一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

鑑賞レポート  306

鑑賞レポート    

 

【3大テノールの競演]

 

パバロッティ

器の大きさではこの人が一番だろう。高音部の美しさも世間でいわれる通りひときわきわだっている。よく言えば貫禄、悪くいうとイヤミな余裕が少し感じられて、ところどころ歌を勢いでほうり投げてしまっている気がする。ピアノの部分が苦手っぽい。

ドミンゴ

声音そのものは一番好きだが、三人の中では、一番、のどに頼る割合が多い気がする(たまたまこの日の調子が悪かったのかもしれないが)。少しつくる部分が感じられる。フォルテからピアノにストンと落ちると乱れるような。

 

カレーラス

三人の中では一番、器は小さいだろう。しかし(それゆえに)体、息、声の結びつきや変換効率の良さは一番、優れていると思う。ピアノからフォルテまでむらがない。やっぱり三人並べると、見劣りしてしまうかも。

 

私は、カレーラスが一番好き。小さな器(もちろん充分大きいのだけれど)をめいっぱい使って歌いきっている。まじめで実直な歌い方だ。まるで高校野球の攻守交代のときのように、歌い終えてから走って交代するところなんて、ほんとにかわいい。いい奴なんだろうな。

 

三人よりもメータの方が印象に残った。すごい振りっぷりだ。あの人にのせられて歌っている部分もあるんじゃないか。オーケストラの弾きっぷりも圧倒されてしまう。とにかくステージ上の全員がハンパじゃない。いや観客の反応も含めてだ。

 

 

WE ARE THE WORLD

 

プロはやはり完璧にここのヴォイスのノウハウができている。自由に伸び伸びと声が出せて、聞いていて小気味よかった。みんな、すごいパワフル。違うアーティストに変わるとその場の雰囲気も、お客さんも変わる。

 

 

【エディットピアフ】

 

すごい人生だなと思いました。失明したり、恋人が死んだり、予測のできないいろいろなことに見舞われても、最後まで恋をしようというのは、すごい力だと思いました。どの歌も、ピアフの心がそのまま歌になっていて、打たれました。ことばをそのまま歌にするというのは、こういうことだとわかりました。

 

「歌ははけ口」「歌で自分を回復する」「真実の人生を生き、真実の歌をうたう」まさに歌って生きていく者のあるべき姿がここにある。作曲家とジョークを交えながら歌い、話す場面があったが、話し声や笑い声と歌声の境目がまるでない。感情の赴くままに声を発している。きわめてしぜん体。

 

「神様」を歌う場面は正視できない。あれほどまでにやつれ、心もすりきれ、疲れきっても歌うことをやめない。あれはいったいなんなんだ。

あれこそがアーティストたる要なのだろう。彼女の声はけっして「正く」ないし「美しく」ないし「うまい」わけでもない。それでも人を魅きつけてやまない。結局、人は「人間エディット・ピアフ」そのものに感動している。

 

 

【フレディマーキュリー】

 

フレディ・マーキュリーは歌もパフォーマンスもすごいけど、やっぱり存在そのものが圧倒的だということ。エクストリームがクイーンの曲をやつていたけど、フレディと比べると、何となく地味で普通なかんじがした。エクストリームそのものはかっこいいし、この人たちクイーンが好きなんだなーということは伝わってくるけれど、すごいなというふうにはかんじなかった。

 

フレディは、特に初期の頃のタイツ姿と化粧が強烈なので、拒絶反応を起こす人も多いらしいけど、スーパースターとはそういう強烈なものを持った人のことだと思う。ステージの合間にたくさんフレディが出てきたので比較してしまい、そう思った。タイツや化:粧はただのアイデアだけど、フレディマーキュリーという人のパワーが、何をやっても似合ってしまうんだなー。この人にしか出せない世界を確実にもっていた人だ。

 

 

ビリー・ホリデイ

 

ビリーホリディ、図書館で、借りて何曲か聞いた。クレディットはないが、エンドタイトルに流れる「I'm a fool to want you」が一番、好きでした(チェット・ベイカーのもよい)。声に関しては、何も言えない。この人、この曲はこう歌う以外になかったと思う、私は感動しなかった。あんまり人のことは言えないが、破滅型の人は好きにならない。教会や修道院に救いを求められなかったのだろうか?

 

ビリーホリディが歌っているとき、のどが風船のようにふくらんでいた。ヴォーカリストは、その人の歩んできた人生、生きざまが声に現れることを学んだ。一流のヴォーカリスト(売れた人)が必ずしも、私生活でも幸せとは限らない(その逆の方が多分多いのだろうと思う)。そして、その一流を目指すなら、それなりの覚悟が必要であると再確認した。

 

彼女に関するコメントを述べる人の話し声が、ポジションが深くひびいていて、やっぱりスゴイ。出世の複雑さ、育ちの貧しさ、黒人差別などなど、彼女のポリシー(生きざま)にこれらのこと(言いたいこと)があるから、あれだけの表現ができるんだなと思った。

 

 

【California Screamin Vol.1】―ドゥービー・ブラザーズジャニス・ジョプリンイーグルス

 

初めて聞いた音楽だった。話しているように歌っているかんじがした。ことばが先にあって、その後にメロディがあるということがわかった気がする。特にきれいな声ではなかったが、息が流れているかんじがして、スムーズに耳に入った気がする。

 

60〜70年代のアーティストを見た。今の時代にはないパワーを感じた。自分は、ジャニスジョプリンはよく聞いていたので、動いているジャニスを見たときは感動した。あと名前は知っているが、聞いたことのないバンドを見れたのもよかった。ドゥービーブラザーズは、CDを買って聞いてみようと思った。

 

 

【ボブマーリィ】

 

歌うことの自然性、必然性、意味、発信するエネルギーの満ちていく社会や生活。

本当の自分の声、音、詞(ことば)での表現。それをもっているのか。解っているのか。今の自分にそういった事柄が備わっていないということがわかった。

発声について、百を目指しているのなら、それを手段として利用する原因を千、一万、もっとそれ以上にしなければ、本当のところ意味がない。

 

 

[ジャニス・ジョプリン『MOVE OVER』]

 

前からとても好きな曲で、自分でもCDを持っていました。この曲に限らず、彼女の歌には、彼女の人生において、歌ういうことが必然であるというような、絶対的な迫力を感じます。

ハスキーだけど、決してかすれて消えてしまわない、腹の底から絞り出すような力強い歌声。感情を表現するのに、計算や技術的なことを詮索するすきを与えない、彼女自身が表現しようという意図を持たずして、表現しているような、圧倒的な表現力を感じます。

個性的で、野性的な、誰にも真似できない声。きれいじゃないけれど、ざらざらとした声ざわりが、耳の奥にいつまでも残るような、くせになる声と歌い方。好きな歌手も、上手いと思う歌手もたくさんいるけれど、ジャニスは私の中では、別格の存在です。

 

 

[アダモ]

 

大宮ソニックシティでの公演。予想に反して、会場は超満員。ほとんどが代から代のオジサン、オバサン。おそらく、僕が一番若い観客だったのではないかと思う。

そんな会場の雰囲気のせいもあって、きっと彼は過去の遺物として登場し、懐かしいナンバーを並べて、適当にサラッと演るのだろうなと、あまり期待していなかった。

ところがいざ、ふたをあけてみると、たしかにそういう懐かしい、有名な曲を要所要所に配してはいるが、周りの観客の反応から察するに、むしろ新曲、あるいは日本ではまだ歌ったことのない曲もかなり多かったらしい。

実際、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争や、イスラエルPLOの和解といった、最近の時事問題を題材にした曲や、ユニセフの活動に参加し、恵まれない子供たちのために版権を寄付した曲など、彼は現代社会とリアルタイ厶で向き合い、成長を続けている、現在進行形のアーティストであることがよくわかった。永年のキャリアで培われた、ツボを押さえたエンターティメントであると同時に、鋭い崇高なメッセージも含まれたステージだった。往年のヒット曲を一緒に口づさみ、楽しそうに手拍子していた観客も、前述の曲の埸面では静まり返り、じっと聴き入り、涙を流すものも見うけられた。

また、彼は歌詞の意味を伝えるために、とても上手い方法をとっていた、コーラスの一人に、日本人女性を起用し、フランス語の歌詞を要約した日本語の詩を、彼女に朗読させていた。訳がとても詩的で、かつ彼女の朗読がなかなか良かったこともあり、彼の歌の世界へ、すんなり入っていくことができた。字幕スーパーや、訳詞を配るという方法より、ずっとスマー卜で、有効な手段だと思う。またこのことは、いかに彼が、自分のメッセージを正しく、強く、深く伝えたいと望んでいるかということの証でもあると思う。そして案の定、本編のラストは『雪が降る』だったわけだが、それが終わると、観客の3割ほどが席を立ってしまった。もちろん、ほとんどの客がこの曲目当てに来ており、これさえ聴けばもう充分、という気持ちはわかるし、それはそれで索晴らしいことなのだけれど、アダモ自身の本意とはかなり距離があるのではないか、と少々残念な幕引きであった。とにかく「はずみ」で観たわりには、収穫の多いコンサートであった。