一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

鑑賞レポート アマリア、グレコ、村上進ほか 436

【マイケル・ボルトン

 

インタビューで、プロテニスブレイヤーのアンドレ・アガシが、マイケルを評してこのように言っていた。

「ステージの上の彼は、どんな曲だろうと徹底的に追いつめていって、自分のものにしてしまうんだ」

マイケルの歌にかける強いちと、真摯な姿勢が伝わってきた。

 

彼が歌うところを聴いていると、まず、気持ちよく歌っていることが感じられる。気持ちよく敬える、つまり思うままに表現できるだけの身体と心ができているということだ。彼は自分の全てを音楽にかけることで、あれだけのものを手に入れたのだ。

 

マイケルは「音楽には人々の痛みを療す力があるんだ」ということを理解していた。そして自分の音楽が人々の役に立っていることに喜びを感じていた。このことが私を初心に戻してくれた。「なぜ音楽、なぜ歌なのか」という最近の私の迷いを吸き払ってくれた。

なぜ私が自分の目の前に広がる他の可能牲を台無しにする危険を冒してまで、音楽を続けるのか。それは音楽にもっと大きな可能性があると信じていたからだ。「音楽には人々の痛みを癒す力がある」これが自分にとっての「なぜ」だったのではないか。自分の心がそう問いかけてきた。



【カリフォルニア・スクリーミング】

 

60年代のアメリカ、特にウェストコーストのロックは、ロックが一番パワーを持っていた時代のものだと思う。

まだ私が中学生のころ、これらのロックを耳にしたとき、理屈とか何とか抜きに、感覚的に、何かとてつもないエネルギーを感じた。まだ幼かった私には、この頃の時代背景などわかるはずもなく、後にこれらがべトナム戦争と、それに伴うカウンターカルチャーサイケデリック、フラワー・厶ーブメントなど、特殊な状況の中で生まれてきた音楽だと知った。

また、ロックがいろいろな可能性を探求し始めた時期でもあり、リスナー、オーディエンスとも、それを受け入れる懐の深さがあった(もちろん一つの定まった目槻があるからではあるが)。

 

 

【SWING TIME 10】

 

彼女は、齢は30敵前後だろうか。とてもキラキラしていた。ブラウン管から僕を見つめるその視線にドキドキした。たった1曲、2分ほどのものなのに、心を盗まれてしまった。こんな終験はとても久しぶりのような気がする。

その2分間には、躍動感があり、メリハリがあり、ピーンと張った、1つの線みたいなものがあり、ここでいうところの、体(特に腰のあたり)、息、声が一つになっていて、ここを続ければ、やがて僕もこういう風に自然に体ができるのだろうなぁとぼんやりながら、自分の理想像のようなものが見えた気がした。そして2分くらい歌い、踊り続けているのに、呼吸が全く乱れない強い体。彼女はここでいう要素を全て取り入れている、すばらしい人だ。でも、僕にとって一番すばらしかったのは、彼女の目がキラキラ光っていたことだった。



【アマリア・ロドリゲス】

 

本物であれば余計な飾りは無用である。“無印良品というブランドがありますけど、そんな感じを受けます。しわがれ声は日本の伝統芸能と一見、似ていて、親しみを感じますか、日本のエレキ・ギターをアンプに通さず、シャラシャラ鳴らしているようなのに対し、外国の人のはアコースティックギターの生音のように深いひびきをより多く伴っていて、安定感があると想いました。

 

何にも客にこびることなく、自分のありのままの実力を、訳のわからん国である日本で堂々とやっていて、感心するばかりでした(母国でやっているのは、もっとすごいということか?)。

人間がいて、本物の声で歌う。それだけでよい。それではわからない人は聽く必要はない。それを好きな人が、そこに集まって楽しむ。それが、ひとつの究極的な姿なのかと思いました。

 

歌のもっている基本的な波にただのっているだけではダメ。自分を出していかなければいけない。音楽を数学的に分解して捉えることも好きだったので、こういうことがわかってなかった。表現とメッセージが違うということがわかった。大発見だった。

いつの間にか引き込まれて、楽しく観ていた。「歌うことが人生で一番の喜びだ」といわんばかりに、後女は歌っていた。一番印象に残ったのは、曲と一緒に歌っていて、だんだんその客の声が大きくなっていったところ。ステージと客席が1つになって、大きなエネルギーを生み出す瞬間は、いつ観ても心震える思いがする。この瞬間があるからこそ、音楽をやっていてよかったと思えるのだ。

 

途中のMCで「昔は貧しかった」と穹っていた。そういう、後がなくこれしかないという気持ちで音楽にかける人は、やはり強いと思った。そういう人に勝つ(勝ち負けではないのだけれど)ためには、同じくらいのエネルギーを注がなくてはダメなのだろう。自分の状況は、決して後がないとか、これしかないというわけではない。けれどこんな中でどれくらい「後がない」人並みのエネルギーを注ぐことができるかにかかってくると思う。



【マイク・オーフィールド】

 

現代的なオーケストラという感じだった時間以上、延々と演奏が続くが、一つのドラマがあって、静かな部分と躍勤する部分とが、うまくバランスがとれていて、とてもよかった。あと、彼らは完全に音楽を愛する音楽家であり、音楽を奏でることに専念している。普通のライブだと、だいたいMCがあって、ダンスやら、客をのせるためのかけ声だとか、ステージを盛り上げるためのパフォーマンスがあるが、彼らは、音楽を奏でることだけで、それだけですばらしいステージが保てるのだから、すごい。

 

神がかった顔をしていた。演奏されている音の後ろに、大きな精神力のようなもの(想像力、実行力、エネルギーなど)を感じた。あれだけ大勢いるのに、よく息がピッタリ合っているなあと思った。涙ぐましい練習の成果なのだろう。

ステージ全体の印象は、神々しい人物、もしくは神なるものの誕生を祝う音楽というイメージだった。そして、メインがどんどん変わる中で、カメラさんがしっかりメイン演奏者を撮っていたのがすごかった。とてもよかった。

 

 

サッチモ

 

たとえば、我々日本という国を考えると様々な技術が日々進歩し、より優れた性能を持つ製品が毎年のように作られる。スポーツの記録も時代とともにどんどん更新されていく。

ところがいまだに俳句においては、万葉集以上のものが出てこないのはなぜだろう。ふとこんな事を考えさせられてしまう。

サッチモは、現在我々が当たり前のように考えている歌唱法を初めて創った人であり、これまでいろいろなミュージシャンが彼の歌唱法から学び、発展させてきた。

しかしながら今なお彼をこえる者がいない。芸術の最も厳しく、また最も素晴らしく、そして最も特徴的な点は、真に価値のあるものは、決して時間の積み重ねによってできるものでも、色あせるものでもないということ。たかが唄の中の、無限の可能性を感じた。



 

We Are The World

 

1985年1月28日10:00PM〜29日8:00AM、約10時間のレコーディングでこのアルバムは作られました。

たしかにあるころ、この曲が毎日のようにどっかしらで流れていたのを憶えています。そのころはとてもきれいな曲だなくらいにしか思っていませんでした。

「私欲を全て抜きにして、人のために何かをする」この精神に強く心を打たれました。歌うことで直接、人の命が救え、人の精神をも豊かにする。ヴォーカリストを目指すものとして、とても使命感を感じさせてくれるテーマ(行為)だと思います。そして自分は、アフリカ飢餓に対して何もできない、自分の無力さを感じました。

「とても共感できるし、とても感じているのにそれに応える力がない事実!」このことについては、これからもっと深く追求しなければならないと思う。



 

【B・B・King】

 

「シャウト」が凄い。太いそのまんまの声で上までイッてる。しかも軽々と。力強く大地のような声...。サムクック、Br・ジョー・メイ、マヘリア・ジャクソン、リトルリチャード、ジェー厶ス・ブラウンそしてB・B・キング..「ゴスペル」絡みの声って何でこんなに熱いのだろう。ラジオから流れる見知らぬ曲でも、ゴスべル絡みがどうか、いや、少なくとも黒人かどうかは分かるようになってきた。

 

「パワー・ロック・トウディ」がお勧め。HR、HMの日本市埸の権威、伊藤政則が来日講演や(その顔の広さで)海外ミュージシャンの自宅まで押しかけ「直にインタビューしたVocalistの生の声」を毎週聞かせてくれる。例外もあるがそのほとんどは「なんでそんなに低く太い声なの??」である。あのデビット・カヴァーデルも強烈だった。

程度の差こそあれ、B・B・キングもカヴァーデルも、話し声や低・中音域は、低くて太い。そして高域になって初めて掠れてくるのである(話し声も高域も全然変わらないやつは除外して)。しかも二人ともでかい。(力士型・プロレスラー型?と体形は違うが)かなり体をつかって歌ってるに違いない。

今の自分と比べ「体の力・息の量」の差は絶望的だが、しかし一生かけてでも鍛え続ければ彼らに一歩でも近づける「可能性」があることを数えてくれている。生まれながらにして「高い声・変わった声」を持ちあわせなかった凡人にとっての唯一確実で最強の武器である「体の力・恵の深さ」の必要性を再圈した。頑張らねば。



【三大テノール

 

ずーっと鼻の穴を見ていた。なぜなら、今、呼吸法について知りたかったから。本当に一瞬で鼻から息を吸っていた。とても見事に吸っていました。吸う瞬間に鼻の穴が「ピクッ」と動くので、それだけをずーっと見ていると一つの芸をやつているみたいで、とてもおもしろかったです。

でも演ってる本人たちは、たぶん表現のことで頭がいっぱいだと思うので、しぜんにああゆう呼吸ができるのは、それだけですごいことなのだなぁと思いました。



ビリー・ホリディ]

 

私はずっとわからなかった。特異だということは感じられたけど、どこがどうすごくて、人を惹きつけるのかわからなかった。でも、これまでの人生の中で、私にとって一番辛いことがあったときに聴いたら、感じた。

この人が受けてきた悲しみは、私の比じゃないと。それでもビリーは優しく歌ってた。

ちなみにそのとき、オーティスのことも感じられた。オーティスは人々のことを応援していた。がんばんな、って。誰が忘れても、僕は君を愛してるから、って言ってた。

 

「Jazz Masters」のコンサートの中で、ヴァネッサ・ウィリアムスが、ビリー・ホリディのことを、「人間のDark Sideに光を与えた人」だと言っていた。彼女を形容するのに、これ以上の言葉を、私は一生聞かないと思う。

 

彼女の歌声は、悲惨なものではなく、とてもきれいな声で、それもでしゃばることなく落ち着いていて、そして一つひとつ歌詞を丁寧にしっかりと歌っていて、何よりも「やさしく暖かみのある歌い方」をされていて、とても好感がもてるシンガーだなと思います。

 

何を歌っているかは、わかりませんが、あんなお姉さんがいつもそばにいて歌ってくれたら、毎日とても幸せな気持ちになると思います。彼女の歌声で想像できるものは、おばあちゃんのやさしさや、お母ちゃんの母性や、お姉ちゃんに対する憧れや、恋人といるときの幸福感など、女性から受ける全ての愛情を得(う)けてるような気がして、心から幸せな気持ちになりました。

このまま乳児に戻ってゆりかごで揺られてずっと聞いていたい気にもなりました。ときほぐれる歌声なのでしょう。そして、バックのピアノや管弦楽器ともうまくマッチしているのでしょう。

 

ジャズのゆっくりとしたタイ厶感で流れる世界の、気持ちよさはたまらなく官能的です。そしてあの歌声。また別の見方からすれば「本能に訴える」というか、ぜんぜん声に力みや飾り気がなく「直接、本能にひびく、もしくは語りかける」声で彼女は歌っているのではないかと思います。

 

福島先生の「何回でも聞きたくなる歌」の意味が少しわかったようです。ただ「奇妙な果実」だけは、違いました。あの歌だけは直接、心と内臓とをえぐり取られるような気になって、なんともいたたまれない気分になりました。詞の内容も特別なもので、あの事実を目のあたりにして強く心を痛められたと思うけど、現実から目をそむけず、白人社会の中で反対や抵抗を恐れず、この敬を歌った、いや訴えた、彼女の勇気を私は尊橄します。

 

ビリー・ホリディ、よく聴いています。彼女は歌っているというより、語っている感じ。サッチモもそうですよね。ビリーは歌詞を大切に考えていたので、ジャズシンガーがよくやるスキャットを絶対にやらなかったとか…。そういえば、オランダのアン・バートンも、ビリーと同じ理由から、スキャットはしないそうです。ポツポツと語りかけてくるアン・バートン、好きです。

 

 

【Hard Rock Heaven】

 

まさしく彼らは「野獣」である。殺気と熱気と狂気がオーラのように漂っている。しかも各々が独自の武器で一撃必殺の「ツボ」を心得ており、外見に似舍わず冷静で利口なのかもしれない。

わずか2、4小節のリフやフレーズの繰り返しが、こんなにも強烈でカッコ良く、色あせてもいないのは何故なんだろう。

 

1951年D・Jのアラン・フリードが番組名で、初めて「ロックン・ロール」を口にして以来、50年代後半の「エルヴィス」60年代前半の「ビートルズ」を経て、60年代後半から70年代前半の主役が彼らである。(ブリティッシュとかアメリカ、またいろんな流れがあり一概には言えないのだけれど...)

あれから20年経った現在も、結周「Rock」と名のつく音楽は変わってない気がする。(かなりの暴論だが)たとえばG・B・Dr・Voの構成自体、ギターの音を歪ませると自体、そろそろ疑問を持っても良い頃でねェ〜かい。時間的には古典なのに、現在にまで脈々と息づいている、息づき過ぎている彼らは(色んな意味を含めて)やはり偉大であり、理屈抜きでカッコいい!



【The Great Of Rock'n'roll】

 

ボ・デイドリーが、大勢いるアーティストの中で一番よかったです。彼は紹介でもあったように、本当に「我が道をゆく」という感じで、客がのってようが、しらけていようが、グイグイと突っ走り、彼独自の世界へ引き込まれるようでよかったです。ああいう周りにあまり左右されず、自分の世界を作り、それを楽しんでいる姿はとてもかっこよく(たしかに彼はノリまくっていた)、自分はわりと周りに左右されやすい方なので、というが相手の評価に敏感なので、ああいうなりふりかまわずやってしまう人を尊敬します。一番、渋かったです。

 

[J・ブラウン]

前座をつとめ、どうも客にのまれてしまった感じがしました。あれだけ一所職命なのに客がノッてこないというのは、とてもつらいことだと思います。ポに比べると、今一つ、世界を築けなかったように思います。

 

[ファッツドミノ]

あの笑顔は彼の初期の頃と変わらず、最高にいい!どんなにすごい詞を歌ってもあの笑顔に勝てるものはないのではないですか。彼はあの笑顔をずーっと(何十年も)保ってこられたのだなと思うと、それだけで、もう尊敬してしまいました。

 

ファッツドミノという歌手は、しっかり自分の枠組みを特っていて、それをあえて、無理に壊したり、新たにジャンルを築きあげるというようなタイブでは在く、とてもマイペースで、悪く言えば、マンネリっぽい感じもするけど、ずーっと長い期間、音楽活動を統けていこうと考えるなら、彼みたいなやり方、性格の方が、ロングスタンスでやっていけるのではないかとも思います。

 

 

[スティービー・ワンダー]

生で観るのは初めてで、出てきただけで、涙っという感じだったが、やはりすごかった。でも、小さい頃から聴いていた歌なんかが、本当にリアルタイムで、同じ空間で聴けるとは、なんだか大げさでなく、まだ私にはもったいないような気かした。大げさでなく、同じ時代に生きていられて、幸せだと思った。理屈ぬきで。

 

これから何か、感情や思考に変化や動きが起こった全てに対して、それが何なのかを文章として形にしていく。自分の内面と格闘する苦しみから逃げないようにする。感動が散ってしまわない内に刻む。会報を利用していく。

 

 

[トム・ジョーンズ]

何なのだ、あの肉弾声量男は!気持ちよいほどのぶっちぎれかたで、「怏楽天国」というアルバムを聴いてしまった。「to make you make you love me」なんて言われちゃうともー、なんだか楽しくなってしまう。植木等に「飲んだビールが三万本!」なんて歌われている時の気持ちよさと、同室の気持ちよさを感じてしまいます。

 

 

[クラウディオ・ビルラ]

今振り返るとその2時間があたかも1本の声の土管のようなものがあり、そこはしっかりしていて横からみると時間の経過になっている気がした。変わらぬ1本の芯がずっと力強く全てを支えている感じだった。観客の嬉しそうな笑顔が忘れられない。

 

体からはちきれそうな声にびっくりした。背の高さは普通というよりも低い方ではあるが、体も小さいといった方がよい。それでもあの声である。そして、息の量がすごい。体全体から何にも邪魔になるものがなく、しぜんと無理なく声が出ていて、しっかりと胸でポジションをとっていて、体全体から声が出て共嗚している感じだった。私はいっべんで声の魅力にとりつかれてしまった。

今読んでいる本に「・・・圧倒的なパワーと才能と歌うべき必然性を持つシンガー…」ということばや「歌わずには生きてゆけない人と、聞かずには生きていけない人とか触れ合い、ぶっかり合う理想的なコンサートを観続けたい、そういうものにお金を払いたい」ということばが出てきました。

 

「この人の歌が聞けたから生きててよかった」とそこまで思えるくらいのシンガーに出会うことも難しいのだから、ましてそのシンガーの側になる、というのもやはり100年あっても足りなそうだと思いました。しかし、そのような至高の存在でなく、いつも隣にいるから聞きたいときにすぐ歌ってくれたり、何度でもいつでもその人の声を聞きたい、歌を聞きたいと思ったりする人はいるので、私もそうなれたらいいな、と望んでいるのが自分の行方がちょっとかすんでしまうくらい、ビルラがすごかったです。

 

 

[ピアフ]

 

ピアフの歌は、フレーズがふくらむほど、体の芯に向かつて、まっすぐ深く力がかかる感じ。いろんな人の歌を聽いた。「こんなに声を出しても、まだ先がある」という感じの体力。確かに密度というものがあって、そこには気持ちというか、表現があって、人によって全部違う。そして、体の芯のところで、完全にコントロールしていること。

 

ピアフでもミルバでもない、第三の歌い手になる、その道のりははるか―と思ったか、そこへ続く道をまず選べているので、たとえ闇でも進んでゆきたい。自分の足で。

 

言葉を発することの難しさ。「ピアフが読めば、電話帳も…」とコクトーが言ったというのを思い出した。でもそれを、「すごいなぁ」などと言っている場合ではなく、そこまでいかなくてはそこを超えられないのだから、とにかく今は、一音を体につけて言えるようにしたい。

 

 

[バスティアニーニ]

バリトンの人の声を聞いて、一緒に息を吐いてみたが、話にならないと思った。声にぐんと心が魅かれて、その歌が何であろうと、どんな音楽だろうと間係ない、という感じだった。すごかった。

 

 

[ミルバ]

 

ミルバは、ある一つの芯があって、そこから始まって、どの音域にもいってるカンジですごかった。少しいくのも、たくさんいくのも、必ず芯からいくところ。

 

プロ意識―自分自身を最大限に魅せるための努力とプライドと、コントロール力がすごかった。自分の出したい声は、どうすれば出るとか、自分自身が観客にどう見えるとか、全て知りつくしているのだナと思った。「楽しい」とか「気持ちいい」だけで創るステージとは格段の重みの違いだった。

 

聴く方の意識の違いかもしれないけど、日本公演よりも、私なりに感動できた。ステージも狭くて、セットなども大がかりでない分、歌うことに集中されていた感じかしてよかった。とにかく存在感がものすごい。観ていて「圧倒される」といった類の感動である。スキがなくて、同じ人間なんだよナ、と驚くやら情けないやらである。

 

足の先から、髮の1本まで“ミルバ’’なんだなあという感じ。自分でも、自分のことに関して、そういう自覚はあるけれど、塗り物で言えば、一度塗りという感じ。ミルバ程の人だと、重ね塗りがきいていて、ちょっとやそっとじゃ、びくともしないと思わせる。声を出そうとすると、ことばや自分の体から、どんどん離れていってしまうし、逆にことばをたてようとか体から…とか考えると、声がどんどん自分の内側にもぐり込んでしまう。せめて、最低限レベルでもいいから、聞ける程度に、どうやって折り合いをつけたらよいのかと、ここしばらく思っていたのだが、観て、わかったような気がする。しかし、あの折り合いはミルバのものなので、どう自分で消化したものか。本当にわかる、というのは大変なことだ。

 

 

 

[ジュリエット・グレコ]

 

一目見たとたん、この人に出会ってよかった、この人から多くを学びたい、と感じさせる類の人がいる。そういう人は、無理矢理感想を絞り出す必要がないから、とてもうれしい存在だ。

私は個性的美しさを持つ女性が大好きだ。個とした人格があって、人間であることを突き詰めている人が好きだ。彼女は「人に理解してもらう努力をしていない」と言っていたが、彼女のような魅力の持ち主は、努力などしなくても、周りが理解したくて努力してくれるだろう。人に理解してもらうということは、全く当てにならないけど。

私もずっと以前に、理解してもらうことは、やめたはずだった。最近ちょっとおかしくなっていたせいか、すっかり忘れていたが。そのため、ずいぶん愚劣なことを言ったり、書いたりしてしまった。そんなことより、せっかく自分を芸術的に表現する場が与えられているのだから、そこで今できる最高のものを表現することに、もっと力を注げばいい。

 

彼女の表現方法は、私が将来目指すものに、近い。表現方法というより、「歌を通して表現することに対する、核となる考え方」とでも言うべきか。

たとえば、彼女は、自分が本当に興味を持ち、心を入れ込める歌しか歌わない(その歌を好きだとか、感性に合う、というものとも別だと思う)。ただ単に明るい歌、哀しい歌、それだけで完結してしまう、無意味な歌は歌わない。感覚的に通り過ぎていってしまう歌もバカらしい。いつも、人の心に何かを投げかけることを目的とする。それは訴えではないし、完成された疑周符でもなく、彼女という表現を受け取った人の心が、その人なりの方法で、自ずと耕していく、といった具合のものではないかと思う。歌を通しての伝達は、それが一番自然だし、有効的ではないか。

 

表現で、個性的、特徴的なのは、まず、その動作、しく・さであると思う。より一層、彼女の魅力や独創性を際だたせている。彼女は自分と歌を、より芸術的に表現するために、それを緻密に計画して、組み立てているのだろうが、まるで即興であるかのように、自然体の彼女を感じさせる。

きっと、どんなポーズを取っても、その中に自分なりのものをつかんでいるんだ。自分に似合う、自分らしいものを知っているのだろう。バレエによるところが多いんじゃないかな。

 

私も、ダンスを身につけるのは、自分の心と体を一体化させるために重要なことだと、常々考えてきた。歌をやる、ということは、自分以外のどこかにオリジナルを創り出すことではなく、自分の存在そのものを芸術に仕立ててゆくことだと思うので。だから、自分の体を知り、作り上げていくことなくして、私の歌はあり得ない。生きている芸術が、口を開いて声を発してこそ、耳を傾ける価値があると思う。

 

私は、女優になって、人がつくった役を自分なりに演じ、他人を一人一人作り上げながら、その裏側で自分を仕上げていくより、もっと表立って、ストレートに、自分という人間を演じてみたかった〈下らないものに手を貸したり、利用されたくないということもある)。一つの歌を芸術的に極めるより、その歌を歌う自分自身に芸術的な価値を持たせたい。

別に歌をやっていなくても、生きて動いている芸術は、世の中にたくさんいる。芸術になるまでの人生は様々でも、それらの人たちに共通するのは、人の心を動かす力があり、世の中に影響力を持っているということだ。

 

歌を通して、最終的にやりたいことは、歌、声が、存在が、それに触れた人にとって、少しでもよい方向へ行く引き金になって欲しい、なるようにしたいということである。誰かが、自分を掘る手助けをしたい。人間が生まれて、一生懸命努力して生き、やがて死ぬ。それを繰り返すことの意義を、世の中に問いたい。何かの運動に参加したり、世界に貢献する具体例はたくさんあるけれど、芸術の分野から、人の心の根本に触れることは、結構影響力を持つものだと思う。人間の意識レベルがあがっていかなければ、世の中はよくならないと思うから。

 

自分が芸術になるのは、ある程度、時間がかかる。人によって、スピードが違うだろうけど、今のところ私は、40歳を一つの終着点と考えている。だから、それまでの10年か20年近くを、どうやって人の注意を惹きつけながら、自分の表現をしていくかが問題になる。老若男女、様々な人がいるが、多くの人を惹きつける一番効果がある要素は、セックスアピールだと思う。いかに女性的であり、男性的であリ、ちょっとした言葉にも、独自のおもしろさが表現できるかということだ。

 

グレコに一目で惹かれたのも、彼女が美しかったからだ。そして美しいだけではなく、表情や言葉からにじみ出る、独特の何かがあった(美しいだけだったら、どうしてそうなのかを観察して、それきりだ)。ライザ・ミネリの存在に、とても心を動かされたのも、シャーリー・マクレーンをすごいと思うのも、彼女たちが40になっても、50になっても、かなり女性的で、それでいて、深く人生を生きてきたように感じさせる風貌をしているからだ(美に執看して、自己中心に生きたら、きっとあんな風にはなれない)。男性的でも、女性的でもなく、中性的であることを選ぶ時期も、いつかは来るのかもしれないけれど、今のところ、そういうものに魅力を感じる。

 

理解できないもの=難しいものなので、人でも、ものでも、たいてい敬遠される。けれど、興味を持った場合、人は、理解しようと自ら努力してくれる。私は、自分の好きなことだけをして、誰にも見向きもされないより、少し歩み寄っても、より多くの人の心に、少しでも何かブラスに向くものを残したい。そういう部分で、ルックスや自己演出は利用しなければならない。

 

グレコを観ていて、「悲しい歌」についても考えた。悲しい歌は嫌いだ、と思っていた。というより、悲しいだけで終わってしまう歌、心に絶望や、ちょっとした慰めしか残らないものが嫌いなのだった。世の中を暗く見るようになったり、自分を哀れんだりする以外は、何もないような気がするから。長調よりも、短調の曲の方に、心を揺さぶられることの方が多い。

 

 たとえば、クライスラーの「愛の悲しみ」の方が、「愛の喜び」より、断然好きだ。ロシア民謡にも弱いし、日本とイスラエルの国歌を交換して欲しいなぁとも思う。生きていれば、失望も、悲しいことも、たくさんあるだろうし、映画でも小説でも、そういうもののない作品は現実味を感じられなく、浅薄な感じだ。私は、できれば、そこで終わらせて欲しくない。それならハッピーエンドか、という単純なものではなくて、ひとしきり泣いたあとに、さて、これからどうやっていこう、と立ち上がるのが人間だと思うから。歌であるなら、詞の内容もあるけど、思うにそれは、歌い手の心の姿勢が大きく作用するものだと思う。グレコの歌に、ひたすら前向きであろうとする意志を感じた。だから、どの歌を聴いても、一緒に絶望している暇などなく、深く考えさせてもらうことができた。

 

 シャンソンの持つ、独特のリズムは素敵だ。フランス人は、話し言葉からしてリズミカルで、つい、引き込まれてしまう。ピアフにしても、グレコにしても、話していても、歌っていても、個々のリズム感を持ち、魅力的だ。シャンソンの魅力とは、語っているように歌い、かつ独特の強弱のある、微妙なイントネーションを持つことであると思う。

 日本語の歌にも、それを生かしたい。歌でなくても、自分の言う言葉を効果的に伝えようとするものは、日本語でも、そんな風になっている(落語や、関西系の芸人さんなど)。言葉の持つリズ厶感は、大切だと思う。日本語では、普段話している分には、あまり表現できなくても、歌では、フレーズを生かすためにも、言葉に心を込め、それ自身に生命力を持たせるためにも、リズム感は重要だな。そんな意昧では、今一番、シャンソンに興味を覚える。

グレコは自伝も出しているそうなので、一度読んでみたい。

 

 

 

 

[村上進]

 

アルバム一枚を通して聴いて、一番印象に残った曲は、「ケセラ」だった。

以前、この曲が課題曲だったからだと思う。そのとき私は、この曲が好きになれなかった。歌詢の内容が受け入れられなかったし、歌い手が明るく歌っているのが気に入らなかった。歌詞を解して、それを表に出せばよかったのに、結局、自分でどう表現したらいいのかつかめないまま、いどんでしまい、中途半端で終わってしまった。

 

歌詞の内容がメッセージとなって、入ってきた。かっこわるく思えていた歌詞が、深い意味を含んでいた。こういう風に歌えば、確かにこの歌詞は生きてくるなあと、そんなことすら分からなかった自分を、少し恥じた。もっともっと自分で考えて、どういう方向に持っていくか、決めなくちゃいけない。それも納得がいくまで突き詰めなくちゃ、意味がない。

村上進は声もすごいけど、歌のメッセージも深くて、そういうところも見習っていきたい。

 

同じ歌でも、音だけ聴くのと、映像と一緖に聞くのとでは、全然違う。映像も一緒の方が、ずっとうまく聴こえる。それは、その人の体からでている、オーラのせいだろうか?

村上進を見ながら、全く関係のない、いいアイディアが浮かんだ。これもオーラのせいだろうか。

 

大変ショックを受けた。自分も死んでしまいそうだった。みんな「抑えている」と言っていたけど、そうは思えなかった。それは言い方が違うと思った。

自分の歌う歌との関わり方は、色々なタイプがあると思う。

その選び方がつまりはオリジナリティにつながるのだと思うが、この人の歌、村上進さんの歌は、その歌の芯の所と自分の命の芯を完全に結びつけてしまっている―しまっているというより、吸い込まれるように、そうせざるを得ない人だと思った(きっとそれでも、歌っているときには、自分の中の真実と偽りとの間でさいなまれ続けたのだろうけど、それもひつくるめた意味で)。

 

初めて見てショックだった。この人が死んでしまったことが、納得できた。たぶん畏生きはしない宿命であっただろうことも、受け入れられた。まるで、首吊りロープの真下で歌っているようだったと、感覚だけで語るにはものすごく失礼な領域ではあるけれど、ただ、本当にそう思った。

たぶん、この人の人生には、いろいろなことがあって、楽しいこともあれば、悲しいこともいっばいあって、きっとこの人自身に会うと、ユーモアも茶目っ気もシャレっ気もあって、少年みたいな人なんだろうけど、この人の一番深いところに沈んでいる「死」への想いが、私自身の中の「死」への想いを、ごそっと箱ごと引っぱり出してしまった。

 

村上進さんを聴いていたら、ビリーを思い出した。村上さんは、Dark Sideをつかんで、握りしめて、話さなかった人だと思う(違うカナ)。私はえぐり出された。もしかすると、ずっとこのDark Sideのことは忘れてしまえそうだったけど、もう忘れられそうもない。今聴いたばかりで、ただ、戻れないだけかもしれないけど、私は、ここで学んで、自分の深いところで、自分の声をつかまえたら、私もどんどん死に向かって、歌ってしまうかもしれない。

 

「カルーソ」

すごくて、「お前を愛した」っていう言葉は、過去形なんだけど、まさにこれは今進行しているそのときなんだって感じた。すごく絶望的な感じが伝わってきた。

 

「鏡の中のつばめ」

離しすぎて、最も理解というか、ちゃんと何か感じながら聴くということができなかった。

 

「6時が鳴るとき、私はブエノスアイレスで死ぬだろう」

これは、曲がものすごかった。すごい構成だった。一度時間通りに時が過ぎた後、全ての時が早回しに過ぎるという辺りは、もうサイケデリックの世界で、6時の鐘の一点に、全てが集約されていく。

 

「3001年へのプレリュード」

ある憲味、私の夢の世界。時や未来や永遠について、これだけ力強い、確かでシンプルな言葉を用いて、日本語で歌われた歌に、私は初めて出会ったような気がした。

書きながら、だんだん現実の私に還っていく。帰り途中の電車の中で書いていたので、肉体も同時に家に近づいていって、そして今、自分の部屋にいる。

 

すごく日本を感じた。時代も存在していた。何か、しみったれてた。暗かった。希里がなかった。さみしかった(それにしても、日本ほどユニセックスな国は、他にないんじゃないかと思う。少なくとも、灼熱の太陽が輝く、情熱の国ではない)。

 

象は死期が近づくと、自分で墓場に行くという世界は、それぞれの人生と同調していて、それぞれに自分の墓となる地があるんじゃないかと恩う。その地を探して、たどり着くまでの様々な時を、それぞれのいろんな空の下で過ごすのは、いいことなんじゃないかと思う。

また、JANISが死んでしまったことに吸い込まれそうになった。

世界でたった一人の私を見つける旅ははてしない。こうしてこれから、何度も何度も打ちのめされていくのだろう。でもこうして、何かに感じ入ることのできる自分を、その度に打ち砕かれ、生まれ変わる私の人生を、幸せと思う。

 

自分はいったい何をうたっていくのか...。

村上進さんの歌をきいて改めて強く考えさせられた。どんなジャンルの歌か、という意味ではなく、声ができたあと、この存在すべてかけて何を伝えていこうとしているのか、ということだ。

 

ピアソラというテーマは、村上進さんにとってのひとつの答えだったのだろうと思う。ライフワークとして、存在のすべてをそそぎこんで歌える、そんな演目だったのだろう。死、再生、愛、別離、といった重厚なモチーフの歌曲に真っ正面から向き合って、歌い切った。ひとりの表現者、歌い手として、テーマも歌唱技術もつきつめてつきつめて、選びとったのだな、というのが、痛いほど感じられた。本物だけの持つ研ぎ澄まされてた何かがそこにはあった。

 

へッセが「デミアン」の序文で、「この作品を書くことにょって、私はいくらか楽に死ねるのだ」といったことを書いていたが、村上進さんにとってのピアソラ作品にも同じ事がいえるのかもしれない。彼が本当に死んでしまったから言うのではではない。

歌という道をまず選ぶ。そして歌い方を選ぶ。歌う題目を選ぶ。では、それらを使って、いったい何をしょうとしてるのか?何をしたいんだ。

 

うまい歌なんてクソだ。そんなのは他の誰がうたったっていいんだから。「自分」がうたうその訳は?簡単に出る答えじゃないし、答えはもしかするとないのかもしれない。しかし、村上さんは、その答えを見いだし、しかも、表現しきったと言えるのだ。表現者であれば、誰もがもとめる真実を、ついに全身で味わうことができたのでは、と。

すべてをかけて「いいたいこと、伝えたいこと」をもりこむために必要な器(曲)を探し当てて、歌という形として表すことができたのだ。それは間違えなく有り離い、至福であったのではないか。

 

私は歌で何をしたいのだろう?とにかく自分のすべてを拾ってみつめていこう。つらい作業だが、だめなところも、汚いところもすべてを手にとって。すべての感覚をひらいて、歌を探す、そうやって、しかし、何年も何十年もかかる世界なのだろう。覚悟をきめよう。