人間たれっ 301
ここで人間たれっというのは、人間らしくという意味なのだが、人間様らしくといった上品なことではない。鼻ったれ、くそったれというような意味で捉えて欲しい。
人間であることを説くのは、ヴォイスからヴォーカルに入るための要素に人間味は不可欠だからである。
声楽家なら、至高の精神の極みで天上の歌をひびかせてくれるのもよい。
しかし,ここでは、皆に、不完全な人間のそれゆえの嘆き、悲しみ、苦しみ、そして、歓び、楽しみ、嬉しさを歌いあげ、救済をもたらして欲しいと願う。
自らとそして他の人のために。
だから、苦労して、あえて苦労して声と歌を習得していって欲しい。
そこに深さが宿る。人間の魂が入る。
このヴォイストレーニングでは、ヴォイスだけでなく、ブレス(息)も、そして魂も、声に入れていって欲しい。人間を感動させる歌を歌えるのは、人間離れした技をもつ人間たれっだけだからだ。まず、ヴォーカリストであるまえに人間たれっと説きたい。
声はよく出る、歌もうまい、しかし、ヴォーカリストとして、決定的に何かものたりないと思う人がいる。その人の技術にその人自身の人間が負けているとでもいうのだろうか。声は聞こえてくるのだが、その人がどこにも現れ出ない。
発声的完成度の高さとヴォーカリストとしての魅力は、しばしば反する。
これはヴォーカリストは、人間をみられるパートであるからだ。
人間としてどう生きたか。どこかでその人生まで問われるからである。
聖人君子たれとは言わない。むしろ、人間であって欲しい。
愚かでどうしょうもなく、救いがたいから、歌って欲しい。
本気で生きたら、ぶつかるべき試練、そこでの悲怒哀が刻まれ、そこに人間たる器ができてくる。
人を愛したこともなく、愛に傷ついたこともなく、いざこざを起こしたこともない人がどんな歌を歌えるのだろうか。歌は正直なもので、洗いざらい、その人の経験や内面を出してしまう。
それがあからさまにならず、繊細に包みあげて歌うために、相当な技術が必要なのである。
それができる人は、相当なレベルの人である。
本当は、ここにくるまでにひと通り、そういうことは経てきて欲しいのだが、そうは言っても、皆、若いのだから、トレーニング期間中にいろんなことがぶつかってくることもある。
(まれにまったくぶつからない人がいるが、この方が困りものだ。本人は人生の高みにいるような気であっても、現実には、人生のもたらす苦渋に目をそむけ、逃げているだけだからだ。)
そこで歌から逃げ出すかどうかが勝負であり、その人が歌がどのくらい好きなのか、好きの度合が決まる。これが歌の器となる。
歌いたくなくなるか、歌があるから支えられる、何とか生きていけるか。
食べものはのどを通らなくとも、歌えば水は飲める、何とか生き永らえられる。
そういうどん底から叫び上げて欲しいと、私は願っている。
だが、日本は平和だ。
「私もプロになれますか」というありきたりの質問が聞き飽きたら、最近は、
「ここでプロになった人はいますか」というので、呆れつつある。
まだ、自分のこと言っている方がましだったかと思って、失望は深まるばかりだ。
「どっか外国のスラム街でも行って、首でも締められておいで」とでも言うべきか。
いきなり、僕が首しめたら、びっくりするわな、そりゃ。
でも、こういう人は根性棒で性根入れなきゃなんともならない。
人生観、変えて、人生変えなきや、一生歌えないよ、ホント。
歌えるかどうかなど、顔の輝きをみりゃ、ほとんどわかる。
輝いてくる人とそうでない人がいる。
顔を北風にさらして、余計な肉を根こそぎ落してきな。
ワックスは、ここの外でかけてくるんだ。
ここでは磨くだけ、神経おっ立てて命がけでやっていないと、分厚い顔のツラしているんじゃ、いつまでたってもだめだ。
ヴォーカルの声になって、ヴォー力ルの顔になっておくれ!
にせものを壊さないと本物は獲得できない
「ここにきたら、ニオクターブで歌えていたのが、歌えなくなってきた。声も出にくくなったし、発音も不明瞭、音程やリズムまでおかしくなってきた」「私もよー」
こんな質問がきたら、「あたりまえだ」と言っていた。
人間改造をやっているわけではない。
レッスンくらいで、こんなにも崩れるとしたら、元々、何もできていなかったと考えるほうがしぜんだろう。
ヴォーカルは単純だ。一オクターブでも自由に出せるのなら、すでにヴォーカルとしては、プロとして充分に聞かせられるはずだ。
なら、ここに来なくてもよいのだ。
ここに来るということは、そもそも、そのニオクターブが全く使いものにならないということなのだから。にせものをもっていて、それを大切にしているから、いつまでも進歩しない。いい加減なものを捨てないで、後生大事に持っているから、本当のものを、より可能性があるものを習得できないでいるのだ。
スクールなどでは、口先(部分)で教えるから、一見、すぐうまくなるような錯覚に陥る。
本当にその程度の上達でよいのかと間いたい。
なら,そこへいけばよいだけだろう。
全てを投げ出し、壊したって、その人のオリジナルなものは根に残るものだ。
ここのヴォイストレーニングは新しい声をつくるのでなく、そのオリジナルな声を充分に活かし、歌に使えるところまで磨こうとすることだ。
これが一朝一夕でできるなら、ここにこない人でもできている。
でも、できないのはどうしてだろうか。
本当に上達したいのなら、一度、自分がこれまでに獲得したと思うものを、これが自分だ、これが自分の歌だと思うものを全て捨てること,それを恐れるな。
勇気を出して、全くのゼロから、一から取り組むことだ。
食わず嫌いだったものも聞いてみる。
自分のつくりあげたつもりの世界が、いかに狭く浅かったかがわかるはずだ。
今までの思い込みが進歩を妨げていることを知るべきだ。
そうでなければ、日本人ヴォーカリストも、今ごろは世界狭しと駆け回っている。
多くの人が、のどをしめて、くせをつけている声を自分の持ち味のように思い込み、あきらめ、抜け出せないでいる。
本物を知り、本物を欲っせよ。
そして、獲得に努力せよ。
悩む暇があればトレーニングせよ。