鑑賞レポート1 746
【エルトン・ジョン】
何を人々に届けたいか(どういうステージを創りたいか)不思識な舞台だ、宇宙をイメージしたんだろうか。ピアノ弾きながらだから座っている訳だけれども握り拳つくりながらだ。歌の世界に入り込んでいる、ということか。しかしピアノ弾きながらどうして歌えるんだろう。踏み込む、ぬくののはっきりした弾き方だから分かり易い。鉄琴の音が美しい。タンバリンの人が鳴らしている間ずっと左手を上げていた。ニコニコしながら、イイナ。しかしピアノ弾きながら歌ってもの凄い力仕事じゃないだろうか。下手な20代のそれより体ごとやってる。席がすごく離れている人だって相手する訳だ、その熱気が演じ手の暑さが伝わるんだけ。熱いものがあって初めて伝わるか。伝えたい熱いものをもっているか。それが最初で最後。泣くギター。弾き手は恍惚状態だ。あれでなくっちゃ駄目なんだろう。音の世界に入り込まないと本当の喜怒哀楽は出てこない。入ったから表現されたギターが泣いて聞こえる。
エルトン・ジョンがこんなに激しく歌うなんて。マイクに口付けてる。息の音がした。息を吸っている気配だ。しかしあんな大音響の中で自分の声が聞こえてるんだろうか。でも、聞こえなきゃ駄目だ。メリハリのある歌い方をする人だなぁ、ピアノも。音程が動いても、低→高、動いてもポジションが同じだ。響き方が同じ、いつも腹で支えているのがわかる。観客席にあんなに人数が多いのか。目をつぶって歌っているが、時々客席を見ている。あんなにお客さん喜んでいる。お客さんを喜ばしてあげている。曲の構成:激しいノリのいい曲の後にしっとりしたもの。鉄琴のかわいい音がいいです。もう立っちゃった。座ってたら自分の体の力に沸き上がってくるものにも逆らうことになるのだろう。踊りだしちゃった。踊りながらピアノ弾いている、たたいてる、凄いステージ。持ってる力全部出し切ってる。太いテープが舞い、風船が舞い。コーラスの人も踊ってる。楽しいステージ。こういうステージもある。自分ならどういうステージを作りたいか。どうやってそのステージをしめくくるかは大事かもしれない。人々の心の中に残る。何をお客さんの心に一番届けたいか。
【ミッシッピ・クロニウルズ】
パワーと、説得力。そしてSOUL。これにつきる。あとリズム。シンプルだけど強くて、支えのある音楽。ブルース、そしてゴスペル。人々が何を求め、プルースやゴスペルを聞くのかが少しでも感じられた気がします。音と映像の力です。そして彼らの力。黒人の人のパワーは体の底から、心の底から、魂の底から湧いてくるものだなあって思うんですよね。そう思わせてくれる何かが、彼らの音楽や歌やハープには宿っていてそれがとても人間らしくも神聖なものとも感じられて聞いているこっちの人間に伝わってきます。彼らが愛しているものが何かという部分に強烈に触れられる瞬間のような気がします。彼らにとって音楽や歌はそういう高い位置のものなんじゃないかなと思いました。自分にとって音楽が深く根強く自分を支えているかどうかと、自問自答すると、まだまだです。悲しけれどまだまだです。けれど、自分にあるものを深めてゆく楽しみがあるってものです。人々が音楽を求め、何かを癒すことを音楽の世界の中に求めていっていることがとても自然だなぁという風に感じました。
ゴスペルとブルースの違いについて語っているミュージシャン・アーティストの人達の誇り高いあの顔がまたとても印象的だったし、見ていてこっちまでわくわくしてきたりして、何を求めて人がそこへ(彼らの居る場所)集まっていくのかが少しながらわかる気がします。心や体が踊るっていうのは、とても人間にとって必要なエネルギー。パワーだと思う。若返るし、心の底から、体の芯から力が湧いてくるってことはとても素晴らしいことです。フランク・フロイトのハープはまさに魂、ソウルって感じのする音色で、どうしてあんなに気持ちいい音が、気持ちのいいところで出せるんだって感じのするもので、ことばでは表現しにくいけど胸のあたりがぐっとくるようなそんな感覚におそわれます。体も勝手に動き出したくなってる。そんな状態です。
人に影響を与えられるということが、自分への快感としても残っていくだろうし、やってる方もプルースと観客の興奮と両方に触れていられる瞬間をとても大切にしてると思うし、私がこんな風に書くよりも、本人が体でビシッとわかって求めていることだろう。深い歴史がゴスペルにもブルースにもある。それが体に染みている人達の音楽はとても深いなとやはり思う。もちろんかなわない世界だ。
けど、体に何も藩みていない人にも楽しめるのが音楽なわけで、けど、提供する側には、その染みてる部分が何かの形で絶対に必要だなとも思う。どんどん染み込ませていきたいし、柔軟かつ吸収の容量の多いヴォーカリストを目指すってのはとても大きく気持ちのいい夢だと思う。少しずつでも染みていけるように、染みているものを大切にできるように。そう心がけている自分でいようと青い空や白い雲、大雨の日にも思う。
【ビル・T・ジョーンズ】
足の裏だけでとるリズムが、強く、正確だった。「重要なのは、演じている人間」だと、言っていた。確かに、同じタイトルで、それぞれ違うものが、表現できる。自分をどう出していくかが、課題なのだ。時間をかけて、自己の探求をする。これが、以外と難しい。
【モータウン25周年ライブ】
ホセ・フェリシアーノ
素晴らしいギター。何が。韻をふんでいる様なリズムの心地よさか。何とも言えない和音、そしてあの弾きおろす指のはじき方。三味線のバチの感じとも違うし。やっぱりあの手であの指で5本で出るリズムを持った音なのだろうか。
アダム・アント
「行かないでくれ」が別に大きく歌いあげるんじゃなくて、ああいう表現の中に詰まっている。張り上げるだけが能じゃない。様は想いがどこにあるか、なのか。「君の笑顔が見た「いんだ」で始まる少女を前にしての歌。人から人へ。温もり。笑っている。心が、少女の心が溶けていってる。終わって少女を抱いたのは「聞いてくれて有り難う」「笑顔を見せてくれて有り難う」。伝える、伝わる。伝わったと思える。伝えてもらって嬉しいと思える。これにつきるのでは。一つの全うしている表現。
ジャクソン・ファイプ
マイケル・ジャクソンは、他の人の踊りと何かが全く違う。見て狂喜している子供がいる。どう感覚しているのだろう。リズムの素晴らしさか。踊りをものすごく練習しているんだろう。どんな歌い方でもいいんだ。自分の表現したいものがあれば自ずと自分のスタイルが出て来て。完成度を求めた遠い道のり。踊りながら歌っている。じっとして歌っちゃいない。自由だ!それでも。それだから。地団駄を踏んでいる。これでは足りない。何が。まだ伝えきれないほど想いがある。
モータウンの音とは、の質問に対して:これだけ見方が違うんだ。そうなんだ。それでいいんだ。イメージはひとりひとりのもの。でもイメージを持っている感じている。歌う人間の想いも同時に歌っていても違う。それでいい。でも、それがなければ駄目。それぞれでいい。でもそれぞれをみつける旅をつづけていなくちゃ見つからない。モータウンの歌い手はお互いを競争相手としながらその旅をし自分を見つけてそれを差し出してくれ。
【マイルス・アヘッド】
マイルスはまず存在感が強烈だ。何をしなくてもそこに立っているだけでオーラを感じる。すごく人を引きつけるものを持っている。私はマイルスに関する知識がほとんどないのでがもっと知りたいという気持ちになった。彼は時代がたつにつれ自分のスタイルがどんどん変わっていくのだが、根底にある音楽に対する誠実さは変わらないと思う。故の変貌なのだろうか。
数々のセッションを経てそこからいろいろなものを取り入れてきた、盗んできた。マイルスにしか出せない音をもっている。多くの偉大なミュージシャンは自分の音をもっている。楽器でも歌でも。では自分の音とはどうやって生まれるのだろう。今思うことは音楽に対してどれだけ自分が誠実に向き合っていたかという事。果たして今まで聞いてきた音楽にどれだけ心を開いていたか。素直で純粋でいられたか。まわりの雑音に振り回されない強さをもっているか。この事をいつも自分に問いかけていこうと思う。
【三大テノール】
コンサートに向けてのリハーサルから、ドキュメンタリー形式で追い掛けていますが、見ているだけで、彼らの世界に引っ張り込まれて、コンサート直前には私も緊張してしまいました。三人とも、自分の最高の声を知っていてそれを自由に引き出しているところがすごいと思いました。時に、あまりに高音域で、自分に出せない声は、息だけの表現にしていましたが、声が裏がえるような無理はしないのだな、と思いました。P.ドミンゴ氏が「冷静さと集中力が大切」と言っておりましたが、重要なこととして認識しました。歌うときに、片手をピアノに置いて、片手を空中でゆらしていたかと思うと、次に両手を広げてみたり、全身を使って表現しないといけないのだと思いました。L.パパロッティ氏が「自分の好みの音楽を人に押しつけることはできない」と晴々と言ってのけてましたが、自分が納得する音楽を喜んでくれる人のために表現していれば、それ以上を望む必要はないし、潔いと思いました。感動しました。
【ミーナ】
「世界」のレベルを思い知らされる歌だった。ここまで、一曲一曲が違ったイメージに聞こえたヴォーカリストは初めてだ。有名なヴォーカリストでも“これぞ、この人の味”というところに落ちついている感じが強い人は多いし、それがあたりまえのように思っていた。曲のジャンルによる歌い分けと、単純には言い切れないのが、ミーナの世界だと思った。とにかく、一曲ごとのここで言う“取り組み”としてこなしている要素が、あまりにも多いのだ。全ての曲に共通していたのは、その歌声にリズムが宿っているのを感じさせるところだろうか。
ミーナの中には、年齢も性別も、国籍さえも様々な歌の数だけの人間が住んでいて、彼女の歌う時、その人間達は彼女の姿を借りて、それぞれの歌の主人公として物語っているように思えてしまった。私にとっては、理想とも言えるスタイルだ。ミーナの一曲にかける情熱・愛情の深さが伝わってくる。カラー映像の中で、彼女の心が、とても暖かいのを感じた。冷たい心であんな風には、とても歌えない。究極的な言い方になってしまうけれど、彼女の歌の背後には、愛が満ちていると思う。彼女は、自分の満足のために歌っているのだと思った。ミーナは、今の私に足りない物を、たくさん教えてくれたし、それを身につけたい、という気持ちを起こさせてくれた。
【ベット・ミドラー】
高校の初めの頃、ローズの主題歌が好きになって映画を見た。当時の私にはベッド・ミドラーが歌うロックやブルースはどうしても理解できなかった。でも最後のローズが倒れて主題歌が流れるラスト・シーンだけはすごく心に今でも残っている。
そして久しぶりに映画で流れる歌を聞くと、なんだか初めて見るような、開くような新鮮さがあった。ジャニス・ジョプリンをモデルにした映画といわれているが、ベッド・ミドラーはジャニスにひけを取られていない。彼女は彼女なりの個性とパワーを思いっきり歌と演技にぶつけていると思った。ローズというシンガーの役をしているのに、もうベッドミドラー本人にしか思えないくらい役に入り込んで熱演している。さすが、映画界でも音楽界でも活躍している大物ぶりをこのころから発揮していると思った。いやはや、あのエネルギーは一体どこから来るのだろうと考えてしまった。彼女の熱狂的なライプとエンディングのギャップがあって主題歌がすごく生きている。言いたいことは全て“ローズなんだ!"(主題歌)とこの映画は語っていると感じた。
すごかった。ベット・ミドラーの息の量は半端じゃなかった。それを支えるには、驚くほどの体の力が必要なはずだ。でも、そんな客観的な分析で割り切れるものではない。まず第一に心の底というより魂の内からの叫びがある。しかもこれは、演技。であるのだ。ペット・ミドラーはヴォーカリストか女優かは知らないがあれほどのパワーには恐れ入った。
しかし日本人が女性のあれほどのパワーをみせられても観客として引いてしまうかもしれないと思う。日本文化の中の女性に対するイメージ、たとえば、おしとやかな大和撫子のような、とは、大きくかけ離れているからだ。それに特に男性は、女性のあれほどのパワーに対抗できる人など、そうはいないはずだ。私も途中画面の彼女の迫力に唖然としてしまった。それでも彼女の何か伝えようとする気持ちは充分過ぎるほど体に伝わってきた。
【ドメニコ・モドゥーニョ】
ドメニコ・モドーニョが話しているのを聞いたとき、「一体いつ息継ぎをしているんだ。」と思った。ことばは何を言っているか全くわからないけど、その音の流れはわかる。話しているだけで歌を聞いているようだ。イタリア語の歌の訳詞(日本語)をみるとたくさんのことばが並んでいる。日本語とは一音いえることばの量が全然違うのだ。日本語もイタリア語のように歌えないだろうか。ことばをたくさんつめると早口にならざるを得ないけど、それを大きなフレーズの中にうまくつめこみとにかく外国語を知るということは日本語を知ることにつながる。世界の本物の歌からみると日本の歌というものは違うジャンルではないかと思ってしまう。全然違うのだもの。メロディはあってもリズムも音程もつかまえているのは歌い手だ。そしてことばが流れていない。強くしたり、弱くしたり伸ばしたりしていてもことばの終わりは必ずとまっている。普通に話している声をより強くしたり弱くしたりして表現しているだけだ。ことばとことばの間で音は聞こえてこないけれど、音楽は続いている。歌い手の表情をみればわかる。一つの世界を自分でつくっているのだから、一曲終わるまでその世界は途切れることはない。歌っているときだけが歌なのではない。全身で一つの世界を伝えようとしているし、彼は体での表現がとても大きいそれが歌を大きくみせる理由の一つになっているのかもしれない。歌を大きくみせることが必要だと言われたことがあるけどどうしたらそうみえるかはまだはっきりとわからない。
彼の場合は声量があるから、それだけで大きく聞こえるのだけど、声量がない人が、大きく聞かせるには体の表現が大切なのかもしれない。ギターの弦を簡単そうに弾きながら歌っていたが、その指先のリズムは正確かつ見入ってしまうものがあった。正確なだけならおもしろくも何ともないのだろうけど、それだけではなく躍動感みたいなものまで感じられた。彼は指先になんて集中していないそれは体にしみついたしぜんなリズムで、彼が表現しているのはその歌の世界だけ。表情で声で自分の世界をつくっていた。
それと結構速いテンポの曲の中で、歌の合間に(ことばの間で)「ハッ」というかけ声のようなものが入っている曲があった。その「ハッ」という声のヴォリュームのあること。自分の「ハッ」とは大違いなのである。いろんなプロの曲を聞く中で「ハッ」とか「フーッ」とか短いことばのヴォリュームの違いを感じる。そしてそれは、ヴォリュームだけの差じゃなく、その一つ一つの音がとても魅力あるんだ。大切なのは一つひとつのことばのヴォリュームと表現力。
「ヴォラーレ」を聞いて想像していた通りの人だった。スケールの大きな感じの声に似つかわしいヒゲを生やした陽気なおじさん。初めて画面を通して見た彼はそんな表現がピッタリだと思った。ステージやセットなどはジャンニ・モランディのものと似ていたのできっと同じ頃なのだろう。この頃の映像はイタリアらしい陽気な感じと遊びゴコロがあって見ていて面白い。でもやはり驚いてしまうのが彼らの声の凄さだ。話していると思ったらいつの間にか歌っていたり、高音の部分になっても声が太いままなので、ヘンにカッコつけて「歌をうたう」というのではなく、自然に歌をうたっていると感じる。しかも、メロディーがきれいでスケールが大きいので、聞いていて思わず感嘆の声が出てしまう。ライブステージでは彼の力強さと陽気さ、そして大人の暖かさのようなものが出ていて、モランディとは又違った魅力を感じた。個人的に彼のような太くてストレートな声質は好きなので、とてもよかった。
【バーブラ・ストライサンド】
女優らしい構成と、よく練られたステージはまるで、一人ミュージカル。“洗練”ということばがよく似合う一流のステージを見れてとても良かった。ストーリーがあって、セリフを表現力豊かに話しているかと思えば、いつのまにか音にのせてメロディアスになり、自然に歌となってゆく様見事としか言いようがなかった。
感情の入り具合がちょうど良い感じで聞き易い。全身に神経がいき届いており、決して無駄なところがない。それだけ見る者に飽きさせず、欠点を(荒)をみせることのない完全なステージだ。ことば以前に、息の中に感情が入っていて、息吐きの感じだけでも表現が成り立つことを感じた。ことばの意味はよくわからなくても、表現・動作そして声の音色で充分感動する。流しているようでとても表現力のある“追憶"他、座ったまますごく息を使う歌を歌ったり、ラストでもあれだけ“サムホエア”を歌うことができるパワーにもとても驚いた。自己主張をラストでしっかり行うところなどは、人間として一人のアーチストとしてのあるべき姿を表している。とても新鮮に思えた。
バーバラの言うように「芸術の基本は感性、技巧は感性で裏打ちされていなければならない」のだと思う。やはり表現はそれ自体は表に現れている“結果”なのだが、その出処の心の部分に裏打ちされていなければ、相手には伝わらないものなのだろう。いやことば自体にパワーがあるので何かは伝わるだろうが、自分の考えていることはその通りには伝わらない。
今のぼくにはわからない。しかし、結局は人間の体で何かが起こっていることが伝わっているはずだ。アーティストたちが魔法を使っているようには見えない(使っているものもいるかもしれないが、そんなものはその場限りのまやかしだ)。ほくと同じ人間の体を持った彼らが、彼らの体を使って何かを起こして伝えているはずだ。心の部分の裏打ちは、心のきれいさにかかってくるのだと思う。
バーバラがスティービーワンダーのハーモニカを評して「魂の響き」と言っていたが、心のきれいさなくしてはできることではない。そして「魂の響き」を形にする技巧があって、初めて表現となる。心を磨き、体を鍛える、そして心と体を一体化して使う。これだと思う。最後にバーバラが言った印象的なことばを記して終わりたいと思う。「芸術は生きているもの。人とともに成長するものです。」
[ジョルジュ・ムスタキ]
歌い終わった後、司会者が感想を言っていた。たとえば、アリアを聞けば、“叙情的だ"とすぐに感じられるけれど、彼の歌は淡々とボソボソっと歌っているだけに聞こえてしまう。あまり盛り上がりがなく、表情も無表情ではないけれど、変化が少ない。けれど、彼の歌には、何かが入っている筈なのだ。風貌から、彼が仙人のように見えた。彼は、人生の中で、いろいろな経験をして、怒りや不安、悲しみや喜び、そして人を愛する気持ち、そういう諸々の感情を客観的に見ることができるというか。彼の静かな歌い方はそんな感じだ。感情を抑えているのではない。遠い目をして、昔を懐かしむかのように、又、第三者的に歌を語っているかのようだった。けれど、とても自然で、ことばをころころと転がしている様でもあった。これが叙情的というものだろうか。
彼とは、とても同じ呼吸でできなかった。ただ、マイクからかなり離れているのに、しっかりことばが聞き取れるし、何げなく語っているようでいて、リズムが崩れずに流れていく。この、ちょっとアンバランスな感じは、もう“味わい”としか言えないんじゃないだろうか。こういう感じは、よくわからない。自分が歌うのだれば、やっぱりあんな雰囲気が出せたらいいなとは思う。なんとなく、漂ってくる香りのようなそんな表現なのだろうか。こういう歌い方こそ、難しいのでは、と思った。どんなに思い入れの強い曲だって、全てを強くやる訳にはいかない。落ちつかせる部分があるから、強い部分が引き立つ。全体的に静かな曲は、聞く側も落ちつけるから、歌う側としては、やっぱり落ちつきを大切にして、その中でことば、その背景、浮かび上がってくる情景が作る雰囲気をツンツンと突き出るものが無く、じわじわっと包み込むような感じで、まとめていくこう考えると、静かに歌うにもパワーと精神力が必要だなぁ。ジョルジュ・ムスタキも、そんなパワーの元に、歌っていたのだろうか。シンプルなギターの弾き語りがいっそう“そこはかとなく漂う”感じに手を貸している。歌詞をボンとそこに置いてしまって、残りの空間を(私ではどうにもできないような間を)作り出して、ことばの余韻でもたせてしまうように思えた。
バーバラ・ストライザンドは"The Way We Were"のヴォーカルと、女優としてのイメージしかなく、あんなに舞台などでも活躍してきた実力派だとは知らなかった。鍛えられた歌声だと思った。音楽に対するこだわりがとてもハッキリと打ち出され、彼女の歌い方が、クセがなくて素直な感じがしたように、表現もストレートで彼女の人間性の表れじゃないかと思った。歌うことが幸せ、自分の大好きな世界で、目一杯やりたいのよ!そんな気持ちが伝わってきた。魂の響きだと言っていたスティービー・ワンダーのハーモニカをちゃんと聞きたいと思った。彼の姿勢も、素晴らしいなぁと思った。
【ジュリエット・グレコ】
ことばは言う人のものになっているからこそ聞いている人の胸に深く入り込んでくる。何か伝えたいことがあって、それが棒読みになるなんてことはありえない。自分の心の中から出たことばだからこそ声だっていろんな色を持ってくるんだ。
彼女の歌は全て自分自身のことばだろうけど、人の歌をうたおうと自分が歌の世界にすっぽりとはいらなければ伝える歌は歌えない。ことばってたくさんあるけれど自分の口にしたことのないものの方が多いんじゃないか。日常生活のコミュニケーションで必要なことばって少ないものだもの。それに必要なことばの中でさ自分のその時の気持ちにぴったりあっているかどうか疑ってしまう。自分の感情をひとつのことばであらわすなんて本当はできっこないのだけど、伝える為にはそのことばは何なのか真剣に考えなくてはならない。
彼女だけではなく世界のプロは皆、役者的な要素をもってる。歌の世界に入り込むというのは技術ちうより自分の気持ちをどこまで高められるかだと思う。自分が入り込めない原因は何だろうと考えると、ことばが完全に自分のものになっていないから伝えることに意識が集中しない。表現する事より、声やことばの方に気がいっている。そうなってしまうと歌う意味なんてなくなってしまう。ことばを自分のものにすること。自分の内からわき上がる感情とともにことばを吐き出すこと。
彼女の動きは大空をはばたいている鳥のようだと思った。そして視線はいつもどこか遠くを見ている。表情がこわばっているけれど体が動くなんてことはあり得ない。自分のステージを思い出すと表情も動きも固いと思う。ちっとも自然ではない。結局これもことばが自分のものになっていないから。いろんなことばを使って他人とコミュニケーションしているし、自分の気持ちを伝えたりしているけれど意識して同じことばを言ってみるとそのことばを本当に知っていたの。と自分を疑ってしまう。
何度も何度もひとつのことばを伝えようとしているといつの間にか自分の口の動きとことばが一体化してとてもすんなりと出てくるようになる。役者の人が本番でセリフを忘れる為に何度も何度も読み込むというのと同じなのだろう。歌詞のことばはみなとてもわかり易いのだが彼女でなければ出てこないようなことばがたくさんある。
自分の感情を表すのにどういうことばが一番あっているかということに、どこまでもこだわるからこそ自分の表現ができるのだ。何かを伝えたいと思えばことばに対する感覚もするどくなってゆくはずだ。たった一つのことばが彼女の口から出るたびに聞いている私のイメージが広がってゆく。自分のことばとは一体何なのかすぐにはわからなくとも生み出せるまで考えていきたい。
【シャルル・アズナブール】
彼の歌は、とにかく自然体で“歌っていますよ、ハイ、うたってるんですよ、どーだ!"などという、外形のラインが感じられない。今私が最も欲している要素だ。私は、いつもやたらと構えてしまう。シャルルは強い表現をしている時も、ツンツンと尖っていなくて、柔らかい感じがする。音色だけであんな感じになるのかな。ちゃんと息が通っているから、ゴチゴチにならないのかなぁ。
私はよく「もっと優しい歌い方をしたら。」と言われる。曲のイメージの捉え方もあるけれど、今のところ「大きくやる」ことの手段(意味)として、たった一つのやり方しかわからないでいる。堅さが表面を固めてしまう。音量をある程度だして、フレーズも大きく作った上で、優しさ、丸さ、穏やかさ等を出すというのは本当に難しい。自分で無理に欠けている圧力を解放してあげなければ、シャルルのような自由な表現はとてもできそうもない。フレーズの作り方にしても、音色にしても、体のコントロールと気持ちの余裕が先ず必須という気がした。
彼があまりにも演技派なので映像を観ているとついついそれに乗せられているんじゃないか。と思い、ラ・ボエームは目を閉じて聞いてみた。語っている。ラ・ボエームのフレーズは何てさりげなく、ポンと吐くように、けれど胸にちくっとくるような切なさが残る。目を閉じていても、観られる歌だと思った。彼は、根っからのロマンチストなんだな。こういう感じが好きな人にはすっと、ツボに入り込むようでたまらない魅力だろう。観ていて、"よくやるなあ"などと思ってしまったが、こう思ってしまったということは、シャルルの魔術にひっかかってしまったということか。
【ロマンティック・ヴェルディ】
形・型じゃないものが残るはずむ様なイラスト。いつ見ても気持ちがいい。
セビリアの理髪師
高い音をアーッ張り上げたとき、こんもり丘の様な舌が見えた。舌は下あごにベタッとむしろくっつけるんじゃないのか。どういうことか。上唇を歯にかぶせている。あれは何か意味が理由があるのだろうか。早口ことばの様によく動く口。練習してるんだ。
蝶々夫人
鳥肌が立つ。何故。その意志のある声に。その感情が宿る声に。意志があるからそう聞こえるのだろうか。感情が満ちているからそう聞こえるのだろうか。そう聞こえないときは意志がないからか。意志があっても表現にまでつなげることができないこともあるだろう。それは何故。意志を掘っていかないから。表現につなげようともがかにから。何がどう違うのか。
カルメン
あんなに音量あまりないままズーッとのばして一定の音。フラフラせず。強い腹。
アイーダ
おもしろいバレエの踊り。男の人もヒラヒラするスカートみたいのつけているのもおもしろい。こういうオペラもあるんだ。オペラの核をなすものは何なのだろう。
トゥーランドット
ファミー(ア)。「ア」のあの柔らかさは何。素晴らしい!圧倒的な迫力。歌い終わった後、一瞬聞き取を抱く様な抱かれる様な。自分を抱いている。
フィガロの結婚:表情豊か。オペラでも語っている様に歌う人いるんだナ。喋っているみたい。相手に。
ラ・ボエーム:心が溶けていってる。ジョールをとった。腕に抱かれ息を引き取るために帰ってきたとは、何と皮肉な。病い身であるならそれだけでも幸せと思うべきか。でも愛し合う2人が。可憐なミミ。帰って来られたことを確認している。可憐だから好きにならずにいられなかったのか。爪のあかでも煎じて飲めば可憐になれるだろうか。なりたいのだろうか。正反対のものに惹かれるっていうあれだろうか。どうもひっかかる。
カヴァレリア・ルスティカーナ
シチリアの人の燃える激情がぶつかる。教会の中で、神の前でさえ人間はこうか。罪深さ。
トスカ
前屈姿勢でよくあれだけ声が出るなあ!しかし、喋っているみたい。音量小さくてあれだけ響くのか!何故。腹で支えてポジションで響かせているか。そうか。
リゴレット
4人の掛け合いが楽しい。あれは台詞というのか歌というのか。音と音の切り方。フッと。
トゥーランドット
感情を完成された声で決まった形で表現している。うねる様なみんなの声。人間を知らないとオペラは歌えない。形だけが前に出ちゃわないか。ポップスは。同じ。形だけじゃ心に残らない。残したい!!!どうやって。(一つの形をとりながら豊かに語りかけてくれるオペラ)
セビリアの師
いい声だなあ!どうして働きながらあんなに大きな安定した声が出るのだろう。圧倒的!
蝶々婦人:何と柔らかく出てくる声!
カルメン
あまりにもさり気なさすぎて、この人がこの声を出していると思えない。なぜか。さり気なさと素晴らしさはあの迫力をもちながら同居できるのか!何とたっぷりした声!
アイーダ
本物の馬が登場したり、何とオペラは大がかりで楽しいのだろう!笑っちゃうほど!基本的に楽しんでやっているのではないだろうか。あれもやってみよう、どうせやるならこういうふうにやってみようとか。人数、舞台と歌、オーケストラ、すべて。対極にアカペラでたった一人でつくりだす、どういう形のポップスが確かにある。そいう凄みがあったのか!すべてを声に表現にのせていく。すべてをうけおうということか!わかっていなかった。おそろしさと楽しさと。自分の思い通りにできる。思いがどこまでどういう形であり、それを伝えるための体、技術があるのか、ということか。思いのないところに表現は存在しない。思いが存在するときとは。たとえは考えたとき。じゃあどういうときに少なくとも自分は考えるのか。ショックを受けたとき、感動した時、喜怒哀楽のとき。しかし心を柔らかくもっていないと文字通りには心が反応しない。心を柔らかく保つには。謙によくみることか。わからない。そうありたいと思いつづけることか。わからない。
トウルーランド
氷のように心を溶かす愛。なぜ賭けられたのか。歌い終わった後の感動のような表情は誰に、何に対するものなのか。
フィガロの結婚
大きな目!あまりにもさり気なさすぎてあんなに大きな声を出しているように見えない。ああいうふうに間近に歌われた人はどんな思いがするのだろう。
ラ・ボエーム:イーゼルにさわる彼女。確認する彼女。戻ってきたことを、彼の元に。ああ!うだうだ歌ってないで早く抱き締めてやればいいのに!エーイ、まどろっこしい!やっと手をとった。あーよかった。極みへ!何と可憐な所作のミミ!私と全然違う!年も違うか、ハハハ。
カヴァレシアスティルカーナ
シチリア人の激情!演じている!行ってみたい!
トスカ
美しい人!女優みたい。
リゴレット
すごいオッパイ。何だあの声は、背の高い女の人の声認識の外にある。
トゥーランドット
この世のものとも思えぬ美しさに挑むとはどういう意味か。高らかに鳴らすドラは何か。何への出陣なのか。何にひざまずくのか。オペラで背景を理解しないで、たとえ感動は確かに存在したとしても、送り手の伝えたいものに限りなく近づいていくことができるのか。自分が伝えたい歌に、歌の前に伝えたい背景がある時、背景をまず伝えるところから一つの歌が始まるのかもしれない。そういう形の歌もあるのかもしれない。
【サンレモ音楽祭】
何故、イタリアに、ミルバがいる、ミーナがいる、ビルラがいるのか。同じ時代を確かに生きている。でも、同じ一つの映像の中に納まっていると何か不思議。ステージで競い合っている。これからの人が順番待ちで十字を切っている。どこまでいっても同じだ。競い合う。競い合う意識でやっているか。違う。本当か。
性分。本当か。自分と闘うことだけ。闘っている、と言えるか。何故言い訳するのか。まだ自分が何をすべきかわかっていない、というのか。自分を大きくしたくないのか。苦しい時代は大きくなる前。苦しみのない時は留まるか後退するか。明日につながる今日を生きることが最大のこと。後悔しない。そして他者(ひと)が教えてくれる。
ビルラはやっぱり別格じゃないだろうか。他の人は同じ迫力を体全部使ってやっているのに、ビルラはただ立ったまま。どちらがどう良い悪いじゃなく、やはりビルラの体、声の凄さは歌い手の中でも凄いんだ。
強烈な髪型のミーナがいる。端然としたイメージを持っていたが決してそうじゃなかった。のどじゃなく体で。振りをつけ、口先だけじゃなく体全部で歌っている。しかし、何故イタリアでこういう音楽祭が生まれたのだろう。
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【美空ひばり】
遊びたい年頃あたりまえのことをあたりまえにすることができず、何をその代わりするかと言えば、お金をいただいて歌う。生きることが歌うこと。そこから逃げなかった。趣味じゃない。アマチュアじゃない。商売。いただくお金に見合うものを出さないと次にもう買ってもらえない。商品として考えたってあたりまえ。でも、そういう厳しい世界で、なおかつ一線で子供の時から走り続けた。どんなに苦しかったろう。でも苦しみから逃げない。トンズラしない。誇りか。信念か。親族か。わからない。でも、とにかく逃げなかった。何度も何度も逃げたくて何度も何度も踏ん張った。そこにその人それぞれの理由がある。時代が滞ることを許さない。ゆずらない所はしっかりと握り、でも、新しいどんなものにも立ち向かっていく。
よい意味でねじ伏せ自分のものにする実力がある。実力は普段の力の集まり。この人は普段が凄い、ということだ。普段が凄い、ということは24時間歌に捧げているに決まっている。これ以上歌に使える時間はないか。工夫はこれ以上できないか。的はずれていないか。バランスをとる様心がけているか。全部駄目だ。なぜ。走り始めると足下が見えない。毎日足下を見ることを心がけているかいなかった。心がけること。朝。落ちついていく様に。ころばない様に。そして走る。そして考える。足りないことばかりだ。変わろうとすることを辞めない限り可能性だけは120%くらいある、ということだ。捧げる、捧げる人がここにもいる。いろんなところにいる。そういう人々に支えられている。いいのか。何でお返しするつもりか。返す努力をしているか。
これまで、何度となく美空ひばりの歌をTVなどで聞いてきたが、今日ほどその1曲に込められた重いの強さ、大きさ、そして彼女の凄さを感じたことはなかった。実際、ゾッとする程だった。「リンゴ追分」を聞いているときだった。最後の方の“リンゴー”が初めての方のフレーズの取り方に比べて、とても強く大きくなっていて、「あれ。」と思っていると、私の目の前にリンゴ園の情景がパーッと鮮やかに広がったのだ。この時本当にゾッとした。何だ、この力は!彼女は“リンゴー”と一節歌うのに、一体どのくらいの情熱をこめているのか!彼女は、広い音域にバラエティ豊かに対応できるとか、演技的な表現力があったり・・というだけでなく、聞く者にイメージを投げかけてくると思った。「人に伝わる」ということと、「自分がなり切っている」ということが、きちんとイコールで結ばれていると思った。
私は美空ひばりの本当の凄さをきっと分からなかったと思う。何かの苦明日で待ち時間に流れた歌で、美空ひばりがジャズを歌っているのを聞いたとき、「エッ!。」と驚かされた。はじめ美空ひばりだと気付かないほど、演歌からみごとに変身していたのだ。本当に、底知れない実力がある人なのだなぁ。
「歌で自分の全てが語れる」と彼女は言っていた。“自分の全て”なんて実際にいろいろ考えるととてつもないことだと思う。簡単に言えることばではない。彼女はもう完全に自分自身が歌になってしまっているのだなと感じた。8月の末頃だったろうか、TVで、秋を告げる花コスモスが咲いたと放送していた。“あぁ、きれいだ、かわいらしい”と心が素直に動かされ感動している自分がここにいるのにこの感動をどうして素直に歌にできないのかとはがゆく思う。今の私って、こんな風だ。簡単にことばで言えることや、目に見えることを歌で伝えるって事は、とても簡単そうに思えて本当はとても難しい者だと今回改めて思った。
【江差追分】
始まったとたん、もうくぎづけ状態、のめり込んでしまいました。はっきりいってすごくおもしろかったです。江差追分じたい、なんなのか(多分民謡かな)見るまで分かりませんでした。そこに出てくる人達みんなが一つのことにこだわり、深く掘り下げて、勉強に頑張っていました。たかが一曲のためにこれほど努力して毎年北海道は江差町で行われる全国大会に向け、何とか本場の地元の人々に負けまいと、本州勢のがんばる姿は本当、感動ものでした。こういうすごい大会が日本にもあったんだなぁと、何かアメリカのアポロシアターで行われるアマチュアナイトを思い浮かべてしまいました。どこか通じる所があると思います。何しろ観客がすごく厳しく滅多なことじゃ拍手はもらえません。ブーイングこそありませんが、普通かそれ以下だったら全く見てもらえず、寝てしまったり、休憩タイムになったり、喋ったり、反応、ハッキリしていました。予選だけでもぶっとうし(たぶん)8時間かそれ以上やるので、見ている方もたまったもんじゃありません。それなのにみんながこの日を楽しみにしているのです。
興味深いのは、江差追分の楽譜、まさしく日本独特。いや、江差の先住民達が生み出したその記述方は、ユニークです。音程よりも息の流れ、声の流れを重視して視覚的に分かり易く、その流れが線として描かれていました。声を大きく張るところは太い線で、息の流れでビブラートをかけるところはそのビブラートの量により、ジェットコースターのスクリューみたいな回転円の代償でかかれていました。これは福島先生のいつもおっしゃられている、歌とは点ではなく線の連続である。ということに通じていると思いました。やはり「流れ」が大切なのです。
見て感じたのは芸事とは一つの事にこだわって、とことん貫き通す、毎日毎日同じ事を繰り返していく。やはり継続は力になる。
【早川義夫】
高校の校舎の屋上だろうか。制服で抱き合う二人がいる。弁当食べて多二人の女学生は食べるのをやめて凝視する。なぜみつめるか。抱き合う二人とも哀しい。お金のやり取りをする前から哀しい。見つめる二人は見つめながら犯されている様なもんだ。抱き合う、という表現を目の前につきつけられている。グッサリと本人が意識しなくても深く刀は入り込んでいる。「なぜそんなことするのよ」。
善悪、価値判断はおき、第三者とはこんなに薄っぺらなのか。抱き合う二人は現場だ。血を流し精液も流れたかもしれない。それを各々の身にひきうけてだ。第三者。現場の当事者。現場を知りもしないくせに、わかろうともしないくせに語るな。これが自分が福島先生から注意をうけたことの一つの様な気がする。指摘されたその時はあまりよくわからなかった。でも逆に現場を離れた第三者の眼というのは存在しないのだろうか。むしろ現場にひたった第三者の眼というのは存在しないのだろうか。
早川義夫はマイナーが好き。マイナーが感じる、という。悲しいのがいい感じで、「悲し「いね」って言うとわかり合えた気がするという。「悲しい」言いたいことはこれなんだ、と。言いたいことは一つだけだ。早川義夫の場合は「悲しい」。私の場合は。それが歌う一曲の中に言いたいことはこれなんだ!と言い切れる様に。一つだけ。そして早川義夫は悲しいのが出てくるのかもしれないし、作ってるのかもしれない、と。だから自分も言いたいことは、さがし続けて出てくるのかもしれないし、作っていくのかもしれない。そうか。作っていく、というのは、よくわからない。歌いたい時に歌うのが一番素晴らしい、という。伝えたい、という思いも歌いたいに入るのだろうか。
【ティナ・ターナー】
彼女のようなスーパースターを観る前、必ず私は“ああ、きっと又、私は劣等感に押しつぶされるのだ”と思ってしまう。自分にできないことが多いと、何かと、自分はダメだなぁ···と沈んでしまうのだけれど、ティナのライブでちょっと吹っ切れたと思う。テキストなどで、“土台、体が違うのです”と、さんざん読んでいることを今更のように、“違う”こと、自分がそこまで今から向かっていくのだということを改めて感じた。思い悩む次元が違うのだ。そして、いい歌があっていい歌手で聞けることの幸せが、私の心にすうっと入り込んできたような気がした。素直に、歌・ステージを楽しめた。
一番期待していたのは、大ヒット曲であり、私の彼女のレパートリーでは一番のお気に入りの“プライベートダンサー”。本当に、彼女の声、歌い方、その声がピッタリと合った。名曲だと思う。この歌の主人公の気持ちになると、やりきれなくて、悲しくて、切なくてでも、そんな自分をあわれんだりせず、もうそんな境地からも脱してしまった、たった1つの夢だけを心に秘めていく。サビのメロディラインが、明るくも悲しいところは、どうしようもなく彼女を表している。素朴な心の叫びを歌う歌も、私の心を捉えるけれど、こんなおしゃれなフレーズにもやっぱり魅かれてしまう。この曲で、きっと踊るのだろうと思っていたら、特に振り付けてあるというのでなく、踊るよりも、もっとこの曲にふさわしいステージングでさすが!という感じだった。
彼女のライブにかける意気込みは、底知れないのだろう。正に、全てをかけてステージに存在している気がした。とにかく、手を抜かないところが凄い。これでこそ、世界に通じるプロフェッショナルのヴォーカルなのだなぁと、つくづく感じた。又、歌としての全体像では、細かいディテールを総合して、最終的にそのヴォーカリストの個性が確かなアウトラインを形作った曲、その全てが、ピタッとあっているものが、ヴォーカリストの心と聞き手の心をつなぐ曲になるのだろうと思った。
【ミーナ】
体と心と声が一つにならなければ歌っていてもつまらない。ことばだって自分の体が動いて出たものでなければ何か嘘くさい気がする。全身で歌うには声と息が合うまでやらなくては駄目だ。ミーナの声は深いと言うより強いという印象がある。高音なんてトランペットのような音色で一体どこから出しているのかと思ってしまう。人間の声なのだけどこの世にある音の一つとして聞くといい音だなと感じる。そういういい音を出すには自分をトランペットとかサックスだと思いこんだらいいと思う(この楽器を使ったことがないとわかりにくいかもしれない)。
かわいらしい女の子がミーナと一緒に歌っていたがその声のパワーは全然負けていないしステージに立つ人間の顔をしていて驚くばかり。声の強さが本当に凄くて自分が同じようにやろうとしたら全然出ないかのど声になるかのどちらかだ。一つ一つの音の鋭さは比べものにならない。日本的にそっと優しく歌う歌い方ではない。矢を射るように声が飛んでくる。表現の仕方も小さくまとまっていないで天に突き抜けていく感じ。この違いは絶対に口先か同胞の違いだと思う。声が前に出ていかなければ気持ちだって前に行かない。どんなに小さな声でも口先でなんか歌っていない。それに声の大小と表現の大小は比例しない。声量に関係なく、そこに何が込められているのか聞かなくてはいけない。声量を落としてそこに何か込めてゆくにはしっかりと息のコントロールがでいていなければ無理だろう。でもそういう部分を技術としてもっていなければ全部サビみたいな歌になって何も伝わらないことになる。
純粋に音というものに関心があるかないかで音楽の聞き方が違ってくる。彼女は声を使って本当にいろいろなことをやっている。トランペットを吹くかのように声を出したかと思うと感情の全てを声に込めるような歌い方をしたり幅が広い。彼女と一緒に歌っていた男性が語るようにうたいはじめた時人々の熱い拍手とかけ声が起こっていた。カンツォーネの他のでも同じ様な場面があってその反応の仕方にいつも頷けないものがあった。「なぜ拍手するのだろう」と多くの人々の感動がわからないというはがゆさがあった。だけどいろいろな音楽を繰り返し聞いているうちに、そういう歌い方をしている曲を何度も聞きたいと思うようになった。深い息にのった声が響いているその音が何だかとてもあったかくて、ひたっていたいと思うようになった。
感覚の部分は説明しにくいが自分の中で何だかわからないと思っていたものがいいもんだと感じるようになったのは、大きな変化だと思う。この時代の人達にとって音楽はなくてはならないものだったに違いない。そして彼らの歌う、聞く音楽は心のある暖かいものだったと思う。どんな時代になろうと赤い血が流れている限り人間はあたたかい心を求めるし必要とするだろう。今の時代だって人間の心の中にはあたたかいものに感じるところがあるはずだが、あまりにもつくられたものに慣らされて鈍くなってしまったのだろう。
【パヴァロッティ、ドミンゴなど、クリスマスソング集】
子供向けに作られたのかもしれないが、内容がとてもシンプルな所が、すうーっと入って良かった。出ている歌手が自然の雪景色の中で自然に動き(決して変な動き・表情はせず)雰囲気を出して歌を聞かせていてとても良い。オペラはどれも歌い方が似ていると思っていたのは間違いで、十数人の歌手が出ていたが、それぞれよく聞くとその個性声質・歌い方・伝わってくるものの違いをとても感じることができた。
ドミンゴの曲の構成をよくつかんだ歌い方をはっきり感じ、高い声の中にすがすがしさを感じた。パパロッティは一曲だけだったが、声が目立っており、つい聞き入ってしまうパワーが強くあった。どうしてそう感じるのか細かく考えてゆけるようにしたいが、まずは、彼らにはそれだけの上手さを持っているということだろう。バスの人で「クルト・リドル」の歌が、テノールとは違った表現の仕方で、魅力的に思った。とにかく皆の声のパワーがまず人を引きつけるのだと感じた。
【YES SONGS】
神秘的な雰囲気が漂い、その現実離れした空間と音に引き込まれた。その表現しようとする世界観は肌で感じることができた。特にギターの音とヴォーカルの声がバンドの音を引っ張っていて、ギターのスピードある演奏から何となくテレパシーみたいなものが出ている感じと、フレーズの気持ち良さがあり、ヴォーカルのハスキーな音自体に世界があって面白かった。
こんな音を出せるのも、しっかりしたテクニックがあるからできるのだと気付く。リズムがバシッと合うこと、ことばがリズムに合って発音できること、ハーモニーの美しさ始め、音程が上下しても均一した声を出せること、それを維持するパワーを身につけることなどいろんなことができていないといけないと思った。ギターを弾きながら太く芯のある声が出せてすごいのと、伸ばす音の多い曲で、だんだん全体的なフレーズをヴォリューム上げて、同じように伸ばして歌うのは大変難しいと思った。いろんなことに感嘆してしまった。
【リックウェイクマン】
冒頭でリックウェイクマンが日本にいたときの感想を言っていた。「彼らの言語には、RとLの区別と母音が無い。聖歌隊のリハーサルはひどかった。」日本人の聖歌隊への評価だが、日本語に母音がないのではなく、息の浅い発声で母音がないように感じたのだろう。それだけ日本人の発声は、世界的に(彼らは英語圏)みると不思議な言語に感じるのかと思った。やはり息は深く吐かねば、とうてい世界の人に伝わらない基本中の基本だ。
ライブは、物語になっていてナレーターがいた。そのナレーターは、やはり体から目一杯息を吐いて話していた。ブレスをする度に胸元が大きく動いていた。リックウェイクマンは、キーボードをとても気持ちよさそうに弾いていた。まさに音楽と一体になっているという感じだ。音楽と一体にならなければいい演奏はできないはずだ。歌い手を目指す人間も当然そうでなければ、いい歌は歌えないに違いない。
【TAKE6】
最初に驚いたのは、パーカッションまで声でやっていたこと、本当に楽器と声の差がなくわからなかった。あと、6人のぴったりと合った息、リズムがすごい。
リズム講座に出て、歌に出てくるリズム感はものすごい息が深くないとだめで、逆にある程度の声ができてくるとリズムができるのは、そういうことだとおっしゃった。以前から自分の声のリズムのなさに悩んでいてリズム通りピッタリと出しても歌に現れてこないのはどうしてかと思っていたけど息が浅かったんだと思った。息の深さ、体の使い方に注意して聞いてみると、すごかった。ほんのささやくような声でも、ものすごい深い息と、体を使っているのがよくわかった。それでいて、軽くて、速度感がある。簡単そうに聞こえるけど、ものすごいことをしているというのがわかった。自分の耳もそれが少しわかるようになったのは嬉しい。いつもRを見るとそうだが、自分の忘れていたものがよみがえってきて、気が引き締まる。
何が観客の心を捉えるのだろうと考えると、その人の忘れていた何かを思い出させてくれるからかなあと思う。その何かは、わからないから魅かれるのか。楽しさとか、包まれるような感覚がある。表現している楽しさなのか、本当に何を思い出させてくれるのかははっきりわからない。だけど、先生が、最初は数多く見ること、とおっしゃった。自分で考えるに、鑑賞するごとに、目指すところの視野も広がると同時に軌道修正をされている気が最近強く感じられる。練習をするのだけど、それは、今観ている表現するためにやっていることだ、と。まだ自分の中で、人前で表現することへの恐怖感がある。緊張して自分が出せなくて固まってしまう。そんな自分がいやになり、悔しくなりまた恐怖感としてさらにのしかかる。でも見ると、自分が本当にやりたいこと、これをやりたいんだと思い出させてくれる。
福島先生が観たものをすっかり忘れても、0.08とか0.0コンマの時限で何か残っていて、ひょんな時に出てくると、おっしやったときがあった。そのために授業をギリギリのところまでやって、出てくるものを多くする。観るときも、刻み込むように観なければいけないなあと思う。こう偉そうなことを誓ったところで、ことばに嘘が多い、自分はことばでいいこと言っても実行できない。それをわかった上でなんとか自分を持って行かなくては。
TAKE6と一緒に仕事をした「k.d.ラング」の声には驚き、鳥肌が立った。あったかい、丸い太い声、リズム感がすごくて感動した。もっと知りたくなった。あと、TAKE6、6人のメンバーが全員クリスチャンで、その考え方、アーティスト精神が何か洗練されているというか、見た目からは想像できないほど、自分の生き方をしっかり持った人達だった。「その日の気分で人を見る瞳を曇らせてはいけな「い」ということばが印象に残った。今の自分に言えることだ。他にも完璧はない。どんな時も全力で、とか、乱れた生活を送っていればいつか自分に返ってくる。とさらっと、でも、いやに真実味があるように言うから、いい生き方、考え方をしてるんだと思う。ステージにも、そういうものが出るから、人を包み込むような雰囲気、笑顔ができるのかなあ。すごい、いいものを観た。楽しかった。
【カリフォルニアスクリーミンVol.1】
全体的に言えることは、バンドごとの個性,カラーがしっかりと創られていること。「俺達はこうやるんだ」という独自性がとことん追求されているからだ。また、それを支える実力がなければ、特にこの時代の音楽界ではやっていけなかっただろうと思う。
サンタナ
ものすごく高いテンションの上で皆が一つになっている。宗教的というか潜在的な何かを呼び起こす力を感じる。ぼくも仲間に入ろうとしたがリズムを捉えることができなかった。聞くドラッグというかんじ。
ジェファーソン・エア・プレイン
不思議なコード進行。すごく開放感を放つ曲で、何が行くところまで上り詰めた曲をまとめるために丸まらない展開が僕には新鮮だった。
ステッペン・ウルフ
荒っぽくゴリゴリした音と声が絶妙にぶつかり、組み合っていて強い固まりとしてそこにある存在感。これぞロックバンドだ。かっこいいぞ。
ジャニス・ジョプリン
ここに並んだ映像の中でもひときわ異彩を放つパワ-。「ことだま」ということばがあるが、彼女は「火の玉」みたいだ。特にこのライブ映像は他にある彼女の映像の中では最も際立っまた、ベストなステージだと思う。ただただ、すごい。
クリーデンス・クリアウォーターリバイバル(C.C.R.)
ものすごいパワー、のどがちぎれそうな、ハンマーパンチのような歌。全身に浴びせる、たたきつけるようなシャウト。演奏曲もものすごく合っている。映像も時代がよく出ていて良かったが、ライブ映像を見たかった。
【ジャニス・ジョブリン】
彼女のアルバムを聞く限り、あまり強く魅かれる事はなかった。決して上手いヴォーカルだとも思わない。大好きな曲もない。でも、この映像を観て彼女という人間が好きになった。「何も考えない、感じること。瞬間と一体になる、宇宙なのよ。」ということばも、彼女なら素直に納得できる。
モントレーのあのステージは何度観ても鳥肌が立つ。“歌”が“歌”ではなくなる瞬間を観るのだ。あの大会場を真空にしてしまうようなパワーだ。「子供が泣き叫んで訴える」というのは、まさにこれなんだと気付く。話すように歌い、歌うように話す。歌の中で怒り、泣き、笑う。
「私は未だパワーだけ」と語ってた彼女に“いつか”が来なかったのが本当に残念。彼女がアレサやオーティスの表現力に関心を寄せていたのが興味深い。歌には確かに技術が必要で、しかしその技術をあやつり、創るのは「強烈な想い」でありその人が培ってきた「たましい」なんだな。
【LED ZEPPELINN】
LED ZEPPELINNに出会えたことは、本当に大きな財産になった。こんな凄いバンドを知らずに今まですごしていたなんて。今、彼らに出会えて、本当によかった。自分で曲を作ることだけに夢中になって、自分の価値観や、好みだけにとらわれて終わってしまうところだった。
彼らの名前は知っていたし、有名なStainway to Heavenは、聞けば、聞き覚えがある。彼らを深く知り得るチャンスは、幾らでもあったはずだ。けれど、私は、彼らに関わろうという気持ちすら持たずにいた。
LED ZEPPELINを見て、一番に感じたことは、彼らの音楽は、一つのドラマだということ。Queenも、そう感じたけれど、ZEPPELINとは、種類が違うと思った。もっとサイケデリックで、象徴的で、精神性にあふれていると思った。社会に対する思いや、思想的なことを感じずにはいられない。SoulfulなFeelingにあふれている。ゴスペルやソウルのように、ヴォーカルがシャウトしたり、歌のフレーズのとり方が、ジャズを感じさせたり欲張りな音づくりというかここまで複雑にやれてしまうのは、本当に本当に凄い!次の展開が予想できない、バリエーションに富んだ、フレーズが次々とあふれ出してくる曲の数々は、一曲がまるで交響曲のように、楽章に分かれた構成のようで、並のロックバンドとは、レベルというか、ランというか、もう、全然違う。芸術性が高い。よくも、あれだけの才能が一つのバンドに集まったものだ。
レッスンで「本当に凄いバンドは、簡単にカラオケで歌えてしまったり、コピーしたりできるものではない」と言われていたが、ZEPPELINは、まさにこれだと思う。素人が見たら、あまりにも差が大きいことをつきつけられる。楽器とヴォーカルが同じヴォリュームで打ち出され、各パートが一つの音となって全体をつくり上げていた。他のバンドでは、ここまでやらない(できない。)んじゃないかと思った。こういうことが、はっきりと個性といえるものだろう。
歌詞の意味がほとんどわからないので、よけいに想像力がわく。そこに、必ず物語られているものがあるのが、表現力だ。彼らの音楽には、尽きせぬ表現が、全体を覆っている。果てしなく、どこまでも秘録、深いものに思えた。「RainSong」静かで、荒涼としていて、とても寂しい。でも、穏やかさが漂っている。「Dazed and Confused」社会に一石を投じ、その波紋が広がっていく感じ。とても、Soulful。ギターをバイオリンの弓で弾くなんて初めて見た。超音波のようで、ますます切なく、無情な気分が高まる。裏切られたり、出し抜かれたりして、漠然としていた情景が、だんだん、怒りを含み、狂っていくようだった。まさに、混乱の心情、混乱の社会といったところか。人生の営みを感じさせる映像とも合っていた。
「Stainway to heaven」希望の歌と紹介していたが、とても静かで、ちょっと憂鬱な抑圧されたものを感じた。この抑圧を脱け出して、生きていくことが、希望へのStairwayなのかと思った。生きるプロサスが、つまり、死への道を歩むことが、希望と結びついているということなんじゃないかな。“ほほえみを忘れるな”と歌っているようだったけれど、メロディがとても切々としていて、自分の人生はとても人に勧められたものじゃないけれど、せめて、お前だけは幸せに生きてくれ!と言っているようだった。心に残る一曲だ。
「ドラムのソロ」ドラマーの彼は、解放を求めていると思った。彼の手が直に弾き出す音、リズムの連続は、とても大きな自然、それをとり囲むもっと大きな宇宙、惑星が浮かぶ、空間、果てしない時間を感じた。スティックで叩くと、とても人工的な音になって、人間の営みというか、戦いや祭りの、高揚していく感じがした。とにもかくにも、見ごたえのあるステージ。音楽にひたれるのはもちろんだが、彼らが歌い、弾き、叩く、その姿、指使いに魅了され、感動してしまう。本当にこれだけやってくれば、文句はない。見にいく甲斐があるというものだ。本物のライブをこの目で見、体験したい。つくづくそう思った。歌詞も確かめたいと思う。
【ABBAアバ】
歌う人間はステージでひとり立つものだ。それがグループだろうと意識は同じこと。このステージを見おわった客は一人ひとりの印象をちゃんと言えるだろう。あの人はどんな感じだったかしらなんてことは絶対にないと思う。4人それぞれが持ち味を出して自分を精一杯表現し、一つにまとまっていく。4人いてなんとか一つになるんじゃない。ひとりの力があるからこそ、その力が合わさって4人以上のパワーとエネルギーになるんだ。
女性2人と男性2人というと日本でいえば、サーカスというグループを思い出す。存在感の大きさの違いを感じる。カゲロウとアゲハチョウぐらいだろうか。日本とアメリカの観客の求めるものの違いもあるだろうけど、やっぱり声や人間のパワーは必要だと私は思う。あるのに出さないのと、ないから出せないというのは大きな違いだ。大声が出せるということは本当すごいことだよ。出そうと思えば出せてもそれを出し続けるということがどんなに大変で体が必要かということに心がうなづく。
このグループは歌を聞かせるというより、ステージをどうみせるかということを中心においていると思う。もちろん基本の力は当然もっているのだけど、歌を聞いて何かを感じとるというより決められた時間の中で、どれだけ客を楽しませ、喜ばせ、笑わせるかということに徹底していると思う。どんなステージも自分たちのやりたいものを徹底してつきつめていけば価値がでてくると思う。
4人の中の一人の男性は、それほど声にパワーがあると思えなかった。かえって女性2人の方が声のパワーや存在感はあったと思うけど、終わった後に印象に残っていたのは彼だった。それはステージでのパフォーマンスと全身をつかった表現があったから。会場に降りてきて観客の女性2人とキスをしてしまうところなんて(それも濃厚なやつを)日本じゃまずしないのではないかと思った。やりすぎだというくらいやっても受け入れる国民だからこそできることかもしれない。日本人には日本人にあった音楽があるということだろうか。ステージをやることは、一つのコミュニケーションなのだから自分が伝えたいこと、伝えたい人々というのは重要だと思う。でもそれは、自分が伝えたいことを強く出していく中で、聞きたいと思う人々が集まってくるのだと思う。聞きたくない人は当然、近づいてこない。彼らはステージの見せ方だけでなく、技術もしっかりともっている。
リズムの取り方なんて、とても気持ちよくて聞いているとこっちものらされてしまう。体がしぜんに動かされてしまうのだ。リズムって「さぁリズムをとって」といってとるものではなく、しぜんと体が動いてしまう感覚。4人の息がぴったりあっていて相手の呼吸を知っているように音をつないでいく。声を出しているというより、まるで楽器の音を出しているような感覚で音をつくり出している。ただ歌うだけではなく、いろんな趣向をこらして観客をあきさせない。何時間もあきさせず魅きつけておくということはすごいことなのだ。
このグループはパフォーマンス性が強いけれど、歌だけで何時間も観客を魅きつけておく歌手は本物だと思う。歌手にもいろんな表現方法があるからいい、悪いで判断できることじゃないけれど、歌だけであきさせないものをつくろうと目指しているわけだけど、それは本当にすごいことなのだと改めて考えさせられる。一つのステージを客から金をとってもたせる拍手をもらうということは、ものすごい影の努力が必要だ。彼らは声をはじめからもっていたかもしれない。声だけでステージはつくれない。声は手にはいると思ったうえで、何をやりたいのかということを考えなくては。自分のやり方を楽しみながら一つひとつやっていく。
【TOTO】
TOTOは、中学時代の私には、ヒーローとも言えるバンドの一つだった。兄がレコードを持っていたので、兄のいないスキにこっそり部屋に忍び込み、歌詞カードを見ながら、レコードと一緒に歌ったものだった。レコードの最後の一曲のラストを迎える時のあの寂しさが甦るようだ。今で歌詞を覚えている歌がある。カーペンターズの「Yesterday once more」の1フレーズと重なるような、思い出深いバンドだ。ヴォーカルが交代したり、メンバーが亡くなったりと、噂だけは聞いていた。当時はヴォーカルにボビー・キムボールがいた。一部の音楽雑誌では、彼はあまり評価されていなかったようだが、あの高く、ハリのある声には圧倒されたものだった。
何年ぶりかで、レコードを聞いてみた。ギターのスティーブ・ルカサーは、以前は、どちらかというと、甘い声だったが、今回のLDを見た後に聞くと、幼さすら覚えた。今は、おじさんになってしまったが、相変わらずの美しい前歯と、ちょっとハスキーさをかける声は、とてもセクシーだ。齢を重ねて、その人がよく思えてくるのは実力があるからこそだろう。彼も今の方が断然いい。口の中、というか、喉の奥の方でも音を膨めて出しているような印象を持っていた。ちょっと、ビリー・ジョエルと似た感じだ。あれが、深いポジションから出している声ということなのだろうか。
TOTOのサウンドは、全体的に品があって、しっかりとTOTOWORLDになっているのに、各メンバーが個性的に光っているところが好きだ。これでもか、というほどの各パートのテクニックと、それをまとめ上げているキーボードのデビット・ペイチの才能が本当に凄い。また、皆がヴォーカルをやれる声を持っていて、しかもハーモニーで合わせると、とても美しいところも好きだ。今回のLDでは、女性がコーラスに入っていたが、やっぱりボビーの方がいいなぁと思った(彼女らが歌えるし、味な声だということはわかるが)。ボビーのヴォーカルがあったから、数々の曲がヒットしたのでは、とも思ってしまうのだ。新しいヴォーカリスト入り、外見的には、TOTOもおじさんふうだから、少し路線が変わったかなとも思った(ボビーなんて、マスタッシュ生やしていたから)。コーラスの彼女らの衣装が、TOTOとは少し異質だったとも思う。見方はいろいろある。とにかく、あれだけ質の高い音楽性に、直に触れられる機会をもてることは、とても幸せなことだ。ステージに立つ側と、観客とが、正に一体となった、熱い熱い空間であったと思う。
【エディット・ピアフ】
解説者の声、歌っているようだ。リズムがあって。フランス語はおもしろい。歌うピアフ。首のところすごい。太い首だ。歌っているうちに首は太くなるのだろうか。生まれつきだろうか。底の底から声を絞り出している。そのことだけで、ただもうそれだけでこんなに心がつかまれるのか。心より深い。魂。魂が聞くものの魂をつかむ。魂で歌うから魂がつかまれるのか。なぜピアフは魂を感じさせるのだろう。ピアフには魂があって私にはないのだろうか。いや、ピアフの歌声に揺さぶられるのは魂じゃないだろうか。
じゃあ、なぜピアフは魂をさらけ出せて私は魂をさらけ出せないのだろうか。出そうと思っているのか。自分のうわっつらの、カッコつけてるように聞こえる声を嫌だと思い、ピアフの声を素晴らしいと思い、そういう声を欲しいと思う。まず欲しいと思っている。じゃあ出そうと思っているのか。それにはこの世にたった一人の今の自分の魂をしらなきゃならない。自分が何にどう思い、どう考えているのか。何を感じているのか。歌一曲を目の前にしてとにかく自分は何をその中で今この時点での自分として何が言いたいのか、伝えたいのか。より多く知ったから正解に近づくわけじゃなく、今のこの時点のこの身体の中にそれ一魂がある。そこをまずみつめる。何の価値基準も判断も入らない、まずそのまま。いい悪いを超えた存在そのもの。生きている今。私の魂とは。
その登場人物になりきっている「アコーデオンひき」間のとり方。「アッ」「グ「ワッ」とあの人の心の底からそうか、ピアフの声は腹の底から出ているようには私にはきこえないんだ。心の底から声が出る、魂が歌う。場面が変わって隣にいる男性がどんどん変わる。人々の中にいるとき笑っている。
デュエット。男の人は歌っていると感じる。ピアフは語っているように聞こえる。対話している。メロディをつけてじっと相手をみつめている。自分の番じゃないときも口が動いている。なぜだろう。デュエットした人の部屋だろうか。ピアフの写真が飾ってある。本がたくさんある。彼が読んだのだろうか。私より余程ひびく話し声だが、ナレーターの人の方がずっとひびいている。舞台。笑った声、息が全部声になっている。ピアニストの笑い声は普通のじゃないだろうか。全然違う。何が。ピアフの声は口先で歌っていない、のどから声が出てるというようなものじゃなく深いところから。でもサラ・ヴォーンやマヘリア・ジャクソンの身体全身を思いおこす出方とも違って聞こえる。やっぱり魂から。戦闘機。が飛ぶ。そういう時代に歌う。直立不動で。握りこぶしで。泣いている。どういうことなのだろう。役者だ。
アン・ドゥ・トワの声が素晴らしい。どこが。強い声。話す声にも芯がある。フワフワしていない。聞く人を一回つかんだら離さない。歌っているのを聞く、というよりは説得されているような。伴奏なしで歌ってあれだけひきつけられるのか。でもやっぱり語っている女優。手が歌っている。手はあんなに歌うものか。表現があんなにできるものなのか、手に。楽屋裏だろうか。凄まじい。スポットライトを浴びるステージが華やかなぶんだけ逆に落差が際立つ。しかし、舞台とはあんなにたくさんの人の前で歌うことなのか。恐ろしい。
「アコーディオンひき」の最後のフレーズで終わる。あのフレーズだけで素晴らしい。あのフレーズだけで心臓がギュッとつかまれる。それにしても、やはりなぜピアフの声は心臓をつかむのか。勘のいい人間だったのだろうか。意図していたのか。無意識に口ずさんでも口をついて出てくるものはすべてそこに魂があったのだろうか。彼女は幸せだったのだろうか、ということばがでない。それはなぜだろう。生きた。歌った。ピアフという人が確かにいた。その人の声がその人の魂が私の奥深くにギリギリと「あんたの魂は。」と切り込んでくる。
CDでよく聞く曲を、実際どんなふうにステージで歌っているのか興味があった。歌が始まるとピアフの姿にクギ付けにされた。表現するというのはこういうことかと気づかされた。声が違う。とても前に出ていて耳からのめりこまれる。でもいかにも聞いてよ、という嫌味は全然ない。そこには、真実を実感を込めて訴える素直な表現がある。喜び、悲しみ、勇気などがしぜんに伝わってくる。緊張したステージの中で、とてもシンプルだが、自分も歌を楽しみ、人へも楽しんでもらおうというサービス精神からなのか、一瞬たりとも飽きさせない空気が伝わってくる。
いろいろな人生経験からあれだけ深みのある歌が作られたのだと思う。それにしても、最愛の人が死んだときの気持ちを歌ったのがあったが、普通だったら涙が流れて歌えなくなるものを、よくあれだけ力強く歌えるなと驚いた。「歌は私にとってはけ口、歌は私を回復させてくれる。」のことばを聞いたらその理由が判った。涙などもう出ないくらいおもいっきり泣いたのだから。そして彼女はプロなのだから。
【 モーターシティマジック モータウン】
3つのことを実感しながら観た。1.アメリカの音楽が洗練されていく過程、2.息の線が体と声を支えていること、3.感情・感覚の表現力。
今グラミー賞などで観れる、まるでプロモーションビデオではないかと思えるほど、シャレた、スマートなステージやノリができるまでには、長い年月が必要だったのだなと思う。ダンサーの踊り方も、観客の手拍子も、まだ体がバラバラで、いわゆる「ダサイ」感じがする。しかし特にダンサーを観ていて皆、全身で思い切りやろうとするが故のかっこ悪さだと思う。この過程を通らなくては洗練されない。日本の音楽事情が育っていくにもこういう「ダサイ」時期は必要なのは、全身全霊で求めること、表現者はプロフェッショナルなものを提供していることだと思う。Diana RossやTemptations、Marvin Gageは、今観ても空間の感じ方が豊かで、体の開き方が充実していて、細やかな表現力ができている。
Diana Rossは他の二人と表情、瞳の輝きからして全く違っていて、あれを観た誰もが、彼女は特別だと感じ、当然ソロ・ヴォーカルとしての道を期待するだろう。言ってみればすごく単純な世界だ。誰にでもわかるんだ。逆に言えば、誰にでもわかるように表わせた人が、人の心をつかんでいくんだ。単純なことだ。でも私としては「売れたい」「人気が出たい」というのを目的にしたくない、あくまで「自分を表現したい」を原点にしたい。おかしな話かもしれないが「表現したい」から「人に伝えたい」までに私にはすごく遠い道のりがある。人への働きかけに喜びを感じられるようになったとき、もっと自分が開かれ、歌も変わっていくのだろうが、まだサービス精神などということは私には実感できない。
Temptationsの次に出た3人の女性グループのリードヴォーカルを見ていて突然その線が見えた。お腹、特に胸の辺りから喉頭までの息の柱がしっかりとあって、喉頭原音が豊かに発せられている感じがした。福島先生がよく、「Artistの息・体の線が見えてくるような判断基準を育てる」と話をされる。今までのRの観方が、表面的だったことを感じた。
TemptationsとSmokey Robinsonで最も感じたフレーズ毎に、音毎に、体の中身や空気の捉え方が変化していた。聞き方にも問題がある“よく耳を鍛える”というが、耳だけで聞こうとすると、頭で音楽を理解しようとする作用が働き、そうするとHeartは固くなって、何も感じることができなくなる。表現する側はもちろんだが、音楽を楽しむために、いかに聞く側も心と体を開いておけるかということが、とても大事だと思う。
【 R &R 】
あんなふうにロックに長くて暗い、そして何より力強い時代があったんだなぁと思いました。そして何にでも歴史があること(自分だっていきなり今があるわけじゃなくて、小さくても歴史がある)を改めて感じました。あたりまえのように存在することと、あたりまえのように存在しないもの。そこを知っていくことは深くてとても興味深いことだ。ものごとは結果ではなく経過が大事だということばもあるが、本当はよい経過にはよい結果がついてくる、ということだと思う。ロックンロールを創り上げてきた人々は常にいつでも最善を尽くしていて、目の前にある問題と壁とぶつかりながらも、決して音楽を辞めたり、捨てたりしなかった。そこに魂やパワーが存在し、人々を動かしていったのだろう。音楽の影響力を映像を見ているととても感じる。コメントをしているロックンロール先駆者たちは、その影響力の凄さを体で感じていた人たちだ。
画面に出てくるだけでその人たちの歴史が存在感として現われてくる。声の低さや渋さは、苦難や壁を乗り越えてきた自信に満ち溢れているし、説得力がありすぎるくらい。音楽に肌の色は関係ない。よいものをよいと選んでくれる聞き者がいる限り、不滅なのは確実かもしれない。音楽は人を幸せにするもんだと言っていた彼のことばはとても強くて温かい。目に見えなくてつかめないものだからこそ、より一層の魅力がある上に、なぜだか残る音楽は、人々の心から奪うことのできないものだ。奪うことのできない力強くパワーを秘めている音楽に魅せられ、支えられている人の数がどのくらいだろう。ほぼ全人類に言えることだろうと思う。
R&Rを聞いて自分の中から底から、押さえきれないような激しさが生まれていた若者たちの映像はかなり衝撃的だった。影響力の凄さに親たち(大人たち)が驚いたり、禁止したり、恐れたりするのもわからなくない。しかし、町が国が禁止するということは、笑いごとでは済まされないことだ。どんなに人を救う力が音楽に存在していたとしても、その存在自体を否定している人の数が多いと、苦労も多くあったことも理解できる。かっこいーってしびれるーって思えるパフォーマンスも角度を変えて見れば、いやらしいものとなってしまう。魅力的なものは、背中にリスクも背負っているというわけですね。何にでも表と裏、善と悪が存在する。しかしどちらを表現していくか、これこそが大事なことだと思う。裏があることも悪があることも否定はできない。けどそこに埋もれて生きる必要なんてない。歌だってどこを表現していくかってことなんだと思う。R&Rを創り守ってきた人々、世の中にあるすべてのものには長いような短いような繰り返しや苦闘がある。そういう存在を知らんぷりするような自分であってはいけない気がする。自分の歩いて来た道、歩いていく道、大事にそして誇れるものにしていきたい。
【アマリア・ロドリゲス】
アマリア・ロドリゲスはピアフとは違うけれど、同じようにことばが後から後からかぶさっていくようなものがある。そのリズムについていけない。追いついたと思ったら待ってるし、こっちがひと呼吸おいてる間にもう走りだしている。それは曲がスローだとかアップテンポだとかそういうことでの違いじゃない、とにかくつかまえられないのだ。歌が始まると、どんどん滑り出していくあの感覚は私にはわからない。ことばを言おうとすることが歌をとめてしまうもの。ファドというジャンルは聞いたことはあったけど、歌は聞いたことがなかった。
歌詞をみるとポルトガルという国の歴史や国に対する想い、生活している人々の姿などいろんなことがわかる。決して明るい曲ではないけれど、強く生きてゆこうとする姿勢がみえる。イワシの歌なんてかわいらしいのだけど、アマリアが歌うと歌詞のことばの世界が音によって、どんどん広がっていくのがわかる。アマリアのように生きてきたなかでのつらいこと、苦しいことを、歌にすることができるというのは幸せなことだ。幸せの価値観は人それぞれとはいうけれど、明らかに不幸と思えるような死に方をする人はいる。そういう人が歌を歌えばいい歌を歌えるかといったらそうとは限らない。幸せと思える人がいい歌を歌えるかと言ったらそうとは限らない。歌は歌えるけれど、人に伝えることはまた全然違うことではないだろうか。自分の経験やそのなかで感じたことを一回人生の大きな洗濯機に入れてから取り出さないと人には伝わっていかないのではないかと思う。
アマリアが「lalala」と何度も歌うところで、どんどん自分の感情が頂点に近づいていってるようにみえた。それによって、のりの悪い日本人も少しずつ盛り上がっていたようだ。たぶん私があの客席にいても同じようにしかできないだろう。世界的な歌手たちのライブで、外国の客は拍手喝采の総立ちだけど日本人はそうはならない。その違いは国民性とか気質の違いだけのことじゃないと思う。耳が、耳が違うからじゃないか。私の感動しているところは外国人とは違うところではないのだろうか。音に対する感覚でいったら外国のステージと客、日本のステージと客は同じなのではないだろうか。外国人の客の中にいて私は同じような感動を味わえない気がする。外国の歌手は日本人に聞ける耳がないということを知っているのだろうか。
ステージに立つアマリアは存在感に溢れていた。黒の衣装で身をつつみ、ほとんど動きもせずに、あごを少し上にして歌っていた。あごをすっと上にしたまま歌っていて苦しくないのかと思ったけれど、あれが彼女のしぜんなスタイルなのだろう。それに声に関しては、どんな態勢だろうと自分の声を出せるだろうから。歌うということは自分の感情を一つの世界にして伝えるだけだ。本物は皆そうだ。何の余計なものもついてこない。ことばを音に乗せ伝えるだけ。このことを教えてくれた。
【スィングタイム 】
なんというエネルギーか。アメリカ人という国民性もあるかもしれないがそんなものではなく、人間が生きていくエネルギーみたいなものを感じさせられた。ステージにいる人は自分のもてる最高の力を出し惜しみなどせずぶつけていた。考えると、生きている人間は皆、体の中にエネルギーがあるし、計り知れない可能性をもっているけれど、それを充分、使っていける人はほんの少数の人だけだ。そこにそういう違いがあるのかといえば、自分を信じることができるかということと、自分の感じたままに生きていく勇気をもっているかどうかだと思う。大抵の人は、自分の心のことばに真剣に耳を傾けないし、自分が価値あると思ってやりはじめたことを信じられなくなってしまう。このステージの上にいる人たちだって、私たちと同じ人間で気の遠くなる積み重ねをしてここまできたのだから。そういう人間だからこそ、人々を熱くさせるようなステージができるんだ。観客はステージに立っているような人と同じ生き方はできないかもしれない。でも冷めてなんかいやしない。心はステージの上も下も何の変わりもない。いろんな外国の歌い手のステージをみていると、日本という国がみえてくる。たくさんの金をかけてステージをつくり、顔にはりついている目しかもっていない人には素敵なものにみえるかもしれない。でも心の目をもっている人を感動させるステージは、本当に少ないんじゃないだろうか。日本人だって外国人と同じように歌の心はもっているし、いいものももっている。でも体の底から声が出せないために、ものすごく損をしていると思う。同じ人間として自分を出していくには、体の奥から出せる声がどうしても必要だと思った。それがないことには自分を生かしきれない。
歌っていうものは、シャンソンはフランス人、カンツォーネはイタリア人、JAZZはアメリカ人なんてわけるものではなく、人間のものだ。同じ人間が人間に共通の心を歌っているだけだ。印象に残ったのはサラ・ヴォーン。この人の場合、パワーで押していく歌手とは違って、声が音がどういうふうに動いていくのか全然予測できない。「待ってくれ-!どこに行くんだ」という気持ちで見入ってしまった。そしていつの間にか一曲が終わっていた。息の深さ、体の余裕が表現や仕草に感じられる。首がものすごく太かった(ただ肉がついているだけかと思ったがそうでもないらしい)。人間の声かと思わせるような低音がでるくらいだから、体も普通の人とは全然違うのだろう。私の今の体からあんな声が出たら驚いてしまう。
高音から低音に移り変わるところなんて聞いていると一瞬、山の上から飛び降りた感覚になる(夢の中で山から落ちたからイメージでわかる)。歌っている本人はどんな感覚なのだろうか。息が流れ続けていてもことばは途中でとまる。一曲とおして気持ちが吐く息となり、続いているということだろう。自分がやろうとしたって息にしてもイメージにしても全然違う。声はもちろんだけど、表現力が本当に豊かだ。表情、ジェスチャー、会話、すべてにおいて見ている者を引き込んでいく魅力がある。特別講座で表現力を学んだけど、ステージに立ったときオーラを発するぐらいになるためには、歌もそして人間的にもその人がいなくてはと思われるくらいにならないとでてこない。今日これをやったから明日こうなりますという世界じゃない。終わりのない道を一歩ずつ進んでいくだけだ。
【ジョージ・マイケル】
ジョージマイケルは、声がろうろうとでるわけではもちろんない。しかし自分が一所懸命、ステージを楽しんで観客も目いっぱい乗せようとしている。また伸ばしているように聞こえてもよく聞くとちゃんと切って、すぐにもとにもどる。エルトンジョンもシャウトしていても、次の瞬間にはもとにもどっている。意識しているわけではないだろうが、息を吸うのがとても速い。一つ出したらすぐ次に備える。
先生がいつも言っているのは、そういうことなのかと感じた。
キムワイルドの息の深さというのはすごいと思った。押さえて歌っているようなところでさえ、今にもこぼれてくる何かを感じる。大きいかめの水が溢れてこぼれるようを想像した。そしていざ歌い始めると太い一本の線のような息が見えるような気がした。ボーイ・ジョージの言っていた“どんなに苦しい病気でも歌があれば最高”と言っていたが、今の私にそれだけのものがあるかと考えさせられた。
【RUSU BROWN】
ギターを弾く指が踊っていた。歌ももちろんいいのだが、その指に目がいってしまい釘付けになった。あんなふうに人間の指って動くものなんだと不思議だった。リズムが体の中に入り込んでいる人の動きは、魅力いっぱいあふれている。自分のリズム感のレベルが足元にもおよばないことがわかる。体の中に入るどころか表面にとどまっているに過ぎない。この人のリズム感だって考えてやっているものではなく、心と体が一体になって動いていくものだと思う。体の芯からリズムを生み出している人は生命力にあふれている。それと彼の基本のリズムのとり方はドラムと同じだった。とても細かい拍でリズムをとって足で細かいリズムをとり、指で自由自在に弦を弾く。彼もまたドラマーだった。すべて基本があってその上に初めてその人らしさが出てくる。基本があるからこそ、そのうえに広がりをもっていくことができる。可能性を広げるためにはどうしたって揺らがない基本が必要だ。RUSU=BROWNという女性ヴォーカルは、その体だけで存在感にあふれている。
【ビル・エヴァンス】
悲しいことに私はビル・エヴァンスを知らなかった。ジャズにも興味がなかったし、洋楽にも興味がなかったから。本物を聞いて理解できない、いいと思えないというのならたくさん聞き続ければいいと思うが、知らないということは大損だと思う。
ビル・エヴァンスは人に教えるときヒントをあたえるだけと言っていた。発見する喜びを奪いたくないからとも言っていた。そういう真の喜びを知ることなく死んでしまう人もたくさんいるというのは悲しいことだ。
【 四大ソプラノの共演 】
彼女は歌っているだけでも充分に観客をひきこめるけどそれだけじゃない。常に観客とコミュニケーションをとる。あんなステージだったら何度も行きたいと絶対に思う。みていても楽しくてしょうがないもの。ああいう人間にずっと触れていたいたいと思うもの。観客の一人ひとりを心から大切にしているのがわかる。観客と一体となろうとするけれど媚はうらない。そんな姿勢が好きだ。表現するってことは人と人とのコミュニケーションなんだと思う。それは普段生活している場にあることと同じで、その表現の仕方が何百倍にも大きくなったのがステージなのだと思う。
彼女のステージのはこび方はMCで自分の気持ちを次の歌の世界にもっていくと同時に、観客も自分の世界にひきこんでいく。歌っているときも歌っていないときもすべて彼女の世界なのだ。そしてステージが終わっても観客の心の中には彼女の世界が残っている。魅力って何だろうといつも考えるけど、ひとりの人間に何度も会いたいと思わせるものをもっているかどうかなんだと思う。何度も会いたいと思うってことは、何度会ってもあきないということだ。あきっぽい人間に対して、あきさせないものをもつためには常に吸収するものがたくさんあって出し続けていなければできないことだと思う。毎日ただなんとなく会いたいのではなく、一年に数回でもどうしても会いたいと思われる人間になりたいものだ。それには自分を磨き続けるしかない。
【ナット・キング・コールほか】
歌を歌うのを聞いて、とても聞きやすい声にひかれた。リラックスした雰囲気と、リズムにノッてスイングしていることと深い声だから(声質も多々あると思うが)だと思う。ことばも小気味よくメロディにのっていてまた、ピアノも素晴らしく、何と言ってもカメラ目線での笑顔がやけに印象深かった。サラ・ヴォーンからは、歌唱力が際立っていたのが印象的、声量・声城・声色・フレーズを自由にまわしていた。そこにオリジナルを強く感じた。ハーブ・ジャフリーズ。この人、全然知らなかったが、声については、やはりお腹から出ているのをとても感じた。太い管の中を圧力の高い息が通り抜けて出ているような声だった。3人の素晴らしいヴォーカリストを聞いて、プロの声、歌、ステージとはこういうものだと思った。ゆったり歌っているようでとても体を使っているということと、ボリュームを出しても、キイが高くなっても、声がそろってよく出ているというのが特に感じた。
「音楽のある人生だなぁ。」とナット・キング・コールを見て思いました。笑顔までもメロディのあるもののような雰囲気がありました。何だかすべてが軽やかで、存在自体がジャズと言えるような、軽やかだけれど深い存在感のあるそんな彼を囲む仲間たちもとても素晴らしかった。仲間の素晴らしさの前に、もっと彼の素晴らしさに触れようと思います。声の表情が本当にソフトだなぁという印象でした。ひびきがとても素直で素敵でした。そしてとても軽やか。弾むような、聞いていて笑みがこぼれてしまうようなそんな幸せな声。苦労がなかったわけは絶対にないのに、そんな暗さを感じさせない明るく賢明な声。これはルイ・アームストロングスにも感じたことのように思います。
私はナタリー・コールが好きになって、彼女はきっと偉大な父親を誇りに思っているだろうと思いLDを観ようと今回レンタルしたわけなんですが、父親の血で彼女が素晴らしくなったとかより、よい存在が近くにあったことの偉大さ、それを吸収してきた彼女の偉大さみたいなものを感じます。私の持っているCDに親子で歌っている写真があります。それを見ていると、自分の姿を見て育った娘が自分と同じように歌を音楽を愛していることをとても誇りに感じている、少々自慢げなナット・キング・コールがいて、彼もやはり親なんだなぁと思わされます。彼のように素直に音楽と、自分と向かい合う自分でいようと思います。
ナット・キング・コールの口は何て大きいんだ。あんな口の人は滅多にいない。その口から出てくる声は芯はあっても彼の瞳のようにあたたかさを感じる。深い息が流れている声というものはどう歌ってもあったかさを感じるんだよな。もちろん感情のない歌い方だったら伝わらないかもしれないけれど、薄っぺらな声とは全然違う。人の数ほど声はあり、その声をどう使うかはその人次第。彼の歌い方は声を吐き出すという感じは全くなく、太く深い息の流れの上に声をおくだけだ。吐き出す息がコントロールされて安定していなければこんなにゆったりと余裕もってなど決して歌えない。それは、サラ・ヴォーンも同じこと。歌に限らないけれど余裕をもって一つのことをやるということはすごいことなのだ。自分の体を考えると本物は皆、神様のような存在だ。
ナット・キング・コールはピアノを全く見ずに弾きながら歌っていた。しぜんになるほど、たくさんピアノに触れたということがわかる。何か一つ技術を身につけるためには同じことを繰り返していくしかない。あきることなくやっているうちに気がついたら体がしぜんと反応し、動くようになる。その身についた技術の上に表現が生まれてくるのだろう。感覚だけでやっていれば応用がきかなくなっていつか限界がくると思う。音楽だけではなく、どんな分野の一流も同じことの繰り返しで力をつけてきたはずで、こういうことは一生やっていく一つの楽しみと考えればいいと思う。
何かを成し遂げていく人間は、どんなことも自分の考え方一つで楽しめるということを知っているのだと思う。彼はピアノを弾きながら足ではずっとベースのリズムをとっていた。体の中に他の楽器のリズムもすべて入っているようで、そういうなかで自分の歌のリズムもつくっていく。
ヴォーカルがひとり浮き上がっているわけではなく、自分でペースをつかみまわりをひっぱっていってるようだった。リズムなんてものは体の中に入ってなければ歌の中に出てこないだろう。リズムをとるという感覚じゃなくリズムを生み出すといった方がいいかもしれない。
サラ・ヴォーンののは一つの芯のまわりにたくさんの波紋が広がっていくようで、ものすごい深さを感じる。声の出し方も直線的ではなく、いろんなカーブを描いていて、ジェットコースターのようにおもいきり落ちたかと思うとまた、さっと上がってきたりする。あの声の上にのることができたら、気持ちいいというより気分が悪くなるような気がする。それくらい落差が激しそうだ。息をコントロールするということはものすごいことだ。サラ・ヴォーンの首は男顔負けの太さだけど、あれは声の太さと関係があるのだろうか。首を息の通り道と考えるなら、太い方が太い息がでてくるのだと思う。折れそうな細い首から彼女のような太い声が出てきたら、驚くだろうな。声を出すということは首から上のことではなく本当に体すべてをつかった仕事なのだ。体の奥底からの息で声が出るということは、首から上と下が一つになっていくことだと思う。顔の表情というものだって体の中から沸き上がってくるものがあってしぜんと表情として、出てくるのであって、そうでないものはただ筋肉を動かしてつくっているに過ぎない。呼吸一つがその人間を全身で表現するということにつなげていくのだし、そうであってはじめて自分がしぜんに感じられるのだと思う。日本人を見ていると顔と体が分離してしまっているようで不しぜんだ。体の上にのせている顔といった感じがする。全身に血液は流れているけれど酸素はいきわたってないような体の動きだし、自分の足先や指先が自分のものという意識があまりないように感じる。全身で呼吸し体が動くから生きている実感があるし、この肉の塊が自分のものなんだと意識できるのだと思う。
ハーブ・ジェフリーズの姿勢はとても堂々としている。姿勢がいいか悪いかの基準てみていてしぜんかどうかだろう。真っ直ぐ立てばいいってもんじゃない。何事もしぜんにみえることが大事なのだ。息がお腹の底から出てくるようになると首の位置や胸のはり方一つで息の流れが変わってしまうのがわかる。そうなると自分でどうにかして一番気持ちのよい呼吸が出る姿勢はどうなんだ。と調整するようになる。たぶんそうやって少しずつ自分の姿勢というものがわかってくるのだろう。一流の人たちは常にベストの声が出せる姿勢を身につけたといえる。姿勢一つが声を得るのにも歌を歌うにもすべて影響してくる。あなどってはいけないのだ。それに姿勢はその人の生き方、考え方を表していると思う。どう考えたって高い志をもっている人が、猫背でうつむきながら歩いているとは思えないし、逆もまたしかり。自分という人間は外から見えないけれどイメージでつくりあげていくことはできる。彼の歌い方は、一つの音を伸ばしていく中でリズムをとっているように思えた。その伸ばしている声はとても安定していてコントロールされた息の流れを感じる。歌っているのを声ではなく呼吸で感じようとすると、本当に単純なことの繰り返しに思えてくる。伸ばして、止めて、ふみこんでまた流れだす。その単純なことがものすごくむずかしいのだが。ベースのないものの上には何一つでき上がってこないってことがわかる。
とってつけたようなものは自分のものにはならない。個性とかいうことより共通のベースになっているものを感じた。呼吸をコントロールできる体なくして、個性なんてものは出てこない。自分の体は自分で創って、コントロールしていくしかない。体と心と声が一つになっていくためには、自分をみつめ続けていくしかない。(黒坂)やはりリズム感がとざさまされているような感じがする。パーカッションの人の音がとても心地良く、ドラムの人との掛け合いは最高かっこよかった。あーゆう喜びが音楽をやっているとある。とても素晴らしかった。聞いていて心が踊る。コーラスはキレイすぎるくらいだった。2人で歌ったり、1人で歌ったときにコーラスのキレイさを打ち破るものがあって、とてもよかった。芯のある声とはこういう胸にひびいてくるようなぐっとくる声をいうのだろう。聞いていて胸がむずむずした。聞いていて高音よりちょっと下に落ちてるし、胸にひびいてるその人らしい声が聞きたいという気持ちだった。その一瞬がくるとわくわくドキドキする感じだ。その一瞬の創れる自分になること。統一された声であること。統一された声を聞くと胸のところに芯があって、体で支えられてる感じがする。自分の声もきちんとそういうイメージで出せるようにしてゆこう。
【ニューオリンズ】
ゴスペルについて語るとき、私には、この人なしではという人がいる。約10年前、学生時代に、偶然レンタルレコード店で出会った1枚のレコードは、その後の私に大きな影響を与えた。モノクロのレコードジャケットの黒人男性がグレイズヘアーをひとまとめに縛り、おもむろにうつむく様が、無性に私をひきつけた。それが“この人”、テレンス・トレントダービー(T.T.D)との初めての出会いだった。家でさっそく聞いてみた。それまでも、いろいろと好きな音楽はあったが、20才の私が、初めて“この音楽が最高!”と思えた感動的なものだった。自分の感性にあまりにもぴったりと合致してしまった。自分でやるなら、こんなカンジと私は漠然とイメージしていたように思うが、あまりにも彼のヴォーカルは、洗練されていて、繊細で、強くて、確かすぎて私などは当然、足元にもおよばない世界を作りだしていた。何と表現したらいいのか。とにかく私は、一週で彼の音楽性のすべてに惚れ込んでしまったのだった。偶然なのか、必然なのかあまりにも私好みの音に出会ってしまい、私はそのレコード屋さんに“ありがとう!”と10000回位いいたい気分だった。T.T.Dの歌は、=ゴスペルと言える。特に私が好きなのは、たとえるなら、RCサクセションの“スローバラード”ふうのもの。ダダダダダと、ドラマティックに盛り上がっていく歌だ。T.T.Dは、子供の頃からゴスペルしか許されずに育ってきた人だ。彼の体の根本にゴスペルが流れている以上、彼の音楽はみんなゴスペルなんだと思う。T.T.Dに出会う以前に、ゴスペルの存在を知っていたかどうか定かでないが、彼を知ってから、私はゴスペルを意識し始め、教会で歌われている風景を、TVや映画などで見たりして、だんだん、ゴスペルの意味するもの、その素晴らしさを知るようになっていった。
この「ニューオリンズライブ」を観て、ゴスペルって何なのか、私はまだまだ認識不足だったと思った。ジャズが生まれてきた背景に、黒人の悲しい歴史く人類が犯し続けている過ち>があるが、それらもすべてを包んで、ゴスペルは存在するのだろう。どんな宗教でもそうだが、それによって金を得たり、権力に利用したり、また元々人々が持っていた信仰を布教の名の下に無理やり改宗させ(西洋の)文明を押しつけて不幸な結果を招いたりと、キリスト教には、その長い歴史の中では最たるものがあったと思うが、末端の信者たちは純粋である。純粋にその宗教の神を信じ、神の教えに従い、よりよい人生を生きようとする。日々の苦しみ、悲しみ、また喜びを皆で分かち合い、神に畏敬の念を払い、神に感謝して生きる。こんな純粋な気持ちがゴスペルの根本だ。神に捧げる歌という意味でとらえるならば、ゴスペル的なものは日本にもあるし、聖歌もあるのだが、ゴスペルには、American Blackのジャズの心が息づいている。
American Blackの彼らの体質、そのものなのだと思う。Shoutこそ彼らの体質だし、魂だと思った。ビデオの中で、ゴスペルについて語られたことばは、とても印象深かった。「ゴスペルは自分の心の内にあるもの。ソウルというより、もっともっと深いところから出てくるFeelingが歌うことによって表現されるのだ。内なる神そのものなのだ」多くの人がゴスペルにひきつけられ、涙するのは正にこれだ。私も宗教は違うけれど、キリスト教の教えはよく知っているし、自分をこの世に存在させてくれる大きな力があることを感じずにはいられないと、つねづね思う。黒人シンガーたちが“ジーザス”とShoutしただけで、泣けてしまうのだ。T.T.Dが教えてくれた1本の道がどんどん広く、深くなっていくのを感じる。ビデオを観ていて、つくづく羨ましく思ったのは、ゴスペルに関わる人たちは、歌う体として成長していくことだった。赤ちゃんの頃から歌の中で育ち、その耳に、心に深くその真実の意味を刻み込まれる。生きていくこと、すなわち歌うことなのだから。1人が歌い始めれば、次のフレーズからは、もう家族全員が素晴らしいハーモニーでAmezing Graceを歌っている。何ということだ!またまた、私は大感動してしまった。“黒人は歌がうまい”などということばに一蹴り入れたい気分になってくる。彼らは誇り高いのだ。そこらの二流歌手なんぞとは、土台が違う。「世俗的な音楽とはFeelingが違う。個人的な表現であり、すべてのSwingがここにある」のだ。ビート、リズムすべてがゴスベルの大切なパートであり、何一つ欠けてはイケナイのだ。
もし、私が何もかも完璧にゴスペルを歌えたとしても、それは単なる偽物だ。私には、ゴスペルの歴史が体に刻まれていない。体の深いところに、Bibleを持っていない、本物のゴスペルを持っていないからだ。私がゴスペルをやりたければ、自分の内なる神になって、自ら表現する、新しいゴスペルを作りださなければならないだろうと思う。ゴスペルの名は貰えなくても、意味としてゴスペルといえるのではないかと思う。それにしてもステージに出ていたのは、そろって“おじいちゃん”や“おばちゃん”なのだから驚かされる。体の底から沸き出てくるFeeling、Shout!Shout!Shout!最高に心が揺さぶられる。最高にカッコイイ!あの俳優のJhon Gold wauも言っていた)本当に皆、凄い声だ。だてに年をとってるんじゃないんだぞと訴えるようなパワーだ。喋っている声から、もうゴスペルを感じさせる。とにかく強く、しかもコントロールされている。ハスキーにShoutした後に、すぐクリアーな声が戻ってくる。ファルセットも、ソフトなところも有効に表現している。魅力的なリズム感とスピード感、躍動感がステージ一杯に広がり、客を巻き込んでいく。Feelingからダンスが生まれ、見ている方も心だけでなく体も、しぜんに動いてしまう。観客へのことばの投げかけなどのタイミングも絶妙だ。パックのコーラスも、ソロ二人での掛け合いも、どんどん白熱さをPushしていく。次第に会場全体は一体になっていく。各々が自分の中にゴスペルのFeelingを見い出す瞬間だ。福音のシャワーを受けるような。ゴスペルには、いろいろなもののOriginがあるように思えてならない。
たとえば、ソウルダンスやプレイクダンスは、ゴスペルのリズムのブレイクダウンする(一瞬止まること)ところから生まれたのだ!と、ステージを見て確信してしまったし、ゴスペルがもっている音楽的なさまざまの要素は、他の音楽に生かされていると思えた。いろいろなビデオを見る度に私は、お尻を叩かれる気がする。今回のゴスペルは特にビシビシと痛いほどに叩いてくれた。モノクロのフィルムで、合唱隊をバックに、エレキギターを弾きまくり、Shoutしまくるおばあちゃんが出てきた。彼女は、どうしようもないほどに「生きるエネルギー」を与えてくれる力を発信していた。歌うために生き、生きることは歌うことだと、彼女の声は訴えていた。グレゴリー・ハインズ主演の映画「TAP」の中で、サミー・デイビス・Jrをはじめ、何人かの老人たちが出てくるのだが、彼らは実に熱いTAPを踏んでいたのを思い起こさせる。自分の体の内にあるもの、その歴史そのものが、表現となって、Feelingとなってあふれ出てくる。「あんなふうになれたらいいなぁ」と思わずにはいられない。彼女らが私に与えてくれたものを発進できる、本物のアーティストになりたいと、おこがましくも思ってしまった。
【 サイデリックロック】
人は皆、毎晩夢を見ているというが、ほとんどその内容は思い出せないことが多い。私もそうだが、最近思うのは、その日か、その前、後日辺りに、何か印象的なことがあると、それが夢に出てることだ。その夢に現実の中での“思いあたる節”が感じられるのだ。特に朝、目覚める寸前には、それが非常に鮮明である。特に、人との出会いとか、とても気味悪いTVや映画を観たりすると、具体的にその出会った人物が夢に出てきたり、何か気味の悪い雰囲気の夢になったりする。
夢というのは、とても非日常的な内容が多い。とんでもないことが突然起こり、人が死んだり、生き返ったり、実際には存在しないものがわんさかと登場したり。私が小さい頃、本当によく見た夢は、憧れが形となって、夢の中で実現されるものだった。たとえば、好きな男の子に告白されるとか、大好きな歌手が家に遊びに来るというもの。正に、潜在意識が夢の中では顕在意識となって、目の前に展開される。自分の脳が映し出す映画みたいなものだ。夜、寝入りばなや、朝、目覚める少し前は、この夢と現実が混ざり合っている。“夢うつつ”というが、この時間は、私に凄いアイデアをくれることがある。脳が潜在的に持っている何かを現実の世界に顕在化してくれる時間ではないかと思う。現実だが、現実ではないこの時間。歌のメロディや物語や詩(詞)も、この時間にひらめくことがよくあるが、これはよっぽど意識を明らかにしてメモしておかないと、本来の現実の自分に戻ったとき、もう忘れていたりして、がっかりするのだが、たぶん自分の作った曲の中には、この“夢うつつ”の中で生まれたものが入っているに違いないと思う。Psychedelicというのは、いわば、この“夢うつつ”なのではと思う。この“夢うつつ”の時間ほど、その状態から離れがたいものはないだろう。子供に返ったかのように、そこに陶酔している自分がいる。身の回りに何の囲いも壁もなく、おそらく素裸の赤ちゃんのような、むき出しの自分だ。実は、この文章を書くきっかけは、今朝の夢うつつの中から生まれたのである。昨夜、このビデオを自分の趣味でないので、少々辟易としながら観て寝て、今朝、夢うつつの中で私は“そうなんだなぁ”と、やっと内容を理解できた。なんだか喉が乾いてしかたがなく、頭が痛くなるような夢を見ていたと思うが、目覚める少し前の時間の中で、私は客観的に納得する自分を感じていたような気がした。とても不思議な、変てこな感覚なのだが、この夢うつつころがPsychedelicなのだろう。音楽も含め芸術というのは、すべてはPsychedelicだと思う。まるで中毒のようにそれにのめり込み、陶酔し、生まれてくるもの。それを目的にして行えば“創作活動”になるし、結果として生まれたものは“作品”となる。芸術はPsychedelicなしには語れないし、生まれないのだろう。Psychedelicだと人に映るのは、その表現が非常に極端であるからだろう。子供が夢中になって砂の山を作る姿はほほえましくとも、大人が同じことをやろうとすると、それはあまりにも象徴的で、現実的な顔では理解されたものではない。しかし、その姿に心打たれる人もいる。自分の心に訴えかけるものを、その姿に見いだせる人がいるのだ。人の夢うつつから生まれた一つのパワーや思想的な形のないものを、様式化したものを芸術とするなら、その根底に流れるものは同じはずだ。要は、何だっていいのだ。モーツァルトやベートーベンが入っていてもおかしくはないのである。さまざまな様式に表現が生まれ、それが一つの個性になる。完全に酔いしれて表現している姿は、人の心を動かす。いろいろなジャンルに人々が分かれていくのは、自分のもつ“酔いしれ度”とピッタリ合ったものを選びとっているということなのだろう。
Psychedelic Rockは、いわゆる美的感覚や音楽の価値観を180度くらい変えてしまう表現だと思った。TVという、当時の新しい媒体が、世の中に浸透してきた時代らしく、映像で見せることが一つの鍵になっている。映像+音によって作りだされたイメージは、その世界を深く深く表現している。とても絵画的だ。音楽のパターンはいろいろだが、いずれも象徴的な何かをつきつけられる。たとえば、宗教の儀式じみていたり、民族音楽的であったり、エロティシズムであったりという具合に。現実的な目で見れば、理解しがたく、また、目をそむけたくなるような嫌悪感をあえて叩きつける、この挑戦的な行為によって、一種の快感を得る。あるいは世の中に対する不満からか、とにかく破壊的な力を見せつけたり、カリスマ性をかきたてるバンドも多かった。執拗なまでにフレーズをくり返し、そして嵐のように高揚していく音。メロディのないようなシャウトの連続はそのまま昇天してもいいと思わせるほどの恍惚感を生む。麻薬でHighになったかのような“自由”を手に入れることができるのだ。表現そのものは、シュールレアリズム的なものが多く、何を言いたいのか、ストレートには伝わってこないが、Psychedelicに見えれば見えるほど、本質的には、非常にストレートな感覚、芸術のもつ根本的なものの最たるものではないかと思った。殆どのバンドが楽器や歌のテクニックは高いものをもっている。
ジミー・ヘンドリックスなどはギターの神様みたいな人だ。単に音だけでなく、彼らが全面的に打ち出してくるものは、中毒とも思えるほどの表現に対するこだわり、思い入れ、情熱だと思った。好きで好きでしょうがなくなってそうせずにはいられない。きっかけは何にしろ、彼らにはこういう感情が伴っていると思った。ヨーロッパの国々のもつ文化の底には、私は何か一種の暗さを感じる。それは、城壁や石畳などの石の持つ冷たく硬い、堅固なイメージだ。特にイギリスは曇りがちな天候のイメージが強いせいもあって、人々の内面にも、重たく、不動な何かが潜んでいるような気がする。それは長い歴史の中で行なわれてきた民族間の戦いであったり、国の中でも身分の差が大きく、ほんの一握りの人間の快楽のために、多くの人々が苦しんできた、気の遠くなるような時間の流れがつくってきたものではないかと思う。解放せれることや、自由を求めることに貪欲な内面を秘めて、表面ではさまざまな常識や規制の中を人々は生きている気がするのだ。アメリカは独立を勝ち取ったことで、そもそも出発点が自由であり、開拓者が成功を治めていくという、言わば、すべてがビジネスというイメージだ。Psychedelic Rockが、イギリスで沸騰し、アメリカの商業主義的なベースには乗れない理由が何となくわかる気がした。ハングリーな開拓精神でかきたてられるようなHard RockとPsychedelic Rockの形式的な違いは、それを受け取る側にも、その内に秘めたものも含めて、伝わるのだと思う。私は、この手の音楽は最も苦手な部類だったが、彼らほどに私は、音楽に対する思い入れをもっていたかあれほどに自分自身を注ぎ込んでいたかそう思い知らされた。我を忘れるほどにそれにのめり込んで初めて音楽をやっていると言えると思った。これは、いつも自分に問いかける一つの課題のようなものであり、また、一生かけてやり遂げる課題なのではと思う。
[布施明]
とてもスケールの大きな歌い方をするし、表情や、手などの体の動きでも、彼の内面から思わず出てくるものが伝わってくる気がする。「ラ・ボエーム」は、歌詞が男性側から書いてあった。若くて、あまり恋だの愛だの知らない男の子が、彼女(たぶん彼より年上)に振られてしまう。彼女は、彼のことを愛していたけれど、やっぱり限界を感じるものがあって出て行った。そんな情景がイメージされた。過ぎ去った楽しい日々、信じていた恋、それが破れた気持ち。なぜ。どうして。疑問がわき上がってくるけれど、どうにもでいないつらい気持ち。取り残された子供のように、わめき、叫んでいる。けれど、そんな彼の、そんな所が、彼女が去っていった理由だろう。そういう男の子の、ちょっとあさはかな感じが、布施さんの歌にはこもっていたように思えた。“ちょっと頭を冷やして、よく考えてごらんなさい”と彼女がいいたくなるような。彼が真剣になって、彼女を縛ろうとすればする程、彼女は飛び出して行きたくなるだろうから。捨て鉢になった、だだっ子のように少々言い訳がましく、押しつけがましく、「なん〜だね」とか「いたぁぁぁのにぃ〜」という風に歌っているのかなと思った。ラストは長く長く伸ばしていた。もう、やたらに悲しかったのねェ。
【美輪明宏 】
日本人が日本人に向けてのシャンソンを歌うとこういう風になるのだなということがわかった。越路吹雪さんに対しても同じように思うことがあった。シャンソンは人生全てを歌っているというが、美輪さんのステージを見ていてなぜこんなに演技をするのか、そして明るい歌でも湿っぽく感じるのかということを考えさせられた。本場のシャンソンとの違いはたくさんある。それらは全て客が日本人で美輪さんが日本語を使って歌う日本人だからだろう。声に関しては表現できる深い声を持っているし、ことばにしてもものすごく強く叫んでも耐えられる強さを持っている。そして音とのつながりがとてもなめらかで、裏声と地声をうまく使って波がとぎれていない。声による表現の仕方にいろんな膨らみがあってその強弱の差は体がなければ作れないと思う。
でも私は聞いていてどうもスカッとせず何か自分の体にいろんなものがからみついてきてとれないという不快感があった。それは美輪さんの声とその歌い方にあるのだと思う。あの震えるような声をヴィブラートというのだろうか。ヴィブラートをかけると声の鋭さというものはなくなってしまうのか。
美輪さんの歌った曲の中にはイヴ・モンタンやピアフの歌もたくさんあったので比べて聞いてみた。自然と不自然という大きな違いを表現の中に感じた。そして声に関しても、美輪さんの話している声はそのまま歌に使われているように思えるけどやっぱりどこか歌うということへ向かっているように思える。話すように歌うということの大変さと素晴らしさを改めて感じた。客にストレートに伝える為には話している声がそのまま表現につながってこそ可能なことだ。
美輪さんの「ヨイトマケ」という曲が一番ストレートに伝わってくると思っている。ピアフなどの声を聞いているととても鋭く刺されるようだけど自分が同じように真似てみても深さが全然違うことがわかる。本当に体の深いところから息が流れていてポジションもずっと下の方なのだ。そして体の強さなんて並じゃない。あんなに鋭く深い声を出し続けるにはそのもととなる息を押し出す体の強さがなくては無理だ。
美輪さんのステージでのトークの声を聞いていてもいろんなもので包み込んで優しく伝えているような気がする。声を人にぶつけるという感覚ではなく差し上げますといった感じがする。それがいい、悪いではなく私が客席にいたら「もっとぶつかってきてよ!!」と言ってるかもしれない。ひとことでいたら物足りなさを感じてしまうというか。余裕をもってみることに耐えられない気がする。衣装はこんな感じで、表情は、動きはといろんなことをじっくりとみる隙を与えないくらいむかってきてほしい気がする。
伝えるということは声をぶつけていくことだと思うからそう感じるのかもしれない。いろいろいっても私は美輪さんほどに歌える声の深さもまだ持ち得ていないし一つの表現にかける思いにも大きな違いがあるともう。美輪さんの歌い方を聞いていると声をふくらましてフレーズの大きさにものすごく変化をつけているのがわかる。ことばをいうというより音と音のつなぎやふくらませ方が印象に残った。ひとつところにいつまでもねばっていないですぐ降りたりあがったりと変化をつけている。私が同じように歌おうとしたらくせだらけになるような気がする。これは美輪さんの歌い方であるから私が同じようにやってもしようがないけどどんなふうに声を使っているのかということは参考になる。
まっすぐにスッと立って、“シャンソンを歌って生きてきました”と歌った「愛しの銀巴里」。歌うことが生きること。歌うことが生きることの一部でなく、歌うことこそ生きることの全てそう言える人生だったのだな。これまでの彼の人生の重みが伝わってくる。
福島先生がレッスンで“美輪さんの歌に舞台なら世界に通じる曲が3曲くらいある”と言われていたが、私には、どの曲も凄くて、あれでもたった3曲かと、愕然としてしまった。CDの「紫の履歴書」で初めて彼の音楽性に触れ、そのバラエティの豊かな表現と、圧倒的な迫力の声に感心したのだが、このリサイタルでは、彼が“これで生きてきた”と、まさに聞き手に納得させるシャンソンの数だったと思う。1曲ごと、心から拍手を送りたいと思えた。彼の曲紹介を聞いて、その曲の歌詞の裏側にあるものを、とても深く広くつかんでいると思った。その曲紹介の後で聞く曲の歌詞には、彼が話した背景的なことや、内面的なことはそのまま出てくるというわけではない。“どうしてあんな解釈ができるのか、あそこまで具体的なことばで、イメージをぐっと広げて語れるものなのか”と思う。
彼が歌うフレーズには、心を込めたメッセージが感じられた。ピアフの歌は、彼の心と一致するところが多いんじゃないかと思った。ピアフの人生は人を愛し抜いた、そんな人生だった。美輪さんが、バラエティ番組などで話しているのを聞くと、よく説教じみたことを言っていたりするが、ある本で“ジャズは説教を歌にしたものだ”というような文を読んだことがある。説教って、人のことを思っていなければできないことだ。人に訴えたい気持ちから出てくるものだ。
美輪さんも、いつも人に手をさしのべて生きてきたんじゃないかなと思う。若くして銀巴里を任されて、必死でやってきた道を想像すると、信じがたいことの連続だろう。自分のことに必死な筈のハイティーンの頃、社会のことや、人のこと、お店のこと、彼の方にかかった重圧は凄いものだったろう。けれど、若かったから、彼もがむしゃらにやれてしまったのではないかな。考えるべきことはちゃんと考え、やれること全てやってきたんじゃないだろうか。
彼の青春時代は、芸術的なことに凄いパワーがあった時代だったから、その中で彼を始めたくさんの才能が集まったのは、私にしてみれば何だか裘ましい。銀巴里だったから、彼だったから、時代の力を借りて輝くことができたのだろうと思う。彼は、たくさんくろうして“何でも明るい方に考え”たり“エゴイステイックな人は前世がひどかった人”という風に、逆境に負けずに前向きに生きていくすべを発見して、身につけたんじゃないかと思った。
彼は、音楽学校に行っていたということだ。基本がしっかりしているから、彼の役者の部分がぐぐっと表に出てくる。女形が本物の女性よりより女らしいように、彼は女性の気持ちを、役者として歌っていると思う。手の動きや体全体の動きがとても柔らかい。強い表現をしていても、とても女らしいと思った。ささやくように歌っても、抜いている感じはしない。常に演じている。ラストで、最大の声を持ってくるところなど、ぶっ飛ばされそうだ。あれだけ大きな声で、一曲目一杯やって、本当に消耗するだろうと思うけれども、汗ひとつかいていないようだった。
彼の声を開くと、自分の「声」と思っているものって、「何じゃ。」と思えてくる。ひ弱で、薄っぺらくて、型にはまっていて。その差の大きさに、叩きのめされた。又、凄いお手本が現れた・・と思った。彼の表現は、全くバラエティにとんでいる。みごとにその曲を演じ、メッセージを込めてくる。聞くだけでもいいけれど、ライブで体験できたら本当に素晴らしい。
「メケ・メケ」のあのコミカルで物語性にあふれているところは、つくづく上手さを感じさせられる。人の心を動かすのは泣かせるより、ずっと難しい。声としてのポジションを崩さずに、あんな風に、おもしろくやってしまうのは表現力がなければ。「ラ・ボエーム」「愛の賛歌」歌詞もアレンジも、彼の個性が素晴らしく生かされたものだったと思う。ピアフの書いた詩も美輪さんのことばとなって歌われていたと思う。