一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想     537          

レッスン感想     537          

 

 

今日の特別レッスンで、また私は愕然としてしまった。先生は今までのレッスンでも何度も何度も同じことをおっしゃっていたのに、そのことを私は何度も何度も聞いていたのに、あー私は何のために「耳」という器官をもっているのだろうと幻滅してしまった。自分の体でできなくても、わかっていればそのイメージをもって、近づけるような練習ができるが、わかってないまま練習していても、のれんに腕押し状態だ。何かわかったのかというと、歌においての語り方、表現の仕方とはどういうことなのか、なぜことばを読んでから歌うのかという意味がやっとわかったのだった(感覚で)。あー、もうまさに情けない。

 

今までことばをしゃべる練習をしてから歌うということはしていたが、それは形だけやっていたにすぎない。今わかっただけでも、参加した意義があった。今日、参加しなかったら、まだまだずーっと闇のなかだったかもしれない。いろんな曲から1フレーズだけをピックアップして練習する例がたくさんあったので、それだけでもたくさん練習できる。今までわからなかったときを、取り戻さなければ。

 

一番、自分で実感がもてたフレーズは、「お前を愛した 死ぬほど愛した」だった。これからは、英詞のメロディののせ方、イメージ、フレーズも考えていけそうだ。自分でその感覚がつかめたとたんに、人の歌を聞いていて、この人はわかってできている人、できないけどわかっててやろうとしているのが見える人、わからない人という差が聞きわけられるようになった気がする。声や、体のことばかりに気をとられて声オタクになってはいけない。

 

歌の聞き方。先生の説明を聞くと、短いひとことの歌詞のなかに突然、時間を感じる。こういう感覚、耳をもたないと上達はないと改めて思った。2時間以上もフレーズをやって、先生の声を聞けたこと。どんどん次のフレーズにいくのに、ぼんやり前のフレーズのことを考えてしまったりして、集中するのに必死だった。これくらいで、消耗していてはしょうがない、ということと、これくらい消耗するものなのだということ。

 

一音、伸ばしているとき、そこに入っているもの。盛り上がりの手前の処理。全部、歌いあげては伝わらないこと。息をのせる。ことばで言い切る。音の上下に振り回されず、体に巻き込む。いつも授業で言われていることだが、これだけ続けてやると、身えてくるものがある。日本語は確かにやりにくいが、フレーズの中味が少しずつ聞こえるようになってくると、逆におもしろい。1フレーズ、木当にきついけど、ほんとうにおもしろい。今日とりあえずやった、ということでなく、ここでやったことを自分で徹底的につめないと、せっかく得たものも逃がしてしまうと思った。

 

ミルバなど聞くと、とんでもなく「なんだ、まだ1割もわかってなかったし、1割もできないんだ」と痛感してしまうのだけど、それ以上に何だか嬉しくてたまらなかった。

特に「愛遥かに」の出だし。大きくとってことばをおいていくのができず、いきなり盛り上がってしまうこと。ねばれない。それから語尾が雑なこと。助詞が耳しぜん。こういうところをきちんとおさえられるようになりたい。

 

目的別にしぼり込んだトレーニングを繰り返しやること。計算より先に体が動くようにならなければ…。語尾が浮くこととコトバによって深くとれないことが気になった。普段のトレーニングで、できるだけ幅を広げておくこと。わかってきたことでもフレーズにすると、全部を込められない。一つひとつのことの精度を上げる。聞いて瞬時にさまざまなことを感じ判断できる耳をもつように鍛える。

 

サビより出だしの方が難しかった。全部が盛り上がってしまいメリハリがないことは、課題でもある。ハッと聞いたときにダイナミックに捉えることができず、セコセコしていると思う。もっと聞かないとだめだと思った。

 

 

とにかく、のどに負担をかけず大きな声を出すこと。余計なことは頭から排除して、声に集中すること。歌のなかに生きれば、現実の自分は悲しくなくても涙は出るし、歌が楽しいものなら笑顔になるし、怒りの歌なら頭にくるし、本当に喜びの歌なら嬉しくなる。

 

テンションが低すぎる。もしもブラジルのカルナヴァルでも見に行って、ほんの5日間か6日間のために1年のその他いっさいをつぎこんで歌と踊りと素敵な衣装に酔う人々や鮮やかな山車を間のあたりにしていたりしたら、今日の10倍以上はある声で、騒ぎまくるハズだ。要は、自分でどこまでもっていけるかだ。

 

声を出して体をつくっていくのは、のどに負担をかけるおそれがある。だから息吐きで体を充分に使えるようにしておく必要がある。息吐きは体の使い方を自分がわかるために必要なわけで、ただ息を吐けば声が出るようになるわけじゃない。頭でわかっていても、ついつい別々に考えてしまうので、発声の原声に戻った先がした。

 

私はとても焦っていたのだと思います。特別授業のなかで「間違えるとすれば、それは急ぐからです」と伺ったばかりなのに、自分でできたつもりになって、深いポジションをとろうと急ぐあまり、それまでできていたところさえ、狂わしてしまいました。

 

 

声がこもるのは押しすぎというのは感覚としてつかんでいたので、いわれて実感として理解できました。ただ、そのとき放すと浮いてしまう気がして恐る恐る放すかんじでしたが、実際は息さえ通っていれば、一本の線として体で捉えられると思います。ドの音ほど明るくとる、浮かせる、上の音ほど暗くする、体に入れるというのは、音の相対感覚を逆接的に捉えていて、音のイメージとして表現にも応用でき、強化トレーニングには、すごく役立ちます。

 

今月は、久々に基本に還ってすごく実りとして実感できることがたくさんあったが、一番、実感としてわかったのは、勢いで息を声帯にあてると、タイミングが合わなく、のどがかすれるということ。自分はこれは、1、2ヵ月で起きましたが、声量を下げる、柔軟をよくやるなどで対応しました。今でも声の出し初めのときは、この症状が起こるかいつもチェックして、常に首回りをほぐすなどしながら、調節します。

 

根本から変えようとするなら、今までと違う声の出し方を歌に結びつけるイマジネーションがないとダメ。そこが欠如している人が多いというのは、そのために聞くことがあるという重要性も含めて、今後に役立ちます。自分は2年後に、入る前と同じ歌い方をするのは、意味がないと思ってますので。(しかし、そんなこと自分で気づけないこと自体、イマジネーションの欠如の表れだ。オレ自身、情けない。)

 

「今、知らないということは素晴らしいこと。これからそのことの素晴らしさを知ることができるから。」と以前、人に教わったことがある。できない、わからないと考えているのでなく、できるかもしれない明日かあることを感謝しなくては。そのために今日、できることを全部、やっていかなくては。

 

初めて③④のクラスに出て、レベルの差を実感した。②よりフレーズか長くなるので難しく感じた。また②より音域が広くなるので、広がった音域をきちっと出すことに重点をおくのか、フレーズの方に重点をおくのか、今の自分にはレベルが高い内容だと思いました。

 

「1時間、電気を消してイメージをつくった方がいい」と言われたのですが、確かに原曲を聞いただけで、自分がどのように歌うのか、全くイメージができていない。まず私は、メロディとことばを声を出して覚え、次第にフレーズとか抑揚とかキーとかを考えていくような方法をとっていました。

本来は、原曲を聞いて自分がどう歌うのかイメージし、その一回をイメージ通り歌っていくものだと思いますが、そのためには今の自分にはメロディの覚えが悪すぎると思う。音程、音感にもコンプレックスがあって、今までも何度も練習した後でしか人前で歌ったことがありませんでした。今は、耳で入ってきたものをストレートに声に出せるよう、慣れていくしかないと思う。

 

結局、福島先生がよく言う「芸事」というのは、単なる充実した環境のなかからなんて生まれるものじゃない。それはそれで恵まれているけど、本当に必要なのは、心の底からあふれてくるようなやる気とそれに対するひたむきな向上心だ。絶対にこうなってやる…と信じる気持ちのなかに実現の可能性のパーセンテージが隠れている。どれだけ自分を信じられるかということだと思う。

 

体全体を合理的に使う。上からおさえつけて声を出さない。体の硬さがイメージで表われないこと。どうしても、声を上からおさえつけるように出してしまう。今日の課題は私にとって、テンポ感を出すというまでに至らず、とってつけたようにアクセントをつけただけだったように思う。やはりイメージが弱いのだと思う(もちろん体はまだまだ弱い)。

 

息の流し方が足らない。今日はじめて③のクラスに出席したが、②のクラスと③のクラスにこれほど差があるとは思わなかった。③のクラスの人たちは本当に息が流れている。

その感じが音声として耳にとびこんできた。それでいて、声にまとまりがある。みんなの声を聞くだけでも大変、勉強になった。

 

 

こういう3連符を日本語でどうするがということ。まず全体をみて、それから細かい部分を考える。1フレーズの流れをつかまないと、壊れる。

 

ここのヴォイストレーニングの基本的な考え方の再確認ができた(サーカスの綱渡りの例などで)。まず出しやすい音を強くしていき、他の高低の音がそれにひきこまれるのを待つこと。胸部にひびかせる-胸骨で安定してひびいている場所を手にあててみつける。

 

今さら情けないことですが、大勢の声があるほど自分の声に集中しないと何をやってるかわからなくなるんだと実感した。集中するのは難しく、特に大きいけどムリしている声ほど気になってしまう。そんなにつられるなんて、自分もまだ甘い!自分の声しか聞こえないぐらいの集中力が必要だ。音が低くなっていくと、中が出にくくなるから気を抜くと吐く息が不安定になる。少しずつ音を下げていくとき、声の集まる場所を意識して、そこから逃げないようにする。高い音も同じだが、高い音の方が意織はしやすい。

 

ポジション、声の支えをしっかりもっということ。これから歌っていくなかで、ずっと大事な部分だとおっしゃっていたので、なんとしてもつかみたい。カウンセリングで今の時点にしては深く取りすぎているとおっしゃっていました。もうちょっと浅くとる…難しく思えますが、出し方を変える、いいとっかかりにあるかもしれません。のどはもっと常に開いている状態にして、息の支えをしっかり腰にもってくる。課題だらけです。のどが開いていて、体が使えていて(息が吐けていて)ポジションでしっかり支えがとれている…なんて大変なんでしょう。一つとして満足にできていない。でも私のやり方としては、それぞれが足並みをそろえて進歩していってくれるようにと思っているので、焦らずにそれぞれをじっくりやらなくては。やっぱり耳がない。のどが荒れてるのかも音だけではよくわからない。先生に言ってもらえるので、とても助かります。

 

低い音でためいきをつく。そのとき、特に意識せずともすぐ声になる気がする。これが声を息にのせることかと思って音程を上げていくと、それが出来ない。また、その声でシャウトしようと思ってもできない。

 

今までの自分の声は、少し浮かせることによって、快いひびきを得ようとしていた。この浮いてしまう声をしっかりと自分の体のなかにつかんで、なおかつ、さらにひびくようにならなければいけない。体に声を入れ、そして太い息を流すことによって、大きなひびきを得るという形をとらなければ、しっかり芯のある声にはならない。体に入れても、こもってしまうのは、きっと息の流れがないせいなのだろう。低音に行くと体に力が入ってしまい、どうしてもこもってしまう。ここでしっかりとしたひびきを得るようにならなければ、本当の意味での土台はできないだろう。

 

私は③になって初めて福島先生の③のレッスンに出席したのですが、まず一人ひとりやるフレーズの長さが長いので、たとえ1フレーズ、自分では出せたつもりでいたものが、長さが長くなると体がついてこないという、自分の今の状態というものをとても感じます。これもできないで一曲が歌えるはずはないとつくづく思いました。

 

コトバの読み込み。フレーズのふくらませ方(というのでしょうか?)。コトバに対するイメージを明確にもつ。声の深さでアクセント(流れ)をつける。高音部を意識的に深くしてみるのもおもしろい。今日はいろいろな説明があったが、その内の一割ほども理解できていないように思える。

 

「深い」のと「重い」のとは違う。福島さんの声を聞けばそれはもう、一目瞭然なのだが。それにしても、あの思い切り「深く」てそれでいて「軽やか・まろやか」な声は、今の自分にはマジックにも思える。「深い声」と「どこか鼻に抜けるような声」が混ざっているからか、とも思っていたが、今日はちょっと違うような気がした。

 

上の方でまだノドを聞ききることができない。「ハイ」で上下すると音の違いがよくわかった。できるところへ戻り、徐々に上げていく。レガートの練習。先生に言われたところと体やノドのあたりの感覚が変わってしまうところが合う。繰り返し練習することをきちんと積む。中低音での自由度とか深さを広げていく方向で、あせらずにしつこく練習する。やつばり語尾が広がってしまう。

 

「ひたすら」ということばは難しい。「ら」で広がってしまうので、ブレスも乱れる。「す」のところから、もう変わってしまう。“できない感覚”がつかみやすいコトバなので、練習のしがいがある。「ひたすら」をトレーニングに使う。音を上げていくとき、リラックスを忘れ、余分な力でガチガチになることも、よくないと思った。もう少し…というときに保てない。そこでねばること。ドあたりへ戻って、ゆっくり上げていく。

 

イタリア語(耳で聞いて)で読みこんで日本語で歌う。粘って歌うというのは一番下ではつながっていて流れがあるのだけれど、上では切っていてインパクトのある感じ。一つのフレーズのなかでも直してよりよくしていく。強弱、三連の感じ。字づらや口先で歌わないこと。一つのフレーズ、一曲の歌の流れのなかにあるアクセントを大切にする。流れに足をとられない。世界での甘い柔らかい声というのを知る。もっと大きくする。

 

 

口先で歌わない。しかし押しつけない。これがとても難しい。押しつけて歌ってしまうと、ことばで発したときのひびき、バランスが全く壊されてしまう。

 

日本語とイタリア語で同じ音を歌っているはずなのに全く違うものになってしまうことに驚きます。日本人は、本当に体を大きく使って歌わなければ、外国の人には近づけないと思いました。

 

初めてイタリア語で歌い、曲も楽しく楽しかった。強弱やリズム、フレーズのつくり力はまだよくわからない。今まで聞いてきた日本の歌や日本語が、頭のなかにしっかりとあるので、音声イメージを変えなければと思う。声から表現の世界へ、まだ声だけで精いっぱいの感じである。

 

今まで「なぜ、英語の歌か?」とか考えてもみなかった。日本で好きな人がいないとかヴォーカリストの声とか、メロディで選んでなんとなく歌ったりしていた。英語は学校でならうということもあり、身近であることもある。他の言語の曲もいろいろと聞いてみよう。

 

②のクラスの人と一緖にやり、レベルの高さに驚いた。胸でもとれているようだが、下アゴで同じようにひびいてしまう。胸で音をとろうとすると胸からきに息をのどにぶつけないようなイメージで、のどを開けるとき、下アゴに力が入る。

 

前傾の姿勢をとったときに背中に余分な緊張がある。低い音程で息吐きをすると、体がついていかない。しばらくこの訓練を自分のレッスンの中心にすえていこうと思う。

 

まず、胸のひびきとかを考えず、しっかりと声を出してみる。それから少しずつ胸にひびくようにイメージして声を出していく。それが間違った方向にいっていることがわかったら、また修正してみて…とそのような繰り返しがトレーニングになる。胸のひびきをさぐったり、体を使うことを考えたりしすぎると、声がうすい声になる(息もれしている?)ので、まずしっかり声になることを考えたあとで、からだを入れ込んだ方がよいと思った。ピアノの音の力がよっぽど芯がある音だ。自分の出している声は、何かうすっぺらい音としてしか出ていない。

ロックンロール、オールディズがどのようにして生まれてきたかをわかりやすく説明してもらって、とても興味深い内容だった。今いる、有名なアーティストたちも、昔からのその延長戦上にいるのだということがわかった。個人的にも、今の洋楽よりも少し前のものの方が、メロディも覚えやすくて好きなので、もっといろんなものを聞いてみたいと思う。アイドル歌手と言っても、向こうの人はさすがに日本のアイドル歌手とは歌唱力が全然、違うなと思った。

 

前に一度、ブルースやジャズなどのルーツをたどって聞いたり、本を読んだことがあったので、理解しやすかった。ことばの数々から、ディープパープルへの思い入れがわかった。ZEPの血が流れなかったのは、ちょっと哀しい。でも、ここまで偉大なバンドは、単に好みの問題ですね。

 

ロックンロールのルーツと誕生のころの代表的な曲を聞けて興味深かった。黒人によるR&Rのルーツと、それに刺激された白人によるR&Rの曲を聞き比べて、その違いを感じとるというのは貴重な体験だった。

 

 

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課題曲レッスン感想

 

今日、とても楽しかった。難しいけれどやりがいがある。今度のV検で完成、というのではなく、一生、つきあっていっても完全には歌えない歌だと思う。歌詞(日本語の)はなんだかフワフワと気恥ずかしい感じだが、この歌はこの人が見ている夢の中の青い空なので、夢見心地でいいと思う(まずはじめに「ほんとに不思議な夢を見るの」とある)。「窓から空がしのびこむ」というところがとても好きです。

 

“歌はまとめるもの”と先生はいつも言われますが、変に浅くまとめてしまい、きれいに聞かそうと意味のないものにいつもなっていると思うので、ふだんの練習する曲も、このヴォラーレのような曲を中心にやっていかないといけないなぁと思いました。

 

短い歌のフレーズのなかでも、ドラマが存在すること。何を伝えたいのか。その短い歌のフレーズのなかでも表現することができること。文章を読むとき、波をつくってしまい単調になりがち。こうなると聞く側があきてしまう。

 

ヴォラーレ」何回も繰り返しやって欲しいと思います。次回は声が前にのせられるように気をつけたいと思います。歌全体を考えると、前半はおさえる部分だと思いますが、レッスンでは一つひとつ切り放して考えて声は出していった方がよいと思いました。

 

ヴォラーレ」の後、おちていってしまうので、そこまでの間にどう盛り上げるか。「顔も両手も」のところで1オクターブ上がるので張り上げてしまうと次にいけない。ことばに振り声されず、音声のイメージをはっきりつかむ。何のフレーズでも、いつも部分的なことにとらわれてしまい、流れが出せない。迷いながらやったりしてしまう。大きく捉えることをもっとしなければいけない。

 

頭の中でごちゃごちゃそえている。もっとストレートに感じた通りに思い切って出した方がいいと思ったが、力まかせでは雑になる。音声のイメージが大事だ。それがあいまいなのだと思う。鈍いというか、一応、自分でつかむのに時間がかかってしまう。

 

 

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モノトーク感想

 

独白は難しいと思った。思ったことをただ言えばいいのだけど、自分でさえもそれがホントなのかわからないことがあるのに、まして本当のことを人に伝えるのは難しい。文字にするとさらに難しくなる。よっぽど痛烈に感じたことでないと、本当の気持ちはすぐ逃げてしまう。少し気をゆるめると、すぐ飾りつけしたくなる。人に何かを言った後、文を書いた後、どれぐらい本当の気持ちがいえて、どのくらい伝わってるのかとても不安になる。

 

今日の自分の歌った「赤とんぼ」は、誰にも何も伝わらなかった。何かを感じた人はいるだろう。声が大きいとか外見の部分では。私は流されてしまった。感情や訴えたいことなんて、どこかにブッとんでいった。そもそも始めから、この歌をどう伝えたいのか自分でわかっていたのか?

ただ歌うだけなら皆と同じだ。人と同じなのはイヤだ。歌っている途中、夢中になっている私の横に、客観的にみている私がいた。別にいることはかまわない。かえっていいことだとも思う。

 

客観的な自分は、集中がきれたときに突然、「あ、だれてる。こりゃダメだ」といった。まき返したかったケド間に合わなかった。最初の目標は、思い切りの声を出すことだった。歌ってる途中で台詞でいいたくなった。「もしかしたら歌じゃない方が伝わるのかも」と思った。歌で伝えられず、ことばでならもっと何かができるなんて情けない。それじゃ歌わなくてもいいんじゃないか。

 

先生から「執着」ということばを聞いた。自分なりにもってたつもりだったケド、人にそれがわからないことは、それなりの執着しかないんだろう。練習はハッキリいって嫌いだ。「毎回、ここに来てとても楽しい」という人がいた。楽しめたら早く上達するかもしれない。”できない”“できない”をたくさんみつけて、ほとほとイヤになる。イヤになってる暇なんてないのに「できない」のなかに「できる」を少し入れるのには。こんなんじゃいけない。すぐさぼろうとする。毎日、なまけザルとの戦い。でも負けず嫌いだから絶対、負けないもんね(人に負けるというより自分に)。みんな、それなりの理由と目的で一所懸命だ。弱さも甘さもいつまでももってたら、かたまりからは出れない。日常生活の弱さと甘さも排除した。もっと自分をつきつめたい。つきつめなきゃいけない。