一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

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スタジオへの愛着と自戒の念をこめて 「何で歌をやっているのか」―最近、身近な人からそう聞われた。答えようがなかった。そして、今さらそんなことを聞かれてしまう自分が情けなかった。本人が思っているほど、周りに伝わらないことがあるとはいえ、塵ほどの部分すら出していなかったということか。人に「何で呼吸するの?」と聞く人は、まずあんまりいないとは思う。呼吸をするのがあたりまえのように。そのあたりまえに、今なれるとは絶対思わないけれど、意識的にはそう思いたい。それでも、まだ聞かれてしまうのは、自分の甘さとそしてトレーニングという域を脱しきれていないからか。

 

「継続は力なり」とはよく言ったもので、トレーニングをずっと続けてきて、確かに体は強くなって息も吐けるようになって、声も出るようになった。…だからといって、それがどうしたという気もする。別に何でもないことだと思う。そんなんで歌は歌えないし、表現できっこない。それでもどうしてトレーニングをするかといえば、その表現をするためだけに声が必要なのであって、だからやっているだけ。トレーニングおたくと化して、ミイラとりがミイラになったら、笑い話にもなりやしない。

 

歌も好きだからだけでは歌えっこない。好きなだけなら、思いっきりカラオケでも何でも行って歌えばすむこと。もちろん好きではないと歌えないけれど、それだけでは歌えない「歌さえあれば生きていける」というのも、その思いこみは認めるけれど、それだけでは多分、無理だと思う。所詮、価値観の違いか。別にトレーニングが順調で、ここまできたわけではない。いろんな波が押し寄せてきて、小波ならまだかわせたものの、大波がきたときにはのまれて、溺死しそうになったこともある。そんな思いをもっても、それでも自分は今、こうしてここにいる。

 

2年という期間は、とても短い。入ったとき描いていた自分の2年後の姿とは、かなりかけ離れている気がする。やればやるほど、ものすごく距離を感じる。山ほどの問題が積み重なって、息苦しささえある。体ということでいえば、実験結果のように2年たっとこうなりますとみせればよいかもしれない。ただ、体がどうこうというより、確かに体は必要であるけれども、すべて意識の部分に戻るのかと。体だけでいえば、これは変わる。意識のみでも変えられるし、もちろんトレーニングでも変わる。ただやっているだけでは変わらないけれど、本当にやったら必ず変わる。変わらないわけがない。これは結構、変化を自分で気がつくからわかりやすいかもしれない。

 

それこそ無我夢中でやっていた頃は、それだけを頼りにその変化のみを成果として受けとっていた。単に純枠に自分の身になっていると感じられて、楽しかった。それだけでは、やはり限界があった。そんなに楽しいというだけではすまなかった。みたくないものは、目をつぶってフタをしてしまえばすんだかもしれないけれど、どうしても自分には、これを見る必要があった。逃げ出すこともできたかもしれない。誰かに助けを求めることもできたかもしれない。ただあえて、自分一人でいくことを選んだ。結果はどうあれ、自分でいられることを望んだ。

 

ここにいることで、あんまり安心感や安定感は欲しくはない。はっきり言ってしまえば、授業料さえ払えばいることはできると思う。ただいるということと、あるということは、全く別のこと。いることは望めばできるかもしれないけれど、ある、存在することは、これは望んでもできない。望むだけではできない。だから僕は“ありたい”と思う。いるのではなく、ありたい。そのためには「僕はここにいる」と主張をしないといけない。手段と方法はある。あとはそれを、自分がやれるかやれないかということにかかってくる。長くいれば偉いなんてことは、絶対ない。かえってプレッシャーやら何やらで、余計なことが増えてくる。

 

何を一番、恐れているかといえば、今、現在のレベルからおちてしまうことが、とても怖い。何で長く続けていて、前よりおちるなんてことがあるのかと。もしおちるなら、それはやっていないことと等しい。本人はやっているつもりかもしれないけれど、つもりはつもりで、本当に物事にとりくんでいたなら、おちることはありえない。本当はその恐れさえ、感じないぐらいにならないとだめか。維持することもそれはとても大変だけれど、それで甘んじていたくない。やるのなら、それ以上を目指すべき。目の前に階段があるのなら、それを1段ずつ登っていって、今まで見えなかったものが、もっといろんなものがみたいのなら、登るしかない。トレーニング自体も、1年目より2年目は倍。倍じゃ、多分、足りない。さらにその次の年は5倍くらいか。自分か欲しいものを手に入れるために、どれだけ貪欲になれるか。ずっとやっても、答は手に入らないだろうな。答すらあるのかどうかもわからないし。それでもやりたいのだから、仕方がないか。

 

表現するのなら歌とは限らないし、ファッションなんかは、もっと自由かもしれない。どんな素材を使ってもどんな服を作っても、それでもファッションということで出せば、認められる。たとえば、裸に靴だけでも、それがファッションということであれば、それが普段の生活でできないことであっても受け入れられるという、あの許容量の広さがうらやましい。

 

役者さんは、その人のパーソナリティはあるにせよ、役柄で一部分はオブラートに包まれる。配役によって、その人のイメージまで影響されるという点はおもしろいと思う。本は知識として、いろんなことを教えてくれるから、本を読むこと自体は好きだけれど、本で人はわからない。本で人を知るわけではないけれど。人はもっと不可解だ。書いているのはやはり人だから、最後には人になる。もちろん本といっても、マンガなどでも、たとえばギャグマンガや下品なマンガであっても、どこかしらにその作者が表現したいものがみえるものもあるから、それはそれでよいと思う。

 

歌というのが一番、その人が出るのかもしれないと思う。この人が嫌いというだけで、その歌からもすべて否定されてしまうぐらいに、己の人間の個性がでているものはないのかなと。絵とかであれば、たとえ、好ましくない人であっても絵はよいと言われることもあるかもしれないけど、歌だと耳をふさがれることもあるだろう。それ故に、歌でやってみたいという気がある。歌だからこそ、表現できる何かがあると思う。

 

先日、オペラ歌手のインタビューの記事を読んで、ある人はお腹が20センチもふくらむことに注目し、ある人は発声練習をしていると鳥がよってくるというところにひかれ、そして僕は日本の環境ではアーティストが育たないという点に、とてもひかれた。同じ文章を読んだのに人によってとり方が全然、違っていることがおもしろかった。その感じ方の違いは、本当はあたりまえのことで、価値観は人によって違うのだということ。僕自身は共感して欲しいとは思わないけれど、否定されたくはない。いつも自分はそこだけは、人の価値観だけは認めようと思っている。人はみんなそれぞれ違うのだと。その人個人を限定しないような人間でありたいと思う。

 

以前は自分なのに、その近くでもう1人の自分がその自分をみているという、分離していた状態があった。愛想をよくし、誰からも好かれようと願い、自分を閉じ込めていた頃だった。それが「自分はこういう人間なんだ」と認められるようになってきてから、もうそんなことはなくなった。その分、人からはわがままとかいわれることが多くなった。それは言いたいことは言って、やりたいことはやっているからなんだろう。それが人にどう捉えられようと、自分はこうでしかいられないと、変われないというのはある。

 

縛られたくないと、イメージもぶちこわしたいし、自分自身の固定観念すらも、何にもとらわれたくない。ただ、自分が信じたいものは、たとえ100人中99人が白だと言っても、自分1人が本当に黒だと思えば黒だと思えるぐらいの強さ。そういう強さまでは、まだない。

あとはもっと自分を追い込むこと。もっと自分を厳しく甘やかさないこと。厳しくするのは、自分がそれを乘り越えられるだけのカと可能性があると信じているからこそできる。この可能性が、もうみえないと感じたら、その時点でやめられる。

 

歌い手としてより、アーティストでありたいから、自分が表現したいものが出せればそれでよい。自分が自分らしくいられないのなら、終わりにする。

本当はアーティストであるよりも、1人の人間としてありたい。瞳の色も年齢も性別も国籍もとびこえていけるのが理想。それができれば、もっと自分は楽になれて、息も思いっきり吸えるようになる。自分がこう信じた道をまっすぐに歩いていこうと思う。

 

 

 

「自分という「客」に捧げるうた」 以前、会報に「30分、自分を語れるか」と書いてあった。モノトークなどで、もし1人30分の時間か与えられていたら、自分は何を話すだろうか、と考えた。

皆さんに共通するのは、音楽好き、歌好き。私の周りには、あまりいなかったので、私は珍しがられた。歌にどうしてそこまで執着するのかわからないみたいだ。

もっと私が器用で普通に人とコミュニケーションがとれて、何の疑聞も抱かず、ストレスもたまらず、日々平和に生きていければ、そんな必要はなかったと思う。いつも誤解されてるような気がして不安で、それを伝えきれなくて、はがゆい思いをしてきたから、私には歌が音楽が違う自分を出せる唯一のことに思えた。

 

ここで普段の思いを爆発させようと。その思いは何だかわからなくても、熱みたいなものは伝わるのではないかと思った。「自分を表現したい」と言ったら、「じゃ、絵でも書けば」と言われた。確かに、絵でも文章でもいいんだけれど、私が一人の音楽ファンとして見てきた中で、特にコンサートなどの生の世界で、歌は人に何かを伝えることができる、たくさんの人をひきずり込んで、その人の人生に影響を与えるくらいの力があると思ったから。そこに自分の信じるものがあった。真実があった。だから私にとっても、そのちっぽけな人生の中で感じてきた、

いろんな想いを、等身大の自分を表わすことができればいいと思う。願わくば、聞いている人たちに何か想いを起こさせるものでありたい。初めは「変な声」とか「うるさい奴」でもいいけれど。

 

毎号、巻頭言を読むたびに、身がひきしまる思いがする。ザックリと切りつけられることもしばしばだ。ここに入って丸5カ月たとうとしているが、ますます「すごいんだ」という思いが増してくる。

 

「基本講座」を読んで、そのトレーニングの内容に共感して、それだけ言えるだけのものをもっている人、経験を積んでいる人が日本にもいたと喜んで、ここでつかみたいと思って入ってきたのだけれども、トレーニングの内容よりも、その精神面、人間の部分に驚かされる。胸を打たれる。ここまで自分に厳しい人を初めて見た。たかをくくっていた。皆どこかで甘えていると。人に対してとても厳しい。もちろんそれが音楽だから、歌だからである。人に厳しくするには、自分にまずしなければならない。わかりきってて、尚もっともっとと、己に課しているように見える。段々つらくなってくる。情熱では負けないつもりが、大変な人のところに来てしまった。

 

自分にとって本当に歌が必要なのか問えという。今、私にわかるのは、日々、生きていくこと、いろんなことを見て感じて、より自分が好きになれる自分になろうとすることと、歌を歌っていくこと、それをよくしていきたいということは、私にとっては同じ課題だということだ。

歌だけよくなればいいんじゃない。一番厳しい自分という客を満足させる自分になりたいんだ。ごまかしはきかない。手にとるようにわかってしまう。逃げ道などない。向かっていくのが最艮かつ、唯一の手段だ。逃げれば追われる。間違いを繰り返す。歌だけが先にいくことも、人間の部分だけが成長することもないと思う。

同時進行だ。歌をやっていると言えば形になってないと理解されず、ハタから見たら無駄なことでも、私にとっていい歌を歌うということは、一生のテーマである。地位や名声やスタイルにとらわれる人たちにどうわかってもらればいいのか?結局、私自身が見せるしかない。自分が見た真実を。あの日の感動を、絶望を。

 

 

 大切にしている元気ビデオに、WOWWOWでの放送を録った「ソフィスケイティド・レディ」がある。デュークエリントンの偉業を讃えたミュージカルだ。米国の収録で10年以上前のものだが、観るたびに鳥肌がたち、ワクワクする。数10人のアーティストによる、驚異的なダンスと歌だけで観る者を笑い、悲しみ、喜びに魅きこむ、スキのないエンターティメントパフォーマンス。迷いにとらわれたときに導いてくれる、自分にとっての宝物だ。

その出演者の中に、自分が勝手に「あねご」とニックネームをつけたSINGERがいる。当時、31歳の「あねご」は、「TAKE THE A TRAIN」「IT DON’T MEAN A THING IF AIN'T GOT THAT SWING」などのエリントンの代表曲を、豊かな声量そして表現力で、演じている。決して満面の笑みなど出さず、威厳と自信、そしてカ強さと母性に満ちた女性的な体型、充分すぎるくらい魅力的だった。

実力派、MISS PHYLLIS HYMAN、享年、45歳。新間に出ていた”自殺”という字に、誰が死んだのか我が目を疑った。写真は若い日のものだった。悲しかった、信じられなかった。あまりにもパフォーマンスとは違った逝き方だったから。

今となっては暴言だけど「何で楽器の人は自殺しないのに、歌の人ばっかり」と家族に毒づいた。何かあったのだろう。なぜなのだろうと、迷いもなく米国新聞のデータベースを綢ベてみた。ニューヨーク在住だったのにも関わらず、ワシントンポス卜で大きく報じられていた。

「若手のSINGERにおされ仕事が減ってしまったこと、以前よりも声の調子が悪くなったことが原因」、「最近、調子よくないけど、フィリスのパフォーマンスは、それさえも感じさせず観るものを魅了していた」と。その夜、ショーへ出演する予定があった。なのに致死量の睡眠薬を飲み、逝ってしまった。自ら命を絶つことがどういうことなのか、愛をくばり続けてきたあなたが一番知っていたはずなのに。

あんなに素敵な宝物をもっていたのに、もう歌いたくなくなるほど、苦しかったの?そのつらさが死で葬られ、あなたの魂の声が永遠にこの宇宙で安らかに調和して、ひびき、ゆらぎ、そしてスイングし統けますように。