レクチャー BV理論と実践のために
「BVトレーニングの進め方 ポイント34」☆
1.トレーニングに、ガ行を使うのは
「ガゲギゴグ」で練習しているのは、比歡的、深いポジションがとりやすいためです。鼻濁音にしない方がよいでしょう。
ここで使っているトレーニングというのは、必ずしも全員にあてはまるわけではないのですが、そのときに来た人の大多数に合うように変えています。
たとえば「ハッ」を「ハイ」にしたり、「ラララ」を「ハイ、ララ」にしたり、「あまい」を使っていたのに、最近は「あおい」にしているといった具合です。
イメージの問題もありますが、理屈抜ぎに結果として出している声がよければ、間題ないのです。
なかには「ラ」の方がやりやすいとか、高いところからの方が出やすいという人もいます。好きにすればよいのです。
「ガゲギゴグ」というのは、胸に入りやすいことばです。
「ラ」「ヤ」「マ]を使っている人もいます。
こういうのは、ことばとして瞬時に体に入るでしょう。452
入りやすいというのであれば「ハッ」でやっていたのですが、「ハッ」というのは同時にのどをつめる場合も多くて、それで「ハイ」と「イ」をつけました。
これも「イ」に関しては最後まて問題になることが多いので、できたら「ハ」と「イ」を一緒に習得してもらうためです。
そこから「ハイ」「ララ」.に変わっていきました。
同じような意味あいをもたしたのが「ガゲギゴグ」で、これはレガー卜の基本です。
要はポジションを深くとって、そのままいかにレガートの方に強いまま、もっていけるかという段階に進むものです。
「ガゲギゴグ」を少しずつ伸ばしていき「ガーギーグーゲーゴー」と一音に4秒くらいのペースでやるわけです。これは何をつくっているかというと、長さで声の線をつくっているのです。
ことばは、ある程度、強くしていくことでマスターできます。強くしていくと、胸に入って「ハイ ララ」と大きな声を出せます。
その代わりに、それはぶつ切れのままですから、なかなか流れの出てくる方向にはいかないわけです。カはしぜんに抜けないからです。すると強く入れたときにフレーズの方にもっていけないという問題が起こります。
かといって、最初から音楽的に流れをとろうとしたときには、ひびきだけ浮いてしまって芯がまったくつかなくなるという状態がずっと続くわけです。
それを解決するために「ガゲギゴグ」をもってきています。
「ラ」とか「ア」では日本人の場合は浅い息のままなので、浮いてしまうのです。
それに対して「ガ」とか「ゲ」とかは、芯に入ったままでやりやすいのです。スタッカー卜の深さでレガートを導けるからです。
2.声を出すことで体をつくる
トレーニングの目的は、体をつくって声を出していくわけですが、ヴォイストレーニングの効き目を早く出すには、声を出すことで体をつけていけるようになることです。
私が話をするときに、私自身はすでに体がついているから、ヴォイストレーニング同時に行えているわけです。そういう結びつきを早くつけていくことです。
ですから、「声を出すことによって体をつくれ」といっています。
声を出すということは、最初は体に身についていないと声を出しても体が疲れようがないのです。楽々できてしまうのです。
ところが、それが声を出すたびに体の方に負担がくるような状態になってくると、体が鍛えられていくわけです。
それが無理なうちは、「息を吐いて、体をつくれ」です。
3.高低を強弱におきかえフレージングにする
たとえば「ドレミレド」とあって、低くから高くとっていって、また低くおりる。このトレーニングの感覚をフレージングといっていますが、弱いところから強くして頭くする、このイメージに置き換えるのです。
日本語以外の多くの言語なら普通、強弱リズムがついていますから、強く出すところが決まってきます。強く出そうとすると同時に、やや高くなり、その方か相手には伝わるです。だから、強く出すときは、ほぼ同時に高く出しているわけです。
これを、高く出すことでなく、強く出すことでマスターしていくわけです。
普通は、高く出そうと考えると、弱く細くしてしまいます。逆に強く出して、太く高い音をとるイメージをもつのです。
日本語の高低アクセントというのは、声そのものは変えないで音そのものの高さだけを変えています。そのため、高く出すところは、薄くなって音色も変わってしまっているわけです。
要は、ポジションを変え、音を変えているわけです。それが歌うときにデメリットになっているわけです。しかし、その状懇のまま、歌謡曲では、歌われていることが多いのです。
それと同じ理由で、長く出すことによっても体の強さもつきます。
このほうがオーソドックスで安全な方法です。でも時間がかかるのです。
どちらかというとレガートのなかで、ある程度の強さを入れていきたいのです。メリハリをつける基礎になるでしょう。
目安にもなります。ここまでしか伸ばせない人は、強さにするとこれぐらいしかできないかもしれない。ここまで伸ばせる人は強さにすると、一瞬にしてこのぐらいの息を吐けるかもしれない。ここまで伸ばせるようになると、このぐらいの器ができるだろうというように、です。
ですから、単に音を長く伸ばすことが目的ではないのです。長くもたせようとして、そこまで声を伴う息を効率的に吐くことでコントロールします。
バランスをとりながら行いましょう。あんまり強制的にやらず、イメージを使いつつ、声と体とを結びつけていくことです。
4.日本語のピッチとことばをはずす
ピッチ・アクセントとことばの惑覚というのは、日本語の場合、どう歌っても音楽的にならない方向につきます。ことばを歌うときには均等にわかれていて、そのまま伸びていくのなら簡単なのですが、間伸びして違ってくるわけです。
「わたし」というのにメロディをつけていこうとしたら、3音が均等に伸びがちです。
無理に変えようと、「わ」を長く「た」がを短く「し」がその間などのように、トレーニングでおこなうこともあります。すると、どこかが強くなる場合もあるからです。
「わーたーし一はー」と均等におくと、音楽的に正しくても表現になりにくいのです。リズムとも違います。ですから、同じ長さというのは、厳密にはあり得ません。
楽譜でみれば同じ長さでも、うまい人が歌っているのを聞けば、よくわかります。
同じ長さだとしたら、意図的にメロディックにするために均等に配しているとみるべきです。
こういうときは、テヌートなどで示されます。☆
日本語の場合、長さによる均等性が壊れにくいのです。どう歌っても楽譜に合わせてしまう人が多いのです。
外国語は、ことばがついているときは、強弱アクセントが入っていますから、すでに壊れているわけです。その楽譜どおりには、ならないのです。ですから、ことばのまま、もっていくのです。
英語では、詞とメロディで、おのずと、1番と2番が、違ってくるわけです。
日本語は、声が浅いので浮いてしまい、その場合、同じになります。乗っかってしまうので、そこを打ち破るのが、ヴォーカルの歌唱力です。日本語でしぜんにこなすのは、二重に難しいということです。☆
5.心地よいズレをつくる
細かくいうと、ピッチの問題もそうです。歌のピッチというのは、ピアノなどと違って、ソのフラットというのとファのシャープというのは違うのです。
ピアノは平均律で、移調にも対応できるように調整されたものです。ピッチが低い音のときはピッチそのものはが、6.5回くらい、1秒間に振動があって、その周期は変わらないわけです。
これは、高くなってくると揺れが大きくなってくるわけです。しかし、周期は変わりません。
そのようにキープできることで声をコントロールするわけです。
これが乱れるとトレモロといわれたり、揺れ声といわれて駄目なのです。日本の演歌をあまりうまく歌えない人たちは、これにあたります。うまい人たちはきちんとしたピッチになっています。
高くなるほど、ピッチでみると、揺れの幅が半音くらい違ってきます。半音というのは音楽上でいうと、違う音になるのですが、聞いている人にはわからないのです。音色での表現力が優っていたらのことですが。
ですから、結局、そのズレが心地よいかよくないかになってきます。ぴたっと合っているヴォーカリストの声でも、あまり心地よくないケースが多いです。正しくてもおもしろくも何ともない歌い方になってしまいがちです。
これは、音にとらわれ、その音から抜けられないからです。逆にピッチと発声とを結びつけて覚えることになってしまいます。正確ですが、本当に表現を伴って歌える声は出せなくなります。
コンピュータがヴォーカリストには代われないのは、本来、こういうところのはずだったのです。☆
その乱れの部分が、味になるのかは、非常に微妙です。
ピッチが狂うことは、問題ないです。狂うという考え方自体が、ピアノの平均律を路まえているのです。
音が決まっていないものでは、当然、揺れのなかの動きで音をとっていく、すると音が心地よい範囲での揺れに収まってくるのです。
6.揺れとビブラート
高いところであれば、声が通るというわけではないのです。
高いところの方が揺れがつき、強く伝わってくるわけです。
声自体が大きくなっても、浅くのっぺらとなっては、聞けないでしょう。
しかし、外国人あたりの声を聞いてみると、高くなるほど自由度が出てきます。だから味がでます。
もちろん、体がなければ、それをコントロールするのは難しいわけです。
ですからこういうところで音程を聞かれるのです。上がりきらなかったとか下がりきらなかったというのは、結局、音を固定しているような歌い方をしているから、耳につくのです。
理想的な揺れの中に音をとっていたら、ほとんど気づかれないです。あまりに音感が悪いと気づかれる場合がありますが、心地よく、くずしていたら、保てます。誰も歌を音程で聞こうとしていないですから。それをしてしまいがちなのが、音大出の先生です。
高音のスケールもそうです。「ドレミレド」と歌うときに、ピッチでの声質の差をなくすことです。これは、声楽の方が徹底しています。
このひびきと揺れがないかぎり、遠くの人たちにまで聞こえませんから、それが発声の基本的な条件です。
ポピュラーの場合は、息の音にしたところで、マイクがありますから、使えます。
音にぴたっと合わせてもよいですが、あまりひっぱりすぎるとよくない埸合があります。
ビブラートのつけすぎというのは、よくシャンソンが悪い例としてあがります。
好きな人はその歌い方でもよい場合もあります。しっかりとしたビブラートがつくと音を動かしていくときに楽だと思います。
7.ここのヴォイストレーニングの秘訣
時代によって表現のスタイルの違いはありますが、新しい声、古い声という考え方はあまりないでしょう。新しい声をここでつくっていくと考える人もいるでしょう。
たとえば、ここに設けたものというのは、私が以前にしたことを、なるべくおいていくようにしています。私がおいているだけですから、必ずしもそれにとらわれず、自分一人でやっていけばよいのです。
ところが唯一、自分でできなかったと認めていることがあります。それは私と同じように日本で育った、普通の日本人ならできないだろうと思われるところです。
外国人にはあまり問題にならないところであるために、彼らも気づかないところです。
(彼らは、気づかなくともできているので、気づく必要もないのです)。
こもヴォイスのトレーニング、あるいはヴォイストレーニングの秘快というのは、そこの部分です。それは、厳しいことなのですが、文化、生活にまで逆上っていきます。
普通、どんな分野でも勉強していくのに、スタートラインはゼロ、つまりニュートラルで入れます。
ゼロからどこまでいけるか、たとえば3くらいまでいけば人前に出て、5ぐらいでプロとなって、10ぐらいになると天才といわれるとします。
ところが日本人の場合は残念なことながら、声に限っては、マイナス10から出発しなければいけないのです。つまり、最大の秘快というのは何かというと、結局、マイナススからゼロのなれることをやるのです。このニュートラルのところまででも、2年、もしかすると、5年かかるかもしれないです。そこまでにかなりの労力がさかれるのです。
8.声の真実を靜価すること
一番、難しいのは歌、メロディ、詞とそれぞれについて、
真実というのがあって、声にも真実があります。
たとえ日本の歌い手が声がないから歌もだめかというとそんなことはありません。それを補えるとこるがあるから、トータルとして一つの世界が築け、プロといわれるのです。
日本の場合は、声に対する評価が非常に弱いということです。口先の方でもってしまっているので、なかなかこれに気づかないのです。
あるいは声がないのは、人種が違うなどと片づけてしまうのです。マイナス5ぐらいの声でも、ものすごくよい曲と、それにピッタリとあったような感性で歌い方のスタイルを確立したら、それなりのことはできるわけです。
真実というのは何も全部が声にあるわけではありません。それを知った上で、やはり私ほ声にこだわりたいので<す。ヴォーカリストで各国の歴史に残っている人や天才といわれている人は声の中に真実をきちんと出しているからです。
声の力など全くなくても、顔の表情だけで3分間もつ人だっているわけです。ただそういう部分に関しては教えにくいし、学びにくいものです。トレーニングとしてやっていけるような部分に思えないのです。
何でここで根本的に声をやるのかというと、本当の歌ど真実を出していこうとしたら声がベースであるべきだからです。それが、その人のヴォーカリストとしての可能性を最も大きく変えられるからです。
9.声の真実を評価すること
確かに歌でも詞でも日本に名曲が生まれていますが、海外の一連の作品からみても、どうしてもポピュラーの埸合、声のレベルはおちているように思います。
彼らは魅力的な声のなかで何回も、その曲をこなしていくなかで、つくっていっているわけです。日常生活の豊かな声で、そのまま自分の思いを歌にたくして、歌えるのです。
もっと端的にいうと、日本のは、形があって、その形を整えたところに歌い手をもってきて歌わせるスタイルなのです。これなら、ヴォーカリストは、誰でもよいわけです。
アイドルの歌というのは、まさにそうでしょう。スタッフが優秀で、かわいい子を90分間で、いかにお金とって時間をもたせるかというときに、歌が使われているのです。当然、その人が飽きられたら次の人を当てたらよいわけです。歌も人も育ちません。
むこうの考え方は(オペラの世界とか日本の歌も、かつてはそうだったのでしょうが)、一人の人間がいる、その人間のために歌を書くのです。
この人間は、こういう声をしている、こういう感情がある、そうしたら、そのために歌が生まれます。
本人が作詞作曲もすれば一番、早いわけですが、あくまで、そのヴォーカリスト本意に考えていくのです。それが本当であるはずです。
10.ひと声でわかるヴォーカリストに
ですから、ここは、そういう方針にしています。
共通のカリキュラムやメニューはなく、自分でつくっていきます。
基準というのは、最終的にいうと、その人の声ひと声を聞いて、わかることです。
一流のヴォーカリストは、そうでしょう。
出だしの1フレーズ、聞けば、誰かわかります。その声は2つとありえません。
声の魅力や声の音色ということと、歌い方のスタイルというのは、別になります。
本来、ヴォーカリストにとっての最低眼の、この2つの条件ができている人は、残念ながら、今の若い日本のヴォーカリストでは、ほとんど見当たらないのです。
よく聞いてみたら区別ができても、ほとんど表面的なところで似ていて、何を歌っても同じです。
それが、声以外の曲の創り方、詞の創り方にも問題となります。どんどんと複雑なメロディ、詞、アレンジになっていくのです。
11.声を出したら歌になる
基本的には、今の声そのものを深くして磨いていくということです。
これは体の中に正解があって、今までマイナスで使っていた分をとり戻すことです。
日本人は、声そのものが育っているなかでマイナスになるといいました。けれど、それをゼロにするところまで行なったら、あとは1をつくる、3をつくる、あるいは人によっては5までいくというところに入れます。
できたら、そこから必要とされる要素もマイナス10からゼロにする間に学んでいくことです。
声が自由になったときには、歌えるのです。歌は、そんなに複雑なものではありません。
12.耳の鍛え方
私の考え方では、耳があった、そこで声を得たという順です。それをつなげるのが、息、呼吸です。
すると、声を出したら歌になるまでのことはできるのです。
そこでゼロなのです。
ここは努力でできるところだからこそ、トレーニングが成り立つのです。
この耳というのは何かというと、その人独自の音感やリズム感であったりするわけです。何も出てこないのは、ワンパターンのものしか聞いてきていないからです。
いろんな世界のリズム、世界中のメロディックなものを聞いて口ずさんでいたら、どんなリズムやメロディでも対応できるようになるのです。
ちょっと変化した歌になるとできないのは、それだけの音楽を聞いていないからです。慣れていないわけです。それを音程とかリズムトレーニシグで学ぶ方法もありますが、声がないと、却ってマイナスとなります。
一流のヴォーカリストは、そんなことを楽器や楽譜をみて練習してはいないわけです。そのかわり、いろんなものを小さい頃から数倍、間いています。間いていたら、どのパターンか、頭ではわからなくとも、体が反応して、リズ厶やメロディがとれるのです。
そのために多くのジャンルのステージをみてください。いろんな曲を歌ってください。最初は好き嫌いせずに世界の一流のステージを体に入れるのです。
13.声のなかに、音感、リズ厶感、感情すべてを入れる
日本の場合は、歌のテストというと、楽譜をみて行います。まず読譜力が問われます。しかし、楽譜がなくても10フレーズぐらいなら、ぱっと聞いて、とれなくてはなりません。それは才能というよりも、これまでに音が入っているか、出してきたかどうかです。
音楽鑑賞を勧めたり、レッスンに変わった曲を使っているのも、ベースを広げるためです。
フレーズ中心の大きな曲を使うのは、とにかく「これと同じように歌おうとしたら、これだけ体を使わないといけない」ことをわからせるためです。
それにはカンツォーネがよいし、ことばが入り深いポジションを理解するには、シャンソンがよいでしょう。もちろん、オペラアリアならベストです。
ジャズ、ゴスペルは声の深さとひびき、呼吸やイメージのお手本です。皆さんの歌いたい今の曲は、そのベースをもった上で歌われているのです。1番よいのはダイナミックな曲からはいることです。
若いときにはなるだけダイナミックでスケールの大きくて音域も広くて、とにかく体が使えるもの、声が張れるものに挑むとよいのです。ですから、カンツォーネなどでも、声を逃がさないで歌うことです。
できないことがわかることが大切です。
それとともに、もう一つ補いたいことは、自分の合わない曲、初めて聞くリズムというのは、最初、自分の腑に落ちないわけです。嫌悪感があって、やろうとしてもどうしてもやりにくいものです。
ところが、サンバならサンバをずっと聞いていると、その曲に抵抗がなくなってきます。よいとか悪いとかではなくて、たくさん入れておいた方がよいのです。
いろんな面でいいもの、人間が受け継いできたものをたくさん取り入れることです。そういうものは長く、きちんと聞いていると、自分が表現したときに出てくるわけです。
シンプルに、声の中にメロディもリズムも感情もすべて含めて得てしまうことです。
結局、これが全部入ったものが呼吸です。歌を呼吸でつかんでいく、あるいは息でつかんでいくという人もいますが、ここまでくれば、あまり複雑に考えなくてよいわけです。
話していることに、間をつけてみたり、強調してみたりしているうちに、技術になってきます。
ささやくこと、嘆くこと、くどくこと、ため息をつくことなど、感情表現の豊かさが、そのまま歌の表情となります。
14.マイナスの声とプラスの声
基本的に今の声をそのまま使うよりも、今の声を深めていくことです。
それは一時、別の声だと考えてもよいでしょう。
詞、曲、声それぞれにそれぞれの真実があるもです。
どれが一番、大切かではなく、どれから先にやるべきかということです。
たとえば最初は、ドの音だったらドの音だけが深くでるようになります。
ところが、このことと今まで使っていた1オクターブ半ほどの声が一致しないわけです。
これは日本人の場合は、マイナス10の声で、とにかく音域をとるためにつくってきた声だからです。あるいば、ただ長くひびかせることを優先していって、つくってきた声なわけです。
この声は歌いやすいというのではなく、歌うときには、この声しか使えないわけです。
しかし、この声では、強く出せない、タッチ、表情も出せない。
しぜんな表現を求めるなら、この声のままでは、使えないことがわかってくるのです。
このことがわからない人が、日本では五万といます。
自分には、その声しかないと、初めからあきらめているのです。
その差は、ここに入ると、わかります。
これは、音程、リズ厶を指先で正しく弾けて、曲ができたといっている小学生のピアノ演奏と同じです。使いやすいが、本当には使えない声、マイナスのままの声なのです。
2年くらい、ヴォイストレーニングをやって、半オクターブぐらい、ある程度、本当の声が使えるようになると、声の習得のプロセスの感覚がわかります。
ただ、これが作品として完全に使えるまでになるには、まだ全く足りないのです。それは自分で見極めないといけないです。
15.トレーニングの必要性
その人のめざす世界によっては、市場が日本ですから、必ずしもこういうものできちんと出せることが求められているわけではありません。いろんなフォロの手段もあります。
トレーニングなどなしで、カラオケのような歌唱指導下でもやっていける人もいるでしょう。
そうした条件というのは、他にたくさんありますが、どれも他人任せ、運任せでお勧めできないのです。
たとえばこの前、いらした売れっ子シンガーは、自分のヒット曲は、うまく歌えていましたが、その他の曲に関しては、口先で流れていて、ことばの表現も、ここにきたら初級レベルのような歌い方です。
ただ彼らはお客を集められるし、整えられた装置のなかでは、それなりに自分を出せるのです。そうした技術をもっているわけです。
その条件は何かと考え自分にその条件が与えられるかどうかを考えれば、多くの人には宝くじの確率で、永遠にこないことがわかるわけです。
所詮、人の土俵を頼ってやろうとしているところが間違いです。
アーティストなら、自分の絶対的価値を高めて世に問うべきです。
そうならば、時間がかかっても確実に自分で力をつけていきたいと思うはずです。
他の条件など与えられなくとも、すごいヴォーカリストになりたいというなら、体でひきうけるしかないのです。
教えるという形では、少しでも早く歌いたい相手に、どこまで基本トレーニングの時間をとらせるか、それをわからせるのは、容易ではないでしょう。どうしてもわかりやすい音程、リズム、発音中心の小手先の技術の指導で慣れ合いになるのです。
体は変わります。2年たって、あるいは4年たって、8年たって、どうなるのだといわれたときに、他の人と何が差だとはっきり出せるところこそ、トレーニングといえるのです。
ヴォーカリストとして、統一した声質をたかだか1オクターブまででも、粘れる人はとても少ないのです。めざす歌の世界が自分にはっきりとみえ、その先をやろうと思わないかぎり、これは日本人にとっては、案外と大変なことなのかもしれません。
たとえばドから上のドまで出そうとしたときに、ラのあたりで浅くなってきます。このへんで皆、苦労します。そこで粘ることで体からの声が、身につくのです。
とにかく地声で出せるところまで、一流の歌い手は、それを上のミとかファとかのところまでもっています。これは比べてみればわかります。
日本人でも単に高い音に届かせることはできますが、そこや中音域で、ヴォリュームを出すこと、つまり、1オクターブで、できないのです。これが彼らの半分もできないのです。
それで歌っていくための基本的な声はできていると思っているのです。
一声聞けば、その違いは明らかなのに、その一声を極めようとしないのです。
16.声のバランス
声区のチェンジというのは、上の方の半〜1オクターブとるために、頭声の方にバランスをもっていくのです。特にポピュラーでは安易に使われています。
女性であったら、ラからミくらいで声区をチェンジしています。低音でも、レからファぐらいで、チェンジしている人が多いですが、ここは声区の切り替えでなく、感覚での発声での切り替えです。
出ない声を出そうとせず、小手先の技術で音だけとらせているのです。それが一番よくないのは結局、か細い線上から出れないぐらいの声量しか出せないからです。
いつまでたっても、声が出るようにならないトレーニングでは、仕方がないわけです。
もし、発声のバランスを変えていくのであれば、最初にきちんと1オクターブとれる深さのものをもっておいて、それでその上にもっていくことです。
声に関しては、どう使うかというのは、最終的には、曲によって決めることです。
自分の歌い方によって決めるのです。
それが高くなると、ひびくだけで薄くなっているようではどうにもできません。
外国人のヴォーカリストは、高いところで弱く表面的にならしているように聞こえるものですから、日本人はその音声イメージだけを口先や口内でまねるのです。
彼らは出そうと思えば、そこでいきなりシャウトしたり、低い音でもヴォリュー厶感を出すことができます。
10の体をもって、その10分の3の3のひびきでやっていることをまねても、1の体なら、03のひびきしか出せません。それをマイクで10倍にすれば、それらしく聞こえますが、全く違うのです。
歌としてはまとまっていると、それらしく聞こえるだけです。
本当にそれだけのことがしたいなら、まずは、3倍、5倍の体をつくらなくてはならないのです。彼らは声の芯とひびきとを両方もっています。それをバランスで使いわけているのです。そうなるためには、それだけの器をつくらないといけないわけです。
体が使えない人が体を使おうとすると、声は押しつけて、のどをしめますから、歌の処理ができなくなります。そこから、本当の歌と離れてしまうのです。どうしても歌にのっかって浅く出すように配分しなくてはいけなくなります。
歌にしたければ、確実にドのところをレのところにもっていくことです。
大体、アプローチしやすいのは、男性は、低いシとかラ、女性だとそれより2音ぐらい低いところと思ってください。
そのまま、使っているのがシャンソン系統、カンツォーネでいうと北の方の人でしょうか。
クラウディオ・ビルラは「ラ」のところでバランスを変えています。この声区のチェンジをしている人たちも多いです。2オクターブ用の歌い方です。
日本の場合も、1オクターブ半以上ある曲というのは、ほとんどないです。全体として1オクターブ半あっても、たまに低いソやラがでてくるぐらいで、ほぼ1オクターブそこそこでできています。
むこうの歌というのは、ことばの部分で下の1オクターブ、張らないといけないサビの部分は違う1オクターブでできているのが少なくありません。それで2オクターブ近くの歌になります。
ベースの声にひびきの声をのせるのですから、根本的に考え方が違うのです。それに対応するために、ベースの声をつくるのは、日本人なら半オクターブでも、それなりに時間がかかります。
これで下ができれば、大体1オクターブになります。これがベースとして安定していたら、そんなにくずれないで伸びていくのです。
このあたりが安定しないうちに、ラシドあたりをそろえるのは、難しい問題です。そろったり、そろわなかったりしているようでは、技術とはいえません。
17.1オクターブを同じ音質で歌う難しさ
その人のめざす世界によっては、考え方を変えています。
市場が日本ですから、必ずしもこういうところまできちんと出せることか求められているのではありません。
ヴォイストレーナーは、あなたの今の声がどうなのかというマップをつくって与えていきます。
今の声はどこでだしているかという位置づけをして、共通の理解をしていきます。
これも単にまねるのではなく、イメージと捉えるのです。そうでないとトレーナーと同じ声になってしまいます。トレーナーと同じということは、トレーナーよりへたになっていくということです。
トレーナーが自分の体に忠実である声であればあるほど、あなたにとっては素直でない声になっていきます。
だから、自分の感覚でとらえて、自分で答えを出していかなければいけません。本質的なヴォイストレーニングは、そういったものです。
ポピュラーで自分の世界をつくっていくのであれば、なおさら、そうです。
誰一人同じ歌い方、同じ歌はありません。
それが同じような歌い方になったら、価値もないことになります。歌う意味がありません。
18.日本のライブでは伸びない
ですから、最初の2年間、トレーニングと歌をわけているケースもあります。
ステージの活動をしている人には、そこで歌う場合の歌い方と、ここでやることとは、一時的にわけた方がよいといっています。
ここでの息と体を使って歌おうとしても、最初は歌になりません。お客さんにひんしゅくをかうかもしれません。
リズ厶にのってこない、音程がフラットしたりこもってしまう。すると、音声イメージ、即ち音楽的なものが伝わらなくなります。これは声の真実を求めるプロセスで、歌の真実の方が薄れてしまうからです。
日本のをお客さんは声の真実なぞ聞いていません。すると歌の真実が欠けた分だけ減点となります。リズ厶や音程が不安定でへただと思われることもあるのです。そうなると、カラオケで歌えるぐらいにバランスを整えて歌っておいた方がよいわけです。
言い換えると、日本のヴォーカリストが伸びないのは、日本のトレーナーやお客さんが問題もあります。日本では、自分が予測できないことをなされるのを嫌います。保守的、前例主義です。
ステージというのは本来、ライブという以上、ハプニングを楽しむのです。ところが、この国では、そうでないところで、安全安心を与えてやらないといけないのが現状です。
普通の人があたりまえのように歌っていて、おもしろいはずがありません。
聞いていないお客さんのいるところで、聞かせつける、そのためにどう歌った方がよいか、考えるまえに、聞かせつけようという歌い方もあるのです。
すると、すごい声だけど、歌はへたとなります。しかし、あえてその汚名を受けてください。歴代のヴォーカリストもそうだった人がいるのです。
そうすると日本の場合は、拍手ではなく、オーナーに降りてくれといわれます。
所詮、歌をBGM的に使おうという国、日本においてのことです。
よいヴォーカリストになりたいなら、音より見た目の驚やかさをとるところで、やらないことです。最初から、パワーやインパクトより、柔らかく美しいところのよさしか求めないところでやらないことです。
19.感じて、気づいたものしか身にならない
感受性を高める方法というのは、自ら敏感になっていくしかないです。結局、感覚の世界です。
こんな理屈をつけてみても、練習しないなら、せっかくの素質も、活かせません。
こういうことを述べているのも、そこまでやっている人の頭の中が少しは、整理できると思うからです。
自分がやって気づいたことしか身になりません。やっていない人がいくら聞いても、意味はわからないです。意味はわからないけども、何となくわかる気になってくるだろうと思って述べています。何か信じられるものが出てきたらよいというぐらいで話しています。
こういう世界に長くいることによっても、敏感になっていける人がいる一方で、鈍感になっていく人がいます。アーティストですから、どんどん敏感になっそもらわないと困るわけです。
ーつのことからいろんなものを自分でみつけて、それを材料に自分をつくってもらわないといけないのです。けれども、敏感になって、打てばひびくようになってくる人は少ないのです。
ライブとか音楽というのは、まさに時間との世界ですから、鈍感であったらどうしようもないです。それこそ、崖っぷちに立った気持ちでやることです。すると、感受性は高まります。
毎日、死ぬような体験をしていたら敏感になります。死ぬ気になってやれば、みえてくるものが違ってきます。
ハングライダーやスカイダイビングなど、一歩、間違うと死んでしまうかもしれないことをやると結構、いろいろと気づくと思います。死んでしまったら終わりですけれども。
どんなことにも何でもよいから、とにかく自分で答えを出していくことです。
他の人が聞いてみたくなることを体験してみるとよいと思います。
若くとも自分が狭い視野で見聞してきた世界に住んでしまっていませんか。
そこは安定していますから、居心地がよいのですけれど、その分、だめになります。
仕事になれてきてだめになるのと同じで、遠うものをすれば、いや、それよりも同じものを違う感覚でみれば、そのときには剌激がくるわけです。
長く続けることと身近な場をかえていくことと両方のよいとこるだけをとればよいのに、なかなかよいところをとれないです。
転々としている割には何にも身についていない人も多いのです。
アーティスティックな生活を心がけるべきでしょう。
高望みをして難しいものを聞いてみればよいと思います。
自分では絶対に理解できなくても世界の人々は評価してきたもの、歴史に10年、20年といわず、50年、100年残っていたもの、に接することです。
世の中には、100年単位で残っているものもあるわけです。そこには必ず人間の心が入っています。それは音楽に関わらず、何でもです。
そういうのは、元気なときでないと、なかなか開く気にならないです。
無理に最初はノルマでもよいですから開いてみると、自分が変わってくるところがあると思います。人と違う体験をするというのは、とてもよいことです。
そういう意味でいうと、どうせ体験するのであれば、高いレベルのものを高望みして自分には似つかわしくないなというようなものでも、無理に聞いてみてください。
結構あってくる場合もあります。高い次元の自分が引き出せます。嫌いなら嫌いで答えを出していけばよいし、その判断を自分でもっていけばよいのです。
ここ自体も、アーティストをめざそうということだけではなく、自分は向いていなかったとか、もっと他の世界の方が、これだけ努力するなら他に振り向けばもっとすごいことかできるとか、いろんな考える埸としてよいのです。
中途半端にやっているのでは、よくないです。
「いたら何とかなるだろう」というのでは、何ともならないです。
20.トレーニングの環境に留意し、出てる声で判断する
体の一部分が痛くなるのも、のどのように病気(荒れること)に結びつくような場所は、よくないです。
頭が痛くなるとかいうのは、これは酸素の不足、CO2の吐きすぎといった問題があります。できるだけきれいな空気のなかで、息を吐くトレーニングをしましょう。
道路のわきやスモッグのあるようなところでは、肺を痛めることもあります。なるだけきれいな環境のなかで行うことです。
体を痛めることをトレーニングだとは、思わないことです。それは、全く違います。確かに筋肉トレーニングということでいうと、結果として痛むことによって身につく部分もあります。
ただ、それが快感になってきたり、どんどんいじめることで、何かが身についていると思うようだったら、結果としてよくないし、意味がないです。
そこはスポーツとは違います。スポーツは、とっかかりで、そういうところかあります。とにかく、くたくたになって死ぬ思いのことをずっと統けていったら、限界が破れて、コツが身につぎます。
声の場合は連います。のどをつぶしたら、元も子もありません。回復を待つしかなくなります。
出ている声で判断していくのが一番です。出ている声がよければよいのです。
体が疲れなかろうが、トレーニングになってなかろうが、声で決めていく判断基隼をもつことです。
体を使うと体が使えないときより、1日終えたという感じがします。何かやったという感じがしますが、それが何になっているかを厳しくチェックします。
そのときは表に効果が出ない時期もあります。
わけがわからなくてやっている時期もあるでしょう。
2年目に入ったら、1年目より体が使えていますから、体を使うことは、あたりまえに,なってきます。体がいくら使えても、世界中で一番、体が使えるヴォーカリストなんていうのは、何の意味もないわけです。歌っていて、全身が痛くなるヴォーカリストとかは、ありえないでしょう。
世の中への出方は、いろいろありますけれど、そういうのは、出したくないです。
そのへんは結果オーライの世界です。自分に必要な声が出るということであればよいのです。
21.時間をかける
トレーニングを人の数倍やっても結果として出てこなければ残念なことですが、認められません。そこは、厳しい世界です。結果が出て、なんぼということです。結果が出るところまで粘っていくしかないということです。そこは自分の直感とか本能的なもので判断していくしかありません。
声に関しても同じです。急ぐと誰でも本能的に歌の真実の方をとりたいと思うでしょう。そういう人は、今の声を深めるより、その方向でやっていけばよいと思います。
必ずしも、声の真実に応えられるだけの市場が、今の日本にあるとはいえないからです。
口先で歌えることの方が近道と思うのも仕方ありません。自分のなかに、その真実をもってなければ、やめればよいのです。
私は、自分の得た真実を皆に押しつけようとは思っていません。自分が望んでいるものを手に入れる、そのように使ってください。
トレーニングには個人差があるので、時間を充分にかけて欲しい、それに必ずこたえてくれる世界だとはいっておきましょう。
仮に2年ということでプロの歌い手になりたいというのなら、カラオケの上級者コースを自分の中で考えてセッティングしたり、歌い方を教えるのがうまい先生につくのもよいでしよう。
結局、いえることは、一流のヴォーカリス卜は体がついていますから、そういう人たちの隣にいくと一緒にできなくなってしまうということです。一生やっていくものが、それではどうでしょう。同じ人間なのですから。
これから日本がどう変わっていくかはわからないです。本物が求められる時代になっていくような気がします。ここ5年でも大きく変わると思います。
豊かになってきて若い人が、どんどんいい加減になって、何でもできるようになってきました。自由というのはワクがなくなるということですから、いろんなことか選べるようになるわけです。
すると人間というのは、不安になります。出世や結婚というレールがひかれて安定して、とにかくそこにのっかったら死ぬまで一つの方向がとれていたのは、今までの日本という村社会では、それなりによかったのです。
しかし、もはや大きく、くずれてきています。自分で自分のワクをつくらなくてはならない、そのワクがその人の真実です。
自由というと、いかにもよさそうなのですけれど、むしろ厳しいと思います。
今後、犯罪とか悪い面も含めて、日本もアメリカみたいな世の中になっていくでしょう。
そうなったときに人間が聞きたい音楽というのは、上っ面の音楽ではないと思います。
今、音楽の市場を支えているのは、10代ですから。
そういうところを、これからアーティストをめざす人には、どこかで感じてもらえたらと思います。
本人が満足できるか、満足できないかということです。
あとはやっぱり生きているということを、ここで実感できればと思います。
そうしたら、その人は、いつまでも歌うこと、そのためのトレーニングをやめないと思います。
そこまでのものにしてもらえたら、うれしく思います。
22.体の理
体の柔軟性ということでは、基本的に体を使うものですから、筋力とか肺活量も含めて、息を吐いたりコントロールするカと柔歎性というのは、近いでしょう。スポーツの避手と同じで、力を入れてやる部分と抜く部分とのバランスのとり方になってくるわけです。体の使い方のコツというのは、そういうものでしょう。
たとえば、姿勢でも呼吸法でも、正解はないのです。
最初の敎え方は、いろいろとありますが、3カ月、半年たったら、私はあまりいいません。
結果として、息を吐く力、次にコントロールする力をつけなさいということです。☆
それは、本当にその人がものにしていったら、どんな形であれ、その人自身の体の中で働いているバランスの方が大切だからです。
大リーグのバッターでも決して教科書どおりの打撃フォームで打っているわけではないでしょう。
自分の体に特化するまで、そのトレーニングを課していると、それが正解になっていくのです。
声も同じです。体の理から考えてみたら、そこで働いている体のバランスや使い方というのは、最もよい声が出ているときに、正しいのです。それは、神の創ったプログラムに近づいているからです。教科書のフォームなどより正しいです。
結局、その人にあっていればのことで、誰かをまねてやってもだめです。大リーグの選手のフォー厶を、高校生がまねてもだめなのと同じです。
その人のなかで、バランスや声のタイミングがあってきたら、それは声として判断できます。どんな姿勢をしていようが寝ころんでいようが関係なくなります。
欹手は寝ころんでも座っていてもどんな格好をしても歌えるのです。ある程度、力がついてくると、見かけの姿勢など関係ないのです。
体から歌っているというのは、その人が自分のフォー厶をもっているといえるわけです。☆
そういうことでいうと、歌というのは、時間で展開するのですから、反射神経とか運動神経も問われてきます。人前で一つの即興的なことをやることです。そこに体とともに、頭の柔軟性みたいなものも問われます。
役者も柔裁性が必要といわれます。体の柔軟性があれば、もっと楽だとか疲れが残らないということもあるでしょう。柔軟性があるから声が出るとか歌えるということではありませんが、のどの疲れにならず、声を出せるようにするといった面で、大いに関係してくるのです。
体を使うということに関しては、体操もよいでしょう。ラジオ体操は、日本人が農民としてガニ股で、まっすぐに走れなかったので、軍隊として負けてしまうからと、正式に取り入れられたものです。
ですから、今、声で負けている、それなら、声のための体操を考えたらよいと思います。
23.インパクトとリピート☆
聞いている人を感動させるために重要なことを述べます。
いろんな要素がありますが、基本的にはインパクトです。これは、すぐれた芸術に対して共通することです。とにかく何かの衝撃を与えないといけないです。
「芸術は爆発だ!(岡本太郞)」は至言です。
簡単なことでいえば、一瞬で「わっ」といってもよいのです。それで相手は振り向きます。
音楽の場合は、その後の時間を保たないといけないですから、それを何回も何回も繰り返してみて一つの心地よさになってきたら音楽として動き出すわけです。
「わっ」と3回ぐらい続いたらみんなはあきれるわけです。この調子でいくのかと皆がわかって見切ったら、そこまでです。
それよりは、大道芸人でもみていた方がおもしろいわけです。きちんとひきこむにはどうすればよいか。まず、通り過ぎてしまった人を振り返らせる、そして、そのことはできても、その後、すぐに見離されるものです。その足をとめ、最後まで居させ続けるのが、あなたの芸の価値です。
みんな逃げていってしまうのなら、なぜなのかを知ることです。それは次に期待されるものがないからです。素っ裸で出たら、驚かせますが、それだけです。一枚ずつ脱いでいくストリッパーに勝てません。
これは別に音楽にかぎらないです。芸事でもみんなそうです。それにふさわしい場づくりというのもありますし、ヴィジュアル面など、場の設定もあります。
: ですから、街頭パフォーマンスというのは、きびしいのです。本当にそこに魅力があるかが問われます。なければ本当にひまな人しかそこにとどまらないのです。そのまえに振り向かせもしないで終わってしまうのでは、論外です。
2曲も歌ったのに「いたの」とか「でてたの」と思われる人も多いのです。そこが原点です。
とにかく、まず1回は振り向かなくてはいけないのです。
あなたの存在を示すこと、それができるようになれば、存在感となります。
それができるようになったら、自分の時間、維持させることを考えましょう。
あなたがいなくなっても、客が立ち去らない、そこまでめざしましょう。☆
24.自分の世界を現出する
歌でも、ここで3分、歌ってもたないから、1フレーズしかやらないのです。本来、お客さんがあきるまえに終わらないといけないのです。それで足らない、もっとと客が望むから、次を演じられるわけです。
人間というのほ、腹八分ぐらいが一番、印象に残ります。もっと見たいで、幕引きすることです。
全てがみえると、次にお客をよべません。
これが、日本の遊園地やサンリオピューロランドとディズニーランドの違いです。そこで、エリアの広さもモノを言うのです。
感動させるというのは、難しいです。お客さんの質がよいとか悪いとかだけではなく、そこに関して、あうあわないということも関わってきます。
こういう話でも、その人の精神状態によって、受けが違うわけです。どう受けるかは、全てがアーティスト側の責任ではないのですが、芸事になって出ているかということは、問われます。
芸の形がそこにみえるか、みえないかということは、その人間でないとできない世界がそこに一つできているかどうかみたいなことだと思います。
歌でいうと難しいのですが、一つの世界が、そこにその人が中心としてつくりだされているかどうかというような話になります。世界観です。
それができていると思った人は、自分を中心に動けばよい話です。今から、どこかの世界の中に入っていこうと考えなくてもよいと思います。徹底的に自己中心で、その世界を拡張していけば、いろんな人たちが、そこにまきこまれていきます。
本当のことでいうと、声を宿すまで、あまり安易に関わらない方がよいのです。歌うことによって刺激を得たりするのは、声という本当の武器を得てからのことであって欲しいものです。
25.再びマイナスの声、のどを開くこと
ここでマイナス10から0という10までにしているノウハウというのは何かというと、のどを開いた状態で声を出すことです。それが完全にできるようなところまで、相当にかかります。
そこまでのことができれば、役者さんや外国人と同じように、声に関して一つのペースができます。
1オクターブにわたって無茶して歌わない方がよいのは、中途半端な発声は、のどをしめるからです。しめると、そこから可能性が出てこないからです。
もっと簡単なことでいうと、この世界で皆、努力して10、20年といる人もいるわけです。どんな人もがんばっているわけです。日本で、たとえば100人のヴォーカリス卜のうち、なんで1割も声のある人が出てこないのかと単純に考えてみればよいわけです。
向こうではプロといわれない人でも、もっとすごい声が出るのに、そこさえできないのはなぜでしょうか。それは、日本人は、日頃、どこまで声を捉えて使っているかということに行きつくのです。
ですから、たとえゼロになっても、プラスマイナスゼロから踏み出せるのなら、確実な前進なのです。他の芸術より厳しいのは、声については、このマイナスからのスタートです。そう思ってやった方がよいかもしれません。
とりあえず原点に戻したら、いろんなものがそこから開けてくるのです。それまでの間、急がず、いろんな剌激を受け入れていくとよいと思います。
26.表現欲とパワー
その期間にそれだけの表現欲をその先にもてるかもてないかが問われます。
多くの人は、最初は有名になりたい、人前で何かをやりたいとか、いろんな理由で歌の世界に入ってくるわけです。少しずつでも自分を高めたいという欲がでれば、高いところにいきます。
これに関しては、本当に欲すると、その人のできるとこるまで努力が伴ってしまうわけで、一つの性(サガ)とか業とかだと思います。それが息になって声になって表われていくまで待てるかどうかです。息づかいにその人が出ているかということです。
生きてきた人生の集約が、歌となります。それを伝える呼吸というのは、本当に大切です。呼吸がわかってくれば歌おうと思わなくとも歌えます。
それと一人の人間としての表現力の強さです。これがあれば確かに身につくのは早いです。とにかく表現したくて表現したくてたまらないとか、人前に出たくて出たくてたまらないというのでも構いません。
最初の段階で、歌は聞かせつけるものです。お客さんの関心をひこう、うけを狙おうとか、売れようとか考え出すと、アーティストらしくなくなってきます。一面で華やかな歌の世界ですが、喧嘩したり、闘い続ける強さはもっていないといけない部分もあります。
これは世にでていくときは、特にそうです。どうしても相手に理解してもらおうと思ったら、踏み込まないといけないです。まわりの人に、才能や技でなく志とパワーを納得させないと、道は開けません。
これは、日本の文化風土の中では、あまり歓迎されないことです。だからこそ、踏み込めるような歌とか音楽をつくっていくべきだと思います。結局、そういうことが、輝きとして出てくるかどうかです。
27.音楽観とプロデュース力
日本のバンドは、向こうに影響されて、向こうに近いことができたらー流だと思っているところがあります。するとヴォーカリストは、ますます不利です。
楽器は同じものが手に入っても、体は向こうの人間ではないです。
ことばも歌の条件も、当然のことながら、声に関しても不利です。
ヴォーカリストであれば、自分を中心にバンドを先導できるぐらいのトータルプロデュースをするカや自分なりの音楽観をもつことです。それがないと通じにくいと思います。
昔のようにプ口デューサーがいて、まわりのスタッフが優秀で、アイドルみたいに、そこにおかれていればよかったのであれば、それでよいのですが、今、出ていこうとしたら、自らのプロデュース力が必要になってきます。自分自身の価値をメンバーに伝えて、動かしていくことです。
28.アーティストシップとスタイル
雰囲気とかセンスとかいったものをあまり最初からつけようと思わなくてもよいのですが、そういうことも、こだわりのなかに出てくると思うのです。トータルとして、一つステージができるには、その人の雰囲気なり人柄であったり、いろんな要素が含まれていくのです。そういったものを総合的にひとかたまりにして出すことでしょう。
普段からアーティスト精神をもって生きていなければ、どんなによい衣装をつけても、それに当人が負けてしまいます。人を頼って、できると思ったり、組んでやると思っていては、足らないのです。結局、一人でやらなくてはいけないのが、ヴォーカリストのつらいところです。
劇団とかなら、もまれているうちに、まわりが助けてくれて、自分の役割もわかります。力もつくでしょう。どういう役割やスタイルがあっているかは、おのずとわかってきます。
ヴォーカリストの場合、よいステージをたくさんみながら、そこに自分をあてはめてみる勉強を一人でやらなくてはなりません。それは至難です。そのためにここがあるのです。☆
声できちんと伝えていくところは、音楽より、ベースである身体を使うもの、踊りや役者の舞台での表現法をとりいれていった方が、わかりやすいと思います。
声で価値づけるということは、人間の身体を見せるということです。
29.自分自身のノウハウをつくる
わけがわからなくなったら、とにかく量をこなしていきましょう。そういう時期があります。
ここでは、あまり方向が違わないように考え方を伝えていますが、一所懸命やると間違うもので、それでよいのかもしれません。
間違う方が正しいというのは、変な話ですけれど、人より早くたくさんやろうとしたら、必ず間違えます。声を痛めることもあるでしょう。
それをあまり怖がっていたら何にもできなくなります。
大事をとるということも焦っているときには無理でしょう。大事に絶対間違わないような育て方もあるでしょうが、逆に時間がかかります。先が見えません。
短い期間に人の10倍やるというのは、たとえそのへんの人の10倍でも難しいと思います。しかし、それぐらいのことをやれば、やはり人の2、3倍は、違ってくるでしょう。後から考えると、間違いもするわけです。2、3倍、間違うけれども、それ以上やったら、はまるところがみえてくるわけです。そういう世界です。
そういう試みが、自分の中でことばや表現となって捉えられてきます。全ては、材料として自分に取り入れていきます。
テキストを正しく、ノウハウを学んでいくのではなくて、テキストをもとにこれが1曲になるくらいに考えて、自分のテキストをつくっていくことです。
ここでは「自分でヴォイストレーナーになりなさい」といっています。日本の場合、歌だけうまい子どもみたいな人が多いですから、プロデューサーが必要とされるわけですが、プロデューサーというのも、日本には、しっかりした人がいないのですから、困ったものです。
まず自分の表現をしっかりとさせていくことです。若い人も、向こうでは大人の歌を歌っているわけです。音楽に関して大人の世界をつかんでいくようなことは、少しでも早くてよいのではないかという気がします。
30.継承と新しい表現
何を受け継いで、何を出していくかというのは、これも難しいです。今の日本だから一番難しいのです。
イタリアにはカンツォーネやオペラ、ナポリターナがあり、アメリカにはゴスペルやジャズがあります。日本の場含は、それを受け継いでいるかいないか、わからないみたいなものしかありません。
歌謡曲、演歌などもよいですが、民謡、声明などの方に、私は本当の声を感じます。
簡単なのは民族的なものを受け継いでいく方法です。そこから新しい現代の日本にあてほめていくのです。これに近いことを数のパワーでやっているのが、劇団です。大勢の人数で、一つの世界の雰囲気を出して、そこに個人をはめていますから、やりやすいわけです。
一人の場面でも、すでに世界があるから、その雰囲気もだしやすいのです。ところがヴォーカリストは自分一人が全てである分、難しいです。その妥協点で使われたのが、日本ではミュージカルでしょう。☆
ですから、結局、2つあると思うのです。一つは受け継いだ形に対して自分の魂を入れていくこと。もう一つは逆に魂の方を受け継いでいって、そういうものに新しい形をあてはめていくことです。☆
これは誰でもよいのです。死んだ人でもよいですし、昔のものでも自分が掘り起こせるものであればそういうものでもよいです。ここでもいろんな試みをしています。
しかし、昔のままに出すというのは、違うと思います。伝統や精神はくんでも、今の時代を生きているわけですから、未来に対して出そうという方向でやるベきだと思います。
31.自分の世界をつくるには
ここでいろんな歌をとりあげて、材料として紹介しています。
ことばやメロディからそういったものを学んでいく。そこからフレーズから学んでいく。さらに民族とか時代、文化を学んでいくこともできるはずです。
そういうものをたくさん知っておくことです。どこか一つの国でもよいし、古いものでもよいから、一つのことを徹底的に知っていれば強味になります。
大した力にならないのは、今の歌っている人たちのところ、要はカラオケの人たちが歌っていることと同じことをすることです。
これは、まねにしかならないですから、流行にのっているだけで、出ていけないのです。武器にも個性にもならないです。
確かに現在にうけるのは、現在に合っているということなのですが、合っているというのは、すでにつくられているものですから、古いのです。
次代のことを試みることです。自分なりのことば、りズム感、スタイルをもつことです。ことばは特に大切です。自分のことばを伝えようと心から語れば、情感が出てきます。そうすると一つの世界になってきます。
声の部分と耳の部分でマイナスからゼロになったら、ゼロから何を出していくかというのが問われるところでしょう。そこからが一番おもしろいところなのです。自分がやらないと誰もやらないことをやればよいわけです。☆
歌を表現するのに、いろんなテクニックがありますが、そのへんは教わって習得しようなどと考えない方がよいと思います。
好き嫌いだけの世界ですから、自分がそれを好きだといえるもの、それだったら10年やりたい、20年やりたい、死ぬまでやりたいというもので、あるいはそれがあると、生きる支えになるとか、元気が出るとかいうのか前提でしょう。
そういう世界をつくることを人を元気にさせようとか人前に出ようとかいう前に考えることです。自分がそれに接していて自分が望むことに対して、力が及ばないから、卜レーニングすればよいのです。
そうではない、単に音楽の形がかっこよくてやっているだけなら、見透かされます。
音楽がかっこよいのでなく、やっている人がかっこよいのです。深めるか、あきらめるか、そういうことでしょう。
時代と日本は考えないといけないと思いますが、好んで、今の音楽業界の一部分になる必要などないと思います。
もっと今を広げてみてもよいし、今みんなが生きている他の世界も、他の生き方をしている入たちを含めて考えてみましょう。
3年後、5年後あるいは、今後どういうふうになっていくかを見据えて、未来に対して問うていきましょう。それが若さというものでしょう。
32.いつから活勤するか
誰でも一所懸命、生きています。どう生きろなど、アドバイスできないのです。
ただ、自分のなかに深める部分をもっておくとよいと思います。これは目に見えないです。
自分の中に何があって、何を深めていけばよいのか、それは人から与えられるものではなく、欲するものを深めていくしかないからです。人によっても段階でも違います。
何でもよいから真つ白にして、いろんなものをもう一度、ゼロから拾い集めてみるのが大切な時期の人もいます。ある程度、声も宿ってきたから、それをどういう形にとればよいのかを、徹底的に考えていかなくてはいけない人もいます。
なかなか音楽以外のものに関心がいかないのですけれども、舞台とか一人で芸をもって何かやっている人たちと交流したり、それを見に行ったりすることで刺激を得てください。
そういう人たちの生き方とか何が価値なのか、人に与える価値をそこに出せているかどうかを問いましよう。
自分のなかで、いくら価値が高まっている気がしても、それを人に出したとぎに価值になるかならないかのところで問うことです。
活動時期をどこでとるかは、難しい問題です。本当のことをいうと、出るだけ出ていってから足らないことに気づき、本質を極めるやり方がよいでしょう。
そのアウトプットしている時期とインプットしている期間というのは、旱く同時になっていくのが一番よいのです。
一致するためには、基本がないと同時にならないのです。基本がないままアウトプットしているとずっと消耗していきます。するとどこかで充電期間としてインプットしないといけないです。
アーティストですぐれている人は、ステージと充電期間をわけています。
アウトプットは割り切っています。ある意味では、商売、売名的な意味で露出を行います。反面、自分たちのバンドの音を残そうと、自分の作品を深めるステージとか舞台は、別のところでもっています。
ここと似ていますね。☆
私は、どんな人のステージや作品よりも自分のものがよいと思えるようになったとき、あるいは他人よりも自分自身から最も刺激を得られるようになったとき、世に問うとよいと思っています。
33.自分の客をつくる
外に出ると、ここでは真の声で1オクターブやっていたことが荒くなって、客受けする形をとるようになっていく人が多いのです。本当に客の心を捉えているのなら、よいのですが、芸のないのを裸で捕うのと同じ、それは、若くなくなれば終わりです。
わかりやすいことは、真実ではありません。当然のことながら、自分が絶対的な価値をもっていて、客を変えるところを行わなくてはいけないわけです。
すると、多くの客は離れていくわけです。客を変えられるかの勝負なのです。☆
絶対的な自分のファンにしてしまう部分をもつことです。絶対的な要素が自分に必要になってきます。一見うまく歌えたり、客に媚びて歌っていると、別のヴォーカリストでもいいよ、若くてきれいとかかっこよくて親しくできるヴォーカリストがいたら、その方にお客さんは逃げてしまいます。そんなお客を相手にしていでも仕方ないでしょう。
ここでは、ワークショッブなどを通して、真実が問えるところをもっているつもりです。お客さんの前で問うのは、難しいです。ステージはステージとして、心地よく、つまりわかりやすい部分をもたせないといけないですから。
厳しい仲間の眼の前で、どこまで作品を髙められるかを問う、その場が大切です。☆
ここは、それがあるから価値があるのです。
34.直観と自信
これまでの話もまとめてみると、単純なことです。マイナス10からゼロのことをきちんとやっていくことと、後はなるだけシンプルに捉えていくというととです。
本物というのはシンブルなものです。複雑と思ったら何かうさんくさいと思うことです。体が一つにまとまってどこか痛いとか実体があるならよいですが、節々が痛んでくるとバラバラに痛いとか複雑になってきたら、どこかおかしなことをやっている、間違った方向に傾きすぎているのではないかと疑うことです。
バランス感覚というのは非常に大切です。こういう芸事で一所懸命やって、ものすごくがんばっても芽が出ないというのほ、視野がものすごく狭くなっていることが多いのです。
そういう時期があってもよいと思うのですが、そうなったときにもう1回、壊してみようと勇気を出すのです。そのことが難しいのです。
どうしても自分がいままでやったことというのに対して、守りたくなります。去年ぐらいの体の感覚が欲しいというのか出てしまうのです。だから2年目3年目、もっと一所懸命やらないといけないのです。というのは、もっと一所懸命やっていたら、そうならないからです。
壊すのを恐れなくなります。1年目に一所懸命やっていて、2年目ぐらいで少し中だるみすると、前の感覚に戻るのです。それは体と違うのです。昨年の正解が今年の間違いとなるのです。☆
前の感覚でやろうとするのですから、気をつけましょう。
それは、腕立て30回できついといっているときから、トレーニングして50回やってきつくなくなっても、30回目がこのぐらいきつい方が練習をやった気がすると、わざときつくしているみたいなもので、何の意味もないのです。
そういうことになっている人は、結構います。それを逃れる条件というのは、1年目よりも、体だけでなく音声イメージや表現について、大きなところから厳しい判断基準をもち、一所懸命、研究することです。せっかく30回できたのに、さぼってまたできなくなり、それを繰り返している人は、猛省してください。
マイナス10のことをゼロにしてのどを開くことをきちんと覚えてもらって、後は、本能的直感を信じればよいのです。自分に自信をもつということです。
私がいっていることよりも自分を信じられるぐらいになれば、一つずつ、そのトレーニングはその人の中で生きると思います。☆
他人を信じるより自分を信じるのは、難しいことです。信じられるだけのやったというものがないと信じられないのです。効果が出るだけの努力をしないから、効果が出ないだけです。そういうことでいうと、やるしかない、やらないと、どうにもならないのです。
私よりやって初めて、私より自分が信じられるようになります。すると、絶对によいアーティストになれます。最終的に、ヴォーカリストでありながら自分が信じられなかったら、あるいはアーテイストでありながら自分がやっていることを信じられない、あるいは将来に対して信じられなかったら続かないでしょう。人前に立ち続けられないでしょう。
信じられる自分をつくっていくこととともに、それだけのことを自分に課していくことです。人の5倍、10倍やっていたら信じられるだけになってくると思います。
他の人から何を言われても、でも自分はこれだけのことをやっているのだから違うのだ、後で芽が出る、大器晩成なんだと盲信してもよいと思うのです。
そういえるだけのものを聞いて判断する耳が必要です。努力しないでもなれるとか、身につくと思っているのでは、よくありません。
大切なことは、独りで学ぶことです。力のない人がいくら集まっても何もできません。力のある人、一人から多くを学び、力がないから群れたがる仲間と決別すべきです。ゼロにするところまでの才能とか環境とかは、誰でもあるのです。
ただ、力をつけるために甘ったれた仲間と離れ、孤独になれるかです。力がつくと孤独になります。それがいやなら、最初から趣味として楽しむことです。個人として、力のない人に他の人がお金を払ってくれるほど、世の中は甘くありません。
とりあえず体で勝負できるとこるにもってくるのです。作飼や作曲の世界でいうと、メロディがつけられ、ことばで1曲をつくれる、その質は問わなければ、日本語が書けて辞典の使い方がわかれば、誰でもそこまでのことはできます。そのレベルがゼロです。
そこまでいくのに、ヴォーカリストはマイナス10からやっています。作詞の世界や作曲の世界は0から歩めます。ヴォーカリストのところで0からスタートできる人は滅多にいないわけですから、日本であれば、0までいったら強いということです。
あたりまえのことをあたりまえに歌えて、自分の歌っている声がバンドを抜けて通ればうまいといわれる日本です。世界中探しても、こういう国はないです。大きなチャンスなのです。
あたりまえのことはあたりまえにできてあたりまえです。ヴォーカリストが聴衆を感動させるというのはあたりまえの話で、ヴォーカリストになる人が感動させるとかさせないとかは、そういうことを考えてはいないはずです。
このように説明する世界ではないです。だから逆に日本がこれだけ遅れているから、みんなはゆっくりとやっても、正しく確実に、しっかりやっていれば認められると考えればよいと思います。
他の国だと、本当に大変です。ほとんどの人が今の年齢からマイナス10からゼロにしてみて、どうにもならないのです。隣のおばさんでも、それ以上、歌えるのですから。
ということになれば、本当は、日本でしかできないことを特化してやっていってほしいところです。
向こうの影響を受けて、そこから入るのは、よいのですけれど、5年、10年の長いスタンスで、歌を考えていってほしいと思います。
歌と自分を愛し信じるところからスタートしてください。(特別講演会350213)