一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

アテンダンスシートなど質問への回答など   621

(1)アテンダンスシートなど質問への回答

 


 多くの人が会報や私のコメント、あるいは活動にいろいろ感じてくれるのはよいが、どうも自分に役立つように受け止めてない人が多いので、以下にいつもながら老婆心よりアドバイスしておく。

1)自分にとって役立つところ、よいところだけをとればよいではないか。

あとは無視して、できたら2年後に読んで欲しい。

2)くやしければレッスンでこたえを出せばよいではないか。

ましてヴォーカリスト、それを歌で語る人なのだろう。


 私は作品を認めてはじめて、その人が知りたくなるくらいで、

ここのトレーニング生ということでの関心はない。もたない。

 

誰よりも平等に“バラ”に水をやっているつもりだが、

その水をくみとるにも、さまざまな方法があるでしょう。

まったく汲みとれない人や水さえ見えない人もいる。

 

それは大体、ここがどうだとか、自分を他人と比較したり、

すぐわかった、できたと思うような人だ。

 

人よりすぐれていると思っている人や人より違っていると思っている人に多い。

(でも、その程度なら、誰でも違っているし、その違いは、芸には関係ない。)


3)私のいうことには、もしかすると、あなたも含まれているかもしれないが、

だいたいは、あなたに対して、いっているのではないよ。

なぜなら、こういうものをきちんと読む人は学んでいくし、

そうでない人は読みもしないでしょう、からだ。


4)トレーナー(私も含め)のことばもみんなのことばも、

ここを語るなら無用実害だ。

誰でも入れるところにいるだけ、そうしたメンバーが、

総じてすぐれているわけはないだろう。

外で広い世界で問うてくれ。

 

あなたはすぐれている-? 

ならよい。

 

誰からも一目さえおかれていないなら、

文句をいえる立場ではないだろう。

 

まわりをどうこういうまえに、あなただけでも、すぐれることだろう。

 

誰でもいることのできるところなら誰でも一流になれるわけがない。

(それは、どの世界であろうと、どんなにすぐれた養成機関でも同じである)

 

どこにいてもそこでNo.1になる努力は、最低でも必要でしょう。

少なくても、習得すべきことは先にあるのだから、そのことを知ることだ。


5)オリジナリティにおける勘違い
 オリジナリティというのは、基本の習得の上にしか出てこない。

スポーツや舞台の芸術と同じく、歌も、人間の財産だ。

人前で本当の価値を出すには、何事も体や呼吸のベースの上以外につくれないものである。

 

落書きを人に売りつけて、買ってくれる人がいるから価値がある、

というのと同じでは情けない(ここでいう落書きは、もちろんアートと認められないものだ)。

デッサンも基礎だが、それよりも基本というものがある。

 

私は一般的に人を不快にさせるものやノイズのなかにも、

新しいアートの可能性があれば誰よりも認めているつもりだが、

それと練られてもいない、でまかせでやられたもの(本人がいくら練習したとしても)は、全く違う。

 

何にしても人前でやるつもりなら、ちゃんとした人がどんな想いで聞いているのか、

そのくらいは、早く知るべきだろう。

 

自分だけで勝手に満足がいくものをつくりたければ、

ここで人前やレッスンで問う必要もない。

他の人に迷惑をかけず、一人でやっていればよい。


6)基準について

私が認めたものが、基準であるといわない。しかし、それだけのものを聞いてきたからこそ信頼され、世の中も動いてくれるわけで、もう少し柔軟にここについて取り組んだらよいと思う。

 

私はどんなに自分が嫌いなものでもすぐれたものは認める度量はあるつもりだ。

個人的に好きでも(相手の努力やひたすらさに打たれることはあっても)

それだけのものでしかないものは認めない。

プロである以上、個人の好き嫌いの感情と評価とは分けている。

 

基準が全くなければ、世の中に、

あるレベル以上の仕事ができる人も

認められる人もいないはずだ。

 

なによりも、ここは絶えず皆でオープンにコメント、

感想を交じわしている。

本当にすぐれたものが出たら、瞬時に全員がわかる。

その時空以外に、基準など不要である。

そこまで達しないから、ここで段取りを与えている。
 

 

繰り返し言う。音楽、歌もまた全世界にあり、

国境を越えて伝わるものである以上、

客観的基準は厳密なまでにある。

 

自分でルールを変え、新しいものをつくるのはよいが、

それはそれで、そこに深いレベルの認知と働きかけがなくては到底、通用しない。

 

もとい、一つのものごとが成り立つのは、雨が地にしみこみ、地下水となり、小さな川から大河となって、大海へ出るようなものである。

いい加減、一つ二つのレッスンを受けたらどうこうなるなどと考えるような“せこさ”を捨てたらどうか。

 

「テニスっておもしろいですね。はじめてやったんですけど、打てばコートに入るんですよ、プロに勝てそうですよ」こういう質問にも、バカていねいに答える人は、今の私以外、そうはいないだろう。

 

こんなこと、誰も本気で言わないものだが、まだ言っている人がいる。

それをも、ここは許容している。

でも、それにいつまでも甘えないでほしい。

言うのも思うのもよいが、そのギャップを知らないうちは、

この世界にまだ一歩も入っていない。

 

その世界に全身をつっこみ、しっかりやれば、やっている人を尊敬しこそすれ、

同じだなどとは言えなくなる。

まして、まわりで「なれるよ、がんばりな」という声をたてているような人は、

いったい何なのだろう。


 私も長く師のもとに通った。

長くとは、期間というより一心不乱に取り組んだ時空のことだ。

気づいたら師に近いことが、少しは、基礎、表現の判断において、できた。

そんなものではないか。

 

1年でわかったつもりのことは、2年目に否定され、3年目にできたと思っても、まだまだ足らない。

5年目にそうでないこともわかり、また築きあげてきた。

 

あるレベルからは、体や声よりも、精神や心の器が問われる。

ひたすら自分の心と体を無にして感覚を研ぎ澄ます。

その場に行くことがすべてで、一人ですべてを歌に練り込んでいく。

 

100回に、1、2回のアドバイスが、ちょっとしたことばが、1年のもとをとるのに充分なものとなる。その場を、もう少しわかりやすく現在風に提供しているのが、ここであるつもりだ。

 

普通の人との絶対的な差は、絶対的に手に入れる覚悟と欲がもたらす以外のなんでもない。

仮にそうした絶対的なものを学びにきているなら、性根をすえたらどうか。

 

そんなに簡単にわかるものなら、誰でも手に入っているし、やれている。

そうでないのは、何が違うのかを考えてみたらどうだろうか。


7)力をつけたければ“ぐち”をすてる


 コミュニケーションをとりたいとかいう日本人の群れたがる症候群が顕著だ。

ただ、芸の世界は皆でやれば何かできるのでなく、一人の力があって、できる奴が集まらなくては、何もでてこない。

現状で自立できる力、歌や表現として価値をもつ人は、ここでも一人いればよいと思っている。

二人もいれば大したものだ。数人いたら世界が変わる。

 

一人の力が、万人を超える。

2~3年ですぐに育つのなら、こんなところに来なくとも、

どこにでもいるのに、なぜいないか考えるところから始めよ。

(でも、ここには皆が気づかぬところで才能が集まっているから、私も才能を発揮できている。)

 結局、多くの人は、自分の狭い世界での判断と同じレベルのまわりの人の見解で、

自分が本当にやりたかったことを何かのせいにして(ここでは学べないとか、うまく伸びないとか)、

諦めてしまったり、また別のところに行って同じことを繰り返す。

 

 確かに、個別に親切にアドバイスしてくれるよきアドバイザーは貴重だが、

だからといって一流になるのとは別問題だ。ここに限らず、

どこでも、その場を最大限、活かしきるのが才能だ。

 

 

 来年からは、やる気のない人は、出てもらう。

「5年、10年たって考えてみなさい」としか言いようがない。

本当の意味で、ここが必要のない人が多すぎる。

早く、ここを必要にして欲しい。

 

 そしたら、きっとうまくいく。

そして、ここが必要とする人になって欲しい。

ここにいなくてもよい。

その力を磨いて、日本、世界を変えて欲しい。


 親切を求めてはいけない。

自分を追い込む環境をこそ、求めるべきだ。

最初から答えや結果を求めたがる。

そんなもの、あとで気づいた頃にできるものだろう。

 

与えられた問いに答えつつ、自らの問いに気づき、それを解こうと努力する人のみが、

人前に立って生きていく資格をもつのは、どこの世界も同じだ。

 

 どんなに近くでアーティストにまみれても、

本人がそうなる努力を誰よりもしない限り、

あなたの夢は近づいてこないだろう。

そうでなきゃ、音楽雑誌の記者なども皆、ミュージシャンになる。

 

 自分の仕事をしっかりとやっている奴は、自分の足もとにしっかりと立っていて、

前に進むことに精一杯で、人のおせっかいをやいている暇はない。

 

どこでも自分でやれていない奴が群れたがる。

自分がやれていてはじめて、人が認めるものだよ。

それを歌や表現でやりたくて、ここに来たのではないかい。


 上の授業に出たり、上のステージを入門した人が出れないのは、

上のクラスのレッスンの邪魔になるからです。

まだお客さんだからだ。

私は、上のクラスは、上のクラスのレベルで鍛えているつもりであるから、

そこに、わからない人を入れて密度を薄めたくない。

彼らが嫌がる、ここの場が薄まれば、才能ある人からいなくなる。

それは、まだ、もったいない。

 

場が人を育てる。

 

ただ雰囲気だけでこなした歌や失敗だらけの歌を

うまいなどと感心する人を参加させていては、いったいここは何の場か。

自分によかったからよいとか、勉強になるから出たいというのは、伸びない人の理由である。

 

そんな時間があるなら、一流のプロの見本をみて学べ。

トレーナーや私などをみるな。

 

 

他の人に有無も言わさぬ力をプロという。

1年くらいここにいたらといって、そのへんの日本人と何が変わっているというんだい。

力も出せないというのに、うぬぼれちゃいけない。

 

ここに来て、頭ばかりでかくなるなら、むしろ害だ。

私のことばをこれみよがしに使ったら、

入ったばかりの人は、君のことばにうなずく人もいるだろう。

でも、それでは、偽ものへの道だよ。

 

 ミニ福島はいらない。結果はステージオンリーだ。

日本人の客と同じように、同じくらいに君らはわかっていないことをわかることから始めよ。

それはあたりまえのことで、しかし、そこから脱しなくてはいけない。


 人は同じレベルの人のところにいるものだから、ここはここでよい。

くやしければ、力をつければよい。それが実力社会だ。

 

力がついたらきっと、今の私の想いもわかってくるだろう。

そして、少しは私のこういったバカ正直な“ぐち”を誠実さと思ってくれるかもしれない。

 

 

 

 



(2)“学ぶ”こと

 


1. 学び方を学べ


2.好きなものより学びえるものより学べ 

多くを、いつまでも学べる材料を与えてくれるのが、一流、もしくは本物。

一流は一流、本物は本物を知る。

本物という難物にぶつかり、何かを感じること。そこから始まる。


3.価値をつけているのが何なのか、誰なのかをみよ


4.自分の力を限定しているのが自分であるのを知れ

 


“学ぶ”ためのヒント


1.2.常に唱えよ
3.研究所にいたらアマチュアで、外のライブに出れたらプロと考える? 

本当にそうか。

価値そのものは技術力と伝える力の上に成り立つ“人間力”にあり、

値段や人数といった価値の出し方(メディア)は、一つの目安にすぎない。


4.世界をめざしたら日本で通用するのに、研究所内で通用するために、そこでみんなで刺激しあえればよい、など考えるから、ここでも生涯、通用しない。私もトレーナーも世界しかみていない。

 

 

 

 


(3)すべて、遠い昔、どこかの国のどこかの街のお話


街に一軒だけ、映画館があって、

人々はそこで昔のもの、

世界中のものを見て楽しんだ。

その熱い映写室に入りびたった子供のもっと熱い心。


街に一軒だけ、図書館があって、

人々はそこでたくさんの本を読んだ。

そのいかめしい古本の匂いをこよなく愛した青年の誇り。


街に一軒のダンスホール

人々は、DJの楽しい音楽に合わせ、踊った。

そこでバラバラのオーケストラを指揮する人の愉悦。

 


街に一軒のライブハウス
すべてはいつでもどこかであること。
この冬。代々木は、地下のスタジオに移った。
まだ、お話でなく、現実。


この暗闇に光は届くだろうか。

窓は大きく開けているよ。

 

 

 


(4)伝えるもの


伝えるものを失った歌


伝える熱を失った歌


君は何を誰にどう伝えたい

ステージが違っていないかい?


人に何かを伝えるステージ、人の心を動かすステージは
会社の事務的文書を書き写すだけのようなトレーニング、
カルチャー教室の小説講座のようなことではできあがらない。


夢と現実の架け橋、

それを伝える内容と手段のないところに
どんな表現が出てくる?


表現は地にあり 

歌は天にある
表現は足もとにあり 

歌は空にある
地を踏め、

空に舞い上がれ