一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン録  18789字  662

レッスン録   662

 

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レッスンへのとりくみ 360603

基本トレーニン

 

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レッスンへの取り組み

 

レッスンで人数が少ない方が順番が回るということでは理想的なのですが、最初はなるだけ、多くの人の声を聞いてください。たくさんのクラスに出て、いろんな声を聞いて、いろいろなことを感じてもらうということが大切なことです。そこで何を学ぶのかを、考えてください。

 

人数が多い授業より、少ない授業がよいわけではありません。人数が多いときは一人あたりにあまりあてられません。少ない回数でも、すぐに表現が出せる人ではないとなかなか難しいです。

しかし、数をこなしてだらだらやっていたらよいというものではないのです。1日1回、1チャンスで出せるように、日頃からトレーニングするには、絶好でしょう。

 

 音楽的な部分に関しては、レッスンで基本的なリズムとか音程もやっています。何もない人には、基本をやってきた人からみたら、何てひどいのだろう、音程もリズムもない人がどうやって歌うのかと思うかもしれません。でも、声については、大差ないといえます。

 

ピアニストやバンドの人たちがみてもそうでしょう。ヴォーカルの楽器としての体や声は、わからないので、どうしても表面に出てきた音感、音程、リズムにチェックの眼がいきます。

 

日本のヴォーカリストの基準でとれているリズムや音程というのは、情けないことですが、小説家でいえば、ひらがなが読めるとか書けるという段階のことです。せいぜい、漢字の読み書きまでで、内容に入れないのです。

 

本来のヴォーカリストに必要なことからいったら、声以前の問題として大きなものがあります。それを2年でやる方が難しいのです。声のことの方がまだ2年で少しは何とかなることです。☆

 

とにかく、耳から入れていってもらうしかありません。声が出ようが、歌が歌えようが、それが表現として伝わらなければ、結局人前での価値というのは出てきません。人前でやることを想定してヴォーカリストになるということを考えている人がほとんどなのに、それを、どう表現するかということを考えないのはどうしてでしょう。人前に出ていく価値をどこにみつけられるかということです。

 

そこに、メロディもからんできます。結局、やれている人というのは、何が違うのかということです。それは、技術を超えて、突き放した言い方で言うと、その人の人間性であったりします。

そういう人たちでも若いときから人間性が優れていてすごいことをやっていたわけでもないでしょう。

 

すると、最初できることというのは、ある意味ではパワー全開ということです。テンションの高さ、人を巻き込んでしまうようなところです。技術は後からついてくるものです。だから、その部分は研究所の中で出すトレーニングをしてください。

 

本当は他の世界からいったら、ものすごく低いレベルなのですが、最低でもテンションだけは保ちたいものです。それからもう一つは、当然、ヴォーカリストも音楽家の一端ですから、音声のイメージをつかんでいくことです。ことばを音楽的にしていくということです。

 

日本語自体が洋楽的ではないですから、こう考えてやっていった方がよいのです。ポピュラーの場合は結局、自分の節、フレーズをどうつくっていくかという最終的なところに集約されていくわけです。そのことを私の授業のなかでは、時間をかけてやっています。☆

 

それまでは、声の基本を中心にやったのですが、声が出たところで、表現して保てないと意味がないからです。音という感覚を得るのは難しいのです。だから、自分自身をきちんと見つめていって欲しいということと、まわりの感覚やテンションを増幅して捉えて欲しいということです。

 

ヴォーカリストは、気を声にかえる増幅器です。研究所に合せろということは言いません。何か違うと思ったときに、自分を貫くのもよいですが、そのときに何かが合わない原因が自分の我にある場合も多いのです。それに気づくのは、とても難しいです。

 

だからといって、全部を頼り切ってもらっても困るわけで、その微妙な感覚の上にすべてものごとが成り立っています。人と違うことはやって欲しいけれど、そのことが価値があるかないかというところは、シビアに判断しないといけません。

 

練習でも同じです。ここに入ってきたその瞬間から、ここの感覚というのはある意味では入ってきます。それはベースに流れています。しかし、それだけとり込んでも、そのベースのなかでうまくいくだけですから、そこで何か出さないといけない。出さないといけないのですが、そのベースのところにのっかっていないと伝わりません。

 

ベースというのは、結局、人間が人間の伝える一つの術だと思えばよいです。それがないところ、のっかっていないところの鈍い感性で、これが自分の表現だとか、これが練習の方法だとかいうのでは、正しく学べないでしょう。

 

声だけ出していればよいと思って、単に出しているだけだと、それは練習になっていきません。いちいち細かいところでは言わないようにしています。頼ってしまい、感覚が鋭くなるからです。まわりに聞いて、おかしいと思ったときにも、多数が言うことがあっているわけでもないのです。

 

はっきり言っておきたいのは、まわりの人と同じことをやっていたら、何にもならないことですから、まわりの人と同じになっていたら、それはおかしいと思えばよいです。もちろん、完全にリズムがはずれているとか、音が間違っているとかいうのは番外です。

 

 

 プレスリーは、はじめはとても学びにくい見本だと思えばよいです。この歌に関しても、プレスリーの歌い方はそうです。日本でまねてやっている人がいますが、結局、このフレーズの表面に振り回されてしまうのです。

 

基本はしっかりとしています。この曲は捉えにくいので、人によっては、めちゃめちゃになってしまうでしょう。近づこうとするほど、めちゃめちゃになってしまいます。完全に振り回されてしまいます。

 プレスリーなら許されるような表現で何を歌っても、プレスリーというようなところにいってしまうので、初心者の見本としては、好ましくないのです。難しいと思います。

 

 ステージ実習やライブ実習で求められている表現は、世界に通じるものであることです。私は技術とか声とか求めているつもりはなく、表現力を求めています。その人が後で完成していけるための節(フレーズ)のところです。

 

 音楽の表現として優れていても、見本にしにくいもの、下品で繊細さを欠いているものもあります。しかし、それは声や表現のところにこだわったり、ジャズとかを聞いている人からみると、そうなのであるということで、彼がそれを超えた価値をつくっているところに注目することです。

 

体をつくっていく、声をどう使っていくかということを覚えていくぶんには、かなりストレートに表現している人の方が皆さんにはわかりやすいはずです。いつまでもまねていてはだめなのです。

 

どれを歌ってみても、プレスリープレスリートム・ジョーンズトム・ジョーンズになります。それがどういうことなのかを考えてください。ただ、このあたりから聞いてもらえれば、歌やステージをもう少し理解できるのではないかと思います。

 

全部音声だけで表現しています。声楽家のように声をもっていて、その上で最大限に声を使っているわけではないのです。いろんな意味で最も感覚的にやっています。その感覚というのは、一流の人には共通するところです。

 

ライオネル・リッチーマーヴィン・ゲイあたりを聞いてもらうと、もう少しわかりやすいでしょう。そういう捉え方からみてもよいでしょう。ここでやっていることは、それよりベースのことです。その上にあるのが、皆、個性です。それをまねても仕方ないのです。

 

 

 今、覚えて欲しいのは、結局、ヴォーカリストとして1年や2年でそういうことができるわけではなくて、どこが土壌であればヴォーカリストとして育つのかを知ることです。個性といわれているものが、いったいどこで差をつけているのか。プロの中でもいろんな人たちがいるなかで、何が違うのか、どう歌い分けしているのか。

 

ここで言っていることは、最終的に自分のフレーズ、自分の節回しをつくれということです。それは、日本のプロのヴォーカリストでも声がないだけであって、皆、最低限、もっているわけです。それが年をとっても活動を維持できている人たちで、そういうのがない人はいないわけです。

 

だから、日本人がだめで、向こうのヴォーカリストがよいということではありません。日本人なりに日本人としてあるものは必要です。ただ、一流の歌と比べたり、向こうのなかでもいろんなものを比べたときに、そのなかの表現を支える要素として、声があるということです。

 

それから、体も音の感覚の要素もあります。はっきり言うと、リズムの感覚だけでも本当に優れていたら、ヴォーカリストになれるわけです。ただ、その優れているというレベルが、普通の人より少し優れているぐらいでは仕方がないわけです。本当に優れていなければ、通用しないわけです。

 

優れていたら、それが心地よいリズムとして歌のなかではっきりと聞こえてくるわけです。天才的に優れているのは、どのレベルのことをいうのかをわかれば、その後も伸びていくと思います。

 

 

 

ここに来る目的というのは、舞台に立ってできないことをやるためにやるわけです。今、皆さんが100パーセントのことをやろうとして、80のことしかできない。それを、20、30でやっているのなら、気晴らしです。レッスンのフリをしても、力は伸びません。

 

人前に出るには、100やっても足りない。まわりに合せるな、人目を気にするな、人の後ろに隠れるなというのも、そういうことです。結局、あなたは何がやりたいために、ここに来ているのかということなのです。

 

ここのレッスンがやりたくて来ているのならよいけれど、レッスンの先のことをやりたいと思ってきているのなら、最初に100パーセント出しなさい。そうしないと、レッスンが成り立たない。

 

 できないのは仕方がない。人前であがるとか、ドキドするとか、それは慣れていくしかないです。ここで2年たとうが、3年たとうが、ここの場は、怖いです。怖さを忘れてはだめです。

 

ヴォーカリストが見ている場というのは、他のステージみたいに和気あいあいとやれないです。ただ、ヴォーカリストというのは、そこで磨かれてくるわけです。自分の力がどのぐらいあるのか、常に本気で試そうとしない人に、何も身につくわけがないのです。

 

試せるところというのは、トレーニングするところである、この場でしょう。せっかく家でいろんなことをやってくるのであれば、それ以上のことがこういうところで出るようにすべきです。

 

家でやるとあまりできないけれど、ここでやってみたらうまくできるというようなところから気づいていくことです。それを自分で枠をつくって、このぐらいでやろうと思っているのなら、いつまでも同じです。

 

 

 私としては、皆さんが主人公になってくれということです。あなたがいるところがステージにならないといけない。ここに私が立ったのと同じにならないといけないということです。日頃、それ以下の思いでやっていたら、たいしたものにはなれないわけです。

 

最初は、技術が欠けているとか、体が使えていないというのはあたりまえです。だから、研究所に来ているわけです。しかし、常に人前に立ったときに自分がどうやるかを考えてください。自分をここで照れて演じて何になるのかということです。

 

会報を読んでもらってわかる通り、皆さんのモティベートづけに私は2年以上かかっています。皆さんが自分の能力を出すレッスンができていないです。劇団のベテラン役者の目でみると、ここはカルチャー教室といわれるでしょう。

 

常に考えて欲しいことは、子供が「おかあさん」と言って、そのときにまわりの人が振り返るという程度の表現力さえ出そうとしないのなら、もう表現するということを考えるのをやめなさい、去りなさいということです。厳しいようかもしれませんが、やっていくということを考えればあたりまえです。

 

表現の練習をしに来ているわけで、日本語の読み方の練習をしに来ているのではないでしょう。日本語が読めるのは最初からわかっています。レッスンがレッスンに成り立つためのことをきちんと設定しているわけです。皆さんが表現を出してもらうと私のためになります。

 

ここに入ったときには、すでに皆さんは人前に立っているのです。もし、あなた方が100人の前でやりたければ、100人前にいると思ってください。もし、1万人の前でやりたければ、1万人の前にいると思ってください。それでチャレンジしてみたけれどできなかったというならよいでしょう。

 

それができたら、すでにあなたは1万人の前にでられますから、そうでない以上、ここでそうなるのは仕方ないわけです。しかし、その気にもなっていないし、そこで表現を出そうとも思っていない、会社で報告を読み上げるぐらいにしか思っていない、それにも劣るようなら、成り立ちようがないです。

 

 

 言ったことがわかるというのは、難しい話ですが、最初に念を押したいことは、そういうことです。今すぐどうこうなるわけではない。なるのは意識だけです。でも、意識がそうなっている状態を続けるのは、並大抵ではありません。何年後かに、もしかすると何か宿ってくるかもしれないと思って、いろいろなものをばらまいています。

 

 自分の表現に対して責任をもたないとだめです。できないことに関して、できるようにするということが課題です。それができるには、できることを確実にやることからです。だから、皆さんが全部、出してくれないとだめです。

 

 外国でレッスンを受けるときと、全く感覚が違います。向こうはできるのがあたりまえで、トレーニングをやって、そこでも自分を売り込むということもあたりまえです。たとえば、この1時間あれば、とにかく前に出て、まわりの人から抜きん出ようとすることを考えます。そうではない限り、明日がないということう知っています。日本人の表現はそうではないので、自分が変わらないとだめです。

 

 私が言っていることが無理なのは、わかります。だめだしばかりでは、めげますね。

でも、日本の社会で育って生きている人の前に線を引いたら、線から出てきません。誰かが出ようとしたら、自分も出ようかという感覚できています。

 

それが続く限り、こういう世界では、その線のなかに入っているままで終わります。入っていることが、そのうち出られないことになってきます。その線は、自分でひいて自分をしばっているのです。

 

 普通の世界で何かものごとをやろうという人は、仕事でも線の引かれたところから出ようとします。一人だけでも、出ようとします。やっていきたければ、早く切り換えた方がよいです。出た人だけが、やっていける世界だというのが、どうしてわからないのかと思います。

 

人前に出て演じて認められるからやっていける世界でしょう。その力をつける研究所で私の前にも出てこない。覚えてくれないって…死ぬまで言っていなさい。覚えたくないったって、覚えさせ、よく来てくれたと思わせるのがアーティストでしょう。

 

人前ではひいて、裏で頑張っているというのは、日本人の好む考え方ですが、もったいないです。この一瞬も表現の時空なのです。

 

皆さんで学び合う場です。皆さんが全力でやって、それでできないところで課題が始まるわけです。

これは余力でなく、単に怠慢なだけです。少なくとも、私はこんな雰囲気を嫌悪します。

まず、同じ土俵におりることです。そうでないと、研究所の意味がないです。

思いっきり自分を出してみてください。

 

 

 

 

 

基本トレーニング  

 

                                                                                                                                                                                                                                                               「ラララ」(ドシド)

 少しヴォリュームをつけて、長くなってもよいです。長くすることが目的ではありません。一つのフレーズを次の音にうつる前にきちんとヴォリュームをつけておいて次の音をとりましょう。3つの音にとらわれないで、一つの大きな波の上に3つの波があるぐらいに、あるいは、一つの波の中に3つの音が入っている感じに捉えてください。

 

ポジションをとるのと同時にそれを一つに絞り込んで1本だけにしていきます。それが、3本も5本もあって、そのまま押しているのではだめです。それはある時期、許されても、それ以上のことをやっていくためには、もっとうまく力を使っていかないと、一つに捉えられません。バラバラになってしまい、どれでひっぱっていけばよいのかがわからなくなります。しぜんな動きやメリハリも出てきません。

 

ポピュラーですから声楽みたいに声帯を薄く使ってやっていくというところまでの効率は求められないのですが、そこのなかからどれかの線を1本、強くつかみ、ひっぱっていくことです。

 

 「ハイ」とか「ララ」とやっているのは、いろんな点をさぐりつつ、もっとも出やすい芯のある声でノイズにくっつかないで展開していくためです。

広く浅く横にそれていってしまうと声の流れが止まってしまいます。縦の線をイメージしましょう。高いところになると、「ハイ」「ララ」とあてていく感覚よりも、そのなかの線を自分で捉えていって、その線を出していくような感じです。

点で「ラーラーラー」とやると全部、厚ぼったくなって、結局、線がみえなくなってしまいます。もう少し楽にやってください。ひびきは使っても構いませんが、拡散はさせないで捉えていくことです。

 

 最初の「ラ」がとれていません。息を出す感覚で、そのまま「ラ」と一つの線でとりましょう。とまっているのではなく「ラー」と動を出すのです。計算をするとしたら、出した息よりも小さくならないようにします。当然、表現は普通以上のことをやるわけですから、その意識は働き、歌声らしくはなるのですが、声を「ラー」と出せばよいというとり方よりも、声に息が「ラー」となるように、そのなかで一致させることです。

 

要は息のなかに声ができている感じなのです。息の線に声がのっかっていくしかないところにもっていきます。深いため息よりはもう少し、声にしてひっぱっていく感じです。ただ、自分であまり意図的に引っ張らないことです。引っ張るとしたら「ラー」と直線的に引っ張るのではなく、それも計算が先に出てしまいます。それで構わない場合もありますが、高いところから低いところにおちたときに弾むように、一つの流れのなかにのみこんでいくことです。

 

最初に「ラ」と出すときに、いきなり「ラ」ではないし、そのあとで不しぜんな止め方もあってはいけないはずです。どこでもよいのですが、そこで声をつくらないことです。いろんなことをやらないで、しぜんにするから難しいのです。

 

線を一つに捉えます。点をとれなくても線ができて、そのなかに声ができてくればよいのです。疲れている声をそのままぶっきらぼうに出すと、のどにひっかかってしまいます。声を自分のなかで正しくコントロールして、自分で見つけてとっていかないといけません。いつまでたっても練習をやればやるほど、のどに負担がくるようではだめです。

 

 次に「ラ」ではなく「ア」にしましょう。弱くするのではなく、息を集中させること。ひびきを同じだけ胸のところにも、感じておきたいものです。両方をうまくとっていくのがバランスです。声の芯のところが引っ込んでいる感じにならないように、ことばにしましょう。

 

「たとえば」(ラシドレ)

 日本語ですから「たとえば」というと、頭の方では「た」「と」「え」「ば」と理解するのですが、この4つを1つに捉えます。それを全部、体でとるようにします。しかし、そのように言うと、「たとえば」と全部、押してしまいがちになるのですが、余計な力を抜き、次の段階でひきつけて離すことができるようにします。ことばを点でとらないで線でとっていきます。

 

これは、日本人の感覚にないから、とても難しいことです。どこかに強アクセントをつけて、しぜんと離していく。「yes」を「いえす」と置き換えて言わないで、「イエース」と聞いたままの感覚で言うのと同じです。それが言えなくても、その線の音をとるということです。

 

「たとえば」も同じで「たーば」ぐらいの感覚で、そのなかに「たとえば」と入れる。タ行ですと、「た」と「と」の間が続きにくいし、日本語では「え」も浅くなります。日本語の発音トレーニングをやった人ほど口先の声になります。「たとえーば」「たーとえば」「たとーえば」何でもよいですから、ストレートに前に出しましょう。

 

あまり強調しすぎると、そのまま押してしまいますが、押さずになかでフレーズをとっていくことです。ことばの表現をベースにしていきます。強アクセントで考え、そこから出てくる線をとっていくとよいのです。このことばに、点で4つあるのではありません。

 

「た」「と」「え」「ば」と頭だけ打っては、それをエコーでつなげることはできるのですが(こうやらないと歌にならないのが、今の日本のヴォーカリストのレベルです)、これでは「たーと」と、「た」の音を次の音にきちんとつなげるようにヴォリュームをもっていくことができないわけです。「ハイ」と「たとえば」を、同じ感覚で処理することです。

 

「ハイ ララ たとえば」とやってみましょう。トレーニングでは、体を使って大きめにやった方がよいです。小さくやると、体は動きにくくなってきます。大きくして小さく、強くして弱く、強くして細くというのはできます。逆はできません。トレーニングの場合は、常に「太く」「強く」「大きく」と考えておいてください。小さく、「た」「と」「え」「ば」をつなげるのは、ハイレベルなことなのです。

 

「ハイ たとえば」(レ ラシドレ)

 「イ」は言わないくらいのつもりで、同じ線でとりましょう。ことばの数は勘定できないようにしてください。声の線とヴォリューム感を出してください。発音や音程は感覚だけで処理していきます。

 

「ハイ たとえば」 「タ たとえば」

 これも同じです。「タ」のなかに「たとえば」を入れるのであって、「ター」「たとえば」という形にはしません。

 

「あのひ あなたと」(ミミミ レレドド)

 音でとらないで線でとってください。最初に声をとってそれを展開していきます。「あのひ あなたと」というフレーズでもっていけるところのキィでやりましょう。音程はついていますが、ことばとして言い切ってみてください。そうしたら、線がでてくるはずです。

 

ことばというのは、大きな声でしっかりと表現したらフレーズという線になるのです。「おかあさん」を「お」「か」「あ」「さ」「ん」とよむと線にならないですが、大きく叫んでみたら一つになります。表現に必要な条件というのは、踏み込むことですから、まずは一つで捉えることです。

 

表現する対象、方向性を明確にして、どこでつかみ離すかということです。あくまで音を踏まえてください。「あのひ あなたと」と言おうとしているところに、音がついているという感覚で捉えてください。

 

どうしても、音程の高低だけ頭がいってとってしまいがちになるのですが、リズムと音程がことばの先に聞こえるとだめです。ことばのフレーズの方までで、楽譜のところからとびだす部分をつくるということです。そして、音程から抜けることです。音程が聞こえてしまうとだめです。

 

 「あ」「の」「ひ」「あ」「な」「た」と正確に分けてつけると、「あのひ あなた」とは表現できないわけです。表現はどこかでつかんでいる必要があるわけです。体で一つになるようにします。このへんは耳の問題と、発声の技術の問題と両方が関わってきますが、大きめにつくっていこうとしたら、おのずと技術の問題に入っていくはずです。

 

それを「あのひ あなたと」と叫んでいる感覚でやってください。体も動き、息も吐けた上で、のどが疲れてはいけません。そうしていかないと、ヴォーカリストの本当の条件である音楽が、いつまでたってもことばの上に出てくることができないのです。

 

 ことばのところで言えていないと、声にしたときにも同じ状態になります。それでもメリハリを演出されていたら、「あのひ あなた」と言っても伝わることは伝わるでしょう。ただトレーニングにならないのです。

 

現場の発声の調整トレーニングや演出のトレーニングよりも、まず、声の出る状態を常に一番よい状態を保つことを覚えていかないといけないのです。そこまでに1時間かかってもよいから、1時間のなかで終わったときに、始めたときよりも声の状態がよくなるようにトレーニングをつんでいくようにしてください。

 

即戦力としての表現力を高めることと基本のトレーニングとは、目的が違います。表現のために声を荒らしてしまうようなときは、ストップすることです。本当は両方、一致してくるまで待たないといけないのです。体が合理的に技術として使えるから表現も高まるのです。

 

 最初は、感情表現をしたら声が出てこないし、声だけでしっかりと言うと、今度は感情が出てこないとなるのがあたりまえです。技術の上にのった表現ということは必要なくて、表現したものに技術がついていたらよいのです。

 

ことばで言っているところで表現はできていても、技術がついていないと音にのせたときに荒れてしまいます。体も使えているし、息も吐けていても、声を捉えて動かせないことも多いのです。やっていることは間違っていないのですが、声の状態がよくないときは原点に戻すことです。試合をやっているのかファームのトレーニングなのか、それを混同しないことです。

 

「あ あな」(ミ ミミ)

 「な」でつくらないで、「あ」からそのままもってきます。「あ」を言っているところで「な」をとるぐらいです。このようにナ行やア行を使ったり、ハミングを使って調整するやり方があります。

 

「たとえば」(ラシドシ)

 これも4つでとらないことです。「たとえば」あるいは「たとーえば」と、その前のところで入れておかないと、これが歌になったときに、単に伸びてしまうだけになります。「え」で強く入れるのも、よいでしょう。どこかで一つ捉えておくと動いてきます。

 

「たとえば あのひ あなたと」(ラシドレ ミミミ レレドド)

 ここで一番、難しいのが「ひ」です。どうしてもひびきに逃げてしまうので「の」のところできちんと入れておくことです。それから「たと」が入りにくいから、切り込みを鋭くします。ヴォリュームと声量をつけることでカバーしていきます。

 

音域が広くなるにつれ、声量がないと、音声が一つにならないのです。どこかのところで一つにまとめて離したり、どこかでつかんで、置き直していくわけです。一つのフレーズでできなければ、これを、まず3つのフレーズで捉えることです。

 

要は、入るところできちんと捉えておくことです。捉えるとか離すということより、表現として、それを支える線が1本、通ることです。どこか強くするのはよいのですが、その強くしているところが自分の呼吸のなかでしぜんに位置づけられるようでなくてはなりません。何回もやれば、フィットしてくるはずです。自分の身体サイズにフィットするものが、歌なのです。

 

 今、トレーニングでやっていきたいのは、その寸法をなるだけ大きめにイメージして捉えておくことです。2、3倍ぐらいの体があると思ってやってください。そうではないと、今の体以下にまとまっていく方向にいってしまいます。

 

中途半端に捉えて中途半端に離さないことです。完全に捉えておいて、完全に離していく。捉えられないなら、まず捉えることからやることです。体が足りなくても、ギリギリで一つにすることです。

 

 この3つのフレーズなら、まずは3つの山の強弱を自分で考えて、計算するというよりも、体の流れに応じて表現します。足らなくなったら足らなくなったで、途中まで目一杯、出し切ります。その線にヴォリューム感、波をつけていくことです。どこで押して、どこでひくかです。押すだけ押してひいた方が簡単なのです。

 

押す、ひく、押す、ひくとやっていると複雑になります。しかし、それも一つの練習でしょう。大きな勢いにのせる感覚で処理していきましょう。結局、山と谷が丸々とみえ、ことばの置き方が同じになると、一本調子といわれるわけです。

 

「あーのひ」とどこか一ヶ所がしまっていたら、しばらくはもつわけです。ただ、本当のことでいうと、テンションをより高くみせていかなくてはいけないのです。もちろん、最初の「たとえば」から入らないと通じません。

 

 「たとえば」だけを「ラ」でも「ア」でも、ことばを練り込むところと、離すところを自分でつくっていくことです。「ララララ」はできますが、そうではなくて「ララーララ」というようにしていきます。「たーとー」という線があって、そのままやっていると、体ももたないし、それから線がみえてしまいます。

 

これは「た」で急なクレッシェンドかけて、次の音をとります。「たー」「とー」ではなくて、言い直してもよいのですが、それを「たーとー」のなかで入れないといけないのです。「たー」で「と」までとっておき、そこにすべり込むようにするのです。

 

「たーあー」

 この「あ」で、もう1回、入れればよいだけです。「たー」「あー」とならないで同じ線が2本なるのではなくて、次の「あ」のところも、もう一歩、踏みとどまる感じです。

全部の歌に共通して使われていることです。「たー」のところでより体を使っていく方向でやり、それを離さないことです。

 

「ラーアー」

 「アー」を言うことが基本です。要は体で言いきることです。「ラ」は強くても、「ア」のところが弱くなってしまうのではだめです。ポジションでとっているだけでは、歌になりません。

ポジションを同じにしたあとは体を動かし、メリハリをつけて動かしていないから、その先にいかないのです。

 

「ラーアーアー」

 2番目を一番大きくして3音目をまとめてもよいし、3音目を大きくしてその中でまとめてもよいでしょう。余裕があれば、3音目を大きくしていきたいのですが、それは皆さんの体力とその配分にまかせます。

 

「ラー」「アー」「アー」と3つにおかれてしまうと、どんなにきれいに出してもそこに動きは出てこなくなってしまいます。大切なのは「ラ」をきちんと捉えておいて、そこから「アーア」まできちんと体でもっていくこと。ヴォリュームをつけるとしたら、そこにしかつかないわけです。頭でいきなりつけようといっても無理です。

 

 確実にキープしておくことと、その次の音にどうつなげるかということです。そこでイメージをふくらましておかないとだめです。3つの音の感覚を一つにし、そこに表現を出すことです。感覚的には上にいくという感覚ではなく、その線を動かすわけです。「ラ」でも「ア」だけでもよいです。それを離してはいけないということです。

 

 歌うことというのは、思い切って、突き離してしまうことですが、そのまえに徹底的にキープしておくことです。そこまでに体を入れておくから、表現が動き出し活きるわけです。

 

 ポジションをそらしてはヴォイストレーニングになりません。ポピュラーの場合は声がなくても、声量がなくても、ハスキーな声であっても、それが体できちんとコントロールしていたらもちます。一番、まずいのが体や心から離れた発声のための発声になってしまうことです。

 

これでは歌はうまくなっている気がしても、限界がきます。それは体を使わなくてできることだから、そこで伝えようとしたら今度は小手先の発声の技術(くせ)がいります。これをどういうふうに聞かせていくかと決めて固めていくと、誰でも少しはうまく聞こえるのですが、そんなことを最初からやっているから体ができてこないのです。

 

今やって欲しいことは、「あぁー」という感覚のところで、その音をどうやって思いっきり出した上で音楽的にまとめるかです。最後の「ア」という音を吐き切っても、最後まで体で息をもっていなくてはいけないのです。どんな小さな音量を出していても、きちんとキープしていないといけないのです。ポジションがどこになっても、どこがひびいていても、同じです。それが浮いたままで戻らなければ投げ出しているわけです。

 

「あおえあ」(ラドドレ)

 音感もリズム感も本当のことでいうと、自分の頭が働いてとるのではなく、自分の体でおいていかないといけません。そうでないと、本当の意味でとれないからです。正確にとろうという方に頭がいってしまう限り、そこに表現はでてこないのです。

 

一番簡単なのは、ロックやポップスの場合は流れをつくることです。まずインパクトを与えることです。これはフレーズでいうと、最初の「あ」のところできちんと出せるということです。それから「えあ」といったあとに、きちんと自分の体で切る習慣をつけていくことです。

 

間がめちゃめちゃになっていても、最後が乱れてつまっていっても、そのうち慣れてきます。テンションが高くなると大体そうなっていくものです。つまり、キレが必要です。もちろん、キレばかりだとつまらないから、それなりにコクもおいていかないといけないです。その両方の要素がいります。ことばが深くなって、息が深くなって、声自体が太くなってくると、そういうことが体のなかに入ってきて、操作がいらなくなってきます。

 

 そういう意味でもまず、体に声も表現も入れていかないといけません。全部、入れて力だけに頼ったら、こもってしまいます。出ている声での判断と、体の状態の判断が一致しないうちは、自分一人でのトレーニングは、本当に正しくはできないのです。体の状態がよくとも出ている声があまりよくないときもあります。体の状態がよいというのはうまくバランスがとれ、声につながっているときを示します。

 

完全なフォームで打てたけど、それがピッチャーフライになったというのと、ポンと泳いだバットを出したらヒットになったときとでは、試合とか勝負の場合はともかく、フォームづくりの練習なら、後者ではよくありません。相手に捕られてもきちんと真芯で打てている方がよいのです。

 

こもっていても、体がその状態を捉えられていたら、それでステージはできないのですが、よしとすべき時期もあります。全部を結果、今、アウトプットされたもので判断してしまうと、体自体のなかで一つの統一感の得られるプロセスが捉えられなくなります。

 

プロになった人をみていたら、へたなトレーナーの言うことを無視してやって、覚えてくるわけです。これはスポーツも同じだと思います。一歩間違えたら怪我に近づくぐらいのことをして、そこでギリギリ、才能やセンスでかわしているわけです。

 

声の場合は、それでかわせないとつぶれてしまう人も出てくるから注意しなくてはいけないのですが、やはり破っていかないと、ただまとまる方向になっていきます。表現への欲がなく、耳が鍛えられていないから、間違うわけです。結局、体のなかを将来にわたってよみこめるトレーナーにつくしかありません。

 

 体を使おうとした人は、一時的にこもったり、フラットすることもあります。大きなフォームでは三振するのと同じです。それはできていない体だからです。トレーニングのときにできていない体、即ち調律されていない楽器であるのに、表面に出てくる音が狂っているからと直すことが、どのぐらい意味があるのでしょうか。

 

その人が体を使ってやろうとしているときには、表面上での判断はしないでおくことです。トレーニングの目的にそっていればよいのです。だからといって、人前に出すときには、音程やリズムは狂っていてはいけません。両方の感覚を自分のなかで捉えていないといけないわけです。その人によって、表現に対する価値観や、やり方は違ってよいのです。頭から入らないとやれない人や体だけやっている方がよい人とか、タイプにより覚え方も違うと思いますし、めざす声自体も違います。

 

 ただ条件は、表現したとき、どうできてきても、人に聞かせられるだけのものをもっていないといけないのです。最終的に音楽が宿る条件が備わらないといけないのです。ことばでとっていく、点でとっていくのではなく、線でとっていくこと。それから押す、ひくという感覚で動かしていくこと。そうでない限り、自分の体とその声そのものが、一体にはならないです。音に心が宿りません。基本のできていない人はどうしても乱れてきます。技術がないと、乱れてしまうのです。

 

 いくら声を出そうとしても出ない人は、とにかく走ってきましょう。走ってきて息が深くなって体の状態がほぐれているときに出ている声が一つで捉えられる感覚を覚えましょう。ことばが3音ぐらい言えるのであれば、それがベースです。どういう状態でも、それをキープしていくことです。

 

その中で今みたいなトレーニングを何回もしていきます。体を捉えること、息を捉えること、声を捉えることでフレーズをつくり、それからそこにどうおくかということをやっていきます。線になってくると、自由にことばをおけるわけです。

 

センスの悪いおき方をすると聞き苦しくなります。心地よいズレをつくっていくのが、歌です。リズムでも音感でも、そのズレを心地よくずらさせることを学ぶのに、一流のものを聞き込む必要があるのです。それは難しいことですが、自分のなかで本当に感じていないといけません。そのときの一体感というのは難しいのですが、こういうトレーニングのなかでしか感じられないと思います。

 

3分の中で1曲歌っていて、その中で感じつづけられるというのは、相当なレベルで歌っていないと無理でしょう。そういう人たちというのは、必ず何かを感じていて、それを出すことが歌だということを知っています。その箇所をなるだけ多くしていくのです。

 

最初は1曲で2、3ヵ所というところから始めればよいでしょう。練習の中で1フレーズ、半オクターブのなかでやるところからでよいのです。それが確実にとりだせるようにするというのが、声のトレーニングが、歌と違うところです。

 

声というのは「ハイ」「ララ」と一番、正しいものをとっていけばよいのですが、歌の場合はそれが決まっていないから自分で感覚でとっていかないといけないのです。だから、難しいし、おもしろいのです。

 

「アアアア アアアア」

 なるだけ大きな声で大きなフレーズにしてください。磨いて欲しい感覚は、一つのフレーズを与えられたときに、どこにどう盛り上げるかということです。音とリズムの組み合わせで決まってくるので、そこをはずさないことです。

 

作曲の知識やコードを知らなくても、耳がよければ、あとは体に一つに入れれば決まってくるわけです。最初から、ことばが言え、そこで一つのフレーズをつくることにこだわりましょう。そこで入れ込まないと、誰もひきつけられないのです。多くの人が、後半を泳がしてしまうのですが、それでは聞いている人も逃げていってしまいます。

 

大きなフレーズになってくると、どこかに入れない限り、後半までもたないのです。音の進行は当然、上に上がるのだから、上がる前のところでつかんでいかないといけません。何のために上がるかというと、より高揚して伝えたいから上がるわけです。そこでは、どこかに入れていかないと、落ちるところもなくなってしまいます。そこで山にして出していかないといけません。山をつくって谷があると考えてもよいし、インパクトをつけてそれの跳ね返りを保つと考えてもよいでしょう。

 

 共通して言えることは、音が流れる上にことばが止まっていないとだめです。ことばを流し、音も流してしまったらだめです。ことばを止めることが難しいのです。止めるというのは体でもっていかないといけないわけです。完全に静止してしまったら音楽にならないから、感覚のなかで止めておくわけです。だから大きく歌い上げる歌ほど、きちんと止める感覚がないとだめです。それをとめたくなければ、シャウトするしかないわけです。

 

「あのひ」

 「あのひ」を一つに捉えることです。「あのひ」と言い切るまえに、声が流れていると、ひびきをつけたらもっと流れるだけです。音楽的にとりすぎてしまって失敗することが多いのです。それは、踏みとどまっていないからです。

 

まず、歌を歌いあげようとする感覚をすてないとだめです。「あのひ」というだけで歌であるわけです。そのまま音がついていればよいわけです。それ以上のことを、頭のなかにあるイメージで歌うと、「あーのーひー」となって、聞けなくなってしまいます。いったい、どこの音楽がそのようなことをやっているのでしょうか。

 

声を聞かせる音楽はともかく、ここでやって欲しいことは、ことばは捉えていき、そこに音をのせるということです。それが自分の中の感覚のところでしぜんと流れ、音楽的になっているのならよいのです。どこかが表現できてきたら、次にさらに何を入れるかということです。それがなくてずっと続いていくと単調になっていきます。

 

ことばで言えていることが、音楽になったときに体とか呼吸とかがより大きなもので使われて、それで動き出していてはじめて、メロディになって、本当の音やリズムが伝わるのです。最初にリズムがあって、メロディがあって、それに対し声を薄く伸ばしていても、そこに音楽は出てこないです。表現がひっこんでしまいます。時間がだらだらと退屈になるのでは困ります。

 

歌のテンションの高さとか緊迫感とかメリハリとか、すきのなさというのは、すべて体でつかんでいるところからの音とのかけあい以外ではつくられないのです。

 

 間違っているのは、多くの場合、歌う人のイメージです。表現のまえに発声が出てはいけないということです。まともな人の歌に発声は聞こえません。技術としては聞こえますが、すごく伸ばしているとか、あんな声がでるのかというくらいで、発声という形では耳に聞こえてこないはずです。テープにとって自分で聞いてみましょう。

 

ことばが言えること、そのことばの線上でことばのフレーズを音楽的にしていくことです。そうしたら、どこかに自分の気持ちが入るはずです。自分のなかで本当に「おかあさん」といったときに、音がどのようにとれて、どう動いているのでしょうか。

 

それが自分でもしらじらしいようなら歌になっても間違いです。「あのひ あなた」でも、フレーズをすぐに音楽に頼るところから入らないで、読んでいることが歌に聞こえてくるところに、音楽的な要素を加えて、3分もたせるところからやることです。

 

 発声上の問題よりも、イメージングの問題が大きいのです。続けているうちに、自分のなかでわからなくなっていくと声の調子もくずれます。心が離れてしまうからだめなのです。イメージングがきちんとできていたら、声の調子が相当悪くても、歌はもつのです。実際、ポピュラーの場合は全部を歌うわけではないからです。

 

自分のなかで歌われていたら、呼吸をみせようとするだけでよいのです。声で出てこなくても、そのフレーズはみえてくるわけです。全部、歌うと歌はみえすぎてしまいます。それを隠すためにリズムがあったり、シンコペーションなど他の要素が入ってくるわけです。

 

 「たとえば あのひ あなたと」とことばで言ってみて、一つに捉えましょう。それでメロディをつけてみたときに、メロディや音程が聞こえないで、ことばで言いきれて、そこにメロディや音程が入っているということが大切です。それが少しでも長くもてるようになれば、そこがヴォーカリストの一番のベースとなります。

 

そこのヴォリューム感とか緊張感を失ってまで声を伸ばしてはいけないのです。もし、つかめていないまま安易に伸ばすのなら、切った方がよいです。歌のなかで遊びの部分が出てきたり、飾りの部分が出てくるのはよいのですが、はずせないポイントというのがあります。それを捉えて展開していくのが歌だと捉えた方が間違わないと思います。そうすると、体を使わざるをえなくなるからです。

 

 体の方がついて、息が吐けるようになったら、ますます調整を綿密にやっていかないと声を壊してしまいます。本格的なトレーニングをする以前だと壊れてもすぐ戻ったことが、体も息も無理やり使えるようになると、バランスも一緒に覚えていかないといけなくなります。そのときにかたよっていくと、上達は難しくなってきます。

 

歌とか表現したいことは、単純にやっていかないとだめです。複雑にやっていたら、もっとわからなくなってきます。いろんな声が出るようになり、いろんな音がとれるようになってきても、自分で一体どうなるのかわからなくなってしまいます。

 

 歌はただ歌っているわけですから、そのシンプルな感覚のなかでも声もシンプルに出ているのが正しいのです。複雑に出ていたり、ややこしくなっているのはだめだということです。一時期、リズムに凝ってしまったり、声がろうろうと出ることとか、長く伸ばすことが気持ちよくなってくることもあるでしょう。しかし、あくまで歌の表現は最小限の力で最大にみせるためにどうするかということです。

 

同じ声ならどう使えばよいのか。同じようにできるのなら、体をセーブし、より大きなインパクトを与える方に余力をまわした方がよいわけです。体の力を使っていくのが歌ではありません。実際は同じインパクトを与えられるなら体も使わない方がよいわけです。抜けるところは全部、抜いていって、しかし、おくところを一つもそらさないことができてくれば一流です。

 

それでも決して、3分の歌を10分にはしないわけです。そうしたら、どこかのところで、やはり相当、入れているところがあるから、歌は3分間で成り立つものであることを知るべきです。抜いているところもそのレベルが見えないぐらいに統一できるはずです。そういう感じで勉強してみてください。これが、歌うまでに必要なこと、すべてです。もう一度、そのプロセスを確認してください。