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行き止まりのオアシス 本格的に歌を志そうと決意して、約半年が過ぎようとしている時、気がついたら私の回りには今迄の友人はなく、音楽を志す人達ばかりになっていました。(こうなる事は予測してたものの…)思うように事が運ばず、ただ毎日もがいているだけでした。あれ程願っていた道を歩いているにもかかわらず、息詰まってしまい、自分がこの道を歩いている事すら迷い、嫌になってしまったのです。
ある日思いました。“行き止まりなら、諦めるのではなく、息抜きをしてみよう。そして音楽とは一切関係のない人と出かけてみよう。少し遠回りかもしれないケドそれでも自分の戻る所は歌だとしたら、続けていこう。確認をする為に時間を使ってみよう”と。
祭日、よく晴れ暖かい日、横浜に行きました。昔、休日の度によく過ごした事のある1日でしたが、見るもの全てが新鮮で一日中、笑顔で終わる事ができました。今日という日を自分のメモリアルとして自分の為に詩を曲を作ろうと思い、その時点で今迄の迷いが消えてしまいました。その人のおかげで肩の力を抜く事ができ、再び私は歌への道に戻ることができました。
これからの長い道のりもこんな風に繰り返して歩き続ける事と思います。又、迷いが大きくなりだしたら、この“行き止まりのオアシス”を思い出して、私と歌を結びつける強い絆を探しながら…。(佐藤ゆり子)
『忌野清志郎and2・3’S』 コッカスパニエル…チャカ・汗を見る予定だったが、前売りが買えなかった。(売り切れだったわけではない)で、清志郎である。いやあ安かった、四千六百三十五円は。
実に、これほど安い買い物がかつてあっただろうか。
ダイアナ・ロスは一万二千円だった。ジャン・ポール・ベルモントなんぞは一万八千円だった-『シラノ・ド・ベルジュラック!!』ワオッ
いや、そうではない(なにしろ久宝留理子-そういう「苦労した永井真理子」みたいなお顔の歌い手さんがいるんだ-は、タダだったのだから。招待券もらったんだけどね。エピック・ソニーさん、どうもありがとう。)そうではない。あれほど時間単価にして濃厚な、ちがう、濃密なコンサートを見たことがない(三時間やったフィル・コリンズといい勝負ではなかろうか。)
なにしろ“緞帳”(『どんちょう』と読む。思わず私も辞書を引いてしまった)が降りているのである。オープニングからして、すでに『十月大歌舞伎』のノリである。そして、間髪を入れず始まるロックンロール-。あにはからんや、見る者はすでに『おかあさんといっしょ』の世界なのである。ほとんど『ジャジャ丸』が出てこないのが不思議なくらいである。そう、ひたすら元気なのである。皆、『田中星児』なのである。とにかく清志郎がいい。決して、『スティーブ・ハウ』ではないのである-エイジアの。一番元気なのである。おやじなのに。決して一人だけ、“大御所”してないのである。なにより展開がいい。次々見せてくれるバラエティ番組。もはやゲバゲバ六十分と化したステージは、本当に『志村けんのだいじょうぶだあ』かと見まがうコントまで仕組まれて泣かされるのである。
“たっペーくん”が出て来るのである。たっペーくんは清志郎の息子なのである。「なんて親思いの息子なんだ。」そして歌うのである。
「いっぱんじんじゃなーい おれはゲージツかー」
ああ、もはやこれはステージを見るしかない。まるで『第三舞台』を見るよーな、いや『東京おとぼけキャッツ』の再来かと見まごうばかりの。おお、アンコールの嵐。
ステージに飛び交うプレゼントの袋の渦をすべて拾い上げ、中身のシャツを身に着け、クラッカーを打ち鳴らし、最後はたっペーくんともども舞台の上を走りまわり、なおかつ危なくないよう、そのたっぺーくんに気を配るメンバーの心根が-泣かせるんだ。いまだかつて、これほど“カンファタブル”なコンサー卜があっただろうか(谷村新司?ハンドインハンド?冗談じゃない)。私はもうこれ以上何も語れない。
見に行きなよ、中野サンプラザへ。絶対、損はしないから(損?するわけない)。保証する。
いっぱんじんじゃなーい おれはゲージツかー
「低い声がシブイ」という魅力をつけたい。これを聞いてショックで、それでもう床に伏してしまい、歌うことに希望をもてなくなってしまったら、その人は超初心者かまるで自主トレをしていないナマケモノなはずだ。
以下、イギリスは英国EMIから出版された「How To SING」(グレアム・ヒューイット著)の日本語版から抜粋した一節である。
「これから声の勉強に入るまえに、たくさんの貴方の心配と時間にムダを省くために一つの注意をしておきましょう。それは、貴方が今持っている声は決して今のものと異なる声に変わりはしないということです。確かに、その部分的なことは改善されますが、その声の持つ基本的性質(カテゴリー)までは変わることはないということです。(P35 L14〜L19)
今の貴方の音域は、将来の貴方の音域とほぼ同じものだということを受け入れなければなりません。もし、貴方が3点C音を出したいという希望をもっているとします。しかし、貴方が出せる高い音が2点E音がやっとこさというのであれば、貴方をがっかりさせてしまいますが、これが現実なのです。このような限界を設けた“自然”の意図に挑戦しょうと試みることは貴方の声をこわすことになります。(P47 L15〜L20)」
さて、何をかくそうこの私も高音域獲得競争に精をあげた経験者(?)である。もちろん、それには敗北した。どうしたって私の声は低い。バリバリのバリトンなのだ。上のソからもう出ない。どんなに自分を恨んだことだろう。あの日々は苦しかった。
そんな私が開眼したのは、高尚ぶってみたくて、ジャズヴォーカルを聞き始めてからであった。ピアノが泣く。ベースが泣く。そこで、それをなぐさめるようにハイハット。沈黙。男。力強いディーブヴォイス。これだ!私は女に生まれて、こんな男を好いてみたい。こんな声で名前を呼ばれたい。(ただし、これは来世の希望だ)今の私を見よ!ディーブヴォイスとは言わないが、低くて少しはセクシーか知らん。(ポールというアメリカ人のドラマーが私の声をほめてくれたんだぞ!)
まあ、とにかく日本でメジャーでないヴォーカリストがスゴイ。特に低音であんまりシブく歌っている連中が多いので驚いた。逆に高い声が女々しく思えてきたりする。知らぬは不幸なり、とでも言おうか。でもやっぱり、マイケル・ボルトンの高音のド迫力も好きだ。自分の声と同じくらい。
少しだが苦しかったか。練習、練習!!
(注)グレアム・ヒューイットの述べている音質・音量・音域の可能性については、すでにここでいう基本の習得を終えたレベル(しぜんな声がしぜんでない外国人はすでにここの基本を体得しているといえる)日本人の場合は二十代後半にバリトンからテノールへ変更する人が、案外と多いことなどもあり、自らの可能性への限定は二十代においてすべきではない。福島