一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

京都合宿集中講座  19627字  560

京都合宿集中講座         360322

◯予定

◯集中講座コメント

◯トレーナーコメント

◯ライブ実習コメント

◯参加者の感想

 

◯予定

1.ライブリハーサル

2.音取り「ケサラ」

3.叫ぶ詩人の会・レクチャー

4.地の声

 5.セリフ練習レクチャー  

6.声楽 レクチャー  

7.「虹と雪のバラード」 

8.ライブ本番

 9.コーラス練習

 10.グループ発表リハーサル指導

 11.カウンセリング 

 12.グループ発表 

 13.合唱

 14.一人一言感想

 

◯集中講座コメント

 

感動させることや感動することは、人が教えられることではないし、また、私が感動できるけどみなさんができないということもないはずです。感動できるようなことは日常にいくらでもあると思います。ただ、一つのことに対して人それぞれものごとの受け止め方があります。たくさん感じ取れることと、それに増してそれを集約して抽出して取り出さなければなりません。

 

 それを音色表現、歌でやるのがヴォーカリストです。いつどこで、さっとあてられても、何らかの表現ができなければなりません。そのためには、技術がいるし、そのまえに、すぐ対応、反応できる心の準備が必要です。それもトレーニングのうちです。今回の集中講座はそれだけに終わってしまった感があります。

 

 ウソを取り除いていくことは大変、難しいことです。取り除いていけばなくなるということではなく、常にそのことに注意していない限り、すぐ偽りになってしまうのです。それに気をつけるには、偽りではない本物の作品に常に接して、耳や心を養っていくしかありません。

 

あたりまえのようですが、実行していくのは難しいです。自分のなかのテンション、向上心を最大にもっていない限り、接していても慣れになってしまうからです。人の作品を聞いている分には本物が判断できても、それを自分でそうすることはこれほど難しいことはありません。

 

 自分のなかからわきあがるものを出していくのですが、そうするにはいつも、自分のなかでわきあがっていなければなりません。日頃から感動、感情を自分のなかにつめこんでおかなければなりません。場に出たときに出そう、準備しようなどと思っていては間に合わないのです。

 

 いつも残念に思うのは、才能や器用さを少々もっていても、原点に戻れる人が少ないということです。まず、原点に戻ることを突き詰めることです。そして自分のトレーニングのなかでキラッと光ったものを集約して維持することです。それができれば、ようやく一人でトレーニングになるし、この研究所が与えられる材料もみえてくるのです。

 

今の状態は、みなさんの方が学ばなくてはならないことがたくさんあるはずなのに、トレーナーやスタッフの方ばかり学んでいる状態です。学べるようにならないとなりません。学ぶことが終わってしまうと、それ以上、うまくなることはできません。常に上をめざさないと、今の実力を維持することもできません。

 

 あとは考え方の問題です。1000回繰り返しトレーニングすることを1000回もやったと感じるか、たった1000回しかやっていないと思うかどうかです。みなさん、講師と何が違うのかわかりたければ、同じ回数だけのトレーニングを積んでみることです。それではじめて、比べられます。そこで同じになれないとき、はじめて私たちはみなさんに何か与えられるのです。

 

第一線で活躍している人、一流といわれている人たちは、才能があるなしに関わらず、それだけのことをやってきているのです。それが問えるところまでの準備をしてくることです。一つの課題一つについても、考え方、捉え方の次元が違うのです。

 

本当の声、歌が自分から発せられたら、自分でも感動するはずです。才能がある人、声のある人、歌のうまい人は世の中にいくらでもいます。そのなかに自分の身をおいたとき、どれだけの自信がもてるというのでしょう。それを保つには、これだけやったといえるだけの量を積み、さらに研鑽を重ねる以外ないのです。

 

私も同じで、毎週のレクチャーのなかには、いろいろな分野のプロの人もきます。こちらもプロでありつづける努力をしない限り、次の舞台はないのです。コツコツと人が10やるところを100やることで、自分への自信にもつながるし実績となるのです。今回の経験を少しでも自分の実にして執念をもって煮つめていってください。

 

 

 

◯トレーナーコメント

 

自分のテーマとしているものを体に入れることです。それが声であり、息であり、体の使い方、ことば、ひびきであるのです。その入れ方は、多少荒っぽくてもよいです。体の奥へ入れていくようにしましょう。自分の考えつくやり方で入れていってください。それがスタートラインに立つことであり、体の支えになることです。それがことばでできればよいです。

みなさんも、何年か後には今日の課題ができるようになるはずです。それぞれ、ここでやったことを何かの糧になるように使ってください。そうすることが、根本的に基本からつくりなおすきっかけになるはずです。

 

 

「ケ・サラ」の合唱に携わってきましたが、最終的にこのような形で終わることができてよかったと思います。歌うことの喜び、感動を味わうことができたのではないかと思います。最近は、感動という気持ちを味わう人が少ないようですが、人を感動させるためには、まず自分が感動した経験がないと、胸に秘めていないとできません。声だけのトレーニングをしているだけではなく、日々、感動する心、気持ちをもちつづけていなければ、真の音楽は生まれてこないのです。歌のうまい人は全国津々浦々にいますが、何かがわきあがってくるような歌を歌える人は、とても少ないのです。今回、感動した人は、これからの心の支えにして日々のトレーニングに励んでください。

 

 

◯ライブ実習コメント    

 

今日、歌った人の3分の1くらいの人は、上手に歌えてしまっているのが困りものでした。次の3分の1人たちは、ものすごくヘタでしたが、クセをつけてうまく歌えているようにみせている人よりは救われると思います。

 

 最初は、自覚がなくてもよいから「ヘタクソ」になって欲しいということです。「ヘタクソ」になるということは素の「自分」になるということで、大切なことであり難しいことです。自分のスタートは「ヘタ」だということです。「ヘタ」になったところが、ようやくスタートラインにたったということなのです。そんなに早く、安っぽく仕上げないでください。それ以上に大きくなれなくなってしまいます。思い込みで困ってしまいます。

 

 ここでは、器を大きくして、その部分にいろいろ入れていくためにトレーニングしています。器を大きくしていかなければ、後々に成長していけないからです。2オクターブで歌を歌っていた人が、わずか1音、2音の音にもOKの判断がでないところからスタートします。

 

ステージをトレーニングと切り離してやっている人もいるのですが、歌えてしまっているようにみえても、一見うまくみえても、ほとんどの場合、それは安っぽいイミテーションにしかすぎません。通用しません。そういう人たちは、5年、10年たっても考え方から変わらなければ、歌の世界に出ていける可能性はありません。それは、単にクセがついているだけだからです。「ヘタ」なことを隠すと歌えなくなります。「その人自身」ではない歌になるからです。

 

 今の日本の歌い手は、アーティストとしてか、ビジネスとしてか、ともかくも、何かをもっている人たちなので、それでよいでしょう。しかし考えてみれば、同じような歌い方のクセに同じ音楽の処理をほどこして成り立っている狭い世界です。

みなさんがそれを見本に、同じようにまねしたところで、そういうふうにはなれません。その人たちより歌が2~3倍うまかったとしても、超えるどころか同じにもなることはできません。まして、お手本にまねていくのは何の意味もありません。二番煎じはいらない世界です。

 

 そのような形でこの場で歌っても、何も空間は動かないし、私には鼻歌くらいにしか聞こえません。退屈なだけです。まだ「ヘタ」な方が、ハラハラ、ドキドキさせられてステージがもっています。

 

 

 「いとしのエリー」は、レイ・チャールズの歌っているものを聞いてみてください。彼は、桑田佳祐さんの独特のクセは使っていません。桑田さんのクセは、一つの歌い方ですが、そういうクセをつけたら、普通の人は声が出なくなります。声量がなくなります。彼だから正解なのです。

 

 体も心も歌も「一つである」ということをわかって欲しいと思います。一つに受け止めて出している人の歌は、どんなにヘタでも聞けるのです。人のものは一つとして自分のものにはなりません。その人自身になっている人、その人自身である人、そこから一つの表現ができている人にはじめて私の与えられる材料が活かせるのです。

 

裸になってはじめて技術を学ぶ資格が得られるのです。そうなっていないうちに技術に手をつけてはいけません。外国人の歌い手が「ウー」とか「オー」とか合間によく入れていますが、それは心が動かされ、そうしたいという鼓動があって、しぜんと入ってしまうのです。だから作品になるのです。

 

自分でそうするなら、その意味を煮つめて、絶対、必要だと感じないうちにやらないことです。理由のないもの、飾りは退屈なだけです。

 

 他の人が応援したくなるような要素を場で出せるかどうかです。カッコよくやろうと思ってやるのではなく、やっていることがカッコイイのです。そのまま素直に自分でやっていけば、それがそのままカッコよさにつながるのです。

 

 人は、具体的なものに関心をもちます。あなたがどこかからひっぱってきた上っつらなことば、声よりも、あなた自身とそこからでる声に興味をもちます。クセは逃げ、言い訳にしか過ぎません。技術としてまとめあげても、何の広がりも出てこないのです。何も伝えることもできないし、人の心を動かすこともできません。

 

表現できなかったと思った人は、くやしさを自分の責任でもちかえり、今後の課題にしてください。覚悟がみえるかどうか。この場を一瞬にして自分にひきこめるか。一瞬に感じ、取り組んできたものを一瞬、出せるか。自分の体につめこんだものを一つにし、あふれ出てきたものを他の人に与えていくというプロセスを踏んでください。

 

 「歌の大きさ」「呼吸の大きさ」をもっと感じていってください。今、みなさんが大きなイメージをもって歌おうとしても、絶対に技術は伴いません。声や息は足りません。歌もメチャクチャになるのもあたりまえです。しかし、その大きさが見えれば、私は安心してみていられます。

 

その大きさに技術がついていくからです。大きくイメージし、大きく歌っていってください。大きく歌って小さくすることはできても、その逆はできないのです。歌えば歌は「歌」になるわけではなく、歌を「誕生」させなければなりません。それには大きな力が必要です。1声でも1フレーズでも誕生させることです。歌を殺してはいけません。

 

 課題曲の方ができがよかったようで、何のための自由曲かということです。自由曲は100曲くらいから選曲するのではなく、1000曲くらいから選んでくるほどの綿密さが必要です。その人自身、その人のことば、歌。何か「その人」がみえればよいのです。それに適した題材を選ぶのもセンスです。追いつめられてやるのでなく、追いつめてやらなければいけません。自分でイメージし、出し切ってください。

 

今やらずにいつやるのかということです。やる気になって、やったところのみ技術がついてくるのです。そうでないと、スタートラインにもつくことができません。時間、空間をとめることは難しいことです。トレーニングをつんで敏感になり、そういう瞬間をコントロールしていってください。そのためのトレーニングです。

 

 10年後、20年後も歌えるようなスタンスで学んで欲しいと思います。10年先をみてやっていけば、今の取り組み方も変わるはずです。わからないときは全身を使い、全神経を集中させることです。そのうち、心身と表現とが一つになって、離れなくなってきます。とても単純なことです。歌から考えるから難しくなるのです。トレーニングはしぜんな状態でできるようにするためにふしぜんなことをしているのです。

 

 このような場のなかに自分をおき、自分で学んでいくことです。他の人をみて、何か得ることがあれば、それを素直に学んでいけばよいです。自分の直感を信じて、何がおもしろかったのか、もう一度みたい人は誰だったのか、逆にもうみたくない人は誰だったのか感じてみればよいのです。もちろん、一流のものを聴き、本物とは何かを深く学び,直感を鋭くしておかなくてはなりません。

 

 つまらない人がやれば、どんなことでもつまらなくなります。逆に、つまらない課題でも、おもしろい人間がやればおもしろくなります。その力をつけていってください。みんなに嫌われようが「自分がいた」という存在をアピールしてください。決して埋もれないことです。

 

覚悟が決まっている人は、歌うまえから顔つきが違います。何かオーラを感じるものです。そういうものがなければ、人は何度も足を運んでくれません。少しでもそういう世界にイマジネーションを働かせて近づいてください。

 

 何か出てきそうだと思いつつも、今日はそのまま平坦に終わった感じがしました。何かを試みることが少しでもできた人に対しては、私も少しは心に残っています。それを自分の実績にしていってください。絶叫しろとか感情を露出しろとはいいませんが、そのことを踏まえて、完全に本人がものにしてきた表現は大きさがみえるものです。プロセスを踏んで、煮つめていくことを常に心がけてやってください。

 

 

 

 

◯参加者の感想

 

他の人のアクの強さを感じた。もっと自分を出していかなければいけない。今年の目標は「自分を壊す」ということだが、ここにきてまだできていないことを痛感した。1年後の自分が「あの人はアクが強い」と思われるようにがんばりたい。

 

表現することの難しさを感じた。

 

ここで生まれ変わった実感。前回のときの合宿より、その実感を味わった。車で京都まで来ることができるか心配だったが、日本を人間に例えて、母親の胎内に戻る、乗り越えるという気概をもってきた。

 

京都の人はよくしゃべるし、それを止めなければと思った。東京に戻っても、今回のことを忘れずにがんばりたい。いつかブラウン管に私の姿が映り、それをみて「あいつが映ってる!! 私もがんばろう」と思ってもらいたい。

 

今さらだが、私は「アーティスト」なんだなと思った。だから、今度、京都に来るときは、お金を払わないでみなさんに払ってもらって「きてくれ!!」と言われてきます!

 

毎回、同じことを言われている割に進歩がない。ためになったという実感はないが、たぶんなっていると思う。徐々にわかってくると思う。

 

楽しかった。いろいろな出会いがあって勉強になった。

 

みんなの発表をみて、自分は変な方向にまとまってきてしまっているのではないか、これではいけないと強く思った。「あかん!」と考え直した3日間。

 

毎回「壊す」ということを念頭にしている。苦しくて苦しくて、でも苦しんでいる割に壊せていないという繰り返しを何年もつづけてしまう。今回もまた改めて感じた。

 

あまりのくやしさにことばもない。しかし、それをつかんだときの楽しさを知りたいために歌っている。それができたらいい。つかんだときの自分がみたい。苦しいときも笑える強さが欲しい。自分も欲しいし、そういう経験をみんなにもして欲しい。

 

音楽にふれていると、癒されたり力づけられたりする。また、いざ自分が表現しようと思うと、それ以上に学ばさせてもらい、暮らしや考え方も前向きになってきた。先のことばかり心配せず、今の瞬間をみよということ。瞬間が大切。さらにそれを感じて表現していきたい。

 

自分のプラス面、マイナス面、全体像がみえてきた。やらなあかんと思う。自分自身でのし上がっていくのが大前提だが、ここにいるみんなでのし上がっていこう!! 

 

京都のみんながすごくがんばっていて、みんなと同じ程度にやっていっても上にはいけないと痛切に感じた。みんなのよかったところを、自分に吸収していこうと強く思った。

 

思ったり感じたりしたことを表現しようとしても、一人でやっているトレーニング中には出せないのに、今回の合宿のような集団だと表現できるのはなぜなのだろう。一人のときも出せたらよいのにと思った。

 

緊張感を感じた。人の歌う曲を聞いて「自分とは何か」を一瞬、感じた気がした。

 

歌うことは本当に難しいと実感。課題が山積みで、その山に埋もれて死んでしまいそうな気持ちになる。せっかくこの研究所に関わっているのだから、ここを表現の手段として自分の身にしていきたい。

 

合宿やレッスンの集まりに来たことがなかったので、大変、刺激になりました。1からスタートしたいと思います。原点から出発しないと始まらない!! 

 

印象に残っているのは、まゆ毛の動きと右手で世界をつくるところ。「アリスー!!」という、一体、何が起こったのかというところ。

 

 

 

参加者の感想2

 

 

とても気持ちが高ぶって、また周りからいい刺激、影響を受けることができた。㍼hに参加してよかったと思った。

 

声を出すことが幸せで、なんて楽しいんだろうと思えた。訣㍼hに参加してよかったと思った。

 

声を出すことが幸せで、なんて楽しいんだろうと思えた。現実の世界を忘れ                                                                                                                         て、なんだか違う世界にいることができた。

 

歌を歌う直前、いろんなことがアタマをよぎって、そしてそれらを無心で歌にぶつけていったなかで一番アタマをよぎったのは、この日このとき、このスタジオに集まっている僕たちというものが、一期一会の出会いとして、とてもかけがえのないものに思えた(たとえば、ここにいる人たちの何人かの前では、もしかしたらもう二度と歌うことはないのかもしれない、みたいな)ことで、そこでいい加減に歌えないなと思った。この心構えがこのときの自分の歌には出ていたように思うし、そして常に忘れてはいけないようにも思った。

 

2日目にやった“悲しみの叫び”。

これ、やりすぎると絶対にノドを痛めるが、自分のカラを破るにはいい。ストレスたまってたのかな。すごくスッキリした。これをときどきやると、表現の幅も広がりそう。

 

ケサラの合唱。合唱までの過程から合唱が終わるまでとてもためになった。

 

合宿を通して思ったことは、ただ一つ。《鍛えなければ…》 合宿から帰って2日間、私はぶっ倒れた。その表現はあまりに大げさかもしれないが、実際、食欲は完全に失われ、ひどい頭痛にも襲われていた。《歌うということが、これほどエネルギーを要するものだったとは…》一度にたくさんの量を放出することに慣れていなかった私の体は、補給が間に合わなかったのだ。

私は不調極まりないその2日間を、そう解釈した。そこで思う。今まで自分がしてきた“一所懸命”はどれほどの価値があったのだろう。たった2日、声を出しただけで底がつきてしまうなんて…。それだけの体だった。それだけのことしかやってこなかった。情けない。ただただ情けない。

ここ数年で、私の周りはすごい速度で様変わりした。友人、職場、手にとる本、聞く歌。それは手に届かないと思い込んでいた“あこがれ”のものを、今この世で自分がやっていいのだということを理解したときからだった。そんな流れのなかで、ここにも出会った。

私にとってここで学ぶことは、世に通用するだけの歌が歌えるようになるだけではなくなっている。もっともっと内なる問題、テーマをもって取り組んでいる。苦しんで苦しみぬいて、それを手に入れるつもりはない。しかし、興味の示す方向が、その答えを教えてくれるような気がするし、興味の方向を向いていれば苦しいこともないだろうとも思う。

道のりは遠いかもしれない。いつになったら自信をもって自分をさし出すことのできる人間になれるかわからないが、そんな人になれたとき、はじめて歌も歌えるようになるんじゃないがろうかと思っている。今はまず、鍛えるのみ。

 

 

京都からこちらへ帰ってきて今、向こうで感じた深い充実感を思い出す。京都での最後のレッスンのとき、福島先生は「嘘をつかないというのは難しいことだ」と言っていた。本当だ。嘘をつかないのは難しい。こうして書いていても、または歌を歌ったとしても、形を気にしたり、自分をよく見せようとつい思ってしまって嘘になる。そして浅はかにも、そんな自分に酔っていたりするものだ。

でも今ここでは、私は嘘をつかない、そう誓いたい。いつか私自身が、どうかこの瞬間の私を嘘にしてしまうことのないように。結局、私は自分を信じきれていない。だから歌いたい歌も、自分が何をしているのかもわからなくなる。

自分は魅力がないから、歌を歌うという人前に立つ素質がないから、音楽的下地がないから、自信などもてるはずはないと思っていた。それでも心のどこかでは、私には何かがあるのだから、人と違った個性があるのだから、あとは自信さえもてればいいとうぬぼれていたはずだ。

本当はわかっていた。足りないのは情熱と努力、本当の自分を突き詰めようと日々、邁進する力、そうすることを一番大切にしようとする精神力だということを。そんな中味の薄い芯のない私が何を書いても、何を言っても、すべては理想論で、結局はウソになっていってしまう。それに気づいていたからこそ、余計にしばらくの間、私は何も書かなかったのだろう。

京都にいる間、私は歌を表現すること、自分をいかに創造してけばいいか、自分を伸ばすことをだけ考えていればよかった。自分のリズムで生活し、モノを考え、感じられることをとても幸せに感じた。わずらわしい人間関係や雑多な日常の作業からも放れている。

そういえば近頃、その程度のことにずいぶん惑わされ、自分の心を切り刻んできたなぁと思い至った。以前一時期、凍るように心が寒い思いを経験し、自分を忘れかけたこともあった。やっとようやく、自分を取り戻せたと意識していたはずなのに。そして今、新たに日常の出来事におわれ(またはおわれるふりをして)、長い間、自分を突き詰めてこなかったつけがたまってきている。

私は自分の目標、指命を忘れた。心のなかから聞えてくる声を信じられないという理由をつけて、怠惰のままに遠ざけた。両親や周りの人の期待にそって、普通の人として生活することに甘んじた。そんな自分の甘さを、忙しいからと許した。

いつのまにか、ここが趣味になっていた。京都で福島先生に、はっと我にかえった。なんだ、今まで先生が、叱咤していたのは、全部、私のことじゃない。その度に、結構ショックを受けながら、結果としては半分、人ごとみたいにしてしまっていた。

勉強になるなぁ、ありがたいなぁなんて思いながらぼんやりしていて、私は何も変わっていっていないに違いない。年だけとって、あとは老けていって、ちょっとだけ一般常識が身についただけじゃないか。

大人になるということは、そんなことじゃない。頑張っている人を見て、頑張っている気になってしまうのではなく、私が自分自身に正直に、一所懸命生き始めない限り、私は本当の意味で大人になれないのだろう。ぜんぜん先へ進まない。一所懸命生きている瞬間は私にもある。けれど、それが身についていく期間はない。

「人の後ろに隠れるな」と先生は言う。芸をするならあたりまえのことだ。でも私は、自信がないという理由をつけて、人の後ろに隠れてきた。そしてその結果、現われた表現未遂のワケのわからないモノに「自信がない・作品No.…」と題をつける。

私は今まで、本気なふりをして、本気じゃなかった。純粋で一途なふりをして、わざとらしく狡猾だった。一日一日を大切に、毎日ベストを尽くして生きている人と、ついのん気に流されながら、一日を消化している人との差は、考えてみなければそれですんでしまうけど、本当は驚くべき心の距離だ。

 

 京都でレッスンを受けている間、とても幸せだった。自分よりも、ずっと高いところにいる人との本当の距離に気づいて、私もそこまでたどりつきたいと願った。自分の心が、どんどん裸になっていくのを感じた。私は弱いから、自分が本当に感じているモノを、人に勘づかれるのがすごく嫌だった。自分の弱みをさらけ出して、傷つけられるのが怖かった。本当の自分を表現する勇気がなかった。泣いている自分を人に見られるなんて最悪だった。

私はいつも泣いてばかりいるから、泣くのは得意だ。感動したり、落ち込んだり、いろいろと想像する度に、よく泣く。だけど、そんな自分を人に見られるのは、すごく恥ずかしいことだった。だから、人前では自分の感情が動きそうになると、すぐ思考をとめた。イメージしないように、感じないようにした。でも、ここでは、それは通用しない。自分を表現する一番大切な場所で、私は自分の核をはずして表現しようとした。本当の私は恥ずかしくて身の毛がよだつので、違う人のふりをしようとした。今でなくても、いつかは破綻しただろう。

でもようやく、ああ、ここではそんな必要ないんだな、私が私であっていいんだな。感動したら素直にそれを表現すればいいし、傷ついたら傷ついた顔してていいのかもしれない。どうしてわざと強がって、ものごとを複雑にしてきたのだろう。そう思えた。ただ、やはり、感情のたれ流しはあまり意味のないことだと思う。何かを感じたら、心のなかに強く残るモノがあるのなら、一番、効果的な自分のためになる方法で表現すべきなのだろう。それは歌であるかもしれないし、文章であるかもしれない。

私はそれをしばらくさぼっていた。そうしていると、自分のパワーというか情熱が、どんどん減少していくのがわかる。自分は何かを感じているだけだという無力感。私はこの、私に感動を与えてくれた人たちにはかなわない、こんなふうにすばらしくはなれない、という絶望感。このままではいけないとわかっていて、それでも懸命に生きられないという、自己嫌悪。

 でも京都で私は、本当に自分を大切に厳しく生きることの崇高さに触れた。涙が溢れて止まらなかった。京都での3日間、毎日よく眠れないし、胃腸が弱ってほとんど食べられなかった。くる前は前で、一カ月に一回くるはずの生理が三回きた。ちょっと異常な体調だったけど、いろいろと全部、出したからだろうか、心と体が澄んでくるのを感じた。

 私には、今この瞬間しかないと思えた。他の人なんかもう、どうでもよかった。あんなに周りばかり気にしてきたのに。ここに入って初めての合宿のとき、先生に泣きなさいと言われて私は泣けなかった。私は感情移入しやすいから、本気でその課題に取り組めばすぐに泣き出すのが目に見えていて、それを他の人に見られたくなかった。でも、泣き真似したりそれらしく本気でやっているふりをするのはもっと恥ずかしく、プライドが許さなかった。けれど、私のプライドとはいったい何だろう。私は今まで、自分のことをプライドが高いと自負し、多少うぬぼれてきたけれど、本当の意味でプライドの高い人はもっと自分に一所懸命だし、大切にするだろう。私のはただの見えっ張りだ。真実の自分があまり素敵じゃなく、ポンとそこに出したとき、ガッカリされるのがわかっていたから、小賢くいろいろなふりをしてきたのだろう。

 

 

 3日間、充実していた。とてもうれしかった。こんなに、歌を、自分を、表現することを愛したのは久しぶりだった。私が今こうして勉強できることを、心の底から感謝した。しかし、今リアルに思い出すのは、3日目の夜、あいさつもすんで、先生が出て行ってしまった後の、言いようのない寂しさと孤独だ。ああ、私は一人なんだな。頼りになるのは結局は自分だけなんだ。自分を生かすも殺すも、これからの、京都を離れてからの私にかかっている。けれど、そのときは漠然と不安を感じただけで、今の私は今までの私と違う、きっと大丈夫だと思った。でもこうして帰ってきて、再び日常の生活に入り込んでしまうと、大して変わったわけじゃない。きっと私の根性は、甘えきっているんだな。

 私はずいぶんここに頼ってきた。ちょっと自分をみせたぐらいで、少しは理解してもらえていると思っていた。ちょっと長くいるからといって、許してもらえることもあるだろうと勘違いした。

 所詮、ここは歌を真剣に愛する人たちの集まりで家族ではない。他人だ。今私は、先生の顔をまともに見れない。ここをやめた方がいいのだろうかと、この2年間ではじめて思った。

 私は表現者として失格だ。でも、よくよく考えてみれば、それはていのいい逃げ口上だ。それは、普通の人に戻ってしまうのが一番楽だから。もう歌や自分など、やっかいなことに悩まずにすむ。その前にもう一度、自分にとって歌うこと、表現することは、どれほど意味があることなのか、そんなにも大切なモノなのか、私にとって生きることはどういうことであったか、問い直してみたい。

 

 私の心から遠のいて信じられなくなっていた人やモノを、また再び信じられるようになり始めた。心のくもりが晴れてきたのだろうか、まるでつきモノがとれたような感覚だ。人間は、食べるために生きているのではないということ。一つの人生には、目的があるということ。私は人のために、人類のために生きられる人になりたい、ということ。死んでしまえば終わりではない。だから高みを目指すべきだということ。そして再び、未来のビジョンが見え隠れし始めた。はじめて、自分で歌を歌うということをイメージし始めたのは、大学入試の勉強をしていた春の午後だった。そのときの私が見たモノは、今思えば多分、今現在のここでの私も含んでいたような気がする。

 

 

 私は初めて合宿に参加したのですが、参加して改めて気づいたことは、自分の表現力のなさでした。1日目、2日目までは、まだ表現することにピンとこなくて、つくりすぎたりしていたんですが、最終日に皆で合唱したとき、はじめて少し表現できた、歌らしくなったかなと思いました。要するに、自分の気持ちが、そこまで入りきれていなかったんだなと気づきました。考えるより、楽しく前向きに気持ちをもっていく方が、自分にはいいのかなと思いました。

 

 皆、それぞれに思い悩んでいるんだなと思い、同じ同志だと少し気持ちが楽になりました。いろんな人たちと接して気づいたことは、まだまだ自分は小さくまとまりすぎているということでした。先生に言われたように、周りに気をとられ、自分自身がないことに改めて気づかされました。みんなの方がもっともっと私より気持ちが前に向かっているし、歌への意気込みが違うなと思いました。自分ももっと、大きく歌えるように、気持ちを入れ変えて努力していかなければと思いました。

 

 

京都集中講座を終えての帰宅。名古屋でレッスンを受けているだけの私には、何もかも初めての経験だった。今、部屋に戻りテレビをつけることもせず、タバコに火をつけて今日の余韻にひたっている。まだ胸のあたりがジリジリと熱い。頭のなかでは、今日最後に歌った<ケ・サラ>が大合唱で繰り返されており、うまく考えがまとまらない。今なら何でもイケそうな気分なんだけど…(そう、このテンション、このテンション)。たぶん私は、この参加した2日間で何かを得たのだろう。

自分自身、ライブ実習などはじめてのことで、どんな雰囲気なのかもさっぱりわからないし、まあ、全国からやってきた強者たちにケチョンケチョンにやっつけられてボロボロになって帰る覚悟はしていたのだけれど…。スタジオにおいては、おのおのが初めて顔を合せる人たちにそれとなく探りを入れ合い、それでもまだ<とっておきの俺様>は見せないぞなどなど、人々のさまざまな思惑が入り乱れて、かわされるぎこちない会話を観察しながら一方で、(先生はいったいこれがどう表現されることを望んでいるのだろう…。ただデカイ声が出りゃいいってもんじゃないし、普段の声で喋ったってシャウトに耐えうるだけの強靭な体作りをしてる意味ないし、魂入れるっつったって別にオーバーアクションする必要もないよなぁ。ただ単にことばに抑揚つけて心を表現してるつもりになってるおバカはしたくないし、どうすりゃこの自分の中身が人に伝わるのかねェ…。う~っっ。)心に悶々とそんな疑問を抱えながら、訳もなく声を張り上げてギャーギャーやってるうちに、(あ~っっ、もう何でもいいっ。知らないっ。ヤ・ッ・チャ・エ~~ッッ)完全に居直ってしまった。最終日グループ発表、リハーサルでのことである。

 そうこうしているうちにグループ発表本番はやってきた。静まりかえったスタジオに緊張感がピリピリと走る。そして、その落ち着かない空間を打ち破るように群読の第一声がなりひびいた。それに続き、せきを切ったようにあふれてくる力強いことば。

(あれ? この空間、さっきまでと全然違うぞ? うわ~、何かすげー気持ちいい。)シリアスな緊張の中に、すごくうれしい感情がこみ上げてきた。もうどうしようもない。(ああ、私、今壊れてんだ。ああ、みんなも今壊れてるんだな。そうか、これなんだ。この感じなんだ。)今となっては、ライブで恥ずかしい歌を聞かせてしまったとか、どんな方法であれやるしかないのを自分でわかっているくせに、とってつけたような質問を先生にしちゃったこととか、声が体に入っているかとか、もうどうでもよかった(おこられるかな)。ただそこには、自分が自分であることを認めたときのよろこびの感情みたいなものがそれぞれ混ざり合って、集団という一つの大きなエネルギーが生まれていた。

私はその光景がおもしろくて見とれているうちに、歌詞を忘れた。

 

虫に食われた松の木は、その虫に有害な物質を出し始める。すると、何百キロ離れた虫に食われていない松の木もその物質を出し始めると言う。ある島の猿がイモ洗いを覚えると、隣の島の猿までもイモを洗って食べるようになると言う。見えないところで波動は確実に伝わっている。必ず伝わるのだ。

 この半年ばかり、職場でも自分の声を大きく深く、そしてまっすぐに出していかなければならないポジションになり、自分を伝えること、はたまたトップを理解し伝えること、そして孤独。そういうものといつも格闘していた。私はそれを自ら望んだだけに、途中で逃げ出すことはできなかった。それでもやるしかないのだ。完全なものなどありはしない。自分が目標とするものに到達したところで終わりじゃない。その時点で必ず次の目標が生まれているはずなのだ。

私はそうやってどんどん高みに登っていくだけの底力と勇気を、この場所で見つけさせてもらったような気がする。

 

今回のメンバーが今、どんな気持ちでいるかはわからない。でも、それぞれがあの場に大きな何かを感じた場所であったのではないかと思っている。誰か一人でも同じような感じを抱いてくれていたらうれしいと思う。別に私が主宰する場ではないのに、そんなことを思うのは変だろうか?願わくば、この場がまかり間違ってもイカサマ宗教団体になってしまわないよう、先生に救いを求めたりはしない、強い生徒でありたい。そう、肉体的にも精神的にも鍛えられ、磨き上げられていくさまは本当に美しいものだ。

 

 

3日間で本当にたくさんのことを学ばせていただいた。福島先生をはじめとする諸先生方が自分たちのために時間を割いてくださっていることを、その重さを8ヵ月目にしてようやく気づいた。今までわかっていたつもりのことがわかっていなかったこと。特に福島先生がカウンセリングとして個人的に3分(実際には5分以上あったと思う)時間を割いてくださったことは、ものすごいことなんだなと今さら感じてしまった。先生の前に座ったとたん「この人の前ではへたな小細工は通用しない!」と思った。

 

個人的にお会いするのは、たった一度だけだったが、声以前に生きざまみたいなものを読みとられているような気がした。質問したことについては、わかりやすく深く教えてくださったが、実際、頭に残ったことはやるしかないことと、自分の未熟さ加減だった。

 なぜ3日間も「グループ」でレッスンを行なったのか、その意味を考えてみた。「皆で楽しく頑張りましょう」的な受け取り方をしたら、さすがに福島先生も腰砕けだろう。他人と照らし合わせていかに己の甘さを味あわせるか。その「甘さの調和」でつくった「ケ・サラ」がどれだけ自分たちのレベルの低さを象徴しているのか。

あんなもの(人によっては失礼かもしれないが)、いずれ花が咲きますからと枯れた植木を人に買わせるようなものだ。地下でやっててよかった。歌は人の生きざまそのもの。プロと呼ばれるには、今までよりずっと真っ黒な深く渦巻く海へ裸で飛び込まなくてはならないのだ。

正直言って、半分恐い。でももう、上着のボタンを自らはずしてしまった。もう舟の上にいる。自分でオールを漕いでここまで来てしまったのだ。

批判的なことばかり書いてしまったが、もちろんみんなで歌うことは楽しいことに違いない。けれどもそれは、一人ひとりがあらゆる意味でベストのときだけだろう。甘さが消えたとき、やっと人に伝えるものが生まれるのだと思う。あのなかで本当に楽しんで歌った人はいるのだろうか。何か空っぽな気がしたのは私ひとりだろうか。

 

 

今回の合宿で気づいたことは「自分はアーティストである」ということ。しかし、それを言いきるにはあまりにも甘えが多すぎた。課題一つこなすのに、いったいどれだけのことばをもらったことだろう。あらゆるものを自分に取り込んでいこうとする貪欲さがあれば、あそこまで福島先生に言わせてしまうこともなかっただろう。私を含めてあのとき、全員がただ教わるだけの生徒になりきってしまっていた。

ここはアーティストの集まりであるはずなのに。

 

 京都で関西の人の前だから…とかそういうのはなかった。自分の歌に手いっぱいで、そこまで考える余裕さえなかっただけだケド。歌えば歌うほど「歌」から遠ざかってしまっている気がする。歌に歌わされてしまう。伝えたい、表現したいから歌うのか、気持ちよく歌いたいから歌ったのか。

 結果、あんな狭い世界の歌になってしまった。気持ちの流れが「ことば」についてこない。自分の歌いやすい、くせのある計算された「ことば」に気持ちをのせていた。気持ちがあって、ことば、フレーズがあって歌うのに、反対のことをやっている。なんか、どうもしぜんじゃない。自分と歌がバラバラだ。要するに、自分の歌になっていない。歌い込んでない。

 

 最終日「ケ・サラ」をグループで歌った。思わず泣いてしまった。もともとこの曲を聞いたときから悲しい気持ちになっていたのだが、涙が出たときとても嫌だった。確かに感動することは大切だし、何も感じられない人が他人を感動させるのは難しいと思う。それでも、今の私は感じるばっかりで歌で人を感動させることはできないんだ。たとえ「涙」で何かを感じた人がいても、それは私の歌ではない。結局、自分止まりで、表現するところまでいっていない。

 Bグループの発表を見ても、なんかしらじらしくなってしまい、感動しなかった。叫ぶ詩人の会の方が胸にこたえた。「自分以外の人がステージで勝手に感動してる」そんなふうにしか思えなかった。だからなおさら、その前に泣いた自分が嫌だった(ひねくれてるか? )。夏の合宿でも思ったことだが、一人であの気持ちの高ぶりや空間を創り出せるかということだ。

 みんなでつくれたって、そんなものは何の役にもたたない。夏はあの、つきものがとれたように妙な達成感にごまかされてしまったが、今回は自分にとって重要なものを見た気がする。達成感はないが、緊迫感が生まれたと思う。そして孤立心(言い方は適当じゃないかもしれない)。今は他人に優しくできない。そうしてしまえば、自分が甘えてしまうのがこわいからだ。

 「いっしょにみんなもガンバロウ」とはいえない。私は私でガンバル。それぞれに頑張って本当にプロとして認め合い、肩を並べる仲間ができたときに優しくしたいし、優しくして欲しいと思う。最後に、京都合宿で話ができてよかったと思える人に会えた。東京とか関西とか、そんな小さいことにこだわってなくておもしろいやつだと思う。そうそう、あくまで目線は足もとでなく“世界”なんだよネ。

 

 ライブでの歌が、自分の器がなさすぎるため、どう歌っていいのか結局つかめないまま合宿にのぞんだので、1日目(私は土曜日になる)はとてもブルーだった。結局、こじんまり、かつ粗まる出しで歌ったのだが、今思えば恥をさらしてみてよかったと思う。というのも、この先の改良点がはっきりと見えてきたからである。

 とはいえ、気づいたり学んだりできたのは、カウンセリングで福島先生より教えていただいたことや、他の皆の歌う姿を見ることができたおかげなのだが…。

 さて、自分がこの先、どうしたらよいかはっきりわかった気がしたカウンセリングを受けた後、グループ発表の練習のときから私がどの高さでも厚みのある太い声が出せるよう(とりあえず今は1音でも出せるようにであるが)、声が一本の筒のように下から上へつながっているイメージをするよう努力していると、グループ発表の本番のとき(気持ちが高揚できたせいもあるが)、自分が声を出したとき何か今までにないすっきりした後味、感触があった。

 へんなたとえをすると、まるで手品師が口からつながったハンカチをなめらかにスルスルと出していく感じだった。またそのときの気持ちの方は「誰かになんとか届けたい」一心になっていた。もしかすると、この感じだろうかと少しつかめた気がした。

 合宿に参加できてよかったと思えた。私の課題は、上を見上げれば埋もれてしまいそうになるくらい、まだまだあるが、少しずつでも確実に体で学んでいきたいと思う。今回の参加であとの方からじわりじわりと湧いてきたものがある。ここでヴォイストレーニングをするいろんな同士の姿を見ることによって、自分の勇気と「自分も努力してやったるぞ」という未来への自信がである。

 

 

 結局“自分を超えた。涙がボロボロ流れて自分を見失うくらい感動した”という域には全く到達できませんでした。“自分”というわくを“努力”という己にしかできない力で破ることができないような僕に、そんな素晴らしい感動は味わえないということを、この合宿で本当に感じました。ただ、ほんの少しくらいは表現できたのではと思います。

 

 僕はきっと素直にものごとに感動したり、いろいろなものや人に感謝するということができなくなっているのだろう。心に壁をつくるのではなく、自分が素でいられるように心の壁をくだいていかなければいけないのに、どうしても周りを気にしたり、自分自身でもよく思われたいと思ったりしてしまい、自分の周りにある本当はすばらしいものであろうものをすばらしく思うことができなくなってしまいました。

 今回の合宿でも確かに心は高ぶったのだけれども、ウソがあって決して心から感動していたとは言えません。こんな自分が情けない。まだ自分が大切だから、自分を甘やかしてきたから自分というわくを乗り越えられないのだろう。最近は人から離れよう、逃げようとしている自分がいます。一歩、踏み込んでも二歩目は踏み込むことができない。結局は自分に甘いのでしょう。何かをやるにしても最初はやりたい、やってやろうと思うのだけれども、苦しくなったりがまんできなくなってしまうと結局、妥協してしまう。

 

 福島先生の本や会報に、続けることが才能だと書いてありましたが、本当に自分の続ける力は乏しすぎる。続けることもできない。何もできない。本当に自分の無力を痛感します。しかし、このままでは、一生何も変わらずこのままで終わってしまうような気がします。自分に負けたまま終わってしまうのなんて絶対に嫌なので、もう一度、自分に負けない自分になる努力をしたいと思います。

 

 非常に尊敬している松野明美というマラソンランナーがいるのですが、彼女も結局は、自分の努力で自分の殻を破って世界から見ても決してひけをとらないランナーになって、多くの人を感動させ、彼女自身も輝いていた。結局、僕がなりたいのも“マラソンランナー”という名の“singer”。体一つでたった一体の体で多くの人の心揺さぶり、心を熱くさせ手に汗をかかせ、そして涙させる。しかし、彼らの後ろには毎日かかさず何十キロも走り自分の体を鍛えあげていくという努力があるわけで、その努力が最低条件になるわけで、その努力を僕もしっかりやらなければいけない。結局、歌も心、走りも心、同じなのでしょう。

 

 京都の方々がとてもおしゃべりが多く仲がよかったので、慣れ合ってるのではないかと思いました。しかし、今回は自分は自分でやってやると思っていたので、気にしないようにしました。ケサラのグループ練習のときもなんかわき合い合い、なよなよとしていて、こんなことしに京都まで来たんじゃないと思いながらも、音程などはやっぱり大切だからとオバさん合唱団みたいなことをやっていたら案の定、そのような光景を見ていた福島先生に「他の人にかまっているひまは今の君たちにはない。」と。あれを福島先生に言わせてしまうからだめなんだ。結局、自分は小さくはまってしまってでられない。

 そして、叫ぶ詩人の会のあの歌を聞いた。ガムを犬に分け与えた子供の姿を今でもあの人の声と共に思い出す。なんだか胸がキゅーとしめつけられる。これが伝わるということなのだろうか。荒れ果てた街のなかでたたずむボロ切れを着たやさしそうな、しかし無表情な少年と少し弱ってやせた一匹の犬が悲しそうなさびしそうな瞳で僕の方を見つめている。一つのことばだけなのにイメージが広がっていく。これが大切なことなのかもしれないと、あのときはそこまで考えられなかったこけど、今思う。

 

 ライブ実習、課題曲「心遥かに」は小さくつくってしまったが、ノンソマーイと言えてればあとは成り行きまかせだと半分思っていたので、はっきり言って練習不足。ノンソマーイが「つめたい」と聞こえたと思えない。しかし、まえのときよりは冷たいという感情が出たような気がする。自由曲は最低、ねばりもなしリズムもなし音程もなし、フレーズも小さい。自分のウソの世界を勝手につくってしまった。結局、自分のイメージが狭いから他の人が聞いてもイメージなんてわかないのだろう。

 とにかく、自分の受け持ったところをしっかりやり遂げること。自分の感情を音とことばに込めることと、大きなフレーズを出すことに専念した。まずトレーナーの授業で歌う順番ややり方をチェック。まだ楽譜を見ている人がけっこういて、腹が立ったのですが、自分は自分、他の人のことを言えるほど努力できもしなかったので、そんなことを思う資格はないと思った。

そしてスタジオを変えてのリハーサル。なんか空気が変わってきました。自分のやりたいことと周りのやりたいことが少しずつ一致してきているように思えて、歌も音程を合せるだけのママさん合唱ではなく、一人ひとりがそこにいて、何かが少しずつあふれてきて、何か叫びたい。この空気だ、と思えるようになってきました。

 そして本番。リハーサルで声を使いすぎてもう声は出にくいんだけれども、伝えたい、叫びたいという気持ちはあふれていました。夏合宿のエチュードが少し歌に近づいたらこんな感じになるのかと思いました。

 

 この場で自分が完全に素であることはできませんでした。しかしこのエチュードのような感覚を再び感じさせてくれた先生方や京都、名古屋の方々に感謝したいと思います。結局、今の僕は自分一人では何もできず、無力なのだと思いました。

しかし、今回の合宿は自分の力でなんとかやってやろうという意志が普段よりも大きくて、そのおかげか目標は達成できなかったけれどためになるというか大切なことを多く学ばせてもらいました。やはり“志あるところに道ありき”なのです。合宿で学んだことを実際に行動に移せる自分でありたいです。