一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

鑑賞レポート  456

 

 

鑑賞レポート 

 

 

アレサ・フランクリン

 

”クイーン・オブ・ソウル”と言われているアレサ・フランクリン。私の大好きなソウルミュージックの代表選手だ。聞いていると歌のうまさやカラフルな歌が特に耳に残っていたが、LIVEは、古い昔からそう変わらないであろう”ソウル”のステージそのもので、パワフルで技術よりも情熱、彼ら黒人の長い長い闘いの日々で築かれた文化が、皮肉にも素晴らしいものになったということを、彼女自身が体現していた。

 

高くもなければきれいでもない彼女自身、彼女の生活や生き方が現れるハスキーな声で歌い、話り、叫ぶ。そこにはなんの能書きも理屈も必要ない。また、彼女にどんなキャリアや名声があろうと関係ない。聞きたいのは生の声だ。歌だ。命を燃やせ。つらいことも悲しいことも楽しいことも全て歌にのせて伝えたい。伝えられる。そう信じて歌う自分を投影していた。

 

1942メンフィス生まれのアレサ・フランクリンは、父が牧師で脱教師でゴスペルシンガーとして活躍しており、母は代理母だけど、なんとあの、マへリア・ジャクソンがその母だったのだ。小さいころからゴスペルの環境で育ってきて、とても素晴らしい恵まれた境遇で、とてもうらやましく思う。でも今、僕も素晴らしい環境でがんばってるから嬉しく思います。

声の出し方が全然違う、とまず思った。普通歌っていると思っていると、突然深く太く低い声が「ダー」っと出てきてびっくりする。テクニツクもすごいみたいで、すごいのだけど何がすごいのがよくわからないくらいすごいー。

 

 

 

【ミルバ&ミーナ】

 

自分はもっと大がかりなステージだと思ってましたが、全然そうじゃなく、客も座って、かなりステージと近いところにいるので、バンドのようにごまかしのきかない、本当に声一本で勝負する、いや、ステージに立つ一人のアーティストの人間だけを見せる、まさに逃げ場のないステージだと思いました。

 

バンドでやっていきたいと思っていますが、本来はこういうステージがしっかり一人でこなせた上でやるべきじゃないかと思いました。そうじゃないとバンドがごまかしの場、歌にとって表現にとって逃げ場になる恐れがあるなと思いました。

 

普通のロックコンサートのようにイベント的なものと正反対で、彼女だけを見にきている。なんだかスゴイし、彼女一人でしっかり見せられるのは素晴らしい人です。

 

歌が聴くすべての人々の人生のドラマに投影する。歌本来のあるべき形があるなと思いました。声に関していえば、体が決して大柄じゃなく、ごく普通の体形からあそこまで深い声が出るのに驚きました。でも腕を見ると、女性にしては引き締まっているし太かったので、たぶん鍛えられているのでしよう。でも、そのことで思ったのは、同じ人間なんだから、あのような深い声は出せるということです。体の深さの差は絶望的ですが、体のデカさで深い声を出す差が出るわけじゃないし、要は生活環境の違い、生まれてきてから触れてきた声の質の差だと思います。

 

ステージングは、ミーナの方が野性的でしたが、ミルバは歌表現するために振り付けをしていて、ムダな動きが全くなく、シャープな感じでした。でも共通していえることは、二人とも声に限りがまったく見えず、声を出していて全く苦々しく見えないということです。それにしても、この二人のプロと自分との差を思うと、気が重くなり、それに目を背けようとする自分がいて、なんて途方もない道を歩いているんだろうと思います。

 

 

 

シャルル・トレネ

 

歌のテーマは、自然とごく普通の身のまわりの出来事と恋愛です。「比喩」がとてもうまくて感心した。詩がとても椅麗だ。彼の歌はとても幸せでエネルギユシュ、若さがあり、とても肯定的な歌が多い。字幕を読んでいると、なんだかこっちもにやにやしてくるような詩だ。だけど彼のような歌は、日本ではうけないのではないか。あれだけ肯定的で幸せな歌を日本の人は正面から素直に受け入れて喜べない。事実、日本の歌には全く否定的な歌が多い。もっといえば、はやりの女性誌のように、他人の不幸ばかりを記事にして商売が成り立っているように。「人の不幸、かなしみ、苦労」などを見て、自分自身はそうではないから幸せなんだ、という価値基準で「幸福度」をはかっているような日本民族に、ストレートな幸せの歌はなかなか受け入れにくいのではないかな。だから、フランス人の方がよほど、ストレートで綺麗な心をもっているのではないかなと思っています。

 

詩の内容、まるでグリ厶童話のように子どもを対象にして書かれているのではないかと思ってしまった。日本じゃ、あんな歌を歌ったらバカにされてしまう。大人がそれも一流のヴォーカリストが、あんな詩を歌っているのにはとてもびっくりした。子門真人さんの「およげ!たいやきくん」状態だ。

日本の歌の7〜8割くらいが恋愛の歌、その半分くらいはジェラシーの歌や恋するのは諦めようみたいな非常に暗い不幸な歌が、なぜか日本ではあたりまえのように受けている。このギャップは同じ人間なのにどこからきているのだろう。逆に世界からみたら、日本の歌は相手にされているのだろうか。

表向きはグリム童話のように見える歌の中にひそむ、人間の真理、生き方、考え方、価值視などが世界に通じる普遍的なテーマにつながっているから、シャルル・トレネの歌は一流なのでしよう。

 

 

 

モータウン・アポロ】

 

たくさんのアーティストがそれぞれの曲を歌っていたのですが、見ていて私が一番印象に残っているのは、彼らの表情とステージの明るいムード。記念のステージなので明るいのはあたりまえだと思いますが、それ以上に彼ら自身が本当に楽しんでいるというのが溢れていました。それがストレートにお客さんにも伝染しているんだろうと思います。割とみなさん、結構な年齢になっていると思うんですが、すっごいパワフルで驚きます。若い人より生き生きして見える気がするのですが、ステージの楽しみ方をよく知っていて、そういうものの差なのかなと思って見てましたが、彼らは「芸人」ということばがぴったりだと思いました。

 

すごい!としか言いようがない!やっぱり黒人は日本人と声が根本的に違いすぎる。日本人は、アメリカのアーティストには勝てない。生きざまから文化から何もかもが違いすぎると思う。ましてや黒人は、昔(今も)アパルトヘイトというものに振り回され、私たちには想像もでさない差別や屈辱を受け、動物と同じような生活を送ってきた。そして唯一の楽しみとして与えられたものが歌なのだ。そしてそれがブルースやソウルという歌なのだから、日本人がまねしようと思ってあがいても勝てるわけがないと思いました。でも逆に言えば、そういう生き方を運命づけられたからこそ、偉大なアーティストがたくさん生まれたのかもしれない。やっぱり歌というものは、自分の生き方がはっきりでるものだと思いました。

エンディングでスティービー・ワンダーの「人種差別がなくなれば愛の歌を歌わずにすむ。」ということばが心に残っています。

 

 

 

【サルバトーレ・アダモ】

 

(無心で見る)愛と感謝の気持ちと、やさしさをぎゅーっと体の中に濃縮させておいて、私たちに与えてくれるような人だと思う。普通の神士的なおじさんといった感じなのに、とても好感がもてる。何よりもステージでたくさん日本語で歌ってくれたのは、とても嬉しかった。我々、日本人のために勢力してくれると思うと、胸がつまってしまう。

 

ステージの内容は、照明が暗く「舞台」(演劇や芝居をうつ雰囲気)のようでよかった。コーラスのお姉さんも綺麗だったし、全体の音的にも、とてもピュアな綺麗な音でした。ステージも半分過ぎるころからだんだん引き込まれていきました。なぜ引き込まれるのが、もう一つよくわからないけど、彼のつくる世界の心地よさに酔っていたのかもしれません。そして「あなたのために歌えてとても嬉しいです。

 

メルシーの一言にとても感動しました。お客さんにとってこんな嬉しいことばはないと思う。「見に来てよかったなあー」って心から思え満足して家に帰れるでしょう。アダモはスターだけどステージではお客さんをスターにしてしまう、その姿勢に感銘受けました。よかった!!

 

(声、ヴォーカルについて)歌い上げて俺の声を聞かせるぞーっていった感じはなく、一曲一曲をだいじに丁寧に歌っている。声そのものはあまり綺麗といえる声ではない。ポジションもわりと浅いところで歌っているみたいだ。

(音楽的について)曲詞は簡単に言えばイージーリスニングということばが一番ぴったりくると思う。

 

 

聞いてて気持ちいいし、ヴォーカルも歌いやすいと思う。リズムも一定で安定している。ベース音が割と聞こえてきて、落ち着いた感じだ。それと僕は音楽についてほとんど無知で「明るくにぎやかに聞こえる曲と暗く落ち着いたように聞こえる曲」とは何が違うからそう聞こえるのかよくわからない。多分、リズムの速度と音の高い低いのバランスからくると思うけど。これからの勉強課題だ。

 

サルヴァトーレ・アダモ1943.11.1生。生まれた場所はイタリアのシシリー島。17歳のときコンテストで優勝し歌手になる。1962「サントワマミー」の大ヒットで世界的スターになる。彼からは「人に感謝する心。相手が主」という精神を学んだ。

 

 

 

ジルベール・ベコー

 

真っ暗の中でスポットライトと観客の熱気を浴びながら、ときには「せりふで物語り」、ときには「身振り手振りで」そして、歌う。

歌手であり、役者であり、パントマイマーであるような彼は、肉体芸術として、あらゆる手段を使って表現ているようだ。その根底にはいろんな思惑と情熱とエネルギーと人間のもつパワー(生命力)があふれているのだろう。

 

彼はシャンソン歌手なのだろうけど、どうも彼を見てい酒とシャンソンとは、「綺麗」なイメージよりも、「人間くさい」立体的(聞く見るの両方)な音楽なんだろうと思ってしまう。

人間がやることだから、人間くさくてあたりまえなのだろうけど、今まで日本の歌ばかり聴いてきた僕にとっては、新鮮であり不思議だった。

日本の音楽のように、音程やリズムや楽器主体(ヴォーカルは全体の一部)じゃなく、「表現」することがドーンと一番前にきていたのがわかって、とてもためになりました。

 

 

 

 

【卜厶・ジョーンズ 】

 

中古レコード屋で「トム・ジョーンズ」のレコードが売っていた。さっそく聴いてみた。すごい狂暴な歌い方だ。声量でガンガンガンガン歌いまくる。よい悪いかまわず、声の圧倒的な力に誰も何も言えないと思った。動物的な匂いがする。今までセクシーということばは、あやしい雰囲気や影のあることをいうと思ってたが、彼のようにこういう力強い雄の中の雄のなかに秘められたものだということがわかってしまった。こんな生命力、バリバリな人に、人はひきつけられてしまうのだろう。一所懸命、力強く歌うことが、聞く方にとってこんなに気持ちよいことなんだとわかったことは、とてもためになった。まず、うまく歌うよりも動物になることを真剣に考えよう。それと彼にはのどがないのを実感した。

 

 

 

[ホリー・コール]

 

声は高いというイメージだったか、どちらかというと低くよくひびく声だった。しっかりと体についた声で、息の流れが感じられ、吐く息のすべてが声になっているように感じた。完全にコントロールされていて、小さくしてもちゃんと届いていた。歌というものは、とてもシンプルなものだと思った。テクニックを気にしたり、いろいろな構成を毒えてやるというよりも、体がしっかりつかめていて、息も体も声ときっちりつながっていれば、表現したいことのすべてがことばの一つひとつが、結果として歌になると感じた。

 

そのヴォーカリストの向こうに伴奏がきこえてくるようで、音程といいリズムといい、体自体が楽器のようだと思った。ホリー・コールのなかで「“サラ・ヴォーン”の歌をいつも聞いていて、カセットがすり切れてだめになるまで聴いた」と冒っていたが、手本となるヴォーカリストの歌い方を繰り返し聴き、耳を鍛える必要があると思った。

 

 

特別な世界の人とか気負いのようなものが感じられず「地に足のついている」という印象を受けた。歌うということはとてもしぜんで、とてもシンプルで逆にそんなに華々しいものではないと思った。話をしているような、歌というよりも語りかけているような様子が印象的だった。高い音も高度なテクニックも、スキャットも、すべてが浮きたっておらず、流れのなかにきれいに納まっていた。

 

 

 

 

[クラウディオ・ビルラ]

 

その声は、とても参考になった。ひびいているが、あれだけ体の力があってのひびきは、ただただ圧倒されるばかり。ささやくところも、きっちり体を使っている。

 

 

[トップオブザポップス]

 

表現にはすべて、その人の価値観、生きている土地の風土、音楽や人生に対する取り組み方など、一瞬の立っている姿そのものに現れてしまう。

 

 

 

写楽

 

なかなか興味深い話だった。「写楽」は最近、映画にもなっていたが、見逃していたのでこれを機会に観てみたいと思う。

版画師である池田さんと浮世絵師である写楽の同じ「物を描く」という精神の共通性が、今までと違う「写楽像」を浮きあがらせたのだろう。

写楽はありのままを写実的に描く当時の他の浮世絵師と異なり、自分のその人物に対する想いを紙面に描いたのだという。私も既製の歌を歌うときに、その歌のよさを損なうことなく、自分の想いをプラスしてぶつけていけたらよいと思った。