一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想 課題曲、特別レッスン感想  467

レッスン感想  

課題曲レッスン感想

福島特別レッスン感想  

 

 

◯レッスン感想

 

いつもこれにつきるのだが、毎日、声を出さないと、3日後、4日後、退化する。自分でわかるくらいだから、さぼっている形跡は、先生や私の歌を聞いた人は、気づくかもしれない。ここへ来ると、声を出すことも大切だけど、初心に返るなど、初歩的な要素にまだ頼っているところを発見して、そこから自分のオロ力さに気づくことも大切だと思った。そろそろ生活のペースの変化にも適応して、毎日、声を出すような時間を割り出したり、精神を活性化させるようにしなければならない。

 

限られた時間ならすべてを100パーセント有効活用しなければもったいないし、その時間、精一杯、活性化された精神状態でいなければ、いつ「アーティストたる人」になる日が来るのか…。周りの状況に気をとられて、アタフタしているうちに自分自身への感心が足りなくなっていた。「大変、大変」でいては、いつまでも自分に立ち戻るときがなくて、何かを忙しくこなしていても、空回りしているのだろう。そろそろ「自分中心」というエゴのような小我ではなく、自分の空間、時間、自分の願望などの大きな我欲を大切にしょう。

 

体を素直に使う、りきみを各部分からとっていって、必要なところに力を入れて、ということがとても大切だと実感してきました。声が出ることの妨げになるものを排除していく、注意深く自分の体を観察することで、今どこに力が入っていて、その結果こうなっているということがわかるようになってきました。床にうつ伏せになって、胸の振動を感じるトレーニングでは、全くと言っていいほど、感じられませんでした。立って手で触ってみると共鳴しやすい音では感じられるんですが、皆さんと同じで大きい声、低い音でそうなりやすいし、逆はなりにくいです。まだ絶対離れないというところまでは体得できていません。

 

低音部分で声を出したとき、胸にどっと太いイメージの息が流れている気かしてきた。そのときの自分の体は「お腹の筋肉でむりやり太い息を流してやれー」という感じではなくて、「息を吐いたら、とても楽にどっと太い息が流れていたのだわ」という感じだ。この感覚を忘れてはならないと、次の日に一人でスタジオで声を出してみた。ただ、息が流れるイメージは太くていいのだけれど、声にするとキレがなくて、息もれしている。これをもってピュアなしっかりした声に変えていかなくては…と思った。

 

 

体の柔軟性をつくること。体でコントロールできる息の量を増やす。深呼吸、長く吸って長く吐くなどの呼吸のトレーニングで体の内側を鍛えることをする。硬い体がどう声に影響するかがわかった。体を50使ったら息も50吐けるようになる。このバランスが悪いとうまく声にならず、体ばっかり疲れたり、体に力が入ったりしてしまうこと。いつもすごく無駄な力が入っていると感じていたが、自分の悪いところがたくさん確認できた。

 

私は、時と場合によって、声が全然違ってしまう。それが、カの入り具合とか声の麥換の効率の悪さであること。吐ける息を太くするとともに、声にしたときの体の状態をもっとよくチェックする。声のムラをなくす。うまく力が拔けたら、それを逃かさずに追求すること。

 

 

ある瞬間に胸にボーンとひびいて、そして、それがしばらく続いたことが本当に感動しました。が、すぐに忘れてしまいました。「ヴォーカルステップアップ講座」を読んだら、いろんなことが頭の中にあって迷いながら悩みながらレッスンを受けてましたか、今回のでなにか希望がわきました。しかし、体がまだと言われ、もっともだと思い、もう少し鍛えなければと思いました。

 

フレージングのところで大事なのは、音程でもメロディの正確さでもなくて、表現だ、とおっしゃっていたのが歌を自分のものにするときに、個性を出そうとするときに一番必要な部分で、体を使うとか息を吐くとか、のどを関くとか、いろいろ考えずに頭をクリアーにしてやってみると、とても気持ちがラクになり、どう歌うか表現するかということに没頭できました。

 

一つのフレーズを今日は何回もまわしてくださったので、回を重ねるたびに、より自分らしい表現を追求できたように思います。普段のトレーニングのことを一時捨てちゃって、自分が歌を歌うとき、つくるときの自分の感性に耳をすますことがとても大切だと思いました。自分の世界に入っちゃっていいんだとわかりました。

 

フレーズを一つずつ追いかけるのでなく、構成、配分して方向を出す。タイム感、リズム感を含めたセンス。声の線を出したら、中途半端にせず、線上で体を使って動かしていくこと。

イオ・ティダロの「イオ」の深さ。みんなそこで、ノドにひっかけたりしてしまっていた。その手前で力つきて、一度離してしまうからだろうか。

 

 

プロは声の深み、奥ゆきが全然ちがう。三連符にことばをおいていくのが難しかった。意識しすぎるとことばが壊れ、逆に少しでも気を抜くとダラダラ流れてしまった。何より体がついていかない。プロのを聞いてると、体でつかんでコントロールするということは、ダラダラ流れず、フレーズが自由になることがよくわかる。自分でやろうとしても、余計な力で動けなかったり、体の足りなさで押しつけてしまう。途切れてもいいから体から離さないようにする。そうしないと伝わらない。

 

普段、福島先生はとても厳しいことを何げなくサラリと言っているが、素っ気ないことによって自分の中に吸収できず、意識があさってにとんでいるときがある。トレーナーが一言一言大切そうに講義してくれると、普段、福島先生はすごく大事な、不変的なことを言われてるんだなと思った。そのことは自分の全感性を鋭くして、福島先生の言われることを自分の中に吸収してればしぜんと気づくことだと思う(そんなこと気づいて当然だと思わねばならないぐらい厳しい)。

 

自分は体のことを考えると表現できず、その逆も同じでなんだか表にでてきたもの(つまり表現)が内にこもってる。そこの限界は前々から感じているが、次回からはどこまで自分を出せるか、変人になれるか、恥をかきにいけるかが勝負だと思い、がんばろうと思う。つまり、与えられた課題をどこまで自分でくずせるかが問題だ。

 

「声が割れる」ということを先生に伝えるだけの声もないと知った。自分でもよくわかっていないのだろうし、それを表現するだけの声がないのだ。死ぬ気でやっていないと気づいた。叫んでいない。どこかで自分の体に遠慮しながらやってるのだ。先生が判断できるほどのレベルになっていない。小声でぼしょぼしゃ言ってるレベルなのだ。ただ声を大きくするというのも一つの手だが、のどにくる不安もあるし、場所の問題もある。器づくり。トレーナーの何度も言っている体づくりの大切さが、やっと身にしみてきた。たくさん息を吐けるようにする。

 

どうしてそうする必要があるのか、それは自分の歌いたい歌に答えがある。一言でさえ、外国人のように、先生方のように言えない。どうしてトレーニングを死ぬ程、歌よりもやらねばならないのか。

イタリアの人たち、プロの歌を聞いていて、見えてきた。出し方が違う。歌が違う。おそらく今、私がどんなにシャウトしたところで、先生の耳には届かないだろう。「もっと本気でやれ」と言われるかもしれない。それだけの差がある。その時点で、ヴォリューム一つでも、耳の差、つきつめ方の差、自分への追求の仕方の差。

 

「一番やっている人よりやれば自信がつく」と先生は書かれていた。トレーナーたちを目標にしていた。あそこまで執着してやれるかと、スタートしたつもりだったのに、まだ白線の上にいた。進んでいなかった。

 

もっともっと知る必要がある。何をどのレベルでできるのか、できないのか。何ができないから、どうするのか。自分の現状を知る。差を知る。耳が欲しい。体が欲しい。1年で基礎の基礎をつくりたい。どうにかしなければならない。入る前と同じなんて、絶対にイヤだ。「まだ」と見るか、「もう」と見るかは、私次第だ。

 

自分というものをもっと大切にして、周囲に関係なく外に出していかなければならない。自分がヴォーカリストになることに対して、どれくらいの志をもっているのか明確にし、その意志をどうキープしていくかが大事である。レッスンには関係ないことだが、福島先生の声のひびきのすごさに驚いた。

普段のレッスンではキーボードの向こう側にすわっているのでよくわからなかったが、体がビンビンひびいているのである。自分の体や部屋の壁までひびきそうなくらいだった。

 

フレージングについて。たった2音のことばでも、フレーズ一つ、伸ばし方、強弱などで人によって全く違うことばに聞こえる。そのことばを発するときに、そのことばの情景を一瞬に浮かべ、そのことばへの想いを一瞬に語れるぐらいの気持ち、そして実力が左右される。

 

 

ハミングから「ラ」に声を出すとき、一つの線になるようにごまかしがきかない。「い」(i)「う」(u)「ん」(m、n)は、のどを開けたままたっぷりの息と体をつけてやればよい。あごを後ろにすることに気をつける。フレーズのなかに一つの線をしっかり流すことは、やはり息、やはり体。ハミングの時点で問題が山積みだ。自分なりに体をつくっているつもりではいつまでも自分サイズでしかない。できていないうちに大きな大きなものをめざして、さらにつくっていく。今できると思う方が間違いなのだ。できないなりの何かを各授業でつかんでいきたい。

 

「N〜」というハミングで、のどをしめずに深いところでとってそのまま「La」などにしていくやり方。ハミングのときと声にしたときがあまり変わらないようにする。胸できちんとひびきをとる。フレージングの練習では、いかに大きな波を出すか、自分のものとして表現できるかか、いつも勝負だと思う。

 

今日の1オクターブある曲では、そのへんがとんでしまって覚えることとか音をとることに精一杯で情けなかった。「N」とハミングである程度の音量をとろうとすると、のどがしまんできてしまう。本当に狭い音域でしかできないと知った。胸のひびきもまだとても弱い。もっとしっかり体感できるようになりたい。

 

ハミングがこんなに大変だとも知らなかったし、自分が苦手だと(のどをしめやすいようで)も知らなかった。先生が、こういう授業で曲を聞いて覚えて自分の表現ができなくてはいけない、ちょっと聞いただけでも集中して記憶して(ことば、メロディ、リズムなど)それをすぐ消化して表現するのがあたりまえだ、というようにおっしゃっていました。その通りだと思います。授業だと思って甘えているところがあるので、もっと真剣にやらなくてはいけないと思いました。今日一番、身にしみたことばでした。

 

レッスン以外の時間も、どんなに大切か、痛切にわかる。一人で自分自身と向かいあった時間がないと、レッスンに向かいあっても自分を映すものがない。人に惑わされない、自分自身の課題を見つめ続け、つきつめること。

 

六拍子は二拍子系であるということ。そう考えてリズムをとるとやりやすいです。ダブルバーとエンドバーとあまり区別しないで考えていましたが、確かに違うことがわかりました。音程のソルフェージュで下がって上がったり、上がって下かりきる音など、いくつかフラットぎみになりやすいパターンのところがある。リズム(手で打って)もやりましたが、リズムの取り方がまだぎこちない。

 

モノホンを聞きとる耳の力をつける。その歌い手がどういうふうに体に入れてるか。「歌おう」としすぎてはいけない。実際にそんなに歌ってない体と息にことばをつけていく。心に近い音・声(まだ心そのものの音はイメージできない。まだ生き方か甘いから)をつかむには声を出し惜しんではいけない。

 

日本の歌のかっこ悪いのは、歌とか、音楽とかをやたらと偉そうな特別なものに仕立てようとして、音楽も演じる本人をも飾ってしまうところだと思う。できるだけ飾り気のない原石のような音に声を探し続けようと思う。歌ということを考えずに、今日、ただ心に素直に「何も言わないで」をやったら、とても幼稚だった。でもそれでいいと思った。まだ私にはそんな熟れた愛の歌は歌えない。私の知ってる愛の歌を歌おうと、そう思った。

 

今日のレッスンは「歌うこととトレーニング」ということを考える上で、大変勉強になった。トレーニングが先行してくると「歌う」「感じる」といったことに対する感覚が鈍くなっていく。トレーニングがうまくいくことに満足してしまう。それではいけない。私は“歌う”ことのスタート地点にここを選んだ。どこかで10年とか歌ってきて調整のために来たわけじゃない。自分の方向性も探っていく中で、ここは言ってみれば、一つの型に自分をはめてみる作業だ。そこからくる、ストレスは大変大きい。でも私は自ら、そのストレスを選んだ。目先の自由よりも、より大きなもののために、足かせを選んだ。必ずはねのけてみせる。全てのエネルギーを変えてやる。

 

 

本当に正しい一つの声を出すトレーニング。一人ではよくわからないやり方を、出しやすい、あたりやすいやり方を教えていただいた。自分で訳がわからなくなんで目の前が真っ暗になっていたところに、ある程度、「今はこれさえやれば、どうにかなる」という保証をもらったような気がした。

音楽イメージそのものは人に教えてもらえるものではないが、間違ったトレーニングをしないように「トレーニングとしての方向づけ」を学んだ。

 

グループだとどうしても自分のやっていることが合っているかそうでないかは、基準が偏差値50のように与えられて、はっきりしないところもある。でも個人だと基準が見えなくても何か、絶対的に正しい基礎の部分を感じることができる。

 

先生がやった後にやろうとしても、同じひびきや息の流れにはならない。息の配分やシンの握り具合が、後に続いてやっても私のは先生と全然違う。先生は、キバるわけでもがなるわけでもなく、しぜんに普通にやっているのに。先生は話す声と「ハイラララ」とやってみせる声と同じだけど、私にはできない。

 

あと10回声を出して、10回同じように安定して私は出せない。10回中、先生が「そこだ」と言ったことをもう一度やろうとしても、2回目、3回目とバラバラになつていく。それでまた、たまに当たりのいいものが出る、という手当たり次第、当てずっぽうな体しかもっていないとよくわかった。ということは、そこを何とかしなければ、にっちもさっちもいかない、ということだ。自分の一番近いところにある課題を見つけられてよかった。

 

ポジションを深く、音質は太く、シンのある声を出すこと。浮いた声にしない。特に高音に行くにつれ、声が浮いてしまうので胸につけたまま上にもっていく。声をつくるにはとにかく時間がかかるので、あわてずにゆっくり自分自身をつくるんだと思いつつ、繰り返すしかない。声自体は太くなったように思うが、まだりきみがとれない。体をしめるのではなく、体を広げるつもりでやらなければ、音声もりきみが見え、気負いのようなものが見えてしまう。もっと余裕のある堂々とした、ひろがりのある声を出せるようにもっと考えなければいけない。リラックス、リラックス!!

 

久しぶりの基礎の授栗だった。そう、2カ月前「こんなことして本当に」とか正直思ってた。けど今、それがゆつくりワインができるまでを見てるみたいで…。うまくいえないけど、聞いている人にはそれほど変わらないかもしれないけど、自分の中で革命が確実におきていることがわかった。「またこれか…」と少してんぐになっている。いかにも「ずっと前から私はこのトレーニングしてるんですよ」的な。今日ハッとそのことに気がついて自分に喝を入れた。

 

前以上に確実に体は動くようにもなったし、場の空気にも慣れてきた。だからこそできることをもっと今以上にできるようにしなくちゃと思った。なまぬるい湯につかっているとそれがなまるいことを忘れてしまう。だから熱い湯にとびこんでいこうと思った。

 

一人ずつ、声を出すのはとてもよいと思う。悪い方向に行けばちゃんと指摘してくれるだろうし、人に聞かれてるという意識があるから、どっかへんに気取ったり、そこがわかるから悪いところがわかったり、自分で自分の声がチェックできるようになってきたのかなあ?まあ前よりはそうなったか…。あと、人の声聞いてチェックになるところもいい。

 

このところノドの調子が悪いのをよいことに、ひびきを上に逃がしてポジションを狂わせてしまった気がする。1日休むと3日分戻るということを実感した。反省、反省!

 

三連符のリズムとフレーズ。ピッタリ合わずだけでは光が見えてしまう。自分の感情でのせていくこと。村上進さんのことばのずらし方は、気持ちよく合っていて大きいフレーズになっている。いろいろ聞いて、そういう感覚をつかまなければと思った。押していくところをおさえるところ。知っている曲なので、わかりやすかった。先生がおっしゃってたような点を聞いたとき、自分でわかるようにならなければいけない。

 

 

フレージングの語尾をきちんと体に入れて言う。語尾の処理の仕方に気をつける。フレージングもそうだが、私はまず、「ハイ ラオ ラララ」からそろえていく。特に「ラララ」は段々はずれていくので、最後まできっちり体を使って言う。山をつくっておいて、浮かすというようなことは毎回おっしゃっているが、とても大事だと思う。

 

今日は歌にリズムや流れを出すということを、曲をかけて拍を刻んでいる(レガートでも)のを聞かせてもらって、声が細く波打ってるのも聞けて、とてもわかりやすかった。何度も一人ずつ言うチャンスをもらっているのに、なかなか納得のいくものか出せない。キイの設定を間違えてのどにかかったり、イメージができていなかったり、山をつくりきれずに流れを出せなかったりいろいろだ。終わりまでに1回は何か一つ、つかんだものを出したいといつも思っている。声の出し方がとても乱暴で雑なので、何とかしたいと思っているが、ある程度、体ができてこないと難しいのかもしれない。とにかくおもしろい授業なので、常にMAXを心がける。

 

4つのことばがフレーズの中であったら、体(息)の配分を一番盛り上がるところ(つまり、一番伝えたいところ)に一番多くもっていく。たとえば2、2、4、2の割り合い。でもこれは自分の体でつかんでさえいれば、どう配分してもかまわない。

 

今日のレッスンでは自分なりに壊そうと思って、1、1、7、1ぐらいのつもりでやったが、ただ一番伝えたいところを伸ばすだけでもだめで、そこで初めて体(息)の粘りで強さをみせる力をうまく使い切るってことだと思う。

 

日本語は非常にのせにくく、すベてのことばが平均化してしまうことから、歌にメリハリも迫力もない(福島先生はこのことをラップに例えていた)。一番入れることばから、他のことばすべてをるき込むというか。あと、久しぶりに声を出してスッキリしました。この感覚は、すごく大切だと思います。

 

今、これを書きながらカンツォーネを聞いてますが、レッスンが終わった後だと、すごく声が聞きとれます。自分の発声の体の感覚が残っていると、そのことによって意識ができ上がってるからだと思います。なんにしても、これはいい聞き方の新しい発見です。

 

最近、自分の中で理想の声として、下半身とウエストまわりの土台をしっかりとさせて、胸でポイントをとりながら頭の先から“スコン”と抜けていくような声を目指しているのだが、これがなかなかつかまえられない。土台と胸部の共嶋かうまくかみあわなければ決して、頭から抜ける声は出せないのだが、このはじめのポイントでもう失敗している。どうしても体が言うことをきいてくれない。

 

体中に「リラックス」ということばが成り立つときは、1カ月に何回かしか出ないのだが、この理想の声に近づけた。しかし、決まってこの声が出せる2~3回が終わると、体のどこかに緊張が走り、ひっかかりができる。とことん柔軟をしてみるのだが、どうしてもこの筋肉の緊張はとれてくれない。自分の体なのになぜ思い通りに動かない。

焦れば焦るほど力が入れ、声をころしていくあの開放感が味わえない。

 

プロとは、いつでもどこでも、この理想の声を出すことができ、本当に歌うこと(声を出すこと)が気持ちよくなれる人たちのことを言うのだろう。今は50分の1ぐらいの確率で出せるあの声を、20分の1→10分の1→5分の1→3分の1→2分の1とだんだんと、そしていつでもどこでも出せるようにしていきたい。そのための体づくりであり、声づくりだから。そして、そのときはじめて、0のスタートラインに立つことができるのだろう。時間はかかると思うがとにかく今はやるしかない。100%、120%の自分を目指して…。

 

 

 

 

◯課題曲レッスン感想

 

「愛」ということばはそれほど深く、そして経験がなければそのことばを言うことはできない。しかもそれを「愛して」と誰かへ訴えなければいけないから、表現力を要求される。声を深い場所で捉えることと、ことばを深い意味で捉えること。この二つをクリアして初めて、メロディにのせて歌となる。

そこにリズムがからみ、生きた曲が生まれる。

以前、日本人は外国人アーティストをゼロからはじめると考えた場合、マイナス20から始めなければいけないという話を聞いたが、まだまだ私自身はマイナス19にいるような気にさせられた。

 

授業でまわすフレーズは、いつもそんなに長くない。先生もおっしゃったように、ホワイトボードの字の形を目で追って歌うのは×。サンプルの歌を耳で覚えて腰のあたりでしぜんにリズムを捉えて、というふうに全体を捉えるようにしていった方が、自分なりの歌い方もできると思う。文字を読み読み歌うのは、「歌わされている」かんじになってよくない。ハミングから発声に入ると、かなり声の通り方がわかりやすいか、それでも最近、声かかすれることがある。ムリをしないように要注意。

「クアンド・クアンド・クアンド」、英詞との雰囲気の比較が興味深かった。

 

「二人でお酒を」 サビの手前からサビに入るとき、バランスを癖えてること(サビでの盛り上り)。フレーズの中の鋭さ、切れ。今までメリハリというのを強弱でしか意識していなかった。ダラダラ聞こえる、サビでいくら大声を出しても盛り上がれないのはなぜか、わかったような気かした。

よく知っている曲だが、とても新鮮だった。「さみしくなったら」の「し」感情を入れやすい。ここで感情を強めたらしぜんと粘れると思った。   

 

「ラ・ノヴィア」 アヴェ・マリア」の「ア」が深くできない。ことばだけに集中していると、どうしてもキレのようなものがなく、ダラダラ伸ばしているふうになってしまうこと。「白く輝く」の「が」で浅くなる。サ行のときも、力が抜けそうになること。「美しい」の「つく」が難しい。

 

 

 

◯福島特別レッスン感想

 

一声で誰だかわかるヴォーカリストになるということ。今現在も、一声何か言っただけで、先生に私だとわかってもらえるようにしたい。それだけ一声に込める。以前からおっしゃっていたことだけれど、息と体、息と声をつなげて、最終的には体と声をつなげる。息を橋渡しの役にして。その必要性を何度も確認しておかないと、おもしろくもない息吐きのトレーニングがつらくなってしまう。また半年後、先の自分のために今、トレーニングして体をつくっておくというのは、すぐに結果の出ないこのトレーニングの”あせりは禁物”という部分だと思った。

 

先生が「頭にひびかせた声」と「後ろにまわした声」など数種類、実際にやって見せてくださいました。すごくわかりやすく、ああこういうのをそう言うのかどいう感じでした。トレーナーの条件として実際にやって示せるというのがあると思いますが、一番わかりやすく、おもしろいと感じました。

 

今日の特別授業は33名いて、私も皆と同様に名前をもたず声で存在をアピールしなければなりませんでした。先生に憶えてもらうには最大限でいつもやらねばならない。人と違うことをしなければならない。一つひとつの授業自体がアーティストの場だという自覚をもって、自分を見せていきたいと思います。

いつも表現できない、体のない、技術のない自分との闘いなわけですが、明日の自分のために体づくりに励んで、体ができたときからが本当の完成の勝負だと思っています。本当に大変なのはそれからですね。

 

今日のどの調子がよくないと思って講座に出席したが、いろいろな課題でトレーニングしているうちに調整されて調子がよくなった。ヴォイストレーニングは、のどを痛めるものではなく、むしろ調整されるものなのだと実感した。

 

声そのものに魅力があるのと、フレーズのセンス、声の扱い方が魅力的な場合とがあるという話があったが、私の好みでイメージするなら、前者が楽器でいう三味線で、後者がヴァイオリンだと思った。二つとも好きな楽器だ。魅力的だと思う。今日は先生の見本(声)がたくさん聞けて有意義であり、嬉しかった。最近、本当にかみくだいて話してくれているのでよくわかる。「わからない」ということはない。

 

結局、体の深いところから声を出せれば、ほんのワンフレーズを歌っただけでも、説得力のあるものにすることができる。とにかく体にきついこと。大きな声を出せばいいと、やみくもに叫ぶのみではいけない。いつも出した声を厳しくチェックする自分を持たねば。