一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

鑑賞レポート   366

鑑賞レポート    366

 

 

 

【メイキングWe Are The World!】

 

外国の歌手に関しては無知で、初めて見る顔も多かった。でも本当に皆、個性的だ。一流なのに(一流だから)一生懸命歌っている。そして、皆、様々な歌い方をする。当たり前のことだけど、一堂に会している様子には、圧倒された。

 

一番心が魅かれたのは、ブルース・スプリングスティーンだった。昔、コニー・フランシスの泣き節というのが有名だったけれど、私にとっての泣き節というのは、彼のようなものではないかと、ちょっと思った。心の底から絞り出すような歌い方をする。でも、歌っていなくても、そこにいるだけで十分魅力的だった。

 

歌を聴く前に、そこにいるだけで、その人の歌を聴きたい、心を聞いてみたいと思わせる存在感というか、人間性のある人は、すごいな。ルックスもそうとう関係あるだろうけど。だけど、ルックスというのも、その人間を表す、大切な部分だろうな。ルックスだって創造していくものだろうから。

 

We Are The World”という歌にも感じ入った。詞自体にもエネルギーがあふれているけど、その言葉を発する人の心というかパワーもすごいから、できあがったものは限りなくパワフルだった。

アフリカをいろいろ考えさせられたビデオだった。

 

中学生の時に、初めてアメリカでやったチャリティーコンサートを見た。何のためだったか忘れたけれど、ひどく感動したことを思い出した。私はバンドエイドのメイキングビデオをもっている。それもとてもよかった。こういうイベント自体すばらしいと思う。何でもっとやらないのか、不思議なくらいだ。私にもこんなことができたらいいのにと思う。音楽は自己表現だけど、人にカを与える。…誰にでもできることじゃないけど。

 

みんな、1人でいても後光が差しているような人たちなのに、それがあんなに集まっているので、すごいエネルギーが生まれて、こちら側へ伝わってくる。ゾクゾクした。がやがや集まっているだけで、「アーティストだな」と思ってしまう。

言っちゃ悪いが、年末などに、日本のミュージシャンがオールナイトでライブをやったりして、TVに映ってるけど、アーティストだななんてちっとも思ったことがない。

これは私が邦楽を聴かないからでしようか。そういう人たちは、寄り集まっていても、何とも思わないんですけど。(でも、あをによしコンサートで見た、トランペットの近藤さんや、名前を忘れたけど、沖縄の音楽をやっていた人は、アーティストに見えました)。スケールの違いを感じました。これはどうやったら、なくせるものなのでしょう。

 

皆、歌がうまいのは当たり前だけど、明らかにそれだけではない。ソロを回すところは、見ていて鳥肌ものだった。1人数フレーズだから、よけいなのかもしれないが、1フレーズにすべてを込めることのものすごさ。自分の出番で、個性も想いも全部出せるし、隣の人と違和感なくハモってる。一晩中録音していて、ヘトヘトなはずなのに、すごいタフ。そんなことぐらいじゃ、声に影響しないんだ。…本人はそう思っていないかもしれないけど。短い時間で、短いフレーズでこれを歌えと言われたときに、いつも通り声が出せることなんて、最低の条件なのかと思う。

 

回していく1人1人のフレーズに緊張感とエネルギーがあった。個性がぶつかりあう表現の中に、そういうものを感じて、鳥肌になるのかもしれない。「今、ちよっと調子が悪かったので、もう1回」なんて場合は、それだけですでに負けてしまう。

 

この前、福島先生の授業で、「3時間もリハーサルしなくちゃ歌えない」なんていうんじゃダメだなと思ったばかりで、この“We Are The World”で、ますますそれは確信になった。寝起きでも、寝不足でも、寝冷えしてても、パッと歌える体、これがなければやっていけない。どうしても、そこまでの体を作らなきゃダメだ。「本当はもっと声がでるんですけど…」などというのは、問題外である。この体があってこそ、このようなとき、緊張感の中で、感動の1フレーズが歌える。

 

アーティストの後光の強さ。日常生活からして、この人たちにはひどく劣っているんだろう。別に生活レベルのことでなく、意識のことだ。アーティストという自覚があるかどうかである。

先日、TVにて、某ミュージシャンのバカ発言を聞いて、がっくりしていたのだけれど、そういう私もそいつのことは言えない。例のごとく、もし自分があのスタジオにいたらと考えると、容易に想像がつくから情けない。気後れして、隅の方でひきつり笑いを浮かべ、冷や汗たらたら読譜をして、「キミ、NGだよ」といわれても何のことかわからずに、呆けづらをさらし、みんなが笑う度にジョークについていけず、赤べこみたいにキョロキョロすることだろう。そんな者の歌を聴く気になる奴がいるだろうか。

日本だったら、「いいじゃないか、一生懸命なんだから」という、仏のような言葉をかけてもらえるかもしれないけれど、そんなもんありがたくも何ともない。

あのトップスターたちはカメラが回ってるから輝いているのではなくて、あれが普通なんだろう。「自分には経験がない」ということを差し引いても、さっきの想像は打ち消せない。あのスタジオで、パシッと1フレーズで勝負できるような…周りに光を発することができるような、そういう存在になりたい。「とんまな日本の赤べこ」にはなりたくないと思った。

 

個人的に印象に残ったのは、レイ・チャールズと、ブルース・スプリングスティーンシンディ・ローパー。3人に共通して感じたのは、力強さというか、パワフルなこと。歌っている気持ちが生々しいくらい伝わったことだった。他の人もみんなよかったが、やっぱり強烈なものが好きなのかもしれない。

神様のように見えるレイ・チャールズは、自由自在に、思いのままにフェイクする。精神がとても自由なんだろうな。自分が、いかにがんじがらめに、つまらないことに縛られているかがわかるようだ。

 

このレコーディングの目的が持つ、すばらしい意味はもちろんだが、一度に多くのスターを観て、プロであることの厳しさを強く感じた。そして、子どものようにサインをもらいっこしたり、エチオピアの女性の話に泣いてしまったりして、無邪気で、素直だ。どの人も顔がよかった。コメントが入っていたけれど、「何を言っているのか「何を言っているのか自分でわかってないんじゃないか?」と思うようなすかした野郎は、1人もいなかった。同じようなことを自分の言葉でしゃべれる…本当は、これが当たり前なんだろう。

 

 

 

【三大テノール世紀の競演!】

 

このコンサートの中で、私は3人でミュージカルナンバー(ウエストサイドストーリー、キャッツ)を歌うところが、一番よかったです。というのも、ミュージカルが好きだからです。ソロもいいけれど、3人で歌う方が聞いていて楽しいです。

コンサートの会場が野外で、月の光の下で開催されていて、すばらしかったです。日本で、こういうホールはあるのでしょうか。

 

歌い方は、3人ともお腹から声が出ていて、何曲歌っても、声がかれることはなく、歌っていくにつれて、ますます声がよく出ていたようです。ポピュラーとクラシックで少し違うでしょうが、お腹から体を使って声を出すところは同じなので、私もトレーニングを続けて、彼らのように歌える体づくりをしていかなくてはならないと思いました。

久しぶりにクラシックのコンサートを見、聴くことができてよかったし、どんなジャンルでも、すばらしいものは理屈抜きですばらしいです。

 

 

 

モータウン!~リターン・トゥ・アポロ~】

 

映像で観るのはいい。CDでしか聞いたことがない好きなアーティストたちの歌っている姿を見て、大変感動した。特におもしろかったのが、テンプテーションズとフォートップスのからみだ。彼らは、歌うことだけでなく、見る側をしっかり楽しませてくれる。

そして、何といっても、でてくる前から一番楽しみにしていたのが、私の一番好きなシンガーのルーサー・ヴァンドロスだ。やはりあのでかくて太った体は、すごく存在感を感じる。あの体から出る声と、その声を自由自在に、繊細に、そして思い通りにコントロールし、使いこなすルーサーのヴォーカルは最高だ。

そして迫力という点で、もっとも印象に残ったのが、パティ・ラベルだ。あのやたらすごい声量に、圧倒された。あれだけ声が出たら、どれだけ気分がいいことだろう。この人たちのすごさの因は、昔のアポロの客のような、激しい客の前で場数を踏んでいき、力を培っていったところにもあるのではないかと思った。

 

 

エルトン・ジョン!】

 

観客の歓声の中、ハープの音から始まった。何となくオーケストラのような映像が?やっぱりオーケストラだ。歌が始まった。エルトン・ジョンらしき人がピアノの前にいるのだけれど、なんだかモーツァルトのような頭をしている。1曲目は画面を凝視しているうちに終わってしまった。衣装だよね、衣装。名前だけしか知らなかったとはいえ、それなりに想像していたものだから。気を取り直して、歌を聴こう。

 

オーケストラをバックに歌ってしまうのはすごい。ピアノの弾き語りからはいって、オーケストラが入って、盛り上がっていく。この大きな会場(本当に大きい)では、一部の客席からは彼の姿はきっと米粒だろうから、個人のパフォーマンスなど、そんなにわからないだろうし、本当に音がすべてだ。その音だけで、観客を満足させている。もちろんピアノだけでも十分なくらい、その演奏は軽快で気持ちいいし、歌は言葉がわからなくても、何だか気持ちが引き上げられていく。

このコンサートは1986年のものだ。いろんなコンサートを作ってきたのだろうな、なんてついつい、ただの観客になって、余韻に浸っている。

 

 

 

TOTO LIVE!】

 

これどこかで聞いたことがあるかも。コンガのリズムもキーボードの音色も、もちろんヴォーカルもとても心地よく続いていく。

TOTOといえば、そのバンド名を、日本に来たときに見たトイレ(のメーカー名)によってつけたということを、聞いたことがある。それが本当かどうかはどちらでもいいことだけど、私のTOTOに関する知識は、それだけだ。

ロディアスなキーボードが続くバラードは、踊りたくなるくらいで(踊る力と振り付けできる力があればと思うくらい)、そして、いつのまにかヴォーカルが入る。本当にいつのまにかという感じで、キーボードの流れに乗っている。1曲1曲の中でも、本当に流れがスムースで、それでいて見せ場(聞かせるところ)が多くある。コーラスの人のちょっとした振り付けなども、参考になる。

色々な点が勉強になったことももちろんだけど、TOTOを素直に楽しめたということは、私にとって、大きな収穫だった。

 

何か伝えたいことがあるというよりは、プロとしての高度な演奏テクニックで勝負しているように見えた。根雑なリズムがピタッと合うのは、聴いていて気持ちが良かった。よく人間国宝の人たちの仕事や技を見ると、あまりの正確さにため息が出るが、ちょうどそういう感じだった。メンバーの人たちも、自分たちの腕前を楽しんでいるように見えた。何曲かヒットした曲は私も知っているし、きれいな演奏なので、最後まで飽きずに見ることはできたが、強烈なインパクトは感じない。

ヴォーカルの人は素敵な声をしていて、高い音を出すときもアゴがあがったりせずに「体で声を出している」というのもわかった。でも何となく印象が薄い。途中でバックコーラスの黒人女性が前に出て一緒に歌っていたが、この人の方がまだ印象的だった。リズムが気持ちいいので、ついドラムの人ばかりに気が行ってしまう。とても気持ちよく聞けたけれど、たとえ好きになれないタイプでも、個性の強い方が好きだ。

 

 

 

エディット・ピアフ

 

彼女の目は、何を見ているのだろうと思う。当然のことながら、1曲1曲、ことに恋人を失ってからのピアフの表情は豊かだ。切迫した顔や、宙にさまようような顔、決断の顔。彼女は「歌を生きた人」だと言われていたが、恋人を失った後に、「神様、せめて1ヶ月彼を返してたと間違ったことでも」などと歌う姿は、痛々しくて見ていられない。ある意味では体験を歌えるのは、恵まれたことなのかもしれないが、傷口をさらけ出しているようで、本当に彼女が望んだのかと余計な心配までしてしまう。

 

役者は、与えられた役の性格と自分をすべて一致させるのは不可能だという。1つでも多くの共通点を見つけ、それを大切に役作りしていく。歌うことも、1つの世界を作り出す上で、それは共通しているのではないかと思う。いや、アーティストたるもの、自分の中で唯一の世界を作り上げ、それのみを外に発信していくべきなのかな。

 

私が学生の頃、「歌っていきたい」と思って、今まで全<試行錯誤の繰り返しだ。その中でも望んでいた世界が変わったり、少しずつ見えなかったものが見えてきたり(これももちろん施行中、だが)している。いくつか心に深く残るシーンがあった。歌は叫びであること。まだ私にはピアフに何が見えていたのかわからない。彼女と同じものを見たいわけではない。それを知ることで、私の世界を深めたいのだ。

結局行動しないと意味がないのですよね。ということで、日々努力するぞ。

 

 

 

[シャルル・トレネ]

 

シャンソン好きと言われるこの私も、この人のことは、大物のわりにはほとんど知らない。ただ、この人のつくった「詩人の魂」「残されし恋のあとには」などをいろいろな人が歌っているのを聞いていて、何となく私の心をとらえていたので、知っているくらいである。

日本のシャンソン界の長老・古賀力氏がこの人の曲を多く取り上げているが、いわゆる通好みといえようか、今一つ胸を揺さぶられないのだ。フランス人が好きなシャンソンベスト10の2位に彼の「ラ・メール」が入っているのだが、そんなにいい歌なのだろうか。こういう曲も、何かのきっかけで(例えば、ドラマのいい場面で使われているとか、後でわかった詞が、とんでもなく胸を打つとか、かつて恋した人が好きだったりすると)、いい曲に思えることも多々あるのだが。ほとんどがメジャーキーの曲ということもあるだろう。シャルル・アズナブールの曲のほとんどがマイナーキーということと対照的である。(アズナブールはアルメニア移民)

というわけで、関心はもっぱら歌い方にそそがれたが、このスタイルは、昔日本でもこんな人いたなあと感じた。それぞれの時代の香りというものが共通しているのだろうか。そうだ、昔のアメリカ映画にでてくる歌い手にそっくりなのだった。

ただそれだけか…と思っていたら、彼の語る自分の性格がとても私に似ていたので、ちょっと親近感を持った。彼は「孤独でいることが大切」という。もちろん、彼は「他人と一緒にいるときは、道化師のように明るく振る舞う」のだが、それだけでは人生を駄目にしてしまう、明るくあるために孤独を大切にする、というようなことを言っていた。全く同感である。

また、彼は「ある程度の悲観主義」を提唱する。これもまた同感である。うーん、ちょっと彼のレコードの歌詞カードを読み直してみる必要がありそうだ。

 

 

 

[スサーナ,アロンソ]

 

サンドラ・アロンソという女性Voとのジョイントだった。アロンソはどちらかというと線が細く、響きでまとめるタイプで、スサーナとは対照的な歌のスタイルをもっていた。

さて、この日のスサーナはというと、何か「気」の抜けた感じがした。なかなか声のポジションが落ちつかず、例の「入れ」と「抜き」のジェットコースターのようなフレージングが、そのままイヤミな声のうねりとなって、耳についた。本人もたぶん不調を自覚していたのだろう。不調を補おうとしてか、やたらと曲をいじくって、歌い崩していた。

確かに時折、ピタッとキマって「さすが!」と思わせるフレーズも飛び出すが、とにかく声の線に落ちつきがなく、全体としては散漫な歌になってしまっていた。MCの口調もビビッているのか、アロンソに遠慮があるのか、張りがなく、内に引っ込むような感じだった。(日本語でしゃべっていたせいもあるかもしれないが)。おまけに中盤、アロンソと息が合わず、進行上のミスをしてしまい(ほんと、ささいなミスだったのだけど)、ますます消沈していってしまった。

はっきり言って、この日はアロンソの方に分があった。この日のクライマックスは、間違いなく、彼女が自分の出番の終盤に歌った「アルゼンチンよ泣かないで」だった。比較的きれいに歌っていた彼女が、この曲では、きっちり声と体を結びつけ、シャウトしていた。

スサーナの「アドロ」(当然、この日の観客のお目当ては、この曲のはず)の時よりも、大きな拍手がおこった。

続く「時代」でアロンソは、曲の構成を取り違えて歌い詰まってしまうという、誰にでもわかる大きなミスをしてしまったのだが、そのときの対応も実に堂々としたものだった。「止まってしまった歌の流れを、次のフレーズの歌いだしでまた新しく、鮮やかに切り出し、しっかりと盛り上げ、まとめていった。一瞬ざわめいた観客もすぐ安心して、曲の流れに乗りなおし、前の曲に勝るとも劣らない拍手を惜しまなかった。Voのスタイルとしては、スサーナの方が好きだし、彼女を目当てにしていったのだが、終わってみれば、ミスをした後のアロンソの、堂々とした態度が一番の収穫だった。

 

 

[ミルバ]

 

もう、オープニングで、僕は完全にKOされてしまった。この日の1曲目は、「アルゼンチンよ泣かないで」だった。アロンソが切り札として使ったこの曲を、ミルバはいきなりオープニングにもってきた。しかも、その出来映えといったら…。アロンソには悪いが、「格」が違うといった感じだった。すさまじいヴォリューム感、大胆な感情表現、伴奏を、文字どおり「伴わさせる」強引なまでのフレージング、ステージ映えする大柄な体と豊かな表情、圧倒的な存在感…並の歌い手が、クライマックスで放つ光を、彼女は舞台に登場した時点ですでに放って、おつりがくるほどだった。この1曲を聴いただけで、スサーナのチケットの2倍以上の金額を取るだけのことはあると、納得させられてしまった。

不思議なことに、またまた偶然、彼女は進行上のミスを犯した。イントロを演奏し始めたバンドを遮り、彼女は割って入って、演奏を止めさせてしまった。続けて2曲歌うべきところで、MCを入れようとした彼女のミスであることは、明らかだった。観客が観ている前で、舞台の上で、彼女とバンドリーダーが短い口論となった。(さすがにマイクは持たなかったが、生の声が届く距離にいたので、かなり激しい口調だったことも聞き取れた)客席に緊張が走ったのはいうまでもない。間もなくイントロが流れ、コンサートは無事に続けられ、観客も、胸をなで下ろした。

この時のミルバを、傲慢とみることもできるが、それ以上に、ステージ上では、自分が絶対に正しい、というくらいの気持ちでやらなければならないという姿、気込みみたいなものを感じた。公演後、ミルバとバンドの間で一悶着あったかどうかは知らないが、まさにそんなことは観客にしてみれば、知ったこっちゃないわけで、進行上の行き違いくらいで、公演全体が崩れてしまうようではいけない。もちろん、ミスの後の彼女も、実にすばらしかったし、バンドの方も腐ったりするようなことなどなく、彼女の歌をもり立てていた。ゴタゴタしたおおわびだろうか、この日の彼女は、出血大サービスで、歌なり、MCなり、しぐさなりで、大いに楽しませてくれた。アンコールが終わり、閉じた(青山劇場はカーテン式の幕)幕の間から顔を出して、生の声で挨拶するなど、茶目っ気たっぷりだった。

 

こうして2つの公演で、3人のアーティストを観たことになるわけだが、

一番、強く感じたのは、歌は「気」であるということだ。不調、ミス、そんなものを吹き飛ばす、絶対的なものを、胸の中に燃やし続けておかなければならない。人気、知名度とともに、スサーナに対して劣るはずのアロンソが勝利を収めたのは、まさしく、「気」の持ちようの違いからきている。ミルバがピンチを切り抜けたのも、「気」だ。ゆるぎない、確固たるアーティストシップというべきものだ。

ミルバに関してもう一点つけ加えると、彼女の公演日を観て、びっくりしてしまった。40日たらずの間に、なんと27公演!(うち、最長で7日間連続!しかも、千葉で演った次の日に山形へ行って、またその次の日には東京に戻って演るという強行軍を含んでいる)。こんなスケジュールの中で、あれだけのものを観せることができるなんて、バケモノとしか思えない。体調の維持以上に、まさしく「気力」の勝負になってくるに違いない。

しかし、いうまでもなく、「気」だけでは片づかない。その「気」でもって操る「器」を、より大きく持たなければならない。あんなにすばらしかった、アロンソの「アルゼンチンよ泣かないで」も、より大きな「器」を持つ、ミルバのそれにはかなわない。

もちろん、好みの問題も絡んでくるだろう。でも、たとえ嫌いなタイプの歌い手であっても、大きな「器」を感じさせる人の場合は、認めざるを得ないはずだ。今さらながら、ヴォイストレーニングの重要さを感じさせられた。同時に、人として、より豊かな経験、修練を積んでいかなければならない。そう、いつか書いたように、歌の「器」は、声の「器」と人間としての「器」の積なんだ。

「気」と「器」。この2つを鍛えるのに、ここは非常に役立つと思う。この場に巡り会えたことを、とても幸せに思う。この場に集う人々が、僕の中で大切な財産になるだろう。そして僕自身が、誰かの糧になれたら、これ以上の喜びはない。もっともっと「気」を高めて、もっともっと「器」を拡げていくために、もっともっと欲深くなりたい。もっともっと与え合いたい。

 

 

 

「GME'94あをによし」

 

オープニングはオーケストラに、いろんな楽器が加わって、平安朝というかシルクロードっぽいというか(似ているんです)、そういう曲を演奏した。エレキに管楽器はもちろん、雅楽に使うものや、初めて見る楽器もあった。そのうちに、雷のような和太鼓とともに、すごい人数の僧侶が一斉に読経を始める。お経を音として聴くと、結構音楽的だ。和太鼓も、原始的で情熱的で迫力がある。あれを聴くと、血が騒ぎませんか。どんな音楽にも合いそうだし、どうしてもっといろんなところで使われないのだろうと思った。

印象に残ったのはこの和太鼓の大群と、近藤等則さんの、ヒステリックなトランペット。こんな音が出せるのかと、ビックリした。楽器というより、ヴォーカルのようだった。東洋と西洋の楽器のアンサンブルも見応えがあった。アレンジの力もすごいんだろうが、うまく合っていて、ドキドキしてしまうくらいだ。聴いていると、いかに自分が狭い範囲でしか音楽を見ていないかということを強く感じた。

あんなに多人数で1度に音を出して合うというのも、プロなんだなあと思う。東洋的な音の良さみたいなものも、少しだけわかったような気がした。

東西の楽器のぶつかり合いはとても新鮮だったのに、「歌」だけ見ると、急に東洋色が薄れてしまい、残念だった。ジョニ・ミッチェルとは、布袋寅泰さんが組んで、ギターを弾いていた。楽器ではちゃんと生かされてるのに。

 

 

 

ブライアン・メイ

 

今回のアルバム、そしてツアーのメンバーはかなり豪華である。ドラマーにコージー・パウエル、ベーシストにニール・マーレイを従えて、ライブは幕が下ろされた。

正直なところ、俺はブライアンの新譜の曲はたいして聴きたいとは思っていなかった。たとえ懐古趣味といわれようが、ヴォーカルがフレディじゃないんだから…といわれようが、とにかくクイーンの楽曲を生演奏で聴きたい…そういう衝動にかられていた。

二曲目には早くもクイーンの曲“TIE YOUR MOTHER DOW”が飛び出し、会場は大歓声と熱気の渦/隣の若い女は半狂乱状態!!このときは、あぁ、クイーンの曲が生演奏で聴けている…という喜びと、もはやフレディはいないのだ…という事実を改めて突きつけられたショックとで、何ともいえない複雑な心境に陥った。

四曲目の“LOVE OF MY LIFE”は泣けた。ただ感動してこみあげてくる涙をこらえるのに必死だった。“39”や、“NOW I'M HERE"、そして、クイーンJAPANライブツアーではおなじみの“手をとりあって”など、この後もクイーンのナンバーが目白押し/コージーやニールがいることから、レインボーの曲“SINCE YOU BEEN GONE”もプレイされた。もちろん、コージーのドラム・ソロもあり。“WE WILL ROCK YOU”が始まると、前にいた一人で来ていると思われる女性が、突然ひれ伏し、体を震わせて泣き出した。この曲によほどの思い入れと数多くの思い出をよみがえらす何かがあったのだろう。“HAMMER TO FALL”で幕切れ。全十四曲クイーンナンバーは半分の七曲を数えた。そういう意味では、今回、俺がこのライブに求めていたものを充分にみせてくれた。

 

 

 

「カヴァーデイル・ペイジ」

 

この日は、ジミー・ペイジの一挙手一投足に釘づけ状態となった。かつてプロ野球観戦で愛用していた小型のオペラグラスを持参し、彼の動きをくまなく観察してしまったが、その動きはまさに今までビデオでしか見たことのなかったZEP時代のジミー・ペイジそのものであった。もうかなり年をくっているというのに、ジャンプまでしちまうんだから、もう恐れいった。

一曲目はアルバム「カヴァーデイル・ペイジ」のナンバーから“SHAKE MY TREE”だったが、2曲目にホワイトスネイクの曲をはさんだあと、3曲目には名曲“ROCK'N'ROLL”!!デビカバもフルヴォイスで歌いこなしていて気持ちよかった。ただ、この代々木体育館は、相変わらず音がよくないのが気がかりだった。“KASHMIR”、“IN MY TIME OF DYING”といった渋めのZEPナンバーが続出。“WHITE SUMMER”~“BLACK MOUNTAIN SIDE”におけるジミー・ペイジのプレイは感動モノ!全く衰えを感じさせなかった。

数年前に何かのイベントでボンゾの息子をドラマーに従えて、ZEP復活演奏をしたときのような悲惨極まりないペケペケギタリスト?ぶりは完全に払拭され、かなり往年時のパワーを感じとることができた。

“HERE I GO AGAIN”や“STILL OF THE NIGHT”といったホワイトスネイクの代表曲も歌われ、デビカバも張り切っているようにみえたが、ほとんどがZEPフリークと思われる聴衆の反応は今一つといったところ。俺としては、ジミー・ペイジホワイトスネイクの曲を弾いていることに不思議なおもしろさを味わうことができたけれども。

アンコールで“BLACK DOG”が始まると会場の興奮は最高潮。嬉しかったのは、最後の最後で再度、“ROCK'N'ROLL”をプレイしてくれたことだ。他の日はどうであったか知らないが、東京公演最終日であるがゆえのサービスであったとしたら、これはラッキーだったと思う。

かくして、ライブは終了したわけだが、71、72年のZEP来日公演は俺がまだ知る由もない。今回初めて、ZEPの生の空気を少しでも味わえたのは、やはり大きな収穫であると思っている。(国立代々木競技場第一体育館)