ステージ実習コメント
①グレード
②グレード
BV座
◯ステージ実習コメント 「シクラメンのかほり」 ①グレード 350528
楽譜の解釈もふくめて一人ひとりにおいて気づいたことを総論にまとめて、誰がどうこうというよりも大体それぞれに当てはまるようなことを言っています。その中でイメージをふくらませて聞いてください。
個別にいわないのは、今、どう歌わせるかという判断が働いてしまうからで、急ぎたくないから、総論の中で気づいてください。上のクラスについては、会報に載せてあるので、比べるとよいです。
まず一つが原点からやらないといけないことです。
ここでやることというのは、うまくいかなかったら中止しています。その中で残ってきているものは何か意味があると思ってください。
今残っているものは、大きな意味があって残ってきているものです。
自主的にまかしていますので、子供のように提出しなさいとかはいいませんが、こういうコミュニケーションをとらない人に質聞されても困ります。提出してもらうと、その人の成長がわかります。アテンダンスシート一つにしても相当、差があります。
課題曲をこう聞かせるというのがなければ、カラオケと同じになってしまいます。自由曲のポイントも本人かわかっていないと指摘しようがないのです。1曲すべてを完成させるというのは、この場では問うていません。
例えば上手に歌いなさいとか、お客さんが満足するように歌いなさいという形は、はずしています。そうではなくて1ヶ所でよいからインパクトのあるところを必ず出してみなさい。
その一つしかお客さんの心に残らないのだから。その一つだけを裹切らなければよいのです。
周辺はそのためにあると思ってください。3分間ずっとシャウトして歌う歌も中にはありますが、それが最初からできるぐらいならトレーニングも必要ないです。
ですから課題曲はこう聞かせると決めて、そこは自分で実験して欲しいのです。
徹底的にやったうえで、見つけることです。それがわからなければ歌いようがないです。
自由曲のポイントは、自分でそうして選んだポイントで、こちらははじめて聞くので、こうやりたいという意図がみえないと困ります。
布施明さんのヒット曲、つくった小掠佳さんも歌っています。
評価するときには、いつも世界の一流のアーティストならどう歌うかということを一つの基準としています。そのときに何か足らないかは、ここでやっていること、あるいは教えていることです。そういうところからみています。
楽譜の読み込みというのも、あります。ことばの読み込みとともに、楽譜の読み込みから全体の構成を捉えられるからです。楽譜には、解釈するときの共通のルールが示されています。歌のほかにもヒットは楽譜の中にもあります。
「まわたいろしたシクラメンほどすがしいものはない」
ここまでで4つフレーズがあります。フレーズごとに切っていけば「まわたいろした」1つめ、「シクラメンほど」2つめ、「すがしいものはな」で「い」のところで4つめ、この4フレーズ、
「であいのときの」が1フレーズです。
ここから重なりです。4拍目が1フレーズめになります。4拍子の強一弱一中強一弱でいうとそんなに強く。歌えないです。
「きみのよ」が2つめ「うです」が3つめ、次の4つめが頭のところから「ためらいがちに」ここか1つめ、「かけたことば」2つめ、「おどろいたように」ここが大切なところですが、3つめ「ふりむいたように」4つめです。
そういう形で前につまってきています。出だしは1つずつ遅れてでているのです。
そこで「まわた」という出だしはないです。これは微妙にできています。
楽譜では精巧に組み合わされています。なぜ16分音符、8分音符、16分音符の組み合わせがあるのか、どういう意味があるのか、問うてください。
16分音符の中の8分音符はゆっくり聞こえるのです。まして3連がでてきているのは、なぜなのか、知って歌うことです。ことばの数をあわせようとしてついている場合もありますけれど、これはコードからつくられている曲で、楽譜の方に、ことばをつけていっている感じがします。そのへんをふまえて、いくつか変化させなければいけない部分があります。
「まわたいろした シクラメンほど すがしいものはない」
ここまで流れていないといけないです。今日のを聞いていると、とまっているのが多いです。そこでメリハリをつけていかないといけないというでしょう。
「ためらいがちに」のところで世界が変わるわけです。
「きせつが」ここからサビに入る。
テーマは「つかれをしらない」のところ、
これは全部同じです。ラからあがってラに下がる。ラからあがってレにあがる。うしろのフレーズの方が大きいです。次にラからドにあがるときに「できる」
ここが8分音符担っていますから、変化があるわけです。「おしむ」ここもそうです。
そうするとこの4つの中で1番大きいフレーズは最後のフレーズです。「おしむだろう」とこれを必ずしもフォルティッシモでなくてもピアニッシモでも構わないのですが、フレーズとしては大きくつくっておかなければなりません。この曲の一番難点というのはこれで歌いきって終わらないといけないことです。
一番感じたのは、エンディングになっていないということです。歌っていた本人が一番よくわかると思うのですが、エンディングで終われるようにしておかないといけない。そこまでのどこかで歌っておかないといけない。
今すぐには求めませんけれど、この場としていうのであれば、ことばです。一番高いところをことばでいえるキーに設定をしてもらった方がよかった。音域がありますから、難しいですけれど。
「きせつが」「おいこしていく」「できるなら」こういうところのことばが全部とれていないです。そこできちんととって外にだすということができていないので、どうしても流れていってしまいます。
難しいところは4分休符でかなり思いきって切っています。そのへんで流れがでてもよかったのではないかという感じがします。
息で聞けたようなところがあります。同じ息の吐き方で切るにしても、そこでやめ、違う展開にしてそらすという場合と次にフレーズがつながったらそれをつなげるための切り方というのは少し違うのです。呼吸、息にしても雰囲気の方向にしてもそれているような感じがします。
これはことばどおりに「まわたいろした」ここで一つ、「ためらいがちに」で転じるわけです。「ふりむくきみに」であがらないといけないです。
原曲を聞いて最後を伸ばす人が多かったのですが、伸ばさなくてももよいです。伸ばすなら伸ばすなりに自分で音を意識しておいて、少し変化をさせないといけない。ただ伸ばしても何も入らずだらっとなります。ある程度、切るなり、そういう変化があったほうがよかったと思います。
まねると日本人の歌はどんどん伸ばしていきます。動きが出てこない、リズムが出ていない、構成が出ていないというのは、致命的な欠点です。これは自由曲にも言えます。
伴奏をもっと聞くことです。この伴奏でなくてよいのですが、アカペラでは、自分で伴奏を出さないといけないわけです。歌とともに音楽の世界をつくっていかないといけないのです。
わかりにくければ出だしにしろ間奏の部分にしろ、テンポ感にしろ、伴奏をよく聞いてきて、それをイメージの中に流していくことです。それにのっかるというやり方もあります。
違う歌にあげていきたいのなら、それなりに音の背景を自分でつくっていかないといけない、それが全然聞こえてこない。ことばをいって思い出したように歌っている感じで、ぶつぶつときれた感じがします。
ポップスですから、音の背景が聞こえていて、それに声がミックスされている部分、自分なりに伴奏を感じて出さないといけないところがあります。流れからいうと流れからことばがはずれている場合が多かったです。
ことばで流れをつくっていくことです。これは自由曲の中でもいえましたが、ことばが変なところであまってしまったり、あまるのは構わないのですが、それを息とか流れとか別のところで、あまらせて、いきづまると、不快な感じになります。わざと計算してやるのならそれなりにもっと堂々としないといけない。
呼吸の配分とか難しいのはわかります。あまっても変えてもそれはよいのですけれど、それを自分の中でフィットさせておくことです。ことばでいうと読み込みです。歌でもその流れをつかんでいくということです。声自体が平たく浅くなってしまうのを、徐々に深くしていってください。
こういう歌でも「まわた」と踏み込んでいかないと、もっていけないです。踏み込んでいくから「であい」と浮くわけです。弱拍のはいりかたというのは、どこかで歌っても歌わなくてもよいのですが、息で出して踏み込んでおいて、波とかが出てきたら表面を捉えるというようなもっていき方にしないと消えてしまいます。
単純に考えれば1拍目を強く出す、「まわた」8分休符が入っていますから、出たいけれど一つおく。そのためと、それから先にいいたい部分との操り返しで、これは、ためていく曲です。ためていくところから、だんだん速くずれてくるわけです。
「であい」が次のフレーズにいかないで、4拍目に入り「ためらいがちに」が1フレーズ分はやくきている。そういう形ではやく進んでくるわけです。盛り上がりに対しての作曲者の一つの意図なのです。
それを歌で理解する必要はないのですけれど、聞き方から感じてみてください。「きせつが」というのは完全な勝負どころです。そこをはずしてしまうときついです。素直にフレーズの感覚をつかめていると、そんなに難しい曲ではないと思います。
最後を終わらせるためにどうするか、「つかれをしらないこどものように」これは刻んでいく部分でことばです。それに対して「よびもどすことができるなら」このへんはフレーズです。
そういうことでも別に複雑にしているわけではないのですけれど、何回も歌っていたら、こういうフレーズになり、何でこうなってきたのかというところをつかめるはずです。
楽譜の読み込みというのは、とにかく同じフレーズを全部、印をつけていくことです。同じはずなのに違うところは別のマークをつけて区別します。しっかりした曲であれば、自分で解釈できます。作詞者と作曲者の意図をふんだ方が楽です。それをやってみてください。
こなしていくより、どうつくりあげていくかを決めます。大きく考えるなら変えていくことです。作詞家と作曲家とは別のところを主張したいなら、歌の表現の中で出します。
このとおり歌うなかで勉強して、次に自分で歌いたいというときに、どう変えればよいかを決めます。ことばを変えたり、フレージングを変えても構わないです。試行錯誤しましたか。
声をしっかりだそうとするとたての線になります。音楽というのは横の線です。だからといって、横だけではだめです。たての線をとってから横の線をつなげていく。それだけ体が必要になります。
同じようにひびかせながら、ことばをシャウトしようとすると同時に、声の芯をとらえられる体がなければもたないのです。そういう方向につくりあげていくことです。
あまり押しつけようと意識しないことです。トレーニングのときと違って、自由しないと1曲ということになるともちません。
ここでみているのは、ベストの声を、1曲の中でオクターブを使ったときに1ヶ所でもよいから出せているかということです。それが出せたら拡張していけばよいのです。
確実に3音で1フレーズなら、その声の中に真実を入れられるという人が、1曲を与えられると、どこにも出てこなくなるのです。たとえば声がそろっていないときに、それを拡げると全部悪いほうが出てしまいます。一つも出てこなくなってしまうのです。
ですからいつもステージではできないと言っている人には、できない方があたりまえと言っています。よいところを一つだすことです。歌全部を聞かせられるわけではないから、ポイントをきちんととらえて、あとはマイナスにならないぐらいにする、それが構成です。
全部、歌いあげてしまうとカラオケのような歌になります。
全部をバランスとって聞かせるような歌い方というのは、トレーニングのときにやっておいて欲しい。しかし安易に抜くことを覚えてしまうと、そこで成長がとまってしまうのです。
気構えが大切です。そのへんを感じてみてください。
◯ステージ実習コメント ②グレード 390528
ことばで考えるからわからないのです。それは頭が固いということです。ことばをことばで受けていては、この世界はなりたちません。それを納得したら受け入れればよいし、合わなければ受け入れなければよい。どれが正しいとかどれが正しくないとかは、出た声によって判断します。
トレーニングもいろんなトレーニングがあって、どれが正しくて間違いなのかは本人しかわかりません。佐藤先生にあっている人もいれば、私にあっている人もいるし、ここのトレーナーにあっている人もいる。
いろんなメニューは出していますけれど、ここではマニュアルというのはないですし、統制もしていません。一つだけ気をつけてもらっているのは、だめだということは、言うなということです。
トレーナーにとっては、だめなことかもしれないけれど、ポビュラーですから、当人にとってはよい場合もあります。その許容範囲は大きくみていたいのです。
個人的に言いたいところはありますが、自分のワクに、はめないように気をつけています。個人的に言わないのも、やっている人にだめだといったらどうしょうもないのです。将来に対してみるところです。んトレーニングの時期ですから。
自分のなかで判断してください。そうでないと伸びないと思います。どれがよいとか悪いとかは、実際面ではないです。身についたことが正しいのか正しくないのかなど、厳密にはわからない、いえ、そもそも、ないのです。
複雑な要因があって、そこは頭では理解不能です。
そのトレーニングをやらない方が早かったとか、結果的に歌を邪魔していただけのことのようにみえていても、一所懸命やったトレーニングというのは愛着がありますから、それによってよくなったと思いこんでいることもあります。そういうことまで含めての総量が、ものをいうのです。相撲の稽古みたいなものです。心身に身につける方向で行くのならば、です。☆
30年前から普及している声楽の教科書と同じようなことだと思うのです。
腹式呼吸というのであれば、お腹が出たままとか動かして歌うというのはあり得なくて、トレーニングと実際は違うということです。トレーニングは強化していくことで、特に強化トレーニングの埸合は、応用で問われることと、かなり違うことをやります。
実際の歌い出しのときには、一時、呼吸は、ためてある状態のあと一瞬ふくらみます。そのあとは呼気、つまり、息が出ていき、圧力がさがり、お腹はへこみます。
どんどん息を吐いてふくらむことはあり得ないです。
これは体の原理です。ここは間違えようのないところです。
声という実際に出てくるものでは、基準があるわけです。それを身体感覚で判断していくということです。ここでも姿勢とか呼吸法とか最初の1、2ヶ月は、指導していますが、そのあと、あまり細かく言わないのです。
本人が声が出るようになっていけばよいのです。それができていれば、最終的にきちんとした姿勢でも寝ころんでも(舞台として求められるのであれば)、声が使えればよいということです。
そのへんを混同しないでください。姿勢も呼吸も声に従うもので、独立しているのではありません。☆
ことばで理解しようとしても、ことば自体の定義が人によって違いますから。
今日の総評では、半分の人は、初心に戻ってください。最初からやりなおせとはいいませんけれど、もう一度、自分の位置を確かめてほしい。
まず一つはステージに立ったら前に出ることです。姿勢として前に出ないとだめです。使えないもの、使いものにならないものは、なるべく使わないことです。やむなくそうなるのは仕方がないですけれど、それで何かになると思って歌っても通用しないです。
自分で歌ってみて、試してみて自分なりに納得するという手順を踏んでから、ここに来てください。自分でやってみたところで、とことんやっておかないと納得はできません。そこを抜かして云々していても仕方がないでしょう。
気づいたことも自分で試して納得したものでないと、将来的にも身につきません。声が出たという経験があれば、それでわかってきます。
1オクターブではなくて3音でよいといっているのは、3音をわかったら次に半オクターブわかるからです。そこにのってこない人には、わからない、
やらない人にはわからないのはスポーツと同じです。磨かないと変わらないのはあたりまえです。これは感性も含めてです。評価眼も磨かないといけないです。
疑って試すだけで、いつまでも違うと思っていてもだめです。答えを出さないと仕方がないのです。
そうしたら本物、真実のことをたたき込んで磨いていってください。
声そのものより判断の基準のほうが大切です。なかに入れこんで信じることです。
真実というのは一つのモノの見方で出しているものです。いろんな中から一つ捉えてもらえばよいのです。
とるカというのは、あなた方のほうになります。たくさんとれる人もいれば、とりそこねる人もいます。ここで出しているのは材料、その提供です。それを忘れないでください。この歌を教えるということではないです。歌を材料としたときに、みんながどれぐらい表現できるかが聞われるのです。
一つはインパクトが欲しいです。きれいに歌う前にパワーです。ここでみているものは、声の使い方というより、そこに秘められた可能性です。わからないほどありがたいです。わかってしまうと終わりです。もうここを卒業してもよいくらいなものです。できて卒業ということではなく、その人にそこまでしかいる必要がないからです。
心地よくなっていくようなイメージなど、音に心が入っていないといけないです。自分のなかで伴奏を感じてください。オリジナリティを出したいなら、違う伴奏を自分のなかで感じていたらよいということです。大きく変える必要もなく変わります。テンポもリズムも変えなくても、全く違う歌になります。
とまっていたら歌にはなりませんから、バックに流しておいてください。センスもこういう歌では聞われます。その課題のなかに踏み込んで、音とかことばでとらえて、その材料のなかで気づいたものをここで出すことです。それが課題をものにするということです。
課題ということで課題をやっていたら仕方がないわけです。課題を自分のものにするのです。課題は何でもよいわけです。それが自分のものになっているか、それがどうなのかということを自分で考えることです。
そうでないと何のために歌うのかということになります。自分で説得できないです。自分がそこで何を表現すべきかわからないわけです。
自分が表現したいものをのせればよいわけです。
どちらが主体か忘れてはいけないのです。そのへんが気になりました。
あなたが欲するところまでしか身につきません。時間をかけて、欲するところまで力は、つきます。そのまえに欲しないと仕方がないです。歌えたというのなら、もうそれで何もいうことはないですから。
信用を積み重ねていくことです。ここでもステージのなかの信用を積み重ねる。
信用というのは何かというと相手にまた聞きたいと思わせることです。これだけの人が観客としてもいるわけです。そこに対して次に期待をもたせることをやっていくことです。
これはうまいとかへたとか、そういうことではなく根本的な部分です。他の人が楽しみに思う人になりなさい。そうでないと聞いているうちに、勝手にやればと思います。そのへんを敏威に感じられないと歌う資格もないと思います。
歌を聞いたら抱きしめたいと思わせるほどでないと、何にも動いていかないです。
今日、感じたのはアマチュアの合唱団か高校生のカラオケみたいなもので、表面的すぎる感じがしました。心に伝わらない、伝えようとして、がんばっているならよいけれど、それ自体わかっていない。
伝わっていないことがわからないと、鼻持ちならない歌になります。厳しさも楽しさも出ていないような気がします。どっちでもよいのですけれど、
どちらかを伝えてください。表面的な歌から卒業してからスタートしないと意味がないと思うのです。
アカペラでソロですから、一つの世界があって、そこにのっかっていけばよいという装置がありません。自分でつくり出していかないといけないわけです。
自分が楽しんでいるだけでは仕方がないわけです。誰も楽しくはないのです。そこを厳しくもたないとけない。人を楽しませるように歌えとかは言いません。自分が楽しくなければ人も楽しめないのです。しかし、固めているような気がします。
最近このクラスで感じてきているのは、他の人の器でまとめているのをオリジナリティと思っていないかということです。人のものをもってきて、これが自分だと出してみても通用しないです。中途半端な技巧づけになってきます。
それだと伝わらないのです。形だけみえます。結局そこから出られなくて終わってしまいます。10のことを10にまとめていても、10を100にしようと型を破っている人が最終的に育ちます。他の人の型は放り出したほうがよいと思います。それもわからない人は仕方がないですが、放り出さないと自分がわからないです。本人もわからないです。自分は出てこないし、他の人はその人が歌っている必然性とか、その人の世界を感じるわけがないのです。
それがよいと歌っていても、本人が心地がよいだけで、お客さんには迷惑です。そのへんは勘違いをしないでください。大きな分かれ目です。このまま、いくのか、そこがわかっていくのかです。
本人がわからないといけないのです。
ここ2、3カ月みると、おごりとか、うぬぼれとか、これぐらいでよいだろうという甘えた態度が全体にみえます。
他人の器で構成というのはみえてきません。そういう人のオリジナリティもどきは安っぽくなってしまいます。歌の本質に踏み込んで、それをつかんで出して、つくり出す努力を忘れずにしないようにして欲しいです。
どんな歌であっても、そうでないと学芸会と同じになってしまいますから。何か一緒にやりたいとか声を出したいとかそういうことであれば、いつまでもステージはもてないと思うのです。うちにこもったり、声がでなくなったりしても構わないです。あるとき突然抜けてきたり、声の線がみえてきたりします。それは10を100にしようという努力を、一時的に沈んでも続けてきた人たちです。
簡単なことでいうと、安っぽいことをやっていると、本当に安っぽい表現になってしまい、それで満足することになります。それは次元の高い土俵での勝負していないとわからないです。
一流のプロの試合をみたらわかるはずです。それも含めてアーティストの精神です。
出たとこ勝負であんまり安っぽいことはしないことです。うまく歌えたつもりでもみる人がみたらだらだらと緊張感がないとわかります。歌の流れが悪いとか、そんなことは関係ないのです。根本にあるものです。
プロというならプロのなかで認められたというところで、アマチユアのところに出ていくべきです。アマチュアの試合でホームランがほしい人は、そこでやっていればよいわけです。アマチュアの投手からアマチュアのホームランを打ってもつまらないから、もっと高いもっとよいものを目指したくなる気持がプロというものです。
人前にたったら、まともに表現することです。1曲でもとても難しいです。
どこの土俵で勝負しているのかをどこか1ヶ所でよいから、そこで勝負できるようにつかめるところをもって欲しいのです。
1人ですべての世界を出していくには、エネルギー、パワーです。ためにためたものをここで出すというようなことを、月に1回でもやることです。
何となくためていないような感じがします。10のことを10でうめているようなだけです。まとめていたら歌にはなりますから。
1年やって土俵にのっていない人は、もう2年やるつもりで、倍ぐらいやってください。そうでないと何のための1年だったのかということになります。
声と歌は待つしかないです。3日で身につくわけないですし、今から猛特訓して、すぐにできるようになるわけではないのです。
イメージとしてプロのものをもっていて欲しいし、それがみえている人はうまくなります。こうやりたいのだとみえている人もいます。こうできるようになれば、この人の歌はできていくと思えると安心できます。そのイメージの線を出せるかということです。それは本人が歌をわかっているかどうかです。
10を100にすると声が追いついてこないから、10が10にしかならないだけです。しかし、本人は100にしようという気がなく、10を10でうめていたらもうそれ以上動かないです。
まず、相手のハートに伝えることそれが第一条件です。そのためには媚びないことです。ステージに媚びないなら、絶対的な強さが必嬰です。いろんな意味の強さです。それがないと、やさしさとか、やわらかさ、弱さも出せないです。
伝えたことに対して、一つの世界とつくり出して、提示してはじめて相手は反応するわけです。あなたを信用して反応するわけです。信用に足るあなた自身を目指してほしいです。
いろんな要素がありますけれど、10を満足していく方向なら、すでにできているところなので、それをここで何度も見せることはないということです。10を100にしようとしたときにイメージを50ぐらいとって、声が20ぐらいしかついていかない。そうなると上達するのです。
本当に本物を目指していたら50のものは聞きたくない、歌いたくないとなるはずです。それを自分に対して厳しくする。そのへんの姿勢が大きく分かれていく気がします。
ここの存在の意味は、より大きくして、本物をつかみにきていることにあると思うのです。
みんながそうなってくれるとありがたいです。
◯BV座コメント 350618
気づいたことはたくさんあります。歌そのものについてのコメントは、さしてありません。信頼していますから。
歌を人様が教えないとわからないというのは、その人に歌う必要がないわけです。基本のことは、レッスンのなかで言っています。突き放してみている分には、歌そのものに関しては、自分で気づいてもらえればよいです。その能力のある人しか、このクラスにはいません。
全体的にみていて、トータルコーディネイト力の不安定さです。
話が入ったときはとても心配です。歌はうまいとか下手ではなく、とりあえず終わっていますが、話はうまく切れない。まずそれが一つ。これは最初から最後まで通しての感想です。
MCそのものも、プロになったつもりでやって欲しい。ここに、一般のお客さん(これは確かに理解してもらえないお容さんもいるかもしれないけれど、一応、考えないといけない)来ていると思うことです。
話の内容そのものも、です。
これも歌う前に話すのであれば、歌に生きなければ意味がないです。たまたま思いついた話とか、その日の時候とか、不要です。
自分の歌の内容や自分自身にひきつけていけるようなものだったらよいのですが、そうでなければ無駄です。これらで大して期待するなというメッセージとなるなら、入れないことです。
話題一つを選ぶにもセンスが問われます。歌とか人間をみたい、理解したい、あなたの歌を聞きたいという方向にする。その前に興味がきれてしまわないようにすることです。MCも含めて舞台です。
単純な話を下手に出してしまうと、その結果マイナスになってしまいます。話そのものも作品にしていくことです。あんまり単純な話だったら、その人はこのレベルで生きているのだと完全にみえてしまうのです。
ありのままでよいという場合もありますが、そこは少し考えてみてください。
歌とのからみにもっていくのはよいと思います。
外国語の歌詞で歌うときに、説明を加える必要があるときもあります。
もちろん、今日何があったとか昨日何があったとかということも、今あなたが生きていることで大切なことです。その人の生きざまみたいなもので関連づけられるならよいと思います。
それからBV座の場合は、ステージ実習でなく、ライブの感覚でやっています。
オーディションのようになってしまったり、カラオケののどじまんみたくなったりするのは、懸念しています。
退屈させる罪というのがあります。これはやってはいけない。だらだらと動き出したら、そこで自分からやめるという判断が働かないといけない。そうでないと自分の損です。
もっとも集約された自分をそこに出さないといけないのがステージです。
それを日常的にしていければよいのですが、難しいのです。しぜんに出てきますから。
今のところはもう少し集約してみて、どうみられているのか、どう聞かれているのかを意識してください。日常的にはどこかで弛緩しておいて、どこかで集中して、その集中力の強さをアピールしましょう。どこかで弛緩していて、その分、どこかで集中するのが一番よいのです。集中ばかりしていると、歌うのは難しいものです。そのバランスは自分のなかでとってください。
舞台に必要なものは二つあります。まず、自分の武器です。それから、それをどういう場でどう使うか、場も含めてトータルにコーディネイトするカです。
歌のなかでも同じことが言えます。両方がなくてもヴォーカリストであれば、歌うことだけがプロである、声一つを聞かせる、あとは、まわりがお膳立てをやってくれればよいという立場の人もいます。
ですから、とにかく自分の武器を最大限に磨いておくというのは前提です。それに加え、立場をどうつくっていくのかも聞われるでしょう。
日本の場合は、自分の世界を誰かがプロデュースしてくれるのを待っていても難しいです。自分でプロデュースまで考えないといけないです。そうするとアーティストとしての視野の広さとかプロデュースカとか、そういったものも必要となってきます。
ここがライブハウスと違うのは、客に媚びるなということです。
笑われても人が集まってもおもしろければよいという芸よりは、わからない客は来るなという芸としてもつ部分で笑わせられる芸人を選びたいと言うようなことです。
客がクリエイティブでないと芸人も小屋も育ちません。テレビを代表とする今のマスメディアに寸する、私のこだわりです。
みんな受け入れる必要はないのですが、少なくともトレーニングの段階では、笑われているよりは笑わせていく形で自分で動かしていかないといけないでしょう。
これからも、いろんなピアニストやプレーヤーとやってもらうつもりです。いろんな弾き方もあります。慣れていってもらえば、よい経験になります。
ーー
ヴィジョン
◯BV座これから
一番迷ったのは将来的にライブハウスにするか、アスレティックジムみたいに汗が流せて練習ができる場にするかでした。今の状況で、入って1年や2年の人たちが欲しているのはジムでしょう。
ただトータルコーディネイトを含めた、時代や社会への感覚、打ち出し、ここが一番弱いのは、そういうところです。元よりメインにしていなかったからです。ここは養成所、プロデュースは、外部に、というスタンスです。
しかし、音楽に加え、その感覚をも磨いてもらうために、とりあえず箱、小屋としておくことにしました。授業には何でも使えるようにしますけれど、とりあえず小劇場です。
自分の武器ということでいうと、BV座をオープンにするにはまだ到底、無茶な話です。中途半端な完成度では、新しいもの、本物はつぶされます。
それなら最初からプロで歌ってそれなりにまとめている人の方が絶対に受けるわけです。
お客にそれ以上をわからせようとするレベルにはないということです。アウトプットの形態を考えるためにも、箱をおいてみるのです。
私自身が、安定した場を一度、壊す試みです。メディアを何にするかというのもあり、その実験の場としておいてみます。
そういうことを考えて、駅から近い、人通りがある、入りやすいということが可能な距離のところに一応、定めました。
何かするときに客が通いやすいところ、昨日みたので、今日はたくさん知人を連れていきたいというお客に対応できるようにします。
今の状況なら旧スタジオでも充分だと思っています。こういうところだからこそ、来たいという人に入ってもらいたいです。
その一方で、何か、忘れているところ、足らないところがあります。アーテイストの部分での感性です。トータルコーディネイト力というのは、いろんな部分で出てくるのです。衣装にも出てくる、顔つきにも出てくる、ファッションにも出てくる、それを全部含めてということがあるのです。
もちろん、ハコ自体、大きな表現媒体です。
私が懸念しているのは、自慰的集団、つまり、ここでしか価値を見出せず、ここでしか通用しない人の集まりになることです。
私は、最初、自分と同じ条件をもつ人を100人集めてみたら、そこから世界に出ていける才能のある入が現われた、おもしろいことができるだろうと思っていました。
今も内心、新しいものが生まれるかどうかということ以外に関心がありません。
そういう意味では、精神は、ロックなのです。そのためのプロセスということで、ハコもみていきたいと思っています。
将来は皆の力で運営してもらいたいです。
そういうことになるまでは、異様で狂気で理解不能な部分がもっと出てこないと、と考えています。
それから今日みたいな舞台をみせて、レベルはともかく、こういうなかで混じってやってみたいとか、その下でやってみたいという人、あるいはこんな程度でやっているなら、そのなかで抜きん出て飛び立ってやるというような人をひきこんでいきたいというのはあります。
説明会や本というのは理屈の世界、私の伝えたいことの1%も伝わりません。
いずれここをトータルにオープンできるとよいと思っています。
BV座にいると、日本のヴォーカリストを聞いて、大した声でないようなことがわかってくるのですが、アーティストなり、ヴォーカリストは、決して、声の力だけではありません。結果と実績でみていくことです。
声がなかろうが、その人が実績を出していたら、それが実力であり、尊敬に値すべきものです。それに対して何か言いたいのであれば、自分がそれ以上のことをやることです。
耳が肥えてくるのはよいですが、戦わない人があれこれ言うのは、意味ないことです。
それを超えていく人は、どんどん、大ふろしきを広げてください。無言実行でも有言実行でも。
人を集めたら成功だと思わないことです。本物の客が続けて来ることを少なくとも力をつけていく時期は優先しなさい。
あなたがいたら毎日でも会いたい聞きたいという人を何人かでも集めていくこと、
それを続けることです。その10人を核にいろんな人を理解してもらえる方向にいくようになる方がよいと思います。
客に媚びる必要がないというのは客を見下しているのではありません。お客さんというのは、時代に敏感であり、鈍感です。今売れているアーティストが声より他の要素で勝負しているのは、時代がそうなっているからです。
で、次に声の要素がくるから声をやるのでありません。
声というのはあくまで使うもの、ツールです。
その上に他のタレントよりアーティストとして価値のある要素がのってはじめて、人前に立てるということです。
それを間違えてしまうと、自己満足だけの世界になってしまいます。
確かな力の差を客としても、みるために、ここが必要なわけです。
本当の力をつけた人たちが出ると本物の表現を問う人たちがやりやすくなってきます。
出てこないと理解してもらうのに骨が折れます。それを怖がっても仕方がないのです。それをレベルアップして抜けないといけないということです。
私の運営方針は、人を切っていくわけではありません。無理にひきとめたり期待しないようにしているだけです。どの人もそこにいるなら、その理由があるのです。そこで変わっていけばよいと思います。
どこかでだめという人は、どこに行ってもだめでしょう。こういう世界というのは、自分が自分を生かしていくようにアレンジして力をつけていくしかないのです。
ですから、続けることということです。ここにいるというのは、個人の力でやっていくことです。
このハコをみんなのなかの1人が脚色していくのです。
長くいてもいなくても、力をつけた人が得ていきます。盗る能力でしょうか。
いくら時間をかけていようがいまいが、それをすべて独占できるということになっていきます。そういう意味で、ここにあるものを全部とっていこうというつもりでやってください。
ここに対して、与えることは、自分の力の確認になります。
ここや私のためでなく自分のためにやることです。
私はあまり人をほめないですが、よいところは、よいと認めています。才能とか実力がある人は好きですが、それより自分を出し尽くす人にうたれます。
そういうものは誰でも好きだと思います。だから皆に好かれたいなら、そういうことができるようになることです。
努力は努力でよいのですが、残念なことながら、それが才能や実力に開花していくまで続くのか、です。
たとえば今日の2曲ぐらいであれば、どんなに才能がなくても、ここで徹底してやっていたら、その生きざまが説得力になり、人の心を動かすものになっていくということです。
このなかに10年待ってやろうという人がいてもよいと思います。
とにかく自分の道を歩んでいくこと、そのために続けることをお勧めしたいと思います。急ぐのはわかりますが、あまり周りに左右されないようにしてください。
ここを出ていった人とか見切をつけた人、いろんな人がいます。しかし、まっとうに3年、5年、10年生きていくと、そこに道ができてきて、それは中途半端にやる人たちよりも撤底してやっている人たちが、宝ものを手に入れられるのです。
ある意味ではみんなつながっているのです。ここの場が成り立てば、どんな人たちにも利益を与えることもできるでしょう。他の人がここにいる人たちよりもやっていて、それ以上の世界をつくっていれば、ここでも生かせます。
そういう意味だと簡単な世界だと思います。力のついた人たちをプロデュースして売り込んでくれる人たちは、あまりいないわけです。それだけ、本人がここを出て変わってくればよいのですけれど、どちらかというとお客さんに媚びてしまって、やっていく才能がありながら、何となく無難で安全安心な柔らかなステージになっていくような感じがしています。
まずは、人のためとは考えず、ましてや、ここののためとは考えなく、自分のためにやってください。自分の力が絶対的になればよい話です。
実力の社会では、力がつけばあなたの笑顔一つでまわりの人か幸せになります。それだけの話です。
そうでなければ気遺いや根回しの日本の村社会の村人として生きることです。
どっちもきついと思いますが、これからの時代は、自分の力が聞われていくことでしょう。どうせきついなら、自分で結果を出した方がよいと思います。
トータルプロデュースの問題というのは、ライブという感覚でみていますから構成を整えなければいけないのです。私の場合は、ここでコメントする権利がありますが、みんなが歌っているのをとめたり聞くのをやめる権利は行使しないわけです。自分では、義務としてあるわけです。
みんなの場合、ここに関しては、自分にとって、嫌いとか、みたくないなら退場する権利は与えようと思います。次に出番があるのであれば、そこまでのステージが自分の感覚からずれていればやりにくいかもしれません。
とにかく自分のステージを考えることです。トータルのプロデュースとしていうと、音の設定にしろ録画の設定にしろ、装置の問題よりも、ヴォーカリスト自身の問題です。
元より、トレーニングというのは、成り上がり的な強化手段です。あとからやってみんなに追いつけないから、体育会的に一所懸命、やって、追いつけ追い越せのところがあるのです。
そこでどうしても美的なセンスや、音楽にないといけない感性の部分が遅れるわけです。
ステージは、衣装から表情まで歌との結びつき全てを考えなければ、今の時代、ステージにならないわけです。ステージから入ってしまっても問題があるので、最初の2年間に関しては、あまりハコとか装置を考えないでやっています。
それは、自分で考えるべきことで、疎かにしてよいことではないのです。歌詞を覚えずに歌いたいといっているようなものでしょう。
ハコとして、ここに立つ以上、最低限のことは、準備すべきと感じたので、ライブハウスと同じような場としておきたいと思います。
その色とか周囲というのは極力、考えないで、本人自身に任せていくことです。それはあなたか決めていけばよいです。
それまではワークショップとして実験場として使うつもりです。
新しいものを認めていきたいです。
自分に理解できないものを否定する権利はないということです。聞かない権利はあります。聞きたくないものであったら、音響とかではなくて、もっと退屈な歌とか準備されていないのに出てきているステージの方がひどいです。
全力でやっている人のステージまで、気分や好き嫌いで拒むと、できなくなってしまうでしょう。
プロとしてやっている人たちはそれでよいですが、一応トレーニングの研究所としてやっているので、広い目でみていることは理解して欲しいと思います。
気になったのは、時間配分です。あとでできることは、そのときにやる必要がない。あとの出番の人に迷惑かけてまでMCやるより、自分のステージに専念すべきです。自分が出るところに関して専念しないと、自ら自分のステージを練習場におとしてしまうことになります。
それを含めての見せの場です。カがある人にとっては同じ力だったらそれをよりよく伝えるようにするのです。
このセンスも磨かれていかないことに対して、危機感も感じています。3年、5年と声だけ大きくなって思いっきり歌えるようになって、今の時代の音楽のなかにどうぶちこむのでしょうか。
媚びなくてもよいのですが、本筋をつかんでいたら別のものが表われてくるはずなのです。こういう歌を歌っていきたい、伝えたいと思えば表情もそうなっていくはずです。
一方で、ヴォーカリストの根本のことはすべて体のなかに入っています。その上で同じものをみせるのだったら、よくみせるというサービスは必要です。外を整えていって中身がなければ、よいブランドを着ている若い女カップルたちと同じで、服が歩いているだけです。
人によって段階が逸うのです。ステージというのでみるのであれば、簡単なことなのですが、それだけではありません。
ワークショップということ、それからトレーニング場であるということ。それから一つのライブとしてみている、その3つが複合して運営しています。
誰に対してどう伝えるのかというのは、誰も決めなくても決まってくるのです。私が決めるべきなのか、みんなが決めていくべきなのかではないのです。
音合わせなどは、みんなが少なくともここに来て歌を伝えるためのセッティングとして最善を尽くすことです。そういう意味でジムよりは、ライブの形式です。
ハコを構えることを優先していますが、今までの延長上でよいです。みんなが変化していくと同時にそういうものが必要であればそろえていこうと思いますし、何か必要なのかから問いたいのです。それがまだみえないです。
ハコをセッティングするところまでです。あとはそこで何かを出していってもらえればよいでしょう。いろんなことが起きたり、緊迫するというのは私は嫌いではありません。
みんなでだらだらになって仲よく終わって最後によかったと終わってしまう方が危機です。
そういうことはどんどんあった方かそれによってよくなります。怠慢かあるならそれは指摘すればよい。そういう形でのよい関係でありたいと思います。