レクチャー録1 【「歌唱論1」4563】 1732
ーー
【レクチャー「歌唱論」4563】
○3つの問題
Q.自分が歌っていて、うまくないというのはわかるのですが、どこがどううまくなくて、どこをどういうふうに練習していったら、直っていくのかがわからないのです。
ここ最近、紹介で来られる方が多いのです。いろいろなことを聞いて、いろいろなことを思う。ここでやっていることは、すごく難しいわけでない。ここで褒めて認められたら、どこでもやっていける。
ある程度は論理的につめられるところがあります。うまくないということは、何かしら自分のうまくあるべきという理想像があるわけです。それに対して自分のほうがそれに伴っていない。何をするのかがわからなくても、理想像をきちんとイメージできていたら、いくつかの方策しかないのです。
まずひとつは、そのことができるかできないか。たとえば私がマライア・キャリーのように歌おうというのは、まず男性として生まれている限り99パーセントはできない。1パーセントはできるかもしれない。日本人でも米良さんや岡本さんのような人がいます。あの声があったからできるかどうかというのはまた別として、まずできるできないのところで、すべてできるわけではないということは知っておいてもよい。持って生まれたもの、あるいは体の原点というところがあります。
それからもうひとつは、方法はともかく、アプローチしだいでは今の声でもできるがあると思うのです。感覚がよければ、大体できる。リズム感や音感の問題であれば、そういうことを磨くことによって、できるかもしれない。
そこに全ての方法があるというのではないのですが、もうすでに今の体でできることなら、やればよい。繰り返してやることなのです。
3つ目は、今の自分を変えることによってできるかも知れないことがあります。
それぞれにその3つをきちんと見ていくことが、自分の自主レッスンです。
私は、そのイメージ自体、それをはっきりさせることをやっていくことがほとんどです。イメージというのは、ほとんどのアマチュアの人が思っている、こうなればいいなということが、本当にそうなればいいのかということです。
私が見ている経験からすると、ほとんど違っています。まずひとつは、それは誰かでしかないということがほとんどです。若い人はほとんどそうです。
マライア・キャリーになりたいというのは、適切なイメージの設定の時点でかなり無理なことがある。当人の能力どうこうではなくて、誰もが同じことができないし、同じことをやったところで意味がないということもあります。
だからそこはイメージの設定です。
要は自分の可能性の延長上のところに、目標を置いているのではなくて、他人のやってきたところ、あるいは自分のできないところに目標を置いていたら、これは誰でも失敗します。でも、多くの場合はそうなりがちなのです。
それはしかたないのであって、歌い手は必ず、誰かの作品や歌に感動して、その世界に入っていき、その感覚で歌えていることを心地よく思います。
プロの方でも案外とそういう部分があります。だからその思い込みを除かなければいけなません。その人として何ができるのか、上にイメージを置かなければいけない。これがまた大変な作業です。
私たちも完全にできているとはいえない。というよりは、これはわからないのです。最後まで答えが、果たして、それがよかったのかどうか、検証できません。でも確実に上達します。
○トレーニングと実践と分けること
「ミリオンダラー・ベイビー」こういうボクサーの世界だと、優秀なトレーナーであって、その経験がある。かなり確実に上達プロセスがわかるだろうなと思うのです。
ヴォーカルの場合というのは、ひとつはその人が持って生まれたもの、ボクサーにもあるのでしょうが、もっと見えない部分でたくさんあります。
それからもうひとつは、その時代によってルールからリングから、全部変わっていってしまう。ボクシングの場合はある程度、定められた中での勝負、まさに相対的な部分です。どういう条件が必要かというのは、スポーツはけっこう単純、といっては申し訳ありませんが、一流の分野においてのプレイは別としたら、基本の部分のあるところまでは、単純に早くとか高くとか遠くという力です。それに対して筋肉が、どれだけの強さを持てばいいかというのがわかるのですが、歌の場合は、その辺がわかりにくいというのがあります。だから、その人の延長上に目標が持てるというのは、私が見ているかぎり、ここでも4、5年いて、そのなかでも1、2割かなという感じです。ただ選ぶのは本人なのです。
要は私たちは、材料として示すことはできても、最終的にその人がどう歌いたくて、どういうステージをやりたいかは、こちらは何もいえません。
ただそのことがあまり有利ではない、できたらこういうほうが、あなたの本当のオリジナリティではないかというようなことを指摘はできます。3、4年付き合って、ようやく本音でいえるようになっていく、ここは早くやめる人はあまりいないので、その方もそのくらいになってきているのではないかと思うのです。そうなって初めて本当の面白さ、可能性が出てくる。
当然、芸能界にデビューする分野と違うようなルートがないわけではありません。研究所で勉強してやっていこうという場合には、あまりそういうところは頼れない。抜群にルックスがいいとかオーディションに全部通ってしまうという人ばかりでない。そういう人がくるようになれば、日本のレベルも上がってくると思うのですが。
皆、出てライブをやりますが、なかなか続けてやっていけない。それはあたりまえのこと、実力の通りなのです。
いわゆるアマチュアかプロかいう分け方は、私の意識のなかにもないのです。プロの意識でアマチュアをやっていく。お客さんにお金を出してもらうのですから。皆、お金と捉えますが、プロだって儲かっていないのです。ライブをやったくらいでは、皆、赤字です。CDが売れるから何とかやっていけるだけで、ライブだけで、お金がざくざく入るということはない。日本の場合、規模が大きいほど、費用が莫大にかかります。
向こうの連中のようにギター一本でアコースティックでやっていたら、何百人か集めてというようなかたちで、やれる人もいなくはない。タレントで、昔やっていたような人では、一部いなくはないですけれど、知名度がいります。
時間の問題が大きいですね。今のお客さんが時間を割くということに対して積極的になれるものということになると、何をもってステージかというのが、難しくなってきますした。結局、昔は私は3倍くらいといっていたのです。たとえば5千円の値段としたら、1万5千円の価値を出せばいい。今どき3倍くらいではだめですね。人が紹介してくれない。10倍以上の価値を出さないと、人は動いてくれない。
東京は、いろいろなイベントや楽しいことがたくさんあります。そういう意味でいうと表現に価値のあるものは、はっきりしてくるような気がします。全身で歌うということは、教わっても身につけるのはむずかしい、というより、必要性ですね。その必要性が叩き込まれていないかぎり、体は動きません。
○上達をめざしてよいのか
歌というのは逆になりやすいのです。要は上達したいとかうまく歌いたいということは、下手に思われたくないわけです。ミスを指摘されたくない。するとその考え方自体がもう守りなのですから、全身を使えない。
全身を使うというのは、それだけリスクが生じます。それを分けなければいけない。
そもそもトレーナーの立場からいうと、トレーナーがいるということと教わるということ、学校で歌をやること自体が、上達をめざすことにならざるをえない。そこの見返り、お金を払った見返り、通っている見返りは何なんだ、それは上達することだということになる。本当は違うのですね。
あるいは自分で練習してもそうですね。上達というのは何によって証明されるかというと、まわりの人がうまいねといってくれたり、うまくなったねといってくれたり、それは誰かのようになっていったね、プロが歌っているようなものに君は似てきたよということなのです。元々そこが間違いなのです。
間違い正しいという言い方もおかしいでしょうが、それは下手に思われないようにやっていくだけのことで、間違いなく正しく歌をこなしたら、客が感動するかということでしょう。商品ではないレベル、芸術品である以上、そんな程度のもので人は感動もしなければ、感動しないということは、人が人を呼んでくるということもない。
その辺が、私はトレーナーの指導で気づいたことです。
トレーナー自身がいろいろな意味で迷ってくる。私はその答えを持っているわけではないのですが、ここの場合は、すぐれたトレーナーと連携してやっている。
他のトレーナーはだいたいひとりでやっているので、他の人のことがわからないのです。ここにいるスタッフやトレーナーは、私なんかよりもずっと歌も声もいい人です。そのなかでずっとやってきているので、そうするといろんなトレーナーに対しても、どう判断すればいいのかということくらいはわかる。だから、その辺からは難しいですね。ただ本当の意味の必要性がないから、身につかないことでは、目的を明確にしていかなければいけないと思います。
歌ったものを録音して、それを後で聞いてイメージを違うことというのが多いです。音程やリズムは音楽で入れていくしかないのです。本当の意味では解決できない問題です。歌ったものの録音とそのイメージというのは、これも判断は、難しいのですが、録音というのは録音であって、参考にはなるのですが、作品の、本当の意味での判断ベースにはならない。
練習の場合は、自分がやっている感覚だけで歌がなおるかというと、それよりだったら、しゃべった声と同じです。録音したものを聞き返したほうが、客観性があるということです。結局は感覚だけで本当はやっていかなければいけない分野ですね。ただ録音も使いようによっては効果的だと思います。
世の中のいろいろなものがたくさん見ることができることがなったということは、感覚や判断力を勉強するには、使い方によっては有効なことですね。
だから、あまりいろいろなメソッドで、振り回されないことです。
○正しいということについて
正しい発声というと、私は一回、音楽の分野を書くのをやめてしまったのですが、書きつくして、もう伝わらない、むしろ誤解のほうが大きくなってしまうのです。本で勉強したといってここに来られてしまうと、はぁー本なんて出すんじゃなかったと思うこともあるのです。
正しい発声を考えることはいいのですが、正しいこと自体を定義していかないとなりません。私は以前から声楽家と組みはじめて、もともと15年くらい前には日本の声楽と違う立場て書いていたのですが、それは私が経験したなかでの自分の体に対してのことであって、世の中ではそうでない目標をもったり、そうではない歌い方をめざす人がずいぶんといます。
今回の本にもはっきりと書きましたが、ほとんどの人が、自分の作品や製作することやアーティックなことを考えているのではなくて、誰かのように声を出したかったり、どこかで求められることに対応したいと思っています。
そうなると声楽の方がいいのです。これは全世界で、アジアに対しても成果を上げてきた方法で、歴史も実績もあります。ただ声楽というのもピンからキリまであり、指導者によってもやり方も判断も違う。偉い先生だからといって、すべての人を偉くなるように育てたのかというと、そうはなっていない。相性みたいなものもあると思うのです。
正しい正しくないというのは、案外と相性のようなところで判断されているような気がします。その方は、そこにいるのだから相性が合っていると思えばいい。そこがいいからそこにいるのではないと私は思っています。他にもいいところがあるのかもしれない。
ただ、要はそういう考え方をなくしていくことですね。トレーナーのなかでいわれていることは、皆、自分のところだけは正しいということ、私なんかは自分のところが絶対的でないのをよく知っていますから、こんなことをいうと申し訳ないかもしれませんが、ここから未だにグラミー賞にもノミネートされていない。
でもやればやるほどわからなくなってくるのです。自分にとっては正しかったことも、それが人に対して正しいっていえることはないのです。私は正直にそういっています。
どこかに行って、伸びたからといっても、もしかして他のところに行けば、その3倍伸びていたかもしれないでしょう。ここでだめだからといっても、他のところにいっても、、もっとだめだったかもしれない。比べようがないのです。
冗談ではないけれど、六つ子でも預からせてもらって、その6人に違う条件を与えて、それで育ててみたら、少しはわかるかもしれません。でもその六つ子にとって相性がよかっただけかもしれない。
そういうふうに突き詰めていくと、科学的なことや医学的なことも勉強せざるをえなくなる。追い込まれて、いろいろやっています。だからといって、それを元に何らひとつ言い切れないですね。
原点に戻ればいいのです。人様に対して価値を出しているというところでやれている人、声を使ってやっている人が、どういうステージをやっているか。
○実績ということ
私は教えない、歌は教えることができないと、平気でいってきたのは、すべて個人がつくり上げるものだからです。よくプロって何ですか、ここに入ったらプロになれますか、いろいろなものをこなしていけばプロになれますか、と聞かれました。なれないです。プロというのは製作する人です。その製作したものが人々に対して価値を認められる、この2つの部分があって成り立ちます。
声は、私は昔は、自信をもってメソッドを書いていました。自信を持って自分の声も他人の声もつくってきました。役者みたいにトレーニングしたら、声楽5、6年やるより、ここで2、3年やるほうが声が伸びる。その実績をここほど残しているところは、他にないのは確かでしょう。
すでに、こんな話を聞いて、敷居の高いところに来るんだから、いい面でも悪い面でもふつうの人ではないというのはあるのです。すぐれた人ばかりがきているというふうには思いませんが、それだけのものをかけてやってきたから、それだけのものはとれると。
ただ声が手に入って、歌がうまくなったからといって、そんな人は全国にいくらでもいる。そういう人たちがやれるということと全然違うわけです。
やれる人はやれるやり方をとっているというので、私の興味外です。今の受講生には、そんな話も、要は商品や作品というかたちにすべきときに、やることは2つなのです。
ひとつは、どの時代のヴォーカリストもヴォイストレーニングはやっていない。何をやってきたかというと、一世代前のアーティストのすぐれた作品からすぐれてとったということです。すぐれた作品は誰もが聞いています。音楽関係者は。
そこで普通の人が、1本くらいのアンテナでとっていることを100本くらいのアンテナでとる人がいるのです。そういう存在を知ったときに、こういうところでできることというのは、残りの99本を努力によって何とか立ててみる。ひとつしか聞けないものをどうやって100聞くことができるんだろうということを学ぶしかないのです。それが根本的な私のベースの考えです。
○歌で起こる間違い
歌というのは自分が気持ちがいいように、好きな曲を歌ってしまえば成り立つと思ってしまうのです。自分のなかでは成り立つ。それは客とはまったく違うことです。
本なんかですぐれているすぐれていないと、好き嫌いは分けなければいけない。むしろ嫌いな曲ですぐれている曲で勉強したほうが、わかりやすいのです。
好きな曲というのは感情移入してしまうのです。そのことでこの世界に入ってきたのですから、自分が間違わないことで気持ちよくなってしまうのです☆。
間違えないで歌えただけの曲に、どこに価値があるのでしょうかと。それは声楽でもやっている人なら、皆歌えてしまうのです。そういうところでもっていくのがひとつ。
もうひとつは、その時代にやれた人間を見ておくこと。それを徹底して研究しておくことです。その時代にやれた人間というのは、すでに研究するには遅いくらいなのですが、それでも自分がその後に出ていこうとするのなら、先輩になりますからね。
その時代の接点がつかない人というのは、やれていないのですね。J-POPをしゃべるより、お笑いの子の話ばかりしています。そういうところで、声ってどう使われているかということをみていったほうがよいでしょう。
今のヴォーカリストの声に対する鈍感さから見たら、よほど彼らのほうが鋭いし、声に対しても訓練、鍛錬をしています。それにお客さんが判断をします。今のヴォーカルがかわいそうなのは、よくても悪くても同じような反応しかしてくれないということです。客自体が、本来成り立っていないのですが、音楽がついてしまうと成り立ってしまうのです。それでお金が入ってきたり、与えられたりするから。
あれがお笑いだったら、はっきりいうと成り立たないです。もう二度と聞きたくないといわれて終わりです。退屈してしまうだけで、閉じ込められたところから出れないわけですから。ところが音楽は摩訶不思議なもので、特に日本の場合はそういうふうに使われてきました。それも突き放して、本当に意味では見ていかなければいけない。
ところが音楽を教えている人ややっている人は、音楽を愛していますから、そういう考え方を嫌うのです。皆で楽しくやっていればいい、楽しくやっていれば伝わるからと、私からいわせると、本人たちが楽しんでいるものを何で客が楽しめるんだという、あたりまえの話なのですが、求めるレベルでいうのであれば、違うのです。
お客さんは金を払って、時間を費やして、何をしにくるかというと、やっぱりすっきりしたくてくるのです。うっぷんを晴らしたいとか。いろいろな思いがある。それに答えるステージをしなければいけない。延々といい声を聞かされたり、得意げに歌声を披露されても、そんなものはつまらない。
声楽でも歌唱にすぐれた人が、ステージを全然できないというのは、そういう部分があります。それから時代というのもあります。
何か音楽をいうのは、皆のプライドをすごく上げてしまうようです。私は役者やお笑いの奴らと接していますから、底辺で本当に虐げられる、灰皿をぶつけられながら生きている連中を見ると、これは5年10年経って、力が逆転するのはあたりまえだなと思います。
というのは、日本のミュージシャンや歌い手というのは、自分を変えないことが正しいと思っているのです。今の若い人の多くがそうなのです。そんなもので自分が通用する面白い場があって、その面白いことを見せれると。
私からいわれると芸事というのは、それで通用できるのならもうしているというのが現実です。17や18で、それで通用している人がいるのだから、その年齢をすぎてしまったら、変わる以外にないはずなのです。だから、そうすると変えたくないというのですが、役者でもお笑いでも、あれは地ではないです、芸ですから。歌でもそうです。
日本の場合は、そういう地が出ている歌をサポートする人がいるわけで、複雑な問題がいろいろありますね。そこを見てしまうとわからなくなってしまう。それでやっていけるのだったら、やっぱり在日韓国人の方がよかった、目の見えない人の方がやれたのではないかとか、芸術的なことと関係ないところで行き来する。
そういうものを背負って、芸術的なところでやれている人はいいのですが、少ない。そうでないところでやれていくというのは、本来おかしな話なのですが、日本の場合は、ストーリーで動いてしまっている。だからそういうストーリーづくりからプロデューサーも入っていける。
そうやってしまうから余計に本人に訳がわからなくなってしまうというような気がします。
○はまり込まないために
歌いたい曲や満足がいく曲に追求していくことが本質ですね。ところがトレーニングをしていくと、声にマニアックになって、そこからそれていく人が多いのです。レクチャーのレベルで判断していることのほうが案外と正しい。距離を開けて、その世界に入っていないと、案外見えるのです。歌って今の日本の歌は下手だと、正直に入ってきます。
ところがトレーニングをやりはじめてしまうと、なまじ自分の声のことに全て関心がいってしまい、今度はそれが見えなくなってしまうのです。
そういう人たちは決まってまわりを否定しはじめます。だからけっこう大変です。いろいろなところで習っている人たちがくると、机上の会議となる。
私もよく本の感想で、「先生のおっしゃるとおりのことを私は考えていました」というようなことをいわれますが、そういう人もいるだろうなとは思いますが、だから何なのということです。そうでなくて私の作品はこれと送ってもらうなら、いいのですが、思想や論文でやりとりするわけではない。
ただ同じことを何度もしゃべらなければいけないから、本にしておけば同じようなことをいわなくてすむという程度のことです。
リズム感がいい悪いとか、音感がいい悪いとか、考えないほうがいいです。曲を聞いて、いいと思ったら、そういうことができている。悪いと思ったら分析して、あまり音やリズムがどうこうといっているより、やるだけです。
声楽のところにも、組まれていくことがある。ポップス的な感覚が知りたいという、今の時代の歌も知りたいということです。別の時代で違うものではない。
そういうところで出てくるのは、「サの発音がうまくいかない」、「それでお客さんが感動しない」とか、そんなわけない。そんなことで歌が成り立たないという話ではないのです。表現がないから、そこに逃げているだけなのです。
クラシックなら当然、歯並びが悪い、歯が一本欠けているために、共鳴のレベルが落ちるということがあります。私からいわせるとクラシックもポップスも、ステージができていないということは、そんなことをお客さんは期待しているのではない。それをどう直すのかというようなことは、歯医者さんと相談すべきことの問題です。しかし、案外そういうふうになってしまう人が多いのです。
音程が悪いとかリズムが悪いとか、それさえよくなれば、歌がうまくなると思っているというのは、カラオケのレベルの話で、それを直しても、すごい下手だ、音程が外れている、リズムを悪いとかいわれなくなるだけです。価値が出ることとは全然違う。
学校の場合は、そういうことを第一段階におくのです。そこから入ったほうがわかりやすいということで、そういうレッスンをするのはよい。作品からいうと全然関係ない。作品をつくるときに、誰が音程やリズムを考えてやるかということです。
伝えるということを考えたときに、きちんと効果を踏まえて、それをより人に残そうと思ったときに、その辺が整理されてくるものです。最終的にリズムも合わないはずがない。
合っているというのは正しいことに対して合っているということだから、そういうものを無意識にふまえた上で表現をつくることによって、ようやく人に効果を与えてくるということになってきますね。
もっとシンプルなものにしていかなければいけないのです。歌や音楽になると、いろいろなものを習って、それの総合力でやろうという考え自体がおかしいことです。裸で人の前に立って、何かを伝えたいということをやっていたら、音楽が生まれた、そのままで歌とかいう部分をもっていなければなりません。学校で周辺のことをやるほど、複雑になってわからなくなってしまうのです。
○補うという考え方
戻ればいいのです。アーティストってそんなことをやったのだろうかなと。ほとんどの人はやっていない。でもそういう人は、とても鋭い勘があった、素質があった。といわれてしまうのだから、その部分が自分に欠けている。それをトレーニングで補うために音感やリズムのトレーニングをやるというのがいいことだと思うのです。
それは補うことであって、それをやったから歌がうまく聞こえたりよくなることではない。もともと音感やリズム感って何なのかというと、人が聞いていたときにすごく心地がいいと思ったりノリがいいと思ったりする感覚でしょう。その感覚自体が自分のなかに入って、それによって正されていないことのほうが問題なのです☆。
それは入れていくしかない、ある程度入れていけるものだと思います。音楽は再現芸術です。
たまたま17、8歳で器用で、そういうことができているなという人は、音楽を聞く回数は少なかったかもしれないが、そのなかで、そういうものがうまく入れられた人です。いわゆる筋がいい人たちです。
こういうところで勉強する人は、16や17歳ですごいことができない人を筋が悪いというと、筋が悪い人です。それをひとつの音で正していてというやり方だけではなく、もっと音楽のベースというところで、音符で書かれていないことやリズムで動いているところを知ることです。そこに、人の心を捉えるものという動きがあって、そこをきちんと捉えていかないかぎり、あまり意味がないのです。
そういうあたりまえのことがレッスンやトレーニングになったら、出てこない。それをトレーニングにしたりメニューやグループにしたりすると、大切なことが欠けてしまうことが多いので、個人レッスンに切り替えていきます。
どうメニューに落とすのかというのは、けっこう難しいことです。最終的にいうと聞くしかない。
行き詰ったら、もっとたくさんの曲をよく聞きましょう。リズムのいいものを聞いたほうがいいのではというしかなくなってしまうのですね。そんなものを聞いてみたもので、そんなもので直っているのであったら、直っている。だから聞き方を学ぶ。
○記憶をつくる
私がここでよく使うのは、徹底した比較です。ひとつの歌を何人も歌っているもののなかできちんと見ていく。とても細かく見ていく。
耳をつくるのと同時に記憶をつくるということです☆。トレーナーの力というのは、声の力とは、私は今は思っていなくて、昔は、トレーナーが優秀かどうかは声を聞けばわかるといっていましたが、今はどうでもいいと思っている。耳です。
どこまで、音楽が見えるか、細かいところで比較できるか、その人の何を認め伸ばすかというところがあります。
私が最初にやりだしたときは、皆、私よりレベルが高かった。最初、引き受けたのは、皆プロでした。向こうは全部、歌える。何を頼られるかというと、それがどう歌になっているか、音楽になっているかというところなのです。
今でも30年くらいプロをやっている人、ここで1曲歌ってもらうと、まわりが見にくるくらいにうまいのですが、そんな人がここに何をしにくるのかというと、思い込みの排除です☆。
こう思ってそれだけで歌ってきたが、正しかったのか、ほかの可能性があったのか、そういうことを勉強したいということです。
歌い手は決めたとおりに歌ってきますから、器用でやれてしまった人ほど、そこを落としていることがあるのです。
自分では思い込んだままやっていったら、もしかするともっといけたのではないかとか、もっと世界的に通用するような歌にやりようによってはなっていたのではないかという、目標からのフィードバックもあるのです。
そうなったときに自分だけでは客観視は当然できないわけですから、どうやっても自分のやり方は持っている。それを崩しにくるのがここです☆。
プロでもレベルがそんなに高くなく、10年くらいやっているとして、そのなかでは優秀、日本のなかでも優秀でも、私はひとつのシミュレーションのなかだけで通用するものだと思っています。ソロで通用するというのも、シミュレーションのなかで通用すればいいわけです。ただ音や声の判断が必ずしも絶対的なものとして、あるわけではない。
○客観的基準のあり方
私はこういうことをできるのは、ここしかないだろうと思っていましたが、ミュージカル劇団でも、主役級のことをやっていると、ほぼ同レベルには身につくようです。
まずダブルキャストだから、比べられます。同じ演目をやっていくので、いろいろな人がその同じ役をやっていくのを見る。誰かがやったときによかった悪かったというのを、長期にわたって見ることができます。トレーナーとしての、すぐれた判断力がついていきます。
10年くらいやっていてもソロではわからない人もいるのですが、そのレベルまで集団でやったらけっこうわかる。
音大の声楽科ということでは、いろいろな先生について、ある程度、客観性が持てるということです。
一番、とれないのはポップスの歌い手ですね。自分でしかやっていないから、自分に通用することが人に通用すると思っている。低いレベルではそうです。
たとえば30年やっている人が20歳くらいの人に教える場合はいいのです。しかしプロに教えられるかといったら、合わないと思うのです。
それは、共通の部分の根本の基本に戻っていないからです。しかたないと思うのです。
現役活動をやっていると、どんなことをいっても自分の好きな歌が気持ちいいのです。それに対して基準が設けられる。それは発声の基準とは違うし、その人のオリジナルを生かす基準でもないのです。そういう意味がいうと、難しい。
昔みたいに歌い手もアカペラみたいにマイクがあまりよくなくて、声量でがんばらなければいけないときは、ひとつの基準として発声が確固としてあったのです。
まず声が大きくて響いてなければいけないというのがありました。そうするとそれが第一だから、基準が統一してとれたのですが、今のようにしゃべる声より小さく歌ってもよいというふうになったときに、何をもってプロの歌というかというのは難しくなっています。
逆にいうと、全身で歌うとか声を細かく調整しなければいけないところまでの高い基準を求めないと、わからないということになるはずなのです。
○大きなギャップをつくる
その人がどこまでいくのかはその人の人生で、プロであろうがアマチュアであろうが、プロがアマチュアの上であるとは私も思っていません、ただ、目標として、最高のものに設定しないとトレーニングが成り立たない。
もっとはっきりいうと、ちょっとうまくなるのでいいというのなら、自分でやりなという。体や感覚を変える必要性がないのだから、マイクのエコーを調節したほうが、うまく聞こえるようになるわけです。
そういうところになるとトレーニングは成り立たなくなるのです。それから選曲もそうです。たとえばここのクラスの10人くらいのほうがうまく歌えるような歌手の歌い方を、プロとして定義してしまったら、あのくらいには歌えてしまうのに、私には仕事がこない、となる。プロになりたいのに、目標にできないのです。
すごいヴォーカリスト、すごい歌があって、それに自分は1秒も同じことができないということだから、ステップアップできるのです。ギャップがあるから伸びるのです。
トレーニングは逆です。皆ギャップを埋めたいと思ってくるのですが、ギャップをつくることがレッスンです☆。
プロの人は歌えていて、お客さんもいるしコンサートもできる。そういう人は、そこでのさらに大きな、細かいギャップを見たいから来るのです。
この歌で通用しているつもりでも、本当に歌っているということとどう違うのということで来るのです。
本当に歌うというのは大変です。1分のなかで奇跡のようなことが起きないと、本当の状態で歌えるとはいえない。初めて目標を設定してやったときには1秒も2秒ももっていないわけです。そのことをプロにわからせるのは、なまじやってきているだけに、難しい。
いろいろなこなし方を知っているからです。こちらが破綻させるようなことをさせる。声を上げてください、3倍くらいに伸ばしてくださいとかいっても、それなりにこなしてしまう。今までの経験上うすめて、こなす。
それがプロの強いところです。ステージに出てしまったら、お客さんに対して失敗は許されないところで感覚が研ぎ澄まされています。
だからそこの矛盾を突いていけるのです。要は1分の曲を1オクターブ以上にわたって展開するというのは、そんなに簡単なことではないのです。
日本人で本当にやれている人はいるのかほとんどいないくらいに大変なことなのです。
ということは、プロもそれをきちんとやっていない。1ヶ所だけの1秒で、半オクターブやったらそれの10倍くらいの表現ができるということを、仮に1分のなかでやっていないとしたら、それはごまかしだけ。プロというステージでいうことであれば、それはバランスをとったということになるのです。
○ギャップをつめない
たとえば体の流れから見てみたら、そこでは2秒空けないと、どうしてもその人が入れないという場合には、ここのトレーニングでは、そこで2秒空けさせます。抽象的な言い方でわかりにくいかもしれませんが。楽譜上、曲のテンポでは0.5秒しか空いていない。もちろん、プロはそこを0.5秒でさっとやるやり方を知っているのです。体を使わず、マイクや口先を使ってやる。ステージにいたら当然そのやり方をやるのですが、私のレッスンのなかではそれは許さない。それを許してしまったら、ここに来る必要がないのです。
あなたの今の感覚では2秒が限度だ、きちんと歌をつなげるためには2秒空けなさい。半年たったら、もしかすると0.2秒縮まって1.8秒になるかもしれない。次に1.5秒になるかもしれない、1秒になるかもしれない。それで0.3秒くらいのところまで、自分でつなぐ感覚のところまできれば、ようやく0.5秒の歌がこなせるようになる。
このように、あくまで体や感覚を中心に考えていく。歌はどこかから与えられたものですが、それにあわせてやること自体が大きな間違いですね。
でも上達したいということは逆でしょう。素人が0.5秒で入れない、といったら、先生が、これを丸覚えしてみてといって、パッと入れるようなことをやる。そんなことを覚えてしまったら、勘のいい人は0.5秒なんて簡単に入れてしまいます。高校生でもいくらでもいます。そうするとトレーニングやレッスンは成り立たない。
だから本当に難しい問題です。でも明確です。さっきの6人は皆さんはいろいろなことを書いていると思います。好き嫌いはあると思うのです。でもそれのどこかの一部分を切り取って、パッと聞いたら、これはアマチュアではないなというのはわかると思います。
その部分をつくることがトレーニングの目的だと思います。今の日本のヴォーカルのなかでは必要条件ではないと思うのです。そんなものなくてもプロになっている人はいるし、そうでない人のほうが多いです。だからまた現場と両方をやっている私としては、難しくなるのです。
○歌の判断
最終的には、ここに入ったあとも歌をどうつくるかは自分でやりなさいと。やったものに対してこんな可能性があるのではないかくらいはいえるけれども、こうやりなさいとかこうやったらこうなるというのは、あまりいえないということなのです。
けっこうメインのことをいいました。歌をどう判断するかというのは、そういうことです。自分の判断力をつけていくということで、それは自分の作品のイメージなんだから、そういうふうに生きて、その感性を磨いて、そのうえで正されるように正されていくしかないというのが、最終的なことです。
トレーナーはこの点、レベルがすごく低く、未経験の人が多い。プロデューサーや演出家のほうがずっといいです。同じように見てもらえばいい。
演出家というのは何をやっているかというと、台本を音声に置き換えている。その音声で置き換えて人を感動させることを、指示しているのです。
本来そのイメージなんだけれども、その人がそういう声のまわし方ができないから、そこにヴォイストレーナーというのが必要なわけです。
演出家は、声のこともけっこう知っています。舞台で学んでいるのです。自分なりの経験でも知っている。彼らの求める声と、私たちのやっている声も、また少しずれるのです。彼らの場合は、演劇上のなかで通用する声で、昔の役者だったら、クラシックでも演劇でもまず声量が必要だということで一緒だったのですが、今は声量がなくてもいい。どちらかというとJ-POPと一緒ですね。
この前、ミュージカルのオーディションをみました。もう生まれたて声がいいというレベル。それは私は認められないのです。説得力もない。でも演劇のなかで使えるのは、ミュージカルと同じで、役柄がある。きのこしかできないという子にも、可能性はある。 ところがソロのヴォーカルの世界は、オンリーワンといっても、それは、ベストワンなのです。
人を不快にさせたりびびらせたり嫌な思いにさせる声のトレーニング、そういう声を出すと喉がつぶれる、あたりまえなのです。相手が不快になるということは、相手が不快になるということを起こさなければいけないわけです。そんなのはノウハウにはないのです。声で、人を不快にさせるやり方というのは、アンチノウハウ。
特に声優や役者、特に悪役の吹き替えなんかは、すごみをきかせるとか、必要です。すごみがあったら歌でも通用するようなところがあります☆。
そんな使い方があっても、日本でそういうことがなぜできないかというと、もともとオペラの人は正しく勉強してきたから、喉が弱いのです。外国のオペラ歌手は、私はたくさん知っていますが、しゃべり声がいいですね。
日本のテノールなんかになってしまうと、普通の人より声が悪くなってしまいます。そこでロックをやらせてみたり芝居をやらせてみたりしたら、喉をすぐに壊してしまうからです。ミュージカルでは劇団によりますが、半分以上が声楽出身者、あとの半分は役者出身者、くっきり分かれています。
役者のほうは感情移入ができて感情を伝えられるのですが、高い音が出ない。原調でやるミュージカルでは難しい問題が出てきます。どうしても声楽家を使わざるをえない。
ところが声楽家の声はきれいなのですが、インパクトや説得力、個性があまり出てこない。本来はそんなに分けられるものではなく、両方があって歌手であるべきなのです。その辺は、課題です。
最近はお笑いの人から学ぶことのほうが大きいです。彼らが4分45秒の作品をどうつくっているのかを、声だけで聞いて、彼らの振付やアクション、ギャグはともかく、声だけでつくられた間のとり方、つっこみ方、声の動かし方、そのなかのメリハリのつけ方、ドライブ感のつけ方、呼吸の間合いをみています。ひとつ外したら笑えなくなります。
そういう漫才やコントを見て、それを他のプロの組がやってみたら通用しない。今のレベルの高さのなかでは、あのキャラクターがあって、あの声があって、ネタがきちんと生きる、それこそ、私が本来歌の世界やヴォーカルの世界でやりたかったことです☆。
ギターやドラムがついていれば、そこで何を歌っていても通用するみたいな基準のない世界ではない。ただ音楽は音楽ですからという部分もあって、考えなければいけないことが多い。
○海外のトレーナー
Q.ジャズであろうがポップスであろうが、すべて基本は同じだといわれたことが印象的でした。ですが、先生の本のなかに、日本人がヴォイストレーニングをするときに、日本人に合ったヴォイストレーニングをするべきだということが、ありました。ジャズピアニストについてヴォーカルをやっております。フィーリングや感覚のために、ヴォイストレーニングをしたらもっとよくなるはずだというふうにいわれました。私が考えているのは、本当の基礎の発声です。とにかく自分の課題としては、お客様が聞いたときに、耳に心地いい音で残る声、それとロングトーン、それが課題だと思ってやってきました。
ここを出て、15人くらい留学しています。アメリカだけではありませんが、L.A.はずいぶんと行っています。うちのトレーナーも今住んでいて今度、来ます。私もいくつかの学校も昔は関わりがありましたが、外国人のヴォイストレーナーで、アメリカはピンキリですが、それこそ日本にもきていますから、私がわかったことは、日本人に対してはとてもビジネスライクにサービス精神旺盛といったら変ですが、むしろコミュニケーションにおいて、音楽を楽しむことを主にしている。それはよいのですが、同じ土俵ではあまり相手にしていないということが多いですね。
というのは、現地のヴォーカリストに対して、厳しくやるトレーナーが、日本人に対してはやさしく教えています。それだけ実力の差があるから、彼らが本当の意味の才能を発揮できない部分もあるし、ある意味では手を抜いている部分もあるのです。それは実力社会であるかぎりしかたないと思います。
ヨーロッパあたりだといろいろな個性があって、むしろ教育的な考え方をとっている人が多い。トレーナーや国がどうこうというよりも、個人で全然違う。でも、レッスン生が、伸びるとかいうことではなく、本当はたいして伸びていないのに、そうみえるようにする。つまり、基本のなさを応用力でカバーする分にはプロフェッショナルですね。感心させられます。
日本人に対しては、音楽を本当に楽しめていないのだから、ステージパフォーマンスからやるべき、最終的にヴォイストレーニングはステージパフォーマンスであるということ、それは私も似たような考えです。
ステージで通用しなければ、意味がない。やっている間に、生徒が自分でやれたと思う。まるで今どきのサラリーマンの上司。その9割は私から見たら、彼らの才能の演出です。組み合わせによるものです。彼が抜けてしまったら、かたちだけは残るけれど、残らない。そういうことでワークショップなのです。
個人レッスンでいうと、ほめて伸ばすという方針は、私は見習わなければいけないのですね。たしかにその上でデビューできるかは当人の問題です。
根本的な問題のところには踏み入っていないというのは、もう10代でまわりから所望されている人、天才ですごいという人でないと、向こうはまずヴォーカルというのを選ばないのです。
30歳になってからやりましょうということで入れる世界でもない。そういう人が10才までに育った環境というのは、意識下にない。彼ら自身はトレーニングをしては取り込めないのです。すでにそのレベルの高さからいって、大学で勉強して、ロックをやってオペラを勉強している。
音楽的にすぐれた人に期待してつけたこともあるのです。喉を壊してしまったり、自己満足のなかで終わっていることが多い。言語の違いというのが、一番大きい。
外国人に英語を勉強するというのもいいのですが、ネイティブにはなれない。だからといって、日本人が勉強しても無理。しかし、音楽は総合的なものですから、そこの部分がなくても、臨界期の壁まで戻して音を捉えるということは、できなくはない。それに近いことをやってきたつもりです。
私も向こうの耳で聞いて、日本のものを受け入れられなかったのだと思います。日本で生まれて生きて、日本語を聞いて発してきた以上のことを、外国語でやれば、それに近い感覚になるというのはある。音楽に対してはたぶんそうです。その感覚の切り替えがないと、できない。日本人の考え方で伸ばしていくと、クラシックと同じになってしまうのです。テノールやソプラノと同じ発声で、歌っている人がいないわけではない。
向こうの人の発声は、日本のなかでは日本人は少ないです。
感覚では綾戸さんなんかは、日本の声でハンディキャップがあるなかで、音楽の動かし方を知っていてやっている部分はあります。日本の歌を歌ったら、向こうのヴォーカルより高いレベルの作品をつくっていける部分もある。そもそも比べると、違いがわかるので、イメージの設定になると思うのです。
日本のジャズは、日本人の客が多い。外国人も聞くし、英語でやられている。そこでの感覚の切り替えができない。聞いてみるとわかると思います。
ロングトーンの問題は、息の効率の問題にもなると思います。ヴォイストレーニングで、たったひとつの声を3秒キープするということからはじまる。レベルが高いか低いかわかりませんが、そのなかで多くの問題がありますから、それだけを徹底してやるひとつの方法だと思います。
○声優のトレーニング
声優は、ここでも、けっこう引き受けるようになって、声優ブームのときに、近くに声優やナレーションの学校があるせいか、よくいらっしゃった。学校は、現場のことしかやらないのです。マイクや用語知識のこと、掛け合いのようなことばかり、すると声がある人はいいのですが、ない人は、何年やっていても変わらない。小さいころから大きな声を使いまくってきた人がどうしても有利な部分があるのです。
ここの初期の目標というのは、役者が、3年や5年で声が変わって、そういう声になるなら、それを効率的にやれば、そのベースくらいのことが早くハイレベルにできるのではないか、そこから歌に入ろうというところです。
声優役者は、そこだけ使おうという考え方でいらっしゃる。グループでやっていたときには、ヴォイス科をヴォーカル科から分けた。ヴォイス科のことを2年やって歌をやりたい人はヴォーカル科、そこまで高音発声もロングトーンも、複雑なリズムもやらない。聞き込むだけ。
徹底して、体と声のことをやったら、2年でできるわけではないのですが、早い人はそういう感覚がつかめたり声が出るようになってくる。2年でできた人は、その前に8年以上ありました。本当の意味でいうと10年いるというのが、実感としてはあります。
声優さんでも、私は出口から考えます。仕事が来なければ続かないのです。
事務所に所属すること、もう一つ、そのなかで自分にくるキャラクターや絶対的な強みが必要です。ギャランティが安く、競争率が高い世界です。生計から考えたら何もできない。ヴォーカルも職業として成り立っているわけではないから、同じです。むしろ声を使う分野での仕事と考えたほうが、いい。
今後、声優としての仕事は、たくさん出てくると思うのです。デジタル放送や世界中の翻訳など、でも、お笑いやタレントさんのほうがずっと使いやすい。
レベルが違います。声優学校にいって、ちょこちょことやっているのと、人前での舞台を仕切ってきた人の使い方は、現場で磨かれ、実践的この上ない。今、どんどん変わってきています。この前吉本興業はアナウンス部をつくりました。アナウンサーも吉本出身でしめられかねない。要は放送局でルックスだけでとられた人は、アイドル的な要素、でもアイドルならもっとふさわしい人がいます。
声のレッスンということより、役者とトレーニングをやっていると、メニューの効果ではない。教えているから、声がよくなるのではなく、現場に出てその必要性から直っていくわけです。最初5分で10回くらいかんでいたのに、本番になったら1回もかまなくなってしまう。練習量が違う。50倍くらいやっている、24時間それに生きている。そのため、とことん貧乏。優先順位が違います。
携帯を持って、そこに5千円でも1万円かけるのであれば、自分の勉強にかけること、そういうことがまわっているのは、日本のなかでもかぎられて、そういうところでは人は育っています。一部の落語家のところでも育っていますが、あとはだめです。
それは学ぶシステム、環境ができているところです。あなたが、目標を定めることです。声優の学校に行くのもいいと思います。
誰でも入れるところに入ったことでは、何の価値もつきません。誰もが入れないところに入ったとしたら、少しは価値がある。
声優であこがれている人も、何かから入ってきていると思うのですが、その人に直接つくのがいい。その人は弟子をとりませんという。でも、昔は弟子とらないという先生に、10回でも100回でも行って、それで弟子になったものです。
「ミリオンダラー・ベイビー」ではないですけれど、人と何かしら違ったところで選択していかないかぎり、道は開けてこない。そういうことからだと思います。
声優という職で考えるよりは、ヴォイスアクターという分野で、声を使って何かをやっていく。生活がしたいのなら、声優という肩書きだけではけっこう難しいです。ひとりで5役くらいのことをやれること。
要は5役やって、2役分くらいのギャラをもらう。そうすることで何とかやっていく。
そういうこと徹底してやっていくのであったら、やりようがあります。学校へ行って、それで卒業できるレベルでは通じない。そういうことに皆が関心を持つのはいいのですが、アニメの声のまねから始めないほうがいいです。自分に合っている声ではないから、けっこうつぶす可能性が多い。
そういう人をも引き受けています。潰してしまった子やうまく声が出なくなった子は、同じことが再発するのです。そういうものをまねてトレーニングをすると、喉はつぶれてしまいます。本当の自分の声でないといけません。だから急がないことです。
昔の声優さんのように、役者から入るほうがいいと思います。役者の養成所に行って、体から徹底的に演技をすることを勉強した上で、それを声優の分野に生かす。そうでなければ一人舞台や漫才、そういう分野から入るのもひとつの勉強だと思います。
下手にヴォイストレーニングをやるくらいなら、そういう舞台をやってみたところから声の力がないと感じたほうが、早くよく身につくと思います。
そのレベルの上で来ると、もう少し高いレベルに見合うことを与えられます。どこかに行けば身につくと思うと、依存症になってしまいます。私は音楽スクールに行っていて、アドバイスしています。「スクールに入れて依存症にしてはだめだ、ただでさえスクールにくるというのは依存症なのだから、ロックやるといってスクールに来るのはおかしい。」ロックやる資格がないわけです。
でも、それでも行くというのは間違いではないと思う。すごく向上心があったらそうする。なのに、それで通うことで満足してしまうから、何も生まれてこない。そういう意味ではいろいろな経験をしていくのはよいと思います。
○研究所の利用法
Q.音楽をやったことをなく、本を読むのですが、どれをやったらいいのかがわからない。やっても自分のやっている練習が合っているのか判断がつかない。だからずっとやっていてもこれで合っているのかというの疑問が生まれてくる。しっかりと自分のやっていることが合っているか間違っているかを教えてくれる先生がいればいいと思います。
昔、別のスクールに行ったのですが、いつも違う先生にやってもらうことになって、しっかりとひとりの先生に見てもらわないとわからないと思ってやめてしまいました。
歌うために理想的な姿勢、深い息、体から声を響かせて出す、音域を広げるレッスン、迫力の声を出す、リズム感を養うなどは、練習方法のことですね。耳で聞いて、その音を正しい音におく方法、日常の練習、マンションでできる練習などもですね。
ここは年代も、いろんな方がきている。職業欄のデータもありますが、私はあまり知らないです。昔から、ここにはどういう人たちがいて、その人たちから刺激を受けられるのかという質問、そういう人は入ってきてほしくないと私は思いますので、正直にそういうことをいって、遠ざけています。
だいたいどこでも同じで、ステージだから自分は力を出せて、練習場所だったら、出せないというのは、おかしい。本当にやれる人は練習場所で目立ってきます。まわりがこいつやれなければおかしいのではないか、と思うようなことをぶつけてきます。
そうでないタイプというのは、どこかで大化けするのをこちらが期待して待つしかないですね。とてもシャイな人も、ステージはすごく派手にやっているのに、こういうところに来ると猫かぶったようになる人もいる。それはそれで長いなかでわかる。地道にコツコツ積み上げていく子、最初だけの勢いという人と、いろいろな人がいる。
私は、研究所のなかや外というふうに、分けて、考えていません。入ろうが入るまいが、いろいろな人から勉強しましょう。ただ、勉強する人とやっていく人はちがう。私もいろいろな人から勉強しました。いろいろなところに行ったり、いろいろなことをやったところで、足りないことがどんどん出てくる。
たとえば、こういう組織をもっていると、毎日のように次々と問題が上がってきます。それに答えるためには、相当いろいろなことを勉強せざるを得ない。
よくいろいろな話をすると、恵まれた人生を生きてきたんだなというようなふうに捉えられますが、そのときそのときは、とにかく前を見ている。やるしかないのです。その結果として、あとで人にしゃべるときには、研究所の方法の理屈や理論も、後からついてきたものです。
直感的にやっていく。やっていった結果、結果は跳ね返ってきますね。それをフィードバックしてみて、またやっていく。プロになりたいというと、オーディションで、プロダクションに拾われる。というふうに、考える。
そんなことは前の世代がやってきたことです。あなた方は若いのですから、何でも一からやればいいのです。今、何でもありますから。昔はCD1枚つくるのも本一冊出すのも大変だったのです。今は大学生でも高校生でもできる。全部のツールがあるでしょう。
それから、親を扶養したりとか、苦労している人はいますけれど、苦労しているから偉いとは思いません。誰でも事情がある。作品ができてから偉いと思います。一所懸命やることと結果が出ることは、同じではないのです。そういうふうに自分が今、何かをできる状況であるのなら、やればいいのです。やらなければ時間だけがすぎていく。歌を歌いたければ歌えばいいのです。
場所がない。どこでもいいのです。若いうちにやらないと、だんだんできなくなります。大変になってくるのです。
やるなら、どこかで飛び出さないといけない。どちらにしろ、人様に自分をさらす商売です。体面とか恥ずかしいとか、言い訳が出てくるようであれば、向いていないと思って、やめたらよい。どうしても本当にやりたくなるまで、何か違う仕事をやったり、まったく向いていない仕事をやってみればいいと思うのです。
そうしたら、本当にやりたくなるのかもしれない。やりたいではなくて、やるしかない。そのやることに対して、何かが足りなければその力をつけるしかない。迷っている時間は大切ですが、無駄です。本当にやりたければ人間というのはやっています。
あなたの歳でもやっている人はたくさんいる。やったからといって、そこで何かが出てくるわけではないから、そこからの勝負です。でもやらなければどうしようもない。そのために人に会いに行ったり、こういうところに来るのは、とてもよい経験、勉強になると思うのです。