一流になるための真のヴォイストレーニング(アーカイブ版)

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レクチャー録2 21,702字 1732

レクチャー録2

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【「歌唱論1-2」4563】

【京都 基本の基本 4053】

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○体がベース、ベースにオンする

 

 レッスンとトレーニングということについて、いつも私は、一番いいやり方があったら、そのやり方をとっていこうと思ってきました。

 私のレッスンは今、月に15分だけというのもあります。15分で何ができるのかといったら、さっきいったとおり、半オクターブ、4フレーズくらいであれば、充分にできる。1分の曲だって15回できるのです。だから長いのです。歌は3分といっても、ワンコーラスやるのにたかだか1分かかるかどうかです。

 

 とことん短くしたのは理由があります。ステージと同じで、その15分のなかで、勝負できなければいけない。人間が本当に集中したときには15分も持たない。今、日本のヴォーカルを見ていても、だいたい1番くらいしか持っていない集中力。外国のヴォーカルが3分あれば3分持っているテンションを、キープできていない。

 

 それをレッスンので、15分といって短い、60分ならいいのかというと、そのなかで何をしているかというと、30分以上、遊んでいるわけです。そういうふうな時間の感覚がついてしまう方が怖い。一般にベーシックには30分ということでやっています。

 レッスンの目的や、内容に対しては指示をせず、トレーナーにお願いする時点で信用しています。信用できなくなったときには、受講生がいなくなっています。

 

 レッスンで何をするかというと、気づきにくるのです。これが一番メインです。ここに関してはプロもアマチュアもないですね。レベルが違うだけです。

 気づくということは、まず気づいていないに気づくことからです。次に気づいていないこと、足りないこと、入っていないことに気づく。気づけばそれを埋めていけます。このことの流れをつくるのがレッスンです。トレーニングというのは、このプロセスを繰り返してやるわけです。

 

 ヴォイストレーニングは、リピートからです。日本人は真面目ですから、何かをやっていけば、必ず身につくはずだと思う。確かにそういう部分もあります。

 体をベースにおいているのは、体はある部分まで変わるからです。年齢とかで変わらないことです。皆が、たとえば腕立てを30回ずつ毎日したら、たぶん1年たったら30回は、そんなに辛くならないですね。今、1キロ走っていたら、辛くても、皆さんくらいであれば、1年続けたらけっこう走れるようになると思います。

 

 そういう部分にベースをおくというのは、トレーニングがここの場合、とくに素質で選別して引き受けているわけではない。やる気で引き受けていることだからです。そうすると誰でも共通するところにベースを置かないと、だめだろうと。

 

 だから、体がベース、それゆえ時間がかかります。1ヵ月2ヵ月で、そんなに体が変わるわけではないです。でも確実に変わります。

 2年3年4年と、それは呼吸の部分、体の部分、それからそういうものをコントロールする部分に関してです。だからそこに重きをおきます。ここがリピートの部分です。

 

 ただレッスンで一番大切な部分は、そんなに体をつくっていないのに、もっとうまく歌えている人がいるじゃないかという、すぐれた人間のほうに目を向けるということです。そこから勉強したときに、オンする、オンをどこまで次元を高めていくかというのがレッスンですね。

 そうでないと続けてはこないです。毎回毎回新しいことを起こしていけるかというと、それっぽくやれば簡単なのです。なんか出たねとかいって、本人のかたち、本人のクセに押し込んでほめたりすればいいのですが、そういうやり方が一番まずい。

 

 いろいろなトレーナーやスクールを見たら、それはしかたない部分がある。生徒が1回ごとに結果を問うからです。今回は何か勉強できた、今回はどのくらい達成できたというふうになると、それを求められるトレーナーでは、ここのように長期的にみるようにはいかない。

 

 

○成果を急がないこと

 

 その一ヵ月が終わった後に、次の一ヵ月がくるかどうかというのは、その一ヵ月に効果を出さなければいけない。だからどうしても短期的な上達をみて指導をさせざるをえない。これはトレーナーが悪いというより、その人の考え方です。

 ここに来られる人は、他のところで満足していたら来ません。

 

 いろいろなトレーナーや学校のことでいうと、良心的なところやきちんとやっているところは、そんなに早く成果は現れないです。成果を早くうたうところは、そのやり方があるのです。リラックスさせ、声をほめたらよい。それだけです。

 今日こんなことをやっているのなら、高いところを出す方法を教えましょうとか、ロングトーンを出すやり方を教えましょうと、そういうことでまわす。

 

 その人が初心者ならともかく、何ヵ月も何年もやって、それができないというのであれば、その前のところに問題があります。

 たとえばこの歌の音程がとれないのですといわれても、ここで教えたら簡単でしょう。丸暗記していく。でも音程がとれなかったというのは、もっと前のところに問題があるのです。

 普通の人がやってみたら、意識しないでとれてしまうところにひっかかってしまう。それではその音をいくら教えてみたって、次の曲、違う曲になってみたら、同じ問題が来るのです。

 

 そういうのを私は教えたとか、勉強させたとかはいわない。ごまかしてこなしたという話です。

 それは声域、声量に関しても、同じです。単に一瞬高い音をとる、そこの技法はなぜいけないのかというと、通じないからです。

 私は現場でやっていますから、実際、その日のそのステージにたいして歌えなくなってしまったというときがありますので、応急処置としてやらなければいけない。応急処置をメインのレッスンにおくというのは、違います。

 

 昔、公開レッスンなんかをていねいにやっていたとき、だいたいは、一生に一回会うだけ、地方の人はなおさらですから、体験レッスンをやって、私が親切に接して、その日の満足になるようなことをやっていました。ファンサービスです。今は、そういうことはやりたくなくなってきました。

 そこはむずかしいのです。こういう私の催しをひとつのエンターテインメント、ショーとして考え、それ自体をひとつのライブとして考えるなら、その人の、その日の満足を最大限にやっていく。その辺をどうするか。

 

 

○後のためにやる

 

 今日のように、ここに関連をつけて勉強しようという人が多いなら、どちらかいうと、1回目のレッスンに近いかたちでお話したほうがいい。後々につながっていくことはどういうことなのかをいったほうがいい。

 そういうことが共通しているようでいて、案外と違うのです。1回でやるやり方、3ヵ月で仕上げるやり方、半年でやるやり方、それから2年、4年でやるやり方、ここはそういう条件が全部整った後のことを考えています。

 

 もっというのであれば、最初に引き受けるときに、ここを出るときのこと、出たあとにその人がどうやっていけるのかということから考えるから、さっきのような答え方になってしまうのです。

 声優をやるのなら、ここに入って声優の勉強をしましょうというふうにはならない。そんなことをやってやれる人は、世の中にはたくさんいます。

 

 2年ここで勉強したことは、声優学校で4年くらいやれば、似たようなことはできるのです。じゃあ、4年が2年になったからいいのかというと、そうでもないのです。

 そういう学校に行くと、そういうコネクションがあったり事務所に入りやすかったり、また有利な面もあるのです。そういう意味でいうと、すべての条件を比べて、考えていかなければいけない。

 

 そんな難しいことはともかく、足りない入っていないということに気づく。ここもいろいろな人がきます。ベーシックなところで、感覚的なことを扱うのです。ここに来る人は日本人でたまにそうでない人もいるので、けっこう困るのです。日本に住んで日本語を扱う。この辺から、考えていこうと。

 

 そのこと自体が音声にとって有利な条件ではない。むしろ、世界的にみたらかなり弱い条件で、声を強く使えない日本人、それからそういう必要ない日本語、外国というより人間といっています。しかし、もし人間として、こういう音に恵まれた環境にいたら、どうなっていたのだろうというところで考えてみようというところで、やってください。

 

 すると結局、日本人にとって気づかないこと足りないこと、入っていないことは、中には英語でやってきた人もいるので、重なる人もいますが、本当の意味でとれている人は少ない。

 ここでもこんな話をすると、今日感覚が切り替わったように錯覚する人もいるのですが、そう思ってから2、3年は感覚は切り替わらないのです。本当に3年くらいかかっているというのが7割、2年で6割切り替わったら相当早いほうです。では、何が切り替わるのかという話も含めてやっていきましょう。

 

 

○呼吸について

 

 腹式呼吸などということでやると、わからなくなってきてしまうのです。皆さんが今やっているのは、腹式呼吸で、呼吸法として少しも間違っているわけではない。息の吐き方が間違っていますかと聞く人がいますが、そんなことがあるわけない。

 

 多くの人はトレーニングはすごく特別なことだと考えています。私たちがこうやって生きて、ここで話ができる。そういうときに息がきちんと動いていることが、どんなに奇跡的なバランスの上で成り立っているかという、その前提がないのです。

 

 その前提の上にどのくらいトレーニングをしていけばいいのか、考えることです。それでいうと1、2パーセントのことでしょう。まったく何もないところで100パーセントの呼吸法を身につけようという考え方は、とことんおかしくなってしまいます。

 

 もしわからなければ、皆さんが大病や事故で入院でもして、酸素でも吸っていたら、映画みたいですが、そうなったときには深呼吸することでさえ、つらいわけです。ふつうの呼吸ですらできなくなる。そういうところから入ってみましょう。

 現場で、きちんと一流の歌のなかで見てほしい。というのは、その歌のなかで使われている呼吸が、自分のなかでできればいいというふうに考えたほうが間違いがない。

 

 現実に使われているのですから。だから、「呼吸法は息を5秒吐いて5秒止めるのですか」、「それとも長く10秒くらい吐いたほうがいいのですか」とか、「ドックブレスは何回やればいいのですか」とかは、意味のないのです。そういう質問ばかりくるのです。

 私がたまたまそういうふうにいったのにすぎない。

 

 この前斉藤孝さんに会ったら、彼は3秒吸って2秒止めて、15秒吐くと、その根拠は何ですかと聞いたら、「3回やったら1分になるから覚えやすいでしょう」と、それは間違いではない。一般の人は覚えやすくなければやらない。やらないことを考えたらどんなやり方でもやったほうがいい。健康法と同じです☆。 私は「吸うからはじめるより吐くからはじめたほうが楽になります」といっています。そんなものです。

 

 テキストにとっても、その5秒が6秒だったら間違いなのか、20秒吐きなさいというのは25秒だったらだめなのか、何の根拠もないです。検証したこともないです。できればやっています。

 もっというのであれば、長くなれば呼吸の支えは崩れてしまうし、姿勢も崩れてしまうから、歌からいうと、マイナスでしかならないのです。

 

 でもアマチュアの人が息を意識するのに、長く吐いてみたから息が足りなくなる、今は20秒だけどトレーニングしたら25秒伸ばせるようになったというのはよい。こんなことはプロのヴォーカルからいうと何の意味もないのですが、そうやるとトレーニングらしくなります。やらない人がやれるようになります。どんな歌であれ20秒伸ばす箇所なんてないという話です。

 使わないもののためにトレーニングをやっておくのはいいのですが、そのために余計に姿勢が悪くなってしまったり、支えが崩れてしまうのであれば、何のためのトレーニングかわからないでしょう。現実にトレーニングはそうやってやられていることばかりです。

 

 

○難しい発声練習って

 

 つきはなさなければいけない。たとえばポップスの歌い手にきてもらいます。他の学校のトレーナーを見ていると、歌わせたら楽に出ている高い音程のところで、発声練習をやらせ、それよりも低いところでひっかかっているのです。そうしたら、発声練習をやってはいけないのです。

 

 発声練習は何のためにやるのかというと、日本では、歌でやる音域がうまく出ないからです。そのときには音程がついていたり、そのことばが複雑だったりして難しいから、簡単な母音で、それで半音ずつ上げていって、ていねいに上げて、もっと高いところまで出しましょう。つまり、歌より高いところを楽に出せるように、発声練習をやって、ここでマスターしたことを歌詞にもって、歌もここで高く出せるようにしましょうというのがもともとの考えでしょう。

 

 ところが発声練習で、ひっかかってしまう人が実際の発声練習になってしまったら、楽に出ているのです。そうしたら歌を使ってやるほうがいいじゃないですか。こんなことばかりが本当にあたりまえに行われているのです。

 

 それはトレーナーでなく、受ける人がそれを考えなければならないと思うのです。おかしいじゃないか、発声は歌のためにやるんだろう、ところがトレーニングの学校に入ってしまうと、口をふさぐ。

 トレーニングが独立してあるかのように。発声練習のための発声練習になってしまう。そこに出口はありません。そこを考えるとともに、一流のものの実際、歌われているところのなかの息、皆さんが歌ってみると、きっとこうならないと思います。これを3年か5年後に歌ってみたら、一流の歌手のようにきたら、そこで呼吸が深くなってきた、身についてきた、そういうふうに考えればいい。そのために何をやったらいいのかを考えて、自分で決めてやっていけばいい。

 

 

○マニュアルでは、オンしない

 

 トレーナーがいうのは、たたき台です。それを15分やればいいのか5分やればいいのか、1時間やればいいのか、わからない。だから、やって決めていく。

 本もそうやって使われる場合が多いのです。「先生、1年、自主トレでやってきたので見てください」と、だいたい偏ったおかしなかたちになってきますね。それは何もやらないよりいいと思うのですが、だから何なのという話になってしまうのですね。それが後でどう効いてくるかはわからないです。そのことが無駄だとは思わないし、そこにかけた情熱ややる気は無駄ではないと思います。

 

 それをさらに繰り返していくことにはあまり意味がない、繰り返してやれることは、あくまでやっていない人に対して差別化することです。多くのアマチュアの人は5年10年やってうまくなると思っている。うまくはなるのです。やるのだから。ピアノでも何でもやればうまくなるのです。ところが長くやったことでうまくなったところまでというのは、プロの人でもっとたくさんいるのですから、勝負にならない。長さは、ベースの再現性にすぎず、そこにオンした部分しか勝負にならないです☆。

 

 だからやれている人の世界のなかで、何を違って出せるのかというのが勝負なのです。やれない人のなかでやったというのは、それだけのことでしかない。

 

 ところがトレーニングというのが、けっこう日本人は好きなのですね。だからヴォイストレーナーもいい先生がいて、そこでやられているようなことは健康法のようなことなのに、それをずっとやっているとプロになれると思い込んでいるわけですね。絶対になれない。そうやって神経が麻痺して、気持ちよくなっていっているだけです。それは別の意味の呼吸法です。

 

 それがだめなのではない。体が弱い人がやるとか、他の仕事でいろいろな業績を上げている人がそういうところにきて、発声をやってすっきりするというのは、いいことです。

 ただアーティストのベーシックなものとは違ってくる場合があります。共通する部分もあるので、一概には否定できません。

 

 

○ベースの声と息

 

 ベースの声があるのは、今では、外国とのハーフみたいな人が多いです。日本語以外の言語をペラペラしゃべれるような人のなかにたまにいますね。韓国、中国のロックというのは、私は耳で聞いてみると、区別がつかない。日本人のロック、ジャズなどは瞬間的にそれだとわかります。ジャズもほぼわかります。外国語の8割の歌に関して、これは日本人だということがわかってしまう。発音がきちんとしているということも逆にいうと日本人らしいということでわかりますが、まず深い息が聞こえない。

 

 今のレコーディングは、デジタル加工して、こういうものを聞こえなくしているものが多いです。エコーがかかってしまうとよくわからなくなりますが、だいたい日本人が吹き込んだものは、音だけを並べていっている場合が多いです。

 息を吐いて言語をつくることが、日本人の持っていない部分です。

 

 もうひとつは、声楽出身の人は、声のひびきに変えてしまうことに重点を当てています。だから単純です。

 ここで取り上げるヴォーカルが特殊なヴォーカルなわけではありません。むしろあまり加工していないヴォーカル。音響で加工してしまったり、自分のなかのテクニックで違う出し方をしていない。ストレートに歌っている人を並べています。

 今の息の使い方は、聞こえましたか。浅い息と深い息というのは、何となくわかるでしょう。ヴォーカルが使っていくところは、本来は深い息です。クラシックも同じです。

 

 深い息を声にするポジションというのは、日本語の場合は必要ないのです。イタリア語やドイツ語にはあります。英語のほうが歌いやすい、声になりやすいというのも、リズムの言語で、かつ、そのポジショニングの問題です。日本語は浅いところです。

 

 その辺の問題を考えていかないと、本来、外国人の高音はそんなに高いところで出されているわけではないのです。ピッチではその高さの音には届いているのですが、子音中心、少なくとも日本人が考えるソプラノやテノールではないということです。息もです。深いポジションでとったときに音色が違ってくる。

 

 自分で勉強をするときに気をつけてほしいのは、ふつうの人は大きな波があるのです。すごい調子がいいときと悪いときがあります。この悪いところよりさらに悪いところでトレーニングされていることが多いのです。

 調子がよくて自分でも笑っていたり2、3年に1回のすごい声が出たというベースのところからやるのです。本来トレーニングは、ここから上のことをやらなければ意味がないのです。

 

 ところが緊張してドキドキしている。さらに悪いところから伸びたということが行われるのです。

 私はこれの声を本のなかではベターな声といっています。これを鍛えられた感覚や磨かれた体、鍛えられた体でベストにしていく。その人が持って生まれたものを鍛えたところのものまで、もっていけるようにすることがトレーニングですべきことだと思っているのです☆。

 普通の場合は、単に調律がされているだけです。

 

 あなたがすでに持っている声のなかで、よかったり悪かったりしているのを、せいぜいそのなかの一番いい声にしようとしている。歌のときに悪くなってしまう人が多いからです。台詞にしたらしっかりと声になって、歌でないようなものをやらせてみたりすると、けっこう響いて、いい声が出ていたりする。なのに、歌うなり何か違うことをやってしまって、その声を生かせない。

 

 多くの場合、今の上下の範囲のなかでやるのですが、それではトレーニングの意味がないのです☆。

 ここをやるためには感覚をつくらなければいけないし、それから体としての楽器をつくらなければいけない。だからここがトレーニングだという考えなのです。

 

 ワークショップはどういうことをやるかというと、鬼ごっこをしてみたり、皆でわーっと騒いでみたり、コミュニケーションをよくしてみる。外国人が日本人とゴスペルをやっているのもそうだと思います。楽しく明るく元気にやることによって、この状態をつくろうということです。それもわかります。この状態の人、ステージにきて上がってしまって悪い状態になってしまうような人が、いい状態にしないことには何も始まらないです。ここだけで終わってしまうのです。ここがヴォイストレーニングだといわれている傾向があります。

 

 そういう場合は、どちらかというと悪いものをニュートラルに持っていくということ、これも必要なのです。喉の手術をしたような人は、ふつうに話せるようにしていく。

 健康な状態の人に、これを目標にとらせるのはどうかと思うのです。私から見ると、ここが最低限です。ここからどう伸びるかということでやっていかないと、差別化できないのです。

 だからここまでで一番よくなっても、カラオケのうまいサラリーマンやOLに負けてしまうのではないかと思います。苦手でそういうトレーニングをしたところで。

 

 

○力で鍛えるのではない

 

 調律というのは、感覚と楽器を高めたところで必要になってくることです。皆さんの場合、今まで使っていた中で一番よい声が出るようにするということが、一番よいことです。それをすぐに高い声を出そうとしたり、大きな声を出そうとしたり、無理に息を使おうとしたら、声は出なくなってしまいます。

 

 ヴォイストレーニングで実際にやられていることは、声を壊すことが多いです。カラオケで歌って、それで日常を送っている人が、1時間も声を出していたらどうなりますか。だんだん疲れていって声が出なくなってしまいます。これはステージや舞台をやっている人もそうです。それでもう喉がガサガサになってしまって、喉が疲れてドクターストップがかかってしまって、また出ていって、結局オンしていない。悪くなっては普通に戻し、というようなこと。

 

 スポーツはそういうことをやっていくと、何やかんや力の抜き方を覚えていったり、筋肉がついていったりして、案外うまくいくのですが、ヴォイストレーニングを体育会系の人は、「他の人が5年以上かかることを私は1年でできるぞ」と、すごい勢いでがんばってやるのだけど、大体が喉を壊してしまいます。

 

 時間がかかる部分はあるのです。要は、喉自体が強い楽器や筋肉ではないので、それを力で鍛えるということ自体が、スポーツでも効率が悪いやり方だと思うのです。それでもスポーツの場合は、使えるところまで使ったら、それ以上使えないわけでしょう。ダウンして、倒れてしまう。人間が生きていくためにそういうシステムです。

 ところが喉の場合は、そういうことがないのだから、壊せるところまで使ってしまう。壊しても使ってしまうのです。そういうところでは気をつけないと本当はいけない。

 

 ここのところでずっと抜け出せない人のほうが多いです。歌もそうです。プロになれた人は努力しないで、デビューできるのに対して、トレーニングをして10年やっても歌の音程がとれない人とか、うまくない人は世の中にたくさんいます。ピアノでも10年やっていたら、相当怠けていた人でもバイエルくらいは弾けるようになる。ゼロから始めるから、5年やっているのならこのくらい弾けるでしょうと、英会話もそうですが、時間軸で見れます。ヴォーカルに関してはそういうことは一切成り立たない。

 

 今まで歌ったことがないのですという人がすごくうまかったりする。それは絶対歌っていないわけではない。そんなにはやっていないのにうまい人もいれば、レッスンにいろいろなところに行っても、歌ってみたら、下手だという人もいるのです。

 そういう意味でいうと、こういう感覚のことをとても重視していかなければいけない。役者は年月やることで変わっていけることがあるのですが、ヴォーカルの場合は、感覚のよし悪しというのが、とても大きい。

 

 それをどこかで入れておいてください。今日聞いたものでもそうです。普通の人が聞くと、声を大量に出しているところと高く出しているところしか聞かないのです。そこができないからといって、まねして、声を壊してしまう。

 人間の体であるかぎり、限界が必ずあります。どこまでも高い声や大きな声が出るわけでもない。与えられた体を鍛えたところのベストの限界までしか出ないし、それで歌うには充分すぎるということです。

 それで歌のほうが大変であれば、自分に合っていない歌、選曲してはいけない歌なのです。好きとか嫌いとかではないのです。自分がそこの作品に価値を出せない歌なのです。

 

 1オクターブしか音域がない人でも、すごい歌唱力で歌っているふうに聞こえる場合もあります。表現がわかっていたら、声量や歌唱力があるといわれてしまう。声から見るとまったく限定された、喉頭がんで手術をし、楽器としては壊れ、ことばもいいにくい、リズムもとりにくい。なのに、きちんと聞けるというのは、彼女の持つ音楽性です。

 楽器もすぐれているほうがいいのですが、音楽性がないことには、本当の意味で人をひきつけない。感覚というのを体だけの感覚でとるというよりは、ヴォーカルの場合であれば音楽の感覚からとっていったほうが実際は早いと思います。

 ヴォーカルの場合は、マイクを前提に考えていく。たまにアカペラという人が来ますが、それは声楽から考えたほうが、日本の場合はいいような気がします。

 

 

○サラブレッドをはずす

 

 私は、万が一ですが、こういう人が受講生ができたら、トレーナーからやりませんかといいます。それは2つの意味、いい面と悪い面とです。ここまで、歌える人はなかなかいないというレベルがまずひとつ、それから声のどまんなかのところでやってきているということがあります。

 もうひとつは、これでソロをやってもJ-POPや日本の今の音楽業界は、こういう人は受け入れない。ということはどういうことなんでしょう、今の10代20代が聞くマーケットと、この歌い方は相容れないのです。

 

 こういう歌い方の人は日本でもたくさんいます。トレーナーはこういうものを目標にするかもしれませんが、私はここで目標にしない。こういうものはオーディションで選ぶしかないです。1万人いて、こういうふうになれる人は1人か2人です。これはわかります。

 

 芸大に入っても、トップをとれる人とビリになる人は、努力だけが違うのではないのです。もって生まれたものとか体とか、そういう声帯の出来が違う部分があるのです。これはクラシックの世界で、サラブレッド的な意味で持ってうまれたものが半分くらい、努力をしています。でも努力を5倍したからといって成果が5倍上がるわけではないのです。むしろその分野に向いてない人が方向違いの努力してしまうと、結果としては出せなくなってしまいます。

 

 私はここを目標にとりません。この2つの意味があります。目標にとるとしたら、オーディションして、こういうふうになれるという人だけをとります。これはある意味では良心的なことだと思います。

 トレーナーは混同してしまう。その目標がこのくらいならいいのですが、大体自分の目標くらいのところにしてしまう。それは無理です。

 

 要はプロになりたいという人に、プロに教えたこともないトレーナーが、何ができるのかというあたりまえの疑問です。トレーナーがプロのように歌える必要はないのです。トレーナーに必要なことは、そこに何が欠けていて、それを何をやれば補えるかという、相手をどうするかということです。これに対して、バンデラスはどういうふうにやっているかと。

 

 この手のタイプは、役者からはみ出してきたタイプしか日本ではあまりいないですね。正統的にクラシックや発声をやってしまうと、頭から切られます。おかしなことで、これを禁じてしまったら、世界中のロックはすべて禁じなければいけなくなってしまう。ジャズもそうです。その現実と遊離してしまったところで回っている。それが、トレーニングになっている。

 

 

○内から変えていく大切さ

 

 日本人と外国人の感覚を、比べてもらおうと思います。こういうふうに聞かせていることが本来のレッスンです。

 その聞き比べることができる耳においてしか、本当のことでは自分の声も変わってこないのです。まったくの未経験者はやればやったところまで何とかなりますが、今まで歌を歌ってきた方は、ヴォイストレーニングや発声をやっていないといっていながら、そのことはある意味で人についたことがないだけであって歌のなかには含まれているのです。

 

 よくプロの歌手に「ヴォイストレーニングなんかをやってみても」といわれることがあるのですが、でもその歌い手がきちんとやっているということは、どこかのフレーズを何回も歌い変えたり、歌い直したり、プロとしてやってきているわけです、私たちからいったら、それもヴォイストレーニングなのです。

 ただ、ヴォイストレーナーについていることがヴォイストレーニングだと思っているから、そういうことをやっていないという話になるのです。

 

 ということは、あなた方も同じことがいえるのであって、今までヴォイストレーニングを受けていないといっていても、その歌のなかで歌を研究してみたり、節回しをちょっと変えてみたりキーを変えてみたりしていたら、それはヴォイストレーニングなのです。

 発声というのはコールユーブンゲンだったりドミソドソミドというものということではないのです。歌を歌うということ自体が、もう発声練習になっている場合もあります。ここはそういう使い方をします。

 

 レパートリーにする歌というのはあまり使わないです。それは自分で考えて自分でまとめるしかないからです。ここでやるのは歌を壊すことです。そうすると壊した歌を、使えませんから、喉を壊すよりはましです。

 だから声というのは、ある程度やってくると、今度は感覚を変えないかぎりは声の出し方は変わらない。どんなに外側から声を出そうとしても、それはきっかけにすぎない。

 

 たとえば、ここを上げなさいとか顎を引きなさいとかありますね。でも本当のことでわかっていたら、映像で歌い手は見られるわけです。だから自分のを録ったり鏡で見たりすると、外側だって直せるわけです。

 内面的なものをどう得ていくかというのは、まず耳です。耳なのですが、聞こえる音ではないのです。聞こえている声のベースにあるところの体の感覚をとっていかなければいけない。頭だけでいくら考えてもだめ、そこに入っていくしかないのです。

 

 

○自分を壊すこと

 

 最近若い人とやりにくくなっているのは、自分を守るのです。要は自分が自分であり、自分の歌だということを守るのですが、それだとトレーニングは成り立たないのです。

 本当の効果を上げていくトレーニングというのは、自分が壊れてでもいいからもっと深い自分を引き出す。そのやり方というのはひとつしかないのです。

 高校生ならクラブでどんな一所懸命やっても、試合で負けた。練習時間を2倍にしようとしても、相手もそのくらいやるわけだから、かないっこない。そういうときに何が違うのかというと、イメージを入れるため、バスケットの試合を見る。もうひとつは大学生やプロと混じってやってみる。

 

 混じってみたら5秒も持たない。ふっとばされたりする。でもそういうところで一瞬でもついていけたり一瞬でも違う動きが起きたとしたら、それは唯一今のレベルから抜け出せるチャンスなのです。

 だから一流のものに引きずられるようにして、感覚や体が持っていかれたときではないと、本当のものは身につかない。

 

 そういうことを経験した人でないと。それがわからなければ、厳しい舞台に出なさいということです。お笑いの人のように舞台に出て、歌ったときに、本当に客に伝えられるものをやるには何をすればいいのかがあれば、少しはわかるようになる。

 

 仲間内で、サークルをやって身内を呼んで、そこでうまかった下手だったといわれているところでは、どんな感覚が必要か、あなたが元気でやれば、それで喜んでくれるじゃない、そうしたら元気にやることだけがすべてで、芸術的なものにはならない。レベルの高いものにはならない、問われるものが違います。

 

 

○虚飾をはずす

 

 ほとんど日本の場合の歌のステージは消費されている。歌手は昔の歌を歌いこなす。それはイベントです。月に一回、年に一回、その人が元気な姿を見て、元気じゃない人が元気を出すということになってくる。それも意味のあることです。ひとつの大きな活動です。

 しかし、そういうこととレベルを上げて創っていくことは、また少し違うのです。両方の工夫が必要です。芸術的に皆が聞きたいわけではない。そこで皆楽しみたいし、そこですっきりしたい部分もあります。それが音楽ですっきりさせられる。

 

 プロですから、そこで力が足りないことを皆知っていますから、いろいろな脚色をつけるのです。本来はベースの力があって、その上に振りや照明をつけて、バンドをつけていたことが、日本の場合は逆ですね。それが全部つくと何となく持つから、どんどん声や歌がおろそかになってしまう。かたちだけがつくられる。それでも客が許します。

 

 本来ならば、客がいなくなって、また元に戻るのです。ゼロからまたやり出す。ところが日本の場合はそうではなく、消費されて飽きられて、また新しい子が出てくる。誰も育たないという、悪い循環です。

 歌ほどごまかしてお金をとれるものはないからです。アイドルで、かわいいだけの子に歌を吹き込ませて、まわりにプロを置けば、お金も稼げるしCDも売れる。コンサートもできる。こんな楽な商売はないですね。

 

 漫才でもやらせても、数年はまともな漫才はできないでしょう。歌は、1ヵ月でできてしまいます。かわいいとかスタイルがいいとかが必要なんでしょう。そうやって日本の音楽が動いてきたところがあります。まともな人もいますが。

 

 こういう変わったものは、耳を鍛えるにはいいと思います。

 ここでやることはストレートなことではないかもしれません。ストレートなことでは変わらないのです。外側からどうやるかは、本なんかで書きやすいです。口のなかを開けましょうとか、でもそういうことは感覚から入ったら開いてくるのです。その感覚がないのにやっても、顔だけ発声顔で、声が伴わない変な合唱団のような人ができ上がってくる。

 

 これは日本人の感覚です。ひとつ前の歌い方です。

 「キサス・キサス・キサス」

 A B Aというサビがひとつあって、あとは全部同じ。これは日本のラテンの女王といわれた方が昔歌ったものです。最初すごく小さく入って、淡谷のりこさんのように。「キサス・キサス・キサス」は有名なラテンの音楽です。

 

 この前キューバでもらってきた歌い手が歌ったのは、こういうものです。A B Aだけど、最初からフェイクが入っている。有名な歌なので最初からどんどん変えていっている。小さく入って大きくする。短く入って長くする、それから低く入って高くするというような日本人の感覚ではない。どちらがいい悪いということではないのです。

 私たちの耳や体は、どちらかというとこういう感覚で動いているから、そういう感覚になってしまうということに対して、これが世界の標準だと考えてください。

 

 

○日本語の感覚を切れない

 

 そこが問題になってしまうということは、それができていないということではなくて、そのイメージと置き方の部分で、まだまだ解決できることが同じ体のなかでもあるのです。それを踏まえないでやっていくと、テノールのような歌い方で解決しようとしていく、それの典型的なのは、ミュージカルのようなものだと思います。とても高音が目立ったと思います。

 

 「エー バー ハー マ、タ」といってしまう。それはしかたないのです。日本語自体がそういう特徴にあって(テキストに書いてあるのであまりいいませんが、)日本語というのは、音になってしまう。高低アクセントで、両方音を発する。「あめ」「あめ」「はし」「はし」、これが「はし」となったら、どちらの「はし」かわからなくなってしまう。だから必ず発音します。音を響かせます。その辺がクラシックと似ています。これが母音中心の言語で、とても珍しいです。ポリネシア語と日本語くらいしかないといわれています。

 

 響かす、発音、ことばにする。高低アクセントはご存知のとおり、音程アクセントといわれる。メロディアクセント。日本の歌はこれで動いていく。その結果、小さく出て大きくやる。長く伸ばす。高くする。そういうことが目立ってきます。その感覚から発声もそういうことを勉強しようということになってくる。

 

 ところがそういうことを勉強したトップの人の歌い方がこういうふうなものになっていく。向こうの人たちと、日本人の歌を比べてみると、何か古いなという感覚になってしまうのです。

 今の若い子たちはそういう歌い方をしていない。原曲も古いのです。1950年代の曲です。

 

 それを日本の場合は、向こうから入れて向こうより後に歌っているのに、なぜかグループサウンズでも何でも、今聞くと全部古いでしょう。ポップスだからいいのですが、向こうのものはビートルズでもクイーンでも今だからといって、全然古くないのです。

 

 それがどういうことなのか、ことばで聞いていることもあります。日本の場合、ことば自体が古くなることがあります。こんな歌詞では歌わないとかこんな男と女の時代ではないとかいうようなことがあるのですが、外国語というのは、そう変わらない。

 英語でいうとHでハーと吐きます。

「H――――」と吐いているひとつのなかに、拍ができてきます。強拍。これに全部が巻き込まれます。

 

 日本人の英語が、発音は正しいけれど、それっぽく聞こえないのは、弱拍の部分をきちんと巻き込まないでいってしまうからです。ここまで発音してしまう。これは子音が中心、息を吐くことに対して何かを邪魔させるのが子音です。発声からいうと肺があって、息があって、声帯があって、このまま共鳴して出てくると母音になります。ここまでは楽器と同じつくりです。

 

 これを唇や舌や歯で妨げると子音が出てきます。同時に息を妨げるところに、音色が表れてきます。強弱というのはリズムです。向こうのヴォーカルは、いわゆる音色とリズム中心です。

 この辺が本来の発声に関わってくる。なんで高いところがあんなに楽にとれるのかというと、子音の周波数自体が高いからです。周波数というのは音の高さ、ピッチです。もう一曲聞いてみますね。ここで音楽ということの違いを聞いてみてください。

 

 

○歌で不自由にしないこと

 

 日本人は形を受け継ぐようなことで行われてしまうことが多いのです。もっというのであれば、創造するとか新しく何かを起こすことに対して、否定的なのです。思い入れ、ノスタルジーに浸りたいというところで成り立っています。

 ジャズのヴォーカリストのプロもここにも何人かいます。お客さんにいつも歌わされるのはスタンダード、自分のオリジナルや新しい作品を持ってきても、受けがよくない。

 

 海外のアーティストがきてもそういっています。日本で一番拍手をもらえるのは、今、私が一番歌いたい歌ではなくて、昔のヒット曲だ、それをラストにもってこないと、お客は満足しない、でもそれがあるとお客さんはきてくれる。他の国に行ったときは一切やらないし、やりたくもない。今のことをやりたい。今、生きている世界、今、自分が思っていることをやりたい、あたりまえの話です。それは日本人の心情なので、あたりまえのことができない。

 

 いい加減に歌っているところもあれば、歌詞を変えてみても、フェイクしているのもよくわからない。そのいい加減さがポップスの自由さです。声を問うているわけでも響きを問うているわけでもない。

 

 何が決まってしまうかというと、あのなかであの人が3回歌ったら、どの回が一番よかったのかはっきりわかってしまいます。それからオーディションをしたときに、誰が一番いいのかもわかります。要は個性ではないのです。ひとつの土俵の上で、その技術を争っている。だから技術点としては、高い人がよいとなります。

 

 ただバンデラスのように、けっこう適当にやっているような歌い方は、自由度があるから、人と比べられないのです。何をやってもいいというところがある。

 私から見ると、そっちのほうが歌。歌は自由になるためにやるものだと思っています。日本人のようにしゃべったほうが自由なほうが、わざわざ歌って、客を退屈させているという、その構図自体がわからない。

 

 音楽や歌を歌えば何でもありだという。日本でも、そういうところはわける必要は全然ないわけです。実際、今お笑いをやっている人の何人かはミュージシャン志望でしょう。あれなんかを見ているとそれが歌なのです。あれを歌といっていいと思います。ラップといっても。さだまさしさんなんかは、噺家になりたくて上京してきた人ですから、それも分ける必要がない。彼のコンサートはどちらかというと話ですから。歌もいいものをつくっていますが、作詞作曲の才能が入ってしまうと訳がわからなくなってしまう。

 

 創造する製作するといった場合、日本の場合の創造性はメロディメーカーや詞をつくることにかぎられる場合が多いですね。歌のなかでどう歌唱するかの創造ではなかなか認められなかったりします。

 お客さんの問題というより、アーティストがそこまでの創造をしないことに対して求めない。でもトータル力ですから、歌唱力がなくてもいい曲はつくる、いいアレンジができるのであれば、それは作品として認められるのであって、その辺のスタンスの取り方がヴォーカルはいろいろありなのです。

 

 

 

 

 

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【京都 基本の基本 4053】

 

 

 

○イメージと聞く力 

 

 この前の合宿では、課題曲から脚本をくみあげ、それを音の世界にもっていき、ことばと音でつないで表現するステージを、25分をやりました。  

自分がどこで勝負ができるかということを知っていかなくてはいけません。自分がやったことに対して、それをフィードバックしてより正しいものをとっていくことをやっていくのです。  

 

いろいろと必要なことがありました。筋力トレーニングや、心肺機能のトレーニングも必要です。集中力を高めることも大切です。今回は2年前後の人が中心でした。期間は関係なく、トレーニングをきちんと積んでいる人、基本がきちんとできている人というのはすぐにわかります。 

 

 ポップスの場合は、声楽からみると、間違った発声が作品に使われていることが多いのです。でもそれを間違えだとすると、その人の個性のなかのある種一番いいところがなくなってしまうこともあります。そこが難しいのです。  

 

人間の体の原理として、声の出てくるシステムの部分は同じ、声楽の場合と違うのは、上に立つところの出口が決まっていることです。始めに音が決まっていて、音が下げられない、移調できない。ということは、そのキィまでの音域をとることが絶対的な条件としてあるわけです。すると取れないような声の出し方をしていると、間違いということになります。 

 

 でも最初はよくわからないのです。大体は、それが正しいとか、正しくないと判定できる以前の状態なのです。声というのは自分の思ったとおりに出ます。自分で思っているのと違う形でできている人もいますが、少なくとも自分が全然イメージしないようには出ないと思います。  

 

ピアノというのは、勉強したらある程度までスムーズに上達していく。というのは、ミスタッチしたら、それがすぐに跳ね返ってきて瞬時にわかるからです。歌の場合は、音程ミスでさえ、どこがややフラットしているとか、シャープしているとか、なかなかわからないのです。発声に関しても同じです。 

 

 今みたいに声を回している時に、どれくらい声を聞き込めるかということです。それを自分でフィードバックして、それに対して調整する機能がどのくらい働いているかということです。  

だからステージでも同じですが、自分で引き受けなくてはいけません。今のでも、何人かの人はピアノに反応していますが、あとの残り大勢はまわりの声に反応して出しているのです。もうすでにそこで遅れているわけです。 

 

 東京では、クラスが5つに分かれています。入ったばかりの人とは、立っているだけで、顔つきからして見ただけでわかります。眠そうな人なんかは上のクラスにはいません。初めての人たちがダメということではなく、そういうふうに体や心の状態も変わっていかなくてはいけないのです。  

 

レッスンというのは、自分が先に何か出して初めて成り立つものです。自分のなかでそういうものをコントロールしていかない限り、常にオンしてはいけないということです。  

レッスンに来ることはできるし、声を出すこともできます。それはその辺の高校生でもできるのです。 

 

 ある時期おかしくなるのは構わないのです。本当に基本を身に付けるということは、自分が出したものを、感覚のなかで正していくということです。たとえば、息を吐けるようになる、体が使えるようになる、大きな声が出るようになると、どういうふうに自分で選んでいけばいいのかということです。やっているうちにいろんなものが出てくるのです。それを私たちが選ぶのではなくて、本人が選んでいかないといけないのです。  

器が大きくなればなるほど、そのなかでどれを選び、他の全てのものを捨てていかなくてはいけないのです。そういう感覚をきちんと働かせているかどうかです。そうしないとステップはアップしていきません。  

 

 

○走らせていく 

 

 たったひとつの「ハイ」からでもいいのです。ピアノと一緒にすぐに「ハイ」と入れる人と、すぐにパッと入れない人では、それが明らかに大きな力の差のひとつになってくるということです。  

楽器を弾くように、自分のなかに音楽を走らせていくということは、大切なことです。声の世界、音の世界は見えにくいものです。  

初心者の人は、頭で計算して考えているので、リズムでも遅れてしまうのです。上のクラスであれば、15分で1曲終わってしまいます。20分後にはメロディが完全に頭に入ってしまいます。

 

 日本語はつけますが、中にはイタリア語でやる人もいます。  

その人のなかに音楽が入っていたら、それをベースに音楽は作られているわけですから、そうすると、新しく覚えることというのはほとんどないわけです。その人のなかにどんなにイメージがあっても、どんなに考えていても、出たものでしか判断できないのです。出たもののなかで、どこが悪いかを本人が踏まえ、何が足らないかを付け加え、そして変えていかなくてはいけません。 

 

 1回目やったことと、2回目やったことが何も変わらなければ、その人のなかで何も働いていないということになります。  

そのレッスンで何がやれるかということよりも、レッスンでやったことができていないということをきちんとつかんで、家に帰ってから補充しておいてください。だからまず他の人の声や作品に厳しくなってください。そうしないと基準ができていきません。  

 

「ハイ、ハイ、ハイ」  

基本ができていない場合に、トレーニングが成り立たないことがあります。今やりたいことは、息とか声の方に神経がいくようにしておくことです。  

ストライクゾーンで勝負しなくてはいけない世界で、ボールのくそっ球とか、ワンバウンドしたものまで、全部を打とうとしているような気がします。必要がないものは、切り捨てていってよいのです。 

 

 確かに音楽は自由だし、ポップスというのはいろんなものがあります。しかし、基本の勉強をするときには、一応そういうものを外してみなくては、どれを選ぶのかというのがわかりにくいのです。  

だから人間の体の原理に基づいたところで見ていかなくてはいけません。自分の自習練習というのもあります。歌というのは本来、人前でやるのが前提ですから、そこで何を奏でられるかということを自分が実感しなくてはいけません。その実感があって初めて、他の人たちに伝わるということなのです。  

 

1年くらいはほとんどよくならなくても、2年くらいは力が伸びなくてもいいのです。それでは何にもならないと思うかもしれませんが、まったく声しか響いていない空間において、声というのはこういうふうに聞こえてくるということがわかってくる。それとともに、力がついてくればよいのです。 

 

 半年前に比べ、今はこんなふうに歌えている方が最初はよかったけれど、声も全然変わらないし、一人よがりのままだというより、よい。そういう判断がついてきます。「ハイ」をもう一度やりましょう。   

 

他人のなかで自分のことを判断する、そして自分のなかで他の人のことも判断することです。他の基準からいったら、違うという高い基準がもてると思います。基本的にできるということを、問うのであれば、他の才能で外の世界でやっている人はいますが、音を問うこと、声で問うこと、それがあろうがなかろうが、オリジナルのフレーズ、音楽のなかで働きかけられるようにしていくことが表現です。今考えてほしいのは、レッスンも含めて可能性です。こいつは何かなりそうだなというものを出してもらえればいい、それだけです。  

 

 

○働きかけ 

 

 いろんな思い込みのなかで声が扱われています。こうやって全部まねされてしまうということは、感覚として鈍いわけです。  

野球でも、感覚的に打点のところに最高のスピードで送り出すのです。バレーでも、全身を使って、一番自分が、物理的現象として力が出せるところにボールをもっていく。体を一つにして使うということは、声の場合はスポーツよりも難しいことです。歌ももっと難しいです。それはイメージした通りに、できてしまうからです。 

 

 スポーツの場合は、肉体的限界とその問題がすぐに突きつけられますからわかりやすいのです。こんなことをやっていても通用しない、無理だということがわかるのです。そうすると、試合をやらないで基本のトレーニングをやります。  

歌の場合は、大きな声が出る、高い声が出るというだけで、歌だと思ってしまう。そんなはずはないはずなのに、実際に自分でやったときにそれしか見えなくなってしまう人が多いのです。 

 

 「ハイ、ララ」  

単純なことですが、働きかけてくるかどうかです。「ハイーラーラー」だと思ってやっている人は、これ以上のことはできません。それを許してしまう自分を変えなくてはいけません。 

 

 できないのはよいし、体がまだ伴っていないのはしかたないのですが、それよりも先に感覚が伴っていかないと、直らないのです。  

そのことを伝えることは難しいです。その人のなかで「ハイーラーラー」という感覚しかなければ、「どこが悪いんですか」と聞かれても、「通用しない」というしかないのです。他の世界、スポーツとか、学校の勉強とかは優秀かもしれませんが、ただ歌とかトレーニングに関して、そのテンションでやっていてもしかたないということです。  

そんなことに自覚がある人であれば、くる必要はありません。自分でやっていればうまくなります。普通の生活のなかで実践している人がヴォーカルにはたくさんいるのです。これが楽器と一番違うことです。 

 

 日常の生活のなかで、声を使うことに関して、それだけの厳しさを要求されるような世界もあります。そうすると、そういう中から、表現力を獲得できる人というのは、稀にいるのです。  

 

まわりの人に合わせないで下さい。それは、どこにいってもいっています。他の人に合わせていたら、全部間違いになります。それが集団でやるときのデメリットです。それが悪いのかというより、それに気づかない方がおかしいのです。自分でおかしいと思うものは、おかしいのです。どれだけ、それはおかしい、違うといえるかという世界です。そういうことでいうと、ステージの基準というのも簡単なことなのです。  

 

「お前を」「あなたを」  

目をつぶってみて「私は」だけでやってみましょう。それで自分がよいと思ってしまったら、それでよいのです。「私は」の練習をやるのは、ことばとか、声に対して、それだけ神経を働かせるということです。 

 

 それがわからないうちは、わかろうと努力していかなくてはいけません。でも本気になってそれを伝えようとしたら、相当伝わるものなのです。そのときには、自分のよい表情とか、表現が出ているはず、あるいは出せるはずなのです。それは音楽とか、歌から考えてもみたら、かけ離れてしまいますが、年月の問題です。  

 

才能の違いでも何でもありません。自分で「お前は」といってみて、それをOKにするか、嫌だと思うかどちらかです。それはよいものを聞かないとわからないのです。それはその人がどこをとり、どこを捨てるかというような、その人の本当の内部での判断力になります。そういうことを実感していくことです。  

今はできなくてもよいのです。できたと思った瞬間、そこで進歩が止まります。できていないということが、どういうことなのかを少しずつ感じて、感じていたら、やがて力をもつようになってきます。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レクチャー録1 【「歌唱論1」4563】22,691字 1732

レクチャー録1 【「歌唱論1」4563】  1732

 

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【レクチャー「歌唱論」4563】

 

 

○3つの問題

 

Q.自分が歌っていて、うまくないというのはわかるのですが、どこがどううまくなくて、どこをどういうふうに練習していったら、直っていくのかがわからないのです。

 

 ここ最近、紹介で来られる方が多いのです。いろいろなことを聞いて、いろいろなことを思う。ここでやっていることは、すごく難しいわけでない。ここで褒めて認められたら、どこでもやっていける。

 ある程度は論理的につめられるところがあります。うまくないということは、何かしら自分のうまくあるべきという理想像があるわけです。それに対して自分のほうがそれに伴っていない。何をするのかがわからなくても、理想像をきちんとイメージできていたら、いくつかの方策しかないのです。

 

 まずひとつは、そのことができるかできないか。たとえば私がマライア・キャリーのように歌おうというのは、まず男性として生まれている限り99パーセントはできない。1パーセントはできるかもしれない。日本人でも米良さんや岡本さんのような人がいます。あの声があったからできるかどうかというのはまた別として、まずできるできないのところで、すべてできるわけではないということは知っておいてもよい。持って生まれたもの、あるいは体の原点というところがあります。

 

 それからもうひとつは、方法はともかく、アプローチしだいでは今の声でもできるがあると思うのです。感覚がよければ、大体できる。リズム感や音感の問題であれば、そういうことを磨くことによって、できるかもしれない。

 そこに全ての方法があるというのではないのですが、もうすでに今の体でできることなら、やればよい。繰り返してやることなのです。

 

 3つ目は、今の自分を変えることによってできるかも知れないことがあります。

 それぞれにその3つをきちんと見ていくことが、自分の自主レッスンです。

 

 私は、そのイメージ自体、それをはっきりさせることをやっていくことがほとんどです。イメージというのは、ほとんどのアマチュアの人が思っている、こうなればいいなということが、本当にそうなればいいのかということです。

 私が見ている経験からすると、ほとんど違っています。まずひとつは、それは誰かでしかないということがほとんどです。若い人はほとんどそうです。

 

 マライア・キャリーになりたいというのは、適切なイメージの設定の時点でかなり無理なことがある。当人の能力どうこうではなくて、誰もが同じことができないし、同じことをやったところで意味がないということもあります。

 だからそこはイメージの設定です。

 

 要は自分の可能性の延長上のところに、目標を置いているのではなくて、他人のやってきたところ、あるいは自分のできないところに目標を置いていたら、これは誰でも失敗します。でも、多くの場合はそうなりがちなのです。

 それはしかたないのであって、歌い手は必ず、誰かの作品や歌に感動して、その世界に入っていき、その感覚で歌えていることを心地よく思います。

 

 プロの方でも案外とそういう部分があります。だからその思い込みを除かなければいけなません。その人として何ができるのか、上にイメージを置かなければいけない。これがまた大変な作業です。

 私たちも完全にできているとはいえない。というよりは、これはわからないのです。最後まで答えが、果たして、それがよかったのかどうか、検証できません。でも確実に上達します。

 

 

○トレーニングと実践と分けること

 

 「ミリオンダラー・ベイビー」こういうボクサーの世界だと、優秀なトレーナーであって、その経験がある。かなり確実に上達プロセスがわかるだろうなと思うのです。

   ヴォーカルの場合というのは、ひとつはその人が持って生まれたもの、ボクサーにもあるのでしょうが、もっと見えない部分でたくさんあります。

 それからもうひとつは、その時代によってルールからリングから、全部変わっていってしまう。ボクシングの場合はある程度、定められた中での勝負、まさに相対的な部分です。どういう条件が必要かというのは、スポーツはけっこう単純、といっては申し訳ありませんが、一流の分野においてのプレイは別としたら、基本の部分のあるところまでは、単純に早くとか高くとか遠くという力です。それに対して筋肉が、どれだけの強さを持てばいいかというのがわかるのですが、歌の場合は、その辺がわかりにくいというのがあります。だから、その人の延長上に目標が持てるというのは、私が見ているかぎり、ここでも4、5年いて、そのなかでも1、2割かなという感じです。ただ選ぶのは本人なのです。

 

 要は私たちは、材料として示すことはできても、最終的にその人がどう歌いたくて、どういうステージをやりたいかは、こちらは何もいえません。

 ただそのことがあまり有利ではない、できたらこういうほうが、あなたの本当のオリジナリティではないかというようなことを指摘はできます。3、4年付き合って、ようやく本音でいえるようになっていく、ここは早くやめる人はあまりいないので、その方もそのくらいになってきているのではないかと思うのです。そうなって初めて本当の面白さ、可能性が出てくる。

 

 当然、芸能界にデビューする分野と違うようなルートがないわけではありません。研究所で勉強してやっていこうという場合には、あまりそういうところは頼れない。抜群にルックスがいいとかオーディションに全部通ってしまうという人ばかりでない。そういう人がくるようになれば、日本のレベルも上がってくると思うのですが。

 

 皆、出てライブをやりますが、なかなか続けてやっていけない。それはあたりまえのこと、実力の通りなのです。

 いわゆるアマチュアかプロかいう分け方は、私の意識のなかにもないのです。プロの意識でアマチュアをやっていく。お客さんにお金を出してもらうのですから。皆、お金と捉えますが、プロだって儲かっていないのです。ライブをやったくらいでは、皆、赤字です。CDが売れるから何とかやっていけるだけで、ライブだけで、お金がざくざく入るということはない。日本の場合、規模が大きいほど、費用が莫大にかかります。

 向こうの連中のようにギター一本でアコースティックでやっていたら、何百人か集めてというようなかたちで、やれる人もいなくはない。タレントで、昔やっていたような人では、一部いなくはないですけれど、知名度がいります。

 

 時間の問題が大きいですね。今のお客さんが時間を割くということに対して積極的になれるものということになると、何をもってステージかというのが、難しくなってきますした。結局、昔は私は3倍くらいといっていたのです。たとえば5千円の値段としたら、1万5千円の価値を出せばいい。今どき3倍くらいではだめですね。人が紹介してくれない。10倍以上の価値を出さないと、人は動いてくれない。

 東京は、いろいろなイベントや楽しいことがたくさんあります。そういう意味でいうと表現に価値のあるものは、はっきりしてくるような気がします。全身で歌うということは、教わっても身につけるのはむずかしい、というより、必要性ですね。その必要性が叩き込まれていないかぎり、体は動きません。

 

 

○上達をめざしてよいのか

 

 歌というのは逆になりやすいのです。要は上達したいとかうまく歌いたいということは、下手に思われたくないわけです。ミスを指摘されたくない。するとその考え方自体がもう守りなのですから、全身を使えない。

 全身を使うというのは、それだけリスクが生じます。それを分けなければいけない。

 

 そもそもトレーナーの立場からいうと、トレーナーがいるということと教わるということ、学校で歌をやること自体が、上達をめざすことにならざるをえない。そこの見返り、お金を払った見返り、通っている見返りは何なんだ、それは上達することだということになる。本当は違うのですね。

 

 あるいは自分で練習してもそうですね。上達というのは何によって証明されるかというと、まわりの人がうまいねといってくれたり、うまくなったねといってくれたり、それは誰かのようになっていったね、プロが歌っているようなものに君は似てきたよということなのです。元々そこが間違いなのです。

 間違い正しいという言い方もおかしいでしょうが、それは下手に思われないようにやっていくだけのことで、間違いなく正しく歌をこなしたら、客が感動するかということでしょう。商品ではないレベル、芸術品である以上、そんな程度のもので人は感動もしなければ、感動しないということは、人が人を呼んでくるということもない。

 

 その辺が、私はトレーナーの指導で気づいたことです。

 トレーナー自身がいろいろな意味で迷ってくる。私はその答えを持っているわけではないのですが、ここの場合は、すぐれたトレーナーと連携してやっている。

 他のトレーナーはだいたいひとりでやっているので、他の人のことがわからないのです。ここにいるスタッフやトレーナーは、私なんかよりもずっと歌も声もいい人です。そのなかでずっとやってきているので、そうするといろんなトレーナーに対しても、どう判断すればいいのかということくらいはわかる。だから、その辺からは難しいですね。ただ本当の意味の必要性がないから、身につかないことでは、目的を明確にしていかなければいけないと思います。

 

 歌ったものを録音して、それを後で聞いてイメージを違うことというのが多いです。音程やリズムは音楽で入れていくしかないのです。本当の意味では解決できない問題です。歌ったものの録音とそのイメージというのは、これも判断は、難しいのですが、録音というのは録音であって、参考にはなるのですが、作品の、本当の意味での判断ベースにはならない。

 

 練習の場合は、自分がやっている感覚だけで歌がなおるかというと、それよりだったら、しゃべった声と同じです。録音したものを聞き返したほうが、客観性があるということです。結局は感覚だけで本当はやっていかなければいけない分野ですね。ただ録音も使いようによっては効果的だと思います。

 

 世の中のいろいろなものがたくさん見ることができることがなったということは、感覚や判断力を勉強するには、使い方によっては有効なことですね。

 だから、あまりいろいろなメソッドで、振り回されないことです。

 

 

○正しいということについて

 

 正しい発声というと、私は一回、音楽の分野を書くのをやめてしまったのですが、書きつくして、もう伝わらない、むしろ誤解のほうが大きくなってしまうのです。本で勉強したといってここに来られてしまうと、はぁー本なんて出すんじゃなかったと思うこともあるのです。

 

 正しい発声を考えることはいいのですが、正しいこと自体を定義していかないとなりません。私は以前から声楽家と組みはじめて、もともと15年くらい前には日本の声楽と違う立場て書いていたのですが、それは私が経験したなかでの自分の体に対してのことであって、世の中ではそうでない目標をもったり、そうではない歌い方をめざす人がずいぶんといます。

 今回の本にもはっきりと書きましたが、ほとんどの人が、自分の作品や製作することやアーティックなことを考えているのではなくて、誰かのように声を出したかったり、どこかで求められることに対応したいと思っています。

 

 そうなると声楽の方がいいのです。これは全世界で、アジアに対しても成果を上げてきた方法で、歴史も実績もあります。ただ声楽というのもピンからキリまであり、指導者によってもやり方も判断も違う。偉い先生だからといって、すべての人を偉くなるように育てたのかというと、そうはなっていない。相性みたいなものもあると思うのです。

 

 正しい正しくないというのは、案外と相性のようなところで判断されているような気がします。その方は、そこにいるのだから相性が合っていると思えばいい。そこがいいからそこにいるのではないと私は思っています。他にもいいところがあるのかもしれない。

 

 ただ、要はそういう考え方をなくしていくことですね。トレーナーのなかでいわれていることは、皆、自分のところだけは正しいということ、私なんかは自分のところが絶対的でないのをよく知っていますから、こんなことをいうと申し訳ないかもしれませんが、ここから未だにグラミー賞にもノミネートされていない。

 

 でもやればやるほどわからなくなってくるのです。自分にとっては正しかったことも、それが人に対して正しいっていえることはないのです。私は正直にそういっています。

 どこかに行って、伸びたからといっても、もしかして他のところに行けば、その3倍伸びていたかもしれないでしょう。ここでだめだからといっても、他のところにいっても、、もっとだめだったかもしれない。比べようがないのです。

 

 冗談ではないけれど、六つ子でも預からせてもらって、その6人に違う条件を与えて、それで育ててみたら、少しはわかるかもしれません。でもその六つ子にとって相性がよかっただけかもしれない。

 そういうふうに突き詰めていくと、科学的なことや医学的なことも勉強せざるをえなくなる。追い込まれて、いろいろやっています。だからといって、それを元に何らひとつ言い切れないですね。

 原点に戻ればいいのです。人様に対して価値を出しているというところでやれている人、声を使ってやっている人が、どういうステージをやっているか。

 

 

○実績ということ

 

 私は教えない、歌は教えることができないと、平気でいってきたのは、すべて個人がつくり上げるものだからです。よくプロって何ですか、ここに入ったらプロになれますか、いろいろなものをこなしていけばプロになれますか、と聞かれました。なれないです。プロというのは製作する人です。その製作したものが人々に対して価値を認められる、この2つの部分があって成り立ちます。

 

 声は、私は昔は、自信をもってメソッドを書いていました。自信を持って自分の声も他人の声もつくってきました。役者みたいにトレーニングしたら、声楽5、6年やるより、ここで2、3年やるほうが声が伸びる。その実績をここほど残しているところは、他にないのは確かでしょう。

 

 すでに、こんな話を聞いて、敷居の高いところに来るんだから、いい面でも悪い面でもふつうの人ではないというのはあるのです。すぐれた人ばかりがきているというふうには思いませんが、それだけのものをかけてやってきたから、それだけのものはとれると。

 ただ声が手に入って、歌がうまくなったからといって、そんな人は全国にいくらでもいる。そういう人たちがやれるということと全然違うわけです。

 

 やれる人はやれるやり方をとっているというので、私の興味外です。今の受講生には、そんな話も、要は商品や作品というかたちにすべきときに、やることは2つなのです。

 ひとつは、どの時代のヴォーカリストもヴォイストレーニングはやっていない。何をやってきたかというと、一世代前のアーティストのすぐれた作品からすぐれてとったということです。すぐれた作品は誰もが聞いています。音楽関係者は。

 

 そこで普通の人が、1本くらいのアンテナでとっていることを100本くらいのアンテナでとる人がいるのです。そういう存在を知ったときに、こういうところでできることというのは、残りの99本を努力によって何とか立ててみる。ひとつしか聞けないものをどうやって100聞くことができるんだろうということを学ぶしかないのです。それが根本的な私のベースの考えです。

 

 

○歌で起こる間違い

 

 歌というのは自分が気持ちがいいように、好きな曲を歌ってしまえば成り立つと思ってしまうのです。自分のなかでは成り立つ。それは客とはまったく違うことです。

 本なんかですぐれているすぐれていないと、好き嫌いは分けなければいけない。むしろ嫌いな曲ですぐれている曲で勉強したほうが、わかりやすいのです。

 好きな曲というのは感情移入してしまうのです。そのことでこの世界に入ってきたのですから、自分が間違わないことで気持ちよくなってしまうのです☆。

 

 間違えないで歌えただけの曲に、どこに価値があるのでしょうかと。それは声楽でもやっている人なら、皆歌えてしまうのです。そういうところでもっていくのがひとつ。

 もうひとつは、その時代にやれた人間を見ておくこと。それを徹底して研究しておくことです。その時代にやれた人間というのは、すでに研究するには遅いくらいなのですが、それでも自分がその後に出ていこうとするのなら、先輩になりますからね。

 

 その時代の接点がつかない人というのは、やれていないのですね。J-POPをしゃべるより、お笑いの子の話ばかりしています。そういうところで、声ってどう使われているかということをみていったほうがよいでしょう。

 今のヴォーカリストの声に対する鈍感さから見たら、よほど彼らのほうが鋭いし、声に対しても訓練、鍛錬をしています。それにお客さんが判断をします。今のヴォーカルがかわいそうなのは、よくても悪くても同じような反応しかしてくれないということです。客自体が、本来成り立っていないのですが、音楽がついてしまうと成り立ってしまうのです。それでお金が入ってきたり、与えられたりするから。

 

 あれがお笑いだったら、はっきりいうと成り立たないです。もう二度と聞きたくないといわれて終わりです。退屈してしまうだけで、閉じ込められたところから出れないわけですから。ところが音楽は摩訶不思議なもので、特に日本の場合はそういうふうに使われてきました。それも突き放して、本当に意味では見ていかなければいけない。

 

 ところが音楽を教えている人ややっている人は、音楽を愛していますから、そういう考え方を嫌うのです。皆で楽しくやっていればいい、楽しくやっていれば伝わるからと、私からいわせると、本人たちが楽しんでいるものを何で客が楽しめるんだという、あたりまえの話なのですが、求めるレベルでいうのであれば、違うのです。

 

 お客さんは金を払って、時間を費やして、何をしにくるかというと、やっぱりすっきりしたくてくるのです。うっぷんを晴らしたいとか。いろいろな思いがある。それに答えるステージをしなければいけない。延々といい声を聞かされたり、得意げに歌声を披露されても、そんなものはつまらない。

 声楽でも歌唱にすぐれた人が、ステージを全然できないというのは、そういう部分があります。それから時代というのもあります。

 

 何か音楽をいうのは、皆のプライドをすごく上げてしまうようです。私は役者やお笑いの奴らと接していますから、底辺で本当に虐げられる、灰皿をぶつけられながら生きている連中を見ると、これは5年10年経って、力が逆転するのはあたりまえだなと思います。

 というのは、日本のミュージシャンや歌い手というのは、自分を変えないことが正しいと思っているのです。今の若い人の多くがそうなのです。そんなもので自分が通用する面白い場があって、その面白いことを見せれると。

 

 私からいわれると芸事というのは、それで通用できるのならもうしているというのが現実です。17や18で、それで通用している人がいるのだから、その年齢をすぎてしまったら、変わる以外にないはずなのです。だから、そうすると変えたくないというのですが、役者でもお笑いでも、あれは地ではないです、芸ですから。歌でもそうです。

 

 日本の場合は、そういう地が出ている歌をサポートする人がいるわけで、複雑な問題がいろいろありますね。そこを見てしまうとわからなくなってしまう。それでやっていけるのだったら、やっぱり在日韓国人の方がよかった、目の見えない人の方がやれたのではないかとか、芸術的なことと関係ないところで行き来する。

 

 そういうものを背負って、芸術的なところでやれている人はいいのですが、少ない。そうでないところでやれていくというのは、本来おかしな話なのですが、日本の場合は、ストーリーで動いてしまっている。だからそういうストーリーづくりからプロデューサーも入っていける。

 そうやってしまうから余計に本人に訳がわからなくなってしまうというような気がします。

 

 

○はまり込まないために

 

 歌いたい曲や満足がいく曲に追求していくことが本質ですね。ところがトレーニングをしていくと、声にマニアックになって、そこからそれていく人が多いのです。レクチャーのレベルで判断していることのほうが案外と正しい。距離を開けて、その世界に入っていないと、案外見えるのです。歌って今の日本の歌は下手だと、正直に入ってきます。

 ところがトレーニングをやりはじめてしまうと、なまじ自分の声のことに全て関心がいってしまい、今度はそれが見えなくなってしまうのです。

 そういう人たちは決まってまわりを否定しはじめます。だからけっこう大変です。いろいろなところで習っている人たちがくると、机上の会議となる。

 

 私もよく本の感想で、「先生のおっしゃるとおりのことを私は考えていました」というようなことをいわれますが、そういう人もいるだろうなとは思いますが、だから何なのということです。そうでなくて私の作品はこれと送ってもらうなら、いいのですが、思想や論文でやりとりするわけではない。

 ただ同じことを何度もしゃべらなければいけないから、本にしておけば同じようなことをいわなくてすむという程度のことです。

 

 リズム感がいい悪いとか、音感がいい悪いとか、考えないほうがいいです。曲を聞いて、いいと思ったら、そういうことができている。悪いと思ったら分析して、あまり音やリズムがどうこうといっているより、やるだけです。

 声楽のところにも、組まれていくことがある。ポップス的な感覚が知りたいという、今の時代の歌も知りたいということです。別の時代で違うものではない。

 

 そういうところで出てくるのは、「サの発音がうまくいかない」、「それでお客さんが感動しない」とか、そんなわけない。そんなことで歌が成り立たないという話ではないのです。表現がないから、そこに逃げているだけなのです。

 クラシックなら当然、歯並びが悪い、歯が一本欠けているために、共鳴のレベルが落ちるということがあります。私からいわせるとクラシックもポップスも、ステージができていないということは、そんなことをお客さんは期待しているのではない。それをどう直すのかというようなことは、歯医者さんと相談すべきことの問題です。しかし、案外そういうふうになってしまう人が多いのです。

 

 音程が悪いとかリズムが悪いとか、それさえよくなれば、歌がうまくなると思っているというのは、カラオケのレベルの話で、それを直しても、すごい下手だ、音程が外れている、リズムを悪いとかいわれなくなるだけです。価値が出ることとは全然違う。

 

 学校の場合は、そういうことを第一段階におくのです。そこから入ったほうがわかりやすいということで、そういうレッスンをするのはよい。作品からいうと全然関係ない。作品をつくるときに、誰が音程やリズムを考えてやるかということです。

 

 伝えるということを考えたときに、きちんと効果を踏まえて、それをより人に残そうと思ったときに、その辺が整理されてくるものです。最終的にリズムも合わないはずがない。

 合っているというのは正しいことに対して合っているということだから、そういうものを無意識にふまえた上で表現をつくることによって、ようやく人に効果を与えてくるということになってきますね。

 

 もっとシンプルなものにしていかなければいけないのです。歌や音楽になると、いろいろなものを習って、それの総合力でやろうという考え自体がおかしいことです。裸で人の前に立って、何かを伝えたいということをやっていたら、音楽が生まれた、そのままで歌とかいう部分をもっていなければなりません。学校で周辺のことをやるほど、複雑になってわからなくなってしまうのです。

 

 

○補うという考え方

 

 戻ればいいのです。アーティストってそんなことをやったのだろうかなと。ほとんどの人はやっていない。でもそういう人は、とても鋭い勘があった、素質があった。といわれてしまうのだから、その部分が自分に欠けている。それをトレーニングで補うために音感やリズムのトレーニングをやるというのがいいことだと思うのです。

 それは補うことであって、それをやったから歌がうまく聞こえたりよくなることではない。もともと音感やリズム感って何なのかというと、人が聞いていたときにすごく心地がいいと思ったりノリがいいと思ったりする感覚でしょう。その感覚自体が自分のなかに入って、それによって正されていないことのほうが問題なのです☆。

 

 それは入れていくしかない、ある程度入れていけるものだと思います。音楽は再現芸術です。

 たまたま17、8歳で器用で、そういうことができているなという人は、音楽を聞く回数は少なかったかもしれないが、そのなかで、そういうものがうまく入れられた人です。いわゆる筋がいい人たちです。

 

 こういうところで勉強する人は、16や17歳ですごいことができない人を筋が悪いというと、筋が悪い人です。それをひとつの音で正していてというやり方だけではなく、もっと音楽のベースというところで、音符で書かれていないことやリズムで動いているところを知ることです。そこに、人の心を捉えるものという動きがあって、そこをきちんと捉えていかないかぎり、あまり意味がないのです。

 

 そういうあたりまえのことがレッスンやトレーニングになったら、出てこない。それをトレーニングにしたりメニューやグループにしたりすると、大切なことが欠けてしまうことが多いので、個人レッスンに切り替えていきます。

 

 どうメニューに落とすのかというのは、けっこう難しいことです。最終的にいうと聞くしかない。

 行き詰ったら、もっとたくさんの曲をよく聞きましょう。リズムのいいものを聞いたほうがいいのではというしかなくなってしまうのですね。そんなものを聞いてみたもので、そんなもので直っているのであったら、直っている。だから聞き方を学ぶ。

 

 

○記憶をつくる

 

 私がここでよく使うのは、徹底した比較です。ひとつの歌を何人も歌っているもののなかできちんと見ていく。とても細かく見ていく。

 

 耳をつくるのと同時に記憶をつくるということです☆。トレーナーの力というのは、声の力とは、私は今は思っていなくて、昔は、トレーナーが優秀かどうかは声を聞けばわかるといっていましたが、今はどうでもいいと思っている。耳です。

 どこまで、音楽が見えるか、細かいところで比較できるか、その人の何を認め伸ばすかというところがあります。

 

 私が最初にやりだしたときは、皆、私よりレベルが高かった。最初、引き受けたのは、皆プロでした。向こうは全部、歌える。何を頼られるかというと、それがどう歌になっているか、音楽になっているかというところなのです。

 今でも30年くらいプロをやっている人、ここで1曲歌ってもらうと、まわりが見にくるくらいにうまいのですが、そんな人がここに何をしにくるのかというと、思い込みの排除です☆。

 

 こう思ってそれだけで歌ってきたが、正しかったのか、ほかの可能性があったのか、そういうことを勉強したいということです。

 歌い手は決めたとおりに歌ってきますから、器用でやれてしまった人ほど、そこを落としていることがあるのです。

 

 自分では思い込んだままやっていったら、もしかするともっといけたのではないかとか、もっと世界的に通用するような歌にやりようによってはなっていたのではないかという、目標からのフィードバックもあるのです。

 そうなったときに自分だけでは客観視は当然できないわけですから、どうやっても自分のやり方は持っている。それを崩しにくるのがここです☆。

 

 プロでもレベルがそんなに高くなく、10年くらいやっているとして、そのなかでは優秀、日本のなかでも優秀でも、私はひとつのシミュレーションのなかだけで通用するものだと思っています。ソロで通用するというのも、シミュレーションのなかで通用すればいいわけです。ただ音や声の判断が必ずしも絶対的なものとして、あるわけではない。

 

 

○客観的基準のあり方

 

 私はこういうことをできるのは、ここしかないだろうと思っていましたが、ミュージカル劇団でも、主役級のことをやっていると、ほぼ同レベルには身につくようです。

 まずダブルキャストだから、比べられます。同じ演目をやっていくので、いろいろな人がその同じ役をやっていくのを見る。誰かがやったときによかった悪かったというのを、長期にわたって見ることができます。トレーナーとしての、すぐれた判断力がついていきます。

 

 10年くらいやっていてもソロではわからない人もいるのですが、そのレベルまで集団でやったらけっこうわかる。

 音大の声楽科ということでは、いろいろな先生について、ある程度、客観性が持てるということです。

 一番、とれないのはポップスの歌い手ですね。自分でしかやっていないから、自分に通用することが人に通用すると思っている。低いレベルではそうです。

 

 たとえば30年やっている人が20歳くらいの人に教える場合はいいのです。しかしプロに教えられるかといったら、合わないと思うのです。

 それは、共通の部分の根本の基本に戻っていないからです。しかたないと思うのです。

 

 現役活動をやっていると、どんなことをいっても自分の好きな歌が気持ちいいのです。それに対して基準が設けられる。それは発声の基準とは違うし、その人のオリジナルを生かす基準でもないのです。そういう意味がいうと、難しい。

 

 昔みたいに歌い手もアカペラみたいにマイクがあまりよくなくて、声量でがんばらなければいけないときは、ひとつの基準として発声が確固としてあったのです。

 まず声が大きくて響いてなければいけないというのがありました。そうするとそれが第一だから、基準が統一してとれたのですが、今のようにしゃべる声より小さく歌ってもよいというふうになったときに、何をもってプロの歌というかというのは難しくなっています。

 逆にいうと、全身で歌うとか声を細かく調整しなければいけないところまでの高い基準を求めないと、わからないということになるはずなのです。

 

 

○大きなギャップをつくる

 

 その人がどこまでいくのかはその人の人生で、プロであろうがアマチュアであろうが、プロがアマチュアの上であるとは私も思っていません、ただ、目標として、最高のものに設定しないとトレーニングが成り立たない。

 もっとはっきりいうと、ちょっとうまくなるのでいいというのなら、自分でやりなという。体や感覚を変える必要性がないのだから、マイクのエコーを調節したほうが、うまく聞こえるようになるわけです。

 

 そういうところになるとトレーニングは成り立たなくなるのです。それから選曲もそうです。たとえばここのクラスの10人くらいのほうがうまく歌えるような歌手の歌い方を、プロとして定義してしまったら、あのくらいには歌えてしまうのに、私には仕事がこない、となる。プロになりたいのに、目標にできないのです。

 

 すごいヴォーカリスト、すごい歌があって、それに自分は1秒も同じことができないということだから、ステップアップできるのです。ギャップがあるから伸びるのです。

 トレーニングは逆です。皆ギャップを埋めたいと思ってくるのですが、ギャップをつくることがレッスンです☆。

 

 プロの人は歌えていて、お客さんもいるしコンサートもできる。そういう人は、そこでのさらに大きな、細かいギャップを見たいから来るのです。

 この歌で通用しているつもりでも、本当に歌っているということとどう違うのということで来るのです。

 本当に歌うというのは大変です。1分のなかで奇跡のようなことが起きないと、本当の状態で歌えるとはいえない。初めて目標を設定してやったときには1秒も2秒ももっていないわけです。そのことをプロにわからせるのは、なまじやってきているだけに、難しい。

 

 いろいろなこなし方を知っているからです。こちらが破綻させるようなことをさせる。声を上げてください、3倍くらいに伸ばしてくださいとかいっても、それなりにこなしてしまう。今までの経験上うすめて、こなす。

 それがプロの強いところです。ステージに出てしまったら、お客さんに対して失敗は許されないところで感覚が研ぎ澄まされています。

 だからそこの矛盾を突いていけるのです。要は1分の曲を1オクターブ以上にわたって展開するというのは、そんなに簡単なことではないのです。

 

 日本人で本当にやれている人はいるのかほとんどいないくらいに大変なことなのです。

 ということは、プロもそれをきちんとやっていない。1ヶ所だけの1秒で、半オクターブやったらそれの10倍くらいの表現ができるということを、仮に1分のなかでやっていないとしたら、それはごまかしだけ。プロというステージでいうことであれば、それはバランスをとったということになるのです。

 

 

○ギャップをつめない

 

 たとえば体の流れから見てみたら、そこでは2秒空けないと、どうしてもその人が入れないという場合には、ここのトレーニングでは、そこで2秒空けさせます。抽象的な言い方でわかりにくいかもしれませんが。楽譜上、曲のテンポでは0.5秒しか空いていない。もちろん、プロはそこを0.5秒でさっとやるやり方を知っているのです。体を使わず、マイクや口先を使ってやる。ステージにいたら当然そのやり方をやるのですが、私のレッスンのなかではそれは許さない。それを許してしまったら、ここに来る必要がないのです。

 

 あなたの今の感覚では2秒が限度だ、きちんと歌をつなげるためには2秒空けなさい。半年たったら、もしかすると0.2秒縮まって1.8秒になるかもしれない。次に1.5秒になるかもしれない、1秒になるかもしれない。それで0.3秒くらいのところまで、自分でつなぐ感覚のところまできれば、ようやく0.5秒の歌がこなせるようになる。

 

 このように、あくまで体や感覚を中心に考えていく。歌はどこかから与えられたものですが、それにあわせてやること自体が大きな間違いですね。

 でも上達したいということは逆でしょう。素人が0.5秒で入れない、といったら、先生が、これを丸覚えしてみてといって、パッと入れるようなことをやる。そんなことを覚えてしまったら、勘のいい人は0.5秒なんて簡単に入れてしまいます。高校生でもいくらでもいます。そうするとトレーニングやレッスンは成り立たない。

 

 だから本当に難しい問題です。でも明確です。さっきの6人は皆さんはいろいろなことを書いていると思います。好き嫌いはあると思うのです。でもそれのどこかの一部分を切り取って、パッと聞いたら、これはアマチュアではないなというのはわかると思います。

 その部分をつくることがトレーニングの目的だと思います。今の日本のヴォーカルのなかでは必要条件ではないと思うのです。そんなものなくてもプロになっている人はいるし、そうでない人のほうが多いです。だからまた現場と両方をやっている私としては、難しくなるのです。

 

 

○歌の判断

 

 最終的には、ここに入ったあとも歌をどうつくるかは自分でやりなさいと。やったものに対してこんな可能性があるのではないかくらいはいえるけれども、こうやりなさいとかこうやったらこうなるというのは、あまりいえないということなのです。

 

 けっこうメインのことをいいました。歌をどう判断するかというのは、そういうことです。自分の判断力をつけていくということで、それは自分の作品のイメージなんだから、そういうふうに生きて、その感性を磨いて、そのうえで正されるように正されていくしかないというのが、最終的なことです。

 

 トレーナーはこの点、レベルがすごく低く、未経験の人が多い。プロデューサーや演出家のほうがずっといいです。同じように見てもらえばいい。

 

 演出家というのは何をやっているかというと、台本を音声に置き換えている。その音声で置き換えて人を感動させることを、指示しているのです。

 本来そのイメージなんだけれども、その人がそういう声のまわし方ができないから、そこにヴォイストレーナーというのが必要なわけです。

 

 演出家は、声のこともけっこう知っています。舞台で学んでいるのです。自分なりの経験でも知っている。彼らの求める声と、私たちのやっている声も、また少しずれるのです。彼らの場合は、演劇上のなかで通用する声で、昔の役者だったら、クラシックでも演劇でもまず声量が必要だということで一緒だったのですが、今は声量がなくてもいい。どちらかというとJ-POPと一緒ですね。

 

 この前、ミュージカルのオーディションをみました。もう生まれたて声がいいというレベル。それは私は認められないのです。説得力もない。でも演劇のなかで使えるのは、ミュージカルと同じで、役柄がある。きのこしかできないという子にも、可能性はある。 ところがソロのヴォーカルの世界は、オンリーワンといっても、それは、ベストワンなのです。

 

 人を不快にさせたりびびらせたり嫌な思いにさせる声のトレーニング、そういう声を出すと喉がつぶれる、あたりまえなのです。相手が不快になるということは、相手が不快になるということを起こさなければいけないわけです。そんなのはノウハウにはないのです。声で、人を不快にさせるやり方というのは、アンチノウハウ。

 

 特に声優や役者、特に悪役の吹き替えなんかは、すごみをきかせるとか、必要です。すごみがあったら歌でも通用するようなところがあります☆。

 そんな使い方があっても、日本でそういうことがなぜできないかというと、もともとオペラの人は正しく勉強してきたから、喉が弱いのです。外国のオペラ歌手は、私はたくさん知っていますが、しゃべり声がいいですね。

 

 日本のテノールなんかになってしまうと、普通の人より声が悪くなってしまいます。そこでロックをやらせてみたり芝居をやらせてみたりしたら、喉をすぐに壊してしまうからです。ミュージカルでは劇団によりますが、半分以上が声楽出身者、あとの半分は役者出身者、くっきり分かれています。

 

 役者のほうは感情移入ができて感情を伝えられるのですが、高い音が出ない。原調でやるミュージカルでは難しい問題が出てきます。どうしても声楽家を使わざるをえない。

 ところが声楽家の声はきれいなのですが、インパクトや説得力、個性があまり出てこない。本来はそんなに分けられるものではなく、両方があって歌手であるべきなのです。その辺は、課題です。

 

 最近はお笑いの人から学ぶことのほうが大きいです。彼らが4分45秒の作品をどうつくっているのかを、声だけで聞いて、彼らの振付やアクション、ギャグはともかく、声だけでつくられた間のとり方、つっこみ方、声の動かし方、そのなかのメリハリのつけ方、ドライブ感のつけ方、呼吸の間合いをみています。ひとつ外したら笑えなくなります。

 そういう漫才やコントを見て、それを他のプロの組がやってみたら通用しない。今のレベルの高さのなかでは、あのキャラクターがあって、あの声があって、ネタがきちんと生きる、それこそ、私が本来歌の世界やヴォーカルの世界でやりたかったことです☆。

 

 ギターやドラムがついていれば、そこで何を歌っていても通用するみたいな基準のない世界ではない。ただ音楽は音楽ですからという部分もあって、考えなければいけないことが多い。

 

 

○海外のトレーナー

 

Q.ジャズであろうがポップスであろうが、すべて基本は同じだといわれたことが印象的でした。ですが、先生の本のなかに、日本人がヴォイストレーニングをするときに、日本人に合ったヴォイストレーニングをするべきだということが、ありました。ジャズピアニストについてヴォーカルをやっております。フィーリングや感覚のために、ヴォイストレーニングをしたらもっとよくなるはずだというふうにいわれました。私が考えているのは、本当の基礎の発声です。とにかく自分の課題としては、お客様が聞いたときに、耳に心地いい音で残る声、それとロングトーン、それが課題だと思ってやってきました。

 

 ここを出て、15人くらい留学しています。アメリカだけではありませんが、L.A.はずいぶんと行っています。うちのトレーナーも今住んでいて今度、来ます。私もいくつかの学校も昔は関わりがありましたが、外国人のヴォイストレーナーで、アメリカはピンキリですが、それこそ日本にもきていますから、私がわかったことは、日本人に対してはとてもビジネスライクにサービス精神旺盛といったら変ですが、むしろコミュニケーションにおいて、音楽を楽しむことを主にしている。それはよいのですが、同じ土俵ではあまり相手にしていないということが多いですね。

 というのは、現地のヴォーカリストに対して、厳しくやるトレーナーが、日本人に対してはやさしく教えています。それだけ実力の差があるから、彼らが本当の意味の才能を発揮できない部分もあるし、ある意味では手を抜いている部分もあるのです。それは実力社会であるかぎりしかたないと思います。

 

 ヨーロッパあたりだといろいろな個性があって、むしろ教育的な考え方をとっている人が多い。トレーナーや国がどうこうというよりも、個人で全然違う。でも、レッスン生が、伸びるとかいうことではなく、本当はたいして伸びていないのに、そうみえるようにする。つまり、基本のなさを応用力でカバーする分にはプロフェッショナルですね。感心させられます。

 

 日本人に対しては、音楽を本当に楽しめていないのだから、ステージパフォーマンスからやるべき、最終的にヴォイストレーニングはステージパフォーマンスであるということ、それは私も似たような考えです。

 ステージで通用しなければ、意味がない。やっている間に、生徒が自分でやれたと思う。まるで今どきのサラリーマンの上司。その9割は私から見たら、彼らの才能の演出です。組み合わせによるものです。彼が抜けてしまったら、かたちだけは残るけれど、残らない。そういうことでワークショップなのです。

 

 個人レッスンでいうと、ほめて伸ばすという方針は、私は見習わなければいけないのですね。たしかにその上でデビューできるかは当人の問題です。

 根本的な問題のところには踏み入っていないというのは、もう10代でまわりから所望されている人、天才ですごいという人でないと、向こうはまずヴォーカルというのを選ばないのです。

 

 30歳になってからやりましょうということで入れる世界でもない。そういう人が10才までに育った環境というのは、意識下にない。彼ら自身はトレーニングをしては取り込めないのです。すでにそのレベルの高さからいって、大学で勉強して、ロックをやってオペラを勉強している。

 

 音楽的にすぐれた人に期待してつけたこともあるのです。喉を壊してしまったり、自己満足のなかで終わっていることが多い。言語の違いというのが、一番大きい。

 外国人に英語を勉強するというのもいいのですが、ネイティブにはなれない。だからといって、日本人が勉強しても無理。しかし、音楽は総合的なものですから、そこの部分がなくても、臨界期の壁まで戻して音を捉えるということは、できなくはない。それに近いことをやってきたつもりです。

 

 私も向こうの耳で聞いて、日本のものを受け入れられなかったのだと思います。日本で生まれて生きて、日本語を聞いて発してきた以上のことを、外国語でやれば、それに近い感覚になるというのはある。音楽に対してはたぶんそうです。その感覚の切り替えがないと、できない。日本人の考え方で伸ばしていくと、クラシックと同じになってしまうのです。テノールやソプラノと同じ発声で、歌っている人がいないわけではない。

 

 向こうの人の発声は、日本のなかでは日本人は少ないです。

 感覚では綾戸さんなんかは、日本の声でハンディキャップがあるなかで、音楽の動かし方を知っていてやっている部分はあります。日本の歌を歌ったら、向こうのヴォーカルより高いレベルの作品をつくっていける部分もある。そもそも比べると、違いがわかるので、イメージの設定になると思うのです。

 

 日本のジャズは、日本人の客が多い。外国人も聞くし、英語でやられている。そこでの感覚の切り替えができない。聞いてみるとわかると思います。

 ロングトーンの問題は、息の効率の問題にもなると思います。ヴォイストレーニングで、たったひとつの声を3秒キープするということからはじまる。レベルが高いか低いかわかりませんが、そのなかで多くの問題がありますから、それだけを徹底してやるひとつの方法だと思います。

 

 

○声優のトレーニング

 

 声優は、ここでも、けっこう引き受けるようになって、声優ブームのときに、近くに声優やナレーションの学校があるせいか、よくいらっしゃった。学校は、現場のことしかやらないのです。マイクや用語知識のこと、掛け合いのようなことばかり、すると声がある人はいいのですが、ない人は、何年やっていても変わらない。小さいころから大きな声を使いまくってきた人がどうしても有利な部分があるのです。

 

 ここの初期の目標というのは、役者が、3年や5年で声が変わって、そういう声になるなら、それを効率的にやれば、そのベースくらいのことが早くハイレベルにできるのではないか、そこから歌に入ろうというところです。

 声優役者は、そこだけ使おうという考え方でいらっしゃる。グループでやっていたときには、ヴォイス科をヴォーカル科から分けた。ヴォイス科のことを2年やって歌をやりたい人はヴォーカル科、そこまで高音発声もロングトーンも、複雑なリズムもやらない。聞き込むだけ。

 

 徹底して、体と声のことをやったら、2年でできるわけではないのですが、早い人はそういう感覚がつかめたり声が出るようになってくる。2年でできた人は、その前に8年以上ありました。本当の意味でいうと10年いるというのが、実感としてはあります。

 声優さんでも、私は出口から考えます。仕事が来なければ続かないのです。

 

 事務所に所属すること、もう一つ、そのなかで自分にくるキャラクターや絶対的な強みが必要です。ギャランティが安く、競争率が高い世界です。生計から考えたら何もできない。ヴォーカルも職業として成り立っているわけではないから、同じです。むしろ声を使う分野での仕事と考えたほうが、いい。

 今後、声優としての仕事は、たくさん出てくると思うのです。デジタル放送や世界中の翻訳など、でも、お笑いやタレントさんのほうがずっと使いやすい。

 

 レベルが違います。声優学校にいって、ちょこちょことやっているのと、人前での舞台を仕切ってきた人の使い方は、現場で磨かれ、実践的この上ない。今、どんどん変わってきています。この前吉本興業はアナウンス部をつくりました。アナウンサーも吉本出身でしめられかねない。要は放送局でルックスだけでとられた人は、アイドル的な要素、でもアイドルならもっとふさわしい人がいます。

 

 声のレッスンということより、役者とトレーニングをやっていると、メニューの効果ではない。教えているから、声がよくなるのではなく、現場に出てその必要性から直っていくわけです。最初5分で10回くらいかんでいたのに、本番になったら1回もかまなくなってしまう。練習量が違う。50倍くらいやっている、24時間それに生きている。そのため、とことん貧乏。優先順位が違います。

 

 携帯を持って、そこに5千円でも1万円かけるのであれば、自分の勉強にかけること、そういうことがまわっているのは、日本のなかでもかぎられて、そういうところでは人は育っています。一部の落語家のところでも育っていますが、あとはだめです。

 

 それは学ぶシステム、環境ができているところです。あなたが、目標を定めることです。声優の学校に行くのもいいと思います。

 誰でも入れるところに入ったことでは、何の価値もつきません。誰もが入れないところに入ったとしたら、少しは価値がある。

 

 声優であこがれている人も、何かから入ってきていると思うのですが、その人に直接つくのがいい。その人は弟子をとりませんという。でも、昔は弟子とらないという先生に、10回でも100回でも行って、それで弟子になったものです。

 「ミリオンダラー・ベイビー」ではないですけれど、人と何かしら違ったところで選択していかないかぎり、道は開けてこない。そういうことからだと思います。

 声優という職で考えるよりは、ヴォイスアクターという分野で、声を使って何かをやっていく。生活がしたいのなら、声優という肩書きだけではけっこう難しいです。ひとりで5役くらいのことをやれること。

 

 要は5役やって、2役分くらいのギャラをもらう。そうすることで何とかやっていく。

 そういうこと徹底してやっていくのであったら、やりようがあります。学校へ行って、それで卒業できるレベルでは通じない。そういうことに皆が関心を持つのはいいのですが、アニメの声のまねから始めないほうがいいです。自分に合っている声ではないから、けっこうつぶす可能性が多い。

 そういう人をも引き受けています。潰してしまった子やうまく声が出なくなった子は、同じことが再発するのです。そういうものをまねてトレーニングをすると、喉はつぶれてしまいます。本当の自分の声でないといけません。だから急がないことです。

 

 昔の声優さんのように、役者から入るほうがいいと思います。役者の養成所に行って、体から徹底的に演技をすることを勉強した上で、それを声優の分野に生かす。そうでなければ一人舞台や漫才、そういう分野から入るのもひとつの勉強だと思います。

 下手にヴォイストレーニングをやるくらいなら、そういう舞台をやってみたところから声の力がないと感じたほうが、早くよく身につくと思います。

 

 そのレベルの上で来ると、もう少し高いレベルに見合うことを与えられます。どこかに行けば身につくと思うと、依存症になってしまいます。私は音楽スクールに行っていて、アドバイスしています。「スクールに入れて依存症にしてはだめだ、ただでさえスクールにくるというのは依存症なのだから、ロックやるといってスクールに来るのはおかしい。」ロックやる資格がないわけです。

 でも、それでも行くというのは間違いではないと思う。すごく向上心があったらそうする。なのに、それで通うことで満足してしまうから、何も生まれてこない。そういう意味ではいろいろな経験をしていくのはよいと思います。

 

 

○研究所の利用法

 

Q.音楽をやったことをなく、本を読むのですが、どれをやったらいいのかがわからない。やっても自分のやっている練習が合っているのか判断がつかない。だからずっとやっていてもこれで合っているのかというの疑問が生まれてくる。しっかりと自分のやっていることが合っているか間違っているかを教えてくれる先生がいればいいと思います。

 昔、別のスクールに行ったのですが、いつも違う先生にやってもらうことになって、しっかりとひとりの先生に見てもらわないとわからないと思ってやめてしまいました。

 

 歌うために理想的な姿勢、深い息、体から声を響かせて出す、音域を広げるレッスン、迫力の声を出す、リズム感を養うなどは、練習方法のことですね。耳で聞いて、その音を正しい音におく方法、日常の練習、マンションでできる練習などもですね。

 

 ここは年代も、いろんな方がきている。職業欄のデータもありますが、私はあまり知らないです。昔から、ここにはどういう人たちがいて、その人たちから刺激を受けられるのかという質問、そういう人は入ってきてほしくないと私は思いますので、正直にそういうことをいって、遠ざけています。

 だいたいどこでも同じで、ステージだから自分は力を出せて、練習場所だったら、出せないというのは、おかしい。本当にやれる人は練習場所で目立ってきます。まわりがこいつやれなければおかしいのではないか、と思うようなことをぶつけてきます。

 そうでないタイプというのは、どこかで大化けするのをこちらが期待して待つしかないですね。とてもシャイな人も、ステージはすごく派手にやっているのに、こういうところに来ると猫かぶったようになる人もいる。それはそれで長いなかでわかる。地道にコツコツ積み上げていく子、最初だけの勢いという人と、いろいろな人がいる。

 

 私は、研究所のなかや外というふうに、分けて、考えていません。入ろうが入るまいが、いろいろな人から勉強しましょう。ただ、勉強する人とやっていく人はちがう。私もいろいろな人から勉強しました。いろいろなところに行ったり、いろいろなことをやったところで、足りないことがどんどん出てくる。

 たとえば、こういう組織をもっていると、毎日のように次々と問題が上がってきます。それに答えるためには、相当いろいろなことを勉強せざるを得ない。

 

 よくいろいろな話をすると、恵まれた人生を生きてきたんだなというようなふうに捉えられますが、そのときそのときは、とにかく前を見ている。やるしかないのです。その結果として、あとで人にしゃべるときには、研究所の方法の理屈や理論も、後からついてきたものです。

 

 直感的にやっていく。やっていった結果、結果は跳ね返ってきますね。それをフィードバックしてみて、またやっていく。プロになりたいというと、オーディションで、プロダクションに拾われる。というふうに、考える。

 そんなことは前の世代がやってきたことです。あなた方は若いのですから、何でも一からやればいいのです。今、何でもありますから。昔はCD1枚つくるのも本一冊出すのも大変だったのです。今は大学生でも高校生でもできる。全部のツールがあるでしょう。

 

 それから、親を扶養したりとか、苦労している人はいますけれど、苦労しているから偉いとは思いません。誰でも事情がある。作品ができてから偉いと思います。一所懸命やることと結果が出ることは、同じではないのです。そういうふうに自分が今、何かをできる状況であるのなら、やればいいのです。やらなければ時間だけがすぎていく。歌を歌いたければ歌えばいいのです。

 場所がない。どこでもいいのです。若いうちにやらないと、だんだんできなくなります。大変になってくるのです。

 

 やるなら、どこかで飛び出さないといけない。どちらにしろ、人様に自分をさらす商売です。体面とか恥ずかしいとか、言い訳が出てくるようであれば、向いていないと思って、やめたらよい。どうしても本当にやりたくなるまで、何か違う仕事をやったり、まったく向いていない仕事をやってみればいいと思うのです。

 

 そうしたら、本当にやりたくなるのかもしれない。やりたいではなくて、やるしかない。そのやることに対して、何かが足りなければその力をつけるしかない。迷っている時間は大切ですが、無駄です。本当にやりたければ人間というのはやっています。

 あなたの歳でもやっている人はたくさんいる。やったからといって、そこで何かが出てくるわけではないから、そこからの勝負です。でもやらなければどうしようもない。そのために人に会いに行ったり、こういうところに来るのは、とてもよい経験、勉強になると思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「行動しよう、声を出そう」 1731

「行動しよう、声を出そう」 1731

 

 

 あなたたちは、いま判断できるレベルよりも、ずっとたくさんの情報を得ています。

その結果、逆に行動しなくなります。情報から、結果を予測してしまうからです。

 しかも、情報があまりに多いため、目でみて手間をかけて比較することもできないので、

選択の判断さえ、情報にまかせてしまいます。

 

 やってみてもないのに「やってもムリだよ」と答え、動かないのです。

そこには、「やってムリなら、無駄、損した」というような、

せこい省エネ思考や経済観念が見受けられます。

「やってムリなら恥ずかしいし、バカみたい」

と安っぽいプライドみたいなものに支配されているようにも思います。

 

 声を出したり、他人に声をかけることも、

同じように思っているのではないかと、心配になります。

 

「あなたは、この二日間、何も食べていません。お金ももっていません。

さて、どうすればよいのでしょうか」

あなたにそのように聞けば、どうしますか。

「ネットで検索して調べます」と答えるかもしれません。

何十時間、ネットで調べても、おなかはふくれないでしょう。

メールで、食べものを送ってもらいますか。

 そんなものは投げだし、すぐに外に出て、通りすがりの人に片っぱしから事情を話してみたら、

どうでしょう。

 たぶん一時間以内に、あなたは一食分、食べているでしょう。声をかけたからです。それが、あなたのすべきことなのです。

 

 いろんな情報を得ると、そのうち「できない」という口グセになります。

もったいないことです。

 やってムリならやらないというのと、やってできなかったというのはまったくちがいます。そこで体験ができたということが大切なのです。

 その体験から学んでいけるからです。

すると、つぎにやってまたできなくても、少しは近づけるかもしれません。

そうして学んでいけばいいのです。

 

 やらなければ、また時間を費やし、情報だけとっていきます。

しかし何も変わらないのですから、無益なことです。

 すぐできてしまうものなどは、できたといわないのです。ただ、すんだだけです。

 できないようなことをやったから、できたというのです。

できたできていない、成功失敗を一時で決めないことです。

 できないことをやりつづけるのが、人生の醍醐味です。

 

何よりも成功よりも、失敗したときに味わいがあります。

人間関係も同じです。失敗しないと人のよさは味わえません。

 

 成功したときに誰もが楽しく失敗談を話します。

失敗せずに成功した人もいないのです。

 つまり、試みることに意味があるのです。

 

 成功、失敗と白黒に分けるのでなく、

成功か失敗かを体験しなかったことが、

いちばんもったいないことなのです。

 

 だから、行動しましょう。

はい、声をだしましょうということです。

 

(引用 岩波ジュニア新書「声のトレーニング」福島英 )

 

 

 

 

 

今月のひとことアドバイス

 

 

・客のいないうちに固めるな。               

・ほめられたら、おごるな、いさめよ。

・完成などありえない、励め。           

・生涯修業、修業の生涯。

・死ぬまで続けられるありがたさ。  

・足らぬことを知れば、やれる。

・足らぬを知るに努めよ。  

 

・春夏秋冬に応じて、芸も変わる。人の気分が変わるから。

・客の心との呼吸で生み出すこと。  

・客の心が芸を磨き、芸人を泣かす、だけの芸にせよ。

・どんな商品も傷一つで返品、作品なら一言、一字のミスで致命傷。

・人間は、失敗を生かせる。いつか、いや今すぐ、そこで。

 

・気のゆるみの失敗は、最悪。

・日頃より油断せずに、気をゆるめないで気負わない。

・意志の強さで克服しよう。

・結果がすべて、人々はそこしかみない。

・プロセスは、結果のよしあしに関わらず、自分にこそ重要。

・つみ重ねを怠らないところにしか結果はでない。

 

 

 

 

今月のひとことアドバイス2

 

 

・結果に一喜一憂しない。            

・常に結果を思い知ること。

・身構え、第一。   

 

・形は先達の到達点。それをふまえよ。   

・形には何百年、何万人もの試行錯誤がある。  

・完成した形を知って身につけることこそ基本。

・形を身につけて、そこからスタート。

 

・作法、形は、合理性を伴う。

・作法、形は、あとで効く。

・作法、形は、大きな器づくりとなる。    

・作法、形は、応用を可能とする。

・作法、形は、その人を元の力で生かす。

・作法、形からみたら、個人の創造は単なる思いつきかも。

・作法、形とは、天才の知恵といえる。

・作法、形とは衆人=人間の知恵といえる。

 

・単純な基礎は、高度な技術に勝る。  

・ゼロからイチは、イチからニよりもすごい。

・姿勢、身構、心がけを正せ。  

・初心とは、基本に戻ること。       

         

・心はそのまま、平常心。 

・平常心とは、無意識の日常にある。                

・場に臨んで、平常にあれ    

・場に臨んで、しぜんであれ      

 

・形をとるのでなく、形がとれるように。            

・形を盗りにいき、形が取れるのがよい。             

・形をとるのは、目標でなく前提である。

 

 

 

レクチャー録1-2【45521】23,333字 1722

レクチャー録1-2【45521】

 

 

○声に関心を

 

 声はすでに入ってきているのです。生まれてから声を出しているということは聞いて覚えたことです。

 ところが日本の場合というのは聞いてそれを話すというところで自然に幼稚園ぐらいのときに「あいうえお」がわかってしまうとそれで全部読めてしまいます。あとはもう膨大な漢字の読み書きを覚えなくてはいけないほうにエネルギーを集中してその練習ばかりしています。

 中学校になって英語の発音でようやく耳で聞いて音声をつくる。我々のころはヒヤリングもスピーキングもほとんど日本人のしゃべれない先生が教えていたわけですから、今は恵まれているのでしょう。でもそれで初めて音声のことをやって、英語だってきちんとしゃべれるわけではない。ほとんどの日本人が身についていないわけです。

 

 だから音声に対する教育ということがアナウンサーの学校や演劇養成所で初めての体験となる。それだけ声のことについてまったく知らないしやっていない。耳が鍛えられていないというのも大きいですね。

 どこまで自分の声が届くかなどというのは、欧米では常識的なことですね。新幹線で騒ぎ捲くったり団体客がお土産店でうるさかったりするのは日本ぐらいです。それは日本人の声が大きいのではなくて、程度がわからないのです。

 

 自分たちがどれだけ声で口害を発しているのか、日本の場合は無礼講みたいなところがありますからそれはそれでよいと思うのですが。そういう国において声に関心を持つということはこれから必要になってくることだと思います。まして声を扱う人にとっては尚さらです。

 

 

 

○体に入れる

 

 歌なんかは音域をとることに急いで高い音出そうと、そういうことでやっていくのでなかなかベースのことができてこないものです。

 最初私がそれに気づいたのは若いころ、役者の養成所に声楽を教えにくる先生の声というのは普通の人と変わらない、でも役者の声というのは、4、5年でみるみる変わってくるのです。役者の声になっていくのです。それというのはどういうことなのだろうか。と。

 私は10代のころに歳をとらないと声というのは深くなっていかないと思っていた。しかし海外に行ったら10代でもけっこう深い声、しっかりした声を皆出している。ということで、それは使っている量、これが必要という部分はあります。

 

 それとトレーニングで考えるということは誰でもができなくてはいけない、どこにその責任を持たせるかということです。こういうところくる人はふたとおり、とてもすぐれた人とそれから他の学校に行っても間に合わない、自分に大きな変化がない限りなんともならないという人です。上の層と下の層といったら申し訳ないですが、やってきた人と何もやってなかった人ですね。

 

 トレーニングとしてみたときに、どうして同じように生きてきてそれだけ声が使えないのかというと体に入れていないという部分がとても大きいです。体というのは単純にいうと鍛えたら変わります、みなさんが今1km走るのが厳しいというのも2年計画ぐらいでいったら今よりは走れるようになる。腕立てができないといっても1年やれば10回が20回でもできるようになる。

 そこの力においては体自体というのが器としてはあったらこれを変えていくというのが一番べーシックな考え方です。

 

 トレーニング引き受けるときの安全策です。要は勘とかセンスとかにまかせていたら、ある人はよいけどない人はどうなるのだろうとなりますね。

 歌って直感的にとらえるところがあるのです、10代なんかで歌える人というのはそういうアンテナがあるのです。それは海外でもそうです。

 

 

○比べられない

 

 カサンドラウィルソンの伝記読んでいたら5歳でマイルスデイビスに感動している。そういう環境とかそういう捉え方ができる人というのは、日本人ではあまりありえないですね。

 だいたい今の私だってわからないです。こういうのはきっとよいのだろうなというけど、5歳とか10歳の耳で聞いてみてどう感動できるのか、音がおもしろいとかいうレベルではできるのが音楽的にということは、何か見えてなければいけない。

 

 だから環境はあります。レッスンというのは、目的とすることは感覚でいうのだったら次元のオンです。要はオンしないと意味がないという考え方です。

 ここも10年20年長くいろんなところでやってこられた人がいて、長くやったことは偉い、でもそれが成果に身についてなければ意味がないのです。

 

 ヴォイストレーニングや歌の練習は他のもので比べられない。英会話3年やったら絶対上達します。あなただいたいこのレベルです、これだけのお金だしてこれだけの時間やればここまでなりますと。ヴォイストレーニングにおいてまだそこまでまだできないですね。相手みないとわからない。あなたもこのコースにすれば半年でここまでいくなんていうのは、低レベルでないといえない。自信は与えられるのですが、受け手によるところがとても多いです。

 

 その人たちがヴォイストレーニングをスタートするところまでの総量、どのぐらい声を使いどういう感覚できたのかというところが、アンテナですね。だから私なんか自分に置き換えて考えてみると自分が音楽を聞いて受け止めてたのが1だけど、そのときの同じような音楽を同じだけ聞いていても10とか100を受け止めていた人がいるのです。そうしたらいくら量を100倍にしても叶わないと、そのアンテナに対して増やしていなかくてはいけないのです。

 

 

 人間にも目で見て覚える人がよい人と口でいって覚えるほうがよい人とタイプがいますね、どちらかというと、日本人の学習形態が全部読み書きです。よくいうのですが、みなさんのように質問を書いてもらうと10項目簡単にかける。これ外国人にやらせるとけっこう難しいですよ。でもいわせると簡単にいえてしまう、10個いえてしまう、しかも10くらい覚えられてしまう。10個いうのに1分もかかりませんね。

 3分くらいのなかで彼らのなかで音の世界のなかの構築は、そこにできるのです。たとえば10個のことをこの順番でいおうと、それでこのあたりにはちょっとおもしろいこといってやってと、今の漫才はそのレベルだと思うのです。かなり高いレベルです。5分間の音の世界を自分のほうできちんと持っておいて、それをきちんと構成してしかもそれをお客さんの前に出たときに臨機応変に変化させてきちんと見せていくということです。お笑いのネタというのは昔から使っています。テツ&トモも日韓線のころ、4分45秒、耳だけで聞いてみてまったく隙がないのです。タイミングもドンピシャ。そういうレベルのことを彼らのなかではやれているのです。

 

 それは音楽家がやるべきことなのです。歌も同じ世界ですよ、ところが歌の世界って甘くて、メロディがあってバンドがついていて、どうやったら間違うのだろうというぐらいレールが引かれてしまっているでしょう。でも本当はそうではない。

 

 

○量とレベル

 

 いいたいことを言葉で出しているうちに音楽になっていくのです。そこに何かしら色気がついてきて人をひきつける。そういうのが出てくる、そのプロセスをとってしまっているのです、今の音楽というのは。最初から高音が出ませんとか、ピッチがどうこうのそんなもの最初はなかっただろうという話です。

 

 何かいいたいことがあってみて、音楽になっていったわけでしょう、そこのなかで実感をきちんと持っていかないといけません。

 このときに問題なのは、レベル。特に初心者の方の場合は声が出るときと出ないときがありますね、けっこう差があるのです、特に10代。このときに私はレッスンというのはここから上のことです。ところがほとんどのレッスンというのはここよりさらに悪いところでやっているのです。まったく意味のないことでしょう。

 

 劇団だったら、シロートのワークショップで鬼ごっこをやってみたり笑わせたりそういうことで体をリラックス状態にして声が楽に出るようにするわけです。普段出していない声でも、でてくる。みなさんでもこんなところで座っていたら声でなくなる、歌いなさいといったら大変でしょうけど、その辺走ってきて、ちょっと恥ずかしいことやってひらきなおったという感じになると、けっこうよい歌が楽に歌えるわけです。この状態が大切です。

 

 たとえばこんな時間があったらひとりひとりの姿勢を先生の前に出てやりましょうというセミナーもできるのです。ではここに出て体のところ、顎ひいてなんて、私がやったらあがってしまって出る声も出ないでしょう、そうではなくて自分のなかでコントロールして自分の一番ベストのものを求めます。これを私はベターなものから上にしましょうといっています。

 

 量をやるという考え方では、たまに10代の子なんかが「毎日6時間カラオケBOXでやっています」という。「それえらいね、でもそんなに集中力持たないだろう」と、そうしたら何をやっているのかというと声を壊すことをやっている。

 声というのは楽器ですから使い方を間違ってしまうと、悪い疲れが全部きて悪い状態になります。

 

 今日調子いいと思ってたくさん練習すると次の日悪くなります。仮に1日よかったと思っても残りの6日ダメだったら1日のステージとしてはよいのです。ところがトレーニングにしては最悪です。その1日がステージだったらその1日のために残りの6日をダメにしてしまっているわけです。その辺がちょっと体育会系のとにかく筋肉をいじめていったら力がついてくるというのでは、よくありません。

 

 日本的な考え方にも本当はもっと合理的なやり方がいや、感じ方があるのに、感じ方をふさいでやり方でやってしまう。これが諸悪の根源です☆☆☆。

 集中力とか忍耐力をつける分にはよいのでしょうが、声に関してはとにかく声になるところしか力ではないです。使い方をきちんとしなくてはいけない。

 

 

○聞き込み

 

 皆さんが考えることは、トレーニングの期間にできるだけつないでいけたらよいことレッスンはそのためにやるのです。今まで自分ができなかったことを、自分にとっては間違えもしくは奇跡ですがそれがひとつ起きると、そこだけがオンです。それがどの次元までいくかということです。

 あまり通常感覚でやらないことです。これをやるときの問題がトレーニングと相反するのです。レッスンの場というのも、そこに先生がいるというのもあまりよくない。そこで音程のこと考えるなど頭使おうということもよくないです。

 

 自信を持ってやれば出るのです。自信をなくしてしまったり考え出したり迷い出したりしたら出なくなってしまうのです。

 昨日やれたことが今日できないなとか去年できたことができないと思いだしたら悪循環に入ってくるのです。それだけ精神的なことと結びついているものです。切り替えですね。役者も同じです。この業界に向く人というのは切り替え能力ですね。役者は多重人格でなくてはつとまりません。

 

 

○やり方ではない

 

 歌のなかの練習でも同じです。

 レッスンでやるべきことというのは、全部できるようにとも全部が歌えるとも思わない。必要もないのです。三日間の合宿でも同じようにやるのです。グループで月4~8回で月18曲くらいやっています。実際にやるのは2、3曲でも聞かせるのはそのぐらい聞かせている。

 

 3日間のなかで18曲と思ったら、すぐれた人だったら2時間ぐらいでできます。歌詞を完全に覚えることを除けばベーシックなことはほとんどできてしまいます。普通の人がやったら3日間かけて1曲の歌がまともに歌えないです。そのぐらいの能力差がでます。何でそういうやり方をとるかというと、能力を伸ばすためにはそういうやり方しかないのです。最終的な結論を先にいってしまうとやり方というのはひとつしかない。プロの人がやってきたやり方を学ぶことです。しかしそれはやり方ではないのです。

 

 彼らはヴォイストレーニングとか発声とかやっていない。やっていないがその時代のひとつ前の一流のヴォーカリストを聞いてきています。レコード盤が擦り切れるぐらい聞いています。その条件がなくてまともなヴォーカリストになれた人間はひとりもいないです。ミュージシャンだったらヴォーカリストに限らずそうです。

 そのことと同じことをやるときにどう聞くかということです。そこに才能が現れるのです。

 声も出せるのと、歌えるのは違う。客と成り立ってはじめて歌えるといえるのです。

 

 ヴォイストレーナーの才能も同じです。「聞くこと」です。どれだけ耳のなかでその世界をとらえられるかということ。難しいです。1曲を暗記するのはそんな難しくない。それは棒読みと同じです。そのなかに音として何が起きて声として何が練りこまれどういう形で進んでどこにどう置いてどういう効果を相手に与えているかというようなことを1曲のなかにあるいはワンコーラスのなかにあるいはたった一声でもよいですね、そこから考えてみるのです☆。

 

 多分ほとんどの人は何もやっていない。それをやっている人は楽器のプロプレーヤーです。同じ楽器ですから、毎日8時間ぐらいやらないと自分の体と神経が結びつかないですね。私が口を動すぐらいにピアノの指が動かなくてはいけないので徹底して量をやります。すぐれた演奏を聞いて同じ速さで弾けるようにします。そこまでがアマチュアのトップのレベルなんですね。同じ速さで弾いているにも関わらず聞こえてくるものが違うのではないか。何で同じピアノ、ギターなのに同じ音色が違うのか、それは楽器のせいではないのですといって音の世界に入ります。

 

 ところがヴォーカリストの場合というのは体が違うからそういう比較が成り立たないですね。プレーヤーの場合同じテンポで弾けるようになったときに初めて何でこんなに音色が違うのだろう、何で音のつながりがこんなにスムーズなんだと、そこの音の世界にはいっていけるのです。

 ですからやれる人はやれるし、やれない人はギャップをきちんと知っています。やはりプロはプロなりにすぐれています。だからオーディションでも技術で明確に成り立つ。

 

 

○上達を目的にする間違い

 

 ヴォーカルは音の世界だけではないですから、とても判断がつけにくいです。ただ私が音の世界のほうにもってきているのは、そうではないとどうしても上達させますから。上達させることが目的で、上達しないのにくるという人はいないからです。目的を上達と出さなくてはいけない。

 私の古い本は全部目的があって今とのギャップを見なければいけない。ただ今難しいのは本当の目的が声だけではなくなっているからです。音楽だけでも歌だけでもないというところでけっこう難しくなっています。

 ヴォイストレーニングというのは、それの補強にしかすぎないと思っておいたほうがよいです。絶対条件ではないのです。

 

 ヴォイストレーニングをやれば声がよくなって、歌がうまくなってそれでプロになれるということではないのです。歌がうまいとか声が使えるということとプロになれるということは違います。歌がうまい人本当に世の中にたくさんいます。でも場を持たない人がほとんどです。

 歌が下手でも場を持っている人もたくさんいます。

 プロが目的ならステージをまずは目的にしなくてはいけない。

 自分の発声について生まれた体から探りたいということだったらヴォイストレーニングというのもストレートにつながるとは思います。何事にもやれるところとやれないところというのはあるのです。

 

 私も最近よくわかってきたのですが、他の学校を見ていて、どうしてそういう作品をよいというのか、何でみんな退屈しているのに退屈っていわないのだろうか、何でみんな他の生徒のつまらないものを笑顔で聞けるのだろうか、どんどん洗脳されてしまうのですね、そこでは拍手しなければいけない、そこではみんなで盛り上げてあげなくてはいけない、がんばってあげなくてはいけない、誉めてあげなければいけない、はっきりいうと、高校生の文化祭のレベルより低いです。幼稚園の子が一所懸命やったことで思わず拍手してしまうほうがレベルが高いというかしぜんなことですね。

 

 そういう面でいうのだったら上達を目的にしていること自体に、間違いがありますね、それから正しい間違いで判断していくことにも根本的な矛盾があります。「上達を目標にする間違い」というのは、誰でも最初は誰かのようになりたいから入ってくる、となると誰かのように近づいていくことが上達だとなりますね☆☆。

 

 ところがやれた人というのはみんなその誰かから離れていくのです。やれた人というのは誰かのようにから絶対に誰もできないところにいくのです、そうすると誰かのようにやりたいやり方というのが一番意味のないことだとわかります。

 

 どうしてそう成り立ってしまうかというと、たとえばサークルとかで評価されるとかまわりの家族がうまくなったねといってくれる、その評価は全部これでしょう。平井堅みたいになってくると何かすごいうまくなってきたねといってくれるし拍手も多くなるでしょう、でもプロからはどんどん遠ざかっていくわけですね、それはどちらでもよいと思うのです、アマチュアとして歌を楽しむのだったら、それで構わないまわりの人の評価もほしいでしょう。ただ、プロをやっていく人には違うように考えることを進めている。それは結局は誰でもできる仕事というのはその次になくなってしまうからです。

 

 

○ヴォーカルは肩書きになるのか

 

 二十歳くらいでかわいい子には仕事がきます、色んな場も持てます。でもそれというのはかわいさで得たのだから5年10年たっていくと減っていくだけで増えてはいかない。次のかわいい子がそこにくるだけの話です。

 それは音楽でも歌でもないとはっきりといっています。歌をそういう使い方を日本という国ではしてきたわけです。

 

 単にかわいいだけの子でお金をたくさん取る一番のよい方法というのは歌をやること、CDが売れる。声優でもそうでしょう。

 野球の監督でも昭和の頃なら、歌のCDはみんな出しています。何万枚も売っているのです。その辺のアマチュアのバンドなんてかなわないぐらい売っているのです。だからプロヴォーカルとはいわないのですが収益あげているのでプロです。

 そういうことでいうとヴォーカルという肩書き自体、エッセイストと同じで誰でもつけられる。だから要はあまりそういうところで考えないほうが若いうちはよいと思います。

 

 声というものの楽器が個人のものである以上アマチュアでやるとしても誰かのようにやっていくやり方というのはレベルの高いところから見れば、胡散臭くなります。低いところから見れば上達したように見えます。みんな目標にするのですが、それをやってダメになってきたのが演歌とかシャンソンです。

 

 昔の人たちは向こうのものから聞いてしっかり独自に色んな音色を出している。だんだんそういうやり方をとるようになってだめになる。そこのなかのトップの人はよいのですが。トレーナーというのは、音楽スクールでもよくわからないから声楽の人がやる場合が多いです、音大生で声楽をやった人がやります。

 

 

○ベストワンへの厳しさ

 

 みなさんが考えていて欲しいのは、できるだけベターな声のなかでやっていくようにしたほうがよいということ。気持ちがよい状況を自分でつくる。

 自分の過去に出した声のなかで一番心地よかったら、そういう状況から入っていったほうがよいですね。それと逆行することはあまりやらないほうがよいのです。でもトレーニングするところというのはだいたい逆行します。レッスンスタジオ入ってそこが一番くつろげるというのはいつまでもないと思います。その緊張も必要なのです。

 

 劇団はいろんな役があるからどんな人でもその人にあった役がある。ところがヴォーカルの場合というのはオンリーワンとはいってもベストワンなのです。そこのなかの中心、トップでないとやれないです。

 役者は脇役ですごいよい人がいます。悪役で役をやらせたら他に出ないとか、ばあさん役だとこの人しかいないとかいろんなキャラが作れる、ヴォーカルも確かにあるのですが、それでもそこのなかではすぐれてないとだめなのです。

 そういう意味でいうと、なるだけ敷居を高くし、レッスンも緊張状態のなかでやれてあたりまえだとします。逆にいうとどこのステージとかよりも、レコーディングスタジオよりも一番大変な場としてレッスンの場は置いてます。

 

 ここの先生は、ある意味ではとても厳しいです。音楽に対して、見方が厳しいです。

 ここはプロの人がきますから普通のプロでは対応できないという、特殊な事情があります。

 ただそういう人たちのほうが一般の人に対してもギャップをきちんと出してもらえるのでわかりやすいのです。

 誉めて伸ばすやり方というのは確かにシロートに対しては意気込みをさせるし何より、学校に親しみをもたせる。執着してそこにずっといたいとかここにくると気持ちがよいと思わせる。しかしそれはカラオケ教室と同じです。

 

 そこが居心地のよい場所になってしまうから、だめになる。私のところも人数が多かったときキャンパスライフみたいになって、そこにきたら音楽の仲間がいる、そこで歌を歌ったらみんな認めてくれる、それで私は壊してしまったのです。それでは人は育たない。

 

 要は内輪でやれても世の中でやれないとしかたないとはいいませんが、何をめざしたのかを、己の胸に問うてください。

 そんなのだったら歌でなく、日常に使っている声で、勤めている会社とかバイト先で、人々に尽くしなさいと、それができないのに何で歌う必要あるのという考え方です。だからあまり世間と切っていないのです。

 そこで声優さんでも役者でも映画監督の助手でも人形劇やっている人でもいろいろな人がくる。現実を見えなくしてしまうことのほうが私はよくないと思います。

 

 学校は目的が違います。学校は平均に全員をあげるところです。養成所というのは10年に1人でも世界的レベルの人が出たらよいのです。小出監督の高橋選手みたいなものです。ただスポーツほど順序がはっきりしていない。なるだけ他のところにいない人を出そうというのがここの目的です。

 

 その辺は今回の音楽之友社の本で、随分と書いたのです。プロ用に、ここを辞めた人と、ここの生徒に向けてです。今まではここにこない人に書いたのですが、これはここにきている人に書いたのです。

 今年の前半は私は一般向けに書きます。ジュニア向けとか女性向けも。後半にヴォイストレーニング全部まとめて20年やったことの全てを入れ込んで出して、今年は終わりです。

 

 

 

○一つの音

 

 こう考えてください、気づくということ、要は耳が変わらなければ声が変わらないよというふうに考えて内面から変えていくと考えてください。英語と同じです、聞こえなくてはいえないのです。

 気づくということは何に気づくのかというと気づいていないことに気づく、たとえば入っていないこと、足らないこと、あるいは補わなくてはいけないこと、こういうものに気づけばよい。

 

 歌1曲のなかでいくつぐらい気づいているかということになります。歌にメリハリついてないとか一本調子だと、みんな声のせいにしてしまうのですがそうではない。

 この歌でいいたいことを書いてください。そうするとここのところは柔らかく歌おうとかここのところは少し声を落としてとかここは張ってとかここは優しさを込めてとか書いて10個ぐらいですね。私からいわせてみせればひとつの音符でひとついえます。あるいは3つの音で5つは、そういうことがわかっていなくてはいけないです。

 

 ことばにできなくても感じているということであれば、そんな雑な捉え方はないとなる。歌が10ぐらいの解釈で動くものではない。ひとつの音からひとつにつながるところに相当な理由があって、だからそういうものにどう気づいていくかということを少しずつやっていくのです。

 

 それとプロの声というのは、みなさんが何も一曲聞いて判断する必要ないですね。多分2秒か3秒、鋭い人だったら1秒でわかる、あまり鋭くない人でも10秒ぐらい聞いたら、これはアマチュアではないだろうなというのはわかります。

 

 そこが声の一番ベーシックな部分の判断の練習です。ただ今のJ-POP歌っている人が同じことをやったようなときにどれぐらいプロなのかというのはわかりにくい部分はあります。マイクで入っています。音響効果を入れたところで判断すると先ほどのプロデューサーの世界になってしまう。下手でもどうみせていけばよいか、ここからやっていきます。

 

 

○日本以外の感覚を入れる理由

 

 一般の方がこれるということはそのベースのことが日本語と日本人ということにあるからです。

 トレーニングというのは誰かが気づいているけど誰かが気づいていないことを基準に取れない。ここにくる人というのは日本人で日本語で日本の生活してきているのだから、そういう人が気づいていないことからやっていったほうがよいということです。

 

 別に日本人がダメではない。欧米人がよいわけではない。しかし日本人だけがかなり特殊に声を音声の世界での表現力を失っている。それはあまりない。世界の人はもっと楽に声を出して歌っています、音楽性がどうこうということではない。もっと強い声をたくさん使っています。

 

 今度またサッカーの試合がありますが応援で一晩で声が涸れてしまう国民なんて日本人ぐらいです。エアロビのインストラクターでも選挙運動で後半に入ってくると声涸らしてますね、普通はおきないです。あんなことが起きたら政治家もトレーナーも失格です。普通の国では自分のことばでしゃべれなくなる、あるいはそういうふうなところまで自分の声をコントロールできない人が何ができるのだとなる。日本の場合は日頃声を出してませんから、できないのです。

 

 そういうことでいうと、こういうところで入っていないところの部分で日本以外の国、世界では、どうなのかから、みます。みなさんが違う環境に育っていたらその条件を得たのではないかという部分、人間だったらもうちょっと日本人も人間ということでとらえたらもう少し声が出たのではないかとところでやります。

 

 だからトレーニングの考え方というのは、よく正しい間違いとか対立されてどちらのやり方がよいとかいわれることがあるのですが、トレーニングというのは何でもやれるだけやっておけばよいのです。だから別にここをやったからこっちをやる。全部否定するということではなくて、こっちばっかりやっていたからこっちもやってバランスとりましょう。あるいはもっと大きな器になって、それでそこでやりたければもう一回ここを選べばよいのです。要は選択すればよいわけです。その選択の自由度を持っていくこと自体が器を大きくするということです☆。

 では日本人の聞けないところから入っていきましょう。

 

 

○呼吸法

 

 みなさんの歌のイメージと反するような言葉をいっていくと思います。たとえば響かせていないでしょう、歌っていないでしょう、発声切り替えていないでしょう、そういうことです。

 歌っていないというのか、どういうことかと考えてもらうとその定義が通用するでしょう。その上で本を読んでもらうとああいうことをいいたかったのだろうなというのがもう少しわかると思うのです。

 

 単純にいうともう10年ぐらい前から私は呼吸法とか発声法も、あと腹式呼吸なんていうのは使わないようにしてます。どうしてもそれを知りたくて入ってきて知りたいという人には、私でもトレーナーの先生でもそういうことはやってきていますから教えますが。

 

 では「腹式呼吸というのはこういうことですよ」と、やったりします。レクチャーにくる人はよく「腹式呼吸を知りたい」とか「呼吸法正しく教えてほしい」というからです。一番困るのは「自分の吐く息が間違っていますか」とか「この吐き方はダメなのですか」といわれること。全部程度問題なのです。

 

 程度問題というのは今みんなが座ってやっているのは全部腹式呼吸なのです。腹式も胸式もないのです。人間が考えてしまったから腹式胸式になっています。両方使ってやっています。切り離すこともできないです。

 ただ普通にいわれる悪い胸式というのは胸の位置が目だって出てきてしまったり、体がぶれてしまったりすることでしょう。でも酸素がどうしても足らなくて外側から見たときに目立った場合にそういうだけです。

 決してそんなものが3つの呼吸法があるわけではない、その辺から入ってくるとどんどん理屈っぽくなってしまって現実と違ってきます。

 だからもうそういうことばはあまり使わなくしたのです。

 

 それだけ息を吐く必要性がなければその呼吸法いらない。だから身につかないのはあたりまえです。本当の意味でヴォーカリストが持つべき腹式呼吸をきちんと身につけている人は、日本では声楽家とポップスのなかでも一部のヴォーカリストしかいないです。

 

 というのはそれ以上に歌う必要性が日本にない。それ以上の腹式呼吸あってもしかたがないのです。だから自分が使いたい程度に応じて体が鍛えられ、息が保てたらよいわけです。ただアマチュアのレベルでも5秒続かない、あるいは途中で言葉がいえなくなってしまったりするのは困る。それは程度問題です。

 

 みなさんが健康体としたらここで吐いている息で普通でしゃべる分には充分使えます。しかし、こういう歌を歌うには全然足らないのです。でもこういう歌を歌おうという人は本当にごく一部です。

 声もですが、声や息がありあまるほどあったら、それが自由に使えるというのはひとつの考え方です。

 

 たとえばトレーニングということで筋肉を余分なところまでつけておくとそうしたら、それは、いざといったときには役立つだろうと。ただ今私が考えているヴォーカリスト、役者の声レベルをめざすなら、そういう考え方でやりますが、ふつうのヴォーカリストに関しては自分が歌うのに必要にしないものは一切いらないのです。そんな時間があったら音楽を作ったり深めたり、ステージでやることを優先すべきです。体は最低限でよいのです。

 

 ただそれをどこまでというのがわかりにくいから最高のところからもってきたほうがわかりやすいということです。

 1年2年でこういう息にはならないです。最低で5年から7年ぐらいかかる。声楽家の世界でも呼吸に20年ぐらいといわれている。パバロッティとかになったらわからないですが彼なら日本の声楽家を見て、「これでは息が足りないよ」というかもしれない。呼吸法というのはすべての問題みたいにいわれている。だから呼吸法を知りたいとかいうことになってしまうのです。

 

 腹式呼吸というのは、みんな勉強してきたと思うし、本にもその辺で寝転んで息を吐いたらできるとある。間違いはないです。

 ただそれ以上の表現が必要が必要なときに身につけておかないと、実際の舞台で歌のなかでは正しい間違いということではなくて相手に及ぼす効果が違ってくるということです。

 

 たとえば役者が最後のところでひとつのセリフでエンディングにしなくてはいけない、あるいは場面をバッと変えなくてはいけないというときに、ひとつのセリフをいって息がなくなったり間があいてしまうともたない。歌い手でも同じです。速くなったり大きくなったりして急に小さくしなくてはいけない、そういうときに体がついていかなかったら本来は成り立たない。成り立たないのに歌のなかにはマイクなど便利なもの、まったく成り立っていない流れのなかで成り立ったように見えるような装置がある。それを使うとできてしまうのです。

 

 

○ギャップをつくる

 

 私がプロの歌い手とやっているのは、それを全部はいでいくことです。、プロというのはもう歌えているのだから教えることないのです。それでもくるということは、自分の歌に足らないと思っていることがあるからなのです。そうしたら足らないことをこちら側がめいっぱい見せてあげないとレッスンも成り立たないですね。

 歌は聞いていて安心できるぐらいうまいのです。でも何が足らないのかといったら基本なのです。こういうレベルの歌になったときにそれだけの呼吸が体が声がついてこない、それだけの速さで声が扱えない、同じ速さで扱ったときに伝わるものが全然ない、こういうことが起きてくるのです。

 

 多くの場合はマイクでのごまかしです。みなさんもおわかりだと思いますが、カラオケでやるととてもうまく歌えているものがエコー切るとかなり下手になって聞こえます。マイクなしで録音してみるとこんなにひどかったのかということになる。それを真の実力としないといけません。こういう人たちはそこで全てのオプションの効果をつけているのです。

 

 ややこしいのは実際ビブラートがきくような声では今の日本の音響のカラオケには悪く入ってしまうのです。装置自体でビブラートがかかり観客に効果が与えられることが工夫されているからです。プロの人はそういうのは嫌います。特にカラオケはまったく響きがなくて声が出ない人がやると一番うまく歌えるようにセッティングされているわけです。声出さないで歌ったほうがきれいに聞こえますね。

 

 もうひとつはコントロールの問題です。実際に感情を入れてそのことを伝えようと思ったらめいっぱいの声というのは使えないのです。「愛してるよ」と本当にいいたい、それを大声でいうということはないです。ヴォーカルの世界でもないです。

 でもトレーニングというのはそれを大声でいってみます。それは10分の1でいったときにも伝わるようにまず表現としての大きさを取っていくのです☆。

 

 こういうことから学んで欲しいこと、プロといっても別に発声法やっているわけではない、私は息吐いてもらって比べてみましたから徹底的にプロの体を知っているわけですが、どういう息を持っているかということです。その息が養われてくればどんなトレーニングでもよいのです。

 別にここのトレーニングではなく今やっているトレーニングも結果的に同じになってきます。

 

 

○トレーニングの検証

 

 どのトレーニングがどこまで正しいかというのは誰も実証できないのです。6つ子でもいてその母親がそれぞれ違う形にして構わないですといわれたら実験が一回できると思うのですが。

 みんな違う、筋肉も違う、その人に対して効果をあげたとしても、自分でなければあるいはもっとよい方法だったらもっと効果があがったかもしれないという疑問は常に持っているのですね☆。

 

 効果があがらなかったというときにも、私だからそこですんだが他のところに行っていたらもっとひどくなっていたかもしれないということもあるのです。それもだれもわからない、ヴォーカリスト自体があるいはヴォイストレーナー自体が思い込んでいるだけで進んできています。

 

 では「何秒吐くのですか」とか「どういうトレーニングをやればよいのですか」という問いも、そのトレーニングが本当にその人にぴったりかというのがわからないまま進んでいます。

 そういうことの問題というのは、トレーナーは「自分ができたら自分がやれたことが正しい」と押し付けます。そこがひとつの大きな間違いです。役者でもそうです。

 

 声というのは出していたら鍛えられていくのだという人もいますが、そういうやり方とってしまうと喉を壊す、違うやり方でないとできないという人もいます。声を壊してそれで鍛えられてよくなっている人もいます。

 応援団でもいると思いますが、そういう人がトップに立つとまたそういうやり方を押し付けていきます。するとそういうやり方に合わなかった人が能力なかったということになるのですが、必ずしもそうではありません。劇団も私からみると、ほとんど喉声発声です、でもたまたまそういうふうに、壊さない人もいる、そして伸びてくる、では壊さなかった人がダメなのかといったら、声というのは無理に出したら壊すようにできてますからそのほうが正常なわけです。トレーニングというのはそこからスタートしなくてはいけない。

 

 わからなくなったら現場をみること、ではこういう歌を聞いたときに息がどうなっているかをみる。歌を入れて比べてみる。そのなかにそういう息が入っているのと入っていないとが違うとしたら、そういう息がなくて音しか取れていないのだ、体と結びついていないということです。

 もしわからなければ同じことやってみればよいのです。ハーと吐いてみる。私は最初に深い息を吐いてごらんといわれ、「深い息?ハーッ」「それで歌ってみろ」といわれ結びつかなかった。

 

 体を使って息吐いただけですから、その先生がそこで求めたのは「ハーーー」(本当はのどの音もついていないのですけど)。これは別に特殊なことではないのです、英語とか発音したらそういうところが必要です。ドイツ語などでもそうです。深い母音を取ろうとしたらそういう息が必要なのです。日本語の「フ」とfとの違いに、そのぐらいの差があるのです。

 

 そういうものが現実面こういうところに現れているわけです。だから何もどこかに隠されているのではないのです。

 すぐれた歌い手が誰でもよいですが、音響によって見えにくくなっています。デジタル加工によって、森のなか、霧のなかから声が聞こえてくるようなのは勉強しにくいです。

 ところが30、40年前以前は、そんなに加工していませんから、けっこう生で聞こえますから、そういうのがトレーニングのときによいわけです。

 

 

○声よりも詞のイメージの日本

 

 日本人の歌というのは、心情的な面に入っていくから海外に出れないJ-POPは日本では売れるが海外では売れないといっています。レベルが低いだけの話です。当のヴォーカリストはみんな知っています。アメリカやヨーロッパ、あるいはブロードウェイでも見ればやっているのはどのレベルのことなのかということはわかります。それがよいか悪いというのはまた別の問題です。

 

 彼らの場合は音の組み立てのなかできちんと音楽を創っていくのです。音の組み立てというのはこのフレージングをどういうふうに組み立てていくかという、絵の世界でいうとレイアウトとか構成です。

 こういうことでの耳が日本でもジャズのバンドのプレーヤーみたいなものはみんな持っているはずなのです。持っているのにヴォーカルに適応してくれない。

 

 というのは、その人の声であるということがオリジナルに見られてしまうのと、それから言葉の持つ強さです。

 特に日本のお客さんは、向こうのリズムとか向こうの感覚でフレーズが動いていることよりは日本語としての言葉の裏にある世界のほうに惹かれます。

 

 それは今の時代でも同じだと思います。J-POPで流行っているのを見たって言葉の後ろにあるものと声の質感ですね。あの声の質感というのは磨かれているわけではなくて、使い方は器用ですがどちらかというと持って生まれたところの素直な声です。電話なんかで聞いたときにこの人の声よいなと思う程度のところでやれているのです。

 

 それは厳しいかもしれないが別に私ではなくて、多分あるレベル以上やっている人は昔のサッカーのリトルリーグぐらいかなというでしょう。はっきりいって音楽というのは国境を越えますから日本の文化がどうであれある国で何百万枚も売れているものが他の国で抹殺されるという時代ではもう全然ないです。日本人のダンサーでさえ世界的な活躍をしているのです。

 

 クラッシックのバレリーナも出ています。スポーツはともかくとして。あんな遺伝子によって体型が決まっているような分野で活躍できるだけの日本人になった。でも声では誰も出ていない、どういうことなのでしょうか。

 

 音楽的な能力がないのではないですね、バイオリニスト、ピアニスト、指揮者トップクラスいくらでもいます。

 まず環境があります。それからお客さんが期待する部分があって、我々も常に現場ではそこの要求に答え、そこで理想が崩れるのがいやだから。そこはわがままでできる場を持つという、もっと早く日本は追いつくと思ったのですが逆になってきましたね。

 

 音響の力が大きくなってきてそこで加工してしまえばよくなってしまう。だからCDの売上が落ちて、お笑い芸人のほうが流行っている時代ですね、でも、そうではないのです。単純にいったらヴォーカリストの力が落ちて、お笑い芸人の力が高いのです。声を使う力としてそうなのです。

 

 彼らの声の使い方とか声のなかでの表現力のほうが、ヴォーカリストの残念なことながらメロディに乗っかってしまって歌詞つけて歌っているものよりもインパクトがあるのです。それは我々にとってではなくて若い人たちにとってもそうなのです。それだけの話です。

 

 今勉強するのだったらお笑いの人、なんでもよいです。他のネタを他の組がやったとしたときにどのぐらいインパクト持つかというと、ダメになってしまうでしょう。ネタがよくても、ネタだけではだめなのです。

 私はまだ、二流三流のお笑いの人も見てます。もっとよいネタでやっている人もいます。でも声での表現力がないから客が聞き取れない、インパクトがないから笑いをとれないのです☆。

 テレビに出て毎回、自虐的にやっているほうはまあ、別として、声の個性を生かしきっています。要はあの声があるからネタが生きるということは彼らは知りつくしています。

 

 分ける必要はないのです、テツ&トモは、歌もうまい、元々歌い手志願です。人前で何かやるというのはお笑いも歌い手も同じです。さだまさしさんは落語家なりたくて歌い手になってしまった。中島みゆきさんだって、詞を描きたいといってそういうことに。そこは私はわけていないです。

 

 音楽やっているつもりの人ほどやたらと分けるのです。大したことやれていないのに、すごい聖域にいるみたいな、まるで音楽やっているのがそんなに偉いのかということです。世の中がどこを支持するかを見ておけばどこで学べばよいかなんていうのはよくわかります。

 

 

○日本人にない基礎

 

 それだけのことを6分間の歌であげるために、どういうことをやらなくてはいけないかみたいなノウハウというのは、彼女に限らずプロに全部入っているのです。このときのことを詩で書いたものをHPに入れてあります。ひとつの聞き方として、これが歌だということではないのですが、どこにもメロディ、音程リズム感も英語のうまさも声の大きさも表われない、そういうものを超えたところに乗って何かが伝わってくるという部分で必要です。

 

 もうひとつ音色ということを日本人聞き取れないのです。息の世界が日本人にないからです。日本語に強い息は要らないですから息を体から吐くことは、なかなかできない。

 

 こういうものを入れていくというのは内面から勉強していったほうが、いわれるとそう変わって聞こえる、気づいているというか聞こえているだけではだめなのです。実際日本語のなかだって英語と同じぐらいの色んな音というのがあるのです。「うん」だって5通り以上ある。

 ところが我々は「うん」ていうと「うん」はひとつしかないと聞いてしまっている。自然と聞き分けているのですが、ひとつしか聞いていないということは、ひとつしか気づいていないのです。だからそれを意識的にしていってより聞けるように耳を細かくしていくというのは勉強のひとつのアプローチです。

 

 いくつかの条件があります。これができるには音楽が入っていること、それから扱えること、呼吸が音楽の上に乗せて展開できることひとつでも狂ったらぎこちなくなってこういうふうにならないです。

 声を練りこめることあるいはその声を常につかめているどこでもはなせること、そのベースに音楽が必要ですけれど、簡単に見えますね、でもそこで日本人だとこういうのは「ラドソファ」変えてしまうのですね。

 

 特に今の若い子たちは高いところになってきてしまうとすぐに発声を変えてくる、トレーナーもそういうふうに教えます。

 要はその人の今の体をベースにしていますから、だからまずこういうふうに歌う感覚自体がないです。40年ぐらいさかのぼるとけっこういるのですが。

 

 歌い手が音楽としての構成を重視してないのです。日本人は、その音を取りに行こうとか言葉ひとつひとつをつなげてみようとやっています。

 そんな短絡的なことはやってはいけないのです。今のも1オクターブないわけです。かなり難しいです。

 

 私の本でも2年間で半オクターブできたら早い、2年間で1音でもよいよと。「ハイ」の練習はそういう深いところをやるトレーニングです。

 だからたとえば一般の方で声が出ないとかいう人は役者の養成所行ったりすると無理に声を使っています。ところが「ハイ」というのは何かというと「h」から入って「i」にひびかす。「ハイ」が100回できたから、別に歌がうまくなるわけではないのですが声をつかめるようになってきます。声門を開き、のどの奥をあける☆。日本人の喉のところをはずしてみて体のところで声を持てるようになるのです。

 

 

○音色

 

 映画を見たり歌を聞いたりしてみて何か世の中に芯のある声というのがあるのではないか、あるいは深いところで響いている声があるのではないか、あるいは深いところで響いている声があるのではないかと気づくのも、音色の問題なのです。

 

 私の声は日本人からいったら音色という観念がないから単に低いで見てしまう。でも、基本的には何が違うかというと体使っているだけ音色が深い、音色の問題。ただ日本人というのはそれがない。だからこういうのを自分たちでやろうとしたらいきなり音域がこんなにあるとなる。わかりやすければアレサでも、ベッドミドラーとかサッチモとかああいう声に合わせてやってみたら何か1オクターブ低いと思って歌っていたら何かもっと高いところで歌っているぞとわかります。

 

 五木ひろしさんあたりとサッチモの声域というのは同じぐらいのところで歌っています。それは日本人のは鼻側のほうにまとめていて柔らかく出していますし、彼らはけっこうストレートです。どちらを選ぶかはどうでもよいです。

 

 私がいっているのはトレーニングできるところをやるのだから息がついていくか鍛えられていくかということがベースです。それから歌がひとつになるかということです。

 日本人でワンコーラス1番つらぬいた集中力で持っていっている人というのはほとんどいないです。さっき聞いたような曲というのはそのなかでも稀な例です。2番、3番ぐらいになるとかなりテンションダウンしますね。

 

 ところが外国人はそういうこと絶対起こさないです。3番まであるということは3番までの理由があるから3番まであるわけです。日本のシャンソンなんかも向こうのが6番まであるからといって6番まで歌っているのです。そうではないでしょう。作品から考えたときには1番伝えられるのが3番までだったら3番までにすべきなのです。1番で全部いえてそれ以上2番からテンション落ちるのだったら1番で歌いあげておかなければいけないのです。

 

 最近短歌とか俳句と同じだなと思います。日本人でいうと半オクターブあれば4フレーズぐらいかなと15秒くらいのところで世界レベルにならないと。歌の世界というのは論理的に考えたら簡単ですね、1秒で同じことができない限り3分で同じことなど絶対できないわけです。まずその1秒です。1秒の世界のなかで、こういうレッスンでもそうですね。

 何かわからないけど2年でも5年でもやってみてピッチがどうこうリズムがどうこうというよりも一瞬でもこれってすごい声だなぁ、これがもし3分できたらプロになれるというのが、1音出るか出ないかです。

 

 

○ベストのキィー、ベストのテンポ

 

 音域が1オクターブか2オクターブか3オクターブどうでもよいのです。今の世の中1オクターブあればよい。ただ全体になったときに難しいのは1オクターブ半ぐらいで構成しなければいけないからで、それでやっていることは3年たっても5年たってもだいたい4フレーズぐらい半オクターブぐらいのなかで本当に表現ができる。

 

 自分の一番自分の出しやすいところのキーで自分の出しやすいところのテンポでなら、そんなにたくさんないのです。自分が選べるとしたら甘いだけです、私からいわせると。ひとつだって通用するところというのは本当に見つけられない、基準からいうと。そのひとつ通用するところを見つけてみて、半オクターブでやってみて、そこでプロと同じことができたなと思ったとしても、出だしだからもっと低いところでやらなくてはいけない。サビのところはもっと高いところで出さなくてはいけない、そうすると1オクターブぐらいは安定した声がないとできないし構成しなければいけないしということでまた難しくなるのです。

 

 場面場面は取れても、全体つなぐということから場面をやるためにはもっと力が必要になるのです。練習はまずそこからです。

 とにかく自分のキーというのか自分の一番できるところの声で一番できるテンポで流れを出すことです。それをお笑いの人というのは音楽ついてないからできる。流れを失ったら悲惨なものですね、シラーっとしてしまいます。

 ところが音楽というのは助けられてしまっているから、だから基本をやるというのはそういうことで、全部剥いでいかなくてはいけないのです。

 

 日本というのは悪いことに向こうから得てしまうと、そこの上に何か創ろうとしてしまいますね、ところが音楽だって文化なのだから全部剥いでいって一番底になったところに声があったり息があったり体があったりする。それでひとつの言葉を伝える。それが伝わった、では次に紡いでいこうと、それで1分になった。

 自分の声で伝えてここまで伝わったでもここのところでギターが入ってくれるともっと効果があがるぞとやってその理由の元でドラムをつけるのです。最初からワンセットあってそこに乗っかって歌っていたらこれはもうシロートもプロもわからないです。もう成り立っているのです。箱として。

 

 それをきちんと見ていかなくてはいけない。だから1曲歌うということはこういうのを聞いたら大変だなと思う。でも18歳の子でもセリーヌディオンだってマライアキャリーだって歌えるわけです。練習したら一ヵ月ぐらいで。ということは土俵が違うだろうということをまずみなくてはいけないわけです。そうすると1音でも2音でも半オクターブでもよいから土俵の同じところで勝負するということです。だからまねするということと少し違うのです。

 

 

○音程

 

 ほとんどの人がこういう曲を聞くと、気持ちよいままに歌ってしまいます。

 リズムや英語の発音を正すことなど、あまり見ません。他の先生に任せてます。ピッチトレーナーも別に置いています。

 それはどうしてかというとそんなこと考えていたら何も表現でないということです。元々基本となったときにそんなことを考えて誰も歌っていないからです。ピッチを考えて歌ったりしないでしょう。みんなでもそうですね。得意な曲で自信持っている曲でピッチなんか取らなくて取れていますね。カラオケで。

 

 だからもし取れていないとしたらそれはたまたまその曲が苦手だったりあるいは逆に変に間違えちゃって覚えてしまっただけの話です。そんな複雑なことを12個の音のなかでやっているわけではないのです。使っているのは7つ、プラス1つか2つですね。だからもっとダメなのはピッチを正されるというようなところです。何が起きているかというと音楽がずれているのです、ピッチがずれているのではないのです。

 

 プロの歌っているのでピッチずれているのたくさんあります。めちゃめちゃひどいのもっとたくさんあります。それでもそんなこと客は気にならないですね。

 それというのは、「サ」の音がきちんと聞こえないので、そんなものが気になる程度にしか歌えないのであれば元々成り立っていないという話なのです。そんなもので客は聞かないし批判もしない。

 

 

○まねない

 

 こういうのでいうとこれを拡大してみる練習の方法としてみて、まねてはだめだよと。なぜかというと、たとえばこういう動作をまねてみると、ここに行くと手が出なかったりそれからこうゆっくりになってみたりしてまねているつもりで同じことをやっているつもりで、だいたいスケールの小さいことになってしまいます。

 

 トレーニングですからプロはこう出せたということは本当はこのぐらいやれる能力があってこのぐらい出しているわけです。だから音を聞くときに自分のなかで少しゆっくりになったなと思ったらすごいゆっくりになったのだと、パッと入ったなと思ったら、それはすごい早く入って、ただその結果としてそのぐらい自分の耳に聞こえるのだと受け止めないと本質的な勉強はできないです。それが感覚を盗むことです。

 

 こういうものでもたとえば何回も聞いてみるとかあるいは大きな音で聞いてみる、「一緒に音楽を聞きましょう」と「そのことが一番大切なのですよ」と「歌ってばかりいるから歌えないのだよ」と特に歌ってきた人にはそういってます。歌えてて歌えるようになっているならもうなっているではないかと。あたりまえですね。

 

 そんな難しいことではないのだから、これだけの話で、何かすごいここに響かせる発声法があってそれをマスターしていないから私は歌えないのだとか、本とか読むとそうなってしまうのです。

 そんなものはないのです、感覚があれば何でもできるのだから。そうしたらその感覚がないというのはいったいどういうことなのかというと耳のなかで相手の体を読み込んだりそこのなかで何が起きているかという能力にまだ欠けているわけです。それを身につけていけばよいのです。

 

 これは私もトレーナーの研修なんかでよく使うわけです、「ハァ~」という最後のところ、こういうところを教えるのは日本もそろそろやめましょうと。こういうところというのは歌いきったあとにあくびしているみたいなもので流れとして出てくるものだから発声法でリラックスして出したりするようなものではないと。

 

 何か一ヶ所でもよいから入り込める部分とかこの歌でいうとこれだけ歌おうとしたら確かに難しいと思う、でも1秒でよいよ2秒でよいよといったら接点はついてくるのです。同じ人間だから。

 だからうちの生徒がこういうの全然できないわけではなくて、2秒とか3秒はできたりする。でもそのことを1分でやろうとしたらすごい難しいことなのだよということなのです。

 

 2秒3秒できないのがどうやって30秒できるのだと、あるいは3度とか1度のなかでできないことがどうしたら1オクターブ、1オクターブ半できるのかといったらあたりまえの話ですよね。もしできているとしたら基準が甘くなっているだけの話なのです。ギリギリのところで表現することでなんとかそこについていくしかない。

 

 だから、もし芸事を勉強しようというつもりで考えている人であれば上達法というのはひとつしかないです。自分よりすぐれた感覚のものに引きずられるようにしてみて自分を失っていってそこに巻き込まれていくやり方、それしかないのです。

 

 本当に上達しようとしたら。スポーツなんかはそうですね、自分たちのなかでどんなに努力してみてもダメだけど高校生だったら大学生のところ行ってみたりプロのところに入ってみてぶつかったりして、一瞬ニ瞬でも動けたらそれが革新するということですね。

 

 要は自分で考えたことでやってきた、自分の感覚でやっている、そしたらたいして上達しない、いや上達くらいしかしない。自分の体でやっているというところでもうやれるところまでは長くやっている人はやっているわけです。そこを壊さない限り次のものというのは得られません。芸術品はみんなそうだと思いますけれど、それを一般に戻すと普通に声が出ないとか大きな声が出ないとかいう場合には、一番簡単なのは日本人のところで限定しているものをはずすことです。

 

 たとえばイタリア語をやってみるとか少しオペラっぽいところの、何もオペラの練習をする必要なくてワンフレーズだけ出してみるとかしてみます。

 ポジションを深くするとか声のポジション喉を開けてみるとか、大きな声を一瞬出してみるというのでもよいのです。「ハイ」でもよいでしょう。

 

 大きな声を出すということで歌が大きく出るわけではないということです。そこがややこしいところです。要は力を働かせようと思ったら力が働かなくなってしまいます。それでフォームが必要になったり呼吸が必要になってきます。それがうまくまわったときに力が働きます。

 多分役者も同じです。ヴォーカリストがやらなくてはいけないのは全身を一体にすることです。一体にして声を出すという感覚をどこかでつかんでいくことです。

 

 これはスピーチなんかでもそうだと思います。外国人の映画俳優なんかから勉強するとよいと思います。私は役者には黒沢映画使っています。仲代さんとか三船敏郎さんとかああいう動きのなかで剣を切りあう動きのなかで「えい」とか「やぁ」とかいっているほうが声が背骨のほうから出てくるのです。そういうのが定着してきたら1年2年たって、声を再生してみましょう。

 

 

 

レクチャー録 15,502字 1722

レクチャー録 1722

 

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レクチャー録1【45521】

レクチャー録1-2【45521】

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レクチャー録1     

 

 

○質疑応答

 

 

A.ケースバイケースですよね、プロデューサーといろいろやってこられているから他の方とは違って、おわかりかと思いますが、凝っていくときりがないのと、それからそこはヴォイストレーニングなんかからは一番相反する部分に近いですよね。いわゆる音楽的な加工をどうするところだから、それはもうプロデューサーや実際レコーディングスタジオの音響さんの担当すべきことです。

 

 確かにマイクの使い方とか音響の使い方ということは我々現場にいますからわかるのですが、プロのなかにおいて、どういうミキシングをしていくか、たとえばマイクひとつだってどう選ぶかというのは専門家というのがいないわけではないのですが、それは誰をスタッフに加えていくかということですよね。

 

 

Q.弾き語りを長くやっていて、ピアノを弾いて、ピアノがあるから歌っているというのがあったんですね、いざレコーディング、立って歌だけ入れると、座ってたらできたことが立つとできなくなったりします。

 

A.座ってやればよいのではないでしょうか、別にレコーディング立ってやらなければいけないということではない。

 

 

Q.弾き語りだけではなく、歌だけでやるとかオケと一緒に歌ってみるとか、そういうこともしてみたいとは思うのですが、なかなかそれがうまくいかない。

 

A.それは慣れです、それとともにたとえばギターを持ったほうがいいとか悪いとかピアノで弾き語ったほうがいいとか悪いというのは単純な話でいうと、声だけのことを考えたら演奏は全部プロにやってもらえという考えです。

 

 場合によっては両方合わせて音楽ですから、そのときに本当のプロの一流よりは自分のギターとかピアノはうまくないけれども、自分の歌とミックスさせていくときに、そこは第三者ではできない世界というのがあるというなら自分で弾くべきでしょう。

 そういう場合は何でもできたほうがよいほうが確かなんだけど、最高のものを創ろうと思ったときには、その選択こそがスタイルになってきます。

 ずっとそうやってやってこられていて新しいことをやってみてもあまりうまくいかなかったり慣れるのにすごい時間がかかったりするのであればレコーディングだって座ってやればよい。

 

 ステージで、座って歌うというのは特殊なスタイルですが、そのほうが作品がよければ私はそれでよいと思うのです。ただステージもビジュアル的な面が大切になってくるので歌っているだけじゃお客さんに働きかける力が弱いとなると、お客さんあってのものなので、自分のターゲットとするお客さんが自分に要望していることに対して自分が創っていく。

 

 作品はお客さんの要望どおり創ったらまともなものできませんから、そこは一線引くとしても、ステージになってしまったら、ある意味じゃサービス的な部分があります。曲のおひろめのパーティみたいなものでしょう☆。

 だからそこを発声で片づけていくのかステージングで片づけて行くのかというのは問題ですね。ケースバイケースです。要は何を基準においてそこを判断するかです。

 

 私はもうライブはお客さんへのサービスということで100%客受けではないけどお客さんをすっきりして返すこと、そんなところですごい作品ができるとかできないとかいうことは問うべきではないでしょう。レコーディングは客のことは一切考えないで最高のものを追求すべきと、簡単にはわけています。

 

 これだって現場によって違ってくるので、だからあまりトレーナーが加味するべきところではない。プロデューサーの営業面販売面と作品面に関しての判断になります。だから私らはアドバイス求められるということはありますがこちらからこうしなさいということはいわない。それぞれのステージでのことなので。

 

 

Q.地声、ファルセット、ミックスヴォイス、コントロール、ピッチ、体の安定、日本語発声、ピッチ、レコーディングで自然に歌う方法。

 

A.慣れていくというのは、レコーディングでも自分でいろんなところでやる、ここも考えようによってはレコーディングスタジオと思えばよい。ライブやっていると思えばその練習にはなります。

 

 ピアノとという形も今後の方向性になってきますよね。オケの溶け合い方もヴォーカリストが考えることではないと思っています。むしろ楽器を選んだり作ってみたりどういう人を一緒に組みたいとかいうのはヴォーカリストが考えるべきでしょう。音響的なことを歌っているヴォーカリストが考えるというのは無理です。

 

 

Q.でもプロデューサーから要求されるのです。

 

A.それはプロデューサーの責任、レコーディング担当者にやってもらいましょう。オケとの溶け合い方は音響技術ですよ。

 

 

Q.私自身が何かするべきことではないのですか。オケにもっと寄りかかって楽に歌ってしまえばいいのにといわれても、そのまま歌っているつもりなのですが、何かが違うらしいのですが、わからないときがけっこうある。

 

A.あなたはあなたのベストをつくすだけ。あとはコミュニケーションの問題で、それは音響さんやプロデューサーがあなたに対してスタンスとして求めていること、あるいはひとつの代表的な聞き手買い手の立場からこういうふうにとアドバイスする。

 音自体をミックスさせていったりリバブかけたりエコーかけたりするような度合い、ここに関してはプロデューサーの指示に任します。プロデューサーがコントロールできるところとできないところがあるのです。

 

 身体面であなたの持っているリズム感であったりピッチ感であるとあなたになります。だからコミュニケーションというのは、何をいいたいのですかということをはっきりさせないといけません。

 プロデューサーによって言葉の使い方違いますから、同じように使っていても全然違うことをいっている場合があります。一体どうなのだと聞くしかない。

 たとえば私のなかのこの一曲のなか、あるいは私が全部やった10曲のなかのあなたがいっているのは一体どこの声のどこの感じがいいのかとそうやって具体的に詰めないとわからないです。

 

 

Q.余裕がないことで、アカペラで歌っているみたいだといわれたから、多分歌が必死だったのでしょう。

 

A.音楽と合わせるため、よく聞いて歌いなさいといったら外れますから。前準備と当日のリラックスでしょう。

 

 

Q.そのピッチ感とかも、いわゆるアコースティックのピアノとシンセとか微妙に違うじゃないですか、私あまりそこまでこだわりなくやっていたのですが、プロデューサーの方が完璧を求められる方で、完璧なピッチという。

 

A.それはどのレベルでやるかということです。ただ現場でできないといったら失礼ですが、そのことを満たしてないヴォーカリストに対してそういうことをいうことは無意味でしょう。さらに固くして作品をダメにしてしまうだけです。そんなこと考えたら、より自然によりよく聞いてそのなかでリラックスしてやるということと逆のことがもっと起きてくるから、どんどんできなくなってしまうのです。

 

 ステージというのはもう歌い手のものですから、レコーディングにしろステージにしろ他から口出すべきことではない。今までやったことを信じてめいっぱいやるしかない。

 

 そんなところで注意するのは要はレコーディングしてはいけないということです。あるいはライブしてはいけないということです。プロデューサーと本人との間の問題です。それをごっちゃにしているのはよくないです。

 

 よいものをつくりたいかもしれないけど、声も歌も半分は自信ですから。そのときにノリきってない状態をやってしまったら、もう何を注意したってもっと根本的なことが崩れます。ピッチあったって伝わりません。それこそピッチを音響でなおしたほうがよいです。

 後で、もっとよいものを取り出せば今音響の技術は何でもできるのです。現場でプロデューサーが聞いた声とレコーディングされる声が一致する時代ではない

 

 

Q.どんな状況であってもベストの状態で歌えるのがプロなのかなと思うので、それを身につけたい

 

A.ふたとおりですよね、そのプロデューサーでなければ絶対世には出ていないしやれなかったというタイプの人もいる。それから理想でいえば、ここでトレーニングして他のトレーナーについてみたり他の場所に行ったときにもし違うこといわれたとする。でもそれに合わせられないぐらいだったら、本当の基本力はないと。世間の人がいっている程度のことに合わせられないぐらいの力しかないのだと思って、また基本やらなくてはいけない。

 

 応用力というのはひとつの力ではあるのですが、ただ私は日本のトレーナーもカウンセラーやプロデューサー大して信用していません。昨日より今日のほうが作品確実によくても、気分とか機嫌で、あるいはその前の会議で少し感情的になったら、もうそれを作品に持ち込んでしまう。けっきょく作品に対する基準を持っていない人が多いです。

 プロデューサーも売る人ですから、それの全責任者ですから、お金の面での収支の責任を持っていることが作品に対して必ずしも見れるわけではないでも、売れることには一理あります。

 

 

Q.私がいっている方は、ミュージシャンの方、プロデューサーだけど音楽的なことをやる方です。

 

A.それはヴォーカリストのことを楽器と同じで考えている人だからなので、楽器ほど完璧なヴォーカリストも中にはいますが日本にはあまりいない。

 楽器のレベルでヴォーカリストもみてくださいというのは私はよくいっていることです。ヴォーカリストに対してとても評価が甘いからヴォーカリストが迷ってしまう。

 あなたがたバンドやっていたときにドラムとかギターでお互い言い合うでしょうと、そこがだめとかそういうはいり方ではと、それと同じようにヴォーカリストを見てくれたらよいのです。

 

 ところが声だからわからないとか、自分は歌えないからみたいな感じでそこに敷居を作ってしまうのです。もっと大きな問題はヴォーカリストの声は日本においては楽器的には聞かれていないということです。お客さんとの対応においてもっと問題があるのです。

 外国だったらはっきりする基準を日本の場合は持ち込めないのです。

 

 ただ私はトレーニングにおいては持ち込んでいます☆。トレーニング以外においては必しも持ち込めないです。お客さんが満足するのはとりあえずは条件にはなります。お客さんがたとえばビジュアル的にあるいはダンスなんかのほうで満足するのだったらその分の演出を入れてあげるというのは当然のことだと思います。ピッチの狂いの0.いくつのところで聞いているなんていう人がいたら、別ですがそんなレベルでは全然ありません。だからといって悪いものを創る必要はないのですが、難しいです。

 

 日本の場合はその人の声がオリジナルだという考えがひとつある。そんなことをいってしまったらその人の顔がオリジナルだといってしまったらそれはオリジナルなのですが、商品として通用するオリジナルかどうかというのはまったく別です。それから歌というのが言葉を伝えてくれるがために楽器なんかと全然の意味で人の情感が動く。特に日本人はそういう意味で感受する部分が多い。

 音楽とか楽器の面での判断基準というのがお客さん自身で高くないので、すると我々も自分の楽器的な耳で聞くのは専門の現場だけ、実際のコンサートとかになってしまうと現場本位です。

 

 レコーディングはさすがにピッチとか狂うとまずいです今レコーディングどおりライブで歌えるヴォーカリストなんていうのはいないです。ライブでとてもうまく歌えている人がレコーディングやったらめちゃめちゃになります。ふたつわけなくてはいけないくらい大変です。

 レコーディングはどんどん細かく気難しくなってきて、ピッチなんかうるさい。そこまで聞くお客さんあまりいないし、あとでピッチで治せばよいのだから。切り張りで作っているのだから。基準がなくどうでもなるからです。けっこうみんな難しくなったのです☆☆。立場がそれぞれ、考え方が違う、求めるものも違う。本当によいのは自分を理解できるスタッフを集めて、他が何をいっていようがそれを貫いてやることですよね。

 

 

Q.メンタル面、プロデューサーとの関わり方とは。

 

A.好き勝手やってみてついてくる人だけとやったほうがよいですよ。とはいってもそこの学校にいるなら、そこで学べることはできるだけ学びなさい。それはすでにもうある環境ですから、それを生かすこと。だいたい辞めてここに入りたいというのですが別にそれが一番よいわけではない。そこをきちんと使い切ってからきて欲しい。何か使い切れない部分はあるとしても。

 

 

Q.先生も私ひとりだけではなくて、いろんなクラスを持っているし週に1回というのもあるからこなすのですが。

 

A.けっこう難しいことのひとつというのは、目標の取り方です。ここも一般の方もこられる。声優、役者さんも、実際にここでレッスンでしている。でこういう音楽かけると、「え、ミュージシャンなるわけではない」と「歌なんだ、間違えた」という人がけっこういる。私にとっては全部同じ声というところ、その応用のひとつの最高のところにヴォーカリストがある。そこのなかでの声のノウハウというのは一般のなかにも落ちてくるというようなことなのです。

 

 歌っていうのは今何でも許されるようになってきましたから、トレーニングをすると思ったときには歌の理想系というのはある程度想定しないと何でもよしになってしまう。何でもよしなら習いに行く必要もなければ勉強する必要もないのです、自分でまずやればよいわけです。

 

 だいたいの人はヴォーカリストになりたいという憧れからはいってきます。自分の好きなヴォーカリストがいてああいう風に歌いたい。楽器だったらそれでいいのです。スタートが遅いかもしれないが20年30年かかっても時間を同じだけかけてみたら才能が出てくるかもしれない。

 ところがヴォーカリストというのは全部できるようになるわけではないのです。まず自分の持って生まれた楽器に限定される部分があるのです。

 

 だからたとえばローリンヒルみたいに歌いたいとなったときに多分あなたには可能性は少しはあるけど私にはないですね。私のほうがたくさんいろんなことはやってきたかもしれないけど、それは男性として生まれその声帯を持っている限りああいうふうな形の勝負というのは不利なことになります。

 

 つまり自分の将来の体あるいは楽器を使いこなした上での理想上の声とか歌のイメージを持つのがとてもヴォーカリストの場合、難しいですね☆。だから最初はこうやって一流のアレサフランクリンなんかはよいと思いますが直接入っていくことが一番よいというか唯一の方法だと思うのです。

 

 だから実感をもたなければいけないというのは第一です。ギャップが見えない限りトレーニングというのは成り立たないのです。スクールというのはあまりギャップを見せません。すぐにそういうふうになれてしまうとか、もう半分ぐらい同じように歌えているように見せてしまいます。私からしてみたら初めて歌った子がそうだったらもうそれはプロなわけですから、そこには大きなギャップがあるのです。

 

 みんなプロになっている人というのはひとりでやっています。全部自分の判断でやっていて、プロになれたのだから優秀だしとても勉強熱心だし素質もあったわけです。しかしもしかしたら違うやり方をとったらもっとすごいプロになったんじゃないか、外国に行っても通用するような歌が歌えたのではないかとか誰でも思っているのです。

 

 そういうことに疑いを挟みだすとこういうところしか日本にはありませんから、くるわけです☆。こちらもわからない、やってみないと。そういう基準ができてくると、やることというのはけっこうはっきりしてきます。

 ギャップを見ることが一番だと思うのです。ギャップというとみんなわからないというのですが、好きか嫌いかわからないがシロートだと思いますかというと、いや確かにプロだと、わずか5秒くらい聞いてみてもプロだと思うと、そこなのです。

 

 スクールでは一番わかりにくくなっているのは、確かです。スクールのほうにトレーナーを教えに行っていますからわかるのですが、スクールは好きなことやらせるのです。好きなこととすぐれていることの区別が大切です。しかし歌のなかではとてもつきにくきです。

 というのはもともと好きな人の歌を好きなような声で好きなように歌っていて気持ちよく歌えたら誰がどうみたって自分では気持ちよいから文句ないわけです。でも第三者が聞いてひどいという場合だってある。

 

 一番ギャップがわかりやすいのは自分が絶対嫌いだけどすぐれている見本に学ぶことです☆。古い曲、こういう歌い方自分は嫌いだと、でもこのひと声ってプロだよなとかこのフレーズは自分とは力は違うな、大嫌いだけど認めるというのはすぐれているというところの基準なのです。

 学校から出たような人は私はだいたい聞くと、あのヴォーカリストの影響だなとかああいう歌い手さんのコピーでずっと練習してきたとわかる。だいたいその歌い手もトレーナーも越せないですね。当然です。

 

 そういう人たちは自分を知ってやってきているのだから。憧れでそれをまねしてやってきているわけではないアレサフランクリンあたりをひとつの基準にみて勉強しましょう。去年できなかったけど今年ああいうふうに歌えてしまったということはあまりないです。あそこまでいくと。最高のところに目標を取ったほうがよいです。そのなかのことをどう見ていくかというようなことだと思います。

 

 

 

 

🫣🫣

 

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Q.スティーブンタイラーの、発声法を知りたい。

 

A.そういう質問というのは、よくあるのですが、そういう“発声法”というのがあるわけではない。ロックとかポップスの歌手というのは、ヴォイストレーニングやって、そのようになったのではないのです。

 日本でも、ほとんどの人は自分でよい音楽を聞いてそのモノマネとかそういうもので歌ってきている延長上でなってきているのです。

 だから発声法って考えないほうがよい。発声法と考えるのであれば歌そのものがもう発声法だと思ったほうがポップスなんかの場合はよいのです。

 

 さて、ある程度、発声法と実際の演出とをわけることです。あまり発声法をやらなければ歌えないとか声が悪いからヴォーカリストになれないみたいな方向に入ってしまうとキリがないです。では10年やって20年やってみてキリがない。

 だから今からやるというのであれば、発声というのはあくまで補強にしかすぎないということです。

 まず、やる必要があるかどうかから疑えばよいのです。ヴォイストレーニングって最近よく聞くな、流行っているみたいだ、あれをやらないとプロになれないということはないです。ただ何を持ってヴォイスとレーニングというのか、そこから考えていなかければいけない。

 

 私なんかもう正直に、あなたはヴォイストレーニングいらないですよ、さっさと活動しなさいと、別にうまいからということではないです、当人自体が必要性を感じていなければやったってしかたない。

 たとえばピアニストなのにピアノの基本もやらないで弾いてうまくなった人というのはよほど特殊な人だと思うのです、習いもしないでプロになった。たまにいます、独学だけで。ただ、よほど特殊な環境で何かめぐまれていないとそうならないです。自分がどうなのかということです。

 でも声の場合というのは使ってきていると思います。みなさんがかなりのレベルのところまで。歌ったことないのに歌える人はいないですが、歌ったことのない人もいない。プロの活動に次の年からは入れてしまう人も中にはいるのです。

 

 

Q.自分の声は、人にどのようにどのように伝わっているのかに興味を持ちました。

 

A.職業と必ずしも直接の関係はないですね、ここは、まさに声のことを扱うのですが、医学的のほうの興味とは違いますね、むしろコミュニケーションでしょうか。この辺になるとケースバイケースだとは思いますけど、声そのものにどのぐらい原因があるというのは、今話されている感じだと、差し支えないと思うのです。

 自分の出している声の大きさなんか日本人は経験がないからわからないのですが、これは計ってみればよい。誰かに手伝ってもらい、そこに座ってもらってこれで聞こえますかとか一番後ろで聞こえますかと。全部状況によって違います。外でこの大きさだったら多分聞こえないと思います。その辺が一番どのくらいが適量かというのも含めて決まりはないのですが。

 

 

Q.レッスン終了の目安というのはありますか。

 

A.私にはありません。だいたい、うぬぼれはじめてきたら追い出します。レッスンをやっているから音楽とつながっている、トレーニングをやっているから何かしら蓄積していく、それは前提ではあるのですが目標ではないという考えです。私は世の中に使って、それで意味があると思っています。できるだけ早く出て行ってほしい。ただ目的をその人が持っている限りは、何回とか何年というのはない、ずっとつきあいます。

 多くの人にとっては、3カ月コースとか半年コースなどくらいでしょうか。なら、カルチャーセンターなんかによい先生がいます。スクールなんかよりも、安くて、そういうところだと3カ月コース、続けていれるみたいなシステム、その辺はケースバイケースでしょう。たくさんの人がヴォイストレーニングをやりだすようになって、そういう先生がたくさん出てきて、いろんなところに講座が出るようになってきたから、私は助かってきたなと、そういうところで習ってやってはきたけど足らないという人にきてもらうとよいです。そういうことで今過渡期だと思います。

 何事も声だけの責任ではないことがとても多いです。

 

Q、ほとんどの人が声を気にしてこられているようですが、それは何かきっかけはあるのでしょうか。誰かに何かいわれたとか、耳がよくないとか。

 

A.特に聴覚能力がない人というのはしゃべっていていたらわかります。自分の声もコントロールもできないし、だいたい声を大きく出す人が多いですね。本当の音痴かどうかというのも何万人にひとり、しゃべっているところのイントネーションとかアクセントのところでわかります。

 声に悩む人はまわりにその人の声に対して厳しい人がいるのです。あるいは直接は、声ではないのにそういう注意をする人が。ここ何年か本当に声が原因でといってきた人が声が原因だったことというのはないですね。あまり気にされないほうが私はよいと思うのですが

 

 

Q.今まで2年間専門学校に行っていてそのときから音楽というものを真剣に考えました。プロのチャンスはありますか。

 

 ここでチャンスというのは、スクールでオーディションしてみたりプロデューサー呼んでみたりということなのでしょう。以前、大規模にやっていたときはオーディションもプロデュースもやりました。基準として私も勉強するのに、大物プロデューサーを呼んでいたことはあります。

 でもプロデューサーが点数で満点つけるということは、私からいわせてみたら、うまいだけ、それで何でデビューさせないんだよとなると、でも似たタイプで若い子がいるから全国探せばもっとよい子がいるからと。そうしたら満点つけるなよ、という話なのです。

 

 いわゆる学校というもののなかでの評価と現実の評価というのは全然違います☆。だから私はそれをもう一緒にしたいわけです。でも一緒にするといったってプロのヴォーカリストの必須条件がありますかというと、そんなの声でも何でもないです。作品を制作する力です。それにおいてプロの作品かということです。

 声やピッチがよいかとか悪いとかいうのは第一条件ではない。本来のことでいったら声を扱ったり音楽を扱う人間がそんなことに鈍くてやっていけるわけではない。どこかのところでは大きく降りかかってくることではあります

 

 普通に考えてみたら、普通の人においては、そんなものはすぐに直らないです。もっと音楽が入り込んでそういう世界のなかにどっぷり使って正されてくるものです。もともと勘がよかったりピッチがよい人なんかが10代の若いときにそういう世界で出て場を得たりします。5年もたったら大体もっていません。プロになれたとかデビューしたとかそんなことはあまり意味がないといったら変ですか。

 

 専門学校に入ったらすごいところに100%就職できるといっているのと同じです☆。日本人はだいたいそこだけで見るのです。私は人生でみます。彼らが5年後10年後どうやっているんだと、大学生に追い越されて半分以上辞めているといったら失敗ではないかと。少なくともその企業に入ったという部分においてはね。

 そこまではっきりさせてきちんといえばよい。入れたことで喜ぶ、それはチャンスかもしれないけど。

 そういう意味でいうとプロのヴォーカリストの必修条件というのは少なくとも声ではないです。その人のポリシーであったり、若いうちでいうのだったらエネルギーと感性です。

 

 半年ぐらい前からヒットしている、ある歌手ってご存知かもしれませんが、ピッチも何もないです。私はずいぶんお笑いの連中と接してますけど100%エネルギーです、それが回っているうちに音楽に落ちてきたり漫才になったり。では彼らのでたらめみたいに歌っているようなのは音楽でもロックでもないのかといったら、紛れもなく音楽でロックです。

 どこかのロックっぽいの歌っていたりどこかの発声練習でやったような声で歌ったようなもののほうが胡散臭いです。だから客が動かない、聞いている人が、また行こうという気にならない。友達誘おうと思わない。うまいなよかったなと思うけどそれっきりです。そういう人自称ロッカーやジャズメンはたくさんいます。

 

 プロの条件というのは、口コミで広がっていくことです。お客さんにウケるかというのはまた別の問題はありますが、少なくとも主張がある。だいたい私は1年半ぐらいかなと全部見ていますが、それをこえるとましです。

 お笑いでもそうです。テレビのなかでホストになったりレギュラーになったりはできるけど、芸の本当の最高のものが出せているのはなかなか1年半続かないですね、多分それだけ日本のエンターテイメントのレベルが低いというだけです。

 ヴォイストレーニングをやっておかないと、歳とったら声でなくなります。日本のヴォーカリストのレベルでいうと、10年20年で本格的な人ほど、それは大切なことなのです。

 

 

Q.深い息のトレーニングと集中力について。

 

A.集中力の問題は二番目ぐらいに大切です。集中力つけることに3年、かけたほうが、下手なヴォイストレーニングやっているよりもよほどよい。それが足らないとしたら致命的な要因です。これは漫画家であろうがなんの仕事でも全部そうです。人並みはずれた集中力がいります。

 この前プロの漫画家さん(バキで有名)に会ったら、「俺、最近集中力持たない、30時間しか続けて描けないんだよな」と。そんなものです、プロの現場は。

 

 すぐれた漫画家の才能がある人がたくさんいたでしょう。でもその集中力がなければ、歳とったらやっていけなくなる。みんな楽したいからやらなくなってしまう。ポリシーとか使命感とかバックアップしてくれるようなものがひとつあればよいのですが、それを最初から持っている人はあまりいないです。

 

 世界の平和のために歌いたいと世の中の人がみんな安らぐように自分の歌を届けたいという人に限ってもたないのも、このせいですね。理想論でなく、本気からしか集中力はでてきません。

 あなたが歌わないほうが世界の平和のためですよとかみんなが安らぎますよとかいえないから、がんばってくださいというのですが。現実にやっている人は有名になりたいとかモテたいとか目立ちたいとか単純ですね、動機が、だからすごい強いですね。

 

 それで突っ走れるまで突っ走しっていったときにむなしさを感じて音楽面にうつってよい歌になって化けますね、だいたいそんなものです、役者お笑いとかも。

 だから人と同じことをやっている人が人よりすぐれるというのはなかなかないのです。最初から変わっているというのはひとつの条件なのだろうなというのは思います。

 

 

Q、十代でハードに声を出すのは、よくないですか。

A.人によります。あなたの歳ではあまりハードに声を出さないようにすすめる場合もあるのです。実際、声変わりが起きてから、人によって違いますが、20代入るぐらいまで無理をしてしまうために悪い方向に行ってしまうこともあるからです。

 私も、研究所で、最初は20代以下はお断りということで始めたぐらいです。そういう意味でいうと、声楽から入らせ、いわゆる音楽の基礎を2年、3年やってみたからといって大して変わらないのだったら音大に入れるとか音楽をやっているということが残るような部分で時期を過ごさせたほうがよいと思ったのです。「何だったんだ、この3年は。」というよりもよいということです。

 声に関しては年齢というのでないことはないのです。21、22才ぐらいからのほうがトレーニングということでは、人によりますが危ないことがおきにくい。10代の子には、ホルモンのバランスとか色んなことで練習と関係ないところで声に変調が起きやすい。10代の子はできるときはすごいできるのに何の理由もなくトレーニングにも関係がなく、いきなり声が出にくくなったり崩したりするときというのがあるのです。体がまだついていっていないので、そんなこともあります。

 

 

Q.実力がないのに売れてしまっているバンドのヴォーカリストみたいになりたくない。

 

A.10代でデビューしている人というのはだいたい勘がよく最初からできあがっている場合が多いのです。それはそれでひとつの才能だと思います。たとえば他の人よりも同じものを聞いても聞き方が違う、着眼点が違うとかいうタイプがたまにいるのです。音感なんかも大してやっていないのにとれるというよりはよい音感をしているみたいに、わかる。それは、めったにいないのですが。リズムなんかもそうです、長年やっていて、すごいなという子が10年で一人。どうしてこういうリズムが入ったのだろうなと思う子がいました。

 

 そういうのはトレーニングでどうこうというところではないのです。ヴォーカリストというのはそういう部分が少しあるのです☆。役者なんかは努力でトレーニングであるレベルまではあげられるのです。ヴォーカリストというのは、10年20年やってうまくならない人もいるし2、3年でめきめきうまくなる人もいます。現実にそれは学校とかトレーナーということではなくあります。

 

 トレーニングをといっている以上、一般の人に開放しているのは、できない人ができるようにならないと本当の意味でトレーニングではないし、トレーナーの力ではないと思うからです。もう10年プロでやれている人というのは、やれているのだから最初から才能がある。自己流でやっていながらそこまでいったのだから。そういう人たちはそういう人たちでこちらも勉強なります、もうやれているのはこちらが育てているのでもなければその効果でもないわけです。ただ急がないほうが私はよいと思うのです。

 

 声が枯れてしまうとかいうようなこともあります。歌声の魅力なんかということも、日本人のなかで10代ではけっこう厳しいですね。たまに外国人なんかで変わった声、おもしろい声の人がいます。

 10代あたりで伸びた子というのはけっこういます。親に演歌とか民謡を叩き込まれたり、すでに入れています。だから「はじめてです」といっても10年ぐらいキャリアがあるのです。環境が必要です。

 

 高音なんかもうまく出せないと何でも発声でできるところまでは出せるようになります。やった分だけはできるようになりますが、必ずしもそれをメインにはやろうとはあまり思っていないのは、ステージとは別だからです。

 

 人をひきつけて離さない歌声というのも人と変わっていることが素質なのかなと思いますね。ひきつけてというのは、必ず対象がある。みんながひきつけられるという公約数的なものもあるがそちらのほうが難しい。生得的に得て誰が聞いても「あの声いいよ」という声で生まれつくのはけっこう難しい。

 

 トレーニングができることというのは、その声をその人が与えられているのに生かし切れていない部分をみる。きちんと生かしてない部分をきちんと生かそうというところに戻す使い方です、それで見せていくという部分があります。

 極端なこというと声がめちゃめちゃであっても歌として感動を与えるというのは不可能ではないのです。色んなことをきちんと入れていくと表現を生じる。

 

 

 

Q.今は、テクノとかハウスとか、そういった音楽にも興味があって、ジャズの今までのなかでも割とファンキーなものに憧れて勉強してきた。そういう風に歌える曲と自分の曲のイメージにあわせて声を変えているというのもあるのですが、きれいに流れるような曲のときと違うと思うのです。それがよいのかどうか、ということ。

 スタンダードを自分なりに歌っているのですが、自分に一番よい声のキーを決める難しさ。バンドのメンバーは何もいってくれないので、自分で判断するしかないので、そこでもういちど自分の基本の声というのを確認したい

 ステージに立ちはじめて長く経験があるわけではないですけれども、そのなかでたとえばどうしてもジャズでもヴォーカリストモノは、何か別物みたいにとらえられていますので。

 

A.ジャズというのはヴォーカリストいらないんですよ。ジャズプレーヤーには、よほどすぐれたヴォーカルでもなければ余計なものでしょう。そこから考えてみたら、どうでしょう。

 

 

Q.私もそれをすごく感じるのです。私自身もヴォーカリストがのってないライブも大好きですし、ヴォーカリストいらないと自分自身も思うときがあるので何とも言い切れないですが。バンドのメンバーと同じたとえばスキャットだったり、声が楽器みたいな感じでセッションするために必要なことはまだ勉強するべきことはあるのではないかと思っています。

 

A.自分のバンドということではなくて、店に入っているバンドということですね。日本のジャズは、また一種独特の世界のようです。

 ジャズを好むような店、それを好きで入ってきているようなラウンジとかもそうですが、まず第一にジャズに最も必要なフリー的なこと、オリジナリティであることをあまり認めない。どちらかというと、スタンダードな曲をBGM的に使いたがっているところがとても多いですね。

 バンドのジャズやっているおじさんというのはけっこうよい人が多いのですが、ハワイアンとかオールディズとかの人たちに比べたらプライドだけ高いところがあり、とても細かいところにうるさいのです。 そこと若い女性歌手との組み合わせというのは、日本の場合、多いといったら変ですが、男性ではなかなか出ていけない。恵まれてはいるのですが、そこのなかだけで回っている。田舎のジャズといっているのですが、そこに溶け込むか人間的に寛容さがいる。音楽面では多分難しいと思います。

 

 本当のセッションということであればよいのですが、特に同じメンバーのなかでやっている場合が多いですから、そこにヴォーカリストという異質なものが入ったときには難しい。ヴォーカリストがバンドを従えるしかないというのが私の考え方です。要は彼らに嫌われようがなんであろうが、それ以上のもので彼らをひっぱるしかセッションというのはないのです。むこうの出したものに五分で組もうなんていうことだったらいらないのですから。技術からいうとヴォーカリストのほうが劣ります。

 

 残念なことながら20年も30年も一筋とかやっていらっしゃる方の耳の感覚に、外国のジャズのヴォーカリストみたいなきちんとしたセッション能力があればよいのですが日本の場合はそういう鍛えられる場自体がないから、どうにもていねいに合わせる歌い方になります。

 

 津軽三味線の民謡酒場みたいなところに行って、セッションでもやったほうが本当の意味では力がつく。日本のジャズのなかでジャズやろうというのはジャズの力はつかない、ただジャズっぽいもの力、なぜならお客さんもそういうのを聞きたがっているからです。それは私は別分野だと思っています。

 

 要は本当の意味でヴォーカルが引っ張っているわけではないのに場が成り立っていて、そういうものを聞きたがっているという特別なマーケットなのです。戦後のどさくさのなかから、パワーだけうすまって日本にあるのです。

 

 私はそういうところに基準を置かない、というのは、基準を置けないのです。お客さんが楽しんでいることはよいことです。ゴスペルのサークルと同じです。そういうことで癒されたり日々の仕事に元気を得ている出演者とお客さんがいるのですから。

 

 楽しく勉強したいというけれども、ヴォーカリストのステージというのは基本的にお客さんが楽しむものでステージをやっている人が楽しむのは、お客さんが楽しんだことを受けての楽しみです。そういうあたりまえの考え方がどんどんおかしくなってくる。みんなステージに出たいよステージで楽しいことやりたいよと、それなら、ステージでなく客席だけでやればよい。お金を払ってやるべきことで。お金を取っている以上はお金でうんぬんいうことではないのですが、ヴォーカリストは価値を与えるということでしょう。その辺のことがどうも。

 ただみんなそういうことで悩んでいて「misty」をやらなくてはいけないと。そうやって場があること自体はよいことでしょう。それを変えられない、変えようとしないヴォーカルの責任でしょとなってしまうわけです。

 

 

 

 

 

  レッスン録1-2【4549】18,933字 1723

  レッスン録1-2【4549】1723

 

 

 

○イメージの課題

 

 常に課題は、イメージがどうであるかということとイメージに対して声がどこまで伴っているかというかということです。

 イメージにしたがって声が出たときに、それでいいのかどうかという判断からです。

 ふつうのトレーニングはイメージに対して声を伴わせる。たとえば高いイメージに対して声が高くとれないからギャップがあるとか、もっと大きく、柔軟に出す、というようなイメージを先に肯定して、そのイメージまで声が扱えればいいという考え方です。あるいはイメージがなくてとりあえず音域や声量があれば、イメージが描けるというかたちです。

 

 音響でこれだけ何でもできるようになってくると、人間が自分の身体でやれることよりも、音響がやれることのほうが大きい。そうすると上手下手でも声量のある人でもない人でも、差がつかなくなってくる。ただ、音域というのはピッチなので、唯一、高いところが出る出ないという人が分けられます。

 

 同じ歌を歌って同じキーを歌うのであれば、そこは勝負ができます。ポップスの場合は出ないなら下げればいい。そちらで違う歌い方ができると、聞いている人はどの音まで出しているというところでは聞かない。

 その人のめいっぱい高いところがどれだけこなされているかということです。

だから単に勝負ということを考えるよりも、高いところを余裕を持って出していたほうが、ギリギリ出している人よりはいいということになるのです。

 

 ただ、そういうことでさえエコーをかけると判断できなくなる。私たちは判断をしますが、普通のお客さんはそこまで判断をしない。ましてバンドの音がかぶさってきます。生の声で伝わっているわけではない。マイクや音響を通して伝わっていくときに、音響のほうで7~9割加工できるのであれば、生の声にフィードバックしてもしかたない。逆にここで、生の声でいいなと思ったものが、音響でそれほど伝わらないとしたら、逆のほうがいい。

 

 本当のことでいうと、イメージのほうをどう持つかというのを、再設定するということ。それに声が伴うし、もし伴わなければそれは使えない。いずれ伴ったときに出てくればいいんだなという考え方です。一番の問題として、イメージをいうのは、自分の声を聞いて違和感を持つ。何で持つんだろう。それは自分の声に何かしらの理想があるからです。

 その声は、テレビで聞いている声であったり憧れているヴォーカリストであったりするから、決して自分の理想にとってはいけない声なのです。

 そのイメージに対して、問題を設定していって声をつくっていっても物まねになっていくだけです。

本当は自分のなかの理想の声に対してイメージを設定しなければいけないのです☆。そんなものは出てみないとわからない。

 

 声も3年5年という目でみれば、ある程度の範囲はわかる。変わらない人もいるのです。これから歳をとらないとわからない。自分でも変わってきているけれど、他の人のなかでも変わってきている。すごく大きく変わる人と変わらない人がいる。

 変わらないのがだめなのかというと、声のよし悪しから、あまり判断ができないのです。むしろ声のなか味も問題です。

 

 

○声の理想

 

 たとえば、敬語というのは正しい間違ったというのはいえるのですが、声というのは個性だから、あなたの声の出し方はだめ、この人はいいといえない。

 まして、ことばや台詞として使われたとき、役者でも歌い手でもそうですが、ああいうふうにやらなければというのは、楽器が違うのですから、いえないわけです。

 一番勘違いしてはいけないことは、まったく違う人の影響下にあることでおきる。自分の理想の声を設定するのはよいのですが、それが自分の声を理想にした延長上の設定になっているのか、難しい。

 

 音響がこれ以上進歩するとどうなるかわからないのですが、生の声として魅力があるという人はいます。その表現、使い方、組み立て方というのもある。

そのイメージを細かくわけないとだめです。たったひとつの声で見るところ、声の使われ方やフレーズに対してみるところ、それから声の組み立てに対して見るところ、歌い手には3つのバランスがそれぞれ違うかたちで入っています。

 

 そういったときに自分は声が完璧だから、聞き手も心地いいから、その9割に焦点を当てようとすると、響きや声そのもの、オペラ歌手のベースの部分となる。彼らの場合は発声技術に負っているけれど、ポップスは困ったことに、その2つのうえに個性や使い方がのっているのではなく、その使い方がおろそか。組み立てだけでやっている人もいます。その辺が今日の音色の課題みたいなものです。

 

 

○身体の声

 

 ここで使いたいのは、身体につけた深い声です。それをやわらかく開放して、微妙な響きを出して歌うのです。ベースとしての身体づくりをいっています。身体としての声がまずひとつ、そこで身体の深いところで練りこむから、フレーズが動かせる。

 そうやって自分でリズムのグループを刻んでいく。グルーブのところに対して、歌を乗せて歌っていく、これはセンスのいい歌い手に多いのですが、声自体は本当の意味では回っていない。でも音響効果を使えば、そういうふうな感じが出る。それでは身体づくりと音的にどうやって置いていくかということが反するわけです。

 

 身体を入れようとしたら、当然音がセンスよく回らなくなる。音やノリなどを重視したら、身体を使うことはできない。だからどこをとるかは、その人によります。

 最初の1フレーズに、2年かけようということです。役者には必要なところです。ことばが腹からいえて、音色がつけられて表現力が伴うということです。

 

 

○タイミングとバランス

 

 ところが歌い手の場合は、そういうところでない部分で7割方つくられるようになってきたので、あまりこだわらなくなりました。

そこにオリジナルの声をとること、自分のなかの楽器としての最高のものにのせたいというのは今でもあるのです。ある意味ではクラシックと共通する部分です。

 

 ここで学んでいる日本人の共通な部分は、けっこう、そこではないところに声を音色をつくっていますがそれを音楽的に消化することによって、音楽としても聞かせられるようにしています。

 どうしても3分もたせなければいけないし、声域も伸ばさなければいけないということもある。音程をあまり出さないで処理できなければいけない、ことばが伝わらなければいけない。

 

 音域を何よりもとらなければいけないということから、バランスから考えていくと声は浅くなってしまう。そこに関しては昔は基準を置いていた。そんなこといっても、すぐに1オクターブ、きちんと腹から声が出るわけではない。その必要があるかというときに、伝われば勝ちという部分があります。昔ほど腹から歌うことは、めざしてみるが、全員に求めなくなってきた。

 

 それよりもバランスが必要です。トレーニングというのは、猛烈にダッシュを20本やりましょうということです。しかし、たとえばサッカー選手が、それを試合中精一杯やっているわけではないでしょう。自分のところにきたときには集中して完全にキープするけれど、ボールが遠くに行ってしまったときに、その集中力とその動きはとらない。当然全体は見ているし、自分の身体だってリズムにのせている。遊んでいるわけではない。

 

 観客から見ていて「さぼっている」と見えてしまうのはだめなのです。その全体のなかのリズムで、タイミングとバランスがあります。すごく集中して、完璧に1センチもそれてはいけないという、パスやシュートをもらったときはそういうときだと思うのです。でもそれ以外のときは、その集中力は必要ない。というよりそれを全部持っていたら、つぶれてしまいますね。

 

 実際ポイントでとりに行こうというときは、全力ダッシュをしなければいけないしドリブルで抜かなければいけないというのがありますが、守備でボールがこなくて、向こうでがんばっているときは、別に休んでいるわけではないけれど同じことはやらないですよね。

 歌はひとりですが、歌のなかでそういう部分も出てくるということです。全部マックスに歌っていたら、ぎりぎりに詰まってしまって壊れてしまう。本人が伝えようとする気持ちだけで、実際に観客には伝わらなくなってくる。それはなんでもそうです。余白みたいなものが必要です。

 

 絵でも、全部ベタで塗ってしまったら何も伝わらなくなってしまう。よく大きな声を出すのではなく線で描いていきなさいといっています。

 聞く人のほうからすると、デッサンや変化が見えるとか、動きが見えるとかいうことでなければならない。そうでないところでどんなにがんばってみても、それは空回りです。それは自分の感覚のなかで決めていくしかない。だから、ここをがんばろうとかいうことは、歌のなかではそんなにない。歌うのはその歌によって動かされるようにおさめていかないとしかたがない☆。

 

 自分で見つけていくしかないというより自分がつくるのです。絵でも描いて、バランスが悪いと思ったら、バランスをよくしなければいけない。でもそのなかでも、背景をぼかしていいところときちんと描くところがある。でも人物の、人間の目を描くほどの集中力や注意深さというのは必要ないでしょう。それは決して捨てていいとかぼかしていいとかいうことではなく、そういう意味です。

 

 

○ピークにつなぐ

 

 最終的には何を問うかということです。全部は問えない。だからひとつ決めてひとつのテーマを伝えるということです。もうひとつ絵を入れたいのであれば、あの瞬間のあの音がテーマなんだよということで、そこでうねりだして、そこに違うテーマも入れたいのであれば、もう一枚描きなさいということなのです。一曲でひとつ伝えれば精一杯。

 

 つなぎを含めて曲というより、何もなくてやってみればいいのです。たとえばそのピークだけをやってみればよいと思うのです。ピークだけを人前で歌っても、客は納得しないでしょう。じゃあ何が必要かということです☆。

 歌い手だけではなくバンドなんかも入ってきます。ひとりで歌うのか、ピアノをつけて歌ったほうがいいのか、アカペラか、ギターをつけて歌ったほうがいいのか、それは、全体のバランスで計算です。どういう観客で何を問うために自分のスタンスとしては、どうしたらいいのかということです。

 

 1番まで歌ったほうがいいのか、3番まで歌ったほうがいいのか、これも歌だけではない要因で、いろいろと決まってきます。だからかたちから入ってしまうと訳がわからなくなってしまいます。なのに、皆、曲の形から入るからわからないのです。

 あの人の歌で、ああいう支持をされたから、そう歌っているとなれば、考えなくていいのですが、その結果その人のものではなくなってしまいます。

 

 余白なしの歌があってもいいし、いきなりサビでもいいし、それは自分がどうつくりたいかということ。人の歌を歌うときは違ってくることもあると思います。

 

 

○ブレス

 

Q.プロの歌を聞いていると、踏み込んで語尾を歌ったあと、ブレスを感じさせないで次にいっているようですが、実際はどうなのでしょう。

 

 ブレスしていないときもあるでしょう。ここは勉強のために、わざとブレスがもれて吹き込まれているものを使っています。ブレスを入れないような録音に後でしていけば、ブレスは見えないし、目立たないようになります。

 

 

Q.1フレーズは語尾でとめたら終わりなのか。

 

 フレーズ自体の定義は、さまざまです。小節、一呼吸、ひとつの流れ、などある。私もかなり適当に使っています。

 半オクターブで4フレーズといっている。「4フレーズはどこまでですか」といわれても、なんとなく4小節から8小節くらいかなという程度なもので、そこでブレスを2回したら、3フレーズではないですかといわれても、そういう考えもあるなということで、定義が決まっていない。

 ひとつの呼吸の流れとして、厳しくいったら歌のなかでは全部つながっている。1ブロックでもつながっている。AメロならAメロだけの流れもつながっている。それは、ことばをわけられたらよいのですが、あまりわけられないのです。

 

 

○日本のシャウト

 

 日本人のこの手のシャウト型という人は、10代後半から出てきて20歳前後くらいにデビューして、まだ身体や声ができていない。力でぶつけていて外れていきます。外れていくから、それは浮いてきてしまいます。喉がつまりかねないから、何かしらそこでやることによって、音楽として生かす。

 

 これも「た」で入れ替えています。それを音の流れの方に乗せることによって、イメージとしてつないでいく。だから声からみたらめちゃめちゃなことがおきているのですが、歌として聞いたらひとつの説得性を持ちます。

 逆にいうと発声なんかを勉強したら、こうはならない。だから、これがよい。

 そのまま深まっていくタイプはあまりいなくて、だんだん喉をやられて40歳くらいになると、声がなくなってしまうことが日本では多い。

 

 こういう「た」の切り出し方というのは、破綻させたものです。「た」があって「げ」のところで持ちこたえられなくなっているのですが、「げ」で動かそうとしているのが浮いてきているから、「た」でまったく違うところで切り込んでいる。感覚としてはロックのベースの感覚のほうに沿うようになっていますから、この人独自のオリジナルにはなっています。

 

 「あい」の方に集中して入れ直して、そこだけ瞬間的に入れるのだけど「ひび」のあたりは捨ててしまっている。ところが普通の人というのは「あい」のあたりにここまでテンションを持って来れなくて切り返すことができなくて、だらっと入ってしまって「ひびを」でがんばってしまったりする。そうすると全体の歌の流れが引き締まらなくなってしまいます。

 

 これも「せえ」から「と」のあたりで、もう少し粘れると、もう少し歌が大きくなるのですが、さっさと見切って先に進んでいく。それは頭で考えているのではなくて、ロックという感覚が入っていて、そのグルーブの動きにこういう人たちの声は伴っていくのです。

 

 だから声が厚くなったり薄くなったり、若さや技術の未熟さではありますが、それよりも強い音楽のグルーブ感が入っているから、案外と聞いている人には違和感はない。声の分析をして聞く人はいませんので、そういうところは見習っていいと思います。

 

 こういういうところも、少しバラードっぽく「い」のところですぐに行かないで、もうひとつねばっている。こういうのはプロのひとつのサービス精神というか、そういうつもりはないのでしょうが、ふつうならこういくのだけど、ためて、それから開放する。いわゆるメリハリになってくるわけです。だから結果的にはうまくいっているのです。だめな例として出しているわけではないのです。

 

 「よいどれ」

 後半の方はいえていないのですが、パッパッと言い換えてしまうことによって音楽は壊さない。

 

 ここもそうです。「しらけた」のところはよいのですが、その後になると浮いてしまっていて発音不明瞭で訳がわからないのです。持ってはいます。

 

 「厚化粧ひとつ」

 こういうのはフレージング、ひとつのオリジナルフレーズだったり動かし方です。他の人がこれをまねしても、この人のまねだといわれてしまう。だからといって、それっぽい癖がついているのかというと、こいつはこういう歌い方だとひとつの型です。この人の型が出てくるわけです。

 

 「あの歌を」

 こうやっていくと、自分のバンドですから、声などで切りにくいところをバンドで効果的に出していっていますね。だから、歌だけで勝負するわけではない。そういうことも考えていけばいいと思います。

 

 

○反発声論

 

 こういう発声というのは、胸を中心に頭声に持っていかない。合唱団や声楽、ヴォイストレーナーがやっているようなことに完全に反するかたちです。完全に開いてしまったかたちです。ただ、マイクがあるということは、自分の喉を痛めない人で、完全に同じことができればやりようはあるということです。

 

 欧米なんかはそういうパターンが多い、ただそれが響いていくので、さらに高いところまで出るような人が多い。このくらいで上のファくらいです。普通、男性だと上のシドレくらいのところで、感覚を変えないと持っていけない。中にはミくらいまで持っていける人もいる。大体ドからドくらいまでは感覚が同じで持っていけるのです。

 

 私の考え方では、上のドくらいのところで同じくらいに揃えておいて、3つくらい下のラくらいから感覚を変えて、ファからソくらいまでカバーすればいい。ただテノールやカンツォーネの発声からいうと、今度は上の響きをとりにいってきますから、こういうかたちにはならない。

 

 ミュージカル劇団が典型的、カンツォーネやシャンソンなんかも日本の歌手はそういうやり方をとっています。だからそれがいいのかどうかは、日本の場合は両極に分かれています。ただ、こういうふうにやれている人はあまりいないので、やれるようにしていくのもヴォイストレーニングです。どちらかというと役者よりの入り方ですね。

 

 

○お湯をかく

 

 無理して歌っているようだけど、音楽が入っているのと音楽の流れが入っていてグルーブのなかで、ある意味では回転させている。同じような声の出し方をまねて、ほとんどの人が喉をつぶしていくのは、直線的に出すからです。歌っているところの全部、喉をゆるめないのです。

 ところが本当に音楽が入っていたり、リズムがわかっていたりすると、お湯をかくようなもので、かかなければいけないところをかいたら、後は流れにのって、次にかくところのポイントまで休みます。

 

 外国人はあれだけ歌っているようでも休んでいる。きっかけのところとグルーブのところには入れるのですが、それ以外のところはほとんど休めている。

 日本人の場合は、母音が中心で1フレーズに4つあれば4つのことば、8つ音が入っていたら、8つともいうでしょう。ラップなんかでもひとつの音符に3つつけながらも、結局3分割にして3連符でいっているので、喉が休まらないのです。だからそういう意味でいうと、もっと体を使えるようにすることです。

 

 このように歌えるのに日本人は歌っていない。深く出せるのに高いところで浅く抜いていく。たぶん高いところで響きで出すことに歌い手自身の快感があって、そういうのと一致していくほうをとる人が多いのだろうなと思います。あとは鼻に響きを集めていって置いていく歌い方は、喉を外すひとつのやり方だと思います。

 

 

○ロックする

 

 「HERO」ではなく「疲労」に聞こえますね。

 悪い癖がつくからあまり使えないのですが、うまく使っています。カンツォーネをやっても、後には、日本語のほうがいいということで、ベースの練習に使っていました。

 今の時代での、必要性はわかりませんが、要は声で歌おうとしていない。リズム、グルーブのなかに音色を持っていくような感覚で歌っている。日本にはなかったロックの発声です。

 

 私の「ロックヴォーカル基本講座」の本はロックのことを書いていないといわれますが、やっていることがロックです。別にロックというジャンルでやっているのではないのです。なかなか理解しにくくて、発声教本のようになってしまいます。

 

 あなたはこれをどうするか、それに対してプロは、どうしているのかということです。歌の流れ、この歌のリズム、ロックの感覚のことを優先できているものです。

 

 

○つまった表現

 

 「ただ一言だけ」

 こういうところはポジションを変えないでやろうとするから、こういうふうにつっかかっていくのです。

 ヴォイストレーニングをやっている人は、これを意図も簡単に当てる点を変えたりまわしたり、抜いてしまったりするのですが、それが本当にいいのかというと、案外とつまっていくほうが気持ちが伝わる場合がある。

 

 こういうことは教わるということより、最終的には自分のなかで選ぶということです。いろいろなよけ方を知っているのは大切です。ただよけ方が歌い方ではないということです☆☆。

 歌を全部成り立たせるために、音が取れなくなってしまったり、流れが崩れてしまってはいけないから、いろいろなことは知っておいたほうがよいが、本質的には中心のところの一ヶ所で声をもったほうがいい。

 

 技術的には高くないが、日本人の枠を破っているところがある。というよりはその人自身の歌ですね。彼らもいろいろな歌を歌って、浅くやっているものもあります。いい曲は歌っているうちに熱が入って、体が使える、音程やメロディだけではないものが聞こえてくることもあります。練習課題としてうまく使えばいいのですが、悪く使ってしまうともっと悪くなりかねないところがあります。

 もっているかということと、それができるか、つなげられるか。まずアイディアといっても難しいから、こういう人たちから、こういうやり方、こういうパターン、こんなことを盗んでやる。

 

 普通でこれをやるイメージはわかりますね。日本人の歌う退屈な「第九」を聞いてもわかります。声のある人たちがやる本当に退屈きわまりないものに対して、決してそうはしていない。見せていくのです。

 「色即是」のところも、要は入れるところを決めて、抜くところというよりも捨てるところを決めたらいいということです。全部を歌っているわけではありません。もし全部を歌えるのであれば、それを1カ所あるいは2カ所に集中させて、他のところは流れに乗せています。

 

 

○変じる

 

 ここで一回終わるわけです。

 だから終わる前に、歌い上げて終わる場合もあるし、同じように歌う場合もある。常に考えてほしいのは、彼はもっと歌えるのに、なんでここでこういうふうにしたのだろうということです。それは何か伝え方を変えるために変化をつけるためです。

 

 

○歌わない

 

 慣れていないと、歌わされてしまうのです☆。彼は歌っていない、描いていっている。この曲に対するキャリアだけではなくて、体や声や息、あるいは音をどういうふうに見せていくかということに対する、いろいろな意味のキャリアの素があるのです。

 だから彼がどう使うかは別にしても、この曲ひとつを聞いたら、どれだけいろいろな音色を豊かに入れて、いろいろな引き出しをもっているかがわかる。

 

 それにしても、いつももってきかたが、ワンパターンだという感じがします。それは彼の作品で彼が選んでいるわけです。トレーニングはこういうことができるために何をやるかということです。こういうことをやれるベースの部分をつけていく。このことをやればいいのではない。しかし、結果的にいうと、こういうことを直接やっていったほうがわかりやすいですね。

 

 フレーズのなかで息が使えていない、使えない、保てない、あるいは切れない、パッと入れないとか、入ったのだけど抜けないとか、見せ方を変えたのだけれど全然つながっていないとかチェックする。

 自分のやった先、イメージしたことに自分の置いたことがつながらない。じゃあ、つなげようとすると今度は何も出てこない。よくあることです。

 

 自分を出してしまうと音楽にならない。音楽にしてしまうと自分が出てこない。それは自分が音楽を学べていないからです。もっと学んでいくと、自分の音楽がそこに出てくるわけですから、たくさんやればいいわけでないですが、いろいろなことに気づくことです。自分の体や呼吸、イメージと心、いわゆる心身を一体に練りこんでいくような練習を一番のベースにする。だからといって喉を壊してはだめです。

 

 けっこう若いときに感覚的なものでやれたり、けっこう喉が伴っていたり太い声があったから、シャウトになったような人、こういうのは稀有な例で、大体、センスがあると声は浅くなってしまう。

 そうでないとなかなか音楽にならない。音楽にどうするかというのを考えて、自分の声を調整してみてください。

 

 このくらいのものはあまりことばに左右されなくていいです。ことばがぐちゃぐちゃでもフレーズが聞こえていたらいい。どうせ普通の人が聞いていてもわからない、でも聞いていて、フレーズとして成り立つか成り立たないかというのはわかる。

 ということは、最初の一行、くらいのところでも2年分くらいの課題になると思います。

 

 ここのところまで構成までできたら、もう歌の課題は出てこないと思うのです。音域的にも声量的にもそうです。あとはこれの繰り返しです。アレンジャーの仕事でもあります。

 これを誰もが歌うのはきっとこうだろうな、それに違いをつけたい、違うことをやると変だ、でも変じゃない、それが何か説得力があるというところを選びだしていく。

 

 今できることとできないことがあります。でも今だったら、こうという作品、それから将来はもっとこういう作品にしたいという方向と、その両方で見ていってもらえばいいと思います。

 

 

○形をとらない

 

 声がいい人は声を生かせばいいし、使い方がうまい人は使い方をやればいいし、両方よくなくても、音楽的な見せ方もある。それからもうひとつは音響がいろいろなことができます。

 ただ、音響から入ってしまうと、また形になりかねない。ごまかせてしまう部分があります。そうするともう歌なんか歌わないでコンピューターに歌わせておけばいいということになってしまう。そこは人間がやるべきところです。

 

 私があまり高い音や長い音、大音量ということをいわなくなってきたのは、そこは人間から離れて形だけになっていくからです。人間が勝負してもかなわなかったり必要のないことだろうと。

 一番難しいのは、その理想のイメージと、そのイメージに対して声が伴わないとうまくできないというのです。本当にその理想のイメージが自分のオリジナリティに根ざした上にあるのかというのは、長くやっていかないとわからない☆。

 

 ほとんどの場合は憧れから入りますから、自分でないイメージです。そのイメージに対して近づけていくのは、まねをしていくことになってしまうから、どう考えてもうまくいきっこないのです。

 そうすると自分自身の本当のオリジナリティのイメージというのは、今の自分でなければないわけです。将来の自分ということになってしまう。それは直感的に探るしかない。つくっては壊しつくっては壊し、まだ見ぬものです。そのイメージの問題が大きい。イメージに対して声が届かないとか大きく出ないとか、そういうことこそ技術なんかより音響で、相当片づく。

 

 残念なことながら、日本人の耳自体がそんなところにない。海外にいくと私くらいの耳で皆が聞いていると思えばいいのです。理屈はいわないけれどだまって聞いている部分では。

 日本でそのレベルで聞いている観客というのは、ほぼいないわけです。それでもとことん追求してよいものをといってもいいのですが、そのかかる努力や年月を、もっと別のほうに向けなければいけないというのは、現実論としてあるのです。

 

 日本なんかを越えて、世界でトップのことをやるというのなら別ですが、日本人が世界でトップをとれたとしても、そこで賞をとれたことで日本で認められるかもしれませんが、たぶんそのまま日本でやっていたら、あれなら外国人を聞いていたほうがいいということに、なってしまいます。そこが難しい。

 

 研究所を出て洋楽そっくりに歌えるような人がたくさんいるけれど、洋楽そっくりのレベルで仮に歌えたところで、所詮向こうのワンオブゼムではないかとなります。日本人で聞くくらいなら、向こうの歌手の歌を聞いていたほうがいい。

 

 それから声がすごく出る人やひびく人が歌っても、それならオペラ歌手を聞いたほうがいいとなる。声が伝わってこないとか、否定的な側面から見るわけではないのですが、何をやってみても結局、その人の作品というものを感じられるようにつくらなければいけないというのが第一です。

 

 客が何を聞くかということは、配慮せざるをえないのです。そこを自分の感覚でやってしまうと、自分と同じ感覚の人間しかそこにこない。

 日本のジャズなんかでやられているのはそうですね。ジャズに詳しくて、洋楽をよく聞いて、日本人なんか口先でしか歌っていないというところに、“それっぽい人”がいるとすごいとなる。たいした差はないのです。

 

 ただその見せ方が慣れているだけでまわってしまう。本場のところからやっていることからしたら、まねごとにしかすぎない。でも、日本ではそこですごい差がついたようにして成り立ってしまう。その辺が難しいですね。

 

 

○オリジナリティ

 

 本当のオリジナリティはまわりに相当嫌われるものです。皆が嫌うから、それが好きな人は絶対にいるのです。とことん嫌われるようなことをやれば、とことん好きなやつが何百人か何千人かにひとり、いる。CDは100人にひとりが買うわけではない。1万人どころか10万人にひとり買ったとしてもすごい数です。だから逆に考えてしまったほうがいいのです。

 

 何かに似ていたり何かに同じになっていたり、何か他の人もできそうだったり、ということではないことは何だろうかと。そうするとあまりないですね。

 

 絵でも描いてみたりしても、たしかに自分が書いたからオリジナルなのですが、でもこの手のものなら、その辺の絵画教室に行ってみたらひとりくらいはいるぞと、思われてしまう。そこから全部外れたようなことをやろうといったって、キャンパスの上に針金を立てて、おかしいことをやってみても、何でもできると、今度は訳がわからなくなってしまう。誰かが納得できるところの何かを出すというものを出すのは、けっこう難しいですね。

 

 歌の場合はごまかしのオンパレードですから、曲なのか演奏なのか、踊りなのかリズムなのか、全然わからないところで成り立つ。

 「第九」の「般若心経」盤のコピー、オーケストラですごく声の出る人を集めて、退屈なことをやっています。これを彼らに歌わせると、きっとそんなふうになるだろうなと予想もつきすぎる。

 でも通の人は、決してそういうことではないことをやっている。これはできない、トレーナーも研究生も、私なんかもできない。そこは根ざしている部分です。

 

 それが受け入れられるか受け入れられないかではなくて、その人しかできない部分というのは強いですね。客のほうから考えてみるというのは、現実面必要です。ただ、ベースとしては自分のものをつくっておいて、それを客に対してどの部分で示すかというのは、切り取っていくしかないですね。

 私は会報と出版している本との関係のように思っています。両方持っていないと、お客さんだけにわかるようなものだけ書いていると、自分でやらなくてもいいなという話になってしまいますね。

 

 

Q.自分の癖なのか語尾が粗くなる、ずれてしまう。

 

 技術的なことなのか、精神的な集中力の問題なのか。トレーニングを受けていると、LとRがどうだとか、aなのかeなのか、ということは教えやすい。勉強したような気になるからです。でも、現実面、ほとんど関係ないですね。

 

 私は考え方を変えてしまった。昔は日本人の英語は心地悪いなと思っていたけれど、最近はシカゴでもジャマイカでも、現地の特徴が出るからいいと。日本人訛りの英語をそれ以上、きれいにしてはいけないと、そのほうが味があっていいじゃないかという考えです☆。

 

 方言なんかはニュアンスがありますね。しゃべるだけでことばが伝わる。声の質や動かし方、やわらかい。あの情報量をそこで育った人が、標準語に変えてしまうというのは、伝えるうえでマイナスになってしまう。

 

 東京にいたらしかたないけれど、芸の世界ではそれで成功している人、関西弁でやっている人もいるし、現地のことばでやっている人もいる。

 高いレベルでないかもしれませんが、語尾が気になったりというのは、それを技術で片づける場合もあるのですが、やっぱり作品としての厳しさとして直っていくほうが望ましいと思うのです。

 あるいはそんなところが乱れていようがなんだろうが、客は楽しめるというところまでの、何を出すかということだと思うのです。

 

 アカペラで聞くと、私も厳しくいってしまいますが、実際、あれにエコーがかかって歌っていたら、もちます。カラオケだってあれだけよく聞こえてしまうのですから、ほとんど語尾なんて問題ないですね。自分のなかではこだわっておくのは必要ですけれど、もっと大切なことをやらなければいけない。

 

 

○プリミティブと現実感

 

 日本にいると安全です。死にそこなったりしたら気がつくのですけれど。そんな体験をしていくというよりも、何かしら覚悟が必要な気がします。日本はそんなことをしていたら、世間がうるさいですけれど、日本の場合、歌が見えにくくなっています。

 私が海外に行くのはそうなんですけれど、ストレートにいいたいことが出てくる。いっている。それが表現であって歌なんだとわかる。そこにメロディや楽譜や演奏は、あとからついてきたものです。その現象のパワー、プリミティブなものを失ったところに形から入っていくと、かえって訳がわからなくなってしまいます。

 

 だから、本当にいいたいことを形に起こせばいいのです。昔から歌は社会運動や反体制的なものと結びついていたのでしょうが、今の時代はそうではない。10年くらい前に、「今の時代はコンビニは定価で売っていて高いとかそんなことしか歌えないのか」といったことがあります。

 実際にはすごく深い問題が、たくさん起きている。それに対して情報もですが、実感がないと表現や叫びは出てこない。何かしら運動しろということではない、運動自体がカタルシスのような人もいますから。ただ、あたりまえの現実感が大切です。

 

 これからどうなるかわからず、私はきな臭く思っていますが、どこでも軍人がいて国を守っていて、そうでない国は全部略奪されて滅びている。我々は特殊な皿の上に乗っているようなものです。それをきちんと戻して、だから軍備しろということではなく、自分の責任を持ったところに、いいたいことを述べていく。

 お笑いの連中といっているのですが、彼らも仲間内の悪口なんかで終わってしまって、どうせ歌うならブッシュや小泉、改革のことを歌ったらいいのだけど、そこまでなってしまうと視聴者がついていけない。本来、世界中のアーティストが歌っている歌詞や思いは、そういうレベルのことです。

 

 そういうことではなければ、単純に「誰よりも愛する、好きだ好きだ」というようなもの、過剰なものがことばになってついて、そこに嘘や偽りがないわけではないのですが、そういうことにとりあえず共感できたり実感できたりすることから成り立って、浸透する。日本の歌だって、そういう部分はあるし、そういうものがヒットしていますが、昔ほど大きくない。

 アメリカあたりでも60~80年代、マイケル・ジャクソンがまだがんばっていた時期、ああいうひとつのイベントが社会を動かしていく、市場に経済効果をもたらすというものはさすがになくなっています。

 

 そういうことでいうと、歌という括りで考えていくよりは、声やひとつの形態として見ていったほうがいい。日本の場合は、音楽だけがくくられていて、それをやっていることに特権意識を持っているような人が多いです。

 

 私もそういう人といつも接しているのでよくわかりますが、音楽やっているからえらいのではない。坂本龍一さんなどは、別の分野とコラボレートしてきている。というのは、音楽の限界が出てきているという気がします。それとメディアという問題、音楽というもの自体が本当はメディアです。

 音にのせるということは、音波としてとばせるし、パッと渡したら相手も聞くことができる。いろいろなCDをもらったりライブハウスもいろいろなところをやったりするけれど、本当の意味でわくわくしない。何か起きているという実感はないですね。

 

 

○リアリティと創造

 

 それが日常的になっている国もまだ、たくさんあります。どんどん音楽が遠くなってきています。歌もそう。ことばや声の世界も、なんとなく関心はあるけれど、胡散臭いというか中途半端というか、せいぜい敬語の使い方とかそんな程度だなという感じ。でも実質に、人間の肝心な場面やすごい重要なところでは、声が使われます。その声同士でコミュニケーションがされ、泣いたり笑ったり、そういうことが行われる。

 それ以上の歌を歌うというのがあたりまえですが、そういうことをもっとリアルにやっていくべきだと思います。

 

 ネットや本もいいのですが、相手と直にやっていないので、どちらかというと悪い方向にいきますね。歌やことばで相手と面に向かいあうというのは、人間は信じられるものとなり、いい方向にいくのです。そういうものに歌や音楽が使われるべきですが、歌い手たちが楽しみだした。

 今の日本の音楽は、そうです。やっている方が楽しんでいて、お客さんが付き合っているという感じです。少なくともプロであれば、お金をとる以上にすっきりさせてやる。その辺の、アングラ映画でもいいから、なんか知らないけれど金出した以上のことはあったなということでないと、金を出して惜しくなかった程度では成り立たないのはあたりまえです。

 

 

○思い先行、歌の進行先行

 

 歌の場合の感情移入ということではなくて、ある意味、思い入れたっぷりにやるタイプで、その思いとロック、今のリズムグループみたいなものが先行していて、発声とか発音や、声がけっこういい加減になっているんだけど持つというのがベースの部分です。さっきの曲は、すぐれているのですが、若いときのものですから、中途半端になっているところがあるのです。今かけても伝わるところは伝わる、逆に今の歌が失ってしまった部分ですね。

 

 同じポジションのところでキープして、高音発声とか語尾をていねいに、まさに歌の技術を習った人ではないから、そんなところは無視して思い先行、歌の進行が先行ということですね。ロックの。そうなったときに音が少しくらい落ちていたって、けっこう持っているのではないかという部分をみましょう。

 

 それとともに何を集約しているのか。だから歌がきちんとまわっていったらいいのですが、それがたまには流れてしまったり持ってこられなかったりするのだけど、どこかでかいているから、分析して聞かなければそう聞ける。

 

 もうひとつは絶対的なオリジナリティですね。他の人がやってしまうとまねにしかならない。あれなんかまねっぽいということになる。それは彼のがいい悪いということではなくて、彼の形として、もうすでにあるということですね。

 

 普通の人でやったらでかい声で歌えばいいのだろうというところだけど、ここで彼が何をしているのか。まず普通の人が普通に歌おうと思ったときにやるとどうなるだろうかからみる☆。それに対してそうでないことを何をやっているかというふうにみる。決して歌っていない。普通の人が歌うとそうなってしまう。これもそうでしょう。

「あんたに」といったときにそうならないだろう、「あげー」のときもそうならないだろう、こんな形で入らないだろうと。

 

 皆がまねても、これはまねにしかならないのですが、これに変わる何か違うものを出せばいいということです。オリジナリティとは違い、ここでつくるだけのものです。でも半分以上は、あなた方に入っているものが出てきます。

 

 勉強するとこういうことができなくなってしまいます。こんなことをやってはいけないといわれるし、トレーナーなんかには何をやっているんだお前、といわれます。逆にそれをやらなければ、客はひきつけられないことでもあります。だから反します。

 教えていくとか勉強するとかいうことは、今までにある手本をどこか念頭におくわけでしょう。

 本当のアーティストはそれをひっくり返してしまう。そんなやり方があったのかということ。

 

 この前、岡本太郎の太陽の塔を見てきました。まわりを囲む建物ができた。それが30メートルだったら、太郎は70メートル建ててしまえ、つきやぶってしまえといった。そういう発想は、普通は出ないですね。その下におさめようと思いますものね。全部逆をやっていって、それで成り立たせる。

 ただ、成り立たせなければだめなのです、本当に。そのときにパッと言い合って高さを決めてしまったという、それはそれまでのいろいろな感覚、本当に感覚なんですね。ただでたらめなのかもしれない。

 もっと高いほうがよかったのか低いほうがよかったのかは、誰もわからない。でもあれだけしかイメージがなくてね。

 

 愛知万博は、あのキャラクター、あの人形で、シンボルも、もうちょっとやりようがあるのではないか。思い切って、トヨタ博にしたほうが、よいのではないかと思います。

 

 すごいはっきりしていますね。「日々を」なんか捨ててしまっているでしょう。だから普通は逆なのですが、「愛」の「あ」のところにあそこまで集中して入れない。きちんと歌ってしまったりしてしまうのです。これが人の普通の感覚です。それをまったく逆にする。だからどんどん捨てていくというより、よりやりたいところ、動かさなければいけないところに集中していくというふうに考えてください。

 

 

○踏んで収める

 

 この手の歌い手に関してのベースの部分は、日常的にいっていることばと伝える実感以下にしないことです。歌の場合、すぐに表現力がなくなってしまいます。

 

 すごく単純にいうと、心が伝わるかとか思いが伝わるかとか、そんなところで聞いてみて、練習というのであれば、リズムやグルーブや音色にベースをおいて、その上に音程やテンポ、リズムや発声をみる。最初にチェックするようなものは最後にしていくというようなこと。これ自体がそういうことを守っているのではないです。

 守っていないけれど踏んではいるのです。それで音がすごく外れているとかめちゃくちゃな音符ではないわけです。自分でつくった曲は自分で動かせるわけです。そういうことを越えてみてください。

 

 自分でつくっていく時期より、あとになって悪くなってしまうのは、誰かがやってしまうからです。アレンジを誰かがやってしまったり、演奏をもっとうまいプロがやってしまったりする。自分がバンドを牛耳れるなら、本当にバンドとのコラボレーションのなかでつくっていかれるわけです。

 

 自分の歌の切れの悪いところは、バンドの切れで持たせるとか、それも全部含めて、音楽、歌です。それがちぐはぐなのが多いです。歌のうまい人ほどそうです。歌のうまい人は、伴奏に歌が乗っているだけで、せっかく伴奏がいるのに、両方の演奏、セッションにならないのです。伴奏者が下手なわけではない。別々に歌えばいいのにというふうにことです。

 

 離れちゃったり、切り離してしまったり。今の「ろー」のところの「と」や「の」もそうですね。ところがトレーナーが教えてしまうと「と」や「の」をきちんといってしまったりして、そうすると何か動きが違ってくるのです。

 ある意味のオリジナリティです。誰もこの人以外に、この歌を歌おうとしない。いい曲であるのに、歌わない。あまりにもイメージが強すぎて。

 

 日本の場合、人の歌を歌うというのはなかなかスタンダードにならない。民謡くらいですか。外国は皆がいい歌を歌って、スタンダードにしていくのですが。歌いやすい歌と歌いにくい歌があります。演奏者の個性があまりにもありすぎるとね。

 

 

○異次元に歌う

 

 たぶんロックの世界というのは、クラシックの世界みたいに芸術家をお客さんが聞くのではなくて、自分のなかに動かしている動きを、完結させないで投げ出すことによって、それに客が動くというものであると思う。

 

 未完成とは違うのでしょうけれど、とても完成度の高い作品もたくさんあります。ある意味では開放させたまま、あるいはつまらせたまま、あるいは終始できないままに客とのコラボレーションをとっていくのだと思います。

 クラシックでもよくコミュニケートするものもあるけれど、狂気的な感じになぜならない、サッカーみたいにならない。

 

 歌い手のなかで全部描いてきれいに歌ってしまうと、歌い手の世界になるから距離ができてしまうという気がしまう。今でも若い子たちが集まるのも、そういうものだろうなという感じがします。

 

 本題に戻りまして、ひとつの基本フレーズからです。このベースの。ここがある意味ではフェイクしているところの最大点の揺れのところですね。この2つの間のところで、この歌が動いていきます。

 もっとすばやいし、もっと集約しているし、それから3つ置いているのでなくて、3つも並べていますね。

 

 こういうところでもそうでしょう。普通であれば、歌ってしまえばいいところでしょう。でも流さないのです。とにかくできるところの可能性を使って、全部動かしてみようというところです。そういう意味ではここだけやってみてもいいですね。

 

 さっきのところはきちんとつくっているから、次もつくると見せかけておいて、この辺のところから、休んでいるというわけではなくて、抜いています。もっと抜いてもこれだったら持つと思います。それだけ余裕が出てくるわけです。全部歌っていたら大変ですから。

 

 音色の問題、フレーズやオリジナリティの問題、よくいうのは、こう歌ってしまうのが、3つくらいにおいて、だいたいここが離れてしまいます。そこはグルーブをもっと、逆でもいいです。それがだんだんこう略していって、動いていく。こんな感じに歌がなれば、こっちにいっているけれどこっちにいっているよとなります。

 

 ところが日本でそういうことを感じたことがないのですが、欧米のものによく感じたのは、こっちのものを歌っているのに、響きはこっちにいっている。3つくらいの声が瞬時にこう、とにかく時間軸を崩すのですね。チクタクチクタクといっているものではない。

 

 2つの声ではないはずなのに、なんでこっちをこうやって伸ばしている間に、高い声を出せるんだろうというような、この縦の線が、こういうようなものがこうなるというような比喩、こうでないところになったときに、いろいろなものが動き出すでしょう。

 

 普通の時間に支配されるというのは、それ以上に動かせないとみえる。ただ、日本の場合は時間にきちんと合わせて、長さを揃えていくところで歌声を聞かせるようなところで、とてもいい歌もありますし、いい歌い手もいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  レッスン録【4549】19,392字 1723

  レッスン録【4549】

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レッスン録1【4549】

  レッスン録1-2【4549】

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レッスン録1

 

 

○歌うところより歌わないところが大切

 

 メリハリの一番の目的は、なるべく歌わないところをたくさんつくるためです。

 歌うところというのは声を出して、自分で動きをつくらなければいけないところ、あとはできるだけ、そこにのっかって楽に歌うために、どうやって流れをつくっていけばいいのか。

 

 だから、考え、いろいろな流れを変えなければいけない。変えなければいけないということは、もうすでに流れがあるわけです。その流れがあるからこそ、流れを変えたところがお客さんにはわかる。

 ところが短くすれば短くするほど、お客さんにとってはバラバラに聞こえるから、今度はお客さんがつなげる努力をしなければいけない。それぞれの歌詞やメロディを読み込んでいって、客がこんな歌かと思うのは大変なことです。

 

 当然、歌い手がまず流れをしめしてあげて、その流れがとぎれてきたら、ひとつの流れをつくっていくということ。結局、何も考えないでフヮーッと出しているところが一番いいのですが、それはそれだけではできない。その前に何かしら起こさなければだめですね。今みたいなところでも、考えなくてもできるところは、その前にうまく入れているわけです。その箇所を多くしていく。最終的にはすごく少なくしていくということです。

 

 

○4つの単位で考える

 

 ひとつの歌を20個で起こしている人と4つで起こしている人とだったら、4つで起こしている人の方がよい。さらに、ひとつで起こしてそこで3つつないだりすると、もっとうまくやれます。

 だいたい4つ単位くらいです。ひとつを起こして10個つなげられるかといったら、それは途中で動きがなくなってくる。

 

 ただ、日本の歌というのは、一つひとつをしっかり歌っていくがために、それぞれが切れてしまうし、全体の位置づけが客にわかりにくいということが出てきます。そうすると歌詞の世界になってきます。

 

 こういうものを使っているのは、できるだけ音楽の世界に近づけたいからです。

 だから、皆ことばではわかっていなくても、歌ったとき、たとえば日本語でやると歌いにくくなるとかバラバラになるとか、1234といったら、最後の4番目になるとあまっているとかたどたどしく感じたりとかします。ところが、外国語でやると案外流れにのれてしまうのは、元々のことばのリズムがあるからです。あえて日本語でやってみましょう。

 

 

○パワーがない分、技術に頼ってしまう

 

 なんかつまらなくなってきたとか、1回目聞いたときはよかったのに2回3回と聞くとつまらないと思うのは、こういう音楽がもつ、そういうものを離れたパワーや流れがお客さんに掛け合えていないからです。

 それなら台詞やナレーションの世界で勝負した方がいい。結局、ナレーションの世界でも勝負できるくらいに人間の声やことばは強いから、音楽を外れても持つから、歌い手自体がわからなくなるのですね。そうすると一つひとつをていねいに歌うようにということにつながってくるわけです。

 

 楽器の人を考えてみるとわかるように、一つひとつは結果としてていねいに弾いて、情感は入っていますが、やっぱりどう起こしていくかということになります。

 練習としてはそちらにシフトしていく。せめてここにきて、ここの歌をやっているときはそうやっておいて、ご自分の歌は自分の歌でやりなさい。

 

 かつて、ここでやっていたのは、ある程度ステージでできる人ですから、そこの課題ではないのです。課題がないと何も変わりません。私らが聞いていても、原曲を歌っている人とそうでない人、アマチュアや日本の歌い手とは力の差がすごくある。それは何かとはいえないのですが、たぶんこういうものの積み重ねですね。創造性になってくるわけです。

 

 

○「卒業写真」のフレーズでみる

 

 この歌は、いろいろな人が歌うのを何百曲と聞いています。やはりユーミンの影響を受けていますね。自分ではわからないと思います。

 「まちで みかけ たとき なにも いえな かった」、楽譜からいうとこういう歌い方でよいのですが、それのニュアンスみたいなものは、出ていません。彼女は一つひとつを切っていく歌い方をしますから。

 この歌で一番力を出せるのは、「そつぎょう」から「しゃしん」で追い込んでいって、盛り上げて、そこに「あの人は」を落として、「やさしい目をしてる」の引き立たせるというフレーズをどうつくるかです。

 

 ユーミンはそういうかたちをとりません。同じように「そのままだったから」というところ。この2つが決まるか決まらないかが、曲としてみると、サビより大切です。それから「人ごみに流されて」の「て」の置き方や、「ここからわたしを」の「わたし」なんかが、ユーミンだなと思えるくせです。

 まだ似ていない方です。一般の人なら、もっとそっくりになってしまう。最後の「あなたは」も、普通に楽譜から考えたら、ここで強くしてユーミンみたいなかたちで無表情に、単に歌っているようにはならないと思うのです。

 

 「人ごみに流されて変わっていく私を」に対して、「あなたはときどき」というのは、本当は受けになっているはずです。ここなんかは起承転結で、弱い転じ方を「あなたは」のところでどのくらい置けるかというのが、この歌を引き立てるかどうかです。

 ユーミンはそういうところをほとんど裏切っています。裏切っているのに、別の意味で彼女の魅力で持っていっている。ユーミンより歌唱力はあっても、ユーミンより伝わらなくなってしまいます。

 

 特にこれをギターなんかでやると、全部が「かなし ことが あると」というように、すべてがそうなっていきます。彼女みたいな歌い方に、ニュアンスがなってしまうのです。別のプロなども動かそうとしていますが、似てはきています。よりうまく歌えるはずですが、もっといろいろな持っていき方があるでしょう。

 

 それをほとんど小さくしてもいいし、「やさしい」を伸ばしてもいいし「やさしいめを」を伸ばしてもいいし、「しーてる」でも「してるー」でもいい。

 前半と違う歌い方を後半でできるから、はじめてこれが一行つながります。ところが3つくらいに分けてしまうと、全部細々してしまう。

 だから自分でなるべく楽にしてしまうことです。「卒業写真の面影がそのままだったから」も同じように考えてください。

 

 

○ひとつにする

 

 「その まま だった から」くらいですが、「そのままーーーだっ たから」というような、こういう歌い方をしろということではありません。まずひとつにする。ひとつにするには、どこかに動きをつける部分と受ける部分をつくらなければいけない。それができてみてからもう一度動かし、最終的には楽譜の世界に戻っていくのです。

 

 そのニュアンスをもっていけるのかわからないですが、こういう練習をしておいてポツポツと歌うのと、最初からポツポツ歌うのとでは、聞いている方にとってはまったく違います。流れや動きをその人がわかって歌っているのか、わかっていなくて単に楽譜を置き換えて歌っているのかということなのです。

 

 オリジナルでというと皆、わからないとか、勝手に歌えばいいのだろうと思う。勝手ではなくて、自分の呼吸と歌の呼吸をギリギリで合わせていくことです。その人なりにひとつくらいしかできないものなのです。

 

 今みたいなことをやれば、1時間に10個くらいのものができるかもしれませんが、そのなかでひとつ持つか持たないかを問う。ほとんどを持たないで、そのひとつを見つけるがために、皆、日ごろ勉強しなければいけないというのが、バイオリニストやピアニストの世界なのです。歌い手もそのはずなのですが、そういう練習を誰もしないのです。

 こういう曲をつくっている人たちの方がしっかりしているわけです。自分の声だけの力で持っていかれないから、前に持ってきたりシンコペーションをかけてみたり、曲を変えます。

 

 ただ、いい曲をスタンダードとして歌う人は、戻さなければだめです。自分が作曲家でありアレンジャーであるということ。そういうふうについているからそう歌うのではなくて、そういうふうに歌えなければ編曲してもいいから、自分が出せるものに歌っておいて、そちらがよければ変えればいいのです。他の人の曲を歌う必要はないのです。

 

 ところが日本の場合、そういうことでメロディやリズムをフェイクするとおかしくなってしまう。歌い手の力がそこまでないから、同じように歌うようになってつまらなくなってしまいます。だからお客さんでも、そんなことをメチャクチャにやっていながら、音楽に納められてしまう人を待っています。原曲が歌い手が違うと、どこまで化けるのかを学べばよいのです☆

 

 SMAPの歌はこんなふうに動くのかということです。あれは曲も歌詞もいい。SMAPが歌ってもいいのですが、綾戸智絵さんが歌うと全然違う見せ方やセットをしていく。この歌はこんなふうに化けるのか、もっといい歌だったんだなとわかるわけです。そういうことをやるのが、歌い手の本当の意味の力です。

 

 

○叩き台としての選曲☆☆

 

 他のステージでやる歌はもってこないようにといいます。こうやってしまった結果、わけがわからなくなって自信をなくして、歌い方が定まらないままステージに出てしまうと、お客さんは感じてしまいます。だからなるべく捨てる歌や二度とやらない歌や私が渡している歌を、たたき台、潰しとして使ってください。

 全曲やらなくてもよい。1、2部分、歌を壊してしまえばいいのです。壊して自分で歌ってみたときに、よりよいものが出てきたら、それを自分の引き出しに入れていく。

 

 たぶんことばなどはずいぶんやっていると思うのです。たとえば「あなた」というのを歌い分けたり「かなしい」というのをいくつかのパターンを持っている。でもそこにリズムのグルーブで動かしたパターンがまだ持っていない。というより日本語でやるときに必要がない。

 

 それをイタリア語でやってみて、こういう動かし方をしているのだ、自分のは4つに聞こえるけれど、この人のは4つ分けているけれどひとつの流れが聞こえるという聞き方の部分で勉強する。自分でやるときはテンポやキー、何を外してもいいし、ことばを入れなくでもよいので、流れが出ているかどうかを自分できちんと見てください。

 

 曲の流れが出たというのなら、曲が壊れていてもよいです。3、4年経ったら、その流れで曲に入ってます。今はそんな簡単にできません。「しゃしん」と大きくいってみたら歌にならないというのは、あたりまえです。でもイメージは必要なのです。

 自分の声では間に合わないけれど、そういうものを聞いていたときに、こういうイメージがありなんだ、こんな伸ばし方がありなんだ、という発見です。

 

 向こうの歌い手というのは、やはりすごいアイディアをたくさん入れているわけです。そこを聞いて練習してみてください。

 お得意の曲をもってくるとズタズタになってしまいます。目的が違うからです。ここでやることは部分的なところをすごく拡大して、トレーニングに結びつける。「息が足りないからできない」「体が足りないから感覚が足りない」というようなことを知っていくのです。

 

 自分の感覚でそのままやってしまうのはトレーニングには意味がありません。歌謡教室のレッスンになってしまいます。そうすると粗だけ探して直していけばよくなってしまいます。しかし、こなすのではなく、歌をダイナミックに歌いこなすためにどう考えるかです。

 

 

○声や息の素材

 

 日本の合唱団が歌っているような感覚に、向こうの歌い手がどうしてならないのかということについて述べます。

 響きの部分での、上でまとめていく部分。これは歌の高音が高い以上、世界的に共通の部分です。生声ではやっていきません。ただ、あまり目立たない人もいるし、ハスキーな声が磨かれた末に深い声になって、上の響きのようになっている人もいます。その辺は人間の声の複雑な部分で、解明できないところです。

 それに対して、下の素材というのは、声の素材や息の素材といっている部分で、日本人に一番かけているところです。

 

 日本語ということ自体が、深くポジショニングをとらない。

 最近は、リズムから入る英語の学習CDがある。私が見てきた映像のなかでは、明日香出版を通じての知人である西村先生が、英語はHでハーッと吐く、この練習をしなさいと提唱しています。たしかにそのとおりです。

 

 もうひとつはイタリア語の発音やドイツ語の発声教材、あるいはクラシックの教科書にもたまに指摘されていますが、喉の位置の問題、日本人は喉をつめて高くなっていってしまう。舌根が上がってしまう。舌から全部結びついて悪い状態になってしまいます。

 

 最近、体を知ることを勧めています。舌というのはすごく大きい。上あごなどといいますが、実際下あごはあるけれど上あごというのはない。上あごを上げろといわれても、頭蓋骨なのです。などという、知識面です。

 

 そういうことでイメージが合っていけばよいのですが、解剖図をずっと見て、発声をしようとしても、よけいにできなくなってしまう。

 知るのはよいのですが、それに動かされるのはよくない。イメージをつくるために知っておくこと、後で結びついてきたらなんとなく、正されていく。知識ってそういうです。すでに確定しているものは、確定するほどに使えないものです。生きているもの動いているもの、生ものに学ぶこと。

 

 たとえば「歌ってどう歌うのですか」というものに対して、「響かせた声で歌う」といわれたからといって、そうしましょうということにはならないと思うのです。それを同じような誤りがおきかねない。

 

 

○肺活量のこと

 

 音楽の友社から、Q&A本を出します。そこを本音でずっと書いていくと矛盾が起きてしまう。

 声のことを頭で学んでいる人はたくさんいます。すると、「トレーニングをすれば肺活量が増える」というような嘘も知ります。

 でもそういうことを指導する人が、何を「肺活量」といっているのかということです。肺活量は医学的にいったら成人したらしぼんでいくだけで増えることはない。でも、呼吸を使えることを肺活量というのであれば、間違いでもない。

 

 

○ピッチ

 

 日本で音程といわれているのはピッチのことをいっています。本来、音程が下がる、届いていないというようなことには、音程とは使いません。

音程というのは、音の程、英語でいうとインターバルで2音の間隔、幅です。2音の幅がきちんととれていないのも、ほとんどが2音のうちの高いほうが届かず、狭くなってしまう。この幅のことをいっているのが誤用されていく。いつのまにか「もっと音程を上げて歌ってください」ということになっていってしまう。

 

 でも皆そう使っていて、トレーナーまでもが使っているのであれば、それはもう有りなのではないかと。訳語と考えないで、日本語の音程の定義がそういうものなのだと考える。伝わればよいのですから。 それよりは「リズムが悪い」という方が伝わらない分、もっと悪い。「音程が悪い」というのもトーンが暗いようなことをいっている例が多い。

 

 

○焦点化

 

 音色とフレーズのことをやっています。体からの声は、歌に使うときには、特に焦点化しなければいけない☆。これがひとつの決まりです。しっかり歌っていると、どんどんロスをしていきます。サッチモのような人でないかぎり、吐き出す歌唱法はできないしやらないほうがよいと思います。

 

 

○起承転結

 

 長短で日本人はとっていきます。あと高低、いわゆる楽譜の世界にこれらが表れているわけです。

これを変えましょう。歌は、波のように押して、引いて押して、引いて押して、2フレーズ単位です。4小節単位くらいで起承転結をやっています。

起か転のところ、必ず起で起こすのかというと、案外と、承のところで起こしていることも多いのです。

起のところにテーマがきて、起を置いて、承のところから大きく動かして、それで転のところで戻るのもある。

 起で起こして、2、3、4とぶらさげているのもある。

 

 大体の場合は1と置いておいて、2で大きく起こす。こういうのが日本人の一番ないところ、アフタービートの感覚です。それで3のところで音色を聞かせていく。強くする場合の強調もあるし、弱くすることもあります。転じるというのは必しも強くしない。弱くすることもある。

 サビになると弱いこともあります。日本人はサビになると高くなるので、強いと考えています。

それで結はなるべく歌わなくていいようにする。この流れが崩れてはいけない☆。

 

 この流れをどう歌うかということが音楽の勉強、バイオリニストやピアニストがやっていることです。そういう勉強をして、後半は促せる。早めに何か起こさないと、聞いていられません。

慣れ親しんでは、耳をふさいでしまう。だから常に新鮮に何かを起こそうとしないといけません。

 

 

○流れと鋭さ

 

 要は鋭さということです。声の大小とか高低がきて、単に大きくしたり小さくしたり、高くしたりということと、鋭さは違うのです。そういう鋭さや切り出すところを見せていく部分と、それにのっけて発展していく部分が不可欠です。単純に聞いているとわかります。

 バーッと入られると驚いて、もう一回それをやってくれないかと思っているところで、ちょうどやってくれると、やったという感じになる。

 

 でも、そればかりが連続すると、休む暇もないしつまらないから、その上に何かをのせて何かしらを伝えて、その動きが止まりそうになる前に、絶妙に起こしていくというのが、音楽としての歌です。

彼らの場合は4つのフレーズでもできているし、ひとつのフレーズのなかの4つのことばのなかでもできています。4ブロックのなかでも、歌一曲のなかでもできている。

 

 歌1曲というよりは1コーラスですが、ここで使っているような、1コーラス2コーラスくらいだったら、両方を結びつけています。日本人がまだ消化していないということなのです。

 

 

○形

 

 3番まで外国の歌はあるから、我々もそうしようか、なんとなく3分歌わないと、客も歌われた気にならないから3分でつくった。ということ、そこに何の創造性もないのです。

 感覚があるなら、本来ならば、そこの感覚が6番までいったり1番だけの曲に定めていく☆。外国にいくと1番までもいかない曲もあります。8番や10番まである歌もある。ところが日本は、輸入して、向こうが6番まであるからこっちも6番までというような移し変えしかしていない。

 

 日本人が使うのだったら3番までで充分というか、そんなに長く伝えられない。ムリに形をとるから、お客さんが退屈していく。すると2番のところでアレンジを入れてみたり、3番でテンポを変えてみたり4番で語りにしてみたり、おかしな方向にいってしまう。

 ステージは形にしなくてはならないから、しかたない。やりたいだけでやれることを考えない選曲ミス。本来は戻って直さなければいけないことです。

 

 基本力が弱いのです。日本人は応用する力はあります。一番よい例は、これだけ下手な歌をうまくするのに、ヴォイストレーニングも発声も使わないで、カラオケを作ってしまった。こんなこと日本人しか考えないでしょう。

 

 欧米では、素人が一人で人前で歌うというような失礼なことはしません。よほどうまい人しかしない。歌い手や芸人というのは、見下げられているところもある。インドに行って、なぜカラオケがないのかというと、あれは奴隷のすることだからというのです。

 国民的歌手は別格ですが、人前で歌うということは蔑まれることだという感覚があります。

 音楽や歌は聞くものだ、心地よいものだ、自分が歌うものではないという、欧米も似たところがあります。

 皆で歌うときは楽しんで歌いましょうということはあっても、ひとりで歌うというのは失礼なことそれだけ歌が大切なのです。日本でも、うまくない人が歌うのは、本来、失礼なことです。まあ、古いか。

 

 

○かつての歌

 

 この人は、噺家になりたくて出てきた人ですから、ステージはしゃべりが売りでした。昔のステージというのは、ヒット曲一曲が出る。そうするとそれだけをコンサートで何回も歌う。あとはトーク。今の人たちみたいにレパートリーがない。1曲ヒットして、あと歌える曲が2曲くらいしかない。なかには1曲を1時間、50番くらいまで作って、延々とやったというのもありました。

 

 

○耳を鍛える

 

 タモリさんがよく中国語などのものまねをやっていました。

「バナナ・ボード」も「こんげつぁたりねぇかりねばなーぬ やまぐちさんちのごむほーす」とかなんとか、あのころは皆、歌詞もわからない。聞こえてくる歌詞に日本語をつけて覚えていた。

 そんな覚え方をここでする必要はないのですが、そんな時代もあった。でも耳は鍛えられるのでやってみればよいと思います。英語以外の言語がいいと思います。

 

 

○リズムの時代

 

 20世紀にほぼやりつくしたのがリズムパターン。ヴォサノバなどはつくられた。いくらでもつくれます、世界的なものとして、あらゆるリズムが出てきた。

 この当時、50年代、カリプソやソン、ルンバ、マンボ、チャチャチャ、それらが得意な日本の歌手、それらに憧れた日本の歌手がいました。

 坂本スミ子さんのようなラテンの女王もその一人です。

 

 特徴としては、声楽をやっている人が多いのですが、成功したのは音色をもっている人です。

 当時はオールデイズなど、向こうから直接入って、日本人も音色をけっこう持っていたのです。

 今の歌い手は聞いて、ぱっと声がわからない人が多い。しかし、日本人でも深くできるということです。

 

 「デ 荷揚げすめば」

 発声の教育をうけた人ほど、きれいだけどパワーがない。でも、こういうものが歌という感じだったのです。かなわないというより根づいていないのです。

 

 

○日本の歌の断絶

 

 日本人が歌っているものは、向こうから輸入したものにすぎないとしたら、それで無理がくるのはあたりまえです。

 決して声がかなわないわけではない。たとえば私が外国人と漫才を見ていても、外国人は内容はわからない。でも雰囲気的にわーっとなると、おもしろくて笑っていたりする。

 彼に通じる声の表現力は、今ではお笑い芸人がトップクラスにある。歌い手より、声の使い方、タイミングをふまえている。声の輝きがあって、何をいっているのかわからなくても伝わる。

 

 外国のコメディを見て、ことばがわからなくてもこういうことだろうなと想像して笑ってしまう。

 歌が伝わらないのは、単に日本人の努力不足。歌が原初的なエネルギーを失ってしまって、退化している。歌い手が怠けているだけです。

 

 もうひとつはどこに音楽のルーツを求めればいいかということ。今の団塊の世代から上、7、80歳あたりの人が、縦のつながりをバサッと切ってしまった。

 そこまでは、接待を受けたら、都都逸や小唄ひとつくらいひねっていた。

 それがカンツォーネやオペラを歌うといったら、そのこと自体がおかしなことです。

 

 団塊の世代から後、そういうことになってしまったのです。邦楽はそこで途切れてしまった。

 邦楽でも80、90歳の人は声が出せるし、それなりの世界を、歌舞伎でも狂言でもつくっている。謡い一つだって、世界に訴える何かをもっている。今も昔も伝統の入っている人の歌は、強いのです。

 

 日本ではどちらかというとビジュアル的な面の方が評価されています。日本人の声や伝統のところでの出し方というのは、きちんとは受け継がれていない。

 それから日本の若い人自体が、学んでいない。

 そういうものに興味をひかない世代の責任にできないのですが、それだけのアーティストが出ていないという話になってしまう。おとされてきた分野、なんとなく忘れられてきた分野なのです。

 

 

○歌手の感覚の遅れ

 

 琴や中国の楽器を入れて、編成して「伝統楽器の夕べ」にして声をちょっと入れてしまうとか、人形劇をやって、そこで3、4曲歌うとかいうかたちにすると日本でも引き合いがあります。

 歌手にしても、もうテレビで歌っていないでしょう。歌に3分もお客さんが聞くだけの興味をもっていないわけです。

 お笑いの人でも一席くらいやらせてもらえるのに、歌手が呼ばれても歌うことすらないのです。

 それだけ普通の人の感覚から、歌い手の持っている価値がずれている。ということは歌い手が遅れているだけなのです。もっと他の人たちがききやすいものをすればよい。

 

 お笑い芸人なら出られるわけです。あそこで環境問題とか世界的なテーマを歌えばいいのに、芸能人の悪いことばかりしかいわない。そのレベルで日本の芸能界が成り立ってしまっている。

 そんなものを聞きたい人が多くなっている。それ以上のいいものを見ていない。あるいはいいものは外国からくると、いつもそういうもののコピーにいってしまうわけです。

 音一本や歌の世界だけでやっていくのは、これからさらに難しくなっていくと思います。いろいろなところとコラボレートやリミックスをしたくなるもの。

 

 ここにきている人も映画監督や人形劇をやっている、舞台の現場の人の方が、声の使いみちをわかっています。

 どれだけ声ひとつで、その作品価値が変わってくるのか、すると声の勉強をしようということになる。自分が女優や漫才師になったら、声の使い方はベースだと、思うわけです。

 

 歌い手が一番思わない。おかしな話です。音楽で負けることはないから、やれるところまでやって、レベルもそんなに上がらないでファンが離れていく、それが実力かなと思っている。

 他の世界は競争世界、役をとられたり出れたり出れなかったり、いろいろなことがあるから、結果、つまり表現力に敏感になっていく。歌が一番遅れただけのことです。

 

 

○歌の成立

 

 単純にいうと、しゃべりたくなった、しゃべってみる、同じことになって詞になる。そのうちに人が集まってきたから節をつけたくなる。ここの詞が気に入っているから10回繰り返すという感じでやっていたら、歌なのです。

 それをコードから作ってみるとか4人メンバーがいないと歌えないというからおかしくなっていく。そういうものは他人の過去の財産です。

 

 自分の体ひとつになったときに、感じられることはたくさんある。日常のなかの小さなことばでも人を感動させるようなことが現実にはいくらでも起きている。そういうところから離れたところにどんなに歌を持ってきていても、そんなものは必要はない。

 

 体や感覚の分野から入るというのは、私にとってはノーマルなイメージ。ただ声の比重をどれだけおくかというのは、人によってずいぶん違ってくる。はっきりいうと、歌は声がなくてもやれてしまう世界でもある。ビジュアルや踊りでやっていく人もいる。

 

 

○限界からわかること

 

 なりたいものが何かというのに時間がかかる。要はイメージする力が必要で、ある程度からだや声と相乗してできてくるものです。

 誰かになりたいというのではなく、自分になりたいというのなら、本当に自分のイメージをつかんでいかなければいけない。

 

 楽器や絵や踊りよりいいのは、すぐにわからないこと。しかしそれが可能性の探究心なく、甘えになっています。踊りなんかはいきつくところまでいくと限界になるでしょう。 そうなってくると自分でできることとできないことがわかってくる。するとできることのなかでやろうとして、はじめて作品になってくる。

 

 声も同じです。何でもできたほうがいいと思っているけれど、声もよく出て何オクターブも出せたら、歌なんかどうやっていいのかわからなくなってしまいます。そんなことを求めるから表現できなくなる。

 神様があまり声を出ないようにしてくれたり、声量も出なくてすぐ喉にかかるようにしていると、これしか勝負できないとわかる。切り取られたなかに自分のできる限界があり、表現の可能性がある。そのこと以上のことをやりたければ、それ以上の人を世界中から見つければよい。

 

 イメージをどうもつかによってなりたいようにはなれる。誰かのようになりたいと思うから皆、なれなくなってしまう。自分になるというのは、自分の持って生まれたものを最大限に生かすことです。それを生かせないところは自分ではない。そうしないから、世の中と接点をつけられない。一般にとても多いわけです。

 

 

○やれる世界とは

 

 頭で考えていて歌が歌えるようになるものではない。誰も歌なんか待っていない。だからあなたが伝えたいものにこだわっていくこと。それをどういう表現形態でやっていくかというのはやってみなければわからない。やっていて、それが才能だと思えば、それを進化させていけばいい。才能はわかりにくいのは、やるだけやらないから。才能があっても、磨かないと世には出られません。

 

 人と同じ努力をして、人よりも大きく出られる人、それも才能です。すごく努力をし、人の数倍もやって、人と同じ程度にしか表れない。これはあまり有利な世界ではない。そこでやるかどうかはその人しだい。

 100努力して100しか出ない。10しか努力していなくても1000くらい出る人もいるのです。

 やれる世界でやっていったほうが世の中のためにもよい、自分のためにもよい。そういうことがわからないと、いつまでたっても価値にならない。声もやらないとわからない。

 

 そうなると1、2年くらいでは、すぐやれなくなります。それでもやるのも経験というのが私の考えにもあります。

 22、3歳でチヤホヤされるのならそうされたらいい。そこで得たものや人脈も生きるかもしれない。それでトレーニングの期間をうやむやにすることではない。

 

 

○バラエティこそTVの本質

 

 いろいろな形で世に出る人がいます。本業を持っていてエッセイを書くくらいの気持ちでテレビに出るというのは、これはこれで大したものです。

私は、テレビで出るのが芸能人だという感覚でいます。バラエティこそ、TVの本質だと思っているからです。

 

 作家は、いつもひとりで閉じこもっているから、たまにああいうところに出ないといじけてしまう。私は毎日、人を見ている。ああいう人たちのなかで、そこの現場に20年いるような人たちには、かなわない。かなわないところで勝負しようとは思わない。

 テレビは、ひとつのことをコメントするのに、どのタイミングでいうか、そんなところで勝負していたら神経が擦り切れる。やるかやらないかのどちらかなのです。水が合う合わないというのもあります。

 

 ただ、才能の集まっている世界です。皆が芸能界が好きで、やっているのではなく、才能があるからそこでやっている。

ありすぎるから他のところではやれなくて、そこでやっているような人もいますから、そこはきちんと見ていったほうがよいと思います。

人材の宝庫でもあります。今の世の中で一番やれる人たちは、たしかにテレビに出ている。やれるが出ない人もいます。多くの人は出たいのに出れないので、そこからいってみてもしかたない。メディアの一つ、使い方しだいですね。

 

 

○聞き方

 

 とにかくよいものが徹底してその人のなかに入っていて、聞き方がプロの聞き方になっていないかぎり、たいしたものは出てこないのです。そのことを2年くらいでできれば相当早いのですが、4年5年とかけていくことによって、磨かれて深まっていくこともあります。

ましてそういうところに自分の作品があるのであれば、曲につけてみたり、いろんなことを応用してみれば実感をもったところでできると思います。

 

2、3年たって、声楽をやるのもよい。いろいろなかたちで磨いていきましょう。個人レッスンになったので、個別に対応しやすくなってきました。足りないといえば多くすればいい。あくまで自分の活動があって、ここに補強や知りたいことがあればくる。あるいはここに出しにきて、舞台より厳しい基準でチェックしてもらえればいいと思います。

 

 

◯グループと個人

 

 かつて、ここは養成所という考えだったので、全員が平均レベルになることを考えていない。一番才能のある人が満足できるレッスンとなれば、それがわからない人は必死になってついてくるしかなかった。

ついてくるといっても、スポーツだったら、力がないとへたばってそのギャップがわかるのですが、気づかないので難しい。時間がかかる。

当然、それだけのレベルの人は、くるまでいろいろなことをやってきている。そこをレベルダウンしてしまうと、いい人から抜けていく。いい人から抜けていくようなことはできない。

 

 プロだけ集めてもやりにくい。現場より体から考えたい。声に関しては素人より声のないプロもいます。日本でいえばアマチュアとプロは、声に関してはそんなに変わらないということで一緒にやれていた。すると力のあるプロは入りにくくなった。それが限界になって、目的がそれぞれに違って、期間も違ってきた。

 

 昔はあるレベルまでいくまで、人前で歌うことを考えなかったのですが、声や歌のことよりも、どう働きかけていくかという創造やメディアのほうに時間をとらないと、先がない。本当は自分でやることですが。

 本当に日本のレベルが高ければ、もとのかたちに戻れると思いますが、今の日本の場合は気づくまでの時間のほうが優先的にとられてしまう。

 

 実際、歌や声がそうなった、ベースをもっている人たちが活躍しているのかというと、むしろ逆です。

まじめな分、客も集められない、曲もつくれない、という感じに現実の場がなっている部分もあった。

 そんなことはここで教える必要はなかったと思うのですが、もしかするとトレーニングで気づかせないできてしまったのかもしれません。

声においては優秀な人に、こういうふうになってからプロになるのかと思っていたという人もいる。

 

 自分の作品がないかぎりプロにはなれないのです。こちらからいわせれば、そんなことは自分でやっていると思っていたということ、ここでやるべきことではない。ところが関わるざるをえなくなってきた。そうなると個別にみていくしかない。

 

 その問題が一番大きい。創造に取り組ませる。呼吸や声や歌がよくなっても、働きかけるものがなければ使いようがない。そちらのほうが大切です。ここでそういうことのヒントを学べる、といっても創作はひとりでやっていくしかない。

 いろいろなところをまわってこられる人も多い。要は、トレーナーの利用のしかたです。それがすごくもったいない人と、うまく使い切っている人との差が大きい。

 

 

○レッスンはサービス業ではない

 

 器が大きいのがいいのかわからないが器を大きく見せるように対応していく。本当の意味で、自分のなかで合うというより、自分のもっているものを生かせる人間はすごく少ないと思います。100分の1もいない。

だからいろいろな人とやるというのもあるし、自分でなくても人にまかせたほうがいいこともある。自分以上のものを、トレーナーも持っている。

 

 芸大に入りたい人に対してなら、芸大に受かったことのある先生のほうが適役です。そういう意味でいうと、むずかしい。結局、わからないでしょう。答えは永遠に出ない。

 その期間を違う先生につけていたらどうなるかというのもわからない。その人が「すごく役にたちました」といっても、別の先生だったらもっと役立ったかもしれません。その人が「全然だめだった」といっても、あとで役立って、その人が判断したよりも結果的にプラスに出たということもある。それは思い込みなのです。

 

 日本では、やさしかったり寛容だったりする先生のほうが評価が高くなる。そこも確かにひとつある。ただ、本当の意味の才能やレッスンに求められることとは違う。

 本当に自分の求めることが絞られて、とても高いレベルで求められたときは、人間性が悪かろうがなんであろうが、そこのレベルに対して対応ができることが、第一です。

 

 はっきりいうと医者なんかはそうですね。たとえば難しい手術で、誰もできないというものを、その人だけは抜群にうまいといったら、サービスや人間がどうであろうが、その人がやるのが一番いい。それ以外に関しては、へたな先生なら、説明は別の先生がやってくれたほうがいいとなるかもしれない。

 

 スポーツや医学の世界ははっきりしているのですが、声は結局わからないでしょう。同じ時期に同じことを試せない。思い込みで進むしかない。そういう偶然のなかで自分の置かれた状況のなかで、どれだけ他人を生かすかということ、それからその状況を打破する力があるかどうかです。先生を変えるのも打破の方法の一つではあるが、大きい目で見ると、それがよかったか悪かったかはわかりません。

 

 ある意味では求められたことをトレーナーは与えるのですから、本人が満足してくれたらそれでいいとなる。もったいない使い方をしているというのでも、「ありがとうございました」といえるなら、それはそれでいい。

 

 私なんかはそういうのは嫌いで、やる以上、世の中に大いに役立ってくれないと困るというところはどこかにありました。そんなのだったらやらなければいいのに、と当人にはいわないが、もったいないということなのです。もっともっと使えるのにといつも思う。私が会報に書くくらいは、レポート出せよといいたい。そうしたくないならそれでよい。

 

 歌や声に気をとられたり、レッスンに時間を費やしたがために、それを他にふりむけたら、その人がもっと世の中で役立つ才能があったかもしれない。その辺になってくると、好き嫌いなどの問題も含めて、こちらで定めようがない。むずかしいですね。永遠に判断できないから、今もここを開放しているところです。

 

 

○教えられるということ

 

 私は教えたいとは思わないし、ずっと教えないといってきました。歌い手なんかは、自分は恥ずかしがりやだといっても歌っているのだから、自己顕示欲が大きいのといわれるのと同じで、ふつうの人の感覚から見たらわからない。そもそも少しばかり接しても、教えられるものではないとは思います。

 

 私は20歳のときに他人のところに教わりに行ったというのは、10代で世の中でやれている人がいるのに、自分はやれなかったという、勝負はどこかで区切るのしかないのですが、私の時代はそうだった。

20歳くらいで死ぬとしたら、何もやれていない。そうしたら頭下げるしかない。

 やっと歌えるようになっても、すごい奴がいっぱいいる。常に上しか見ていないときは、世界と自分が近く思える。

 

 そういうものは教えるとか教えられないとかいうもので見るということではない。何かしら天が与えた才能というものについて、私は好き嫌いで考えるということはありません。

 自分が好きであろうが嫌いであろうが、天の与えた才能があれば、それを使い切るのが人生です。

 他人の役立つために生きているのではないけれど、そうすることで他人に役立つ。そのほうがたぶん幸せです。好き嫌いを超えて、それが使命です。

 そういうことでいうと、無理して歌に関わったり声を出したりしなくてもいいと思うし、皆歌いたいとか自己実現したいといっても、ほとんどの人が成していない。

 

 がんばって、努力しているといっても、それで切り開かれていないのは、おかしい。切り開くためにやっている。切り開くというのは失敗や成功ということではない。やるかどうかだけです。セッティングを最初からきちんとしていないのではないかということです。その辺ののど自慢チャンピオンめざして歌っている人のほうが、まだ人生と歌をきちんと一致させている。

 

 歌に振り回されて一生棒にふったといっても、当人がそう考えているだけです。歌って何なのかといったときに、最初のあこがれのままにいって、自分が歌を歌う立場のほうに、本当の意味で立てていないのです。

 誰かが作ってきた土俵で、自分がやりたいと思っているからできない。そうやれる人は20歳でやれています。

 そこでやれなかったら、自分の土俵を見なければだめです。そうなったら、自分の土俵というのは他人から教えられるものではなくて、その人がそこで生きてきたなかで、感じたり思ったりしたようなものです。それが一番ごまかせられやすいのが、日本のなかでは、音楽というより歌だと思います。

 

 

○歌というものは

 

 音楽はごまかせない。ピアニストは腕がよくないかぎりピアニストにはなれない。ところが歌というのは、状況をつくってやれば誰でもやれてしまうかのように思われている。場の力でけっこう感動してしまい成り立ってしまう。それなりのドラマも生まれてしまう。とても安易だから、気をつけなければいけない。

 

 勉強しているつもりでいて足をとられていることになる。楽譜を読んだり発声を習ったりするのもよいのですが、本当はそうではない。

 自分の伝えたいことがあって、それを本当に伝えようと思ったときにことばにして、それにちょっと節をつけてみたりすると、より大きく伝わるから歌を使う。

それをかたちから入ってしまうから、ことばでいうより伝わらない。

 そういうなかで日本のなかでは歌が使われてきたから、誰も歌に見向きもしなくなってきた。だからお笑い芸人の勉強をしろといっています。

 

 私の最近の動き自体が、なぜライブハウスにも歌い手にもあまり興味がないのか考えて欲しい。お笑いや落語の人を見て勉強している。誰かのところでのっかってやっている人は勢いがなくなる。

 福島が教えたら福島以上の人間は育たないのです。私が最低ラインでなければ、研究所は何の意味もないのです。トレーナーのようになるということはそうではないということなのです。

 自分の可能性を100人に与えることによって、100人が少なくとも自分と同じだけのものを、早く手にすれば、可能性が広がるのです。世の中はそうして動いてきた。

 

 教えることは嫌いです。昔から教えないといわれる。それでよいのです。

 私は生きて動いていれば、表現し続けていればいい。歌い手なら歌っていればいい。本当にいい歌を歌える力があれば、誰かが影響を受けて育つ。私はこうやって生きていくなかで何かをつくっていったり伸ばしていったりすることにおいた。

 

 皆、区切りすぎなのです。歌はこう、仕事はこう。日本の場合はレッテルとの戦いですね。それがわかっていないと、自分でメディアをつくっていくとか動かしていくことができない。結局、自分のステージでなければ自分の客を採っていかれないのです。皆、歌にたいして幻想を持ちすぎています。

 

 

○表現と世の中

 

 歌や声は、戦うための武器、少なくとも私にとってはそういうものなのです。戦っている人たちがことばを発しているのが歌であって、どこかに逃げ込んでやるのは余興。

カラオケならどこかでたれ流しでやっているのでいいのですが、メインに生きていくのなら、そんなものは教えられっこない。

 今の出版、マスコミ、音楽業界、私がやれてしまうくらいでは、本当に情けない。何とかならないかという気がします。

 それは人のことをだめというより自分がやるしかない。だから恵まれていると感謝もしています。

 

 アメリカのような世界だったら、どうやろうかどう育てようか、トレーニングして何になるかと最初から見えてしまう。

日本なんかはそんなところで反応しないし、つくりようによってはいくらでもやれる。多くの人がやっていない。一番肝心なのが、表現の核の部分です。

 

 表現したいというのはいいのですが、それが生きているエネルギーという核の部分であって、ただの歌いたいという欲の部分では、人は決して歌を聞きたいと思わない。経済や政治とは関係ないのもおかしい。自分がこの時代に生きてここにいてというところが原点です。そうするといろいろなことが全て関わってくるのです。

 

 東京というのはややこしくって、何も身近にリアルに感じない。私も音楽以外のことばかりにわずらわされることになります。そういうことに対して、音楽でも表現でもよいのです。どう対峙するかというところ、その思想がなければ、歌なんか必要ない。

 誰でも歌っている。レッテルを貼られるのもまだ返してくるだけいいと思う。

 

 私が政治のことをいってもしかたがない。でも皆、表現する題材を身近にみないで探しているのです。そんなのを探さなくても、足元に落ちている。どこか他のところにあると思っているのです。生きているもののどまんなかにあるし、そこからつかんだものでないと通用しないのに。

 

 

○いい人=先生?

 

 ヴォーカルやアーティストでやっていく人はわがままです。それがどこまで貫けるかということです。貫くということがわがままなこと、それを納得させる力が必要になって、本当にそういう身の置き方ができればいい。

先生っていわれる人は、案外といい人です。それはそれで立派なことだと思います。

 

 昔は何かの職についたら、そういう身の置き方になったのです。

力をつけないかぎり蹴飛ばされる。今は、蹴飛ばしてもくれないから、自分の力というものがわからないのです。ひとりでやればすぐにわかることなのです。

 

 ひとりでやったら何人集められるのかどれだけ稼げるのか、そういうことをいうと音楽はそういうものではないという人がいるけれど、プロとして音楽でやっている人は稼いでいる、人を集めているからです。よいものをつくるにはそれに専念する時間も世に出すための人や金も必要です。すべて一人でできない。

 そうするとお前の音楽って何だということで、多くの人は芸術から離れて、やっているうちに人が丸くなって、家庭や社会でやれるようになって、それはそれでいい。大人になって成長していく。

 そうなれない人が人類にいいものを残していたり犯罪者になっていたりする。

 

 ここには、いつも、いろいろな人がきておもしろいことはおもしろい。専門学校や大学は、人様のところなのでそこまで本質的に関わってこないのです。

 それこそ、そこのまわりの人に迷惑をかけてしまう。どこの専門学校も似ています。ただ、競争意識が働いていて、プライドではなくて、やることをやっているところはいいですね。音楽大学よりはずっといい。

 音楽に関しては、そこまで芯が入っていない。いい人すぎるのです。教科書しか知らない。なんか強制されたようになっている。日本の特色ですね。

 

 外国人なんか外国から呼んできても、日本人に対してそうなってしまう。同じ外国人同士だと競争意識やプライドがあるからけっこう強く当たっていく。本質的なことでやっている。

日本人は音楽を知らないから、「楽しんでやっていたら音楽になります」というような。彼らは人を扱うプロです。

 成り立っているように見せるのです。錯覚させることが誤りです。確かに音楽は楽しいし、人と人がつながっていける。それが根本ですが、それは誰かの土俵の上でやらされていることであって、自分がその立場に立ったら、それだけのものではないのです。

 

 学校に行っていると、生徒はお金を払っているから、そこでお客さんになっているのを忘れてしまうのです。

 価値をもってやればいい。そこまでこちらの力もない。昔のある時期に成り立ってきたのは、こんなところに本当に信じ込んできた人がいた時期です。信じられないのに成り立つわけがない。信じる力しか人を動かさないのですから。今のように整ってしまうと、難しいですね。

 

 教科書以外のこと、人間を伝えるのにアーティストに必要なことは、一般の人として生きていくには、つらいものとなる。私がアーティストにすることはできない。多くの人は思い込みに生きているからです。