一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想  437

レッスン感想

 

声が胸に響くというのが、はっきり分かった。まだかなり浅いところだけど、「ラ」の音は少し体に入っているので、そこをキープして音を上下していく。自分でトレーニングしているとき、分かったような、分からないような状態で、これをやっていたんだけど、結局つかんでなかった。細かいことにもこだわらなきや、ダメ。

 

風邪の声か、声帯の異常か、自分で見極めのできる力をつける。息の支えだけは残して、のどに抵抗をかけない。ー見不安定な、宙に浮いたような声。中低音でつくっていく段階での、高音で歌うことに対する、自分の意讖のつくり方。

 

「のどでつくらない」「息を完全に声にする」「声を一つにする」「ポジションをつかむ」というような言葉を理解するのにヒントになるレッスンだった。抵抗をかけた声と外に広がる音と息を出すことと声になることが、同時に行われた声の区別らしきものが、少し、自分なりに体験できた。

 

今、これじゃないかなと思えた声が、自分なりに体験できた。決して大きい声じゃなくて、どちらかと言えば、小さい声なのだが、自分が声を出そうとするときと、実際にでるときのタイミングと、そのとき、ポジションに体の意識がちゃんと集中できている感じだけを大切にした声で、感覚的には、すごく自分の心の近いとこるにある声。か細かったけど、これが自分の今の体で、ちゃんと結びついた息で出せる、目一杯の芯なんじゃないかと思える声だった。

 

自分の体をできるだけヴォリュームたっプりのイメージでとらえる。黒人のおばちやんと同じテンションにする。自分の体か中をにイメージする。

 

ヴォイストレーニングを通じて、何をしようとしているのかということが、見えてきたように思う。やはり、何かを表現する上で、技術を磨くことはもちろんのことであるが、感動させるということは、技術+aの何かであるらしい。ここでは技術を完成していくことと、アーティス卜として+aの何かのために、情報交換(エネルギーの交流)といったものもしていくらしいと感じた。やがて、本物の時代が来て、日本のマーケットも変化していくだろうと期待している。

 

外国語の歌を日本語で歌うことは、一度平面に出されたものを、もう一度立体に作り上げる作業に似ている。風船に息を吹き込むように、深いところに息をたくさん入れていかないと、歌がとても退屈になる。聴かせるなあと思う人の歌はいつも、全体よりも、フレーズの一つ一つがふくらんでいるから、そう思うのかもしれない。

 

言葉からふくらまして、フレーズにするとき、強く出したいところ、音が、高くなるところで、体をより使うと、一つの流れが崩れにくい。でも、「体を入れて」とか考えると、バラバラになってしまう。息の流れを突然変えたり、止めたりしなければ、解決するのだろうけど、それが一番難しい。

 

日本語で歌うなら、日本語をよく知らなきゃいけない。「ちかって」と歌おうとするのか、「ちーかって」になると、「誓って」ではなく、「血買って」になってしまうよと、先生は笑っておっしゃったけど、これって結構大切だなと思う。そう聴こえたら、伝わらない。

 

スキャットの難しさは、楽器のように声を操って、自由に歌うこと。音程に気を取られてバラバラになると、ちっともきれいに聽こえない。

 

息を出し惜しまないこと。「フレーズを言う」=「息を使いきる」という考えにする。心と声を結びつけて、一緒に伸びていくように。

ヴォリュームの調節。ポジションを変えず、圧力を麥える。音楽を浴びる。違いを自覚する。やってみて、よかったか、悪かったか、気持ちよかったかどうかを考える。

 

とにかく出す!減点法ではなく、加える!100%以上体を使う!

どんな短いトレーニングフレーズでも、感情、心を込めて「表現」する!

 

もっとシンプルにする。息が吐けなくても、体から離さない。体につけてふくらませること。音量や飾りではない、声の密度。

 

「今の自分の何もかもを、ここでひとまず帳消しにして、明日から全部やり直してもいいですよ」ということになつても、「今の自分の持っているものを全部背負って歩き続けたい」と言えるくらいの自分になりたい。今はそうじゃないので。もっと人に優しくしたい。




 

 

周りの人の声がびんびん響いてきて、圧倒された。

 

感情よりもまず、言葉を言えるようになるよう、心がける。言葉にならなければ、歌にはならないし、伝わらない。「はい」といったポジションをつかまえておく。

 

タイム感の重要性と、裏拍、ビート感のつながりについて。いくつかのトレーニングからわかったことは(かなり前から分かっているが)、自分はリズム感については、スタートラインが人より後ろだということ。

 

先生に言われたように、シンブルであるがゆえに難しいトレーニングを、日々消化していくことにする。前からリズム感かないのは分かっていたので、やろうとは思っていたのだけれど、先走りしていた。けれど、自分の能力を高める上で、リズム感のアップは避けて通れないので、やっと何とかする気になった。

 

一流のアーティストを目指すのに必要なアティテュードについて、よい話が聞けた。声、歌、言葉には真実があるというが、まだ自分には全く見えていない。せいぜい、自分の歌に何が足りないかが、ほんのちょっとだけ、分かっただけだ。

 

演劇やアイドルの語を引き合いに出して、ヴォーカリストについて話してくださったところで感じたことは、演劇は大勢でやるから、演出家にでもならない限り、そして意識の高い人が集まらない限りは、自分の意図したことをよい形で表現できない。

 

アイドル歌手のように、よいプロデューサーの元で活動するのには、縁がなさそうだ。ゆえに私は、大変だけれども(他の道も大変だが)、バンド全体をプロデュースするヴォーカリストになるしかない。

 

「あーあ(ミレミ)」の発声で、自分の感性をどこまで表現できるか。自分の歌いたい理由というものを、改めて問う時間だった。

 

私が以前から獲得したいと思っているのは、「ため息で分かる」ということ。それは、ただ疲れたの「ハーっ」でもいいし、感嘆の「ハーっ!!」でもいい。

今日は、福島先生の、その無音の中に、あきれたの「ハーっ」を感じてしまった。あーあ…。

 

本物を聴いたとき、その人の中心がどこにあるかを感じる。

それを自分の体に置き換える。真似事ではなく、自分のリズムに置き換える。

いかに個性の世界といっても、感動の基本になるルールがある。

 

「課題]「レッスン」というものにしばられて、実際歌うときどうなのか、それを聴いて、自分の中のどこが揺さぶられたかということを、聴く→歌うに変わるときに、すべて捨ててしまっていた。そこのところの架け橋を渡るとき、絶対、感じたものをはずさない努力をする(大前提=正しく感じる)。

 

入りのところで、どれだけしっかりとつかまえてられるか。感性を使って、どれだけ自分の核心で握れるか。その感覚を磨いていく。今まで、入りのところのイメージが甘すぎた。イメージを高めて探るのではなく、思い切って一点のポイントをイメージして、そこで握ろうとしてみることを繰り返す。本当の核心は、針のような一点だと思う。イメージをぼやけさせない。表現に、色や揺らぎをつけて、曖昧にしない。鋭くイメージする。鋭く感じる。

 

レーニングとゴスペルとの関係。個人・個人練→のどを開くことをやる。

グループ・ゴスペル、感覚をつかむ。いつか声に落ちていくときの感覚をつかむ。

のどを痛めない。

 

聴いて判断する力を磨き統けなければならない。表現するために必要な多くの要素を直悠的につかんで出せる感性。どんなに気持ちを入れていても、またはフレーズなりその作品が素晴らしいとか、よいメッセージか含まれているとしても、声となってその場で表せるかどうかによって、それが強くも弱くもなるのではないか。激しい気持ちだけでは足りない。それを形にしなければいけないと思った。

 

大前提として当然のことだが、「伝えたい」という強烈な想いがあること。プロの歌にはこういうものがつまっているはずで、それをどこまで聴き分けられるか。スタイルを真似て、それっぽく歌うことなど何の意味もない。というより、伝わらない。

 

自分の声を聴いたが、あまりに平坦だった。体についていないってこういうことなのかと思った。体ができてるわけじゃないにしても、なぜ体でできず、頭でやってしまうのだろう。誰かのマネのマネのそのまた真似。聞いていると恥ずかしくなってしまう演創の安っぽいセリフみたいだった。口先で作っている。「冷たいことば間いても」と聴いただけで、パッ一とイメージが開くような歌。

 

“ヴォイストレーニングは体の整備(あくまで)”ということ。今している体づくり、息吐き、声出しなどは何のためにしているのか。自分で目指している方に向いているのか、常に確認する。その前に自分はどこへ行こうとしているのか本当に自分でつかめているのか再確認する。

 

実践贋座P2まえがきの把握しておくこと。

1.どのくらいルベルか→話にならないレベル

2.どこに達しようととしているのか→Stevie WonderMariah Carey、Jocelin Brownのようなかんじ。

3.そのギャップをどのように埋めるのか→ギャップの大きさに絶望しないこと。地道に每日、しかし確実につかめていく。

4.どのように上達しているのか→まだ上達などほど遠いが、ここに入ったことで目指している方向へ視線がきっばりと向けられた、というかんじなので体を向けて一歩を踏み出せる用意を1年目で仕上げることを目標にしたい。まだ石の体なので、まずほぐす。

 

実践購座P141に“・・・そういう生き方への執着”ということばがあります。執着が自分に不足している。どこかで歌を社会生活から逃げる言い訳や場所にしていた、と思いました。今までのダメな自分も認めて気づいた今から改めていきたいです。

 

会報にもそれらしいことが書いてあったけど、先生の吐く息や声を頭にしっかり思い出してトレーニングするといいと思う。先生にも言われたが、なかなか息が100パーセント声にならない。自分でトレーニングしててもすごく思う。もっともっと数をこなしていくしかない(自分の出す声に死ぬほど集中して…)。

 

何ていうんだろう、福島先生の歌に対する敬の念というか、瞬間瞬間の表現の大切さ、2度と戻らない時間の中で表現するという歌のはかなさ、同時に素曜らしさ。そんなものを一つのフレーズにとことんこだわる姿勢に感じました。本質を見たというか、そんな浅はかなことばでくくれない何か。注意しないとホントすぐにのどにひびかせてしまう。そのせいで、タンもからんでしまう。フレージングでも、もっと自分なりに破壊して表現しないと。

 

今日レッスンで福島先生のいわれていたことがけっこう理解できてきた。自分で少し体がついてきてると感じた(うぬほれかな?)。でも、体をトコトン注意すると、ひようげんできなくなるし、その逆も同じ。そのバランスが難しいです。

 

声帯を初めて見て、その動き方を知りました。また、周りの筋肉の動きも見れたので、密接に関係していることがわかりました。ほんの少し声帯が開いているだけで息もれの声が出たりしていたので、とても繊細な部分だと思いました。

 

のどの周りの筋肉を常に柔らかくしておかないといけないと思いました。ガチガチにしてしまうことかよくあって、そのために声帯を傷つけているのだと思います。あとは呼吸をしっかりマスターして肺にたくさん空気を入れられるように、肺の周りの筋肉、横隔膜も操れるようになりたいと思います。

 

 

 

 

お腹の後ろ側がつってくる。筋肉が疲れてくるのだ。一曲3分として、一曲もつ身体と考えると、まだまだ身体づくりがな.っていないのだ。6カ月目でこの程度の進歩というのは、ひとえに努力不足である。反省。ボーッとしているうちに2年が過ぎていたということがないようにしよう。心を新たに息吐きしょう。深い声…深い声…ホント・・・深い声、うーんまだわからない。どうしたらいい。

 

深い声は今の私にはキレイな音でない。ハイ、ララ、あ〜汚い声だと思う。が息がつくと、音色がそろう。これか?。これなのか。?この音か?声か?先月よりは、音色がそろってきたように思う。これは救いだ。とにかく深いハイを一つつかんでみよう。これなのかな。

 

フレーズの出だしできっちり中に入れること。ことばを言う上で、役者の要素が歌うものにも不可欠。世界最高峰のところに目標をもっこと。一つの完成の中に全ての完成がある。自分のトレーニングの仕方について、とても勉強になる話をたくさん間いた。自分の感性で捉えやすかったものをきちんと知覚して、その一つのことを掘り下げていくこと、この大切さが体で納得できた。

 

自分自身を判断する客観的な力を育てていくこと。紙に書いて部屋中に貼っておきたいようなことばをたくさん聴くのに、全部を覚えている訳ではないから、少しもどかしい。でも頭でわかるよりも体でわかる方が先、というモードに少し傾いてきたかもしれない。客観的なことばとのバランスをきっちりとっていく、おごらずにつきつめていこう。

 

自分の声を容観的に判断できること。自分の体をいかに使い、いかに息をしたかで、フレーズを展開させるか知ること。基本を捉えないうちに口先でやるな。まだその段階じやない。曲を聞いて、そのイメージを取り入れ、それを自分の中で自分の表現と合わせて処理すること。

 

今までシャンソンをじっくりと大きい音で聞いたことがなかった。なるほど息の感じがわかる。味があって、おもしろいものだと思えた。

 

福島先生が2フレーズ程、口ずさんだだけで、強弱によるドラマのようなものか見えて感心した。今日はキレイに歌うことが自分の中で消えて、今は身体につけることだという段階になった自分を盛じた。音の高さもまだどのくらいにしたらいいのかつかめないか、低めの方が今のところ、身体につけやすいが、声がこもるところもあり、まだベストポイントはわからない。けれど、身体に声をつける糸口が見つかったかんじはする。

 

基本というのは「いつも同じにできること」。それを展開することが「表現」である。

 

フレーズはもちつつ、そこから少しはずすのがポッブス(声楽と違うところ)。しかし、リズム、ことば、フレーズがあってのこと。歌を歌っているとき、ある音以上になると、違う出し方をしているのがよくわかる。音(声)は出ても、深いところで出ていない。チェンジしてしまう。歌とヴォイストレーニングを一致させるのが難しい。

 

先週、P.36のトレーニングをやった後、その感覚を覚えて、「これだ」という体使い、声ができたと思ったのだが…。今日はまた、後退してしまった。どうしても、のどや首の周りで、調整してしまっているのだ。この1週、家での練習がおもしろくなってきていた。今まで、本当のところ、家でのトレーニングは、「声と体をつくるためにやらなきゃ」という気持ちでやっていた。

 

今日、先生がおっしゃっていたが、とにかく基本をとことん突き語めて、完璧な1音をまずつくろうと思う。今の私の中低音は、不安定で、声量もとても小さい。毎日毎日、最下音の時の息、体使いを操り返し、確かな1音に近づいていこうと思う。

 

今までは、ひたすら息を深くすることだけを考えていたけど、これから先の方針として、「確実に声を体に入れるために、息を吐く」ようにする。

体を使うことに意識を置きすぎていて、声が生きていなかったので、これからは体と息と声の三つがうまくつながるように意識する。

 

言葉にメロディをつけたとき、まだまだフレーズがふくらんでこない。動き出さない。生きていない。構成のセンスが貧しいのか、自分の中で、これだというやり方も見えてこない。今は言葉を生かすのに必死だ。文字どおり、息を吹き込むという感じだ。

 

「歯切れがいいなあ」と思ったので、切って歌ったら、変になった。先生に言われて、よーく聴いててみると、歯切れはいいけど、なめらかに歌っている。この「なめらかさ」が、私には全然わかってなかった。歌を歌うのなら、曲の雰囲気に流されてはいけない。自分でその雰囲気の原因をつかみとらなきゃいけない。

 

フレーズの一番最後の音の処理。体に入れる方法。そこにたどり着くまでに、ピークになるポイントを持っていないと、最後にあまりすぎて言い切れない。

 

「オペラはとてもストレートなので、多くの人が惹きつけられる」という先生の言葉が印象に残った。この頃オペラ歌手の歌を毎日聴いているけど、意味はさっばり分からないのに、気持ちがどんどん入っていく。こんなシンプルなものとは思わなかった。とても重要なことだ。

 

体から離さないで歌おうとすると、途中で抜いたり、ビブラートをつけたりなんてとてもできない。でも言葉を飲み込んで、そこに体を入れれば、表現になるということ。押していく感じ。実際には、1フレーズで疲れて、ブレスがうまくいかず、続かない。焦っても意味ないが、体力づくりだけは休めない。つい、頭でごちゃごちゃ考えてしまうが、体で、言葉の隙間を埋める感じ、体を使うことをきちんと積んでいく。

 

普段話している声はもちろんお話にならない声だが、それ以上に、普段自分が話している内容というのが、なんと無感情で味気ないものであるかと思った。心の底から笑うこともなければ、まして泣くようなことも、怒ることも、あまり日常ではないということに気づいて、生活のあり方について考え込んでしまった。

 

今、とても楽しみにしていることもあるし、もちろん悩みもあり、うちこむべきものもあるが、大きな感情の起伏のようなものはない。立ち上がることなど無理と思うほど打ちのめされることもなく、天にも昇るような夢見心地もない。1つ1つを真剣に思っていないのだろうか。というと、そうでもない。このままでは何も生まれてこないし、生み出せない。

 

難しい、というよりは、まだ体がなくてできない。「はい」を確実に言える何音かをつくってから、言葉にしていけるようにする。日々の自己練皆で、きちんと目標を立てて、焦らずやっていく。

 

声のある歌と声のない歌(浮いた声の歌)の違い、表面がビリビリとなった声、根っこがある声、これらの区別が自分なりにつくようになった。というか、先生の評価を聞いて、自分の発したものを判別できるようになった。

 

同じ3000字一気朗読でも、「ロックヴォーカル基本辭座」の「はじめに」を読むと、なぜ私自身がやるのか、何を目指し、何が弱点なのかを、再飯戳できるという相菜効果がある。

 

一生出会えなかったかもしれない歌にあえるのでうれしい。

自分で無差別にあらゆる歌を聴いているつもりでも、きっと偏りがあるであろうから。

 

福島先生は、全てお見通しだった。現在の状態、ゴスペルとの関わり、現在の問題点、トレーニングとゴスぺルのそれぞれの大切なこと、今の私との違い。一全部が、自分の想いの中にあった全部が、全部明らかになってしまった。

 

ゴスペルで、先日、とてもすばらしい体験をして、今また、大きく気持ちを整理して、これからの方向性の意味付けを構築するときが来ていると、切実に感じた。

 

最近思うことなので、ちょっと質問っぽい感じだが、一流を見ること、ヴォーカルの体をつくること、音楽の知識や用語(歴史)、音程・リズム、歌の心を知るなど、大きな柱があって、これを同時に進行させていくのか、それともこの時期はこれ、この時期はこれと、わけてやっていくのか、どっちが身につくのかなー、なんて思っている。この大きな柱と柱を結んで一つにする接着剤みたいなものに、すごい秘密が隠されているのではないかと、ちょっと思っている。

 

自分にいつもいい聞かせている。ここは、自分の今もっているもの全てをさらけ出し、恥をかきにくる場所だと。そして、全てのレッスンがステージだと。

 

最近、今日の授業のようなことをずっと考えていて自分の生活を見てみると、「24時間が365日がトレーニング」にはなっていないなあと思い、だめな自分にがっくりしたり、うまくいかない現実的な貧乏、空腹にめげたり、進歩(上逹)のわからないトレーニングの体づくりがとまってしまったり、堂々めぐりだったのですか、たぶんそれは執着が足りないからなのだ、と気づけて、それが今日はうれしかったです。

 

今、しなきゃいけないことは、レッスンで力をつけたり、いろんな経験をつむための努力。いいものを観たり聴いたり、一人で考えたり精神力も高めて強くならないといけない。

 

最近、気づいた、初歩的なトレーニングを自分のあうトレーニングを作りやらなきゃって。少しでもいいから每日やらなきゃ。この場所に求めすぎてもダメだ。成長するのは自分しだいだから。どんどん今までのトレーニングを参考にして、家なりスタジオなりでやっていこうと決めた。

 

今、振り返ってみると、最初の1年は、私自身の心構えや歌うことの意昧、そして練習の意味さえも理解していなかった気がする。もちろん、今日だっていろいろな課題が山積みされているのだが。

何よりもそのときの自分というものをさらけ出すことができなかった。たとえば、レッスンのときでさえ、間違えたり、できないことに怯え、自分自身よりも他人との比載ばかり考えていた(今考えると、できないからレッスンに来ているのだが)。そして、ステージでも、何とか今、もっている自分のカ以上のものを出そうとばかり考えていた。あげくの果てに歌を歌い、表現するのが怖くて、つらくて逃げていた気がする。等身大の自分を自ら見ることができなかった。

今、ついに伸び悩んでいます。うまく歌えないときほど、たくさんのことを勉強しているようで、逆にラッキーであると。こういうことを乗り越えて、今に私は自由に歌えるときがくる。やっと正面から自分を見ることができるようになったのだ。

レッスンは、間違えに来ているのだと。できていれば、ここに来る必要はないと。

 

新刊を、帰りのフェリーの中で読んでいて、「体がふくらむ」というところや、「高音ほど体を使う」というところで、なんとなく超絶オペラを歌っているところの真似をしていたら、背中のふくらむ感覚が分かったような気がした。正月は、そんなことばかりをやっていた。お寺の行事では、檀家のおばさん達から、「なんていい声なの!」とほめられたりもした。

 

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