投稿 538
この2年間いろいろなことを教えていただきましたが、それ以上にたくさんの自分に欠けたものを気づけるようにしていただけたことが非常に大きかったです。しばらく先生のアドバイスもちんぷんかんぷんだったこともありましたが、だんだん意味に気づけるようになってきました。
私にとって、ここは、トレーニングの場というよりは、どれだけ気づけてどれだけ自分に何を課すことができるかというものだったようです。エンジンのセルモーターのように起動させてくれたというかんじがしてなりません。そこから動くか止まるか、私次第です。
昔の偉人さんが言っていた。才能とは1%の天性と99%の努力だと。きっとその偉人さんに比べれば、私の天性など0.01 %くらいのものだろう。ということは、私は彼の100倍の努力を積まなければ才能を手にすることができない。全く気の遠くなる話である。しかし、いつの日か100%の自分自身という才能を手に入れることができるまで、自分は「大器晩成型」なのだと信じてやり続けるしかない。自分の夢を信じ自分の人生を信じ、自分の心を信じ、自分自身のすべてを信じる。きっとその先に、偉大なる力が舞い降りて私の背中を押すだろう。そして、私の道は開けるだろう。
3大テノールを見ていたので、この授業の始めの方の発声はとてもやりやすかった。イメージがあった。残っていた。どこにも力が入っていず(必要なところは適度に入っているのだろうが)、体がまるで空洞のようで、お腹からのどを通って口までが筒のようで。彼らを見ていると、のどをしめる理由がないように思う。発声のときのイメージも自分にとってすごく必要だと思うので、できるだけこういうわかりやすいものを見聞きしたい。
いつも前向きにプラス志向で“あの頃はよかった”なんて、これっぽっちも思わず、どんどん進めたらいいのだけれど、ついつい想い出ばかりきれいに見えて、すがってみたり、前に行くのが恐くてためらったり(ま、いいや)なんてやめてしまったりする。“どうせ1000年もない人生サ”と歌に元気づけられても、なかなか涙を笑いとばせない。一人で強くなれない。誰もいない荒野に自分だけが見える道があって、道があるだけで、前は闇で見えないのだけど、そこを通るしかない。自分だけの道だから。弱虫ではいられない。まわり道でも行きどまりでも、迷い道でももとに戻るとしても、今はその道を歩くしかない。決めたのだから。うじうじしていられない。と思いつつ、なかなかうまくいかない。でも、ひきかえせない。何をためらうのだろう。何を恐れているのだろう。…と書きながら自分に言いきかせてるんです。もろいので。
最近、映画を見て思ったのですが、一つのストーリーのなかに何度も劇的な場面があると、見ている側は疲れてしまい、緊張感が保てなくなり、何が一番伝えたいのか見えにくくなります。歌も同じで、全部がむしゃらに歌っても、曲いている側は憂うつになるだけで、自分も観客も疲れてしまい、いい結果とはいえなくなります。やはり一番、伝えたいことが何かを、歌う本人は自覚しなければいけないわけです。今後、注意しようと思います。
やることなすこと気になって、いちいちジェラシーを感じてしまうようなミュージシャンがいる。人間として魅力的でなければその歌を聞いてみようとも思わないし、聞いても感動は半減してしまう。人間として魅力のある生き方をするか、それを越えるくらいの声をもつか、魅力的でスゴイ声の、すごい表現力をもつ歌い手になれれば最高か。
今日、新スタジオを見にいった。地下を降りる階段は狭く、高級クラブの入口とオーバーラップした。中は入るとすぐ急な階段があり、真っ暗だったので何も考えずに進むと危ないところだった。中は本当に何もない空間で、ここからこれからいろいろなものが生まれるのかと胸がすく思いでした。ボクとしてはこの場が既成のものを破壊していく実験場となればいいなと思いました。
まだ人間の意思、目的に基づく道具が何一つない状態をみると、間違った道具と汚れた既成概念を、ここに持ち込んではいけないなと。本当に真ッサラな状態から、魂のこもったいいものを、一つひとつ創り出していきたいものです。また、自分たちが創り出すという一個人としての自覚から、ここのシステムにのっかるという甘えた気持ちを消し去ることもできました。新スタジオを見て、非常に気の引き締まる思いでした。
常に自分の考えや意識をしっかりとつかんでいないと、つい周りに流されてしまいます。どんなに小さなことでも、どうでもいいやと投げやりにしないで、一度、考えてみるようにしたいです。
中学、高校と吹奏楽部でクラリネットをやってて、つくづく思っていたことだけど、結局はどんなすごい先生に教わっても、必死に練習してつまづいて自分の弱点に気づいて、ひたすら原因を追求して研究する以外、上達する方法はない…ということは確かだ。
声のことも全く同じで、先生とみんなで練習してても、結局はみんなのなかの一人の戦いっていうか、だから要は、毎回、同じような内容に対してひたすらがんばるしかない。それっていうのは、考えてみると先生も大変だと思う。先生も重要だけど、答えはみんなの中にあるのだ、と思ってらっしゃることでしょう。
TVで別所哲也さんがハンガリーの馬を育てるプロ、チコーシュという職業の人たちの生活を見に行っていた。馬を育てるプロなんてすごい。5頭立ての馬の背に直接、乗ったり、広い広い草原で、私が見たこともない毎日を送っている。「ハンガリーというとブタペスト」という貧しいイメージしかなかったので、あんな平原が果てしなく続くところもあるなんてすごい。昔からハンガリーは行ってみたいところだが、もっと行きたくなってしまった。ここではない別のところにいつも行きたいとばかり思っている。
レッスンに出ていると吹奏楽部時代のいろいろなことがよみがえってくる。よく「難しいなあ」とつぶやいているのを見ると特に。私も新入生に吹き方を教えるのは、すごくもどかしくて苦労した。「歯はこの辺にあてて、舌はこの辺について…」などと一所懸命、説明するんだけど、口の中のことだからなかなかうまく伝わらない。結局、本当に真剣に研究している子が、偶然コツをうまくつかんだ子がうまくなっていくし、しかも本当に実力の成果が表われてくるまでに軽く3年ぐらいかかる。このことを考えると、先生の気持ちもよくわかるし、「あー、やるしかないわね!」って感じです。
今、仕事とか私生活とかいやなことがたくさんある。もちろん、他の人だって日常の出来事でつらいことや悲しいことをたくさん背負っていると思う。でも、ここにくると、純粋な自分に戻れる。ここの入り口にくると、素直な自分になれる。私は、いろいろなことから逃げない。そして負けない。明日がいい日になるために、今日をがんばって生きる。
先生にいろいろ注意していただくと、ますます自分は自分のことがわかってないなと思います。一番わかっていなくてはいけないのに。詰め方が甘い。気づけないでいる。どうすればいいのだろう?やってないわけじゃないのに。聞こうとしているのに。時間がかかりそうです。この休みで見つめ直さなくては。気持ちも。惰性でやらないようにしなくては。いい休みになってくれるといいと思います。
表現する人にとって何か一番、大切か、深く考えました。今までの自分は、どこか声というテクニックの部分を気にしすぎていたり、いかにうまく歌うか、のようなことばかり考えていたような気がします。自分が望むメロディ、ことばがあるのに、それを出さなかったんです。単なる逃げです。自分をさらけ出すこと、本当にすべてをさらけ出すことを、そうではないと表面上、言い聞かせなからも、心のどこかに逃げ場をつくっていたんだと思います。
このアテンダンスシート、かっこばかり気にしていました。何も表現していなかったんです。何度も福島先生にその大切さを指摘され、その場で痛感したものの、何も変わっていなかったんです。でも、これからは違います。違わせます。自分のつらい面、悲しい面、弱い面、また逆に明るい面、すべてを表現したいと思います。そこで勝負します。そうでなければ、僕にとってのこの2年間は、単なるそこらのカラオケ教室と同じものになってしまうからです。ここでは挑戦して、試して、何度も失敗していこうと思います。そういう場所でもあると思います。恵まれてると思います。そして、少しずつ、自分の思うものへ、真実へ近づこうと思います。
今朝、不思議なことに(?)出動途中で赤とんぼをみた。すごく嬉しかった。「あっ、これが伝えられるといいな」と思ったが、思い出したのは終わってかうだった。明日、会社の上司宅へベビーシッターに行くことになっている。少しは「ねえや」に近づけるだろうか。
「判る」ということばの話源は「わける」からきているのではないかという説があります。自分の声が判る、自分の体が判る、何ができて何ができないかをわける、わけて考える。判るというのは具体的な表現をすれば区別して考えることができるということです。訓練を着実にするための一番、根本的な考え方だと思います。
家のそばで遺跡調査をしている。何か建物があったらしい。そこにあったらしい建物のことをあれこれ想像してみると、おもしろい。何千万年も向のことや日本に限らず、世界中の昔のことは、もう想像のなかにしかないが、自由だ。雪の下から昔の人が(←歯があった!)見つかったりノアの方舟のような大きな木の船が見つかったりして、いろいろ考える。確かにそこにあったけれど、もう今はないもの-それは自分もそうだ。今はここにいるけど昨日の自分さえもういない。今日の授業で出した声も、もう二度と出せない。逆に言うと今しかない。今いる自分はミイラじゃなくて本物の自分だ。
会社関係の人でもときどき、ビックリするくらい、いい声の人がいる。体の深いところで自分の人生を捉えている人は、心と体か開いていて、ストレートな声が出てるのだろうと思う。トレーニングしてればいいってものじゃない。要は、どう生きてるかだ。どういうふうに頭と体を使ってるかだ。
先生方は、続けてレッスンをしてくださってほとんど休み時間がなくて大変だなと思いました。今日の練習のなかで、一度、声を出してくださったのですが、何人もの大きな声よりはるかに大きくて、驚きました。私とは全く違うと思いました。私もがんばって、早く少しでも追いつけるようになりたいです。
何とか歌う心を、自分が歌を歌いたいと思った、その心を取り戻したくて、1、2年前の自分の歌を引っぱり出して聞いた。聞きたくない気持ちを押し切って聞いた。安定しない声、リズム、音程。危なっかしい。けれど、そこには伝えたくてしょうがない自分、自分のあこがれてきた音楽を、歌を歌おうとする自分がいた。なぜ歌おうとするのかさえ忘れそうな自分に、純粋なかつての自分が何も言わず歌いかけてくる。コンサー卜で見た感動を、ふと耳にしたラジオの歌に泣いたときを、忘れられない。それを再現したい。それがすべてかもしれない。心に焼きついた強烈なものを表現したい。誰も自分に期待などしていない。やめようと思えば、いつでもやめられる。やめられるところまでやればいい。力つきるまでやればいい。探してる。必死で探してる。自分が歌う理由を、生きる目的を。失くしてはいけない自分を、ほんの数年前の自分の歌に見た気がする。
AM8:45電車内での発見 ただ今、私の座っている席の前の席に、日系三世っぽい外国人の男の人と日本人の男の人が座って会話しております(英語を使って)。はっきり言って声量、音質が全く違うようである。外人の声はとても大きく、電車の中でひびきまくつている。それに比べ日本人の声は小さくて弱々しく、私のところまで声があまり届きません。
うーん、何が違うのだろうか?あっ!そういえば、姿勢が違うぞ。外人の方は腰のあたりが、がしっと固定されていて自分の発する声をしっかりと腰で支えているようだ。なんとなく、力士がしこを踏んで腰をおろしているかのように、どしっとした姿勢である。押してもビクともしなさそうだ。それに比べ日本人は、腰がヘナヘナしていて何にもどこにも力が入っていない。というより支えていない。押したらたおれそうだ。外人の声は本当にしぜんにひびいていて気持ちいい。その原因は腰にあると改めて認識できました。やはり腰なのだ。
秋がきらい
あなたが去った
秋がきらい
どうして あなたは死んで行くの
どうして 私は生きて行くの
どうして 私を置いて行くの
どうして もう会えないの
どうして もう声も聞けないの
どうして 物になってしまうの
どうして そんな小さくなってしまうの
どうして ほほえんでいなくなるの
どうして 想い出は生き続けるの
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モノトーク 私は今まで歌を聞くときに、そしてそのヴォーカリストの歌のうまさを判断するときに、息(声)の深さまではあまり意識して闇いていませんでした。もちろん声をお腹から出すことの重要性は充分わかってはいましたが、主に表現力、フィーリング、リズムなどで判断していました。しかし、ブレスヴォイストレーニングの本を読んでからというもの、歌のみならず、いろいろな声を聞くたびに息の深さを注意して聞くようになりました。
とてもまだ、正確に聞きわけられるわけではありませんが、それでも日本人の歌(声)を聞いてみると。ほとんどがのど声かそうでないとしても、あまり深い息は使っていないように聞こえます。そして私の好きな外国のヴォーカリストたちの歌を息の深さで聞いてみたら、確かに皆、例外なく、それを感じさせないしぜんな深い息で歌っているのです。息の深さまでは考えずに聞いて感動し、好きになった人たちばかりですが、その歌の素晴らしさ、表現力は、深い息と結びついた声の基礎の上に成り立っているのだと、改めて納得させられました。
日本の一般の聴衆は、声の深さで歌を聞く人はほとんどいないと思いますが、それでも聞いている人を心から感動させることができるヴォーカリストは、結果的には深い声をもっているヴォーカリストなのではないかと、つくづくヴォイストレーニングの重要性を感じました。
しかし、歌の難しさは深い声が出せるだけではどうにもならないということで「発声はあくまで基本であり、実践はその上に成り立つけれども、基本そのままではいけないのです。芸術としての価値の方が大切になってくるのです。」と福島先生のおっしゃっていることが深く心にひびきます。深い声を歌のなかでいかに、どこまで使いこなし活かせるか、そしてその有利な声でどこまで自分を表現できるか。結局はゴールのないゴールをめさして自分なりに一所懸命、走り続けるしかないのだと思います。まだ卜レーニングを始めたばかりですが、深い声に一歩でも近づくようにがんばりたいと思っております。
「君は人間でなく、機械だ」とある人にいわれた。ショックだった。その場は「んなことあるかい」と思っていたが、実はそのことばは的確だった。自分でも自分の感情が機械的になっていくのもわかっていたし、理由もわかっていた。ただ、現実から逃げていた。バンド活動をしていたが。そのうち歯車が合わなくなりやめた。誰が悪いわけでもなかったのでが。音楽にかける考えが違ったのだ。やめてからは詞も曲も創る気がなくなり、何もせずにいた。ただ、何かしなくちゃという気持ちはあって。絵を描きはじめ、だんだんと絵を描くことに楽しさを覚えたが、何か違うともう一つの自分が言っていた。ライブを演るときの緊張感や、お客の拍手や背中にゾクゾクくる寒気や、ライトの明りなんかの生の感覚が欲しがっていた。ただ、今までのまま中途半パに歌を歌いたくなくて、心の底から全身全霊こめて、ことばに魂をこめて歌える。歌う人。表現者になりたい。いろいろ悩んだけれど、音楽という一つの素晴らしい世界にすべてを注ぎこみたい。
声が欲しい!人を引きつけ納得させられるくらいの魅力にあふれる声をつくりたい。そう思ったのは今年の7月に芝居をやったときだった。今まで楽しかったはずの芝居が、このときもろくも崩れ、気持ちは奈落の底へと落ちていった。体調もよくなく大きい声が出せずで。そんな状態で演技に気持ちが入るわけがなかった。まったくのブラック・ホールですよ。結果は最悪の事態を招いた。役つくりができないまま舞台に立たなければならなくなったんです。あれ程、惨めなことはなかった。自分の気持ちのなかでは失敗です。悔しい!本当に悔しかった。僕は技術的なものを何一つもっていなかったことを思い知らされたんです正直言って、芝居をやめることまで考えました。でも、それは自分には納得のいかないことなんです。そんな矢先、一冊の本と出会いました。「人に好かれる声になる」これだ!もう一度、初めからやり直そう。そう決心しました。後はやるだけです。
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活動報告
マングローブ保護コンサート。
渋谷公会堂(喜納昌吉&The Champloos、The Boom)
サークルの発表(Sly & FAMILY STONEのコピー)、
高円寺JIROKICHIでBLUESのライブ。
下北沢251、
恵比寿ギルティで、ライブ(コーラスとして)
東京シティオペラ協会講演「R.Straussの夕べ」
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おすすめ 538
チョーズン・ゴスペル・シンガーズ「ザ・コンプリー卜・スペシャルティ・セッションズ」
大事なことを思い出した。そもそも何で俺はブレスヴォイスに来たのか?理屈抜きに、ただシャウトしまくれる体が欲しかったんだ。すべてをぶっ壊す程の声の「パワー」が…!それにしても久しぶりに「笑いの止まらぬ」アルバムだ。ひっくり返ってしまった。
映画「カストラート」。
私はカストラートという单語もファリネッリという人も知らないで見に行ってしまったのですが、自分のなかでオペラやクラシックというものの固定観念がはがれてしまったというのが感想です。これらは決して形式ばったものというわけでなく、今のロックやポップスにも通じるものがあります。ファリネッリの美しさより激しさを歌いたがる心情が、それをよく表していました。サントラを買おうと思います。ちなみに映画のなかで使われている歌声は、カウンターテナーの声と女性ソプラノの声の合成したものだそうです。やはりそうでもしなきゃ、特殊な声であるカストラートの声は再現できないのですね。
淡谷のり子「私の遺言」
いままで淡谷のり子というと、ただのきついオババという感じしか私にはなかったのだけれど、この本を読んで、この人の歌に対するまじめで純枠な姿勢にびっくりした。「私には歌さえあれば何もいりません。結婚相手よりも何よりも歌を私は大切にします。」ときっぱり言ってしまえるこの人は、けっこうすごい。この人のシャンソンに対する思い入れや、人生観にも驚かされる。「日本人でもこのような考えをもっている人がいるのかと、淡谷のり子の見方が変わってしまった。この人を批判していた私が、逆にこの人に批判されてしまったというような感じである。
彼は表現が豊かで情景が浮かびやすいのですが、“Moon Palace(厶―ン・バレス)”という本の中で「光の強さや角度によって、物は常に姿を変える。人が通りかかったり、突然、さっと風が吹いたり、ひょんなところで光が反射したり、といった周囲の状況によって、その様相はいくらでも変化しうる」とあります。同じ物なんて存在しない。表現者はそのときの目にうつった感情を素直に出さなければならないのですね。日頃から、そういう訓練を積もうと思います。
リキッドルームにオアシス
UKの若手バンドなんだけど、ビートルズっぽくて、だけど新しい音楽もとり入れてるような、とってもカッコイイバンド。今一番、好きなバンドでありますです。
キャッツ(四季)
とても素晴らしかったけれど、声という点では満足しなかった。マイクを通していくらヴォリュームを上げても、元の声自体の質が悪ければ、心にひびく何かをもつのは難しいというのがよくわかります。むろん、歌はとても上手ですが、それ以上に声を鍛える必要がある人が多いと感じました。そうすれば、もっとよくなるのにー。本当に日本語の発音で歌うのは難しいです。
「lntro」という店でJAZZのセッション
残念ながらその日はヴォーカルの人はいなかった。若者からおじさんまで、たくさんの人と気さくに話せて楽しかった。
シモーネ・モレーノ
ライ・クーダー&デビッド・リンドレー
PJ HARVYのライブ
もー、すごいです。彼女はアーティストです。歌は、不安定でムズかしそうな音程を確実に出していました。歌よりも驚いたのが“見せる”ことに撤していて、写真の1コマ1コマを見ているような、キレイで見栄えのする動きを何気なくやっていました。“体の動き”はライブでは必要です。私もダンスを習おうかと、今、真剣に考えています。
真実のみをたたきつけられて、あとは自分で考えよ、とのメッセージを強く感じる。第三回の放映は、世界が第二次世界大戦に突入していく時代。
“ジョアン・ジルベルト"の”BRAZIL”
聞いていてとても心地よかったです。
シモーネ・モレーノ
雑誌でみたが、すごく雰囲気のいい女性。きっとすごい声だろうな、という印象。
来日するみたいなので行きたい。
デズリー「マインド・アド・ベンチャーズ」
低音で聞かせてくれる、特に2曲目の「Feel So High」は、息の流れに声
がのってる、声にその人の「生」が見える感じです。
改めてすごいと思った。似たりよったりの人たちが今とても多いですが、あの個性とかパワーとか、テレビからとび出してきそうだった。
「Rev.JAMES MOORE with the Mississippi Mass Choir」
ジャケットを見ただけで、深い声を出しそうな感じがしたので、つい買ってしまった。CDをかけてみるとこれがすごい。なぜゴスペルのアルバムでハズレだと思うことがないのだろう。とにかく深い声、そしてシャウト、ソフトに歌うところなど、まったく無駄がない。これだけ目いっぱいシャウトしまくってくれると本当に気持ちよい。なんといってもライブはこうでなくてはと思う。そして、後ろで歌うクワイヤーもめちゃ、カッコイイ。バンドのサウンドも、すごくモダンでよい。
中学生のとき、初めてテレビで見た。そのときは女装はしていなくて「ヨイトマケのうた」を歌っていたが、何だかわからぬままにものすごい衝ゲキを受けた。声ではなく、1曲で演劇をみているように、そこに世界を創り上げてしまう、その力がものすごい。
このまえNHKの番組に出ていたのでみた。はじめにシャンソンを何曲か歌い、それはまぁどうということはなかったけど、最後に歌った「老女優は去りゆく」という自分の歌のとき、イントロが流れると別人のようになってしまい、こっちは歌の世界にひきずり込まれて放してもらえなかった。歌が終わると、習慣の拍手ではない、割れるような歓声が上がった。
番組のなかで「学生のとき家が破産しちゃったから、私は新宿駅に住んでいたのよー」と冗談のように話していたけど、へらへら笑っていられる私たちと違う、美輪さんの底力のようなものを感じた。
人間が使っている脳はたった30%で、残りの70%に超能力とかがあるそうです。本当、声とかも、もともともってたりするのかもしれないですね、もっとすごいやつ。
低音のときがとても好きです。急に高いところから突きおとされたような気分になります。
奥野敦士(元ローグ)(←今日レッスンにくるとき、代々木駅で見た)
ジギー(森重樹一の声)
もう何回か見たことがあったけれども、アフリカの救済のためにこんなにグレイトな歌手たちが集まって、こんなに素晴らしい歌を歌って本当にすごいと思う。歌を歌うことで、多くの人々の命が救われ、一人でも多くの人が幸せになれるなんて本当に素晴らしいことだと思う。私も「今おこっている悲惨な出来事に目をそむけてはいけない」ということばを聞いて、グサッときた。
「明治神宮」
心が落ち着く。ニュートラルになる。夕方はあまり人がいないので、発声練習もできる。何か何百年も昔からあって、今の時代でも大切な、何かがわかる気がする。何だろう?!人間の基本的で-番、だいじなもの。
ボブ・マーリイ
“Carpenters their greatest hits”
ベストのアルバム。昔、ラジオでうっとり聴きほれたものが、たくさん入ってます。よいです。
あの頃のボノの歌は魂の叫びそのものだ。自由な歌い回しに非常に魅かれた。
「メルセデス・ソーサ」
ほんとにほんとに素敵だナと思います。音楽も何も。彼女は次元が高すぎる。
新宿の「赤れんが」
知り合いが歌っています!とても落ち着いたよい店です。
The Pianoのサントラ。
アルバムジャケツトの海岸におかれたピアノのイメージと曲の雰囲気が重なって、曲の世界が目に浮かんできます。これを聞くと、ピアノという楽器の幅の広さに驚かされます。