一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

鑑賞レポート      496

鑑賞レポート  

 

 

ティナ・ターナー

 

ティナの自伝、「愛は傷だらけ」のなかにこんなことばがあります。

「ほとんどの女性は30代でやり直すのは手遅れだと考えているようだけど、私はそうは思わないわ。誰もが自分の人生を自分でつくるべきなのよ。年齢じゃない。大事なのはその人の生きていく姿なのよ。」

エネルギッシュでパワフルな彼女のライブ、歌は彼女の生き方そのものだと思いました。

 

 

 

【イエス]

 

音楽面(楽曲面)に関しては、聞いていて嫌なものではないが、やっていることがすごく難しくて、私には理解不可能という印象を受けた。しかし、その中でも、すごくマニアックなブログレっぽい感じの曲と、環境音楽のような心地よさをもつさわやかな感じの曲、2通りあった。イエスはロックバンドというイメージが強かったので、このさわやかさが私には意外だった。

 

プログレの曲は、それぞれのパートが一見、好き勝手にプレイしているようにみえるのに、楽器としてきちんと計算されているように思われる。決して不協(不快)な音楽にはなっていないところがイエスのすごさか。

 

ヴォーカル面は、ヴォイス的に深く歌っているようにはみえないが、一見、軽く流して歌っていそうにみえたロングトーンに、ものすごく体を使っているのがうかがえた。その他、感じたのは、やはり全員技術が体に入っているというか、一体化しているため、自分の思うがまま演奏できているので、音楽を演奏しているのではなく、音楽になっているということだ。「歌を歌うのではなく歌になる…。」、イエスもまさにそんな感じで、私の頭の中で、今このことばがぐるぐると何度もまわっている。

 

 

 

ボブ・マーリー

 

ゆったりとしたリズムにのって歌う彼の歌は、決して心地よいだけの歌ではない。よく聞いていると心地よさよりも、あまリに切実な声、歌い方に打たれてしまう。とても強くストレー卜に伝わってくる。見ているうち、それが彼の歌う姿勢からきていることがわかった。

 

彼は貧しい家に育ち、音楽をはじめても、貧しい人が集まっている地域に住み、自らも貧しい暮らしをしている。それらの貧しい人々の声を代井しているのが彼のバンドの音楽だ、とバンドのメンバーが言っていた。リズムやメロディには、ジャマイカの明るさが感じられるけれど、貧しい生活をしている人々の切実な叫びを含んだ音楽という点では、ブルースと共通の点があるのかもしれないと思った。インタビューに答える彼の目があまりに澄んでいたのに驚いた。

 

 

 

 

ジェネシス

 

フィル・コリンズの名前だけは聞いたことがあったが、ジェネシスというバンドは知らなかった。こんなにパフルなバンドがあったとは…。ヴォーカルの声もパワフルだが、バンドの音全体にパワーがあつた。インタビューでバンドのメンバー3人が皆、作曲をすると言っていたが、全員が曲、音、表現ということに関して、プロのアーティストなのだと感じた。

 

 

アーティストというと、どうも私生活は不健康で一芸だけに秀でた人というイメージがあったのだが、彼らの場合、表現活動の環境を整えることも含めて、トータルに前向きである姿勢を感じた。固定観念にとらわれないことは、時にまわりとの摩擦からストレスを生むけれど、彼らはそれもふっきっているように見えた。専門家にはがなわないと思っていた音づくりに関しても、今は機材を使いこなし、バンドの活動もそれぞれのソロ活動も両立させる。はたからみると難しそうなことだが、彼らにとっては、アーティストとしてのこだわりに忠実に動いて、しぜんとそうなったのだろうと思った。

 

 

 

 

【ザ・プリンス・トラスト1982年】

 

「伝わってくる歌について」5つの出演者のうち、ジョンなんとかという黒人女性とフィルコリンズがよかった。黒人女性の歌は、声はそんなに張りあげてないのだけれど、とても強く伝わってきた。私にとって音楽を闇くときに一番大事なことは、やはり伝わってくる、ということだと思った。

 

最近、いろいろなものを見て、ヴォーカリストの声に注意してみると、声量があるとか、高音まで張りのある声だとか、プロの声に感心した。しかし、関心するだけでは聞いていても飽きてきてしまう。伝わってくる歌は決して飽きない。時間を忘れさせてしまう。フィルコリンズの歌も伝わってくるものがあった(詞はわからなくても)。曲のはじめはピアノで歌った。かなり小さな声だった。そして曲の終わりの方では、同じフレーズを叫ぶように歌った。声が完全にコントロールされている。どちらの歌い方も伝わってくるが、その伝わり方の効果は違う。それを自在に使いこなしている。感性と声(体)が結びついて表現となっている。

 

 

 

 

【マイケル・ボルトン

 

第一印象は、洗練された声のよい、B.スプリングスティーンみたいと観じたが、画面が進むうち、彼の個性がドンドンとこちらにきて、声の大きさと表現力にひきずり込まれていきました。コーラスの人が、高くてハスキーな声という表現をしていました。

 

高いとハスキーが不思議とマッチして、パワーもある声です。話している声より歌声の方が高いのも興味深く感じました。圧巻は、トランペット(サックス(?)と一緖に歌って負けない声量の声、共演してしまうという素精らしさ、声は響きなのだとみせてもらいました。オーケストラがバックだろうがコワイものなしの声量でした。

 

家族を愛するいい父親でもあり、完璧主義のアーティストでもあり、いつでも最高の歌を聴かせると言いきるところに、プロ意識を感じました。“自分の歌う歌を愛すること”という素敵な言葉も、心に残りました。

 

 

 

 

【森進一】

 

何曲が歌った中で、特に際だっていたのは、“襟裳岬”と“おふくろさん”の2曲である。当初、B面になる予定だった襟裳岬をA面にしてしまうほど、森進一が執着しただけはある。淡々と歌っているのだけど、どうしてこんなに伝わってくるのだろうと思った。まるで苦しさとか哀しさといったものが、声の中に深く深く溶け込んでしまったように私には聞こえた。

 

よく彼のモノマネをする人がいるけど、全然似ても似つかない。こんな味のある声は彼しか出せない独特のものだと感じた。“おふくろさん”を歌うときの森進一は、明らかに顔つきがガラッと変わる。母親が亡くなってからは、この歌を歌うために歌手をやっているんじゃないかと思わせるほどだ。第一、声の“おふくろさんよ”で、最後の最後まで聞きもらすまいと思わせる力に圧倒された。

 

 

 

【メイキング・オブ・三大テノール

 

ほがらかである。3人の顔、その様子を見て思った。生き方であろうか。国民性であろうか?楽しんでいるように見えた。歌も、人生も。そうでない部分があって当然で、メイキングものなので、どれだけたくさんの人、スタッフが、この日のために大変な思いをしたのか、本人たちもそれなりの練習もしたのだろうが…、楽しそうである。そう感じているところもあるだろう。

 

言うまでもなく世界のトップに立つ3人のテノール歌手。演出にこる必要はないようにも思うが、やる方も見る方も正裝したりする盛り上げさかげん、楽しみさかげん、セットの派手さかげん、サービス精神だ。日本の、へたさをごまかすことではない。

体、息、声、ひびきなど、統一されていて、とてもわかりやすい。どんなに耳がなくてもこれはわかる。素明らしい声。体が楽器になる。人間の声は素晴らしい。客席で涙ぐんでいる客がいた。感じるところは一緒だ。それがどんな音楽であっても。音楽は楽しいものだということを思い出させてくれる人たちだった。

 

 

 

[‘85 ショパンコンクール

 

このショパンコンクールは、音楽に対する情熱がまったく生温かいことをまざまさまと突き付けてくれた。たった20分程度の発表に、何年も何年もかけた個性(アレンジ)、そして己の情熱のまさしくすべてを凝縮する。少しでも指のタッチがずれたら敗北に等しい……凄い。このことは、普段の練習での質の追究、意讖の鋭さ、時間への危機感を思いしらせた。

 

地上120mのビル間を、綱一本で渡るという最大の緊張感、それを普段から維持できたら、もうそれだけで180度、質が転換するはず。そのくらい極端に考えさせられた(逆をいえば、それだけ自分はぬるま湯につかってたってことだ)。

 

このコンクールに優勝したソ連(当時)のブーニン。まさしく天才肌って感じだ。ショパンの曲のアレンジなんてわからないが、彼の独特の厶ード。あれをカリスマというのか。やはりどこか違う。演奏しなくとも周りを彼の音が包んでいるというか。ピアノがわからなくとも、彼はどこか遠うと感じる人は、結構いるんじゃないかな。こういうムードをだせる人間になれればなーと思う。

 

会場のあるポーランドワルシャワは非常に閑静なムードの美しい街だと思った。芸術の生まれる街の見本として、何かの雑誌にでてきそうな。お世辞抜きで、一度行ってみたいと思った。そんな美しい街で繰り拡げられる、最大の情熱、緊張感の極限まで高めた技術のぶつかり合い。音楽を自己表現の媒介として何かを成し遂げようとする上では、共通するが、情熱をブチこむ度合いのレベルがあまりに違いすぎる。クラシックとロックの差だけで(ジャンルの違いで)、一見、ロックの方がストイックなイメージが判断されるろうが、まるっきり逆だ。ステージの緊張感も含めて、意識面での自己啓発の度合は、彼らの方が凄いといえる。今のロックの悪しきところを、少しだけ気づかせてくれたような気がする。

 

 

 

【画家 青木繁

 

青木繁の人生での要所をドラマ仕立てで追っていき、主役の方がレポーターを兼ねていた。その人が青木を語る際、「廻りが天才だというからそう思った。なぜか?それを探究しよう。」と冒頭で言っていた。これは、たとえば廻りがみな高い評価をしているから、そうなんだろうと思い込み、音楽なら本当の自分は別にのれないのにのってしまう、廻りの評価に無意諷に自分を合わせてしまう、個人の意見を殺してしまう意識に一石を投じる。疑問は本当に大切にしなければならない。それは即ち、常に個人であろうとする意識に起こる。

 

青木繁だが、まずこの個であろうとする意志が非常に強い。が、それは同じに脆く、繊細だ。絵という表現を述べる際、「絵には思想がなくてはダメ、技巧ではダメだ。」と述べていた。これは当時の西洋絵画ブームに便乗して名を売ろうとする愚かな画家が増えた風潮に一人で反逆したのだ。

これはいつの時代でも当てはめることができると思う。特に今の日本の音楽界では、それに本物の実力が備わっていればいい。

同時に脆いと書いたが、彼の父が死に、母、兄弟に自分のしていることを責められて苦しむ。世間体と自分の夢とのギャップに。特にこの時代は、男は家族の世話などをするという大人社会での暗黙の了解(じゃなく、しっかりとルールとしてかも)が非常に強かったので。それともう一つ。あまりに食えなくなった彼は、その当時の風潮に歩みよりを見せる。が、それでも食えない。そして愛する人とも離ればなれになり、酒におちていく…。彼の体が病魔によって蝕まれ、最期が近づく。

そこで彼は大きな災いを燃えあがらせる。彼の描いた絵をたった一人、病いに蝕まれた体で何十キロも歩き、売りに行くのだ。金のために。残された彼の廻りの人々のために。何という情念。天才というのは、どうもクールなイメージがあるが、そんな生温かいものじゃない。まさしく、彼の最期の災いを指して、この行動に対していえるのではないか。

天才は初めから、そのことに対して脳力が抜きん出ていた人、器用な人を指すことばではない。むしろ正反対だ。自分の本当にやり遂げようとする仕事に自分の全感性を費やす人を指す。そこには小手先の倫理はいらない。行動が全てだ。

 

彼の廻りの抑制が厳しくなってきたとき、寺の坂戸に船針を焼きつけて描いた「海景」。この1枚の絵から絵に対する忠誠心がにじみ出る。俺は、ここまで歌を求めているだろうか。いや、まだまだ足もとにもおよばない。今の時代がそうさせたなんて甘え、言い駅に過ぎない。豊かになり、一見なんでもできそうにみえる盲目の時代。自分は抑えつけられる苦しさを実感できずに安易に自由を求めてないだろうか?オレが本物の歌を歌えないヒントが、つまっていた。