです。☆
つまり、まずは感覚を入れること、そしてしぜんにとり出せるようにまわりの条件を整えることです。何よりも、現にプロのヴォーカリストになった多くの人は、発声法もヴォイストレーニングもやっていません。
1.自分の作品を創ること。
2.自分の武器を磨くこと。
3.自分の勝負どころを知ること。
4.自分の限界と対処法を知ること。
5.感覚と体を特化させていくこと。
6.判断基準をもち、鋭い感覚で対処すること。
7.人々に働きかけること。
8.プロに認められること。
9.プロに学ぶこと、一流のものを聞くこと。
10.それをコピーして、感覚を磨くこと。
つまり、スクールで教えられる発声法やヴォイストレーニングをやるのではなく、自らの作品が求められるレベルになるようにするプロセスで、音楽を入れ、声を使い、結果としてその人に必要な発声やヴォイストレーニングをやってきたかということです。
もちろん、発声だけとかヴォイストレーニングだけからみると、10パーセントもできていない人、アマチュアの一般レベルよりもひどい人もいます。でも、よいじゃないでしょうか。
声や歌で悩むより、人前に出て活動することが優先するから、アーティスト、ヴォーカリストなのです。その逆の声マニアは、私は歓迎しません。つまらない顔で目が輝いていませんから。
日本人の歌にそこまで発声が問われていないということではありません。外国人であっても私はこの1~10が基本だと思っています。だから、ブレスヴォイストレーニングは、この10に沿ってやっています。
つまり、技術として教えるものでなく、感性として身につけるもの、一流のアーティストがしぜんと幼い頃から踏んできたプロセスを、音楽や歌が、楽譜を声で置き換えるのでなく、そこに原始に人の心に一声で働きかけ、今も変わらないものを、とり出すのです。
○状態が飽和して条件となる
がんばって、一所懸命歌ったら伝わるというのは、あくまで状態の話です。確かに状態というのは、モチベートしだいで変わることはあります。
でも大切なことは、状態がどんなに狂っても、それを支える条件を作っておかなくてはいけないわけです。
ヴォイストレーニングは、最悪の状況のときに最善の状態にもっていく自分なりのやり方、術(すべ)を知っておくためにやります。基本トレーニングとその応用とのくり返しによって、自分を知り、常に自分のベストに短時間で調整することが可能となるのです。
スポーツをやったことがあれば、思い出してもらえばよいと思います。
たとえば、水泳などは一所懸命に泳ぐほど、タイムはどんどん遅くなってしまうのです。それは一所懸命にやるほど力が入ってしまうからです。
○強化トレーニング
大半は、プロの人への教え方と初心者への教え方を混同しているのです。
私が明日から巨人軍にいってホームランを打ちたいといっても、無理です。とにかく走れといわれるでしょう。
歌でも同じなのです。歌を聞いて、本気でやりたいと思ったら、まず、声を出すことよりも体力づくりと集中力において、この人たちと同じくらいのものを持たなければ、到底ものにならないわけです。
案外と、走る方が正解なのです。一見、横道にそれているように見えますが、体力がなければ、集中力も保てないわけです。声のコントロールには、最高のレベルの集中力が必要です。そういうものの足らない人は、それも一緒に身につけていくことです。
○身体の体験に学ぶ
歌や音楽で考えるより、踊りとかスポーツで考えた方がわかりやすいことはたくさんあります。スポーツは結果が出ますから、わかりやすいのです。また、舞踏や他の芸術は目でみて比較できます。
声は、最初はつかみようがないのです。それをみて、つかまえ、動かし、描き、しかも人に働かせなくてはなりません。
どんなにがんばっていても力が入っていたら、よい結果が出ないのです。今までにそういう経験があれば、常にそういうことについて思い出してみることです。そして、どうすればよかったのか、考えてみましょう。
バスケットでも、もっと強くなろうと思っていたら、NBAやプロのバスケットの試合を見ることです。ところが、試合に負けたら、努力が足らなかったとか、もっと一所懸命にやろうといって、練習時間を長くしたり、もっと走り込めば勝てると思いがちです。本当はそういう問題ではないわけです。
歌も自分でトレーニング方法をつくるのです。方法を探すことです。そんなことをやってよいということさえ、その当時は考えなかったのです。
トレーニングのなかでも、そのなかで自分はどれくらいできるかということが問題になるわけです。やり方のまえに、考え方も大切だということです。
○歌の方法論は、歌そのもの
ヴォイストレーニングとか発声方法は、方法論としてあるのではなく、ポップスに関しては、歌うことが方法論そのものだと思います。
歌のなかでいろんな試みをすることと、ヴォイストレーニングで試みることは、同じということです。
ただ、それを歌という形でまとめて、作品として客向けに切り出すか、その作品の支えとしてやるかどうかという違いです。
客によって変わるから、歌であり、ライブです。しかし、トレーニングの基準はこんなことで揺らぎません。
要は、歌とか音楽といって、知識とか理論の方に逃げるのではなくて、むしろ自分が思ったように声を出してみなさいといっているのです。
せりふも声も、それで人に働きかけてごらん。そこから、みんなもできるレベルでなく、やる、または、あなただけしかできないことをどう出していくのかという、根本的なところを詰めていくことです。
○ライブ☆
あなたの固定観念で固まった歌と私のレクチャーと、どちらが自由ですか。 ライブですか。
私のレクチャーは、
1.4時間にわたり、声で働きかける。音声で表現する舞台。
2.客によって自在に変わる。まったくの第三者としての客。
3.ワンウェイでなく、ツーウェイで始まる。
4.他に誰もやれない。
5.有料、予約制。
6.リピート客が、やってくる。
プロシンガーは歌で魅了します。私は声の基準を一声で示しています。
外国人もプロの人も、実力のある人ほど、すぐにわかります。
1.シンプル。
2.論より証拠。
○1日10編で2年、続けよ
作詞の勉強をしたいという人がいます。まず自分で毎日10個ずつ書きだしてみなさい。それを2年間やると7000個できます。そのなかで自分の一番好きな詞を100個並べてみると、どれがよくてどれが悪いかということがわかるようになります。
そのなかから、一つを誰かに見せて指導を受けるのであれば、それはとても意味があります。つくる才能よりも、自分で選んだ眼力を問われるのです。
そんなことさえしないのに、最初から指導だけ受けていても、大したものにならないのです。
○現実をみる
歌もアーティックなものも、そんなに日常から離れたものではありません。私もいろんな考え方、外国人からも理屈や体のことを勉強します。
この分野の本も文献もCDも、入手できるものは、すべて知っておきます。しかし、今、行なわれていることの方が切実ということは、どこかで見ていなくてはいけません。
つまり、私の考え方よりも、今の若い人たちの感覚の方が正しい。それは、時は未来へ歩んでいくからです。人間のなかで、ものの価値は決まってくるからです。
○プロとアーティスト☆
私は、ある面ではプロだから、そして状況に対応します。声がよいとか歌がうまくても世に出られない人は、その対応力、つまり客がきたいするものに対し、それ以上のものを返せない。そしたら、それは仕事になりません。
しかし、一方で今の業界にどっぷりつからないのは、アーティストとして自分の作品づくりを主に生きているからです。研究所は私のアトリエです。決して学校、スクールやマニアックな研究の場でなく、私自身が感覚や体を磨き、客の反応を知り、時代を呼吸しながら日本で作品を磨いていくところです。
私は決して歌うことがアーティックなことだと、もはや思っていません。レッスンや、この本を書いている方が画期的なことのようにも思えます。音楽に対しても、幻想を抱いているわけではない。演劇でもスポーツでも、いや商売人、起業家、実業家でも、自分しかできぬ作品を人に働きかけているなら、まったく同じです。
ここには、役者、お笑いの人、一般の人がくるのも、肩書きで人をみているわけではないからです。
○こだわり、煮詰める
ただ、あなた方は、今の時代の息吹は吸っているのですが、自分自身のなかでまだ煮詰めていないことです。あなたがよりあなたであるまでに、徹底して、こだわっていないのです。
誰のなかにも正解、その人にとっての歌もあるのです。それがこの程度でよいというところで終わっているから、伝わらないのです。
人前で問うたら、その判断が厳しくなります。そこまでこだわって深めてきたのかというところを出さない限り、人は納得しません。それは、少しくらい声がよかったり、歌がうまくてもよくないのです。
○やれるレベルと基準
研究生はここでうまくなったというよりも、99%は当人がやって、ここでやったことは、それを導く核としての残りの1%くらいだと思っています。
そこで聞こえてくるものがあるとしたら、第一に、本当に真剣にそのことにこだわってやってきたという姿勢から伝わってくるのです。
すると、何を歌ってもだいたい伝わるわけです。ことばを間違えようが、そんなことは誰も聞かなくなるからです。そういう力をつけていく方向でやる方がよいと思います。
やっていく人へは、精神的なアドバイスや考え方を説くことが大切です。やらない人には、やるようにさせることが必要ですが、やりたくてやるのに、それはどういうことでしょうかね。
○歌は創造物
彫刻の世界でも、焼き物の世界でも、何かをつくるときには、まずこれで何を表現しようかと考えるでしょう。ところが歌や音楽をやろうとすると、いきなり違うところにいってしまうのです。誰かのつくった形にのっかり、そこからおりずにいくのです。
○偏見
1.ロックは高音、シャウトが決め手。
2.バンドには、Bs. Gui. Dr. Key.、4人必要だ。
3.高い声、低い声が出ないと歌えない。
4.声域は2オクターブ。
5.楽典、理論が必要。
6.絶対音感が必要。
7.ルックス、スタイル。
8.楽器ができないとだめ。
日常がだらしなくて、だらしないことばを使っていたら、歌もだらしなくなってしまうわけです。これはいつも前の世代の人からいわれてきたことですから、それはそれでよいのです。
しかし、歌にしても、一から始めるのであれば、詞や曲の世界ということよりも、体から声を発して、人に働きかけることをやった方がよいと思います。
体の次にそれを支え、効果的に伝えるための呼吸です。それから音の世界にそれをどう取り出し収めていくかということです。
○即興で問う☆
向こうの人たちはみんな即興の力というのが問われます。だからここのレッスンのように、ワンフレーズを与えられて、自分の好きなように動かしてみなさいというレッスンが多いのです。
サックスのように声を出してみましょう。声だろうが、サックスだろうが、音の世界では同じなのです。
そこでのイメージが足りないときには、イメージを磨いていくしかありません。イメージはあるけれども声が伴わないとなって始めて、声を自由に使うためのヴォイストレーニングが必要になるわけです。
多くの人たちが、ヴォイストレーニングという方法論があって、ヴォイストレーニングをやっていたらどんどん歌がうまくなるように思っているのですが、そうではありません。
他人から与えられただけの発声トレーニングなどは、とてもつまらないもので、やらない方がましです。あなたが退屈に思うものなら、感性と歌を殺します。創造的ではないからです。私も、そんなことをする世界には、いません。
○音の捉え方
楽譜で、音符が並んでいるのに、ことばがつくと、日本の場合は、だいたい、ことば、メロディ、音程という入り方でとることになります。
音を取りにいこうとするから、音程が外れてしまうわけです。そういうことを考えたところで、もう間違いなのです。
外国人はどうやっているのかということを聞きましょう。日本人に足らないもの、入っていないものにはいけないものには気づいてください。でも、その反対に彼らが気にしていないものとか、練習していないことは、必ずしも練習しなくてもよいということです。
強弱リズムで動いているということは、メロディや音程に発音は二義的なものだということです。
○音楽の柱をたてる
あまり、低音という感覚はないのです。三つのところで動いているとしたら、この後ろで伴奏が、どう打っているかを聞いてみましょう。
楽器のプレーヤーの演奏というのは、必ず音楽的に成り立っている柱をきちんと立てて踏んでいます。
外国人のヴォーカリストは、そのレベルで音声処理しています。日本人の歌い手の場合は、音のつけ方がいい加減になったり、フレーズをキープできない場合が多いです。
○強いのが高くなる
原則として、高い音に対して、強く置いています。息を強く使っているという感覚です。これには、1オクターブ以上、ことばで処理(シャウト)できるポジションが必要です。
日常の表現と同じで、音の高いところが一番強くなるというわけです。ところが今の日本の歌の場合は、全部逆です。
高くなるにつれて、息を吐かなくなり細くなります。歌い方も時代によってずいぶん変わってきたと思います。ただ、なるべくシンプルに捉えた方が楽だということです。
これは、音域をとるための発声だけから考えると、反対したくなることですが。
私は一声区の考え方です。この点は、発声生理学と異なりますが、イメージです。
○難しく歌わないこと
日本人の歌い手にはすごく難しく歌う人が多いです。☆
たとえば、ベテランほどクラシックのように声量がなければ歌えないとか、難しい歌だと思わせてしまいます。そこでもうすでによくないのです。
一つには、日本人の歌が母音共鳴で伸ばしていくためです。つまり、体や息が足らなくなるし、ひびかせ方がポイントとなってしまうからです。棒読みから棒歌いになっているのです。しかし、声のよさ、ひびきの美しさを人々は聞いていたのです。つまり、予定調和、ウィーン少年合唱団のような世界をめざしたのでしょう。
しかし現実に、声はいろんな感情をことばにのせて吐き出します。歌という音楽にしたところで、そこにある感情は生きています。より効果的に計算されて使われているから、作品なのです。
声そのものの魅力、それとそれをどう使えば、どう人の心に働きかけるかの効果を知り尽くしています。
そこでは、安易に発声で伸ばすことはしません。むしろ、最小の声で、最大にどう感じさせるかを示してくれます。声の場合、楽器以上に音色も使い方も自由です。だから、基準もやり方も、難しいのです。つまり、名人のデッサンなのです。
私も、ことばやフレーズでは、働きかけられます。それで多くの人は、わかってくれます。ですが、そのうえで、1曲をもって、しぜんに最高におさめられる人をもって、ヴォーカリストと呼びたいものです。
外国人の歌は、誰でも歌えそうでいて、実際に自分で合わせて歌ってみると、声が届かないとか、のどが締まっていくようになってしまいませんか。これが私の10代での気づきでした。⭐️
でも彼らがすごく簡単に歌っているのは、それを完全に消化して、体でシンプルに取り出しているからです。それは自由につくるために必要だからです。
○伸ばさず切る
日本人が思っているほど、彼らは歌っていません。伸ばしていないのです。伸ばすということは、創造できる個所を少なくしてしまいます。強く踏み込むことによって、そのあとに間ができるのです。その間のところでいろんなことをやるから働きかけるわけです。
○インパクトは声量でなく、鋭さ(ピアノの音の例で説明)
そもそもインパクトは声量でなく、切り口の鋭さなのです。
○ひびかさず、練り込む
「ハイ」というのは、基本の練習です。発声というのは、きれいに息が混じらずに響かせるように思われていますが、本当にそうでしょうか。 声をコントロールしなくてはいけないのですから、まずは、握ることです。声の芯を捉えておけばよいわけです。その芯を、外国人の歌い手はみんなもっています。それが息音として、聞こえるのです。(ヤッホー)
下手な歌い手というのは、キンキンと響いているだけです。息が浅くて、体が結びついていないのです。口のなかで音を作っているわけです。
今の10代の男の子は、たいてい生声です。口内音で作っているから、マイクを近づけても入らないわけです。
発声の原理からいうと、一番の理想は、遠くにまで通る声、聞こえる声です。それが共鳴がよい声だということです。小さくしても、聞こえる声が共鳴している声で、マイクにもスムーズに入りやすくなります。つまり、どこにも妨げられていない声だから、正しいとわかるのです。
○アカペラ、マイクなしでみる
今のJ-POPでは、マイクにリバーヴをかけまくっていますから、森のなかから遠く声が聞こえてくるような感じがします。たくさんの加工が入って、素人には、いえ私にも地の声はわかりません。
昔のものは生でストレートに入っていますから、その人の体が見えます。あまり加工していない録音のものが、使いやすいのです。
ましてやアカペラやマイクを外して歌っているものがあれば理想的です。舞台でもたまにマイクを外して歌うときがありますが、そういうときの声は生の声ですから、わかりやすいです。
今のマイクは高度な技術ですから、プロデューサが一流であれば、誰が歌ってもそれなりのものができます。その辺で、今は基準が取りにくくなっています。(機材で勝負できていたカメラマンの話は略)
○深い息のh
強弱というのは、息を深く吐いて、そこに中心、つまり芯のようなものができていくのです。だいたいは、これが拍、吐く、つまり強リズムになります。この息から声をつくるときに、息を妨げると、いろんなノイズ音が出てきます。そのノイズ音が子音であり、様々な音色なのです。
日本人は、一つの声しかないとよくいわれています。残念ながら、歌い手も同じようです。
これも、特に高音をとるのに平べったく薄い声でひびかせ、点であてる、そのため動かせないし、ひびきやシャウトにももってこれない、したがって音色もほとんどつかない貧弱な没個性的な声になるのです。日本人の若い女性の歌声は、とても似ていませんか。おかしなことでしょう。
○トレーニングをやらずにやれた人のことは、できない
きれいな声で歌える人はどこの国にもいますから、それはそれでよいのですが、声が魅力的で、もうそれを聞いてしまったら、歌がどうであろうと、その声に惹かれてしまうという人が何万人に一人くらいでしょう。でもそれはトレーニングではできないことです。
でもトレーニングをやらないでできている人を追いかけることほど、難しいことはありません。
白鳥英美子さんやカーペンターズのカレンなどの声質、これは生来の楽器そのものの性能です。トレーニングでは、できることをやるしかないわけです。そうすると、声そのものをよくするよりも、使いやすくするという基本に戻らないといけないのです。
なぜここは今のJ-POPの歌い方を教えないのかというと、日常の声レベルのパフォーマンスだからです。せっかくお金と時間を費やしたのに、カラオケでほかの人並に歌えたからというなら、プラスマイナスでゼロです。気づくということにしても、今流行っていることをやっても遅いわけです。しかし今から30年前から伝わってきたものに学んだことは、あと10年経ったとしても、褪(あ)せないのです。
○世界の一流に範をとる
私は、カンツォーネ、シャンソン、ジャズ、オールデイズを中心に課題曲に使っています。それは日本のものやロックだけを取りあげるよりも、世界中の音楽の方がいろんなリズムや発声が入っているということ、さらに時代を現実に動かしてきた何か、思想とか表現が入っているからです。
そういうものがなければ、本当に人の心に伝わらないし、残らないのです。人の心に残り、他の人にも伝えたい、後世の人にも残したいと思うから、すぐれた作品は永遠の生命を得るのです。☆
いったい歌にする必要、歌う必要があるのか、せりふで伝わることはせりふでやる。だから私はレクチャーでやり、活字で伝わるのは本やHPや会報でやる、それでレクチャーは、本でできないことをやるわけです。それを含めて問うからこそ、どう歌うかということも定まってくるのです。
しかし、文化、芸術、そして応用された作品である歌の判断は、やっかいです。アートであるから好きなファンも嫌いな人もいる。人に働きかける以上、誰かの心には入るけど、誰かには嫌われることもある。
そこでやっかいなのは、歌うということ―。
すぐれた歌を知っても、「私はその歌を歌いたくない」「そういう歌い方はしたくない」「そういう声をめざしているのではない」ということになるのです。
歌手やトレーナーの歌をすべてまねることは、非創造的な時間になりかねません。私が レッスンで最初は、歌でなく声のフレーズ、働きかけにこだわるのは、そのためです。☆
○普遍的なものをめざして
何でも同じなのですが、人間のなかで表現できるものというのは、喜びや悲しみ、人類愛とか大自然とかで、だいたいそれくらいなのです。
だから、歌詞とかメロディではなく、そこまで戻ってみることが基本だということです。そこまで戻ってやっていけば、いろんなものがとりこめるようになってきます。
今の歌は、形が先に作られてしまっているので、それをそれなりにできたところで、どれだけのものでしょう。そのなかで何も動かなくなっているわけです。もちろん、すべてではありませんが。
○一フレーズから聞きとる
自分が気づいたことがあれば、それを家に持ちかえって、100回でも1000回でもやってみるのです。最初は、その気づきのために、後には人への働きかけのために、こういうところに来なさいといっています。だから毎日でも、月に一回でもよいのです。もちろん、毎日が理想的ですが。
一人の歌い手の一つのフレーズのなかに全部のノウハウが入っているのです。それを聞きとれないことが問題なのです。もし自分がフレディマーキュリーやマライアキャリーのようになりたいと思って毎日それを聞いていたら、そうなれるでしょう。そうなれないというのはどうしてでしょうか。
体や感覚が違うこともあります。しかし、そのイメージとか、そのバックグラウンドにあるものが取れないからです。さらに、楽器そのものの限界もあります。
もちろん誰でも表向きは取れるのです。ことば、メロディ、リズムの形は、練習すればとれます。ただ、表向きの誰もが取れるところを取ることは、すでに間違いなのです。
○アマチュア感覚を脱する
アマチュアというのは、絶対にまねしてはいけないところだけを取っていくのです。プロの人というのは絶対にそこは取らないで、感覚でとり、自ら変じて正します。プラスのところだけをつないで、あとのマイナスは除いていくわけです。
だから、歌という作品を最初のワンフレーズ聞いただけでもわかります。☆
映画でも最初の5分を見たら、おもしろいのかつまらないのかがわかります。俳優などが監督をやり、自分の思いこみを入れてしまうと、長くなって切れなくなり失敗することは、よくあるのです。
映画監督というのは、それをばっさりとやれる人です。歌でも同じです。
ところが日本の場合は、たくさん歌った方が偉いとか、あとで最後に歌った方が偉いとか、そういう違う思惑があるのです。2分間を持たせられない人が10分間、歌っても迷惑なだけです。結局1曲でよいところだけ出すことが有利です。
デモテープで、10曲も持ってくるということがどんなに不利かということがわからないのです。
人の印象に残るというのは、できるだけ短い時間でたくさんのものを多くの人に与えることです。未知の可能性が最大の魅力です。
だいたい2曲くらいを聞けば、その人のキャパシティはわかります。それで全部わかってしまうということは、それ以上の魅力がないということです。
アーティストなら、この人はもっと他にもいろんなことができそうだと思うから、また次も聞きたいとなるわけです。
○マックスとミニマム
練習というのは段階として二つあります。最初は最大で最大を出していくのです。しかし、ある段階からは、最小で最大を出していくことをやっていかなくてはいけません。それはどこかで切り替えなくてはいけないのです。
○トレーニングは、キャパを拡げる
声量でも音域でも、最初は出せるだけ出しておいてもがよいのです。それも、体の原理や理想的な働き方と関係します。
しかし、バッターはストライクゾーンだけを確実にヒットにすべきで、どのようにもバットが当たるようにする必要はありません。日本のヴォーカリストをめざす人は、そういうことばかりを発声練習でやっているように思えます。ヴォイストレーナーにも多いですね。☆
間違えていけないのは、声量や音域があっても、作品になるわけではないということです。
その作品を伝えたいがために、自分の一番よいところだけしか使わないのです。作品に最も効果的にという観点から使うのです。声量も使わず、音域を下げて歌うこともあるのです。
ところが日本の場合は、声域も音量もないから、一番高い音に合わせて歌うような安易なやり方をとるのです。
○学べなくなる
トレーニングや音楽の勉強をやる前には、本質的なものが見えていたり、純粋に聞こえていたものが、練習を一所懸命やることによって、見えなくなってしまうことはよくあることです。不幸なことは、本人がそれに気づかないことです。
常に考えておいてほしいことは、ヴォイストレーニングの方法があるのではないということです。☆
声が出にくくなったとか、音がとりにくいとか、そんな一時的な現象の解決でなく、アートとして、何を滋養とするのかで、みて欲しいのです。将来、自分が柔軟に動けるようにするためのものを得ていくためにやることです。
基本がどこでどのように開花するかは一人ひとり、プロセスも時期も違うのです。
日本のようなところでは、5年や10年続けてみて、自分がどうなっていくのかというようなことは、ほとんど何も経験せずに育っています。そこで、どうしても器用な人がやれた気になってしまうのです。
1、2年でやれないと、やり方のせいにしてやめてしまう人も少なくありません。とても、もったいないことです。
役者声もそうです。仲代達矢さんも、何度も声を壊してあの声を手に入れました。しかし、そうでないタイプで大成した人もいます。平幹二朗さんとかは、声の使い方でしょう。
外国人は、生涯を通じて何を成したか、人々に届けたかということでみています。日本の場合はテーマパークと同じで、何万枚売れたかとか、何人お客が入ったかで決まっていくかのようです。
エンターテイナーとしては、動員数や売れ行きも一つのバロメーターです。しかし、皆さん自身の目的をはっきりさせていくことです。
○説得力のある声
日本の発声練習というのは、「ドミソドソミド」というようにだいたい点を取りにいきます。そこで薄っぺらい声になって、みんな同じような音色になってきます。
外国人のように一人ひとりが全然パワフルな違う音色にはなりません。
こういう練習というのは、次の1オクターブを取りにいくためには必要なのですが、ポップスのように1オクターブくらいで歌えるものに関しては、むしろそのなかで、どこでも自由に使える声を優先すべきです。体を入れた声でないと、説得力が出てきません。
○プロと接点をつける
ヴォーカルから学ぶときには、このフレーズを同じ密度で出すと、この人は7秒持たせられるけれども、自分は2秒しか持たないとか、あるいは同じ7秒を伸ばしたら、この人は声に厚みがあるけれども、自分のは薄っぺらくなるとか、そういうギャップを見ていくことです。
そういうイメージを自分のなかで持つことができれば、だんだん体や感覚というのは変わっていくのです。
まねするのでなく、入り込んで感じて変わっていくことが大切です。変えるのでなく、変わるのを待つことです。
私の歌い方はこうだから、声も違うし歌も違うといっていたら、接点がつかなくなってしまいます。
○まねてはいけない
日本の歌の勉強の一番よくないところは、だいたい売れた人を見本として、歌い方、個性や雰囲気、情感みたいなものをまねてしまうのです。これで演歌とかシャンソンは、よくなくなっていきました。
とってはいけないところをとるからです。歌い手とお客とのなかで成り立っているもので、ある時代に応用されている例の一つにすぎないからです。
皆さんがやるときには、息とか体は同じように働いていても、出てくるものは違っていなくてはいけません。違いを発展させるのです。☆
感覚が麻痺してはいけません。今、聞いている人たちの心に対して、表現として出てこなくてはいけないのです。
○日本語でない発声ポイントをつかむ
たとえば外国人だったら、ことばのところでそのまま歌い出していきます。要は、あとで自由に動かせる方が基本としてはよいわけです。
口先で作ってしまうと、そこから先は動かすことができなくなります。
ただ、カラオケみたいに、まとめて形として歌うのであれば、それでもよいのです。
トレーニングのプロセスにおいては、そこで自分の表現が出せるように、基本のことをやっていくわけです。「アベマリア」の「ア」や「リア」などは、より母音の深いところをとっていくのです。これは日本語のポジションではありません。
クラシックではどちらかというと、先に上に伸ばしてから下の胸の方につけていくというやり方をとります。原調で歌うための高音域獲得が優先されるからです。しかし、のどを使わないということでは共通します。
ただポップスの場合は、のどを使っても構わない場合もあります。
要は、再現できるか、できないかということです。その人ののどが強くて、いつでも同じことができるということであれば、使っても問題はないわけです。
その辺の判断は、実際にやってみないとわからないこともあります。
役者の1、2年目というのは、体のなかに声を入れていくやり方をとります。これものどをストレートには使ってはいけないのです。
日本の歌い手や役者には、のどをつぶしている人もいるので、気をつけてやることです。
○音声の基準
ヴォーカルの上達に、基準はありません。それぞれバラバラです。昔は私も声を基準に判断をしていたのですが、最近のように音響技術が進んでくると、判断基準を若者の耳にも応じて変えるところも必要です。
私は音声そのものにある感性や働きかけでみます。☆
要は、個性、売りものというなら、トレーナーができないことがやれるかどうかという判断です。トレーナーというのは器用ですから、他人の声や歌をまねることくらいできます。
そこでできない何ができるかとなると、その人の音楽性、音楽観になってきます。声の違いではない。作詞作曲なども、声の使い方での力にはなると思います。
日本の場合は、それに対しルックスやスタイル、若さなども有利です。しかし結局は、総合的なステージ力ということになります。
○耳の衰え
最近の私のレッスンでは、歌をどう聞いていくかというイヤートレーニング、表現や舞台に何が足らないかということに気づかせるため、どういう教材を放りこむかというベースのものを入れる方に時間を費やしています。
私以前の人の若い頃は、ラジオを聞きながら、歌詞を書きとめ、イヤートレーニングがなされていたのです。最近の人たちは目で見ているだけで、耳で聞くことをやっていないのです。真剣に聞いている人は、あまりいません。耳の力が弱いのです。
英語の発音がよくなったといっても、口先での発音がよいだけで、プロのような柔軟性はもっていないわけです。
私は、 レッスンで、フランス語もイタリア語も、ポルトガル語、スペイン語なども使っています。そういうもので耳と声を扱う器官の柔軟性を養うためです。
さらに日本語をつけて歌っていく。すると、それなりに感覚を移動させなくてはいけないし、体で足らないものもわかるわけです。
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