一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レクチャー「ヴォイストレーニングの秘訣 」 432

レクチャー「ヴォイストレーニングの秘訣 」



声のポジションをつかんでから始めること

 

声は、体のいろいろなところでひびきます。ほお、あご、首、舌など特に力が入ったところにひびきます。これが自分の声をて、心地よくないと思う原因となっているものです。

これを私はくせといっています。くせをつけてはいけないのです。ヴォイストレーニングでは、このくせをとっていくことが基本となります。

 

声は力でひびかせようとするのではなく、最終的には、体でつかみ、吐いた息の線上にひびきも統一させて出していくことです。これが、正しいヴォイストレーニングへの第一段階です。

 

私は、息はある程度、自由に出してトレーニングしてもよいけれど、声についてはできるだけ早くから正しく出すことを覚えていくべきだと思います。日本人に多い、日常的にくせのある発声の上には、なかなか正しいトレーニングができないからです。

 

最初は、胸のまんなかにまとまりをもってひびく声をつかまえてください。声を胸のまんなかのところでとって、少しずつ、さらに深いところ(下の方)へ感じていきます。

深いといっても、押し付けるのではありません。押し付けると、のどの下の方でつめて、邪魔してしまいます。このときには、のどを完全に開いていくことを覚えてください。

すると、やがて頭部のひびきもしぜんとついてくるわけです。

 

多くの初心者の場合は、ピアノの鍵盤のまん中のドから1オクターブ上のドまで歌って上げていくと、声が細くなり、のどに負担がきて、声がつぶれてきます。そのときに声を上にひびかせたり、後ろに回したりして逃れている人が多いのですが、それは根本的な解決になりません。

 

そうするまえに、できるかぎり、胸だけでとってみることです。

のど声を外すやり方は、“声を口や首の中で出している”という意識をなくしていくことです。

肩から上だけで声にしないことと思ってもよいでしょう。

本当は、上下のバランスが大切なのですが、日本人の場合は、極端に上のひびきに頼り、胸にしっかりと声がついていないから、このくらいから始めた方がよいのです。

 

こうしているなかで、少しずつ息の支えをもつことです。声が閉まるところに対して、高音になればなるほど、強い呼気を声にしていくという技術が必要となるわけです。ですから、ヴォイスコントロールというのは、声に負担のない使い方を勉強することといえます。

 

実際に、“のどが開く”ということはありえません。その逆です。声帯を強く閉め(閉める)というイメージは、あまりよくありませんが)、呼気圧をより強くします。

これを声にするために声が厚く短くなり、高くなります。逆に声帯の緊張を緩めると低くなります。これが、息の支えによってコントロールされます。

 

息を声にすることを、“声立て”といいます。これをできるだけ、シンプルに一つのフォームのなかで一つに捉えていきましょう。

 

たとえば「はい」と言うときに「は」のところで「は」と「い」を一致させて、声にするのです。Haiという感じです。これがしぜんにできるようになれば、ことばが一つに体で捉えられるようになります。

しかし、これをトレーニングしようと意識的すると、そのために部分的に力か入って、できなくなります。しぜんにできるようになるためには、それを支えられる体とタイミングにツ)が必要です。

 

これは繰り返しのなかで、身につけていくしかありません。こうして、身につけたものが技術なのです。この意識と無意識を、どう、かねあいをつけてコントロールしていくかということが、トレーニングの目的なのです。

 

たとえば、バッティングでも、最初は力を入れないと打てないけど、力を入れると打てない、という矛盾が起きます。ピッチャーも同じでしょう。力を入れないと、投げられないが、力を入れると、球は伸びません。

しかし、基本的なことを繰り返していると、あるとき、頭ではなく体でわかるわけです。フォームというかたちができるのです。ただ、最初になんらかのイメージをつくっておくと、もう少しわかりやすいと思います。ともかく、全身でやることをおっくうに思うと、伸びません。

 

日本人の歌う声がよくないのは、声の原点に還らず、のど声のまま上にひびかせようとっくり始めるからです。最初ののど声を、さらにくせで固めていきますから、すぐに限界がきます。高い音に届かせるくせを固めているだけですから、それは小手先の技術にすぎません。年月をかけてでも、正しい原点から始めていくことです。

 

ヴォイストレーニングをやって伸びない人の多くは、のど声のままでやるからです。体の中心で声をとるようにしていると、どこかでくせを脱していけます。それまでは上にあてたり胸に押しつけずに、脱するのを待つのです。

 

これは、なかなか難しいポイントです。一流の声楽家や、役者の世界で、第一線でやっている人は、声を出すための深いポジションを持っています。そこを離さず、歌にします。

三流の声楽家や、三文役者は、何年やっていても、そのポジションが持てないでいます。最初に、その基本を固めなかったからです。

努力は、基本の上にしかのってこないのです。その違いは、本当にそこでしぜんに声になっているかどうかです。これは、一声聞けば明瞭にわかります。




声のベースづくり

 

私は、若いときには、大人にならないと深い声が出ないと思っていました。トレーニングではなく、年をとらないとダメだと思っていたのです。

ところが、海外へ行ってみると、若くても、そういう声のベースを持っている人がたくさんいるのです。その上で歌っているので、とてもしぜんで迫力があります。

 

日本人でも探い声のポジションというベースを持っている人がいないわけではありません。ところがヴォイストレーニングができている人をみると、ヴォーカリス卜よりも、役者さんの方が多いようです。

どちらにしても、とても少ないのは確かです。これは、文化や風土の差によるところが大きく、日本人の声にとっての最大の課題なのです。

 

ここのヴォイストレーニングで要求しているのは、声のべースづくりです。これが安定して、ようやく歌えるのです。2年間で徹底してベースとなる体、声をつくって、そのあとに、声を歌に応用していくつもりでやれば、確実に伸びていくでしょう。

最も必要とされているのは、あとでいくらでも伸びていけるための大きな器づくりとしてのベースを得ることなのです。しっかりとした基本の上にしか人間離れした芸事(ヴォーカルもその一つでしょう)は、のりません。

 

最初は、朝起きてすぐに深いポジションで声にすることなどはできません。ヴォイストレーニングで、鍛えられていくのです。徹夜だろうがなんであろうが、普通の人なら声を壊すような過酷な状況で声を出すためには、並大抵の鍛え方ではだめなのです。

スポーツのように、体を使うことで早く強くするには、相当な無理と負荷をかけるのが、一番なのですが、その無理と負荷のかけ方を、直接、のどでなく体全体で受けとめなくてはいけないのですから、難しいのです。

 

私が人を指導できるのは、まったく声にならなかったときにスタートしているからです。私自身、のどがものすごく弱くて、他の人の方がよほど声が出ていました。その時点で、正攻法でやろうと思ったわけです。だから、誰でもやりさえすれば身につくのです。

 

もうひとつ離しいのは、のどの強さということがあります。相当、無理しても、のどかもつ人と、もたない人がいます。しかし、体は、息を出すトレーニングをやっていくと、どんどんと強くなるわけです。 声が身につくプロセスには、人によって大きな差があります。体はやればやるほど強くなりますが、のどの方は急には強くなりません。あまり、急ぎすぎると、人によってはよくないことにもなります。体に応じてゆっくりと声を育んでいった方かよいと思います。

 

長年やっていくと上のひびきと声とがうまくミックスできてきます。ただ、しぜんにやっていくだけでは時間がかかるため、ヴォイストレーニングで補うことが必要なのです。

かなりの高音をステージで歌っている人も、このヴォイストレーニングのときは、上のドくらいまでを中心にトレーニングしています。女性も、かなり下げて地声をしっかりとかためることをやっています。

 

私の理想ですが、日本語の歌も、しゃべるように歌えるようになるためには、最終的には話す声も深いポジションにいかなくてはならないと思います。日本人の場合、はとんどの人ができていないようです。

歌うのに使う声域は、通常、話している声よりも1オクターブ以上高いわけですから、無理してつくっている部分です。そこで不しぜんにつくると、歌ったときは変にひびくけれど、セリフを言ってみたら全然普通の人と変わらないなどという、おかしなことがおきてしまいます。

 

それを超えて世界的に活躍している人たちというのは、声というのは、統一して捉えています。ひびきのバランスのとり方は、歌での表現上での必要にじて、しぜんと思うままになってしまうのです。これが一つのテクニックになっていくわけです。

のど声の問題に関しては、深くとっていくしかありません。自分がのど声でないときの状態を常に再現して保持していくことです。




イタリア語や関西弁を手がかりにする

 

普段の話し声から麥えるという人もいますが、それは却って難しいことでしょう。日本人は、はとんどの人が浅いのど声で話しているのですから。イタリア語会語でも始めて、そのなかで深くひびく声の感覚をつかんだ方がよいのかもしれません。

 

声楽家の人が、早い時期にのどを外せるのは、結局、歌に日本語を使わないからかもしれません。イタリア語などは、体からの深い息と結びつきやすいことばで、強弱アクセントでもあるため、ことばそのものが音楽的に次の語に転がっていく性質があります。日本語と違って、すべて母音で回転していくことばです。日本語も母音はつきますが、音声学的にいうと、無声音や詰まる音も少なくありません。

 

たとえば、「聞く」と言っても、「KIKU」ではありません。イタリアなどの場合はこれを、必ず母音にもっていきます。だから、一番最後に子音で終わる場合以外は、必ず1回体に入るのです。母音の深さも全然連います。強弱のアクセントもあるので、つなぎ方もしぜんとメロディックにもっていけます。

 

ここでメロディをつけたり、音楽として歌わなくとも、ことばを発していること自体が、ブレスヴォイストレーニングの最初に求めていることと同じこととなります。彼らの言語生活そのものが、理想的なヴォイストレーニングとなっているわけです。

 

しかも、強弱アクセントのときにフレーズがおのずと生じ、同時に強弱のなかに高低が入っていっています。胸の中心で声をとることと、頭部にひびかせて外に出すことが、日常のなかで同時にできているわけです。

ですから、普通の会話のところがそのままポピュラーの歌ルベルであって、それがベースになっているから、ちよつと歌い上げるとオペラになるわけです。それだけ声がしぜんに使えているわけです。

 

それに対して私たちは、日本語をずっと聞いて育ってきています。のど声が先祖代々、継承されています。その意識が離れず、普段しゃべっているときにもしぜんと浅い声にしているのです。それをトレーニングのときだけ深くと言っても、難しいのはあたりまえです。

 

ブレスヴォイストレーニングは、まずそれを徹底させるために行ないます。特別のマニュアルやメニューではなく、プロの声のようになるためには、それを聴き、彼らがその声を出すに至ったプロセスを踏むというのが、このトレーニングの考え方の元にあるのです。

 

日本語は、音楽的にのりにくいことばですが、それを音楽的に解決する解答は、ブレスヴォイストレーニングでは出ています。イタリア人が日本時で歌っているものを聞くと、美しいひびきをもつ深い日本語になっています(イタリア人が歌った日本暗の歌詞がおかしいのは、しゃべったときの日本語自体のアクセントがおかしいからです。

 

日本語をきちんとしゃべれたら、不しぜんでなく歌えるのです)。技術として、その深い声を身につければよいのです。そうすれば、日本人は正しい高低アクセントをつけながら、歌えるわけです。日本人が、1オクターブほど深いところでしゃべれるようになればよいというだけの話です。

 

イメージや感覚からいうと、関西弁あたりは、イタリア語の感じに近いようです。ことばも、つまったり無声化したりしないで、前に出していきます。省略して、子音から母音につなげていくリエゾンみたいなことをやっているわけです。そのため、ことばかひとつの流れとリズムをもち言いやすいのです。

環境そのものも、ズケズケとはっきりと表現していくようなところがあります。だから、関西弁から入るというやり方もあるかもしれません。

 

見ていると西日本の方へ行くと、ハイトーンを出すところでも、日本人にしては、あまり、のどを意識しないでできる人も多いようです。だから、ポピュラーのヴォーカリストをみても、声か体についてシャウトしているようなヴォーカリストは、広島、博多あたりも含めて、西の方の人が多いようです。

のど声になってたり、のどにひっかかってたりはしていますが、方言のなかで、こういう問題をうまくクリアするコツがあるのかもしれません。

 

北の方には、声を、ストレートに出すよりも、完全にひびきを上でまとめてとっています。これは、日本人がのどを上げて、声をきれいにとるときの一つのテクニックです。これをことばをうまくいえるようにつきつめ、日本人特有の技術としたのが演歌のように、私は思います。

 

これは日本人の典型的な高音処理の音色です。これをしぜんにできるのは十代後半にすでにできている人、つまり、まわりの人より高い方に声がシフトしている人に限られるので、そうでない人がまねるのはよくないように思います。高い音が出にくい人は、正攻法で、体から身につけていくことです。そのハイトーンの方がインパクトがあり、インターナショナルに通じるからです。




フレージングとイメージづくり

 

一番ベースになるトレーニングというのは、最初の段階では、ことばを徹底的にトレーニングすることです。少しでも深い感覚でことばを出すことをやっていくのです。なるだけ、“強く"、"大きく”、“太く"ということをめざします。

ことばを本当に感情を込めて伝えようとしたら、体も深い息も胸のポジションも、ハート(ソウル)も使われるのです。それが最も正しい声のきっかけです。

 

次に、ひとつの流れをことばそのものから出していきます。強弱のリズムを打ち出すように考えるとよいでしょう。さらに、フレーズに入っていきます。そのことばとリズムに息を送りこみ、さらにメリハリを大きなスケールにしていくのです。

フレーズというのは、結局は、表現の形態です。決まつたものではありません。私のいうフレーズとは、ひとつの表現を伝えるために、圧縮させたり、伸ばしたり、間をとるなどということも含めてはいってくる流れのことです。

 

日本語というのは、ことばの音の一つひとつの感覚が均等なのです。だから、五、七、五(俳句)と数えられます。さらに、全部頭打ちですから、声の流れが平面的(一本調子)になり、立体感(メリハリ)が出ません。ほかの言語の場合は、強弱アクセントのため、あるところはすごく密度が浅くて、あるところはひびきだけでとっています。

 

このなかで、ことばをそのままにメロディを入れてくると、しぜんと歌になってきます。これを日本語を使って、ブレスヴォイストレーニングではメロディ処理として、学びます。

たとえば、「はじめて」ということばに「ドレミファ」とつけて、それを高低アクセントをつけて日本語で「はじめて」と間こえるように歌うことができるようにするわけです。そこでは、ことばもリズ厶も一度で体でひとつに捉えてから、さらに表現として、すべてを満たしていくことが求められるわけです。

 

フレーズの展開は、ことば、リズム、メロディを、1回、自分のなかに入れてしまって、それを伝えるためにどう自分が表現するかを捉えることです。自分の曲でない場合は、作曲家・作詞家の意図を、楽譜から読みとります。表現から入るべきで、すでに歌われている歌のまねから入ってはいけません(もちろん、初心者には、一流のヴォーカリストの歌をたくさん聞くことでしょう)。

 

メロディや音程ばかりでなく、ことばやリズムのトレーニングをやりましょう。本当はその方がストレートに表現へ入れるのです。最初に、自分でその曲を感じ、これをどういうふうにあげるとよいのかをじっくりと考えましょう。そして、実際に何百回も体で伝えようとしているうちに答えが出てきます。

 

そうすると、これはなにか伝わる予感がするとか、続く予感がするとか、そういうイメージが声のなかに全部入っていくわけです。そのベースがないと、いくらフレーズの展開をしていっても、味わいに欠けてしまうものとなります。

曲に入るまえのヴォイストレーニングのときから、こういった感覚を磨くことは意識してやっておくべきことでしょう。

 

歌を聞くと、すぐわかるのですが、そういう判断基準をもっているヴォーカリストは日本には少ないのです。閒いてみて、歌えないと思うと、やめてしまい、歌いやすいものを表面だけ捉えて、練習したつもりになっています。そう簡単に歌えると思う方があまいのです。プロの歌い方とどういう差かあるのかを具体的につかまなくては上達しません。

 

日本では、比較的、ジャズや声楽を聞いている人のなかに、耳がよく、歌や声の判断力がある人が多いようです。ただ、そういう人はヴォーカリストがすぐれているかは、わかるのですが、自分で歌えない。知っているだけに歌えないのです。

それはともかく、ヴォーカリストをめざすといっている人の耳のなさには、あぜんとします。まずじっくりと聞くところから始めてください。

 

本来であれば、ヴォーカリストは、自分で歌っていくのですから、もっとわからなくてはおかしいのです。心で感じたこと、伝えたいことをたくさんもっていることです。自分の表現に組み込めるだけの力を持たなくてはならないはずです。

 

野球やサッカーの選手でも、ブレーヤーで、第一線でやっていたら、少なくとも机上の評論家よりは、その動きから、肉体的なことがわかるはずです。なのに、ヴォーカリストの場合、なぜかその感覚がまったくない人が少なくないのです。

 

 

声そのものの魅力で表現する

 

文化の違いというのは、ものすごく大きいと思います。ヴォーカリストにとっても、表現する意味とかアーティスト精神がないと、いずれ、先に進めないのです。そのまえに原点に逆上るしかありません。

 

ロスで私のところのヴォーカリストは、ヴォイストレーナーのほかにサックスの奏者から学んでいます。音楽のセンスがいくらよくとも、むこうにいったら、みんながその条件をもっているので、そこで声のパワーと使い方の部分が抜けていることが、わかってしまうのです。

サックスの一音が人の心に感動を伝えるようにヴォーカリストの一声もそうでなくてはいけないのです。ことばでなく、音声、音色、そして息とミックスさせた声の使い方が問われます。

 

これは、日本人ヴォーカリストなら、ほぼ全ての人の問題です。日本人の埸合は、それ以前に、よい声をよく思う感覚がありません。仮にあっても、それを自分の声で出せないのです。

だから、ステージでいくらしゃべりまくっても、本当の意味で歌になっていかないのです。音楽が出てこないのです。それは、頭のなかにそういったイメージが流れてないからです。

 

そこの部分というのは、どの程度の実力で得られるのかはわかりません。お腹の中の赤ちゃんのときから、音楽のあるのなかで育っていった人間と、趣味でしか接していない人とほ全く違うでしょう。それは、ときに絶望的な差に思える部分でもあります。音楽がなくては生活できない国とはやはり退います。しかし、トレーニングのなかで克服できない課題では決してないのです。

 

たとえば、音楽には戦争で、士気を鼓舞するような力というのが、あるわけです。戦争というのは、無理に人を動かすものだから、疲れているときにも士気を高揚させるためなどに使われてきました。

歌も同じです。よいヴォーカリストの歌は、楽しい歌でも悲しい歌でも、人に力を与えるのです。

ゴスぺルの歌い手のマへイヤジャクソンのサイレントナイトは、歌を聞いた病人の命を救ったそうです。

 

日本は、日常的には精神的なものを表にあえて出さない方がよいという環境です。だから、どうしても表現しようとすると無理に演じなければいけなくなります。舞台に立ったら役者にならざるをえません。日常が舞台となりにくいのです。独自の世界をもっていて、そこに歌がうまくはまれば一番よいのですが、そういう人は少ないのです。




オリジナリティとそれを伝えるパワー

 

私はアーティストの場をつくろうという活動をしていて、そこで、いつも、“変な人”がいられるように気を配っています。どうしてかというと、そういう人が一番強いからです。それがーつの表現にはまったとき、ものすごく強くなります。これがオリジナリティの源です。

まだアマチュアで、はまりそこなっているから笑われていても、はまってしまえば、それ以上に説得力を持つものはないのです。

 

流行を追って入のマネばかりやっていると、それがどんなに人から好評であっても、それゆえ、そこから、一つの世界を打ち立てるところまで育っていけないのです。

現役で長く活躍している芸人でも、ロックのヴォーカリストでも、最初に出てきたときを思い出してください。最初はとんでもないことをやってきています。普通はあれ一発で終わるといわれることをやって、終わらないところが才能というものです。

 

どんな分野でも、秀れているために日本では理解されず、全然わけがわからないといわれ、むこうへ行って認められたという日本人は、今も多いです。それも、なにか変な感じがします。文化というもの自体、地についていないといけないのに、音楽をつくっていくのに、なぜ、いつも外国なのでしよう。

自分のなかに流れている血を大事にして、育ったところに根をおろしてこそ、オリジナリティは、開かれていくのです。

 

日本人は歌においては世界にかなわないのでしょうか。いえ、フランスのシャンソンのように、周辺の人が入ったために、なかの人だけでは、やれないことができたということがよくあります。

 

たとえば、日本人がジャズをする。日本風にしただけではよくありませんが、外から入っていったために、なかの人間と全く遠う劣等感やコンプレックスを感じ、それだけ努力することによって、より大きな何かが生み出されていくことはありえます。

 

たとえば、演歌の歌い手がジャズかなにかに入ったら、それだけで、まったく違う可能性が出てきます。その人が演歌の要素を持っていたら、それを今という時代にぶつけるからです。ジャズしか聴いてなくて、ジャズの亜流でしか歌えない人よりは、距離があるだけに、新しいものを切り開くことができるのかもしれません。

 

そういう意味では、周辺にいるからよいのです。中心にいたら、絶対に生まれてきません。中心にいて生み出せるのは、最初、中心でないときにいた人だけです。なぜなら、中心となった時点で、時代ができて權威が付くからです。文化も同じです。周辺からしか新しいものは生まれてきません。それなのに、皆、誰かの手で中心に据えてもらおうとばかり、考えています。

 

特にロックというのなら、誰かの焼き直しをする時間があったら、新しさをめざすべきではないでしょうか。ヴォーカルの世界には昔からすばらしい歌い手、そして歌が世界中にあります。

そういうものから、今に通じる価値やパワー、センスを学んでください。伝統は学びつつ音楽の価値の基準は、どう今にもっていくかを問わなくてはなりません。“今”がつきます。そこは自分で考えないといけません。

 

こういうことを述べるのも、そのことと、声や技術は、本来結び付いているものだから、一流のヴォーカリストが共通としてベースにもつ要素をとり入れていくことです。今でいうなら、東欧や南欧、それに発展途上国のヴォーカリストがそういうことを学ぶのにはわかりやすいです。

それは、かつてのゴスべル、ジャズ、カンツォーネシャンソン、それらにオールディーズとかとも結びついています。だから、旋律が違ったり、曲自体が違っても、声そのもののべースや表現のベースはそんなに違いません。

 

「違わない」と言うと、少し誤解がありますが、日本だけがやはり番外なのです(特に、日本では80年代に入って、歌はヴォーカリストから離れていっているようです)。

ことば、リズム、雰囲気は違ってもベースとしてもっていく部分は、人間の声として共通の部分です。必ずしもそこまで声を使うかどうかは別としても日本人のヴォーカリストの声は貧弱すぎるというのは否めません。

いろんな歌を真剣に聴いてきたら、こう思うようになりました。本格的にやるのであれば、一度、日本を離れ、世界的な視野から捉えた勉強から入っていった方がよいと思います。





上のひびきに逃げるな

 

ヴォイストレーニングで一番、気をつけなくてはならないことは、発声らしい発声になったり、声楽かぶれしてしまつたりすることです。上の方のひびきを安易に使うと、すぐに一時、上達するということは、とっくにわかっていることです。

それで上達しても、結局はだめなのです。ほとんどの人がそのようにして少しうまくなったあと、何年たっても伸びていないのです。これはあなたのまわりで何年も歌っているヴォーカリストをみればわかるでしょう。

 

音大生なら、年に何千人と、そルベルの人が出ているのです。そして、結局、四年、発声を学んで、ポピユラ一つも歌えません。歌うためにはいつも大変な準備をします。そうしないとステージに立てないというのは、どうしたことでしょう。

むこうの人たちのように、普通にしゃべっているままで、ちよつと歌うというように、どうしていかないのでしょうか。ポピュラーというのは、それぐらい生活に密着しているものでしょう。

 

そう考えてくると、多くの人の声のつくり方というのは、先に急ぐために基本を置き忘れているといえます。ひびきを高いところで回していくのを発声練習でしていますが、その前に体から思いが伝わるように声を出すという、もっとベースの基本練習を忘れていませんか。

 

フレーズであれば、上の方のひびきよりも、ことばのひびきを捉えるところから始めるとよいと思います。ことばのレベルでできるようになると、次にことばではできるけど、歌になると、ヴォリュー厶感に乏しくなるという問題となるでしょう。

それは、そのべースとしての息の流れがないからです。声の深いポジションをキープしていなくてはなりません。そのためには、かなり強勒な体が必要になります。

 

発声において一番の違いは、声のポジショ二ングです。深い声の人は、外国の映画やニュース番組をみたらいくらでもいるでしょう。日本人は、映画のときにも、声の魅力をあまり感じないのでしょうか。

あのような探い息で声を出そうとしないのです。あのような声の音質を求めないのです。

結局、日本では、生活のなかでも、日本語を使うにも、必要ないからです。それを歌において、要求されるから難しいのです。

 

これは日本人の声自体が元々、出ないのではなくて、変につくってしまうからに過ぎません。体と一体に捉えていないから、のど声になってしまっているだけです。現に、役者などで一流の人は、呼吸と体の動きを一体にしている人たちは、声もしぜんに出ているのです。

 

ただ、日本人には、かなりのトレーニングを必要とするのも確かなようです。たとえば、エアロビクスをやれば呼吸も深くよい声になるものですが、日本人に関しては、インストラクターも声を出し始めるなり、せっかくの息の流れがちょん切れ、のどを閉めているので、声をつぶしている人が多いのです。

日本のロックやブルース、ジャズのヴォーカリストも、声の出るところが、のど、歌うときは上のひびきだけによりかかっている場合が多いのです。

 

ですから、“のどを外す”ために、意識的に、深いポジションをとりにいくのです。これが、私のヴォイストレーニングのノウハウのひとつです。

少しでも息を深くして、間をおくことです。間というの技、ひとつの“ため”です。“ため”で、せき止めておいて、そこで声を出します。徐々に1オクターブに関して、安定させていきます。

 

 息を声にするところ、いわゆる声立てという部分が大切です。効率的に声を使うことです。

もう少し専門的に言うと、呼気圧が加わって、声帯が閉じるのが遅くなると、気息音(息もれ)になります。

逆に、呼気圧に対して、声帯が強く閉まりすぎると(同時にではなく、声帯が早くて、その後に息がぶつかってくると)、硬い音になり、のどを痛める原因になります。

 

そうは言っても、声帯は1秒間に200〜400回くらい振動しているので、体の感覚でとらえていくしかありません。そのイメージをどうつくっていくかは、個人個人で違います。イメージを与えられても自分のイメージにして、もう一度、体とともにつかんでいかないといけません。

 

何事も、自分で解釈してみて、自分なりに図式をつくって、自分の体に当てはめていかないと、本当の意味でものになりません。だから、トレーニングは集中して、毎日、真剣にやらなくてはいけないのです。それは面倒ですが、漠然と練習を流していては上逹しません。

 

ヴォイストレーナーは、今の声がどうなのかというマップをつくって与えていきます。今の声はどこでだしているかという、位置づけをして、ヴォーカリストと共通に理解していきます。これも単にまねるのではなく、イメージとして捉えるのです。

 

そうでないと、トレーナーと同じ声になっていきます。トレーナーと同じ声ということは、トレーナーより、へたになっていくということです。トレーナーが、その体に忠実な声であればあるほど、自分にとっては忠実でない声になっていきます。それが、くせです。☆

 

だから、自分の感覚でとらえて、自分で答えを出していかなければいけません。ヴォイストレーニングは、そういったものです。

ポピュラーで、自分の世界をつくっていくのであれば、なおさらです。誰一人同じ歌い方、同じ歌ではありません。もし、それが同じ歌い方になったら、何の価値がないことになります。




日々、鍛錬して確実に身につけていくこと

 

レーニング方法は、1から10までいったら、次に100までいくのではなく、1を一段、高いレベルにして、そこで、また1から10まで繰り返すのです。常に、なにができてなにができないのかのチェックします。

そして、また一段高いレベルで繰り返します。10回のうち1回しかできなかったものが、5回できるようになったとしたら、その状態を完全にキープしておいて、繰り返し練習してレベルを髙めることです。

調子のよいときに少し難易度を上げ、応用してみて、少しずつ自分のキャパシティを広げていくのです。

 

最初は、本当の声は全然、出ないものです。調子の悪いときは先に進まず、ひたすら基本に戻ってやります。

芸事やスポーツのトレーニングと同じです。10回に1回も出ないのです。

 

レーニングをしていくと、調子がのってくると、よい声に落ち着いてくるようになります。

そういう状態を、一日の間でなるだけ長くもたせればよいのです。

息も同じです。声がうまく出るときには、息も深くなります。

朝からそういう状態になっているなら、理想的です。

だから、朝起きたら、柔軟や息を流すトレーニングをするとよいでしよう。

 

日常的にうまく声が出るようにするために、どういうふうに生活を組み立てればよいのか考えてみるとよいでしょう。

必要性に応じて声は出てきます。

それもその人の意識によりますから、絶えず、念頭においておくことです。

 

ライブをするにも、ライブで浮き足立つ人と、ライブがあるために、「暴飲暴食なんてやっていられない」、「寝不足も控えなければいけない」と、コンディションを整えるほうに動く人がいます。

ライブでやること自体よりも、それに常にそなえる意識で生活する体制を養うことです。

本来であれば、毎日1回、ライブができるくらいの備えでないと、人前に立てないのです。

ステージに対して充分な力がないと本人がー番怖くなるはずです。

それは、誰にも負けない真剣さがあって、初めてものになるのです。

 

一見、歌がうまい人は、パッと声をだしても、器用にこなせるために、口先で調整してしまいます。そのため、いつになっても体を使って、声をコントロールして歌うところに到達しないことも多いのです。せっかくの素質も、これでは活かせません。

実力のあるヴォーカリストの道は、声がよく出せる1日を毎日にし、よりベストにしようと努力するところから、開けてきます。

 

日本では、お客さんが甘いから、ヴォーカリストも楽です。だから育ちません。体の芯から歌うことをせずに、きれいにやわらかく歌う方が評価される柔な国です。

ヴォーカリストの場合は、お客さんのために歌う部分がありますから、日本ですぐれたヴォーカリストが育たないとしたら、お客さんのせいともいえなくもありません。デビューした後のことです。

 

イタリアのポピュラーが発展したのは、バックにオペラがあり、アメリカが発展したのは、ゴスペルやジャズのように、あれだけ声を出しまくって表現しつくすのが、声の快楽なんだという精神があるからでしょう。

 

日本の場合、それらにあたるのは民謡、浪曲など、のどを使う歌い方です。のど声の世界の方が、よほど説得力があるし、日本語としては、多分通じやすのでしょう。しかし、ポピュラー音楽には、不向きです。

 

本番で使う以上の声をつくっておき、ステージでは声のことなど全く気にかけず、楽しめるのが一番よいことです。そのために、大きな器で声を使えるようにしておくことか大切なのはいうまでもありません。

もちろん、ひとつの方向として、日本人の声の延長上になんとかきちんとまとめて、それで、体でも表現していく方法もあります。

民謡や浪曲のような世界の第一人者もまた、すごい技術と、素質や才能をもっているといえます。

 

声づくりは、本当に極めていこうとするのなら、ある時期、時間がかかっても徹底すること、少しずつ確実に伸びていきます。体とともにどんどんと強くなるので、歌っていくことが楽になってきます。

声をメチャメチャに、のどで思いっきり出すような、そういう歌い方が許されるのは、ロックでも結構、若い時期だけでしょう。負担のくる発声で、何曲も何曲もやるのは大変です。歳をとるにつれ回復しなくなるからです。

 

大きな流れがあって、そこで出ていこうとしたら、それ以上のことをやらないといけないから、みんなそうなるのですが、声をつぶしてまで無理してはよくありません。そのへんの塩梅が難しいのです。

 

声を理にかなって使えている伝統があって、乗り越えるべきひとつの大きな世界があるのです。そこにのると、しぜんと声は使えるようになります。

向こうのヴォーカリストは、どれだけの声を出しているか、わかっているようでわかっていません。

ピアノがうまいから、楽に弾いているようにみえるというのと同じです。

プロだからこそ、一曲で汗びっしょり、全身で歌いあげているのです。

 

実際、体と声ができている分、楽に歌っているのでしょうが、声だけきちんと聞いたら、しっかりと歌っているのがわかるでしょう。

しっかりと歌うことができないうちは、本当は、おもしろくないのです。

 

歌はすべて、自分のなかで構成します。結局は、トレーニングも自分のなかで組み立てていかないといけないのです。

たとえ、のどに負担がきても歌が本当によければ、歌としての間違いではないのです。次の日に影響がなければよいというのが目安です。

 

ただし、ヴォイストレーニングは、それでは困ります。歌で声が荒れたり、調整しにくくなることを防ぐためにも行うのです。

のどに負担がきたときは早くやめるとか、他のトレーニングに切り替えるとかしてください。

次の日のためのよりよい準備を整えることも、今日のトレーニングの目的の一つなのです。

 

フレーズに関しては、読み込みを徹底してやってください。

日本語を全部崩してみて、それで自分のなかでもう一度ことばとして取り込んでいくことを行うとよいでしょう。

そのとき、自分の好きな歌詞などで覚えていくのが一番よいようです。

 

「あなた」ということばをひとつ覚えようとしたら、その「あなた」というのが、一番自分の体に入るような曲を聞いて、そこで「あなた」ということばとともに、イメージ、情感を覚えてしまうことです。

 

すると、他の曲で「あなた」と言ったときにも、それが身に染みているから、その「あなた」の感覚がでて、「あなた」がもちます。それの繰り返しが、あなたの歌のオリジナリティへ結びついていきます。メロディも同じように、声のメリハリで問かせる力をもっことです。

 

この前、オーディションで、聞いていたら、どのことばもとらえないまま、歌詞と音程をなぞるだけの人が多くいました。これでは、本当の意味では、ひとことも歌っていないわけです。本人たちは歌ったつもりなのでしょうが、伝わるものがないのです。

 

日本でも一昔前の歌い手は、みんなそういう基本で判断される経験をつんでいます。そういう経験をつんでいると、やはり、歌にぱっと出会ったときに、「ああ、この歌で新しく出てくることばは、これだ」などと、判断できます。

ならば、それを、どのように構築すればよいのかにをポイントしぼればよいのです。あと他の部分は、今まで使ってることばのイメージを新たに組みたてればよいのです。

 

日本語の歌を歌うのなら、そこができなければ、外国人がカタカナふって歌っているのと変わりません。それどころか、彼らの方が、ひびきとか発声とかよいので上になります。

ことばは、絶対にとらえなければいけません。せりふを読む練習もしてください。昔の歌は歌詞に意味があり無駄がなかったので、そのあたりは、昔の人たちの方がこなせていたようです。

 

今の日本語ロックの歌詞は、意図的に意味をなくしているので、物語性はなくなるし、音のひとつのリズムののりかたで組み立てているから、目的が違ってきています。

意味を伝えようと、一つひとつのことばでためていたら歌いにくくなります。ただ、そのことで本当のリズ厶をとらえそこなっているし、ことばも、とらえそこなっています。

もう一度、リズムやことばに戻って、メロディに入っていくようなべースのトレーニングを徹底すべきでしょう。声のなかにことばもリズムも入れることでしょう。

 

曲のコードにも表情があります。ヴォーカリストなら、そういう感覚を捉えることも大切です。全部のコードのイメージを考えてみましょう。

たとえば、[CM7]明るいがどこか寂しそうなコード。これは、C(ドミソ)が明るくて、M7(シ)が寂しそうに感じさせるのですね。

こういう感覚を、このように理屈で考える必要はありませんが、磨いておいてください。

楽器の人は、みんなそこで勝負するわけです。弾けるかどうかでなく、どう弾けるか、つまり、どう、その人が音で表現するかが問われるのです。ヴォーカリストも同じです。

 

そういうことを感じていたら、もっと練習が深まるはずです。

ドレミのなかで、それこそ、サックスに合わせるような声の出し方で表現をコントロールして、こう伝えたいと思うときには、体が必要になってくるし、リラックスも必要になってきます。本来はそこから入るべきでしょう。

姿勢を正し、息を吐いてリラックスしなさいというところから入るわけではありません。

 

最後に表現、それに心を動かすことがあって、詞とメロディとを結びつけていく練習が必要です。

材料はいろいろとあるのですが、その取り組み方と、それをどのくらい深くできるかか、最大のノウハウなのです。

ヴォーカリストは、ただ歌いこなすのではなく、表現するのです。

それは何かを伝え、人の心を動かすものなのです。

最初から、最後まで表現なのです。




ヴォイストレーニングの秘快

 

□体を統一させ、一本の線上で声をとる

□声帯の使い方と呼気圧を理解す

□体で理解し、フォームというかたちにまでにする

□日本と世界の差を知ること。(声や音楽を中心に)

□2年間でべースをつくって、2年間で応用することを目標にする

□正攻法で、力を抜く(リラックス)と同時に力をつけていく

□のどが強くなるのを待つ。体は早く強くなるが、声はすぐには強くならない

□ベースとなる声を得る

□自分が、のど声でないときの状態を確実に再現できる体にしていく

 

□日本語自体を音楽的に処理できる深いポジションをもつこと

a)イタリア語会話から入ること

b)関西弁から入ること

c)演歌に学ぶこと

 

□ことば、リズム、フレーズ、そこから、構成、オリジナリティと進める

□曲の意図するところを知り、曲を感じる

□自分のなかにいったん入れて、自分のものにしてから、表現していく

□歌を聞いて、判断する力(感じる力)をつける

□イメージを頭のなかに流しておく

 

□周辺にいる方が中心の人が考えつかなかったことができる

□ポピュラーは、生活に密着している

□声立てで、効率的に声を使う

□与えられたイメージを自分のイメージに置き換えて、自分のことばでつかんでいく。

□できたときの状態を完全にキープして、繰り返し確実に繰り返せるようにする

 

□生活の組み立て方と姿勢

□次の日の準備こそ、今日のトレーニング。

□自分の好きな歌で、ことばをイメージし、情動を伴わせていく