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いつもレッスンで気づいたことをまとまった形に次の月までに仕上げて持っていこうと思っているのですが、なぜかレッスン日の1〜3日前くらいに、新しいことにはたと気づいてしまい、結局、まとまらないまま提出するようなことになって、情けないなあ…と思うことしばしば。先生のコメントを聞いていると、どうもそのへんはわかってらっしゃるようなので…すみません。
今日のダンスのレッスン中、足の指を脱臼した。イイダコのように指がはれてヒビが入ってるかもと、ダンスの先生に言われ、泣きながら病院へ行ったら、脱臼だけだったので本当にラッキーだった。私にとって踊れない、体が自由に使えないのは、寝れない、ごはんが食べられないのと同じくらいつらい。頭のてっぺんからつま先まで神経を尖らせ、体のあらゆる部分をもっと意識し、イメージしながら自分の体の声を聞きながらレッスンを受けなくてはいけないと、あらためて思った。
これはヴォイストレーニングにもあてはまると思う。ただやみくもに体を使って大声を出すだけじゃ何かが足りない。何においても練習するときは「意識」と「イメージ」が大切。もう一つ、このケガでつくづく思ったのは、いつケガ、病気、その他の事情でレッスンに行けなかったり体が使えなくなるかわからない。その日のトレーニング(自主トレ、レッスン)は本当に大事にしなきゃいけない。
総じて見た後、創造性の上で一本、芯として感じたことがあった。それはどこまで自分のやりたいこと、表現形態に執着し、こだわり、深められるか。
たとえば、ここは2年制だが、歌を声を表現するに値する価値に高めるには、あまりに少ないし、それだけでわかった気になったらあまりに甘いのではないだろうか。
ここまでみたアーティストたちは、誰もが死ぬまでに、ときには壮絶なまでに生を表現して焼きつけることにささげていた。「それが好きだから、楽しいから」なんて一口で理由を明解にできるほど口先だけのもので技術が備わってないもので、もはやこのアーティストたちは、なぜそれをやるのかなんて理由づけはできない。そんな次元を軽く飛び越えてしまっている。
今、自分がやろうとしていることを世間にリアルタイムで評価してもらうのは、案外たやすいことなのではないかとも思った。時代の風潮に合わせればいいのだから。それをかたくなに拒否し、自分の生み出す作品の価値を自分の内面と絶対的な不変的なものとの忠減心に見いだしたから偉人なわけで。その過程での苦しみも壮絶なもので、そこを妥協するから個としての存在価値はなくなり、代わりに世間に受け入れられる。
本当に後世に残るほど素晴らしいものは、それが出てきたときは絶対、まわりから暑苦しいような、ある種の不快な印象を与えるのではないか。
生み出すもので、絶対まわりを恐怖に戦わせてやりたい。でも、今日感じたことは、あくまでも片りんの片りんで、まだまだ本質に近づいていない。ただ、ここにいる2年、それから先の数年だけで悟れるものじゃとてもなく、死ぬまでかかるかもしれない。
ある老画家がインタビューに答え、こんなことを話していた。「絵を仕上げるためにキャンバス、絵具、絵をいれる額、いろいろなものが必要だ。しかしそれにこだわったばかりに、自分を見失う人を多く見てきた。私が今までずっと画家でいられたのは、ずっと絵のことを考え続けてきたためだと思う。」と。歌も同じだと思う。
今まで自分が歌ってきたものは小手先、体のないまやかしの部分なんですが、伝えようとしている部分はあって、それは私の思うところの「歌ごころ」なんですが、自分が聞いてきて感じてきたところ、一番伝えたいところを、これからは確かな体が操る技術を持って表現したいと思います。今の、今までの自分の歌は好きではないし、聞きたくもないところはありますが、全部を否定するのでなく、伝えたいところは一緒なので、表現者としての自分を高めていきたい、つくっていきたいと思います。
最近、新間に「女性キャスター、アルトの時代」というのが載っていました。NHKをはじめ、各民放の女性キャスターの声が一昔前の高いものから、落ち着いたアルト声に移ってきたというものです。内容は、福島先生の著書に記されていたことに共通していたと思います。私の好きな声の持ち主のNHKキャスター森田美由紀さんが挙げられていたので、嬉しかったです。
この間、家に戻ってFMをつけながら他のことをしていたら、「ブレスヴォイス」なんてことばが出てきたので、へぇーと思っていたら、うちのBV塾のことを紹介しだしたので、びっくりしました。その前の話を聞いてなかったので、なんでそういう話になったのかわからないですけれど。J-WAVEに知り合いがいるんですか?
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活動報告
7月中にバンドのデモテープを完成予定。
“Underground”(梅田)
“Bar, isn’t it?” (阿倍野店)
“Underground”(梅田)
下北屋根裏で朿京初ライブ。
ゴスペルのライブを行ないました。とても思い出に残るライブになったのですが、燃焼しきれていない自分がくやしかった。どこか素に戻っている自分がいて、真っ白になれない。一曲、ソロをとったのだが、その曲を食いつくしていない。どうにも中途半端な自分がくやしい。そしてシスターたちの出番となり、自分との、とてつもない差を感じずにはいられない。声の差は当然だが、何よりも心の差がもろに出てしまった。曲に対する思い入れみたいなものが、出口をさがすかのようにあふれだしてくるあの表現力、もっともっと心を磨かなければいけないと痛感した。
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おすすめ
ブルーノートでヘレンメリル。
息だけでささやくように歌うこともできるし、出るところはすごいパワーで出しているが、それが本当にしぜんな感じなので、とてもテクニックはあるのだろうが、すごく簡単にできることのように見えた。人柄もとても明るく楽しい人で、話しているときも含めて、ステージ全体がとてもあたたかい雰囲気でよかった。
昔は“まったり”しててあまり好きではありませんでしたが、ヴォーカルであるSadeをみて変わりました。索晴らしく鍛えられたおなか!ああいうふうに静かに歌う曲ほど、おなかを使うのだなあと思いました。
ゴスペルのCD(クラーク・シスターズ、シャーリーシーザー、他)
天気がいいときに行こうと思ってます。確か今は、レオナルド・ダ・ヴィンチの人体解削図が展示してあるはずです。
オアシス
UKの新人バンド。ビートリーな感じと、ニューミュージックがおもしろく混ざりあっておもしろい。
今から5年ほどまえ、当時の歌の先生に「あと5年もしたら、きっと1回、ボサノヴァに心酔するときがくる」と言われた。今、本当に狂ってしまつた。ずっと身をまかせていたいかんじだ。ポルトガル語を学びたいくらいだ。
パトリシアカース
このごろ、自分の歌、声のことで悩むと、必ず観る、そして元気にならせてもらう。彼女のライブビデオを観て、私は生まれて初めての体験をした。彼女のフランス語の歌を聴いていたら、日本のことばで歌詞が伝わってきたかのように感じたのだ。彼女の歌には真実があるから、ことばの違いを越えて心に伝わってくるのだと思う。
GLADYS KNIGHT“GOODWOMAN”
彼女の昔のアルバムしか聞いたことがなかったので、とても意外だった。うまい人は何を歌わせてもうまい!!
“H”
おもしろく変化してきた。
“暮らしの手帖”の松山幸雄さんの文章
いつも索晴らしい。
70年代のソウルトレイン
衛星放送している。口パクだと思うから発声のすごい勉掩にはならないかもしれないけど、ダンス、表現など、勉強になる。
スティーブペリー(ex.Journy)のソロアルバム
古いやつを相模大野図書館で借りたら、彼がとてもうまいヴォーカリストだと再認識した。プログレハード系の好きな人には、EVERONの“Flood”がおすすめ。
「死と処女(おとめ)」「レオン」という映画
新宿で観た。両方とも重たい話だったが、厳しい運命を生き抜く女性の姿は、絶望的な状況にいながらも、わずかであるけれど希望を感じさせた。「死と処女」の方は、ちょっと重たすぎたけれど…。
ホセ・カレーラスの“聖しこの夜”
あらためてホセ・カレーラスのすごさがよくわかった。彼の声を聞いていて、非常に心にしみわたってきて安らいだ。声という楽器を磨きに磨くと彼のような声になるのだろう。いや、たぶん、声という楽器を磨きに磨いたとしても彼のようにならないのかもしれない。彼には声と+心があるのだろう。彼の声を闇いていると“歌うことを甘くみてはいけない”と改めて思う。歌うことを甘くみると、自分の声にも表れてくると思う。自分が歌うことを甘くみて、ちょっといいかげんな気持ちで声を出すと全くしまりのない声になってしまう。本当に歌うことは簡単であるから難しい。また、ホセ・カレーラスの歌い方をみると、彼は手を軽くにぎりしめて、胸をピンとはった姿勢で歌っている。口元をよくみると、非常にリラックスされていて、まるで魚がパクパクとさせているような感じだった(赤ちゃんにもよく似ている)。
日テレ「知ってるつもり?!」
ジャニスジョプリンよりむしろ私は、津田恒美投手の人生が心に残った。津田投手の人生は長かったのだろうか短かったのか。私は津田投手からたくさんのことを学んだ。私は果たして私の生をめいっぱい生きているのだろうか?おいつめられて吐く本音はカ強いものか?天国で投げてるのなら、行ったとき見せてもらいたい。150Km/hをこえる魂の球を(私が天国に行けたら、ですけど)。
星襄一の木版画
機会があれば是非、見てください。“樹”の版画が主ですが、非常に神秘的で田舎の山の頂上で星が舞い降りるのを見ているような、そういう気分にさせてくれます。同じ木版でも色が違うと、異なる版画になるのもおもしろいです。つい最近まで、和光のホールで展示をしていました。
各局が特集を組んでいる。ジャズを歌っている場面がいくつか出てきたが、びっくりしてしまった。すごいリズム感だ。演歌の人だと思ったが、やはり天才とだてに言われてるわけではないと思った。哀しそうに強そうに、楽しそうに、よくあれだけ歌の表情を出せると思う。あー私も「柔」でも聴いて元気を出して、練習にのぞもう。
「王様のレストラン」というドラマ。
第1回目を見たとき、何かわくわくしてこのドラマの原作者は外国人で、その原作を元に今ふうにアレンジされたドラマかと思った。でも違った。ドラマのためにつくられた話のようだ(もちろん未確認だが)。で、何でそんなふうに思えるんだろう…と思ったら、それは語りをしている森木レオさんの口調や声の力が大きいということに気づいた。彼は役者になる前、養成所みたいなところで、皆の前で朗読をしたら大笑いされて”2度とこんなところに来るものか”と思ったらしい。彼の声を専門家が分析すると、“発音が外国人に近い”とのことだ。彼が屈辱を受けても、やり続けてくれていてよかった。それにしても、いい味出してるよなぁー。
中国のダダワというアーティスト
椎名誠さんも言っていたけど、同じ時代に生きてるのに私たちとは全く対局に、精神的な力で日々を生きているチべットやモンゴルの人たちのような暮らしがある。お金や法律や秩序や機械、目に見えるものに頼って疑問をもちつつも、そういうなかで生きてきて、私はついそういった人生の暮らしに憧れがちだ。憧れがすぎて、自分を見失うこともしばしばだ。物質的なものに囲まれていても、自然とすさまじく闘って暮らす人々の強さのカケラくらいはもちたい。
鎌倉
今でも落ち込んだときなどに一人で行ったりしていましたが、いつ行っても、あの大仏様には感動します。何百年もあの場所にあのままの姿でひっそりと座禅を組んでいるという事実。世の中の無常など全く関係ない、あの存在感。すばらしさと共におそろしささえ感じられます。じっと見ていると、しぜんに落ち着いてきて、いろいろこだわっていたことが、やけにちっぽけに思え、軽くなった気がしました。
“コーラン”のテープ
友人からいただいたので、聞いてみました。コーランはひびきを大切にしているので、意味は通じないのですが、声のハーモニーには聞き入ってしまいました。ようするに仏教でいうお経の入ったテープなわけですが、もっと音楽的なのでわかりやすいと思います。機会があれば聞いてみてください。
田中邦衛の話している声
北の国からという番組に出てくる。独特で、胸でポジションに入っていてカッコよかった。やはり普段から声を充分に使いこなしてきた人の声はカッコいい。
アーティストを選ぶ音楽専門誌、J-ROCK MAGAZINE
TVもやっている(東京では放映されてない?)結構、辛辨なことが書いてあっておもしろい。¥300。
マイケルボルトン
お化けか。どーゆー身体してんだ。
フェア・ワーニングのライブ。ドイツへ
武道館、松田聖子コンサート
渋谷Egg-Man信長(ロックバンド)
フェア・ウォーニングのライブ(名古屋クラブクアトロ)
CDでは練り上げた上で歌っている卜ミーが、ライブではどんな歌を聞かせてくれるか。あの解放的なサウンドの再現に期待。