一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

合宿特集Ⅵ 合宿アンケート集計

Ⅵ 合宿アンケート集計

 

 

合宿メニュー

●初日

 1.ソロライブ+自己紹介

 2.散歩、ジョギング、自然探索

 3.ヴォイストレーニン

 4.エチュード見本(昨年参加メンバーによる)

 5.夜のメニュ(波の音とアニタ・オデイ

 6.エチュード解説(星は光りぬ ジョルジア ピアフ)

 7.特別セミナーa

 

●2日目

 8.朝のウォーミングアップ(3日目も)

 9.各班トレーニング1

 10.エチュード スクーリング(各班コンセプトづくり)

 11.特別セミナーb(カンツォーネ他)

 12.エチュード スクーリング発表会(一人ずつ10題)

 

●最終日

 13.各班トレーニング2

 14.発表会(A、B、C班)

 15.メニュー解説(星の王子様ほか)

 16.フィナーレ(天の声)

 

 

 

◯メニュで学んだこと、感想

 

1.ソロライブ+自己紹介

 

ソロライブをやっていて、ステージの広さと高さを感じられた。もっともっと大きく歌わないと、あの広さでのみこまれてしまうのだから、とても大きな劇場では全く歯がたたないのだろう。

 

まだお客さんをみることができない。笑顔を出せない。心を開いていない? 

 

ーーさんの歌い終わったあとの笑顔がきれいだった。お客の反応がこわい。

 

ああいう場で“どん”とできる人はすごいな。私はいつも、どこかで“程度”を決めてしまっている。

 

最初に各人の歌を聞くと、それぞれの人がどんな人なのかがわかりやすくて、よかったと思います。

 

私自身のライブに関しては、まだ遠慮があって、100パーセント、力を出し切っていなかった。

 

お話にあった、「これが最後かもしれない」というぐらいの心構えがなかった。

次回から、悔いを残さないようにしたい。

 

人の発表を観ていると「開く」ことができている人と、そうでない人の差がわかった。全神経が表現に集中できている人は、そこで一つになったパワーを外に解放できる。雑念が入って集中できない人は、外からのプレッシャーに負けてしまうか、はじめから緊張感をもてないでいるかのどちらか。

 

2分間をステージと考えている人、できない人、密度の濃さで開きがあった。

たった2分でもステージなんだと教えられた。そこで出せることの難しさを思い知らされた。

 

 

 

2.散歩、ジョギング、自然探索

 

鳥の声、木が揺れる音、光、風。自然の空気が全身で感じられた。芝生に寝ころんで目をつぶっていると、太陽が体を暖めてくれた。私は愛されていると、それだけで感じる。生と死について考えてしまう。

 

本当に久しぶりに都会を離れて自然のなかで伸び伸びできた。散歩していて、何だかオレは忙しすぎるなーと思った。

何でいつもアクセクやってんだろう? 何のため? ふつふつと今の自分に対する疑問が浮かんだ。

 

空を見たの、すごく久しぶりだった。芝の上で寝ころんで、しばらく空を見ていた。

すごく貴重だった。幸せな時間だった。

 

気分が開放され、自然の空気をたくさん浴びて、心身ともリラックスできた。

 

きのこや木の実がたくさんあって、うれしくなってしまった。

 

 

 

3.ヴォイストレーニン

 

ヴォイストレーニングは、気持ちよかった。ゆっくり声を出して終わったと思ったとき、ピアノもやめていた。

 

散歩の後のリラックスした発声は、この時点でも、すごく声のノリが違うなと思った。

 

太陽の光が当たる広い場所だったので、いっくら声出してもいいぞー!! って言われてるみたいで、気持ちよく発声できた。

 

いつもと違って、息を伸ばすトレーニングだったので、改めて自分の息が細いと痛感した。

 

生のレッスンを受けられました。

 

今回、私の参加の目的でもある先生方や生徒の生のレッスン、声に触れることができました。深い息と体からの声の源を知ろうとしていました。

 

普段のレッスンと特別変わった内容ではなくても、環境が違うと声のノリとかも違ってくるのを実感しました。

 

 

 

4.エチュード見本(昨年メンバーによる)

 

とてもしぜんだった。喜びのエチュードまではよかった。喜び、希望のエチュードの難しさを知った。自分ならどうやるだろうと考えてみた。モノトーク(一言)がよかった。

 

一年前にやったことを、皆ちゃんと覚えており、息がピッタリだったのにビックリした。

気持ちがみんな入ってて、きれいだった。

 

昨年のメンバーとして参加したが、勢いでできてしまうものだ。

逆にどうやってやるかが本当に難しいと思った。

個人的には“赤ん坊”“泣く”“笑う”のエチュードの方が楽しかった。

 

このエチュードというのは、正にここのエッセンスが凝縮されていると、僕は思っている。

一見シンプル。しかしシンプルなものほどレベルの高いものにするのが困難なものはない。

いずれにしても、この見本以上のものだけは表現しよう!とだけは思った。

 

 

 

5.夜のメニュ(波の音とアニタオデイ)

 

波の音とあの声がとてもかみあっていて、気持ちがよかった。海辺で眠っているような気分でした。

 

不思議な空気だった。きれいな砂浜に打ち上げられたようだった。

波の音や波の繰り返す運動というのは、本当におもしろい。呼吸のようだ。

 

自然の音って、どうしてこんなに安らかな気持ちになるの。

日常から離れて“私”をみつめられる。

 

波の音がとても心地よかった。仰向けになりながら心も体も休まるようだった。

月の引力と波の関係とか、潮の関係とか、潮の動きと人体との関係もあると言われていることにも興味があります。

 

暗いところで波の音を聴いていると、その音は私の体の細胞に直接、入り込んでくるような感じがしました。

 

あたりも暗くなり、スタジオに入ると静かな波の音。

(しばらくそこに横になり)、体を休め、息を感じ、ゆったりとした幸福な気分にひたりました。

 

冬眠中のウサギのように眠らせてもらいました。

 

 

 

6.エチュード解説(星は光りぬ ジョルジア、ピアフ)

 

瞬間って大切だと思った。福島先生の“今すぐ大地震が起こって、あなたは死ぬとわかっている。

そんなときにどんな歌を歌いたいですか”この一語が聞けてよかった。

 

永遠というのはずっと続くことではなく、時空のない状態。

ピアフもその域に達していると思う。

「私たちには時間がない」帰ってから自分のこととして実感した。

このままじゃ終わらない。必ず成し遂げる。

 

「明日、大地震が起きるとしたら何を歌うか」という福島先生のことばがグサッときた。

「オレにはあるのか? あれっ出てこない…ない!!」…ショックだった。

「いつでも大地震が起きている」歌にはオレが程遠く、何て浅いレベルで歌っているんだ…。

 

ピアフとエチュードのことを考えていたせいか、とても印象的だった。

 

一人一文ずつ回したとき「あぁ、甘い…」のところ、難しくていやだなぁと思ったら、やっぱり当たってしまった。

…らしいという表現は、やっぱり無理があってふしぜんだと実感した。

 

“声で表現する”ってこんなに難しいことなんだ。

ここで聞いた人々はみんなその表現がすごかった。

私にとっては自分の心ですら、まだ遠い。

 

改めてきちんと歌っている人の作品を聞くと、スケールの大きさに気がつく。

星は光りぬは、目を閉じて聞いていても(日本語を見なくても)、盛り上がる感情やさびしさが伝わってくる。表現が大きい。

 

どのテノールも声のダイナミックスが素晴らしいので、ぜひモノにしたいところ。

ジョルジア大好き。すべてが美しいと思える人。

 

ジョルジアのリブ・フォエバーには個人的にも思い入れがあり、涙腺がゆるんだ。

この3曲が、今回の合宿の伏線となっており、改めて歌の難しさ、深さを感じた。

 

ピアフの表現力に圧倒された。“止めて”と叫んだときの表情が忘れられない。

 

合宿の直前に、パヴァロッティの「トスカ」を見たり、3大テノール講演を観に行ったりしていたので、「星は光りぬ」の人生最期の歌という背景も理解できていたが、これほどのテーマになると、まだ自分には歌えないと思ってしまう。

個人的にはパヴァロッティの「星は光りぬ」が好きで、何度も繰り返し聴きました。

 

「Who Wants To Live Forever」はQueenのオリジナルの方は聴いたことがあった。この曲はフレディ・マーキュリーが歌っていた頃は、おそらくまだエイズではなかったのではないかと思うが、生と死をテーマにした曲を彼が歌うと、その後の彼の姿がダブってしまう。

 

Queenのラストアルバムである「Made In Heaven」では、もっとこのテーマがリアルに歌われていて、死の恐怖をも克服してしまったかのようなフレディの天の声を聴いていると、涙が出てきてしまう。

 

いつも先生が言う“いいものを受け継いで欲しい”というのがすごく刺さった。

永遠とは今このとき、今できることをしないと何もできない。心と体とことばが一つになったか?

 

これはすごくよかった。福島先生の個人的な話を初めていろいろ聞くことができて、何だかうれしかった。

いろいろ考えさせられた。ピアフの顔が印象に残った。

 

オペラのアリア、シャンソン、超一流の歌声のなかでの福島先生の解説を聞いて感動しました。

せりふを一人ひとりまわしての輪唱(読み)、表情深く、深い声とせりふの人もいました。

私は詞を読むことにも、まだ薄っぺらだなあと思いました。

 

「リブ・フォエバー」(原曲は僕の好きなクイーン)、永遠の生などない、しかし一瞬のなかに永遠の生があるはずだ。一瞬を捉えたい、そしてさらには、永遠を捉えたい、歌という手段で。

 

息、声、そして表情で、歌を表現し、永遠の生を表現する。アーティストとして、一人の人間として…。

 

 

 

 

7.特別セミナー(オペラ)

 

いまいち表現しきれませんでした。全く中途半端でした。

 

歌の前に解説を入れてくださったので、歌のなかで意味を理解しやすくなった。

前に出て朗読された人で、印象に残った。

 

自分はぜんぜん浅く表現にならなかった。

歌はすばらしかった。

 

やってみたいと思いながらも手を上げず、他の人がどう出るか見てしまっていた。

いつも受け身な私。一体、何をしに来たのか、もっと自分に素直になって勇気を出してやらなければ、せっかくの課題も自分のものにすることができないままになってしまうと思った。

 

歌のストーリーの朗読は、とってもおもしろい課題だったと思う。

見てすぐに、そこまで役の心をつかめるのか、それが表現できたらすごい

 

声がとてもきれい。登場人物によって音色を使い分けている。すごいと思う

 

初めて見る台本で、台詞を読むということが難しかった。

読むのに夢中で、場面も把握できなかったし、気持ちも充分に込められなかった。

一度、目を通した後で読めば、もう少しうまく読めたと思う。

 

 

 

8.朝のウォーミングアップ

 

外で声を出しても、大気に吸い込まれてしまって、思う存分、声を出せるのがうれしいような、その手応えが感じられなくて(聞こえなくて)拍子抜けしてしまうような、何とも妙な感じだった。

 

やっぱり自然は大きかった。不思議な楽器の音色は、あの広く大きなしぜんのなかでも、美しくひびき渡って心地よかった。

 

マツの木がたくさん植えてあった。マツはのどにいいと聞いていたので、できるかぎりマツのそばで呼吸をとるようにした。

いつもより息が吸いやすかった。軽井沢の空気ってやる~と思った。

 

緑の芝生と朝の空気が気持ちよかった。

 

みんなが小さな虫になってるようなかんじ。眼を閉じると、霧が深い静かな谷にいるようで、いつまでもやっていたかった。

人の声っておもしろい。

 

とてもすがすがしく、ウソのような晴天がよかった。

自分は発声はほとんどスタジオの狭い空間のなかでしかやらないので、自然のなかで声を出すのはすごく大きくイメージが創れると思った。

 

先生が声を出すと、きちんとどこからかはね返ってくるのに、私の声はポトポト落ちて消えてしまった。

自然のなかで私は、自分がちっぽけなんだととても感じた。自然のなかで自然と一緒に歌えるようになりたい。

 

朝の体操は気持ちがいい。福島先生の貸してくれた鐘の音が忘れられない。

 

芝生の上に寝ころがって太陽を浴びることができたのが、一番、ぜいたくな時間に感じた。

自分のことを虫がたくさん近寄ってくる「よい女」だと思って、ちょっと自信がついた。

 

福島先生の持ってこれらた小さな鐘は、音も形もとてもすてきでした。音に集中しやすかった。

 

外でやるのがよかった。一面、青空だったから気分も開放された。

 

2日目の朝、息のウォーミングアップの後、ファルセットで鳥のように歌ったのは、大変、気持ちよく、特にトレーナーが美しく思えた(声が)。

 

本当に空気が澄んでいて、気持ちがよかった。

空気を思い切り吸い込んで、体をリラックスさせながらウォーミングアップができた。

30秒間の発声が、まだ苦しい。

 

小鳥が鳴いて緑にあふれ、チリンチリン。

 

体操をしながらの発声練習。人間くさい声はいいですね。

鳥の声をまねしたり、いろいろな声を聴いて発声しました。

 

 

 

9.各班トレーニング1

 

前夜からの話し合いが続き、やはりみんな少しでも煮つめて表現したいんだという気持ちがビシビシ伝わった。

 

 

10.エチュード  スクーリグ(各班コンセプトづくり)

 

前の日の夜に、前もって話し合いをしていたのだけれど、話せば話すほど、この課題がどんなに大きく深いものかわかったし、他の人のいろいろな考えを聞けて勉強になった。

私のなかに詰まっていたはずのものがスカスカだと感じた。

 

まず、このエチュード自体に抵抗をもっている人が、このエチュードへの意義を見つけることが先決となった。

自分でも新たにこのエチュードの意味が見えてきた。

 

今にして思えば、ムダな時間を過ごしてしまった。

うわべだけをとってつけたようにして話し合っていた。

もっと深くエグったように話すべきだった。

 

夜、遅くまで班の人と話し合った。班長さん、本当にご苦労さま。

初顔合わせの皆さんとも同じ土俵で話ができ、同じ目的に向かってつきない議論の数々。

 

 

 

11.特別セミナー(カンツォーネ他)

 

声もパワーも表情も空気も、普段とは全く違っていた。何もなくても、その人がやるだけで、その場所がステージになってしまう。私は同じことをできるだろうか? 

力をもっとつけなければいけないと思う。

 

発声練習ではなくて、ちゃんとした歌を聞いたのは久しぶりで、ウキウキしながら聴いてしまいました。

先生もすごく楽しそうな、よい顔をしていました。

 

ハリがあって、とてもいい声だと思った。体全部を共鳴させているのがよくわかる。

 

 

 

12.エチュード スクーリング発表会(1人10題)

 

短いことばに集約されたそれぞれの思いが本当にさまざまで、みんなの生きてきた道みたいなものを一瞬、垣間見たような気がした。

発表が進むにつれ、自分を伝えよう表現しようとする姿勢がピリピリと感じられた。

 

皆のしゃべりのなかにいいもの、光るコトバがいくつもあった。

同じようなことを考えている人もいておもしろかった。

皆、自分をさらけ出せたと思う。自分に関しては暗→明へ気持ちの切替えができず、重いまま終わって悔しかった。

 

自分はもう全く話にならなかった。煮つめてない。

入りきれるハズがない。一つだけ「絶望のエチュード」の出だしだけ入れたが、維持できなかった。

オレは何しに来てんだ? 

 

今まで心の奥底にあって目をそむけていたものに触れることができた。

何かが音をたてて“パリン”と割れて、気がついたら涙が出ていた。

本当に自分に素直になれたときだと思う。

 

封印していたことを自分の手でつかみ出して、それを口からことばにして吐き出す作業。

とってもハードな経験でしたが、久しぶりに泣きました。

何だか安心できた一瞬でした。

 

人によって、自分の感情を表わすことばがさまざまで、おもしろかった。

その感情と直接、関係のないことばでも、たった一言でも、その人だからこそ強烈に伝えられることってあるんだなと思った。

 

このメニュが自分にとっては最も「一瞬」=「永遠」を考えさせられた。

皆で回したからこそ限られたときに一瞬にして場をつくれたら…!と思った。

 

深い息でことばを発しようとすると、自分自身に嘘はつけないし、自分でしっかりと消化していることばしか言い切れないということを感じました。

普段から強く心に思っていることは、スムーズにことばになる。書きことばと話しことばは違う。書きことばは頭で考えたことば、話しことばは自分の身についたことば。

 

飾り、ごまかしのきかない場だった。ステージ実習だって本当はそうなんだけど、形だけでごまかすこともできる。全くごまかしがきかなくて、きつかった。

自分の嘘がみえてしまう。自分の弱点をさらされたような気がした。

 

これが自分のなかで開眼したところだ。

一瞬をつかむというテーマに、はじめて近づくことができた。

 

最初に福島先生に喝を入れられ、皆の気持ちがぐっと引き締まった。

一つのテーマに関して自分のことばで端的に伝えられるというのは、とても難しいことだと感じた。

 

 

 

13.各班トレーニング2

 

場の使い方、モノトーク後のエチュードに焦点を絞って練習した。やさしさのエチュードは、本当にうまくできない。入り込めない。どうしたらいいのか…とネックだった。

前半のエチュードは個を中心とした閉ざされた世界の表現に対して、後半はオープンで人と分かち合うことの難しさをいかに日常、そういうことができていないかをまざまざと感じた。

 

やさしさのエチュードは、発表している私たちだけでなく、観ていてくれる人たちをも含めて、その空間を創り出したいということで、誰かが軽井沢中…宇宙中をイメージしようと言い、そのやさしさの空間を創ろうということになった。

その一言がヒントになって、エチュード全体の流れがピタッとおさまったような感じだった。

 

みんな、前日とはすごく変わっていた。

特に喜びのエチュード

壁を破れ!! きれろ!! そのことばとみんな闘っていた。

 

このときは、自分はなかに入らないで見ていた。

自分たちがやっていることがどういうふうにやっているか、客観的に見れてよかったと思った。

 

最後のトレーニング。前夜、話し合ったことなどを頭においてやった。

手のひらに空間を感じること。この空間に宇宙全体を感じること。

 

ピアノ伴奏でのトレーニング。毎回、私も手を抜かずに全力で表現したと思います。

流れとして、表現方法についての稚拙でしょうか。

喜び、憎しみ、恐れ、いろいろな声の可能性を今、私も追求したいと思いました。

 

皆のテンションが高まっていて、誰かが何かを発するたびに、それはさらに深まっていく。

変な気負いもなく、軽井沢の空気に溶け込むような、それでいてここだけ別の光を放っているような感じだった。

 

 

 

14.発表会(A、B、C班)

 

個人的には喜びのエチュードが表現できずウソをついてしまった。ノートでもっと踏み込んでおかなくてはいけなかった。でも、まわりの人の声や風の涼しさ、取りの声がいつもより感じられた。

声をのせることも気持ちよいと思った。

C班の希望のエチュードがとても気持ちがよく、思わず一緒に声を出してしまった。

 

A班の発表をみて刺激をうけ、「これは全力を出さないと太刀打ちできない」と感じた。

わが班もベストのものが創れたと思う。

 

A班の天のエチュードをみて涙が出た。

地獄と天国がこんなに象徴的に創れるなんて驚いた。これを歌でやるんだなぁと思うのだった。

 

どの班も喜び、希望のエチュードのツメがあまかった。C班も練習したときよりうまくいかない。私の順番はすべて最後(モノトークなど)だったので、次のエチュードにうつるとき大変だった。しかし、自分の気持ちに忠実になりつつ、他の人に助けをかりた。

 

B班の誕生のエチュードが、すごく赤ちゃんのようだった。

自分が当事者だったからかもしれないが、C班のモノトークが一番テンションが高かったと思う。

何だか戦場で死体がゴロゴロしている荒野のなかから、自分の力で立ち上がるような意志を感じた。

 

一番、印象に残っているのはC班の憎しみ。一人の人をとことん追いかけ、どついているあの場面は、迫力があった。

 

最後の優しさと希望のところの班のメンバー全員の笑顔がすてきで、自分もしぜんに目を見てほほえめたのがよかったと思う。

 

内容も大切だけど時間の感覚をどこかで捉えた上で、感情、感性のラインを保つことの重要性を感じた。

おそらくこのエチュードをたった独りでやっても「もつ」ことが、芸人・アーティストなのかもしれない。

 

喜びのエチュードで、午前中の練習のときよりもプラスの方向に昇っていかなくて焦ってしまった。

深く沈んだ底から、プラスにもっていくためには、もっと大きなエネルギーが必要だと思った。

喜びのエチュードで昇りきれないと、やさしい声を出せないと感じた。

自分が喜んで幸せでいなければ、他人に対してやさしくなれないということだと思う。

 

どん底から上昇する矢印が見えてこなかった。

人間が見えた。悲しみを引きずったまま再生した人もいたけど、自分をさらけ出したことで、後の天の声のエネルギーを吸い取りやすくなったように思う。

 

昨年とはまた違うトレーニングだった。

よいところも悪いところもあったが、私はある意味で壁を破れなかった。それでも感じたし、胸にくるものはあった。

 

できあがったものをみると、各班、それぞれ個性的なことに驚きました。

それぞれに感動もしました。大きな大きな情熱と思いと感情のうねりと密度の高い発表会でした。

 

 

 

15.メニュー解説(星の王子様ほか)

 

合宿に行く前に“星の王子様”を資料としてもらった。一応は読んでみたものの、ただそれだけだった。今回の合宿のテーマだということで、その解説を聞いて、そんなふうにつながっていたんだと改めて知る思いだった。

結果でなく、プロセスが大切。すべての手続き(プロセス)を楽しめるようにとの先生のことばが胸に残った。私のなかに歌いたい気持ちが生まれ、今それに対していろいろな思いがでてきた。

今回のエチュードのように手続き(プロセス)をふんで“歌う”ことを育てていけたらと思う。

 

海水から雲に引き上げられるときが始まった? 全力を尽くせばあとは自動的に成る気がした(これからが勝負、やっとスタートラインに立った?)きまりを守ること。水をやらないとバラは枯れる。目でみない、心で見る→現実よりも感じることの方が正しい? 

 

「星の王子様」で先生が伝えたいと思っていることはわかっていたつもりだった。

あの物語のなかに、とてもシンプルで根源的なものがあるのでおどろいた。

私が思っていたより深かった。

 

おもしろかった。本当に何か一つを得るためには、何が必要か。

一番、心に残ったことばは、「プロセスを楽しめるか」ということ。自分はどうだろうか。

 

今まで、私は与えられたものしかやっていなかった。与えられるのを待っていた。でもそれではいつまでたっても何も得ることができない。自分でつかみにいかなければ、何にもならないと思った。

 

私は、私のなかのお花に暇をどれだけつぶしてきただろう? 

まだまだそんなに暇つぶししてないと思う。虫がつけば他の花へとあちこち歩きまわって、ダメにしてしまっていたんだと、話を聞いていて気づきました。一つの花、たった一つを大切に育てていこうと思いました。

 

先生の星の王子様の解説がすごく心に残っている。

 

「ステージ以前に戦いは終わっている」ということば、モノトークで実感した。

「肝心なことは目に見えない」と「手続きが必要だ」という話も、なるほどと思えるできごとが今回の合宿でいくつかあったので、心の整理をするのにタイムリーでした。

 

私が一番好きな本の“星の王子様”。今までは人との関係への教訓として思い返していたけれど、歌とのつきあいにおきかえることができるんだ。

一生のうちで大切な何かを自分の手にするとは、それが人であろうと他のことであろうと、辛抱と広い心が必要なんだと思った。

 

星の王子様は、子供の頃に読みかけたが、読み出すと、思っていたようなメルヘンな内容ではなく、意味がわからない世界や言い回しに退屈して途中で読むのをやめてしまった覚えがある。

今読む方が、ずっとわかりやすそうな、そういう意味では深くておもしろい。

 

プロセスがあって結果がある。人は目に見える結果に感動するが、それはそこまでに達するための目に見えない“暇つぶし”があればこそということ。

お金で「すばらしい声」が簡単に手に入ったとして、その声であなたは人を感動させることができますか? と言われたときに、全くその通りだと思った。

 

この話は知っていたけど、この部分がこんな解釈もできるのかと読み方の違いを感じた。

一つのことから100学べるのと、10ぐらいしか学べないのと器の違いを感じた。

「手続き」を踏むことを選ぶこと自体、新しいことなのかもしれない。

 

「星の王子様」の話がおもしろかったです。この話には、実生活に応用できる知恵が詰まっているように感じました。福島先生の解説の密度が濃くて、どれくらい吸収できたのかと思いますが、このメニュがぎりぎりの線だということはわかるような気がします。

 

ことばに思いが入っていればいるほど、声は深くなるということも確信がもてました。自分の頭でわかっているつもりのものをもう一度、整理して自分の体で消化すると、うまく昇華していけるということも感じました。「心で見る」「プロセスを踏む」ということばがとても印象に残りました。

 

「暇をつぶす」ということばにドキッとしました。子供の頃は得意だったのに、今は暇などないと思い込んで何でも早く片づけてしまおうとしている自分に気づきました。

「手続きを踏む」というのは新鮮なことばでした。焦るのは、手続きの存在を忘れているとき。誰よりも辛抱強く手続きを踏んでやろうじゃないの、という気になりました。

 

何をするにも半端で終わらしたら意味がない、とことんやってみて、そこから何かをつかみとることが大切。自分に合ったことをやっているかやろうとしているか。そのまえに本当の自分を知っているか、本当の自分になっているか。自分に嘘をついていないか。見つめ直さなければ、次が踏み出せないと思った。

 

暇つぶし。結局、本物へと近づくためには、徹底的に暇をつぶすしかないということ。

 

手続きを踏むこと。ギリギリでやること。見つめること。続けること。

 

学生時代、その後も、何かの機会に読んだり聞いたりした「星の王子様」ですが、今回、福島先生の解説を聴いて、今また大変、新鮮な感動を得ました。

 

福島先生の読みの深さとそれを人に伝える話しぶりには感嘆しています。「手続き」の大切さ、プロセスを愛しむこと、その他いっぱいいっぱい印象的なすばらしいお話と解説でした。そして、書くことの大切さ。本当にそうなんですよね。でもなかなかできない…。

 

「星の王子様」の話が、心のなかにスーッと入ってきた。発表が終わった後で、余計なものが排出された分、すんなりと新しいものが入ってくる、そんな感じだった。

 

 

 

16.フィナーレ(天の声)

 

声を出しながら、参加した一人ひとりとあいさつを交わしたり労をねぎらったり笑ったり泣いたりと、お互いにその声が揺らぐのを感じた。のどがつぶれてしまって思うように声が出なかった。出したいと思う声と出てくる声のギャップがあまりにすごくて、天の声のハーモニーにうまく加われなかった気がする。もちろん気持ちはあったけど、気持ちさえあればOKというわけにはいかないなと痛感!! 

気持ち(心)と声が一つにならないのが、自分自身、とてもはがゆかった。

 

抱きたい、抱かれたいといった不思議な気分だった。みんなやさしい人たちだと思った。抱きまくってしまった。ありがとう、ありがとうと思えた。こんな気分がいつでも出せれば、喜びの(幸せな)歌が歌えるのかもしれない。

 

福島先生にはアーティストとしてあるべき姿を見せてもらいました。何しろ先生と握手しただけで、皆、涙しちゃうんですから。先生のカリスマ性はすごい! アーティストたるもの、そうありたい。きっとふだん、皆に与えているものがとてつもなく大きいからでしょう。

 

皆と握手したりしてまわっているとき、ある女の子が瞳に涙をためて私の顔を見たとき、それがあまりにも純粋だったので、私は泣いてしまった。とてもしぜんに彼女と抱き合った。

 

今、このときこそ希望のエチュードでは? と思うほど、みんなの声から想いが伝わった。キレイだった。マジでゾクッときた。

 

今になって、喜びや希望の感情が溢れ出てきた。人とこんなに素直に強く抱き合ったのは、生まれて初めてだった。自分を受け止めてくれたことが、とても嬉しかった。ひとりじゃないんだと思った。

 

自分の声は恥ずかしながら低い音しか出ず、天の声になっていなかった。一人ひとり顔を合せてみて、すっと溶け合える人、構えてるなと思う人、何だか頼られてる気がする人e.t.c...声には出さないけど、伝わってくるものがあってちょっとつらかった。もっと「やさしさ」の研究をしようと思った。

 

とても不思議な気持ちになった。みんなの気持ちも一つになって、こぼれなかった涙が、しぜんにこぼれていた。

 

とても涙もろくなっている自分に驚く。皆の前をくるりと回ったときは、本当に感謝の気持ちで一杯になった。声がかれてしまった。

 

これを毎日やっていくと、何かすごいことが自分の周りで起きるのかもしれない。自分がどう変わるかより、現実社会を違った目で違った感覚器で捉えることができる日がくるかも。

 

「地の声」から「天の声」で生きて、周囲へ働きかける人になりたい。地の声の後の「再生」と、最初の「誕生」との違いに、何かスゴイヒントがつまっている気がした。本当にピュアなことは、すべてを知った上での「再生」なのだろう。

現実社会に傷つけられ、悲観しているのは、単に無知の単純さを守りたい甘えなのだろうと思う。現実社会で起きることは(アーティストとして生活の糧を得られないことも含めて)「再生→天の声」へステップする必要不可欠なことでもあるのかもしれない。しかし、やはりその前に、谷底まで地の声で叫び、泣き、絶望する激しさを体に埋め込む「手続き」をまず踏んでおかねばならないのは、言うまでもない。そこからどう「プラスへ転化」させ、違うステージを創れるようにするかが、ここの2年経過後からの命綱となる。

 

結局、2年もかけてわかったことは、まだたったこれだけで、入口への階段が見えただけなんだ。声が体がとばかり言っていたとき、こんなことはちっともわからなかったのが、オカシイ。これが「手続き」なのかなあ。

 

昨年の天の声がすごく印象に残っていて心地よかったので、今年もそれを期待していました。しかし、今年はその予感に反して、全く違った意味ですばらしいフィナーレだったと思います。この場の感触を忘れないようにしたいです。

 

あんなにたくさんの人と笑顔を交わし合ったのは、とても貴重なことだった。あのメンバーが3日間、ともにときを過ごしたことも一度きりのことで、それがさみしくてうれしい。でもあのときは幻ではなくて、いつでも思い出したいときに思い出せるはずだ。

 

すごくはち切れていたけど、頭のなかはすごく冷静だった。あー終わったんだなーと思ったことをよく覚えている。

 

軽井沢の風や鳥の声や太陽の光と一体になっている感覚が、わずかだけれど感じられたのは嬉しかった。ただ、私の発する声はまだ天の声ではなく、そう感じている自分もあの場にいて、解放しきれなかったのだと思うと悲しかった。

 

 

 

17.その他

 

天気に恵まれて、本当によかったと思う。軽井沢の風の匂いも木や草の緑も、空の青も感じることができた。都会のなかにもしぜんは存在しているけれど、改めてその密度の違いを実感した。夜の自然(青空とか風、音、空気)も感じたかった。

 

皆で中庭でお弁当を食べたのが楽しかった。

 

何度そろえてもトイレのスリッパが散らかるので腹がたった。

早朝5時頃、管理人のおじさんがトイレそうじをなさっているのを見てからますます、腹がたった。

(他の学校さんです、念のため)

 

2日目夜のグループミーティング。みんな焦ってのミーティング。エチュードに関してだけでなく、表現するものとしての心構えや壁を破る葛藤について話した。とても意義深いものだった。

 

 

 

 

 

◇全体のメニュ構成について

 

3日間であそこまでいけるとは想像を超えていた。本当にジェットコースターだ。ほんとに昇華した。

 

かなり厳しいメニュだが、必要なことはかりで勉強になる。

回を重ねるごとに自分のなかでもっともっと凝縮できるようにしていきたい。

 

気持ちの“根”の部分は柔らかくリラックスできたと思う。特に小さい楽器を使ったメニュでは、心身がほぐれて空気の流れや息の流れをしぜんに感じられた。

 

この“エチュード”のメニュは、モノトークに入ったりするのも流れのなかでしぜんにできるので、いろんな条件の人がランダムに集まって短時間でするには、入りやすいメニュだと思います。ただ全体として、まとめるときに少し苦労します。

 

エチュードを主体にした密度の濃い内容だと思いました。外でのんびりできる時間を作ってもらったことが、とてもよかったです。

 

今年は例年の反省もあってか、かなり余裕のあるメニュ構成となって、その分、一つひとつのメニュにじっくりと取り組むことができた反面、少しずつでもよいからハードなメニュにも取り組んでみたいとも思った。

 

昨年よりも余裕があってよかった。特別はユニークだったし、歌が聴けてよかった。

 

 

 

◇印象に残ったメニュと感想

 

星は光りぬとLive and foreverとピアフのを聞いたとき、グサッときた。

突然訪れる死を悔やまないためにも、瞬間を大切に生きたいと思った。

 

「星の王子様」…謎解きのようでした。

同じことを考えて生きている人たちがいるなんて。私は間違ってなかったんだー! すごいショッキングでした。ここって一種のソウルメイト状態? 妙な人生だったけど、生きててよかったー。

ずっとこの仲間と一緒にいたいと思った。

 

エチュード スクーリング。直接の叫びで、班や参加者全員の声が聞けたのでよかった。

本当にいろいろな声があった。

 

エチュード スクーリング…一番、自分をストレートに受け止め、ストレートに出せたときだと思う。これをやったことによって随分、自分と向き合うことがしぜんにできるようになった。

 

エチュード スクーリング発表会。モノトークよりきつかったです。10題のうち、心と体と声が一致したのはほんの一言二言だったが、うその判断が自分でできるようになった。

 

星の王子様の解説。一言一言が簡単なようで、とても深い意味があること。自分に照らし合せることができ、勉強になった。

 

星の王子様のお話が印象に残りました。今まで、自分が見落としていたことがあまりにも多かったことか!

 

「星は光りぬ」を聴いて胸にせまった。自分が死ぬ前の瞬間と、生きている間にもつ夢のような瞬間について想像してみた。その胸に迫る感じは、その後のメニュでも甦ってきた。今でも甦ってくる。

 

エチュード、トレーニング(リハーサル)でも本番でも、皆、一人ひとりの「自分というもの」に接することができて、それはいろいろな意味で勉強になった。

 

エチュードのスクーリング(班でのコンセプト作り)…一つの項目ずつに関して班の全員が話していくのは、一見ムダのようにも思えたが、一言から拡がっていって興味深い話が聞けたり、自分では思いもつかなかったイメージを聞いたり、そうやっていくうちに班としての一つの共通のものが意図してではなく、できた気がする。密度の濃い時間だった。

 

 

 

 

◇ステージで印象に残った人

 

ーーさんのモノトーク。イルカのことを話していた彼女の表情がすごくよかった。

しぜんな泣き顔。涙がきれいだと思った。

ーーさん…モノトークあなたの右腕が…と一瞬つまったところ。すごく悲しい間でした。

喜びのエチュードのときの両手を上にかざしたーーさんの姿が忘れられない。

ーーさんの“絶対みかえしてやるから”ということばも離れない。

ーーさん…ソロライブ。時間を凝縮するというのをみせてもらいました。

ソロライブのーー君。自分をすべて出し切ったという感じだった。うまいとはいえないのに、感動した。あの一所懸命さに打たれたのだと思う。よかった。

ーーさん…ソロライブ

ーーさん…ソロライブとエチュード発表会

ーーさん…エチュード スクーリング発表会で。真剣に表現しようとする姿勢がすごく伝わった。

「息のエチュード」での表現がすごく胸にきた。

ソロライブで「ブラボー」と歌ったーーさんが印象に残りました。何をやるにも全力投球する人、できる人なんだと感じました。エチュードの練習のとき、加藤さんは他の人をのんでしまうくらい、自分の空気の流れをもっていた。

モノトークで歌をやめないで…と彼女に言われたと言っていた人。その風景が浮かんだのでよかった。ちょっと胸がキュンとした。

ーーさん…ソロライブ+自己紹介

ーーさん…ソロライブ

ーーさん…エチュードスクーリング発表会

A班の関西メンバーでサルみたいな男の子。ソロライブのときにいきなり踊ってくれて、印象に残っています。

ーー君の“ブラボー”。

ーーさん…グループ発表のとき、全身で表現してて、すごく伝わってきた。

ーーさん…自己紹介にて。最後まで見てしまった。

名前を覚えていないが「ホテルマンをやっている声の大きい男性」まず、声が大きいのでどこにいても目立つし、そのユニークなキャラクターから吐かれることばも含めて、できあがっているという感じがした。

ーーさん…スクーリング発表、モノトークともに、すっと感情移入したかと思うと、終わった後にすっと元に戻れる。

ーーさん(ソロライブ)…ステージの空気を自分のものにしている感じがしました。

歌も含めてライブでの感動を語った京都からの女性。

ソウルフルな声も魅力的。その他、自分の体験(幸福ではない)を語った女性。

皆、ひたむきな情熱は感動的です。

ーー君…ソロライブ、随分、気合いが入っていた。

ーーさん…モノトーク、感動した。

ーーさん…ソロライブ、モノトーク、絵になっていた。モノトーク、よかった。

エチュードのスクーリングで「おいしい」と言った。あの一言は印象的だった。

彼女とは班も同じだったけど、何を言うにしてもするにしても、迷いなく自分をストレートに出している強さを感じる。

 

 

◇その他に印象に残った人

 

ーーさん…よかった。自分よりもっともっと深く考えている人だと思った。

ーーさん…ごはんを4杯もおかわりするし、トレーナーに二度も抱きついたというし、HOTな人なんだなぁと。歌もよかった。

ーーさん…「私たちは友だちではなく、アーティストの集まりだから」ということばが印象に残った。希望のエチュードで真ん中でソロのとき発信しようという意志がみられた。

ーーさん…今回、班長という立場を通して、彼女の人柄が見れました。見方が変わりました。広く世界に目を向けているし、何よりも人に対してやさしい視点、思いやりをもっている。

ーーさん…一緒に格闘技もがんばりましょう。

ーーさん…少しでもいい表現がしたいという姿勢。

ーーさん…すごく素直な子だと想った。

ーーさん…班のミーティングですごく助けてもらいました。

プロとしての自覚が一言一言のなかに感じられて、それが特別なことではなくあたりまえのことなんだと、自分をさらけ出すことに後ろ向きな雰囲気を前向きに変えるきっかけをつくってくれました。「みんないろいろ大変なんだね。でもやるだけだね。」ということばが、心に残りました。

ーーさん…彼女の発している雰囲気が私は好きでした。フワッとしているんだけど、どこか不思議な感じで奔放にも見えるし、少し淋しそうにも見えた。

ーーさん…とても“自分”を大事にしている。自分の気持ちに正直。“伝えたい”といういい欲の部分の想いが感じられる表現をときどき、リハのときなどに見せてくれていて、刺激になった。

ーーさん…どの表現も、生きざまが表われてて迫力があった。

ーーさん…班をとても上手にリードしてくれた。経験者ということもあって、メンバーの人たちが疲れがでてきてしまって、何となく行き詰まりを感じていたとき、「本当はこんなんじゃない。もっとみんないけるのに…どうやって気づいてもらったらいいのか…」と悩んでいた姿が印象的だった。

ーーさん…去年より大変なんだなーと感じたから。2年前の合唱ではうまいなーと思っただけだけど。

ーーさん…まわりをよく見ていて、包容力を感じました。目がいつでもまっすぐな光を発しているのが印象に残りました。

ーーさん。とてもすばらしいエネルギーをもらいました。

ーーさん…通信とはいえ、その年齢で続け、そして合宿にまで参加するという人を、僕は無条件に尊敬します。

ーーさん…これが自分だ、という思い切りのよさ。

ーーさん…彼はとにかく声が目立つ。違う場所にいても彼の声がバンバン聞こえてくる。

そしてなぜか、その声を聞くと笑いたくなってしまう。それは決して嘲笑ではなくて、楽しい気分にさせてくれるから。あの存在感はなかなかないと思う。

 

 

 

 

<3>全体

 

セミナーハウスについて

 

自分しだいでもっともっとこのセミナーハウスはいいものに変わる。

自分の考えや工夫しだいでもっと快適に暮らせた。

それと、やさしい方々に感謝します。

 

ピアノが部屋にあるというだけで感激。場所もよい。個人的には食事が少し不満。

でもそれは私だけだと思う。いつも食べるのが遅くて、迷惑をかけました。

 

きれいだし、おじさんが親切だった。

 

友人のうわさで、どんな恐ろしいところかと思ってたのに、全然そんなことなかったじゃないかっ!! 

私はお墓に手を合せましたよ。

おじさんが間寛平に似てて笑えた(ゴメンナサイ)。

 

合格です。

 

 

 

◇印象に残ったできごと

 

私たちが乗ったマイクロバスが見えなくなるまで、先生たちがずーっと手を振って見送ってくれたこと。

 

「天の声であまりキチガイみたいに叫ばれると」「欲求不満が解消されたんじゃない?」という優しいコトバにガーンガーンガーンだったので未だに印象に残っている。

 

皆そーゆーイジワルな見方してんの? でもきっと、世の中ってそんなもの。人によって考え方がずいぶん違うのに驚いた。感じることは同じだと思うのに。

 

たくさんあるが、駅から合宿所まで歩く途中出会った親切な人や、木やハナ、空気の匂い。あの澄んだ感覚は忘れられない。

 

やっぱり今年も深夜、食堂で布団にくるまってペンを走らせる姿が印象に残った。

帰りのバスが出発するとき、先生方がずーっと見送ってくださったこと。とてもあったかかったです。

 

最後のグループ発表のミーティングのとき、表現に不安な人もいて、その不安を取り除くようにいろいろアドバイスや自分たちの経験話をしてくれて、自分の不安な心も解消されてとても励まされた。

 

最後のフィナーレで、みんなとしぜんに抱き合えたこと。

 

天の声のとき、ーーさんが私の前に来たとき、少し遠い目をしてたので無理に目を合せたら、ちょっと驚かれていたようだけど、ぱっと表情が柔らかくなってほほえんでくれたので、うれしかった。

 

 

 

◇気づいたこと、学んだこと

 

いつもの授業についても言えることだが、私はどこか一歩ひいていて、積極性に欠けると思った。

他のメンバーは、いいものを創るためにすごく積極的だったので、それを強く感じた。

 

人と手を取り合うこと、一つになることの大切さを学んだ。それが今回、一番大きな収穫です。

 

自分の過去をどのように消化するのか(たとえば歌ったりエチュードにしたり叫んだり)について悩んでいたことが吹っ切れた。

 

ノートを書いていても、心の奥底に絶対、書きたくないことはしまってあって、それを封印しようと忘れていたふりをしていたけれど、そこを通らないと掘り返さないと、前に進めない、そう思った。

人間だから人を憎むのはあたりまえ、人を憎んでいる自分を受け入れることができて、否定していた自分から抜け出せた飢餓する。

 

人知れず、トイレのスリッパをそろえてくれた方、ありがとう。

 

自分にOKが出せないと、心から他人に思いやりをもつことはできない。

自分のことをいつも好きでいられるようになる努力をし続けることが、私には必要だ。

 

各人のなかでいろんな戦いがあって、それを発表する場を与えてもらうことによって、満足できるできないに関係なく、自分のなかに確認しながらインプットしていく貴重な時間だったと思う。

 

モノトークで「愛したい」「愛している」ってどういう意味なのか、どういうことなのか。私はそのことばそのものを口から出した瞬間に違うものになってしまう気がして使えなかったのだが…。連発する人が結構いたけど、聴いててなんか漠然としすぎてよくわからなかった。

 

本当に歌うには、本気で歌わないと伝わらないということ。

飾らず本心で歌わないとウソになってしまうということがよくわかった。

 

表現者としては、空間に対する感覚がとても大切であるということ。

今まで意識をしたことが全くなかったが、その場の空気を自分の存在によって変えていくには、とても重要であるし身につけていくのはとても難しいと思う。

生まれながらにしてもっている人にはかなわないのではないのか?

 

感情を動かさなければ何も生まれない。

感情に触れずに外側だけでカッコよく歌うことも可能だが、自分は感情を動かす歌を歌いたい。

 

生きている実感がつかめなかったり、孤独を感じたりして苦しんでいるのは皆、同じだということを、モノトークを聞いて気づきました。

表現したときに差が出るのは、今までどれだけ逃げずに闘ってきたかということ、自分にとって大事なことにどれだけこだわってきたかということなのだろう。

 

 

◇トレーナーとスタッフへのワンコメント

 

○福島

 

自分が力をつけることで、先生へ恩返ししたいです。本当に体に気をつけてください。愛してます。

 

体調崩したり、心配をおかけしてすみませんでした。

最近、先生が笑ったり冗談言われたり、自分のことを語ったりするのを皆、とても嬉しく感じています。無理されず、お身体を大事になさってください。

 

今回は、常にそばにいてくれて、先生は先生としてボクらの前にいるのではなく、あくまで先に気づいた者としてボクらに気づくためのものを提供しているに過ぎないということを実感しました。

先生のいわれることばは「アーティスト」であることを何も歌だけに限定しなくとも広い意味で人間としての教訓としても自分は受け止めています。

 

何らかの形、どんなジャンルでもいい、表現することで「絶対的な自分」と自信を得ることが、福島先生への恩返しだと思います。ヴォーカルを通してそれを得て、日々成長しようとする先生の姿勢が、今回の合宿を通して感じられ、同時に先生の人柄を見ることができて、ホントによかったと思います。

 

いろいろなものをくれました。ありがとうございました。今までより、少しだけ身近に感じました。

 

最後の「天の声」で握手してもらえたのが、すごくうれしかった。

「星の王子様」の話、しみじみとかみしめてしまった。もっともっと近づいて、関西弁でバスケットの話なんかができるようになるくらい、手続きを踏んでいきたいと思う。

 

先生、人間だったんですね。なぜだかフィナーレのとき、先生と握手をしたら涙が出ました。

 

結局、合宿で一番努力をしたのが、福島先生なので、我々の甘さを思い知らされます。ありがとうございます。

 

話しているときの顔の表情とお話の内容とに、すごいギャップのある方で、それが先生の一つの魅力だと思います。

 

フィナーレで、福島先生が輪の中に入って、一人ずつ回ってくださったことで心が動きました。

興味深いテーマと、密度の濃いメニュー、ありがとうございました。

 

スポーツの話や死に対する感覚とか、先生自身の体験の話が印象に残りました。

もう一つは「星は光りぬ」「星の王子様」などの材料を取り出してもらって、私はやっと気づいているわけで、与えられていることばかりで悔しいです。もっと自分で気づけるようになります。

 

福島先生はいつでもどこでも福島先生なんだなーと思った。

すごくうらやましい。その強さが欲しいと思った。

 

ギリギリというか、先生方の全力投球の誠実さとロマンチシズムに魅かれることが多いです。

 

帰り、私たちの車を道まで出てきて最後まで手を振ってくださっていた先生の姿は忘れられません。どんなにあたたかい気持ちになったか。ことばでなく行動で教わることができました。

 

 

 

◯スタッフ

 

いつも元気で明るい人です。でも一筋縄ではいかないおもしろさがあります。

 

“縁の下の力持ち”見えないところでいろいろと動き、細かいことをさりげなくこなしてしまうような感じがした。

 

なんか、いてくれるとホッとする人。やさしく、しかも厳しく見てくれる人。

 

ありがとうございました。出会えたことを嬉しく思っています。

 

全体を管理していて本当はすごく大変なハズなのに、いつも笑顔は絶やさずしっかり対応してくれるのは、ホントにすごいことだと思います。

(今回は、個人的に体調のことで気を使っていただいて、本当にありがとうございました。)

 

具合が悪かったのに、本当にいろいろありがとうございました。

最終日、荷物を全部、部屋から運び出してくれたのには感激しました。

縁の下の力もちそのもの、スタッフの鏡だと思います。

 

彼女は明るくていいですね。もし、知り合うところがここじゃなかったら、結婚を申し込んでいたと思います。

 

合宿に限らずですが、私たち生徒や他のスタッフを影ながら支えてくれている、研究所にとってなくてはならぬ人だと思います。

忙しそうで、いつも声をかけられませんが、いつも感謝しています。

 

いつも電話をかけると、本当に親身になって答えてくれます。

 

いつも元気で声が大きくて、ビデオを録りながらリズムをとっている。いると、とてもホッとします。

 

 

 

◇参加メンバーへのワンコメント

 

止まらずに進んでいこう。忘れずに。

 

今回、班でいっしょになったメンバーのみんなは、すごく家族的なつながりのようなものを感じました。みんな、本当に頑張って欲しいです。心からみんなにお礼をいいます。本当にどうもありがとう。

 

いっぱい助けてくれてありがとうございました。皆さんからいろんなものをたくさんもらいました。

みんなそれぞれ、この合宿をステップに大きくなれるといいですね。きっとなれますよ!

 

各々のよいところを無言で盗み合えるような関係でありたいと思う。

 

それぞれの人が直面している問題を、逃げずに克服していきたいですね。

 

今回の合宿の課題にともに苦しみ、発表の場を分かち合ったことを忘れません。

今の自分に誠実なことばや表情を出していた人たちのことが、私は大好きです。

 

みんな、今度集うときはおたがいもっともっと高いステージで再会したいので、おたがいもっともっと頑張ってやりましょう。団結は力なり!ですよ(ただし、ナアナアでは本当の団結はできませんよ!)。

 

 



■編集後記 Q(スタッフ)&Ei

 

 

なぜ今回は、一人ひとりと握手したの?
Ei 彼が一人ひとり抱きしめていたからさ


どうして…?
Ei 夏が過ぎてゆくからさ


寒くなるの?
Ei 心があつくなければね。


今月の会報は“熱い”ね
Ei 厚いよ


子供の心をもった大人でなくてはいけないのに、

       いつもは大人の心をもった子供ばかりなんだね
Ei ・・・・・・・・。


でも読んだら焚きつけられて、また熱くなるんじゃない?
E ・・・・・・・・。いつも芯から燃えてなくちゃ


クールね
Ei 熱いからね


がんばりましょう、ね    

 

 

合宿特集Ⅴ  (少し危ない感想文)

Ⅴ 合宿特集 (少し危ない感想文)

 

 

 この3日間で、いや準備段階の何日間も含めて得たものは…。“ウソの                                                                                                                                                                                                                                                      自分を再確認した”ということだった。合宿前の準備は考えただけでも大変で、それでも覚悟を決めたはずなのに、それを可能な限り、ギリギリまでやっただろうか…? 答えはNo、本物は、あんなんじゃないはずだ。3日間で班でエチュードを創り上げた。私はそれに対する姿勢もプロセスもライブも本物じゃなかった。ライブは特に入り込めなかった。疲れていた。入り込むまでテンションを高めることができなかった。でも何とか、そして何度も入り込もうと努力した。結局はできなかったけれど、最後まで諦めはしなかった。ただ入り込めていない状態で、あまりにもその振りをするのは自分自身、恥ずかしくてできなかった。なんとも中途半端な表現になってしまったと思う。

 モノトークは唯一、個人での発表の場だったので、振りをするなんて恥ずかしいことは絶対にしたくなかった。必死だった。正直言って、どういう感じだったかあまり覚えていない。そう言えば、全然緊張していなかったということが、フワッと浮かぶだけ。やさしさのエチュードは完全にノックアウト。のどがつぶれて思うように声がでない。ハモれない。全然、声が交わっていかないのがくやしかった。声が出ないなりに、体とか思いの波動とかできないものではなかったはずなのに、何か基本的なことを忘れていたような気がする。

 こうして散々な状況で合宿から帰って、私は本当に歌いたいのか、歌が必要なのか、できるのか、資格があるのか…といろいろ思いあぐねた。この先どうなるのか、続けられるのか、続けることに意味があるのか…と不安になった。迷った。でもやっぱり歌いたい。結果ではなく、そのプロセスを大切に、私のなかの“歌うこと”を育てていきたいと思った。

 

 

思い切って合宿に参加した。3日間、本当に苦しくてつらかった。周りのパワーに押しつぶされそうで、自分の存在がすごくちっぽけに思えて情けなかった。トレーニング中、食事中、入浴中、何をしていても泣けてきて、あふれる涙を必死におさえてた。とにかくトレーニング不足、勉強不足だということを痛感させられた。

 特にエチュードというテーマに取り組んだことで、自分の表現力のなさにつくづくあきれてしまった。でも、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。合宿に参加したことで、私にはやらなければならないことがたくさんあることを改めて確認できた。山ほど。

 感性を磨こう。もっと、読む・聴く・書く・見ることを貪欲にやる。もっとものごとを素直に受け止めよう。私にも私なりの表現の仕方を見つけていきたい。自分と正面から向き合い、自分を信じて自分と戦い続けたい。この合宿は私にとって、大収穫の場になった。私にパワーを与えてくれたみなさんに感謝です。

 

 

合宿へ行って、今まで忘れていた自分の呼吸やリズムを感じとることができました。宿題のノートを書いたことによって、自分の気持ちを整理できたし、いくら書いても足りないくらいだったけれど、本音がなかなかかけずにいて、封印してしまいたいぐらい怖いことを考えて、ことばにしてしまったときのことは最後まで書けずにいました。

 けれども、エチュードの練習をやっていくにつれて、体も心を開くことができるようになって、そんな自分も素直に受け止めることができたし、自分がもっている自分に対するイメージがそれを邪魔していたんだということに気づきました。人を嫌ったり憎むことなんて、ごくしぜんなことなんだと、やっと理解できました。そして、口に出したら自分が壊れてしまうくらい許せないことも言ってみると、とても楽になって、やっと自分が自分になれた気がしました。

 素直に笑って泣いて、怒って叫んで、喜んで、愛して、まっすぐ人の瞳を見られる、いつも押しとどめていた感情が流れ出て、何もさえ切るものがなくなったと感じました。けれども、そうしていくなかでわかっていると思っていた喜びや優しさが、本当の課題になっていて、最後まで答えが出せませんでした。 発表のときも、一所懸命やってはいるものの、どんどん冷めていく自分がいて、他の人にのまれてしまいそうになり、自分の課題への取り組みの足りなさと力のなさ、集中力のなさをとても感じました。

 練習をしていて、もう一つ気づいたことは、まわりの人に助けられるということでした。なかなか入り込めないでいるときも、まわりの音、声、空気など、いろんなものを聞いて自分のなかに取り込むと、しぜんとできてしまう、とても不思議でした。いつもいつも、ひとりぽっちだと思っていたけれど、そのとき一人じゃないことに気づきました。

 いつも私は、人に受け入れて欲しいと思っているのに、自分から心を開こうとしないで相手に何かを求めすぎていたとおもいました。それが壁を壊せなかった原因でした。人を怖がっていつも上目使いでもの欲しそうな目をしていた私は、今はまっすぐ前を向いて、相手の目を見ていられるようになりました。まずは自分を開くことが大切なんだと思いました。そうすればきっと、相手も受け取ってくれるはずだと、伝わるはずだと。人に写る自分ばかり気にして本当の自分を見失っていたけれど、自然、まわりの人たち、先生方、頑張った自分が、気づかせてくれました。そのままで、考えすぎないでいいんだと。きちんと受け止めてあげればいいんだということを。

 合宿を終えていろいろ課題は残ったけれど、今までよりもまっさらな自分をここへ連れてこれたことは、とても大きいと思います。いつまでも忘れずに、いつでもあの空と大地と緑と風のなかにいるような気持ちでいたい。

 

 

今回の合宿は、自分のなかでもできるだけ自分を出そうと思っていました。軽井沢に着いたら、空気もきれいだし、自然がいっぱいで空がすごく広く感じたのがうれしかったです。おかげで気持ちも落ち着き、しぜんに元気が出ました。やはり広い場所、自然のなかにいると不思議と元気が出てくるんだなと実感しました。

 そして何よりうれしかったのが、朝の十分な体操などでした。青空の下で体を動かすのがこんなに気持ちがいいのかと思い出しました。そのおかげか、エチュードの練習なども集中しやすかったです。やはり最初は、エチュードをする際、入りにくかったのですが、みんな真剣に取り組んでいて、考えていることの奥の深さにびっくりしました。そして、取り組んでいけばいくほど、みんなもそうだったのか、喜びのエチュードがなかなかうまくできないことにもびっくりしました。今までは、自分では喜びの表現はできる方だと思っていたのが、全然逆で、悲しみなどの方がやりやすかったということです。

 ノートを書いていても悲しいことや苦しかったことはすらすら書けるのに、うれしかったことや楽しかったことは、感情では覚えているんですが、文字に書くと、どううれしかったのか、どう楽しかったのか書けないのです。何に感動したかということも、そのときどきの小さな感動はあっても、すぐ忘れてしまっていたのですね。だから喜びを表現するときも、感覚を忘れてしまっているからわからなかったのです。

 そして何より自分に発見できたことは、いつの間にか感情を隠すことばかりしていたことです。これは、私に限らずみんなそうだったようです。みんな社会に出ると協調することばかり気にして自己表現することをだんだん忘れていってしまったんですね。自分もいつの間にかそうなってしまって、殻をだんだん大きくつくってしまったのです。素直に喜んだりすることが、恥ずかしいと心のどこかで思っていたのでしょうね。

 でもそのようなことをいつまでも思っていたのでは、いつまでたっても本当の歌は歌えないと思いました。自分が恥ずかしいと思ってやってたら、見てる方はもっと恥ずかしいということばに突き刺さるものがありました。

 プロのロッカーが言ってたように、人がどう思おうと自分が表現したいものをやり続けるというように、私も、自分自身を全身でぶつけていかなくてはと思いました。まだまだ厚い殻を破るのは、時間がかかりそうですが、努力し続けようと思います。それが私の目標とする自分なのですから。

 

 

とても苦しくて結果も悲惨だったけれど、気づくことが多かった3日間だった。参加1回目のこともあって、2年目3年目の人のそばにいようと思っていた。

 前夜祭でエチュードに入り込めなかった。自分の目の前で人が狂ってる。目をつぶっていてもわかる。逆にどんどん、自分の気持ちが冷めていくのを感じた。他の人のパワーを体中で感じようと思っていても、客観的にならずにいられなかった自分が悪い。後で福島先生に入り方の問題だと言われた。「入る」…。思い込みの力を借りて、何か自分を増大させていったらいいのかなとか考えながら、当日になってしまった。

 モノトークのことを振り返れば、内容は他人がどう思うにせよ、自分が一番、入りやすいようにあえて選んだことだった。どん底から昇華の域へ昇らなければいけない。それだけを目指した。エチュードスクーリングの個人的意見の発表会にて、私は全体のテンションを下げたかもしれない。問われたことに対してイメージが湧かなかった。宿題ではなく、今までの自分に対して勉強不足なのだろうか。時間が迫ってきたころ、最後の福島先生のコメントで「本当にそう思ってるんでしょうかねぇ」と言われた。

 最初の問い以外には、私の気持ちは変わっていない。泣いたり笑ったりして得た自分の意志。ただ、私はそのときシャウトしなかった。単純にこみ上げてくる気持ちがなかった。入会したての人々に支えられているなんて言われてハッとしてしまった。

 憎しみのエチュードから希望のエチュードへ、どうやったらスムーズに流れるかモノトークを考えよと言われていたので、私は最後に明るくもっていけばいいんだなって思っていた。過去に済んでしまったことについて、起承転結で原稿を作成していた。今の自分の気持ちがスッとしているがために、スクーリングでも落ち着いた気分が出てしまった。

 終わってから、別に解決したことじゃなくてもいいんじゃないかっていう気がした。現に本番では、組み立てすぎが心につっかえて、冷めていく自分がいやになって、土壇場でテーマを変えてしまった。気持ちを奮起させるにはよかったけれど、一度決めたことは結果がどうあれ、決行してみる勇気も必要だった。

 すぐそばにいてくれる人を傷つけ、筋を通せなかった自分が情けなくって、かなり落ち込んだ。叫ぶって何だろう。淡々と話していても叫びと感じることもある。私の場合は、伝わらなかったと思うので叫びにならなかった。当然だ。だって、叫んでこなかったもの。頭でっかちになってしまったところはあるかもしれない。先生はきっと、それが気に入らなかったんだと思う。心・技・体の一致。

 軽井沢は気持ちがいい。空気がおいしい。吹く風がさわやかだ。なのに自然に帰れなかった。自然を通して自分を省みることがなかった。今まで、自分の声は部屋のスペースいっぱいにひびかせるつもりで歌ってきた。それが合宿以来、どこにいても、空と奥深く続く林を見るようになった。

 

 

合宿に参加しても大丈夫だろうかと、かなり不安があった。が今は参加してよかったと思う。自分のなかで、いろんなことに気づくことができた毎日だった。

 まずは行く前の課題から。これにはとても苦労した。最初はどうしていいのかわからなくて、真っ白なノートを目の前に、ボーッとしていることが多かった。大人になってからは日記をつけていなかったし、自分の過去をじっくり振り返ってみることなんてしなかった。いつも前ばかり見ていた。自分にとって本当に悲しいこととは、辛いこととは、腹立たしいこととは一体何だったのか? 自分は一体、何に感動してきたのか? 自分って一体何なのか? とりあえず思いつくことをノートに書いてみる。何でもいいから書いてみる。少しずつ少しずつ記憶の奥底に押しやっていた過去がゆっくりと水面に上がってきた。いろんな表情の自分が見えてきた。

 忘れたかった思い出したくなかった嫌な自分もそこにいる。ノートに書き綴る。でも、本当に正直にはなりきれなかった。誰も見ることはないとわかっていても、表現しようと自分の体から離れたその瞬間から、それは嘘のことばになる。ああー苦しい。自分に正直になるためには、いつの間にかいっぱいいっぱい着込んでいた鎧を、脱ぎ捨てなければいけないことに気づく。自分は決して強い人間なんかではなかった。自分が傷つかないように、核心から目を背けていただけ、そうわかったとき、自分は表現者として人前に立つ資格なんてないと思った。

 わかっていたつもりでいただけで、実は何もわからずにきてしまったのだから。自分をごまかしている人が他人に本当のことを伝えることなんてできるわけがない。自分がとても薄っぺらな人間に思えてきて悲しくなった。合宿の間は、日常の生活から離れて、澄んだ空気と自然に囲まれて、とてもゆったりとした気持ちになれた。いつもより自分を開放できたし、いろいろなことを考えるには最適な環境だった。

 そんな環境のなかでエチュードのトレーニングは、自分が思っていたよりすんなりと入り込めた。自分の感情のままに大きな声をあげ、激しく体を動かしてみたのは、何十年ぶりだろうか。今まで、がんじがらめに閉じ込められていた感情の渦が、ワッと一気に外に出てきたようだ。忘れかけていた感覚が、体にじんわりと戻ってくるようだった。「もっともっと大きく表現してみよう」「今まで押さえつけていた自分をもっと開放させよう」そう自分に言い聞かせ、これまで身につけてきた鎧を一枚ずつ脱いでいった。 たくさん汗をかいて涙を流して鼻水を流して大声をあげて、力いっぱいやってみた。そして発表が終わったとき、全身の力が抜けて頭のなかが真っ白になった。何か吹っ切れたような不思議な感覚だった。 この感覚を東京に戻っても忘れたくないと思った。この吹っ切れた自分を土台にして、さらなる一歩を踏み出したいと思った。

 最後に先生、スタッフの方をはじめ、合宿に参加したメンバーみんなに感謝しています。貴重な時間を共に過ごすことができてうれしかったし、いろんなことを教わりました。ありがとうございました。

 

 

昨年の合宿で、このテーマの奥の深さに大変、興味をもった私は、この1年間でわき出てくる感情を理解し克服していくことによって、徐々に深い声が出てくるということを実感することができました。また、宿題のノートを書くことによって、これまでの人生で会ったたくさんの人々、周りの環境、音楽との関わり、そのときの自分の想いなどを整理することができ、自分が抱えている問題が見えてきたような気がします。

 今回の合宿での自分自身の課題は、喜び、やさしさ、希望のエチュードに向けて、いかにしてジェットコースターをプラスの方向に上昇させていくかということでした。このテーマは頭で計算するのではなく、何度も何度も繰り返し全力で感情を出し切ってみると、何が起きるかわからない部分があり、再発見することができたり、新しい試みを入れていけるような気がします。

 しかし、全力を入れるとどうしてもマイナスの方向に大きく沈んでしまうので、再生のときにすがすがしい顔になるためには、モノトークでマイナスからプラスに変える大きなエネルギーを作らなければならない。そのエネルギーが「愛」だと、私は解釈しました。

 「愛」といっても、日本と欧米での解釈の仕方には異なる傾向があるように思います。日本では、「愛は勝つ」という歌が流行ったように、「愛」を個人対個人の問題として、競争して所有するものだという解釈が多い。一方、欧米ではキリスト教など、宗教的な「愛」や、スティービーワンダーの「愛の歌」で形容される「愛」は、万人に対する「無差別の愛」を指す。「無差別の愛」には、競争意識は存在しない。特定の人を愛し、その他の人を愛さないということではない。このことはことばで言うのは簡単だが、実際に行動することは難しい。

 合宿直前に「聖なる癒しの歌」というヴォイスヒーリングの本を読んだので、やさしさのエチュードに一番興味がありました。「やさしさ」や「愛」を行動で示す場合、「すべてのことを受け入れる」ということに鍵があるらしいです。そこで、苦悩のエチュードのとき、憎しみに満ちたみんなの目に、怖がらずに視線を合わすよう試みてみました。

 一方、やさしさのエチュードのとき、一人ひとりの目を見ながら、その人らしい一番いい顔を想像するよう試みてみました。どんな憎しみをも受け入れることができれば、どんな相手にもやさしくなれるのではないでしょうか。

 声に関しては、喜びのエチュードで心も体も充分に解放することができなかったので、「天の声」というよりも柔らかい「地の声」というような感じになってしまいました。合宿の前までは「地の声」と「天の声」は別のものだと思っていたのですが、柔らかい「地の声」をそのまま解放していけば、「地の声」と「天の声」を一致させることができるのではないかと感じました。また、このテーマのモノトークを、そのままアカペラ1曲に置き換えられるようにしたいものです。

 

 

3日間の軽井沢合宿で「戦う」という感覚を肌で感じ、本当に集中していれば、自分の頭のなかにいろいろなことが浮かんでくることに気づきました。しぜんな表現の種は自分のなかにあって、それを素直に出すことができるか、もちろん、その場面にくるまで納得のいくことば、表現なのかということを突き詰めていないといけないわけですが、自分がじんと感じる表現を発見し、そしてそこから自分が考えもしなかった方向にイメージが向かっていくとき、心から楽しんでいる自分に気づき、そしてその一つひとつが重なるたびに集中力が増し、自分が発見したイメージがエチュードのなかの一つひとつのテーマからハズれていないか、班全体の表現と関わりをもっているか、提示された条件を満たしているかといったような、一歩退いた視点から観察することができました。

 同時に、そういった表現、ことばを実際に見る人に対して投げかけることを意識したとき、(笑われるのではないか)(勘違いされたりしないか)(ミジメに見えないか)(同情されたりしないか)(見当違いのことを言っているのではないか)といった心を明らかに感じていますが、だからといって、他にどうこうする方法も知りません。結局、自分のできる精一杯のことを見てもらうしかないのだなと感じました。

 そしてだからこそ、芸術という名のつくさまざまな創り物が、自分にとっても触れる人にとっても、かけがえのないものとなるのかもしれません。これから先の毎日に何か自分の言動を写す鏡となるものを見つけられるでしょうか。自分の心に聞いてみるのでしょうか、それとも他人の姿から学びとるのでしょうか。それとも時間(瞬間)に委ねるしかないのでしょうか…。

 共に戦い 傷ついた人よ あなたは まだ 生きていますか たとえ笑えていなくても たとえ無理やりと暮らしても 涙は伏せておくことにします 静かな夢と永遠に

 

 

まず、この合宿に入る前の準備、取り組む真剣さが足りなかったと、合宿を終えて思わされた。また今回、いろんな人に会えたことにより、自分がどんなタイプかわかったような気がする。そして、日頃の自分の生活は甘いと思わされたから、日常の生活を大事にして、常に何かを感じ、イメージし、隙間なくパワフルに生活しなければと思った。

 そして、ソロライブでは、自分を出し切れず、だんだんむなしくなっていた。また中途半端に終わったしまったと思う。他の人の堂々と立っている姿、自分の歌に入りきっている姿、笑顔で話している姿、とてもうらやましかった。声に関しては、自分の声は弱いと思うので、もっと強くしなければいけないと思った。

 今回、福島先生のことばで“人は自分のことなんか見ていないから、自分で徹底的に自分のやりたいことをやって、そこから何かをつかんでいけ”というのが心に強くひびいた。このことばを聴いて、少し楽になったというか、何か思い切りやれそうな気になった。

 それから、大事なのはプロセスということを頭に入れて、これからにつなげたい。今まで結果ばかり気にしていたと思うから、プロセスを踏むことを考えて、結果は後からついてくるものだと考える。それともう一つ、“自分にあったことをやっているか”というのを聞いて、もう一度、自分が本当にやりたいこととは何か、具体的に考えたり見つめなおして、本当に嘘をつかないで自分にならなければならないと思う。だから、自分の本当の場所にいかなければ、何も始まらない気がした。

 

 

「はじめて」と「2回目」は全然、違うなと感じた。まずエチュード。去年、私たちは何もわからないところから手探りでエチュードを「創って」いった。だけど今年のエチュードは、創っていくものではなくて、去年のものをよりよくこなしていくといった感じがした。これは何に関しても言えることだと思う。一番はじめに創るときが一番大変だ。

 しかし、今年「2回目」で大変と思ったことは、それを越えなくてはいけないということだ。去年と同じことをしてはいけない。去年の私を越えなくてはいけないと思った。「はじめて」で許されたことも「2回目」は許されない。結果的に、私は越えられなかった。だけど、そこから得たものも、たくさんあった。

 次に印象に残っているのは、トレーナーの声だ。私は初めて歌を聴いた。途中で涙がでそうになった。先生が前に言っていたことや、レッスン中にチラッと話す「想い」や「努力」を思った。この声に、彼の魂が入っているんだと感じ、ゾクッとした。純粋に。

 そして今回の合宿では、福島先生の話をたくさん聴くことができてよかった。先生の姿勢の原点みたいなものが見えた。先生の言っていた「続ける」ということの難しさを、合宿から帰ってきて特に感じる。 去年、それで失敗したから、これもまた「2回目」の失敗をしないように「続け続けること」を頭においている。合宿が終わってからが「第3のスタート」、このスタートにはゴールがない。走り続けられるように。そう思いながら、帰りのバスに乗った。

 

軽井沢の合宿から帰り、もう2日経ちますが、あの体験、鮮烈な印象などは、ますます強烈な記憶となって心によみがえります。同士と共に潔く戦いきった後の心地よさ、すがすがしさ、おのれを捨て、おのれと互角で対峙したあとの力が抜けた状態。みんなの顔もよい顔だった。日増しにだんだん、皆よい顔になっていった。精一杯、戦いきったあとの切ないまでに美しい顔、りりしさ。ありがとう。

 ギリギリのところでやっているという、そのことだけで、その現場を直に見ることができ、直に聞き、触れ、そのことだけで、もう十二分に満足しました。よくわかりました。大変な力を得ました。

 星の王子様、朗読と解説も天下一品。と、途中まで合宿の感想と礼状を書きかけてそのままにしておりました。あの合宿から、はや一カ月近く経ちますが、今も鮮烈な印象とともに、なつかしく皆様を思い起こします。自分では普段は意識しないものの、決して若いとはいえない私ですが、違和感もなく参加でき、しかも皆様と同様に全力投球で表現するという行為に体当たりで没頭することができました。本当にみんなに感謝の気持ちでいっぱいです。

 これも、福島先生と皆様のポリシーとロマンチシズムのかもしだす雰囲気なのでしょう。学生時代を思い出すような、新鮮な情熱を今、再び得て。さらにやはり自分は、今の自分であり続けるし、ここから、今また苦しい一歩一歩を歩んでいくんだ、現に歩いているんだと再認識し、覚悟して。

 しかし、決して不幸や卑屈でもなく、むしろ吹っ切れたさわやかな気持ちと心をもって。このような気持ちに確信をもったことも、今回の合宿の成果とも思います。今の自分にとって、ここは自分探しの道しるべのような気もします。声を出し、確認する毎日の過程のなかに、自分自身に出会っている気がするのです。そして、そのプロセスは確かに楽しいものです。

 

 

つかこうへいの言うように役者には毒の華が必要なら、毒だけならオリンピックでメダルがとれるくらい(?)あるぞというミョーな自信がついた(ただし、なろうとしているのは歌い手であり、歌い手にそんなもんが必要かというと、ステージという意味ではいいが、お客さんを苦しめてどうするのだ)。

 絶望、憎しみのエチュードでは、インスタントな地獄が形成され、喜び、希望のエチュードでは、本当に歓喜の世界がそこに表われて、これこそ皆、心の底では望んでいる世界なんじゃないかなと思った。

 もし「オレはいいや」「偽善や仲よしごっこはイヤだね」なんて人がいったって、だってそのなかにいたら、とても気持ちがいいのだもの、その場にいたくない人なんていないよ!(安直かしら)。

 たくさんの宗教が人類に、一つになることや、一種の天国を創ることを理想に掲げてきたけれど、思想の壁は決して越えられなかった。その点、音楽には国境も思想も人種も越える可能性がある。タイのお坊さんもバリのヒンズー教徒も、日本の中学生も皆、マライヤキャリーが好きなように、いいものをいいと感じる心は同じ。音楽は頭できくのじゃなくて、心できくのだから。すごく個人的なことですが、今までダンスと芝居以外ではスキンシップに慣れてなくて、どんなに好きな相手でも触れられるのがコワイ人でした。結構、人間がコワかった。

 そんな自分が皆に抱きついちゃったのは、私にとって革命的大事件だったんです! 素直に好意を表わせるようになったら、人を傷つけることも減るだろうね。

 今回、福島先生にはアーティストとしてあるべき姿を見せていただいた気がします。フィナーレで「先生と握手しただけで涙が出た」「先生が声を出したとき涙が出た」「先生と握手したのが一番うれしかった」という証言が続々です。皆、先生の目指すものに賛同し、自分もそうなりたいと思って集ってきている。そして、ここの先生方が大好きだから通ってきているんだ。

先生が登場するだけで、初日の広いセミナーハウスの空気が変わる。うっすらと光さえ感じる。きっと私たちに与えるものがとても大きいからでしょう。-私もいつか、泥沼深く根をはりながら、まるで汚れを知らないように清廉な花をつける蓮のように咲いてみたい。その日のためにがんばる!

 

 

この合宿で学んだことはたくさんある。学んだというか、自分なりの答えを見つけていろいろなことに納得できたという感じだ。たとえば、今までモノトークに抵抗を感じていてできない自分に対しても苦しんでいた。自分の過去にこんな辛いことがあった。こんなに苦しんだとか、歌を歌いたい理由だとか、自分の語っているところを想像してみて、鳥肌がたつ思いだった。

 自分が苦しかったことなど、誇らしげ(?)に語ったところで何になるんだろう。本当に苦しい人ならそんなこと、そんなふうには語らないだろうし、語りたくないんじゃないか。それなら私は、どうしたらいいんだろう。モノトーク(発表)の日の前日になってもずっと考えていた。

 あるお話の途中で、先生が「裸を見せてくれというんじゃない」と言った。そのことばは、モノトークに関してふっきれかけていた私の心にすっとしみこんできた。夜になって、私はとりつかれたように原稿を書いた。たぶん、私の体が声が、言わなければならないことばを…。

 そしてそれは、いわゆる「愛」とはかけ離れたことば。でも、これが私のことば。テーマとかけ離れていようが仕方がないと半分、開き直りながら本番に臨んだ。合宿が終わってから、自由に使うことを許される空間をありがたいと思った。誰かに邪魔されるなんて考えなくてもいい。軽井沢の自然のなかでは、私の声など蚊がないているようなものだ。この空間を空気を、忘れたくないと思った。

 

 

自分のなかでは、エチュードのノートづくりから始まり、エチュードで終わった合宿でした。前夜祭では、恐山のテープが本当に恐ろしくて、あのテープのなかには本物の声も入っていると感じて、へんな霊がいる感じで、ゾーッとして憎しみの感情にも入り込めなかったし、合宿に行くのどうしよう? と思いました。でも、ノートを書いているうち、負のエチュードに入れることに気づいて、どんどん落ちることもできました。ノートを細かくチェックし、考えをまとめていくと、すごく感情的になっている自分を感じました。

 私は今まで感じることを潜在的に閉じていたことに気づき、いろんなことを感じすぎるため、とても傷ついてしまうことを恐れている自分に気づきました。でも、エチュードをやったことで開かなくちゃいけなくなり、開いてみてそれがとても気持ちよいことであると発見もしました。

 エチュードでは、全体的なグループのエネルギーは、まとまってはいなかったかもしれないが、私個人としては、感情に入り込めたことがよかったと満足してます。が、もっと短時間でもっと集中できるはずとも思います。

 モノトークは、用意していたものはフッとんでしまいました。本当はキレイにやりたかったのですが、あれだけ悲しくなってしまうと、立ち直るのに泥臭くなってしまいます。ノートで自分の中の負(マイナス)のエネルギーの部分を具体的に確認するのはしんどい作業でした。でも今、生きてるんだからたいしたことないじゃんと思える人生でよかったです。底をみたら何か恐いものはなくなりました。が、とても内省的になってしまい、自分を許して立ち直ろうというところまで時間がかかりました。

 以前、演技にワクがあるんだよね、と言われて、そのワクが何だったのか、エチュードを通じてわかってきました。セリフや詩を、悲しそうに読むことができても悲しさは伝わらないのだと、感情の入れ方は、もっとシンプルなのだと気づきました。本当のことを本当の心と感情で伝えるのだということです。 モノトークエチュードにウソはなかったか? 消化→昇華のプロセスをへて、人を納得させ、共感や感動を呼ぶ芸にちゃんとなっただろうか…と反省しています。感情に入り込んでいるだけでも駄目で、それを一歩、伝えるというところまで踏み込まないとと感じました。終わってからですが…。

 でも、味わったこの“開き”の感覚は忘れません。これを歌に演技に活かせますように大切にせねば…。技術的なことでは、絶叫しても、思ったよりノドにダメージがなかったことがうれしかったです。以前ならつぶしていたでしょう。少しは身体に入ってきているということが確認でき、毎日毎日、発声練習をつけてくれるレッスンに感謝です。

 最後に、星の王子様をありがとうございました。解説がなければ、全く理解できなかったと思います。私にとってもキツネや花は、かけがえのないものは…もっと手間“ひま”かけないと、自分のものにならないのだということを知りました。また“ひまつぶし”の場を与えてくださる、ここの福島先生、先生方に感謝いたします。

 

 

目標を新しく設定しなおして走り出したはずが、なかなか気持ちが追いつかなくて、同じ場所をグルグル回っている状態のなか、今回の合宿に参加した。昨年のように、自分自身に対して「何か違うやろー!!」と疑問を残したまま帰ってくるのだけは繰り返したくなかった。何とかよじ登ってでも、一段上のステージにステップアップできるパワーを出せなかったら、これ以上、続けても意味がないと思うところまで自分を追い詰める必要があった。「愛」という大きな、漠然としたテーマに向き合う時間を与えてくださった先生に大変、感謝している。

 いよいよ始まった。一つひとつのメニュのなかに、私の課題を克服するヒントとチャンスそのものが盛り込まれていた。まずは最初のソロライブ+自己紹介。ライブ実習で大失敗していたので、次の機会にはトップバッターのプレッシャーを克服するという課題があった。こんなに早くチャンスが巡ってきたにも関わらず、地に足が着いていない情けない自分を目の辺りにしただけで終わってしまって、悔しかった。 しかし、貴重な3日間を、このまま負け続けるわけにはいかない。せめて一瞬、一瞬を全力でぶつかって本当の自分が創りものに埋もれないようにして、表に出てきた姿をしっかり受け止めようと思った。発表会に向けてエチュードを練り込む過程で、班の皆さんにいろいろなことを気づかせてもらいながら、だんだん感覚が研ぎ澄まされていくのが心地よかった。

 今回の合宿の一番大きな収穫は、モノトークだった。前日の練習までは、言うたびにことばが変わって、いたずらに時間だけが過ぎてしまったが、最初に提出したとき、小さな字でぎっしり1枚あった原稿が、たったの3つの文にまとまって、頭のなかも気持ちも整理できた。福島先生のまとめのことばにあったように、ステージ以前に戦いを一つ終えることができた。

 昨年の発表では、創りものの自分がペラペラそれらしくしゃべっている後ろで、本当の自分が「おい、なんか違うやろー」と呟いている状態だったが、今年は足をしっかり踏ん張って、自分の声で言いきれた。やればできる!! 久しぶりに自分にOKを出せた瞬間だった。それと同時に、新たな壁がドンと目の前に立ちはだかった瞬間でもあった。ホッとしている間はなかった。

 フィナーレ「天の声」では、やっと福島先生と握手をしてもらえるところまで近づけたと思うと、うれしくて涙が出た。あちこちで抱き合う姿が目についたが、今の私にはまだ先生方に抱き締めてもらえるところまで手続きが済んでいないと感じ。

 研究所には、BV座とか④クラスとか、まだまだ未知の世界がある。そういうのを全部、把握した上で、自分の存在価値を認めてもらえるようになるまでは、星の王子様のように「辛抱して暇つぶし」をし続けたいと思う。

 最後に、今回のメインテーマが「愛」について。私にとって愛するということは、その人(もの)が、最もその人(もの)らしく生きるように、ちょっとお手伝いをすること。しかも、愛された方が後からジワーッと気づくものなんだと思う。

 ここには愛が溢れていることに、みんな気づいているだろうか…。駅へ向かうマイクロバスを、見えなくなるまで手を振りながら見送ってくださった、先生方やスタッフのあたたかい愛を忘れないように、また、それに甘えないように、毎日を過ごしていきたい。

 

 

 

この合宿に参加して、私にとって一番、意義深かったものは、今の自分の心のなかを深く見つめたことだった。ここ2年くらい、心のなかにずっと大きなかたまりがあって、ゴロゴロと嫌な動き方をしていた。その度に憎しみが心のなかに姿を現わした。だけれども、その憎しみと天使とが常に葛藤していた。醜い自分など、誰にも見られたくはなかったし、自分自身でさえも認めたくはなかった。誰かが合宿のなかで言っていたのと同様に、今回の宿題のノートにだって、はじめは本心を書けずにいたけれど「このチャンスを逃してはいけない」と、洗いざらい、生々しい気持ちをぶつけた。

 そして気がついたことは-。“恨みとは、自分の否を認められずに相手のせいにしていること”だと思いました。私がずっと目をふせてきたものとは、「誰かを憎んでいる気持ち」ではなく「自分もひどいことをしていた」という事実なのではと思いました。私にとって心の内を表に出すということは、とても難しいことです。虚栄心も自尊心も、人一倍強いからかもしれません。だからいつも、人の眼で自分をみてしまう。そんな私だから、あのエチュードはやるべき課題だったし、私にとって、どんな意味をもつものなのかもわかっていました。

 合宿の直前に観に行ったミルバは、喜怒哀楽を感じている自分自身を、胸をはって出していました。そうですよね、きれいなだけの人間なんて、誰も見たくないです。100パーセント、あのエチュードで一つひとつのシーンになりきれたかと言われれば、なりきれなかったと答えます。

 でも皆の視線のなかで、髪を振り乱し、歯の裏が見えるほどの口を開けて、じたんだを踏めたことは、私にとっても大きな一歩でした。普通の人が目をふせて通るところで立ち止まり、手をつっこんで取り出して自分の心をみつめ、さらにはそれを人に見せるのがアーティストならば、すごく残酷な職業だと思います。だけど、だからこそ人々は心を動かされるのだと思います。心をことばにするのは、とても難しいことだと思います。また、心を声にするのも、難しいことだと思います。

 その点で、あのピアフの“アコーディオン弾き”はすごいと思いました。自分の心を解放すれば、歌を歌えるわけではなく、感じた心をどうことばにし、どう声にするかを学んでいかなくてはと思いました。私にとってこの夏合宿は、今までの私にからみついた糸をほどいて、ゼロに戻るための作業でした。

 

 

去年と同じ課題のエチュードを今年はどうやるか。去年、初めてこの課題を与えられたときは一瞬、戸惑ったが、やってる間にはまってしまった。私の場合、特に苦しみや悲しみや憎しみは、感情を入れやすかった。でも、再生以降が今一つ、ありがちな感じになってしまったように思う。おそらく私自身のなかでも、再生以降のイメージが弱く、大きく膨らますことができなかったようだ(かなり助けられはしたが、私自身の内側からの“想いの声”という意味では希望や優しさのところでは入りきれなかったように思う)。その反省を踏まえた上で、今年は、やはり嘘のない表現で、再生以降をトライしようと思った。

 限られた時間と空間のなかで、ラストの希望と優しさを、自分の気持ちの入った声で、変につくりすぎず、うまくできない自分を責めすぎず出すようにしてみた。イメージとしては、「皆んなが愛すべき同志で、今一緒に居れてよかったよ。いろいろあってもやっぱり生きているのがうれしいよ…またがんばれる!」という気持ちを表わしたかった。心のなかのイメージは嘘のないものが出せたと思う。ただ表に出た表現としては、やはり小さかったように思う。思った気持ちをもっともっと大きく強く出さなければ、自分のなかだけで消化しても伝わらない。それには、もっと深く広く感じる心や、柔らかい頭と身体、そして声が必要だと改めて思った。

 あと難しいのが、班員同志でのそれぞれの“想いの声”をぶつけあって個々が盛り上がるところまではいけても、共鳴しあってより大きく、パワフルな“肉声の表現の集まり”にはなりきれていないことだ。自分の班でもそう思ったし、他の班を見ていても、やはりそれを感じた。せっかくいろんな個性をもった人間が集まっているのだから、それをもっともっと生かした声の表現ができればと思う。

 今回、特に感じたことは、自分の心をニュートラルにするところまでは、少しずつできるようになってきたが、今の私にはその先の“欲”の部分が弱いということだ。歌を自分のいいカッコをするためのエゴの武器にするのをやめようと思う今、私は歌うことでいい声を聞かせて、聞いている人を心地よくする…、技のように磨かれた芸で人々を感動させたい…、私の歌を誰かが必要としてくれるかも?…などという他人を満足させるためではなく、生きている自分を感じたいから声を出したいんだということを、正直に感じた。そのための欲をもっともちたいと思う。

 私が心の根の部分でどう歌いたいかという“欲”をイメージしていこうと思った。それが原点だと思った。それを聞いて他人がいろんなことをちゃんと感じてくれたらすてきだと思う。

 きれいな空気のなかで、心に届いた小さな楽器の音色や、仲間の素直な助言や、きれいな笑顔や、先生のことばの端々からそんなことを改めて教わったように思う。

 

 

自己紹介のときに、“この3日間合宿に参加していなかったら何をしていた”ということが共通の質問事項に上げられていたが、自分の場合ははっきり言って、大して内容のある3日間は過ごせなかっただろう。みんなと同じで金曜日は仕事、土日はせいぜい海に行ってくるくらいなもので、1年間のなかでもほとんど印象に残らない3日間だったと思うが、確かに合宿に参加させてもらったおかげで、この1年間で最も印象に残るできごとの一つとなった。

 しかし、これは“楽しい修学旅行”で終わってはいけないし、とはいえ、この場を素直に楽しまないともったいない。そしてこの3日間の体験を、どうやってこれからの実生活にプレイバックさせていくかが、一つのポイントであろう。

 まず、誰にとっても一番、ヘビーだったと思う“エチュード”であるが、あの30分間で表現、体験したエネルギーを、自分の3分間のステージに凝縮させられるかが一つのテーマだと思う。

 自分の場合は、合宿の翌週にステージ実習があり、その意気込みでステージには臨んだが、意外にあっけなく惨敗をしてしまった。実際、ステージ実習のステージでは緊張していたせいもあるが、スポットを浴びた瞬間、頭が真っ白になってしまい、これまで自分の人生で味わった喜び、挫折、愛、憎悪など、全部吹き飛んでしまい、何を表現するというレベルには達しなかった。では、合宿のエチュードはどうしてできたのだろう? 

 まあ、単純に言って“思い込み”でもあるし、“集団でやることによるパワーの共鳴”など、周囲が助け合ったからできたということもある。結局、それを個人にプレーバックできなければ意味がないということだ。自分の場合、エチュードは確かに全体の一部でしかないものの、個人の場として自分なりの表現をしたつもりだった。しかし、それはみんなの助けがあって、それらしいものになっただけであり、これも一つの“借り物”であったことに気づかねばならない。

 「星は光りぬ」「リブ・フォエバー」は、今回やったエチュードのずっと先の延長上にある。では、ジョルジアの何がすばらしかったのだろうか、どうしてあれほどまでに心が打たれるのだろうか。少なくとも、彼女は技術だけで歌っていたわけではなく、あたかもそれが真実であり、彼女のことばとして語られ、非常に説得力があり、それは顔にも現れていた。どうして当時、23才の彼女に歌えたのだろうか、そんなに彼女は辛い人生を歩んできたのだろうか? いや、“辛い人生”=“コンプレックス”だけで、「リブ・フォエバー」のような悟りにも近いような曲が歌えるだろうか。まあ、作詩作曲のブライアンメイは確か、当時、離婚か何かして人生ボロボロの時期だったような気がするけどね。ジョルジアが、ノートを書いたかどうかは定かではないが、直感的にしろ何にしろ今回、我々がやったこと以上の思考は繰り返し、そしてあの歌詞を自分のものとして表現ができたということだろう。まあ、結局は毎日の積み重ねかな。 確か去年の合宿のレポートで同じようなことを書いたような気がする。そう言えば、去年は合宿に参加してから、何か変わった点があるかと言えば、歌や練習に対する意気込みがかなり変わった。実際、あの後に水泳を始めたり、練習内容をもっと基本的なものを重視したり、トレーニング日誌の重要性を感じて毎日、書くようにもなった。特に日誌の存在はかなり有効で、毎日のトレーニングを振り返ることによって自分の欠点に気づくだけでなく、歌への思いを増幅させることができたと思う。

 では、今年は何が変わったのだろうか、いや何を変えるのだろう。やはり自分のメンタルな部分の探求を継続してできたらいいとは思う。結局、合宿に参加する前に、いろいろとノートを書いたが、本来は表現者はノートを書く書かないにしろ、ああいった作業、思考を繰り返し、そして自分自身を煮つめているのだろうな。

 課題曲は、今は歌詞を覚えたら、何となく意味が伝わるように、適当にフレージングを考えてそれで終わりだが、もっと一つひとつのことばを、もっと探求する必要があるかもしれない。すぐにそれが効果としてステージに現れるほど世の中も甘くはないが、そういった作業を“継続”してやれば、“僕たちにとって永遠とは今このとき”ということばも、真実味を帯びてくるかもしれない。

 

 

今回の合宿は行かないつもりだった。ギリギリまで迷ったけど、前夜祭に参加して行かなければいけない気がして結局、決心した。宿題としてノートをつけ始めた頃、まるで合せたかのようにいろいろなことが起きた。歌うためだといって自分を犠牲にしてなるべく自分を見ないようにして、先ばかり頑張って追っていた。そして偶然、道で会った人としばらく話をしていて「自分のためだといって本当の気持ちを偽っていないか。自分のなりたい姿を今の自分と錯覚していないか」と言われた。私にとって、とても衝撃的なことばだった。さらに、久しぶりに会った友人に近況を話した後「歌と自分とどっちが大切なの?」というようなことを聴かれた。今まで自信をもっていた自分が崩れる気がした。「私はこうだ」と決めて安心していたけど、実際は全く違うんじゃないか。私は本当にそれを選んでしまっていいのか。ノートを書きながら悩んだが、自分の正直な気持ちに従うことにした。今までは「やらないで後悔するよりやって後悔する方がいい」と思ってきたが、今度はやらないことが後々、私の糧になるような気がしたのだ。辛い方を選んだのかもしれないが、どちらがいいかなんて死ぬときになってみなきゃわからないし、それならまっすぐ生きたい。そんなこんなで合宿まで一つ自分のなかでケリをつけられた。合宿…。 まず、一人ずつ自己紹介を兼ねて発表した。私は詩を読んだが、何だか“不発”という感じだった。妙な、本当に妙な遠慮をしてしまったと思う。「表現するのにし過ぎることはない」と言われて、もう二度とあそこに立つことはないのに、ひどくもったいないことをしたと思った。エチュードの練習を始めて、去年との違いに驚いた。慣れたのか感情が出やすくなったのか、苦悩までは素直にできた。ノートのおかげなんだろうか。ところが、喜びあたりから心が次第に固まってきた。どう一所懸命やってもつくっている自分を振り払えない。笑顔のこわばりが自分でもよくわかる。もう逃げたかった。愕然とする私の目の前がゆらゆら揺れて倒れてしまった。倒れるほど逃げたかったのかと思った。

 去年、私は班で行動するのが疑問だった。「別に仲よくするために来てるんじゃないし…」と、変にいきがっていた。歌をステージの上で歌うのは一人なんだから、個々の意識は当然、もつべきだ。でも、やさしさを送ることは一人ではできない。歌も歌うのは一人だけど、自分に対して歌うだけでなく、他の人間に対して伝えていくものだ。 

 「やさしさのエチュード」ができなかったのは、「絶望」と同じように一人の世界のなかでやろうとしていたからかもしれない。他の人間のパワーを自分に感じ入れることを全くしていなかったし、それを受けて出すこともしなかった。

 私は、あの合宿に来た人、全員に感謝したいと思う。助けられたとか助けたとかそういう問題ではなくて、お互いが苦しんで、そのなかから出た喜びがしぜんに周りに伝わった結果、ああいう空間が生まれてそのなかで私は、今までにない気持ちを感じとることができたんだと思う。

 それから、軽井沢の空と緑と風にもずいぶん教えられた。あの木漏れ日は、必ず何かの折りに私の頭のなかに出てくるだろう。エチュードは歌うときにも大きなヒントを与えてくれた。はじめ、エチュードでありのままの感情を出すことと表現することは全く違うところにあると思っていて、うまく入り込めなかった。でも、制約のなかで今まで生きてきて積み重ねた感情の一つひとつを取り出すところが、すごく歌に似ていることに気づいた。歌うときもあんなふうに感情を取り出せればいいと思う。

 3日間、本当に密度の濃い時間を過ごした。そして私は、現実に戻ってきた。整理しなければならないこと、職探し、考えるだけで胃が痛い。でも、いろいろな感情は日常から生まれて、歌によって育まれるのだから、現実でも一所懸命にまっすぐ生きたいと思う。そうやって、私の生きざまが歌になるように、楽しんで水をやり続けたい。

 

 

エチュードという課題は好きだ。感情にブレーキをかけずに、ことばや動きにも制約されずに思い切り表現できるなんて、表現したい者にとって、こんなに嬉しい課題はない。でも、その気持ちだけではダメだった。エチュードを演じることに、とうとう入りきれずに合宿が終わってしまった。自分の内に、表現する感情が充分には湧いてこないのだ。

 1日目に、ただ笑いころげるのと、赤ん坊になって泣き叫ぶのを皆でやった。あのときは体がしぜんと反応して止まらなくなる感じになったのに、エチュードのときは、声と表情で表現しようとするのだけれど、体はとり残されてしまうような感じだった。

 悲しみのエチュードのとき、昔悩んだことを思い出してみたが、悲しみの感情はあまり湧いてこなかった。今、考えてみると、つらいことと悲しいことは違うようだ。私が過去に気が狂ったように泣いたのは、自分にとって大事なものを失ったときで、「つらい」よりも、もっと激しい感情だった。

 合宿では、そこまで突き詰めてイメージできなかった。他のエチュードも、どこかことばとして捉えて一般化してしまった。班でのスクーリングの話し合いも、イメージが定まらずにことばを探してしまったような気がする。この課題を他人事にしないために、合宿前にノートを書いたはずなのに、エチュードを自分のものにできなかった。取り組み方が甘かったと思う。

 エチュードを通して、表現することの厳しさを思い知らされた。自分のなかに、あふれるほどの感情を、すぐその場で生じさせることの難しさ。舞台装置も台本もない。頼りになるのは自分の身体だけ。自分の身体の内に入っている感情を取り出すには、イマジネーションが必要なのに、それが絶対的に不足していた。本当は、舞台装置や台本があっても、自分の内から何も出てこなければ、表現は成り立たないのだ。ステージやライブ実習でも同じことだ。この反省をこれからに活かしたい。

 去年の合宿と違った点として、エチュードの解説と全体のメニュの解説のヒントとして作品が紹介されたことがある。これらの作品はとても印象深く心に残ったけれど、合宿以外で接していたら見過ごしていたメッセージもあっただろう。これらの作品は一つの例であり、合宿から戻っても学ぶ材料はいくらでもある。いろいろなことから学んで、自分の歌、表現に結びつけて考えていきたい。

 エチュードの解説の作品(「星は光りぬ」「リブ・フォエバー」「アコーディオン弾き」)から受け取ったメッセージ-時は流れていき、輝かしい一瞬を得れば、それを失う絶望がくる。でも(だからこそ)、今この一瞬を生きないで何があるというの?-は、私が18歳のときジャニスジョプリンの「コズミック・ブルース」を聴いたときに受け取ったメッセージと同じものだった。あの歌を夜一人で聴いていたとき、ものすごく密度の濃い時間を体験した。こんなすごい歌が歌えるなら、他に何もいらないと思った。あのときの決心をもう一度、思い返した。そしてあのとき受け取ったはずのメッセージを、5年の間に少しずつあいまいにしてしまっていた自分に気がついた。

 一方、全体のメニュの解説で紹介された「星の王子様」から学んだことは、全く新鮮だった。「仲よくなるには手続きがいる」ということばにはっとした。あたりまえのことのようで、ずっと気づかずにきてしまったように思う。予め準備され、きれいにパッケージされて売られているお手軽なものに慣れすぎていた。何でもすぐに手に入れようとしていた自分の傲慢さに思い当たった。まして、自分にとって大事なものは、お手軽に手に入れられるものでは決してないはずだ。

 私は大きな勘違いをしていた。一瞬をつかむような表現をしたいと思いながら、そのことと、こつこつと汲み上げていくこと(手続きを踏むこと)を関係がない別々のことのように感じていたのだ。

 ジャニスジョプリンがヴォイストレーニングに通う姿は想像できないけど、彼女が手続きを踏んでいないわけではない。努力ということばは似合わないけれど、歌が好きでジャンルに関わらずにたくさんの音楽を聴いて、しぜんに歌を歌うのに必要なことを吸収してしまったのだ。

 私は一番、足りない声を中心に、歌や表現を学んでいる。なんて楽しいことだ。なのにときどき、トレーニングがつまらなく感じてしまう。先ばかり見ようとして、今この一瞬に感じ、表現することを忘れているときだ。

 「手続き」に関する自分の勘違いに気づいたことと、自分にとって歌の原点となったメッセージに再び問いかけられたことと、エチュードの反省から今後の課題を得たことが、私にとっての今回の合宿の収穫です。

 

 

参加するにあたって一番、楽しみにしていたのが“スタートラインに立てます”という下りだった。ときどき、ただ声を出しに代々木に通っている気がしてて、きっとアーティストとしての資質を問いただす何かがあるんだろうと思っていた。

 3日間で先生は“一瞬をつかんで軽井沢から持ち帰って欲しい”ということを何度も言った。

 初日の夜、ジョルジアの「Live forever」や「星は光りぬ」に感じた。“スタートラインに立つってことは、一瞬とは何かを見ることだ”

 2日目の夜、歌のあとのエチュードのスクーリング。これが今回の合宿のなかで一番、残った。あのときの一言一言には、悲しみの一言でも自分でノートに書いた何ページの悲しみが集約されていたと思う。よろこびのときも、いろんな思いが体じゅうをめぐって出た一言が“ありがとう”だった。

 その瞬間に、自分の想いをつめ込んでことばにする。心と身体とことばを一つにできたと想う。発表のときは表現しているんだか、地で思い切りやっただけなのか、両方なのか、わからない部分もあった。だけど、スクーリングのときは一瞬が見えた。この感覚はきっと、ずっと忘れないと思う。

 あと発表が終わった後の先生のお話が残っている。星の王子様だ。先生が言った4つのキーワードのなかで、“暇をつぶす”話がのこっている。“歌”を歌うためにどれだけの暇をつぶせるか? また今まで、どれだけの暇をつぶしてきたか。パヴァロッティの3分間の歌とそのあとの笑顔には、とてつもなく大きな“暇”がつぶされているだろう。今の自分には、その後ろに隠れた暇すら発見することができない。音楽だけではなく、社会や自分自身に目を向ける。いろんなことが自分には足りない。これからたくさんの“暇つぶし”をしなくてはならない。“もしかしたら今日で終わりかもしれない”人生のなかで自分が今、何をするのか? 何をすべきなのか? やはり“歌いたい”として生きたいと思う。

 

 

会報に、去年の合宿に参加した人の評が載ったとき、私は羨望してそれを読んだ。多くの人が“感激”し“解放”され、天の声を聞いたと書いていた。私も軽井沢での合宿に参加すれば、心も体も解放されるのではないか、とものすごく期待をしていた。合宿の直前、持病が悪化し、やっとの思いで参加できるようになったときは、とにかく嬉しくて、抑えきれない高揚感と共に、軽井沢に着いた。これからここで過ごす時間のなかで、私のなかの何かが変わるのではないかと思っていた。

 でも、私が期待していたようなことは起こらなかった。班でエチュードの練習をしていても、入りきれない私がいる。それは他の人にも伝わっていた。演じているという感覚が常にあり、どこか距離をおいている。距離を縮めたくても、どうすればよいのかわからない。やればやる程、ぎこちなくなっていく。

 コンセプト作りのスクーリングで、皆で煮つめて話し、発表会の前夜、一人ひとりと握手し、抱き合った。スキンシップをとることで、短い時間で育むには足りない相手への愛情が確かに生まれた。それは喜びの、希望のエチュードをする上で、とてもよかったとは思う。

 発表会の前夜、モノトークがどうしてもまとまらなくて、朝方まで眠れなかった。同じような人が何人かいて、その中の一人の人に言われて気がついたのは、考えることと感じることは全く違うということ。そして、感じるだけではなくて、それを外に出していくことが大切なのだということ。やはり、私は頭でっかちになっていたんだ。もっとストレートにいけばいいんだと思ったら、少し楽になった。

 最後の班の練習のとき、それまでと違った“何か”がつかめそうな気がした。軽井沢の、あの青い空も風も鳥の声もすべてが力になってくれる気がした。発表の場に向かいながら、本番の自分がどうなるのかわくわくしていた。発表のとき、今までのどの練習のときよりも感情としては深かったと思う。けれど、極まることはなかった。負の感情で落ちきれなかったから、昇りきることもできなかった。泣いている人たちが羨ましかった。泣けばよいわけではないけれど“感極まる”状態になれていることが本当に羨ましかった。

 合宿から帰って、体も心もヘトヘトに疲れているのに、未消化な自分をどうにかしないと落ち着けなくて、親と話し友人と話し、昔の日記を読み返した。自己紹介で「日記にまでかっこをつけている」と言っている人がいたけれど、私も全く同じだった。本当に心の奥底で感じたことは書いていない。読みながら、本当はこう思ってたんだよなと思い出してしまうような嘘の日記。親に対しても自分の好みを言えなかった。親や祖母が選んでくれたものに対して、嫌とは言えず時間がたってからそれを手にして泣いてしまうような子だった。小さな頃から自分の感情をストレートに出すことがうまくできないまま、私は大人になってしまったらしい。友人に「あなたは優等生なんだよ」と言われた。人の目を気にしていないようで、ものすごく気にしているのではないか、と。

 そういうことがわかったからといって、すぐに私が変われるわけはない。とにかく、自分に対して嘘をつかず、思ったままをいじくらずに出すことをしていこう。悲しいとか嬉しいとか楽しいとか、感じたことを声に出してみよう。私が思いついたことは、ことばにすると、とても幼稚で単純なことだった。自分の、この壁を壊すことができたら、私の歌は今よりもずっとずっとよくなるのではないかと思っている。時間はかかっても、きっと大丈夫と何の根拠もないけれど、今は思える。期待していた私には、出会えなかったけれど、再生へのきっかけはつかんだと感じられた合宿だった。

 

 

今回の自分のテーマは、感情に入り込むことだった。今年も去年からあまり成長していなかった。去年は感情に入り込もうと必死でやった。無理やりにでも感情を引き出そうとした。だが、うまくいかなかった。力めばのどにも悪影響を及ぼす。去年言われたことで、心の底からわき上がる声は、体の底から出るのでのどにはこない、というのが頭の中にあった。

 そんなこともあって、今年は力まずイメージだけて゛しぜんに感情がこみ上げてくるのを待つことにした。暗く悲しいみじめな人生だった。そんな過去を、そんな思いを忘れよう、考えないようにしようと思っていたかもしれない。それを具体的に思いだし、書いてみた。負のエチュードならお手のもの、大得意のはずだ。なのにエチュードになると憎くて殺してやりたくならない。悲しくてどうしようもなくならない。そのときのことを思い出してみるのだが、あのときの思いがこみ上げてこない。エチュードで感情が爆発できないのには、いくつか原因があるだろう。それがなぜであるのか、じっくり考えなければならない。

 今回、よい点もあった。正のエチュードでは、ドップリとまではいかないまでも、温かい気持ち包まれた。モノトークのテーマ、「愛」について考えたとき、こんな俺でもやさしさに包まれたことがあるんだと再認識でき、感謝する気持ちになれたからだろうか。

 それと体については、声が去年よりスムーズに出るようになった。のどをしめつけるクセが少し解けてきた。だから最後まで声がかれることはなかった。全体的に男性より女性の方が感情が出せている気がした。男は涙は流せないもの。涙を流せば負けだった。自分に対しても何に対しても。俺は男になりたかったのだろう。強い男に。そしていつのまにか涙を流せなくなっていた。感情を表に出せばつけ込まれる世の中、感情を押し殺すように生きてきた。心を解放しきるようになるには、まだまだ時間がかかりそうだ。今までは、自分を深く掘り下げることを具体的にやらなかった。これからは、そのことについて時間を費やさなければと思っている。

 

 

自動販売機でジュースを買った。39度の猛暑のなかで飲むジュースの味は格別で、何ともいえない。そんなとき、ふと自動販売機にこんなことばが書いてあるのに気がついた。「渇いたのどを潤しながら ゆるやかに流れる時間をただよう ありふれた景色すら 違って見えてくるそんな瞬間」気づいてよかった。気づける自分がいたことが少しうれしかった。確かに暑いときに冷たいものを飲んでいる瞬間って、今まで意識もしなかったけれども、すごくシャキッとした気分になって、ゆっくりと瞬間が流れている。そんなときは、緑がより緑色に見えたり、重苦しい空気が一転して軽いさわやかな空気に変わる。いつでもこんな新鮮な気分でいられたら、もっと繊細にいろんな音や歌を感じられるのだろう。ゆっくり瞬間が流れると、周りがもっと見えてくると思う。

 時間の流れる速さってどんな人間でも同じ、平等だ。お金がなくても食べ物がなくても、どの時代に生きたとしても変わらない。その平等な時間のなかで、どれだけその瞬間を感じられるか。どれだけ新鮮に心でその瞬間をつかまえ感じられるか。結局、いつかはみんな死ぬ。その限られた時間のなかで、どれだけ濃く生きるか。瞬間を感じられるか。とても大切なことだと思う。きっと福島先生の1分と自分の1分は、同じ1分なのに全く違う1分なんだろう。自分が1分、ボーッとしている間に、福島先生はいろんなことを感じているのだろう。こんな感じられない自分が嫌いだ。どうして感じられないのか。どうして美しいものを美しいと心から感じられないのか。違う。自分が感じられないわけじゃなく、感じようとして生きてこなかったから感じとれないだけだ。

 瞬間を多く感じていこう。そうなればもっと生きてて楽しいだろうし、時間がもっと大切に思えるだろう。戻らないこの瞬間を生きよう。

そう思えたのも、福島先生がこんなことばをかけてくれたからだ。

「今、これからすぐに大地震が起こって自分が死んでしまうことをあなたは知っています。死ぬ前にあなたはどんな歌をどのように歌いたいですか」

このことばを聞いて、すぐこう思った。

「このまま死んだら絶対、後悔する。笑顔でなんて絶対に死ねない。」

自分は今まで自分がやってきたことに何も納得しきれていない。今やっていることにも納得できていない。納得できるまでやっていない。自分自身が納得できることを納得いくまでやる。そんな生き方ができる自分でありたい。明日は棺桶のなかで眠っているかもしれない。何も達成されず死んでしまっているかもしれない。だとしたら、もっと納得してもっと楽しんで、大切に生きなくてはいけない。プロセスを大事に生きよう。プロセスで納得していれば、まだ死ぬときに後悔が少ないのだろう。

 マラソンランナーの有森裕子さんがこんなことを言っていた。

「メダルを取ろうとすることは、自分の意志に反することだ。でも、メダルを取れる自分でありたい。だから毎日、納得のいく練習をしてスタートラインに立ちたい。自分にとってはそこに立つまでが大切なことだ。勝負は、メダルは結果としてついてくるものだ。」

自分もそんな人間でありたい。どれだけ瞬間を納得できるか。どれだけプロセスを楽しめるか。自分の課題だ。

 合宿のプロセスはノートだったわけだけれど、自分は一冊埋め切れもしなかった。自分に甘い奴だ。プロセスに納得できなかった。深く考え込めなかった。だから喜びのエチュードのとき、喜びを全く表現できなかった。イメージしきれなかったので、わき上がってこなかった。本心で喜びきれない。ウソの自分がまた出てしまった。自分はどちらかというと負のエチュードの方が入りやすい。でも、どれだけ自分が悲惨的にしかも不平、不満をもらして生きていたかを物語っているようで、なんか情けない。喜びを表現できる人間になろう。そのためにも、もっともっと多くのことを経験して、もっと喜怒哀楽して生きよう。一杯傷つこう。でっかい人間になろう。

 ビリーホリデイやエディットピアフは、ものすごい表現力をもっていると思うのだけど、彼女たちは普通の人の何十倍も苦い体験をして傷ついている。別に無理して、悲劇的な体験をする必要もないのだろうけれども、結局、いろいろな経験を積んでいろいろ感じて生きることが、表現の幅を広げてくれるのだと思う。ウソはウソなんだ。歌にはすべて出てしまう。ありのままの自分が出る。見栄っ張りで醜い自分の心が出てしまう。とても恐ろしいけれども、だから歌っておもしろい。自分が成長すれば、もっと輝きを増すだろうし、投げやりにほっぽってしまえばガタガタにくずれていく。自分次第で変化する。歌うのが自分なんだから、あたりまえなのかもしれないけれども、これはとてもおもしろいことだ。

 特に、エチュードだと、歌以上に自分が隠せなくなる。ウソは必ず隠せない。自分自身を確認する意味でも、エチュードをやれてよかった。合宿が終わってこのことばを思い出す。

「あなたがいてここが変わらないんだとしたら、あなたって一体何だ」

ということばだ。自分があの場にいて、何か変わったのだろうか。自分があの場に何か影響を与えていただろうか。まだまだだと思う。お金を払ってまで自分をみたい、歌を聞きたいと思わせるほどの影響力はない。認めざるを得ない。合宿に行く前から、嫌われるくらい強い自分でありたいと思っていた。爆弾になりたかった。そうなろうと試みたんだけれど、自分の考えが浅かったので、ただ怒っているだけになって、班の人に不快な思いをさせてしまった。もう少し冷静になって、周りを感じる余裕が必要だった。

 風の音、鳥のさえずり、陽の光、軽井沢の匂いを感じられなかった。だけど、エチュードとモノトークが終わって、再生になるときに、とってもいい風が吹いて気持ちよかった。そんなときは、周りの人の声もよく聞こえて、本当に気持ちよいと思えた。大切な瞬間だった。

 昨年もエチュードをやり、今年も同じエチュードをやった。去年以上のことはできてあたりまえだった。今年は表現したかった。胸にグサッと入り込むようなすごい表現を。何回も繰り返して自分に言い聞かせた。確かに、去年より少し進んだ。でも表現しきれなかった。ウソも出た。醜い自分も出た。ああ表現できたのに、と悔やむところもある。去年より格別に成長したものがある。それは終わった後の達成感と、周りに感謝する気持ちだ。去年は自分が受け身になりすぎていたから、何かよくわからないうちに終わってしまったが、今年は積極的になった分、感じられるものが多かった。ウソにしても、自分が見栄っ張りだと知っていたので、素に近いウソだった。でも、こんなもんで納得はできない。まだまだまだまだ全然ダメだ。この気持ちをプロセスに生かしたい。ありがとうと思うことが多い合宿だった。

 最後の天の声のときは、なんか嬉しくって、いろんな人に抱きついてしまった。ありがとう同志、ありがとう先生という気持ちで一杯だった。こんな気持ちがいつでも呼び起こせれば、幸せな歌を歌えるのかもしれない。自分を見守ってくれた先生や、同志の気持ちに答えるためにも、自分が力をつけることで、自分がいい刺激を与えることで、自分が努力することで感謝の気持ちを表わしたいです。

 合宿は毎回、大切なことを学ばせてくれるけれども、合宿がなくても、いろんな大切なことを学べる自分でありたい。福島先生に結局、また言わせてしまったことは、非常に情けない、自分しか見てなかった。それが悔やまれるのと、天の声のとき、先生が握手してくれたことが、本当にうれしかったです。ありがとうございました。

 

今回の合宿に参加するにあたって与えられた宿題のノートを、どんどん自分の過去を掘り下げるように書いていくにつれ、自分がここに在籍した2年近くのなかで「アーティスト」というものを自分で勝手に定義し、それに自分をあてはめていくことに専念していたのではないかと思うようになった。それはたとえば、他人のことばの受け売りでもあるし、自分でつくった枠でもある。じゃあ、それらを外して等身大の自分、それを真っ正面から見つめてみると、形的なものを作り出そうとしていたホントにちっぽけな自分がいた。「アーティスト」という以前のまず「人間」としての自分をしっかり確立もできていない。

 今回の合宿は、そうした裸になった、まず「人間」としての自分をしっかり確立、そこから表現するものを得る、それがエチュードであり、自分自身のことばでモノトークが表現できればと思い、合宿に臨んだ。そのときはまだ、「歌」にまで気持ちが行き届いていなかった。1日24時間、表現すること、歌うことだけを考えていればいいというのは自分には初めてのことであり、今の自分にとって一番ぜいたくな、そして貴重な時間だった。

 軽井沢の自然のなかを散歩しながら日常を振り返ってみると、今の生活サイクルの大部分の時間は仕事に費やされていて、本当に必要なもの、やりたいことがあるなら、そちらにエネルギーを向けるべきで、自分はその方向をちょっと間違えていたかなと思った。じゃあそのパワーを一番やりたいこと、「歌」に向けるべきだなと思い、帰宅後のビジョンを描いたりもした。

 1日目の夜、エチュード解説での福島先生のことば、「明日、大地震が起きたら何を歌うか」、このことばにすごく考えさせられた。考えて…出てこない…、ない。今の自分にはそんな歌はない…。そのときは「いつでも大地震が起きている」歌には、自分の意識が程遠く、情けなかった。そしてそのとき、少しずつ自分のなかに浮かんできた「じゃぁ、何で自分は歌うのか?」という疑問。でもそのときは、まだ普段の生活の意識が抜けきってなかったので、それほど深く考えなかった。

 何か違うなと感じはじめたのは2日目。エチュードのコンセプトの話し合いのときだったと思う。このエチュードという課題は、入り込めば入り込むほど、ある種、自分の内にこもる部分があると思う。そうして自分の内にどんどん入り込んでいって、自分のなかに表現する何かを見出すのではと。そしてそうした過程は、個人に感じるものであって、そこから発展させてそれを人に見せる、すなわち表現することろまでいけるかどうか疑問だった。つまり自分個人は、エチュードから何か得られても、まだ表現まではいけないんじゃないかと。表現の前にまず自分が…そう思っていたら、班の一人が帰ってしまった。彼は正直だと思った。自分は中途半端な気持ちのままここにいる-自分も帰った方がいいかと思った。一人だけとどまっている人間がいるべきじゃないなと。

 「でも、せっかくここまで来たんだから」とも思いたくなかった。そんな中途半端な気持ちじゃ、この課題は絶対、取り組めないこともわかっていたし。そうこうしているうちに夜になり、スクーリングの発表会。自分はまったく表現できなくて、何しに来たんだ?とまで考えてしまった。モノトークの原稿も全く納得がいかなくて、何度も何度も書き直そうと思ったけど、いいことばが浮かばない。とことん掘り下げて、広く「愛」について考えてみたい…。けど、今の自分には、過去を振り返ることはできても、感傷的にはなれなかった。それに気づいて、じゃあそのままぶちまけちまえと思って、さっさと寝ることにした。

 そして発表会。もうキレたもん勝ちだと思ってキレるだけキレもした。のどが思い切りやられた。確かにスッキリはした。でもスッキリして、どうした? 結局、イクことはできなかった。結局は「何で歌うのか」の「自分のことば」は出てこなかった。何でだろう?

  最後の福島先生のことば「プロセスを楽しめるか」…考えてみると、今の自分は楽しんでいない。そもそも歌うことを自分は楽しんでいない。今の自分は歌うのは好きじゃない。-今までの自分は「歌しかないんだ」と勝手に決めつけ、自分のなかで枠をつくって、そのなかで狭い視野になっていった。いつしか歌うことが言い訳になっていったんじゃないか? そのことを宿題のノートを書きながら感じ、日常の意識から抜け出して、第三者的に自分を見つめることによって、本心の部分に気づいたんじゃないか…。じゃあどうするか? 今は広く世界に目を向けて、どんどんいろんなことにチャレンジして、自分を磨くべきじゃないか。そうしていくなかで、自分が本当に打ち込めるものが見えてくるんじゃないかと。歌うのがつまらないなら、おもしろいと思うものから手をつけてみて、その過程のなかで、また歌いたくなればそれはそれでいい。21才で完成形を求めるなんて、なんてもったいない。できるだけ広い視野で生きよう-合宿から帰ってきて、自分のなかにしぜんにこのことばが生まれてきた。表現することだけを3日間考えた結果として、広い世界を求める自分が生まれた。今はこの自分を大切にしたいと思う。

 

 

合宿は、去年もそうだったけど、来年の合宿まで(来年があればの話)にやっておくべき大きな課題をくれる。去年、私は自分の歌の「嘘と真実」に悩み、毎回、真実を出すためにどうすればよいのか苦しむ課題を得た。合宿から冬が終わるまで、会社の屋上で昼休み、休憩時間、時間さえあれば寝ころがって空を見上げて「天の声」をやって、いや、やろうとしてた。歌うときは一度、泣いたりしてからやってみたり。とにかく「歌の真実」の存在を知りつつ、自分の体で表現できないギャップのミゾで転がって苦しんでた。小さな会社だったので、わけのわからない会社の友だちまでも「ハイ、ラララ」と(それも低い声でマネして)口ずさむくらいだった。たった一つの私の声を探そうとした。

 さて、今年はどうだった。まず私は、本当に全身全霊を100パーセントで参加していただろうか。前日までの仕事の疲れを引きずっていたのではないか。確かに状況としても、疲れ切っているのは仕方ない。でもステージは別ものだと、頭ではわかっている。自分の体の状態を超えたところにあるものだから。カゼとか筋肉痛とか、昨晩12時までの労働とかとは異次元にするのがステージをつくることだ。ステージとは、歌ったり踊ったり芝居することを意味するのではなく、空間を支配し時を止め、風を起こすことで、肉体から声や動作までも浮遊することを言うと思う。自分の右手を後ろに引けば、お客も引っ張られることだ。

 それを去年に比べると、100パーセント体現できたとは思えない。情けないが、私のなかに少々、迷いがあったせいもある。去年は同エチュードを、ただ無我夢中で熱狂的に取り組んでたけど、それは私がアーティストだからできたということは一つもない。人であれば皆、あのとき、あの場、あの課題だったら一度や二度、自分の本質を掘り起こし輝くことはできるだろう。でも去年帰って来て、軽井沢じゃなくても一人ででも、エチュードやらなくても、いつでもどこでも、たとえば、グループレッスンの自分の順番で、そんな生理状態になれないと意味がないって思った。それでやっぱり帰って来てすぐのライブ実習で、散々のもとのもくあみで、一人で清冽な空間を創り出さなかった。そこから会社の屋上での空を見上げての「天の声」をやり続けることになったのだ。

 今年はもっと、合宿でエチュードをやることによって、その自分の体の生理状態を体に刻み込もうと思っていた。だから去年のようなその場のハッタリのパワーや熱意でやっても、自分にとっては無意味で過去の手法だと頭のどこかにあった。同じ課題ゆえに、何を私は取り出し何を捨てるのか明確にする間もなく突入してしまった。「迷い」のあるうちに始めてしまった。ここが一番問題で、大反省の点。

 「一般の普通の人でもこの程度のことならできる」って去年、先生が言ってたのを覚えている。無我夢中で何かに取り組んでいる姿は、確かに人の感動を引っ張る。でもそれを何度も見せられるバイタリティとか、たとえばワンカットずつ写真をとっても、すべてがサマになってプロマイドとして売れるかというと、わからない。作品になるってことは、やはりやっている人が普通の人ではもたない。無我夢中になる生理状態を冷静にコンスタントに体のなかに巻き起こし、何かを出していくことが、まず少しでもアーティストに近づくことだろう。そこへもう一歩、踏み出すたたき台として、合宿を利用しようとは何となく思っていた。

 そして終わった今、もつところ、もたないところの瞬間の自分の生理状態の違いだけは感じられた。それはすぐにはできないけど、どんなふうに糸がもつれているのか見えたような感じ。去年は自分の歌の嘘を知ってしまったショックでアワワワ…という感じだったけど、今度は少し冷静に明確になった。自分の手で体のなかをかき回し、熱風を巻き起こし、全力で2本の足でそこに立っていなければいけないのはわかっている。それを100発100中、コンスタントに出せるような訓練の方法自体を研究し、実践していくことが、今年の合宿のくれた私への課題だ。来年の合宿があるかないか、またそのときの私に必要かどうかわからないが、そこへ向けてスタートを切る!

 

 

宿題ノートやモノトークの原稿を書いたことで「自分が何物になろうとしているのか」がより明確化(死ぬまで歌い続けたい、死ぬまで人生を謳歌し続けたい、もっと言うと、何万人もの観衆の前で最高最大のライブパフォーマンスをやってみたい、そして、自分が源(みなもと)となってみんなに夢と希望を与えたい-そう、フレディマーキュリーのように!)されたことは、大きな収穫だった。

 それと、ほとんどが会うのがはじめてだった東京のレッスン生の人たちのがんばりに触れることができたのは、大きな刺激だった。本当はもっと話をしたかったけれど、それこそナアナアになる一歩手前で帰ったのは、とりあえず正解だったと思う。

 自分にとってこの合宿での出会いが本当に重要な出会いであるならば、わざわざ合宿の帰り際に親睦を深めなくても、これからきっと2度3度と会うことになる(そしてより高いステージで!)はずだからね(本物は残る、と言わせてもらいましょうか)。

 

 

昨年の軽井沢合宿の後、参加した人たちの口から「合宿を終えて東京という現実の世界へ戻って来ると、合宿で得た“神聖な”ものが汚されそうで、必死でそれを守っている。」というような話を、異口同音に複数の人たちから耳にした。それについて当時の私は、それほどかけ離れた感想はもっていなかったと思う。しかし、今年の合宿の後は、やはり昨年と同じような感想や、「感動した」ということばを他人が口にしても、私はそれに単純に同調できない。言い換えると、そういった“おめでたい”気持ちにはなれない、というのが合宿を終えた後の私の心境である。

 2回目、しかも課題は昨年と同じ。そのなかで一体、自分は何をつかめるのか。昨年と同じことをしていても意味がない。ただでさえ、つかみどころのないエチュード。昨年は演じることが楽しかった。先生に「演じるな」と注意されても、私のなかでは演じなければ成り立たなかった。本能のままに任せると、声をつぶした。

 そして今年は…昨年と同じでは意味がない。では、どうしたらよいのだろうか? ひたすらこの問いかけを繰り返す。人に伝えるためには、下手な芝居は却ってマイナスだ。声が大きければよいというわけでもない。うまく歌うことも正解ではない。だからといって、“素(す)”では芸にならない。そうこうしているうちに、今年はつぶさないとひたすら注意していた声も、オーバーヒートしてきた。自問自答、試行錯誤を繰り返し、そしてまたもや、つぶしてしまった声に自己嫌悪をいだきながら、最終的に舞台にのせた結果は、結局「観ているより参加した方がおもしろい」という程度のものにしかならなかった。所詮、今の私の力はこんなもんである。

 楽しかった、今年も。だからこそ、おめでたい気持ちにはなれない。なぜなら観客に楽しんでもらうことはできなかったから。正直言って、自分が客席側で他のグループの発表を観ていたとき、決してつまらなくはなかったが、やはり知り合いのお稽古ごとの発表会を観ている心境だったのだから。ただし、何もできなかったとは思っていない。

 私自身、自分の存在をそこに確かに感じることができる一瞬があったのは事実であり、これは昨年にはなかったことだから。今年の合宿で一番、残ったのは“LiveForever”。Who wants to live forever?”この問いかけに、私は衝撃を受けた。モノトークエチュードを通して、死について考えていたとき、私は誰もが永遠の生を望むのが当然だと思い込んでいた。しかし、改めてこう問いかけられて、何か目が覚めたような気がした。この夏、一番の収穫かもしれない。

 余談であるが、合宿で福島先生が使っていた鐘。外の芝生で寝ころんで、目をつぶってその音色を聴いていたとき、私の目には、未だ行ったことのないチベットの祭壇のまえでラマ僧が祈りを捧げる姿が浮かんでいた。そして軽井沢の風の音と共に、祈りの声、香の匂いまで感じるような気がしていた。その後、その鐘はやはりチベットの仏具であることがわかった。偶然だろうが、あの鐘の音のなかに単なる“空気が振動して鼓膜を奮わせることにより感じられる音”以上のものを、私は聴いていたのだと思う。私の声にも、こういった何かを宿したい。まだまだ、わかっていないことがたくさんありそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

合宿特集Ⅳ    最終日

合宿特集Ⅳ  

最終日

テキスト10

発表会ラストコメント

 

テキスト10

 

◆グループ発表

 

■絶望のエチュード

●息のエチュード 静寂→静かなハーモニー 息から声 無から有へ

ゆっくりそして、早くしていく

(ハ-、ハ-、ハ-、ハ-)(ハハ、ハハ、ハハ、ハハ、)(ハハハハ、ハハハハ、ハハハハ、ハハハハ)

はじめにもどる

ゆっくり

(ハ-、ハ-、ハ-、ハ-)

薄く、声にかえていく

ハ-、ハ-、ハ-、ハ-=生まれたての声、無垢な声

●悲しみのエチュ-ド『無垢な魂』に悲しみが起きる 感情の誕生

(おかしい、憎い、哀しい、つらい)音色暗くなる

●絶望のエチュ-ド

 『無垢な魂』にどうしようもない絶望がおとづれる

動作=両手で頭を抱えて、へたりこむ

 

ひとりうめき声をあげてうずくまる

次々にひとりずつうめき声をあげてうずくまる

うめき声を出し続ける

●苦悩のエチュード

●憎しみのエチュード

半円状になっている

その中心にひとりでる

残り全員はそのひとりに向かって指さしながら『憎しみ、非難、あざ笑い』の声をぶつける

『かごめかごめ』状態

真ん中のひとりは『憎しみの声』を浴びながら、苦悩のエチュード

 

真ん中にいた人、半円に加わり 憎しみのエチュード

代わってひとり 苦悩のエチュード

 

全員が一回真ん中になる

 

最後のひとりが終わり『憎しみのエチュード』の列に戻ったなら

全員が苦悩のエチュードへ変わり、最後に絶叫

へたりこむ

 

 

■モノトーク

全員へたりこんだまま

 

その内のひとりゆっくりと起き上がって中央に

モノトークをする

 

 タイトル『AMORE -私の愛』

 

戻ったときはふっきれている

ふっきれたポーズで

 

モノトークをまだしてない人はずっとうずくまっている

 

全員終了 全員がふっきれた表情

 

■希望のエチュード

●息のエチュード 静寂→静かなハーモニー 息から声 無から有へ

ゆっくりそして、早くしていく

(ハ-、ハ-、ハ-、ハ-)

(ハハ、ハハ、ハハ、ハハ、)

(ハハハハ、ハハハハ、ハハハハ、ハハハハ)

はじめにもどる

ゆっくり

(ハ-、ハ-、ハ-、ハ-)

薄く、声にかえていく

ハ-、ハ-、ハ-、ハ-=生まれたての声、無垢な声

●喜びのエチュード

 『無垢な魂』に喜びが起きる

 音色明るく

●希望のエチュード

●やさしさのエチュード

半円状になっている

その中心にひとりでる

残り全員はそのひとりに両手を差し出しながら『やさしさ、愛の声』を送る

真ん中のひとりは『やさしさ、愛の声』を浴びながら、希望のエチュード

 

真ん中にいた人、半円に加わり やさしさのエチュード

代わってひとり 希望のエチュード

 

全員が一回真ん中になる

 

最後のひとりが終わり『やさしさのエチュード』の列に戻ったなら手をつなぎ

全員が希望のエチュードへ変わり、最後に絶叫

 

 

 

 

 

発表会ラストコメント

 

このメニュに関して解説をしておきます。コメントは、ゆっくりと皆のものを聞きたかったので、先につくっておきました。今回、皆の作品に対するコメントはありません。いつまでも人に言われるのではなくて、自分のなかで判断してください。私の解説のなかからいろいろ汲み取ってみてください。今までやったこと、3日間、何をやったのかということを、その前のプロセスからもう一度、頭のなかに入れておいて、考えて欲しいということで、少し時間をとります。使わなかったものの意味づけも確認しておきたいと思います。

 

 結局、3日間、楽しんでもらったかどうかということが最終的な答えです。アーティストとして、です。やっている方が楽しかったのか、見ている方が楽しかったのか、どちらが楽しかったのか、どうでしょう。どちらも結構、キツかったという場合もあるでしょう。それが一つですね。

 

 こういうところで集約した作品を出すと、力があろうがなかろうが、とにかく一所懸命やっているものに対して人の心は動くわけで、そのレベルのことは毎年できていることなのです。それで私は評価をしないということです。評価をしないということは、ダメとかどうこうではなくて、それでよいとか悪いとか、そういう次元ではやりたくないわけです。

 

 今回のメニュの組み立てをもう一度、戻って考えてください。合宿でやったことを年間を通じて、あるいは生涯を通じて皆のなかでまとまるようにしていってください。これも材料を渡していくという形のレクチャーです。皆の方は一応、終わったので、ここからは研究所の作品解説、あるいはそのまま作品だと思ってください。

 

 

 昨年に続きこのメニュを選んだのは、こちらで考えたギリギリの線です。与えられた3日間で何でできるかと考えたところのギリギリの作品です。研究所のトレーナー、スタッフ、私、研究所の今の体制、それから参加メンバーの一人ひとりのことを考えてのことです。まず肉声ということを言いました。音声、音から捉えたところの肉声、それからことばのなかに入っている想い、この二つをとり出すことです。

 

 歌においては皆の力を3日間で引き出せる力は私にはありません。皆のなかにも、まだあるものではないと思います。その確認を終えて、それから心と体と技術とが一体化する感覚です。いつも嘘のことはやりたくない。本当のことをやろうとしたら、私の力が足らないのかもしれないですが、研究所が接点をつけようとして本物とか真実とか皆がこの世界に足を踏み出したという感覚をつけるのだと、このメニュで本当にギリギリです。

 

 だから、皆のなかでは最高のメニュです。ただ、この3日間で歌を歌いに来たのにとか発声をやりに来たのにという方にはおわびします。いろいろなメニュの可能性もありましたが、そういう判断で進めました。

 

 

 それからいつも言っているのは、こういう状態になったときにもう一度、人の声とか音楽を聞いてみて、自分には入っているつもりだったものを、つもりではなくて、もう一度、本当に入れてみようということです。もう何回も言っていますが、今回の合宿前に、皆の方に配布した資料で、すべてわかってもらいたい。研究所としても皆としても、ここに来る前に一つの戦いは終わっています。これを忘れないでください。

 

 やってこなかった人もいるかもしれないですが、やってきた人にとっては最大の戦いはここに来るまでに終わっています。これはステージをもつ歌い手でも同じです。ステージが戦いだとしても、そこで何もなく戦える人はいないわけです。当然、そのまえに戦いがある。

 だから、一つの戦いに終わったところからスタートしたということに気づいてください。それから二つ目は、この3日間です。いろいろな事情があって充分に用意できなかった人もいますけれど、第二の戦いが始まって、一区切ついたところです。それから三つ目は、これから始まったと、明日、明後日に対して始まったということが言えると思います。

 

 だいたい人によりますが、この3日間で10歳くらい若返ったのではないかと思います。20歳くらい若返った人もいますね。顔も若返っている人もいて、結構危ない精神状態になると思いますが、むちゃをしないように、自分のなかに入り込んでいってしまったりしないようにしてください。

 

 こういう語り部や、団体競技をやるよりは、歌のことをやりたいのです。トレーナーも歌ってもらったあと、歌唱の指導もやって欲しい。私もどちらかというと、研究所としてそちらの方をやりたいですが、それをやる前の手続きというものがあるということを覚えてください。

 

 その、手続きは私も踏んでいます。先ほどまで向こうで、これをやり終わった後に言わなければいけないことばをまとめていたわけです。全部が一つの流れになっていることを一つひとつ材料が汲み上げられていることを、自分だけのレベルでよいから捉えてください。もしかすると、何年か経ったら、わかってもらえるかもしれないです。

 それから一流のもの、受け継がれたものをなるべく汲み取って欲しいということでも、材料を提供しました。

 

 

 

 

「星の王子様」

 

 「星の王子様」のプリントを配ったと思います。たぶん、意味は何もわからなかったと思いますが、好きとか嫌いとか、そういうレベルで読んできた人もいるし、何日も読んだという人もいるし、あるいは覚えてきた人もいるようです。

 

 今回のメニュは、リブ・フォエバーということば、そして、この「星の王子様」のテーマです。それは、これそのものがテーマというよりも、ここでやった歌でも他のものでも、一流のもの、受け継がれたもの、それを歌の場合は時間と音の世界で勝負しますけれど、同じものだということです。

 

 その意味が書かれているものを使った方が、まとめやすいだろうということで、組み立ててみました。自分なりに、読み直してみてください。私は朗読が商売ではないので、それから時間が差し迫っていますので、早めに読んでいきます。解釈のヒントだけ与えておきます。

 

 あとは自分でもっとふくらませてください。ただ私が言うよりも深い意味がつかめると思います。名作、一流の作品は、だから世界に普及するし、生き残るのです。皆がそれぞれに深くできると思います。

 

 

『そこにきつねが現れました。

こんにちは、ときつねが、言いました。

こんにちは、と王子様は、ていねいに答えて振り向きました。』

 

何も見えません。見えた人には見えていますが、何も見えません。

 

『ここだよ、りんごの木の下だよ』

 

私はいつもこれを言っているつもりですけれど。見えない人にはいつまでも見えないのです。

 

『キツネの声が言いました。すると王子様は君誰だい、とてもきれいな風をしてるじゃない、と言いました。そこで仕方がないから、オレ、キツネだよとキツネは言いました。』

 

とても身につまされます。皆と逆の立場になる場合もありますけれど。

 

『僕と遊ばないかい、僕本当に楽しんだから、と王子様はキツネに言いました。』

 

一つ決め手のセリフがあります。『オレ、あんたと遊ばないよ』と僕は言うわけです。あるいは歌と考えてください。『飼い慣らされちゃいないんだから。』飼い慣らすというのもキーワードです。どういう意味か、後で出てくると思います。

 

『とキツネが言いました。飼い慣らすって、それ何のことだい。』

 

ちょっと途中を省きます。

 

『よく忘れられていることだがね。仲よくなるということ。』

 

僕と仲よくなったよとか、そんなものではないですよ。あくまでイマジネーションを働かせてください。わかりにくいからもう一回、述べます。「仲よくなる」というのはどういうことかということです。

 

『うん、そうだと思う。オレの目から見ると、あんたはまだ、今じゃ他の10万もの男の子と別に変わりがないさ。男の子だもの、だからオレは、あんたがいなくてもいいんだ。あんたもやっぱりオレがいなくってもいいんだ。』

 

いろいろな意味で捉えていってください。

 

『あんたの目から見ると、オレは10万ものキツネと同じだ、だからあんたがオレを飼い慣らすとオレたちはお互いに離れていられなくなる。』

 

「僕と離れていられなくなるよ」そんな意味ですね。僕と考えるよりは研究所、あるいは歌と置き換えてください。

 

『あんたはオレにとって、この世でたった一人の人になるし、オレはあんたにとってかけがえのないものになる。』

 

ただ、そう「ある」ということではないですね。「なる」、つまりその前に飼い慣らす、仲よくなる手続きがある。何だか話が少しわかりかけたようですね、王子様は少し考え込みます。自分が来た星のことは、花が一つあって、その花が僕になついていたようだった。

キツネとは初めての出会いなので、わからない、自分が今までの過去を振り返って、あの星に花があった、この花は自分になっていた。それを思い出します。飼い慣らすというときに、仲よくなることを考えて、そう浮かんだのでしょう。キツネはまた言いました。

 

『オレは同じことをして暮らしているよ。オレがにわとりを追いかけると人間のヤツがオレを追いかける。にわとりがみんな似たり寄ったりならば、人間もまた、似たり寄ったりなんだ。オレは少々、対立してやるよ。だけどもしあんたがオレと仲よくしてくれたら、オレはお日さまに当たったような気持ちになって、暮らしていけるんだ。足音だって、今日まで聞いていたのと違ったのが聞けるんだ。他の足音がすると、オレは穴のなかに引っ込んでしまう。でも、あんたの足音がすると、オレは音楽でも聞いているように気持ちになる。穴の外にはい出すだろうね。それからアレッ見なさい。あの向こうに見える麦畑はどうだい、オレはパンなんか食いはしない。麦なんかなんにもなりゃしない。だから麦畑なんか見たところで、思い出すことなんか何にもありゃしないよ。それどころか、オレはあれを見ると気がふさぐんだ。だけどあんたの(王子様の)その金髪の黄色い髪は美しいな。あんたがオレと仲よくしてくれたらオレには、そいつ(麦畑)がすばらしいものに見えるだろう。金色の麦を見るとあんたを思い出すだろう。それに麦を吹く風の音もオレにはうれしいだろうな。キツネは黙って王子様の顔をじっと見ていました。何ならオレと仲よくしておくれよ。とキツネは言いました。王子様は言います。僕はとても仲よくなりたいんだよ、だけど僕、あまり暇がないんだ。友だちを見つけなきゃならないし、それにしなければならないことがたくさんあるのでね。キツネは言います。自分のものにしてしまったことじゃなきゃ何にもわかりゃしないよ。人間ってヤツは、今じゃもう何もわかる暇はないんだ。商人のお店で、できあいの品物を買っているんだ。友だちが売りものにしている商人なんか、ありゃあしないんだから。人間のヤツ、今じゃ友だちなんかもっていやしないんだ。あんたが友だちが欲しいのなら、オレと仲よくするんだ。』

 

うちの店(研究所)にもよく来ます。声が欲しいんです。いくらですか、何日で身につきますか。この歌をどう歌うのか教えてくださいよってね。

 

『キツネが答えました。辛抱が大事だよ。オレと仲よくするためにどうしたらいいかということ。最初はオレから少し離れてこんなふうにふたの中に座るんだ。オレはあんたをちょいちょい横目で見る。』

 

皆さんも人と初めて会うとき、同じだと思います。恋人と会ったとき、あるいは友だちと知り合うときです。『あんたは何も言わない、それもことばってやつが勘違いのもとだ。』これはよく言っています。

 ことばということ、皆も自分のモノトークをもう一度、よく読んでみてください。自分のことばのなかで束縛されている。あるいは、そこで突き詰めなければいけないのに、そこで止まってしまって次に移ってしまったり、他のところに目を向けたりしたことが、ずいぶんと、あるように思います。

 それは個人の問題なので、ことばというやつが勘違いなのです。一日一日経っていくうちに、最初はことばは交さないわけです。横目でチラチラやる。何も言わない。辛抱が大事だということです。あなたはだんだん近いところに来て座れるようになる。ことばはないところから生じ、やがてことばを交わすようになり、そしてもっと親しくなると、ことばはまたいらなくなります。

 

『ある日、王子様はまたやってきました。するとキツネが言いました。いつも同じ時刻にやってくる方がいいんだ。(手続きだから。)あんたが午後4時にやってくるとすると、オレ3時にはもううれしくなりだすってもんだ。そして時刻が経つにつれて、オレはうれしくなるだろう。4時にはもうオチオチしていられなくなって、オレは幸福のありがたさを身にしみて思う。

 

(好きな人と待ち合わせするときのことを考えればわかると思います。)

 

だけどもし、あんたがいつも構わずやってきて、いつあんたを待つ気持ちになっていいのか、てんでわかりゃしない。

 

(パッと手に入ってしまっても困るわけです。)

 

きまりがいるんだ。

 

(きまりというのも一つのキーワードです。)

 

きまりってそれ何だい、と王子様は言います。そいつがまた、とかくいいかげんにされているやつだ。キツネが答えます。そいつがあればこそ、一つの日が他の日と違うんだし、一つの時間が他の時間と違うわけだ。

 

(私たちの時間は、一つの時間を違う時間にする仕事です。そのなかでは普通に過ごしているわけです。)

 

オレを追いかける狩人だって、やっぱりきまりがあって、木曜日は村で娘たちと踊るから、木曜というのがオレにはすばらしいんだ。木曜になるとオレはぶどう畑まで出ていくよ。だけど狩人たちがいつでも構わず踊るのだったら、どんなときも同じで、オレは休暇なんかなくなってしまう。

 

(概略をとって話します。仲よしになるプロセスがありますが、時間の関係で省略します。王子様の星の話に戻ります。)

 

もう一度、バラの花を見ててごらんよ。

 

(今回は、そういうプロセスを踏んだはずです。)

 

あなたの花が世の中に一つしかないことがわかるのなら、それからあんたがオレにさよならを言いに、もう一度ここに戻ってきた。オレは、お土産に一つ、秘密を贈り物にするよ。

 

(この秘密の方が本当の商品といっては何ですが、大切なものだと思います。)

 

そこで王子様は、もう一度、バラの花を見に行きます。そしてこう言いました。

 

(バラに向かって言うわけです。王子様の星のバラではなく、ここの星のバラです。)

 

あんたたち僕のバラとはまるっきり違うよ。それではただ咲いているだけじゃないか。誰もあんたたちとは仲よくしなかったし、あんたたちの方でも誰とも仲よくしなかったんだからね。僕が初めてでくわした自分のキツネと同じさ。

 

(もうキツネのことばがわかっているわけです。)

 

あのキツネははじめ、10万ものキツネと同じだった。だけど今では、もう僕の友だちになっているんだ。この世に一匹しかいないキツネなんだ。そう言われて、バラの花はたいそうきまり悪がりました。王子様は言います。あんたたちは美しいけれど、ただ咲いているだけなんだ。あんたたちのために死ぬ気になんかなれないよ。

 

(なぜだかわかりますよね。)

 

それは僕の花も何でもなく、そばを通っていく人が見たら、あんたたちと同じ花だと思うかもしれない。

 

(別に特別な花ではないわけです。ただ何が特別かというと、)

 

だけどあの一輪の花が僕には、あんたたちみんなよりも大切なんだ。だって、僕が水をかけた花なのだからね。覆いガラスだってかけてやったんだ。ついたてで風に当たらないようにだってしてやったんだからね。毛虫の2つ3つは、チョウになるように殺さずにおいたけれど。

 

(そんなに手数をかけたということです。)

 

花なんだからね。不平も聞いてやったし、自慢話も聞いてやったし、黙っているならいるで、どうしているんだろうと、ときには聞き耳をたててやって、そうしてきた花なんだからね。僕のものになった花なんだから。こういって王子様はキツネのところへ戻ってきました。じゃあさようならと王子様は言いました。さようならとキツネが言いました。

 

(キツネが秘密を教えてくれます。ここで初めて教えてくれます。)

 

さっきの秘密を言おうかね。なに、何でもないことだよ。心で見なくては、ものごとはよく見えないということさ。肝心なことは目に見えないんだよ。

 

(心で見なければものごとは見えないということです。)

 

肝心なことは目に見えないと王子様は忘れないように繰り返します。あんたのバラの花をとても大切に思っているのは、そのバラのために暇つぶしをしたからなんだよ。

 

(暇つぶし…決してよいことばのようには思われていませんが、大切なことばです。暇つぶしをしたからだ、飼い慣らす、仲よくなる、手続き、暇つぶしをした、今、4つのことばを言いました。)

 

僕が僕のバラの花をとても大切に思っているのは、王子様は忘れないように言いました。キツネは言いました。人間というのは、この大切なことを忘れているんで、だけれど、あんたはこのことを忘れてはいけない。面倒を見た相手にはいつまでも責任があるんだ。守らなきゃならないんだ。バラの花との約束を。

 

(きまりということばが出ました。約束ということばも出ました。)

 

僕はあの花と、バラの花との約束を守らなきゃ、王子様は忘れないように繰り返しました。』

 

 

 

皆にプリントしたのは、このところです。大切なところです。

これと、今回のリブ・フォエバーのメニュの組み立てとが結びつきましたか。

 

あの人わかってないんだろうなと、人のことを見ていても仕方がないですが、それを自分のこととして喚起できればよいと思います。自分もできていないということはわかっていないということなのに、それを忘れているのです。

 

ただ皆の方も、この合宿、あるいはいつものレッスンでもよいと思います。それが、何でそういうふうに組み立てられているのかを考えてみてください。

 

いろいろなメニューがあります。そのなかでいつも、やはりギリギリで私は選んでいます。ギリギリの時間をギリギリに使っています。この時間も含めてです。最後に交流会もやりたいし、記念写真もとりたいですが、そういうものも捨ててやっています。

 

 そうして選ばれるものが何かということです。選ぶってことは、他を捨てること、最初に合宿に来なければ何をしているかと聞きましたね。私も仕事や人との出会いを捨て、ここに皆と過ごすことを選んで来た。いつも、選んでいます。

 

 すべて、組み立てられているのに、もしかして皆の方が拒んでいるとしか思えない場合もあります。自分が成長するために、時間とお金をかけてきて、何らかの戦いに来ているわけです。自分や研究所をつぶし役立たなくする戦いをしているような人もいます。

 

 

 ここと同じだけの用意は、いつものメニューでもしています。合宿だからということで、特別なことをやっているつもりではありません。アテンダンスシートの提出も一流作品をみることも求めています。それを今回は3日間にコンパクトにしているだけです。合宿の組み立てで、凝縮しただけです。

 

 いつも同じことを何回も言っています。私自身は、同じことを同じレベルで終わらせないために、皆よりも会報にたくさん書いています。なぜ、こういうものがあるのかということも、今まで何回も言ってきています。苦悩があって絶望があって、何で毎年、このメニュばかりをやらなければいけないんだと思います。

 

 本当は歌のメニューをやりたいです。ただ、微笑みが出せない。希望に届かない。先にいかない。

 それは、皆だけの課題ではないです。私の課題でもトレーナー、スタッフの課題でもあります。

 

パヴァロッティのように歌えるかどうかということではないのです。ジョルジアみたいな顔ができるかということです。だから言わせてもらうと、ああいう顔ができるまでは歌えていないということです。

 

 私も皆に向かって、先生として対しているわけがない、皆、自分たちはわかっているんだから教えてやるといって、やっているのではないです。皆より活動し発信している、それから皆よりも歩もうとして努力している。そのキャリアの差にすぎない。

 

 トレーニングの大切な時間をものにするには、何回も来て、30回目でわかること、100回目でわかることがある。何回も来るということは一つの学び方です。それから何回も来た人から学ぶこともあります。何年もやっている人からも学べます。何もないところから自分で気づこうとすることもできるし、自分でそれに気づいて取り入れていけばよい。

 

 ところが皆、1回みてわかった気になる。できもしないのに、それなら単に高慢ちきな観客にすぎません。皆が100回でやめるところを1000回やって、ものにした人だけが残っていくのです。

一回でわからない、できないから、人のせいにする、そんな人もいるかもしれません。

 

 

 

 昼休みに私は、食堂の庭の釜めしの花壇のことを述べました。「水」という詩のことも言いました。多くの人はうなづいているだけです。自分で見て、触って感じた人だけが、何かをものにしていくことができるのです。

 

 健闘する人は、私のモチーフのなかで最後に言いましたね。健闘する人を認めるというところ、今のところ私は戦っている人に対して、自分の力を伝えたり、そこで一緒に戦っているつもりなので、この活動をやっています。

 

 だから、考えて欲しいことは、ここにくるまえまでの戦いは、皆にとって何だったかということです。それがノートに残っているはずです。日常を日記でつけている人もいます。いろいろなことをやっている。ただノートのつけ方を、これまでああいうふうにはまとめてこなかった、

 

 まとめたら違うことに気づいた。それだったらそこから学べばよいわけです。日頃、レッスン上で誰よりもアテンダンスシートをたくさん書いて出している人は書きやすかったはずです。

 

自分から学ばずして何から学ぶのですか。そうでなければ、まだ深いところの問いができていないということです。そしてそのノートのなかで、もしかすると泣いたり煮つまって書けなかったり、いろいろなことを考えたり苦しんだりしてきたかもしれない。でも一つの作品の原型がもてたわけです。

 

 

 3つの戦いがあるといいました。3つ目の戦いは、まだこれからだからどうなるかわからないです。これをどう受け止めるかです。

 

 ただ2つ目の戦いまでは終わっています。この3日間に関しては、もう取り返しがつかないです。1つ目の戦いのなかで泣いて苦しんで、この3日間で体調を崩し声で、結果を出せなかった、だから負けたのかというと、そうではないです。

 

 そこまでに手続きを踏んでいるわけです。今皆に大切なのは、手続きを踏むことです。

 そしたらそこで泣いたこと、誰よりも泣いて、誰よりも自分の作品を想ってやったことが下地になってきます。

 

 いつも言いますね。10回で覚えるより1000回で覚える方が手続きとしては大切だということです。同じ歌詞を言うのに1万回、あるいはもっと深いところでそれを読めること、そしたら一度くらいはどうでもよいわけです。今日なんか、声が全然、出ていないわけです。だから、伝わっていなかったわけではない。

 

 神様が私に、皆が求める声をこの3日間で差し上げられるようにしてくれて、ここで、すごい声をもらった、それは結果ですよね。その結果だけを与えられてうれしいですか。その声が買いたいか、じゃあ誰かの声を○○君にあげる、◯◯君の声欲しい人、2万円です、よいですか。ついでに体も顔もあげる、さあどうします?

 

 合宿にしろ研究所にしろ、いつまでもあると思わないでください。私も役割があり、はざまにおります。結局、誰もが自分に大切な一つのことを成すためには、一人ひとりで歩んでいくということです。ただ、よい戦いをして欲しい、今年、モノトークでセリフができたら、今度はそれを歌で、その濃さよりももっと濃い歌を歌っていかないと困るわけです。

 

 せっかくそれを感じたのですから。笑顔でたどり着くまでには、もっともっとかかると思います。そこのプロセスをきちっととりたいです。そのために、なるべく嘘をなくしていきたい。

 

 昨年と同じメニュでやったのも、昨年できたような気がして、やはり嘘があるからです。今回でも、やればやるほど自分のなかで嘘がわかってくるわけです。そしたら伝わらなくなってきます。ギリギリでやることです。睡眠時間を削ってギリギリでやっているわけです。

 

 皆はもっとすごいことをやってくれよと言うかもしれませんが、ギリギリでできることをやっていくしかない。そのことの結果、その笑顔が自分のものになるわけです。10年後まで、やるかどうかわからない。けれどやりたい人はやっていくしかないわけです。やった人も最初は皆と何も変わらなかったはずです。集団でなかに入ってやれる人はよいです。それが傍観だけで終わってしまってはつまらないです。

 

 見ていておもしろい、それはおもしろいです。それだけでよいのかということです。それでよい人はそれでよいのですが、今日の日もまた、あなたの一生を凝縮しているのです。帰ってしまっても忘れないで欲しい。

 

 リブ・フォエバーをもっと考えてください。答えはすべて、自分のなかにあります。歌でやっていけるとかいけないとか、いつも聞く人が多いのですが、そんな問いが出てくる間もなく、やっている人だけが出ていけるのです。やっている人はやっている、それだけの話で、やっていった方がよいというわけでも、やめた方がダメだとかということでもないということです。

 

 ただ、自分をきちっと見つめないとダメです。いろいろなことをやると、自分のわかっていると思っていることは全くの間違いだということがよくわかります。毎年わかってきます。自分のことは自分しかわからないのですが、こと、芸に関しては自分ほどわからないことが多いのです。

 

 

 こういうことをやっていくと、自分のなかには表現の種があるわけです。それを育てる手続きの一部は経験はしてきているわけです。感情のなか、身体のなかでもそうです。しかし、まだ眠っているわけです。もしかして、先祖代々、家系のなかで、いつもフラれている家系とか。それも血です。顔とか形とかそういうことだけを言っているわけではないです。運命的なものもあります。

 

 いろいろな意味で自分が何を愛してきたのか、何に涙をしてきたのかということもありますね。それを全部、否定しないで、人前で、では一体、何を表現するのかということです。

 声で表現する人間であることでは変わらないわけです。他の人にだって、底にあるものが見えてしまいます。人のことですから。その当人が深まって、どこで満足なのかということです。できる人はできるでよいでしょうけれど、伸びていかないし、そんな人に、声は必要ないと思います。

 

 

 あなたにはたぶん、忘れられないこと、言いたくないことが、まだまだたくさんあると思います。自分が人を憎んだとか傷つけたこととか、体と心に刻みこんでいるわけです。とにかくテーマは皆のなかにそのすべての心とともにあって、それがよいとか悪いとかを決めることもできない。

 

 掲げてある「水」を読みなさいと言いました。多数の人は、私からいわれたときに読もうと思ったのにも関わらず読んでいない。そんなものです。できることなのにやらないということは、できないことなのです。そのときを生きていないのです。そのときを生きるのは、そう思ったらきちんと読むこと、そのときをつくれるのはそのことの意味に気づくこと、私との差がその1分でさらについているのです。

 

 日常、流されているうちに、見失っていないか、だから自分が自分だと思っている像をどんどん創っていってしまっているわけです。私も今、ここにいるのが自分だとは思っていないです。しかし、これも自分で演出した自分です。認め、責任をとらなくてはなりません。

 

 あまり思っていませんが、この時間が多くなってくると、どんどん頬の皮がこわばってきて頬ばってきて、動かなくなるわけです。そこで歌えるかというと、自分のものが歌えなくなるわけです。だからこそ、それをきちっと見つめないといけないと思います。

 

 自分の姿は自分の目で見れません。ビデオで見てみて愕然とするわけです。だから鏡が必要です。鏡というのは別に見る鏡ではない。もっと内面的なものを見るために必要です。だから、研究所の場合は書くことをやっています。書くことがわかりやすいと思います。

 

 

 

 今回の前半の戦いが皆の鏡です。もう見たくないと思うかもしれない。自分の顔、声、歌だって見たくないと思うかもしれないけれど、その鏡を磨いていって欲しいと思います。曇っていませんか。ステージ実習で見たくないと思って、なぜ見せるのかというと、それが自分の人前での姿なわけです。その人が生きてきたものがそこに出ているわけで、そこにいて伝わるものにしか価値をもらえないわけです。

 

 だから、自分の姿は、書き綴られたノートに、自分のなかにもう育ててきたバラの花があるわけてす。それをきちっと見てくれということです。新しいバラを育てるよりも楽とはいいませんが、それが今の皆の顔をつくっています。

 

 ところどころの文字が、叫び声をあげています。皆も他の人のことばを聞いて、キュンとなったり涙がポロリと流れたりする、いろいろなことばがあります。そういうものを含めて、自分のなかに既に答はある、それを取り出す、そしてまた高めるのがとても大変だということです。

 

 だから自分が思っているものではなくて、思い込んで決めつけたものではなくて、やはり鏡に写ったものをきちっと見ること、そのためにリブ・フォエバー、星の王子様を見て欲しい。

 

 手続きというのはいろいろなものがあります。私も皆が苦しんでいるとき、苦しんでいます。そして皆が解放されて、それが本物であれば、こちらも息が楽になってくるわけです。

 

 そういうところのものをきちんと出すことです。皆も仕事をして疲れ、家に帰ってそのときに音楽を聞きたいと思う。その状態で入ってくる音楽だって本物です。ただそれで寝てしまう人と、そうなったときに息が深くなる、声を出したくなる、歌いたくなると思うかで、全く違うわけです。

 そういう人しか向いていません。

 

 それもプロセスです。それも手続きです。やれない人はやらなければいけない手続きです。バラの花に水をやらないと枯れてしまいます。そうしたら花が咲くのは見られないわけです。いつまで、人の花を見ているつもり、同じ手足がありながら。

 

 

 

 

 (では関西の方、バスへ行ってください。お疲れ様でした。)

 

彼らとは最後ではなくて、皆が会いたいときにまた会える人たちです。続けていくでしょう。プロセスが結果だということですから、友だちになろうと思って、ここで無理に親しくするのは、結果です。プロセスを楽しんで欲しいと思います。

 

トレーナーたちも皆よりもそのプロセスを楽しんできたし、これからもそうしていくことだと思います。人よりも時間と心をかけ、確かにしたものは、かけがえのない宝物です。それに接する時間こそ、自分が本当に自分であることに触れられるのですから。練習をやるべき人なのです。

 

 私も、自分の楽しめること、楽しんでいる自分がみたいので、ギリギリのところでやっているわけです。だから過去に積み上げたことの余力でやろうなどとは思わない。常に新しいものがそこに入ってこなければつまらない。幸い、やる気のある人たちに恵まれています。

で、ここは教えているなどと思っていない、また別のことで、意味づけをしています。

 

 

 人生を楽しめる人と楽しめない人があって、楽しめる人というのは手続きを愛するわけです。手続きすべてを愛します。花を買ってくるわけではないです。花を育てること、水をやること、肥料をやること、毛虫をとってやること、他の人なら嫌がることも含め、すべてを愛します。嫌なこともあります。

 

 人とつき合ってすべてをかける恋愛なら、フルコースですから嫌なものもたくさん入っているわけです。それと、よいところだけのつまみぐいとどちらを好むかということです。楽しめない人は、結果だけを愛するのです。

 

 プロのヴォーカリストになるとか歌を身につけるとか、幸せになりたい、結婚したいとかよい恋愛をしたいとか、いうのは、結果です。いくら、そのことを思っていても、相手をみつけたり、愛を育んでいくプロセスなしに結果は得られない。だからそのプロセスがどこに落ちてくるのかということの方を見なければいけないと思います。いろいろなプロセスがありますから、どの方法がよいということではないと思います。

 

 天の声で気分がよくなっていますが、日頃の行ないがよく、日々仕事に打ち込んで努め、いずれ天国に行って天の声が聞こえる人は、このなかにいると思いますし、そういう人が何を好き好んで地獄をみる必要があるのかとも思います。天国に行ける人はそのまま天国に行けばよいです。

 

 問題なのは、どうしても天国へ行けない人、それを待てない人です。別にこの世で悪いことをしたということではなく、そういう人はやはりこの世で天の声を聞いていくしかないです。その日に耳を澄まし、感覚を研いで聞いていくしかないわけです。それがアーティストかもしれません。

 

 そしたらギリギリのところでやることをやって、天の感じがこの世でつかめたら、きっとそういう声が出てくるのだろうということです。地獄の向こうに天国はあり、鬼になった人だけがいける。外からはそうみえるが、当人にはその二つはイコールであり、他の人と違うのはその高さ、深さだけです。

 

 だって、10万人が集まるコンサートで失敗したら地獄でしょう。自分の力でその地獄を天国に変えるしかない。そして、それは常に次の地獄をもっているのです。オリンピックの入賞で喜ぶ人と銀メダルで泣き叫ぶ人がいます。金メダルを獲ったときから、地獄しかなくなるのです。

 

 どんなに大きな花が咲くかということではなくて、目立たなくても種を見つけ育てたら何か咲くわけです。それを認めればよい話です。

 

 どうしても結果を先に求めてしまう商人になりがちです。何でも売ってくれるお店に行きたがります。誰でも買えるものなら、どうして欲しがるのでしょう。

 

 考えてみたら、神様は声帯をくれている、健康な体も。いろいろありますが、不幸な人を見てはじめて、健康な体をもらっていることに気づくわけで、それほど私たちはごうまんです。その上、声ですか。そのくらい自分が獲得していく楽しみを残しておきなさいよ。

 

 神様がなぜ、声だけよい声をくれなかったんだろうということです。最初からパヴァロッティとかカレーラスみたいに歌えたら、やはり皆、つまらなかったでしょう。

 彼らだって、あそこまで偉大になれなかったでしょう。

 

 プロセスを楽しめるかどうかは、今日を楽しめるかどうかです。私もトレーニングはキツイと思ったことはありますが、おもしろくないと思ったことはないです。キツイのは、自分が信じられるかどうかという一点のみです。その時間、できるのが待ち遠しかった、別なことで邪魔をされればされるほど、その時間は輝いています。そして力をつけるために何をすればよいかという手続きを楽しめばよいわけです。

 

 

 歌が入っていなければ感情が入っていなければ、そこまでのことは素人の劇団でもできます。今日やった、たぶん半分近くは、あるいは全部のこともできるかもしれない。当然のことながら、それでよい人はそれでよいと思います。そういう人たちは毎日毎日、積み重ねていかないです。だから次の年にそれと同じ密度をもった歌には、絶対ならないです。

 

 でも皆のなかにもならない人が多いですね、なぜならないか考えてみてもよいと思います。なりたいと思うのではなくて、それが結果として現れてくればよいわけです。単にうまいのでなく、すごくなりたいなら、すごい理由、すごい顔をつくりなさい。

 

 だから、いつも研究所では、ワークショップともエチュードともいっています。練習でよいわけです。バックグラウンドを大きくしていけばよいわけです。それだけのものを大きくしていったときに技術が必要になったら、その人は技術をつけようとするし、そのときには技術が身につくでしょう。

 

 ただそういう姿勢で自分を見つめていたら、今、何をやらなければいけないか、今、鬼にならなければいけないのか、どういう問いが必要なのかわかるかもしれない。それを邪魔する人はいないと思いますし、止められないと思います。求めていくこと自体が尊いことです。

 

 

 

 私が語るくらいにものごとを語れたら、私程度の技術は宿る、それだけです。だから考えて欲しいのは、合宿の1日目、2日目です。ちょっとした練習をやって、それっぽい声になって与えられることを表現してどこかでデビューでもすることが、今やったことよりも幸せなのかどうかということを考えてもらえればよいと思います。

 

 そうするともう少し、必要なプロセスが見えてくるような気がします。歌がうまくなるということは、うまくなるプロセスをとればよいのです。声が欲しいならその声を、愛することも同じです。一度しかない人生です。一度しかない時です。その暇つぶしをきちんとしてあげることです。

 

 必要な時間、待つことです。次がない歌かもしれない。いつまでも歌えるわけではない。プロセスとは、自分のモノトークをもっと深めていくことだと思ってください。大切なことは、それが大きなものになったときに、それを他の人にきちっと伝えていくには技術がいります。

 

 毎日、息を吐いていくような手続き、毎日、自分と歌とを関連づけていくようなトレーニングが必要です。そうすると、即興でここにと出てきても、歌えないはずの歌であっても、伝えるものというものが、つまり技術なり表現、表情、ことばといったその人のそこまでのプロセスが助けてくれます。皆からもいろいろなよいことばがありました。感覚を鋭くしていきましょう。

 

 

 

 舞台のカーテンコールになると、一人ひとりに拍手します。一人ひとり、見えている舞台であったというのが、案外よかったと思います。よい合宿だったと思わなくてもよいですが、よい自分であったと思えたらよいと思います。自分で自分に拍手できるようにしてください。

 

 私も見ているのは、研究所にあるわけではなく会報にあるわけでもなく、そこでおもしろいことを書いている自分にあるし、そこで何か書ける自分もあるということです。ここでつまらないことを言ってしまったり、ここでうまく皆に伝わらなかったら、やはり自分にグサッとささってくるし、そうしたら私の性分からいって、すぐやめてしまいます。だからやめないというのは、ギリギリでやっていかなければならないし、その自分を高めていくしかありません。ダメなときは苦しむしかないわけです。

 

 私のことをほとんど寝ないで大変という人がいますが、大変なことはそんなことでないのです。寝ないでやっていることのなかに自分である姿があるのです。自分が自分であることです。寝なくて自分であるなら、そんなに楽なことはない。

 

 手続きは準備しなければだめです。準備をします。来年もまたやろうと逃げない、また会おうということではない。歩んでいって欲しいです。そしたら、どこかで会えます。歩んでいる人は、少ないです。自分を見て歩んでいる人は、もっと少ないです。皆、歩んでいますが、足だけが動き、顔のしわだけが増えていく。よいしわを脳にも顔にも刻むことです。

 

 

 今日、私が一番心に残っていたのは、簡単なことばでしたが、「そんな日だから、そう、私は歌いたい」そんなふうになれればよいと思っています。「こういう風が吹いていた、なら私は口ずさんでいたよ、この歌を」って感じで、これは最近の私の境地です。

 

 自分のなかで自分に対して歌う部分もあるし、歌わないことが歌うことになる場合もあるし、安易に勝負しないことも大切なことでしょう。歌っているんだ、伝えているんだと思って、観客が集まっているんだと思っても、それだけのものではないと思います。そんな結果より、1日1日歳をとっていくわけで、その年齢をきちんと踏んでいって欲しいような気もします。

 

 

 

 それでは、だいたい皆のなかでつながりましたでしょうか。皆の先ほどの質問から、いろいろな理解の仕方があることがわかります。語られることがモノトークから、人に伝えられるものになったら、自分が自分として感じられる、伝わる。皆がステージ実習やライブ実習とかでやっているものより、今日ここで言ってみたものの方が、よほど密度が濃いし説得力があるわけです。

 

 10秒はOKです。それを3分でやりたいとか、ライブでもっと大きな世界を創って伝えたいということであれば、それなりの手続きを踏まなければならない。だから、手続きを踏んだ人だけが旅立てます。黙っていて、それが人に与えられるはずがありません。

 

 

 皆が研究所にいて、あるいはここにいくらかで交通費込みで声を買えるとしたらどうします。買えても絶対、人前で歌えないですよ。もっとお金持ちはたくさんいますから、どんな社長でも買いますよ。声は誰でもよくしたいし、歌は雑でもうまくなりたいのですから(そのソフトがフロッピーディスクで売れるものなら、私はきっと、ビル・ゲイツを抜くでしょう)。

 

 だから、そういうものはお金がいくらあっても手に入れられない。逆にお金がなくても手に入るものなのです。だから尊い。せっかくそのことで目覚めたのであれば、そういう花を、必ずしも歌とはいいませんが、きまりをきちっとつくって約束を守って育てて欲しいと思います。

 

 そういうものを一つの表現に凝縮したのが歌であり花です。表情トレーニングなどもありますが、毎日、鏡を見てニコと笑って、それだけでジョルジアの顔より魅力的な顔が五万人の前で、できますか。そしたら、どこで踏んでいけばよいのか。パヴァロッティの顔と近い顔をするときもあるでしょうか。

 

 

 あとは、深く読み込んで欲しい。本を読むとかいうこともありますけれど、何回も読んで耐えるもの、何年も残るものは、人間にとって深い意味があります。

 

 もしその人が一つ高いことをやろうとしたら、それにエネルギーを与えてくれます。街角でフォークを歌うからといって、回りの人のフォークを聞く必要はないでしょう。もっと、より魅きつけるものを聞いた方が、たぶんパワーが凝縮していくと思います。

 

 一つのことで10コを語っている人もいる。一つのことで一つしか語れない人もいるのですから、表現を志す場合は、一つを固めて、自分を語っていっている人たちのものを受け継いでいけばよいと思います。それから後、自分がやればよい話です。

 

 先ほどのキツネの例でいうのなら、キツネと親しくなりたいといいながら、キツネを選ばない、キツネを愛さない、あるいは仲よくなろうといってキュッと首根っこをつかんで引き寄せて抱えたって、友だちになれますか。皆の歌や音楽との接し方は、まだそんな感じです。まず、離れて逃げない距離に、そっといること。そしたらやがて、仲よしになれる。手続きを踏まないといけないです。

 

 毎日来て何年もたって何もいわなくても仲よくなっている。他の人から見たら、何であの人仲よしなの、キツネがあんなになつくの、私が近づいたら逃げるのに、そこの差です。人と比べたり人をうらやむより、やれている人のプロセスに敬意を払いなさい。

 

 皆にとってもキツネが何だかわからないわけです。わからなくてもよいです。今がわかったら舞台をやって、今の舞台とは違うかもしれないでしょうが、そこで考えてみるとよいでしょう。そんなところかな。

 

 

 

 最後のバスが3時に出ます。最後に私が話して、終わりでは、ここが成り立たないので、リブ・フォエバー、もっている人いますか。締めましょう。

もっていない人は、合わせて繰り返せばよいです。

私のなかでもこれ以上、語ることはありません。

 

 今の研究所のなかでもギリギリです。また、とっぴな人たちが入ってくれば、とっぴなノウハウが出てくるかもしれないですが、だいたい人に必要なものといったら、こんなものではないかと思っています。 では、これが記念撮影だと思ってください。

 

 少し円になって、歌える人は前に出てください。歌えない人は少し下がってください。

 

 ことばというのはキーワードです。だからこのキーワードのなかで、今回の2回目までの課題、戦いです。来るまでの最初の戦い、2回目のこの合宿の戦い、そして、次の戦いのためにことばのなかに封じ込めてください。

 

 ここにまた戻ってくるという人がいますけれど、この地に来なくても、イマジネーションの世界でいつでも戻れるわけです。忘れたときには、戻って欲しい。そのキーワードです。この歌詞は。

 (リブ・フォエバー、一行ずつ回す)

 

 これに集約されていると思います。あまり努力とか根性とかを出したくない。努力したとか根性があるということではなくて、当人は楽しいわけです。手間暇をかけて、やることだからです。

 

 

 

 家庭菜園とか山登りとかでもそうでしょう。何でやるのか、回りから見たら苦しいだけのように見えても、本人には楽しいのです。「ご苦労なこっちゃ」と言われ、本人も「大変ですよ」って言いながら笑っていられる世界なのです。そのこと自体が苦しいのであれば、人前に立つこと自体が苦しいのであれば、自分の必要性が感じられないのであれば、もっと違うものが自分の心のなかにあって、そういう花を育てていく方がよいのかもしれません。

 

 いろいろな生き方があり、それでいろいろな才能がある。◯君の才能もあれば、◯◯君の才能もある。それが全部、開花しているわけではないです。時代流行、運やツキもある。それに動かされたくなければ、自分の世界をつくることでしょう。

 

 私だって、5年後、何をやっているかわからないです。私の場合は、2年後もわからないです。何もなくても、何もみえなくとも、何かあるとき、何かみえたときのために、自分の用意はしておきたい。何かを永遠に手に入れるとか入れないという結果のところで言うのではなくて、プロセスのところで言う。だから生きざまになってくるわけです。

 

 なんでプロの人って2時間3時間、寝ないでやれるのか、全世界を回って、歌い続けている人もいるわけです。それは、そこが自分のステージだからです。自分が自分と一致できるからです。皆が今日、声を与えられたら、回れますか? 

 

 全然、準備できていないでしょう。レパートリー30曲くらいありますか。このくらいで疲れて、体力、気力がありますか。そんな準備は、音楽始めて何年も経っているわけで、できているはずでしょう。そこでプロセスの差がでてきます。

 

 テニスのグラフの腕を与えられたとしても、普通の人ならたっていられないコンディションで試合に行く、どうしてその気力が出るか、完全に、相手を負かすことができる力が出せるか。それは、その腕を手に入れるプロセスでつけた力なのです。

 

 バラの花を買ってくる、それはあくまで人様の育てたもので、どこかの作品なのです。コンサートもチケットを買えばみられます。その世界の人たちにとってみれば、それは生きざまであって、日々のプロセスがつくっているわけです。

 

 だからオンして、リピートして欲しい。そのことをやれる感覚にしても、せっかく芽が出たのにそれを見ない、違うところに水をやっている人も多いわけです。そんなことを毎年やっていたらだめです。違いを見るのに見たくないところを見ないでどうするのか。虫がいるから育てるのをやめようというのと同じです。

 

 最後に、まだ他の班の人の顔などを、じっと見ていない人もいると思うので、輪になって一人ずつ、確認してみましょう。まだ私もよく見ていない人もいるので。少しずつ声を出してみてください。前に出て皆の声を浴びるまえに一人ずつ回ってみましょう。

 

 そして、最後にトレーナーにあいさつしましょう。抱き合ってもよいです。声をやりにきたのですから、最後に声を出して帰りましょう。

 

 ここまで、研究所の最後の課題ということで、私が読みました。皆がもう少しつぼみくらいになっていてくれたら、もっと違う形で出せるかもしれない、いずれは次の世界に行きたいと思っています。

 

 今回の課題は、これで最後です。

今日は、今日でまとめておくということです。

 

じゃあやりましょう。トレーナーの方で先導してもらって、

「あの声欲しいな、なりたいな」

とみんな、思ってもよいです。

 

「でもいらないな、自分は自分だと、あの顔はいらないなと、あの身体はいらないと…。

 みんなで。アー」

 

 

 

 

合宿特集Ⅲ 2日目

合宿特集Ⅲ

 

2日目 朝

テキスト8

カウンセリング(トレーナーほか)

   昼

テキスト9

福島コメント

 

2日目  朝

 

 

 全体像を追うことを実際にやってみたいと思います。

 知っているからといって本番で消化できてしまう課題ではありません。この後、昨年の夏合宿に参加した人に一通り、やってもらおうと思います。冬の京都の合宿に出た人もある程度の流れはわかっているでしょう。

 

 昨年とは何が違うのかというと、より具体性をおいているということ。それからもう一つは、最後のところまで個人でしめくくる。モノトークは昨夜、読みましたが、いくつか気づいたことを言います。まず一つが皆さんがこれを書く時点でエチュードのことを全然、考えていないということです。このモノトークというのは、エチュードの役割のなかでのきっかけです。具体的に書くようにといったのですが、あまりに個人的レベルのことが多いのです。これを演じた場合に、どうなるかということです。

 

 ちょうど先週、TVの「バラ色の珍生」という番組から、知っている人がいたら紹介してくれと電話がかかってきたわけですが、とても偏った恋愛とかめったにないような話を告白してギャランティが10万円だということです。まさにそういうものに出したらよいと思いました。

 ワイドショーとか週刊誌にというネタが出ています。半分はありきたりで、後の半分は、とても正直に書いていただいています。だから却って、見せられないという感じです。あまりに個人的事情が多すぎるわけです。

 

 みなさん、よくまあこんな複雑な生き方をされていると感心しましたが、やりたいことはそれを消化して出していくということです。「裸になってください」とは言っているけれど、「裸を見せてください」ではないわけです。これは全く違います。

 

 個人の告白で、教会でのザンゲです。だから、どう直したらよいかということは、難しいのですが、はっきりいって、狭すぎます。愛とテーマで、個人の恋愛歴みたいなものです。だから読んでいて、まだ失恋から立ち上がろうとしているなんていうものは、まだよいのですが、彼とうまくいっていて今ウキウキとか単なるノロケにしかならないわけです。表現者でしょう。

 

 そんなものをこの朝の4時半まで読ませるのかということで、私は腹が立つ、ということは、ステージにしても、聞いている皆も当然、腹が立つわけで、舞台にはならないわけです。

 

昨日の自己紹介を聞いていても、デートをやめてとか、愛しい人に会うのを振り切ってここに来たというならまだしも、毎週末会っているから今週はここに来てもいいやという感じでしょう。

それはそれでよいけど、もう少し煮つまらんかい。

 

 まず一つは、愛といって恋愛の告白をやっているわけではないということ。皆の個人的なことを私が知りたいわけでも周囲の人たちが知りたいわけでもない、ということを押さえてください。

具体的な書き直し要請の箇所に、線を引いてあります。

 彼とか彼女とか、~ちゃんとか正直なことはよいのですが、個人のなかに入っていかないことです。入っていってもよいのですが、とり出すときには,表現たる形で投げ出すことです。

 

 聞いている人にとっては、「あなた」「あなた」といわれて歌になるかということです。たとえば敬称を消すだけで相当、違ってきます。抽象化されます。

 もう一つは、年月、私が~歳のとき、それから何年前、これは具体的で、あまりに生々しすぎます。今の皆さんの恋愛状況やそのことで過去に苦しんだことを誰も知りたいわけでもない。ここにいるのは、友達や兄弟ではない。観客です。

 

 結局、伝えるに値することはその事実そのものではなくて、そこで得た自分の心であったり、感覚の方です。だから、最低限に事実を出してもよいと思いますが、現実よりリアリティで問われるのです。日記や感想文の発表会なら,学校で卒業でしょうに。

人前で1分間に凝縮させたときに、それらは余計なことになってしまう。表現には、必要がないわけです。日記と小説とは違う、公に問うことを目的として作品で出すことです。

 

 

 モノトークも作文力を問うているわけではないです。自分の日記を書くわけではない、ということです。真実のことばというのは、ことばが日誌のように正直な記録ではなくて、そのことばのなかに、その意味、あるいは自分がそのときに思ったことが含まれていればよい。自分が思っていればよいわけです。

 

 それを「5年前」とかいう必要はないでしょう。

言うことによって、個人的な事情に限定されます。具体的ゆえに、表現が弱まってしまいます。

 とても難しいですが、トークや楽屋話とは違います。そういうものは具体的であればあるほど、おもしろいわけです。

  トークショーをするのではありません。そういう意味で、歌うわけではないのです。

だから、随分、変な体験とか経験とかをいろいろと書いてあるのですが、その生の感情を、生のことばをそのまま出すのではなくて、もう一段階、抽象化してください。大人になって,いや,表現者になってくださいということです。

 

 いつもは具体的にと言っていますが、今回は、あくまで再生のきっかけにして欲しいのです。だから、失恋であろうが、それが最終的に自分の生きていく哲学や生きがいになっていたり、その歌うことの理由に何か結びついていると感じられるものは、まだ読めます。まわりには不評でも自分のために使えたらよいとも思います。

 

 そうではないものは、先ほど言った通り、ただの言葉の羅列、食事のメニュ表と同じです。

何で歌うの、だからこの声が何なの、この表現が何という具合に結びつかないと、ここのステージでは、存在に違和感をもたれると思います。

 

 この課題にアモーレとか愛というのは、恋愛というのではないのです。

自分の恋愛事情を履歴書みたいに書いても作品にはならないのです。それでよければ、あなたは、間違いなく恋愛作家とよばれます。そんなわけがないでしょう。

 

 プライベートを具体的に書きすぎた人は、その日時、年齢、相手の名前とか説明の箇所には、消してください。詩や歌,台本にしてください。

 それでだいぶ、抽象化され、皆のなかでも、共有されるものになります。個人の記憶を聞きたいわけではないということです。

 

 昨年の合宿に参加した人のなかで、ここで発表したことを後々、言われたという人もいました。ここで言ったことは、私たちの舞台のなかでの範囲であるのに、日常にひっぱっていくのは、タブーです。映画の殺人犯役に、日常の場で殺すのはひどいといっているような愚かな行為です。念の為。

 

 ノンフィクションで書いてきているから、当然、その人の生きざまになっています。開き直りで吐露して、それで再生するというのは、心理的にもやりやすいし、まさに心理療法でも使われています。

 役者の世界のなかでは、現実と虚構が混在したかのようなこともあるでしょう。

 

 でも、私は歌うものとして、そこの部分はもっていながら、そこまで人前で生々しくやりたくないというのがあります。そのために歌があるし、音がついているからです。音というのは抽象化されるわけです。

 

 ことばより、さらに抽象化された世界での感性が必要です。当然ながら、ことばほど生々しいものはないのです。それを、あの人がこんなことを言っていたとか、こんな生活をしているんだって、というそんな下司な勘ぐりをする人もいるのでしょうが、この場のことは、この場で終わらせる約束です。

 

 つまり、結果としては何を言っても構わないでしょう。ただ作品としてみたときに、作品にならない、皆がそれを演じるときによい台本になっていないものに関しては、省く、その計算を働かさなければならないということです。

 

 歌に関しては、ストーリーとか詞でもっていくものもあるし、バンドでもっていくのもある。ですが、今回の場合はヴォーカリストとしての表現力の部分でもっていきたいと思います。

 詞やストーリーとしてよくても、今回のエチュードのなかでの役割としてみたときに、望まれる効果とか表現が必ずしもでない。

 

だから、原本は、私の胸に秘めて忘れます。私は忘れっぽいですから、明日には忘れています。もちろん、後日、アンケートや感想文,脚本は,勉強のために会報などで公開しますが,必ず編集して作品集とします。いつも、関係者個人に迷惑がかからないように編纂しているのはお分かりでしょう。ここが大きくなってからは,匿名にしつつあります。

そう,ここでも同じく、編集して作品にするのです。

 

 確かに作文は、事実で、隠しようもないものです。具体的なことだし、ウソ、偽りもないのだけれど、事実を事実として伝えることによってリアリティが出るのではない。

多くの場合、事実は実際に起こったこと以上のものではない。見たいのは、真実、リアリティで、それは事実そのものではない。まだ,材料,下書きで,台本になっていないのです。

 

 とり出さないといけないということです。ノンフィクションでも、自分の事実をそのなかでもう一度、深いところで汲んだことばとか想いであってこそ、伝わる。それが創造力です。

想いのところで、伝えて欲しいです。具体的すぎることばというのは、じゃまになってしまうと考えてください。

 

 かなりセンセーショナルな書き出しも多いし、えっと思うようなものもありましたが、それでは、ただのゴシップです。あなたが他人であったら、おもしろくも何ともないわけです。

基本的には、他人に通用しないものは認めません。人に言うものでないことを、この場で言って昇華できるのであれば、使って構わないですが、周囲の人はあまり聞きたくないことで、ただ痛々しくなってくるだけです。皆さんも,これまでさんざん経験してきたでしょう。

 

 山が本当に好きだと言うだけなら、こちらでも解放されるわけですけれど、皆のには、そしゃくと救いがない。それが消化と昇華です。発言する人は再生のきっかけの舞台でやるのであり、周囲の人たちの再生も助ける、あるいは見ている人にもそこから這い上がるというような想いを伝わるものに結びつける。だから、ことばで限定される部分を逆に外してください。あまりに事実そのままです。

 

 つまり、正直なのはよいのですが、こちらが読んでいて恥ずかしくなります。自分を消費していくのならよいでしょうけれど、それはヴォーカリストではないし、ましてやそれを見てもしようがないわけです。そんなレベルのことはしたくないと思います。

 

 それぞれの人の事情はバラエティに富んでおもしろいですが、やりたいことは音の流れのなかでそれぞれの役割があり、それを動かしていくその心の動きに集約したいです。そこからの叫び声が作品です。

 

 

 一番よくわからないのは、その恋愛とか愛が、歌に結びついていないことです。なんにしろ、愛というと、いきなり恋愛、失恋と捉える人が多すぎます。それ抜きで語れぬ事情がある人は、それでよいと思いますが、もう少し、そこで見つめて消化したら、もっと大きな力が動かせるはずです。

 

 そうしたら、やはり大きく見てこなかったのではないか、という感じがします。だから、煮つめられていない感じがします。つまらない恋愛はないとは思いますが、どんな恋愛もそのまま取り出したとしたら、それは作品でないのです。

 

 書くことにも慣れていないし、どうやればよいかということでは、難しいことだったと思います。しかし、もう少し愛ということで大きくつくってきたら、それが歌へつながってなくても、自分の生き方とか想いとかが出やすかったでしょう。そこで歌がつながっていないと、どうしようもないですけど、歌は、生きることとつながっていくものでしょう。皆の生活のなかにある、そういう大きな意味の愛とかのことで、だからといって彼、彼女のことを書くなとか、人類愛とか社会愛に切り換えなさいとか言っているわけでもないのです。その描き方の問題です。

 

 ○年○月から恋が始まって、これはいつ終わった。そして次の恋はいつ始まっていつで終わったと、それは単なる事実の羅列です。それでは何もならないです。それだったら、その一つだけでよいから、そこからつかんだ想いとか、感じたことを取り出して表現してください。

 

 赤裸々に告白してもらっても全然、私は驚きませんし、構わないのですが、せっかくこういう原稿を書くのですから、書き方を工夫してもらいたいと思います。腹をくくるのも、ある人にとっては大きな進歩です。だからこそ、その上を求めます。

 

 逆に抽象的すぎる人は、具体的にしてみた方がよいと思います。かなり漠然としたまま最後までいってしまっている人がいます。たった一つ、何を言いたいかということに絞り込んでいくことです。

こういう人は、腹をくくることです。

 

 聞きたいのは、そのことばを通じて出てくる音声なり想いです。その想いが悲惨なものであろうが、幸せなものであっても、どちらでもよいです。それに想いが込められていたら、個人としての自立になり、そこで再生というのも感じられます。

 

 

 まず、言い訳はいらないです。そして、歌に結びつけられるのであれば、結びつけてください。ひんしゅくをかうのは、ただの恋愛自慢です。こんなに私は恵まれていてというだけなら、この人は何でここに立っているのだろうという感じになってしまいますね。その時間、どこかでデートでもしていればいいのにとなってしまうでしょう。

 

 不幸な人もたくさんいますから。作品自体が共同性をもつところからは、成り立ちにくくなってくると思います。だからここで恋愛を語るわけではないのです。この愛というのはあくまで人間の感情が生まれてそこで苦しんだり痛めつけられたりということです。エチュードでは同じ世界だけれども、光とか闇があるとしたら、闇の世界で今まで見えていたものが、一つの想いで光がさして、そこでみえてきたということのできっかけです。

 

 それはあなた個人の勝手な考えだよ、別にそんなこと関心ないよと言われることを省くのです。すると、ちょうど皆さん2~3分で書いていますから、1分くらいになると思います。省いたところを匂わせることばでもよいし、それをたとえているようなものでよいから、煮つめていく。

 

 「じっとネコの顔を見ていた」といえば伝わるのに、その後に「それで彼と別れてその彼とは今はどうこうで」というのは、いらないわけです。自分のイマジネーションのところで伝えていたら、聞く人の方がイマジネーションを働かせてくれます。聞く人のものになります。

 

 それをわざわざ狭い世界にもっていく必要はないわけです。ただこれが自分だ、こういう形でやった方が自分が表現できると思う人は、今のままでよいです。

 芸を見せて欲しいということです。1枚2枚脱いでいく踊りの方を見せて欲しいということで、最初から素っ裸でパッと出てしまうと、どうしようもなくなってしまいます。このままでは、そういうことが起こりそうな気がします。

 

 そうならないように組んでみてください。

では夜までにお返しします。それがモノトークですね。

 

 

 

具体的にやっていきましょう。

 

 ため息から声にしていくことをやりましょう。

 深い呼吸をイメージしながら、それを声にして伸ばしてふくらませてみてください。

誰かが息を吐くのにのせていくとよいと思います。誰かが出したらそれで省く、その気になってきたら自分が演じ切って、この集団のなかにとりあえず自分の声を問いかけてみる。息を吐くことから始めます。どこか自分のきっかけのなかで、どこかで声になっていきます。(全員でため息から声へ)

 

 

 

エチュードの見本)実演

 今のが形です。ところどころ止めようと思ったこともありましたが、ギャラリーが止められないということは、作品になっているということなわけで、そういう評価をしてください。

 これが一つの叩き台になると思います。

 

 昨年参加して今年も参加するというのは、こういうことが好きな人ですから。そう言ったら失礼かもしれませんが、また全然違うメニュを期待してきたかもしれないですが、そういう面では、独立して劇団でもつくってみれば食べていけるかもしれないですね。

 

 ただこういうことの好き嫌いは人によってありますし、私は、ここで劇団にするのは好きではないし、劇団をやるつもりはありません。

 

 感情移入できない人は、皆の作品だと考えないでください。自分の作品だというふうに考えて、自分に役立てるためにこの場と時間を共有するということです。

 だから、本気にならないと損だと思います。皆の作品ではないということは劇団でもどこでも同じですが、自分のプレーをまっとうすればよいだけです。

 自分の作品をきちっと創っていたら迷惑もかけないし、作品自体もオーライになります。そういうふうに考えてみてください。

 

 よく分ける人がいます。あのなかの一員になりたくないとか、私は違うとか、それは自分を番外においただけで、そんな人は一生、表現の場に立てないし、何度か立ってもまっとうできません。10年か20年たったらわかります。

 

 自分の作品だと思ってみてください。よかったところ、悪かったところは、だいたいの流れから捉えてください。。作品として見るのは、こういう経験のない人には、とてもよいと思います。

 

 だいたい好きな人であれ再び参加するということは、そこに深めたい何かがあるということで、昨年は深くできなかった、あるいはできたけどまた取り戻しにきたわけでしょう。できても戻ると忘れてしまうわけです。その感覚を出せなくなる。そういうことで参加する分には、そこにつかまなくてはいけない何かがあると思ってください。

 

 ストップがかけられない、いきおいがあるのは作品になりつつあるということですから、そこに何かがあると思えばよいです。そうしたら、その何かをどこでつかむかという話です。だから、ここでつかめれば一番よいと思います。

 

 皆には特殊でも、私にとってはこれが日常です。3日間、遠方から時間をかけ、参加しているわけです。つかむ価値はあるということです。ただ、それは皆の捉え方なので、これ以上、細かくは言いません。

 

 

 

 今のものを叩き台としてみると、前半の方はあまり文句はないです。そのまま取り込んでください。あまり解放されていなかったところが、最後の部分です。

 これは舞台の使い方にも問題があります。解放されたところから、エチュードのところです。円はもう少し大きい方がよいです。

 

 それから、お客さんがこちら側にいるのであれば、少し開いてやった方がよいでしょう。クローズしてやっていた人たちが天上に上がっていく感じだと、そこまで開かれていたものが切れてしまいます。そういう演出があってもよいと思いますが、何となく締め出されたような感じもします。

 

 だから、全体の舞台がここだということは、各班で考えてください。全部、使ってよいと思います。場の設定はとても大切です。それから声の解放と気持ちのノリです。

 

 このへんは午後に、もう少し解放させたい。声を意図的に出しているという意識よりも、しぜんに楽に声を出します。昨年やった人は最後にやった天の声を思い出してみましょう。全く力が抜けていたはずです。しかし、声は透き通っていた。それは集中と弛緩を同時に心と体でできていたからです。

 

 早い時間で切り換えていくので、難しいと思いますが、捉えて欲しいことは、先ほど言ったこと、つかみたいのです、何かを。もし皆が見て好きであれ嫌であれ、目を釘づけにされている時間があったとしたら、そのなかにある何かを取り出してください。

 

 感情を練り込むというところから始まって終わりまで、私から言わせれば、こういった舞台をはじめ、すべての歌も、人前でやるものの構成のエッセンスが全部、入っています。短い時間のなかですが、とても単純に入っています。

 

 もしわからなければ、昨日の歌を全部、ここに置き換えてください。歌からみたら少し長い時間で、舞台からいうと、とても短い時間で単純ですが、全部が入っています。それを学んでください。

 

 人前でやるものとして価値が出てくるものの、その形まではつくっていないのですが、必要とされる表現技術の精神的なものから基本の線は、この脚本のなかで押さえていると思います。それを理解してください。舞台に限らず、演劇に限らず、歌のなかでも同じです。

 

 歌はこれからやることを3分に凝縮するだけです。それからいくつか気をつけて欲しいことは、昨年もけとばしたり体に触るというものがありましたが、こういう状態になっていると、結構、心身が自分のものであってそうでないようになる人がいるので、力は手加減してください。

 

 普通の力で出すと本当にころんだり、ぶつけたりします。芸ごとでの、身体が接触するしないは、雰囲気が出ていたらよいもので、細かくは言いませんが、普通の状態ではないということは考えてください。

 

 

それから、苦悩のエチュードのところで、皆、座り込みます。そのときは苦悩の表情をもって座り込むわけです。これはできていたと思います。

 

そして次の憎しみのエチュード。これは顔を上げるところでスタートします。この顔を上げたときに憎しみの顔になっていて、このときは、完全に立ち上がっていなくてもよいです。

 

 そういう状態から、次のエチュードに入る間に、半円状になって、立っていくところで、憎しみ、非難、嘲りの声をぶつける。この表情のところで一回押さえてください。

 

本当は感情で移っていくのがよいのですが、決まるポイントというのがあります。そのポイントのところの表情は、あの程度、区切りをつけていった方がよいと思います。時間が限られていると、全体のなかでやる感情を待って動けなければ芸になりません。どうしても全体の流れの遅れをとっていってしまいます。自分一人でやっているならよいですが、そうではないからです。

 

 同じように、希望のエチュードのところもモノトークのあと吹っ切れていると、この吹っ切れが足りなかったです。絶望のなかでやってきて、そこから再生するための告白をしにいくというときの出方と、そこでそれを言い終わった、それが終わってパッと帰ってしまうなんてことはないわけで、当然それを感じていたらゆっくりになる。それを感じたら言い終わってもすぐにパッと終わることができる。歌と同じです。終わったらパッと、これで帰る人はいないですね。そういうのはノド自慢かカラオケ大会です。

 

 当然、そこからの反響を一身に受けることです。よきにしろあしきにしろ、やったことは自分の責任ですから。判決を待つ歌い手が自分はここまでのことをやったんだとそこに立ち、感じてくれ、ああ感じてくれたなと、それは拍手であったり視線であったりしますが、それを浴びたくて皆、人前に立つわけでしょう。そこを逃してしまうというのは何のためにやるのかわからないわけです。だから、これも同じです。皆のソロの舞台といっています。そこできちっと感じる。

 

 

 それから一人ひとりのエチュード、希望のエチュードも同じです。もう少し、円を大きくしてあげて、真ん中の人が動きやすくすることです。考えてみれば世の中で私でも、10人の人から本当に祝福される瞬間というものは、そんなにないわけです。

 

 毎日、誕生パーティをやっている人は別ですけれど、そうしたらもう少し、そういうことを感じてみてください。今は、早くやってくださいと言いましたが、自分の瞬間です、本当に。自分が主人公になって周囲からの10人の瞳を見ている。するとこれは練習から現実になります。

 

 明日も本番、今日の練習も本番、それは、現実に人間がいて、少なくともその感情で迎えてくれるわけです。たとえシミュレーションであっても。そしたら、そのことをもっとしぜんに感じれば、きっともっとしぜんに表情ができると思うし、いろいろな感情がわいて声も解放される。体も解放される。息も楽になるはずです。音楽を聞いて歌い手になりきって練習すればよいと言っていますが、それだけではなかなかできないので、全身で捉えるようなことをここでやっているのです。

 

 それは、今はわからなくても、とても大切な瞬間だと思ってください。もしかすると、10人に祝福されるというのは、これで最後かもしれないです。本当です。明日、死んでしまうかもしれないし、死んで祝福される人は別ですが、あるいはこの後70年くらい生きたとしても、生きた分、皆からの、ののしりしか受けないで終わってしまうかもしれないです。一生で一番よい時間になるという可能性もあります。

 

 冗談であればよいですが冗談ではないかもしれません。もっと素直に喜んでもらえればよいと思います。それだけで、ここまで来る価値があると思います。

 

 

 それから考えて欲しいことは、今まで入っているもの、まず皆が人間として体で受け継いできたもの、息で受け継いできたもの、そういう部分を意識する。次に皆が今まで聞いてきたなかで経験して受け継いでいきたいものがあるはずです。それから昨日や今日の材料のなかからも受け継いできたものもある。そういったものを組み立てて出すということです。

 

 その作業はいつも全然、間に合っていないです。いつも間に合わない、ということがいつまでも間に合わないことになりかねない。一所懸命やっていて、今回はこれでよいですが、明日やる作品に関して、昨日感じたこととか今までの自分の歌のなかの想いとかを、まさにこの現場だけではなくて、ずっと引きずられてきたもの、自分のなかに入ってきているものを出せるようにする。だからもっと、音を感じて欲しいし、もっと空気を感じて欲しい。この場のリズムとか風を感じられる余裕も欲しいのです。

 

 これだけ広いところでやっているわけです。もっと広く考えて、ここから、全世界、全歴史に心を広げて考えてください。ここに身を置いているということで、もっとたくさん取り込んで、それを出すという作業をできる限り、して欲しいと思います。

 

 呼吸も軽井沢の、浅間山の、関東の、日本の、地球の、宇宙の呼吸になる。空間、時間、それを牛耳るということです。それは時間を集約して出していくと、だからイマジネーションを働かせなければいけません。舞台だけしか見えていなくて、足もとしか見えていないところから、飛び立つのです。

 

 

 

テキスト8

 

今回のテーマは、風です。

 

 

“風”の声

 

地球、世界中の音、リズム、声を聴き

人間の体に宿すとともに

日本古来の感情、心、音、感覚を

自分の血のなか、体のなかに感じ

風、心と体を洗い、自分のなかに風を通し、

風にのせて声を届ける

 

私は“風”、世界を飛びまわる

私は“風”、日本に生まれ育ち

私は“風”、どこに行こうとするのか

 

この夏 

 

 

 

 

 

1.自らを活動して他を働かしむるは水なり

2.常にこの進路を求めて、止まざるは水なり

3.障害にあい、激しくその努力を百倍し得るは水なり

4.自ら潔うして、他の汚れを洗い、清濁併せ容るるの量あるは水なり

5.洋々として大洋を充し発しては雲となり雨となり雪に変じ霞と化し、

  凝りては珍瓏たる雨もその性を失わざるは水なり

 (水月 八十八翁)軽井沢合宿所の食堂の書

 

 

 

 

カウンセリング(トレーナーほか)

 

 

Q「表情と声の不一致」歌の詩と心の一致がうまくできない。口の形がぎごちない。口と声が分離していて、本当のことを歌っていない(気持ち、心が入っていない)みたいに見える。

 

一致させましょう。何年かけても。

 

 

Q「体でひびくこと  声の場所」自分とは明らかに違って声に音の圧力を感じる人がいる。同じ人間の体をもっているはずの私に出せないはずないのに、私の体のなかのどこにその声があるのか。

 

 個人的にレッスンを受けてください。

 

 

Q「フレーズをつくる、練り込んでいくという作業について」  しぜんに体から出てくるようにはならないんです。どこか、自分を見ているもう一人の自分がいるような感覚もあって。これは、自分が本当にその歌を歌いたい、伝えたいと思っていないから、思いが薄いから、という理由なのでしょうか。

 

いろいろと原因は、あります。

 

 

Q 頭部にひびかせるという感覚がよくわかりません。胸部のときのように確認する方法があるのでしょうか。あるのなら教えてください。

 

方法は、人によって違います。

 

 

Q 天の声をやるとき、どうしても体に力が入ってしまいます。キープしたまま力を入れない感覚がつかめません。よいきっかけのつかみ方はないでしょうか。

 

心身のリラックスから集中しましょう。

 

 

Q 私は過去のことを語るのを避けているのです。たぶん意図的に。私は体と精神がひきちぎれるようなときがありました。それを語りたくない、見たくないというのではなくて、そのものを見せたくないのです。語ってわかってもらえるようなものではないのです。自分もリアルに話せないと思います。それを多くの他人のまえにさらけ出すのが怖いのかもしれません。

 

歌うのに関係ありません。とらわれないように。

 

 

Q スポーツの稽古ではかなりキツイことをやれてきたのに、毎日のヴォイストレーニングではどうも集中できないし、消化不良で終わってしまいます。スポーツで感じた、キツイけど充実する感じが出てきません。練習がつまらないものになっています。先生はどうやってきたのですか。このままの状態では未来が見えてきません。やはり修羅場をつくっていかなければいけないという気がしています。先生はどういう方法でつくってきたのですか。

 

 修羅場の向こうには、未来より地獄のあるばかりに見えることもあります。でも、修羅場というのは他人からみたら「よくやるなあ」というもので、本人にとっては、極楽三昧、つくるもなにも、どんなにおもしろい映画や本、おいしい食べものよりも楽しいことでしょう。あの人とつき合えば修羅場といわれても、本人は楽しいから続けるのでしょう。例が悪いかもしれませんが、日本のスポーツや旧来の組織での充実感は、ややもすると軍隊と同じく、連帯感、大義名分、奉仕、犠牲に基づく快感です。しかし、アーティストの充実感は、自立、自信、個として解放されたものにあると思うからです。

 

 

Q 母音の発声について 発声練習のアエイオウと、実際の歌詞のなかでのアエイオウ(たとえば、愛、家e.t.c...)の発音の仕方は同じでよいのでしょうか。特に「イ」がうまくいえません。

 

発声と歌詞の読みは、最初は一致しにくいものです。がんばりましょう。

 

 

Q「素の声に戻る」しぜんな声の判断基準は何か。人によってしぜんな声も違ってくると思う。

自分のしぜんな声の発見は、まず耳でわかるようになるのか、体でわかるようになるのか?

 

両方でしょう。

 

 

 これらの詳しくは、レッスンで、お答えしていきます。

 私がアドバイスしているのは、時間がまてなかったり、楽しさのなかで安易に流されぬよう、目的を見失わないで、より高いところ、厳しい条件にチャレンジしたり、そうすれば必ず起こるうまくできないときに耐え、やめないで続けること、もっと大きな喜びを手に入れるのに必要な勇気を、少しでももつためです。     

 

 

ーーー

 

2日目 昼

 

 

テキスト9

 

メニュの解説 エチュードスクーリング

メニュープロセスでのアドバイス

 

■息のエチュード

 1□誕生についてのイメージを一人ずつ話してもらう

 

■悲しみのエチュード

 1□誕生した魂におこった悲しみとは何か

  (自分は何がおこったから悲しむのか)

 

■絶望のエチュード

 1□悲しんで悲しんで決定的なことがおこる

   →この決定的なことはなにか?

 

■憎しみのエチュード 苦悩のエチュード

 1□真ん中になった相手は自分にとってどういう人間か?

  (なぜ憎む?)

 2□真ん中になるとき、憎しみ隊がどういうことをしているから、

   自分は苦悩しているのか?

 

■モノトーク

 1□どういうことを言えば、この課題の流れにあうか?

 2□ここで上昇の矢印を描く設定だが、マイナスからプラスへ転換するすごいパワーを出すために、モノトークで自分がいうべきことは何か

 

■息のエチュード

 1□再生 いつ自分で自分が生きるのを選んだか?

 2□1回目の息のエチュードとどこが違う?

 

■喜びのエチュード

  □再生した魂におこった喜びとは何か

  (自分がどうなったら喜ぶのか)

 

■やさしさのエチュード 希望のエチュード

 1□真ん中になった相手は自分にとってどういう人間か?

  (なぜ優しさをおくる?)

 2□真ん中になるとき、やさしさ隊がどういうことをしているから、

   自分は喜んでいるのか?

 

□あなたの班では この課題を通して、何を伝えたいのか?

 

 

 

 今までみて、少し足らないところがあります。入り込んだとき、すべてを忘れてしまっています。それは、あたりまえの話ですが、ただ声を「はぁー」とやっているときのこの空間、時間を感じて欲しい。そのときの感覚というのは、もし昨日とか今までのことのなかから取り出せるのであれば、時間を止めてそれをつかんでいく。

 

 一瞬を永遠に、リブ・フォエバーということ。一つは何かこういう感覚上に動かして欲しいということと、やはり、全体のなかで個人が埋もれてしまっています。主体的な動きがあるべきです。

 

 なかにいる人が、憎しみとかを浴びせる人たちにこっちへ行っては突き飛ばされ、こっちに行ってけとばされ、結局、皆にけとばされているといったように、何もしないで虐げられるというよりは、他人のパワーにはねとばされる、何かを求めて行こうとすればするほど強く拒まれるといったような、ポジティブに主体性をもって個人が動くところが欲しい気がします。

 

ただ、まわりがいきなりつかんだりハードにやるのではなく、個人が目立つようにやりたいのと、先ほど言った演技のなかに入っていくのはよいけれども、そうすると、この場のなかでは入れなくて、結局は残れないことです。

 

 昨年、一昨年、一番の反省点は合宿から帰ったらやったことが消えてしまうということです。残すことをやっていきたいので、今回はプロセスをもう少し明確に意図していこうと思っています。

 

 当然、エチュードという練習曲を練習ということでやっています。班ごとに書いたものをまとめさせようかと思いましたが、それはやめて、個人個人でソロのステージをやってみて、せっかくあれだけのことを書いてきたので、そういう人たちがさらに気づいた点、自分が書いたのはどういうことだったのかを気づかせるために、先ほども2時間とりました。

 

 多くの時間をさいています。それを確実にモノにしないとそのまま素通りして、明日も今日みたいなステージになりかねないでしょう。夕食、入浴までに仕上げておいてください。見ながら言っても構いません。班長を中心にまとめ、それがグループのコンセプトだと思ってください。

 

 班でまとめると無理があると思うので、個人で、ただ読むのではなく、モノトークと同じように発表という形をとります。今日、言った注意を忘れないでください。本当は本番、モノトークもこちらに変更したいくらいですが、せっかく書いてもらったものなので、1分くらいにまとめてください。

 

 去年はここで私がカウンセリングで見ましたが、練習していて一人ずつ抜けると集中した練習ができなくなるので、今回はやめます。モノトークを具体的に一人ひとりに直すよりも、こちらの方を優先させますので、1分くらいでまとめ、夜に一人ずつ発表してください。

 

 ノートをもとに組み立ててください。イメージのこと、それから個人として動く、皆の作品をやるのではなく、それぞれが主役であるというところをきちっと見せるということを意識してやってください。

 

 特に人のを見て終わらないように、その流れにいろいろなものを持ち込んで出すという形です。20分くらいのエチュードになりますが、もし3分、1分、もし10秒で表現しなければいけないとしたら、そこに全部入って、全部出すべきです。そういうところをエチュードで味わうつもりで、一つひとつでできるのであれば、やってください。

 

 

 なぜ合宿のときにはできて、戻ったらできないかというと、合宿のときは、周囲が助けてくれるわけです。環境も人も力をくれます。皆が笑う、そうしたら自分の方も笑顔になってくる、そういう感情が起きてくる。皆が泣く、皆が憎む。憎んでいくとその感情が渦巻く。そのなかに自分も投入できる。そうしたら憎しみの境地にあるそういう声が出る。そういう歌が歌える。

 

 そして戻ってしまうと一人になる。そうするとできなくなる。どんな環境でもどんな人のまえでもとり出せる、つくり出せてこそ、アーティストです。常に壁を破らなくてはなりません。一人でやるためには、イメージが必要です。アーティストを支えるものというのはイマジネーションです。イマジネーションをもってくるためにことばをキーワードを使うわけです。

 

 ですから、ことばと音のなかに自分の感情を入れてとり出すために、昨日まで見たいろいろなVTRとか、音楽とか、そこでの歌詞とかそういったものを全部、引き寄せてくる。それから今まで生きてきたあなた自身、ノートのなかにたくさん書いたもの、それをもってきて、自分のイマジネーションで自分を自立して出せるようにするということです。

 

 だから、個人の自立ということをきちんとここで体験してみる。自分が空間も時間も牛耳って支配していくことです。皆の作品、皆の舞台ではなくて、自分の舞台、自分がそこで演じているということをやるわけです。そうすれば、帰ってみて周囲がいなくなっても一人でできる。

 

ソロのヴォーカリストであれば、一人でやらなければいけないということです。そこに過去のシーンが動いてくるのです。その体験が自信になります。

 

 

 

[苦悩のエチュード

 

(トレーナー)誕生、悲しみ、絶望、ついそれがうっ積して憎しみ、仲間にとりつくように苦悩、となります。そして、モノトーク。ここでは、それまで下降していったのが上昇の矢印を描く設定といった、今まで出してきたマイナスをプラスへ転換、そのすごいパワーを出すためにモノトークで自分が言うべきことは何か、一番、追い詰められたところで。今の状況で15秒ぐらいの一言。メッセージをどうぞ。

(グループ一人一言ずつ回す)

 

自分自身の力でマイナスからプラスへの転換が行なわれました。息のエチュード、1番、2番合せて再生、いつ自分で自分が生きることを選んだのか、自分が生きていくことを自分でいつ選んだのか、一回目の誕生のエチュードとどこが違うのか、乗り切れなかった人がいたら、どうしてか。目を閉じてゆっくりと息を吐く、そして念じて、自分がそのプラスを選ぶのかマイナスを選ぶのか、感じてください。

 

[再生 生徒一人一言]

(トレーナー)喜びのエチュード。プラスの精神に、これが脳一杯にノックして完全な勝利。もう既に一個人の喜びでなくて、それは同時に100万人の人たちとわかち合える喜びになっています。歓喜な状態、再生した魂に残った喜び。

 

 

[喜びのエチュード一人一言]

 

優しさのエチュード、希望のエチュード。悲しみのあった部分全部、喜びに変わっています。勝利の確認をしながら、その余韻のなかで皆に質問をしたいと思いますので答えてください。

 

Q なぜ優しさを送るのですか。自分は喜んでいますか。

(一人一言)

 

 

 

 

 

福島コメント

 

 お疲れさまでした。胃が痛くなりますね。私はまんまえで一身に憎しみを浴びていたので思わず、坐禅を組んで仏様に手を合せてしまいました。キツイですね。

 しかし、スイッチを入れて、いつまでも同じレベルのことでないように、リピートにオンをしていかなければいけないわけです。

 私にとっても余力でやっているわけではなく、ギリギリのところでやっています。だからいつも、その場に応じて変わります。皆と同じ立場だと思ってください。演じる心境にそんなに大差ないです。

 

 いくつか明日の課題に関して、簡単なコメントを述べておきます。先ほど言った通り、昨年までは一瞬をつかむことをやってきました。今回は軽井沢に一瞬をつかみにと書いてありますが、やはりつかんで軽井沢に置いてきたり、離してしまうと何の意味もないので、離すなということをかなり意識しています。

 

 離さないために支えるものとしてイマジネーション、あるいはことば、これはイマジネーションを出すためのキーワードになりますが、そういったものを皆の頭のなかにキープして収めるということを言いました。収めておいて欲しい。収めておいてくれたら何のときにもパッと、そのことばから取り出せると思います。イメージもです。

 

 歌い手は、毎日毎日、その気分になっているわけです。歌っている間にそれが取り出されるわけです。ノートを必死に書いた人は、多分、今日そういうことが取り出せたと思います。ただこれで「よし」と思ってしまうと、その瞬間、抜けてしまいます。キツイことですよ。

 

 私も、もう日も暮れたからとチャラチャラと何か楽しい歌でも歌って、夜通しカラオケみたいにやっていたいのですが、これをやらなければいけないというのはキツイけれども、ただ、そのキツイことを目をそむけて自分の嫌なことから目をそむけたら、もうそういうことをきちっと見て生きている人たち、そうやって生きていこうとしている人たちのまえで表現する資格はないし、恥ずかしくて表現できないと思って闘っています。

 

 研究所にはいろいろな人が来ます。講演にも声楽家やプロとして何年もやった人も来ます。その人たちよりも、必ずしもこちらはキャリアがあるわけでもない、ただ毎日、何かオンしていっている、ギリギリの姿勢で生きていることで出すしかない。

 

 そういうことが、うまくできた人は、伝わったのではないかと思います。皆のなかで心と息と体が一致したかどうかです。何も大きな声を出せばよいとか、がなればよいということではない。そうではなく伝わった人たちもいます。だからことばで伝えることも、歌で伝えることもそんなに変わりないと思います。

 

 ただ歌になったときは、もっと大きな世界がありますから、当然、それを支える技術が必要です。ただ考えて欲しいのは、やはり表現したいという思いだけでは無理です。表現するものが自分のなかで生きているのはあたりまえだし、優しい人、愛しい人に会いたいというその感情だって同じだけれども、それだけでは芸にならないということです。

 

 だから悪いけれども、私はやはり芸として見ています。ここに来ているどんな人の恋愛だって、安っぽい恋愛はないし、ヘタな恋愛というのもなくて、全部、全部、嘘はありません。ただ、それをもし歌う立場として人前に出すのであれば、それは芸として出さなければダメなわけです。その基準で見ているから、誤解される場合もあります。ただ、一所懸命だということだけで認めてしまったら、自己啓発セミナーと同じなわけです。皆それぞれ生きているんだ、ありのままでよいし、がんばって仕事をやろう、毎日生きようと、それは前提で、その上にもう一つ必要だということです。それがちょっと特別な世界なわけです。

 

 だからやはり、重たい表現となります。最後までちょっとキツかったです。皆のなかにも、そこはまだできあがっていないということですね。優しさのエチュードが本気で地でできていたら、たぶんトレーニングなどやっていないでしょうね。天使みたいなもので、そこらへんを歩いていても、たぶんここに来て歌ってくださいとか、赤ん坊をあやしてくださいとかまわりの人に言われますよね。

 

 そこまではなかなかいけるとは思いませんが、そういう人も歌い手のなかにはいます。とりあえず表現、それだけ重いものを背負うのであれば、それを3分間に凝縮し、つき離して歌いあげなくてはいけない世界であって、だからこそ技術も必要だし日々のヴォイストレーニングも必要だというあたりまえのところをまず考えておいてください。

 

 それから、私は顔を見ないで音声の世界で聞きましたが、やはり、えっ誰?あの声は、とか、あのセリフは、と思わせる人はいるわけです。顔を見てガッカリというよりも、それでよいわけです。現実はどうでもよいわけです。芸の世界ですからイマジネーションされた世界でよいわけです。

 

 そのときにその表情ができていて、一番、映えていて、昨日言った通りですね。日常はそのへんのおじさんおばさんのなかにまざっていてもよいわけです。ここにスッと立ったときに、その世界を凝縮して出して、一番、魅力的ならよいのです。

 

 誰が一番魅力的で、一番魅力的な声を出しているのでしょうか。歌うとき、表現するときにそうであればよいのです。逆が困るということです。ほとんどの人は逆になってしまいます。技術がなかったり慣れていないと、何とか一瞬くらいはもっても、それがなかなかキープできないのです。皆のなかでもかわいいなとか惚れたとか、抱き寄せたくなったとか、そんな感覚になったことがあるでしょう。これはコンサートのなかでもそういうものが凝縮されているからです。

 

 それからことばに関しては、しゃべり過ぎている。そして、そのうち日常も伴ってきます。だって日常のなかでそういう意識をもち、トレーニングしているのですから。皆も今日は気づいたと思います。ここでやめておけばよいのに余計なことを説明してしまっているために、台なしになったというのもありました。そこが芸と違うところなわけです。

 

 必要最低限のものが最大を語るということです。1、2、3、4伝えなければいけないことがあったら、できたら1、2、3でやめておくこと、もっとよければ、1、2でやめる。もっと上手だったら、1だけ出して、それで2、3、4は伏せておくわけです。奥行きが出ます。

 

 うまくできていた人もいたと思います。そのことばがパッと浮かんだり、それにイメージがサッと出てきたりするのも、ライブならではの楽しさです。勝負の終わった後にしゃべりすぎている人がいましたが、それは鈍いからです。

 

 ことばのもつ意味で想いを伝えるのか、そうでなければ音声で肉声で伝えてもよいです。両方が合えば、一番よいと思います。3分間に凝縮しなければならない歌の場合は、このエチュードをこのまま踏むわけです。

 

 ドラマでもそうです。何の障害もなくドラマに成り立つことはなく、その内に葛藤があって、それが昇華していくプロセスを見ます。歌の世界は、わずか3分でやらなければいけないから、とても難しい。それを芸、技術として高いレベルで取り出すということを、高いレベルの作品から学んでもらえればよいと思います。

 

 

 

 前半はまだ簡単です。なぜ歌い手がこちらから入るのかというと、ドラマになりやすいからです。だいたいの歌は悲しいとか絶望とか悲哀から入ります。その方が、簡単といえば簡単なわけです。なりふり構わずにやっていけば、感情は、悲しみ、憎しみ、絶望と出せます。そこから入っていくというのは練習のなかで感情を込めるのによいと思います。

 

 喜びの感情からやると、とても難しいと思います。そこでドラマ的に考えてみるのです。泣いたあとの笑顔はすばらしい。後半の部分がもたないのは、感謝とか誠実さが出てこないと、ウソになるからです。

 

 泣き顔よりも笑い顔が難しい。歌も同じです。皆の自分のなかで深いレベルでの問いを発して、それに気づいて解決しなくてはなりません。いつまでも、引きずっていれば、そう見えます。だからモノトークでも、1分のなかで何がしゃべれるのかと思うかもしれないですが、1つ2つ言いたいことをまとめておけば充分です。饒舌に話しすぎないように。

 

 

 

 (私のものはとても抽象的で、全然、よい例ではないですが、エチュードを合い間にやってみました。単純にです。これは私にとってということなのですが、誕生というのは私にとっては空気、悲しみのエチュードというのは壁、絶望のエチュードというのは血であり、憎しみのエチュード、これは私の場合は親です。

 それから2の方は、これは縄ということばで代表させました。モノトーク、これは脱皮と変体、すごいパワーを出すために、これはなぜか、蜘だったわけです。育ちにもよるかもしれないです。

 

 それから息のエチュードです。これは海水でした。一回目の息のエチュードとどこが違うのかと考えると、水を飲み込んだ、おぼれる、海中に出たいみたいな気持ちが何となくあったのでしょう。

 喜びのエチュードというのは、これは人間との関係になってくるようで、私の場合、プールの壁のタッチ、皆にはわからないと思いますが。それから一番目の優しさというのは難しいですが、一番目は健闘です。二番目の方は、とにかく認めるというか、認ということです。

 

 これはまだ私はできていないと思うので、自分で優しさのエチュードというのは今後も変わっていくような気がします。

 

 あなたの班ではということでは、私の班では一人しかおりませんが、何を伝えたいのかということですが、福島班では汗か何か、ひんやりした、そこから皮膚の体温みたいなもので、ずっと縄というのを引きずってくると、そこに泥というのが見えて結局、脱皮とかもあったので、これは蛇なんだなという感覚です。わからなくてよいです。)

 

 

 

 具体的になったことばをというと誰のがよいということはなく、その人にとって、たぶん本当だったんだなということならよいでしょう、私にとって私にも本当に聞こえてイマジネーションが発したというところ、ことばでいうと、モノトークのところ、ここでは「満月」ということばが私にはひびきました。

 

 私にはトレーニングの行き帰りの冷たい自転車というのが、その月の光からきて、何となく再生のところに入る一つまえの段階、中立というような意味ではピタッときたんですね。

 

 息のエチュードでは、これもことばで残るのと音声で残るものがあります。たとえば音声で残るというのは「ありがとう、ありがとう、ありがとう」ということ、これはある人が言うと残ります。そして他の誰かが言うと全然、残らないわけです。

 

 これは音声の力です。同じことばだけれども、「ありがとう」自体にはそんなに意味はない。何を言っているかはわかりますが、こういうところでやると、嘘っぽくなりやすいものです。だから、人の心を打つように聞こえた人というのは音声で表現できているということです。

 

 後は自分のことばであるかないかということで、そんなに難しいことではないです。結構ヤクザなことばもありました。いいですね。それから「もう知らねえ、歩くしかねぇ」とか「結構、捨てたもんじゃねぇ」とか「こんなこともあったんだなぁ」とか、それがことばだけではなくて、その人の音声とキャラクター、何か表情を見ていなくても、それをピッタリ合ったときはやはり、その人の本音のことばですから、そこから伝わるものはものすごく大きいわけです。

 

 それと自分とのコミュニケーションがとれるかとれないかです。その日の状態によっても違うと思います。それから皆それぞれによっても違うと思います。だからその日によっては、「できるわ、俺でも人に与えることができる」というのを聞いてピーンとひびくときもあれば、あまりひびかないときもある。

 

 「ここにいていいんだね」というのがものすごく一瞬にわかるときもあれば、わからないときもある。それは総合的にこの場を含めて、あるいは自分のなかで判断をしていって、取り込んでもらえればよいことだと思います。本当か嘘かは、他の人はわからなくてもよいですが、やはり本人にはわかって欲しい。本人が言ってみてわかるかわからないかです。

 

 書いてみたときの感覚とはまた別です。書いてみたのを自分で言ったときに「ああこれ入っていないな」とか、「ああこれ嘘だったな」とか、音声をすべて入れてみて表現して、フィットしたかフィットしていないかということです。

 

 その感覚を出しておいて、それを歌というのは3分間に凝縮して維持していないといけないから、歌はとても大変なわけです。今皆が一人あたま15分しゃべったとしたら、そのなかの一番よいところだけを全部集めてみて、果たして1分になるかどうかです。それが3分、もっているということは、どのくらいいろいろな問いを発して、そこでつかんでいるかということだと思います。

 

 

 

 それから具体的かつ抽象的にということについて、今日もいろいろな具体的な例が出ましたが、必ずしも具体的なものが人を魅きつけるわけでもない。そうかといって抽象的なもの、理屈めいたものが出てくるとダメですね。

 

 愛とか優しさとか、そういうことばというのは抽象的ですから、安易に使うと難しいです。音声でもかなり表現を入れないと難しいですね。具体的すぎてもいけないし、抽象的すぎてもいけないということです。そこで理屈を言うのが最悪です。

 

 理屈っぽいことばだけが聞こえてしまう。人のことばを単に並べているだけとか、意見を言ってしまうとか、こういったものは自分では本当のイメージをもっていない、でも言ってみたいから言ってみたとか、自分が思ってみても納得できない、あえて納得させてという無理が出ているから、やはりそれは無理なわけです。それは使わないようにしないと、言い訳とか逃げとか、そのことばに逆に逃げ込んでいることに、なりかねません。

 

 ただ伝わったものがあったということは、何名かのいくつかの作品は自分のことばだったということですから、そういう判断で自分のモノトークを組み立てていってください。結局、簡単なことです。

 

 「ありがとう」と言ってみたとき「えっ、そんないいことがあったのかな、何が?」と聞きたくなるか、「おいしいんだよ」と言ったら、その後に「何が、そんなにもおいしいものがあるの?」と、聞いている人がそこまで引き込まれるかどうかなのです。単に「おいしいの、おいしいんだ」と言うと「じゃあ食べていれば」と、そのくらいの表現だと、もうそこで終わってしまうわけです。

 

 「何が」という問いが起こるということ、聞き返されるということは、そこに反応が起きているわけです。だから歌い手というのは「ありがとう、ぶどうくれてありがとう。おいしい、それにこのポテトはおいしいね。おなかいっぱい。」と全部、言ってしまったら次にお客は来ないです。舞台というのは「ありがとう」と言って「おいしい」と言って、次に客が「何が」を聞きたいとしても、出さないのです。そこで、全部が見えてしまうと、つまらないわけです。お客のイマジネーションを刺激しません。そういうことは先々、考えてください。

 

 ことば2つで終わればよかったものを、4つ5つ言っている人がとても多いです。1分弱くらいで充分でないかという気がします。だから自分のなかで声を出さなくてもよいです。息で読んでみて、1分、計りながらやって、間を入れて1分です。ずっとしゃべり続けての1分ということではないです。呼吸もとって、間も入れて、心と体と一体になって1分で、一言でもああいう状態になったら伝わりますが、一言で表現といっても、やはり歌というのは一言だけの歌はあまりないでしょう。

 

 1分くらいなんとかことばでもたせる音でキープさせるような感覚はもってください。私も先日、見習い声優みたいなことをやってきましたが、1行目は全部、OKなんですね。それが20行くらいになってきたら、やはり10行目くらいからこちらも負けてきて、離れてしまいます。

 

 だからそういうことでいうと、1コーラス1分くらいはもたなければいけないということです。今日のものは、いろいろな材料になったし、苦しかったですけれど、見ていてよかったと思います。問題は後半です。息から喜び、優しさにどうもっていくかということですね。

 

 

 今日も班を回って言いましたが、とても難しいです。今後の課題になると思います。深いところで問いをつくって、それをどんどん消化していくようにしてください。セリフもありました。モノトークに関しては、もう一回読んでみて、今日のような場で言ったとき、あるいは舞台で言ったときに、できたら一つのセンスをもってことばを選んで欲しいし、一つの凝縮した感覚でやって欲しい。

 

 一つの「お月さま」ということで残りの3つを伝えるようなところでよいわけです。これは、芸事は皆そうです。抽象化してシンボルで表わしていきます。そういうことを歌でもやっているわけです。難しい人は、そのまま語ってもよいです。あまり、ダラダラとなってくると、つまらなくなってしまいますので、そのへんをまとめてください。二言ぐらいで伝わればよいです。それをいくつか組み合わせていけばできるのではないかと思います。

 

 後は抽象的すぎることばばかりを使っている人、「愛」といったら、いつも「愛、愛、愛」としかいえない人、そうしたら具体的に愛ということばを何かに置き換えてみたらよいと思います。また逆に具体的すぎることばかり、事実として箇条書きにしている人は、それをまとめて、そこに想いだけのものを表わすものを出してみましょう。詞は自分の気持ちを貝殻に例えてみたり、波や砂で例えたりします。そこで共感できるものをおいて、一段昇華しているわけです。

 

 そうすると、聞いた人が先ほどの「満月」みたいなもので、そのままでは、他の人には伝わらないかもしれないけれど、伝わる人にはそれを通して、その人がまたイマジネーションを喚起させて、とても広い範囲で伝わるわけです。しかも、ことばより、音の方がその抽象化のレベルが高いわけです。そしたら、それにあたる自分のキーワード、そのイメージを引き出すワードや音の感覚やリズムは一体何かということです。

 

 先ほど言った私のものだと、縄とか変体とか、こんなものを組み合わせて海水とか汗ひんやりとか、泥とか蛇とか血とか、ロクなものではない人ということがわかりますけれども、これをもう一段、くるんでみて、何でもよいわけです。チョコレートの壁とかワインの血とか、こんなふうにやったら、歌う詩ができるんでしょうね。それで伝わるということです。

 

 

 それでは班ごとに個人的にもいろいろなことが今日は随分と、わかったと思います。

周囲のメンバーも、そのなかの舞台の一員として役割を果たすという立場でやります。

(明日も同じの時間に食堂に集合してください。その後の予定を伝えます。他の団体と一緒なので、気配りしてください。お疲れさまでした。)

 

 

 

 

 

 

 

合宿特集Ⅱ  初日

合宿特集Ⅱ  初日

 

Ⅱ 

初日 昼

   夜

テキスト3

福島コメント

テキスト4〜7

 

 

初日 昼     360712

 

 

 今期の合宿の概要とここの利用の仕方、その他の注意を簡単に申し上げます。時間とか細かいことに関しては、班長を通じ、適時お伝えします。変更が多くなると思います。連絡します。

後は、スタッフに聞いてください。

 

最初にとりあえず、メンバーの紹介を。スタッフより自己紹介。

今回の参加者のなかには、私と初対面の人もいますし、

今まで来られなかった通信講座の人もいます。

ですから、そういうことで、まず、あいさつをしましょう。

 

 

本日に関しては、当研究所だけが使いますので、全部の施設を自由に使えます。ここが第4セミナーハウスで、昨年からできたところです。ここより少し小さいですが、我々の人数からいうと充分な広さの第1セミナーハウスが先の右側にあります。それが、明日明後日、メインに使用する練習場所です。それからその隣にもう一つあります。

 

今回は3班構成で進めます。メインの練習場所は、その第1とその隣の場所です。先ほど皆さんが荷物を置いたところの一番手前の会場ですが、これらをかわるがわる3班で利用します。部屋割りなどに関しては、男女別に2つずつとってあります。

今日の予定は、天気のこともありますので、先ほど決めたところです。

 

 

この後、どんな人が来ているのかを、我々も知る必要がありますし、

皆さんも知っておいた方がよいと思いますので簡単に一人ずつ自己紹介をやります。ヴォーカリストの自己紹介ですから歌が一番よいでしょう。

 

これだけの人数が一度に歌うと、時間もかかってしまいますので、班ごとに歌ってもらいます。

最終日になって慣れ親しんだところで歌うと、その人をもっと早く知っておけばよかったとか、話もしておけばよかったとか、そういうこともありますので、全員まわします。

 

一人一曲歌う、本当に簡単にで、結構です。

大曲を10分も20分もかかっては困りますので、一応2分くらいで何とかまとめてください。時間を計ってカットさせていただくかもしれません。こういうことをやると、絶対、延びるからです。

 

 

 今回の合宿のメニュー

今まで新しいものを毎回、チャレンジしていましたが、質的によくしたいということで、昨年のを繰り返します。一昨年まではミュージカルをやっていましたが、それも形だけで終わりがちでした。

昨年もかなりよいメニュをやりましたが、合宿から帰ると、そのことが繰り返せないということがあるので、今回は少々変えました。

 

 みなさんにもここに来るまで随分、考えてきたと思いますが、やはり自分にとっての歌というのは何なのかということ。

 皆さんも今までそれなりに生きていて、それぞれの年齢で考えることというのは、いろいろあると思いますが、3日間、今までの生活を離れて、ここに完全に缶詰めになるわけです。

 

だからこの機会に、自分のことを掘り下げて考えられるようにメニュを考えています。

 メニュとしては、他の人たちの材料にもなるわけで、今までは歌とか音楽とか、声のことに徹底してやってきましたが、その声のことを考えなければいけないということに付随して、声以外のことで大切かつ効果のあることを加えています。

 現実に戻ったときに、また現実のなかでここで得たことが失われてしまうのであれば、もっと根本的なことを考えなければいけません。

 

 あまり皆さんの生活にはない3日間、自分で一人でとろうとすると3日間というとなかなかとれないわけです。ですから、実質、この前の京都の集中でもやりましたし、昨年の軽井沢合宿でやったことを、もっと密度を濃くして、それで正味6時間くらいのメニュになると思います。

 

ただこの時間を本当に充実させるには、60時間くらいかかるだけの、あるいは一生かかるだけの内容があると思います。

 そのメニュのポイントは、一つだけだということです。歌詞を覚えたり音程を覚えたり、そういうものをすべて省きました。皆の体一つ、心一つ、それとこういう環境のなかでどのくらい凝縮した上で解放できるかということです。

 

 ほとんどの人の生活は、朝起きて勤務して、17時か18時で疲れ切って、疲れたところで研究所に来て、そこでいきなり音楽に切り変えて、それで歌をやっているようなことが多いと思います。だから、それから切り離されたところで、ここで考えついたこと、思ったことを大切にしてもらって、研究所というより自分の歌なり人生に対する考え、何を歌っていくのか、どう歌っていくのかということを含め深めていけるよう、充分に時間が与えられるように考えました。

 

 いつもは本当にあわただしく、次は食事だとか風呂だとか、忙しないです。この3日間も、結果として、そうなると思いますが、なるべくゆったりさせたいと思っています。

 

 時間がもったいないので、班分けおよびメニュの方を進めていこうと思います。最初に班ごとに分けて説明します。少しでも親しみがわくために班長に名前を呼んでもらいます。(各班、班長による点呼)

 歌う順番も決めておいてください。客席をそちらにつくります。

 

 

 今日の予定は18時まで動きます。それから18時から夕食、18時半くらいから19時半くらいまで順次、入浴をして、その後メニュというようにになっています。それは体調とか、中には疲れている人もいますから、ここで音楽を聞かせたり瞑想をしてみたり、いろいろなことを試みています。

 

 だから、オフメニュという形で、21時近くまでやります。調子が悪いとか休んでいたいという人は、でなくても構いません。それで、今日は21時から22時まで、先ほど渡したエチュードを徹底してキャプテンを中心にやっておいてください。

 

 当然、ノートに今日の予習をやっていると思いますが、そのことに関して語り合って、明日からの作品づくりを正確に、きちっと組み立てていくということです。班長は今までの経験とか、今回やるメニュに1回以上、出たことがある人です。このメニュの意味が全然わからないという人は、班長にアドバイスをしてもらってください。

 

 それから、今回、単純に女性を班長に、男性を副班長に選びました。何の意味もないです。交流という意味で副班長は関西の男性に決めました。最初に自己紹介をして、自己紹介は10秒か20秒くらいで、それから歌に入ると、これで約半数が終わります。

 

 それから外の散策メニュを設けてありますので、それが終わってきてから、後半の半分の人の自己紹介です。一通り、今回、参加している人がどういう人なのかはわかるようにします。たぶん、遅れて来る人も随分いると思うので、それはその都度、全員の前で自己紹介をして、歌ってもらいます。

 

 

 

 すぐにメニュに入りたいと思います。では、各キャプテンに一応、司会をしてもらい、とりあえず最初に自己紹介つきプラス発表会です。自己紹介のときに、言って欲しいことが2つあります。

 ここにきて何年になるとかよりも、2つテーマを入れてください。

 

 一つは、もし合宿に来なければ、この3日間、何をしていたかということを話してください。10秒くらいでよいです。それからもう一つは、ノートを書いて気づいたこと、単純にいうと、どの項目を自分が最も考えたということです。何日から何日くらいまでつけたのか、どのくらいのページ数やったとか、ここに工夫したとか、そんなことでもよいです。

 

 合宿に限らず、研究所のメニュというのは私たちが与えるというより、お互い影響しあっていくことを重視しています。皆さんのなかのメイキングオブを知ることで、作品がよりよくできると思います。

 本当はあんなことができるのは、どんな努力していたのか、どんな工夫をしたのかを後で聞けばよいですが、最初にメイキングオブを言ってもらいます。この項目、二つは必ず入れてください。

 

 歌と合せて、2~3分のなかにまとめてください。あまり長いようでしたら、キャプテンの方からストップをかけさせます。そういう形で後はキャプテンに司会をゆずりますので、早速開始しましょう。

 

それから、合宿の場はこんなところなので、遭難とか事故とかは発生しないと思いますが、他の団体とも一緒です。先ほども全部のドアが開けっぱなしで、いかにもうちらしいですけれど、鍵はかかりませんが、一応、戸締まりをしてください。

 

 壇上は4つどこを使っても構いません。全部のステージを使っても構いません。左右に大きく動いても構いません。ただ、柱のかげに隠れないようにしてください。座ろうが寝ころぼうが、好きに使ってください。柱で見えない人は適当に移動してください。それでは、盛大な拍手で迎え、なくてよいです。終わったあとの拍手だけしてください。終わらせるためです。

 

 

 

 

 合宿は大変な作業だと思います。ほとんどの人が仕事を休んで参加しているわけです。いつも言っているのは、仕事というのは現実なんですね。その代わりにお金をもらいます。ここは逆に、皆さんがお金を払ってきている。何をやってもよいというより、現実から離れている。歌というのは現実をどこかで越えないといけない部分があります。

 

 ここでの作業を何で見なければいけないかというと、芸術がある意味ではのみこんでいくことのプロセス、それは決してきれいなものではない。いろいろな活動がある。こういうところに来ると、いろいろ解放されてユートピアみたいになって、気持ちがよくて声が出るというのでは歌にならない。

 

 「しょうか」というのは二つ意味があります。普通の生活をしていく、ものごとを消化していく、食べていく、それは課題です。その時点までに充分な栄養を貯えておくこと。そして、昇華です。

 

 

 今回はここを使っていきなり歌うのではなくて、すでに一つの大きな戦いは終わっていて、その歌を契機に、ここから第二弾ということになるわけです。ステージというのも同じです。だから、その準備をお願いしていたわけです。

 いつも3日目くらいに盛り上がっても、盛り上がった感覚に切り換えるのは大変だと思います。遅れてきた人が、入るのと同じくらいに、皆さん、この時点で遅れてきたくらいに思ってやる方がよいと思います。

 

 今回は以前みたいに細かくモノトークのように原稿を提出などということはしません。会報などにオープンにするときも、全部、無記名にします。

 ただ、自分の名前でやるのは、別に恥ずかしいことではなく、堂々と出していけばよいわけです。そこが表現の世界ということになるので、当然、日常生活と別の形になるわけでどちらがよいということではないです。その人のタイプにもよりますし、そこまでして表現したくないという人もいます。

 

 

 こういったものの場合、できない人とやらない人とがあいまいです。たとえば課題をやってきていないというのは、私たちの世界でいうと、台本を読んできていないということです。できると思っているわけでしょうが、本当にできるのであれば、結果オーライということです。ただ、力はつきません。周りに比べてよいとか悪いという話ではないです。

 

 それと、3年もいる人が、1年目の課題のレベルでやっても仕方ないわけです。プロでやっている人たちのレベルでやろうとしないないから、いつまでたっても上達しないわけです。

 準備しないのはプロではありません。その人がその人を限定しているわけです。それは自分のなかでできると思い上がっている人です。世の中や、自分のめざすべき世界を見下しています。だから見切られてしまうのです。次の時間、その作業をしてきていない人は、やっておいてください。

 

 準備に1カ月かけてきたり、寝ないでやってきた人もいるわけです。だから、そうやれということではない。他の人よりうまくできることよりも、昨日の自分に勝てないところで、すでに負けているのですから。声が出るだけでその人たちと同列だとは思わないです。

 

 歌というのは、歌がよければよいというわけでもないです。結果的には歌がよければよい。ただ歌だけを歌のなかだけでやれるという人間の歌なんて、果たしてこの世の中にあるかということです。 

 ここで聞いている人は、何がこの歌でよいのかというところを考えなくてはいけないです。自分のなかでどうということでなく、人前に出たいのであれば、表現に対し、評価するのは、常に他人です。

 

 他の人が、評価するわけです。みんなのなかで、全然ヘタでもお客さんに、よい、聞きたいと言われるような人は、ヘタにうまいだけの人よりも、活動ができるわけです。

 

 ただ理想を言えば、やはりみんなのなかで歌ということを限定させないで欲しい。いろいろな才能があるわけです。それを歌に込めていって欲しい。ただ他の人は、それをどう取り出せばよいかはわからない。その人がキラリと輝く時間を2年間で見ることもあるし、合宿に参加したことでもわかることはあるのですが、わかったからどうすればよいのかというのは難しい。

 

 

 だから、まずそこに自分の意志でいるということです。それはもしかして歌ではないかもしれない。仕事でないかもしれない。しかし、すべてを口にすることです。研究所では、いろいろな音楽をやります。

 

 最初に言っていることは、今まである音楽が絶対好きでやろうと思って生きてきたと、でもそれにとらわれず、一度新しい無地の心で全部、聞いてみよう、昔からの音楽も世界各国の音楽も全部、聞いてみる、そのときにこれが好きだと発見したものはあなたの才能への新たな気づきで一つの作品になるわけです。

 

 だから、何か、一芸をやってきた人は結局、広い器をもっているものです。昔から世界中から大なり小なり、いろいろな影響を受けているわけです。また、そういうパワーがなければ、芸の世界は成り立たないわけです。皆のなかには一人ひとりに絶対に才能はあります。

 

 これは皆のなかといわなくても、世の中、すべての人がそうです。何か与えられているものがある。それに気づき、とりだす労を惜しまないことです。

 ところが、本人が目をつぶっている場合はどうすればよいか、ややもすると音楽や歌が好きという思い込みでごまかされている場合もある。ものすごく好きだと思うのと、人前で歌っていくのは全く違います。そしてそれはその人の才能を一番、生かした形の歌かどうかはわからない。

 

 たまたま時代とか、人間がそういうふうな形で集まっていく場があるということにも左右されます。だからまず、聞くということ。心の声をです。わかっているふりをしない。それからたった一つの問題でも気づいたら徹底してつきつめること。そこから違ってくるのです。

 

 

 

 そして、表現。ここにきたということで、それは研究所に何年いるかということではなくて、時間空間を越えられるか、越えられないかということ、あることができているかできていないか、それらは体の動きでわかります。振付けではなく、ここに立った時点で、その歌が、歌になっているか、表現として練られたものかどうかがです。

 

 その人が歌ったときにどこがよいのかというのは、歌がうまいということよりも重要です。音楽がそのなかで奏でられているかどうか、バックグラウンドにあるものがそこに聞こえてくるかどうか、とても総合的な要素です。しぜんな環境のなかで音楽をやる。しぜんな体が楽器です。その時点で捉えられないと体は固くなり動きません。最近、ヒーリングとかいろいろな音楽が流行っています。人間の心とからだのバックに音楽はあるわけです。

 

 

 私が話しているなかに、鳥の声が聞こえたりしたら、鋭すぎますが、何もそんな難しいことを言っているわけではなくて、一回ここまで心を開くということです。そのために、一つの空間とか時間のなかで捉え直してやるということと、プロにしていきたいということであれば、自分のものに気づいていくということです。

 

 先ほど、才能ということで言いましたけれど、たとえ変に見える状態であっても、人から変だねと見られても、それが一つの才能かもしれないということです。変だと思うことはなかなかできないものなのです。だから、まずそこから一つ捉えていくということです。ただし、捉えることで単に変という域を出られなくなり、逆に心や体が制限されていくようなものは、見込みありません。それはこうしたリラックスした場において、行なうとよいのです。

 

 

 まず課題を練り込んでいくということが、今回の第一段階だと考えてください。感情を練り込んでいくということです。歌声できれいに歌おうと考えるより、パワーです。人というのはコンプレックスがパワーになります。確かに今日、こうしたいと思ったことができなくても、人から評されるようなこともなく、我々は生きていけます。

 

 しかし、イマジネーションがそういうエネルギーの根源になるパワーを吹き出す方がよいわけです。コンプレックスは、変なところを徹底して活かしていく。歌のことがすべてわかるなどということはたぶんあり得ない。私もわからないです。ただわからないから試みなくてよいということとは、また別なわけです。わからないけれど、それに取り組んでいくからおもしろい。その取り組む姿勢を出すということ、それがその人の歌の切実ななかに音楽の表現と、また別の意味で力になります。

 

 だから負の感情を感情レベルで表現する。今回はことばで捉えました。それを表現は音でやっていく。徹底して考える。悩みごとなんてあっても考えなければ仕方のないことで、考えたら切れます。キレるというより、結局、考えても仕方がない。

 そうすると今度は感情面が入ってきます。負の感情でよい。それにことばを否定されて、憎しみをやらなければならないとかなると、具体的にそれを落とすということ、表現していくということになってくる。ここから伴奏が聞こえてきたり、自分が出てきます。そして昇華されます。作品として独立していくものが出せるのです。

 

 

 

 

初日   

 

観客との呼吸があります。皆が必死で演技をして息をつめているときは、お客さんもみんな息をのんでいます。その空気がここを支配しています。それからみんなが呼吸をしはじめる、そこから再起して再生しているとき、当然、お客もそのペースで一緒に呼吸をしています。

 

 このくらいの人数だったら、慣れたら感じられるはずです。よく聞いたら感じられます。やっているときは一所懸命で次に順番が何番だとか、そちらの方に目線がいってしまい、なかなか聞けないですけれど、ずっとやっているとわかってきます。

 

 なるだけ聞く努力をしてあげることです。本当は見たくないものです。観客も見たくないし、周りの人も見たくない。自分の足もとだけを見ていたらできますけれど、それはアマチュアのカラオケと同じで、聞かれていない。聞かれていないのですから、コミュニケーションがとれていないということになります。そこも感じて欲しいところです。

 

 みんなで作品をつくるというより、自分の作品、自分のプレーをまっとうしてもらうだけでよい。歌はソロです。ソロの流れがこう組み立てられて、まわりからは自分のためのバックコーラスが入ってくるんだというくらいに考えて、自分の時間を大切にして欲しいです。

 

 全部、自分の時間ですけれど、特にみんなの視線が集まるというのは、少なくとも2回あるわけです。それ以外も、ずっと魅きつけてという人もいるかもしれないですが、それはちょっと別の才能、タレント性だと思います。

 

 

 後半のモノトークは、声の解放とか全体的な仕組みというのは、天の声を中心に、キャプテンに各班回ってレクチャーしてもらいます。皆の方でやっておいて欲しいのは、イマジネーションとその作用です。この課題の次は悲しみだ、次は苦悩だというように進めるのではなくて、その悲しみをせっかくノートにつけ、いろいろと準備してきているわけです。しぜんにとり出すことです。

 

 そうでなくとも、今まで生きてきているわけです。それは全部、舞台のための準備なわけです。ヴォーカリストですよね? 昨日の作品を見たことでも、それをその場、その場だけで取り入れたのではダメで、みんながここで表現するのだから、そのチャンスに、それを少しでもよいからここにもってくることです。もってきて出すという力が必要です。

 

 いつも言っていますが、民族にある音楽は強いというのは、もうそれが血に入っている、リズムも入っている、音の感覚も入っているからです。私たちはそういうものをなかなか受け継いでいない、あるいは受け継いでいてもそれを切り離してしまって出てこないからです。

 

 だからそういうことで言うと、世界を学ぶことが必要です。その上で舞台でも歌でも何と捉えてもらってもよいのですが、ここで、こういう場が少しできたところで、自分をきちっと出せる快感を深い意味で味わってください。こういう所に住んでいて、こういう生活を毎日やっていたら、里に出ても何も怖くないわけです。ステージであがったりしなくなると思います。

 

 ただ、それができるかできないかということになると、実際やるかやらないかではなくて、イマジネーションの世界だと思います。私もそこで暮らしています。だから、今日のなかでも自分を主人公にしてみて、組み立ててください。ただ主人公というのは、他の人よりも長く時間をとるということではないです。印象です。

 

 モノトークを長々として、それで印象に残るというのは、もう見たくないという印象でしょう。もう会いたくないとか、来年は来ないで欲しいとか。こういう印象は残さないでください。

 でも、何も残さないよりはよいですね。

 

 捉えて欲しいことは一つです。人間の肉体として出てくる肉声ということです。今回に関しては、それをどう使うかということをもう一回、体に戻して大地に戻して考えてみるということです。

 

 班ごとにまとまって、どこの箇所になるかわかりませんが、順がまわって来たときにそこまでに思っていたことをその音声を通じて伝えてください。これが明日の伏線になっています。

では、その歌詞のところに入るまでを読んでいきます

 

 

 

 

テキスト3

 

1.シミュレート能力

 

 『わたし』が『この歌』を『歌う』

 もしもだ

 もしも、この軽井沢にまもなく大地震が来て

 あなたはまもなく死んでしまう、としたら

 そして、最後に一曲だけ、歌を歌うのを許されたとしたら

 あなたは、なんの歌を歌いますか?

 そう、あなたの『生のおたけび』をたった一曲の歌で表現しろ、と言われたのなら

 どう歌いますか

 どんな顔して、うたいますか

 

□1秒ごとに歳をとる

□この一瞬は二度とかえらない

 このことは恐ろしいことに事実なのだ

 ほら、今だって

 大地震が偶然にくるのを待つ必要もなくね

 

 

 

ーー

福島コメント

 

 よくある疑問ですね。軽井沢は地震よりも火山の方がまだ危ないですが、本当に大地震がくるかもしれない。火山が噴火するかもわからない。一昨年は雷がきましたね。本当に怖かったですね。傘をもっていくと傘に落ちるとかいわれましたけど、本当に近くの自動販売機に落ちましたからね。

 

 こういう現実味のある体験を今年もできればよいです。自然と遊ぶだけではなくて、夜も肝試しにしようかと思いましたが、ちょっと恐すぎる音源(恐山)をみんなに渡してしまったので、事実になってしまうと取り返しがつきませんので、やめました。

 

 ただ、それをイマジネーションの力で起こしてください。イマジネーションで現前に生じしめる力をもつ、大地震が偶然にくるのを待つ必要はないです。自分のなかにおこせばよいわけです。舞台では皆が神です。日常生活でも同じです。1秒ごとに歳をとるし、この一瞬というのは帰ってこないし、ただそんなことを考えたら、生きていけないから考えないわけです。

 

 ところが歌は違う。こういう表現ではないですが、私はよく言っているはずです。

そんなことを考えていたら、いつだって大地震のはずだと。

 

 

 一曲の歌をあまりにも不用意に歌ってはいないか

 大地震がくる、たった一曲の歌

 そうしたらあなたはその歌に自分のすべてをつめこむわけです

 その一瞬を永遠にするために…

 

 村上進さんの歌を、彼が亡くなった今も、使っています。私のプロデュースする力も、彼が命の時間を制限されてから出した思いに負けてはならないと思っています。

 たった3分間、その一瞬を永遠にすること。これがいつできるかという勝負だと思います。ここから、クエスチョンです。

 

 

 

 

テキスト4

 

 質問します

 『あなたが歌う歌=あなた』と言われたときに、困りませんか?

 『いや、本当の私は、もっと…なんです』と

 弁解したくなりませんか?

 

 もう皆、一曲歌ったわけです。これがあなたですかと言われたときに、あなたは困らないかということです。その後に、いやさっきは歌ったけど、本当の私はこうではなくて、もっとこうなのですとか、何かつけたくなりませんか?

 私のことはこの歌を聞いてくれたらすべてわかる、私が語る以上に私がわかる、そういうヴォーカルでありたいものです。

 

 あなたの容姿も

 あなたの表情も

 あなたの人生も

 あなたの心も

 あなたのすべてを使って

 歌うのです

 

 裏切ってはいないか?

 容姿で、表情で、歌を

 

 皆の容姿も表情も、すべて人生で心から感じ味わってきたものを含めて、歌として歌っているわけです。歌い手であればその後に「いや本当は」とか「もっとこうやるつもりだった」とか、それを言ってはいけないわけです。

 そこで出たものが、仮に歌い上げたもので、自分と違うとしても、見ている人にとっては、あるいは聞いている人にとっては、それがその人自身だということです。だから、ヴォーカリストなわけです。

 

 表情で、歌を-

 人生で、歌を-

 心で、歌を-

 裏切ってはいないか?

 

 それを正していくのが、今の課題です。声のことばかり求めていて、表情のこととかステージングのこととか、そんなことは考えてはいない人が多いのではないでしょうか。そういうのは、心が宿ったり声に何かをこめようとしたときに、しぜんと出てくるもので、無理してつけない方がよいのは確かです。

 

ただ、歌に対する想いとか、それを何か伝えようとしたら当然、表情に出てくるわけです。人生で歌を歌う、心で歌うものだからです。歌ったときに、ウソと本当の部分があり、本当のことがなかなか出てこないから、裏切ってしまうのです。それではまだまだステージは遠いのです。

 

 

 

 『おれの靴に足をいれてみろ!』

 ということわざがあります

 おれの身になってみろ、という意味なのですが

 歌を歌うには、この作業が必要になります

 

 歌詞の文句

 あなたはそれを『歌う』のです

 あなたはそれを『表現する』のです

 あなたの容姿をもって

 あなたの表情をもって

 あなたの人生をもって

 あなたの心をもって

 その歌は、あなたなのです

 

 人様の前で歌うということは

 『私が叫ばずにいらないことは…』

 という前提が、いつだってついているのです

 

 ことばの効果も、歌詞の効果も

 歌い手自身がちゃんとしらなくて、はねえ

 

 『他人事』を『自分事』にしなければ

 消化しなければ

 表現などできません

 

 

ーー

 

 

 今、渡した3つの曲の歌詞は、みんなにとってはまだ他人のものだと思います。全部を読む時間もないかもしれないけれど、自分に与えられた1、2行の歌詞、そこで何か試みて、試みたことから気づいてください。それは世界の断片です。でも、そこからしか世界は見えないのです。そこから集中して、ありったけのものを読み込み、表現することです。そしたら少しは、自分のものになります。その繰り返しが大切です。

 

 ここはお客の待つ発表会ではないですから、まず歌詞の世界に、その靴のなかに自分の足をゆっくりと入れてみるということを試みてみましょう。(こうやって、とうとうと話していると私も退屈するので、少し実習をしながらやっていきましょう。いつもみたいに回していくと単調になるので、今回はここでスパッと分けていきます。)

 

 1曲目から続けて5曲目まで、プッチーニの「星は光りぬ」、トスカの有名な歌で多くのオペラ歌手が歌っているものです。これをBGMでエンドレスに、一人ひとり、全部回るまで回しておきます。

 BGMとして小さくかけてみます。聞いたことはあると思います。最後の人にいくまでに全部、終わったら頭に戻ってお願いします。では、自分たちのペースで回していってください。

 

 終わったらそこに座ってください。

こういう世界に慣れると思います。

 

最初がカルーソーです。これはちょうど、1900年に初演されたものです。私はプラシド・ドミンゴのトスカを見て、役者的な要素も加わり、昔、感激したことがあります。

 プッチーニ1924年に死にました。多くの人から愛され、何万という人が、この歌に足をつっこんできているわけです。

そこから何か感じてもらえたらと思います。

まずカルーソーですね。カルーソーの出したレコードは、これよりも性能は悪かったと思います。

でも伝わった。何が、でしょう。

 

 

 

 

 

テキスト5

 

プッチーニ:歌劇「トスカ」より「星は光りぬ」(第3幕)

1900年1月にローマで初演された「トスカ」は、ジャコモ・プッチーニ(1858-1924)のオペラのなかでも劇的な内容をもつもので、1800年のローマを舞台にした全3幕のオペラです。

 その第3幕、サンタ・アンジェロ城でのこと、歌姫トスカの恋人で画家のカヴァラドッシは、友人の政治犯の逃亡を助けた罪で捕らえられ、ローマ警視総監スカルピアから死刑を宣告されます。処刑されるというその日の夜明け近く、輝く星を仰ぎながら、トスカとの愛の日々に思いを馳せて歌う、カヴァラドッシの名アリアです。

 

 

<訳1>

 星は輝き、大地はよい匂いに満ちていた。

 

 庭園の扉が軋み、

 歩みは、軽く砂地を掠める。

 あの人が、かぐわしくはいって来て

 私の腕の中に倒れかかる…

 

 震えながら、あの人のヴェールをとり去り、

 その美しい姿をあらわしている間の

 あの甘いくちづけ、あの悩ましい愛撫!

 

 私の愛の夢は、永久に消えてしまった。

 時は去りゆき…

 絶望のうちに私は死ぬのだ!

 今まで、私はこれ程生命をいとおしんだことはない!

[鈴木松子・訳]

 

 

<訳2>

 星は輝いていた。

 そして大地も香しかった。

 果樹園の戸が軋み、砂地の上に軽い足音がし、

 彼女がやってきた、甘い香りをただよわし、

 私の腕の中に崩れ落ちるように入ってきた。

 ああ! 甘い接吻、やさしい愛撫、

 はやる心を抑えている私の前で

 着物を脱いでその美しい姿を現わしたのだ!

 私の愛の夢はもはや永遠に消えてしまった、

 時は去ってしまった。

 私は絶望の中に死んで行く!

 今ほど私は自分の命を

 いとおしいと思ったことはない。

[永竹由幸 訳]

 

 

 

2番目が、カルロ・ベルコンテェ

3番目がマリオ・デル・モナコ

4番目がカレーラスです。

 この歌では、私は一番好きです。

最後はルチアーノ・パヴァロッティ

 5人のを聞いてもらいました。

 

 何か自分でもできる気がしているとしたら、そのイメージを大切にしてください。今回の合宿では彼らがやったことをやって欲しいわけです。先ほどやったことを、彼らもやってきたわけです。彼らが特殊な人間ではなくて、努力をした上で出てくる何らかの素質があったわけです。

 

そこを今すぐ、この合宿で問う必要はありません。ただ、受け継いできたもの、同じ人間の同じ体、同じ心で感じてください。

 

 当然のことながら、この曲はトランペットとかエレキギターとか、ピアノでやるよりも、人間の声でやるなかに高まり、受け継がれてきたわけです。こういう人にしか歌うことは永遠にできない。そうまで言ってしまうと誤りがあるかもしれませんが、体を楽器として使ってきたわけです。ここに立って同じ舞台で、その土俵上にあると思ってください

 

 誰だって0才から歌っていたわけではない。よく言うのですが、50年も100年も、まあ50年はいるとして、100年努力してきた人はいないわけです。120才という人は別ですけれど。

 パヴァロッティは若いとき、プロのサッカー選手から転向しました。その運動神経や反射神経がきいているといわれる場合もありますが、遅いということはないのです。

 人間の体をもっている限り、心をもっている限り、ただやっていくかいかないかです。これはできると思った人はやっていくでしょう。だからできる気がするというのはとても大切なことです。同じ作品でなくてよいから同じ土俵に立って欲しいというのが、今回のねらいです。

 

 

 次はもう少し、みなさんの方が入りやすい曲でやってみましょう。

「リブ・フォーエバー」

これも聴かせたことがあると思います。これの歌詞をもとにストーリーを組み立ててみてください。どういうときに人間が、どういう気持ちになるのか、この歌詞が言いたいことを一人一言で言おうとしたら、どうなるのか。それからこの歌を、もしみんなが歌うとしたら? 

 

 レクチャーでは、この歌をかけています。ジョルジアのでかけています。

もし皆が、この歌を歌う気持ちになったら、この歌詞に相当する気持ちになったことがあるかどうかを問うことでしょう。この歌を歌うのだとしたら何が必要でしょうか。

このパヴァロッティにジョルジアは、同じステージで一歩も引けをとりませんでした。

 

 

 そのことばを叫ぶものと同じというより、同じ土俵上にといった方が誤解がないと思いますが、そのスタンスで歌うということです。そのことばを叫ぶものと同じスタンスで歌う、それからこのことばを叫ばれるものと同じスタンスで歌う。どちらでも構いません。

 

 叫ぶものとなるのであれば、どういうイメージが必要なのか、真しにひたむきにやっていくということが必要でしょう。それから叫ばれるものとしても歌うのであれば、その愛しいもののことばに喜んだり、苦しむものとしての役を演じなければいけないということです。

 

ただ、他人の役を演じるのではなくて、あなたが自分のことを、自分の顔で、そして自分の表情で、この歌詞を表現するわけです。この表情というのは今回のポイントです。

 

 

大河ドラマで秀吉役の竹中直人さんが若いころ、私が最初に知ったのは、怒った顔で笑う人とか、笑った顔をしながら怒る人ですが、とてもアンバランスなことで、やろうとすると難しいです。やってみましたか?

 

 実際、笑い声が出ているときの顔は笑っています。悲しいから泣くのではなくて、泣いているうちに悲しくなる。まわりの人の影響も受ける。皆が泣くから自分も悲しくなる。もらい泣きする。

 そういう一体感は誰にでもある。要はそこで一歩入り込み、取り出し、表現できるかどうかです。

 火中の栗を拾いにいく、その勇気、力があるか。いつでも瞬時に取り出せるか? 

 リブ・フォエバーのなかでいろいろなことを考えてみてください。

 

 

 後でちょっとした質問をします。タイトルと内容をよく考えてください。そうしたら、先ほどと逆でいきます。最後に終わった人が、最初で逆回りでいきましょう。

 

(リブ・フォエバーの歌詞、朗読も一行ずつ回していく)

 英語で読むと、もう少しわかりやすいですが、英語を使わないのは、素通りしていくからです。意味は英語で読むとわかりやすいと思います。

 

タイトルは、「リブ・フォエバー」内容は一見、永遠を否定しているように見えます。誰も永遠に生きられないというあたりまえの話です。ただ永遠に生きることも同時に言っているわけです。

 

 One Sweet Moment Our Todayという表現があります。これをつかむことこそ、本当のフォエバー、もっと簡単に言ってしまうと一瞬ということです。永遠というのは時間のなかだけでなくて、その瞬間瞬間のなかにある。よくある主題になっています。

 

 この歌詞も今回の課題の伏線のなかに入れてみてください。何で帰りつくことがあるフォーエバーなのか。そうでないと言っていながら、なぜそうなのかということですね。

 私が叫ばずにはいられないことということを、先ほど言った通り、このことばを叫ぶもののスタンスから考えてもよいし、叫ばれるもののスタンスで考えてもよいです。

 

明日は皆にそれぞれ二つの役が与えられます。自分が叫ぶ立場と叫ばれる立場を両方使い分けます。

使い分けというよりも、その場面、その瞬間の感じ方が違ってくるはずです。それを全部、受け止めて欲しいです。

ーー

 

テキスト6

 

(ジョルジア『リブ・フォエバー』)。

 

Who Wants to Live Forever

 

There's no time for us,

There's no place for us,

What is this thing that builds our dreams,

 

yet slips away from us.

 

Who wants to live forever,

Who wants to live forever.....?

There's no chance for us,

It's all decided for us,

This world has only one sweet moment

set aside for us.

 

Who wants to live forever,

Who dares to love forever,

When love must die.

 

But touch my tears with your lips,

Touch my world with your fingertips,

And we can have forever,

And we can love forever,

Forever is our today,

Who wants to live forever,

Who wants to live forever,

Forever is our  today,

Who waits forever anyway?

 

リヴ・フォーエヴァ

 

僕たちには時間がない

身の置き場もない、

僕たちの夢を築いているものが、

 

この手をすり抜け逃げていく。

 

誰が永遠の生を望むだろう、

誰が永遠の生を望むだろう.......?

僕たちに勝ち目はない、

黙って運命に従うほかはない、

この世でよりどころになるものといえば

いつの日か訪れる至高の一瞬だけ。

 

誰が永遠の生を望むだろう、

誰が永遠に愛そうと思うだろう、

愛は必ず消えて行くのに。

 

君の唇で僕の涙をすくってくれ、

その指先で僕の世界に触れてくれ、

そうしたら 永遠に生きられる、

永遠に愛しあえるんだ、

僕たちにとって 永遠とは今この時、

誰が永遠の生を望むだろう、

誰が永遠の生を望むだろう、

僕たちにとって 永遠とは今この時、

誰が永遠に待とうと思うだろうか?

 

ーー

 

 考えて欲しいのは、何を見て歌っているか、どこに向かって歌っているかということです。要するに彼女だけから学べということではなくて、歌い手はみんな何をどこに対して歌っているかというのがあるわけです。

 

 もっと単純に考えてください。もしみんなが人に魅かれるとしたら何に魅かれるのか、ということです。今回の会報のなかに年配の女の人だけれども、演ずるやいなや、どんな若い女の人よりも可愛らしさを感じるというのがありました。それは芸とか演技ではあっても、そこで出てくるひたむきな表情というのは当然、若いわけです。

 

 歌い手というのは、10才、20才若くみえますね。もっと若くみえる人もいます。ミルバを見に行って、何で可愛く見えるか。歌っていないとき、単にインタビューに答えているとき、そういうときも可愛く演じられるわけですが、そういう味に加えて音楽が入って歌声が入る、そこの舞台のなかの表情というのは、とてもひたむきで誠実なものが伝わる。

 

 だから歌を選び、歌で生きているといえる。それが女性の場合は可愛さと言われるのかもしれないが、男性でも色気となる。ただそういう顔をみんながもっていないのかというと、違うでしょう。

 

 モノトークを聴いていても、ここに来なければ甘い時間を過ごしていたような恵まれた人もいるわけだ。しかし皆は、自分の表情や歌を探しに、あるいは、そういう顔ができるこの場を選らんでここにきた。そうですよね。

 

 仮に歌い手であれば、何よりもうれしいことが歌であって、人前で歌うことです。そこで一番、大切な人にみせる。とびきりの表情と同じかそれ以上のものが本来、歌うところで出るべきでしょう。きちんと消化できていたら、出てくるものであるはずです。

 

 これは歌の技術とかいうことではないと思います。

 だから、これも表現する人間にとって必要な技術です。年齢とともに表情が変わってくる場合もあります。気迫とかノリといったものも関係します。ただ人に何かを伝えようと思ったら、わかって欲しいと思ったら、日常生活の中でも、ポケッとした表情はしないでしょう。

 

 声だけとか口だけが動いているような動作はしないですね。自分にとっても、そんな態度で歌ったら失礼だと思うはずです。ただ歌のなかでは、音楽にのってしまったり、バンドがついたりするので、とんでしまっている場合が多いわけです。これが一番、基本のものです。ここからやってみたいと思います。

 

 イメージは、皆の日常のなか、イマジネーションのなか、モノトークのなかにもいろいろな材料がありました。愛しい人と会っているとか、別れなければいけない、その背中を見つめる、行って欲しくないと、そういうときは、そういう表情をしているでしょうね。

 

 ではなぜ、歌のなかでそれがでないか、現実の生活のなかの日常になっているものさえ、自分でそこをつかんでいないからです。歌のなかでもそうならないと、いや、それ以上でないとおかしいのではないかということです。生きていたら、同じことです。

 

 

 リピートということを昼間、言ったと思います。その顔を見たら相手が帰らなくなる、よい舞台というのは、その日の内に友だちをたくさん連れて見にいきたい、あるいは友だちなんか連れないで自分だけで一人占めしたいということで、とにかくもう一回、足を運ぶでしょう。

そこで満足させられ何かよかったけど、次は1年後というのであれば、やはりそのくらいしか魅きつける力がないわけです。

 

 そしたら自分の顔を見たら相手が帰られなくなるような、とびきりの表情を今日の夜でも明日の朝でも出してみましょう。セールスマンは、ミラートレーニングをやっていますが、表情だけでできること、日頃から、そういうことを考え、そういう表情をしようということを、やってみてください。いろいろな表情をしなければいけないと思います。

 

 表情のないままやっている人もいますけれど、表情で語りかけている部分がとても大きいです。もちろん声の表情も含めます。舞台の上で一言ごとに移り変わる表情、優しい表情、ひずんだ表情、憎しみ、怒り、歌がよいとか悪いということでなく、そういうことでさえ人の心を捉えられる。その人をファンにする。あるいは見続けたい、見守ってやりたくなる。5年後、10年後どうなっているのかと思わせる。それが生来的にできる人もいます。でも、やり続けるなら素質よりも素養があることです。

 

 舞台で問われるものを自分のなかでシミュレーションして組み立て出していくということが大切です。コンサートとかライブになって、人前に出たとき笑えること、歌のなかでは笑わなくてもよいです。歌によって違いますから。しかし、終わった後、一つの戦いが終わった、そこで笑えること、それがパッとつくれるには日頃から精一杯やっていなくては無理でしょう。

 

 とってつけたような笑顔でなく、本当に魅力的な顔をつくれるとしたら、その人はそれだけ修羅場を踏んでいるわけです。客を目の前にして笑うというのは、そう簡単なことではないです。お客さんが魅かれるのは、歌い手が怒っている表情ではなく、可愛く安らいでいるところに魅きこまれていくわけです。

 

 役者の学校ではありませんから、あまりクドクドは言いませんが、これから勉強する上で見ていくときに、人が何に魅かれているかを、自分が人を魅きつけようとする商売をするのであれば、そこを勉強すべきと思います。

 

 

 明日も全身で全霊を込めてやってください。全身から体で動いていく、そういう感情になり切ったらそういう表情が出てくるはずです。そうでなければ、表情が裏切ってしまいます。歌っているのを見ていたら何かうそっぽい、そうしたら伝わるわけがないです。とても大切なことです。

 

それが一致するということ、心と体と息と声も、それが当然、表情に出てきます。先ほど述べた通り、演じるもの、表現するもの、表現されるもの、あるいはことばも叫ぶもの、叫ばれるもの、あらゆるものについて両方のことをやります。この二つのことを取り出してくることです。

 

 あなたに大切なものがあって、それを自分から奪い去るものに抵抗していく。それを失っていく痛み、そういったものをすべて計算、あるいは感じた上で表情でやる。声がなくても、技術がなくても表情がカバーします。その間に感情も技術も補っていきます。技術というのは表情も含めてのことです。

 

 技術と切り離すとヘボ役者になってしまいます。演じている、なんかとんでいる、この人が言っていることは本当みたいだけど、でも伝わらない。そしたらやはり、ダイコン役者なのです。

 このリブ・フォエバーというのは、概念的、抽象的なので、もっと具体的なものをやりましょう。

 

 

ーー

テキスト7

 

アコーディオン弾き」

 

これは少々、長いです。ストーリー性に富んでいますので、ストーリーも一緒に捉えてみてください。どっぷり入ってください。

 

 

「街の女の彼女はとても美人だった」

から始まるように

まず歌い手のスタンスは『語り手』です。

 

 歌というのは自分がなり切り歌うものと、第三者的に歌い上げるものがあります。こんな物語、こんな物語というように。まずこれは、語り手から入ります。

 

歌が進むにつれ、ストーリーも進んで行く

 

  彼女の彼氏はアコーディオン弾きだった

  ふたりはとても楽しいときをすごす

  しかし彼は兵隊にとられた

  彼女は彼が帰る日を夢見る

  結局、彼は死んでしまった

 

  彼女は彼の演奏していたホールにふらふらといくと

  そこでは別の人がアコーディオンを弾いていた

  彼女はアコーディオンにあわせて踊る

 

  蘇る想い出

  アコーディオンの音

  帰らない彼

  蘇る想い出

  アコーディオンの音

  帰らない彼

  蘇る想い出

  アコーディオンの音

  帰らない彼…

  蘇る想い出

  アコーディオンの音…

 

  『止めて』

と彼女は叫ぶ、音楽を止めてと

 

 

 

この『止めて』をみてみましょう

ピアフは頭を抱え、顔をゆがめて、叫んでいる

歌詞のストーリーが進むのにしたがって

ピアフもまたどんどん『語り手』を離れ『彼女』に同化していっています

自分のものにしています

そして『止めて』のとき完全に『語り手』ではなく

叫び声をあげる『彼女』になっている

 

 だから、アコーディオン弾きの歌ではなく、ピアフの歌なわけです。

 

 

この歌にまつわるエピソードを一つ、

 来日の際、ミルバが『ピアフ』をテーマにとりあげました。

この『アコーディオン弾き』も歌った

ほんの一部だけ

『止めて』の前までをすべてインストゥルメンタルで演奏して

そのときミルバは舞台にはいない

そして、ミルバは突然、飛び出してくると『止めて』と叫び、以下を歌う

という構成だった

 

『止めて』とミルバが叫ぶと、客は笑った

確かにミルバはいつも、それまでのらない、日本の人を喜ばすよう

ユーモラスな行動をとっていた

多くの客はこの『アコーディオン弾き』の歌詞は知らなかったかもしれない

だけど、何かがひっかかった

『もしピアフが、同じことをしたとしたら?』

私は、客は笑わなかった、笑えなかったでしょう

 

 

 ピアフとミルバ、何が違うかというのは、今までも述べてきました。

ミルバの歌とピアフの叫びはやはり、対極的なものかもしれない。

 

ミルバはうまい、疑いもなくうまい しかし

ピアフはこの歌で『止めて』を叫ぶとき、

その体に鳥肌をたてている

全身が苦しみにもだえている

臓器をひきしぼって生まれてきた声だ

だから

ピアフにアコーディオン弾きの恋人はいなかった

それなのになぜ、ピアフは『彼女』になりきれるのでしょうか?

まるで、恋人がなくなったように

 

 ステージで、その「止めて」の一言は、なり切ったではなくて、なっているわけです。

ピアフは「俺の靴の足を入れてみろ」というところにまで入れているわけです。

叫び、呼びかけているのです。

 

 歌も課題も同じことです。歌い手にとって歌はいつも課題だし、課題はいつも歌です。

なのに課題が歌にならないなら、あなたは歌い手ではないのです。

自分のなかで消化されていたら、そのことが叫べるし、そしたら伝わるし残っていくわけです。

その体験を何らかの形で取り出す。

容姿など以上に、心が自分の歌を裏切らないようにしていくことです。

 

 

 

L'ACCORDEONISTE

アコーデオン弾き

 

街の女の彼女はとても美人だった

ほらあそこの街角に出てた

彼女には常連が一人いて

彼女にみついでくれた

彼女の仕事がすめば

今度は彼女の番だ

ささやかな夢を求めて

場末のホールへ出かけて行く

彼女の彼はバンドマン

小柄な変わった男で

アコーデオンをひき

ジャヴァをひかせると大したものだった

 

彼女はジャヴァに耳を傾けるだけ

踊りはしない

踊り場には目もくれない

情のこもった目で

その熱演を追う

バンドマンの長い、固い指の動きを追う

彼女は身じろぎもしない

足の爪先も、頭のてっぺんも

彼女はどうしても歌いたくなる

全身がぴんとこわばって

呼吸をのんでしまう

実際この音楽ときたら

 

街の女は淋しかった

あそこの街角に立つ彼女は

彼女のアコーデオンひきは

兵隊にとられてしまったのだ

戦争から帰って来たら

二人で店を持とう

彼女は会計をする

そして彼はそこの主人だ

そしたら、毎日がどんなに素晴らしいだろう!

二人共王様になったような気持ちだろう

そして毎晩、彼女のために

彼がジャヴァを弾くのだ

 

彼女はジャヴァを聞く

小声で歌ってみる

すると、彼女のアコーデオンひきの姿が目に浮かぶ

そして彼女は情のこもった目で

その熱演を追う

バンドマンの長い固い指の動きを追う

彼女は身じろぎもしない

足の爪先も、頭のてっぺんも

そのうち、どうしても泣きたくなる

全身がピンとこわばって

呼吸をのんでしまう

実際この音楽ときたら

 

街の女はひとりぼっち

そこの街角で

娘達はじろりとにらむし

男達も声をかけてくれない

彼女がどうなってもかまわないのだ

彼氏はもう戻って来ない

永遠にさらば、美しい夢の数々よ

彼女の人生は、すっかりパァになってしまった

それでも、くたびれた足は

しぜんと向かってしまうのだ、あの場末のホールへ

そこでは別のバンドマンが

一晩中演奏しているのだ

 

彼女はジャヴァに耳を傾ける........

ジャヴァに聞きほれる.......

目を閉じてしまう.......

あの固いそして緊張した指先.......

身じろぎもしない

足の爪先も、頭のてっぺんも

そのうちどうしても泣きたくなる

そこで忘れようと

彼女は踊りはじめる

音楽の音につれて、くるくると

.............

止めて!

音楽を止めて

 

 

 

 

 

 では、歌詞を読みましょう。

日本人だと美空ひばりさんや森進一さんのステージを見てもらえればイメージがつかめるかもしれません。二人とも、歌うのではなく歌になり切り、一心一体になれる、日本には数少ないヴォーカリストです。

 

 それでは、最初の順番でやってみましょう。

アコーディオン弾きの歌詞、朗読、回していく)

 

 その場で座ってください。全部で3曲ですね。

それぞれの人が歌というのはいろいろなイメージをもっていると思いますから、こちらからこういうものなのだとは言いません。しかし、今、聴かせたヴォーカリストは、それなりのものを当然、もっている。そしてそれは、受け継がれていくでしょうし、一流の人は必ずそういったものの根底にあるものを受け継いでいるわけです。

 

 トレーニングというのは新しいものを出すためにやるのですが、受け継げるものはできるだけ受け継いでいくべきでしょう。どういう作品にするかは、まだ皆のなかに見えていないと思いますが、見えなくても何かそこで、1分のなかで、今日一日のなかで一瞬でも心に触れるものがあったら、こちらは材料を出すだけですから、自分のなかでこれらの材料をメニュにしていかなくてはなりません。

 

 その一瞬をいつまでも見逃していくと、10年たってもやはり、一つの作品もできてこないのです。たくさんのことに気づくというより、一つのことに気づいていき、それを同じような感覚とはいいませんが、表現するものとしての感覚をどうやって保ってそれで収めていくかということを磨くことです。

 

 課題はとても単純なように思えるかもしれません。単調なジェットコースターですね。下に下がって上にいくだけですけれど、このなかに少なくても8つ以上の歌が入ります。全部の歌を完璧に仕上げなさいとはいいません。しかし、このくらいの人数ですから、どこかにあなたがいたということを伝えてください。

 

 そして、また見たいという期待をもたせることが客を裏切らないということです。「いる」とわかりますよね。出てくると拍手をしたいと思う人と、「あれっいたの?」という人と、そこから勝負が始まってそこで勝負がつくのです。そしたら何で拍手をしたいと思わせるのか、考えてみましょう。

 

 おもしろいから? それだけでもつほど甘くありません。必ずそのまえに実績を残しているわけです。実績を出せるには準備がいります。研究所はそのためにあります。

 その実績というのは、必ずしも、技術とか歌が秀れているということではありません。それは、人を魅きつける要素です。人に待たれて、その人が出てくると何かよろこぶ、何か与えられる、だから当然、あたたかい場が用意されるわけです。

 

そうでないと、永遠に「この人は誰?」「何だ?」の繰り返しになる。そうすると世界はいつまでも開けていかないです。あなたの努力と作品にするまでのプロセスに拍手は注がれるのです。

 

 

 ヴォーカルというのにはいろいろな要素があります。それを全部、今回は課題のなかにつめたつもりです。最初に聴きました。何をやるかではなく、どうやるかを問いたい、それがすべてです。21時からのチェックリストを見てください。

 

 (眠い人とか疲れている人、いろいろな体調の人がいます。だから、22時以降、皆がどうするのかわかりませんが、ひと部屋ずつ、眠い人が眠れる場所としてキープしてください。24時を、消灯にしておきます。)

 

 エチュードのスクーリングは、今までやったことをまとめることです。ノートに書いたら終わりというのでは困ります。今回、具体的に、ありありと、そういう表情を出して欲しいです。それから切り換えていくこと、短い時間のなかで切り換えていくことは、難しいですが、エッセンスを取り出す世界ですから、スイッチの切り換えが求められます。いつまでも悲しみのなかに浸っている余裕はないわけです。ただ、深く入ってつかんで欲しいです。歌も1曲単位、いやそのなかで何度も切りかえます。

 

 

 

 最初は息のエチュード、それから悲しみのエチュード、絶望のエチュード、憎しみのエチュード、5番目でモノトークです。6番目、息のエチュード、7番目喜びのエチュード、8番目やさしさのエチュードです。そこで解放されたところを表現してください。

 

 人前で笑えるためには、こだわりのプロセスがいるのです。ファルセットでも裏声でも低い音でも構いません。力を入れて意識してつかむのではなく、こういう場で人間の空気にのって一つの開かれた場所に対して声をのせていくような感じでやりましょう。

 

 そのへんが全くわからない人は、班長に聴いてください。それが最終的なものです。要はコンセプトを統一して欲しいということです。それぞれ、いろいろなものをもってきていますが、班ごとに発表します。

 

 班のなかであまりにバラバラであると統一感に欠けます。班の色をだすところまでやります。各人の個性が出れば班のオリジナルも出ます。このエチュード自体がうまく線を描いて上がってこないと、時間の感覚もバラバラになって空間も凝縮しなくなってしまいます。歌も一人でやるものではありません。そのうえで、最後に作品が個人個人であるということです。この課題を通して、あなたが何を伝えたいかということです。明朝からこれに対する材料をさらに加えていきます。

 

 

 どうも一日終わってしまうと、一日抜けてしまう人が多いようです。私の本を読んだり、講演を聞いても、8割の人はその日で、あとの2割の人は一週間で、抜けてしまいます。だから、人が一つの芸をものにするには同じところで同じことを何年も修めなくてはいけないのです。

 

 わかったからといってほとんどの人がやめていきます。しかし、ものになるのは、できたということなのですから、わかってからこそ、いなくてはいけないのです。少なくとも師と同じレベルにできて、さらに3年は学べるのです。

 

 材料をとること、復習を忘れないことです。それから、ふくらましてみる。わずかにやったことから、何か気づいたことがあっても、夜にそのことについて考えて、より大きくふくらましておかないと、次の日に全く消えます。

 

 次の日に思い出そうとしても、結局、積み重なっていかないです。だから書くようにといっているのです。書いてつかんだ上に、自分なりにまとめておく。要するに、予習も復習も大切です。

 

こちらで材料を出し、せっかく半分入っているのにそのまま寝てしまって、起きたときには忘れてしまう。アーティスト精神を日常にもたぬ限り、そこまでいかないうちは、絶対に離してはいけないのです。せっかくの材料が全部死んでしまいます。

 

 お客さんであればまた一流のものを聞きにいけばいい。おもしろかったで行けばいい。皆もそれは必要です。ただ、皆がもしそれをモノにしたければ、そこから受け継がれてきたものを確実に受け継いでいくことです。それが一番、正しい方法なのです。

 

 全く何もないものから自分一人で何か創り出せるわけはないです。いろいろなものが世の中に残されています。それを渡そうとして、いろいろなものを出しているつもりです。ここでのメンバーも材料です。この世に残っているのですから。

 

 人によって、段階によっても違うと思いますが、ふくらませてみて、もう一度個人で消化する。グループのメンバーと消化してみる。それとともに、消化から昇華に、今度はクリエイティブに創造してみることです。

 

 

 相手の身になりきる力を問いたいです。

あなた方があそこに出た4人だったらどうやったか、ピアフだったらどうやったか、ジョルジアだったら、あるいは私だったら、自分だったら? 自問して答える。あなた方だったらどう思うのか。答えられないうちはそういう場に立てません。

 

 はっきり言うと、こんな解説は余計なお世話です。モデルがなければ自分たちでやればよいわけです。ただ私は、材料出しで受け継ぐということをやっています。そして何か一つ与えられたら、10個、自分のなかで語れるように、あるいは同じ質問を10個思い浮かべられるようになれば、深まってきます。すると今のレベルのことは、来年越えられます。それをやらないと、越えないと来年になっても再来年になっても、同じことをやっていかなければいけないということです。

 

 

 

 

 

ーー

 明日、7時くらいまでに起きてください。

 今日やっておくことは、もう一度、自分のノートを見直すこと、それからこのエチュードのスクーリングに合せていくこと。

 それから班のなかで今日、全体の流れを、班長がミーティングで説明をしてください。明確にしておいてください。

 

 悲しみと絶望と憎しみと同じだとかよろこびも優しさも何となく似ていて、区別がつかないということにならないように、一つひとつに意味を与えてみてください。人の心をそんな雑な扱いをしてはいけません。

 カウンセリングは、何か質問したいことを書いておいてください。終わってからこういうことを言えばよかったという人が多いようなので、私の前にくると言えなくて終わってしまう人も多いようなので、書いておいてください。お疲れさまでした。

 

 

ーーーー

 

 

合宿特集Ⅰ 合宿前夜   600

合宿特集  600

ーー

 テキスト1  プロローグ  Live Forever について(by スタッフ)

合宿前夜

 テキスト2  合宿発表会の課題 

 

Ⅱ 

初日 昼

   夜

テキスト3

福島コメント

テキスト4〜7

 

Ⅲ 

2日目 朝

テキスト8

カウンセリング(トレーナーほか)

   昼

テキスト9

福島コメント

 

Ⅳ 

最終日

発表会ラストコメント

 

Ⅴ  

参加者感想レポート

 

Ⅵ 

合宿アンケート集計〜編集後記

 

ーー

 

合宿特集Ⅰ     

 

テキスト1

 

 

プロローグ

 

あなたがきて ここが変わらなければ あなたってなんだ

君がくることで このときがもりあがらないなら 君ってなんだ

あなたがいないことで 何も変わらなければ あなたってなんだ

 

 

 

Live Forever について  (by スタッフ)

                                                                                                       

初め私はこの曲は、ONE SWEET MOMENTを選んだ歌だと思ってました

『永遠の生』なんていらない

私が欲しいのは『至高の一瞬』を、と

まあ、間違ってはいないが、いかにも端的でした

 

もちろん

この歌は『至高の一瞬』を選んでいるのですが

その後ろには、断ち切れない『永遠の生』への想いがあります

つまり

『永遠の生』がいらないのではなく

『永遠の生』は手に入らない どんなに望んでも どんなに努力しても

だから

その枠の中で生きる僕たちは

『至高の一瞬』を求めるのだ、と

 

ほんとうは

『永遠の生』が欲しいのです

そしてそれがだめだとわかっていても

なお、求めずにはいられない...

死をまぬがれない人間の宿命的な悲劇が、ここにはあります

だって、死ぬなんて、怖いよね

ベッドミドラーのうたった名曲「THE ROSE」の一節

THE SOUL AFRAID OF DYIN'..

BUT NEVER LEARNS TO LIVE 

<人は死ぬことを恐れて、生きる事を学ばない>

「限り」を恐れて、目をそらしてしまったら

「限り」を宿命として内包した「生」は学べない・・・

そう『永遠の生』への想いは断ち切らないと

「生」は、学べないのです

 

でもそれの、なんと難しいことでしょう

理屈ではわかる

そうだよね、と思うだけど...

 

ほとんどの人間は、弱くて、

死を恐れ、生きることをしない内に、本当に死んでしまうのです

 

『至高の一瞬』を手にするには

心も体も、存在のすべてを傾けなければだめです

すべてを捧げるから、すべて=永遠が手に入るのです

このことを一番がんばってます、ではだめで

すべて、が要求されるのです

自分の全体重をその一瞬にかけて

その次の瞬間には、すべてが終わる

かけた体重のまま、寄りかかっていたものをなくし、墜落していく

絶頂からどん底

それが

『至高の一瞬』の正体です

絶頂だけ、は選べない

 

墜落して..

    下手すれば死んじゃうかもしれない

     死なないまでも、

      身も心もボロボロになります

その痛みをひきうける強さが

『至高の一瞬』には必要です

 

更に問題なのは

果たして人間は『至高の一瞬』だけで生きていけるだろうか?ということ

例えば恋愛についての『至高の一瞬』について

必死に『至高の一瞬』を掴み取ったとする

けれど、今、彼はそばにいない

これからもいないだろう

あれは、もう現出することはないのだ

『至高の一瞬』をなまじ知ってしまっているがゆえに

生き地獄かもしれません

だから

『至高の一瞬』を見てしまった者はドラックや酒におぼれたり、死んじゃったりします

 

素晴らしいものを手にした

しかし、人は死ぬ

つまり、どんな形にしろ、その素晴らしいものを失うのだ いつかは..

素晴らしければ素晴らしいほど

失うときは、身を切られるほどつらい

 

だから多くの人は

自分のコアをひっくり返すような

素晴らしいものをつくらないようにします

だって、いつかは、なくすんだから

なくせないものをなくしちゃったら...おしまいじゃないか?

 

でも

それって、生きてないよね

 

『永遠の生』があって『至高の一瞬』を手に入れられたら

何の問題もないんだけどね

そうはいかない

そうは、絶対にいかない

だから

『永遠の生』を夢見て、生きようとしない人がいて

一方では

『至高の一瞬』を手に入れて、失って、ボロボロになる人がいる

 

森よう子さんのエッセイに出てくるこんな問いを思い出します

『君は『傷心』と『空虚』のどちらを選ぶか?』

森さんは『傷心』と答えます

それに対して質問をした男性は

『僕は『空虚』だ。すべてじゃなければ、なにもいらない』

 

『永遠の生』を夢見る人は『空虚』を選び

『至高の一瞬』を追う人は『傷心』を選ぶ

 

リブ・フォーエヴァーは

『永遠の生』を思い断って

『至高の一瞬』を選ぼうとする

ねえ、みんな、生きようよ!

といっているみたいに

この歌を口にできるほど愛するもの..

『至高の一瞬』を選ぶことによって

自分の身に降りかかる、苦しみを

あえて引き受けられるほど愛するもの

ほんとうは誰にだってひとつくらいあるかもしれないけど...

『至高の一瞬』を選ぶのは本当に難しいことです

 

時間芸術である歌は、まさにこの『至高の一瞬』を現出させられるかどうかが

一流とそれ以外の歌い手との別れ道です

『リブ・フォーエヴァー』...

この曲を歌うジョルジアは本当に、神々しいまでに美しいです

『至高の一瞬』へ身をゆだねる、覚悟も強さも持ち合わせている

それは、まるで、オリンピックで自分の限界にいどんでいたアスリートのような顔です

 

このステージ自体が『至高の一瞬』でした

ジョルジアは当時23歳

サンレモで優勝して脚光をあび

自国イタリアのスーパースター パバロッティと競演する大チャンスを得て

大観衆の前で歌う

数多くのレパートリーから選び取った曲は『リブ・フォーエヴァー』

恋愛ソングなのだけれども

まるで、

同じ時代に生きて、同じ時代に死に行く愛すべき人々への、

応援歌のようでした

つらいけど、生きていこうよという

彼女は歌は本当に上手いけど

多分、一生に数度しかできないようなステージだったのではないか、と思います

舞台設定、当時の状況、観客など

『至高の一瞬』ができあがる条件がすべてそろうなんてことは、そうないのですから

力がなければもちろんだめですが、

たとえ、どんなに力があっても...

そして、そんな数少ないチャンスをきっちりとものにしたジョルジア

すごいなあ

 

 

 

アウシュビッツで殺された子供たちのことなどを自分の作品にとりあげる

叫ぶ詩人の会ドリアン助川さんに

『こんなにいろんなことを背負い込んで、つらくないですか?』

とインタビュアーが聞いた

『味あわなくて何の人生じゃい!』

ドリアン助川さんは叫んだ

 

でも

強くないと、できないよね

『至高の一瞬』を追い求めることによって身に降りかかる苦しみ

それを引き受けてヴォーカルは行くんだね

今は苦しいかもしれないけど

いつかトップアスリートみたいな表情で

『リブ・フォーエバー』を歌ってみせてよ

生きようとしない同じ時代の人達に

生の素晴らしさを教えてください

がんばれ!         

 

 

 

 

合宿前夜            360630

 

いつも壮行会みたいなことはしたことがないのですが、3日あるといっても、初日は、午後からで、2日目の夜くらいから盛り上がったら、3日目の午前中にもう発表だということです。準備面での問題が多く、それを今回はなくそうと、もう1日、別に今日を入れたわけです。

 

今回はあまりトレーニングのことは考えず、去年やったものを、よりシンプルにしてみます。みんなの主体的な動き、自主的なものを期待しています。去年、おととしと、形を与えてきましたが、どうも3日間のなかでは形に実力が伴わないたところで終わってしまいます。

会報の京都集中講座のところも読んでおいてください。よいこと悪いこと、そのまま書いてあります。

 

初日の頭から、フルにスタートしたいということです。そのために、かなり課題を絞り込みました。あとは、皆さんに材料を配ります。というのは、それを課題にするとか、それを自習するとかということではなくて、表現するまえに、毎日、意識と体の方に入れておいてください。

 

向こうに行ったとき、使える状態にしておくということです。何のヒントもないと、特に音楽的な勉強ができていない人は形に囚われて終わってしまうので、そういうものを確実に入れておいてもらい、自分の表現がでるようにします。

 

 やることは、これだけです。3日間、これのために軽井沢まで行き、仕上げていく。歌や舞台のベースが入るでしょう。3日間が一つの歌の始まりと終わりということです。

 

 これまで行った人は、経験を参考に、完成させるように考えてください。

初めての人は、ここまでのことを読み込んで、自分の材料を準備すること。自分でノートをつくって自分のなかで消化してきてください。

 

私たちの方でノートを読んだりしません。こちらが見るということになると、見せるための原稿になってしまいます。だから宿題とか課題と考えないようにしてください。

 なぜ歌でやらないかというと、それをまだ表現できる能力がない人がほとんどだからです。

 

 ギリギリで与えています。だから、このギリギリを最初から捉えてすぐに表現していかないと、3日間、ためにならないです。リズムや音程のトレーニングや声や歌のトレーニングでいくのではありません。 表現すること、そこで表現できない限り、3日間がムダになってしまうわけです。

 

 個人プレーと違って、グループという形で3日間、同じメンバーでできるというのは、なかなかないことです。他人に学ぶことが多いし、表現も他人あってのものです。

 

 これだけの準備をしてもらえれば、一つの課題としての役割は果たせると思います。

今日は、それに対して参考になるようにオリエンテーションします。

 

 今後、2~3年歌っていくぶんにはよいでしょうが、その先、歌っていく人たちにとっては、あるいは、プロになって後、そこに通じる課題です。

 自分でいろいろなことができるようになった後にも、原点としてとても大切になることです。

 

 とはいえ、ここにあるのはあくまでも材料です。だからこの10くらいの材料をそのなかで6とか7とかでやるのではなくて、これをヒントに自分で問いをつくってみて、さらに書き加えてください。

 そのノートに関しては、何を書いても構いません。見ないようにしますし、合宿へ行ってノート交換とかバカなことはしないでください。回し読みとかしない、自分の心に誠実につくるということです。

 

 当日は、必ず持ってきてください。

いろいろなヒントになります。

あなたの台本です。

 

 役者でも10年くらいやらないと、いきなり、悲しみ、絶望といわれても、入りきれないで演技で終わってしまいます。本当に絶望だったり、苦悩のどん底だったら、声というのは出なくなります。しかし、出ないところに、その音色をもった声というのは出るわけです。

 

声というのは心理的に影響されるので、喜んだら喜んだ声が出ます。悲しんだら悲しい声が出ます。ここが原点です。技術面で追うということは、合宿のなかだけでは無理ですから、それよりも自分の心情面での解放をめざしてください。

 

体が解放されて、本当に笑いたくなったら、そういう音色が出てくる。そしたら、そのとき、発声器官とか、ヴォイストレーニングとは、関係なく、そのまま出れば、よい声だし、魅力的なわけです。それを確認しに行く。

 

今後、学ぶためにこれまでのもの、あなたの身体に眠っているものを使い切ってください。

そこまで自分の体のなかで解放してあげるということです。

 

 技術というのは、教わったら、できます。それはここでやってください。合宿に行ったからって急にはできないです。毎日、練習し続けることです。

 わざわざ、ここでできないことをそれゆえに行いに行くわけです。

 

 ここには、皆、仕事が終わってからかけつけて、心をチェンジさせるといっても、完全に切り替えられるまもなく、没入までいけないわけです。

 あるレベル以上で歌っている歌い手は、人前に立てば、瞬時に自分の世界をつくってしまうのです。

だから、この3日間、どこかでそうした次元、アーティストという感覚とテンションを経験してほしいです。自ら、そこへ自分をもっていく、できるようにしにいく。

 

 自分が最大限、笑ったら、最大限泣いたら、自分が最大に苦しんだら、どんな声が出る、体がどう変化するのか、そこから生まれるものを歌と名づけます。

 脚本にそって表現とする。

 これに対して、材料は、いろいろな形で与えていきます。

 

今日は、この資料を配って説明して終わります。

3つくらいの班分けをすると思います。関西ほかからも10数名くらい来ます。

 

 最近、続けている天の声、スーザンオズボーンに体験したことがヒントになっているので、彼女の声を聞きます。彼女は神宮球場中島啓江さんと開会式で歌いました。

 

天の声では、その音の出し方を感覚として受け止めてください。

これは、作品「プロローグ」です。

(アーア)こういう展開もあるでしょう。

 

 

 

 今回は、新たに「風」というテーマで加えました。同じことをするにも工夫は必要です。

 今年も、マラソンかジョギングが入ってくると思います。去年ほどの距離はやらないと思います。思い出しながら走ってください。速くなります。

 

いくつか材料のなかに、山城組、これは世界中の声、リズムをコピーしているものです。

彼らは日本人ですから、彼らのなかでは、日本のものの作品が一番秀れていると思います。その中に「恐山」という作品があります。

 

 この後、一人で帰らなければいけない人もいて、何か起きなければよいんですが、、、

まあ聞いてください。世界で一番恐い音楽といわれています。

とても敏感な人もいるので、あまり刺激を与えない方がよい場合もありますが、人里離れた浅間山の一番近いところの場所です。

 

こういう音楽を聞いていたら、皆、だいたい仲よくなりますね。林に行ってはぐれるような個人行動をとったりしなくなりますね。

本当に精神的にくる人もいますので、冗談ではなく、敏感な人は敏感なのでね、

絶叫、悲鳴から始まります。

 

 これから協力してもらって声を出してもらいます。他の人たちの声も合せて自分の体のなかにそれを感じることです。皮膚に直接、伝わってきます。音響機器を使いませんから、生の状態でそういう場ができます。

 動いても構わないです。むしろ動くのがしぜんの感情のいきつくところだと思います。ただ、ぶつからないように気をつけてください。自分のなかに音を浴びていってください。ちょうど、真ん中くらいのところに声を集約させるようにしていくと、うまく感じられると思います。

 

 声の直接の音、振動音です。耳で聞く音以上に体、骨を通って心臓に働きかけます。ベースの音とかバスの音はそうです。ここにも当然、ひびいています。

 

 これだけの人数がいたら、そういう音の場ができます。その場の上に自分の音を重ねていくということです。声を出して皆に伝わるというのは、この空気が振動しているわけで、振動して揺れてきます。

 そこではとても声が出やすい状態になります。そこも感じてください。

先ほどのスーザンオズボーンのように、上の方の声をきれいに出すというのは、それからもっと後の状態です。

 

 

 

 最初、ため息から入ります。息を大きく吐くということですね。それをだんだん声にしていきます。円になった方がよいですね。なるべく広くとってください。

ではいきましょう。

 

最初に「はあー」です。だんだん深くしていきます。繰り返しやってみてください。耳と体を薄くしながら、なるだけ大きな呼吸にしていってください。息の後半の方から声にしていきます。徐々に声に、深いため息から入っていきます。呼吸以外、感じなくてよいです。体の重さとか地に足がついている感覚とか、そういったところで、少しずつ声にしていってください。だんだん長くしていきます。「はあー」「はあー」もう少し声にしていってください。

 

 はい、急に止めてはいけないです。ゆっくりテンションを下げていかないと、いかにもサンプルみたいになってしまいます。実際にやるところのシミュレーションの組み立てだけをやっておきます。

 

 今のところからもう少し場が解放されていくと悲しみ(のエチュード)に入っていきます。その次にいきつくところは、憎しみ(のエチュード)というのがあります。ここが真ん中です。

 

わけがわからない人は処刑場だと思ってもらえればよいです。一人ずつ処刑されます。順番に真ん中に行って、30秒くらいでよいです。自分のなかで煮つまり、慟哭を感じたら下がっていくという感じですね(あまり心地よいものではありませんが)。ちょうど、天の声と真逆です。

 

 まわりの人たちはその方向に向かって、その人に対して憎しみのエチュードですから、憎しみの感情を吐き出し、ぶつけます。最初のところだけ私の方でやります。

今の状態に30秒くらいでもっていってください。それで、ハイといったら順番にいって、30秒くらいで戻ってくるという形を、シミュレーションでやります。

先ほどよりは集中してこちら側に入ってもらってきてよいです。

 

 では場をつくります。もう一度、先ほどのところから入ってきてください。

ため息の方から。「はあー」

 

 もう少し方向を個人に当ててください。まだ空間的に広くなっています。

では続けましょう。「はあー」。

 

急には止まらないで、ゆっくりゆっくり収めていってください。

2~3分かけて休止していってください。

 

 

 今のはエチュードの流れです。間に挟んだ音楽が、絶叫からやや、おだやかになり(山城組の2、3曲目)、救いにいたるところの部分になり、最後はスーザンオズボーンのもので、天の声の一歩手前くらいです。これが皆さんがやっていくもののベースということです。

 

 

 悲しみの声のところは恐山(1曲目)の音楽をかけていたわけです。恐山の境地に入り込めれば、気持ちが合ってきます。先ほどのを聞いていて、自分にもできそうだと思っていたら、できるんです。本当に。

それだけの体の状態になっていたら、できます。

これは、ただその状態にもっていけないから、できないだけです。

 

 

 合宿というのは、その状態を体験させるための、一つのきっかけといっています。

プロの歌い手と違うところは技術とかキャリアという前に、ステージに立ったときにその感覚をとり出せるかどうかです。声も同じです。その線のところにパッと意識がいって、それをとり出す、それを間違いなく瞬時に100パーセントやるために技術があります。

声はそれで出ますが、体の状態とかテンションとか作品を出せる準備を完全に自分でできないと無理です。それを外から入れていくということは、それだけ難しいわけです。

 

 よく歌とか音楽をやるのに、何でこんな芝居みたいなことをやるんだとか、何でこんなに声を出しまくったりするんだという人がいますが、普通の人はそのままでは、10年たっても20年たっても普通なんです。

それを切り開いた人たちだけが、ある意味では歌えていく。技術から入ってくる人もいますが、その技術もまた、どこかの段階で消えていく。スポーツ選手であれば、マラソンハイのような状態を体験するように、トレーニングのなかからつかんでいくものだからです。

 

 それを声のなかだけでというのは自分一人でやっていると、15分くらいで声が出なくなって、30分くらいでかすれて、暗くなって、次の日に影響を残して、悪循環、意気込んでやるほど,よくなくなります。

 

その瞬間というのは捉え難いわけです。だから、先ほどのシチュエーション、やってみたけれど途中で声がでなくなったけれど、音楽は聞こえてきた、もしかしてあのなかでできるのでは、と思ったときはできるわけです。

 

 皆の普通のレッスンを対象にすると難しいわけです。

この人は無理だとか判断しなくとも、皆が前に出てきて、やろうとしたときに、すでに自分で無理だと思っているわけです。

入り込めないものができますか。どこかで無理だと思っているからできない。

 

 ところがこういう状態に追い込まれて、自分で目一杯やって体がつかんでしまうと、体の状態も心の状態も開かれていますから、聞いた通り、なるようになるのです。

ああそうか、それを話せばいいんだ、声が出た通り、そうすればいいんだということで、できているわけです。自分自身が邪魔しているのを取り除く、そんな複雑なことではないわけです。ーそれを確認するために、こういう状態というのは、とても大切なのです。

 

 体の方から声を解放してやる、あるいは、その間、体、息1本で通す。体も息も絶対、間違えていないわけです。声は、皆のなかでは正解であるわけです。

ただ、それで歌うのに足りるだけの体がないから、ものにならない。

今みたいに体と息を使い込んでいって、もっと器を一瞬、広げてやるわけです。

 

 そのなかで歌とか音楽とか、そういったものを捉えます。こういう状態のとき、聞く音楽というのは、今の人たちが聞いているような耳でなく、皮膚にしみこんでくるわけです。

歌を何日も聞けばよいという話ではなくて、そういう状態で聞いてきたのか、そういう状態で移し変えてきたのかです。

自分に何が出せるかは、何がどう入ってきたのか、

結局、そこが、ある線を超える歌い手かどうかというところでの勝負だと思います。

 

 ですから型は、とても単純です。

ここにいろいろなものをつけると、嘘のものをつくっていくことになるのです。

先ほどからいろいろな形で展開していますが、その真芯だけで捉えてください。

 

 

地の声のところではあまり展開できないところですが、感情に入って、ストレートに出していきます。するとおのずと、だんだん中間音、そして高音になってきます。

そこから、自分から展開していけばよいわけです。

 

そのとき、自分に入っていたメロディとか自分に入ってきたリズムが出てきます。

そうしたら、自分のなかにこんなものが入っていたんだと思えばよいわけです。

そうでない人は、声をバンバンとぶつけたり、はり上げることしかできないわけです。

 

そのあたりから音楽的に聞こえてくるわけです。

皆も同じになればできる。その状態のときはできるわけです。

その状態をつくり出すのがとても難しいわけです。

 

 3日間は、それをメインに考えて、その周辺にいろいろな意味で材料を与えていこうと思います。

同じものを練習する必要はないです。

 

ただ、その状態になったときに、自分だったらそこでどう出すかということを、要は表現を問うところのものをとり出す。これで、もう歌なんですよね。

ここに歌詞がつかなくても音楽の線にはのっているわけです。

 

それから基本もできているわけです。

そういう形からもう一度、捉えてください。

そういう感じで聞いてください。

 

あとはフリーで、ここを開けておきます。

少しテンションを下げてから帰ってください。

今日は特に気をつけて帰ってください。

 

 

 

 

 

テキスト2 ◆合宿発表会の課題 (脚本は、スタッフ)

    

 

◼️モノトークテーマ 『AMORE -わたしの愛-』

 

 『生きててよかった』

 って思える出会いをもってますか?

 あなたが、あなただから、愛した人

 友人でも、恋人でも、大好きなアーティストでも、家族でも

 広義で、歌でも風景でも、状況でも、コンサートでもいい

 もう、あなたの一部になってしまったくらい

 愛したなにかについて

 話してみてください

  

 

 モノトークのルール

 2分程度で発表できるもの

 合宿時に原稿を持参

 (コピーして自分の控えと提出用と2部もってくる)

 本番は原稿を見ないで発表

 

 

■メインメニュー、

 発表会は、昨年と同じくエチュードとする

 

 誰でもできることを、どうやるかがこの課題のポイント

 というか

『どうやるか』をポイントにしたいから、再びこの課題にします

 

 単純だけど、奥深い課題です

 『発生→苦悩→再生→昇華』という劇的な展開を、

 いかに大きく、深く、いかにしぜんに表現できるか?

 

今から二週間くらいで曲を覚えてもらっても、『消化』の域まではいかないでしょう

 『消化』してないもので『表現』できるはずがありません

 エチュードは、しろうとでもできる内容です

 

人間である限り持ち合わせている感情

生き物である限り生まれてから死ぬまで続ける息

そして感情の発露としての声

 三つがあればできるのです

 『何を』やるかより

 『どう』やるかをこの合宿では問いたいと思います

 

 

■発表会までの宿題

 課題を『自分事』にするために

 エチュードをより深いレベルで表現するために、

 参加者には宿題をだします。

 ノートを、なんでもいい、1冊用意してください

 そして、今日から合宿まで、毎日、

 『自分のエチュード』とは何かを考え、

 ノートに書き込んでください

 課題・エチュードと、自分自身との距離を近づけるための作業です

 

 

エチュードという課題は、こちらで設定したもので

別にやりたいわけじゃないという人もいると思います

その人にとって

エチュードはまだ『他人事』です

 

やれといわれたから

やれといわれたように

やれといわれた時にやる

 

けれど、違うんです

誰もあなたに『やれ』なんていってない

こちらでいえるのは

『今のあなたにとって、本気でやる意味のある課題を用意したよ』

ということぐらいです

 

ここであなたには、ふたつの道があります

ひとつ目は---

まあ、やってみるか、とノートをとりあえず書いて、合宿にのぞむこと

ノートを書くのだから『えらい』ですね

でも、そんな『おつきあい』なんて、結構です

ここは小学校じゃない

とりあえず、宿題をやってくれば『先生に怒られない』なんてレベルは問題外です

『この程度やっていけばいいだろう?』

その考え、一体誰に『許してもらって』いるんだ

そう、誰もあなたたに言っていない

『合宿に出るなら、この程度はやってきてくださいよぉ』なんて

誰の顔色をみて、何を表現しようというのか?

 

のこるもうひとつの道ですが...

合宿に出る人に、今回ひとつだけお願いしたい

『素直であれ』

合宿に対して、こころからYESということ

合宿課題に対して、こころからYESということ

ここをクリアーしないと、何も始まらない

そう、先ほどから、何度も言っているように

『どう』表現するか、のレベルの合宿にしたいから...

だから全身で、YESを言わないと始まらない

『俺は、この課題をあらゆる角度から全力をつくしてやり遂げたい

ベストの表現をしたい』

これがスタートラインです

 

なるべく早く、このスタートラインについてください

 

エチュードは、あらかじめ決められた課題

その通り!

けれど、これが今回、

表現者』としてのあなたに、与えられた『配役』なのです

 

自分の全力で演じきるにはどうすればいいか?

『配役』の枠組みをあらゆる角度から研究して、しつくして

『消化』する

部分的なスパンからも

全体としてみたスパンからも

見極めて...

『配役』の形をつかむこと

形をつかんだら、ようやく

効果的に、自分を流し込む作業へと移れるわけです

それが、すなわち、『表現』作業です

 

課題曲を考えてみてください

同じ曲をたくさんの人が歌う

人の数と同じく、『歌のステージレベル』も様々です

『課題だから』と顔に貼紙をしているようなものだ..

楽譜べったりでうたう人

1000回うたいこんで

すでに『歌詞ののことばは私のこころ』状態の人

 

エチュードでは、『どう』表現するか、を問いたい

だから、この課題にしました

 

 

ジャーナリストの立花隆さんは1冊の本を書くのに、100冊程度の関連書を読むそうです

『2.3冊で書く人もいるけどね、性分だね』

オペラ歌手・中丸三千絵さんは、ひとつのフレーズについて10通りくらいの歌い方をあらかじめ練習しておくそうです

『本番で、どの歌い方をしたくなるかわからないから、思いつく限り準備をしておく』

 

歌われた1つのフレーズの後ろには、

歌われなかったなん通りのフレージングが潜んでいて

『芸術の奥行』の正体ともなっているのです

 

 

 

エチュードは...

しろうとでも、歌えます 歌うだけなら

より深い消化をめざすための課題です

 

たとえば、悲しみのエチュードをやるとき

どっかから概念を借りてきて、済まさないでください

 

『悲しそうな声』というような根無し草の表現にならないように

それはまるで『シャンソン風の歌』のように、みっともなく滑稽です

 

『自分にとっての悲しみ』をできる限り分析してみましょう

あなたが、悲しみといったときに思い出す経験は?

もし起こってしまったら『耐えられない』と思うことは何か?

痛い...

そう頭ではなく、生理のレベルまで、足をつっこむこと

鳥肌が立ったり、涙がこみ上げてきたり

だって、悲しみって、実際はそんなもんじゃないの...?

 

もうひとつの道...

もともとは誰かに与えられた『課題』だけれど

足の裏から、YESを言って

『表現したい作品』として

自分で再び、選び取ること

 

誰かがやりなさいといったから、じゃあなくて

この課題をやるために必要だと思えること、

プラスになると思えることは

やらずにはいられなくなる

 

『一杯一杯考えなさいよ』という刺激を与えるために

ノートを毎日書くことが宿題になったけど

わたしは1冊なんかじゃ足りない、というくらいに

 

みなさん、是非2つめの道を歩んでください、ね

すごいノートを表現の裏に隠し持ったみんなが集まれば

ここでの『ライブ』は、とてつもなく、素晴らしいものになるんじゃないかな...

 

 

 

■宿題ノートのルール

 

少ない時間でもいいので毎日書くこと

書くためではなく、自分を『確認』するための作業です

 書いてる時間より、考えている、感じている時間を多く取りましょう

提出はさせませんので、遠慮なく

目的は『他人事』のぴかぴか課題に、べたべたと自分の手垢をつけて『自分事』にすること

 

→何を書いたらいいのか迷ってしまう人に、参考までに考えることの例を以下に示します。

 

 

 

●今の自分が立っている場所を確認するために

 

□社会的立場を振返る <過去→今>

 →学歴、職歴など、自分が社会的に分類される立場について考えてみましょう。

  各時代、その『名前』で呼ばれていたあなたは、どんなことを考えていたのでしょう。

 

□あなたのカンパニィ<過去→今>

 →あなたが『構成員』になっているグループについて考えてみましょう。

  そのグループはどんな性質?あなた以外に、どんな人がいるの?

  そこでのあなたの役割は何?いくつかのグループを持っているなら、あなたの人生に占める割合は、  それぞれどれくらい?

 例 家族、サークル、バイト先、遊び友達、恋人、職場

 

□あなたの場所<過去→今>

 →生まれた場所、住んだことのある場所、今住んでいる場所、通った場所

  あなたの人生の舞台となった場所について具体的にあげながら思い出してみましょう。それはとても特殊な場所です。そこにあったもの、そこになかったもの..。

 

□あなたの一週間スケジュール<今>

 →月曜から日曜までの各24時間について、あなたの今の生活パターンを書き出してみましょう。この繰り返しがすなわちあなたの人生です。

  書き終わったら、客観的に眺めてみましょう。この生活を送っている人間に、何ができるか?10年後のこの人は?

 

□一生懸命やってきたこと<過去→今>

 →あなたのこれまでの人生について、自分で一生懸命やったな、と思うことを振返ってみましょう。スポーツでも、趣味でも、勉強でも、恋愛でも。目の色を変えてやったことを振返ってみましょう。

 

 

 

●自分の性質

 

□ノートの真ん中に一本線を引いて

 かっこいいと思う人、かっこわるいと思う人を書き出してみましょう

 どんな傾向がありますか?

 

□ノートの真ん中に一本線を引いて

 好きなものと、嫌いなものを書き出してみましょう

 どんな傾向がありますか?

 

□ノートの真ん中に一本線を引いて

 自分の欠点と長所を書き出してみましょう

 客観的に見てどんな人間ですか?

 あなたの欠点と長所を逆にした人間を想像してみましょう

 その人好きですか?

 

 

 

●芸術について

 

□一番初めに聞いた歌、うたった歌はなんですか。その場所は?そばにいた人は?

□好きだった歌を思いつく限り書き上げてみましょう

□好きだった歌い手を思いつく限り書き上げてみましょう

□想い出がからみついていて、耳にするのがつらい音楽はありますか?

□人生の正念場でいつも登場する『運命の曲』を持っていますか?

□誰に向かって、歌っていくのですか?

□何を伝えたくて、歌うのですか?

□歌に関して、今までで一番幸せだった瞬間は、いつ、どこで、誰と分けあいましたか?

□好きな作家、好きな本について思いつく限り書き上げてみましょう

□好きな映画、テレビ、演劇、好きな俳優について思いつく限り書き上げてみましょう

□その他、好きな芸術家、好きな芸術作品について思いつく限り書き上げてみましょう

 

 

エチュードを自分におきかえる

 

 

 

■絶望のエチュード

 

息のエチュード

 □誕生すること、について思うところを書いてみましょう

 □プライマル・スクリーム(生まれた時にあげる泣き声)について、

赤ちゃんはなぜ泣くのでしょうか?イメージングで赤ちゃんの気持ちになり、なぜ泣くのか感じてみましょう 

 

悲しみのエチュード

 □いままで自分の身に起きた悲しい経験を具体的に書き上げてみてください

 □間接的に味わった(本、映画、ドラマ、ニュースなど)悲しい出来事を具体的に書き上げてみてください

 □どういうことが、あなたにとっては悲しみですか?

 □自分自身について、まだ起こっていないが、もし起きたとしたら耐え難く悲しいと思うことは何ですか。また起きたらどうしますか?

 □あなたが『耐え難い』としてあげたことを身に受けてしまった人はこの世の中にいますか?

 □一番最近、泣いたのはいつですか?

 

憎しみのエチュード

 □今、憎んでいる人はいますか?

 □今、あなたを、憎んでいる人はいますか?

 □今まで、人を憎んだことはありますか?

 □今まで、人に憎まれたことはありますか?

 □あなたはどういうことをされたら、人を憎みますか?

 □あなたの心を傷つけた人を書き上げましょう

 □あなたが心を傷つけた人を書き上げましょう

 □憎んだあげく、相手を殺す人をどう思いますか?

 □人殺しの表情が、できますか?

 

絶望、苦悩のエチュード

 □絶望したことありますか?

 □ない人は、どういう状況になったら、あなたは絶望しますか

 □絶望の果てに何があるのでしょう

 □堕ちていく時、底はあるでしょうか?

 □前向きに努力する気力すらおこらないくらい落ち込みにはまったことはありますか?

 □今までした怪我、病気を書き上げましょう

 □体の痛みについて考えること

 □いままで失ったものを書き上げてみましょう

 □あなたが失えないと思うものを書き上げてみましょう

 □あなたはいづれは、その失えないと思うものを失いますが?

 □年をとることをどう思いますか

 □死について思うこと

 

 

 

■希望のエチュード

 

息のエチュード

 □誕生するのは、自分の意志ではない。

  あなたが自分の意志で生きることを選び取ったのはいつでしたか?

 □あなたの人生の座右の銘を書いてみてください。

 

喜びのエチュード

 □いままで自分の身に起きた嬉しい経験を具体的に書き上げてみてください

 □間接的に味わった(本、映画、ドラマ、ニュースなど)嬉しい出来事を具体的に書き上げてみてください

 □どういうことが、あなたにとっては喜びですか?

 □自分自身について、まだ起こっていないが、もし起きたとしたらたまらなく嬉しいと思うことは何ですか。また起きたらどうしますか?

 □あなたが『たまらなく嬉しい』としてあげたことを身に受けたすてきな人はこの世の中にいますか?

 □うれし泣きしたこと、ありますか?

 □あなたの愛するものを書き上げてみてください

 

やさしさのエチュード

 □今、愛してる人はいますか?

 □今、あなたを、愛してる人はいますか?

 □今まで、人を愛してたことはありますか?

 □今まで、人に愛されたことはありますか?

 □あなたは人にどういうことをされたら、嬉しいですか?

 □会ったこともないのに、なぜかとっても好きな有名人は誰ですか?

 □世話になりっぱなしで、でも、きっと一生自分の力じゃ恩返しなんてできないだろうなと思える、もらいぱなしの人がいますか?

 □あなたの心をあたためてくれた人を書き上げましょう

 □あなたが心をあたためてあげた人を書き上げましょう

 □人が好きですか?

 □期待するから、失望する。愛するから、憎しむ。

  それでもあなたは期待し、愛し続けますか?

 □マリア様の微笑みを練習してみてください

 

希望のエチュード

 □あなたの人生のヒーローは誰ですか?

 □どんな希望とともにあなたは生きているのですか?

 

など、自分で自分を確かめる上で有効だと思うことを書いてみましょう

これはあくまで例です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おすすめアーカイブ 15483字   588

おすすめ

 

<感動した曲を聞き直す>

 

巡恋歌長渕剛

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カルチャークラブ『戦争のうた』

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兄の影響でエレキギターを購入。その後、ギタリストとして音楽を聞くようになる。

 

BOOWYわがままジュリエット

かっこいいメロディをもったおしゃれなロック。“バンド”に対するあこがれを強烈に植えつけられた。彼らのサクセス・ストーリーを描いた本を読み、音楽で生きていきたいという想いが芽生え始めた。

 

ドッケン『トゥールス・アンド・ネイル』

当時の親友の影響で、ハードロックを聞き始める。派手なエレキギターの演奏、特にソロパートに魅了され、一所懸命、速く弾く練習をしていた。今想うと、この頃の練習は、全く基本を無視した伸びるはずのない無益なものだったのが残念である。それもそのはず、上っ面だけに、“表現しよう”という根本がなかったのだから、歩けもしないくせに速く走ろうとしているようなものである。

 

ハードロックやヘヴィーメタル

聞き返してみると、ヴォーカリストたちの体の強さに圧倒される。シャウトしたときの体への入り具合がすごい。信じられないぐらいだ。自分は彼らと比べたら、誇張を抜きに百分の一に満たない気がする。これは人種の差、体格の差だろうか。練習でどこまで差が縮まるか不安でもあり、楽しみでもある。だが、どうしても強い体が欲しい。この熱いエネルギーが欲しい。それにしても、だからこの手の音楽を聞くと、自分が強くなったようなエネルギーに満ち溢れる気分になるのか。

 

 

ロッドスチュワート『ステイウィズミー』

この頃、初めてバンドでヴォーカルをとるようになり、同時に音楽もヴォーカルで聞くようになる。ひどいしゃがれ声でときに熱っぽく、ときに甘く、自由奔放に叫ぶ姿がたまらなく好きだった。

今聞いても、この人の声はよくわからない。だが、やはり魅力的であることは変わらない。まねしようという気は全くないが、もって生まれた武器を最大限、生かして表現している姿勢は見習いたい。

 

マーヴィンゲイ『ホワッツゴーイングオン』

最も入れ込んだヴォーカリスト。私のヒーロー。やはり彼の熱いシャウトが好きだった。多くの人の場合はむしろ、ベクトルが内側へ向かっているような気がする。自分の魂をえぐるような、苦しみに満ち溢れたシャウト。何よりもこの人自身が救いを求めているかのよう。こっちまで胸が苦しくなり、たまらず涙が溢れてくる。だが、あたたかい腕に抱かれているような、とても優しい気持ち。もしできることなら、この人の足もとに土下座したい。音楽以外に何の生きる悦びもない哀れなこの男の心に、誰よりも深く触れてくるれ唯一の人。ことばがない。ヴォーカリストになることを決心させた人。この人の創り上げた、メロウでリズミカルな音楽形態も、非常に気に入っている。

 

アレサフランクリン『アイセイアリトルプレイヤー』

彼女の歌うこの曲のワンフレーズにノックアウトされてしまった。私にとって悲しい気分のときに音楽を聞いて涙を流すのはあたりまえのことなのだが、この曲を聞いたときは、ひどく退屈していたときだった。あくびをしながら見ていたビデオクリップ集だったが、彼女がこの曲を歌い始めた途端、涙が溢れてきた。頭のなかが真っ白になって涙が止まらず、半ば無意識でブラウン管のなかの彼女を拝んでいた。本当にすごい歌手は好き嫌いうんぬんなど吹き飛ばして、人の頭のなかを支配してしまうくらい、絶対的なパワーをもっているということを教えてくれた。

 

 

黒人たちの声

この魂がむき出しで計り知れないパワーをもち、それでいて気さくで心優しいこの声に、私は完全に参ってしまっているのかも知れない。それにしても、すごい声だ。白人と一緒に歌っているのを見るとよくわかる。声量というか強さというか、完全に桁が違う。またブルースなどにおける声の深さには、ものすごいものがある。とてもまねできそうもないギャップを感じたのは最近のことである。のどがぽっかり開いて地鳴りのようにず太い声が、さもしぜんにわき上がってくる。自分の声がこれからどうなっていくのか、未だ見えていない。この人たちのまねをすることは不可能であり、無意味でもあるような気がする。だが、私にとって歌いたいという欲求の核をなしているのがここにあるのは、真実のようだ。“彼らのようになりたい”。

 

 

 

村上進『想い出のシチリア

最初に聞いた印象はよくなかった。いわゆる声楽的な気取った歌手だぐらいでしか聞けなかった。黒人のラフな歌声ばかり聞いていたのだから無理もない。

だが耳のトレーニングをすべく、先生が提示なさったヴォーカリストたちの作品を買い漁って惚れてしまった。歌にかけたその生きざまによるところも多分にあるが、日本人という立場でカンツォ-ネを吸収し、それを日本で表現し、さらに独自の世界を築いていこうとした姿勢は絶賛したい。この日本における数少ない本物。できることなら、生のお声が聞きたかった。もうあと2年、早く出会っていたなら…。

 

シャルルアズナヴール『ラ・ボエーム

語るように歌う。だがこのメロディアスな流れはどういうことだ。日本語でこの人のように歌えたら本当に素晴らしいだろうと思う。しかも人間味溢れるこの声。一流の一言に尽きる。

 

 

ルイ・アームストロング

私の心に与えた影響は非常に大きい。彼の代表曲である『ホワット・ア・ワンダフル・ワールド』は、私にとって宗教に近いものがある。名付けて“自然教”である。一言で言うなら、「あるがままを笑顔で受けとめる広大な心」とでもいったところだろうか。彼ほどその懐のバカデカさを感じさせる漢はいない。貧苦のどん底だった幼少時代、黒人差別の真っただ中にいながら、あの底無しの笑顔だ。メジャー調の明るい曲を本当に楽しそうに演奏しながら、そのトランペットの音色は泣いているのだから、全く恐れ入る。頭が上がらない。あの笑顔は、あらゆる苦しみを乗り越えて、それをすべて腹にため込んで、その上に乗っかっている笑顔だ。ただヘラヘラしているのとはわけが違う。

 人はまさに愛する者を失おうとする瞬間、どうなるだろう。うろたえ、泣きわめき、とり乱すだろう。少なくともこの私なら、そうなるだろう。だが、ルイは違う。彼ならばきっと、その者の手を握り、いつもと変わらぬあの笑顔でニッコリ微笑んで「大丈夫。何も心配無い。」と一言、言ってくれるだろう。

 “幸せとは、与えられるものではない。感じるものだ”と誰かが言った。つまり、結局は自分の心の有りようなのである。同じ事があっても「あぁ、幸せだなぁ」と思える人間と、「フン、こんなの当り前ダョ」と思う人間がいるのである。それなら前者の方が良いに決まっている。周りはもとより、自分が幸せになれるのだから当然である。

ルイの言葉と、そして何よりその真実の歌声が、私の心に教えてくれた事である。音楽の一番の素晴らしさ、それは人の心に触れる事ができる点である事をここに確信する。何より私自身、今までの人生の中で、音楽以上に深く私の心に触れてくれた人(物)を持たない、恥ずかしくも哀れな男なのだから。

 

 人の心に触れる事はとても難しいと思う。冷たいコンクリートに囲まれた街で生まれ、テレビゲームをして遊んだこの私には、切にそう思われる。一番の親友と夜を語り明かしても、何も感じられなかったあの時を想い出す。

 その時、私の心をとらえて離さなかったのは、ステレオから流れていた、ホリ-・コールの『コーリング・ユー』だった。もちろんこれは、一番悪いのは自分自身であり、その責任を逃れようなどとは毛頭思わないが、こんな人格破綻者に心の歌が歌えるのだろうか…。

 

私は音楽にずいぶん助けられてきた。いろんなものを失って…というと大げさだが、しかしそれに近い状態のときやもうダメだ、と思うとき、必ず心を動かされる曲、懐かしい曲、元気をくれるコンサートが目の前に現われてくれた。それなのに自分が調子がいいときになると「音楽なんてやってても役に立たない」とか「やっぱり好きじゃない」といろいろ自分に言い訳し、音楽そのものおよびそれに関係する人々や自分そのものも裏切ってきたように思う。私はときどき、音楽そのものに対して申し訳なく思う。本当に自分は心を込めて音楽をやってるのだろうか。やけになってないだろうか、暇つぶしの代償にしてないだろうか。ただの存在証明じゃないだろうか。たぶん答えは一生、わからないと思う。それより最後までやってみることが、その答えなのかもしれない。

「心をこめて音楽をやること」私のこれからの永遠の課題である。

 

 

恋の季節

1日中プレイヤーにしがみついているので親が怒って、こんなものにのめり込むものじゃない、と取り上げてしまった。きっとそのせいで、余計やめられなくなった気がするから、今は感謝すらしているくらいだが、私はまじめに天罰におびえながらも、親の目を盗んで家にあるレコードを聞きあさるようになった。そのなかでも一番聞いたのは、なぜか浪曲なのだ。「佐渡情話」というドロドロの悲恋物語を3~4年間くらいは聞き込んだと思う。飽きなかった。自分でもマネたくなり、語れるようになると誰かに聞いて欲しくなり、とりつかれたように機会を探して放課後、担任の前でやったことがある。おとなしい子供がとった行動に先生は驚いていたのだろうが、その反応は私を狂喜させた。存在を認めてもらうためにはこの手があったのか、とか思ったのかもしれない。でも私は委縮した子供だったのだ。歌っているときの気持ちや先生の拍手が与えてくれた喜びが大きい分、これはただのもの珍しさなのだと知るのはつらかった。ただ他の子が浪曲を知らないだけなんだ、と思い、私は自分に可能性を感じたりはしなかった。だから、どちらかというと、つらい思い出として残っている。

 

 

カルメンマキさんの「時には母のない子のように」

これがはやったとき、私は小さい子供だったが、実はこの歌が大嫌いだった。流れてくると耳を塞ぎ泣きベソをかいていた。自分を失いそうなくらい淋しく孤独な感じ。怖くていたたまれない気持ちだった。今思うと、あれが感動というものだったのかもしれないと思う。歌詞の意味など大してわかってもいなかったのに、押し寄せてきた何か。結局、今の私はその「何か」を求め、自分で生み出そうとしている。1度も自分で歌ったことはないが、耳のなかで鳴り出すと聞いてしまう。カルメンマキさんの生いたちは大人になってから知ったけれど、歌声にのって彼女の孤独な思いが聞く人たちとつながっていったんだろうと思った。私の体の一番置くにある歌かもしれない。

 

 

フレディマーキュリー追悼コンサートでのジョージ・マイケルの「Someone To Love」

本当に感動した。映像は衛星でちらっと観ただけだけど、たまたま久々にジョージのCDを借りたいなと思ってレンタルで借りたうちの一つだったけど、早速買ってしまった。この人の声は、つやと深みがハッキリしていて体の使い方の参考になるなと思いました。「One More Try」「Calling You」も、なかなかのものです。

 

 

フラメンコダンサーの“アントニオ・ガデス

フラメンコを単なるショー的なもので終わらせてしまわぬよう、その世界を刷新したダンサーである。彼の踊りは内なる心から発せられるとても熱いものだ。彼が語ったことばの中で印象に残ったものを紹介する。“フラメンコの心は悲哀”“踊るときはまっすぐ前を見る 愛を受けるか身を守るか決めるときの顔である”“自分の愛を相手に注ぎ込むときの顔である”“かかとを打ち鳴らし、大地を揺り動かす執念と熱気がなければいけない。

 

 

「僕のプルー」岩崎宏美NHKみんなのうた

自分の犬に同じ名前をつけるほど好きだった。広瀬量平氏の曲と岩崎宏美の歌声が、あまりにもよくマッチしていたと思う。13歳:「シャドーボクサー」原田真二 はっきり言って私がピアノの弾き語りをしようと思ったのは、この人の登場であった。詞と曲に感動。

 

合唱曲「海の詩」

一番好きな合唱曲。現代音楽家と言われている広瀬氏の曲は難しかったが、メロディは覚えやすかった。みんなで音楽をやる合唱曲は独唱とは違う感動あり。このころから、好きな音楽は聞くのではなく、自ら演奏するものだという信念が芽生える。

 

「永遠の詩」ツェッペリン 

ハードロックと出会ったころ。高校時代にありがちなことだが、この曲を文化祭で演奏してた男の子に恋をした。未だにこの曲がよかったのか、本人がよかったのかわからない。

 

「ホワイトシスター」TOTO 

ピアノのバッキングに感動。自分でもコピーした

 

「フレンズ」レベッカ 

女性の気持ちを歌った詞・曲に感動。オリジナル曲をつくり、バンドで演奏し始める。21歳:「リンダリンダブルーハーツ ヴォーカルの生き方、詞と曲がマッチしていた。この頃パンクに凝り出した。自分にはできないのがくやしかった。

 

 

遠い音楽 ザバダック 

 

コーリングユー」(映画「バクダッドカフェ」)

ふたりのベロニカ」(映画「ふたりのベロニカ」)

映像と音がマッチしているものに感動し始めたころ。30歳:タブラトォーラ、ディープフォレストなど、現代プラス民族音楽的なものに魅かれている現在。

 

「Don't Stop Me Now」

フレディ・マーキュリー…好きな理由は、詞の内容とメロディと聞いたときに沸き上がる感情が、ここまで一致する歌はなかなかないからである。そしていうまでもなく、パワフルでかっこいい声! この曲を聞くと題名どおりに、ほんとに誰も私を止められないという感じで、全速力で走っても大丈夫だというぐらいに体に力がわいてくる。落ち込んだときにこれを聞いて元気を取り戻したことが何度かある。あーどうして、フレディはこんなに早く天に召されたのだろう…。

 

BON JOVIのNEVER SAY GOODBYE

よく聞いては、歌詞に関してはビデオクリップを見るまではよく知らなかった。でも初めて、映像でみたとき、歌詞がずっと心のなかに入り込んできてしまい、涙が急に溢れ出てきた。

「You and me and my best friend's. Hoping it would never end...」私はそんな友人を一人ももっていなかった。いつも一緒にいる子は互いに本心を隠していて、そんな自分も、そんな相手も嫌いだった。だから、この曲を聞いたとき、本当に友人が欲しいと思った。涙が出るくらいそう思えた。

 

「Lovin' on a Prayer」BON JOVI 

私がハードロックを聞くきっかけになった曲。曲の全体がもつハードさが心をうきうきとさせた。サビのシャウトが体をゆさぶってきて、歌詞の内容はわからなくても、音の振動でわかる気がした。

 

「Alone」HEART 

切なさとその切なさが爆発してシャウトする歌が心を打った。

 

「Never Say Goodby」BON JOVI 

歌詞が好きだった。一人の友人に対して歌ったもので、そういう友人が欲しいと本当に思えた。

 

Keeper of the Seven Keys」HELLOWEEN

 10分を超える曲なのに飽きることなく聞けるのがすごいと思った。ヴォーカルの張りのある声に聞きほれていた。

 

「Rose of Pain」X 

静と動、繊細さと激しさの両方が混じり合っていて、曲に対して非常に魅力を感じた。それぞれのパートが技術的にムリがあるようにも思えたが、それ以上に曲として方向がはっきりしていて、すごい…。

 

「Heaven''s Trail(No Way Out)」TESLA 

ブルージーなギターとそれにのっかるふしぎなメロディラインが妙に気に入った。ビデオクリップでのヴォーカルがとても魅力的に思えた。

 

「Take on the world」JUDAS PREST 

サビのコーラスが力強くて一緒に歌いたくなる曲。力強くパワーがある曲で、この曲を聞くと自分もパワーが出てくる気がした。

 

「One Step」PEARL 

歌詞が好きだった。「明日」という特別な時間に希望をもとうと言い聞かせている歌詞が、自分の生き方とダブっして自分を勇気づけた。

 

「A Woman Left Lonely」JANIS JOPLIN 

切ない歌と切なさが爆発した歌、ともに歌が心にしみてくる。どんなにシャウトしてもやるせない思いがたまらなく、心に入ってきた。

 

JOAN JETT 

特にこれという曲はあげられないが、彼女の存在は私に大きく影響を及ぼした。

「I want to be a rock'in roller like you」と面と向かって言った私に、きらきらとした目で「そう思うなら、誰にも文句を言わせるな」と答えてくれた。

 

「Still of the Night」WHITESNAKE 

曲全体に流れるうねりと、それにのっかる歌がセクシーなので、寒気がするくらいかっこいいと感じた。

 

「Just One Night」ERIC MARTIN 

シャウトしても切なくて、聞いていて涙がこぼれてきていた。

「恋慕 KOI」喜多郎 胸をしめつけるような恋の曲。意外な楽器の組み合わせが一つの世界をつくりあげていて(ヴォイオリンと笛とピアノが入りまじっている)、音の組み合わせでこんなにも曲のもつ世界が広がるのかと、ため息が出てしまうくらいの曲。

 

もう好きで好きでしょうがなかったのが“歌”だったなー。やっぱり小さい頃はアイドル歌手の真似っこみたいに歌っていた。“私もこんな歌手になりたーい”と思って、頭のなかは一日中アイドル歌手の歌でいっぱいで、もうそのときは私もバカだったから、アイドルになったらこんな衣装を着てみよう! なんて考えていた。

 

 いつものようにテレビを見ていたら、私にとって一大事が起こった!「渡辺美里」の登場である。彼女が「マイレボリューション」を歌い始めた途端、“この人みたいに歌ってみたい”“この人のことがもっと知りたい”と感じていた。今まで思っていた“アイドルになりたいなー”が一気に頭のなかから消えていた。もちろん“プロになりたい”と思った。そして、あれよあれよという間に年をとるにつれて、音楽の趣味も変わってきて、いろんなこともあって気がつけば、あの一大事から10年も経ってしまった。 

 

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「VIEWS」という雑誌

三谷幸喜(※平成の近松とも言われる天才脚本家)や伊丹十三(※興行的にも作品的にも成功し続けている邦画界最大の鬼才監督)らのインタビューなど、いろいろと注目すべき記事の数ある。                                                                                                                                                                                                                                         

この雑誌は、基本的には問題意識を持った記事が多くて、そのそれぞれに対して、よくぞ書いてくれました(感心)と思ったり、それらちょっとちゃうで(疑問)と思ったり、その他いろいろと思いながら読んでいます。

 7月号だと、ワイドショーについては、弱きをくじき長いものに巻かれる体質や、あまりにも人のプライバシーを無視し過ぎるところは,僕もものすごくイヤだなと思っていたので感心したし、読売巨人軍の長嶋監督の常軌を逸した(笑)

オフレコ発言については、僕はアンチ巨人なのではある(関西人だからね)けれど、ミスターという人は天才(というか、いい意味で常識という尺度では計れない、うらやましい人)あと思っているので、そんなにムキになって批判することかな? と軽い疑問をもったりしたし、クルマに轢き殺される野性動物たちについては、はっきり言ってこのままだと人間が轢き殺されても、その屍体は動物同様、ゴミ扱いになる日も近いな(最悪の近未来サイエンス・フィクションですね)と、まあ、いろいろと思いながら読んでいます。

 

飛鳥涼「激白『日本ではすべてやり尽くした。めざすはアジア、そして世界だ』」

彼が一体何を言っているのか引用してみましょう。

「僕の歌い方は(ことばとことばの間を)引きずるように歌うでしょう。これは洋楽を日本語で歌うとこうなるっていう、僕の感覚なんです(笑)。たとえば、できあがったメロディをスキャットやでたらめな英語で歌うと、すごく洋楽っぽく聞こえるでしょう。ところが、日本語の歌詞をのせた途端に、その洋楽っぽいメロディは日本のメロディに変わってしまう。それはね、スキャットや英語と違って、ことばの間がブツ切りに聞こえてしまう日本語のひびきのせいだって思っているんです。だから、僕は日本語の間のブツ切りをなくそうと、できるだけ滑らかに歌うように心がけている。別に日本の音楽を否定しているわけじゃなく、もともと感じてる洋楽の気持ちよさに近づけるための表現方法なんです。それがアジアの人には日本の匂いを感じさせない、欧米スタイルの歌に聞こえているみたいですね。」

 このASKAという人の示唆に富んだ発言、みなさんもピンときたでしょう。そう、これってちょっと研究所が入っているな、ということに! 

 特に「僕は日本語の間のブツ切りをなくそうと、できるだけ滑らかに歌うように心がけている」といったあたりは、ここでも、ことばを点と点のつながりとして考えるのではなく、一本の線として捉える(たとえば「青い」は「あ・お・い」ではなく、あくまでも「あおい」であるみたいな)イメージを大切に、といったようなことを言っているはずなので、だからASKAは、ここと大なり小なり相通じるものがあるんじゃないかな、と僕は思っています。

 そしてそういう人が、アジアの人に受け入れられ、世界進出を目指そうとしているところに、僕はものすごく興味深いものを感じるのです(もちろんASKAの場合、優れたヴォーカリストというだけなく、優れたコンポーザーであるということも大きいのでしょうが)。

 

 

ディープパープルの「ライブ・イン・ジャパン」

ロックファンなら知らない人はいないであろう、ライブアルバムの名盤中の名盤ですが、この度めでたく「ライブ・イン・ジャパン」の完全盤3枚組が日本発売されました。HM/HRのルーツとしてパープル派かツェッペリン派か(もっと言えば、前者は様式美メタルの、後者はオルタネイティブ系のそれぞれルーツと言えると思いますが)と問われれば、僕は迷わずパープルと答えてた時期があったので、そんなちょっとしたパープルファンにはお勧めの3枚組だと思うし、自分はロック・ミュージシャンであると公言する人には、たとえばギターならリッチーブラックモアをベースならロジャーグローヴァー、ドラムならイアンペイスをキーボードならジョンロードを、そしてヴォーカルならイアンギラン(僕がパープル派であるのは、ツェッペリンナンバーよりも、パープルナンバーの方が熱くなれる(「ハイウエイスター」も「スピードキング」も、そして「スペーストラッキン」も最高です。

 ただし、今では「ブラックドッグ」も「ロックンロール」もそして「俺の罪」も最高ですが)といったこともさることながら、ロバートプラントよりもギランの方が好き(特に、中音域の声がプラントよりも好き)だからというのもあります)を、とりあえず一度ぐらいは聞いて欲しいと思います。

 はっきり言って「スモークオンザウォーター」の超有名なイントロでのリッチーは、中学生のギター少年でもやらないようなミスをしまくっている(これはわざとか?)し、まあ言ってしまえば、演奏はボロボロ(これは今だから言えることなのでしょう)ではあるのですが、それにも関わらず、このどこまでも狂暴なパワーを放っていた全盛期のパープルのライブパフォーマンスは、そういった演奏云々といったようなものを超越したとてつもなくスゴイの一語に尽きる演奏です。

 もしも、この名盤をぜんぜん知らないというのであれば、通常盤の「ライブインジャパン」だけでも、最低おさえておきましょう。

 

 

「ジョーコッカーベスト」

ロック映像年鑑50'

ファッツドミノとフレンズ、

クイーンのライブ

 

TAKE6のニューアルバム「BROTHERS」

前作「JOIN THE BAND」の流れをくむアルバム(1~3作目の頃が好きだった私としては少しさみしい)。

 

長野にある善光寺

地下に300円払って入りました。真っ暗やみで本当に何も見えなくて、どんなに目を開いてもぱちぱちしても見えなくて、カベを手でさわりながら出口までたどりつきました。途中、どんな場所なのか不安になったとき「アーアーアーアーアー(ドミソミド)」と思わず発声練習をしてしまいました。自分の声がどんなふうにひびくかで、天井の高さや広さがわかる気がしてやりました。きっと狭いところだと思います。

 

シルクドゥソレイユの「アレグリア

 

ブルーノート東京でレオンラッセ

相変わらずのきたない顔とだみ声で、渋い歌を披露してくれた。

やはり“A Song for You”が一番よかった。誰が歌うよりも本物の“A Song for You”だった。

 

 

瀬間千恵

声がどうこうよりも、彼女の世界に周りのすべてが引き込まれていた。寺山修司とも精通していたらしく、みせる方も芝居がかかっていておもしろかった。なかでも「白い服」というピアフの精神病棟のことを歌った曲は彼女にぴったりで、右に出る人はいないと思う。

 

惑星ピスタチオ腹筋善之介超ひとり芝居>「ファントム」

 

AKIKO

日本語と英語で歌う違いを感じています。

 

ゴスペルを聞いてみよう! とはじめて思った。

 

ブラザージョーメイ

聞いてみた。声のパワーに圧倒されてしまった。

 

トムジョーンズ

すごかった。

 

相田みつお「感動とは感じて動くと書くんだな」

バレエの先生のことば「心で体を動かしなさい」

ダンスの友だちのことば「結局最後は精神力なんだよね。何にしても」

 

“Jean Carne”“Will Dowing”2人のブラックミュージシャンのアルバム

とても歌がうまくほれぼれしてしまう。2人のアルバムには、昨年自殺した“フィルスハイマン”に捧げると書かれていた。私もとても好きなアーティストでした。

 

「ときめき夢サウンドシャンソン特集でのある日本人歌手の『バラ色の人生』

私の耳には美空ひばりのよりも雑に聞こえた。やっばり美空ひばりは偉大だったと改めて思った。

 

三代目魚武濱田茂夫』さんの本

友だちに借りて読みました。おもしろすぎていつ吹き出すかわからないので、電車のなかでは読めません。自分をほめる作品しかつくらないというポリシーがあって「かっこよく生きるんだ」という思いだけで生きている人。とんでもない行動力には圧倒されます。私のつたない文章では伝えられないので、是非読んでいただきたい本です。

 

“Jean Carne”のニューアルバム

さすがにベテランで、とても歌がうまい。いままでのメジャーレーベルから、小さいマイナーレーベルからのリリースだった。最近のアメリカも、本当に歌のうまいミュージシャンを大切にしなくなって、若手のコーラスやラップグループに力を入れている。とても残念でならない。

 

「Date of Birth」の“ECHOES OF LOVE”

聞けば聞くほど詞の意味が深くていい曲です。

 

高田延彦の入場のテーマ曲、ロッキーⅣのサントラ収録の「トレーニング・モンテージュ」

死ぬほどカッコよく、ブッとんでしまう。すごくパワーが出る。前向きな気持ちで気合いを入れたいときにお勧め。

 

邪馬台国の謎」つかこうへい

演劇を志す人に対して書かれた入門書。もっとガムシャラでタフで繊細でなければいけないなと思わせてくれるパワーがあった。「欠陥大百科」筒井康隆。知的でユーモラスなこの人のセンスには、改めて感動した。この人の作品は、先を読まずにいられなくなる。魔力があるかのようだ。

 

Peabo Bryson

太く深いやさしくあたたかく、やわらかくと、たった一声でもいろんな表現ができそうなほど、よい声の持ち主。この間の渋谷公会堂のライブを観てきたが、涙が出るほどすばらしい。

 

「Through the Fire」「Can You Stop the Rain」

他、すばらしいアルバムがたくさんある。ライナーノーツに武道館を小さく感じさせる男と書いてあったが、それは本当に事実なのだろう。あのライブまでは「アラジン」「美女と野獣」の主題歌を歌っている人ぐらいにしか思っていなかったが、あのライブで完全に魅了されてしまった。

 

“ROSE”(JANIS JOPLIN)と“TINA”(TINA TURNER)

両方ともすごいパワーで感激!

 

「TVブロス」

この雑誌は、音楽の情報が多くてためになる。

 

夜もヒッパレ

ただのプロのカラオケ番組です。が、もち歌のイメージが強い歌手たちが、他人の歌をいろいろ工夫してこなすのが楽しい。

 

ルイ・アームストロング

息の太さ、量の多さをとてもよく感じることができる。

 

京王線明大前駅の近くに花村楽器というギター屋さん

手作りの不思議な楽器を売っている店で、のぞいただけで大変楽しい。たとえば「エレクトリック三味線」(しかもスティール弦の複弦3コース!)だの「ペダルトレモロシステム付ギター」だの。私は「花見用小三味線」を買った(全長20センチほど)。やっぱり音楽は、こういう遊び心がないとイケマセン。現在の邦楽にいちばん欠けているのが、こういうシャレッ気だと思う。

 

ビルヘイリー&HISコメッツの「ロックアラウンドザクロック」

お勧めです。ビルボード初のロックンロールヒットであるこの曲は、今聞いても新鮮な感動とノリがある。

 

映画「ネル」

ジョディフォスターの役者魂を見た。演技ではなく、本当に野生児ではないかと信じてしまいたくなるほど主人公のキャラクターと同化していた。役者というのは、カメラの前で演技しているとき、「自己」はどこへおいてくるのだろう。歌手もまた、舞台で歌っているとき、何を想うのだろう。僕はまだ人前で歌いながら、いろいろなことを考えてしまう。つまらない「自己」イメージが邪魔して歌の世界にどっぷり浸りきれない。とにかく「表現」について考えてみたいとき、このビデオはお勧めです。

 

夜もヒッパレ」でウェンディモートン

安室奈美恵の曲を歌っていた。全く違う曲に聞こえた。高音になっても楽に声を出していて、そして独特の雰囲気、確かにそこにいるという存在感が感じられた。外人は本当に自然体。

 

コニーフランシス。

英語はもちろんですが、イタリア語、フランス語、日本語まで歌いこなす実力派の一人です。声はやや太めだが、どこかかわいらしさを感じさせるものがあります。

 

「ボズスキャッグス&デュアンオールマン」

私のなかではスウィートなイメージが強くてあまり聞かなかったボブスキャッグスだが、これを聞いてびっくり。激渋のナンバーが盛りだくさん。なかでもスライドギターの名手、デュアンオールマンがスライドをやっていない曲「ローン・ミー・ア・ダイム」この12分の吠えまくりの名曲にはまりまくっている。やっぱ、これだけ弾いちゃうと早死にするよなぁ…。

 

ナイルロジャースのJTスーパープロデューサーズ

武道館でライブをやり、その3日後のベーシストのバーナードエドワーズが亡くなりました。若いミュージシャンたちに多くの影響を与えてきたベーシストです。彼の最後の姿が見れるでしょう。

 

ジョージマイケル「older」

これは心がなごみます。

 

衛星第二木曜日深夜放送の「ソウルトレイン」

最高にGOODです。70年代のソウルミュージックにのせて“ソウルトレインダンサーズ”なる人たちが、ただひたすら踊っているのですが、この手の音楽に疎かった私にとっては、とても楽しいひとときなのです。

 

ジェームスブラウンとフレンズ

やっぱいいねぇ。

 

滝田栄さん

TVのトーク番組に出演していた。そのしゃべっている声、それを聞いただけで「あ、この人は帝国劇場の舞台で主役を演ずる人だ」、そう思った。

 

感動エクスプレス「根岸季衣アンデルシア一生懸命」

フラメンコは情熱で踊るもの。熱くなかったら形にならないし誰も見ない。フラメンコはアンダルシアの血、生活、歴史に根づいたものだと強く感じるし、人々の魂の叫びだ。根岸季衣は、素だったらどこにでもいそうな人だけど、コンセントレーションの高さが彼女をイイ女にしているし、舞台にあがると女優の華やぎと美しさを見せるのがやっぱりさすが。

 

TODO=RUNDGRENというアーティスト。

ポップスのセンスがよく、メロディラインがとてもきれいです。「Something/Anything」などがお勧め。

 

スラムダンク

あんなにおもしろいまんがだとは思わなかった。とにかく元気が出てくる。精神的にスランプになりかかっていたのが、みごとに復活した。

 

セリーヌ・ディオン

 

ZUCCHERO

調子いい。

 

カートエリング、

こりゃ完ペキ、キれてるなと思った。

 

ニルソン

CMでも流れている「ウィズアウトユー」がとても好きだ。サビでシャウトがとても気持ちいい。自分もこんなシャウトができたらいいなぁと本当に思う。ライブでは見たことはないが、たぶんブチ切れているだろう。/グロリアエステファンの声がとても心地よい。彼女の歌は聞いていて疲れない。まるで清涼飲料水のようなさわやかな曲もあれば、ときには熱いビートにのった曲もあって、とても幅の広いヴォーカリストのような気がする。

 

杉並区中央図書館のレンタルCD

17000点もあって、そこいらのレンタルCD屋なんかよりもずっと、ジャズ、ブルースなどの品揃え豊富です。1回につき2枚しか借りられないけど「無料」ですから、何度も足を運べばいろんなCDを聞けます。あと、そこでLDも見られます。(

 

「ベイブ」

子ぶたが主人公の映画を見ました。ぶたの運命は「まるまる太って人間のお腹のなか」というのが今の世の中のしくみのようなものなんだけれども、この子ぶたは、自分の力でこの運命を変えてしまいました。やはり見てもらわないとこの感動は伝えられないのですが、とても感動しました。この映画を見てから、ぶたをというかトンカツなどを自分から進んで食べることができなくなってきました。

 

自閉症だった私へ」(原題「NOBODY NOW HERE」)

ドナウィリアムズ著/新潮社。この本はすごくいいです。自分の感情とは何か? 本当の自分はどこにいるのか? 胸に迫ってくる本です。続編も出ました(「SOMEBODY SOMEWHERE」)。

 

 

NTVの朝の4時頃からやっている車のドライブの環境番組

見ていてとても心地よい。自分でドライブを実際にしているような気にさせてくれるのでお勧め。

 

「MAMA I WANT TO SING」

これを観に行ったシンガーを夢見る乙女4人の感想。1.私も頑張らなきゃ! 2.ひたすら感動、そして放心 3.イヤになった 4.歌うのやめよーか さて私は?

 

「MAMA I WANT TO SING」

観に行った。思ったより、心にこなかった。本物の教会に行った方が何倍も心にくるものがある。

 

「MAMA I WANT TO SING」

最終公演を観に行った。力強い声、軽やかな動き、リズム感のよさは言うまでもない。父親の神父が娘へ贈った歌のなかで「心に宿る夢を追いかけよう 夢をみることからすべては始まる」という日本語訳がとても好きだった。すべては始まっている、今はもう歩いている。立ち止まっている時間が長かった私には、とりあえず歩くことのできている今は幸せである。

 

由紀さおり安田祥子の「トルコ行進曲

CDに入っているものはバックも全てコーラスで、どのパートを彼女たちが歌っているのかわかりにくいのですが、ライブのオーケストラバックのものは、美しさ、緊迫感、スピード感、そして安定感があって、日本にもこんなにすばらしいシンガーがまだまだいるんだということを改めて感じました。

 

車のCMで流れてる誰が歌ってるのかはわからないけど“ロミオとジュリエット”、

誰かわかったら教えてください。

 

「ダンクガール」

サイバーパンク的なファッションとラジカルなイメージがいい勉強の素材となると思う。

 

 

ダイアンリーヴス

ブルーノート東京

 

 

沖縄の三線

教則ビデオを見ながら練習していたが、やはり先生につきたいと思い探しはじめたが、なんと情報のとぼしいことよ! この国の音楽情報は、メジャーなことに関するものならいや味なくらいあふれているくせに、ちょっとマイナーなことに関しては、あきれるほどない。キューバのトレス(複弦3コースの小型ギター)を始めたときもそうだった。チューニング、つまり弦を何の音に合せるか…ということを知るだけで、1年近くかかった。キューバ大使館にまで電話したのに。今回も沖縄県事務所から県人会など、いろいろなところに電話しまくり、都内の沖縄料理店をうろつき、情報収集している。

 

クラシックコレクションの“ショパン

最近、気に入って聞いている。歌と同じで、やはりピアノにも感情だとかそういうものが練り込まれていくのを感じる。歌に対する意識が強くなるほど、他の楽器も楽しめるようになったと思う。

 

STONP

強く生き生きとしたリズムは生命力だ(昨年来日したときも会報に出ましたが、見た人いるのかな…?)

 

THE BOOM

素直に歌いたいという思いをかきたてられる。

 

BON JOVI

世界のスケールを見せつけられる。