BV理論 292
声を磨く目的
ヴォイストレーニングの必要性は、音声教育の行なわれていない日本において、特に大きいと言える。日常的に用いている声がしぜんな声だと思われているが、とんでもない。
多くの人は、育った環境のなかで身近にいる人の影響を受けて自分の声を変えてきたといえる。
発声に対して、最も理想的な使い方がしぜんにできている場合は、日本人の場合は、ごく稀であるといってもよい。
発音、発声の器官、呼吸器、筋肉や骨など、体そのものが一人ひとり違うのに、それを活かすよりも、まわりの環境によって合わされてしまう。
私がみているかぎりでは、日本人は高い音を好むせいか、意図的に高く声を出している人が多いようである。これも、しぜんに使うならもっと楽に疲れずに出せるはずである。
日常的には慣れてきても、いざ大きくたくさん声を出さなくてはいけなくなると、必ずのどに疲れを生じさせ、声がうまくでなくなる。まして、役者やヴォー力リストであれば言うまでもない。
表現するときには、単に声を出すこと以上の過酷な条件下におかれる。人の前で頭の中に入れたことを再現するわけであるから、ブレツシャーもかかる。すると、声が出にくくなる。
その状況で完全に声をコントロールするためには、最も理想的な形で声が出せるように日頃からトレーニングをしておかなくてはならない。
そうでなくては、せっかく内面に伝える価値のあるものをもちながら外に表現できぬことになる。
トレーニングの段階と方法
私は、次のような順で声を習得する手順としている。
1声についての基礎知識を得る
2よい声の実際を知る
3自分の声を知る
4自分の声の欠点を知る
5自分の声の目標を設定する
6ヴォイストレーニングのメニューをつくる
7呼吸(息)のチェック
8発声のチェック
9発音、ことばのチェック
10ことばで表現する
11フレージングをつける
12音楽的表現力をつける
声楽の発声との違い
声楽は美しく磨かれた声を聞かせるための芸術である。そのトレーニングはフレージングに声をいかにのせていくかというところに集約される。
しかし、ポビュラーヴォーカルや役者にとっては、声そのものの美しさよりも、内容を表現するための使いこなしが必要とされる。
つまり、声楽が語学でいえば、発音の正しさ美しさを目的にするものに対し、後者は、内容が伝わることを第一義とする。つまり、私のヴォイストレーニングにおいても、優先すべきものは表現であり、そのために発音も正しく美しい方がよいといという立場をとるものである。
極論を言うなら、伝わるものがないなら、美しさなどあっても仕方がないということだ。
しかし、声楽の発声法と全く違うのかというと、根本的には声を最も理想的に使おうというでは相違ない。私自身は、すべての発声法に共通するところがあるどころか、発声は一つだとさえ思っている。
ただ、声楽が美しいひびきを求め、つくっていくのに対し、私たちに必要なのは生の声、しぜんな声、ナチュラルなヴォイスを引き出していくことなのだ。
歌の発声練習と話声のトレーニングは、やり方が違うというのは、私にとっては表現のスタイルの次元での問題であり、音声器官を充分に生かして声を出すというレベルではさして違いがない。
声楽から学べることは、音声としての言葉の音楽的コントロール、音への感受性、テンポ、リズム、メロディに対するコントロール力からくる声の使いこなす力などであろう。もちろん、音楽性や表現からも学ぶところは大きいのである。
声楽より効果的な発声法
声楽が外国から生まれたもので外国人の条件に合わせたトレーニングであるのに対し、私のヴォイストレーニングは、日本人を対象とし、効果をあげてきたものである。
そこにはまず、日本人が外国人と同じ状況でヴォイストレーニングされたときに出てくる日本人特有の問題を解決した。
外国人のヴォイストレーナーのやり方が必ずしも日本人に合わないので、多くの人がのどをつぶしているのは、受け手の準備状態が、彼らには考えられないほど、よくないからなのだ。
つまり、外国人なら、日常の発声のなかでナチュラルヴォイスであり、深い声のポジションから深い息でーオクタ—ブくらい出せるのに、多くの日本人は、普通の声がナチュラルでないのである。この差を埋めるトレーニングに一〜二年かかるのである。
こもヴォイストレーニングでは、外国人並みの声を習得するのに、一年以上をみており、そのトレーニングをしている。これがないと、すぐに本当の卜レーニングに入っても難しい。これが体づくりというところである。役者では、二、三年のレベルにあたる。
それとともに日本語、日本人のデメリットを学び克服しなくてはいけない。
まずは役者か外国人のナチュラルな声のレベルをめざせというのが、最初の目的である。
音声コントロールが基本
役者のせりふもヴォーカリストの歌も、上達が芳しくないときのほとんどの問題は、声を充分に使い切れないところに立脚している。ところか、内面的な捉え方とか表現上の技術、感性、あげくの果てには心だなどという指導をされ、行き詰まってしまうのが現状である。
バットを十回、全く同じポイントに同じフォー厶で振れぬバッターに「ボールをよく見ろ」「力を抜け」「リラックスして」「ひじをしめて」などと注意してもどうにもならない。やるべきことは、毎日、バットを百回以上振ることだ。
ヴォイストレーニングでも、体としプロとしての強さやコントロールの能力をもたぬまま、いくら感情表現とか間や表情を工夫してみても、所詮、芸にはならぬ、つけ焼刃なのだ。
特に日本人の場合は、イメ—ジ、考え方、生活から根本的に奪えていかなくてはなかなか、発声の初歩にも入れないものだと思うべきだろう。
声のチェック
日本のアイドル歌手の声は、とてもかわいいと思いつつ、幼さがそのままで守ってあげたいという心理をたくみに利用してファンをつくっていく。ところが、役者やヴォ--カリストとしては、その声はインパクト(説得性)に欠ける。もちろん表現力で勝負しているわけではないから、その是非は問わぬ。天性プラス、プロダクションの力で、一つのエンターティメント性をつくり出し、人が集まるのだから、それは大したものである。
しかし、それにあこがれたり、まわりからかわいいといわれて、そういう声を無理に出してきた人には、不幸なことで自分をつくりかえたところに無理がこないはずはない。化粧と違い、声には無理はきかないからだ。
男性でも男らしくのどに力を入れた声を出してきた人が少なくない。
ともに自分が理想する声に自分の声を無理に合わせたところで、失敗している。
共に人には好感をもって受けとられず、また演じたり歌ったりするにも不利だからである。
ところが、ものまね好きで自分というもののない日本人は、このタイブが多いから皆がその影響を受けて、お互いに悪声づくりに励んでいるといえる。
特にコンプレックスをもっている人や自分を偉くみせたい人、かわいく演じたい人に多く、声に対する意識の低い日本では、慢性的な病とさえいえる。
これを打ち消すには、次の順を踏むことだ。
1本当に魅力的とは何かを知ること
2自分の最も理想的な声を原点から見直すこと
3その声を常に出せるようにすること
4より理にかなった声にトレーニングしていく
あとは、3と4の繰り返しである。
魅力的な声を知る
まず、本当に魅力的な声とはどんな声かを知ることだ。これによって、自分の声に対する客観的な畫基準ができる。そもそも、自分の声を知るのは難しい。ところが、役者やヴォーカリストといった声のプロ、その分野で一流の人の声を聞けば、少しずつよい声というのがわかってくる。
このときに美しい声というなら、声楽に限る。しかし、魅力ある声なら、ポピュラ—から落語家、役者にいたるまで、どんな世界にもいるだろう。
声そのものがよくなることよりも表現しやすい声、魅力ある声を追求するなら、全世界のいろいろな分野の第一人者の声を聞くとよい。表現するための声には、技術や美しさと別に必ず含まれているものがある。その共通なものをつかむことが、基本の基本である。
たとえば、世界中どこの国にも、その国の歌の第一人者がいる。女王とか王様とか、いわれているはずだ。それを続けて聞いてみよう。必ず、それが深く全身から表現されたものであることに気づくだろう。それともう一つ、私たち日本人のもつ感覚と相当違うことがわかる。
日本人だから日本人の好むものをいうのも一理ある。しかし、私は日本人ほど日常の言葉の声が美しくない民族を知らない。同じアジアでも大違いである。
どうも日本だけが大きく差をつけられている気がする。
その証拠はいくらでもあげられるが、一つは、日本のポピュラーの歌が外に出ていけないことであろう。ワールドミュージックも日本のみ発進できずにいる。
そこで日本人の感覚や捉え方が声を出すのに不利だと考えてみた。
しかし、一方で日本でも相当な歌い手や海外で高い評価を受けるオペラ歌手もでている。
つまり、日本人の体だからできないということはない。
だから、こういう方向で考えるとよい。
日本人の体で世界各国の人と共通なところをトレーニングしていき、インターナショナルな声をつくり、そこで日本語を処理すればよいということだ。
というのは、私の知り合いが皆、外国にいくと、よい声になって日本に帰ってくる。外国語ならなおさらよい。ところが、何日かいるとまた元通りになってしまうのである。
私の経験でも、声に問題なく活動できている人の多くは、外国で育ったとか(日本なら米軍基地跡)親が役者とかオペラ歌手だった。
自分の声を見直す-モノトーク-
歌や話よりは、語り、つまりある物語を自作自演してもらうと、その人の性格や感情表現、声についてよくわかる。劇団などは体験記を発表するという形でよく行なっている。
体験を通して、今の自分や求める目標を語っていくことで、その人の生き方、生きざまの輪郭がくっきりと現れてくる。内なる声を自分の口から外で声で発するのだ。
強く感動したこと、感銘を受けたこと、ショックだったこと、傷ついたこと、それを文章化し、声で演じてみる。
幼い頃のこういう体験は原体験となって一生に関わりをもってくる。めったにない体験を語ればよいのである。
できたら'その体験を今は、どう受けとめ、どう伝えたいかということを含めることだ。
なぜ伝えたいのか、聞き手にどう思って欲しいかなども表現上の基本的課題となろう。
一分三百字で読むとして、二分以内(六百字)くらいでよい。
例)
「私が本当にヴォーカリストを志したのは、ある仲間の死が契機だった。ー週間後の共演を控えたある夜、彼女はそのいっときの間にこの世から消えてしまった。
死に神が現実に現れ、大切な友を一人奪っていった。そのとき、私は歌う理由を失った。友と歌い続けるよりも友のむこうに生きているものに、友の魂を伝えることに意味を見いだすのに、何年かかかった。こんなハードな生活をしていたら、私もいつ死ぬかわからない。しかし、それでよい。誰もがやかて死ぬ。人間は有限で、滅びるものだから、それでよい。美学でもある。
しかし、滅びぬものがある。私が先人から継いだ魂だ。
それは私が生きている限り、大きくも多くにも中身の濃いものにもできる。
自分一人でやろうと思うな。何かを生み、伝えるためには踏み石が必要だ。日本には、残念ながら次に伝えずに逝った踏み石ばかりだ。年老いてからでは気力は伝える時間を覆いきれないだろう。だから私は歌で伝えていくつもりだ。」
モノトークでは、人にわからせようとしなくとも、自分の体験のなかで、そのときの感覚や心が再現され、感情表現がしぜんと言葉に表われてくる。
事実のもつ強さが聞き手に関心をもらたすと同時に心を伝え、生きた表現、言葉となる。ここにその人の最もよいところ、魅力、さらに将来の方向性もみえてくる。
声においても粗探しは不要、それがどう生きた表現と結びつき、魅力となっているのかをみつけることだ。人前でこのような個人体験を発表することは嫌なものである。
しかし、演じるということは、いくらつくられたものであっても、その人の生身のものが出ないわけにはいかない。表現力に最も早く気がつき、生かす方法の一つは、この強い抵抗を破って、人前で語るときに出てくるものを捉えることである。
A個性、オリジナリティ(キャラク夕―)
B表現の力(身振り、間、語気)
C体験の共有、理解
D現実問題の関心
同じ課題をやってみる
他人のモノトークで気に入った順に並べ、それを自分なりにこなしてみる。次に自分なりにアレンジしてみる。(内容を変える)
さらに、一つのモノトークを選び、全員で行なう。
これを歌で試みてもよいが、まずせりふのなかでやる。そこで基本的な表現力のチェックはできる。ブレス、言葉、発音、なまり方言(アクセント、イントネーション)、表現、読み方などを中心に、どういうのがうまいのかへたなのかを自分の耳で聞き判断する体験をつむ。
自分たちでの案が終わった上で卜レーナーが指摘すると、いかにできていないのかがわかる。それを克服することが課題となる。トレーナーは、鋭い感性(判断できる能力)とそれを言葉で指摘できる表現力をもっていなくてはいけない。さらに、トレーニング課題を具体的に导えるために必要である。
耳を鍛える
自分の声をチェックするには、まず、判断する力がなくてはいけない。これを身につけるための最もよい方法は、他の人と同じ課題をやる。他の人同士を比べて、判断してみる。自分のを録音し、それを聞き判断する。他の人のと同じ状態で同じものを録って聞き返すとよい。
トレーナーの見本や指摘を参考にする。テーブで聞き返し、その差を少しでも理解していくことだ。
何よりも大切なことは、耳を鍛えることである。
普通は、最初、どれがよい声で、どれがよくないのかがわからない。この場合、よい声というのは、二通りある。
一つは、今の状態で最も使いやすい声である。
もう一つは、今は使いにくいが将来的に伸びていく声である。多くの歌手養成のトレ—ナーが前者のみに注意を注ぐのは、もったいないことである。
むろん、二、三ヵ月で人前で歌えるようにという要望に素直に応えようとするならば、そうせざるを得ないが、こうしてつくられたヴォー力リストは、もたない。
それにも関わらず、こういうトレーニングの方が受け入れられているのは、その日から、成果が出るからである。
二、三ヵ月から一年の間は伸び続ける。それを進歩だとアマチュアが判断するのは仕方がない。そこで完成されていくのはアマチュア名人、カラオケ上級者に過ぎない。
本当は、将来的に伸びていく声に着目し、それを引き出し、舞台や歌に使えるところまで引き上げるのがトレーナーの役割であるはずだ。このことは、証明するまでもない。
わずか、二、三フレーズをシャウトしても、プロとアマチュアの差は歴然としている。
アマチュアならーオクターブなど、とても使いこなせないというレベルで判断しなくてはいけない。
仮に、ーオクタ—ブを完全に使いこなしていれば、日本では、相当の実力のヴォーカリストである。
ヴォイストレーナーにつくのは、自分ではわかりにくい自分にとって最高の可能性を有する声をみつけ引き出してもらうためである。
卜レーナーこそ、何年にもわたり何十人もの声を見てきて、体得しているからである。
それを自己流だけの若い人にトレーナーやらせているスクールが多くなったのは困りものである。
ナチュラルヴォイス
自分が最も楽に出せる音の高さをみつける。出しやすいということでは、話し手いるところか、それより少し高いところがよい。
五、六メートル離れた相手に話しかけるようにする。半音ずつキーを上下させて最もよくできるところを見つけて、そこで繰り返してみる。
アーアーアーアー
エーエーエーエー
次に歌うときの声でひびかせてみる。話す声と歌う声に関して、中低音域では全く分けたくないのだが、分けないでこなすレベルは相当高いので、少々違ってもよい。
多くの人の場合は、日常会話よりも歌や芝居の声が先にできあがっていく。歌うように話し、話すように歌うのが最である。
M+Aマーマーマーマー
M+Oモーモーモーモー
M+Iミーミーミーミー
M+Eメーメーメーメー
声を決めるのは、発声の状態(共鳴を含める)、声の高さ、速さ、音色である。
発声の状態…ひびきに頼らないこと。地声でそのまま外に出るようにする。
声の高さ…一般的に発声というと高くとりがちである。話し声と同じか、やや高いくらいでよい。
速さ…これも速くなりがちである。長く伸ばすのは離しいが、
そうかといって短くしすぎると、口先だけの声になりがちである。
音色…落ちついた感じの声をイメージする。大きくも小さくもできるし自由に変化できる声をつかう。
判断については、トレーナーにつくのが望ましい。しかし、自分自身で少しずつでも自分の声に慣れ、それをよりよい方向に向けてトレ—二ングしでいくことだ。'
くせをとる
多くの人が自分の声を再生したときに感じることは、嫌な声だなあといいことだろう。少なくとももう少しよいはずだという期待も、他の人の声が確かにその通りに再現されているのを聞くと、やはり自分の声もそういうものだと納得せざるを得ないだろう。
普段、聞いている自分の声というのは、内側を伝導している声を含んでいる。それに対し、他の人の聞こえる声は空気中を振動して伝わる声だけである。
しかし、嘆かなくてもよい。あなたのもつ本当の声はもっと魅力的なことは間違いないからである。ただそれを引き出していないから、美しく聞こえないのである。
このレベルのヴォイストレーニングは、自分のもつ音声器官を充分に利用することである。ふしぜんに無理に使っているところをやめて、しぜんに使うために、足らないことを補ってやる。
この二つを同時に行ないながら、自分の声をよりしぜんに自由に便えるようにしていくことである。
くせをとるトレーニング
声のくせは、力が入ってはいけないところに力が入っているからでてくる。カか入ったところがひびく。そのひびきは、ふしぜんで耳障りなくせをもつ。統一されていないし、発声の理にかなっていないからだ。
私は、ステップに分けて捉えている。
一つは、首から上での余計なひびき、その人の音声器官のもつくせがでてくる。これをなるべく消して、胸式でしっかりと声をできるようにする。すると、胸、そして体全身で出ている声に聞こえるようになる。いわゆるくせのないしぜんなよい声、深い声となる。
こうなると、肩や首から上はリラックスできる。しぜんとひびきが上にあがってくる。そこで初めて、共鳴がわかる。これは、最初のくせの声とは全く違う、その人のもつ音声器官を理想的に活用した声である。これを個性的な声とみなしている。
このステップの考え方は、このヴォイストレーニングではよく出てくる。声もせりふも歌も、この胸声での声のポジションのキープから、上のひびきへの移項が一つのポイントであるといえる。
この基本トレーニングは毎日の繰り返しを通じてのみ、習得される。これが身についてこそ、豊かな表現力が得られる。
ここでは、リラックスとヴォイスコントロールを徹底的に行なうことである。
これは演技や歌のなかでは到底、極めることができない。
ヴォイストレーニングで最も大切な基本トレーニングであり、多くの人が身につけられずに終わってしまうところである。トレーナーもそこまで忍耐強くねばる人はごく少数のようである。
のど声からの解放
多くの人は、のどで絞って声を出しているが、それを完全に解放しなくてはいけない。
固くて一本調子でゆうずうの効かぬ声は、表現に耐えない。
少々、大きく出すだけで、のどへ負担かかかり、しかも、、うまく伝わらなくなる。
そんな状態では、コントロールされた表現は望むべくもない。
浅い声を深くする
日本人の声は大体、浅く、体でコントロールしずらい。これは、体から言葉として表現する必要が金く、その経験を経積まなかったというだけで、先天的な欠点ではない。
だから、深い声、体から深い息で深いポジションで声を捉える発声を学んでいく必要がある。
「浅い声は胸腔の共鳴を起こしにくいものです。ところが、胸腔の共鳴は音声の変化に大きな役割を持つもの」と、富田浩太郎氏の「俳優の音声訓練」にも述べてある。
氏の方法は、このヴォイストレーニングと考え方を同一にするところが多い。
スタッカー卜から始めるところも同じである。しかもその注意点についても言及していることをみても、声についての深い体験と見識をおもちであることがわかる。
参考までに引用しておくと
「のどにかかった浅い声という欠陥を除くことが腹部に力を入れて声を上に突き上げるというものの欠陥を移行させる危険を多分に持っています。しかし、それを承知でやってみる理由は、のどにかかった浅い声から解放された声を聞き分けさせ、自分の欠陥を自覚させるためには、このような欠陥の移行になりがちな雀もときには大変効果的な埸合があるからです」
ここで、自分の声の決定や変化がわかるのは、他の人がみる方が早いということである。
グループでのトレーニングは一般的であるだけに、個々に適応しないときもあるかもしれない。それに対してメリットは、他の人の声の欠点や変化を捉えることができるということである。
トレーナーは、あらゆる可能性と危険を踏まえた上でメニューを処方するのであるから、ときには一瞬でも声のでる状態を体得させるための冒険をもすべき必要に迫られる。ーだから、経験豊かな人にしか任せられないのである。
ここまで述べた範囲内においてでさえ、相当な量を集中力をもって毎日続けていかない限り、全く身につかない。
よいところを伸ばす
声についての疑問は、スポーツと同様、身をもって習得していくなかでしか解決できない。理解してもできなければ何にもならない世界では、すべてそうであろう。
よく、発声が正しいのか、自分の音域はどこまで使えるのかなどということを聞かれるが、教科書的にではなく、本音で答えるなら、やってみなくてはわからないし、あなたがわからないことをわかるはずはないということだ。
つまり、九九パ—セントの努力のあとに判断力とともに実現力が伴ってくるのであり、口頭でのこのような質問は何と答えても不毛なのである。
声に関して言うならば、自分の出している声に迷いをもっている点で、その発声は間違いである。いや、間違いかどうかも問えない低次元であることの方が多い。声や歌、音楽に対する無理解は、日頃の勉強、練習によって解消してもらうしかない。
たとえば、「ニオクターブ出る。それを安定させたい」などと言われても、ニオクターブ本当に出せる人なら、すでに安定して声をコントロ—ルできるはずである。
小中学生が、自分はこの曲を間違えずにピアノで弾けるというレベルで、プロの表現力を問われても困る。こういうときにやるべきことは、基本的なタッチからであり、曲をこなすことではなく、曲を学ぶことのはずだ。
本物の声を知ること、それと自分のギャップを知り、どう解決していくかの方法論をトレーナーとともにつくり、さらに日々、実践していくことだ。
声楽とポピュラーの違い
声楽家の発声は、あるひとつの完成された声を出すことに目的があり、それを意識せざるを得ない。
このモデルが大声楽家といわれる人たちであり、洋楽の強味となり、世界での普遍的価値をもつ。
つまり、理想のモデルに近づくほどよい歌い手であり、それを規範にコンクールや順位づけもできる。
それに対し、ポピュラーでは、その人の一番しぜんな声を自分のなかで探し、それを突き語めていけばよい。だから、個性的な人のまねは、してはいけない。
しかし、理想のモデルがあるというのは、弱点でもある。
つまり、歌いこなしや応用が効きにくい。どんな歌を歌っても、ワンパターンにはまってくる。そのパ夕―ンが評価されているのだから。
ここで、このヴォイスのトレ-―二ングの利点が際立つ。これは、声楽家以上に強化トレーニングを表現力に直結した形で行ない、声が自由自在に敬えるようになるにつれ、その使い方の自由度は、広くなる。
ただ、唯一、急ぎすぎてはよくないところでの個人差が大きく、その判断が十代あたりでは難しいことです。