一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想   457

 

レッスン感想 

 

 

日本語の場合のことばとフレーズの問題。ことばを動かしていく。どちらか捨てる埸合もあるが、フレーズでもっていけるように練習しておいた方がよいこと。いろんな人のを聴いてみる。自分でも何通りにもやってつめていくこと。

 

 

体力がないために、息を保とうとして上体に力が入り、のども締めている。フレーズの後半は全部、そうなっている。上体というか、胸に力が徐々に入っていくのをはっきり自覚してしまった。わかったんだから、直せる。やっぱり息吐きなど、今の量では足りない。

フレーズの練習がおもしろい。思うようにはいかないけど、がんばっていけばそこに自分の気持ちが出せるような気がしてきた。課題できちんと練習したい。

 

 

グループレッスンで、前に立っている人のキィにひっぱられて、自分の歌いたいことが頭の中で消える。集中力と求心力(精神的な)が欠如しているのか。精神的に、歌を歌う準備が整っていない、自分の弱さがバカらしい。たった一回しか歌えないのに(歌い直しのきかない)グループレッスンごときで声を出してから、「しまった」と思うことは、もうやめたい。いつでも、この一回しか声を出せないんだ、と思ってやりたいのに、やっぱり「試験的に声を出してみよう」的に、結局、ムダ出ししている。

 

ヴォイストレーニングといっても、声だけでなく多面的に考えれば、私みたいなズサンな性格には、いい訓練になる。ステージだから、ライトあたっているから、一曲通しで歌うから、じゃなく、ワンフレーズでも精神的にアーテイストで存在したいといつも思っているのに。この先もかんばって、自分の手で中身をつめていこう。ゆっくりでもいいから。

 

 

そのとき、相手に伝わったかどうか。

自分で「伝えたー!」と思えないような歌なら、相手に伝わっているはずはない。

 

 

音程をとろうと思わずにとること。一息の中で、違う音程を組み込むこと。

 

 

皮をなめすように、のどや体を使って柔らかくしていく。

せっかく持っているものを使えるようにする。ことばをつなげる。ことばを話していることが、そのまま歌になるように。

 

一つひとつていねいにでもまとまり、フレーズになるようにする。おもしろいことばが出てくると、ことばのイメージが頭にうかんでしまうけど、一音一音「あ」なら「あ」が、自分のベストの「あ」であるか、心がけてとりくみたい。

 

 

福鳥先生のクラスに出席していつも感じるのだが、短いフレーズで歌うときは集中して、その部分での大切なことは抑えてできるのだが(といっても、それは通しでやったときよりはという意味で)、授業の最後に通しで歌うと、「この1時間、何やってたんだ〜」という結果になってしまう。

今日、先生が授業の最後におっしゃった通り、この1時閒の最後に通しで歌うところで完成させることを考えてやらなければいけない。通して歌うと、集中力がなくなってくるのは、1曲歌うと息、全く集中できないことにも通じている。

 

 

ことばのトレーニング:1~2音までのことばなら、まだ体から声が出ているような感覚があったが、3音以上のことばになると、途端にポジションが浅くなる。毎日、3000〜5000字程度の文を読んで声を使うようにすれば、のどの方も強くなって、強い息に耐えられるようになってくる。

 

 

声を出すよりも、しっかり柔軟することの方が大切なのだということがわかりました。家でもジョギングや柔軟をしっかりやることが大切なのですネ。柔軟は、体という楽器の調律だということがわかってよかったです。

 

 

以前、手を当てると胸の上の方がやっと奮える程度だったのが、今はそれよりも下の方が少しずつ奮えるようになった。けれど、例えば“コメプリマ”や“グッバイ”のような、ふくらませて歌いたい歌詞に息をふきこもうとしても、体に「負担」がかかるわりに、出た声にシンもなく、胸の振動も止まってしまう。必要な負担とへンなクセ、余計なりきみを間違うと、ノドにもきてしまいそうだ。注意が必要。

 

 

自分はまだ、耳が鍛えられてないこと。福島先生が言われるフレージングの中でのひびき、体の使い方がまだまだ自分では頭で理解できない部分があり、歌を聴き流してしまっている。ただ聴いてるだけじゃ、結局、何にもならないことがよーくわかった。

 

 

自分は最近、すごく今の自分に限界を感じてきています。今までの殻を破って新しく生まれ変わろうと思うのですが、いろいろそのことを考えてるうちに、1回のレッスンでいかに自分をさらけ出すか、いかに間違えるか(のどをしめるのではなく)、いかに恥をかくかということに、その本質があるのではないかと思うようになりました。今までの自分は、1回のレッスンの中でうまくまとめることに心を置いていたように思います。そうじゃなく、いかに自分の知らない可能性を引き出すかが問題だと、謙虚になればごくあたりまえに思います。

 

“俺はこんなにできるんだ”と周りに誇示するんじゃなく(たとえば、ただ声量をでかくするとか)、“俺ほこんなこともできるのか”と気づく、結局レッスンで行き着くところは自分の内なる意識の気づき、もしくは壁にぶちあたることだと思います。今日は、喉頭蓋に声が当たっている、こすっている感じがして、声がかすれてしまいました。もっとのどを開くことを意識しなくてはと思います。

 

 

自分は最終的に歌を自分のなかの何に結びつけるか、目標としてまだ明確にしてないところがあって、それはジャンルなどを超えた人間の底辺に根づく感情と世界との感情の摩擦に生じるものと思っていて、自分のなかでは時間の洗礼とともに明確になってくる、確立されてくると思っています。そのためのヴォイストレーニングだと思っていますが、その方向性を見失うとトレーニングのための声づくりになってしまう恐れがあると思いました。

 

毎日、深い息を吐くことが快感になり、その意味づけがなされてなければ、なんの意味がないというのは、毎日練習することはよいことだが、ヘタするとただのトレーニング好きになってしまうということだと思います。ガンガントレーニングをやるのは全く悪いことだとは思いませんが、スポーツと違い、のどをしめる、痛くなる、体の間違った部分に負担がくるなど、デリケートに体を観なくてはならないということで、一所命のなかにもしっかりとクールになってなければと。そのバランスがすごく難しい。その結びつきのために、ここがあると思います。

 

上半身の体の力をすペて抜いて、お腹だけで支えて息を吐くこと。カベにおしりをつけて、そして息吐き姿勢になり、息を吐くとき軽く声を出す。これは弱く、のどを開けて声を出すとお腹で息を支えてコントロールする練習になる。

 

 

自分も今月の課題曲の1オクターブはなれるところを繰り返し練習して、のどにきやすいなと感じていました。でもうぬぼれじゃ全くないですけど、福島先生が言われたような、1オクターブはなれることばを"あおいあお”などのことばにおきかえて、低い音からやる練習はしていたので、カラオケにならないよう気をつけてやろうと思います。この歌をミルバやイヴァ・ザニッキなど、一流の歌手ならどう歌うかっていうのをイメージするのは、体と息とその結びつきの声をイメージするのにすごく役立ちます。

 

 

ことばの一つひとつを音程にのせるのではなく、音の流れを自分のなかでつくっておく。体ができれば、それをコントロールできるようになるので、イメージはつくっておく。耳ができていない。声量で音程を巻き込んでいるのかわからなかった。また、イメージかできていない。大きな流れとして、つかむようにする。

 

福島先生がおっしゃった「9割は体であとの1割は転がせば歌になる」ということばがずっと頭にしみついています。体を使うことが必要だし、大事だと思っていても、そこまで言い切ってしまうというすごさ。ショックを受けました。まだまだ軽く考えていたように思います。

 

音源を聞くとき、耳だけを集中して聞くよりも「息で歌いながら」(声は出さない)聞くと、声の根ざしているところや息の多さを実感しながら聞けた。

 

 

最近、ヴォイストレーニングと陸上がとても似てるとつくづく思う。陸上はただ走っているだけと思われがちだけれど、走っているときに自分のフォームのことや呼吸のことやリラックスのことなどいろいろなことを意識しながら走ることによって、走りを高められた。

 

ヴォイストレーニングもいろいろなことを意識しながらやらなくては、何も意味がないことだと思う。また、速くなるために自分がやってきたことを思い出すと、たとえば練習を毎日続けること、準備運動をしっかりやること、基礎体力をつけること、妥協しないこと、規則正しい生活すること、走ることを中心に考えて行動すること、自分をを律することなど、福島先生に普段、言われていることと一致することばかりだった。自分はここに来るまで合唱クラブ以外、何の音楽経験がないけれど、陸上生活で自分が見につけた、とても大切なことを、ヴォイストレーニングにどんどん活かしていきたいと思う。

 

 

今、気をつけなくてはいけないのは、体を使って強く、大きな声を出そうとするあまりに、上半身にも力が入りがちで、首ものども緊張しやすいというところと、たくさんの息を吐くときにあてどころを間違えて、のどを痛めないようにしなくてはならないということです。焦って急にヴォリュー厶をアップせず、少しずつ力をつけていきたいと思います。

 

 

 私は歌うために、自分のめざしているヴォーカルに近づけるために、技術、体の使い方を学ぼうと思っているが、それは自分を表現するための手段であって、「自分」というものがないとヴォーカリストとして魅力的ではない。いくら完璧なまでの技術と体をもってして歌っている人の姿をみても、何も心を動かされないだろう。

 

先生の言っていることが体で実践できているかどうかは別として、言われていることが最近は実感できるし、理解できるようになった。それは、以前よりも先生がわかりやすいようにかみくだいて説明してくれるためなのか、私が通うようになって、少しは理解する能力がついたのか。どっちなのだろうと考えた。

 

歌の勉強というと、歌に関することばかりの資料をインプットしがちだが、全く関係のない分野から「ひらめき」をもらうことが多々ある。かえって歌だけの世界で考えていると、煮詰まってしまって、見えることも見えなくなり、視野が狭くなってしまう。

 

以前、ピアノ曲を一所懸命練習していて、技術的には毎日練習しているので、テクニカルな部分は上達するのだが、「その曲の心」がみえなくなっていた。数年たって、何の気なしにその曲を弾いてみたら、「その心-表情」がわかったりする。そういう「感性」を磨きたい。

 

性格的に今一歩、超えられていないのが、自分でもよくわかる。それが何なのかはうまく説明できないが、感覚的によくわかる。その壁をどうにか破っていきたい。

もう一度、自分がめざしていることは何なのが、もっと明確にするために考えなければと思った。

これからここに「本物」な方々が招待されてくるとのことで、大変楽しみにしています。よい見本とたくさん接して、自分に吸収していきたいです。

 

 

 

 

 

課題曲レッスン感想

 

 

 

「星に願いを」の出だしの「かがやく」ということばについても、まだ「か・が・や・く」と一つひとつは伸ばせても、つながっていないかんじがある(話すと歌になっていない)。

 

村上進さんと尾崎紀世彦さんなど、もう一度聞いてみる。語尾や音の高いところなどは、声が統一しようとしている線上からはみ出しやすい。すると、ことばも壊れることもある。声を統一させて、その中で動かす。自分でフレーズをやるとき、かんじんのところがわざとらしくて、ゾッとするときがあるが、それは声が体から離れてしまっているのだった。統一されていて体でコントロールしていれば、少なくとも歯が浮くようなものにはならない。

 

「あなたの」と言うとき「あ・な・た・の」と4つになってしまわない。どんどん入っていくかんじで「あなたの」を乱れずに大きく言えること。息で言ってみたとき、それと同じ息で「あなたの」と言えているか。息の量と豊かさがおろそかでないか。「あなたは」と言うとき、字づらにこだわって言い方にこだわっていた。

 

私が発するこの歌の「あなた」は誰のことなのか。「いつでも笑顔で応える」人は誰なのか。

体に声を宿さなくてはならない。つかまえてキープしなくてはならない。何を言っているのかわからなくなるくらい、高ぶる感情を声にでき、それでもお客さんが聴いて何かを感じてくれる。すごいことだが、そうならなくては歌なんて歌う必然はない。そうなりたい。今はまだまだだが。そっちの方向へつま先は向いているだろうか。