一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想1  25709字  707

レッスン感想1  707

 

無理して発声練習してはいけない。「痛くなりそうだな」という感覚があったら、早めに休み、少し間をおいてから練習を再開する。疲れをのどにためない。1フレーズごとにたっぷりと息を吸うこと。

 

メソッドがいろいろあるんだなぁと改めて思った。

私は、テキストも徐々に読んでいる段階なので、メソッドが何に効くのかよくわからない部分もあるが、母音の基本は改めて大切だと滑舌の悪い私は本当に思った。“ウ”は、今まで意識して口びるをつくりすぎていたなぁと反省した。

 

今日は体調が悪くて、キャンセルしようかと思うほどだった。しかし、1時間、声を出してびっくり。汗を流したこともあるのか、元気になってしまった!! 日頃の運動不足も含め、つくづく声を出すことのものすごさを思い知った。ワンフレーズ、“浜辺の歌”を歌ったが、声にしたとき、キィの高さに自分でおどろいた。このキィでワンコーラス歌ったら、高い音は今の体ではとれないはず。それに鋭かったが、柔らかさ、まるみがない。まだひびくところの捉え方が足りないのか。ただ、声はのどを全く空け、楽に出た(つもり)。ヴォイストレーニングってエライ!と思った。

 

ここのところは、考えることが多かった。自分が今やっていることは歌のためだと思い出した感じだ。トレーニングに首までどっぷりつかっていると、いつか、そんなことは忘れていた。歌は声だけではない。技術だけではないと思う。強弱、間、ことばの置き方などを含めたフレージング、構成、計算。そんなものを越えちゃうところの何か、その人独自の感覚、エナジー、オーラみたいなもの、空気の密度みたいなものが、すばらしい歌には現出すると思う。

 

声の音色をどれを使ってどう出すかというのもあるだろうし、センスみたいなものもあるだろう。もっともっと、感じていかないといけない、自分のものとして出せるようにしていかないといけない。やらなければいけないことがあると思う。歌のために。ステージ実習などもそうだが、福島先生のフレージングの授業で「できる」と思ったことができなかった(表現する意味で)ことが、私に強くそう思わせた。

 

原曲をコピーしただけでは皆、同じ色になるだけで何も出てこない。いいなと思うのは、冒険してみたり、自分のフレーズをつくっている人。自分の感覚を加えている人だ。「つかむ はなす」のフレーズの流れは、加速感→減速感(スウィング感)というリズムの流れを呼吸のなかでやること。このとき吐き切る。イメージ、音色を出すには、リラックスした状態で楽しんでやることも必要。凝縮したいのなら感情、体、声、すべてを傾ける。計算したらはずれる。

 

すごく高度な内容だった。考えたことは、まず詩なり文章は、①日本語の抑揚、その文の気持ちに素直に正しく読むと教わってきたこと。②では、歌のフレージングとしての表情のつけ方、ことばの立ち方(高低、強弱などプロミネンス)は、“語りの世界”とはメロディのある分だけ違うものなのか(先生が、音を線でとってイメージしながらとおっしゃったことも合わせて)ということだ。未だわからないが、教材を何回も聞いてみた。

 

たとえば“明日のために別れようね”は、お互いの明日のために別れた方がよいのだと決めたのだから、ことばのかかり方、気持ちの上でも“明日のために”別れる、という卓立になると思う。でも歌の上では“別れようね”の部分にハッキリ言うとか、強調するなどという手法が出ていると感じられた。これは難しい問題で、セリフとしても気持ちや前後の状況・感情で、「明日のために」が立つのか「別れようね」が立つのかは両方ある。これは、音楽的処理の上では、別の次元の問題なのか。それとも“明日のために”を言うために、前の部分で別の表現をしているのか。

 

歌の構造を考える。各文章の役割や盛り上がり方、その中での感情の表し方や自分の中の体の動き方を感じる。最初の一音のテンションをどうもっていくか、それをどうつなげるか。音で感情を聞いている人によませるということが、なかなか理解できない。感覚だけあって、実際はできていないという感じ。飾らないで歌うということをめざしたい。

 

「正しい声を育てる」トレーニングの総括的な説明。出しにくい音を出しやすくするためには、常に正しやすい中間音に立ち戻り、さらに厳しいチェックをする。中間音をさらに掘り下げていくことによって、体を強くする。コントロールできる音を中間音から一つずつ伸ばしていく。土俵の仕切り前のお相撲さんをよく観察してみる。間のとり方、動作、表情などにいろいろなヒントがある。

 

いろいろなことばを同じ胸のひびきで太く深く大きくとるトレーニング。音を伸ばしたり胸だけでとったり、深いところでとったり、自分のできているところ、できていないところをチェックする。

録音して聞いてみると、自分のことがよくわかる。とにかく今、ベストな状態で出せる音を見つけ、そのまわりの音を少しずつ自分のものにする。前からの課題…強く声を出そうとすると、のどがブルってしまうこと。高音になると、体をぬくクセがあること。今は低音。1オクターブを体を使って出せるようにしようと思っている。

 

胸声の強化。胸で今のところ5くらいの力しか使っていないところを、30くらいの割合で声にできるようにひびきのバランスをとっていく。そのことによって、30くらいの割合しかなかった頭のひびきが70くらいまでもっていくことができる。最終的には、胸で50、頭で50のひびきの割合をめざす。発声のときに、ウエストまわりがパッとふくらむ瞬間に息を胸の方に送るようにするのだが、自分の場合は前腹はあまり動かさずに横腹と、特に意識して動かすのは背腹の筋肉で、背腹を真後ろに引っ張るように動かし、同時に胸を持ち上げて左右に広げる。息は胸に上がってきてのどを通って口に達したときに口を動かして子音などの音にしていく。口やのどは待っている感じで、お腹だけで息を送る動きを妨げないようにする。

 

深い息を体の深いところで出すトレーニング。(イスに座って、お腹の動きを感じたい。出す、吸うの練習)。高い声は浅くなりやすいので、体の入りやすい低音から少しずつ音を上げて発声する。そうすると、声が浅くなるのを遅らせることができる。そうやって1オクターブの声をそろえられるようにする。“イ(I)”の発声のとき、ノドがブルブルとなる。前からの症状だけど…。のど、舌などに力が入ってしまうからではないだろうかと思っている。

 

クセになっているところもあるが、基本的にリラックスできないことと解放することができないことがいけないと思った。低いところのしぜんなひびき。こういう声を、いつでもとり出せなくてはと思った。全部、抜けないように力を抜く。歌うと、まだ力が入ってつくったような声になってしまう。先生が「オペラ歌手が大きく両手を広げたりしているのは、しぜんとそうなるので、それだけ体でとっているからです。」とおっしゃったときに、すごくイメージできて意味がわかった。知らないうちに、自分の声とかイメージが固定されないように注意する。

 

トレーナーは毎回、声を出す量が足りないとおっしゃいますが、本当にその通りです。ヴォーカルになりたいなんていっておきながら、基本のあたりまえの部分ができていないなんて。少し声を出して練習した気になってしまうけど、声を強化する前に声が出るようにすることが先なんだということ。今の私に合ったトレーニングのメニューをつくろうと思う。今まで何をしていたのかと後悔です。半年後に同じ思いをしないようにしようと思う。

 

1)展開、力の配分、緩急…出すところで効果的に出すためには、しめるところ、切るところでしっかりしめなければならない。ただ強く伸ばすことだけが盛り上がりではない。

2)音楽的要素と言語的要素…どちらも自由自在に。ピアフのように両者が限りなく一つに近い者もいる。

3)音色…常に深い息だけは流し続けることを忘れずに、声をさまざまに脚色してみる。

4)伝えること、表現すること…声も体も、すべてはこれがしたいためのもの。音楽だけではない、アーティストと呼べるものすべてにとって、もっとも大切なこと。☆

 

いくら声を大きくしてもダメで、集中力と気力が伴っていること。ただ音を流すのではなくて、伝えようとすること。そうすれば音声としても何か表現として出てくる。盛り上げるところでは線を見せること。立体的に見せること。そのためにも、歌う前からのイメージで小さく捉えないこと。

 

結局は、自分で得ていくしかない。いくらやり方だけ聞いてもだめ。目的…何の目的でそのトレーニングをやっているのか。それを明確にし、効率を上げる。「ハイ」と大きな声で言ってみたとき、だいたいみんな間違ってはいない。ただ、体がガチガチだったり息が吐けていなかったり、そのようなマイナス要因をとり除いていく。感動したものを何回でも聞いて研究してみる。「ハイ」でも伝える意思、人よりも抜きでようとする努力があるか。まだ音の住人になっていない。あらゆることを深く掘り下げなくては。

 

もっと深い息。もっと全身から。もっと聴き込むなど。ヴォーカリストは伝えることでしか活動が成り立たないという先生のことばが特に印象に残りました。非常にあたりまえのことなんですが、声を発するからには常にトレーニングでも伝える相手を想定しなくてはと思いました。これだけでも、普通に何も考えず発声練習するのとじゃ大違いでしょう。

 

最初にきちっと見えていないと伸びない。ヴォーカルは確率ではない。この時期に見えてこないとほとんどダメだから、見えておくこと(ほとんどの人が見えていない)。世の中のなるべく上から下から裏からよく見ないといけない。自分で苦労して得ていくしかない。(下手の鉄砲と宝くじの違い)体ができないのはいいが、全部吸収しないといけない。使う目的がはっきりしてると、早く伸びる←それをどう使うかを考える。自分で世界をつくっていく。そしてその先が見えていないといけない。

 

まず生きないといけない。伝えることがないと、自分のやっていることが意味がなくなることをわかること。種を宿す期間が必要。音楽が宿っていて何か足りないものがあるとき、それを足していくのはいいけど、音楽が宿っていなければどうしようもない。根からダメ。直感を磨くこと。先生がそうだといっても“それは違う”と思える精神を。冒険できるのは今しかない。間違いもなくレッスンしていこうというのは甘い。深まれば間違わなくなってくる。もっと形、型をはずして自由にやっていく。自分でしっかりやる。だらだらやってもしようがない。自分の作品をどうするか考える。ずーっとずっとそれを離さない人が結局、こういう表現を続けていけること。前に出てやる。人と同じことをやらない。人の後ろに隠れない。

 

フレーズ、曲を歌っていくときの、スピード、方向性、浮き沈みをつけていく。コースの全体が見えずに1メートル先しか見ないようなドライビングをしない。一つのフレーズにしても、一音一音で歌ってしまわないで、一つの勢い(スピード)をもってコースどりしていく。作品として成り立たせる。自分の手元にひっこめてしまうのでなく、前に出す。歌自体は前に立たさなくてはいけないということ。。

 

下手な鉄砲も撃ち続ければ命中率が上がる。宝くじは買い続けても投資に対する期待値は同じ。歌い手になるということは博打ではない。発砲の前にマトを見据える力、努力の方向を見据える力が大切。表現するという目的、というより欲求がなくては発声の手段を学んでも無駄。体内に音楽があり、それを表現する欲求(想い)があり、そのためのツールとして声がある。道具だけ磨いても使う目的がなければ無駄だということ。「伝える」という意志からのアプローチ→トレーニング←「声の型」という肉体からのアプローチ 他人の10倍間違えれば、2倍は正しくなれる。

 

カンツォーネのいろんな曲を聴き、ワンフレーズをことばで言ってみたあと、メロディをつけて言ってみた。ことば一つをお腹からの息にのせ言えなければ、いくらメロディをつけて言ってみても、ただ浮いてしまうだけだ。基本の線がないから糸の切れたタコの状態。

 

先生が「声を出すときには道をはずれなくてはいけない。声を出していくことは勇気のいることだ。車を運転して脇にそれ、思いっきりぶつかっていくようなものだ。でも、これは声のことだから、またやりなおせばよい。」と言っていた。私はその道をそれるという感覚がわからない。どういうことなのかわからないから、とにかく息にのせ、腹から声を出すことだけ意識していた。一つ思ったことは、この練習のとき発している声の高さというものが自分にとって一番、出しやすいところなのかということ。リキみすぎて高くなったり、腹の底から出そうとして低くなったりと、いつも不安定だということ。

 

私のイメージする声は村上進さんのような包み込むような声ではなく、エンゲルベルト・フンパーティングのように粘土をガラスの上において、ぎゅーっと伸ばしていったような声(例えが悪いだろうか)なのだが、のどを開きっぱなしで発声していると、イメージと違ってきてしまう。あと、思いっきり出そうとすると、体の支えがないこともわかる。イメージに体がついていかない。

 

歌う以前にことばをどれだけしっかりと言えるかということは、本当に大事だと思う。なかなかお腹から息に支えられた声と感情のあることばを一致させることはできない。それがトレーニングをしていくなかで、段々と近づいていくようにやっていくしかない。ことばのトレーニングの大切さを感じた。歌うことに必要なものはたくさんあるが、普段、何気なく使っていることばの発声をもっと意識しよう。意識しすぎてオペラ調のことばになってしまうときもあるが、いつも自分の声に耳を傾けることがよくなっていくことだと思う。

 

リズムも呼吸の一つ。歌っていないときの感覚を磨く。発声はバットのスイングと同じ。ミートの瞬間に調整することはできない。声を出す前の準備と声を出した後の回復こそが重要。その点は、筆を止めて書き直すことのできない書道にも似る。絵画のように塗りなおすことはできない。これは発声の面だけでなく、音楽が時間の経過(時間軸)を必要とする表現であることにも、深く関わっているように思う。こじんまりとまとめてはつまらない←→大きく動いてバラバラにしては意味がない。この二つを往復し続ける。基本と応用をつないでいく。大きな声を獲たとしても、それを活用するのはさらに難しい。誰でも重くて強力な武器を振り回せるわけではない。自分の身体にあった声を正しく制御することをめざす。

 

点でとらず線でとること。先生が「授業などで音程をとることをやるが、あれは音程をとれて譜面をみないで歌わなければ意味がない。でも、見ずに歌い自分が間違っていることに気づかないというのではだめだ。」と言っていた。

ここでのさまざまなレッスンはすべて、歌を歌うことにつながっていくことだから、レッスンそれぞれもつながりをもっていないとしようがないと思う。音程をとるようなレッスンは、歌の出だしやワンフレーズごとのきりかえのとき、ピタッとその音を出していけるか、そういうことに活かされていくと思う。今日はサンバのリズムを聞いている間、ずっと体を動かしていたので、声を出すときにとてもいい状態で出せた(できた、できないは別として)。

 

この1時間をステージ(本番)としたら、いつもベストの状態で臨まなくてはいけないのに、今までほんの軽い準備体操をして声を出していた。これではいかんと思った。スポーツでいえば、控え選手でウォーミングアップもせず交代してミスばかりし、やっと体があったまってきたという頃に、ベンチに下げられてしまうようなものだ。本当、ヴォイストレーニングってスポーツと同じだと思う。一回きりのステージに自分の一番いい状態で臨めるようにしていこう。

 

音声イメージというものが以前よりはできているかもしれないが、やはり全然わかっている内に入っていないというのが実感だと思う。しかも、そのあやふやな音声イメージさえも自分の体で息で表現できないことがくやしくてたまらなかった。気を取り直し、考えてみたが、息の流れをつかもうとする欲がまずなく、それはやはり大事さがわかっているようで実はわかっていないということに気づいた。表現に出てくる誰にでもわかる音の高低だけを捉えているということであり、そのぐらいの取り方で歌はすばらしい、すごいなどと言えないのではないかと自問している。盲目の者がどこに何があるというイメージを捉えられるように、音声イメージを創っていく。聞き取っていくことは並大抵のことではないと改めて知った。

 

ある独特の“におい”をかぐと心の奥底に眠っていたものをよびさますように(研究所に来ても、視覚的より嗅覚的なものがそこにいるという実感がもてる、不思議だ)、音にもそういった感覚のものが潜んでいるに違いないと思う。なかなかそれを感じることはできないが、この差(嗅覚と聴覚の差)、またはそういった感覚は何なのだろうか。嗅覚は年がら年中、かいでいるもの、音楽は量で比較すれば少ない。いろいろな音楽を聞くことがアプローチだというのはわかる。では、音楽におけるそういった感覚とは何なのか、これがわからない。つまり、これが音声イメージであり、それが自分の体で出せればそれを表現というのではないかと理解している。こういうトレーニングは、やってもやっても顕著に効果が現れるわけがないし、目に見えないものだから相当の忍耐が必要だと思う。心して努力したい。

 

今日は「ギリギリのところでやる」ことを考えてやった。前回、体が余っていると感じたからだ。キィもギリギリのところの方が色を出せるように思った。フレーズの配分、場面が変わるところとかをクッキリ出せるか、先生が聞いているのは声というよりもそっちなのだと、初めて知ったように思う。集約させるってこととか、メリハリ、盛り上がり、上昇感。声がなくてもそういう意識でやれば出せるはずだというのは本当かもしれない。まず、イメージがないんだと思うから。

 

プロはフレーズの食いつきが違って速くて、アマチュア、日本人は遅いっていう話も含めて思ったのは、まず呼吸に合わせること、そしてその呼吸、吐くテンポをもっと速くしていかなくてはということ。呼吸と声がズレないように、曲の流れとズレないように。トレーナーの歌を聞いても、テンポ感、その人の呼吸の流れができてくるのは、自分の呼吸に合ったところでやってるからだと思う。計算だけだと客にバレる。私の歌は浮いてこないから、そのへんの違いとか、メリハリとか、自分にはなくて先生にはあるものを見たように思う。最後に先生が「とにかく前に出すことだ」とおっしゃったが、VTRを見て、まさに一人よがりな、歌になっていない、自分一人のトレーニングのような自分の歌を聞いたので、耳が痛い。返すことばもない。

 

人の前に出ていくということは、かなりエネルギーがいる。今日は、アイコンタクトを特に意識するようなことをやった。「目は口ほどにものを言う」というが、本当にそうだ。その人の目の動き一つで見ている人をひきつけたり飽きさせたりしてしまうから恐ろしい。ジェスチャーを使ったり、表情をつくったり、いろいろやるが、結局、自分の中に伝えたい!! という強い気持ちがないと嘘くさくなってしまうようだ。ステージの上で、ただ話しているだけでだからどうなんだというようになってしまう。表現するということは難しいけれど楽しい。ひきすぎたら自己満足で終わってしまうし、かといって出すぎると見ている人がひいていってしまう。そのバランスは、自分で感じとっていくしかないようだ。(勝田特別)

 

日本には難しい歌がない!! そうそう歌えない曲を練習して歌いこなせるようになることで、上達していく。体の構えはいつも変わらない。深さがすべて。何かをつかんで歌うようにすること。

 

レッスンにおける受け身の状態をどうにか破りたいが、何をやっても無駄な気がしてしまうので、体づくりに専念しているが、このままでは100%、使いこなすことができないし、使うことに「喜び」を感じないだろうし喜びを感じることができないと持続しない。集中力の足りなさか、先生の言っていることは“言われてみればそうだ”的なものであり、決して自分自身に身についているものではないので、言われたときわかったような気になっても、レッスンが終わると抜けてしまうような気がする。結局できない、このくり返しである。研究所によりかかる姿勢を捨て、自分の育てていったものと、先生のを比べてみたりして、吸収していくような積極性が必要だ。

 

今までの感覚を捨てるということが自分の第一歩だと思い、今は言われた通りにやってみることが大事だと思うが、言われた通りやること自体、難しくてできない。逆に言えば、言われたことができればかなり進歩したということだろう。言われたこと…ああ、ほとんど忘れてしまった。もちろんことばでは覚えているが、そのときの感覚は体にわずかに残っているだけだ。それだけのことしか学べていないということ。では、それだけのこととは何か。体づくりの重要さ、これしかない。体ができなくては、何を言われてもできない。ヴォーカルとして頑張りたいのなら、体ができなくてはいけない。このことが頭を巡っている。だから初歩的ながら、方向性をしっかりと学んだだけでも価値のあるレッスンだったと思う。

 

英語になると「発音のしかた」に神経がいってしまうというのが今回よくわかった。みんなそれぞれ、発音のクセがもろに出てしまっていて、聞いていてすごく心地悪かった。「しぜんな呼吸でしぜんな発音」と言われればそうだと思うが、実際それをやるのはかなり難しいと思った。

 

日常しゃべっている日本語は、どの言語よりも息が浅く、口先だけで処理しているので、口、のど、息、体の使い方をすべて変えていかなければ、外国人と同じしぜんな発音にならない。それを考えると、何だか気が遠くなってしまう。でも何と言っても、根本は、どの先生もおっしゃっている呼吸だと思う。発声はもちろんのこと、間のとり方、強弱のメリハリなどもすべて呼吸をコントロールできるかどうかにかかってくる。一年先、二年先を見据えて、今はただひたすら、息を吐いていくしかない。

 

“自由に”表現するために、基本を充実させ、表現する前の準備を決して怠らないこと。自分の今のありのままをそのまま出すのは“本当に自由”ではない。練り込んでつくったものを舞台で本物の香りを出せてこそ、自由な表現になる。

 

先生に環境をつくってもらわないとできないというのは、幼い子どもというより赤ちゃんなのかなと思った。どんな環境でもできるというのが、とてもすごいことで大変なことで、それがプロなのかと思った。

 

声が“音”として聞こえるように。ピアノを浮かして弾いているようではダメということなど、とてもわかりやすかった。

 

ピアノの鍵盤をきちんと沈めて弾くように、一声一声、体のポジションにつけて発声するという例えは、イメージがわきやすくてためになった。先生が手本として示してくれた、口先だけの「ラララ」と、体についた「ラララ」の違いがわかりました。どうしても先生に「このトレーニング、この発声が正しい!」という答えを求めてしまう。何か唯一の正しい方法を示してもらって安心したいのだ。アーティストにあるまじき態度だ。

 

先生の言った「ことばは言ったそばから嘘になっていく」ということば、その場で聞いたときは「じゃあ、何を信じろっていうの?」と不安になってしまったが、家に戻ってよく考えてみたら、本当に深い意味を込めたことばだと思った。ことばは、その人のもつ考えやイメージの一部しか表わせないし、捉え方によったら、全く逆の意味になったりもする。結局、私が自分でよいものを聴き込んで、イメージやそれに向けてのトレーニング法をつくりあげていくしかないのだ。これは芸事。

やっているのは声楽じゃなく、ポップス。私はアーティストになるのだ。

 

私は、いろんな意味でいろんな表現でアテンダンスシートに媚びているようなところがある気がする。自分の反省や問題点ばかり全面に押し出すことによって、許しを得ようとしている気がする。その証拠に、具体的な改善方法を見い出そうとしていない。もっと自分の「今」や「内面」をきちんと恐がらずに見つめていかなくてはならない。

 

たとえば、やりたいことをやっていて壁にぶつかる“嫌だ、やりたくない”そんな壁にぶつかったときに本当の自分の心が問われる。自分の価値が問題になる。本当の自分に目を向け、前進しよう。

 

あっという間に過ぎ、今月は働いているかここにいるかのどちらかだった。ここにきて歌というものに対する考え方が180度近く変わった。「歌は心だ」とよく言っていたが、その心を歌に出すということがどんなに難しいかやればやるほど感じる。困難と思えるようなことはたくさんあるけど、やっぱり歌は素晴らしい。歌って何ていいんだろう、そういう気持ちにさせられる。歌を通していろんなことを気づいていく。それがとても楽しくおもしろい。声のある限り、叫んでいこう。

 

ここの研究生に対しての平等さはすごい。全く不当に感じることがない。グレードのふり方なんかも。努力して形にした分、その人が評価されるというのはあたりまえのことではない。どんなにすぐれた養成機関でも、間違うことや不正に感じたりすることはあるが、それが全くない。本当にきちんとしている。

 

ラッキーなことに、何人もの世界チャンプを出したトレーナーにボクシングをみてもらうことが多いのですが、ボクシングの話を一緒にしていて「ボクシングは呼吸とリズムだ」と言い切っていました。奇しくも先生が似たようなことをおっしゃっていた気がするので、不思議な気になりました。でも、私も踊りはつきつめて言えば、呼吸と間(リズム)だと思います。

 

レッスンが終わってから福島先生に「日本人の歌手と外国で認められているヴォーカリストの大きな違いは生々しさですか」と質問したのは、たとえばピアフの歌でピアフが歌っていく中で感きわまって「止めて!」と叫ぶのを、あのときのピアフの「止めて!」は、とても生々しく感じられました。

同じものを日本人が表現したら、より音符をなぞっているなという感じで、さらりと歌うのではないかと思います(結果として「止めて!」という気持ちが伝わらず、より表面的なものだけが伝わる)。その意味の“生々しい”ということです。ライブ感(聞いている人がその場にいるという感じ)。ちなみにスタッフのAレッスンはとても好きだったのに、なくなって残念です。

 

以前、トレーナーのレッスンで、あのトレーナーだったら、こう歌うだろう”というフレーズをやってくれたことがありましたが、“さすがだなぁ”と思いました。“体、息、声”をきちんとコントロールすることができれば、どんな歌い方でもできるのだということがよくわかりました。

 

“ここ的発声をする時間をつくって欲しい”という声を聞いたことがありますが、

“ここ的発声”というもの自体、存在しないものだと思うのですが。ここでやっているのは、“体、息、声”を結びつけること、主に体づくりであると思っています。そしてそれは、声楽と基本的に同じことで、トレーナーのレッスンだけが、ここのトレーニングではないと思うのです。

ここは、トレーナーの声ではなく、自分の声を見つけていく場だからです。先生にトレーニングを教わるのではなく、与えられたものから自分のトレーニングを自分で探していかなければいけないと思います。

 

以前、福島先生がサッチモのトランペットを聞いて、「この後、彼が何を歌いたいのかわかるだろう」とおっしゃったのをよく覚えている。サックスの息吐きに関して学んだことは、体が緩んでいなければ、全くあの強弱と音の長さは出せないということ。上半身の解放がいかに大切かわかる。しかし、テナーサックスは重いのに、本当にあの人たちってすごい…。

 

疑問に思ったり、何でなんだと思ったら、こんちくしょうと思った人の勝ちだ。そのとき、のほほんと過ごしてしまった人は、その場ではやり過ごせても後から見て何も得ていない場合が多い気がする。私のことだけど。

 

強さが欲しい。たとえば今、ぽんと海外に置き去りにされても、のほほんと生きていけるくらいのたくましさが欲しい。こんなにビクビクしていて臆病で、やっていけるのだろうか。それはもう、ヴォーカリストとしてとかではなく、人間としてのレベルだ。社会人として、ルールを守り、一人前以上のレベルで初めて、歌がどうだとか言えるんじゃないだろうか。何て甘えているんだろう。

 

個性(オリジナリティ)を出したいと思っても、人と同じテレビ番組をみ、新聞を読み雑誌を読み、曲を聴き旅行をし、という生活じゃ普通の人と大して変わらないことしかできないと思う。旅の仕方(日本でも外国でも)をみると、その人がどういうものに価値をおいているかわかる。旅ほど創造的なものはない。旅をつくっていける人は、人生もつくっていけると思う。私は私にしかできない旅をしていきたい。

 

黒人シンガーの歌を聞くたびに思っていた疑問。「あの、何とも言えない独特の声の張りというかひびきというか…あれは何だろう?」黒人の胸の中には、リードのような共鳴体のようなものがあるんじゃないのか…と思えるほどの。これこそが、体を使って出している声なのだろうかと、漠然と考えた。いろいろと声を聞くほどに疑問がわいてくる今日この頃…。

 

今まで自分が“聞く”姿勢が全くできていなかったことを思い知らされた。正に「え! そうだったの!! なんてこと?! OH MY GOD!!」何回叫んでも足りないくらい。私は単なる声のよしあし、発声のテクニック…そんな点ばかり聞き出そうと必死になっていたからだ。自分がやろうとしている歌を何もわかっていなかった。みんな書き直さなければならないほど。素直に、音に、歌に感動すればよいのだ。

 

最近、私はどうも涙もろくなってしまった。先日「ポギーとベス」を観に行って、ホールに入ってオーケストラの人たちを見ただけで目がうるんでしまう始末…。私には、初めて聞いたとき、また聞くたびに泣いてしまう曲か何曲かある。聞く意味も知らない頃、素直に感動できていたのだ。今度はそれを、しっかりとその何が感動させてくれるのかを探っていくことになるだろう。

 

今日、マリアカラスと中丸さんの「その日から」では、特に中丸さんの方は、それはそれは素敵だった。それから今、このレポートを書く前に「EVITA」のサントラ版を聞いていると、私はまたまた音の中へ入っていく自分を感じた(いつか、それはまた、くつがえされるのかもしれないが)

 

「来るもの」が来たと思った。聴き方を学んだからだろう。以前は「いい」くらいにしか思わなかった曲、しかも劇場で大画面を見ながらも、そこまで思い込めなかった曲、しかもしかも歌唱的にはあまり評価していなかったマドンナの歌(曲名もさだかではないほど、自分の中では意識していなかった曲。“Good for you”かなあ? ラテン系の曲)に、私は全身でひたってしまい、彼女の“エバ(・ペロン)”としての切ないほどのこの歌に込める思いを叩きつけられるのを感じた。涙がこみ上げて、何もできなかった。ボーッとしてしまった。本当に雷に打たれたに近い感覚だった。“マドンナごときに泣いてたまるか…!”と抵抗を試みるが、そんなものは通用するはずはなかった。私はどうしようもなく感動していたのだ。彼女は表現していたのだ。歌い方はともかく、いつでもマドンナにひかれていた私だった。やっと、なぜ私が彼女にひかれてきたのか、わかった気がした。

 

ジャズを聞くと、やっぱり歌が音が体に飛び込んでくる。もともと好きな歌も、ただの「好き」とは違うのだ。その歌手のフレーズ一つひとつに思いがこもっている。“フレージング”の大切さが身にしみてくる…。いろいろ取りついてくる(霊のようだ!)ので、やっかいだ! と思いつつも、聴きほれている自分にあきれてしまった。私は、芸術を冒涜していた。あまりにも浅はかだった。

一流と言われる人たちが、そこにどれだけのものを込めているのか、考えもしなかったのだ。ものごとの表面しか見ないで、どうのこうのと言っているだけだった。私はロックは好きだが、パンクとかヘビメタ系は、どちらかというと苦手。その他はだいたい聞ける。これからは、苦手分野や新しい世界も、どんどん聞いてみよう。そして、いろいろな表現を見つけ、自分の“ヴォーカリストとしての体質”がつくれるよう、開拓していきたいと思った。歌を歌うというのは、単に「発声」とか「表現」とか「 」でくくれるものでなく、歌う者が、その歌を演じる一つの世界なのだろう。オペラの「演技」という「 」でもなく、その演技をつけている歌手の心の内面で捉えたものを、歌にのせて演じるのだ。そこまでその歌に世界をもっているかどうかが、聞く者の支持を決定する。歌う側と聞く側のGiveとTakeのバランスがとれたものだけが本物として、後世に受け継がれるような音楽になるに違いない。

 

最近「ヴォイスシャワー」を浴びている。イヴァ・ザニッキ、ジョルジア、ヴォーカル入門のテープなどをグルグルローテーションして聞き、3大テノールの東京公演のビデオを何回も見ている。パバロッティが一番好きだったのだが(大技、pからfなど大変わかりやすい)最近、ドミンゴの「泣きの表現」が大好き。特に彼の「星は光りぬ」と「衣装をつけろ」がいい。声に情感を込めるとはこういうことだと思った。また、ソフトに歌う一番よい見本だと思う。彼の「ていねいな仕事」にいつも感心する。また、3人の出し惜しみせず全力で表現しようとする姿勢に打たれるし、学べる。

 

最近、友だちで笑ったとき、目じりにしわがよる人が多いのでおもしろい。笑った顔に少しずつアクがたまっていく。私は、おひさまのように笑うらしい。私だけ、子どもに戻ってるなぁ…。

 

最近感じていること。それはイメージすることの大切さ。少しずつ少しずつ、イメージを深く描けるようになってきた。それに気づいたのは絵を描こうとしていたときだった。紙に描きはじめる前に、まずイメージする。そのイメージが明確であればあるほど、その絵は簡単に描くことができる。視覚的な世界の中で生きてきた私、でもそのイメージを音から拾っていくことを少しずつやっていこうと思う。5月のL懇での総評のときに言われたことで“何一つ伝わってこない”というコメントがありました。“どこが「命かけて」なのかわからない”確かにそうだった。“伝わっている”声としていつも思い出すのは、イバザニッキの“心はるかに”の冒頭の声だ。確かに何かが伝わっている。そしてあの声が“声”なのだと思う。再び絵を描くようになり、詩を書くようになって、歌の詩の世界にも少しずつ近づけるようになってきていると思う。だけど、イバザ・ニッキは何を思い、あの声を発したのか…。

 

「自分を信じること。自分を許してあげること。思いきれるように自分を許してあげる。」とても難しいことだと思う。すべて自分なのだ。そして自分だけ。

会報の合宿の様子を読んで、この間、読み終えた本に出てきたこのことばを思い出していた。

 

障害のある方について少し考えてみた。日本人特有の浅い発音に関して、彼らはもしかしたらFreeなのではというのではなく、心が感じられるのだ。かといって、そういう人が人間的に悪い奴ではないから余計、困る。どうやって言ったらいいかわからないし、私は私で話していると段々、気分が悪くなり、自分の受け答えが、もうどうでもよいようになってしまって、精神状態が急降下してしまう。その人が日頃、考えていることやどういう生き方をしたいかということは、声や話し方、ことばに全部、出てしまうと思う。恐ろしいことだ。私は今一度、自分のことば、口ぐせ、話し方を気にしてみようと思う。

 

精神力と根気の話…歌を志しても、そのうち9割以上やめていく。1割残らない。やめるのが普通。だからこそ、続けて手に入れられる人は尊い。トレーナーは、1日8時間寝ているそうだ。「寝られるように予定を組むのだ」とおっしゃっていたが、8時間寝るための努力だけでも相当なものだろうと思う。起きている時間を無駄にしないための集中力、スケジュールを組み立てる力、やっていること一つひとつの密度と効率が、だらだら起きている人とは全然違っているのだろう。歌を愛すればこそ、実行できること。私は私の生活ペースを見つけていくが、先生の話は大いに参考になった。

 

昔、目が見えなくなるのと耳が聞こえなくなるのと声が出せなくなるのと、どれが一番、自分にとって辛いかなと考えたことがあります。辛い順(そのときは)耳、目、声でした。(でも、ここで自分の声を探し求めるようになって)今、声が出せないことが、こんなに辛くなるとは思いませんでした。この気持ちや声を出したい! という衝動を忘れないでずっとやっていくことだなと思っています。今の私にとって、一番確かなものだからです。。

 

昔は、自分に関わることでも無視していた。そういうときは、一瞬、ことばをのみこめば通り過ぎる感情だったから。でも、そこでのみこんだことばは、体の中で腐っていって、自分の中からは出ていかなかった。人に怒りをぶつけることは、いい悪いの問題ではなく、自分がどれだけこだわってるかの違いだと思う。怒りの感情がそれほどないというのは、こだわりも大してないのだと思う。怒りをそのまま歌にすることはできないけれど、私はためこんで腐っていくことばはいらない。

 

先生のよくおっしゃる「モティベートし続ける力」というのを、思わされている。自分のやってきたことに自信がもてなくなってる最近、本屋で見た海外のシンガー兼トレーナーの本に「トレーニングはやり続けろ」とか「信頼できるトレーナーにつけ」とか「一日15分でも(プロでも)毎日トレーニングしろ」とか、先生のおっしゃることとそっくりなことがたくさん書いてあって「あ、自分のやってることは間違ってないんだな」と思えて、ちょっと嬉しかった。仮にこてんぱんに打ちのめされても(まだ自分はそうじゃないが)まだ立って向かっていこうと思えるか。その日を行く自分を信じられるか。トレーニングは続けられるし、授業もサボらないが、歌うことは怖くなってきている。人前に「歌う人」として立つことが、こんな歌なのに、そこに立つのかと。誰のせいでもない私のせいなのだけれど。

 

のどの状態も回復し、ここの雰囲気に慣れてきたかなと思ったのもこの時期です。特別レッスンでクソ度胸と恥をさらしたのも未だによく覚えています特別レッスンで「声以前に息をやらなきゃダメだ」と痛感しました。一応、胸式に対する腹式呼吸は日常レベルならできていました。しかし、歌のための呼吸としては浅すぎたのです。おヘソの下(丹田)くらいまで息を吸うとおっしゃっていました。そこで8月は、ひたすら息を深くする訓練をしました。具体的には、仰向けになって下腹部に辞典を置き、意識的におヘソの下まで息を吸って下腹部をふくらませました。

「息吐きを1000回やっている」というのを会報で読んで、「俺もやったる」と思い、息吐きスタッカートなるものを始めました。これに息吐きレガート(伸ばす)を追加して、今では息吐きスタッカート1300回、レガート21回を日課にしています。もっとも、何回かサボっていますが…。正直なところ、当時は「歌以前に声、声以前に息が…やれやれ」と思っていたのですが、あれから7ヵ月たってみると、ひょっとすると唯一の道だったのかもしれないと思うようになりました。他の分野でもそうでしょうが、力を入れなければならない部分はそれほど多くなくて、あとはむしろ、力が抜けていた方がいい。声に関しては、腰のつけ根、横腹から背中にかけてパワーが必要。逆に言うと、ここにパワーがないと強い声を出そうとすればするほど、余計なところに力が入ってしまう。そのことが、実感としてわかってきました。そこで、声-息-体のなかでも、体そのものを強化するために、横隔膜上下動なるものを始めました。

まず、横隔膜を思い切りもち上げて(お腹はかなりへこみます)、それから一気に押し下げて横腹をふくらませます。横隔膜周辺の筋肉を内側から鍛えるわけです。日常はおろか、歌でもここまでは使わないので、トレーニングとしては有効だと思っています(胸式呼吸になっている人は、有害かもしれません)。最初は50回から始めて、約2ヵ月後の今、200回×2まで増やしました。

 

存在感のある人とない人の差は大きい。それは、よくしゃべるとか自己主張するとかそういうものではない。黙っていたって存在感のある人はある。それは今日、明日で出るものではなく、どう毎日を過ごし、何を考え、大切にしてきたか、そういうところに芯のある人が長年かけて身につけるものだと思う。魅力とか存在感は、ごまかしがきかない。あるものはある。そういう人間になりたいものだ。嘘のない私で生きる。ないだろうか。正確に、日本語を話そうとすればするほど、発音、発声は浅くなる。麻痺があると、ストッパンがある分、やっとのことで出る声には底しれないパワーがあるのかもしれない。また、ダウン症の子など、とても陽気で精神的に「ねあか」な人も声が大きい。私は、障害は個性の一つだと思っている。障害のない、いわゆる健常日本人は、声に対しては障害という個性をもっているのか…。

 

人と違うことをやるのは、本当に勇気のいることだと思った。

 

人の声にとても敏感になったことはいいことでもあるし、悪いことでもある。何が悪いかというと…人と話していてどうしても我慢できなくなってしまうということがでてきたから。これは、その人の声がいい悪いというのではなく、ことばと声の裏に感情の旋律みたいなものを感じてしまうということ。からみついているような話し方の人、心に不満がたくさんたまっているような話し方の人、そういうことばがどう

なのか考える。

 

 

体に音楽を宿すとはどういうことなのか。ほんの少しだけ垣間見ることができたと思う。大音量でよい声を聴き、フレーズをやる。そこで自分と一流のギャップを身をもって知り、後のトレーニングで何をやっていけばよいか明確にする。自分の呼吸、自分のフレーズを身につけるというスタンスでトレーニングすること。“あの人は自由になるー”の“あの”から“人”へのもっていき方が不しぜんなものになってしまう。

 

“自由に”の“じ”から“ゆう”への移行も難しい。それよりも何よりも、今は大きく表現し、弱点をさらけ出してしまった方が、後のトレーニングに役立つと思う。小さくまとめないこと。毎回いろいろなことを考えさせられる。とにかく、その気になれば学べることは無限にあるということがわかってきた。音楽を通して、人間的にも深くなっていかないと、レッスンやトレーニングもそのすべてを活かしきることはできない。まぁ、すべてとはなかなかいかないだろうが、100分の1も活かせなければ、相当もったいない話だ。だから、マジにならざるを得ない。

 

もっと体を使い込んで、つかみ離す。外に、前に出すことを常に意識し、前に出した状態で、揺らしたりメリハリを縦(&奥に)つける。このとき、呼吸は残さず、なるべく見せなければならない。本気であることが見えてこそ、観客は納得する。

 

いかなる学習法があっても、中心となることは自分の中へいい音楽が入ってくるのをじゃましないということ。いい音楽をたくさん聞いて、ある歌曲を聞いたときに、それのどこがどうよくて、どこがどう悪いのか、そこで自分だったらどうするのかをちゃんとわかるようになることが大切だということ。

 

前に出る表現。前に出なければ。先生にいつも言われ、自分自身も、それが必要不可欠であるとはわかっているのに、どうしてもうまくいかない。やはり、精神的なものが絞りきれていないからだと、自分の心の中を整理したり、歌をはじめたきっかけを再確認してみたりと、とにかく内面をどうにかしないと変われないんだと自分の中で闘っていた。そうして歌ってみても、やはりダメだ、前に出てる人とどう違うのか? 何が違うのか? 今日のレッスンに来るまえに「今日は、どんな曲であろうと、とにかく福島先生にぶつけるように歌おう」そう決めてきた。どうしても話したい、伝えたいことを、1メートル先にいる友だちに向かって叫ぶとき、去って行く愛する人に、ありったけの声で「まって!」と叫ぶとき、そういうときの心と体が、歌うときになければ、決して人には伝わらない。あたりまえのこと、あたりまえのことなのに、どうしてできなかったんだろう。今日は、その目標を達成するために、いろいろ失敗してしまったけれど、ほんの少しだけ、前に進めた気がする。

 

先生がおっしゃっていた、アンケートの中で個人でやって欲しいという声が多かったという点について。みんな先生にアドバイスしていただいて安心したいのだなと思いました。私も以前はその傾向が強くて、絵を描いてもダンスの試合に出ても、会社の仕事にしても、必ず人にどう思うか聞いていました。特に自分でも「まずかったな」と思うときは、他の人に「そんなことないよ、よかった」などと言ってもらい安心したかったのです。でも本当は、よく心の中を覗けば、よい悪いの判断はつきます。それでも自分をごまかしたくなるのです。まず、自分に対しシビアになること、ごまかさないことを自分の課題にしたいです。

 

ここに来るようになり、他の人(先輩方)の歌のうまさ(音程の正確さやフレーズの豊かさ)に動揺してしまい、つい「歌をうまく歌う」ことばかりに気をとられていた。しかし、今日の三村先生のお話-「今の段階でまずやることは、とにかく息吐き。それに“声を出す”“歌を歌う”がプラスされていくのだ。」-もちろんわかっていたつもりだったのだが、改めて先生の口から聞いたことで、勇気をもって息吐き中心のトレーニングに戻れそうだ。でも、人の歌を聞くたびに焦ってしまう。

 

「ハァ ハァ ハァ」…全身脱力させた上で背筋のあたりの力を使って出す。最初は楽に出す。あやしくやる気なさそうな声で。「ハ」で空気を吸ったときに口の中で涼しく感じるポイント、そこから声を出す感じで。口は「ハ」のままキープ。ハァを3段階に分けて徐々に強めていく。うまくいかないときは、体を曲げてやってみる。腰回り、背筋を広げる感じで声を押し出すように。体で切る練習。ハァーッ、ハァーッと体で切る。口は「ハ」のまま。お腹以外は脱力。

 

ことばでアァ(アオイ)、マァ(マリア)、アーの声、息の流れにことばがのるだけで口先で操作しない。前半いい感じで声を出せたと思ったが、「アオイ」だとかことばにしていったあたりから、のどにかかる感じがして、あまりうまくできなかった。他の人たちはことばにしていったところから調子を上げてきたようだったが…。いい感じで声を出せたときでも、まだまだ体の深いところから息も吐けていないし、声にもできていない。のどに力をいれてない、はってないとは思うが、自分で自分の声を聞いてみると、常にわずかにのどにかかった感じの声に聞こえる。そのところを注意してトレーニングしてみたい。

 

できなくても、とにかくぎりぎりのところまで出してみる。やってみる。そうしないと、どこがどう足りないのか、体でわからない。耳をもつこと→自分で出したワンフレーズが届いたのか伝えられたのか、また技術的にどうダメだったのかも含めて、瞬時に判断できるようになる。また曲を聞いたときも、何が表現されているのか、どう違うのかなどを常に考えながら聞く。苦手なものをあえて聞いたりするのも方法かもしれない。集中すること。そして持続していくこと。はじめはどんどんやらなくてはいけないことと、いろいろなことを同時にいっぺんにできない現状の中で苦しいが、続けていくとバラバラのものがだんだん一つになる方向に向かう。

わかってくる。つかめてくる。また、わかったような気になる、練習したことで満足することの危険性。無責任な表現。できないことをできない形でできないままの姿をさらす勇気の不足(わかっていても出す段になると、へんなくせや他のもので埋めようとしてしまう)。圧倒的な基礎力のなさ。100というエリアを埋めつくす濃密な技術と表現がなくてはいけないのに、10の要素ももっていないので、まばらにおいていくことしかできない。すかすか。すっぽ抜ける。イメージを広げていくつもりでも、声、体の器でできることにどこか合わせてしまっているのではないかという気がする。。

 

自分の耳で深く聞くこと。聴きとるものは、今、聞こえなくても、神経を集中し、何が表現されているのか、どう表現しているのか、そしてその歌の世界は、ということなど。普段のレッスンの中で、たとえ1フレーズでも瞬間的にその歌が何を表現しているのか(言語に関わらず)、どんな世界をもっているのかをイメージし、自分なりの表現にもっていかないと、ただの音やリズムとりの練習になってしまうということ。。

 

「押す」ことについて。体で声をつかんでいないと、フレーズが流れていかない(一つひとつの音をつかみにいくようなことになる)。押しが必要なジャンルもあるが、その場合にも音色が伴っていないといけない。

 

子どもの歌の方がずっと人に伝わるんじゃないかと思った。歌うときに声のことを気にせず、心で歌えるよう、今、声のトレーニングをしている。声のことと表現のことはずっと私の中から消えないだろう。わからないことだらけだ。でも一つ思ったことは、ことばを大事にしようということ。自分の信じたやり方でやっていこうと思う。

 

リズムの中に息が通っている感覚。一つのフレーズがゆっくりに感じるように、1フレーズがイメージして出すパターンが少ない。リピートして何百と実際に出してみる以外ない。3、4音での音の線、息で伝えること。このパターン、センス、取り出す力で身につけていく。ここで音楽的な感覚を身につけないと、とても届かない。ことばもキィも使わないでフレーズにとり組んでみればどれだけ伝わらない、ただの声かわかる。それを知りたかった。それがそのままプロとの差だ。このままのルールで伝わるところまでもっていってこそ、プロとの差をつめてることになる。まず、伝わる前にルールを守らないといけない(外してるよりよっぽど伝わる)。リズムを正確にすること。声、息、体でのリズム、踏み込むときのピッタリのリズム、これをどう体を使って動かそうとしても乱れないようにする。いや、乱れるような大きさでつくって、それでリズムがピッタリになれば、身についている練習になってくる。

 

レーニングの目的意識をもつ。なぜそのトレーニング(音程やリズムなど)が必要なのかを自覚する。音の動かし方を考える。でも変に計算してもだめ。心地よくずらしていく。体の動くところ。自分の体を知っていること。ただ体を使えばよいということではなく、力のバランスや使い方が大切。それから下を支えている共通の基盤をとる。どのヴォーカルも必ずとっている。音楽的な感性を宿らせていく。

 

統一感があるかどうか意識すること。その上でことばが聞こえてくることが大切=詞に言霊を込めるということ。できていたことができなくなったら、また必死で取り戻すこと。どうやったらいいんだろうと悩んでいるうちは「ラーラ  ラーラ」と言ってみても何も残らなかった。家で復習してみて、こみ上げてくるものが込められたとき音楽になると思った。やる気、モティベートがないと練習しても効率が悪い。音程、リズムなど、今の私は次元が低すぎ、それこそ大人と子供の差だが、差がわからなかったら詰めていくしかないし、量をやれば誰でも詰まるものだと思う。それこそ1万時間をめざして。

 

声-音-音楽、4つの音をフレーズ、音楽にする。音楽にするとき、そこに統一感がないといけない。4つの音をどういう感覚で捉えるか、統一したものが示されない限り、感情が先走ったりするとか、イロイロ問題が出てくるようになる。聞いていくら勉強してみても、すごいカン違いをしていたらしようがない。できてるできていないは、はっきりしている(が、ポップスには正解はない)。うまい人がやったら、それが音楽になり、へたな人は何がなんだかわからなくなる。聞いている人がいる限り、何か伝えないまま終わらせちゃいけない。“ララララ”4音。1回目と2回目はできているかできていないかもわからなかった。3回目になって全然だめだ!と感じた(やっと)。“知っているさ”ことばで言ったとき福島先生に“劇団でこのセリフ一つしかないとしたら、こんな言い方をするか?”といわれ、“絶対にしない”(今の自分の力のなかでも)と思い、集中力のなさを恥ずかしく思った。「ひとつの愛は」(ことば)→「ひとつの愛は」(音)のとき、これがサイアクだった。“1つのAIWA”とまるで電気メーカーの宣伝のようになってしまった。“でもなぜか”さっきよりは少しましになったかなーと思った。が、先を聞きたいと思わせること、言えててもオワリじゃしょーがないと言われて、自分のは終わっていたと思った。

 

ことばの一つでさえ、何回も何回も口にして、やっと自分のものにできるのに一体どうしたらいいんだろう。セリフではことばの意味内容を無視してただ喋ったりしているときにうたってるという言い方をする。それは、歌になっても同じだなあとあたりまえだけど改めて思った。ことばと気持ちとメロディの接点はあるのだろうけれど難しい。自分で何か見つけていかなければ、先に進むことはできないが、いろんなことをきちんと消化していけるだろうか。たった1時間のレッスンに課題が山のように詰まっている。

 

表現すること。現時点でできる限りの表現をすることによって、何が足りないのか、どれほど足りないのかを知る。表現しきれているか、伝えようとできたかを自分の中で判断する。大きな全体の中の一部を切り取っても表現になるはず。伝わったかというフィードバック(表現そして聞くものにどう伝わったかを自分で感じとる)は難しいことではあるが、それがきちんとできてくれば自分の正しい声になる。それができないと、どんどん間違っていきかねない。グループレッスンの中(集団の中)でも、自分にとってのやり方で習慣化され、そろっていってしまう空気を破る。そうしてでも表現をする。何を自分が目的としているのか。そのためにすべてのものがあり、それを活かすこと。いろいろなレッスンなどの素材をバラバラに捉えず、目的のために有機的に活用していく。いつにも増して、今日は福島先生がこわかった(畏縮するという意味ではなく)。ここで感じる“こわさ”というのは、見透かされるというか、自分というものを見せつけられるこわさだ。“わからないまま重ねた年月”の多い分、自分で自覚するよりもっともっともっとこびりつき、思い込み、凝り固まっているはずの私が、この程度の“こわさ”ですむはずがないのだと思うと、さらにこわくなる。その反面、もっとどんどんこわくなって、ぶっ壊れたいという気持ちにもなっていく。福島先生のレッスンは、大きな切り出しナイフでハンマーだ。でもそれを(感じとろうとすることによって)自分に向かって振り降ろすのは自分自身でやらなくてはならない。それをするかしないかは、自分の判断にまかされている。その判断をできるような環境について、先生は最大限の注意を払ってくださっている。進みたい(振り降ろし続けられる)と思えなくなったときは、やめるべきだ。。

 

課題を明確にしながら作品づくりをする。どんなに短いフレーズでも「表現する」ということは「作品づくり」だと意識する。聴き手を気持ちよくさせることも重要。「そのフレーズの先が聞きたいか?」という評価の仕方は、今まで考えたこともなかった。自分の番がきて、いきなり声を出すのが苦手。突然、出す声は、自分の声、自分で出す声であるにも関わらず、想像がつかなくて不安。咳払いや「あー」とやってみてからでないとできない気がする。(→でもこれについては、今日、福島先生に「言い直すことでもう失敗」と指摘されたので、今後は勇気をもってやるつもりです。)

 

どの課題を出されても、みんなが同じ答えというのは本当におかしいと思った。つられそうになっても、それに負けない勇気と自信が必要だ。それは練習して身につけるしかない。一つのフレーズ(例えば「でもなぜか」)の後のことばを考えると、気持ちが入りやすいことに気づいた。それも一つの方法として身につけ、覚えておきたい。

 

とにかくやってみる。わからないことは何度もやってみて、常にそのときそのときの課題と向き合ってつめていく。「身になりそうなトレーニング」ではなく「身につくトレーニング」をする。“何がどうつながるのかな…”と思ったことでも、とにかくやってみてわかるようになるのを待つ。つめることから逃げてしまう。自分の中身(精神の動きや声の動き)をよく見据えた上でトレーニングしていく。

 

ワンフレーズの大切さ。息もことばもフレーズも、ワンフレーズができなければその上にのっていくものは皆、嘘となる。自分の感覚を研ぎ澄ましていないと、その場の空気に流されていくだけで終わってしまう。聞ける耳をもつことの大切さ。これがなければ、私の体からは何も出てこないだろう。自分の体と同化するぐらい、いい音を聞く。深い息につなげて声を出していく。その基本のトレーニングは皆と一緒だが、表現する場において人と同じ声の使い方、フレーズになってしまうということは、普段、自分が意識していないことを証明してしまうようなものだ。

 

自分の頭も心も枠をとり去ったつもりでいて実際、何重もの枠に囲まれているのかもしれない。あなたたちの声も歌い方も一つだと思っているようだけど、そうじゃない、いくつもある中から一つを選びとってこなくてはいけないと言われたとき、私の声がいくつもあるってどういうことかわからなかった。それは声を高くしたり低くしたり強くしたり弱くしたりすることとは違うと思ったけれど、どういうことなのかは疑問のままだ。

 

シャンソンカンツォーネ、いろんな歌手の歌を聞いていて、一人の歌い手のいろんな曲を聞くと違いがわかる。声の感じだけを聞いて、どういった歌詞の曲なのか想像できる。一つの曲のなかでも声の感じが変わっていく。自分でそういういろんな声の音を試して出したことがない。だから、この場でもイメージできないし出せない。たくさんの曲を聞いても、自分のことに置き換えてみるということができていない。イメージ不足なのか。ワンフレーズ、そのなかにすべてがあるということを忘れずにやっていく。

 

自分の聴き方にある既成概念のようなもの(?)偏見やジャンルによる判断のようなものをとり去っていくこと。よいものはよいし、一流と二流のものは、絶対的な差がある。それを聴き分ける耳をもつようにするということ。また一回目以降の聴き方も変わっていくはずということ。しかし、基本的には、素直にどう聞こえたか何を感じたかということを大切にする。そこに還ること。。

 

フォーム(体)が一番大切。基礎体力が必要。深い呼吸を支えられる、維持できる筋肉、筋力が必要。ノイズとかがまじるのも、結局、体の不足から。深い息で胸でとれなければ結局、意味はない。

 

フレーズは制限しないようにする(計算して範囲を制限しない)。音の中でどれくらいヴォリュームをつけられるかを問うていく。体を使うと音楽にならない人でも、それをつきつめていかなければいけない。3音の中でどれくらいヴォリュームをつけられるか、体で息を流していき、それを線として捉えるか点として捉えるか、声をきちんとコントロールしていく。音の中の世界にひたっていく。それには基本に忠実な歌にすべきである。コントロールがないのは、コントロールを求めないから。今できていることが完全でないから何もできない。

 

声のよしあしでなくイメージ、耳をもっと素直にしていく。体の前に心をもっと使わなくてはいけない。伝えることがどの授業でも問われている。表現ができているかできていないか。体の前に心を使え、このことばがぐさりときた。フレーズが自分の番に回ってくると、いつも考えてしまうことは音程のこと、体を使うこと、声をできる限りでかく出そうと思い、心を入れるひまがない。そもそもあんな短い間に心を魂を入れることそのものが不可能だと思っていたが、それはヴォーカルとしてアーティストの卵として、最大にしてかつ究極の甘えである。あんなに短い間に魂を入れている人は入れている。それに、一流ヴォーカリストが来てフレーズまわしをやれば、間違いなくそこに魂が入る。そう考えたら、自分がいかにして甘えていたかを感じた。感じたところで、それが実践できるのは難しいが、常に心がけねばいけない。歌にとってアートにとって、もっとも大切な部分であると思う。心(やすらぎ)すなわち魂、すなわち人間(愛)そのもの、それをいつでも忘れないでいようと思う。

 

継続し、つきつめていかないと、やはりわかっていかない世界だということ。声にしてもわかったと思っていても、それが後で“わかっていなかった”ということに気がつくということのくり返しである。2年たったとき、やはり声に戻っていくというような世界であるということ。ことばをはっきりとさせることの大切さ。。

 

音声イメージをもち、体で声を出すこと。フレーズをつかむ。線で捉えることができていなければ、歌にならないのだが、それだけではまだ音楽とはいえない。思い通りの表現ができるようになるために、フレーズのセンス、無意識に出しても体のついている声は必要だ。特に意識しなくても、体に入った声が出るところまでトレーニングを積まなければ、表現には至らない。体ができていないところで表現しようとすると、コントロールできないような嘘の声になる。イメージしたフレーズ通りに体がついてくるまで妥協せず、トレーニングする。必要とするところには宿るということを信じて続けようと思った。先生の、歌にならないパターンを聞いて、また他の人たちのフレーズを聞いて、一流のものを聞くより、グループレッスンに出る方がわかりやすいこともあるのだと思った。悪いパターンは、人それぞれにいろいろあるが、本当によいものは個性は別にして、共通している声、フレージングがある。