一流になるための真のヴォイストレーニング(アーカイブ版)

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

  レッスン録1-2【4549】18,933字 1723

  レッスン録1-2【4549】1723

 

 

 

○イメージの課題

 

 常に課題は、イメージがどうであるかということとイメージに対して声がどこまで伴っているかというかということです。

 イメージにしたがって声が出たときに、それでいいのかどうかという判断からです。

 ふつうのトレーニングはイメージに対して声を伴わせる。たとえば高いイメージに対して声が高くとれないからギャップがあるとか、もっと大きく、柔軟に出す、というようなイメージを先に肯定して、そのイメージまで声が扱えればいいという考え方です。あるいはイメージがなくてとりあえず音域や声量があれば、イメージが描けるというかたちです。

 

 音響でこれだけ何でもできるようになってくると、人間が自分の身体でやれることよりも、音響がやれることのほうが大きい。そうすると上手下手でも声量のある人でもない人でも、差がつかなくなってくる。ただ、音域というのはピッチなので、唯一、高いところが出る出ないという人が分けられます。

 

 同じ歌を歌って同じキーを歌うのであれば、そこは勝負ができます。ポップスの場合は出ないなら下げればいい。そちらで違う歌い方ができると、聞いている人はどの音まで出しているというところでは聞かない。

 その人のめいっぱい高いところがどれだけこなされているかということです。

だから単に勝負ということを考えるよりも、高いところを余裕を持って出していたほうが、ギリギリ出している人よりはいいということになるのです。

 

 ただ、そういうことでさえエコーをかけると判断できなくなる。私たちは判断をしますが、普通のお客さんはそこまで判断をしない。ましてバンドの音がかぶさってきます。生の声で伝わっているわけではない。マイクや音響を通して伝わっていくときに、音響のほうで7~9割加工できるのであれば、生の声にフィードバックしてもしかたない。逆にここで、生の声でいいなと思ったものが、音響でそれほど伝わらないとしたら、逆のほうがいい。

 

 本当のことでいうと、イメージのほうをどう持つかというのを、再設定するということ。それに声が伴うし、もし伴わなければそれは使えない。いずれ伴ったときに出てくればいいんだなという考え方です。一番の問題として、イメージをいうのは、自分の声を聞いて違和感を持つ。何で持つんだろう。それは自分の声に何かしらの理想があるからです。

 その声は、テレビで聞いている声であったり憧れているヴォーカリストであったりするから、決して自分の理想にとってはいけない声なのです。

 そのイメージに対して、問題を設定していって声をつくっていっても物まねになっていくだけです。

本当は自分のなかの理想の声に対してイメージを設定しなければいけないのです☆。そんなものは出てみないとわからない。

 

 声も3年5年という目でみれば、ある程度の範囲はわかる。変わらない人もいるのです。これから歳をとらないとわからない。自分でも変わってきているけれど、他の人のなかでも変わってきている。すごく大きく変わる人と変わらない人がいる。

 変わらないのがだめなのかというと、声のよし悪しから、あまり判断ができないのです。むしろ声のなか味も問題です。

 

 

○声の理想

 

 たとえば、敬語というのは正しい間違ったというのはいえるのですが、声というのは個性だから、あなたの声の出し方はだめ、この人はいいといえない。

 まして、ことばや台詞として使われたとき、役者でも歌い手でもそうですが、ああいうふうにやらなければというのは、楽器が違うのですから、いえないわけです。

 一番勘違いしてはいけないことは、まったく違う人の影響下にあることでおきる。自分の理想の声を設定するのはよいのですが、それが自分の声を理想にした延長上の設定になっているのか、難しい。

 

 音響がこれ以上進歩するとどうなるかわからないのですが、生の声として魅力があるという人はいます。その表現、使い方、組み立て方というのもある。

そのイメージを細かくわけないとだめです。たったひとつの声で見るところ、声の使われ方やフレーズに対してみるところ、それから声の組み立てに対して見るところ、歌い手には3つのバランスがそれぞれ違うかたちで入っています。

 

 そういったときに自分は声が完璧だから、聞き手も心地いいから、その9割に焦点を当てようとすると、響きや声そのもの、オペラ歌手のベースの部分となる。彼らの場合は発声技術に負っているけれど、ポップスは困ったことに、その2つのうえに個性や使い方がのっているのではなく、その使い方がおろそか。組み立てだけでやっている人もいます。その辺が今日の音色の課題みたいなものです。

 

 

○身体の声

 

 ここで使いたいのは、身体につけた深い声です。それをやわらかく開放して、微妙な響きを出して歌うのです。ベースとしての身体づくりをいっています。身体としての声がまずひとつ、そこで身体の深いところで練りこむから、フレーズが動かせる。

 そうやって自分でリズムのグループを刻んでいく。グルーブのところに対して、歌を乗せて歌っていく、これはセンスのいい歌い手に多いのですが、声自体は本当の意味では回っていない。でも音響効果を使えば、そういうふうな感じが出る。それでは身体づくりと音的にどうやって置いていくかということが反するわけです。

 

 身体を入れようとしたら、当然音がセンスよく回らなくなる。音やノリなどを重視したら、身体を使うことはできない。だからどこをとるかは、その人によります。

 最初の1フレーズに、2年かけようということです。役者には必要なところです。ことばが腹からいえて、音色がつけられて表現力が伴うということです。

 

 

○タイミングとバランス

 

 ところが歌い手の場合は、そういうところでない部分で7割方つくられるようになってきたので、あまりこだわらなくなりました。

そこにオリジナルの声をとること、自分のなかの楽器としての最高のものにのせたいというのは今でもあるのです。ある意味ではクラシックと共通する部分です。

 

 ここで学んでいる日本人の共通な部分は、けっこう、そこではないところに声を音色をつくっていますがそれを音楽的に消化することによって、音楽としても聞かせられるようにしています。

 どうしても3分もたせなければいけないし、声域も伸ばさなければいけないということもある。音程をあまり出さないで処理できなければいけない、ことばが伝わらなければいけない。

 

 音域を何よりもとらなければいけないということから、バランスから考えていくと声は浅くなってしまう。そこに関しては昔は基準を置いていた。そんなこといっても、すぐに1オクターブ、きちんと腹から声が出るわけではない。その必要があるかというときに、伝われば勝ちという部分があります。昔ほど腹から歌うことは、めざしてみるが、全員に求めなくなってきた。

 

 それよりもバランスが必要です。トレーニングというのは、猛烈にダッシュを20本やりましょうということです。しかし、たとえばサッカー選手が、それを試合中精一杯やっているわけではないでしょう。自分のところにきたときには集中して完全にキープするけれど、ボールが遠くに行ってしまったときに、その集中力とその動きはとらない。当然全体は見ているし、自分の身体だってリズムにのせている。遊んでいるわけではない。

 

 観客から見ていて「さぼっている」と見えてしまうのはだめなのです。その全体のなかのリズムで、タイミングとバランスがあります。すごく集中して、完璧に1センチもそれてはいけないという、パスやシュートをもらったときはそういうときだと思うのです。でもそれ以外のときは、その集中力は必要ない。というよりそれを全部持っていたら、つぶれてしまいますね。

 

 実際ポイントでとりに行こうというときは、全力ダッシュをしなければいけないしドリブルで抜かなければいけないというのがありますが、守備でボールがこなくて、向こうでがんばっているときは、別に休んでいるわけではないけれど同じことはやらないですよね。

 歌はひとりですが、歌のなかでそういう部分も出てくるということです。全部マックスに歌っていたら、ぎりぎりに詰まってしまって壊れてしまう。本人が伝えようとする気持ちだけで、実際に観客には伝わらなくなってくる。それはなんでもそうです。余白みたいなものが必要です。

 

 絵でも、全部ベタで塗ってしまったら何も伝わらなくなってしまう。よく大きな声を出すのではなく線で描いていきなさいといっています。

 聞く人のほうからすると、デッサンや変化が見えるとか、動きが見えるとかいうことでなければならない。そうでないところでどんなにがんばってみても、それは空回りです。それは自分の感覚のなかで決めていくしかない。だから、ここをがんばろうとかいうことは、歌のなかではそんなにない。歌うのはその歌によって動かされるようにおさめていかないとしかたがない☆。

 

 自分で見つけていくしかないというより自分がつくるのです。絵でも描いて、バランスが悪いと思ったら、バランスをよくしなければいけない。でもそのなかでも、背景をぼかしていいところときちんと描くところがある。でも人物の、人間の目を描くほどの集中力や注意深さというのは必要ないでしょう。それは決して捨てていいとかぼかしていいとかいうことではなく、そういう意味です。

 

 

○ピークにつなぐ

 

 最終的には何を問うかということです。全部は問えない。だからひとつ決めてひとつのテーマを伝えるということです。もうひとつ絵を入れたいのであれば、あの瞬間のあの音がテーマなんだよということで、そこでうねりだして、そこに違うテーマも入れたいのであれば、もう一枚描きなさいということなのです。一曲でひとつ伝えれば精一杯。

 

 つなぎを含めて曲というより、何もなくてやってみればいいのです。たとえばそのピークだけをやってみればよいと思うのです。ピークだけを人前で歌っても、客は納得しないでしょう。じゃあ何が必要かということです☆。

 歌い手だけではなくバンドなんかも入ってきます。ひとりで歌うのか、ピアノをつけて歌ったほうがいいのか、アカペラか、ギターをつけて歌ったほうがいいのか、それは、全体のバランスで計算です。どういう観客で何を問うために自分のスタンスとしては、どうしたらいいのかということです。

 

 1番まで歌ったほうがいいのか、3番まで歌ったほうがいいのか、これも歌だけではない要因で、いろいろと決まってきます。だからかたちから入ってしまうと訳がわからなくなってしまいます。なのに、皆、曲の形から入るからわからないのです。

 あの人の歌で、ああいう支持をされたから、そう歌っているとなれば、考えなくていいのですが、その結果その人のものではなくなってしまいます。

 

 余白なしの歌があってもいいし、いきなりサビでもいいし、それは自分がどうつくりたいかということ。人の歌を歌うときは違ってくることもあると思います。

 

 

○ブレス

 

Q.プロの歌を聞いていると、踏み込んで語尾を歌ったあと、ブレスを感じさせないで次にいっているようですが、実際はどうなのでしょう。

 

 ブレスしていないときもあるでしょう。ここは勉強のために、わざとブレスがもれて吹き込まれているものを使っています。ブレスを入れないような録音に後でしていけば、ブレスは見えないし、目立たないようになります。

 

 

Q.1フレーズは語尾でとめたら終わりなのか。

 

 フレーズ自体の定義は、さまざまです。小節、一呼吸、ひとつの流れ、などある。私もかなり適当に使っています。

 半オクターブで4フレーズといっている。「4フレーズはどこまでですか」といわれても、なんとなく4小節から8小節くらいかなという程度なもので、そこでブレスを2回したら、3フレーズではないですかといわれても、そういう考えもあるなということで、定義が決まっていない。

 ひとつの呼吸の流れとして、厳しくいったら歌のなかでは全部つながっている。1ブロックでもつながっている。AメロならAメロだけの流れもつながっている。それは、ことばをわけられたらよいのですが、あまりわけられないのです。

 

 

○日本のシャウト

 

 日本人のこの手のシャウト型という人は、10代後半から出てきて20歳前後くらいにデビューして、まだ身体や声ができていない。力でぶつけていて外れていきます。外れていくから、それは浮いてきてしまいます。喉がつまりかねないから、何かしらそこでやることによって、音楽として生かす。

 

 これも「た」で入れ替えています。それを音の流れの方に乗せることによって、イメージとしてつないでいく。だから声からみたらめちゃめちゃなことがおきているのですが、歌として聞いたらひとつの説得性を持ちます。

 逆にいうと発声なんかを勉強したら、こうはならない。だから、これがよい。

 そのまま深まっていくタイプはあまりいなくて、だんだん喉をやられて40歳くらいになると、声がなくなってしまうことが日本では多い。

 

 こういう「た」の切り出し方というのは、破綻させたものです。「た」があって「げ」のところで持ちこたえられなくなっているのですが、「げ」で動かそうとしているのが浮いてきているから、「た」でまったく違うところで切り込んでいる。感覚としてはロックのベースの感覚のほうに沿うようになっていますから、この人独自のオリジナルにはなっています。

 

 「あい」の方に集中して入れ直して、そこだけ瞬間的に入れるのだけど「ひび」のあたりは捨ててしまっている。ところが普通の人というのは「あい」のあたりにここまでテンションを持って来れなくて切り返すことができなくて、だらっと入ってしまって「ひびを」でがんばってしまったりする。そうすると全体の歌の流れが引き締まらなくなってしまいます。

 

 これも「せえ」から「と」のあたりで、もう少し粘れると、もう少し歌が大きくなるのですが、さっさと見切って先に進んでいく。それは頭で考えているのではなくて、ロックという感覚が入っていて、そのグルーブの動きにこういう人たちの声は伴っていくのです。

 

 だから声が厚くなったり薄くなったり、若さや技術の未熟さではありますが、それよりも強い音楽のグルーブ感が入っているから、案外と聞いている人には違和感はない。声の分析をして聞く人はいませんので、そういうところは見習っていいと思います。

 

 こういういうところも、少しバラードっぽく「い」のところですぐに行かないで、もうひとつねばっている。こういうのはプロのひとつのサービス精神というか、そういうつもりはないのでしょうが、ふつうならこういくのだけど、ためて、それから開放する。いわゆるメリハリになってくるわけです。だから結果的にはうまくいっているのです。だめな例として出しているわけではないのです。

 

 「よいどれ」

 後半の方はいえていないのですが、パッパッと言い換えてしまうことによって音楽は壊さない。

 

 ここもそうです。「しらけた」のところはよいのですが、その後になると浮いてしまっていて発音不明瞭で訳がわからないのです。持ってはいます。

 

 「厚化粧ひとつ」

 こういうのはフレージング、ひとつのオリジナルフレーズだったり動かし方です。他の人がこれをまねしても、この人のまねだといわれてしまう。だからといって、それっぽい癖がついているのかというと、こいつはこういう歌い方だとひとつの型です。この人の型が出てくるわけです。

 

 「あの歌を」

 こうやっていくと、自分のバンドですから、声などで切りにくいところをバンドで効果的に出していっていますね。だから、歌だけで勝負するわけではない。そういうことも考えていけばいいと思います。

 

 

○反発声論

 

 こういう発声というのは、胸を中心に頭声に持っていかない。合唱団や声楽、ヴォイストレーナーがやっているようなことに完全に反するかたちです。完全に開いてしまったかたちです。ただ、マイクがあるということは、自分の喉を痛めない人で、完全に同じことができればやりようはあるということです。

 

 欧米なんかはそういうパターンが多い、ただそれが響いていくので、さらに高いところまで出るような人が多い。このくらいで上のファくらいです。普通、男性だと上のシドレくらいのところで、感覚を変えないと持っていけない。中にはミくらいまで持っていける人もいる。大体ドからドくらいまでは感覚が同じで持っていけるのです。

 

 私の考え方では、上のドくらいのところで同じくらいに揃えておいて、3つくらい下のラくらいから感覚を変えて、ファからソくらいまでカバーすればいい。ただテノールやカンツォーネの発声からいうと、今度は上の響きをとりにいってきますから、こういうかたちにはならない。

 

 ミュージカル劇団が典型的、カンツォーネやシャンソンなんかも日本の歌手はそういうやり方をとっています。だからそれがいいのかどうかは、日本の場合は両極に分かれています。ただ、こういうふうにやれている人はあまりいないので、やれるようにしていくのもヴォイストレーニングです。どちらかというと役者よりの入り方ですね。

 

 

○お湯をかく

 

 無理して歌っているようだけど、音楽が入っているのと音楽の流れが入っていてグルーブのなかで、ある意味では回転させている。同じような声の出し方をまねて、ほとんどの人が喉をつぶしていくのは、直線的に出すからです。歌っているところの全部、喉をゆるめないのです。

 ところが本当に音楽が入っていたり、リズムがわかっていたりすると、お湯をかくようなもので、かかなければいけないところをかいたら、後は流れにのって、次にかくところのポイントまで休みます。

 

 外国人はあれだけ歌っているようでも休んでいる。きっかけのところとグルーブのところには入れるのですが、それ以外のところはほとんど休めている。

 日本人の場合は、母音が中心で1フレーズに4つあれば4つのことば、8つ音が入っていたら、8つともいうでしょう。ラップなんかでもひとつの音符に3つつけながらも、結局3分割にして3連符でいっているので、喉が休まらないのです。だからそういう意味でいうと、もっと体を使えるようにすることです。

 

 このように歌えるのに日本人は歌っていない。深く出せるのに高いところで浅く抜いていく。たぶん高いところで響きで出すことに歌い手自身の快感があって、そういうのと一致していくほうをとる人が多いのだろうなと思います。あとは鼻に響きを集めていって置いていく歌い方は、喉を外すひとつのやり方だと思います。

 

 

○ロックする

 

 「HERO」ではなく「疲労」に聞こえますね。

 悪い癖がつくからあまり使えないのですが、うまく使っています。カンツォーネをやっても、後には、日本語のほうがいいということで、ベースの練習に使っていました。

 今の時代での、必要性はわかりませんが、要は声で歌おうとしていない。リズム、グルーブのなかに音色を持っていくような感覚で歌っている。日本にはなかったロックの発声です。

 

 私の「ロックヴォーカル基本講座」の本はロックのことを書いていないといわれますが、やっていることがロックです。別にロックというジャンルでやっているのではないのです。なかなか理解しにくくて、発声教本のようになってしまいます。

 

 あなたはこれをどうするか、それに対してプロは、どうしているのかということです。歌の流れ、この歌のリズム、ロックの感覚のことを優先できているものです。

 

 

○つまった表現

 

 「ただ一言だけ」

 こういうところはポジションを変えないでやろうとするから、こういうふうにつっかかっていくのです。

 ヴォイストレーニングをやっている人は、これを意図も簡単に当てる点を変えたりまわしたり、抜いてしまったりするのですが、それが本当にいいのかというと、案外とつまっていくほうが気持ちが伝わる場合がある。

 

 こういうことは教わるということより、最終的には自分のなかで選ぶということです。いろいろなよけ方を知っているのは大切です。ただよけ方が歌い方ではないということです☆☆。

 歌を全部成り立たせるために、音が取れなくなってしまったり、流れが崩れてしまってはいけないから、いろいろなことは知っておいたほうがよいが、本質的には中心のところの一ヶ所で声をもったほうがいい。

 

 技術的には高くないが、日本人の枠を破っているところがある。というよりはその人自身の歌ですね。彼らもいろいろな歌を歌って、浅くやっているものもあります。いい曲は歌っているうちに熱が入って、体が使える、音程やメロディだけではないものが聞こえてくることもあります。練習課題としてうまく使えばいいのですが、悪く使ってしまうともっと悪くなりかねないところがあります。

 もっているかということと、それができるか、つなげられるか。まずアイディアといっても難しいから、こういう人たちから、こういうやり方、こういうパターン、こんなことを盗んでやる。

 

 普通でこれをやるイメージはわかりますね。日本人の歌う退屈な「第九」を聞いてもわかります。声のある人たちがやる本当に退屈きわまりないものに対して、決してそうはしていない。見せていくのです。

 「色即是」のところも、要は入れるところを決めて、抜くところというよりも捨てるところを決めたらいいということです。全部を歌っているわけではありません。もし全部を歌えるのであれば、それを1カ所あるいは2カ所に集中させて、他のところは流れに乗せています。

 

 

○変じる

 

 ここで一回終わるわけです。

 だから終わる前に、歌い上げて終わる場合もあるし、同じように歌う場合もある。常に考えてほしいのは、彼はもっと歌えるのに、なんでここでこういうふうにしたのだろうということです。それは何か伝え方を変えるために変化をつけるためです。

 

 

○歌わない

 

 慣れていないと、歌わされてしまうのです☆。彼は歌っていない、描いていっている。この曲に対するキャリアだけではなくて、体や声や息、あるいは音をどういうふうに見せていくかということに対する、いろいろな意味のキャリアの素があるのです。

 だから彼がどう使うかは別にしても、この曲ひとつを聞いたら、どれだけいろいろな音色を豊かに入れて、いろいろな引き出しをもっているかがわかる。

 

 それにしても、いつももってきかたが、ワンパターンだという感じがします。それは彼の作品で彼が選んでいるわけです。トレーニングはこういうことができるために何をやるかということです。こういうことをやれるベースの部分をつけていく。このことをやればいいのではない。しかし、結果的にいうと、こういうことを直接やっていったほうがわかりやすいですね。

 

 フレーズのなかで息が使えていない、使えない、保てない、あるいは切れない、パッと入れないとか、入ったのだけど抜けないとか、見せ方を変えたのだけれど全然つながっていないとかチェックする。

 自分のやった先、イメージしたことに自分の置いたことがつながらない。じゃあ、つなげようとすると今度は何も出てこない。よくあることです。

 

 自分を出してしまうと音楽にならない。音楽にしてしまうと自分が出てこない。それは自分が音楽を学べていないからです。もっと学んでいくと、自分の音楽がそこに出てくるわけですから、たくさんやればいいわけでないですが、いろいろなことに気づくことです。自分の体や呼吸、イメージと心、いわゆる心身を一体に練りこんでいくような練習を一番のベースにする。だからといって喉を壊してはだめです。

 

 けっこう若いときに感覚的なものでやれたり、けっこう喉が伴っていたり太い声があったから、シャウトになったような人、こういうのは稀有な例で、大体、センスがあると声は浅くなってしまう。

 そうでないとなかなか音楽にならない。音楽にどうするかというのを考えて、自分の声を調整してみてください。

 

 このくらいのものはあまりことばに左右されなくていいです。ことばがぐちゃぐちゃでもフレーズが聞こえていたらいい。どうせ普通の人が聞いていてもわからない、でも聞いていて、フレーズとして成り立つか成り立たないかというのはわかる。

 ということは、最初の一行、くらいのところでも2年分くらいの課題になると思います。

 

 ここのところまで構成までできたら、もう歌の課題は出てこないと思うのです。音域的にも声量的にもそうです。あとはこれの繰り返しです。アレンジャーの仕事でもあります。

 これを誰もが歌うのはきっとこうだろうな、それに違いをつけたい、違うことをやると変だ、でも変じゃない、それが何か説得力があるというところを選びだしていく。

 

 今できることとできないことがあります。でも今だったら、こうという作品、それから将来はもっとこういう作品にしたいという方向と、その両方で見ていってもらえばいいと思います。

 

 

○形をとらない

 

 声がいい人は声を生かせばいいし、使い方がうまい人は使い方をやればいいし、両方よくなくても、音楽的な見せ方もある。それからもうひとつは音響がいろいろなことができます。

 ただ、音響から入ってしまうと、また形になりかねない。ごまかせてしまう部分があります。そうするともう歌なんか歌わないでコンピューターに歌わせておけばいいということになってしまう。そこは人間がやるべきところです。

 

 私があまり高い音や長い音、大音量ということをいわなくなってきたのは、そこは人間から離れて形だけになっていくからです。人間が勝負してもかなわなかったり必要のないことだろうと。

 一番難しいのは、その理想のイメージと、そのイメージに対して声が伴わないとうまくできないというのです。本当にその理想のイメージが自分のオリジナリティに根ざした上にあるのかというのは、長くやっていかないとわからない☆。

 

 ほとんどの場合は憧れから入りますから、自分でないイメージです。そのイメージに対して近づけていくのは、まねをしていくことになってしまうから、どう考えてもうまくいきっこないのです。

 そうすると自分自身の本当のオリジナリティのイメージというのは、今の自分でなければないわけです。将来の自分ということになってしまう。それは直感的に探るしかない。つくっては壊しつくっては壊し、まだ見ぬものです。そのイメージの問題が大きい。イメージに対して声が届かないとか大きく出ないとか、そういうことこそ技術なんかより音響で、相当片づく。

 

 残念なことながら、日本人の耳自体がそんなところにない。海外にいくと私くらいの耳で皆が聞いていると思えばいいのです。理屈はいわないけれどだまって聞いている部分では。

 日本でそのレベルで聞いている観客というのは、ほぼいないわけです。それでもとことん追求してよいものをといってもいいのですが、そのかかる努力や年月を、もっと別のほうに向けなければいけないというのは、現実論としてあるのです。

 

 日本なんかを越えて、世界でトップのことをやるというのなら別ですが、日本人が世界でトップをとれたとしても、そこで賞をとれたことで日本で認められるかもしれませんが、たぶんそのまま日本でやっていたら、あれなら外国人を聞いていたほうがいいということに、なってしまいます。そこが難しい。

 

 研究所を出て洋楽そっくりに歌えるような人がたくさんいるけれど、洋楽そっくりのレベルで仮に歌えたところで、所詮向こうのワンオブゼムではないかとなります。日本人で聞くくらいなら、向こうの歌手の歌を聞いていたほうがいい。

 

 それから声がすごく出る人やひびく人が歌っても、それならオペラ歌手を聞いたほうがいいとなる。声が伝わってこないとか、否定的な側面から見るわけではないのですが、何をやってみても結局、その人の作品というものを感じられるようにつくらなければいけないというのが第一です。

 

 客が何を聞くかということは、配慮せざるをえないのです。そこを自分の感覚でやってしまうと、自分と同じ感覚の人間しかそこにこない。

 日本のジャズなんかでやられているのはそうですね。ジャズに詳しくて、洋楽をよく聞いて、日本人なんか口先でしか歌っていないというところに、“それっぽい人”がいるとすごいとなる。たいした差はないのです。

 

 ただその見せ方が慣れているだけでまわってしまう。本場のところからやっていることからしたら、まねごとにしかすぎない。でも、日本ではそこですごい差がついたようにして成り立ってしまう。その辺が難しいですね。

 

 

○オリジナリティ

 

 本当のオリジナリティはまわりに相当嫌われるものです。皆が嫌うから、それが好きな人は絶対にいるのです。とことん嫌われるようなことをやれば、とことん好きなやつが何百人か何千人かにひとり、いる。CDは100人にひとりが買うわけではない。1万人どころか10万人にひとり買ったとしてもすごい数です。だから逆に考えてしまったほうがいいのです。

 

 何かに似ていたり何かに同じになっていたり、何か他の人もできそうだったり、ということではないことは何だろうかと。そうするとあまりないですね。

 

 絵でも描いてみたりしても、たしかに自分が書いたからオリジナルなのですが、でもこの手のものなら、その辺の絵画教室に行ってみたらひとりくらいはいるぞと、思われてしまう。そこから全部外れたようなことをやろうといったって、キャンパスの上に針金を立てて、おかしいことをやってみても、何でもできると、今度は訳がわからなくなってしまう。誰かが納得できるところの何かを出すというものを出すのは、けっこう難しいですね。

 

 歌の場合はごまかしのオンパレードですから、曲なのか演奏なのか、踊りなのかリズムなのか、全然わからないところで成り立つ。

 「第九」の「般若心経」盤のコピー、オーケストラですごく声の出る人を集めて、退屈なことをやっています。これを彼らに歌わせると、きっとそんなふうになるだろうなと予想もつきすぎる。

 でも通の人は、決してそういうことではないことをやっている。これはできない、トレーナーも研究生も、私なんかもできない。そこは根ざしている部分です。

 

 それが受け入れられるか受け入れられないかではなくて、その人しかできない部分というのは強いですね。客のほうから考えてみるというのは、現実面必要です。ただ、ベースとしては自分のものをつくっておいて、それを客に対してどの部分で示すかというのは、切り取っていくしかないですね。

 私は会報と出版している本との関係のように思っています。両方持っていないと、お客さんだけにわかるようなものだけ書いていると、自分でやらなくてもいいなという話になってしまいますね。

 

 

Q.自分の癖なのか語尾が粗くなる、ずれてしまう。

 

 技術的なことなのか、精神的な集中力の問題なのか。トレーニングを受けていると、LとRがどうだとか、aなのかeなのか、ということは教えやすい。勉強したような気になるからです。でも、現実面、ほとんど関係ないですね。

 

 私は考え方を変えてしまった。昔は日本人の英語は心地悪いなと思っていたけれど、最近はシカゴでもジャマイカでも、現地の特徴が出るからいいと。日本人訛りの英語をそれ以上、きれいにしてはいけないと、そのほうが味があっていいじゃないかという考えです☆。

 

 方言なんかはニュアンスがありますね。しゃべるだけでことばが伝わる。声の質や動かし方、やわらかい。あの情報量をそこで育った人が、標準語に変えてしまうというのは、伝えるうえでマイナスになってしまう。

 

 東京にいたらしかたないけれど、芸の世界ではそれで成功している人、関西弁でやっている人もいるし、現地のことばでやっている人もいる。

 高いレベルでないかもしれませんが、語尾が気になったりというのは、それを技術で片づける場合もあるのですが、やっぱり作品としての厳しさとして直っていくほうが望ましいと思うのです。

 あるいはそんなところが乱れていようがなんだろうが、客は楽しめるというところまでの、何を出すかということだと思うのです。

 

 アカペラで聞くと、私も厳しくいってしまいますが、実際、あれにエコーがかかって歌っていたら、もちます。カラオケだってあれだけよく聞こえてしまうのですから、ほとんど語尾なんて問題ないですね。自分のなかではこだわっておくのは必要ですけれど、もっと大切なことをやらなければいけない。

 

 

○プリミティブと現実感

 

 日本にいると安全です。死にそこなったりしたら気がつくのですけれど。そんな体験をしていくというよりも、何かしら覚悟が必要な気がします。日本はそんなことをしていたら、世間がうるさいですけれど、日本の場合、歌が見えにくくなっています。

 私が海外に行くのはそうなんですけれど、ストレートにいいたいことが出てくる。いっている。それが表現であって歌なんだとわかる。そこにメロディや楽譜や演奏は、あとからついてきたものです。その現象のパワー、プリミティブなものを失ったところに形から入っていくと、かえって訳がわからなくなってしまいます。

 

 だから、本当にいいたいことを形に起こせばいいのです。昔から歌は社会運動や反体制的なものと結びついていたのでしょうが、今の時代はそうではない。10年くらい前に、「今の時代はコンビニは定価で売っていて高いとかそんなことしか歌えないのか」といったことがあります。

 実際にはすごく深い問題が、たくさん起きている。それに対して情報もですが、実感がないと表現や叫びは出てこない。何かしら運動しろということではない、運動自体がカタルシスのような人もいますから。ただ、あたりまえの現実感が大切です。

 

 これからどうなるかわからず、私はきな臭く思っていますが、どこでも軍人がいて国を守っていて、そうでない国は全部略奪されて滅びている。我々は特殊な皿の上に乗っているようなものです。それをきちんと戻して、だから軍備しろということではなく、自分の責任を持ったところに、いいたいことを述べていく。

 お笑いの連中といっているのですが、彼らも仲間内の悪口なんかで終わってしまって、どうせ歌うならブッシュや小泉、改革のことを歌ったらいいのだけど、そこまでなってしまうと視聴者がついていけない。本来、世界中のアーティストが歌っている歌詞や思いは、そういうレベルのことです。

 

 そういうことではなければ、単純に「誰よりも愛する、好きだ好きだ」というようなもの、過剰なものがことばになってついて、そこに嘘や偽りがないわけではないのですが、そういうことにとりあえず共感できたり実感できたりすることから成り立って、浸透する。日本の歌だって、そういう部分はあるし、そういうものがヒットしていますが、昔ほど大きくない。

 アメリカあたりでも60~80年代、マイケル・ジャクソンがまだがんばっていた時期、ああいうひとつのイベントが社会を動かしていく、市場に経済効果をもたらすというものはさすがになくなっています。

 

 そういうことでいうと、歌という括りで考えていくよりは、声やひとつの形態として見ていったほうがいい。日本の場合は、音楽だけがくくられていて、それをやっていることに特権意識を持っているような人が多いです。

 

 私もそういう人といつも接しているのでよくわかりますが、音楽やっているからえらいのではない。坂本龍一さんなどは、別の分野とコラボレートしてきている。というのは、音楽の限界が出てきているという気がします。それとメディアという問題、音楽というもの自体が本当はメディアです。

 音にのせるということは、音波としてとばせるし、パッと渡したら相手も聞くことができる。いろいろなCDをもらったりライブハウスもいろいろなところをやったりするけれど、本当の意味でわくわくしない。何か起きているという実感はないですね。

 

 

○リアリティと創造

 

 それが日常的になっている国もまだ、たくさんあります。どんどん音楽が遠くなってきています。歌もそう。ことばや声の世界も、なんとなく関心はあるけれど、胡散臭いというか中途半端というか、せいぜい敬語の使い方とかそんな程度だなという感じ。でも実質に、人間の肝心な場面やすごい重要なところでは、声が使われます。その声同士でコミュニケーションがされ、泣いたり笑ったり、そういうことが行われる。

 それ以上の歌を歌うというのがあたりまえですが、そういうことをもっとリアルにやっていくべきだと思います。

 

 ネットや本もいいのですが、相手と直にやっていないので、どちらかというと悪い方向にいきますね。歌やことばで相手と面に向かいあうというのは、人間は信じられるものとなり、いい方向にいくのです。そういうものに歌や音楽が使われるべきですが、歌い手たちが楽しみだした。

 今の日本の音楽は、そうです。やっている方が楽しんでいて、お客さんが付き合っているという感じです。少なくともプロであれば、お金をとる以上にすっきりさせてやる。その辺の、アングラ映画でもいいから、なんか知らないけれど金出した以上のことはあったなということでないと、金を出して惜しくなかった程度では成り立たないのはあたりまえです。

 

 

○思い先行、歌の進行先行

 

 歌の場合の感情移入ということではなくて、ある意味、思い入れたっぷりにやるタイプで、その思いとロック、今のリズムグループみたいなものが先行していて、発声とか発音や、声がけっこういい加減になっているんだけど持つというのがベースの部分です。さっきの曲は、すぐれているのですが、若いときのものですから、中途半端になっているところがあるのです。今かけても伝わるところは伝わる、逆に今の歌が失ってしまった部分ですね。

 

 同じポジションのところでキープして、高音発声とか語尾をていねいに、まさに歌の技術を習った人ではないから、そんなところは無視して思い先行、歌の進行が先行ということですね。ロックの。そうなったときに音が少しくらい落ちていたって、けっこう持っているのではないかという部分をみましょう。

 

 それとともに何を集約しているのか。だから歌がきちんとまわっていったらいいのですが、それがたまには流れてしまったり持ってこられなかったりするのだけど、どこかでかいているから、分析して聞かなければそう聞ける。

 

 もうひとつは絶対的なオリジナリティですね。他の人がやってしまうとまねにしかならない。あれなんかまねっぽいということになる。それは彼のがいい悪いということではなくて、彼の形として、もうすでにあるということですね。

 

 普通の人でやったらでかい声で歌えばいいのだろうというところだけど、ここで彼が何をしているのか。まず普通の人が普通に歌おうと思ったときにやるとどうなるだろうかからみる☆。それに対してそうでないことを何をやっているかというふうにみる。決して歌っていない。普通の人が歌うとそうなってしまう。これもそうでしょう。

「あんたに」といったときにそうならないだろう、「あげー」のときもそうならないだろう、こんな形で入らないだろうと。

 

 皆がまねても、これはまねにしかならないのですが、これに変わる何か違うものを出せばいいということです。オリジナリティとは違い、ここでつくるだけのものです。でも半分以上は、あなた方に入っているものが出てきます。

 

 勉強するとこういうことができなくなってしまいます。こんなことをやってはいけないといわれるし、トレーナーなんかには何をやっているんだお前、といわれます。逆にそれをやらなければ、客はひきつけられないことでもあります。だから反します。

 教えていくとか勉強するとかいうことは、今までにある手本をどこか念頭におくわけでしょう。

 本当のアーティストはそれをひっくり返してしまう。そんなやり方があったのかということ。

 

 この前、岡本太郎の太陽の塔を見てきました。まわりを囲む建物ができた。それが30メートルだったら、太郎は70メートル建ててしまえ、つきやぶってしまえといった。そういう発想は、普通は出ないですね。その下におさめようと思いますものね。全部逆をやっていって、それで成り立たせる。

 ただ、成り立たせなければだめなのです、本当に。そのときにパッと言い合って高さを決めてしまったという、それはそれまでのいろいろな感覚、本当に感覚なんですね。ただでたらめなのかもしれない。

 もっと高いほうがよかったのか低いほうがよかったのかは、誰もわからない。でもあれだけしかイメージがなくてね。

 

 愛知万博は、あのキャラクター、あの人形で、シンボルも、もうちょっとやりようがあるのではないか。思い切って、トヨタ博にしたほうが、よいのではないかと思います。

 

 すごいはっきりしていますね。「日々を」なんか捨ててしまっているでしょう。だから普通は逆なのですが、「愛」の「あ」のところにあそこまで集中して入れない。きちんと歌ってしまったりしてしまうのです。これが人の普通の感覚です。それをまったく逆にする。だからどんどん捨てていくというより、よりやりたいところ、動かさなければいけないところに集中していくというふうに考えてください。

 

 

○踏んで収める

 

 この手の歌い手に関してのベースの部分は、日常的にいっていることばと伝える実感以下にしないことです。歌の場合、すぐに表現力がなくなってしまいます。

 

 すごく単純にいうと、心が伝わるかとか思いが伝わるかとか、そんなところで聞いてみて、練習というのであれば、リズムやグルーブや音色にベースをおいて、その上に音程やテンポ、リズムや発声をみる。最初にチェックするようなものは最後にしていくというようなこと。これ自体がそういうことを守っているのではないです。

 守っていないけれど踏んではいるのです。それで音がすごく外れているとかめちゃくちゃな音符ではないわけです。自分でつくった曲は自分で動かせるわけです。そういうことを越えてみてください。

 

 自分でつくっていく時期より、あとになって悪くなってしまうのは、誰かがやってしまうからです。アレンジを誰かがやってしまったり、演奏をもっとうまいプロがやってしまったりする。自分がバンドを牛耳れるなら、本当にバンドとのコラボレーションのなかでつくっていかれるわけです。

 

 自分の歌の切れの悪いところは、バンドの切れで持たせるとか、それも全部含めて、音楽、歌です。それがちぐはぐなのが多いです。歌のうまい人ほどそうです。歌のうまい人は、伴奏に歌が乗っているだけで、せっかく伴奏がいるのに、両方の演奏、セッションにならないのです。伴奏者が下手なわけではない。別々に歌えばいいのにというふうにことです。

 

 離れちゃったり、切り離してしまったり。今の「ろー」のところの「と」や「の」もそうですね。ところがトレーナーが教えてしまうと「と」や「の」をきちんといってしまったりして、そうすると何か動きが違ってくるのです。

 ある意味のオリジナリティです。誰もこの人以外に、この歌を歌おうとしない。いい曲であるのに、歌わない。あまりにもイメージが強すぎて。

 

 日本の場合、人の歌を歌うというのはなかなかスタンダードにならない。民謡くらいですか。外国は皆がいい歌を歌って、スタンダードにしていくのですが。歌いやすい歌と歌いにくい歌があります。演奏者の個性があまりにもありすぎるとね。

 

 

○異次元に歌う

 

 たぶんロックの世界というのは、クラシックの世界みたいに芸術家をお客さんが聞くのではなくて、自分のなかに動かしている動きを、完結させないで投げ出すことによって、それに客が動くというものであると思う。

 

 未完成とは違うのでしょうけれど、とても完成度の高い作品もたくさんあります。ある意味では開放させたまま、あるいはつまらせたまま、あるいは終始できないままに客とのコラボレーションをとっていくのだと思います。

 クラシックでもよくコミュニケートするものもあるけれど、狂気的な感じになぜならない、サッカーみたいにならない。

 

 歌い手のなかで全部描いてきれいに歌ってしまうと、歌い手の世界になるから距離ができてしまうという気がしまう。今でも若い子たちが集まるのも、そういうものだろうなという感じがします。

 

 本題に戻りまして、ひとつの基本フレーズからです。このベースの。ここがある意味ではフェイクしているところの最大点の揺れのところですね。この2つの間のところで、この歌が動いていきます。

 もっとすばやいし、もっと集約しているし、それから3つ置いているのでなくて、3つも並べていますね。

 

 こういうところでもそうでしょう。普通であれば、歌ってしまえばいいところでしょう。でも流さないのです。とにかくできるところの可能性を使って、全部動かしてみようというところです。そういう意味ではここだけやってみてもいいですね。

 

 さっきのところはきちんとつくっているから、次もつくると見せかけておいて、この辺のところから、休んでいるというわけではなくて、抜いています。もっと抜いてもこれだったら持つと思います。それだけ余裕が出てくるわけです。全部歌っていたら大変ですから。

 

 音色の問題、フレーズやオリジナリティの問題、よくいうのは、こう歌ってしまうのが、3つくらいにおいて、だいたいここが離れてしまいます。そこはグルーブをもっと、逆でもいいです。それがだんだんこう略していって、動いていく。こんな感じに歌がなれば、こっちにいっているけれどこっちにいっているよとなります。

 

 ところが日本でそういうことを感じたことがないのですが、欧米のものによく感じたのは、こっちのものを歌っているのに、響きはこっちにいっている。3つくらいの声が瞬時にこう、とにかく時間軸を崩すのですね。チクタクチクタクといっているものではない。

 

 2つの声ではないはずなのに、なんでこっちをこうやって伸ばしている間に、高い声を出せるんだろうというような、この縦の線が、こういうようなものがこうなるというような比喩、こうでないところになったときに、いろいろなものが動き出すでしょう。

 

 普通の時間に支配されるというのは、それ以上に動かせないとみえる。ただ、日本の場合は時間にきちんと合わせて、長さを揃えていくところで歌声を聞かせるようなところで、とてもいい歌もありますし、いい歌い手もいます。