一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想    547

レッスン感想     547

 

 

さすが③のクラスは「ことばをしっかり言う」なんてことはクドクドいわないのだナと感心。

 

「たかく」でKの子音をうまくとれず、それで声が崩壊して歌にもならなかった。

 

限界を痛感。体の準備は最初の発声でしっかりやっておいて、後は「歌う」ことをやる。「歌う」に集中できると、ストーリーを想像することが当然になり、そうすると、おのずと立ち上がりも決まる。

 

私の音声イメージの育て方=とりあえず、体の中心で握りこぶしを握ったような音をつかむ。後はそれに私の歴史や人格や聞いてきた音楽が、すべて盛り込まれているような豊穣さにする(うーん漠然)。

 

 

息吐きの練習が苦痛でなくなった。トレーナーが「快感になってくる」とおっしゃっていた。それを信じて楽しみなからがんばろう。

 

胸でひびいているが、のどの方がよりひびいているように感じた。今日は最後で少しだけ「よし!」と思えるだけ身体が使えたが、ほとんどの時間は納得いかなかった。柔軟体操、気持ちがよかった。学生時代のときのように、身体がうずうず動きたがっている。どんどん動かしてあげようと思う。

 

二つのフレーズをつなげる場合、一つめのフレーズの最後の音が浮いてしまうとスムーズな流れができなくなる。フレーズの練習は下記のように考えて行なう。

点にしない→線にする→太い線にする→線を動かす。深いポジションがつかめなくなったら「ハイ」を言って、それと同じイメージ(深さ)で捉える練習をする。「でかける」の「る」が深くとりづらい。”い”と”う”は深く入れにくいので練習が必要。

 

息の根をつかまえる。これはものすごく低い音でヘビーに出る。半音下げると息まで吐けなくなるような。かなり体を使う。この深いところでつかまえた1音を半から1オクターブに広げていく。このことに関して急がないことだ。

 

 声を変える、体を変えることは容易じゃないということがわかった。今日は久々にこれだ!って感じだった。息の根をつかまえるということは、ヘタしたら口先で息吐きをして、ただ単をこなすだけだった自分にすごく体からショックだった(まだまだまだ、息が高いこと、声にできなくともいいから根をつかまえることを指導された)。ここでなんとか低く吐いて、それを胸に息、声で入れようとすると、自分のウイークポイントである、のどのカミナリのようなひびきを消して胸にひびく(のどもひびくが、胸の方がひびく)ことができた。

これはもしかして、すごいことじゃないか。この根をつかまえようとしていて、自分が真ん中のドで出し初めるとき、いかに高く、口先で息を吐いているのかがわかった。

 そしてのどの調整にものすごくいい。いつもは出し終わると、結構のどにくることがあったが、今日は逆に出しやすくなっていた。これはすごいことだ!

そして、いつも自分はいかに音のなかで狭い視野で体づくりをしていたんだろう、ちょっとストイックだったとも思った。ホントに声が息にのったかんじだった。

 

 

自分がどうして歌いたいのか、どうやって歌っていってどうなりたいのかよくわからなくなってしまって、ぐちゃぐちゃ考えている間に実習の日が来た。出るのやめようかと思ったりもしたけれど、出れば出たなりに何かがわかるかもしれないという気持ちだった。

自分で歌っているときに「あ、多分、今みんな退屈している」と感じてしまった瞬間があった。ガムシャラに歌っている間の一瞬の”すきま”のような自分をぶつけられるような曲を選んだけれど、それを聞いて周りはどんな反応なのか、もっと敏感に感じられるようになりたい。それがないと本当にただ一人で歌って(叫んで)いるだけになっていく。

 

”ハイ、次の人”“ハイ、次の人”ってどんどん進行していくなかで、自分のところで流れが止められるようにしたい。私はこうなんだ、こう言いたいんだってことか、もっともっと曲の中に凝縮して表われるようにしたい。人前で歌うと、うまく聞こえるように努力してしまっている。私は、今までの自分を壊して新しくつくることができていない。やっていない。正直、どうやって壊していくのかよくわからない。うまくまとめようとしたり、うまく聞こえるようにしなければいいのだろうか?それより今までの自分はどんなものなのか、ただ発声してうまく歌えるようになって歌って、ということじゃなく、もっとはっきりしたものを見つけなければ、見つけてたつもりだったのに、何をいまさらいってるんだー。

 

もっともっと息を吐ける体をつくること。体という楽器ができていないと、迫力のある歌が歌えない。一流の歌を聞いてそれに合わせて歌っていると、少しずつそれに近づいていく。ため息を吐くときに少しだけ声になるところ、それを忘れず、大きく広げていく。

 

福島先生の息の長さがすごい。自分は福島先生の3分の1も吐けない。どにかく息がたくさん、そして深く吐けないことには、身につかない、そんな気がした。まだまだ金然、息が吐けない。くやしいくらい吐けない。もっともっと、日々の練習が必要だと思った。

 

ルーという発声がこんなドラマティックで大変なものだとは思わなかった。ルーという声を出すのにこんなに集中して表現しようとしたのは初めてだ。自分の場合は、今日の授業で声を出す以前の問題が結構、私には残っていると改めて感じた。

 

福島先生の声というか歌を初めてこんなに近くで聞いた。話し声は聞いたことがあったが、あんなに大きな声で発声していた福島先生は初めてだった。福島先生は出す声に非常に集中しているようで、一つの呼吸も逃がさず声にして表現しようという迫力が感じられた。私は福島先生ほど汗をかいていなかった。こんなの絶対、変だ。生徒の方が本当はもっと呼吸に集中して表現しようと努力するはずなのに、私ももっともっとかんばろう。

 

スーザンオズボーンの声というか息は、とてもわかりやすく、そしてとてもうらやましい。本当はできるはずじゃないか?と思った。ただ呼吸しているだけだと。これまで生きてきた課程のなかで失ってきてしまったのだろうか?深い呼吸。深いため息。ああいうふうに声を出せばのどなどしまるわけもない。でも体の力はかなり必要なのではないだろうか。今日の実習のため息から声にするやり方は、のどを開くのにはとてもいいやり方だと思った。

 

息が途絶えたら、声も途絶える。なぜ、無理に声だけを出そうとするのだろう。変えていかねばならない。息と声をうまくミックスさせることができず、どちらか一方になってしまうので、今日のようなトレーニングをもっとする必要がある。

 

日々、呼吸のトレーニングも自分のやり方でやっているか、そうとうやらないと先生やスーザンオズボーンのようにはなれないと思った。また気か遠くなってきた。少しくらい大きな声が出たとか、その程度のことで喜んでる場合じゃない。果てしなく遠く目標に向かって歩いている気がする。先生がナビゲートしてくれる。私自身が努力できるかできないかだ。

 

歌のなかで歌うということと音楽のなかで歌うということの違い。肥えた耳で聞き分ける力。つかむところでつかめているリズ厶感。音声イメージのつくり方。全然ふみこんでできていない。メリハリがなく、声のコントロールもなく、心がこもっていない。構成というところまでいけてないので、できない。結果がすべて。時間との闘いというこの世界では通用しない。もっと向上心や意識を高く大きくしたい。これしかないと思うベストを、与えられた自分の時間に出しきることができるかどうか。

 

「プロの1フレーズを私たちが真似ても、歌に聞こえない→どこまでが「歌]なのか?」これはレクチャーで聞き、私にとっての大きなテーマとなった問題だったのですが、その後、福島先生の言わんとしたことがよくわからなくなっていました(おそらく、その場ではわかっていも、普段そのような聞き方をしてなかったためだと思います)。あいまいだった自分の目標、指南が、これではっきりわかりました。

 

演技では棒読みに聞こえないように(話すようにセリフを読む)訓練をする。歌にも、棒うたに聞こえない、会話をするときのような気持ちの伝わる歌い方の訓練、もしくはいろいろな歌手の聞き込みがもっと必要だと感じました。また、ただ単に一通りのトレーニングをするのではなく、イメージした声がでないという自覚→声を出すための息が出ない自覚→息を出す体力づくり、と必要なトレーニングを常に自覚しつつ、こなしていく作業をしなくてはならないと思いました。

 

高音部に入るときに線が上に上がらないようにすること。ラララの音をとるときに、流れ。なかで捉えること。ひびきをコントロールすること。高音部に入ると、胸のひびきが上に逃げる。流れで捉えるのがとても下手である。

 

イライラがつのる。風邪をひいて鼻がつまっているせいではないと思う。1フレーズで人と違うことをしたいのに、自分のが他の人と違って聞こえない。それなりに毎回、まわってくる度に考えてやっているのに、そう差はない。フレーズはもう歌のすぐ側、これでは1曲歌っても、そう違わないのではないか?そんな考えにとりつかれて、足がカウントをとってしまう。それにしても歌というのは本当に難しい。正解がないから。自分にとっての正解はある程度あるけれども。

 

「さよならパーティ」に出席させてもらったりして、上のクラスの人たちの歌やトレーナーの歌を間いて、自分がここでつかみたいものは何だというところが見えてきた。一つは声のポジショニング。もう一つは呼吸の上に声をのせる、息あっての声にするということ。それがつかめれば、自分の歌が変わってくると思う。皆、それぞれが自分の正解に向けてがんばっているようだった。

では、人の心を動かすものとは?結局、私がやりたいのはそこだと思う。ただカラオケの好きな普通のおばさん-私の母に聞いたとしても「こっち」と、きっと本物を当てる。魅かれるところは共通だと感じる。そこをつかみたい。とても深刻な気持ちになる。

 

2年後の自分…それはここの単位だけれども…を考えると「誰も何もしてくれないんだぞ」ともう一度、自分に言い聞かせねばならなくなる。この空気に慣れつつある今、「進歩できない、変われないかもしれない自分」の影におびえ始めた。がむしゃらだったときには考えもしなかった。何をしてても時は過ぎる。私は今、私自身を不安な気持ちで見つめている。

 

どういうふうにフレーズをくずしても、必ず合わせてるところがきちんと合っていて、ことばを離さない。どこで合わせる、くずすか。実際にやってみることをたくさんしないと、そういう感覚がついてこない。自分で歌った直後にスサーナを聞くことを何度もしたので、数秒のフレーズのなかでの動かし方で、深くも浅くもなることや、いかに感情がつくかが、はっきりした。サビから戻るときに声を変えているというようなこともすべて含めて、今は頭のなかで考えてしまう。これを、体で感覚でできるようにならなければいけない。

 

構成をつけやすい曲だったが、頭で思うほど、簡単にいかなかった。あまりにも棒のようなフレーズになってしまう。うまくはまらない。体がないからというより、ことばで動かしたくても、自分のなかに幅がなく、ワンパターンになってしまう。小学生が音楽の時間に歌っているふうになっていた。そのために、一つのフレーズをしつこくやること。音声のイメージはつけやすかったけれども、コトバと連動できない。はまらないというより、くずしたり、離したりできず、単純になるか、または遅れてズレっぱなしになるかのどっちかであった。このことを絶対にあいまいにしてはいけないと思っている。

 

体の使えるポジションで声をとること。それを放さずに流れをつくる。ぶつ切りにせず、ことばを1かたまりに捉える。歌い終わりにも流れが感じられるように音声をイメージする。二つのことばをつなげるにしても、声の芯をしつかりつかんで途切れさせない。ことばを本当に伝えようと思ったら、しぜんに強弱がつくはず。その音声イメージを大切にすること。

 

ことばを音にのせたときのフレーズ感みたいなものはわかるようなわからないような。実際、声を出してみると、うまく表現できなかったり…。でも先生が「トランペットでも尺八でも」って言っていたことで、私も楽器をやっていたから、結局、音(声)が基本で、それは野球選手の体力でそれかどれだけ使えるかってことで、それは演奏する曲の譜面では、スタッカートだのアクセントだの強弱記号だのという部分、ヴォーカルが自分自身のなかからどれだけ表現できるかってことなのだろうと思いました。あたりまえのことだったんだろうけど、すごく捉えやすくなってきた気がする。

 

「確かに自分は音楽が好きなんだろうけど、何か違う」と感じていた。結局、自分にとっての一番の楽器が声だったということなんだろうけど、私はまだまだ「ただ」歌ってしまっている。それじゃあ、運動が趣味としてのマラソンや登山にすぎない。要するにカラオケになっているかもしれない。本当に歌うというのは「表現する」ことだろう。体が使える上に「表現する」ができるんだろうけど、体が使える声が出せたらそれだけで満足してしまいそうな気がしてくる。そうすると、自分にとっての歌が、何物なのかわからなくなる。自分にとって歌うということが音楽なのか?ただ声を出していたいのか?でもやっぱり私は歌いたい。そのことと、自分のなかにもっているこれからの方向性から、答えはしぜんに出てくるんだろうけど。

 

曲のなかのごとばのイメージをしっかりもち、ことばの語尾をやたらに伸ばしすぎない。ひびきの縦の線のイメージをもつ。横のひろがりをおさえる。ことばの山(流れ)を自分なりにきちんともつ。ことば(歌のなかでの歌詞の流れ)をきちんと考えてメリハリをつけなければだめだと、とても今日は思いました。

 

 

個人練習からグループレッスンになっただけで、ことばが6倍くらい浮き上がってしまい、深いため息の上にことばを乗せることも焦ってしまう。集中力と緊張を、ていねいな心でもって口先で逃げようとする自分に待ったをかけていく。これから必ず、目を開けて姿勢をきっちりとって歌っていく。そうやって自分を解放していく努力をする。

 

トランペットを吹くような感覚で音声イメージをもつこと。曲のサビをしっかりつくる。サビ前はことばでもっていけるが、サビはことばかメロディかどちらかを選ぶかでかわる。最初は日本語から離れて原曲に忠実につけて、それから日本語に合わすようにくずす。息吐きをやることとフレーズを言うことのつながりがあること。

 

授業が始まる前に体をほぐすということ。皆、それぞれの柔軟体操をしてた。入って半年くらいの人の声がどんなものか。声の出し方(ことばの言い方)には、それぞれクセがあるということ。

 

 

今まで何となくで済ませてしまっていた自分。何事も意識しながら確認しながらトレーニングし、常に疑問をもたなければ…と思った。今回、改めて、ふだん腹式について何も意識していない自分に気づいた。空気をお腹にとどめておく力がない。

 

体づくりと発声は、厳密には違うのだということ(どこがどう違うのかまでは理解できなかった)。息を吸う、吐くという動作に伴う体のしくみ、動き。呼吸のトレーニング方法。

 

息の圧力や量、出す体の深さを音の高低で変わらないように半音半音高い方、低い方へ伸ばせるようにしていくことが体づくりになる。体をつくりつつ声を出すということ。少ない息の量でいかに体を入れて吐けるか。私は感覚派、体感派なので、つい説明や講義だと聞いている自分と全くあさっての方向のことを考えている自分と行ったり来たりして、あまり身につかない。ひたすら「あ」や「はい」の声を出し続けてつかんでいく方だ。

 

説明を聞くとわかった気になるのが一番恐い。実際体でつかんでいきたい。もともとのここのところをもっているか、いないかで年をとってからのステージや長時間のステージで違いが出てくると思う。結局、声のパワー、説得力は歌のうまいヘタでなく、それ以前に存在するもので、私はこの「声」で少しでも自分の心に届いてこないものは聞けない。

 

胸の一点に声を集中させるとき、同時に眉間にも意識を集中する。声の流れが眉間から前に出るようなイメージでいた方が、胸に声を集めやすい。後頭部の後ろ側にひびくように発声する。このとき、脳天に手を当てると軽く振動しているのがわかる。低音を発声しているときでも、のどを開けて眉間と脳天の方にも声を流す。胸のひびきの比重を多くするように。のどを開けることを意識して上のひびきに気をとられると、胸のひびきが少なくなってしまう。

まずは、のどを開けることを無意識にできるくらいにならないと、胸のひびきを多くするような余裕がない。眉間をひびかせることは比較的、やりやすかった。脳天の方のひびきは、のどをしぜんに開けられるようにしないと難しい。このとき、必要以上に息を上に当てると、のどを痛めてしまうので注意しなければいけない。

 

胸のひびきを意識しすぎると、胸をひびかせるというよりもひびきが落ちているような感じになる。息をしぜんに上の方に流すようにした方がいい。胸のひびきと頭部のひびきをミックスさせて声を出す。どちらのひびきを多くするかで、その人の特徴になる。ゆっくりと深い息で呼吸を繰り返し、その後そのポジションのままで声を出す。

この方法は体をリラックスできる。胸のひびきを意識しすぎてひびきがおちるということは、自分はすごく当てはまると思う。今は、のどを開けることを意識して、しぜんに声が出ることを重点的に練習した方がいいように思う。ゆっくりと深い息で呼吸しているとき、特に息をゆっくり吐いているとき、体の緊張がとれるような気がする。この動作を日常の生活のなかでときどきやるようにしようと思う。

 

初めて輪唱をしてみた。人の音に惑わされないで歌うのは難しい。母音も難しいが、がぎぐげごやぱぴぷペぽなどはもっと難しい。

 

ジムには初めて参加しましたが、家では実際に声を出すところまではやれないので、息から声までの流れをやれて、有意義でした。

 

目の下、鼻、頭のテッペンの震えを手で感じてひびきを確かめるチェック法。何が伸び悩みの原因なのか、今までの、ノート、会報などなど、読み返して今までのやり方を洗い出してみること。

 

人前で発声をしていくと、普通の「アー」さえ、まともに出せないことがすぐわかる(人の声を聞けるのはすごくいい勉強)。くやしかった。

 

コーラスは人の声とからむので、どれだけの声を出せばいいのかわからず難しい。人の声を聞かないでやるとはいっても、人の声を聞いて即座に判断して歌えるような力をつけたい。先の音が考えられれば音程はとれるが、瞬間的にとることができない。人の音を聞いても、自分の音がゆれないようにしたい。

 

息をゆっくり大きく長く吐く(吸う)ときは、吐ききる(吸いきる)ときにしっかり体を使ってふんばる。なお吸う、吐く。普段、使わない肺周辺の筋肉を柔軟をさせて、呼吸の幅を広げる。

声を強く出すとき、たいていのどがカスれたり、のど声になる。そこでまた深い息を吐く。その体、そのポジションでまた声を強く出す。その繰り返しで体に覚え込ませる。つまり、深い息、それを支える体と強い声との結び付きが一つ、わかった。

体のクセをとるトレーニングでは、深く吐くことによって、絞り込まれていく体、つまり元の体の全開まで出しきることから、その元の体からより大きく吐けるように体(肺の運動量)の使える幅を広げることを学んだ。

 

声を強く出すことでのどがカスれた。そしてのどなり、のどにひびくのがよくわかるようになった。鼻腔共鳴、胸部共鳴の実践が急務だと思った。そしてのどにひびくことは単純にのどに力が入ってるってことでもあるから、意識してのどをなくすようにしてもやはり力が入ってるのだと思う。だからこそ、そこを抜いていく。体で声を出す、受け止める意識をこれからはホントに声を出すときは常に意識しなければ。

 

音がとりにくいとき、和音を感じること。ファシやレソがとりにくい。シンコペーションはやや大げさに思えるくらいやってちょうどよい。わかりにくければタイをとってみる。メリハリ(アクセントなどの)をもっとつけたい。こういった階名で歌うものとことばで歌うときの声が違う。

自分の出やすいところは、上のソまでと下のレまで。この授業は大切にしたい。正確にとれることが大切。くずずにも、まず、もともとのしっかりした地盤がなくては。

 

ことばの練習の必要性を再認識した。ことばを読むことによってしっかり声にすることを練習する。声を大きくしたときに、感情表現がくずれないように。あとは自分の声をよく聞き、クセをとるように努力すること。クリアな声をさぐる。

 

そのままではくしゃくしゃで使えない風呂敷(=横隔膜)を広げて使えるようにするための理勤。低い息も吐けないくらいのところで体を入れる。息か吐ける方向へもっていく。吐くときに敢えて吸ってみることで横隔膜の張りを支えにもっていく。低い音を出すように高い音を出す(息)イメージ。イメージがあっても体がついていかないのは、そういうクセがついているからだろう。クセをとること。すべてを壊して再構築する力。

 

眠るときに以前はかなりお腹を意識したりトレーニングについていろいろ考えて眠れないこともあった。今はというと、寝ころがったが最後、すぐに熟睡してしまう。単に年をとったのか。

 

欠けているのは精神のコントロールだ。東京の空のオリオン座みたいだ。見えるのに見えない。自分で作った箱庭に「狭い」とぐちをもらしているようなかんじ。もう一人の自分はかなり強いことを言う人で「それがおまえのお腹の底なのか?今の『ハッ』はどっから出してんだ?」と言われて、声が出せない瞬間が2回あった。

 

初見でできるようになるまで、毎日練習して2年かかるといわれ、驚いた!完璧にできるというより、楽譜をみて曲の感じがつかめて1回聞いただけで歌うことができるようになりたい。音そのものの感覚というより音の幅(3度とか)を覚えこみたい。

 

すべてはシンプルに考えるべきだということ。トレーニングにおいては”できたかできないか”それがすべてだし、

体もシンブルにまとめられる。また、表現、伝えることが最も大切なこと。そこからすべて始まらないと、本末転倒になってしまう。また、単純にどれだけ自分と格闘して卜レーニングしたか、何かを創り出したか、そしてそれを人は感動できるかということ。自分はすでに本末転倒状態だった。声(からだづくり)に気を使ってばかりで、もっと素直なことをしていなかった。

 

今きちんと、自分が歌うこと、歌う意味、そして伝えるには何が必要か、その声のイメージなど確認したい。同時に感動したことをしっかり記録にとって、分析していこうと思う。だからといって、内にこもってしまうようなことにならず、魅力ある人間とつきあっていきたい。

 

久しぶりに福島先生のレッスンに出ました。歌とは何か?まだまだ何もわからずにいるので、いつもいつも同じことになってしまうが、やれるところでやっていくことかと思った。最低1年ぐらいは何か(歌のことだが)やっていかないと何もいうことがないのではないかとも思った。疑問(きちんとした)など。それでも人によっては2年かかるかもしれないし、とにかくまだ1ヵ月目なのでなんとも言えないと思いました。もちろん、この1ヵ月も人によってさまざまだと思いますが…。年月でいいわけするつもりはないけれど、とにかくやるのみか?と…。

 

課題曲などで、この曲で一番言いたいところは?と考えると誤解していることもあり、あまりにも自分とかけはなれていてここが言いたいのだろうな、とわかっても実感としてわかない。自分の好きなアーティストで、その人のことをよく知ってたりすると、1回聞くだけで一番言いたいところは、すっと心に入ってくる。今日から「向かい風ならもっと胸をはろう」と思った。

 

声のイメージをもっとつけなければ。カンツォーネはとてもわかりやすい。特に個人的にはビルラがわかりやすくて好きだ。のどか開いて声が出ているイメージをもっともたないといけない。体も使えているし。低音でポジションを深くとって胸についた声というのをイメージをもってそういうふうに出す、ということをすすめている人がいて、とても参考になった。みんないろんな切り口で、やり方でトレーニングをすすめてるんだと知った。

 

 

最近、思うことはトレーニングは、ただ時間をかければいいというものではないということ。むしろ同じ効果や結果が出るのであれば時間は短い方がいい。みんなより速く上達したいと考えるなら、無駄なことをできるだけしないことだ。みんなだって同じくらいトレーニングしているのだか!ら…。日々トレーニングをチェックし、反省する必要があると思う。

 

数多くのレッスンに出てわずかなものしか得られないなら、ときどきしか出席できなくても得るものが多くある方がいい。数多く出て数多く得られるのが最もいい。一定の緊張感をもってレッスンに出ているだろうか。初心を忘れていないか。先はきちんと見ているか。

 

みんなでいっしょに発声をやっているときに各個人の声を聞き分けて、誰のどこが悪いかまで聞き取っているように感じた。自分のレベルを高めるためにも耳がよくなることがとても大切だと思う。今の自分は、まだ自分自身の声の判断すらうまくできていないように思う。

 

人間の体はすごい。私の体はすごい。何て複雑にからみ合って、私の知らないところで頑張ってくれているのだろう。生きていくために息を吸い、息を吐く。それはしぜんなことである。声を出すことも本来だったらしぜんに出したいものだが、そういうわけにもいかず、押さえて小さくして装って、こうして私は本当の声を忘れてしまっている…。観て、何でもできるような気がしてきた。まだまだ使われていない機能を目覚めさせ、自分を輝かせたい。声を磨きたい。そして、もっともっと自分を愛したい。
 

 

 

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課題曲レッスン感想

 

途中の”愛の部屋はすでに”という部分で音的には上から徐々に下がってきますが、そのなかで一番高い”愛の”の”あ”に、高い音だし体を使ってポイントを置いて…などと思い歌ったあと、先生が“最初のあに重点をおくと広がって(流れて)しまう”とおっしゃって、はっとしました。私は体を使うんだ、きちんと声をとるんだとそればかり(声のことばかり)でいっぱいで、表現、ことばの意味、流れということを少し忘れていたなあと.思いました。

 

「やさしいヴォーカル入門P69練習曲2」小節ごとにフレーズをつくるかんじで、一つひとつの音に気をつけてリズムを流してアクセントをつけて出していく。出した声は、お腹からのものか。一つひとつ音を切らない。2段目のソからファにおりるところで、おりきれていないので、その後がくるってくる。何度もやればできてくるが、バッと言われてやったとき、どれだけ集中できるか、譜面とじっくりつき合えた。あながあくほど見ても、音符は動かない。自分がいかに命を吹き込められるか。

 

グループレッスンにおいても、自分の問題点、レッスンの内容、周りの人の声をイメージのなかで総合して、自分のペース、目的を達成していくことの大切さ。二番、出やすいところでは、目いっぱい出すこと。体、息、声の一致しない場所では、息を吐いておく。これをやると体が開いて、次の道が開ける。一つの練習フレーズ(「ハイハオララ」でも「アエイオウ」でも)のなかで息を吐ききること。これは実際に歌うときにダイレクトに通じる。

 

「あーものよ」でやったような大枠の流れ、曲を骨組みのところでまず捉え、息を流し、そのなかでことばをつかんでいく。深いところでつかまえたものをことばの終わりまで離さない。エンディングの処理の甘さに通じる。(ワンフレーズのなかで完成度を高める(何度も言われてきたことだが)。

 

島唄」ポンと聞けて嬉しかった。思いもよらなかった。去年の3月「島唄」が生まれた場所へ行きました。そのときのことがよみがえってきた。本当に”海よ宇宙よ神よ生命よ”というかんじのところでした。

 

半オクターブもないフレーズでも、こんなにできないものか。意識すればするほど、お腹の底からではなくて、上っ面だけで出していることに気づいて、がっかりした。自分は口先だけで歌っていたにも関わらず、多少の自信があったことに恥ずかしく思った。何回も通っているのに、自分は何を課題にして何を学び、何を達成しようとしているのか?一番、考えていてあたりまえのことが、おざなりになっていた気がした。

 

ノンソ”マイ”つかみのことば。ラーミア ソー 一つの息、一つの体で踏み込む。あとの部分は歌いすぎない。ここで踏み込まなければ棒読みになってしまう。音声イメージの流れが出ないと音は点のつながりでしかなくなる。音と音の間をいかに聞かせるか?いかに呼吸で展開していくか?体におちなければ線にならない。音色の展開も考えなくてはいけない。たった1フレーズのなかに、山ほどの課題がある。ましてサビの部分になると、しっかり課題をクリアしておかなければ曲とじて成り立たない。いかに、今まであいまいな取り組み方をしていたかが浮き彫りになってしまった。

 

ラーミアソーの部分を一つの体でという部分。頭は理解しているのだが、体が動がない。体に入らない。心がでない。表現以前に、もっと体からわきでるような1フレーズを発していかないといけない。フレーズでなく点のつなかりでしかなくなると言われたとき、図星が頂点に達したような気持ちだった。今までまさにそれだったように思う。これから体でのフレーズづくり、息でのフレーズづくり、そしてことばでのフレーズづくりというこの3つの課題をしっかりとクリアしていこうと思う。

 

自分の楽曲に対するイメージづくりが貧困だということを強く感じた。今日の曲は、私にとってとても難いものだった。ランポタン セラクーズ ランポタンの繰り返しも、プロが歌うのを聞くと強弱のつけ方やフレーズの変化などで、単調とは程遠いものに感じられるが、いざ、自分で歌ってみると、なんとも平坦なものになってしまう。これじゃいかん、と途中で先生が聞かせてくださるプロの声のイメージをつかんでやってみるのだが、やはり平坦。また、メリハリを意識してリズムがバラバラになってしまう。部分的にきっちりとおさめる練習をしていかなくてはいけない。

 

 

 

 

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ライブ実習感想・BV座感想     

 

 

今この歌を聞くと、黒人の差別だけでなく、もっと身近な日本で、いじめによって自殺した子どものことなどを思う。しかも、少しもめずらしいことではなくなっている。肉体的に傷がなくても、きっとこの歌のような精神状態だろう。黒人は、同じ立場の人がたくさんいて団結できるけれど、こういう子たちはいつも一人ぼっちなのだ。というようなことも考える。少しだけことばを変えた。

 

リラックスした状態ではできたのだが、その分、芯が通りきっていない曲になってしまった。強さがあって、弱さが表現できるするどさがあって、やさしさが表現できるという先生のことばに、胸を打たれる想いでした。ヴォイストレーニングで得た強さの部分をもっと前に出さなければ、小さなワクのなかできれいに歌ってしまうだけになる。一つのことばのねばりと、ほんの一瞬のリズムをくずすことなど、もっと自分を出すための勉強をしなければいけない。

 

誰に向かって言っているのかがわからない、と先生に言われてガク然としだ。本当にその通りで、ここで一所懸命、言っているけど誰に?こんなことがはっきりしていないなんて。なぐられたような気がした。

 

自分が人の親になるまでは、中国残留孤児の人が毎年来ていても、気に留めなかった。こんなにまでして、自分のルーツを求めるというのがどういうことなのか、考えなくてもすんでしまっている。TVで、あれは我が子だと思っても名乗れなかった人もいるだろう。我が子として育てたその子に、日本の親に会うため送り出す養父毋の人たち。養父母が本当に大切に育ててくれたので、二人が亡くなるまでは日本に来れなかった、行きたいと言えなかったという人もいた。なまじ平和のなかにいたら、親子で殺し合ったりしてるのに。でも、こういう人たちがいるということじゃなくて、感情を私は表現したい。

 

おじぎなんか誰にでもできる。それ以上のものが何もない…。マナーとは相手に自分の姿勢を示すことなのに。

回を追うごとに、お客さんの存在を意識できるようになっているのに、終わってみると、とても自分を小さく感じる。向かっていっていない。縮こまっているのだろうか。

前に先生が「空気を動かす」とおっしゃっていたことを、ずっと思っている。

そんなことができたら、やっていて手応えを感じるはずだから、それがなかった私は、できなかったのだと思う。

 

 

独特の芸風でこちらを引きずりこんでくれ、緊迫させてくれる。その人のように、妖気みたいなものを発する何かがないといけない。何もないまま、歌っている自分が許せない。

 

ステージには流れがあるということがわかった。人間が呼吸をするように、その場も(ステージも)呼吸するのだと思いました。呼吸が止まることもある。その呼吸が止まったときは、けっこうショックだ。私も自分のステージや他の人のを見ているときの態度などで、その呼吸を止めてしまっているのではないかと考えると、歌いたくなくなってしまう。今日は、ステージの呼吸を感じとるいい勉強になりました。今日悪かったところ、全くもって練習不足でした。

 

自分の創った曲だったらウソはでないだろうと思い、1週間前に書きました。この1週間、私は何をしていたのだろうか、やらねばならぬ、ということは十二分にわかっているのに、じっくり曲にしっかりしっかり取り組むことはできませんでした。当日になっても、最初の音を間違えるほどでした。そんな状態だったので、ライブ実習でもウソつきだらけでした。歌詞も言いたかったところを間違えて歌って、歌詞をごまかしたりしました。5ヶ所ぐらい違う歌詞でごまかしました。練習不足からくる不安というか緊張もあって、今までやったなかでも一番、緊張した。結局、私はウソつきだらけの人間なのです。歌に人間の姿、歌っている人の心が映るとしたら、私の歌は全くもって、みにくいものです。私はこんな人なのです。

 

私は本当に歌が好きなのだろうか。私は今「歌がとーても好きだ」とニコニコしながら言うことはできません。ここに私がいていいのだろうか。でも明日も私は歌うだろう。あのときの感動、あーなりたいと感動したあの日、初心の気持ちを絶対、忘れてはいけない。自分の歌に磨きをかけるためにも、もっと私は、自分がなぜ歌うのか、突き詰めていかなければならない。そうしないと、深い深い人をあたたかくさせるような歌と声は、私には与えられないだろう。

 

歌の終わりの終わりを大切にしたこと。自分が声を出さないときも、伴奏の空気に身をまかせ、ピアノと自分の声が離れたものにならないようにと、一応、注意したこと。でも今日は、ことばもはっきり言えなかった。体的なこと…上半身に力が入っていて、ガチガチで、うまく体が使えませんでした。お腹の下の方にもっと空気を入れて、しっかり止めて歌わなければいけないのに、上半身に力が入っていたので、下の方まで空気が入りませんでした。そして、ちょっとしか空気が入らなかったので、息が全く続かなかった。もっとフレーズを大きくしたかったのに、ダメでした。支えるカもまだまだありません。

 

私は今までトレーニングしてきて悩んだことがない。練習で行きづまったり、もう歌いたくないとかロック聞きたくないとか思うことはたくさんあるけど、力がないことはわかっているし、やるだけやらないと悩んだって仕方ないと思うから、人に相談したいと思ったこともないし、自分は他の人と比べてどれくらいなのか気にかけたこともない。うまくできなくて、ちくしょう、ということはしょっちゅうあるけれども、それは別に悩みではなかった。できないのはあたりまえだから、ただ前回よりもよくなろうということだけだった。失敗しても、それも自分の実力だから悩んだりはしなかった。

でも、今日、初めて、しゃがみ込んでしまいたくなった。どうしてだかわかりません。一体、何をやっているんだと思った。ここに何しに来たんだと思ってしまって、力がないのに、私には力がないと言ってしまうことは卑怯だと思うけれども、そんなことを考えてしまって、帰りに涙が出そうになって困った。

 

家へ帰っで、3大テノールティナ・ターナーとクイーンのライブのビデオをたて続けに見たら、つくづく私はエネルギー不足だと感じた。理由もないのに息切れするなんて、甘えてる証拠である。

先生に言われように、初心に返って自分がふくらんでいかなければと思う。また出直す。あんなことで泣きそうになっておきながら、ビデオ見て「何であんなふうに思ったんだろう」とすぐ変わってしまうなんて、ばかじゃないかと思った。こんな軟弱なことじゃどうしょうもない。もう一度、やります。要するにたるんでいたのだと思う。

 

自分を問い詰める手を絶対、緩めてはいけないこと。

このまえから先生が初心に戻れと言われる意味が、今日の自分を振り返るとよくわかる。とても厳しいことばだと思う。先生がいなかったら、このままダラダラ下がっていってしまうのだろうか。自分の甘さを知ることくらい、打ちのめされることはない。こんなことで遅れをとりたくない。基本の基本に戻る。

 

自分も含めて、もっと歌と歌の間や歌の最後まで、人に見られているんだということを意識しなければなら&ないと思います。伴奏がまだ終わっていないのに、マイクを切ったり、きょろきょろしたり、あーっ終わった、とホッとした表情をみせたりと、集中しきれていないと思います。そう考えると、プロというかー流だという人たちは、歌の間とかでも、お客をしっかりひきつけているし、すごいのだと思う。それと、ピアノの空気というか音にも流れがあって、そんなこと感じながら歌ったり(そんなこと感じながら歌う余裕はなかったけど)、聞いたりすると、もっとステージの大気を感じられるのでしょう。