一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レクチャー   9642字  562

レクチャー    351214

 

 

 

 

他の音楽スクールと違うところは、ここは、まずは、生の舞台での音声表現の技術をめざしていることです。

「アカペラで一人でやって場をもたせられる力があるかどうか」、

「歌に表現が宿っていて、人々の心を動かす力があるかどうか」

を基準にしています。

徹底的に基本を身につけるために、2~3年かけています。

 

 そのため、いろいろなジャンルの人がいます。

ヴォーカルでは、ロック、ポップス、ジャズ、ラテン、シャンソンどころか邦楽、演歌、

さらに歌を歌うためではない人、声優や役者の人もいます。

これらすべての人に共通しているものは音声表現としての「声」です。すべてのベースとして、最低限、必要な「声」をプロとして使えるようにしていくということです。

 

 私の主宰する「V塾」は、2年で声のベースをつくっていくという主旨でやっていました。ですが、実際は、半分近い人は、4年います。

2年間が考えられない人はお断りしているわけではなく、いつでもやめてくださいといっています。

 

 「2年」というのは、歌が歌えるようになるのではなく、あくまで声のベースをつけるという期間です。早くプロのように歌いたいという人には歌をまとめる方向で指導せざるをえないので、教え方が異なります。

それでやっていけると思う人は、プロダクションや事務所に入った方が早くプロになれると思います。ここは、プロのようにではなく、プロとして歌うための技術を得るところですから、目的が違います。

 

 

「V塾」は、現在、「グループ制」をとっています。理由としては、本当の意味で音楽が入っていない人、音楽を聞くことのできない人が多くなってきたために、さまざまな一流の音楽を心や体のなかに入れることと、同じくらいのレベルの人のなかで、他人の声をもとに自分の声についての理解力、判断力をつけてもらうためです。

 

 最初の目的は、1.耳を養う 2.体をつくる ということです。

 

 1.耳を養うというのは、一流のものを聞いたときに、自分の体で感動できるだけでなく、その理由や自分のとの差もわかるというレベルの判断力をもつことです。それがあれば、自分の声、歌での表現について最高のトレーナーに自分がなれるからです。

 

つまり、そうなってはじめて、自分でトレーニングができるわけです。そもそも、耳から聞けないものは、自分で表現することはできません。徹底的に一流の声と歌のシャワーをあびるようにします。生まれてこの方、聞いてきた音楽以上に聴き、しゃべってきたことば以上にことばを使うことです。

 

 自分には何が足らなくて、そのギャップを埋めるには何をすればよいのかを知ることから、トレーニングが始まります。その差を埋めるのがメニューです。それは自分でつくらなくてはいけないのです。

 

そのやり方を学ぶのがV塾です。その場で瞬時に自分の声、歌、表現がわかることが求められるのは、常にその場で自分のベストが出せるようになるための条件です。

 

耳を養うことで、自分の声の判断についてはトレーナー程度に知っていないと、限界がきます。ヴォーカリストは所詮、自分がよいと思うところまでの世界なのです。自分一人でトレーニングできるために必要なことは、常に上のレベルを知りめざすことです。これがとても難しいのです。

 

 

 2.体をつくるということは、まずは、息を吐ける量を増やし、その息を最大限、声に変換し、完全にコントロールするということを意味します。そうすることによって、声が出ない人もずいぶんと大きな声を出せる人になります。これがベースです。

 

声が大きく出たからといって、歌えるわけではありませんが、体で声を捉えられるようになり、そこから体=呼吸とともに声が伸びていくようになることが大切なのです。それによってトレーニングの仕方と実績を得るということ、自分がそれまでできなかっただけで、本当はもっていた自分の能力を最大に高めて利用できるようになるということに、大きな意味があるのです。

 

大きい声でシャウトし続けても、のどを壊さないようにします。もちろん、声は太く強く、一声でプロの声とわかるようにならなくてはいけません。

 

 その人に10の器があるとしたら、その10のなかでまとめようとせずに、100の器をめざして、できるかぎり拡大しましょう。今もっている声が、ヴォーカリストとして使える声なのかどうか考え、もし使えないと判断したら、一から始めることです。ほとんどの人がこれにあたります。

 

 具体的にいうと、今もっている声のうち、よい声が一音でもあれば、その一音の声が思う存分に出せる、つまり体を使える状態にもっていきます。その一音なら、何度出してもいつも同じポジション、同じヴォリューム感を出せるというところまでもっていきます。これが型になります。

 

この声をその人の今の状態での最もよい声で、ベターの声といっています。ベストの声は体や息を鍛えなくてはでません。型というのは、野球選手が何度、素振りをしても、1センチも狂わず、バットを振れるようにするということと同じです。

 

たとえば、上級トレーニングの一つに100回、声マラソンといって、同じ音(たとえば「ハイ」)を100回、全く狂わないようにするようなことをします。この単純なことを確実にするのが技術なのです。

 

本物のプロはたやすくこのことができ、アマチュアはできません。そのギャップを埋めていくのがトレーニングの効果的な方法の一つです。

 

 その音を半オクターブつくれれば、1オクターブ半の歌は歌えます。体で声、息を強くしコントロールできる音を確実に増やしていくのです。最初は、半オクターブのコントロールでも大変に難しいことです。こうして、プロの体に2年間で2年分近づけていくのです。

 

これまで歌だと思って聞いてきたものを本当に歌なのかを疑い、自分の歌や声についても確かめていきます。つまり、嘘を嘘と知り、本物を求めることで型に絞り込むのです。

 

 外国人は、一般的に息が深いです。それは、体から息を吐かないと外国語の発音ができないし、吐かないと音にならないからです。息を吐いてもらえば、その人がどのくらいの声で歌える人なのかがわかります(「ためしてガッテン」というNHKの番組で、外国人の息の強さ深さを証明していました)。

 

日本人のヴォーカルがなかなか伸びないのは、声に関心がない、声についてのトレーニングをしない、日本の言語が浅い発声で話せる言語であるということがあげられます。

 

 外国人は、幼い頃から徹底して声、発音を学んでいます。小さいときから日本語と違ってつづりと一致しない発音を耳で聞き、声を出してチェックされトレーニングします。

 日本人が発音や声を意識するのは、中学生の英語からでしょう。しかし、息は習いません。外国人の生活に密着した深い声のベースなしには、彼らと同じレベルの声で歌を歌うことができないわけです。

 

 つまり、歌う以前のベースの声から身につけるのが、このヴォイストレーニングの目的です。声、体、息と一つに捉え、深い声のポジションを保ち、体がしぜんに、声に対して使えることで、あたりまえに声が動くようにするのです。

 

この段階では、これまで固めてきたこと、まとめてきたことを壊す作業なので、歌はへたになります。短い期間に口先でうまく歌えるようにまとめてしまいたい人には、この根本にまで還るヴォイストレーニングは向いていません。

 

 しかし、このヴォイストレーニングでやっていることは、なんら特別なことではありません。一流の人たちなら誰でも持っている条件を持つためのトレーニングであり、彼らがどこかでやってきたことをトレーニングしていることです。

 

というより、彼らは歌のまえに、日常生活のなかで、このヴォイストレーニングをやっているといえるのです。一流のヴォーカリストたちにこのヴォイスのメニュをやってもらうと、誰もがクリアできます。

 

しかし、それが日本ではカラオケのチャンピオンものど自慢の優勝者も、多分、あなたもできないことなのです。その人たちが、アカペラでここで歌ったとき、1フレーズ聞いて、誰もアマチュアやカラオケのうまい人だとは思わないはずです。一声でプロだとわかるはずです。それを確実に手に入れるためにやるのがトレーニングなのです。

 

 

 本物のヴォーカリストと私たちとどこが違うのかと考えたとき、普通の人が絶対できないようなことをいともたやすくやっているとしたら、それはヴォーカリストの場合、すべてが体のなかにノウハウとしてあると考えられるでしょう。

 

プロのヴォーカリストとは、プロのヴォーカリストとしての体をもった人々のことです。日本人は、そうした体、声のベースをもたないまま歌うため、足らない声をくせでもたせられるように急いでつくってしまいます。これを発声とか技術と思っている人がほとんどですが、これは単なるくせです。

 

私の声は、そういう面では、すでにオリジナルなものです。あなたは、コピーできないでしょう。

今では、しゃべるところで、トレーニングになります。プロとしての体をもつ人には、こういう条件が整っているのです。

 

 このヴォイストレーニングで1年目にめざすのは、役者、俳優のレベルです。一般の外国人レベルといってもよいでしょう(一般の外国人は日本人よりはるかによくひびくよい声をもっています)。

 

条件としては、のどにかからず大声が出せ、2分間くらい叫んでいても、全くのどに異常をきたさないということです。音楽的にいうなら、3度くらいの1フレーズを10回やって一つも狂わないし、声もキープできるといったところでしょうか。

 

そうなると半オクターブくらいでシャウトできるでしょう。音程、リズムはつけなくてよいから、体、呼吸、声帯のコントロールができる体にすることです。音楽にせず、ことばのところで徹底したトレーニングと感情表現をやっておけば、ヴォーカリストとして必要なことの半分は解決できます(これは日本において声は役者の方が出るようになっているのに対して、日本のヴォーカリストの声は何年たっても素人と変わらないことからもわかります)。

 

 たとえば「ハイ」「あおい」ということばを同じポジションで体で一つに捉えてということができない人が多いのです。「ハ・イ」や「あ・お・い」とことばがバラバラになってしまいます。声よりもイメージの問題も大きいのです。

 

これはヴォーカリストでなくとも、役者や外国人ならできます。ここからスタートすることで、声は確実に深くなります。

 

日本人はことばを一つのポジションで、1拍で捉えることができません。日本語は高低アクセントなので、どうしても高低の音(音程)からとってしまいます。

 

外国人は、強弱アクセントで感じ、発声します。強弱で捉えるには、体を使います。強アクセントで発した音に他の音はほっといてもついてきます。ことばのフレーズがおのずとでき、そこからリズムや音の感覚もでてきます。つまり、すぐれて音楽的なのです。

 

「ハイ」「あおい」が同じポジションでいえないということは、楽器としての調律(体)ができていないということです。一つの音でも同じにできない人が多いのですが、それが半音ずつあげても、狂っていきます。外国人の場合はそうなりません。実際の歌ではどうなっているかをみてください。こういうベースができずに、本当は歌などはこなせません。

 

 よく腹式呼吸で歌うようにという人が多いのですが、これは声を習得した人が腹式、横隔膜はこんなふうに動いているということ(イメージの問題)であって、要は歌ったときに体がしぜんについていて、息を切りたいときにしぜんにお腹で切れればよいだけです。

 

息とお腹との結びつきを、より早く感じることができるようになるために、トレーニングするのです。トレーニングと歌は違います。トレーニングは歌うときにしぜんに歌えるために、それぞれが自覚をもってやるもので、柔軟や筋肉の強化など、さまざまなメニューがあります。

 

歌うときにトレーニングをやるのではないのです。最初、横隔膜や、背中の腰あたりに息が入るように体を動かしたりするのは、その感覚を意識しながら歌を歌うということではありません。お腹を使って声を出すわけではないのです。

 

人間が体を一番、効率よく最大限の力を出そうとして使おうと考えたとき、お腹を使おうという意識は動かないでしょう。意識したら遅れます。自分の呼吸にあわせ、楽に息を送っているときが、よい状態です。トレーニングのときに意識する中心が腰だということです。つまり、フォームです。

 

客観的な事実として、声帯やのどのしくみ、器官については楽器のしくみを知っておきましょう。わかったからといって、声が出るようになったり、歌がうまくなるのではありません。声とは、本当はのどをしめて、そのしめている部分に息をあてて出すものですが、最初からそういうイメージではうまく声が出てこないのです。

 

 ここのヴォイストレーニングでは、プロの体に2年分、近づけるように体づくりをめざしています。そのためにはトレーニングを1日も休まないのが大原則です。一つのノウハウを身につけようと思ったら、あたりまえのことでしょう。

 

スポーツに例えると、初心者がオリンピックに出ようとしているのと同じことなのですから、そのくらいの気力が必要です。そのくらいの気持ちで目標を立てておかなくては自分の理想になかなか近づけないでしょう。

 

 細かい音色の一つひとつ、フレーズに徹底的にこだわっていくことと、それらすべてをトータルにコントロールしていくには、第一に体力、集中力、気力が必要です。

 

ヴォーカリストとしてトレーニングを始めるにあたり、年齢は気にしなくてもよいのですが、気力、体力というものを、10代の状態でキープしたいものです。体のトレーニングですから、体力や柔軟性がある方が早く身につきます。日常の生活から、ヴォーカリストとしてのトレーニング以前の条件(体力など)を整えておくために、体づくりをしておくことです。

 

 声帯に関しては、個人差がありますが、二〇代後半から安定してきます。十代のうちは声帯が整っていないため、声が安定しにくいと思います。その時期は、一流のものを聞いたり見たりして、体と心のなかに入れていくようにしておくとよいでしょう。無理なトレーニングは、声帯を痛めかねません。

 

 

 歌を歌うとき、そのフレーズの長さ分の息が吐けないと、同じヴォリューム感での表現はできないのはあたりまえのことです。基本の条件としては、強くしなやかな体があるほど歌うには有利です。ことばを話すより、メロディがついて歌となったときの方が、より説得性がなければなりません。

 

音楽になると、高低の音程や音の長さがつくために、薄まってしまう人が多いのです。表現を出すためには、より体が必要となります。その上に、情感の表現力が問われます。

 

マヘリア・ジャクソンというゴスペルのヴォーカリストがいます。その10分の1でもヴォリューム感が出せれば、素晴らしいでしょう。距離は遠くてよいから、1フレーズでも1秒でも同じ土俵にのせることです。

 

一流の人が一つやるときに汗をかいたら、アマチュアはその何倍も、汗をかかなければおかしいのです。同じ土俵にのること自体の難しさに気づくことです。

 

 音楽は自己表現するという意味において、スポーツよりはオリジナリティと繊細さが必要です。そのためには、強い力をつけておくことです。頭で考えすぎると、計算が歌に出て通用しなくなります。ひたすら体に入れていって、しぜん体である、そのしぜんの状態を大きくするのが秘訣です。だから、時間がかかります。知らず知らずのうちに体や声が変わっていくのが理想です。

 

 音楽の世界は芸術的な表現の世界です。ヴォーカリストに表現したいことがないと、歌も成り立ちません。このヴォイストレーニングは、声の基本的な技術をつけるための材料は提供しますが、歌を教えるということはしません。歌いたいことがない人、出てこない人、わからない人が、歌を歌う必要はないからです。

 

表現したいことがあって、声の技術、体の技術が足りないとき、はじめてトレーニングが成り立つのです。表現したいことがないのに、声や体を身につけても仕方がありません。声が身についたらヴォーカリストになれると考えるのは誤りです。だから、それがわからない人は、ここで必死に見つけることです。自分や自分のオリジナリティの発掘に、ここは、とても適しているでしょう。

 

 

 表現するには、楽譜上のリズム、音程がとれていればよいというわけではありません。ピアノ曲を1音も間違えずに弾けたからといって、誰も感動しないのと同じことです。

楽譜をどう歌にするかがヴォーカリストの仕事です。体がリズムをきざみ、メロディ譜に表わせない何十分の一の音の感覚でフレーズを感じ表現に出していくことが要求されます。

 

世界の一流のアーティストの表現やそれを支える感性から学びます。最初は、自分の感覚とどれくらい違うのかを知ることです。イメージ、リズム、フレーズがすべて体に入っていなければ、決して表現することはできません。

 

一流の人の感覚を、聴き込んで体に入れていってください。決して楽譜の表面をなぞっていくような歌い方でなく、ヴォーカリストとして、声域や声量がなくても、一流の活動を成り立たせている人はたくさんいます。

 

ヴォーカリストとは総合的のもので、日本ではタレント性、アイドル性、知名度のある人でも歌う人はレベルを問わず、ヴォーカリストと呼ばれています。よい作詞家、作曲家に曲をつくってうまくプロデュースしてもらい、力のないところは加工してレコーディング技術で補えば、声量、才能がなくても売れていきます。これはこれで、ヴォーカルの活動として成り立つでしょう。

 

 しかし、こういうヴォーカリストは、トレーニングで何かを得ていく人にとっての目標にはなりません。支えられているものが違うからです。一般の人はその特性を得られないからです。

 

ヴォーカリストの実力は、声とその声をどう使っていくかという二つのことにおけるオリジナリティにあります。それを磨くには、心身一体となったヴォイストレーニングが必要なのです。

日本のヴォーカリストたちの多くは、本来のヴォーカリストの実力以外でアーティックな活動をしているので、活動していることには敬意を表しますが、トレーニングに関しては確実な力をつけない限り、通用しないのです。

 

 ヴォーカリストにとって「声」は必修です。ヴォーカルは闇のなかでも感動する、声の表現技術の世界です。そのまわりに、ステージングやファッション性があります。ただ、音が出せる、高音が出るというようなことは何の意味もありません。それではピアノで表現を宿らせないで、正しく白い音域を使っているのと同じです。まるでタイプライターを打っているようなものです。

 

業界の求めるステレオタイプ(同じ声、同じ歌い方のヴォーカリスト)をめざすなら、他の音楽スクール、カラオケ教室、音楽事務所に入った方が早道です。

 

声のなかにすべてのノウハウをつめこみ、感情を練り込み、一つの表現にまで昇華させようと思ったら、体、全身で受けとめなくてはなりません。時間がかかります。外国人のヴォーカリストたちが、徹底してやってきているところを手に入れるのは大変なことなのです。

 

 日本の音楽業界では、30才、40才のヴォーカリストが市場に出れる場も、あまりありません。私は日本にも「本物」を打ち出していきたいと思っています。

 

 

 声を身につけようとしているのにライブをしてよいかということをよく聞かれます。歌が音域をとりにいっている状態では、基本的なヴォイストレーニングからいうと、ステージ活動は邪魔になります。

 

特にこのヴォイストレーニングでは、従来の声の器を壊して1からつくり直すので、新しい声にとってはライブはマイナスです。歌うことが間違ったヴォイストレーニングだからです。

 

しかし、私は、ヴォイストレーニングとライブを切り離すよう求めています。

レーニングをしっかりとやり、声をもとに戻せるのにも、器用さ、個人差が大きいです。

のどを壊してでもいなければ、ライブも構わないでしょう。

 

最初は、発声に関しての間違いが致命的になることはないです。発声は、正しくやらないと上達しないので、何年たっても同じです。そのままつづけていくと、変なくせがつきます。高音を出そうとして技術がないと、のどが痛くなったり疲れたりします。あるいは、声量がなくなります。

 

いつまでも、しっかりした音が出ませんからわかるはずです。裏声にして抜いたり、あてたりして音に届かせることがトレーニングと思ってやっている人が多いのですが、それではヴォリュームが出ません。

 

外国人の場合は、日常の生活の上で基礎となる声の芯、ひびき、深い息がついていますので、声を出すことがトレーニングになりますが、日本人の多くはすぐにはトレーニングにさえなりません。声が中途半端のまま歌うことは、基本がないのに試合ばかり出ているのと同じです。上達できないのです。

 

 中低音になると、音が狂うのも、ポジションの統一、息のコントロールができていないからです。特に日本人の女性の場合、裏声や高い声で話す習慣がついていますので、中低音は不得意です。ヴォリュームのある胸声、地声をつくるのに2年くらいかかってしまいます。

これも1音から芯を捉えて、その上下2、3音ずつ同じポジションで捉えられるようにトレーニングしていきます。

 

 声の見本として、1960年代くらいのオールディーズ、ジャズ、ゴスペルやイタリア、フランス、スペインの歌などをよく使用します。イタリア人は体をめいっぱい使って歌っているということと、その頃の録音は、音響の加工がされていないので、体の状態を学びやすいからです。体や息、声がみえやすいものがわかりやすいでしょう。

 

 声楽家の体、ヴォリューム感に学ぶことは少なくありません。

 日本でも歌唱力のある人は、海外の影響を受けます。ジャンルが違っても、表面的にみえないところで声の扱いのノウハウは共通しているからです。

 

 アーティストの世界というのは、単純な世界です。要は、作品として価値があるかどうか通用するのかしないのかということだけです。個性、オリジナルが問われる世界です。声のことはすべての十分の一くらいのことです。私は、声のことを中心にやっていますが、残りの十分の九のことに音楽のこと、オリジナリティから徹底して見るようにしています。それは自分の生活のなかからやっておくことです。そうでなければ、自分の声のゆくえもわからなくなってしまいます。

 

 それとともに、耳を養い、自分で解釈し、構成し、表現することです。細かいところに徹底的にこだわっていける人、そこに価値を感じ、持続していける人が、ヴォーカリストの道を歩めるのです。

 

 声や歌を一生かかって深めていこうとする人には、その材料がここにあります。

世界をめざすくらいの気迫でやっている人が一つの世界を築くことができるのです。

 

私はここで5年に1人、あるいは10年に1人でも育てることができればよいと思っています。

 V塾は、自分を問えるところです。そこで限界を感じてもよし。自分にはそこまでできない、そこまで歌が好きではないとわかるのもよいでしょう。

この程度のことは、楽にトレーニングできると思ってもよいでしょう。ここのヴォイストレーニングと自分との明確な接点をつかみ、それをずっと離さないでいられるなら、ここで学ぶ価値は大きいものと思います。