一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

ステージ実習 ライブ実習感想ほか 477

ステージ実習感想  

 出演者への感想

ライブ実習感想  

 出演者への感想

 

 

◯ステージ実習感想

初めて、ここのステージで体と一緒に歌っている感じがした。

なじみのなかった課題曲だったが、本日までに好きになれた。

 

頭で考えなくても、体が使えた瞬間があった。

 

自由曲は、いつもよりは自己満足でなく、潔く何かを発せられたと思える部分があったこと。おじぎがいつもより清々しくできた。

 

すっぽりと歌詞を忘れた。絶対、頭に入っているはずだった。「愛がいつの間にか」で抜けた。ことばを一番練習したところで、2、3小節前から、そこを必要以上に意識してた。そしたらそこが抜けた。集中しなければいけない「流れ」に対して、神経を留守にしていた。歌は流れだ。

 

声のことは、忘れて歌おうと決めて今日に臨んだ。案の定、声はどんどん体から離れて浮いていった。結局、その程度の体だということだ。つめるべきことをつめきってないから、確信のない歌になる。安定感に欠けていた。

 

自由曲…何度も歌った曲で、今までの形とは違えたかったのに、出だしから流れて、そのままずるずると歌ってしまった。それから今日ほ、声かとても不安定で、何度もひっくりかえってしまった。リラックスできなかったのと、ここのところの練習不足だと思う。これ以上できないという位やらなくては変わっていかない。

 

歌を忘れてオロオロしない。何度失敗しても慣れずに、頭の中が真っ白になってしまう。失敗したとき、人に動揺していると思われないくらい堂々と続けること。もちろん、失敗しないのが一番だが、万一のとき、「お客」から心配されたりするのでは信用されるどころではない。ステージではもっと堂々としたい。

 

最後に先生がおっしゃった、人のものの中で表現をしても進歩もないということが、自分のことだと思いました。私は毎回、何かそのままではなく変えて歌わなきゃといつも考えるのですが、それはきっと小さくまとまりすぎて、変化ではなくなっているのだと思いました。

 

初心に戻ることが大切だとおっしゃったのが、とても身にしみています。あっという間に過ぎてしまった1年は何をがんばってやってきたのだろうと、とても情けなく思いました。あとの1年をもっともっと大事に内容の濃いものにできるようにがんばろうと思いました。

 

まず、一曲歌えるだけの集中力をつける。それには体力も必要だと思う。もっと楽譜を読みこんでくる。せめて歌っている間だけは、表現に集中できるよう、歌に入る前に大まかな構成と、どう歌いたいか、どこを聞かせたいかぐらいは考えてくる。

 

今の自分にはパワーが全然足りない。自分じゃない人物を演じたりして、人前に立ってそれを伝えることには、当然パワーが必要なのに。これからは今まで以上に刺激を受けて、自分のパワーにしていこうと思う。

 

 

音楽を中心に、本や映画や芝居など、人間や動物などが発しているパワーをたくさん受け、吸収し消化する。いつでも何か自分のパワーを発していないと仕方がないくらいまで、ため込んでいきたい。

 

緊張という邪魔ものもありますが、練習量がまだまだ足りないと思いました。先生のおっしゃるように、いろんなパターンをやってみて、それだけの何か気持ちの上での強さというのも、とても必要だと思いました。

 

もっとつめてくる。大きくつくってくる。そして自信をもって、すべてを忘れて音楽に集中する。

 

1曲の中で、1カ所を100%にする、ということを実行したい。上向き気味で歌っていたので直す。

 

どうしても、ここで雰囲気にのまれてしまう。このくそ度胸を克服しなければいけない。

 

ステージに立つとそれまでさんざん“ここはああ歌おう、こう表現しよう’’と考えたものが、すべてふっとんでしまいます。だからこそ、普段の練習で身につけたものが勝負の決め手だと思いました(そんなボクのような薄っペらな計算なんて、すぐ見透かされるだろうけど)。熱いものに手がふれたらパッと手を引くようなしぜんに身に付いた反射神経のようなものが結局、ものをいいますね。そのためにはやはり、練習しかないでしょう。

 

今日の自分の一番の課題は、入ってから変わったことをしてやろう。奇抜な歌を歌ってやろう。といつも思っていましたが、どうもそれだけじゃ勝負できないなと思ってきました。まずは普通に歌えることが一番大事だなと思いました。それができてから、じゃあ表現しよう。ことばを伝えよう。自分の気持ちを伝えようって。今日の結果はだめでした。歌っていて、全然自分の体中からパワーも情熱も何も出てこなかったということです。

 

練習不足もありましたが、この曲に対してあまり感じることが「想像力不足」でできなかったのが最大の悪いところだと思いました。なぜ私は歌うのか。何を求めているのか、何を表現したいのかを、もっと追究していかないといけない。半年近くなって、これからやっていくことがわかってきたようで、全然わかってない気がした。

 

①自分の追究②福島先生の本の理解(「やさしいヴォーカル」の練習)③鑑賞(感じる)④体力づくり、声つくり⑤音楽全般の理解⑥ステージ練習 やることは山ほどあります。焦らずに毎日できることは毎日やって、少しずつでも前進していきたいです。歌がうまくなりたいです。どうすればうまく歌え、相手が感動するのか、まだよくわかりません。力一杯歌っても、歌詞の理解力があって表現力がないと、全然、歌にならないと思うので、両方できるようにつとめます。

 

自分の中では10出していると思っていても、実際はその半分も出てない。10出すためには自分の中で20、30ぐらいのことをイメージしなければいけないようだ。パワー不足につきるが、現時点で思いっきりがんばって出している声が、もっと楽に出せたら強い声も弱い声をもっと出せて曲に表情が出てくると思う。今は全く余裕がなく、がんばっているだけの一本調子になっていっている。気持ちと体がばらばら。1曲歌うと、表現するためには土台となる声をきっちりもっているかいないかの重要さを痛感する。

 

 

先生のコメントが胸にしみた。「思いっきり練りこんで来て、それを本番ではすべて解放する。それでも残った1%が真実である。」解放が次回のテーマです。そのためには、もっと準備しなければ。

 

今日は、自分の反省、他の人のをみて、共通して学んだのは「集中力」(あきらめない、捨てない)。

 

次回はすべてを忘れて、歌ってみたいと思う反面、そうするとすぐ、口先だけで歌っていたときのクセか戻ってきそうでこわい。とは言え、その悪いクセがよみがえるとすれば、結局のところ練習不足なのかもしれない。次はやってみようと思う。

 

歌うほどに、体を解放していくことがすごく目標だったのだけど、課題曲はそれどこじゃなくなり、自由曲ではもう一つ、振りきりきれなかったところがあった。ストーリーづくりをすることで、音声イメージもフレーズも、決まっていくのだということを、強く実感した。

 

私は歌を歌いながら、途中で歌を断ち切ってしまうところがある。そっけないというか、自覚して味にするならいいけど、あれはちょっと冷たい。

 

日本語の発音の難しさを感じた。声や音楽とは別のところで「あ」なら「あ」という発音そのものに、さまざまな表現があると感じた。しかし、表現や味ではなく単なるクセに聞こえ、鼻につくこともある。つくづく深い。私自身はなるべくまっすぐにサラッと発音できるようになりたい。

 

ことばをよめばよむほど、感覚的にわかるような気がするのに、それを表現として表わすことができなくて(感性と一致しなくて)苦労した。2曲とも難しかった。つくられたような表面的なものにしたくなかった。

 

今ある声、息、体で、1曲をまとめるのは本当に難しい。最近の私の悩みの最も大きな問題です。自分の表現したいものは、今の私にはできない、かといって何年も歌わないわけにはいかない。

 

 

 

 

 

◯ステージ実習出演者への感想

 

伝えるものは、音と音の間。ことばとことばの間にあるものだと体で気づいたら、すごくよくなるんじゃないかと思う。

 

外国人の声に一番近かった。個性のある人だと思う。

 

堂々として安定感のある声、そして特徴のある、根底からわいてくるような声で歌っていたところ。

 

アカペラなのに、伴奏があるかのように聴こえて、リズムにのれた(自由曲)。

 

初めて歌を聴いたが、安定感があり、素直な声だなと思った。ゆったりとした気持ちで安心して聴ける。

 

ものすごい声虽、ずどーんという感じ。前に聴いたときと違うぞ。

 

ことばをすごく大切にしている。語尾まであきらめずにていねいに歌ってて、すごく性格がうかがえる気がした。

 

とても大事にていねいに歌っていて、声も深みがあってよかった。

 

盛り上りで張れるところ。逆に落とせるところ。また太く出すところ、声がとても安定していると思う。曲の構成の中でよく考えられていて、自分にとって参考になった。

 

何かわからないけど、落ち着いたひかれるものがとてもあった。

 

 

何かを越えた感じがしました。力んで飾りの部分が多くて浮いたようだったのが、すごくシンプルに肩の力が抜けて歌を歌える喜びが体に宿ってきた感じがしました。ゴスペル効果かナ。

 

1語1語に力(気)が入ってて、何かをみせようとしててよかった。伝えようとしていたと思う。

 

何か、こうなつかしいとてもよい気持ちになれました。

 

構成がきちんとできていて、方向性が見えた。

 

前よりもパワーアップしたように思えた。ロングトーンの安定も見えた。なんか一皮むけたような感じでした。ある部分、もっと壊してよいような気がする。落ち着きすぎているというか、もう少しスリルみたいなものが見えると、もっとおもしろいと思う。

 

注意点、ステージで下を向いて歌っていたところ。

お客の前でため息をつくこと。「すいません」とあやまること。

自分の世界に入りすぎている人が多い。終始、目を閉じているのは、どうかと思います。

 

課題曲をいろんなふうにアレンジしている人たちには自分なりに曲を消化しようとする枠からはみ出そうとする姿勢が見られて、自分にはないものなので、いいなあと思いました。新しい試みをしようというのは、すごく評価できると思います。

 

注意したいのは、曲として成立するかということです。へタすると自己満足だけが残る一人よがりになりかねないなと思いました。自分なりのアレンジをしたとき(そうでなくとも)、ハッとするような意外性がないとダメだな思いました。

だから本当にやりたいのは、この曲はこうアレンジしようと初めから変えるんじゃなく、自分の内面から本当に表現した紡果、しぜんとこうなったっていうのが、一番望ましいのですが。難しい。

 

 

全体的にいえば、みんな先が読めてしまって、ハッとするような意外性がないなと。小じんまりとしてしまってるというか。固まってしまっているというか。もっともっと歌での既製概念をとっぱらって、新たな可能性を自分の中から見出さなければ、②でやる意味がないんじゃないかと。

 

グレードの問題じゃないけど。ただ、そんなボクのような半人前中の半人前でも先が読めてしまうような歌なのに、それを福島先生に評価してもらうのは、すごく失礼なんじゃないかと。一所懸命やっているのはわかるが、一つの枠の中での努力で、もっと違う次元から捉えるのか大事なんじゃないかと。でもこれは、すべて自分にも当てはまります。

 

歌詞を忘れてしまったら“ラララ”でつなげばいいのにと思う。歌詞を正確に歌うことより、音を止めてしまわない方がずっと大切なのに。

 

先生によって教え方が違うといっている人がいるけど、私にはそういう意見が出ること自体、不思議でしょうがない。同じ人間じゃないのだから、その先生の口から出ることばや教え方が同じであるはずかないことくらい当然だと思う。同じでないということが個性なのだから、私はある程度の統一も不必要だと思う。

 

「抱き締めたい」と思えるかどうかという点について、今のレベルではスリッパでひっぱたかれる”お笑い”にしかならないと思う。よく先生が最後まであの部屋にいてくださると思う。②なのだ、ということ。福島先生は「初心に戻れ」とおっしゃったが“「歌うを歌う」なんていうのは100年早い”と言われても仕方のないレベルにいる。

 

「出した声がすべて」と福島先生がおっしゃいましたが、誰にも出せないような声だから誰かが自分の声を聴きたいと思ってくれたり、その声で歌って欲しいと思うのだ。結局、自分しかいない。誰かがトレーニングして自分が上達するわけではない。あたりまえだが、もっと何というか、びしっとしないとダメだ。

 

皆の声を聰いていると、人ぞれぞれ、いろんなところから声を出しているのがみえた。私でもわかるのだから、先生が聴いたらもっと細かく見えるのだと思います。②のは初めて参加しましたが、それぞれの濃度か全然違うなと思いました。先生の言うように、どこに目標を定めるかか、とても大きいことに思う。

 

リズムを足でとっている人かいて、私はちょっと耳ざわりに感じた。自分も含め、体の中で(かくすということではなく、深いところにうねりを感じるということ)リズムを、グルーヴを感じるようにしたい。

 

課題曲というのは、同じ曲だけに、残酷に各自の音楽の違いが表われてしまうと思う。自由曲はそれぞれ、「ポーン」と声が出ている箇所があったように思う。その声で、課題曲までカバーできるようになれればよいのだろうが、自分も含めて難しいです。

 

 

 

 

◯ライブ実習感想

 

知床旅情」をやるんだったら、もっと古い文部省唱歌を歌い覚えたかった。外国の人の前では、なるだけそういうのを歌いたい(加藤登紀子は中国語で知床旅情を歌って、現地で大うけだったそうだが)。

 

すっごく勉強になりました。声をそろえることについて、こんなに考えたことはありませんでした。

 

自分のように息のたりない者にとって、非常に難しい曲でした。間があいてしまうし、息つぎばかりで、つぎはぎだらけになってしまうし、ものすごく遠くにある課題だと思いました。

 

自分にとっては、歌いやすい方の歌ですが、いつも通りポジションも上がってしまうし、フラフラのダッチロール状態でした。自由曲とはいえ、不自由でした。

 

本当は、も少しふっきれたのでバカになってやりたいのであった。いずれやるからまあいっか?

 

「故郷に帰りたい」という意味は、ただ物理的にたとえば自分の場合だと大阪へ帰ったらそれで安心したり満足するということではなく、地球そのものが本当の故郷としての自然の姿に戻ってくれて、それが我々にとって故郷に帰るということを、好きなメロディにのせてカタカナの英語もどきでよいから、気持ちを表現できたらと思い、この曲を選んだ。

 

非常にマイナス思考なんですが、一番に比べ2番、3番をほとんど聞いたことがなく、自分で全く別な歌を歌っているような感じがし、とうとうその差を埋められなかったがために、1番しか歌わなかったようなものでして、構成などとはいえないモノでした。

 

歌う前は、1番から2番にいくに従って声のヴォリュームをアップさせて盛り上げようとしていましたか、体のたりなさゆえに、ただ必死でがなっていただけで、ギターだけはかろうじて狙い通りになっているという状態で、かんじんの声はまた逃げるくせか出てしまったようです。

 

多分、自分の器の問題以外の何者でもないんでしょうけど、どうしても1曲に集中したいと考えてしまうので、今のところ、それをしぜんに打破できるまで、自由な場合は1曲にさせてもらっています。早く何曲歌っても聴衆を離さない自信をつけてみたいです。

 

歌自体は小さい頃から非常によく耳にしていた割には、意味はよくわからないままのように思います。場所も北海道で、ただただ、偉大な自然とともに暮らす人々を思い巡らせるぐらいのモノで、メッセージを発信するところまで行っていなかったです。一番いけないこととは思いつつ、いい加滅にしてしまったのと同じことで、反省しなければいけないと思います。

 

 

わかりやすい歌詞なので、ストレートに声を出して迫力で押せば、元気の出る歌のはずですが、声のっふをそろえることができなかったので、安定感がなく、せっかくの理解しやすい歌訶も自分なりのメッセージにまでもっていけていませんでした。

 

今の俺にはこれでよかったと思うと同時に、もう少し杜会的な曲も創っていかなくてはいけないと思うし、創っていきたい。声については、最近の多忙な生活のためか、浅い息になってあまり出ちゃいなかった。

 

同じ日本の中でも、沖縄や東北地方の民謡なんかを聰くと、歌詞を見ないと何を歌っているのかわからないものが多い。でもよいものには感動するし、洋楽を聴くときも、歌詞に感動するのは、メロディの次であると思う。やっぱりメッセージとは、まず声そのものの中に内包されているべきであると改めて思うし、そのためにしぜんと心に残っているメロディを聞いて、素直にやってみることの大事さが出ていればと思います。

 

準備的要素については、悪いマナーであったと言わざるを得ません。歌の内容の理解などに関して、準備し過ぎということはないのですから。後、声に関しては、いつもながら毎日、自分のペースでコツコツやるしかないので、それほどマナーの悪さにつながったとは思いたくないのですが、しかし、トレーニングの内容や取り組む姿勢などは、もっと追究できるでしょうから、教えを怠らないように常に気をつけたいと思います。服装は、歌いやすいことだけ考えて、下ジャージをはいていましたが、もっと歌がよくなったら見栄えも考えたいです。

 

遅れて入っていくと、ムードができあがっているところへズレて参加していくために、自分の場合、気が小さいので焦ってしまう。で、何か取り返せないかと思っていたら、いつも一人で夜中にグランドで歌ってるみたいにしてみようと思って、ギターケースに座ってあぐらかいてやってみました。あんなことは一昔前のフォーク歌手もやっていて、何も目新しさはないですけども、少しでも歌のいたらなさをカバーしようとして、とっさに思いついた割には、まあよかったかなと思います。そうすることによって、いつも通り、普通に立って歌うよりも、少しでもこっちを見てくれる人が増えてたとしたら、今回一回限りにおいては、成功と思っておきます。

つまり、何が言いたいかというと、それだけ何とかしてお客さんを退屈させないように、そしてコミュニケーションの手助けになったとすれば、マナーもそれ程悪くはなかったと思います。そして、いつもリラックスしてやっているときのポーズで歌ったことで、歌のスピードを変えて歌う都分など、思った通りにできたと思います。

 

MCの「あの」はなくす。

 

生意気にも、100%歌によるコミュニケーションをめざして挑んだのですが、これも全て、声の完成度や器の大きさに起因しているものですので、今現在は失敗してあたりまえだったでしょう。また、それを補おうとして笑わしたりすることに頼るのはやりたくなかったので、実力通りの結果を感じとれてよかったと思います。

 

今回の曲2曲は、完全に客と俺との間にカべをつくろうが一人にこもろうが、どちらでもいいから思いをたくして歌いたかった。創ってる期間、あまりにも赤裸々な詩ばかりできてしまって、非常に暗い日々を送ってたのだ(詩のスタイルを変えようとも思った)。でももう、大丈夫。赤裸々にそして少し逃げながらでも、いくらでも詩は書ける。

 

歌自体は50点そこそこだった。だけど、そうした自分か100%伝えられたので可。大切に歌い統けたい。

 

もっと器を拡げること。体を強くすること。ホンの少しでよいから、2度と逆戻りしたりしない、本当の成長をすること。

 

まず第一に声そのものをもっと体からでるようにすることと思います。自分のように、ちよつと油断すると、すぐ上の方でつくって歌ってしまいがちの者は、これはずっと思い続けていてやってよくなっていけるのだと思っています。やつぱりそう思います。声一つで、他の要素が関係なくなってしまうような、そういう体をもっことは、常に究極の目標としておきたいと思います。

 

 

 

 

◯ライブ出演者への感想

 

オリジナリティがある。

 

ポジションも低く声も太く、頑張っているなと感じた。

 

「シレトコ/ノミサキ二」「ハルカクナ/シリニ」とブレスしている人か多かった。歌以前の問題ではないか。

 

人間が最高に伝わった。

 

自分には全くできないことをやっておられました。声も深いし、大変な力の入りようで、太い声を最後まで出しておられて、よいモノを聞かせてもらえてありがたかった。

 

自分の世界に入り込めることのできる人で、叫んだりする部分もちっとも上つついたところがなく、鳥肌がたったところもありました。自分の甘さを教えてくれました。

 

一所懸命、死にものぐるいで必死で本気で自分を追い詰めて、そしてステージに立つ、そんなハングリーな姿の人が、今回で何人いただろうか。相変わらずそういった人、今回そういったスタイルに戻ってきた人、おごりたかぶってのど自慢のような人とかもいたけど、俺としては、のど自慢のような人はごちそうさまって言いたい。

 

ステージが別世界のようだった。誰にもできないことをやっている。特別な装置も何もなくても、たった一人であれだけの見せ場をつくってしまうパワー。線のみえる声は、どんな歌い方でも通じるものだと思った。毎回すごく楽しみです。

 

迫力が全然逢う。サビへのもっていき方、おわり方、低いところの張り。

 

ストレートなメッセージ。いつも気合いを感じる。

 

元気があってよかったと思います。いつもはどちらかというとおとなしい歌い方で、潜在能力を出せていないことが多かったと思いますが、今日は力強く歌っていて「ああ、こうでなくちゃな」と思いました。

 

表情に華がある。彼女は今、幸せなのであろう。とても有力な武器だと思った。

 

「ふるさと」がまるでゴスペルのメロディラインのようでカッコよかった。

この方はいつもていねいに歌う感じが好感もてる。ステージの「場」に雰囲気―オーラが感じられた。

 

体の中にリズムが流れていて、気持ちよく聞けた。心が温かくなる歌声(歌い方)だった。

 

 

全体に重々しい雰囲気のなか行なわれているが、厳しい客の前でやるステージは緊張が増しよい。

よくないと思ったら拍手をしないというのは、取り入れてみてもよいと思う。

 

最近、どうしたのか、皆の歌が下手に聞こえてしょうがない(自分のことはとりあえずタナ上げして言っているのだが)。私の耳が悪く(よく)なったのか?私が思い入れが多すぎるのだろうか。皆もっとうまく歌えるんじゃないのか。

 

12月のライブのとき、皆はすごくうまく思えた。でも、今年そのときをみると、皆すごく下手に聞こえる。自分でもわからない。なぜだ。皆、顔見知りになってしまって、なあなあになってしまってるのではないかと心配になる。冷や汗をかかされる人に会いたい。

 

歌はその人間がもっている存在や思想以上のものは出ない。誰も歌を聞きたいわけではないので、歌うこと自体は歩くこととそう変わらないのだが、ステージにあがると特別なものと思いこんでしまう。歌という手段を知らないままで何かして欲しい。それが最終的に見えたものが何と呼ばれるかだと思う。そうありたい。何故「歌なのか」わからないのに、歌は簡単に手に入るのは恥だ。

 

自分のステージを見るのは、死ぬほど恥ずかしい。でも自分の欠点に背をむけていては、ちっともよくならない。今日は、今まで自分の歌っている姿を見聴きしたなかでも最低…。でも負けない。今日、自分の欠点をいっぱい見つけた=それを克服していけばいいのだ。

 

最近、先生が持ってこられたマイクで録ると、よりできてないところがハッキりしていると思います。今回の場合、歌いながら感じていた通りに体に入ってなさが録音されていて、そういうのもよくわかるようになってきたのはよいことですけど、それなりそれをどう強化していくのか、もっともっとちゃんと取り組まなければならないと、より強く思わせてくれますので、非常にありかたいです。

 

今回、歌う前での私のメッセージとして「幸せであろうが、闇の中のどん底にいようが、やる気を出していく」といったセリフには、こういった忘れちゃいけないことを己に常に問うていかなくてはいけないつもりでもメッセージしたのである。

 

サウンドはすべて自分でコントロールすべきで、そのための知職、経験も自分一人で学びとる必要はある。スタッフにまかせてしまうのは、ためにならない。ステージは全責任は自分だという場でありたい。それを踏まえない人はロックではないと思う。ヴォーカルだけよければいいという人は、それでいいが、こういう人は新しいサウンドリエーターには一生、なれない。

 

ライブハウスの物理的状況は、僕にはよくあるので、ほぼコントロールできる。本日、1曲目のハウリングは、自分に向けて客に向けての毒であって、自分のヴォーカルも客に聞こえないという苦痛も表したかった。安々と聞こえない、聞こえさせたくない“あるもの”を確認させたかった怒りは、いつもある。それは、自分を痛めつけるものをひきうける覚悟は必要だ。

 

僕は外のライブでは、今日の行為をするとは限らない。少なくともここでの自分と他者には必要だと思った気分だった。それは素直に出すのが、今日生きているという僕の「ライブ」である。もっと皆も出していけばいい。そしてもっとぶつかっていけばいい。

 

音響のことについて、今日はいろいろ意見が出ていましたが、今回の場合、もし失敗してハウリングを起こしているのなら、自分でやり直せばすむことだし、ああいうノイズをも味方にする彼の個性を感じるべきだと思いました。そして、マイクやアンプなどの増幅装置や、レコード、CDなどは、もっと必然性があって生まれるべくして、他に言い换えれば仕方なくできてきたものだと思います。

 

ある一人の素晴らしい歌い手がいて、本来ならその人の歌は生の声で間近で聴くのが一番です。しかし、そういう人の歌は、一度に何人もの人が聴きたがって当然だし、なかなか逢えないほど遠くの人も聴きたがるに決まっています。そういうときに仕方なくマイクやスピーカーを使ったり、録音して届けたりするもので、つまりやっぱり、そういう必然性があってはじめて使うべきモノであるのだから、自分たちのようにその順番が逆になっている時代の人間として、そのへんのところをもう一度、考え直してから改めて口を開いても遅くないと思います。

 

もし、プロ仕様の音響装置がそろったとして、そこで歌って、機械を泣かさぬように実力をつけておきたいと思います。今はまだまだ、機械のせいにしてゴマ化しているところも、みんな少しずつあると思います。

 

ハウリングは曲にも合ってたし、あれは狙いだと言われれば、それもありだし、実際、ハウリングさえも曲の一部にしていたような?彼の開き直ったステージを逆に評価したい。

 

ギターのハウリングの件でいろいろあったが、あのハウリングかアクシデントだとしても、それを越えてすごいと言わせるステージ、歌を見せてくれると思っていたし、期待していた(後にあれはワザとだと伺ったが…)。結局、環境うんぬんではなく、どれだけ同化できるかがポイントだと思います(難しいことではありますが…)。