レッスン録
ーー
レッスン メロディ処理 京都 340212
レッスン フレーズ 350215
ーー
◯レッスン メロディ処理 京都 340212
「あーあーあー」今の3倍くらいの長さができるようにしましょう。フレーズの基本は人によって状態が違います。次の段階にうつらないといけない人もいます。
しかし、2年ぐらいの間は、「ハイ」なら「ハイ」となるだけ深く入っていくとよいでしょう。
これがたての線で、ことばでスタッカー卜にしかならないとしても、声楽のやり方よりは、深いところが早くとれます。役者さんのトレーニングです。
この考え方というのは、単純な話で、
ことばをよむときに棒読みで「おかあさん」と言っていたら何にも伝わらない、
それに対して本当に必要を感じて「おかあさん」というと、そこで息もことばも声も深くなり、体も使われます。
それを単に音楽にのせるだけです。
歌もその部分とそこを放していく部分が両方あります。
今まで声にしているところを深く捉え、それを捉えたまま動かすのです。
今の日本の歌は、違っていて、浅いところで捉えてそのまま柔らかく浮かしていくのです。
しかし、きちんと歌える人は、深いところを捉えて、きちんとひっぱっています。
これはどこでもそうです。イタリアであれ、フランスであれ、アメリカでも同じです。
マイクがありますから、浮かしても調整できます。でも、語尾まできちんとおとしていかないといけないのです。一流の人は、その基本に忠実に歌っています。
基本で歌うと、まじめすぎておもしろくない形になるのですが、トレーニングだからこそ、そこをやるべきです。
きちんと抑えて、動かすことがフレージングになります。
歌でもトレーニングに近いような歌はおもしろくないです。もともとトレーニングというのはふしぜんなことをやるわけです。どこかを強化して何かの目的を逹するためにやります。
ならば、その目的に対してあっているか、あっていないかを判断しないといけないのです。
歌はそこから自由であるべきですから、自分の感覚で体が、そこで使いたくなければ使うべきではないし、トレーニングにとらわれると歌えなくなってしまいます。
その2つの兼ね合わせをうまくやっていくことです。
「ハイ」なら「ハイ」のところをフレーズで声が浮かないまま「ハイララ」ときちんと、とまれるところです。たての線とよこの線を亠緒にやっていかないといけないのですが、よこの線の流れにのると、フレーズのポジションが浅くなります。
逆にポジションを深くとると動かしにくくなるから押しつけてしまいがちです。
これをバランスよくとるのですが、一つは深くとる練習をする。もう一つは、少々高くなってもよいから、フレーズとしてまとまるところで捉える。
たての線とよこの線が両方あって、音楽というのは基本的によこの線なのです。
ことばというのは、たての線だから、それに反するのですが、
両方とってこそ、メリハリのあるフレーズになります。
基本の基本に戻ってみましょう。
「つめたいことば」とことばでいってみてください。
そのことばが体でいえるように、ことばのトレーニングにします。
役者の中にも「つめたいことば」をいえきれる人はいくらでもいます。
しかし、そのまま、歌にしたときに難しくなります。
今はそれを顔のところで調整するのでなく、体に入れることです。体から声が出ているかは、離れてみたらすぐにわかるのです。
一つのフレーズになるだけのポジションをきちんと入れてやってください。
2、3倍強くやってみるとよいです。
「つめたいことば」のところに感情を込め、表現にしおいて、歌になったときにそらさないようにしておくことです。それが基本です。
歌になったらそこに音がついたり、リズムがついたりしますから、当然、うすくなります。うすくなった分、そこに情緒などが入ってもよいわけです。
まずことばできちんとつかまえ、そこに「つめたいことば」を流れないようにきちんとつかまえておきます。ことばを等拍に考えなくてよいです。ラップみたく考えてもよいです。自分で一番伝わるようにしていくことです。
ことばでいっているときも、棒読みで「お、か、あ、さ、ん」と等拍になっていくのが日本語です。だから、5・7・5みたいな俳句や短歌ができるのです。外国語ではできないわけです。
日本人が外国語を読むとカタカナのように1音ずつ拍をつけるから音が数えられるのです。強弱しかない言葉でフレーズになると、数えられないのです。たてを伴うよこの線です。
表現されたことばは、「おかあさん」というのに「お」に対して「か」が長くて「さ」が短くなってと、全部、違うわけです。なにより強さが違うから一つのことばに聞こえるわけです。☆
それを5つに割っていくというのが日本語の基本的な構造です。
しかし、歌の中ではそれにつられないことです。うまい人ほど、そうはしないです。
音符でいうと、8分音符と16分音符の間にあるとしても、そんな細かいことは書いていません。全部、同じようにならないために、ヴォーカリストの場合は、特に音の高さや幅やりズムに関しても、自分で一番伝わるところでまとめ上げないといけないです。
なるだけスタッカートにならないようにしましょう。それで通用したら歌になるし、ことばになります。
「つめたいことば」と3度ですけれど、ピアノで弾くと合わせてしまってフレーズが切れてしまうのです。楽譜読みで棒読みになります。
そういう間違った練習をしない方がよいわけです。どんどん正解から離れてしまいます。伝える力がなくなるのです。
日本語はこういう言語だから、仕方ないのです。日本語でなければ、もう少しつながるからやりやすいのです。
今は歌に入っているわけですが、まずことばでの表現のところを踏まえておかないといけない。「つめたいことば」これがつながっていることが一つ条件としてあります。
それからメロディがつきますから、あくまでトレーニングの考え方ですが、「レミファミミレレ」これが音程として、みえないようにしないといけないです。
そこでフレーズをつくるわけです。音楽ですから構成を考えるのです。これだけの中で「つめたーい」と、どこかに強アクセントを入れたりすると、メリハリが一つ、つきます。
そこの盛り上げができたらおとせばよいわけです。
こう考えればよいです。いつも、ことばを提示して、それにフレーズをつけて表現でおとすみたいなことです。ポピュラーの場合は、特にメリハリというか、出しているところでの浮き沈みを自分の呼吸に合わせないといけないわけです。これぐらい短いと、つかめるでしょう。
「つめたいことばきいても」基本的なことでいうと、「きいても」の「も」がきちんととまっていないといけないです。切るということではないです。中途半端はだめです。フレーズとして、もってないといけない。
歌い方でいうと、ベースとして通しておいて「つめたーい」というニュアンスをどこかで入れないと歌にならないわけです。「たい」で入れるよりも日本語なら「つめ」と入れるべきなのです。この歌の強拍の1拍目が「たい」にきているのです。どうしても矛盾した形になります。
それから高いところは強く入れるというのが、原則です。矛盾は、強拍と日本語のことばのアクセントとどちらを優先していくかです。リズムと拍を優先することで、日本語は矛盾する場合もあります。しかし、よい歌にするには、歌い手がフレーズ処理で一致させます。
「つめたいことば」でいい切ったら「きいても」は引かなければいけないのです。楽器で考えてもらえれば一番わかると思います。この中で処理していくのです。
そのためには「つめ」と出すのに加え「たーい」と、ここでフレーズをつくらないとだめです。「ことば」できちんととめておいて「きいても」を弱めるということです。
トレーニングであれば「きいても」ときちんと出しておいて、こちらをより強くという考え方がよいです。歌の場合は、弱めてもよいのですけれど、トレーニングでは強めることで練習するのです。
フレーズをつくるときに体が使われていないので、トレーニングにならないのです。体が変わらないなら、トレーニングになりません。
調整の部分で、それをまとめるのは、歌を歌わうときになったら、やりはじめればよいわけです。
ベースの部分では「つめたいことば」と、ここまで息を吐いたら、次に「きいても」に結びつく働きが出てくるわけです。そこと体を一致させていかないといけないのが、難しいところです。
つまり、体を使い切った方が楽です。否応なしに息が入ってきますし、呼吸を考えなくても呼吸の中でやっていくことができますから。50メートルぐらい走ってきて、そこでやってみてください。結構、生きた表現ができることもあります。
少々動いたくらいでフレーズがもたないのは、問題です。走らなければその分の体カはあると考えるより、軽く走りながら歌えるくらい体力が欲しいものです。
このぐらいのフレーズはもつようにしたいものです。このフレーズの一部分の密度さえ、プロのヴォリュームとー数していないからです。
もちろん、走った状態は、呼吸ものどの乾燥も含めて、発声のベストではありませんから、念のため。
「ラララララ」という線上には戻ってこないといけないのですが、同時にどんどん放していくことです。何でも基本の線があって、どれだけその人が息を使って体を使って放れられるかというところが問われるのです。そこが一流と三流の差です。
普通は「ララララ ララララ ラララ」とペタペタ、歌ってしまうのです。伝わらないです。心を入れているつもりでも、身を入れていない。そこをトレーニングの中で練習していかなくてはいけない。それをふまえた上で歌の中で弱くひびかせるのは構わないのです。そうしたいのであればすればよいだけの話です。
ここでやっているのは、トレーニングなのです。一つの音をそのなかで、どれだけヴォリュームを入れ、体を入れるかということです。声で体を使っていくことです。一時、めちゃめちゃになってもよいです。まとめるのは歌を歌うときに、埋めていけばよいのです。
今は、はみ出して、器自体を広げないといけないのです。基本のときに手を付けないと後で広げられません。カラオケで何年、歌っても、器の大きさは変わらないのです。きめの細かさは出てきますが、体での統制の能力というのは、なかなか身につきません。器自体を大きくするのは、こういう部分で巻き込んでいくことです。意図的に、だから、トレーニングです。
「つ」と「た」は、難しいので、他のことばがよければ適当に変えてください。できないのがわかりやすいので、わざと難易度を上げています。☆
全部をいおうとするから離しくなるのです。歌ってはいけないというのは、自分で動きをつくっていくのは、大変だからです。歌というのは歌うところだけ決めたら、後は歌わなくてもよいのです。歌わなくても流れを出し、その流れでのった方が、しぜんに楽にいけます。
うまい人ほど、ポイントだけ歌っているだけです。体が動いていて、声が出ているみたいなつなげ方をします。当然のことながら、コントロールはしています。
基本の練習のときは、1-2-3でやっていくというのも、大切です。だから歌と違います。
音楽の捉え方からいうと、伸ばすところだけ伸ばす。切るところは全部切る。全部を歌ってしまうのは一番下手に聞こえます。
今の練習の目的は、体を使えるようにすることです。使うときに切れ切れだと使いにくいから、伸ばすというのも一つのアプローチです。
ベースづくりの段階と、そのベースの上に展開をつくっていくのと、練習が違ってきます。☆
ポピュラーの難しいところは、本当に余裕があって安心して聞けるために、トレーニングでは、ぎりぎりまてやらないといけないところです。それを最低限、日本の声楽の発声条件としたのが、ここです。☆
10の器でいくらまとめて、その90%できかせても、100の器のある人が鼻歌まじりに歌う歌にかなわないのです。10の力なら、その10でどんな波を出すかです。100の力なら、もっと世界を大きくつくれます。力が足らないと山に登れないし、登ったら下りれなくなるのです。それで、山や谷をつくれるはずがありません。世界をつくるということは、そういうことです。
フレーズというのは、離れていけたら離れていくほどよいのですが、離れてたどりついたところから、戻らなければ歌にはならないのです。そこに山のつくり方があって、それを自分の体でやらないとできないわけです。
一つのフレーズをどう聞かせるかと徹底的に研究していくことです。それは自分の体と呼吸とを合わせないといけないから、足らなかったとか余りすぎたとか、いろんなことが起こってくるのです。密度の高い声、ヴォリュームがないと、対応できません。
それができた上で次のフレーズにいき、今度はフレーズ同士の構成になっていきます。どんどんややこしくはなっていくようですが、基本ができていたら、これは感性のおもむくままにやればよいということが簡単になります。いろんなごまかしが効いてきます。
ヴォイストレーニングで1音だけというのは、一番、基本で難しいことです。歌というのは、そのなかにいろんなはったりとかごまかしがあって、どこかがもったら、しばらくもつわけです。ただし、もつところ、みせるところが1カ所も2カ所もなければもたなくなります。それをどうつくるかというのが、ノウハウなのです。
一流のヴォーカリストの歌で、どんどん効いていたらひきつけられ、すごいと思ってしまう部分を学ぶことです。彼らは、惜しみなく出してくるのです。ここまでやるのかと聞いている方の期待を満たした上で、さらにここまでやれるものなのかと出していくのです。
それは、体力とか息を吐く力に支えられた技術の部分です。それを感じさせなければ1曲聞いてしまうと慣れてしまい、1曲目でうまいなと思っても、3曲目まで閒いたら「この程度か」と観客にわかってしまうのです。その人の器、歌をわからせたらいけない。1回のコンサートで、よかったと思わせて終わるだけか、さらに帰りにCDを買って、次の日も誰かを誘ってでも来たいと思わせるか、大きな違いでしょう。
「ラララ ラララ」これで2つフレーズをつくります。単純に、この課題の真意からいくと「ドドド レレレ」の「レレレ」であがります。特に日本の歌い手の場合は、浮かしてしまうのです。語尾が日本語では強くできないので、変えてしまうわけです。
ところかインターナショナルな感覚は逆で、1音でも高くあがるにはより強く表現すると威ます。最初はトレーニングでは、そのように捉えるように言っています。しっかりと胸に入れないといけないのです。2音目できちんと入れます。音質も変わってはいけないのです。
日本語の「ラ」というのは難しいので、最初はあまり使わない方がよいのです。英語とも違います。RよりはLに近いのです。☆
「ラララ」もポジションをとったままできてくるようにするのです。捉えたまま、上にひびきを出していきます。ひびかすまえにこういうやり方でひびかしていく。「ララララララ」が6つに聞こえるとだめです。一本の組のフレーズでおくことです。そのためには体を使います。
一つに聞こえるのが一番よいのです。多くとも2つぐらいに捉えます。そのためには体を使います。体が使えていたらトレーニングになっているということです。
ー
「これで青春も終わりかなとつぶやいて」
日本人だと同じ形であがってしまうのですか、向こうの人は、そこで入るわけです。ポジションも深くなるとともに、感情も体も入ります。上にいけばいくほど抑揚感をあおって、びびきの方に移動するというような形にしていくのです。中間音にメリハリがどのくらいつけられるかが問われます。
日本語の処理の問題は、日本語で歌っている人を聞かないと難しいでしょう。演歌の人はとてもうまく処理しています。日本語に聞こえるようにメロディの微妙なところを寄せています。囘じことばが統いたときに、どういうふうにとっていくのか、どこまではずしてよいのかという問題になってくるわけです。
「ちかって ちかって」
日本語だと「ちかって」といえず、「ちかあてえ」となりやすいのです。しかし、ポピュラーはことばと息でこなしていくわけです。「ちかって」といっているままで、音の中に当てはめていけば「ちかあてえ」というフレーズは、音のひびきの線は出ても、ことばとして伝わらないわけです。
声楽では許されることかもしれませんが、ポピュラーでは聞き苦しいだけです。そういうことが日本のことばでは多いのです。日本語はみんな母音がついて伸ばせると思っていますが、無声化で母音をつけないのも多いのです。ですから、ポピュラーの中では、いい切っていくべきなのです。
「キス」とかも「キイスウー」ではありません。この「キ」でも「イ」は言わないわけです。全部、殺していくわけです。日本語が入ってきますから、日本語を正しく捉えようとすると、伸ばせなくなってくるのです。音楽的に処理しようがなくなるので、多くの人は「ちかあってー」と伸ばしてしまうのです。これをシャウトするのです。シャウトすると息も含めて、音とことばがフレーズのなかでとれます。同じところが処理できますが、メロディにのせて歌うとそうは聞こえなくなるのです。
ーー
「あなたにこいをして」
自分の中でいろいろと変えてみて日本語を伝わるようにしてみてから、そこをつかまえておいて音符にそのイメージをのせてメロディもとらないといけないです。両方殺してしまっては仕方がないでしょう。
大体、ことばかメロディかどちらかしか聞かせない人が多いです。そこをぎりぎりのところで調整していくようにしていくことです。フレーズの問題でいうと、日本語ですから、どうしても最後の「してー」でひっぱるときついです。そこが小さく聞こえるこえるために大きくしないのでなく、そのまえや文頭で大きくとらないといけないのです。
それが「たーに」というところで、ここが一番フレーズがとれるところです。「たに」でつかまえておいて「あな」できちんと入れておくことです。「あなたに」を伝えるのが難しいのは、「に」は「にー」とはいえないからです。「あなた」とことばで切っておきなから「に」を浮かすのが日本人には一番やりやすいでしょう。しかし、そこでフレーズをつくるということなら「たーに」でフレーズをつくった上で浮かすわけです。これは先に述べた浮かし方とは違い、下をきちんともった上で息を流して弱く出すのです。
特に助詞などの場合は、あまり強調できません。「て」はフレーズで一応、線をもっておき、そこで音だけおいているのです。日本語で音楽的に歌うには、一度イタリア語などでフレーズをつくってみて、それを浮かした線でもう1回ことばをとらないといけないのです。
ポピュラーの場合は、そこまでできている人は少ないのです。演歌はいやだが、今の日本のロックみたいな口先でのこなし方もいやだというときに、昔の日本人の歌手や海外のヴォーカリストが日本語で歌っているものを見本にするとよいでしょう。
日本語の処理の仕方は、声楽とも演歌とも違うところです。フレーズとしてきちんともっておいて、ことばをおく感覚をもって伝えるのが、日本語としては一番処理しやすく、矛盾がおきなくなってきます。どんな歌い方にしろ、あとで応用力がききます。
声を出すこと、声のフレーズをつくることに専念する時期は必要です。しかし、フレーズを深めることだけで歌にしていくと、いつまでたってもステージに立てないのも事実なのです。
しかし、歌いやすいように全部をすててしまうと元に戻ってしまうのです。
身を出し惜しんで歌っていると、元に戻ってしまいます。基本をもった上でフレーズをどうつかまえていくかというようなことを研究してください。
これらを捉えるのは簡単です。ことばでいってみたときに、声のポジションと息が深くなれば相手に伝わるというような部分は、体を放さないでやっていけばよいのです。特に20代の間は徹底してやって欲しいものです。それをまとめていこうという出し方になったときには、そこは歌をどう間かせるかという視点からトレーニングしていけばよいでしょう。
それは作品での自由です。何通りか歌い分けた方がよいでじ:よう。一流のヴォーカリストは、この原則を守っています。しかし、日本人と日本語の問題となると、やや違ってくるということです。
観客が声の魅力や一芸よりも、その人の雰囲気やビジュアル面でのパフォーマンスを選びます。フレーズを必要としなくても歌がもつからでしょう。
表現のことは、自分のステージで調整していきましょう。
ー
レッスン録 フレーズ 350215
ことばについて、一つひとつの長さというのは微妙に違ってくるのは、ことばから考えてみればあたりまえのことです。「お母さん」を「おーかーあーさーんー」といってみても伝わらないでしょう。
本当に伝えようとしたときには「おかあさん」というのは、「か」が少し長く強くなって「さ」が短くなったりします。音符では、わかりません。外国語の場合はしぜんとそうなるから、そのままで音楽的です。ことばの長さの部分はこのように、変わります。
ピッチも同じです。音の高さも高くなればなるほど半音ぐらいは、ずれてきます。ビブラートというのは大体、1秒間に6.5回のゆらぎがあり、この波が高低に揺れるのはよいのですが、幅は変わってはいけないのです。
声自体のゆらぎが変わると、とても聞き苦しくなるのです。だから、ゆらぎが均等でないといけないです。均等かどうかは自分でチェックできます。息が支えていないと、支えられなくなります。
平均律であるピアノに対して音の高さや長さには、ヴォーカリス卜の場合はかなりずれてきます。ずれても、そのずれが快感ならよいのです。
ずらしたところから、すぐに戻れるのか基本の力です。まず、それを捉えることです。
「ハイ」といえるところを一つにつかみます。すると、そこで線がでてきます。それから「ハイ ララ」のようにひびきにしていくと、しぜんなひびきになってくるのです。
歌い手の感覚としては、体を使おうとすることは、どれも押しつけているのです。これは息のコントロールで行うのです。声楽家の声のつくりかたと似ています。「日本人によくあるキンキンした声ではなく、外国人のテノールのようにしっかりした声です。これは、体を使おうとしてはできなくて、体が使えていなくてはなりません。☆
レガートの練習では、のどをはずしていないとだめです。声のポジションも声の線も深めるのです。その線を太くとるようにしていくのです。すると息と声がつながります。
そこまでの音のところでは、テノールあるいはバリトンヘのプロセスの声と、ゴスペル、ジャズのシャウトできる声とも、似ているのです。
たとえば森進一さんの声みたいな声は、モータウンに近いような感覚です。☆
日本人が聞いたら、何か声のよくない感じがしますが、ひびきをつけるかどうかというのは、バランスの問題です。
テノールというのは、特化して人工的につくっていきます。人工的につくっている分、日常的な声からは離れていきます。だからテノールの人は大変な努力と管理で、技巧を身につけていきます。ひびきを基盤として支えるのです。だから普通の話し声とか、ポピュラーを歌ったときに普通の人と変わらない人がいます。
バリトンからバスの人(日本人の場合は、バスが少ないのは、体が大きい人でないと声带が長くないから出せないのです)、そういう人たちの場合は、比較的、歌でこなしているところと日常の声のポジショニングが一致するのです。
上のひびきが使えるまで使わないで、深さをとります。深さがある程度とれるまで保つのです。ことばによっても違いますが、「ゲ」「ガ」「ギ」など、上のひびきの方にのぼりやすいものも、下の線をとり、同時に上の線をとっていくのです。
気をつけないといけないのは、この練習をするときに息の力、コントロール力がないとうまくいきません。一つひとつのバラバラの音になってしまいます。
強めて弱める練習を、メッサ・ディ・ヴォーチェと声楽ではいいますが、まず声の芯で深い点をとったら、上にも下にもひらいていくことです。☆
このヴォイストレーニングの最初の段階では、主として下にひらいていきます。胸でどんどん開いて、線をとっていきます。ことばが一つのフレーズとなってこないといけません。簡単にいうと「ドレミレド」の「ミ」の音自体がこの「ド」の昔の3倍くらいのヴォリュームでとれるようにしていくのです。
3つの音それぞれの、出し方が変わってしまう人もいます。しかし、基本的にトレーニングということで体の負担を考えるのなら、確実に声の重さを感じ、それを保っていくことです。
もっと簡単にできるイメージとしては、こういうやり方もあります。「ドレミレド」の一番高いところ、つまり「ミ」で負荷を与えるために、強くします。強くして長くするというのを同時にするのは難しいので、短く強くやることです。同じ力しかなければ、強く出そうとしたら短くするしかないのです。
声のプロは、長く強くできて、それがヴォリューム感になります。普通の人は長くしたら弱くなります。長く弱くしているから、ダラダラしてしまうのです。これでは、いつまでも声が体につかないです。まずは、強く短くでよいということです。☆
これをつきつめていくと、スタッカートになるわけです。最初は「ハイ ハイ ハイ 」これでよいです。そのかわり「ハイ」のところが練習になるように、体を使ってください。
そのスタッカートの部分からレガートになる部分が、メロディ、ひびきです。
「ハイ ララ」と押しつけると、声は一見、深くなるのですが、歌には不利になります。流れが出ず、固まり勤かなくなってきます。たての線だけだからです。そうした声そのままでは音楽的にはならなくなります。
そうかといって支えを抜いたら浮いてしまいます。そこでより息を吐き、確実に深いポジションで声を捉える感覚にしいくことです。今は、たての線を深くつくることを考えてください。
アマチュアには、横の線、流れしかないから、伝わらないのです。たての線が深く入り、:次に頭にひびき、そこからしぜんと横の線がフレーズとして出てきます。
ジャズやブルース、クラシック、すべての分野において、声ができているか声が使えているかをどこでみるかというと、線が通っていることです。声や息の深さというのは線を出す条件となります。その上で歌はこの線上から、どのぐらい自由にはみ出せるかを競います。
歌唱力のない人というのは、「ドレミレド」と5つの点を守り、ここからはみ出さないのです。だから横の距離の方が長くなります。聞いていて、間延びしていて退屈になってきます。
うまい人ほど、この線の方がたてに高くなって波打ち、横の一本調子を感じさせないです。
一つの線が息のベースや声の芯のベースにのっていること、これはきちんとつかんでおくことです。つかんだ上で、どこまでのぼって、ちゃんとおりてこれるかが、歌のみせどころです。
計算して行うのはよくないのですが、いけるところまで、のぼってみようということは、トレーニングですることです。ここで声が足らないでおちてくると、ふにゃふにゃになります。それでも最初はよいでしょう。トレーニングですから、足らないことを知ることです。
これをやろうとしたら、おりてくるところまで、計算しないといけないです。声を体で配分するのです。これをしぜんに行なうために感性がいります。ほとんどの人は、等分にしか、こどばやメロディをこなせません。
歌の場合、これをどういうフレーズに移行していくかが大切なのです。どちらかというと体の流れをみせる方がメインです。そのときに高低をとってみるのは、体の使い方のヒントになります。長るも変えてみるとよいでしょう。
このようにして、どんな作品も一旦はこわすことです。ここで体を使って、音楽を1回こわし、それから声をもって、表現できたものだけで組み立て歌にしていきます。
一旦、音楽の正確さという規則を破ってでも、自分のものを出すのです。均等に長くしたりピッチを正しくとるのも、結果的にそうなればよいのであり、優先すべきは表現です。
基本での練習というのは「ドーレ」という音をとりにいったときに「ド」から「レ」までの間がわからないようにすることです。音によって発声を変えたら、わかります。体の使い方で音を次々と処理してとっていくのです。
これは、出てくる声にすぐに現れなくとも、その支えとなる体のトレーニングの使い方として、ベースになります。ここは感覚的に覚えていくしかないのです。一流のヴォーカリストを聞いてください。
何も歌い手がこんなふうに考えているわけでもないのですが、その人がパッと歌ったときには、それを判断するような基準を何かもっているし、私の判断と一致するわけです。
歌になると好みにより若干、違ってきますが、基本の条件は、はっきりとしています。
難しいのは、バッティングなどでも何でも同じようなことです。うまくなるには力を入れると同時に抜くことか必要です。
それが歌の場合、声の中でどう捉えられるかということです。力を入れるというのは、きちんと下のポジションまで届かせてとることです。抜くというのは、しぜんにひびいてくる共鳴を生かすのです。要はバランスです。
最初はあえてバランスをくずしています。日本人の場合、あまりに声が浅いからです。強化トレーニングとして、かなりの力で投げて、思いっきりバットも力でふっていたら、抜き方もわかってくるということです。力をうまく抜いた方が、球が飛ぶのが、事実だからです。
トレーニングだからと、あまり力を入れると、間違ってしまう場合もあります。そのバランスをトレーナーがチェックします。
同じ結果が出るのであれば力を半分でやればよいのです。そして、余力をより高音や長く伸ばすところへ使っていきます。力を使わなくても同じ結果が出たら、それでよいという考え方です。
結果が同じであれば楽な方がよいわけです。それで歌っているのがプロです。
そういうことを経てそれだけの体を使って、声域を広げたり、大きな声量が出せるようになってきます。力を使うために、バランスをとることです。抜いてしまうとよくないので、そうならないだけの体の状態ができているかどうかに尽きます。基本的に、どこでもきちんとことばを捉えられることでチェックします。
「おかあさん」と本当にことばをいって伝わったときには、ピッチも高ざも違ってきます。強調するところ(プロミナンス)も、体の使い方も違ってきます。役者も、一つのことばを伝えようとしたときには、体が使われるはずです。口だけで「おかあさん」といっても伝わるわけがないです。
そういったときに、自分の体での深い息が使われているはずです。声のポジションも深くなっています。歌とはそれを1オクターブで3分間にわたって行えばよいのです。そのための基本の力をつけるというのが根本的な考え方です。
ただ、歌は声を伸ばしたり、音程をつけたり、リズムに合わせてやらないといけないから、皆、急いで、声づくりそのものを疎かにしてしまうのです。声のなかにメロディ、音感、リズム、感情、呼吸すべてを一つにして表現することが大切なのです。
体がそれだけのキャパシティをもっていないと、口先で歌うことになってしまいます。日本はすぐに歌声をつくり、浅いまま歌ってしまうので、そこが難しいのです。
ことばそのものの中に強弱アクセントがあって、しぜんと次に進んでいくような言語なら、歌声にしなくとも大声で言うだけで歌になります。
日本語そのものでは何を歌っても一見、音楽的に間こえますが、それはそこの部分を歌っているだけで、本当に、歌になりにくいのです。ことばで処理していくなかに、身体と感覚を総動員してメロディを卷き込んでいくことです。
長いフレーズを長くしていくなかで、音程をとっていくことです。まず、そこでどれだけの息が吐けるかを試してみましよう。それを歌に使える声にするためには効率的に吐いていくのです。それが難しいのです。
肺活量ではなく息の深さと声として保つ効率です。それは自分の中でつかんでいくしかないです。きちんとつかめば、息も効率的になります。高くなればなるほどパワーがいりますから、息は吐けなくなってあたりまえです。だんだん出にくくなります。それをもっと吐こうとしたら力がいります。
一つの音に対してどのくらいの息を吐ききれるかというところが、一つのポイントです。さらにそれを声にすべて転換できれば、かなりのヴォリューム感が出ます。それが一致しないから難しいのです。
段階を経て、トレーニングしていくことです。ことばで役者レベルからポップス、ジャズ、ブルースのような声にしていきます。原理はそれか声楽と全く変わりないです。プロセスではどこを強調して、最終的にどうフレーズをつくるかです。そこからはジャンルによって違ってきます。
「ゲーゲーゲーゲーゲー」(ドレミレド)
これを、ピアノにあわなくてもよいですから、自分が移れるときに移してみてください。各音の差をなるだけなくしていくことです。「ガギグゲゴ」をつけるのは「ハイ」と同じで胸に入りやすいからです。比較的日本人で深い声がとりやすいからです。
「ガ」「ヤ」「ダ]は、母音よりも、一瞬深く入るのです。日本語の母音は浅くなりやすいので言い替えます。「ガ」行に関しては、鼻濁音でやる必要はないです。
「ゲー」とのばしていたら、そのなかで、しぜんとゆれが出てくるはずです。そこでうつりやすいところで、次の音にうつっていけばよいのです。
こういう練習では、3音目までできているか、4番目の真ん中あたりまでできるかとチェックします。つなぎ目のところが練習であって、このつなぎめのところで変わってしまうと練習にならないのです。
音があがるところが練習です。レガートの場合は5音に聞こえてはだめです。1つの中でやるのです。そうすると体を使い、しかも離さないとできないです。
「ゲーゲーゲーゲーゲー」
今度は上からやります。落ちすぎないようにするわけです。ヴォーカリストの微妙な感覚でいうと、上にあがる「ドレミ」という音感と下から「ミレド」というのは相当連うのです。
フラットとシャープも、平均律、纏盤でいうとドとレの間の黒鍵の音にしていますが、本当はシャープとフラットは違って、ドのシャープとレのフラットとは違うわけです。まん中がないわけです。上にあがるときに対して、下に下げるときは音程が狂いやすくなり、保てなくなります。そこは感覚的に修正していきます。
日本人だと半音とるのがやっとですけれど、世界の中には1/4とか1/8とかを1音の間にとって音楽をやっている人もいます。本来は、平均律でない方がよいです。
ピアノで「ドレミレド」にすぐにあわせないで、ひびいている音にあわせるのです。☆
ひびいている音は、倍音です。すぐにとると本当は正しくないです。
私は、電子ピアノが、0コンマ何秒、ずれたように音が出るのにも、いい気持ちがしません。とはいえ、正確さだけでは、コンピュータミュージックみたいになってしまいます。
コンピュータの歌だと絶対に感動させられないと思っていたものです。揺れがないからです。
日本語は、高低アクセントはあっても、ピッチのゆれがないわけです。大体同じ高さで話しがちだからです。
「ラララ」
これも同じように全部いれておくことです。線からはみだすと音楽として、とても聞きにくくなります。このコントロールの力が必要なのです。息が長く出るより、出た声が統一できていればよいのです。
これが上で「ラララ」といっても、この線上にはみださなければ生きているのです。これを均等にとろうとか、音程にあんまり敏感になりすぎるととれなくなります。基本的に1音目に「ラ」といれておく、その流れの中に3つの音をいれればよいわけです。
日本人の英語が、英語らしく聞こえないのはカタカナにしてしまうからです。均等に切ってしまうのです。
外国語というのは明瞭に発音されているものと、発音されていないものの差が大きいのです。☆日本語でもせりふなら、そうなりますが。
歌の中の場所でも変わってきます。強アクセントのついているものを、はっきりと発音します。明瞭に発音するものだけをきちんと押さえておけばよいわけです。あとはいっているか、あいまいかよくわからないようなことばになっているわけです。
ところが日本人の場合は、特に歌では、全部をすべてカタカナにして音にもってくるのです。ですから流れがないし、音楽的になりにくいわけです。「ラララ」「オーオー」などのスキャットやシャウトが、歌、音楽に聞こえません。☆
「ラララ」のなかでもバランスの調整が必要になってきます。音の高さによっても若干違いますし、曲の中の位置によってもってきます。曲の中の何を強調するかということになってきます。
今のところで3つの音をきちんと保てればよいわけです。それを抜けてしまったり、押さえつけてしまうのはまずいです。本当はこの線もみえないのがよいです。直接、心にことばが聞こえてくれば一番よいのです。
本当に歌える人は遠くから声がとんでくるといわれています。遠くから聞こえてくるというのは、心だけが聞こえるのです。給局、口から聞こえてくるようにみえるのは、口先なのです。大切なことは3つの音に対して同じバランスを維持して、バランスが同じで線がみえていたら通用します。
「ラーラーラー」
これは一番基本の練習です。最初の「ラ」に入るところが、声立てです。息と声にすると、それを瞬時にして捉えなければいけないのです。だから、これができないと正しい練習にならないです。
どんなに調子が悪かろうが、風邪をひいていようが、寝起きであろうが、そこにパッともっていけることです。体の引っ張りみたいなのが必要です。抵抗がないと声にならないからです。深いところをもつということと、それをキープしておいて自分の体にそって展開させて、またそこでおさえるのです。
それを歌にしようとすると、乱れがでてきます。結局ヴォーカリストにとっては、乱れがでてきたり違う線がでてきたりすると、扱いにくくなるのです。高いところがでてもキンキンにひびいて、バラバラになってくるのです。それよりもそんなにでなくてもよいから、この線にきちんと方向性がみえているところで、飽きずにトレーニングすることです。
声1つの中でもフレーズの中でも、どこにたどりつくのかが「ラ」と一音、出したときにみえることです。そこまでのことを計算して体の中で循環させないといけないです。
大きくとればそれだけ体にくるわけです。その上でどんどん解放できた方がよいわけです。捉えることなしに解放しようとしても難しいです。
合唱団とかアマチュアの人の多くは、ひびきだけでそれをしているのです。上の方だけでやるときれいになりますが、ひびきだけでは柔らかいし、体が使えないからインパクトが出せません。なるだけ芯は捉えておくことです。声の線を厚く薄く自由に使うのです。
その線がみえていたら歌が生きているというような考えです。それで線がみえてきたらその線に対してトレーニングをします。歌というのはその線をどう展開させるか考えていくのです。
トレーニングはその線をより太く、より大きくより息を使ってくわけです。だから1つのフレーズをやったら体が疲れるのです。それを余計な力が入らないようにして、今は声そのものに密度をいれていくという練習をします。これはとても大切です。
これが次の段階になったら密度がいれられないわけです。
簡単なことでいうと、今「ヤッホー」といえる声以上の声というのは歌では絶対でてこないわけです。そうすると、この3フレーズの中で、できるだけの応用範囲をみすえて行うことです。
今のフレーズの中で体をもっと使わないといけない練習にするのです。あるいは今よりも小さな声であってもそこに体を使えばよいわけです。声のポジションとか息というものを捉えてください。
高いところは大きなところと考えましょう。小さくするのであれば低くなります。ことばを相手にしっかり伝えようとすると、それだけで体を使うわけです。普通よりもきついわけです。それをきちんと制御することです。
だから小さな声でプロの歌い手が歌ってみても、音程やリズムが狂ったりはしないわけです。小さくするとそれだけ集中しますし、体を使わないとセーブできないわけです。
そういう面でいうと小さい声は大きい声と同じくらい難しいし、低いのと高いのも同じくらい難しいです。逆に中間音というのはどうやっても声になるから、もっとも難しいともいえます。☆
間違ってもとれるわけですから。難しさがちょっと違うわけです。
人によって得意、不得意は出てくると思います。それをなるだけ、ストレートに感情がでるようにならしておく。だから体がなくても歌が流れていればよいのですが、どうしても体があって、ことばがあって、メロディがあって、そこに歌をつくろうとするからまどろっこしくなってきます。
今のは大切な練習で、続けていってください。自分のことばで何が一番、声としてうまく入れるかです。それをフレーズとかレガートの中で、どれが一番できるかを問います。それでできたときの感覚とかバランスを完全にしてください。
できないことがあるなら、できないことは全部やらなくてよいのです。できることを完全にして、声を出すことがどういうことなのかを体におぼえさせていく期間が必要です。最初から全部そろえようというのは難しいです。
もう一度やって、もし体が使えていないと思ったら3倍、4倍くらい長くするとか、強くするとかして、体、息、声という接点をつけてください。体からの表現にしていくわけです。そして、体、息、声の間をなくしていく。
最初はそれをつなげていって確認していましたが、最後の「ラーラーラー」の「ラー」の抜き方を自分の体に確認して離していくのです。
基本のある人は必ず歌の中でもその習慣がついています。そこで狂わせないでとめます。というのは、次のフレーズが高く入ったり、次にことばのときに、そこを確認しておかないと、ずれてくるからです。
歌が難しいのは、2年の中でベストのことが1音とかどこかのフレーズの高さとか長さとかでできても、結局、苦手なところで、そろってしまうのです。全部を完璧にしないと使えないのです。
フレーズも最後の音がちょっと狂ったら、そこが起点になって次のところが狂います。☆
プロでもそうです。のど声になっていると、それを歌の中で直すのは至難の技です。次の曲になったときに直せたらよい方で、下手すると最後までそれでいってしまう場合もあります。
1回間違えると難しいから、ヴォイストレーニングが必要なのです。トレーニングのときは歌以上にちゃんとつんでいかないといけないのです。歌の中ではそんなことを気にしてやっていられないですから。歌のときにしぜんに基本の上についているようにします。
「ラーラーラー」の練習の目標は、2番目のところを大きくして3音目できちんと戻れることです。常に強弱をつけないと仕方がないのです。最初に強くなって弱くなるのも、弱くなって強くなるのも練習も両方ありますが、基本となっているのは1つのフレーズです。
その中で1本この線だというのをとおしておいて、その線をきちんと深くとおしていくわけです。はっきりみえるようにしていくと、ことばを処理するときも簡単です。
ただ声楽の場合はピアニッシモであってもひびかせて伝えなければいけないという限定がありますから、どうしてもひびきで歌うのです。息だけでは聞こえないわけです。
ポピュラーの場合はマイクがありますから、息だけになってもハスキーになっても聞こえます。ことばより技術が要求されたり、ひびきのバランスは大切なのですが、ポピュラーの埸合はもう少しストレートに半々ぐらいに考えていてもよいでしょう。
高いところでキンキンとなったりするような声よりは、体でもっていってそこでかすれていても安定します。それをのどでやっていくのはよくありません。つぶれない人もなかにはいますが、声が荒れてきたり、声带にくせをつけて使ってしまうのでよくないです。
自分のもっているところの最もよい発声をより深く、太く出せるようにしていくことです。それとともに、常に形を壊せとというのは冒険をしていくことです。
より感情を強くきちんと伝えるということを、歌の中では配分していくわけです。感覚的には日本人はそういう感情を音声で強くだそうという感覚そのものが 、あまりないから難しいのです。
もし歌ということでやりたいのであったら、外国人のそういう歌、そこまで表現するのかと、でんなにしてよいのかというようなハードな感覚から入って、練習した方がよいです。
日本では、日本のお客さんにあわせて歌わないといけない部分もあります。けれど、中途半端だと通用しないです。日本の場合は、どちらかというと下をとらないで上の方だけできれいにひびかせています。そのヴォリューム感とが厚みがありません。
それは自分の中で判断していけばよいです。1オクターブ使おうとするとどこかがおかしければ、歌の中で全然でてきません。こういうことを3分くりかえして、1曲の歌というようなことを、基本としてやっておくことです。
音域やリズ厶が複雑なときに、中途半端な声というのは絶対使えません。バットを思いっきり振れないバッターのようなヴォーカリストを、見本にしないことです。
それを使えたら、今はできているということです。その基準を自分の中でどこまでやってよいのか、どこまでやれば一番練習になるのかを問うてください。
そのうえで調子のよいときは歌ってみたり、上の方でひびかせてみたり、技を磨いてください。ファルセット、襄声を試してみるのもよいでしょう。
調子が悪いときは、確実にできたことを練習して、その先に進まないことです。そうしないと、のどを痛めてしまい、調子のよいときに戻らなくなります。
先に進みたいのはわかりますが、そこを自分を区別できるかです。こういう基本的なことを中心に半分以上、8割ぐらいやっておいたうえで、あと2割はいろんな試みをやっておくべきだと思います。
歌になったら何が起きるかわからないし、どんな声が自分にあるかもわからないのです。バランスも大切です。声だけをやっていると、どこかで偏っていきます。今、出してやっている声を深めるとともに、より出やすい声あるいはでやすいフレーズにしていきます。
姿勢とか呼吸法とかは細かくは注意しません。自分の中で出た声に対して判断していくことです。どんな姿勢でもよいから、できたら、それを応用していくことと基本を繰り返していくことです。
メニューも全部自分で組んでいき、それから今日の練習は何分かよいとか、どの順番でやればよいのか、それも自分で組んでいくのです。それを毎日ノー卜につけてみて、1週間こういう練習をしたから、この日は声がでた、とか分析しましょう。
人によっていろいろ逮うわけです。トレーニング中は、そういうことに敏感になれる時期です。徹底すればよいと思います。10年ぐらいたったら、何をしなくても寝なくても何でも声はでてきます。
そうなるまでの間でないと、そこまで神経質にもなれないです。そのときに自分の体を声との関係をとらえていくことです。
相撲で、3ヶ月先の精古といいます。3ヶ月前にしっかり練習をやっていたら、3ヶ月後に出るのです。油断していたら、3ヶ月後にがたがたとくずれると。
自分なりにルールをつくって、そのルールに基づいてメニューを組んでみてください。ベストの声でやっていくしかないのに、ワーストの声でやっても通用はしないのは、明白です。