一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

ステージ実習コメント  494

 

ステージ実習コメント 

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②グレード

④グレード

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②グレード

BV座

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②グレード     350321

 

課題曲は難しいもので、これがすぐにできればすべての課題が終わるぐらいです。

ここで行なっていることの一番の基本的なことを、これだけのピッチ差で単調なリズムの上でこの歌の雰囲気でもっていくのが難しいです。

 

一呼吸をつけるようにして欲しいのですが、多くの人はカラオケ的というやり方で、この雰囲気をとっていたようです。それを壊して自分でかなりのオリジナリティを入れて一つのスタイルまでをつくらないと、この曲はこなせないです。

 

課題としては、やや広すぎたという反省はあります。何をみるかというのは、他の課題ではもっとわかりすいからです。今これを歌える人は多分いないでしょう。日本の中でも非常に少ないと思います。

 

すベての要素を全部入れて、リズムを刻んで片づけていくというやり方が一つあります。それからフレージングをとって音感でおいていくやり方もあります。

 

多くの日本人が歌う場合は両方はずして、楽譜通りにきちんと声をきれいにおいていくというやり方をとるでしょう。その3つがなかなか一致しない歌だと思います。歌の力も体の力もないと、一致しません。

 

ですからこのぐらいの歌になると、ことばでささやいて音楽となるくらい、地力をつけてくださいということです。音程が悪いとか、リズ厶が悪いとかいっていたらきりがないのです。

 

雰囲気を伝える歌というのは、そういう意味では一番難しいです。子守歌とか童謡とかがそれにあたります。これもそういう歌なので、ハスキーにシャウトして歌いまくるなら、余程つくりかえないといけないです。勉強する部分はこの通りにことばをおいていく歌い方だと日本語はもちませんから、自分の中でこのことばを処理しないといけない。ただフレージングはものすごくつくりにくい歌です。

 

 

今きちんと上の方で出ている人たちは、2年過ぎて20回ぐらいステージ実習に出てきて、そこでつかんできた人たちです。この位置づけはとても大きいです。

レッスンのあとにおいた方が出席率がよいのですが、授業で精魂を使い果たし、ついでに出てもらうのも流れてしまうので、2曲だけに集中してコンディションを整えて、それでその2曲をどうコントロールできるかを問う場は必要と思って独立させました。

 

しばらくはこの体制でやっていくつもりです。なかなか2曲を歌う重みというのはわからないのですが、経験してもらえばよいと思います。月に1回あるといっても、2年で24回しかない。一度でも心ゆくまま歌えたら、大したものです。

 

こういう歌の場合、一番考えないといけないのは、お客さんがどこをみるかということです。これがわからないで歌っても仕方がないのですが、考えるのでなく感じるのです。

こういうのはイマジネーションの世界です。私には、人数が少ない方がありがたいです。

 

お客さんがたくさん入っていると熱気を帯びてきますし、ヴォーカリストがのっかればすんでしまうという部分があるからです。あるいは、ヴォーカリストでもコーラスやゴスペルみたいに何人も出てくれば、それだけで一つの場というホットな雰囲気がでます。

 

それがないときはどうするかということです。1人で練習しても、あるいはこのぐらいの少人数であっても、自分で客をつくらないといけないです。当然、1人でも2人でもお客が入っていたら、それは1人で歌うのとは違って、そのお客さんがいるのです。

 

その人に満足できるように歌うことです。最低限の条件下でやることで、本物の力がつきます。この歌を構想したときに、本当は以前から何に対してどう歌うかというものがあればもう少し違ってきます。それをスタンスといいます。トータルに捉えることは難しいものです。客がどこにいるのかと捉えた上で、自分の力の100%、どういうふうに出していくかということです。特に雰囲気に流れやすい歌の場合は、決めていってください。

 

 

もう一つは声の問題です。これについては個人個人でコントロールしてそれでやっていくという形ですから、一概には言えません。今ひっかかるところは、声を深くとろうと体に入れようとしたときに、上の方のフレーズ、特にこういうやわらかいフレーズと矛盾することでしょう。これは仕方ないのです。

 

強化トレーニングという以上、ふしぜんなものですから。要は、それが同時にできるのであれば、今の日本のアイドル歌手であれ、歌い手さんであれ、みんなやってきて、できているわけです。

皆がプラスの方へいこう、毎日、表面上、上達しようとしてうまくならない、つまり間違った方向にいくなら、マイナスを選ぶのが、正解ということになります。

 

最初は、歌えなくとも、体や息や声のベースをつくることに専心するということです。どっちを優先するかということです。ここの場合、歌唱技術とともに心から出てくる表現、身体からの声で支えられていることを問うています。

 

ことばとかフレーズといっても浮いたひびきにのせたフレーズではなくて、体に入った実のあるものです。それで体を息と声をつなげることを優先しています。

 

そうするとこういう歌や先月やったような歌などが一番、歌いにくいです。感り上りがあったり、音域が広くゆっくりと歌いあげていくようなものを、下の方でずっとやっていてそれから上の方にもっていくような歌い方でやるのがよいと思います。

 

それは知った上で、こういう課題を出しました。1、2年の間は音程とリズム、それから声そのものが体に宿ってくるまで時間がかかります。急に歌おうとすると、豊かな表現が声のなかに宿ってこないです。

 

当初は、体の成長とともに息も声も成長していって、歌に対して可能性が広まっている方向性をつけておくことです。歌っていけないことはないですが、それを最初にしておかないと、こういう歌はまとめはじめたら、それで終わりです。カラオケに強い人たちの方がうまく歌えるのです。しかし、そこでとまってしまっては何にもなりません。

 

そういう意味でいうと、音程、リズム、ことばがはっきりしないということは、2割ぐらいの要素ですから、その2割を除外して聞いています。逆にいうと、その2割を除外した残りの8割のところで、2割以上のものが出ていなければおかしいのです。

 

そういう聞き方をする人は日本では非常に少ないのですが、ただ本来、歌というのは声の魅力と声の使い方で聞くわけで、8割のうち半分できていても4割の力があるわけです。数字で割り切れるものではないですが、その2割より伝える力が強いものがあっても、それが2割も出ていなければ結局、何も出ていないわけです。100点満点の1割ではトータルでも10点ですから、そしたら20点きちんとカラオケで歌っている人の方がうまいです。ましてや自信をもってみせるぞと態度ができていますから。中途半端にこわごわ歌っていても仕方がないわけです。

 

一つの音の中でイメージをうまくつかんでそれを出すために、一つの材料として使ってください。別に音程が飛べなくても上の方がかすれても、そういうのは、構わないわけです。

まず、声として伝えられる方にそろえることです。どうしても声を犠牲にして、音程やリズムの合う方に集中してしまいます。

 

歌詞を忘れたり進行が間違ったりしても、そのときの感覚で自分で進めていければよいのです。いわば、アドリブで歌うのです。そのため、最初は伴奏もつけない方がよいのです。伴奏を聞かせず、頼ってしまうくせがついてしまいますから。

 

人前に出たら表現できないことを恐れていかなければいけないです。2曲、5、6分の与えられた時間のなかで、仮にことばで読むよりもあるいはカラオケで歌うよりも、表現できていないとしたら、それは何も歌えていないことです。

 

準備の時間がないというのは言い訳になりません。基本的には100%、自分の力を出し切ることを早めに覚えていくことです。歌として完成に仕上げる必要はないのですけれど、今の力として月に1回ぐらい、それにあわせて調整して自分の力が100%出るように整えることができるようにしてください。

 

1フレーズや2、3フレーズだったらうまくできる人が、丸1曲全都歌うと当然、それよりはヴォリューム感はおちてきます。しかし、どこかは伝えられるはずです。そのときに全体を平均的に20%で歌おうと考えるよりも、とにかく伝えられるところを100%にしていくようにすべきです。

 

出だしだけでもよいから、そこですべてを伝える。1回でもよいわけです。1回も心を魅かないよりも1回どこかで魅いておかないと、聞いている人を次の曲にも引っぱっていけないです。1曲目も終わりきれないのです。その箇所を全部埋めてしまったら、仕方がないのです。

 

だから音程がとれなくても、リズムがとれなくても歌詞が伝わらなくても、その1カ所を出すことを優先しろということです。これをやってこないから、なかなかあとで伸びないのです。

 

 

あとは他の人のを聞いているときでも、自分が立つまえでも、そこのなかでノウハウを集積していってください。先に出た人の歌い方でマイクやスピーカーのチェックくらいはできるでしょう。今いろんな講座でいろいろと与えすぎているせいか(これでも足らないぐらいですけど)、それでもすべてに触れて吸収しているところが見られないのが気になります。個人差も大きいようですから一概には言えませんが。

 

ハングリー精神というのを求めて、求めつくそうとする飢餓感があれば、一つの材料からもっととれるはずです。どれだけ感じとるかということを、常に問いながらやっていかなくてはいけない。

 

当然、一流のプロから聞いて盗めば一番よいのです。そうでなくても仲間の中からや自分自身がその場にたったときからでも吸収できるはずです。毎回毎回、みるみるうまくなることはなくても、少なくとも前に解決できなければいけなかった問題を、あとあとにもっていかないことです。

 

同じ次元でとどまっている人も結構います。2、3回こなくなると前よりもへたになってしまう人もいるのです。カリキュラムを強制的にするのは、簡単なのですが、こういったものは自主的に参加しないと意味もありません。

 

結局、2曲の重みとか、1曲をもつことがいかに大変かということがわからないと来なくなると思います。そのへんは、広い意味で任せてます。しかし、自己満足すれば問うものがなくなるので、出たくなくなれば自己満足を疑うべきなのです。

 

実際の結果として、きちんと来ている人は伸びているし、そうでない人は伸びていないし、伸びていないことさえ、わからなくなっているのがわかります。

 

 

カリキュラムをどうしょうかということはいつも迷っています。年齢やキャリアにもよって、相応の表現は長くやると出てきますが、基本的に声に関してはそんなに急がない方がよいからです。

 

声に関して間違うのは、第一に急ぐからです。急がないと誰も間違えない。急ぎすぎるがために、多くの人が間違った方向にいくのです。その緒果、5年、10年たっても、その世界にいても声が変わらないということになっています。

 

時間をかけなければいけないということは、声に関してはコンスタントにやっていかないといけないということです。個人差もありますが、絶対に1年、2年とやった分はついてきます。だからトレーニングなわけです。

 

可能性を捉えるとしたら、息とか体にもっていきます。今日みているだけでは、もっていないところや出しきっていない出にくいところの声でも、それが体と一体になるところまで、今だったら今の時点で接点をつけていくことです。

 

他の部分の才能、たとえばタレント性を磨いていくようなことは、なかなか難しいです。多分みんなと同じかみんな以下にしか歌えていない人たちがステージに立っています。しかし、そういうタレントの2倍歌えたからといって、それと同じポジションは得られないわけです。

 

そうすると力をつけていくという方向をとるならば、そのカというのは体をつけていくしかないでしょう。可能性としてつけていくということです。

 

今やっていることの完全を目指すことです。完全を目指すというのはどういうことかというと、最終的に歌ですから聞いている人間を楽しませなければいけないし、魅了させなければいけません。それがすべてです。

 

 

このステージ実習というのは、まさに直立不動でおもしろ味もなく歌っているわけですが、それは皆さんの勝手で、どう動いてもよいのです。ただ、私は、耳で聞いています。

歌い手は、ステージで派手なこともやりますが、真に勝負する歌は直立不動で歌っていることが多いわけです。

 

表現するときに踊れたり、派手にリズムをとったりできることは、音楽としてプラスとなります。しかし、声が伴わなければ、振り付けてカラオケで歌っているおじさんやおばさんと同じになるわけです。

 

アクションをつけても何をつけてくれてもよいのですが、そういうことで声とか表現の本質のものがそがれていくなら、優先順位としては避けたいだけです。

 

舞台に強くなることも考えるなら、もう少し自由に使ってもらっても構わないです。

本質に気づくことです。何よって人を魅了しているのか、魅了できているのかということです。つまらないことをやったら当然、見ている人は不愉快になるし、おもしろくないと思います。

 

耐えなくてはなりません。退屈します。そこのところを本人がわからないとだめです。本人がいくら歌えたつもりでも、それに気づいたら次のときまで直していくことです。

 

録画をみたときにどう気づくかということです。評価は厳しければ厳しいほどよいです。厳しい見方をできるようになるのが難しいのです。

 

全然できなくてだめでも、それがわかれば直していけばよいわけです。だめだではなく、何がだめなのかを知り、次にどうすればよいのかというのをつかむことです。

箇条書きにでも何でもはっきりと表して、それを努力目標にしてください。

 

每回、ビデオをみても、1年たっても何も変わらない、視線一つも変わらない人もいます。そうしたらビデオをみる意味もないです。何のためにみるのかというと、ステージで自分はみられているわけですから、人がどう思っているという感覚を自分で味わうためにみるわけです。

 

自分が歌って楽しめるということが必要です。人がたくさんいるから楽しいというのは、単に人がたくさんいるところで歌えばよいわけだけです。それならカラオケで充分でしょう。

 

まずは、自分の中で満足できるかできないかです。それも低いレベルではなくて、それはそれなりに別の表現形態に逃げることはできますが、トレーニング中はきちんと基準を設けて、一つひとつの問題に対して、どうできているかを問うことを続けていくことです。

 

 

観客がいようがいまいが関係ありません。実際、プロの人でここにいる20名強の観客がいないところで歌うこともあります。それは力があるとかないとかではなくて、たまたまそういう条件の下におかれるだけです。

 

結局、やれる人あるいはあとで伸びる人というのは、どこかで頭角を現すわけです。その時期は人によって違います。入ってからすぐにメキメキ伸びるとは限りません。2年ぐらいずっと沈んでいるかも知れませんが、何かあとで大化けする風格ができてきます。

 

逆に言うなら、そういうものが表わせるように何か差別化するもの、自分なりの強さというのを、見つけていかないといけないです。ここの練習も基本的には舞台であり、ステージです。

 

ステージ実習一つとってみても、そこでライブに対する機転、対応力、反射神経、説得力みたいなものはすべて問われています。ライブは何が起きるかわからないものです。歌詞がとぶこともあるかもしれない、それ以上のことが起きるかもしれません。それを全部つつみこんでやっていくだけの切り替えとか、機敏さ、器の大きさというのが要求されます。

 

体力、集中力とともに、スポーツにも似ていますが、運動神経みたいなもの、そしてコーディネイトするカも含めて歌なのです。歌だけ歌っていればよいというものでもなく、表情も見られます。身振り手振りも見られますし、視線も見られる。総合力です。

 

歌だけうまければよいという考えもありますが、そういって許されるのは20歳まででしょう。大切なのは実力に裏づけされた信頼性、ステージを牛耳るカなのです。トータルとしていろんな要素を、舞台に立つのであれば身につけていく必要があります。

 

ここはアカペラでやっていますから、それがもろに出ます。ごまかせません。厳しいところでやるから、どこでも通用する力がつくのです。そういう経験をどんどん積んでいってください。

 

 

上にいくと、幼稚なレベルで歌うわけにはいかなくなってきます。判断力がある人のなかで、できることは磨かれた芸だけです。今のうちにたくさん出て、たくさん経験を積んでおいてもらいたいものです。とにかく、100%以上をめざし、100%まで出せるようにすることです。

 

いかに調子が悪くても舞台で強いことが一番問われます。必ず実力以上に出せるという勝ちぐせをつけてください。負け続けると自信もなくなります。もっとステージを畏れ、精一杯の準備をして立ち向かうことです。練習がいかに調子よくても、舞台がだめだと結局出ていくのが難しい世界です。

 

自分の力程度のお客さんがいる場で、何回でも失敗できるのが、一番よい経験の場だと思ってください。大きなところになると、自分以外のものがカバーしてくれます。音響さんやバンドがカバーしてくれるので、その分、自分の配分が少なくなります。

 

配分が少なくなるところで、それを越えて何かを出せる人はよいのですが、そうじゃない場合はのっかってしまいます。そのうち、自分ではなくてもよいということになり、本当に役割がなくなるのです。他の人がそこに立っていてもよいわけですから、遅かれ早かれ、だんだんその場にいられなくなります。これでは、若さしか売りのないアイドルやタレントと同じです。

 

 

声のコントロールに関しては、意識的に技術でコントロールするというよりは、何かを自分の音の中に感じて、それを伝えようとすればよいのです。どういうふうに相手も感じていくかを知り、そこに表現しようとして、そこでコントロールしていくというのが、一番のやり方です。人間のコミュニケーションと同じです。

 

息をコントロールしてなど計算上で配分していくと表現が逃げてしまう場合もあります。

特に今は息を使う、体を使うことを惜しまず、器をつくっていってください。

 

表現を目一杯使おうとするとしぜんと体と息も使われます。あまり細かいことは気にせず、ただしイメージも何もなくては体だけ使いたいとか、息だけ吐きたいだけというのがみえてしまうのでは、音楽にはなりません。それで曲をぶち壊してしまう場合もあります。

 

曲の中でフレーズを構成しておいて、もし仮に息を2倍使いたいとしたら、この2倍をあまらせるのではなく、消化しなくてはいけないのです。すると、どこかをもっと山なりにしたくなるでしょう。配分というよりは、気持ちの問題です。どのスケールで歌うかということです。

 

今はフォルティッシモで歌っても構わないと思います。それで歌が壊れても何か伝えるものがあれば歌です。体を息を一致させていこうとすると、一時的にそういう表現になります。

最初から、ピアニッシモで息を使おうとか、低い音で息を使おうとするのは却って難しいです。

 

歌のスケールをどんどん大きくしてみて、これ以上できないくらいにしていけば、一致していくのです。そのためには、大きな構成の曲を大きく歌っている人を聞き、より大きく歌ってみることです。

 

そういう面でこの曲を選んだのですが、結構まとまっていく方向になってしまった感じがします。ことばを読むぐらいのところで、ちょうどよかったのかもしれないです。

 

フレーズがとんでいるところもあります。あまりとんでいるようなところは編曲して構わないです。とにかく、表現できていればよしとします。

気づいたところで、今回の失敗を次回もしないようにしてください。最初に直せることは、視線とか姿勢とかです。そういうことは気をつければ、1回でも、表面上は、直せるはずです。

 

 

 

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④グレード   350321

 

レッスンの中でも試してきたのですけれども、だんだん楽譜から離れて歌うようになってきています。楽譜に対しての評価はしにくいのですが、自由曲と課題曲がずいぶん離れているというのが第一の実感です。それは歌い手のスタイルとして離れているというよりも、区分けしているように思えます。

 

今回は課題曲もずいぶん一所懸命やってきていると思うのですが、その歌い方の中間ぐらいがとれないのかというのが正直な感想です。両方ともよいところ、わるいところがあります。力が入りすぎているのが、その一つです。感情移入しようとすると、ぶつぎれになってしまいます。

 

作品として考えない、あるいは舞台ということをあんまり考えないであれば、思いきって表現することです。ただ、のどを痛めるというか、のどをつめるような危険がみられたので、やりすぎるのは問題あります。

基本的にはフレーズの流れに声をのせていくというのが基本です。そのフレーズがしっかりとくめているかくめていないかというのが第一のポイントです。それから、そこに声がのっていて、心地よく使えているかどうかです。

 

フレーズから離れた声、あるいはその線上と反する声に関しては、聞き苦しいものです。コントロールできていないからです。特に弱く出す部分は、苦手なようです。

大きなところは徐々にコントロールできるようになっているけれど、小さいところになったときに息の使い方そのものが変わっています。どんどん小さくしていっても息は同じに支えていないといけない。そうでないとふらつくし、おさえがきかないです。急に高いところへも、もっていけません。

 

歌い方として、特に日本のミュージカルのように語尾を浮かしていくような歌い方の埸合は、ここでは、邪道です。ひびきにのせていくような歌い方もありますが、安易に体から放すくせをつけてしまうと、全体的に同じフレーズを繰り返していても、ずれていくのです。そういうことが歌の中でもみえてきます。

 

本来であれば、1番と2番、3番の終わりというのは、同じ形でないとおかしいのです。

最初は、声さえ出ていればよいとも、思うのですが、それがうまく流れにのらないのは、姿勢や視線といったところにも問題があるような気がします。いつも気になります。姿勢がよくなれば声が出るわけではないのですが、リズムや呼吸、表現と姿勢は一体となるものです。

 

自分のスタイルができてくると安定して、固まってきますが、そのスタイルを破ってみることこそ、必要でないかという感じがします。

この場というのは、フリをつけないでやるところになっていますが、踊りながらとかフリをつけなくても、まともな歌い手は、直立不動で歌えるからです。マイケル・ジャクソンでも、です。

 

直立不動で歌うのは、ベースです。でもステージでは、そうやって歌うというのではなくて、声や表現を妨げる何かの身体からくるくせがついているとしたら、考えてみることです。

練習のときにはきちんとまっすぐな形で歌っているのに、ステージになると悪いくせがついてしまっている人もいます。不自然です。

それは、個性と見間違いやすいくせです。フリから表現するのでなく、表現の延長上にフリはつくべきでしょう。

 

 

シーズンがら、風邪が回復しないとか、のどを痛めた人がいると思いますが、全体的にのどが開かれてないために、息が完全に声になっていません。体や息を声に無理に使い込んでいるようなところがあります。それも一時期、必要なことですが、痛めないように、やりすぎてはなりません。

 

要はバランスの問題です。体を鍛えることも、息を鍛えることも全部やっておいて欲しいのですけれども、それを歌に直接もってくるのではありません。筋トレと競技は違います。

 

個人差がありますから、人によって段階によって、判断は異なります。

それも合わせてスタイルになっている人もいるから、今の時点でよいとか悪いとかの判断はできないです。

 

ことばのトレーニングは、最近、足らないようです。

基本に戻って、ことばのひびきあたりをやり直してみてください。2年前とは全然違う効果が出てくるはずです。ひびきのトレーニングなどは、素人がやっても何の効果も出ないのですが、ある程度、声が宿ってくると、それなりの効果も出て判断しやすくなります。ここらで基本に戻って復習するとよいと思います。

 

よくないのは、いわゆる声の線での表現です。声の線に全部統一するということと、その線をどうみせるかということです。そこがコントロールしきれていません。体のコントロールはでき、息のコントロールはできても、声にする変換の効率が悪かったり、のどにひっかかったりしていて、コントロールにすきがあります。

 

体や息から声が出ていて、その線がみえていたら、キープできていれば、そんなに乱れないわけです。声の芯をとりにいくようなくせのところが、そのまま動きになって、重く沈んでいて動きにくくなっているのです。

場に対しておしつけることはできても、場を動かしてその動かした音の波に歌詞をのせていくところにもっていけません。

 

これも今の期間、どっちをとるかということでよいとは思うのです。ずっとおしっぱなしで最後まで通すというのは、体力をつけるには、よいです。ただ、練習そのものです。

体力をつけるなら、息だけの方がリスクは少ないでしょう。そういうことでいうと、歌う部分を少なくしていくことを考えてください。

 

今は確かに、声を出して歌っています。とにかく声を出して、出しまくって歌いますから、それなりの効果が出ます。しかし、本当は、それを半分にした方が効果が倍になります。歌の場合は、一流のプロから学んでもらえばよいと思います。

 

声量を半分にしろというわけではないのです。感情表現、伝わるものを2倍にしていくということです。声そのものは、そのときでないと出ない声もあります。

 

歌によっては、ベテランと同等にやれというのは無理ですし、そんな練習をしていったら口先でまるめていくようなことになります。若い人が年をくったような形になるのはよくありません。その年でないと歌えない歌というのはあるのです。

 

全体的に歌いすぎている気がします。ピアフなどを聞いてしまうとそうなるのですが、そこから同じことができない分を間や感覚的に捉えていくところがあってもよかった感じはします。

 

歌い切って、力を出して、安心しているようにも感じました。全部を歌わなくてもよいです。プロと全く同じにとってみて、その中からヴォリュー厶をとればよいのです。

同じフレーズとヴォリューム量はとれないということであっても、つめることはできます。つめたら、次のところが早くきてしまって、そこで崩れてしまう。そこで本当は一呼吸待たないといけない。自分の体の回復もあかないといけないのです。そこのところで急いでいる感じがします。

 

 

1曲歌って疲れるのはよいのですが、その間で息があがってきていると、呼吸はできませんから、ポジションも浅くなります。それからテンポも早くなります。早くなるというよりも、今まで間をとっていたところが、間をとれないですぐ入るようになりますから、首をしめていくようになります。

そうなりかけたとき、間をあけることで何とか調整する。もとのテンポ感に戻さないと息が浅くなってます。息を整える余裕は欲しいと思います。

 

 

ヴォイスの強化トレーニングは、ややもすると体育会的なやり方だけでとりがちですが、音楽的なやり方も入れていくことです。

 

声楽は、テクニックを中心に音楽的なやり方でレガートからずっと入ってきます。よほど恵まれた人しか体がついてこないです。つまり、時間をかけていく正攻法です。

ひびきはついてくるけれども、そのひびきの調整、コントロールで終わる人が大半です。テクニックとか技術は、100%、完全にならないと人前に立てないから厳しいのです。

 

ピアフやミルバをまねしても、その線でいくと半分だったら全然、作品にならないというところがあります。テクニックの部分よりも、ことばの方からもちこんでいく方が、ポップスでは楽です。

体と感情を表現する意欲でカバーできます。50%なら50%なりの完成度で人前に立てるのです。歌、声、体と形を決めていくのです。そこでは体が鍛えられるということで、同じ2年間なら、もっと可能性が伸びやすい。器をつくるという意味ではよいのです。

 

ただ、どこかの時点で変化させていきます。

声ということでは、声帯から波動を起こしておいて、その上にひびきをのせて伝えるということなら、省エネ的なことを考えることです。いつまでも体は強くなっていかないのです。声も同じです。

押しつけでは、すぐに限界がきます。何十曲もあれば、すべてその歌い方でいうわけにもいかない。

 

この場で、今やっているトレーニングは、声からの歌唱表現が目的です。

当初、力で歌うのは悪くないです。力を抜いてというと、いきなりカラオケ大会になりかねないし、それは聞きたくない。まだ今日の状態が続いている方が、ここの場ではよいのです。

 

一般の人はことば、音程、リズム感で聞いて、その下の部分では聞いてくれません。そういうことから、損してしまう場合もよくあります。しかし、自分で自分の将来の声を判断していってください。

 

下の部分に音感もリズムも入れ、その上で、上の部分も正確にとっているという形にみえないと、人には理解されないでしょう。だから抜くのでなく、抜けてくるのを待つしかないのです。

問うべきものは、伝わるものの質量です。単に音痴とかリズ厶が悪いとか、重いとそれだけへたにみられます。しかし、それ以上のものが宿ってくるのをみるのが、ここの良心です。いかに声のところをくずさないようにして、歌のところで表面に出していくのか、それが歌の難しさです。

 

音楽の部分でいうと、一つの音のためとか感じるカです。体でいうと、1秒を長く感じるとか強く太く感じるとかいう形できたわけです。けれど、今度は、そこに美的とかやすらぎを感じるといったことになります。同じ1秒のなかで、これは本質的なことです。

 

はっきりいうと声も何にもなくても、うわべの技術をそれらしくみせられるなら、日本の舞台だったら立てるわけです。日本の舞台に、声のこだわりがみえると、マイナスになってくるほどです。だから、日本では、声のない人をどう見せるかという小手先の技術が発展します。

 

そのへんが非常に難しいのです。これからは、その中間でとっていくようなことが必要な感じがします。今のレベルで声を扱う技術をつけていくと同時に、今の声だったらどこまで音楽にまとめられるかを知り、ギリギリで表現するということです。

 

今の声で思いっきり歌うと、最初の1、2フレーズしか、もたないとしたら、それは、1、2フレーズでもよいから、そこの部分を完璧にしていくというやり方をとってきました。

それが等分され、1曲のトータルアベレージが10%になっても仕方がないわけです。

 

ただ、もう一つの考え方として、曲はもたなくても、その4分の1でもよいから、それを最大限にみせるためにどうすればよいかという使い方があります。そのときに、自分の体を全部使うということはありえない。魅せるわけですから、自分の体の70、80%のものをどういうふうに一つのフレーズに配分していくかです。

 

それは頭で考えず、何回も何回も試すことで配分して、最後のところに余力を残していくようにします。これは頭で考えるとおかしくなりますから、そういう見せ方に入っていかないと、息が声になっていないままで効率が悪いわけです。

 

そこの部分で息をたくさん吐いている割に声にならないから、実際マイクを使っても、気力とか勢いは感じられる、けれども、歌の部分の音楽的な要素は逆に失われてしまいます。体や息をみるのは、私くらいで、一般の人は完成された表面があってはじめて、息や体を聞いてくれるのです。もちろん、歌によりきりというのはあります。

 

特に今回は「モンデュー」だったので、そのへんが際だったような感じはします。それに対して自由曲はかなりフォーク調というのか、それが浮いてしまった感じでした。

口先だけ急いでしまって、心を捉え、声を捉え、そこで動き出した、その呼吸に合わせて歌が進行しているような感覚がない。そうかといってカラオケのように、上の方に浮かしているわけでもないのですが。

 

これは、今まで鍛えた体が助けてくれているだけで、このクラスでは、評価に値しません。そのへんのバランスが難しいです。

最初に声をキャッチすること、そして、キャッチしたものをかすれさせないでもっていく、それから、びりびりいわせない、同じところで何とか前にもっていって出します。

 

それは胸のところで「ハイ」でもよいし、上の方で「ラララ」でもよい。その両方あわさったところで線がきちんとできていることです。これがゆがんでいたり、ゆれていたりしているような感じがします。マイクを通すとわかりにくいかもしれません。

 

鐘でもピアノでも、共鳴というのは、どういうことなのでしょうか。コーラスのように、周りが声を出して、それにのせて自分の声を大きく出すのは、楽なわけです。それが1人でできることなのです。

 

自分でつくったフレーズに、絶妙の感覚のところで次の声をつくっていくのです。エコーとは違います。そういう形で自分の流れをつくり、それにのって、楽をしてよいのです。

ポイントだけきちんと押さえて、あとは戯れるのです。

 

今の形だと、たての線はみえます。芯をとりにいっているのはわかります。ただ、そこからのはねかえりまで押さえている感じがします。これは仕方がないのですが、トレーニングのときに芯をとりにいこうとすると、くせが表現のときも抜けず、抜こうとすると芯までなくなって上でなでてしまう。

 

これは最初から最後まで声が体に宿るまで、ずっとつきまとっていくものです。だから、知っておけばよいです。知らないと、どこまでも力でもっていこうとして、のどを使ったり、びりびりとおしつけたりしてしまいます。

 

鐘と同じで、しっかりとつかないといけないが、ついた瞬間に離していないといけない。そのタイミングがずれると、押さえたまま鐘を鳴らして鈍い音色をたてるか、早く離そうとして真ん中をしっかりと捉えられずそれてしまったりします。

 

 

 

毎月BV座ということと、そのワークショップをしてきました。当初は、ステージ実習と同じようなものでした。それを重ねてキャリアを積んでもらい、そこから皆が自由に変えていけるはずです。

 

ライブの雰囲気をつかんで、何かを積み重ねてやっていくことをしていこうと思います。新たにライブのできるような場所をつくり、方向性を示していこうと思っています。しかし、その装置にのっかりたいと思う子どもは除外していきます。装置は使うもので、のっかるものでないからです。

 

基本的にここの基準として、一つのベースにのったところでワークショップをしながら出していく。その一つの基準を築いていかないといけません。これはお客さんに対しても、です。お客さんをも啓蒙しなくてはいけないという日本の場合は、もう一つ大変なことがあります。

 

厳しい客とともに、完成されていく表現でなければなりません。中途半端なものは本物があれば、みられなくなります。

ポップスですから、こちらで作品としてよいとか悪いとか、こういう方向にとは言いたくないわけです。世界の一流のヴォーカリストの基本を宿して、表現するということです。それだけで大きく差別化はできるわけです。

 

みんながここに出ようが出まいが、その基準にあたって、自己研鑽を積んでくれれば、そこでいろんな形を与えたり、手本になったりできると思います。

 

今、私は講演会や本を書いたりしています。そういう舞台をみて一緒にやりたい人ということで入ってくる人がいるとよいと思っています。

最初は、BV座の看板あげてやります。がんばって一つの時代をつくっていってください。

 

問いながらやっていく時期だと思います。その場の雰囲気を自分で捉えてそこに自分の世界を出すということです。半年や1年に1度、多くの人を集めてやるようなことはいつでもできるわけです。1年に1回、同窓会とか報告会みたいなステージをやっても仕方ないわけです。

 

やらなければいけないことというのは、その日のステージを観たお客さんが終わっても帰りたくない、次の日まで起きてずっと観ていたいというものです。

 

1力月に1回くらいのステージなら、友だちだから、よかったねと誰でも言います。また誘ってねと言ってくれるわけです。そんな同情で成り立っていても仕方ないでしょう。

 

別に熱狂しなくても、ステージなら3日、同じ客が続けて観たいというようなものを出していってはじめて、アーティストといえるのです。

 

毎回、授業に集客している私の方が、よほどアーティストらしいでしょう。人がたくさん集まったことを評価する時代ではないです。一人の人に、どう働きかけ、その人の人生や行動を変えたか(魂を高めたか)が表現でしょう。

 

そうすると小屋が一つ必要で、ここで一つ、確保しました。皆のお金と私が半分、借金して出していますが、そこでも残った人が得する、力をつけた人が得する。それが実力の世界です。内容は、みんながつくるしかないのです。

 

政治が不安になってくるとしっかりした自我が問われます。日本の自由な時代もだんだん終わってきます。自分の思想を主張できる人が認められるようになってきます。

今は言いたいことを心にためて、表現方法を確立していってください。

 

 

 

ーー

①グレード

 

「また会う日まで」という一つの曲で、尾崎紀世彦さんの歌い方から、くせや個性でなく共通のルールの方をとってください。

まず一つは「またあうひまで」これは、ことばの部分でこれがaとします。次に「はなしたくない」これがb。それから「ふたりでドアをしめて」これがc、その構成がみえますか。

あるいは方向性というのは、展開です。聞いていて明確にみえるか、きちんとその役割をになっているのかです。

体とか声が足らなくてできないとかできるとかではなくて、まず耳の部分です。曲をどう聞いてイメージして捉えているかということです。

 

これは今までプロで歌ってきた人とかある程度、カのある人には、できていることと思うのです。

これを16個ぐらいにわけて歌っている場合が多いのです。せいぜい、3つで構成を捉えないから、ところどころで終わってしまうのです。

 

「であえるときまで」ここで一つです。

(「わかれのそのわけははなし」この「し」が正しい音に届かない人が多かったです)

 

「はなしたくない」のところから「なぜか」のあたりまでは、共通のルールからいってみると、「はなしたくない」で切って「なぜか」と入るのは大変です。

息を使っていくのです。だから呼吸が聞こえないと動きはとまってしまうのです。構成にならなくなってしまいます。

 

「さみしいだけ なぜかむなしいだけ」これも否応なしに大体サビのフレーズは決まっています。「さみしいだけ」これは大きなフレーズ、「むなしいだけ」は小さいフレーズ、このへんも構成ということです。同じように聞こえるようでは、同じ山が2つですから、大きな山から次の山と進みにくいです。これを2つあわせて捉えることです。

 

「すがた〜」サビに入るところの前ですから、このまま上がっていく形がみえるかです。

 

「2人でドアをしめて」これも4つぐらいで捉えないといけないです。分割していけばいくほど、流れがなくなってきます。基本的には一本、線を通しておきます。

 

これは発声の中でも同じですが、その流れをきちんとつくっておくことです。それでところどころの方向を考えてみたり、ことばのおきかたを違えておくということです。

 

最初に曲を聞いたときに、勘のよい人と器用な人は、その方向の変え方ばかりを先にやってしまうので、大きな波が出てこないわけです。歌というのは波の中で聞かせていくものです。

おしたりひいたりというところを最初に捉えることです。ことばは聞こえなくても、音程間違っていても、リズムがおかしくてもその波がみえたらもつわけです。

 

ですから、歌詞を間違えても、そこの部分で聞かせられないと歌自体の動きがなくなっていきます。ですから、そういう意味でいうと耳とか体を最初につくっていっていく。そこを間違えるとカラオケ歌唱になってしまうのです。

 

次に、声の線を出すことです。これは次のグレードになってから考えてもらえれぱよいです。これから歌の要素を入れていく。声の線を出して、それを構成していって歌の要素を出していく。この順番で考えてみればよいと思います。そういう意味では、みんなが1年、2年使っても使いきれない曲だと思うので、たまにやってみてください。

 

共通のルールというのは、何でしょう。たとえば「そのときこころは何か」こういうところは全部悪いくせです。そういうところをとっては、だめです。

より個性的にやるなら、この部分も勢いで負けているわけです。歌い負けしているのです。そこでひっぱっていけなくなり、とまっているわけです。歌い手がとまってしまったら、音楽は終わってしまいます。それは少し考えてみてください。

 

たとえば尾崎紀世彦さんが何でこのフレージングでもってしまうのかというと、「イ」や「ウ」の深さがあり、語尾のところで、日本人が浅くなってしまうところを深くおろせて、体でもっていけるから全部、おさまるわけです。そこがあってはじめて、作品として成り立つわけです。そのへんはもう少し高い音域で発声をやっていくとわかると思います。

 

少しずつわかっていけばよいでしょう。フレーズ感とか声の音色みたいなことです。

 

それからステージングということであれば、こういう場は決してのりやすくありませんが、こういうふうに閉じている方があたりまえだと思えばよいです。

日本のお客さんみたいに、よくわからないのにうなづいていたり、のっていようというフリをするような客の前でやっていたら、わからなくなるのです。

 

みんなが不審に思い、しかめ面してみている場を感り上げられたら、それが一番、カがつくのです。そういうところを聞けるか、聞けないかです。それはまず、ベースの部分です。そこでは負けないようにしてください。

ポジションとか胸の位置を考えるのはよいのですが、舞台のときには、意識しない方がよいと思います。表現すると、ついている声は、ついています。気にしていると離れます。動かすことが一番大切です。動かないと、聞いている人の方が退屈してしまいます。

 

ポイントというのは、人によって違うのですけれど、課題曲なら1力所、聞かせるところをつかむことです。大体の場合は、1カ所も聞かせられないで終わってしまうのです。

 

自分が聞いてみて、たとえば「さみしいだけ むなしいだけ」ここの感情表現をとるとします。フレーズのおきかたが独特で、彼のオリジナリティを完全に入れ込んで、メロディとフレーズ処理をしているわけです。そういうところを学んで欲しいと思います。

 

ここは、ピークのポイントです。ピークのポイントもどうもっていくかと、そのあとをどう動かすかを考えれば、難しくありません。この中心と、そのあとを踏まえていけばよいわけです。ここでいうピークは、サビという意味とは違います。心情的な意味でのピークです。

 

気づいたことを順次、言っています。個人に言っていなくとも、多分、自分のことを言われているのではないかということで気づいてください。所詮、気づいたものしか身につかないと思いますから。自分のことだと思って気づいたらよいです。

 

まず体が負けないことです。それから集中力です。本人が歌をはずしてしまったらもう終わりです。よほどつかまえておかないと、歌は逃げ、ことばは浮いてしまいます。

 

それから引き込み、これが一番大切です。少しうまくいっている人たちはいましたが、「またあうひまで」が「ひまでー」になったら終わりです。そういうところが引き込みです。

 

最初はある程度、はっきりと出していかないといけないでしょう。お客さんとの信頼関係をつくっていかないといけないのです。

 

それから待ち時間を含め、コンディショニングのことです。これが難しいです。

順番にしてもここで決められたときに、自分が出るときに自分の感情のピークをもっていくというのは、慣れてこないときついものです。

 

大切なことは、盛り上がっていないところの場で、自分がいかにその雰囲気を変えられるかです。それがカです。

 

うまい人に、はさまって歌うようなら楽なわけです。雰囲気ができていますから。

一番にやって欲しいのは、雰囲気ができていないところで、どうアピールして自分の色を伝えるかということです。みんなが敵意をもっているなかでさえ、いかに味方にするかというところです。それがカです。

 

それは実際にステージをやればわかります。

ステージに出たときに、最終のトリをとった人よりも、落ち込んだ空気をあげてくれた人の方が力かあります。

 

それから人前でやることの楽しさを感じさせてくれること。歌い手ということが性に合うかということでしょう。少しずつ慣れていくことです。暗くじめじめして歌っていく世界というのもありますが、基本的に人前に出ることがいやになったら、成り立たない世界です。自分の中でモティベートを掲げてきてください。

 

ほとんど優秀な歌い手は出たがりなわけです。しかし一旦、人前に出たときには、いかに自分がいやであろうが、体調が悪かろうが、それはカモフラージュしてやるわけです。そういう意味で少し苦労してもらった方がよいです。

 

エンディングが終わったのか終わっていないのかわからないまま終わっています。そのエンディングまでのもちこみにスキが、詰めの甘さがあるからそうなるわけです。それは構成とか流れにも関係があります。少なくとも1曲歌うのです。1曲歌うのなら終わらせないといけないわけですから、終わらせるためには何か見せないと終わらないのです。そうしないとカラオケと同じで終わったのという感じになります。

 

その区切りは自分でつけてください。特にマイクが入らない、パンドが入らない、アカペラのときは歌い手だけの力が問われます。バンドが入ると勝手に感り上り、終わるのでよいのですが。

 

それなりにわかっているところもあるのでしょう。

たかだか5分間のために1日をつぶして2曲をみせるという重みを感じてください。1曲頼まれて世界の裏側に行って歌って帰ってくるぐらいのところの覚悟をしてください。

 

その1曲の中ですべてを伝えられたらよいのです。1人のヴォーカリストに、その1曲の中の1フレーズが聞きたいからCDを買ったり、コンサートに行くわけです。

 

そうしたら同じことがここでもできるはずです。だんだん慣れてきて、2曲ぐらいしか歌えないなら行かないなんて、とんでもない話です。2曲で聞かせてみろという話です。

2曲でもってはじめて、3曲以上やる資格が得られるわけです。

 

そういう意味で、もっと2曲の重みを感じて欲しい。同じ5分でどう自分が濃い時間で大きな空間でできるかということです。そういうことを自分の中にもって欲しい。歌をもう少し大切にして欲しい。そうすると大切にするためにどうしたらよいかわかってくると思います。

 

 

声を考えた歌い方というのが、感想の中で多いのですが、こう考えてください。声が完璧にできたから歌い手として優れているのかということは、ないのです。むしろ表現していくという意欲をみせて欲しい。その意欲をみせていたら声がついてくるというぐらいに考えてください。

それで声がかすれようが、ひっぱられようがどうなってもよいのです。表現がそこに出ていれば、その人のやりたいこと、少なくともヴォーカリストとしての歌は通用します。

 

今のスタンスとして、ステージ実習というのは、器用に明るくにこにこするよりは、パワフルに出しまくっていくことです。これは大切なことです。とくにオリジナリティの世界を自分の器にしていくときに最初に問われるのはパワーです。

 

可愛いとかしゃれているという力では、人は振り向かないです。振り向いても戻ってしまいます。

パワーだけでひきつけられる時期があります。たとえば力をつけるときはそうだし、若いときは、そうでしか勝負できない事情もあります。

 

それに年をとってからパワーをつけるのは結構、大変なのです。優先順位を考えてもらって、今やって欲しいのは、パワーが、直接伝わるかを問うことです。

 

まともなヴォーカリストが、楽に声をひびかして歌っている若い頃のを聞いてみると、よいでしょう。大体、そうなっています。本当のパワーが必要です。それがあとでまとまってくればよいわけです。

 

自分の声のことを知っていく。スタイルをつくっていく。その上で、いつも言っていることは世界の客を想定していって欲しいということです。すると結局、伝わるものは呼吸とか声とかを通し、心のところなのです。

 

ことばは大切ですし、音程やリズムも大切なのですが、それを聞こえるようにするために、心が必要です。私も時間がないのでものすごく速くしゃべるのですけれど、それでも呼吸をもっとおいて話したらみんなにもっと伝わると思います。相手は何か考えて返してくれる、その間を待つのも大切です。

 

 

ここの場合は、まくしたててもよいわけなのです。ステージ実習のときは少し考えて欲しいのです。

ともかく退屈させないということと媚びないことです。もう一つ言えば、技術をみせて欲しいというところはあります。

 

声の技術ということは、ここで獲得していくことです。イメージの目的と結果だと思います。

 

いつも授業のところで100出して10ぐらいしかとれなくて、中の1割くらいの人は50とかとっているのですけれど、そのへんのとる力が大切です。

 

少なくとも気づく力を要します。与えているものは全部、意味があるのです。たとえばアテンダンスシート一つにしろ、こういう場に出席するにしろ、それ以上の活動ができるなら、それはやらないでよい。

 

ただ表現力がありあまっていたら、全部クリアできるぐらいの力があるはずです。2年たっと伸びた人というのは最初、器用だった人うまかった人より、人よりもうまくなかったけれども、体から覚えていった人です。

 

ですから、アテンダンスシートなども心を込めて、もう言いたくて言いたくて仕方がないくらいのパワーはもって書いて欲しいです。それがステージには表われてくるのです。

 

それを2年続けるというのはとても大切で、最初は出なさいといったら出ますけれど、自由にしていますから徐々に出なくなったり書かなくなったりすると、離れていきます。

陰でものすごいことをやっていたら、それでもよいです。ただし、そんな人はすべてに一所懸命です。

 

自分の練習のときは自分でやれと言っています。でも、たくさん出て、みてきている人の方が伸びているのは、事実です。そのへんは考えてみてください。

 

そういう執念みたいなものが、歌の中に表われてくるようになってきます。基本的なことというのは1人から学んで欲しいということです。それは自分が尊敬するアーティストでよいです。そこがどれだけ1フレーズあるいは1曲の中から学びとれるかということです。

 

2年目になって少し慣れると、アテンダンスシートも書かない人もいます。先輩づらし始めたら、こういう芸ごとは、伸びません。

 

 

声とか歌で皆に覚えられていくというのが、1番ありがたいやり方です。1曲歌ったときに「あれ、何の歌?」と聞かれるのではなく、「あれは誰の歌?」と聞かれるような歌い方をしないといけないのです。

 

自分が歌になりきって歌うのとはまた少し違うのですが、今は特にがむしゃらにやる時期が必要だと思います。コミュニケーションがとれて仲間うちで和気あいあいというより、ここが目標としているところに到達することを考え、ここを破っていって欲しいです。

 

この中で仲間と何かやっていこうというレベルなら、どこにでも出ていけなくなります。1人黙々とやる時間を大切にしてください。仲間はずれになることを恐れずにやってください。

 

自分に対して厳しくなるということです。それをみせつけてくれればよいのです。トレーナーと常に1対1で考えて欲しい。生意気なだけでは仕方がなくて、力があって素直な心で吸収するところは全部とっていく気持ちでやってください。

 

共通のルールでも悪い部分やへんなくせの方をまねないで、基本のところをとってください。これは徐々にわかってくると思います。心が働きかけるように、特にゆらぎ的なもの、流れ的なものみたいなことを感じてもらえればよいと思います。

 

トランペットやサックスのプロの人を聞いてみたらわかると思います。間違えないで吹くのと、プロが吹くのと何が違うのかと、それが歌でも同じことが言えるのです。それをここはみているのです。

 

 

構成がみえてしまうのは、ヴォーカリストより聞く人の方が先にいってしまうからです。日本のヴォーカリス卜の場合は、けっこうワンパターンです。海外のヴォーカリストの場合は、はるかに先をいっていて、ひっぱっていくという違いがあります。

 

日本の歌の場合は、BGM的に聞こえる場合もあります。予想してそのとおりに聞こえるのが快感です。しかし、歌い手、つまり表現する人はそうでは、ならないはずです。

ヴォーカリストの方が先を示して新しいことをやっていかなければいけません。

 

くせをつけてはいけないというのは、くせをつけるとみえるからです。最初はひきつけても3回ぐらいからおもしろくも何ともなくなります。歌として表現として出たあとに、それをやわらかくしたり、ひびかせたりするという手順をふまないと、計算がまるまるみえてしまいます。

 

特に歌い慣れてきた人は注意してください。型が決まってしまって動けないというようにみえます。そこからは、はみ出せず息苦しい.感じがします。枠はありますが、枠があることに対してみせる力がある。みせる力はあるけれど自由にはなっていない。それを1回、壊すことです。

 

声や音楽の考えとかを固めている人が多いのです。日本のステージに出ると、おのずとそれを求められるから仕方がないのです。だから出られているわけです。ここで考えているのは、もっと自由にしたいと。

声が楽に出て、自由にできる、それにそってことばとメロディがしぜんに出て、相手に伝わるということです。

 

体とか呼吸を使うのはバランスがよくなってたら、そんなに一所懸命やっているようにみえなくとも、変ではないのです。計算とかくせの部分は変にみえます。人を気持ちよくさせる、感じさせる、気づかせるためにどうするかを、歌い手が聞いている人に対して自分で考えてみる。できるできないは別として、まず試みることです。試みなくてはできないです。

 

歌う場合には忘れるぐらいに歌ってこないとだめです。そこで考えたりそこで計算するとみえますから。みんなもこういうみる経験を積んでくるとわかってくると思います。

 

ここ自体では、レッスンもステージも、生でのライブのスタンスなのです。レコーディング的な歌い方と違う場合があります。さらに方向性か狂うと、1人よがりになってしまうことになります。

 

一つの基準があればみせられるはずなのです。声がなくてもそれはできるはずです。

ステージ実習ということで許されるからです。ここはみんな自腹でやっていますから、それは好きに歌ってもらってよいのです。その自由をもっと生かしてください。自分の全力と全センスを集中させて表現してください。

 

 

 

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②グレード  350423

 

「またあうひまで」に関しては、基本的に尾崎紀世彦さんの歌い方はくせのある歌い方です。しかし、そのくせをとるとこれは難しいです。同じ力があればものまね的にできるかもしれません。

 

「こころ」イタリア語のフレーズに近くとっているなかで、日本語のところでもってきて日本語的に歌おうとしていますから、それはよいことなのです。

 

ただこれで、歌が成り立つ要素はいくつかあって、たとえば「ラ」の音というのは彼の場合、深いのです。それから語尾で伸ばしたところのウとかイとか全部、巻き込めるわけです。巻き込めるから成り立つている歌い方です。そうでなければ乱暴で、勢いだけでもっていって最後までいくような欹い方になりかねないです。それを踏まえた上でまねしないと、悪くまねることになります。

 

一つの基準は創唱者、つまり、歌っている人や吹き込んでいる人の影響を、極力さけるということです。基本的なことは学ぶのです。歌の中でのルール、いろんなきまりというのは原則的にあるわけで、踏まえないといけないことを先にとっておくことです。

 

くせとか個性の部分を表面的にまねてしまうと、のど自慢に近くなってしまいます。それをはずすことです。そのかわり、何かを出さないといけないのです。今日の自由曲も合わせて、気になったところがあります。

 

見習って欲しかったのは、この曲はこんなに大きな曲にできるということです。こんなに大きく歌うことはないのですが、フレーズをもっていくとしたら、こういうフレーズを考えておけば勉強になるのです。全く消化できていないです。

 

彼が4フレーズもっていっているところを、4回に分けているような感じです。体の差はありますが、イメージの中ですでに違っているような気がします。

 

 

 

それから方向性がまだできていない感じがします。何をどう歌うのかとそんなことまでを考えなくても、メロディがあがって、それで終わるという単純なところで方向は出てきます。そのことを踏まえると声の線とか構成とか、基本要素が決まってくるのです。構成を考えている人は、よくわかるのです。それを問うようにしてください。

 

ことばのつけ方も、借り物みたいです。それは、やめた方がよいと思います。その形を借りていくら歌っても、日本のミュージカルみたいに形だけで伝わりません。そうなると、おもしろ味も何もなくなってしまいます。ミュージカルや劇なら役割分担をしますから、まだ、よいのです。ヴォーカリストの場合は個性を生かさないといけません。

 

楽譜の解釈について、基本的には1拍目をきちんと押さえていくとシンプルな歌です。そこをつないでいけばよいのです。そこの間に感情を入れていけばよいです。確かに1オクターブあがるところとか技術的な課題もあります。そこに集約していくまでの問題の方が大きいと思います。

 

たとえば声がとれていなければ「あえるときまで」の「と」はいえないわけです。そこをきちんと押さえていかないと流れていきます。一見,うまく歌っているような人ほど流し方でいっているようで気になります。

 

流していっているというのは、発声を覚えていかないで発声の形を覚えていっていることです。形を覚えたら舞台には早く立てます。日本の舞台なら通用するのです。しかし、形を借りていくと、結局、何も言えなくなってしまうし、そこからどんどん衰えていきます。体が使えないからです。

 

体を使おうとしているのはみえるのですが、基本的には体が負けているのは、集中力からです。これに関しては、散漫で、3分、集中できないのでしょうか。

歌の中で3分間集中するというのは、ただの集中力では通じません。

 

自分の出している声を聞くのは無理ですが、それを感覚的に完全にコントロールしないといけないのです。だから超人的な集中力が必要です。それは、トレーニングをきちんとするとついてくるはずです。

それができていない場合は、結局、流れてしまうのです。流れているから集中力も何もないです。音が出ていても、そこに操作が加えられないです。自分でつかんでいってそれを放して表現しているのと、流しているところでのせているのは、全く別の次元のことです。

 

今の日本のヴォーカリストは、そこまで声を追求しないで、歌い流してきました。それをサウンドとして浮いた声でこなしてきました。舞台と装置の技術を使って補ってきたのです。

どこかだけ強く出していって、にぎっていくような小手先の技術ですから、それを覚えるとのどで操作することになります。もう一度、根本に戻ってもらえればよいと思います。

 

この曲でチェックすることは、語尾が入るとかいうことよりも、たとえば「なぜか」ときちんといえているか。それから「さみしいだけ むなしいだけ」にフレーズが出ているかということです。

そこに感情が表現されないと、どうしようもないです。

 

「すべてをなくすから」の「を」できちんととめているとか、とめているのは流れてとめるのではなく、自分のところでここにくるというところをもっていることです。

 

「はなすだろう」も「う」は流れてよいし、勢いでもっていってもよいのですが、そうしたら、その前の音はきちんと自分でもっていかないと全部が「はなすだろう」といっているのと同じになります。勢いで聞かしているような錯覚になってしまいます。これでは通用しないです。

 

声そのものの発掘ができていなくて、1オクターブとらないといけない、あるいは歌の形をつけなくてはいけないというと、音程、リズムからステージングの方に頭がいくのは、仕方ないのです。

 

日頃きちんとできていて、歌うときには使いわけているのもよいですが、もしそれが個性とか自分のスタイルだと思ったら、大きな間違いです。

ほとんど上っぱしだけですから、通用しないのです。

役者さんが遊び半分でできてしまうようなことも目標としないことです。

 

何かを歌うのですから、はっとするような部分がどんどん入ってこないといけないのです。本人自体が意識していないと、歌で気づかせてくれる、何か教えてくれる、伝えてくれる部分というのはなくて、歌ってしまいます。

 

体が疲れただけではだめです。できることとできないことはありますが、イメージが大きな決め手です。流れているのではなく伝えているというのなら、それは自分で考えないといけないのです。そのときに声というのは大切です。

 

根本的に言うと、体を使いなさい、息を使いなさいということです。どちらかというと使わないといけないから使っているような形で、それが声になっても声の線を展開できないから、結局1人で疲れているだけになってしまいます。

 

その段階はあってもよいわけです。あってもよいのですが、自分でわかっていないといけないです。今はできないのだということはわかっていて、どうしていくのかということです。

歌っている感じになっているのと歌われている感じになるのとは少し違います。方向性としてずれているということです。そのずれを修正していかないといけないです。

 

体を使う、息が吐ける、これはヴォーカリストの条件そのものにならないのです。それが声になって展開したときに、息が吐けて、体が入っているというところではじめて認められるのです。

 

順番としては体を鍛えて息を鍛えてということでよいのですが、それを徹底的にやらないといけません。ベースの部分ですから、声の線を出して展開しないといけない。展開したらメロディとか音感とかを考えればよいのですが、そこに中途半端にまとめる技術にいくから空回りします。

 

それなら最初から体も息も使わない音声のイメージだけでやればよいのです。うすい声ならうすい声なりにきちんとつかまえて集中力で歌った方が歌として伝わるものは大きくなります。そこを間違えないことですが、とても難しいと思います。

 

判断するということです。自分のなかで一所懸命、体を使っていくと真剣に歌っているような感覚になりますが、結果としてその出ている声自体がコントロールしていないと、だらだらと聞こえます。

声をキャッチできないから、ポイントがはずれてしまうわけです。どこがポイントということでなく、自分で決めていくのです。

 

ただルールから全部はずしていくと、ことばは聞こえているしメロディもなっているけれど、何をいっているかわからない、何も伝わらなくなってしまいます。歌い手は、伝えないといけないです。自分の心臓をにぎって相手に投げつけるような動作をやらないといけないです。この信頼関係ができてしまえば、あとはきれいに聞かしていくと相手の胸に入ってきます。

 

表面的なまねごとというのは、致命的になります。本質的な部分を捉えないと歌自体がしまらないです。体が動いているのはわかる、息も吐いているのもわかる、それはカラオケの人たちとかのど自慢とは違う要素ですが、だから歌にならない。

 

そのときに次にある音声イメージ、声としてどういう線を出していくかということを半分ぐらいわかっていないとできないのです。わかつていてもできないのは、仕方がないのです。つくった体というよりも、つくった息です。操作した息や声は使えないです。完全につくられた世界で完成させるという方法にのっとれぱ、いろんな舞台がありますからそれなりにもつのです。そこまで徹底的にやってしまうと、のどそのものが悪い癖がついてしまう。その小手先の技術を1回捨てないといけないです。

 

 

レーニングのときには、しっかりした声を出す。歌になったら歌を歌わないといけないし、ことばを伝えないといけないので、トレーニングのようにはいかないのです。ただ、その間の練習があるはずです。トレーニングのものをなるだけ生かしながら、他の部分をカバーするような方法をとります。

 

レーニングでは完璧に声を宿すのには時間がかかります。よいことだけをとっていくことができたら一番よいのですが、そのときに中途半端にしないことです。

音声イメージ、声をにぎってその声を展開させていくみたいなことを考えないと、どこも歌うところがなく終わってしまいます。

 

メロディとか音感とかは必要ですが、少なくとも、「またあうひまで」に関しては、そういう形で新しくつくって処理しようとしない限り、一つの体の使い方に陥っているような感じがします。どうしてもコピーしていくと悪いところばかり、受け継いでしまうのです。

 

よいところはプロとの差がありますから、これはできないです。しかし、自分の中でどこか1力所でよいのです。とにかく1カ所、通用させましょう。

他の部分は、なるだけその1カ所の邪魔をしないように歌うことです。その方が1曲で何か伝わります。全部伝えようとして、伝わるのなら相当の集中力です。一つひとつをコントロールしないといけないからです。

 

こういう場は、あがったり、実力を発揮できない部分もありますので、そういうときにどうやって歌うかということです。雰囲気に頼って歌うのなら、歌いにくいです。雰囲気のある人は雰囲気で歌えますが、ここのお客さんは雰囲気をつくってくれないです。

 

自分でそこからつくらないといけない。お客が何考えていようが、みんなそっぽを向いていようが、歌を続けないといけない。そういうところで通用する歌い方を覚えてほしいのです。

 

シビアなことのようですが、手本みたいにみんな前を向いて、聞いていないけれど聞いているフリをして、悪いから拍手しているような国は、日本以外にあんまりないです。そこに甘えてはなりません。

 

客の耳を引っ張って聞かせないといけない。そこの部分というのは、体も使うし、息も使うし、声も使います。それを技術として捉える必要はそんなにないと思います。

相手に伝えようと思ったら、その部分をもっていないといけない。それが流れてしまうから、単にのっかっていくだけの歌になってしまいます。

 

 

あとは「しめて」の「めて」、「けして」の「て」のあたりは、尾崎紀世彦さんの底力、身体や喉の強さが感じられるところなので、勉強してみてもよいと思います。まねないでよいところは「心は何かを」あたりで、口の中でまわしていくところです。これは日本語を日本語として処理してしまうとそうなってしまう例です。そうしなければ、また違う形の処理の仕方があると思います。

 

残念なのは勝負する前の段階でのことです。体のところで少ししか捉えられないのです。先まで捉えないと、最初の方向性は決まらないです。最後まで見通せとは言いませんけれど、練習の中でイメージを入れていくことです。

 

歌詞を忘れるとかあがるとか、いろいろあります。

でも、基本的にフレーズの中で「はなしたくない なぜか」そのフレーズまでつないでおけば(尾崎紀世彦さんはつないでいます)、しぜんに出てくるわけです。

 

舞台に慣れていない人は、いかに完璧に覚えても歌詞はとぶものだということを勉強してもらえればよいです。100%というのは絶対ないです。最悪での処理の仕方も覚えることです。別にぐちゃぐちゃであろうが、歌ってつないでいれば、大体のお客さんはわからないものです。

 

そういうことも即妙にできるようにしていくのです。それを何で捉えられるかは難しいです。1拍遅れて最後までずれていくなどは、歌詞で覚えるから、そういうことになります。ことばで覚えるとどこかでつまります。そういう経験はしていくとよいです。曲調で捉えていくのです。

 

絶対に負けないことです。出た以上は歌いきらないといけないのです。やり直すくせは、とっていくことです。私のフレーズレッスンで、即興力と勝負強さは、磨いているはずですが、、。

 

 

曲としては、「さよならをもう一度」の方が基本的には勉強になると思います。

若いときに声をどれだけ強く派手に使っていたかというようなことも大切です。普通は、その時期があったから声が身についたという結果がきます。

 

ストレートに本当にわめいているだけで、何も伝えようと思っていない、自分で運動しようという感覚で身についた人が多いのです。

 

尾崎紀世彦さんの歌唱力を評価しない人は少なくとも日本人の中にはいないわけです。それは技術や音楽性よりもパワーで勝ち得ていっているわけです。

 

みんなにとって一番の基本、難しいのは、体をつくれ、息をつくれ、体を動かせです。

そう言っておきながら、歌の中では仕上げを求めているから、2つが矛盾してしまうのです。

 

しかし、矛盾させるから、それを矛盾しないところまで向上させ、もっていってはじめて、人前で歌えるのです。☆

 

そうしないやり方は、舞台の演出としてあります。声は人並みにもないけれど、マイクをつけて、そういうテクニックを教えたら舞台としては成り立つのです。

しかし、本当に人を魅了する歌が歌いたければ、声が必要だからヴォイストレーニングをするのです。

 

要は、どこまでどのスタイルで歌いたいかということです。

個性が出てこないのは、自分でもつまらないでしょう。声は個性そのものです。

 

舞台で通用しても、印象の残る存在感のある歌い方というのはできません。

プロの人はそれをもう一度、原点に戻って発掘してみることです。

 

歌のテストということでやっているわけではないですから、マイクが入っているから救われるというのでは情けないです。生で聞くことは、もはや、普通では、ないです。

最初から、マイクが入ってバンドが入りますから、仕上りはわかりにくいのです。

 

基本を身につける分にはアカペラで仕上げていくことです。

アカペラで通用したうえで、マイクを利用するのです。

 

オリジナリティとか自分の個性は出にくい歌です。

流れができてしまっているからです。

そのへんを踏まえてみて、もう一度とりくんでみてください。

 

 

 

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 BV座    350821        494

 

 

新スタジオでの初めてのBV座でした。

以前のスタジオとの比較ができて、大変参考になりました。

 

歌った人、聞いていた人は感じたと思いますが、反響が大きいので、アカペラに関して言えば、前のスタジオのときよりうまく聞こえます。ヴォーカルにとって、このことは有利なことだと思いますので、この“場”を自分に巻き込んでいけるとよいと思います。

 

いずれ、ステージの部分に台を横いて、ステージと客席との区切りをつけたいと思っています。

 

それから、ステージング。ヴィジュアル面からみたとき、靴下や素足のまま歌っている足元が気になりました。もし、ステージ用の靴などがあれば持ってきてもらって結構です。

今後、この新スタジオの音響、セッティング、照明などに関して、徐々に整えていきます。

そのことについて何かアイディアがあったら言ってください。

 

 

◯自分の素質に気づき、オリジナルたるものを磨け

 

歌に関しては、特に言うことはありません。的確に判断することができたでしょう。

人の歌を聞いて皆が感じた通りのことが、そのまま私の判断につながるでしょう。

 

ただ、他の人の歌を聞いて判断することはできても、自分を客観的に判断するというのは、なかなか難しいものです。しかし、自分のことがわかることが一番大切なことです。

 

2年を超えて、みていて気がつくのは、

その人のオリジナルな部分、素質、真価などが、

早い人で半年、遅くとも一年半でみえてきて、歌の中で魅力として光っているのに、

自分でその部分に気づいていないのか、

その部分をつめて伸ばしていこうとしていないようです。

そういうところをもっと執拗に、煮つめていくことです。

 

 

◯本物とは何か

 

長くいる人は、何が本物なのか、

本質を見抜く力がついてきているとは思いますが、

本物か否かは、別です。

 

簡単に言えば、見ていて聞いていて退屈するのかしないのか、

リピート性をもっているか(何度でも見たいか、聞きたいか)

ということで、判断できると思います。

 

その基準は、初回にお客さんをたくさんよべる、拍手をたくさんもらえることとは、必ずしも一致するわけではありません。

本物には必ずオリジナル性、素質、真価などのベースがあります。

 

どんなにうまく歌えているように聞こえても、そのベースがなければ、

ただのカラオケ、カリモノに過ぎません。

初回にうけることよりも、2回目以降にひきずりこむ魔力が必要です。

 

“本物”はジャンルに関係なく、人々の心を打つものです。

それぞれジャンルに好みというものはあるかも知れませんが、

“本物”であるかぎり、そのジャンルにとどまらない要素をそなえています。

 

誰がみても決して退屈しないはずです。

ロックが嫌いな人がロックを聞いて、「うるさい」とか「退屈する」としたら、

音の影響もあるかもしれませんが、

ジャンルを超えて通じる部分が足りないからと思うべきでしょう。

 

 

 

◯本質を見抜く力を養う

 

本物がわかるようになるには、本物である一流のアーティストに接するのが一番よい方法です。

“一流”といわれているアーティストたちは、必ず各々のベースとなるものをもちあわせています。

 

一流の人たちを口先だけでまねるのではなく、自分にあてはめて、体のバランス、体の使い方、表現の仕方などを学び、なぜ人々の心に残るのか感じとっていければ、本物か力リモノかの判断ができるようになります。自分にも、よい影響を与えることができるでしょう。

 

 

ここのヴォイストレーニングのグループ体制として、一応2年間という期間を定めていますが、

声が体に宿るというベースが軌道にのればよいのではないでしょうか。

 

そういう意味では、しっかりとやっている人は、

2年間でやるべきこと、できていることができているといってもよいでしょう。

 

2年間、きちんとトレーニングしていけば、のど声をはずす、

あるいは、若干、のど声で思いっきりシャウトしても、

のどをつぶさないという役者の下のレベルくらいまでいけるでしょう。

 

しかし、そこから必ずしも高めていこう、高めようとしていっていないように思います。素人を脱したところで止まって、振り返っているのは、プロとはいえません。プロにふさわしいトレーニングをすべきです。

 

各々のスタンス、歌のスタイルにもよりますが、ヴォーカルの技術という点から考えると、時間をかけてトレーニングを積んでいけば、のどを使うという感覚がなくなっていくことができるようになります。何か自分が表現したいと思ったときに、体が助けてくれるようになるはずです。

 

ベースをつくり、歌もまとめようというのは、問題があると思います。

体に宿り、次に声に歌が宿って、表現へとアプローチしまとめる方向へもっていく、

このように6年くらいに考えれば、ヴォーカルとしてのポジションが確立されてくるのではないでしょうか。

 

わかるということとできるということは違いますし、できることと定着することは違います。優秀な人ほどできるのですが、定着までいかない人も多いです。

安易にできた気になってしまうと、そのレベルの感覚でつかんでしまい、そこからの集中力、持久力が続かなくなります。できることを定着させないと、わかったことがわからなくなってきて、だんだんと元の状態に戻ってしまうという悪い傾向になります。

 

ですから、6~10年という大きなタームで考えてください。そう考えたら、2年のトレーニングは、10年のうちの10分の2です。それを、10分の4、10分の5と重ねていけばいいのです。

なぜか10分の2を忘れてしまう人が多いわけです。10分の2を忘れてしまうのでは、もったいないです。

 

ヴォーカルは自分の望むところまでいければよいのですが、ここに入ったときの志から離れて、だんだんと現実の方に合わせていく人もいます。

カラオケタレントのようになって、やめていくのは、もったいない気がします。ここをスタートラインとして、ここを卒業するときにデビュー、その地点から突っ走って欲しいです。

 

ここを出てから、まわりにあわせて、それなりに歌えるだけの人になってしまう場合が多いです。

ここにいる間に、なるべく大きく望み、大きくつくるということを徹底的にやって欲しいと思います。本質を見抜く力を養い、伸びていって欲しいです。

 

自分の価値をつくり続ける人に、私は拍手を贈りたいと思います。