一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想     527

レッスン感想

 

 

 

おもしろい人間がいると、レッスンがおもしろいな。先生、レッスン中にマズイところがあったら、そのまま、次の内容に進まないで、チェックする時間をください。

 

トレーナーが、体についてない声とそれをだんだんつけていき「あ」と言ったときの声を例示してくださったが、その一声がすごかった、声が直接、心をノックする感じがした。

 

練習後に声が、やる前よりよく出るようになっていれば、それは効果的な練習であり、のどがかすれたり声が出にくくなってればマイナスになってしまうこと。これはすごくシンプルでわかりやすい。

 

自分は、声の出し始めがすごくのどがしめやすくなってしまいます。後半、意識して調整すると、それよりは開いてる感じがします。昨日、全然眠れなくて、のどがガラガラだったのですが、レッスンが終わった後は声が出やすくなってました。効果的な練習だったと思います。

 

今日はあまり細かく考えずに、すごくシンプルに声を聴いたら、すごく体に入ってる声かどうか、みんなの声を聴き分けるようにできた気がします。

 

のど声と体に入った声を聴き分けることができた。何か自分はすごく難しいことだと思っていましたが、福島先生が常に言われる「根本にあるものをとる」ことに注意して、結局、そこですごくシンプルに考える、聞くところから発展するものだと思いました。

 

スタッカートのように、一音一音きっちり、深くとりにいき、それをレガートでつなぐイメージ→「確かにつかんで転がしていく」感じ。

フレーズが深いところで流れる感じ。

フレーズでとること。

5音くらいまとめて、1音くらいの感覚でとること。

 

頭のなかで理解しようとしている段階で、体でわかっていない。理解のベースになる体験が、まだ私のなかにないということだろう。日本の昔の歌がこんなに参考になるとは思わなかった。ポジションをつかんでいる感じや、息の流れている(吐いている)感じ、つかんで転がしていく感じ。今、聞く機会に出会えて本当によかったと思う。

 

もう二度と、今出した「ハイ」の時間は戻ってこない。集中力が足りない。ことばで、頭でいくら言っても、実際できてないんじゃ話にならない。練習してもできないんじゃ何もしてないのと同じ。この場にきて、一応、声を出したりしても、なんか何もできていなくて根本的なところをやり直さないと。

ぬかるんだ土地に家を建ててもすぐにくずれてしまう。

 

フレージングで息の流れの上にことばをおいていくということ。音がバラバラになったりとんだりしないということ。ことばを言うように歌う。意味が通じないようにはしない。

 

「100メニュー」でもフレージングの域になると、とても難しいですね。基礎的なところとあわせてやるといいように思います。スタッカートがスタッカートになってなかったりしたので、しっかり体で切るように意識的にやりたいと思います。

 

現在の自分のトレーニング、発声のしかたが何の目的でやっているのかわからなくなってきていたので、曲やお話を聞いてちゃんと意味があってやっていることだと、今うまくいかなくてもやっていく必要があるんだと確忍できました。

 

先生.のようにわけがわかってやっているわけではなくて、全体のトレーニングの流れもわかってないので不安になることがありますが、今はとにかく体を使う、息を吐く、いろんなやり方をしてみる。自分のやり方を探す。

 

先生は、毎日の練習の中で「声を出すことが快感でなくてはならない」といっていたが、これは、かなり重要なことなんじゃないかと思う。自分は毎日、仕事が終わった後で声出し(息吐き)の練習をしているのだが、やはり疲れているし、どうしてもネガティブになってしまうときがままある。苦痛の先に未来をつかむんじゃなく、喜びの先に未来をつかむなんちゅう、何やら年よりの説教じみたことを極端に考えてるわけじゃないが、やっぱり毎日毎日、ため息ついてんじゃマズイ。

 

自分はこうして毎日、練習できることに間違いなく喜び充実感は感じているし、この状況を手に入れるだけでも、かなり今まで苦労して悩んだ。それは間違いなく必然であったと思う。それを自分自身で乗り越えたからこそ、よりポジティブに、より大らかに(大まかじゃない)、練習とその2年先を捉えるべきと思う。

 

自分が一番、頭がよい、人間としての本質を一つつかんでる人は、自分の身のまわりの出来事、近くに確実に目がいき、そこから遠くまだ見ぬ大海を見つめつづけられる人だと思う。これがポジティブな思想、夢をもつ一つの生き方だと思う。

 

声を出していて、はりのある声がバーンと出てくれたときは体と息と声が一つになっているのがわかった。逆に、はりがないときは体と声のタイミングがかみあってなくて、体をしめて声にしようとしていた。このタイミングがあえば、声も前に出てくるはずだ。胸にひびかそう…と考えていると、息はもれ、声ガサつく。体と息のタイミングもずれる。

 

私の場合、”クリアな声”を出すことも先に考え、それに体やポジションを考えていくようにする。もとに戻る埸所は常に”クリアな声”であり、それを深くしていく。久しぶりに声を出し、“のどが痛い(かもしれない)”とくよくよしていた気分が、ふっとびました。一人でおちこんでないで、何か行動した方が先が見えますね。

 

ポイントを下にとるということで、たての線をとるということをいま一つ、大切にしていなかったような気がする。ナ行の音をどうしても上でとる癖がある。

 

息読みをしてから声を出す、このステップをふんだ方が、より深くより太い声が出せる。体の使い方をマスターするには、これはとてもよい。しかし、声にするときはしっかり声に100%しなければいけない。かすれ声、首、肩まわりの緊張などは厳禁である。せっかく体を使い息を流しても、かすれ声でのどに負担をかけたら全く無意味なこととなってしまう。声の方向性がどうも定まらない。クリアな声を出そうとするのだが、なぜかぼやけているような気がする(声の質)、つやのある抜けるような声と太く深い声が結びつけばよくなると思う。

 

最近、太くすることに気をとられ、アゴのあたりが固くなっている。のども前に比べれば開いてはいるのだが、全開になった解放感みたいなものが味わえない。少しずつ声を出すことの快感みたいなものが薄れてくる。自分の声(今の)が耳にも、からだにも気持ちよくない、少しのどに負担をかけているような気がする。もっとリラックスしなければいけない。太く深い山といっても、決して力だけで出す声ではない。これを忘れないようにしよう。

 

 “ブレスでつまづいている”と、以前、福島先生のご指摘を受け、ずっと克服できないままいました。今日、トレーナーから、息を吐き切った後、少し間をあけて次にまた行なうこととアドバイスをいただき、なんだかそのヒントがつかめた気がします。自宅では、身体の動きに応じて息を吐いたりするトレーニング法を考え、いろいろ試しています。一日にかけられるトレーニングの時間が限られているため、より効率よく体力アップできる方法を、今後も考えていきたいと思っています。また、チェックをよろしくお願いします。

 

日々、新しい発見があり、何事にもやはり時間が必要なんだナ〜と改めて感じているこの頃…。大きな飛躍はありえないかもしれないけれど、大きな手ごたえは、これから確実につかんでいける気がしています。

 

 

上のひびきに逃げずに、しっかり息の根元をつかまえ、一本の線を出そうとすると、どうしても身体に押しつけている感じを拭いきれないけれど、最近、変わってきたと思うのは、身体を使う、その理由。以前は、全身にありったけの力を入れ、汗をかくことで身体を使っている(=芯をつかもうとするために起こること)と思い込んでいたし、そう信じたかった。今、必要なのは、ふしぜんでないひびき、フワッと気持ちよく息を持ち上げるための底力だ。

先生はよく、つかめたらしぜんに放せるようになる。また放さなくてはダメだとおっしゃられますが、全くその通り…。吐いた分だけ、息は残る。また息は絶対に、声を見放さないと思っています。

 

初めて先生がいつも言われていることを体で感じた。すごく悔しくて情けなかった。「オリジナリティ」ということについて、頭で考えている気になっているだけで、実は何も考えていなくて何も感じていなくて、何もわかっていなかった自分に気づいた。

 

先生のことばで印象に残ったこと。

「こことしては1000人に1人、育てばいい」

「明日も出席する気になれるか?退屈にさせるな」

「何かを伝えること」

「青年の主張である なぜ歌いたいのか伝わってこない」

まず「心」ができていない。聞いている人に失礼だった。

 

自分も含めて、普段、必死にトレーニングしていても、人前に立ったらこんなものか、とガックリした。表現するということはトレーニングとは違う次元のことなんだなと思った。もちろんトレーニングと結びついているとは思うけれど。声は大きく出なくても、もっと伝えられたはずだと思うとくやしい。

 

上のクラスの人のなかに入ると、自分の声のパワーのなさがより際だってみえてくるので、まだまだ体ができていないんだということをとても感じる。1フレーズのなかを充分に表現できないのも、やはりそれが一番の原因だなと思った。

 

今、声を深くとるために、スタッカートでとってレガートにする練習などをやっている。それは、必要なことだが「つかみっぱなし」を意識しすぎると、声を上から押してしまい、広がりのイメージ通りにいかない。つかむポイントと広がった先のポイン卜との距難が問題なのだと、表現にはその距離がどれだけあるのかが勝負なのだと頭に入れつつ、練習すること。

 

 

 

 

モノトーク感想

 

モノトーク原稿は、はじめもっと自分の心のドロドロした血を書いていたけれど結局、無難に書き直していた。聞く人の反応を恐れてしまった。親睦会ではない。

次回はもっと表現をしたい。ここに通うことで、少し満足してしまっていたように思う。今日も、何か刺激が受けられるかな、などと思っていたところがある。自分が刺激を与えるぐらいの気構えで参加したい。

 

モノトークが終わった後の福島先生の批評で、ここでいう「ヴォーカリスト」というのが、何を意味するかが一気にわかった気がした。前にちょっとだけ通っていたヴォーカル科の歌のテストで「君は音程もリズムもよくとれてるけど、全然楽しそうじゃないね」と言われ、「聞く奴は一緒に楽しみたいんだよ」と言われた。そのときは漠然と、そうなのか…と思っただけだったけど、ここでその意味がわかった。

 

 ちょっと前に「あなたは人を幸せにする力があるよ」と言われてすごく嬉しかったことがある。結局、モノトークにしても歌にしても、ただ自分のその部分をありのままに表現すればいいだけなんだ。歌はうまいから聞くというのも、もちろんあるけれど、結局は、ヴォーカリストの内にある何かが人をひきつけるのだろう。こう感じたことで、自分にとって、価値がありました。

 

 

 

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課題曲レッスン感想

 

「君なしでは」のワンフレーズ。「君」「なし」「では」の3つを等しくとるつもりはなく、「君」と「では」で入れる感じで、最初、やっていた。気になりつつも、「なし」はおろそかだった。先生が一回、このワンフレーズをことばでおっしゃったときに、「なし」のところの表現、「これをぬすもう!!」という表現があったが、ぬすみきれず、3つのことばの微妙なかげんを我現しきれず終わってしまった。タイクツな歌になったと思う。「何がよかったのか」「どこが自分と違ったのか。微妙な違いのイメージを再現できないでいる。

 

梓みちよさんなどは、あんなに体を使って声を出していたんだと驚きました。とても体の強い人たちだと思いました。

 

ロックの初期の曲(黒人もの)が、どんなものなのかわかった。また白人ものとの違いもわかった。異なった文化、まね、創造、時代背景によって動いていた音楽がわかった。ロック以前、ロックができた歴史、ロックの流れ、変貌、その背景がわかって勉強になりました。おもしろかったです。

 

恋の季節”で、“こいは”の“は”、“わたしの”の“し”など、すごく口でひびかせやすいことばを一旦、深く体に入れてから解放すること。そして今のボクたちは、その体に入れようとしている段階だということ、今、解放しても上に浮いてしまう。