一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

合宿特集Ⅳ    最終日

合宿特集Ⅳ  

最終日

テキスト10

発表会ラストコメント

 

テキスト10

 

◆グループ発表

 

■絶望のエチュード

●息のエチュード 静寂→静かなハーモニー 息から声 無から有へ

ゆっくりそして、早くしていく

(ハ-、ハ-、ハ-、ハ-)(ハハ、ハハ、ハハ、ハハ、)(ハハハハ、ハハハハ、ハハハハ、ハハハハ)

はじめにもどる

ゆっくり

(ハ-、ハ-、ハ-、ハ-)

薄く、声にかえていく

ハ-、ハ-、ハ-、ハ-=生まれたての声、無垢な声

●悲しみのエチュ-ド『無垢な魂』に悲しみが起きる 感情の誕生

(おかしい、憎い、哀しい、つらい)音色暗くなる

●絶望のエチュ-ド

 『無垢な魂』にどうしようもない絶望がおとづれる

動作=両手で頭を抱えて、へたりこむ

 

ひとりうめき声をあげてうずくまる

次々にひとりずつうめき声をあげてうずくまる

うめき声を出し続ける

●苦悩のエチュード

●憎しみのエチュード

半円状になっている

その中心にひとりでる

残り全員はそのひとりに向かって指さしながら『憎しみ、非難、あざ笑い』の声をぶつける

『かごめかごめ』状態

真ん中のひとりは『憎しみの声』を浴びながら、苦悩のエチュード

 

真ん中にいた人、半円に加わり 憎しみのエチュード

代わってひとり 苦悩のエチュード

 

全員が一回真ん中になる

 

最後のひとりが終わり『憎しみのエチュード』の列に戻ったなら

全員が苦悩のエチュードへ変わり、最後に絶叫

へたりこむ

 

 

■モノトーク

全員へたりこんだまま

 

その内のひとりゆっくりと起き上がって中央に

モノトークをする

 

 タイトル『AMORE -私の愛』

 

戻ったときはふっきれている

ふっきれたポーズで

 

モノトークをまだしてない人はずっとうずくまっている

 

全員終了 全員がふっきれた表情

 

■希望のエチュード

●息のエチュード 静寂→静かなハーモニー 息から声 無から有へ

ゆっくりそして、早くしていく

(ハ-、ハ-、ハ-、ハ-)

(ハハ、ハハ、ハハ、ハハ、)

(ハハハハ、ハハハハ、ハハハハ、ハハハハ)

はじめにもどる

ゆっくり

(ハ-、ハ-、ハ-、ハ-)

薄く、声にかえていく

ハ-、ハ-、ハ-、ハ-=生まれたての声、無垢な声

●喜びのエチュード

 『無垢な魂』に喜びが起きる

 音色明るく

●希望のエチュード

●やさしさのエチュード

半円状になっている

その中心にひとりでる

残り全員はそのひとりに両手を差し出しながら『やさしさ、愛の声』を送る

真ん中のひとりは『やさしさ、愛の声』を浴びながら、希望のエチュード

 

真ん中にいた人、半円に加わり やさしさのエチュード

代わってひとり 希望のエチュード

 

全員が一回真ん中になる

 

最後のひとりが終わり『やさしさのエチュード』の列に戻ったなら手をつなぎ

全員が希望のエチュードへ変わり、最後に絶叫

 

 

 

 

 

発表会ラストコメント

 

このメニュに関して解説をしておきます。コメントは、ゆっくりと皆のものを聞きたかったので、先につくっておきました。今回、皆の作品に対するコメントはありません。いつまでも人に言われるのではなくて、自分のなかで判断してください。私の解説のなかからいろいろ汲み取ってみてください。今までやったこと、3日間、何をやったのかということを、その前のプロセスからもう一度、頭のなかに入れておいて、考えて欲しいということで、少し時間をとります。使わなかったものの意味づけも確認しておきたいと思います。

 

 結局、3日間、楽しんでもらったかどうかということが最終的な答えです。アーティストとして、です。やっている方が楽しかったのか、見ている方が楽しかったのか、どちらが楽しかったのか、どうでしょう。どちらも結構、キツかったという場合もあるでしょう。それが一つですね。

 

 こういうところで集約した作品を出すと、力があろうがなかろうが、とにかく一所懸命やっているものに対して人の心は動くわけで、そのレベルのことは毎年できていることなのです。それで私は評価をしないということです。評価をしないということは、ダメとかどうこうではなくて、それでよいとか悪いとか、そういう次元ではやりたくないわけです。

 

 今回のメニュの組み立てをもう一度、戻って考えてください。合宿でやったことを年間を通じて、あるいは生涯を通じて皆のなかでまとまるようにしていってください。これも材料を渡していくという形のレクチャーです。皆の方は一応、終わったので、ここからは研究所の作品解説、あるいはそのまま作品だと思ってください。

 

 

 昨年に続きこのメニュを選んだのは、こちらで考えたギリギリの線です。与えられた3日間で何でできるかと考えたところのギリギリの作品です。研究所のトレーナー、スタッフ、私、研究所の今の体制、それから参加メンバーの一人ひとりのことを考えてのことです。まず肉声ということを言いました。音声、音から捉えたところの肉声、それからことばのなかに入っている想い、この二つをとり出すことです。

 

 歌においては皆の力を3日間で引き出せる力は私にはありません。皆のなかにも、まだあるものではないと思います。その確認を終えて、それから心と体と技術とが一体化する感覚です。いつも嘘のことはやりたくない。本当のことをやろうとしたら、私の力が足らないのかもしれないですが、研究所が接点をつけようとして本物とか真実とか皆がこの世界に足を踏み出したという感覚をつけるのだと、このメニュで本当にギリギリです。

 

 だから、皆のなかでは最高のメニュです。ただ、この3日間で歌を歌いに来たのにとか発声をやりに来たのにという方にはおわびします。いろいろなメニュの可能性もありましたが、そういう判断で進めました。

 

 

 それからいつも言っているのは、こういう状態になったときにもう一度、人の声とか音楽を聞いてみて、自分には入っているつもりだったものを、つもりではなくて、もう一度、本当に入れてみようということです。もう何回も言っていますが、今回の合宿前に、皆の方に配布した資料で、すべてわかってもらいたい。研究所としても皆としても、ここに来る前に一つの戦いは終わっています。これを忘れないでください。

 

 やってこなかった人もいるかもしれないですが、やってきた人にとっては最大の戦いはここに来るまでに終わっています。これはステージをもつ歌い手でも同じです。ステージが戦いだとしても、そこで何もなく戦える人はいないわけです。当然、そのまえに戦いがある。

 だから、一つの戦いに終わったところからスタートしたということに気づいてください。それから二つ目は、この3日間です。いろいろな事情があって充分に用意できなかった人もいますけれど、第二の戦いが始まって、一区切ついたところです。それから三つ目は、これから始まったと、明日、明後日に対して始まったということが言えると思います。

 

 だいたい人によりますが、この3日間で10歳くらい若返ったのではないかと思います。20歳くらい若返った人もいますね。顔も若返っている人もいて、結構危ない精神状態になると思いますが、むちゃをしないように、自分のなかに入り込んでいってしまったりしないようにしてください。

 

 こういう語り部や、団体競技をやるよりは、歌のことをやりたいのです。トレーナーも歌ってもらったあと、歌唱の指導もやって欲しい。私もどちらかというと、研究所としてそちらの方をやりたいですが、それをやる前の手続きというものがあるということを覚えてください。

 

 その、手続きは私も踏んでいます。先ほどまで向こうで、これをやり終わった後に言わなければいけないことばをまとめていたわけです。全部が一つの流れになっていることを一つひとつ材料が汲み上げられていることを、自分だけのレベルでよいから捉えてください。もしかすると、何年か経ったら、わかってもらえるかもしれないです。

 それから一流のもの、受け継がれたものをなるべく汲み取って欲しいということでも、材料を提供しました。

 

 

 

 

「星の王子様」

 

 「星の王子様」のプリントを配ったと思います。たぶん、意味は何もわからなかったと思いますが、好きとか嫌いとか、そういうレベルで読んできた人もいるし、何日も読んだという人もいるし、あるいは覚えてきた人もいるようです。

 

 今回のメニュは、リブ・フォエバーということば、そして、この「星の王子様」のテーマです。それは、これそのものがテーマというよりも、ここでやった歌でも他のものでも、一流のもの、受け継がれたもの、それを歌の場合は時間と音の世界で勝負しますけれど、同じものだということです。

 

 その意味が書かれているものを使った方が、まとめやすいだろうということで、組み立ててみました。自分なりに、読み直してみてください。私は朗読が商売ではないので、それから時間が差し迫っていますので、早めに読んでいきます。解釈のヒントだけ与えておきます。

 

 あとは自分でもっとふくらませてください。ただ私が言うよりも深い意味がつかめると思います。名作、一流の作品は、だから世界に普及するし、生き残るのです。皆がそれぞれに深くできると思います。

 

 

『そこにきつねが現れました。

こんにちは、ときつねが、言いました。

こんにちは、と王子様は、ていねいに答えて振り向きました。』

 

何も見えません。見えた人には見えていますが、何も見えません。

 

『ここだよ、りんごの木の下だよ』

 

私はいつもこれを言っているつもりですけれど。見えない人にはいつまでも見えないのです。

 

『キツネの声が言いました。すると王子様は君誰だい、とてもきれいな風をしてるじゃない、と言いました。そこで仕方がないから、オレ、キツネだよとキツネは言いました。』

 

とても身につまされます。皆と逆の立場になる場合もありますけれど。

 

『僕と遊ばないかい、僕本当に楽しんだから、と王子様はキツネに言いました。』

 

一つ決め手のセリフがあります。『オレ、あんたと遊ばないよ』と僕は言うわけです。あるいは歌と考えてください。『飼い慣らされちゃいないんだから。』飼い慣らすというのもキーワードです。どういう意味か、後で出てくると思います。

 

『とキツネが言いました。飼い慣らすって、それ何のことだい。』

 

ちょっと途中を省きます。

 

『よく忘れられていることだがね。仲よくなるということ。』

 

僕と仲よくなったよとか、そんなものではないですよ。あくまでイマジネーションを働かせてください。わかりにくいからもう一回、述べます。「仲よくなる」というのはどういうことかということです。

 

『うん、そうだと思う。オレの目から見ると、あんたはまだ、今じゃ他の10万もの男の子と別に変わりがないさ。男の子だもの、だからオレは、あんたがいなくてもいいんだ。あんたもやっぱりオレがいなくってもいいんだ。』

 

いろいろな意味で捉えていってください。

 

『あんたの目から見ると、オレは10万ものキツネと同じだ、だからあんたがオレを飼い慣らすとオレたちはお互いに離れていられなくなる。』

 

「僕と離れていられなくなるよ」そんな意味ですね。僕と考えるよりは研究所、あるいは歌と置き換えてください。

 

『あんたはオレにとって、この世でたった一人の人になるし、オレはあんたにとってかけがえのないものになる。』

 

ただ、そう「ある」ということではないですね。「なる」、つまりその前に飼い慣らす、仲よくなる手続きがある。何だか話が少しわかりかけたようですね、王子様は少し考え込みます。自分が来た星のことは、花が一つあって、その花が僕になついていたようだった。

キツネとは初めての出会いなので、わからない、自分が今までの過去を振り返って、あの星に花があった、この花は自分になっていた。それを思い出します。飼い慣らすというときに、仲よくなることを考えて、そう浮かんだのでしょう。キツネはまた言いました。

 

『オレは同じことをして暮らしているよ。オレがにわとりを追いかけると人間のヤツがオレを追いかける。にわとりがみんな似たり寄ったりならば、人間もまた、似たり寄ったりなんだ。オレは少々、対立してやるよ。だけどもしあんたがオレと仲よくしてくれたら、オレはお日さまに当たったような気持ちになって、暮らしていけるんだ。足音だって、今日まで聞いていたのと違ったのが聞けるんだ。他の足音がすると、オレは穴のなかに引っ込んでしまう。でも、あんたの足音がすると、オレは音楽でも聞いているように気持ちになる。穴の外にはい出すだろうね。それからアレッ見なさい。あの向こうに見える麦畑はどうだい、オレはパンなんか食いはしない。麦なんかなんにもなりゃしない。だから麦畑なんか見たところで、思い出すことなんか何にもありゃしないよ。それどころか、オレはあれを見ると気がふさぐんだ。だけどあんたの(王子様の)その金髪の黄色い髪は美しいな。あんたがオレと仲よくしてくれたらオレには、そいつ(麦畑)がすばらしいものに見えるだろう。金色の麦を見るとあんたを思い出すだろう。それに麦を吹く風の音もオレにはうれしいだろうな。キツネは黙って王子様の顔をじっと見ていました。何ならオレと仲よくしておくれよ。とキツネは言いました。王子様は言います。僕はとても仲よくなりたいんだよ、だけど僕、あまり暇がないんだ。友だちを見つけなきゃならないし、それにしなければならないことがたくさんあるのでね。キツネは言います。自分のものにしてしまったことじゃなきゃ何にもわかりゃしないよ。人間ってヤツは、今じゃもう何もわかる暇はないんだ。商人のお店で、できあいの品物を買っているんだ。友だちが売りものにしている商人なんか、ありゃあしないんだから。人間のヤツ、今じゃ友だちなんかもっていやしないんだ。あんたが友だちが欲しいのなら、オレと仲よくするんだ。』

 

うちの店(研究所)にもよく来ます。声が欲しいんです。いくらですか、何日で身につきますか。この歌をどう歌うのか教えてくださいよってね。

 

『キツネが答えました。辛抱が大事だよ。オレと仲よくするためにどうしたらいいかということ。最初はオレから少し離れてこんなふうにふたの中に座るんだ。オレはあんたをちょいちょい横目で見る。』

 

皆さんも人と初めて会うとき、同じだと思います。恋人と会ったとき、あるいは友だちと知り合うときです。『あんたは何も言わない、それもことばってやつが勘違いのもとだ。』これはよく言っています。

 ことばということ、皆も自分のモノトークをもう一度、よく読んでみてください。自分のことばのなかで束縛されている。あるいは、そこで突き詰めなければいけないのに、そこで止まってしまって次に移ってしまったり、他のところに目を向けたりしたことが、ずいぶんと、あるように思います。

 それは個人の問題なので、ことばというやつが勘違いなのです。一日一日経っていくうちに、最初はことばは交さないわけです。横目でチラチラやる。何も言わない。辛抱が大事だということです。あなたはだんだん近いところに来て座れるようになる。ことばはないところから生じ、やがてことばを交わすようになり、そしてもっと親しくなると、ことばはまたいらなくなります。

 

『ある日、王子様はまたやってきました。するとキツネが言いました。いつも同じ時刻にやってくる方がいいんだ。(手続きだから。)あんたが午後4時にやってくるとすると、オレ3時にはもううれしくなりだすってもんだ。そして時刻が経つにつれて、オレはうれしくなるだろう。4時にはもうオチオチしていられなくなって、オレは幸福のありがたさを身にしみて思う。

 

(好きな人と待ち合わせするときのことを考えればわかると思います。)

 

だけどもし、あんたがいつも構わずやってきて、いつあんたを待つ気持ちになっていいのか、てんでわかりゃしない。

 

(パッと手に入ってしまっても困るわけです。)

 

きまりがいるんだ。

 

(きまりというのも一つのキーワードです。)

 

きまりってそれ何だい、と王子様は言います。そいつがまた、とかくいいかげんにされているやつだ。キツネが答えます。そいつがあればこそ、一つの日が他の日と違うんだし、一つの時間が他の時間と違うわけだ。

 

(私たちの時間は、一つの時間を違う時間にする仕事です。そのなかでは普通に過ごしているわけです。)

 

オレを追いかける狩人だって、やっぱりきまりがあって、木曜日は村で娘たちと踊るから、木曜というのがオレにはすばらしいんだ。木曜になるとオレはぶどう畑まで出ていくよ。だけど狩人たちがいつでも構わず踊るのだったら、どんなときも同じで、オレは休暇なんかなくなってしまう。

 

(概略をとって話します。仲よしになるプロセスがありますが、時間の関係で省略します。王子様の星の話に戻ります。)

 

もう一度、バラの花を見ててごらんよ。

 

(今回は、そういうプロセスを踏んだはずです。)

 

あなたの花が世の中に一つしかないことがわかるのなら、それからあんたがオレにさよならを言いに、もう一度ここに戻ってきた。オレは、お土産に一つ、秘密を贈り物にするよ。

 

(この秘密の方が本当の商品といっては何ですが、大切なものだと思います。)

 

そこで王子様は、もう一度、バラの花を見に行きます。そしてこう言いました。

 

(バラに向かって言うわけです。王子様の星のバラではなく、ここの星のバラです。)

 

あんたたち僕のバラとはまるっきり違うよ。それではただ咲いているだけじゃないか。誰もあんたたちとは仲よくしなかったし、あんたたちの方でも誰とも仲よくしなかったんだからね。僕が初めてでくわした自分のキツネと同じさ。

 

(もうキツネのことばがわかっているわけです。)

 

あのキツネははじめ、10万ものキツネと同じだった。だけど今では、もう僕の友だちになっているんだ。この世に一匹しかいないキツネなんだ。そう言われて、バラの花はたいそうきまり悪がりました。王子様は言います。あんたたちは美しいけれど、ただ咲いているだけなんだ。あんたたちのために死ぬ気になんかなれないよ。

 

(なぜだかわかりますよね。)

 

それは僕の花も何でもなく、そばを通っていく人が見たら、あんたたちと同じ花だと思うかもしれない。

 

(別に特別な花ではないわけです。ただ何が特別かというと、)

 

だけどあの一輪の花が僕には、あんたたちみんなよりも大切なんだ。だって、僕が水をかけた花なのだからね。覆いガラスだってかけてやったんだ。ついたてで風に当たらないようにだってしてやったんだからね。毛虫の2つ3つは、チョウになるように殺さずにおいたけれど。

 

(そんなに手数をかけたということです。)

 

花なんだからね。不平も聞いてやったし、自慢話も聞いてやったし、黙っているならいるで、どうしているんだろうと、ときには聞き耳をたててやって、そうしてきた花なんだからね。僕のものになった花なんだから。こういって王子様はキツネのところへ戻ってきました。じゃあさようならと王子様は言いました。さようならとキツネが言いました。

 

(キツネが秘密を教えてくれます。ここで初めて教えてくれます。)

 

さっきの秘密を言おうかね。なに、何でもないことだよ。心で見なくては、ものごとはよく見えないということさ。肝心なことは目に見えないんだよ。

 

(心で見なければものごとは見えないということです。)

 

肝心なことは目に見えないと王子様は忘れないように繰り返します。あんたのバラの花をとても大切に思っているのは、そのバラのために暇つぶしをしたからなんだよ。

 

(暇つぶし…決してよいことばのようには思われていませんが、大切なことばです。暇つぶしをしたからだ、飼い慣らす、仲よくなる、手続き、暇つぶしをした、今、4つのことばを言いました。)

 

僕が僕のバラの花をとても大切に思っているのは、王子様は忘れないように言いました。キツネは言いました。人間というのは、この大切なことを忘れているんで、だけれど、あんたはこのことを忘れてはいけない。面倒を見た相手にはいつまでも責任があるんだ。守らなきゃならないんだ。バラの花との約束を。

 

(きまりということばが出ました。約束ということばも出ました。)

 

僕はあの花と、バラの花との約束を守らなきゃ、王子様は忘れないように繰り返しました。』

 

 

 

皆にプリントしたのは、このところです。大切なところです。

これと、今回のリブ・フォエバーのメニュの組み立てとが結びつきましたか。

 

あの人わかってないんだろうなと、人のことを見ていても仕方がないですが、それを自分のこととして喚起できればよいと思います。自分もできていないということはわかっていないということなのに、それを忘れているのです。

 

ただ皆の方も、この合宿、あるいはいつものレッスンでもよいと思います。それが、何でそういうふうに組み立てられているのかを考えてみてください。

 

いろいろなメニューがあります。そのなかでいつも、やはりギリギリで私は選んでいます。ギリギリの時間をギリギリに使っています。この時間も含めてです。最後に交流会もやりたいし、記念写真もとりたいですが、そういうものも捨ててやっています。

 

 そうして選ばれるものが何かということです。選ぶってことは、他を捨てること、最初に合宿に来なければ何をしているかと聞きましたね。私も仕事や人との出会いを捨て、ここに皆と過ごすことを選んで来た。いつも、選んでいます。

 

 すべて、組み立てられているのに、もしかして皆の方が拒んでいるとしか思えない場合もあります。自分が成長するために、時間とお金をかけてきて、何らかの戦いに来ているわけです。自分や研究所をつぶし役立たなくする戦いをしているような人もいます。

 

 

 ここと同じだけの用意は、いつものメニューでもしています。合宿だからということで、特別なことをやっているつもりではありません。アテンダンスシートの提出も一流作品をみることも求めています。それを今回は3日間にコンパクトにしているだけです。合宿の組み立てで、凝縮しただけです。

 

 いつも同じことを何回も言っています。私自身は、同じことを同じレベルで終わらせないために、皆よりも会報にたくさん書いています。なぜ、こういうものがあるのかということも、今まで何回も言ってきています。苦悩があって絶望があって、何で毎年、このメニュばかりをやらなければいけないんだと思います。

 

 本当は歌のメニューをやりたいです。ただ、微笑みが出せない。希望に届かない。先にいかない。

 それは、皆だけの課題ではないです。私の課題でもトレーナー、スタッフの課題でもあります。

 

パヴァロッティのように歌えるかどうかということではないのです。ジョルジアみたいな顔ができるかということです。だから言わせてもらうと、ああいう顔ができるまでは歌えていないということです。

 

 私も皆に向かって、先生として対しているわけがない、皆、自分たちはわかっているんだから教えてやるといって、やっているのではないです。皆より活動し発信している、それから皆よりも歩もうとして努力している。そのキャリアの差にすぎない。

 

 トレーニングの大切な時間をものにするには、何回も来て、30回目でわかること、100回目でわかることがある。何回も来るということは一つの学び方です。それから何回も来た人から学ぶこともあります。何年もやっている人からも学べます。何もないところから自分で気づこうとすることもできるし、自分でそれに気づいて取り入れていけばよい。

 

 ところが皆、1回みてわかった気になる。できもしないのに、それなら単に高慢ちきな観客にすぎません。皆が100回でやめるところを1000回やって、ものにした人だけが残っていくのです。

一回でわからない、できないから、人のせいにする、そんな人もいるかもしれません。

 

 

 

 昼休みに私は、食堂の庭の釜めしの花壇のことを述べました。「水」という詩のことも言いました。多くの人はうなづいているだけです。自分で見て、触って感じた人だけが、何かをものにしていくことができるのです。

 

 健闘する人は、私のモチーフのなかで最後に言いましたね。健闘する人を認めるというところ、今のところ私は戦っている人に対して、自分の力を伝えたり、そこで一緒に戦っているつもりなので、この活動をやっています。

 

 だから、考えて欲しいことは、ここにくるまえまでの戦いは、皆にとって何だったかということです。それがノートに残っているはずです。日常を日記でつけている人もいます。いろいろなことをやっている。ただノートのつけ方を、これまでああいうふうにはまとめてこなかった、

 

 まとめたら違うことに気づいた。それだったらそこから学べばよいわけです。日頃、レッスン上で誰よりもアテンダンスシートをたくさん書いて出している人は書きやすかったはずです。

 

自分から学ばずして何から学ぶのですか。そうでなければ、まだ深いところの問いができていないということです。そしてそのノートのなかで、もしかすると泣いたり煮つまって書けなかったり、いろいろなことを考えたり苦しんだりしてきたかもしれない。でも一つの作品の原型がもてたわけです。

 

 

 3つの戦いがあるといいました。3つ目の戦いは、まだこれからだからどうなるかわからないです。これをどう受け止めるかです。

 

 ただ2つ目の戦いまでは終わっています。この3日間に関しては、もう取り返しがつかないです。1つ目の戦いのなかで泣いて苦しんで、この3日間で体調を崩し声で、結果を出せなかった、だから負けたのかというと、そうではないです。

 

 そこまでに手続きを踏んでいるわけです。今皆に大切なのは、手続きを踏むことです。

 そしたらそこで泣いたこと、誰よりも泣いて、誰よりも自分の作品を想ってやったことが下地になってきます。

 

 いつも言いますね。10回で覚えるより1000回で覚える方が手続きとしては大切だということです。同じ歌詞を言うのに1万回、あるいはもっと深いところでそれを読めること、そしたら一度くらいはどうでもよいわけです。今日なんか、声が全然、出ていないわけです。だから、伝わっていなかったわけではない。

 

 神様が私に、皆が求める声をこの3日間で差し上げられるようにしてくれて、ここで、すごい声をもらった、それは結果ですよね。その結果だけを与えられてうれしいですか。その声が買いたいか、じゃあ誰かの声を○○君にあげる、◯◯君の声欲しい人、2万円です、よいですか。ついでに体も顔もあげる、さあどうします?

 

 合宿にしろ研究所にしろ、いつまでもあると思わないでください。私も役割があり、はざまにおります。結局、誰もが自分に大切な一つのことを成すためには、一人ひとりで歩んでいくということです。ただ、よい戦いをして欲しい、今年、モノトークでセリフができたら、今度はそれを歌で、その濃さよりももっと濃い歌を歌っていかないと困るわけです。

 

 せっかくそれを感じたのですから。笑顔でたどり着くまでには、もっともっとかかると思います。そこのプロセスをきちっととりたいです。そのために、なるべく嘘をなくしていきたい。

 

 昨年と同じメニュでやったのも、昨年できたような気がして、やはり嘘があるからです。今回でも、やればやるほど自分のなかで嘘がわかってくるわけです。そしたら伝わらなくなってきます。ギリギリでやることです。睡眠時間を削ってギリギリでやっているわけです。

 

 皆はもっとすごいことをやってくれよと言うかもしれませんが、ギリギリでできることをやっていくしかない。そのことの結果、その笑顔が自分のものになるわけです。10年後まで、やるかどうかわからない。けれどやりたい人はやっていくしかないわけです。やった人も最初は皆と何も変わらなかったはずです。集団でなかに入ってやれる人はよいです。それが傍観だけで終わってしまってはつまらないです。

 

 見ていておもしろい、それはおもしろいです。それだけでよいのかということです。それでよい人はそれでよいのですが、今日の日もまた、あなたの一生を凝縮しているのです。帰ってしまっても忘れないで欲しい。

 

 リブ・フォエバーをもっと考えてください。答えはすべて、自分のなかにあります。歌でやっていけるとかいけないとか、いつも聞く人が多いのですが、そんな問いが出てくる間もなく、やっている人だけが出ていけるのです。やっている人はやっている、それだけの話で、やっていった方がよいというわけでも、やめた方がダメだとかということでもないということです。

 

 ただ、自分をきちっと見つめないとダメです。いろいろなことをやると、自分のわかっていると思っていることは全くの間違いだということがよくわかります。毎年わかってきます。自分のことは自分しかわからないのですが、こと、芸に関しては自分ほどわからないことが多いのです。

 

 

 こういうことをやっていくと、自分のなかには表現の種があるわけです。それを育てる手続きの一部は経験はしてきているわけです。感情のなか、身体のなかでもそうです。しかし、まだ眠っているわけです。もしかして、先祖代々、家系のなかで、いつもフラれている家系とか。それも血です。顔とか形とかそういうことだけを言っているわけではないです。運命的なものもあります。

 

 いろいろな意味で自分が何を愛してきたのか、何に涙をしてきたのかということもありますね。それを全部、否定しないで、人前で、では一体、何を表現するのかということです。

 声で表現する人間であることでは変わらないわけです。他の人にだって、底にあるものが見えてしまいます。人のことですから。その当人が深まって、どこで満足なのかということです。できる人はできるでよいでしょうけれど、伸びていかないし、そんな人に、声は必要ないと思います。

 

 

 あなたにはたぶん、忘れられないこと、言いたくないことが、まだまだたくさんあると思います。自分が人を憎んだとか傷つけたこととか、体と心に刻みこんでいるわけです。とにかくテーマは皆のなかにそのすべての心とともにあって、それがよいとか悪いとかを決めることもできない。

 

 掲げてある「水」を読みなさいと言いました。多数の人は、私からいわれたときに読もうと思ったのにも関わらず読んでいない。そんなものです。できることなのにやらないということは、できないことなのです。そのときを生きていないのです。そのときを生きるのは、そう思ったらきちんと読むこと、そのときをつくれるのはそのことの意味に気づくこと、私との差がその1分でさらについているのです。

 

 日常、流されているうちに、見失っていないか、だから自分が自分だと思っている像をどんどん創っていってしまっているわけです。私も今、ここにいるのが自分だとは思っていないです。しかし、これも自分で演出した自分です。認め、責任をとらなくてはなりません。

 

 あまり思っていませんが、この時間が多くなってくると、どんどん頬の皮がこわばってきて頬ばってきて、動かなくなるわけです。そこで歌えるかというと、自分のものが歌えなくなるわけです。だからこそ、それをきちっと見つめないといけないと思います。

 

 自分の姿は自分の目で見れません。ビデオで見てみて愕然とするわけです。だから鏡が必要です。鏡というのは別に見る鏡ではない。もっと内面的なものを見るために必要です。だから、研究所の場合は書くことをやっています。書くことがわかりやすいと思います。

 

 

 

 今回の前半の戦いが皆の鏡です。もう見たくないと思うかもしれない。自分の顔、声、歌だって見たくないと思うかもしれないけれど、その鏡を磨いていって欲しいと思います。曇っていませんか。ステージ実習で見たくないと思って、なぜ見せるのかというと、それが自分の人前での姿なわけです。その人が生きてきたものがそこに出ているわけで、そこにいて伝わるものにしか価値をもらえないわけです。

 

 だから、自分の姿は、書き綴られたノートに、自分のなかにもう育ててきたバラの花があるわけてす。それをきちっと見てくれということです。新しいバラを育てるよりも楽とはいいませんが、それが今の皆の顔をつくっています。

 

 ところどころの文字が、叫び声をあげています。皆も他の人のことばを聞いて、キュンとなったり涙がポロリと流れたりする、いろいろなことばがあります。そういうものを含めて、自分のなかに既に答はある、それを取り出す、そしてまた高めるのがとても大変だということです。

 

 だから自分が思っているものではなくて、思い込んで決めつけたものではなくて、やはり鏡に写ったものをきちっと見ること、そのためにリブ・フォエバー、星の王子様を見て欲しい。

 

 手続きというのはいろいろなものがあります。私も皆が苦しんでいるとき、苦しんでいます。そして皆が解放されて、それが本物であれば、こちらも息が楽になってくるわけです。

 

 そういうところのものをきちんと出すことです。皆も仕事をして疲れ、家に帰ってそのときに音楽を聞きたいと思う。その状態で入ってくる音楽だって本物です。ただそれで寝てしまう人と、そうなったときに息が深くなる、声を出したくなる、歌いたくなると思うかで、全く違うわけです。

 そういう人しか向いていません。

 

 それもプロセスです。それも手続きです。やれない人はやらなければいけない手続きです。バラの花に水をやらないと枯れてしまいます。そうしたら花が咲くのは見られないわけです。いつまで、人の花を見ているつもり、同じ手足がありながら。

 

 

 

 

 (では関西の方、バスへ行ってください。お疲れ様でした。)

 

彼らとは最後ではなくて、皆が会いたいときにまた会える人たちです。続けていくでしょう。プロセスが結果だということですから、友だちになろうと思って、ここで無理に親しくするのは、結果です。プロセスを楽しんで欲しいと思います。

 

トレーナーたちも皆よりもそのプロセスを楽しんできたし、これからもそうしていくことだと思います。人よりも時間と心をかけ、確かにしたものは、かけがえのない宝物です。それに接する時間こそ、自分が本当に自分であることに触れられるのですから。練習をやるべき人なのです。

 

 私も、自分の楽しめること、楽しんでいる自分がみたいので、ギリギリのところでやっているわけです。だから過去に積み上げたことの余力でやろうなどとは思わない。常に新しいものがそこに入ってこなければつまらない。幸い、やる気のある人たちに恵まれています。

で、ここは教えているなどと思っていない、また別のことで、意味づけをしています。

 

 

 人生を楽しめる人と楽しめない人があって、楽しめる人というのは手続きを愛するわけです。手続きすべてを愛します。花を買ってくるわけではないです。花を育てること、水をやること、肥料をやること、毛虫をとってやること、他の人なら嫌がることも含め、すべてを愛します。嫌なこともあります。

 

 人とつき合ってすべてをかける恋愛なら、フルコースですから嫌なものもたくさん入っているわけです。それと、よいところだけのつまみぐいとどちらを好むかということです。楽しめない人は、結果だけを愛するのです。

 

 プロのヴォーカリストになるとか歌を身につけるとか、幸せになりたい、結婚したいとかよい恋愛をしたいとか、いうのは、結果です。いくら、そのことを思っていても、相手をみつけたり、愛を育んでいくプロセスなしに結果は得られない。だからそのプロセスがどこに落ちてくるのかということの方を見なければいけないと思います。いろいろなプロセスがありますから、どの方法がよいということではないと思います。

 

 天の声で気分がよくなっていますが、日頃の行ないがよく、日々仕事に打ち込んで努め、いずれ天国に行って天の声が聞こえる人は、このなかにいると思いますし、そういう人が何を好き好んで地獄をみる必要があるのかとも思います。天国に行ける人はそのまま天国に行けばよいです。

 

 問題なのは、どうしても天国へ行けない人、それを待てない人です。別にこの世で悪いことをしたということではなく、そういう人はやはりこの世で天の声を聞いていくしかないです。その日に耳を澄まし、感覚を研いで聞いていくしかないわけです。それがアーティストかもしれません。

 

 そしたらギリギリのところでやることをやって、天の感じがこの世でつかめたら、きっとそういう声が出てくるのだろうということです。地獄の向こうに天国はあり、鬼になった人だけがいける。外からはそうみえるが、当人にはその二つはイコールであり、他の人と違うのはその高さ、深さだけです。

 

 だって、10万人が集まるコンサートで失敗したら地獄でしょう。自分の力でその地獄を天国に変えるしかない。そして、それは常に次の地獄をもっているのです。オリンピックの入賞で喜ぶ人と銀メダルで泣き叫ぶ人がいます。金メダルを獲ったときから、地獄しかなくなるのです。

 

 どんなに大きな花が咲くかということではなくて、目立たなくても種を見つけ育てたら何か咲くわけです。それを認めればよい話です。

 

 どうしても結果を先に求めてしまう商人になりがちです。何でも売ってくれるお店に行きたがります。誰でも買えるものなら、どうして欲しがるのでしょう。

 

 考えてみたら、神様は声帯をくれている、健康な体も。いろいろありますが、不幸な人を見てはじめて、健康な体をもらっていることに気づくわけで、それほど私たちはごうまんです。その上、声ですか。そのくらい自分が獲得していく楽しみを残しておきなさいよ。

 

 神様がなぜ、声だけよい声をくれなかったんだろうということです。最初からパヴァロッティとかカレーラスみたいに歌えたら、やはり皆、つまらなかったでしょう。

 彼らだって、あそこまで偉大になれなかったでしょう。

 

 プロセスを楽しめるかどうかは、今日を楽しめるかどうかです。私もトレーニングはキツイと思ったことはありますが、おもしろくないと思ったことはないです。キツイのは、自分が信じられるかどうかという一点のみです。その時間、できるのが待ち遠しかった、別なことで邪魔をされればされるほど、その時間は輝いています。そして力をつけるために何をすればよいかという手続きを楽しめばよいわけです。

 

 

 歌が入っていなければ感情が入っていなければ、そこまでのことは素人の劇団でもできます。今日やった、たぶん半分近くは、あるいは全部のこともできるかもしれない。当然のことながら、それでよい人はそれでよいと思います。そういう人たちは毎日毎日、積み重ねていかないです。だから次の年にそれと同じ密度をもった歌には、絶対ならないです。

 

 でも皆のなかにもならない人が多いですね、なぜならないか考えてみてもよいと思います。なりたいと思うのではなくて、それが結果として現れてくればよいわけです。単にうまいのでなく、すごくなりたいなら、すごい理由、すごい顔をつくりなさい。

 

 だから、いつも研究所では、ワークショップともエチュードともいっています。練習でよいわけです。バックグラウンドを大きくしていけばよいわけです。それだけのものを大きくしていったときに技術が必要になったら、その人は技術をつけようとするし、そのときには技術が身につくでしょう。

 

 ただそういう姿勢で自分を見つめていたら、今、何をやらなければいけないか、今、鬼にならなければいけないのか、どういう問いが必要なのかわかるかもしれない。それを邪魔する人はいないと思いますし、止められないと思います。求めていくこと自体が尊いことです。

 

 

 

 私が語るくらいにものごとを語れたら、私程度の技術は宿る、それだけです。だから考えて欲しいのは、合宿の1日目、2日目です。ちょっとした練習をやって、それっぽい声になって与えられることを表現してどこかでデビューでもすることが、今やったことよりも幸せなのかどうかということを考えてもらえればよいと思います。

 

 そうするともう少し、必要なプロセスが見えてくるような気がします。歌がうまくなるということは、うまくなるプロセスをとればよいのです。声が欲しいならその声を、愛することも同じです。一度しかない人生です。一度しかない時です。その暇つぶしをきちんとしてあげることです。

 

 必要な時間、待つことです。次がない歌かもしれない。いつまでも歌えるわけではない。プロセスとは、自分のモノトークをもっと深めていくことだと思ってください。大切なことは、それが大きなものになったときに、それを他の人にきちっと伝えていくには技術がいります。

 

 毎日、息を吐いていくような手続き、毎日、自分と歌とを関連づけていくようなトレーニングが必要です。そうすると、即興でここにと出てきても、歌えないはずの歌であっても、伝えるものというものが、つまり技術なり表現、表情、ことばといったその人のそこまでのプロセスが助けてくれます。皆からもいろいろなよいことばがありました。感覚を鋭くしていきましょう。

 

 

 

 舞台のカーテンコールになると、一人ひとりに拍手します。一人ひとり、見えている舞台であったというのが、案外よかったと思います。よい合宿だったと思わなくてもよいですが、よい自分であったと思えたらよいと思います。自分で自分に拍手できるようにしてください。

 

 私も見ているのは、研究所にあるわけではなく会報にあるわけでもなく、そこでおもしろいことを書いている自分にあるし、そこで何か書ける自分もあるということです。ここでつまらないことを言ってしまったり、ここでうまく皆に伝わらなかったら、やはり自分にグサッとささってくるし、そうしたら私の性分からいって、すぐやめてしまいます。だからやめないというのは、ギリギリでやっていかなければならないし、その自分を高めていくしかありません。ダメなときは苦しむしかないわけです。

 

 私のことをほとんど寝ないで大変という人がいますが、大変なことはそんなことでないのです。寝ないでやっていることのなかに自分である姿があるのです。自分が自分であることです。寝なくて自分であるなら、そんなに楽なことはない。

 

 手続きは準備しなければだめです。準備をします。来年もまたやろうと逃げない、また会おうということではない。歩んでいって欲しいです。そしたら、どこかで会えます。歩んでいる人は、少ないです。自分を見て歩んでいる人は、もっと少ないです。皆、歩んでいますが、足だけが動き、顔のしわだけが増えていく。よいしわを脳にも顔にも刻むことです。

 

 

 今日、私が一番心に残っていたのは、簡単なことばでしたが、「そんな日だから、そう、私は歌いたい」そんなふうになれればよいと思っています。「こういう風が吹いていた、なら私は口ずさんでいたよ、この歌を」って感じで、これは最近の私の境地です。

 

 自分のなかで自分に対して歌う部分もあるし、歌わないことが歌うことになる場合もあるし、安易に勝負しないことも大切なことでしょう。歌っているんだ、伝えているんだと思って、観客が集まっているんだと思っても、それだけのものではないと思います。そんな結果より、1日1日歳をとっていくわけで、その年齢をきちんと踏んでいって欲しいような気もします。

 

 

 

 それでは、だいたい皆のなかでつながりましたでしょうか。皆の先ほどの質問から、いろいろな理解の仕方があることがわかります。語られることがモノトークから、人に伝えられるものになったら、自分が自分として感じられる、伝わる。皆がステージ実習やライブ実習とかでやっているものより、今日ここで言ってみたものの方が、よほど密度が濃いし説得力があるわけです。

 

 10秒はOKです。それを3分でやりたいとか、ライブでもっと大きな世界を創って伝えたいということであれば、それなりの手続きを踏まなければならない。だから、手続きを踏んだ人だけが旅立てます。黙っていて、それが人に与えられるはずがありません。

 

 

 皆が研究所にいて、あるいはここにいくらかで交通費込みで声を買えるとしたらどうします。買えても絶対、人前で歌えないですよ。もっとお金持ちはたくさんいますから、どんな社長でも買いますよ。声は誰でもよくしたいし、歌は雑でもうまくなりたいのですから(そのソフトがフロッピーディスクで売れるものなら、私はきっと、ビル・ゲイツを抜くでしょう)。

 

 だから、そういうものはお金がいくらあっても手に入れられない。逆にお金がなくても手に入るものなのです。だから尊い。せっかくそのことで目覚めたのであれば、そういう花を、必ずしも歌とはいいませんが、きまりをきちっとつくって約束を守って育てて欲しいと思います。

 

 そういうものを一つの表現に凝縮したのが歌であり花です。表情トレーニングなどもありますが、毎日、鏡を見てニコと笑って、それだけでジョルジアの顔より魅力的な顔が五万人の前で、できますか。そしたら、どこで踏んでいけばよいのか。パヴァロッティの顔と近い顔をするときもあるでしょうか。

 

 

 あとは、深く読み込んで欲しい。本を読むとかいうこともありますけれど、何回も読んで耐えるもの、何年も残るものは、人間にとって深い意味があります。

 

 もしその人が一つ高いことをやろうとしたら、それにエネルギーを与えてくれます。街角でフォークを歌うからといって、回りの人のフォークを聞く必要はないでしょう。もっと、より魅きつけるものを聞いた方が、たぶんパワーが凝縮していくと思います。

 

 一つのことで10コを語っている人もいる。一つのことで一つしか語れない人もいるのですから、表現を志す場合は、一つを固めて、自分を語っていっている人たちのものを受け継いでいけばよいと思います。それから後、自分がやればよい話です。

 

 先ほどのキツネの例でいうのなら、キツネと親しくなりたいといいながら、キツネを選ばない、キツネを愛さない、あるいは仲よくなろうといってキュッと首根っこをつかんで引き寄せて抱えたって、友だちになれますか。皆の歌や音楽との接し方は、まだそんな感じです。まず、離れて逃げない距離に、そっといること。そしたらやがて、仲よしになれる。手続きを踏まないといけないです。

 

 毎日来て何年もたって何もいわなくても仲よくなっている。他の人から見たら、何であの人仲よしなの、キツネがあんなになつくの、私が近づいたら逃げるのに、そこの差です。人と比べたり人をうらやむより、やれている人のプロセスに敬意を払いなさい。

 

 皆にとってもキツネが何だかわからないわけです。わからなくてもよいです。今がわかったら舞台をやって、今の舞台とは違うかもしれないでしょうが、そこで考えてみるとよいでしょう。そんなところかな。

 

 

 

 最後のバスが3時に出ます。最後に私が話して、終わりでは、ここが成り立たないので、リブ・フォエバー、もっている人いますか。締めましょう。

もっていない人は、合わせて繰り返せばよいです。

私のなかでもこれ以上、語ることはありません。

 

 今の研究所のなかでもギリギリです。また、とっぴな人たちが入ってくれば、とっぴなノウハウが出てくるかもしれないですが、だいたい人に必要なものといったら、こんなものではないかと思っています。 では、これが記念撮影だと思ってください。

 

 少し円になって、歌える人は前に出てください。歌えない人は少し下がってください。

 

 ことばというのはキーワードです。だからこのキーワードのなかで、今回の2回目までの課題、戦いです。来るまでの最初の戦い、2回目のこの合宿の戦い、そして、次の戦いのためにことばのなかに封じ込めてください。

 

 ここにまた戻ってくるという人がいますけれど、この地に来なくても、イマジネーションの世界でいつでも戻れるわけです。忘れたときには、戻って欲しい。そのキーワードです。この歌詞は。

 (リブ・フォエバー、一行ずつ回す)

 

 これに集約されていると思います。あまり努力とか根性とかを出したくない。努力したとか根性があるということではなくて、当人は楽しいわけです。手間暇をかけて、やることだからです。

 

 

 

 家庭菜園とか山登りとかでもそうでしょう。何でやるのか、回りから見たら苦しいだけのように見えても、本人には楽しいのです。「ご苦労なこっちゃ」と言われ、本人も「大変ですよ」って言いながら笑っていられる世界なのです。そのこと自体が苦しいのであれば、人前に立つこと自体が苦しいのであれば、自分の必要性が感じられないのであれば、もっと違うものが自分の心のなかにあって、そういう花を育てていく方がよいのかもしれません。

 

 いろいろな生き方があり、それでいろいろな才能がある。◯君の才能もあれば、◯◯君の才能もある。それが全部、開花しているわけではないです。時代流行、運やツキもある。それに動かされたくなければ、自分の世界をつくることでしょう。

 

 私だって、5年後、何をやっているかわからないです。私の場合は、2年後もわからないです。何もなくても、何もみえなくとも、何かあるとき、何かみえたときのために、自分の用意はしておきたい。何かを永遠に手に入れるとか入れないという結果のところで言うのではなくて、プロセスのところで言う。だから生きざまになってくるわけです。

 

 なんでプロの人って2時間3時間、寝ないでやれるのか、全世界を回って、歌い続けている人もいるわけです。それは、そこが自分のステージだからです。自分が自分と一致できるからです。皆が今日、声を与えられたら、回れますか? 

 

 全然、準備できていないでしょう。レパートリー30曲くらいありますか。このくらいで疲れて、体力、気力がありますか。そんな準備は、音楽始めて何年も経っているわけで、できているはずでしょう。そこでプロセスの差がでてきます。

 

 テニスのグラフの腕を与えられたとしても、普通の人ならたっていられないコンディションで試合に行く、どうしてその気力が出るか、完全に、相手を負かすことができる力が出せるか。それは、その腕を手に入れるプロセスでつけた力なのです。

 

 バラの花を買ってくる、それはあくまで人様の育てたもので、どこかの作品なのです。コンサートもチケットを買えばみられます。その世界の人たちにとってみれば、それは生きざまであって、日々のプロセスがつくっているわけです。

 

 だからオンして、リピートして欲しい。そのことをやれる感覚にしても、せっかく芽が出たのにそれを見ない、違うところに水をやっている人も多いわけです。そんなことを毎年やっていたらだめです。違いを見るのに見たくないところを見ないでどうするのか。虫がいるから育てるのをやめようというのと同じです。

 

 最後に、まだ他の班の人の顔などを、じっと見ていない人もいると思うので、輪になって一人ずつ、確認してみましょう。まだ私もよく見ていない人もいるので。少しずつ声を出してみてください。前に出て皆の声を浴びるまえに一人ずつ回ってみましょう。

 

 そして、最後にトレーナーにあいさつしましょう。抱き合ってもよいです。声をやりにきたのですから、最後に声を出して帰りましょう。

 

 ここまで、研究所の最後の課題ということで、私が読みました。皆がもう少しつぼみくらいになっていてくれたら、もっと違う形で出せるかもしれない、いずれは次の世界に行きたいと思っています。

 

 今回の課題は、これで最後です。

今日は、今日でまとめておくということです。

 

じゃあやりましょう。トレーナーの方で先導してもらって、

「あの声欲しいな、なりたいな」

とみんな、思ってもよいです。

 

「でもいらないな、自分は自分だと、あの顔はいらないなと、あの身体はいらないと…。

 みんなで。アー」