◯ステージ実習コメント「私の神様」
課題のポイントの捉え方はその人によって、ずいぶん違ってくると思います。
この曲でみたいところは、普通、音程と音感とフレーズ、音域の設定ですが、大切なのは流れです。いかに流れをきちんととれるかどうかです。その流れが見えればこういう曲の場合はよいのです。
けれど非常に難しいです。どういう形が完成というのはないのですが、心情が伝わってくるような歌い方というのは、かなり難しいといえます。ポイントとしては、オリジナリティ性が出てくるか、出てこないかでみています。
リズムとか音程も流れからつかんで欲しいのです。こういう曲というのは、基本通りの進行をしているのです。結局、音を構成していくのが音楽なのです。
そのために確かに声があれば、楽器で音がでるのと同じですから、そこから音を構成しやすいというのが私の考えです。
ただ今はあまり声のことを考えないで、体づくりを優先してください。これは最低限、スタートラインに立ってみると、体のない人がずいぶん増えているからです。それから耳です。
以前は、高校生には体をつくって、いろんな音楽を聞いてきなさいといっていました。当然それで聞き方がわかったり体のつくり方がわかるわけではないです。けれど、変に早くからヴォイストレーニングを一所懸命しても無理だからです。それを今は20歳を過ぎた人たちに対しても言わないと難しくなってきているのです。
ゴスペルとかオールディーズを歌うにも、基本的に声の中で捉えられなくなっています。一人のなかで統一していくべき声が分裂していくわけです。
何を優先すべきかということを考えてください。本来、ここでは、声をつくらないと意味はないのです。声というのは、本当に2年ではできません。
ステージに出ている人は、一応、音楽をふんで、音楽の構成をわかっているわけです。それは楽器をやっていたとか、それなりに歌っていたからです。そういう人は、この時期、声だけでしぼるとよいわけです。
2年間、歌わないしステージもしない。声だけのことを体から出すことだけをしようというと、そこで声と体は一致してくるものです。
それがいろんなことをやりはじめて、ステージみたいなこともやらないといけないとなると、複雑になります。伴奏がつきますし、前は一般のお客さんもいますから、見せを考えなくてはいけないのです。
そのときに攻めと守りを兼ねられる人は、少ないものです。声という確かな武器がないから、ほとんど守りだけに入ってしまうわけです。
お客さんも減点法で聞きますから、音程がくるっているとか、声がかすれたとかを気にすると、それにあわせて、そうならないように無難にまとめてしまうわけです。そうすると歌っても器はのびていかないのです。
そこでステージ実習をしています。レッスンは、基本的に声のチェックの場ですから全く違います。最近は、レッスンでもフレーズ感覚にまで応用し過ぎていますが、その結果を見せるところではありません。ステージ実習は、ステージの勝負です。声、歌、パフォーマンス、何を使おうと、ステージとして、印象を残したかどうかで、全てです。その方が、声の力もその必要性もわかりやすいからです。☆
本来は、声そのものを使い、表現として歌が成り立つことを問います。
感情を入れなくても、プロなら、歌を価値づけることができる技術をもっています。そこの部分を聞きに客がくるところを拡大して欲しいのです。
本当に力があれば、練習もしないでも、素人と比べられないほどの確かな力というのを問います。歌の世界は、バラエティに富んでいますが、声の技術を中心とした歌の世界ということです。そこの部分はもっていないといけないのです。
日本のヴォーカリストでは、そういうことでは、そのまま参考にできる人があまりいないですが、海外のヴォーカリストは、声の技術でもっている部分が、わかりやすい人が多いです。
それは、歌のメロディや詞とか関係なく、歌の成り立つところ、歌を根本で支えているところです。
5分の歌があるとしたら、そのうちの30秒とか1分間は、声そのものの技術をみせる部分があるのです。
すべての歌に、それがあるわけではないですけれど、そこで一流の声づかいをみせることで、アーティストと認めさせるのです。アメリカもですが、ヨーロッパ、ロシアなど、そういったところの歌い手はおよそ、もっています。日本でも、声の使い方を見せる、たとえばスキャットなどをつけるヴォーカルには、多いでしょう。
そこの部分だけを聞けばプロだとわかる何かということです。
技術にはいろいろあります。ファルセット、シャウト、フェイク、メロディとことばのひっかけ方であったり、さまざまです。そういうものこそ、本来はもたなければいけないのです。
それがあれば歌い手は1曲だけで勝負するわけではないですから、総合的に何曲かで見せられます。それが応用できれば、その人の歌い手としての魅力もはっきりとしてきます。
ここで行なっている声のチェックは本来10秒くらいでまわしています。それが1曲になったときに保てるかということです。1フレーズくらいはできるのです。1音であれば、半年から1年でできてきます。ところが1曲の中でそれをキープしようとしたら、至難の技です。音域でいうと、1オクターブに対応できなければいけないのです。
声も芯で捉えなければ、練習のときにここで出していた声さえ出ていないです。
歌は長いし、メロディも他の要素も入ってくるわけです。
声の真実が根底にあっで、結果として音程もリズムもとれているというようにならないといけないのです。音程をとったり、歌詞をとったりするために声の部分が浅くなっていくのであれば、それはトータルの力として弱くなってくるのです。
日本の音楽自体は、もとより、おのずとそういう傾向が強いのです。パワーやインパクトを重視しません。シャンソンやジャズでも、向こうのを何回も聞いて、あのように歌いたいといっていた人たちが、日本風な柔な歌い方になってしまうのです。
そういう人は、私以上に、歌や声を聞いているのです。なぜ、海外の音楽をやりたいかというと、本物の声での表現を聞いたからで、めざす歌唱も本人はわかっているのです。わかっているのに、声の基本をやる期間をとっていないから、結局、耳から入っても、音程、リズムのまねだけになってしまうのです。
それは正しいことは正しいし、日本のお客さんは、それ以上のことを聞こうとしないから成り立ってしまうのです。もちろん、向こうのものを聞いている人には、物足りなくなってしまいます。
日本だから通用するというのは、音楽の可能性を殺しています。ここは逆に考えて、とことん、いっとき音楽に使えなかろうが、声として通用するものをきちんと身につけることです。それから音楽をのせればよいということです。
表現方法というのは無限にあります。表現というのは真に迫ってないといけないし、何かを伝えないといけないでしょう。そしたら体も息も使わないといけない。自分のすべてもさらけ出すものでしょう。
そうでない歌というのは、それができた上でやる部分は構わないわけです。それが全くできないのにそればかりやっていたら、それはもう現実からもその人のオリジナリティからも離れていきます。同じような歌い方になってくるだけです。
それは、一見、うまくなった進歩のようにみえて、実は退歩なのです。
それをフランスに行き、ピアフで打ちのめされたのが、越路吹雪でした。☆
こういう歌でフレーズがきちんと流れているということと同時に、すべてのことばかシャウトできるポジションをどこまでキープできているかということかポイントになります。ですから、この原曲のテンポでキープしょうとすると、音も離れていますから相当、大変な歌です。
特に女性の場合は裏声も使いますから、声区のチェンジの部分など、しっかりと歌おうとすると難しいものです。それが一つの基準だと思ってください。
ことばがつながって聞こえるかどうかです。英語の方がわかりやすいでしょう。日本語では、フレーズでつなげておいて、そのフレーズの中にことばを置き换えていくみたいなことをしないといけないことが多いからです。
そのことを今ここで問うてみても仕方がないのです。単純にいうと声を大きく出して、その大きく出した声量そのものを完全にコントロールできるようになっていれば、少々届かない音があったり狂ったりすることはあっても、その中に歌詞とか気持ちとかがしぜんと入ってくるのです。
それを握って全部、離さないのが基本、自由に離せるのが応用、離すために離さない力が必要なのです。☆
歌を完成すること自体を今ここでめざす必要はないと思います。それで完成できたら、たいしたものですから、できっこありません。
ここでやってはいけないことは、それを小手先で回避したり、ごまかしたりしようという方向をとることです。あいまいになります。
多くの人は、これでうまく歌うのが完成だと思っています。こういう歌の場合は、いくらでも流れていきます。流して歌ったつもりなら、練習にならなくなってきます。
トレーニングの目安の歌とステージ実習の場合は、分けて考えてよいです。
要は1曲の重みです。1曲ですべてを伝えることをめざしてください。こういう場で1曲を聞かせるというのは、いかに大変なことなのかということを味わいましょう。ショックを受けたらよいのです。
実力社会ですから、その力を一瞬でも出そうとして出ないと意味もありません。うまく歌おうとミスしないようにしたのでは、意味がないのです。
義務教育ではないですから、「誰も出なくても自分は出るぞ」とか「この1曲で一生を支えるぞ」という意気込みがなくては、ならんでしょう。
そういう人の歌を聞くためにお客さんがくるわけですから。
たくさん集まってやったら何かできるというのではないのです。
上のクラスになってくるとオリジナリティをみるということが、私の役割になってきます。実際のレッスンの場で出している声を1曲の歌にしたときに感じは、相当、違ってくるものです。
グループや個人のレッスンそのもの、それから、ステージ実習、実際のステージと、3つをみて初めてわかることも多いです。レッスンとステージが、全く違う場合もあります。
プロは、ステージをうまくコーディネートできます。できるけれど、本来この3つというのは、つながっていないといけないです。大体は、迫力、一貫性、インパクトに欠けます。そうでなければ、ここは必要ないでしょう。
その人の感性やイマジネーションが、練習だけだとわからないところがあります。これについては、入ったばかりの方がストレートに出やすいです。ある程度、技術でもってくると、ごまかせますし、体でカバーできます。
最初は正直で、まる裸ですから、これしかないというのが全部、出ます。しかし、そこから、舞台衣装をうまく着るのでなく、裸の体、肉体に力をつけることをやって欲しいのです。その中で自分で発見していくということです。
大切なのは、同じ曲を繰り返すことなのです。オペラ、ジャズ、シャンソンという分野では、数多くのプロが歌って、向こうの人が歌って、アマチュアか歌って、それを比べて、何が違うかということで耳で鍛えていくことができます。
それに比べ、ロックヴォーカリストは、どうしてもオリジナルのものしかもたない。人がやったものはやらないと。そうすると基準というものはつかみにくいし、できてこないのです。自分の歌っている中だけでやっていかないといけない方が過酷なのです。
自分はそういう解釈にしたけれども、他の人は違う解釈をしている。そんな解釈は丸見えでは全然、伝わらんというようなことが突きつけられる場も必要でしょう。
案外、自分の知らないどこかの部分が聞く人の心にひびいていく、それを感じ、そういう部分をとっていかないといけないのです。
自分の心が動く感じです。そういう場でこそ発見があるのです。
いつも全部というのは無理です。1カ所でも一瞬でも、今のことばが心に残ったというのを繰り返していくのです。分析する必要はありません。それを心の中にストックしていくのです。
自分が感動したものが一番です。歌うことの限らず、自分が感動しないで人を感動させるというのはもっと難しいことです。それだけ一つの曲を自分の中で消化して、さらに創っていかないといけないのです。
どんな歌い手を聞いてもよいし、譜面をみててもよい、すべて叩き込んで、自分の心を動かしてくることです。単に課題曲ということで処理してしまわないことです。それを巻き込めるかどうかがその人の力で、それをみているのです。
どんな曲を与えられても、それを相手に歌って聞かせるまえに自分が感動できるかどうかも感性です。
そこから、ここは与えているのです。何度も聞くなかで感じられない心を開いていくのです。☆
今でなく何年後かに感じられるので充分です。それには何度も聞き、何度 お歌っておくとよいのです。
その人がどれくらい吸収できるか。音楽性があったり、いろんな多様な解釈ができたりすれば、その要素は強くなります。あるいは「あの曲に似ているからあんな感じにもっていこう」とか「あのリズムをつけてみよう」とか実際、ここの埸は、歌詞を変えても、構成を変えても、なんでも自由にしています。
上のクラスにいくほど、そのカ、自分なりにこなすことにこだわりがでてきます。
途中でぬいても、英語を日本語にしても、とにかく自分が今、一番表現できる構成をしてください。
どうしても歌いにくいとか歌えない曲をどう歌うかということも貴重です。
すべてを通して、評価しています。
声量のコントロールができてくると強弱がついてきます。強弱がついてくると、リズムはその中に入ってきます。声のフレーズがコントロールができてくると、その中に高低、高さは含まれてきます。高低というのは、音程で、メロディーラインです。それが全部、飲み込めるぐらいの声の器をつくれば後はその使い方だけなのです。単純でしょう。
なすべきことはシンプルにする努力です。多くの人が、ここではこうして欲しくないと聞いているのに、それを堂々としてしまうミスが、目立ちます。構成力というまえに、音楽をどこまで深く捉えているかということです。
声のベースをつくっていくことは必要です。声に体もついてこないといけないし、耳も大切です。
耳に、何でそんなにたくさん聞いたり深く叩き込んでおかないといけないかというと、たとえ声がものすごく出て、声域があっても、歌ったからといって、何も伝わらないからです。
それをどう構成、展開して組むかということが、ある意味でいうと、役者さんと歌い手の声の使い方の違いです。
声が大きく出る分にはよいし、どんどん大きく出してもよいでしょう。それは声の表現できる可能性をふくらませることになりますから、大切な課題です。
それがないと音に合わせて、くせをつけて声をつくったり、口先で加工していかないといけなくなりますから。使える声か1オクターブになり、1曲もったうえで、いろいろと展開するのであればよいのですか、それがないレベルでやっていくと、どうしても体や心とストレートにつながらなくなります。
「モンデュー モンデュー モンデュー」
半音が3音でできているわけです。半音3つだけの楽語をみて、これで感動できる人はいないわけです。そこに声を動かすことで命を吹き込むのです。
トランペットやサックスなら、ことばはついていません。これにことばがついて、さらにヴォーカリストは有利になります。しかし、ことばがなくとも、音で表現になっていなくてはいけないのです。
表現にあたり、どれだけ体が巻き込めるかみたいなことが勝負になります。
まず1曲すべてではなく1カ所でよいわけです。
「モンデュー」のところだけでよいですから、完成させてみてください。そのときにどういう感覚になるか、その感覚になったのと同じように歌での声は出ないとしても、そのイメージで声を出していくのです。
音程トレーニングとか発声トレーニングだけをイメージもせずやっていると、かえって歌から離れていくというのは、そういうことです。それを同時にやるのは、とても難しいのですけれど、課題です。
「モンデュー」と何回もいってみて、そこで心が入ったか、動いたか、心が声に音に、ことばのフレーズ、いや、音楽のフレーズになったか、です。☆
自分が何か伝えられたかどうか、チェックすることです。いろんな入れ方があって人それぞれ違うから、どれがよいかは好みの問題になります。けれど、あるレベルまでは守るべきルール、基本のカの必要性は同じです。
そこを越えましょう。その上で声をコントロールしなければいけないのです。発声がよくても声があっても、それだけでは歌にはならないです。
そこを何を盗むかです。原曲から盗んでもらうのが一番よいです。
最初から高いところとか、サビの大きなフレーズを盗もうとしても無理です。
たとえばカンツォーネなどで、高いところのフレーズで試すのは、自分が今、いくら体を使っても全く足らないということから知るためなのです。
さらに声が伴っても、自分がいくら声を使っても追いつかないと、その差を知ることです。
それをどう縮めるか、そのまえに違いを理解することです。いくら強くても限度はないということもわかります。
こういうところで盗んで欲しいのは、ことばからです。はじめのことばのところです。
「モンデュー」といってみて、これがちゃんと相手に伝わるかです。ことばでなく、感じです。
そこに音をつけて操作していけばよいのです。そのときに「モンデュー」だけいおうとしたら、ここだけで体が使われるのです。
「あなたは」の「たは」で、きちんと伝えていこうとすると、ある意味では、声を殺さないといけない。すると何でもっていくのかというと、息の力、その溜めみたいなものです。
それは誰かが正解を決めるわけではないのです。
できるのは、声をつかんでいるからです。声が離れてしまったら押さえられないわけです。ただ、ひびかすことはできますが、コントロールできないひびきです。声を押さえようとしたら、それだけ体を使うわけです。
彼らはそれを1オクターブにわたって、そのまま体を使っているわけです。1オクターブでは相当、しんどいわけです。それを支えるのが深いポジショニングです。声と体がそうなれば有利だということです。表現するときに、ことばでいっていたら歌になるのですから。
シャルル・デュモンという人が、この曲をつくって歌っているのですが、深いところで声にしています。渋い声です。ポジショ二ングはキープできても、歌になってくると、こうした重ねている声でなければ、味が出てこないのです。
声がきれいすぎるために伝わらないというのもあるのです。ポジショニングを整えないと、こういう歌というのは、歌いにくいです。歌いあげてしまっては、何も伝わらず終わってしまいます。歌うほどに伝わらなくなってくる類です。
ことばの練習では、「モンデュー モンデュー モンデュー」でよいです。
「モンデュー」というのは、私の神様ですから、神様を感じないといけないわけです。それをどういうふうに伝えるかということです。
歌も、この出だしで決まります。声だけでも、音楽ということで音だけをとってもだめです。それに早めに気づきましょう。できてきた声が、そのまま音楽や歌になっていくように学ぶのです。
そうでないと声が全部できたあとに、音楽を勉強しないといけなくなるのです。それも結構、大変です。声楽の人は、発声の基本ができているとしても、ポピュラーになったときに、何でこういう歌にできないかというと、その感覚がないからです。そこをポピュラーの場合は、入れておくのです。それがその人独自のものになっていないと、伝わる部分が薄まるわけです。声の美しさを見せるのと違うのです。
それとともにコントロールもできなければいけません。
今は、1曲全部でなく、1曲の中で1力所や2カ所を選んで、そこを何回も繰り返して相手に伝わるまでの表現を磨くことです。
せめて部分的な表現を100%の完成度に近づけていくことです。☆
全部歌ってみても、10%や20%の完成度の繰り返しでは仕方ありません。どこでもいいから一部分でも、その部分だけで完璧をめざして仕上げます。
キーを下げたときにはできても、1曲の中では、できないでしょう。一曲でそのフレーズにきてもできなくなっているでしょう。バランスが優先され、浅い方で統一するからです。そこだけでも、もし一曲のなかで、できたとしたら、相当の力があるわけです。
その部分だけを1000回でも2000回でも、昔の人はとことん歌い込んできたわけです。それを効率的にしたら、どうなるでしょう。
たとえば3分の歌なら1時間練習しても20回しかできないわけです。ところが1フレーズだったら、1分間に10回ぐらいできるわけです。1曲を20%から25%にするより、1フレーズでよいから、80%にする。そこから本当の差がわかってくるのでしょう。
「モンデュー」と自分の体の中にきちんと入れてから出していくことです。
一番よいのは、いちryの手本をみることです。手本というのは難しくて、年代によってもスタイルが異なるのですが、本質を捉えてください。
皆さんが、40、50代の人たちを手本として、そこで同じことをまねしても伝わらないです。むしろ20代なら勢い、パワーやメリハリ、リズムのところで、もっていかないと勝負できないわけです。ならば、正当に勝負するのは、後にまわした方がよいでしょう。
よいものを聞いて、その本意はとるけれど、その通りは歌わないというスタンスを創っていかないといけないのです。そのへんも難しいです。
全部まねてしまうと、ものまねにしかすぎなくなります。1フレーズだけでよいから、それがきちんとできるかできないかを、録音再生して聞いてみましょう。
単に音程がとれていたらよいのではないのです。何回やっても何かプロと違うというところを、自分で判斯できるようにしていくことが目標の一つです。その耳をつくっていくことです。
1曲で勝負したら、よくわからないままでしょう。何で自分のは劣るのかということは、説明できなくてもよいけれど、根本的にどこが違うのかということを体で理解していくことです。
最初は聞いても理解できなくて、一体、こういうプロの歌の何がよいのかから入っていくでしょう。閔いているうちに、わかるだけ、世界が広がります。それが体に入ってくると、自分がやったときにしぜんに出てくるわけです。
最低、10年ぐらい積み重ねていくものですが、もし2年くらいで、としたら、かなり無理につめこむ必要があります。どちらかというと自分が歌うものに対して、歌えるようになる方向にとり組むのです。
強化トレーニングというもの自体、かなり無茶なことなのです。おすすめしたくはないのです。
で、無茶を承知でやろうとしたら、そういうふうにやっていくのです。
声が使える条件は何かということで、とり組んでいくわけです。
わけもわからず言われるままにやっていると、その分、迷走する場合もあります。
こういう基準でみてください。歌うことも大切だけれど、評価することを怠らない。実際に映像でみて自分の耳で判断します。歌ったときに、歌えているのか、歌えていないのか、そういう部分から問うていくことです。一流のヴォーカリストをみることが大切なのは、そのためです。それでわからないから、こうして分解しています。
やることよりもみることの方が大切なときもあります。
そうして2年間、ステージ実習で24曲、経験していくのです。
課題曲というのは終わってからが勝負です。終わったときに、できない課題をつかみます。できていることは、もう必要ないのです。
すべてが今日までにできるわけがないです。
発表してみてわかることがたくさんあるわけです。それは、いつもの練習とは違います。
違う要素が、人前では入ってきます。そういうことも含めて知っていくのです。
舞台は1回勝負です。自分がそこで何をやったか、人にどうみられているのかをわかるようになってください。わからないと恐いです。絵や小説は書き直せばよい話ですが、ヴォーカリストは失敗してもリピートはきかないのです。
時間の感覚が鋭くなるというのは、大切なことです。ボクシングと同じで、1ラウンドを180秒、1秒でも油断してノックアウトされたら終わりです。
その1秒とか2秒の時間をどこまで感じられるか、その時間で感じ、どれだけ豊かに表現できるかということです。
時間の中の表現ですから難しいです。反射神経も運動神経もいるのです。ピアノの音がずれたときにどう反応するかと、いつも即興が試されているみたいなものです。鈍感では、伸びなくなります。よいものをたくさん聞いて、常に剌激をもって、鋭くなることです。
◯ステージ実習コメント 「知床旅情」
前回と曲が重なったことでは、曲が重なろうが重なるまいが関係ないです。これは受験生も同じですけれど同じ問題がでて怒る人はいないでしょう。
レッスンでも繰り返し同じフレーズを使っています。それがクリアされていたら次にいくわけです。
歌い手が絶対言ってはいけないこと、歌わされているというのは、禁句です。もとより強制されて歌う必要などないのですから、歌い手にとって歌わされるというの.は、あり得ないです。歌いたいから歌う、歌う以上、何かを起こさなくては、そこは成立しません。これは、この場での一つの基本的な考え方です。
歌い手であれば歌をクリアすることによって意見するというのが、基本的なやり方です。課題に疑問を抱いたとしたら、その歌を歌いこなして「もう、こんなのは終わっている」ということを明示するのです。そうしたら、考えます。次に進みます。
食わず嫌い、「できないのが嫌い」と、逆のことをやっていたら、幼稚園児や小学生と同じです。
なかにも、小学生並みの疑問、ローレベルのことで苦しんでいる人たちがいるので、そういうことも話さないといけないのかと感じてきています。
できなくてよいのです。できたら、ここはいらないでしょう。私だって、声はともかく歌はできない。
一緒に学んでいるようなものです。
音の解釈よりも、どこまで曲を違うところにもっていって、自分の表現ができるかということです。
気がついたのは、マイク。使い方がよくないです。音やスピーカーにしても、もう少し使いようがあったと思います。自分のおかれた状況で最大限うまく活かす努力をしないと、自分が損します。
のど自慢みたくならなくてよかったと思います。最近、みていると、のど自慢みたいになっているときもあるからです。のど自慢の人は、元気第一で、その元気さ、明るさというのは大切なのですが。
まあ、その元気のよさは見習ってもよいでしょう。ステージは元気にふるまわないといけない、人前に立つと元気が出るように習慣づけてください。
レッスンの中でやったことを基本として、ステージでは、呼吸と声をみせて欲しいと思っています。なんでアカペラでやるのかというと、伴奏がついていると多くの人は、のっかってしまうのです。リズムが刻まれているとそこにのるわけです。高音域の盛り上げも、しっかりと音が出ているのは、バンドだけです。伴奏がメインで歌が伴奏になってしまっているのです。
本来、歌というのは個人的なものですから、自分の呼吸にあわせてやることで、自分の呼吸をもっていなくてはなりません。その呼吸の終わったところに、ピアノが”チャチャ”をいれて進んでいって初めて、伴奏なのです。
ヴォーカリストの呼吸が感じられないとか、体のリズ厶が演奏と一致していないときに、伴奏をつけても何も伝えず、ただ走りまくってしまうだけです。
今日も一見うまく歌えたような人のほどんどは、形だけが先にいって何の実も落としていません。
それは逆で、植物であっても種があって、芽がでたら、きちんとその上に茎をのばして、花を咲かせるわけです。何か茎から上の花だけがとんでいるようでは、落ち着かないです。
ここに関しては、声を捉えるということで、歌い方がどうこういうのではないです。
実際、しっかりした声を前面に出した歌い方は、今の時代には正攻法過ぎて、つまらないかもしれません。しかし、1、2曲で勝負するときは正攻法をとるべきでしょう。基礎とは、そういうものです。
きちんと歌っている人、今までの歴史に残ってきたアーティストは、少なくともあまりおもしろい歌い方はしていないです。
現在、第一線で歌っている人も基本はありながら、スタイルは違うと考えた方がよさそうです。
ですからトレーニングということで、基本をとります。今日あたりは正攻法でしのいで欲しいものです。
加藤登紀子さんの歌い方は、全部語尾をぬいているわけです。かなり体でもっていける人なのですが、地面にきちんと足をつけた上で、歌い方の感覚で日本的に全部ぬいている。そこで独自の世界をつくっていますから、それはそれでよいのです。
もう一つ深くおとしていくとまた違う歌い方ができそうです。
そういうことでいうと歌の世界と声の世界は違います。
ステージ実習は、そういう面で歌の世界に近づいたと思ってもらえればよいです。
ですから、2回やって、その後の伴奏付きのステージ実習というのは、歌とか音色とかに関心をもって欲しいのです。
ばっと耳を開いて問う世界なのですけど、ここでは、もう少しカをぬいて、音とたわむれていくという感じでしょうか。
声を捉えるというのがV検だとしたら、声を放していくということです。といってすべてを放してしまうと浮いてしまうのですが、そのへんの微妙な感覚を出したいのです。
マイクも重要ですが、声と音との兼ね合いをどうつけるのかを出すのです。真っ暗闇にした世界で声を音にして心に届かせるのです。
ライブというのは、さらに光、つまり、ヴィジュアルが入ってきます。ライブというと衣装からトータルイメージに入ってきます。
何を着ていても別によいのですが、ヴィジュアル面、人前に立つ以上、その姿や動きにもポリシーは問われます。
ここはその前の部分です。真っ暗闇の世界での歌い手の声です。同時に音の世界です。
目が見えないような感じでいると、ヴォーカリストの感性が一番はっきりと現れているように思えます。