一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン・ステージ実習感想  22362字 587

レッスン感想                                          

 

レッスン感想1、2

課題曲レッスン感想1、2

トレーナーレッスン感想

ステージ実習感想      

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ステージ感想

勝田特別表現力講座感想

ステージ実習感想

ライブ実習感想

出演者への感想 ③④

 

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レッスン感想1

 

声区ということ。これは今、自分の練習のなかでファルセットの訓練に取り組み始めたからだろう。声優の声帯が地声、裏声という指示によって様々に変化していくのを見ながら、それでも声帯は一つなんだと思った。確かに動きは違っている。はっきり見える。しかし、声帯原音としての違い(高低は別として)は、それほど大きいものだろうか。単にそれ以外の要素の問題であったのではないか。裏声の、“うら”というイメージ本来のものではなく付随したもの、二義的なものというイメージは捨て去るべきだと思った。アメリカ的な声区の区別、いわゆる頭声、中声、胸声というイメージの方が、自分の訓練にはよいと思う。もう一つ心に残ったのは、上巻巻末の女流声楽家が歌いすぎぬようにコントロールするといった点。積極的な意味でのよい休息のとり方、歌以外の心の訓練、これもよくよく考えて実行していかなければならないと思った。また見てみようと思う。新しい発見をするために。

 

物心ついたときから、しぜんに話したり歌ったりしていて、普段は声がどのように作られるのかなんて考えてみたこと                                                                                                                                                                                                                                                           もなかった。ところが、すごくいい歌を歌う人たちの声を聞いて、どうしてこんな声  が出るんだろうと真似しようとしても全くできないのを知って、声も楽器の一つなんだと思うようになった。

実際に人間の身体、のど、発声のメカニズムを知ると、なんて素晴らしい楽器を私たちは生まれながらにして与えられているんだろうと感動する。それにも関わらず、いかに無関心で、それを使いこなすことをおろそかにしてきたことか…。でもすべては気がついたところから始まる。わざわざ高価な楽器を買わなくても、また年齢を気にしなくてもよい。この「声」というすばらしい楽器を、私も使いこなせるようになりたい。

 

あんなものが、のどのところにあることが不思議だった。声帯のことだ。

生物の進化の過程で、おそらく生き延びていく上で必要とされ発達した器官であることは間違いないは初めてだったので、特にそう感じた。

生物の進化の過程で、おそらく生き延びて                                                                                                                いく上で必要とされ発達した器官であることは間違いない。

たとえば動物だと声によって危険が迫ってきたことを仲間に知らせるなどのコミュニケーションがとれないと、種全体の生存率が下がってしまう。考えてみると人間でも動物でも“声”というものは、基本的に他者へ向けての意志表示だというあたりまえのことに気づく。意志とは心の動きだ。

 

それをことば、そして一流のプロヴォーカルのすばらしい歌声までに昇華させた人間ってやつはすごいんだなと思う。もし、声のない世界があったとしたら、なんて暗い世界になるんだろう。そのような世界があったとすれば、それはそれで声以外のコミュニケーションの方法がしぜんと模索され深められると思うが、少なくとも歌でしか味わえない感動には出会えないだろう。

 

声のしくみについて、まず呼吸器官。肺自体で大きくなったり小さくなったりできないので、胸や横隔膜で肺という容器の圧力を変えてやることにより、呼吸が行なわれる。肺の容量は人それぞれ決まっているので、歌う上で重要になってくるのは呼気のコントロール。その呼気をコントロールしやすいのが腹式(横隔膜)呼吸であることを学んだ。

 普段、練習している息吐きの練習も、ただ漠然と歌う上で必要なことぐらいにしか認識していなかったが、なるほどそういうことかとよく理解することができました。

 

 発声器官。声帯が単独で音を出すのではなく、息が流れてはじめて、声帯が振動し音声になる。呼吸と声のつなぎ方が重要だと言っていたのが印象に残った。このことも普段の発声練習がとても理にかなったことに基づいているんだなと改めて深く理解することができた。

 

共鳴器官は、おおざっぱに言ってしまえば全身が楽器だということ。現時点で僕は、声の共鳴まで考えて発声練習していないので、ここのところは理解が薄かったが、人それぞれ顔つきも体格なども違えば、共鳴の仕方も十人十色、違うということだろうか。とにかく誰もが誰のものでもない自分の声というものをもっているということだろう。その自分だけの声をこれからも磨いていこうと思う。

                                                                                                                                                                                                                                                             声の仕組みを知ることができた。声を出すまでに声帯や横隔膜など、さまざまな器官が関わっていることを知った。そして肺に入る空気の絶対量は、皆、同じだということには驚いた。息の使い方、体のリラックスが大切だと言う。この呼気のコントロールのために、横隔膜を取り巻く筋肉をしっかりつくらねばならないことがよくわかった。

 

レーニングは、忍耐強く、焦らず、トレーナーの指導の下に行ない、声帯を使ったら休ませなければならない。さらには、声帯をよい状態に保つために、タバコなどはやめ、睡眠をしっかりとらねばならない。

 

一番、心に感じたことは、歌うために心をやわらかく、詩を感じられる心を必要とするというものだった。声を出すための基礎的な技術とともに「心」というものは、やはり重要な要素だと身にしみた。

 

 

 

課題曲レッスン感想1

 

音にとらわれすぎずリズムの中でフレーズをつくる。上のひびきに逃げず、胸でことばをしっかりととる。「ヒーロー」の“燃えつき”の“つき”、“離しはしない”の“しはしない”、

「恋は水色」の“キークー”と聞こえる部分のところなど、イ行のものがうまく胸でとれなくて全部、その部分になると上の方にあがってきてしまうのをすごく自分で感じました。特に恋は水色の“キークー”は、音も同時に上がるのでうわずってしまい、そこだけ違う歌を歌っているようでした。今日は終わった後、自主練習のような時間をみんなでもらうことができたので、テンポを少し変えたり、キーをいろいろ変えてみたりしたのですが“キークー”の部分は、どれもうまくいかず、不安定なままで終わってしまいました。きっと、歌おうとするからうまくいかないのだと思うので、語りからイ段を徹底的に練習しようと思いました。

                                                                                                                                                                                                                                                           シャウトするところ、または張るところ(高音へ)広がるフレーズから一転して、すっと落ち着いたところから語るように始めたいとき、ポジションがとんでしまっている。浮いた感じで浅いところからのスタートとなってしまう点。EX.ラストの~tona  mourに入るところ。

 

イメージはしやすい。腰が入っていないとできない。リズムの微妙なところ。自分の表現したいことを考えると「走り出しそうだから」の部分などは追求していってできるようになりたい。

「恋はみずいろ」急いで耳でとったフランス語でや                                                                                                                                                                                                                                                          ってみるのはおもしろかった。口先で節をつくるのではなく、感じたことを体で音と音の間を埋めていく。音を追っていくだけなのとつかまえて放すのでは、出てくるものがぜんぜん違うこと。こうしたいのにできないという感じで、深くつかまえられないことがじれったくてしようがない。ムキになってノドをつぶさないようにしなければと思った。もしもちゃんと体が使えたら、ある程度リズムはよくなってくるという感じがする。その上で、もっと微妙な気持ちをよく合わすとかはずすとかいうところまでできるようになりたい。

 

最近の練習では、なるべく体全体にひびかせるつもりでやっていたんだけど、まだ顔の方のひびきが多いので、また胸のひびきを特に注意してみた。「あおい」を言うときっていうのは「あ」「お」「い」の3つの色のアメ玉を、アメ職人がどこがつなぎ目ともわからない「あおい」の棒状の3色のアメにした感じのイメージだと思った。音程が変わると、その色の部分の形が曲がるんだろうと思う。そんなイメージでやってみようと思う。最近は単なる発声練習として英語の歌をよく歌っているのですが、英語の方が息でまとめやすい。日本語は難しいことばだと思う。

 

いつもはひびかせることに意識をおいているが、今日やったのは、ひびかせるのを取り払ってしまい、息で歌うかんじ。ひびかない声でも息の流れで歌になる。ひびかせるよりも却って神経がいる。もろに現われてしまうので、できてないと全くだめ。そのかわり少しできると、流れが出る。気をぬくとすぐ逃がしてしまうので、つかんでおく。この声でやれば、はっきりわかる。

                                                                                                                   

いつも練習している外に出す声だけではなく、息からの流れの声(ため息のような)も歌う上では必要である。上のひびきをとったり、のどでならすのではなく、息の線上のもの、母音、低い音で練習するのがよい。1音(3音)でどれだけの種類の声を出せるかということも、これから研究してみる必要がある。

 

いつも体をしっかり使い、前へ声を大きく出そうと練習しているので、今日の授業はすごく難しく、そして声というものは本当に奥が深いものなんだと改めて実感しました。ただ勢いだけでもっていくのだけが歌ではないし、そのなかでメリハリ、ストーリーを表わさなければカラオケと同じものになってしまうし、先生のおっしゃった1音でどれだけの違う声を表わせるかというのは、ものすごく重要で大きなこれからの私の課題だと思いました。

 

体を動かすだけで声になるところの声。音色のこと。サラ・ヴォーンを聞いているのですが、すごく低いところ(また                                                                                                                                                                                                                                                              は高いところ)で、どうしてこういうふうに出るのか不思議だったのが、先生の話を聞いて美空ひばりさんの声を聞いたら、あっと思って、何だか世界が広がったような気がして感動だった。その人の声質の問題なのかと思っていたら、そうじゃなかった。こういう声が使えるということ。もっとよく聞いて、自分でやってみなくてはならない。自分の番のときはてんでできなかったが嬉しくて「あの歌のこの部分でこんなふうにできるのでは」などと考えてしまった。

 

今日やったことを普段もやる。音程をとるのではなく音を感じてそれを声にすること。me-lo-dyが均等になってしまうことに注意する。土曜日にやった全然わからないフランス語(恋は水色/ヴィッキー)の方がそのへんは却ってうまくいくようだ。もっとそのものを感じて声にしていかなくてはいけないと思った。

 

ほかの人のフレーズを聞いていると、少しずつ悪いところが判断できるようになってきた。でも、自分の悪いところがよくわからないことが多い。今日一つわかったことは、声量があっても(よくひびいて)四方八方に広がった声ではだめで、一本の統一性をもった声で発声する必要があるということ。

 

こんなにボロボロだったのは久しぶりだ。メロディにもて遊ばれてどうする。とっても情けない気持ちだった。感情の表現は最後にちょっと入れていったくらいで、ほとんどの曲を覚えることに終わってしまった。強弱を考えてやったのに、キーが違って声が入りきっていない、出しきれない状態だったり、いいとこなしだった。

 

誰が歌っているのかは知らないが、何て体の強い女性だろう。上の音まできちっと体でもっていってるところなんて、本当に圧倒される。音域もけっこうある曲なのに。前半の方がもっと難しそうだ。体でおさえて語っていくなんて私にはできない芸当だろう。一ヶ所、語尾で力の入っていること、息が流れていることを感じさせるところ(おそらくわざと)がある。さすがだな、かっこいいなと思った。こういう曲を一曲歌える力があるといいのにと思う。体もきつくて疲れるし、転調したりして、曲全体が結構難しいけれど、だからこそ、今度はもっとうまくやりたいと思う。表現にもっと踏み込んでやりたいと思う。

                                                                                                                        

「アルディラ」を聞いて、「アルディラ」の「ア」を歌うために、すごい息を使っているのがわかった。深い息をたっぷり吐いて、それを「ア」という声にしている。その息で「アルディラ」と言い切って、さらに大きい転回に向かっていく。それをゆったりしたテンポで一曲もたすのには、ものすごい息が必要だ。この曲は、伸ばさないですぐ次のフレーズにいくところの体の使い方(息を体で切り、体の深い使い方はそのままもっていく感じ)もわかりやすい。

 

一人ひとりフレーズを言うとき、思うように体、息が声に結びつかない。それははっきりわかる。うまく力が出せないのもあるけれど、それだけではない。発声のとき、続けて声を出しているときついので、体が使えているように錯覚してしまっていたのだと思う。もっともっと、きつくて、何分も出し続けられないような声があるはずだ。そこをつかまえるために、体力、集中力、それを求める意欲を、もっと高めなければならない。曲を聞いているときも、まだまだ耳が甘いのだろう。

 

毎日の息吐きは大切なんだということ。息吐きを少しでも忘れていると、またゼロに戻されそうでびびった。なぜ、私がここに来たか? それを得ないで、毎日を過ごし将来を迎えることは自分で許せない。初心忘れべからず。

 

地声について。やはり関西弁の方が低い音でしゃべっているので、ヴォイストレーニング的には関西弁の方がよい。ただ標準語でしゃべらなければならない機会が多いので、標準語をしっかりと発音、発声できなければならない。まずは、声を加工することにより、入門の間は声と解放することの方に神経を使うべきだ。まだ方向性の問題で、何をしなければならないとか、何が足りないといったものはまだなく、半年間は声を解放するように心がけるようにしよう。

 

歌詞の解釈が甘い。声がこもっていたように思う。語尾が流れないように、止めるところは絶対止めること。

 

質問→のどの調子が悪い。出す声がガラガラした感じ。こういうときは声は出さない方がよいのか。

先生の答え→おかしいと思ったときはやめる。とにかく急がない、焦らない。時間も必要。

 

アカペラで歌うときに空白をつくらない。この曲では、ci sei tu…とコーラスが入るところが、アカペラだと空白になってしまう。しかし、そこで流れを止めない。お客さんを飽きさせないようになる。

 

 

「周りの人の声をよく聞きながらも、音階およびフレーズのとり方はつられない」という柔軟性+ずうずうしさを身につけたい。

 

「Amour 泣いてはだめ」というフレーズが気に入ってしまい、帰り道、ずーっと繰り返していた。単に誰かに言ってもらいたいことばなのか、ここにはまりこんだのか、メロディそのものがいいのかわかさらないが、とりあえず、ずっと頭のなかおよび口のなかで連呼していて、きっとはた目にはただのあぶない人だったと思う。しかし、こんなことは初めてであった。あとは自分が歌えるようになること…である。

 

あまりにうまくいかなくて不完全燃焼だったため、自分を表現するどころかストレスがたまってしまった。今日はいろいろな曲を一回ずつまわしたので、自分がいかにその場で聞いて即座にやる一回きりの勝負で勝負できないのかがわかった。

自分の番が終わった瞬間に、また他の人のを聞いていて「あぁこうすればよかった」と気づく。もう一度はない。やり直しがきかない。3度同じことばを言うのなら、きちんと構成、展開を考えないといけない。それをしないと歌にならない。声すら満足に出せてない。一体、何のトレーニングをしてるのか。

 

声とセンス両方必要で、たいていどちらかもっている人はどちらかもっていないというお話もうなづけた。両方手に入れたい。同時にやらないといけない。その意味でも大事な授業だと思う。しかし、どうも本当にうまくいかない。気に入らない。もっといいのができるはずだと思っているからなおのことくやしい。へたになってきてるように思うし、それは鈍くなっているってことなのかもしれない。感覚も体も両方注ぎ込んで目一杯で最高のものを出したい。くやしい。とにかく、くやしい。

 

譜面通りに歌えるからよいというのではなく、そこに感動させるものがあるのかどうかということが大切。そのためにも多くのものを聞いて大きなイメージをつくっていくこと。先生がどうして一人ひとりにコメントしないのかがわかった。まだその段階までいっていないからだ。

 

 

                                                                                                                          

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レッスン感想2

 

これまでは「声を体に入れる」ということが強調したい部分に対しての特別な作業だ思っていたが、そうではなくて、それがあたりまえのことで、どちらかというと放すことが特別なのだと、ようやく気づいた。体でつかまえているから自由に動かすことができるのだと少し体で感じられた。

 

今日は「when a man」だけだったが、この1フレーズだけでも考え出すといろいろ奥が深くて、1時間では足りない。それを思うと、ステージで2曲も歌うためには、どれだけ時間を費やさなければいけないか。自分の甘さを痛感した。

 

最初に日本人とフランス人のシャンソンの歌唱法の違いを聞き比べたことで「線で捉える」ということばの意味がわかった。小手先のテクニックでまとめようとする歌い方をやめて、まず一つの声で線、フレージングで捉えていくことが大事であると思った。

 

フレーズの方では、やっぱりまだまだ先生の言うことばが自分の体の中に完全にはまってこないし、想像の域を超えて                                                                                                                いない状態で、本当にまだまだわかってないと思う。ことばの感覚は、それこそ百人百様だろうけれども、先生に何か指摘された後、いろいろ体のなかの動きを変えて試してみること自体が、最初に出した自分の声に自信がないということで、それはわかっていない、できていないという証拠だと思う。一つの声の出し方でピッタリと決まっていれば「これだっ!!」とわかるはずだと思うので、全くだめだということで、基本の基本の突き詰め方が甘いだけの話。やらなければいけないことは、はっきりしているので、やるしかありません。

                                                                                                                                                                                                                                                            ひびかせる部分とメリハリ→個人のときに言われた通り、握ることと離すこと(うまく言えないのですが、こもりすぎない表現)での表現を練習してる。そういう耳で、人(プロ)の歌を聞くようになった。前は、もう少し(おしつけず)ひびかせた方が感じよく、聞きやすいとは自分でも思っていたけど、そういう声は違うのだろうと思っていた。

 

私の声をどう生かしてどう歌えばよいか、イメージがはっきり浮かばなかった。もう少し、ひびかせる部分とメリハリをつけたかったのだが、うまくできなかった。先生が、一番簡単だといった部分は、音程がよくわからなくなり、つまった。レベルが低い。呼吸、ブレスが遅れる。体が反応しない。

 

短く“ハッ”“ホッ”という発声のとき、体と息と声が一つになるという感覚があったような気がした。こういう発声の                                                                                                                                                                                                                                                            ときは、のどをしめつけていないというのもわかった。でも短く“ハッ”“ホッ”という発   声のときも普通の発声のときも、音階を昇っていったり降りてきたりして、連続して発声すると、どうしても途中、咳き込んでしまう。のどがしめつけられているのか? 

自分ではあまり、そんな感じはないのだが、力みすぎなのかも知れない。力むと胸を押さえつけてしまう姿勢になるので、結局はのどもしまってしまうのか。

 

低い音になると支えがなくなってしまうのは、息を逃がしているから。そこをねばる。意識してないと、すぐ離れてしまう。中音でしっかり感覚をつかむ。でないと、音をちょっと上下しただけで、すぐわからなくなる。

 

外国の人は、コーラスにしても線でおしていくような歌い方をする。ことばを握っているつもりで離れてしまう。メリハリをつけているつもりで、流れてしまう。もっともっと、自ェが思っている以上に表現していかなくては人には伝わらない。自分が思っている以上に表現していかなくては人には伝わらない。人に伝わらないまえに、自分にすらとどかない。楽譜→ことばの世界→音の世界(表現)イメージを豊かにもつ(イメージがなさすぎる) 伝えようと考えること。次の流れのために最後の2音を捉えて次へのつながりを思う心 ことば、音を握る(離さない)

                                                                                                             

構成を考えること。次の流れのために最後の2音を捉えて次へのつながりをつくる。どこかに何かを置くこと。ポイントポイントをしめないとだらしない歌になる。流れのなかで体が動いてないなら息を吐き切ってみる。何カ月か前の特別講座でトレーナーがヴォラーレを歌ってくれたことを思い出した。

福島先生が今日、言っていたポイントポイントをしめるところや「フィニート」の「ニ」の深さなど、すべて正確にできていたことを思い出した。

 

最近、声の芯、声の根っこがあるかどうか、または声をつかんでいるかどうかということが、教材に使われるヴォーカ                                                                                                                                                                                                                                                        リストの声を聞いていてなんとなくわかるようになってきた気がする。私は声を出したときの音に含まれる低い音の鳴りで、これは胸部の振動からくるものと思われる。結局、声を発したとき、出ている音というのはいろいろな音が交じっていて、中音域、高音域で声を出しても、そこでオクターブ低い音が胸部で鳴っているうな感じがなくては、細く薄っぺらな音になってしまうのではないか。

 

フレーズの線について。今まで自分は少々、間違ったイメージをしていたのかもしれない。今までは単に二次元的な線をイメージしていたのだが、もっと三次元的な肉付きのある線をイメージすべきだったような気がする。たとえば卵を飲み込んだヘビや大小さまざまなソーセージのようなふくらみを伴った線をイメージすべきだった。こちらのイメージの方が量感や固さ、柔らかさといった要素もイメージできる。

 

ここに来て最初に聞いた「心遥かに」が今は違って聞こえる。息の流れが見えるようになった。

 

強弱によって複数の音を一つのことばにまとめ、複数のことばを一つのフレーズにまとめる。声の踏み込みがまだ足りない(体を使いきれていない)。声の芯、音色が不充分(ヴォイストレーニングがまだまだ足りない)。

 

やせてる場合じゃない!

 

私の好きな人に共通している点はなんだろうと思うのだが、言ってしまえば単純だが「歌を歌える人」であることだと思う。それはヴォーカルに限ったことではない。ギターもドラムもサックスも同じことだ。世界に通用している人は、その歌っている度合いがハンパじゃないだけだ。私が世に出ていくときは、歌を思い切り歌えるメンバーと共に、私も思い切り歌を歌いたい。

 

私は、このアテンダンスシートを書くのがとても苦手だ。感じることを文章に書くと、どうも偽善ぽくなってしまう。そんなに簡単に「わかった」り、「変わった」りできない。そして、そんな自分がもどかしい。

 

口を開けるというよりも、発声のときはのどを開く。つまりあくびをするような感じで。江戸川で発声していたら、ボートが走っていた。ボートのずっと後ろでロープをもつ人は、ひざを折って腰をおとしている。そうしなかったら、ふらふらしてとばされてしまう。発声も重心を下にもっていくようにしないと、声の重さでふらふらしてしまう。前のお腹に力を入れても声はでない。後ろと横を動かすようにする。

 

アテンダンスシートのほとんどの4、5に何も書けていない。もっと活動を、もっと発信をしなくてはいけないと思う。

 

 

               

課題曲レッスン感想2

 

ピアフは、ビブラートがたくさんついているので、よくわからない部分もある。先生のビブラート抜きの歌い方で、ビブラートというものがわかったような気がする。

 

“天地の声”というタイトルで、声の出し方のレッスンだと思っていたが、全く違った。精神的なことでとてもすごか                                                                                                                                                                                                                                                        った。感情を高めるというか気合いを入れるんじゃなく、気持ちの入り方。ことばではうまくいえないが、よかったと思う。

 

村上進さんの歌は、今まで嫌いだった。今でも好きではないが、サビの“あまえをあいしーた”というところで泣いてしまった。こういうふうに聞いていくと、歌の捉え方も変わるなーと思う。息から声にしていくやつで、最初は“体を使って”とか頭で考えて入り込めなかったが、村上さんの歌をきいたとは、ひたすら“アー”と叫んでいた。先生が盛り上がる合図をして回っているときは、自分は果ててしまうくらい入り込んでいたと思う。これをやっているときに“歌うということはカタルシスだ”と感じた。ピアフが“愛も大切だけど、歌も必要なの”と言ったことがわかった気がした。

 

オーバーなアクションで表現をした方が、のちのち声にも表われるのか? でも回りの人たちはそうやっていたけど、何も感じなかった。自分勝手な表現をしていたので、統一感もなく、ただ大声を挙げているだけだった。

 

闇は人間を大胆にする。その薄暗がりは、母体回帰したような安らぎと人間として一番、基本的な状態に戻す何かがある。開放というのは単に発散ではなく、同時に吸収でもある。皆で声をシンクロさせていく上で、自分で声を出したいという感じと、同時に人の声を聞きたくてたまらなくなった。そのゆらぎのなかで、まるでキャッチボールでもしているような快感を感じた。開放というイメージが単に一方通行ではないというイメージをもてただけでも収穫だったと思う。

 

今までは日本の一昔前の歌など聞く気にもならなかったけれど、いきなり“梓みちよ”がかかって驚きました。でも今のヴォーカル(日本の)にはない声の強さ。どこかで日本の歌はダサイと思っていた自分に反省。

                                                                                                                                                                                                                                                カルメンマキを聞いたときにも感じたことですが、体がきつくなって声がかすれてしまったりしているところがありましたが「とてもストレートに勝負をしているな」と思いました。声に飾りがなく、とてもシンプルで、そのことはこのまえの課題の「この胸のときめきを」のヴォーカリストにも共通して感じました。現代の日本人ヴォーカリストは、変に格好をつけて歌っているから、そのことが歌を歌としてしか聞かせられなくなっているのではと思いました。

 

                                                                                                                                                                  

 山がよんでる、のところで、雪村いづみさんのようにはいかない。うまく息というか声が切れなくて点線のようになってしまう。先生のことばでいえば、止めて大きさをつくることができない。でもイメージはなんとなくわかる。あと体を入れるところで3割、入っていればそれらしく聞こえるというのが、印象に残った。

3月に彼女のショーを目の前で見たのだが、59才とは思えぬすごい声と、きれいな背中が印象に残っている。化粧のせいかもしれないが、汗一つかいていなかった。すごいなーと思ったのを覚えている。そのときはフレーズがどうとかという感覚はわからなかったが、歌は確かにうまかった。もう一度、見てみたくなった。

 

なかなか地の声というものは難しい。力を抜いてやっているつもりだけど、必ずどこかに力が入ってしまうので難しい。力を抜くことが私にとっての大きな課題だ。

 

 

 

 

トレーナーレッスン感想

 

自分がハミングすらまともにできないのだと実感しました。私は声がすぐノドにかかったり、ひっくり返るのですが、まず息を深いところ(お腹の下あたり)でとり、それを逃さないように声をしぜんに出していくことから始めていこうと思いました。私はすぐにお腹をへこませていくくせがあるので、注意したいです。

 

声を胸から出す(胸に打つ声)声を出したとき、胸骨に振動がくるかどうかをチェックする(胸部共振)。声を下に出していって、声の出なくなるところ、息になるとを胸から出す(胸に打つ声)声を出したとき、胸骨に振動がくるかどうかをチェックする(胸部共振)。声を下に出していって、声の出なくなるところ、息になるとに振動がくるかどうかをチェックする(胸部共振)。声を下に出していって、声の出なくなるところ、息になるとニころで胸骨が振動すればよい(下の音程を出すために無理に力を入れない)。胸のひびきを保つ。ラッ ラーで確認。腹はしぜんにふんばってくれる。体のなかから突き出てくる感じ。(うずくまった状態でチェックする)。

 

「ハッ」「ハッ」「ハッ」「ハッ」「ハッ」、「アッ」「エッ」「イッ」「オッ」「ウッ」、ことば、フレーズ、250字ほどの文章でできるようにする(一字ずつ)。息を長く吐き、へこんだ腹を戻すように吸う。ドレミレド(上下1オクターブ)でハッハッハッハッハッと5回吐いて5秒休む。息を長く吐き、しばらく止め、ゆっくり吸う。またしばらく止め、長く吐き、止めるを繰り返す。ハッハッハッハッハッと息で言ってから声にする。横腹は突き出る。突き出る状態で大きな声が出せるようになれるのが目標。腰を曲げ、重心を下に下ろした姿勢で、腹の突き出るのを確認する。ハイやアオイでも同じ。一息・一体・一声。

 

トレーナーの大きな声を初めて聞いた。張りがあってつややかで、深くパワーがある。どこまでも届きそうで、誰にでも伝わりそうだ。一声だけで説得力がある。プロの声だ。こういう声で歌えたら気持ちいいだろうなー。少なくとも先生の声に近づき、越えなければならないなんて、私は何かとんでもないことをしようとしているらしい。

 

5種類に色々と書き表された線のイメージを先生が例として声で表現したのは強烈だった。本当に表わされた線のように聞こえた。こういうトレーニングは、おもしろくて私は好きだ。

 

 

最初の頃を思い出しました。あのときは意味もわからなかった。今はやってきた分のことはわかりますが、別にとてもよくできるようになっているわけではないです。でも、こういうことはできると思ってしまいがちなことで、いつも忘れないようにしたい。トレーナーが「半年後にはもっと高いレベルで説明できるはず」とおっしゃっていたこと。私もいつも、そういう姿勢でやっていきたいと思いました。頭ではわかっているけど、できていないことがたくさん確認できたこと。最下音のところから同じ体の状態で音を上げていくとき、体の状態がどうなっているか。声を出す以前に、自分の体を感覚できるようになること。

 

新聞のコラムでも歌詞でもよいが、大きな声でしっかりと読んで、その声を聞いてみること。前からよく言われていたことだが、その大切さをよくわかっていなかったのか、今まではあまりやらなかった。今日のレッスンでやってみて、そ                                                                                                                                                                                                                                                           の大切さが少しわかった。毎日、5分でもやれば声はよくなっていく。よく聞くこと。聞けば耳ざわりな声はしぜんと出さなくなる。毎日、鏡を見て髪が乱れていたら直すのと同じことで、自分の声が汚く感じたら、そういう音をだんだん出さなくなってくるのではないだろうか。毎日5分でも、自分の声を録音して聞く習慣をつけようと思う。

 

「一流になるには一流の努力をするしかない」という先生のことばがとても心に残った。このあたりまえのことが自分では自覚できていなかったので、はっとさせられた。プロになること、一流になることの覚悟がどういうものであるのか、                                                                                                                                                                                                                                                             

わかったような気がする。

最後に美空ひばりの歌を聞いた。大音量で聞いたせいもあると思うが、改めて彼女の歌のすばらしさに感動した。先生が「声の使い方のテクニックがすごい」とおっしゃったが、彼女のうまさの秘訣は声の表情のつけ方が変化に富み、優れていることなのだろう。

 

「決定版 ヴォイストレーニング」に沿った実技編ともいうべきものだった。本にぴったり沿ったものというのは復習しやすいという点で、また講師の先生の体験に基づいた注意点などが肉声で語られるという点で、

本の内容がより実感をも                                                                                                                                                                                                                                                  ってしみこんでくるようで、とてもよい企画だと思う。

 

書籍の点数も増え、本を読んだだけで何だかお腹いっぱいになった気がしてしまっていたが、実はこの1冊のなかに普段のレッスンで語られていることのエッセンスがぎゅっと圧縮されていたことに、今さら気づかされた。何といっても先生の自分のトレーニング体験を聞けたこと。

[例:強く大きく試してみる。効果も早くでるし、間違いも早くわかる。同じことばをとにかく100回言ってみる。しぜんに声と密着してくる。のどには拾うが蓄積するe.t.c...]

 

実感をもって、1冊、つきあうべき本と出会えたこと。先生の実演(見本)を見られたこと(同じトレーニングをする上で、イメージ形成に効果大)。自分のメニュー作りの改良点が見えてきたこと。

 

                                                                                                                                                                                                                                              息吐きだけで2時間もつのかななんて思いながらも、最近たるみがちな気持ちを引き締めようと、初心に戻るつもりで参加した。当然のことながら息吐き1000回を全力で続けるなんてことはできなくて、途中、頭はボーッとしてくるし前屈しているとクラクラしてきて思ったとおり大変だった。間でうまく息を吸わないと吐けないし、ペースを考えないと最後までもたないし、体のどこをどう使って…なんてことを考える余裕もなく、ただリラックスして深く吐くということしか考えられなかった。歌もこれと同じだと思った。このくらいの気持ちで声にしていかないと、体で歌うことはできないのだと、それだけよくわかった。

 

息吐き1000回連続が本当にできるとは思わなかった。体というものはトレーニングすれば慣れるんだと思った。1000回やっているうちに手が冷たくなってしびれてきた。体が酸欠になって末端まで酸素がまわっていないのか? 息を深く吸い込めばこうはならないのだろうか? 

 

普段しゃべっている音の3~4つ下の音に声の芯がある。そこからさらに3~4下につくっていないピュアな声がある。のどをしめたりしないこのピュアな声を出す感じで、上の方も出せるようにする。芯のある声をもっともっと深めていくこと。ただ大きいだけではなくて、重量感のある声を目標にする。いつもの繰り返しのようで、毎日少しずつ新しいことを教えてもらえるので、違った角度から考えることができる。

 

体を楽器として捉えたとき、いかにその柔軟性が大事か(バイオリンなどの調律と同じく)伸ばしていくことによって凝縮(強く吐く)ことが当然、やりづらくなる。そこでのせめぎ合いを繰り返すことにより、柔軟な体で強く大きく吐けるようになる。歌とは、かけはなれた部分だが、根本的な部分から歌をうまくなりたいと考えたとき、体の根本的な部分からこのように運動していくことはすごく大切だと思う(スポーツの試合と練習との違いからも)。

 

自分はスタジオなどでの声出しを中心にしているので、柔軟などはどうしても、直前の調整程度にしかやってなかった。それも、各部位を軽くほぐして、息を少し強く吐く程度。体を楽器と考えたとき、というよりそうなのだが、ギターなどが少しでもチューニングが狂うと音が狂うのと同じく、声を正しく出すことに根づいたしっかりした柔軟と調整が本トに大切だと思った。そして、楽器にはない精神というヴォーカルには大切なもの、心という声に直結するものの高揚も同時にすることもまた調律と同じことだと。

 

今日のレッスンを基に、自分の体という世界唯一の楽器を正しく調律すること、根本的な部分からの体を変えることの必要性を身体に感じ、実践していくしかないと。体だけのトレーニングもしなくてはならないと思った。しっかりと自分の体を理解し深めた上で、声出しの前などの調律の仕方も考えなくては。それにしてもどうしても歌を中心に考えると、その枠内での考えとしてだんだんトレーニングの範囲が狭くなって、一つのやり方に固執してしまう。根本的なところからヴォーカルを考え、長いスタンスで捉えると、今日のようなトレーニングがいかに大事かということをすごく強く感じる。

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勝田特別表現力講座感想

 

大げさに芝居っぽいことをやらされるのかと思っていましたが、ステージに立つ上での基本の“キ”というべきことを                                                                                                                                                                                                                                                             教えてもらった、気づかせてたと思います。立ち方や手のひらの使い方の話で、バレエの基本の形と話が重なり、さすがに歴史のあるバレエ、表現するために計算しつくされた形なんだと思いました。

 

ことばは聞かせるものではなく「見せるものだ」ということ。歌詞だけじゃなく、手、表情、目線などを総動員させてみせていく(思えば、私の好きなアーティストは皆これができている)。表現から入ると後から力量がついてくるという話も興味深かった。表現したい大きさに対して、足りない技術をどんどん補っていくということなのでしょうか。ひいては、その人格とか中味も充実してくるというところまで私はいってみたいと思いました。

 

大げさにしなくても、きちんと伝わることがハッキリ見えてすごかった。「人は30秒しか話を聞いてくれない」「華があるとは光を発している人のこと 人間は動物だから光の方を見るのです」「表現はためなければいけない」そういうことばが残りました。難しくはなく、あたりまえのことなのでしょうが、つくったり嘘になるから伝わらないというのがよくわかりました。

 

大きい表現をしたいとき、初めから大きく出してしまうと、それ以上、大きな表現ができない。歌のフレーズのクレッシェンドと同じ。大きくしたいときは、いったん絞ってから徐々に大きくしていくところの共通点。

 

ものごとを表現するときのポイントがわかった。8割で表現しておかないと付けたしができないこと。無駄をはぶいて効率よく表現すること。自分を大きく見せること(大物、花e.t.c…)

 

基本は姿勢。「華のある人」とは「オーラを放っている人」誰でも意識次第で「オーラを発する」みたいな、人の目を一                                                                                                                                                                                                                                                         瞬でも引きつけることはできると思う。必要なのは、それを持続させる、引き込んでしまう力。いろいろ経験したこと(ささいな、小さなことでも)を覚えておいて、引き出しをたくさんつくっておく。頭の回転の悪さ、頭の固さ、ものごとを一つの面からしか見れてない。最初に100パーセントの力を出し切れない。オーバーすぎなくても伝えられる。

 

途中、皆の顔が疲れて見えたが、先生のテンションはずっと高いまま、若い私たちよりパワフルだった。まずは気力、体力の維持だ。例「弱い力」と「強い力」他「広い~」「狭い~」などの体を使っての表現を、今日は主にした。

最後は表現の基本である(と先生はおっしゃった)「私からあなた方へ提案がございます」をやった(これをジェスチャー付で)。表現するとは、相手がいてその相手に向かって自分のメッセージを発する、聞いてもらう感じてもらう、これが基本ということ。

 

勝田先生に「自分の顔を見て、うっとりするくらいになりなさい。あなたは表現者なんでしょう」と言われたときには愕然としてしまいました。今はその意味がわかります。無表情なんて、嘘だ。

 

 

ライブ実習感想

 

「ここ的」なるものがあるとすれば、それは何だろうか。ここでうけることが目標になってしまっていないだろうか。ここへ来たのは、自分の本当の楽器(体)に出会うため、そして自分の内にある音楽にいつかたどりつく方法を探すためではなかったか。ライブは本当に難しい。音楽をやりたかったはずなのに、その音楽が実は本当の音楽から最も遠いところへ押し流していく。

 

本日、私のなかに残った課題は3つ。①人のまえで歌うということが、力自慢、腕自慢にならないこと ②音楽のようなもの(それでいて実は少しも音楽的でないもの)に安住しないこと ③本当のオリジナリティへの感覚を磨くこと

誰にも似ていなければそれでよいわけではなく、また反対に誰かに似ていてもそれが当人の本質に基づいたものであるなら、そうである現在の姿を受け入れ、誰かに強く影響を受けて形成されたオリジナリティというものを否定すべきではないだろう。あくまでも、その音楽がその人自身であるかが問題であって、人の演奏を聞くときも自分が演奏するときも、そういう音楽を求めていきたいと思う。

 

私はきっと「デルクイ」になる。きれいに歌おうとは少しも思っていない。むしろそれを嫌悪すらしている。でも自分の歌っているビデオをみると、きれいにまとめようとしているようにしか思えない。そして毎回、自分の過ごしてきた数年間を振り返ることになる。                                                                                                                                                                                                                                                     今の私に理由がないわけではない。すべては今まで過ごしてきた結果の総体として今の私がいる。変わりたいと願うのなら、変われることを信ずるしかない。自分にしか見えない、自分のなかのわずかな変化を認めてあげることにしよう。否定だけでは前に進めない。

 

今回でライブ実習は、3回目だが、今回が一番レベルが高かったと思う。はっきりいって、この人はうまいと思える人が3人いた。たぶん、ほとんどの人がそのことを認めていると思う。自分はなぜダメなのか、その人たちとどこが違うのか。なか                                                                                                                                                                                                                                            なかわからない。とにかく自分がへたなのはわかるが、何がどうダメなんだろう? よくわからなくなってきている。とにかく、うまい人の歌やライブを聞いて自分との差を感じ、くやしがってくやしがって練習していくしかない。

 

福島先生のペンを止める歌とはどういうことなのか。何が違うのか…

もっと練習のときからの録音と客観的な判断が必要だと思う。

 

 

 

ステージ実習感想

 

物理的に他を圧倒する声。そこを発掘し続ける精神力。今までやてきたことはすべて出しきろうと本番前に思えてしまう甘さ。今までやってきたことは何だったのか、なぜこうも“圧倒的”でないのか。そこをつめていく。                                                                                                                                                           

すると今行っている道が一番正しく、他は考えられない。頭のなさ。欲のなさ。自分に折り合いをつけるごとに、歌いたいことが見つけにくくなる。ことばを磨きたい。声は体であり、体は心である。心は体であり、体は心。すべては体から知覚されることから始まる。体を変えたい。

 

以前、先生のおっしゃっていた「声なんて、歌いたい気持ちが大きければ出てしまうものである。そうでないのは欲求が低いからだ」ということばが思い出された。今日の「何も熱いものが伝わってこなかった」というコメントとともに考                                                                                                                                                                                                                                                        えさせられた。

 

ステージ実習で何がつまらなかったと言って、心が動かないことにはどうしようもない。先生に「熱いものがない。年を感じた。」と言われて、返すことばもない。悔しいけれど、まさしくその通りだと思う。

 

かれこれ半年間も同じ課題で挑んできたが、まあ、とりあえずは一旦、ここで区切りをつけましょう。今日のできとしては、うまく歌えたところもあれば、うまく歌えなかったところもあるわけだが、そんなに一喜一憂してもしようがないわけで、練習の段階で10回歌って5回しかうまくいかないなら、本番でどっちが出ても結果としてあるだけで、下手な歌は下手なままだということだ。ただ、半年たってこの曲を歌い始めたときよりも、特に今日はAメロの低音部がかなり楽になってきている。それだけでも進歩はしたということだ。

できとしては結果としてBメロの部分がリズム的には走ってしまい、もう少し大きく歌えればグッとメリハリ、聞かせられる歌になったかもしれないが、その不確実性も現在の実力なわけで、それが一つの弱点だ。あまり細かい点をチェックしても所詮、小手先であり根本的な部分(声)が変わらなければしようがないのだが、よくも悪くも実力通りのステージだったといえる。

 

今日のステージで俺は何を置いていったのかが問題だ。何か表現をしたい感情、エネルギーはあったわけだが、もう少し具体的に何なのかを問い詰められても、ちょっとおじさん困っちゃうな。声を聞かせたかったのかな。大きな声を出してストレス解消したかったのかな。う~ん、それは違うな。音楽? 嘘だろ~、これが音楽なんて呼べるしろものかね。本当、中途半端にうまくも歌えないステージは、ロクなものじゃないな。意気込みという点では、ギリギリでやっていたと思うし、自分のもっているギリギリのものを出したつもりだ。でも、それはステージや生活に付随するものであって目的ではない。本当に、表現したかったものは、まあ、一つここは空間に声というペンを使い、息で有を生み出す。おいおい、ちょっとそれは気取り過ぎだぜ。“有を生み出す”なんて格好いいこと言ってやがって、そうじゃなくてそこに何を描いたのか、何を表現したかったのかが問題だろう。まあ、とにかくモノトークでも、何でもまたやってみっかな。

 

 

ライブ実習感想

                                                                                                                                                                                                                                                           今日の私のテーマはとにかく集中力を維持するということであったが、その目標は達成できたように思う。ここのところ、集中力が欠けることが多く、なぜなのか、またどうしたらよいか迷っていた。ただでさえ、自分のからに入ってしまいがちな(オープンでない)性格のため、あの場と時間をそこにいるすべての人やものとわかちあうような感覚からは、いつもほど遠く、たいがい自分一人の世界で声のことやことばのこと(つまり歌のなかに入り込めずに)が、フッと頭に浮かんできてしまい、それと格闘していることが多い。自分から外に向かって何かが伝わっていくというようなことはめったにない。それならば、いっそまわりのことは考えずに、まず自分一人の世界にもっと没入してみようと思った。変な雑念が入り込まないくらい、深く深く歌のなかに入れば、その底の方で外への道がつながっていることがあるかもしれない。だから今日は、はじまる前に雑談などしないよう、とにかく自分のなかで鳴る音に気持ちを向けるようにしていた。こんな気持ちだったのでずいぶんと一人よがりの歌になってしまったかもしれないが、自分なりの手応えは感じられた。

 

とてもかたくなで、先生が講評でおっしゃった「あふれでてくる歌うよろこび」のようなものは確かにみじんもなかった。もっと楽に、すんなり集中できるようにならなければ、自由にはなれないだろう。観客とのコミュニケートは、その向こうにあるような気がしている。多分、今の私のままで客席を意識しても嘘になってしまいそうだ。まず集中すること、そしてそのなかで自由に解放されること、そしてそれをその場にいる人たちとわかち合うこと。

ここは、このような気持ちの訓練をするのにとても貴重です。たった2曲だけなので、変にまとまりを考えずに、討ち死に覚悟でとりあえず、全力でぶつかることができます。確かに力の抜けた本人も思いもよらないような楽な状態というのは経験できませんが、力まかせの思い込みがなせる真実のようなものもあると思います。

                                                                                                                   

   とても難しい曲で、とうとうつかみきれなかった気がする。音程をとりにいっていたのではことばがつかまえられないし、ことばにとらわれているとリズムに遅れるし、リズムのドライブ感そのままに乗ろうとすると声が出きらない。せめて「こことここは」というふうに感情と声の合せどころを決めたつもりが、やはり安易なもくろみは通用しなかった。あんなに気を使って体も使ったつもりだったのに、ビデオで見るとすっかり流れてしまっていた。しかし最大の敗因は、最後までこの歌に気持ちが寄り添ってこなかったことかもしれない。どうしても「共感」のようなものを感じなかった気がする。とても距離感があった。

 

歌を覚えているという余裕? よくわからないけど、とてもみにくいと思った。眼は泳いでいるし、とてもずるい顔をしている。自分をぶつけていかなかったのが、とても悔やまれる。歌っている途中で、このまま終わっていいのかと、何度も自分に聞いていた。

自分の歌いたい欲求をステージで出せなかった。だから、盛り上がりも抑制もない。いつでも歌えるんだと思って歌っている。人を裏切ったときのようにつらかった。観客を感動させたいというか、そういう気迫がなかった。人が観ないではいられない歌を歌いたい。歌を自分のものにしたい。ステージに自分の歌いたい瞬間をもってくる。

 

福島先生の話を聞いて、はじめて“イタイ!”と思った。本当に骨身にしみるコトバだった。とにかく今日は意味がありすぎた。今日という一日を噛み砕き消化しきるまでは時間がかかりそうだ。今、胸中にあるのは“俺エは歌をナメすぎだ”ということと“歌を伝えるような人間ではない”ということ。

モノトークで“歌は本当にすばらしい”と思い、今月のステージ実習では、ここに入会して本当によかった”と思った。来月からはまた、1からやり直しだ。そしてうまく活用していこう。

 

後のコメントで福島先生が指摘した通りに、最初から“Ah~”なんて声が出るはずもなく、中途半端なヨレ~とした“ア~”になってしまった。大体、自分の場合は、この“Ah~”からして感情表現になっておらず、なんで“Ah~”なのかをもっと煮つめるべきだった。

歌詞を忘れるのは、体に染みついていない、練り込まれていない証拠であり、思考が歌詞を“暗記”するという次元に止まっているからだ。“暗記”というのは、ただ記憶したというものだけだ。ステージは期末テストじゃねえ! その場に、メロディがさも溢れてくるように、歌詞もそこで生まれたかのように語らなければならないはずだ。“暗記”という意識レベルから脱しない限り、何も価値あるものは生まれない。

 

自分とよく似たタイプでは、今日出場した“X君”。彼も声や音域的にはまあ悪くはないが(と言っても、彼の口先で加工したような感じの発声は好きじゃないが)、全部、歌ってしまっているから、つまらないものになっている。結局、自分も同じで)、メリハリがなく、何も残らないような歌になっている。とにかく音楽的イメージ(インプット量が足らないのか)が貧困である。

まず今の段階ではことばに重心を置くか、音楽的線をとっていくかのどちらかだと思うが、自分の場合は音楽的線に人より優れたセンスが感じられない。いや、本当はできるのだが、一つの歌い方にすぐ声が固まってしまうので、自分で自分に殻(限界)をつくり、そこから抜け出せなくなってしまっているのだろう。だから、そこにも先生が言う通り、1曲を何百回も歌うよりも、イメージを何百回も繰り返し、そこでワンフレーズ練習した方が遥かに効率がよいのかもしれん。

 

いつもいつも思うことなのだが、何かをやりはじめると、たとえば毎日息吐きをするとか、スタジオにまめに入るとか、最初は動機があって気持ちも集中してやってるのだが、回数を重ねてくると、それをこなすことだけで満足してしまい、気持ちや集中力が伴わなくなってくる。そしてハッと気づき、気持ちを入れ直す。この繰り返しである。この甘さはどうしたものかと思う。最近、毎日のトレーニングと言えば息吐き1000回をしているくらいなのだが、息吐きによる効果、声のことばかりに意識がいってしまい、表現、心に対する思いが薄かった。

 

 

 

出演者への感想   ③④        

                                                                                                                                                                                                                                                             ハッキリ言ってメチャクチャなスキャットだったけれど、あれを堂々とできてしまうところがよさなんだと思った。スゴイ。私はとってもカッコつけで、スタジオで他の楽器の人たちとセッションをやるときでさえも、「この音、間違ってないかしら」などとおそるおそるスキャットしてしまうことがある。こういうところが自分を小さくしているんだと、今日、見て思った。

 

 

自戒を込めて一言。余裕とは何か。作品とは何か。セルフイメージとは何か。優れた一軍選手は二軍のなかに力を見る。③の方が厳しかった。

心身ともに。そして怒りたい。我は一体何物? 何だこの場の雰囲気は?

 

自分も含めみなさんに感じたことですが“歌に支配されている”そんな気がしてしようがなかった。体、息、声、どれかしらに表現がかたよってしまっていて、それ以上のものが生まれてきていない。プロとしての技術はものすごく大切だとは思うのですが(自分は特に)。歌を聞いていて「ここは思い切り声を出すところだから、大きくだすぞー。」というのがみえみえで、何も伝わってこない。あらためて自己解放の大切さを学びました。

 

ーーさんはもっとよくなるのではないでしょうか。あれだけのパワー、自分をもっているのだから。違う面も見せてもらえると深みを増してよいと思います。期待してます。

 

今日は、のど同様、耳にもフタがかぶさったようになっていて、あまり感じることができなかったため、他の人へはコメントできません。それでも細かい部分では、伸び伸びした表現やいつもいつも決して手を抜かないひたむきな歌、地道に声を伸ばしている様子など、とても勉強になりました。

いつもとてもうまいなあと感心するのですが、今日の私の耳のせいもあってか、心にひびいてこないのはなぜなのか考えさせられました。

 

ーーさんは発声のときとかも聞いているだけに、基本のところをもっていること、積み上げてきたものがあるということを感じさせられてしまう。「息はずっと流れている」ことを感じます。

 

今日の歌で印象に残ったのは、ーーさんの自由曲のみ。私自身、テンションが低かったので、人の歌を注意深く聞ける状態ではなかったので、みんなの歌がつまらないと思っていた(自分の歌もつまらないと思っていた)。その歌には思わず顔を上げてしまった。先生は、全員つまらないと言っていたが、上に書いたことは、そのことを一切、考慮せず、自分の思ったことだ。

 

ーーさん、以前にも聞いたことのある曲をもう一度、もってきてましたが、前回よりよいと思います。ちゃんと前進していることを感じさせてくれました。

 

ーーさん…舟唄が人とは違ってておもしろかった。悲愴感がなかった。

 

 

声がどうとかということではなく、いろいろな意味で気をひきしめなければ、初心に戻らなければと思った。今日は、人が歌ってるのをみても、すごく勉強になった。

 

レッスンに来ている人の方が、フレーズの感覚がよいように感じました。やはり、常に何かに触れているようにしなくてはいけないんだと思った。

 

ーーさんの歌の世界に包み込まれて、とてもおだやかな気持ちになれた。ーーさんの歌は派手さがないけれど、静かな力強さのようなものを感じさせてくれるので「また聞きたい」と思う。

 

ベスト3 1.ーーさん…明るい雰囲気がよく、また低音もしっかり声となっていた。2.ーーさん…やはり深みのある低音は魅力的だ。またフレーズを動かそうという試みもあった。3..ーーさん…ややハスキーかもしれないが、太い声がいい。

 

ーーさんはあのテンポの速い自由曲をしっかりキープして歌っていてすごいなと思った。彼女はいつもテンポ感がいいと思わされるし、安定したものをもっていると思う。

 

ーーさん、ーーくん…合宿がとてもためになったようですね。たぶん去年よりも。

 

ーーさんはポジションが安定しているのか、曲のなかの上の音も下の音も同じところでとれてる感じで、息も感じられた。課題曲をちゃんとこなしてたと思う。

 

ーーさん…どうしても出し惜しみをしているような気がしてなりません。声がとても出たがっています。

 

今日、聞かされてしまう人以外の歌は、自分が聞いていないことに気づいた。厳しいことを言えば、ずっと来てたのに来なくなった人や、やっているとも思えない人は、やっぱり明らかに後退している。悪くなっている。こういう場は正直である。自分もさぼれば、いくらでも以前に戻るのだと、冷え冷えした気持ちでいた。

 

ーーくん…反抗期、少し休止中ですか。彼なりに揺れ迷っているのでしょうか。