一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

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 昔々大昔、まだ人が動物の仲間だった太古の昔、音楽は病気の治療のために使われていたという話を聞いたことがあります。音楽の振動が身体の乱れた機能を調整し正常化することによって、自然治癒力を高め回復を促したのでしょうか。音楽は時に楽器を使い、また時に患者自らが声を出して自分の中に振動をつくりだし治療としたそうです。本から仕入れた借り物の知識でこころもとないのですが、ここには音楽のもつ本質的な力がよく表されているような気がして忘れられない話です。

 

 私が歌を自発的にはじめたのはつい最近のことです。それまで私は小さなころからずっとピアノを弾いてきました。子供のころ繰り返しさせられたのは、ゆっくりゆっくりひとつの音を叩いては手の力を抜くという、とても単調な「指の練習」でした。速く指を動かすわけでもなく、きれいなメロディもないその練習は、はじめのころこそ退屈で苦痛でしたが、徐々に集中していくに従ってだんだん気持ち良くなってくるのです。ひとり家で練習するときも、こうして何時間もただただ音を出していたことがありました。そして、レッスンにいくと同じ楽器で同じことをやっても先生の出す音が自分の音とまったく違うことがわかるようになってきました。今ふりかえれば、あの時期私はピアノという楽器を鳴らすということを、そしてただ音を嗚らすということがどんなに困離で、またただ美しい音が鳴るということにどれだけ音楽の喜びがかくれているかということを学んでいたのだと思います。

大人になるまで、あるときは濃くまたあるときは薄く、ピアノを通して音楽と関わってきました。しかしどんなときも、いくらかっこいい和音がおさえられたって、どんなに速いフレーズが弾けたって、結局、楽器そのものが嗚っていなければそれは何物でもないという事実に変わりはありませんでした。音楽のはじまりが音そのもの、振動そのものにあるからでしょう。

 

楽器の演奏にくらべて声をだすことは簡単だというイメージをもっていました。しかし、いざ自分で歌いはじめてみると、自分の声にだんだんイライラするようになってきたのです。私の歌は音楽になっていなかったからです。音程のことや、出しづらいフレーズのやりくりについては回数を重ねるうちにごまかせるようになっても、ちっとも音楽に近づけません。

考えれば、私は私という楽器を鳴らすための訓練を何ひとつやってきてませんでした。だれでも触れば音のでるピアノでさえ、本当の音をだそうとすればあれだけ大変だったのに、こんな生身の人間の体がそんなに簡単に鳴るわけはなかったのです。生まれてからすでに長い年月が経過してしまいましたが、気づいた今が一番早い時と信じて、今からそれをはじめようと思います。私が私という楽器で、意味や理屈を越えた本当の「音=声」を、いつか将来鳴らすことができるか否や、これから二年間を通じてその手段を手に入れるべく挑戦してみます。

 

僕の最大の音楽的悩みは、やはりヴォーカルでした(今もそうですけど)。音楽は、ヴォーカルがままならないことには、どんなにサウンドがどうだこうだ、楽曲がどうだこうだと言ってみたところで、やはりそれ自身(音楽)もままならないと思います。

しかし、ヴォーカルが上達する方法など、わからず、ただ、やみくもに歌うだけで、高い音はのどがしめつけられて苦しい、安定した声が出ない、など、やはり自分の限界を感じざるをえない状況に追い込まれてしまいました。

そこで、ここの本を読む機会に出会い、半信半疑の気持ちでしたが、読んでいくに従って理論的な説明に納得させられ感嘆させられ、参加しようと思いました。これからは、前向きに日々このヴォイストレーニングに励んでいきたいと思う次第です。

 

歌うことにしても、playすることにしても、好きだから続けられる。

でも、それに伴ってレベルという問題が出てくる。楽しければいいのか、苦しさと共存してでもより上のレベルをめざすのか…。

私は二十三才。早いか遅いかはともかく、自分と闘っている。歌が好きで三才の頃からよく歌っていたらしい。それから仮に偏ったジャンルしか聞いてなかったにしても、二十年が経った。歌うことを、声のことを考え始めて八年が経つ。

今、自分の声で歌いたい。ストレー卜に自分の気持ちを歌いたい。そして一生歌っていきたい。

この研究所に入って同じ悩みを持っている人、そしてそれを克服していった人と交流を持てるのはとてもうれしい。Do My Bes!自分のためにベストを尽くします。

 

最初、テアトルアカデミーに入ったが、やる気のある人間(教師も含めて)がおらず、このままじゃあかんと思いすぐやめて、小劇場中心の劇団に入ったが、非常にアングラでついに挫折した。

そうこうする内に、またもや、このままじゃあかんと思い、受かるであろうかと、某劇団の付属研究所に見事合格。右を見ても左を見ても凄い奴ら、受かりゃ受かったで、そのレベルの高さに、このままじゃあかんと思い、ここの門を叩かせて頂ました。あせらず確実に進んでいきたい。時間をかけて築いたものほど崩れる時も時間がかかる、そう思うからです。

 

もうずいぶん前に、「声は生まれつき、私はダメだ」とあきらめてたのに、そうではないってことがわかったんだから。ずっと音楽が大好きだった。今度は、私がそれを創り出せるようになりたい。そのためにはどんな小さなことからも逃げださないことだと思っています。一流のシンガーと私とじゃ今はあまりにもかけ離れているけど、必ず追いついてみせる。走り始めてしまったから、「これだけやったんだからいいや」って、もう休むことはできませんが、自分を信じて、毎日を真剣に生きていきます。

 

ようやく半年が過ぎた。いや“もう”と言うべきか…ただいま地獄の一丁目を垣間見る日々である。その間、合宿があったり、さまざまな人と出会ったり、さまざまな音楽を聴いたりするうちに、徐々に私の意識が変わってきた気がするので、それを書きたい。

世の中にはホントーに何でもなく、とてつもない歌い方をする人がいて、今まではそういう歌を聴くと感動こそすれ、自分がそういうふうになってやろうなどとは思ったことがなかった。

幸いなことに私の通っていた学校は、音楽教育に特に力を入れていたので、“歌う”機会はそれこそ毎日のようにあったし、他にもバンドでちょろっとコーラスをやったりする機会は何度かあったが、正直言って私は生まれてこの方、“自分のため”以外に歌ったことがない。

私が歌うのは、人に聴いてもらったり、人に誉められたり、人を感動させたりする目的ではなく、ただ自分が歌いたいときに、歌いたい歌を、一人で歌ってきただけである。それというのも、たぶん音楽が私にとっては精神安定剤、カンフルだったためだろうと思う。音楽は空気のように、私のまわりに当然のようにあり、そしてなくては生きていけないもので…、それ以上でもそれ以下でもなかった。だから、心の琴線に触れるような音楽を聴いても、これこそ自然の音…寄せては返す波の音、葉ずれの音、優しい雨の音…それらを聴きながら、それを“聴く”ことの出来る喜びを他の喜びに変えることは思いもつかなかった。

 

何故、ここに入ろうと思うようになったのか、不思議に思う向きもあろうかと思う。何もドラマチックなきっかけがあったわけではない。ただ・自分のために歌う自分の歌に、自分自身が満足できなくなってきたからだ。自分か要求する“歌”の基準が、いつのまにかどんどん高くなってきているのが自分でもわかる。自分が思うような歌が歌えないこと自体が、私にとって非常なストレスになってきたのだ。つまり私にとっての音楽は、ゆっくりと長い時間をかけて、ようやく“自分のため”だけのものでなくなりつつあるらしい。ここまで来るのに、どんなに長かったことか!歌を通して私が何をしたいのか、そこまではっきりとした“何か”が見いだせたわけではないが、ひとつだけ、はっきりとわかることがある。

波のように、梢を揺らす風のように、優しい雨のように歌えたら…そういう風に歌えるようになったとき、私の歌は初めて私のためだけでなく、人に何かを伝えることができるようになるだろう、ということだ。そして、今の私は、それだけのものを掴むためのどんな努力もいとわない。人に何かを伝えたいときに、他人の真似をして何になるだろう?私は自分の音楽を獲得するまで、この先が地獄の二丁目であろうと自分を信じようと思う。スロー・スターターの私が、この先どういう道をたどっていくのか不安がないわけではないが、そうして何かを乗り越えたときに、歌に対する自分の役割がわかってくると思う。そうなって初めて、私は音楽への恩返しができるだろう。

 

トミイが教えてくれたこと。十月二十日。今日は秋の空がぽっかりと頭の上に広がった。ちょうど二年前も長い長い雨の後にぽっかりと秋の空がのぞいた日だった。

祖父や祖母の命日は、もう何年もやり過ごしているくせにトミイの命日だけはまだ二回目だけどやり過ごしていない。事故現場にはすでに新しいピンクのトルコ桔梗の小さい花束が二十束程あり、「梁山泊の人、もう来たのかぁ…」とぼんやり思った。

十日以上続けてきた公演もあと四日を残すのみとなり、明日の公演の準備をすませ帰り支度を始めたのが十月二十日になったばかり。同期の新人も帰る者、話す者、飯にありつく者と、やっと自分の時間を持ち始めた。自分は後輩からもらったイズミヤのクッキーをいつも腹を空かせている仲間たちに「食べて、食べてぇ。」と配ってまわっていた。

すると、一人、ぽつんと、というより、もう今にも闇に溶けてしまいそうなトミイがいた。膝の上にある真っ白い紙でそこに人が居る、というのがかろうじてわかるといった感じだった。「おう、どうした?ぼんやりして。」「考えごとしとるんや。」「ふ〜ん。」と答えた瞬間、「遺書にするなよ、その紙。」と他愛のない悪意も何もない冗談が頭に浮かんだ。いつもだったらとっとと言っているきつい冗句なのに、何故か言葉をのみこんでしまった。「クッキーもらったんだけど、食べない?」「ありがと」「もう一コ取りなよ。」「ええわ。ありがと」「まぁ、明日もこのクッキーあるから、食べたかったら言ってね。」「うん」

でも、次の日クッキーはあったけど彼はなかった。

二十日の午前三時頃、彼はどうやらその手紙を出しにテントを出たらしい。歩道を歩いているところを、カーブを曲がりきれなかったアルファロメオにダイビングされたらしい。

あれから二年。何も…いやむしろ劇団を辞めたから後退したのでは?と思われるこの二年間。あんなことがあったのに、自分はちょっとのんびりと暮らしてしまった。体と経済の復旧作業と言って。しかし、今日、トミイの閉じた目と口で「なんか腑に落ちんのや…」といった表情を思い出したら、このままではあかん!甘かった!と思った。芝居がやれないなら照明の仕事したい、と言ってた彼。やりたいのにできなかった。なのに自分はまだやれるはずなのに、とことんやっていないし、照明のしごとだって嫌々やっている。

なんてこった!!何て賛沢なんだ!!二年経って、やっと気づく。ここに存在することのすごさを。せっかくここに在るのにどうして自分に、人に言訳を言って生きてきたんだろう?自分は自分の分しか生きることができないが、その自分の分さえフルに生きてねえんじゃねえの?

何度か死ぬ目に会いながらもここに在る自分をもっと大切に扱え。人が自分を駄目にするのではなく自分が自分を駄目にしているんだよ。だから自分がよくなればいいんだ。

と、たまたま十月二十日という日に、ふっと感じた。ただそれだけのことである。

 

父親が亡くなった。突然の死であった。ほんとに突然であった。葬儀にはたくさんのそれこそこちらが予期してない多くの方々に来ていただいた。父の人柄が偲ばれるように、心ある人たちに敍後のお別れをしていただいた。この時に、私は自分の心に音がしない音楽を聴いた。つまり音楽が心をゆさぶる波動だとしたら、同じような心をゆさぶる波動が私の内側に聴こえてきた。それは、とても言葉で表現しきれるものではないが。

私が考えるに、歌のアーティストは、大きく分けて三つの大切なものがあるように思える。まず技量。これは歌を相手に伝えるうえで最低の約束ごとであるように思える。次にセンス。これは歌をどのように解釈するか、どのように味付けするか、歌詞にもいえることだが、ポップセンスともいえることかもしれない。そして最後にハート、つまり心のあり方である。いくら音量が出ていて、音域を上の方で歌えていてもそこに心を込めてなかったらただの歌をうたうマシーンのようである。つまり人間が嫌いで心が冷たい人間には、人の心を揺さぶるような歌はうたえないということだ。誰の為に、一体何の為に歌っているかということである。以上、父が亡くなったことから、ふと心に浮かんだことを徒然なるままに書いたが最後に、天に召された父の冥福を祈りたい。

 

純愛一直線 言わせてもらお。男ならば徹底的に女を愛さねば嘘だ。女は男の力で充分に幸せにしてやらねばならない。自分のすべてをさらけ出して、なおかつ女に愛されるのが男である。

愛に小手先など愚物以外の何物でもない。くだらない男はくだらない恋愛をする。くだらない恋愛とは相手に幸福を与えない恋愛である。幸福を与えない恋愛とは策略家のそれである。

本当の愛に策略など無用である。自分自身に関するどんなデータも平気で提供するがいい。ありのままを知られるがいい。君が本当に愛されるに価する男ならば、女はどんなデータもくだらなくなって飛び込んでくる。

いい女は、男の価値に敏感である。男の価値とは何によって決まるだろうか。簡単だ。愛情とロマンと具現力である。この三つをすべて、得ないのは男といわない。髪型も顔つきも声も関係ない。この三つで勝負できるのが男というものだ。

女に忠告である。世の中に、君が命をかけて愛するに価する男など一%も存在しない。君を本当に素敵な人生に導いてくれる男は、非常に貴重な有り難い存在である。

そういう男を見つけたら、好き嫌い考える前に飛び込んで勉強させてもらうことだ。

君も女として今は二流だから、一流の男を愛する能力がない。だから一流の男を見つけたら、まずそうして一流の味を知ることだ。

面白い人生というのは、そういうところに道が開けているのであって、今のあなたが思っているところになぞ、一寸も開けていない。

あなたに今、彼氏がいるとして、どうせ三年以内に別れてしまう相手であることが予想できれば、三週間以内に、もっと力のある男を見つけてポイすべきである。

若いうちは自分が向上できる相手を選んでおいた方がよい。一緒にいて、のんべんだらりと気のほぐれる相手なぞ、配偶者には持ってこいだが恋人としては意味をなさない。

一生忘れられないような工キサイティングな恋愛に堂々と身を投じよう。人生はドラマである。ドラマティックに生きて最期にニヤッと笑うのが本当である。

それ以外の人生を何よりも恐れるがよい。あなたの胸をときめかせ、あなたに夢と希望を字えてくれる人物は確かにいる。どこかにいる。すでにいる。

あなたにロマンを求めるアンテナさえあれば明日からでもその人物の存在をキャッチできるのである。しかし非常に残念なことに、今のあなたに、まともなアンテナが備わっているかと言えば、どうやら、そうではないらしいのである。

あなたのアンテナには、醜いサビがいるではないか。それは「先入観」や「固定概念」「無関心」などという名のサビである。そのサビが今のあなたを大変にややこしくしている原因なのであることに、たった今、今晩ではなく、たった今、気づくべきなのである。そして、これは今晩からでも明朝からでも結構であるけれども、そのサビを除去する作業に取り込まないことには、もうどうしようもない。何もかも程度の問題になってしまうことは承知の上で、まず、はっきりと指摘しておこう。

あなたは、物事を判断するにあたって完全に「基準」の設定を間違えて救いようのないほどびっしり付着して

成功者による成功の定義を信じればいい。

「好きな仕事をして人に認められて儲かる」

「他人の権利と社会主義を犯してはならない」

これだけで充分である。

この本筋から一歩もそれないで生きてゆけばよい。

とるに足らない人間から、とるに足らない思考パターンや行動パターンを学んでいるから精神がけだるいのだ。

師からシンプルなものをシンプルに学べ。徹底的にシンプルを追求しておいて、飾りは好きなだけつければよいだろう。その時こそ飾りは色気となり魅力となる。

男も女も色気のないのはつまらないが、シンプルな精神が抜けているのはくだらない。身だしなみも言葉づかいも、きっちりできることはきっちりしておくべきである^

乞食のなりそこないが大勢いる。

乞食の怠慢に習うとどうなるかと言えば、ああなるのである。

男も女も怠慢であっては空虚なだけである。堂々と情に燃え、行動して、心を射止めるまで決してあきらめないのが幸福というものだ。寝てゴネてダベっている連中はそのまま寝てゴネてダベってせめて歯だけでもまともに磨いて死ね。

 

 思いを改めさせられまた再確信できた今の私の決心 今、私はヴォイストレーニングにダンスのレッスンにピアノにとがんばっている。でも本当に一つひとつをもうこれ以上できないというくらい、くいついていくようにがんばっているのかと自問してもYesとは絶対にいえない。

私は、人並みのことをして満足していた。あぶないところだ。夢を大きくもち、それに向かって努カするのなら人並みの事をしていては絶対にたどりつけない。必死に努力し、一日一日を精一杯で全力で生きていなければ…不可能だ。そんな、本当にあたりまえのことが、ここの仲間をみたり、福島先生の本を読んだりして再確認できた。誰かが「今のままじゃ無理だよ」と気づかしてくれたかのようにも思う。そう気づいて本当に動きださなければ私の未来は真っ暗だ。絶対にいやだ。やるしかない。

「人並み以上の努力」なにもすごい事でも何でもない。プロとしてのあるべき努力であり、行動である。そんな、あたりまえの事で、自分をすごいと思うのはまだ早い。大きな夢を実現させる者にはあたりまえの原因なんだ。こんな、あたりまえの原因があってこそ自分の大きな夢を叶えていくこ七ができるという結果が生まれるのだから。原因があって結果が生まれるのだ。

普通に楽に生きていればそれ以上はない。でも必死に何か夢中にがんばれば、その努力が原因となって絶対にすばらしい結果は約束されている。嘆くかわりにレッスン、おちこむかわりにレッスン、やれば必ずできる。成功者には恐れる時間も嘆く時間もないのだ。さあ、Lets try!Lets go my big dream!休むことのないように、立ち止まる事がないように。

 

 

 自分で自分のトレーニングを作り上げるためには、何をするか、焦点のはっきりした具体的なアプローチをしていくことが最良だと思う。

何をするか、を考えるために、あたりまえのことから話を展開させると、このトレーニングは、ここへ行くだけでは正しく身につくことはない。家(ここ以外の時・場)で、個人的に努カして、トレーニングを自分の血肉にしてしまうことが必要。

一流のプロや、レッスンで「ああそうか、そうか」と(その場でできなくても)持ち帰ってきた知識や、本などを頼りに、自ら、課題を設定し、トレーニングのレベルを上げていくこと、これを毎日やることにくじけないこと。

こういう毎日にくじけないためには、トレーニング自体が難しい思える時は、トレーニングには簡単なこともたくさんあるから、そこから始めること。例えば、前屈のフォ—ムをとることから。(私が思うに、前屈のフォームのとり方は、膝を曲げ、お尻を上向きにする、がわかりやすいのでは。こうすると、背中から腰までまっすぐな状態を、大腿の筋肉で支えられるので…。ぜひ、意見を聞かせてほしい。)

自分のことを不安に思ったり、悪く考えたりする時は、自分で自分のことを考えると正しい結論にたどりつかないのに、果てしなく考えることが続いてしまうので、自分のことを考えるのを止めて、他者を観察すること(本を読むことを含めて)。これで、家で、何をするか、はっきりしていくと思う。

 

 

NOW KIDS I WANT TO GET UP AND GO 九月の雨の降る夜、俺の愛すべきハナタレ共は解散した。

湿気と熱気と煙草の煙で、なんだかむせ返りそうないつもの小屋。ちょっとびっくりする位の人の入りだった。「ケッコウやるじゃん。」と感心しながら中を見回すと、ほとんどが知った顔ぶれだった。まあ友達の企画だったから当たり前だ。出演するバンドも知らないバンドは一つもない。要は「内輪」ってのに近いノリだな、これは。

いつもの様に俺は、数人の仲閒とビールをがぶがぶ飲みながらちょっと良い気分になる。何人もの男達に肩をたたかれ、何人もの女の子達が俺を見つけては、笑いかけてくれる。「フンフン、やっぱ俺の居場所はここだな。」なんて気味悪く一人ニヤリとして、うなずく。

ところで最近の若手バンドは良い。質が良い。何つーかこう、ツボを押さえてくるというか、俺がこれからやろうとしている事をすでにやっていたりする。ケッコウ、ムカつく。演奏の荒さや、アレンジの至らなさはあるもののセンスが良い。多分、耳にしてきた音が上質なんだろうな。

ラップとハードコアの境界線(?)を見事に走ってみせたり、メタリックで素晴らしくファンキーなナンバーをさらりとやってのけたりする。意地悪く言うと、流行りモンくせーって感もある。が、良く言うとティーンのハー卜をつかめる音とでも言えばいーのか?ま、どっちにしても楽しめるのは確かだ。

ラップとハードコアと言えば「JUDGEMENTNIGHT」のサントラ、みんなは聴いただろうか?BIO¬HAZARD等のハー—ド系と、HOUSE OF PAIN等のラップ系がガッチリ組んで強豪達とバトルを繰り広げる凄いアルバムなのだ。というよりはきっと、映画が凄いんだろうが俺は見ていないので何とも言えん。しかしこのアルバ厶必聴。ついでに最近では「POETIC JUSTICE」のサントラもグレー卜だった。TCLやNBN等が参加している。これも必聴だ。

ところでライブの方だが、ビール2リットル飲み、俺の方もなかなかいいあんばいになってきた頃、客の入りもピークに達し、奴らの登場となった。

いつものSEが流れ客が前に押し寄せ、ざわめきが大きくなる。ステージのそでから見ていたのだが、緊迫感というものはなかった。SEの「WILD ONE」にノってみんな楽しそうにしていた。今夜がラストってゆー感慨深さはちっとも感じられなかった。逆にそれが奴ららしいと言えば、奴ららしいかもしんない。

ギターヴォーカルの勇ましい掛け声と共にライブは始まり、いきなりダイブの嵐。ステージの上は、客も入り乱れてのてんやわんや。一曲目からとんでもない凄さまじさ。ステージから見るとまさに、人の壁が出来ているのがわかる。とてもうらやましい光景だ。いつも苦しげにプレイしているギターやベースも後ろを向いて、ドラマーや俺と目が合うとニヤリとする。「やったぜ、俺たち」って感じで。ホント、伸び伸びとしている。ワケあっての解散だけど、今日までコイツら自分のバンド、自分の曲がホントに大好きで演っていたってのがよく解る。素晴らしい奴らだ。

ラスト「この曲、この曲で俺たち解散します。」のMCで始まった「TOO LATE」。悔しいけど少しばかり感動させられた。

客からも、バンドからも、この夜を忘れないぞ、みたいな思いがハッキリ見てとれた。きっと俺も忘れる事はなさそうだ。だった俺の“愛すべきハナタレ共”の最後のライブだったんだから…。さて、俺ものんびりしてらんねーな。

 

 

六つの白いベッド。日に三食の半分冷めた食事。喉にからむ血の味…くそったれ!冗談じゃねえ、いつまで俺を閉じ込めやがる!白い服着てエラソーに。とっととこっから出しやがれこのマザーファッカーがっ!どうおりゃああああああっ ハーハーハー

というわけで現在、入院中の身であります。如何お過ごしでしょう?

蓄膿症、又の名を(慢性なんとかかんとか)の手術の為、ここに来てから五日がたつ。手術はスゲー痛くて終わってしばらくの間、これ以上のものはないくらいの呆けた顔をさらしていたに違いない。見かねた“天使”達が「刺青よりは平気でしょう?」と笑いかけてくれたが、シャレになってなかったのは言うまでもない。その後のおびたたしい出血により、俺のベッドには目をそむけたくなる程の血のシミ(といってもかなりデカイ)ができた。but誰もとりかえてくれない…そのベッドの上で俺は宿敵“退屈”とたたかいながら毎日を過ごしている。

宿敵は手ごわい。どっからともなくやってきては、いつの間にか俺におおいかぶさっている。恐るべし。ベッドの上に限らず普段の生活の中でも、常に俺はこの宿敵とたたかっている気がする。恐いのだ。退屈が。油断してコイツに身をまかせていると骨抜きのデクノボーにされてしまう。全身から力が抜け、背後のオーラは消え、口はだらしなく半開く。エイリアンより凄い奴かもしんないぞ、これは。

みんな気づいてないかもしれないけど、みんなの半分以上がこの退屈の中に埋まり、でなければ背中合わせの状態にあるはず。

忙しいと退屈じゃないは必ずしも同じ意味じゃないよ。気をつけた方がいい。

とまあ、それはいいとして俺の腕にはたくさんの点滴の針の跡ができ、痛みと淋しさですっかり気おちした俺は、風邪までひいてしまった。どうしてくれんだよって感じである。ちなみに今の俺の欲求は、ロースト・ガーリックが山ほどのった血のしたたるステーキを喰らい、マッキントッシュの岩みたいにデカイスピーカーをガンガンに鳴らし、ジャックとワインをしこたま飲んだ後、胸のデカイ女に抱かれベッドの上でライムを書く。これだけだ。たったこれだけの望みなのにいくら眠ってもかなう気がしねえ。かすりもしねえ。一体どうなってやがる?でも俺は知っている。どうにもなってないって事を。全てはこの場所を出ないとどうにもなんないって事を。全て自分のハナが悪いって事を。当たり前の事だ。いっその事、このハナもいでやろうかって感じだ。やるワケないけど。でも、でも、ホントこのまんまじゃチョットヤバイ。日増しにデクノボーに近づいている気がする。なんつったって一日のうちで嬉しいと思える時はメシの時間だけなのだ。こいつぁそーとーなデクノボーだ。まえ自覚症状がでてきたからこそ、この原稿を書いてんだけど。ホントはケッコウ頭痛がしたりしてツライ。でもデクノボーはイヤだと、こうした葛藤がある。これはグッドだ。デクノボー状態から抜け出す第一歩と言える。このまま前向きに過ごしてーもんだ。

しかし一方でヒステリックになっていってるのがわかる。少しだけ気が変になりそーだ。こんな俺に“天使”は“天使”のくせにキスの一つもしてくれやしない。針で俺の腕に穴ばかり開けてやがる。何てこった…

ロースト・ガーリックのステーキはいつ食える?ジャックとワインはいつだ?女と裸でベッドにもぐり込めるのは?…一刻も早くバーマ・シェイヴまで行きたくて、白いベッドで、又、目を閉じる。空は青く、月はグレープフルーツみたく笑ってる。自分だけ取り残された気になる秋の夜なのであった。

 

 

早すぎる自叙伝 大学時代のラテンバンドを経て、社会人へ。そして、ここと出会い、本当に音楽をマジでやっているバンドに加入しようと準備を始めていた。音楽雑誌『プレイヤー』のメンバー募集告知欄を丹念にチェックした。そして、年が明けてから、最初に電話してオーディションを受けたバンドに加入することになる。このとき、もう一つ悩んだことがあった。

それは、これからマジで音楽をやっていくパートを、ヴォーカリス卜ではなくべーシストでやっていこうか…という悩みである。大学時代にベースも弾いていたので、もともと物静かな人間だし、ベーシストの方が自分には合っているんじゃないかと思ったのである。けれども最終的には「自分は歌うのが好きだ」ということで、ヴォーカリストで行こう!と決めた。

この時期に出会ったのが福島先生の著書であった。『プレイヤー』の新刊紹介に取り上げられているのを見て、さっそく購入して読んでみた。ここに現在、辿っている皆さんと同様に「的を得ている-」と思った。この時期には新バンド加入に合わせて、いわゆる音楽スクール探しも始めていた。それまでは、「そんな所に通ってプロになった奴なんてそんなにいないだろう」と思っていて、あらゆる勉強は自分でやるもの、独学でやるもの…という持論があった。そんな所に通うくらいなら、どんどんライブをこなしていく方がよいと思っていた。けれども、これからは音楽をマジでやるのだから必要最低限のことは習っておくべきだ!と思い直していた。

オリジナル曲を創るにしても、ある程度の音楽理論は知っておくべきだし、譜面を書けないなんていうのは、曲を創る者として恥ずかしいことだと思いはじめた。ヴォーカルに関しても、自分でトレーニングなどはやっていなかった。何をしていいかもわからなかった。せいぜい大学時代にやっていたオクターブ上下の発声練習と腹式呼吸の練習くらいしか知らなかった。

十以上の音楽スクールのパンフを取り寄せ、二月にはそのうちの幾つかの音楽スクールに行き、説明を聴いたり、実際のレッスンを見学したりした。二月の上旬から、新バンドの練習にも参加を始めていて、メンバーからも「どこかでヴォイストレーニングの方法は習った方がいい」と勧められてもいたので、必ずどこかに入ろうと思っていた。音楽理論を学ぶのに適当なスクールは見つかったものの、ヴォーカリストとして最適なスクールは見あたらなかった。どうにもしっくりとくる所がなかった。

すでに、福島先生の著書を読んだ後でもあり、「うちではコール・ユーブンゲンを基礎としてやります」と言われただけで、「ああここはダメだ」と拒否するようになっていたから、もうここに導かれる状態になっていたといってもいいだろう。そんなこんなで、どんどん切り捨てていき、残る所はここだけになっていた。

 

 

ハードロックバンドで苦戦 加入した新バンドはギター、ベース、ドラムの四人編成で、ハード・ロック系ながらメロディアスなポップ感覚もあるバンドであった。曲は全てオリジナル(カバーは指慣らしでパット・トラバース・バンドの“メイキングマジック”をやる程度)。四ヵ月のリハーサル期間を経て、九ニ年六月十四日東高円寺ロサンゼルスのライブが初ライブとなった。その後、高円寺レイジーウェイズや恵比寿ギルティなどでライブを重ねていく。このバンドでは初めてヴォーカリストとしての厳しさを味わったといってよい。まず、人のオリジナル曲を歌うことの難しさを痛感させられた。今までは、自分の創ったオリジナル曲を自分のキーに合わせて自分勝手に歌っていたから、他人にとやかく言われることは一切なかった。ところが、このバンドでは、作曲者が歌い回しからあらゆる注文をつけてくる。キーに関しても「イメージが変わるから下げられない—」とゆずらない。挙げ句の果てには「ブルースフィーリングが足りない—」…。一転して厳しいバンド生活が始まったわけである。それでも、前年までから見れば、自分としては大変充実感があった。音楽活動の中に多くの刺激材料があった。バンド、ここ、ビクターと、全てが自分自身を成長させてくれる要素であった。曲はハード・ロック調が多かったので、ハードロック系の曲をいろいろ聞き出したし、ギタリストの勧めで、ヴォーカルを学ぶのならこれを聴けと、ダニー・ハザウェイサラ・ヴォーン、マイケル・ボルトンといった今まで知らなかった本格派ヴォーカリストの歌声に接する機会も得た。今まで以上にスタジオ入りする日も増えた。バンドで練習する日以外にも、ギタリストに付き合ってもらってヴォーカルパートの特訓をやった。まずは、バンドのオリジナル曲を消化するのに必死であった。

だが、このバンドでの活動にも、次第に疑問を感じはじめた。一つは、ここで指導されたことと、バンドのメンバーのヴォーカルに対する考え方との不一致であった。今までやってきたオリジナル曲はともかくとして、新曲については自分のキーに合わせて欲しかったのだが、メンバーはそれにも難色を示した。また、メンバーは私がここでトレー二ングをしていれば、すぐに高音域が出るようになるだろうと期待しているようだった。基礎の部分をしっかり作ってから…というここの長期的視野に立った考え方と相反していたわけである。だから、「直江さんはなかなか進歩しない」と不満を募らせはじめた。二つめである。当初、私はハード・ロックでも何でもエリ好みしないし、むしろ新鮮で勉強にもなると、すべて前向きに考えていた。

ヴォーカリストとして成長していければどんなバンドでもよいと思っていたのだが、ある程度落ちついてきて、さあ自分のやりたい曲もこのバンドでやるぞ…と思った時に、メンバーにはそれを受け入れる器が用意されていなかった。つまり、彼らはハード・ロックにこり固まりすぎていて、ハード・ロックらしさがなければ全てを否定してしまう人間であった。私はハード・ロックだけやるのはいやだった。ハードロック側の人達に完全に入り込むことだけは不可能だった。でも決してメンバーと仲が悪かったわけではない。練智の後は必ず酒を飲んで、音楽談義に花を咲かせたものである。

新宿ジャムでのライブが、このバンドでのラスト・ライブになった。同時に、現時点での私がステージに立った最後でもある。結局は、これ以上このバンドで高音域を無理して歌っていけば、そのうちつぶされてしまうという私の思いと、なかなか進歩しないヴォーカリストと一緒にやっていてもダメだというメンバーの思いが一致し、今年の一月に円満脱退?した。約一年間、このバンドで本格的にやってきたわけだが、大変勉強になったし、今までの自分の甘さを知ることもできた。メンバーから見れば、私のヴォーカリストとしての力は進歩があったようには見えなかったようであるが、私自身にはここの効果は少しずつながら感じられた。次第に歌いやすくなってきたからである。息のコントロールに余裕が出てきたからだとう思う。そんなわけで、昨年一年間は、随分といろんなことを吸収し、また音楽的にも多少ながらも成長できたと思っている。

 

三月までの間に久しぶりに数曲、作曲した。そして、まだまだ自分のヴォーカル、作詞、作曲能力は甘いんだということを客観的にチェックするため、五、六月にかけて十数社のレコード会社他の主催するオーディションに、ソロ作品としてデモテープを送ってみた。結果は予想通り全てダメだった。けれども、これで現時点での自分の実力のなさを納得することができた。もっともっと自分を磨いていかなければならない。今年一年間はトレーニングに集中することにしようと決めた。まだまだ自分に厳しくしなければいけないと思ってはいるのだが、かなり甘さが目立つ。

私がここに入って一年の間に、ここ自体もどんどん変化していき、レッスンの内容も豊富になってきた。今までなかったレッスン、あるいは新たに出来たゴスペル講座などにも参加し、一ヵ月にここに通う回数が、当初の倍以上になっている。けれども、その場限りで放りっぱなしということも多く、その点は反省している。今まで、ここの人たちとはあまり交流がなかったが、顔を出す回数が多くなるにつれて、多少なりともコミュニケーションの場が増えてきたのは、やっぱりいいことだと思う。今回の夏合宿でも、多くの人とコンタクトをとれたことはよかったと思っている。私は、以前から広く浅い交流ばかりで、その殻は今だに破られていない。今後も大きな課題として私の前に立ちはだかっている。もっと親密なコミュニケーションができるように自己変革していかなければダメだ!と反省している。この原稿で、自分の過去をさらけ出しているのも、この反省の一環からでもある。

 

目標や夢というものは、どんどん変化していくものだと思う。バンドをやっている時には、具体的にプロデビューへのプロセスが見えていた。ただ、プロになって何をやりたいのか?までは考えたことはあまりなかった。音楽で自分は何をしたいのか?そして、具体的に何をどのようにしてやっていくのかということ…目標が今の自分には見えなくなってしまっている。

実は、プロのヴォーカリストになりたいという夢は建前であって、本音は違うんじゃないか?…そう自問自答してみる必要があるなと最近、思う。とにかく、もう一度じっくりとそのあたりを考え、今後、数年間の具体的なビジョンを明確にしてみようと今、思っている。

私は自分の方向性を確立する期限を、三年後と決めた。だから、それまでに何かを成し遂げたい(漠然とした夢は三つある)。

皆さん、それぞれの目標、夢に向かって共にかんばりましょう。

 

 

 

 

 

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おすすめ

 

私の好きなアーティストを列挙しておきます。

クイーン、レッド・ツェッペリン、エクストリーム、二ルヴァーナ、ラモーンズ、レッドホット・チリ・ペッパーズ、ショパン、ヴィラ・ロボス、トリオ・ロス・パンチョス、サイモン&ガーファンクル、エレファントカシマシ、N.D.NZ、チューリップ。

 

ボ・ガンボス近藤房之助、そして忌野清志郎

日本のアーティストの中でも一目置いてしまう豪華な顔ぶれだったので、予約してしまった。案の定、チケットはSOLD OUTとなった。

今回のお目あては、近藤房之助だった。ブルース・シンガーである彼がどんな歌声を聴かせてくれるのか?かなり興味があった。キヨシローを久々に観れる…というのも楽しみの一つであった。

最初に登場したのは、ボガンボス。このバンドを生で観るのは初めてだったが、TV等で観た印象どおり、グルーヴ感のしっかりとしたバンドだった。次に、いよいよ近藤房之助が登場!特別ゲストとして名ドラマー、村上“ポンタ”秀一を加えた四人編成で演った。当初抱いていた声のイメージ以上にしゃがれ声だったなあ…という感じだったが、やはりまで聴いてきた日本のシンガーにはいないヴォーカリストだと思った。思わず丹念に聴いてやろう!という気にさせるほど、魅力あるヴォイスであった。ラストにキヨシロー!やはり、大半の客は彼が目あてだったようで、皆一斉に立ち上がって大歓声をあげていた。曲は、以前に出現した謎の覆面バンド“タイマーズ”のカバー(?)

や、最近のオリジナルなど、相変わらず世の中のことをリアルタイムに歌っているという感じだったが、俺としてはちょっと色あせているように思った。この日は、房之助の方が強く印象に残った。RCサクセションの曲は、やはりやらなかった。RCとして再びステ—ジの上にあがる日は、果して来るだろうか。

 

 

ドゥービー・ブラザース 

ブリティッシュ・ロックの大御所である“ザ・キンクス”のチケット(五反田ゆうぽうと)も持っていた。キンクスの方を先に予約していた。ドゥービー・ブラザーズの日本公演が最初に発表された時には、十月七日大宮ソニックシティ、十月九日日本武道館の二本だった。

歌っている曲はゴスペル謂座でやっている“ジーザス・イズ・ジャストオールライト”…。席に着くやいなや、すぐにレッスンの復習とばかりに一緒に歌い、歌詞をちゃんと覚えているかどうかの確認作業を実施した!?

編成は八人で、ヒット曲が次々と飛び出してくる。比較的初期のナンバーが多かったが、私としては満足。客層は、やはりスーツ姿の人も多く、年齢層が高かった。二階席に客はほとんどおらず、意外に客が入っていないのはちょっと寂しい気がした。

最後は代表曲である“リッスントゥ・ザミュージック"で締めを飾った。時間にして九十分はちょっと短くて物足りなさも感じられた。けど、やっぱり観れてよかった! 

 

 

エレファントカシマシ 

よく“雨の野音”などといって、どのアーティストでもこの野音の雨中のライブは伝説化?されてしまっている。ヴォーカルは雨の中を絶叫し、ファンをずぶぬれになりながらコブシを振り上げて一緒に歌っている…そんな光景がロックコンサートなら当然浮かんでくるところだ。

しかし、このエレカシの場合、ロック・バンドでありながらそういった光景は全くありえない話だった。なんせいつも客は全員着席し、ヴォーカル宮本の絶叫をじっと聴き入る…という他のロック・コンサートには類を見ない一種独特の雰囲気を持ったコンサートであるからだ。

エレカシは、いうも九月中旬に野音でやるのが恒例になっている。私は毎年観に行っているが、今年は十月中旬、そして雨…。やむなく使い捨ての雨ガッパを購入して会場に入った。

いつもながら、ステージに飾りは一切なし。ステージに金をかけてないから、彼らは多分今後も生き残っていくことができるだろう?客はまずまずの入り。小雨の降りしきる中始まった。アップ・テンポの曲には、やはり雨は映えなかったが、アコースティック調の曲には案外マッチしていた。スポットライトが雨を照らし、ドライアイスのスモッグともフィットしてけっこういい感じになった。今回、ヴォーカルの宮本は靴を投げたり、客席に降りたり、雨にぬれたステージでころびそうになったりと、いつも以上にアクティブであった。しかし、曲をやっている最中に「くつを返してください」といったり、ギターのチューニングをしたりと、あいかわらず笑わせてくれた。彼はまさに“エンターテイナー”になりつつある。

アンコールは一切やらないので有名?なバンドでもあったが、昨年の野音に引き続き、今年もこの野音ではアンコールをやり(しかもミラーボールまで廻して)コンサー卜を終えた。野音で雨の中コンサートを観たのは初めてだったが、やっぱりここでは星をあおぎつつ、ビールを飲みながら…が一番だ!

 

エリッククラプトン 

今回の日本公演は、グラミー賞受賞直後ということもあり、東京地区だけでも全十回の公演が組まれていて、しかもほほソールド・アウトというすごさである。最近になってクラプトンを知った人たちが、けっこう来ているのではないか、と思う。

会場である武道館に入って驚いたのは、ステージ真後ろの一階スタシド席まで開放していたことである。もちろん、そこも含めて、館内にはぎっしりと客が詰め込まれていた。

最初は、もう一人のギタリストと二人だけでアコースティック・ナンバーを演奏し始めた。ロバート・ジョンソンの曲などをプレイしていたが、私は前夜にあまり寝ていなくて、それもう眠くてどうしようもなかった(本当に情けない…)。必死に眠気と闘っているうちに、アコースティックコーナーは終わり、バンドのメンバーも出てきた。まずはクリー厶時代の名曲“ホワイ卜・ル—ム”!さすがに客席は盛り上がる。その後、バッジなどの代表曲が続いたが、私はまた次第に夢の世界へ突入寸前…(全くもって情けない)。クラプトンのギター、テクニックは相変わらずの冴えをみせていたが、力強いヴォーカルもまた魅力である。体から声が出ているなあ…という感じだ。

ティアーズ・イン・ヘブンはけっこうシンプルな曲ではあるが、曲が書かれた背景を考えながらナマで聴くと、やっぱりじーんとくる。心で歌えるように私もがんばらねば…と思った。今回の公演は、アコースティック中心ということで期待していた。今後、しばらくソロでやっていこうと思っている自分にとっては、その期待に十分過ぎるほど応えてくれたライブであった。日本武道館

 

 

来日アーティスト

今年は大物アーティストの来日が目白押しである。バブル経済が崩壊し、今だ延々と不況が続く日本であるが、それ以上に世界各国(音楽市場関連でいえば特にアメリ力)の状況はより厳しいからか、相変わらず日本市場はカネになるところとして注目されているようだ。

ブライアン・メイ

ディープ・パープル

カヴァーデイル・ペイジ

ほかに、来日するアーティスト名を挙げてみると、U2、サイモン&ガーファンクル、マドンナ、スティング、ポール・マッカートニーマイケル・マクドナルド…そうそうたる顔ぶりである。

 

 

マライア・キャリー

聞くたびに「好き」の中には、憧れや羨望が惜しみ無く練り込まれていて、他にもたくさんいるミュージシャンに対するそれとは、比べものにならない程です。その訳は、次に述べるような想像をしたりするときと同じような感動を、彼女の音楽は僕に与えてくれてしまうからです。

例えば、想像上の自分が、満足のいく実力を持ち、大スターになってしまったとします。そして、大舞台の上で、もう涙があふれる程、えもいわれぬ嬉しい声援で、感動の嵐を引き起こされ、一ニ〇%のパワーを引き出されて歌い、それを楽しみ、大観衆の背筋をゾクゾクと喜ばせているのです。つまり、ドキドキと苦しくなる程、熱く、僕の奥の何かを一杯にしてくれてしまうからです。

しかし、「好き」といっても、欠点が一つだけあります。それは、アメリカ人の言語、一つ一つのニュアンスや、あらゆる物事に対する一般的な感じ方や、宗教観念等、日本人とは違うそういったさまざまな細かい感覚を、ネイティブと同じようには、どうしても感じ取れないということから、曲を聞いているときの詞の内容に、ストレー卜に感動することが全くと言っていいほどできないということです。訳詞を読んで聞いたとしても残念ながら、その点ではやはり邦楽にはかなわないなと感じてしまうのです。しかし、その一つの欠点を除けば、彼女の音楽がパーフェクトに「好き」です。

彼女の声質、発声、ブレス、メリハリ、センス、感情移入、メロディ、アレンジ、リズム感、技術等々の点が、感受性と心地良く共鳴してくれてしまうからです。

なぜかと考えると、まず、好みピッタリ合うということが前提にあります。そして、それらの点は、先程述べた、詞を聞いて感動するために必要な要素を持ち合わせていなくても、音や響きだけの問題ですから、世界共通の物であり、少し感動の種類が違ったとしても、その大きさは同じだといえるからじゃないでしょうか。

この頃、艶やかでいて、爽やかで、聞き苦しくないと思う超高音域を夢見て、自分にも自分なりのそういう声が実現した所を想像して楽しんだりしているのです。しかし、そういうのができるのは、昔から、自己管理や生活面や勉強面等の調子が良く、大体において向上心を持って努力をしているときに限ってだけだったのです。だからときどき、それらが殆ど旨くいかなくなってしまうと、自分には無理な事ができている人をちょっと妬んでしまうというか、極度にうらやましく思ってしまうのです。

人がめったにできないことができてしまう人というのは、本当にすごくうらやましいです。もちろん、そんなことはできなくても「いい」ということは分かっていてもです。しかし、人より一オクターブくらい多く声が出るということが、個性を表現し、アピールするための一つの大きな武器や手段になっていると思います。だから僕は、そういうものは一つでも多く持っていた方がいい、持っていたいと思うのです。たとえ一つだけしかないとしても、それがものすごく大きいものであれば、それだけでもいいと思いますが。

今のところ、彼女の音楽は、僕の将来の音楽のしっかりとした理想になっています。しかし、決してコピーのようになりたいわけではなく、自分なりの、自分らしさが光る、自分だけの、個性あるミュージシャンになりたい、色々な意味で成功を納めたいと思っているのです。

自分なりに色々な努力を重ねた上で、何か一つ、これといった自分だけの個性をものにできさえすれば、他のどんなに強烈な個性にも負けないほどの、「鬼に金棒的個性」になるはずだと思うし、何よりもそれだけでも価値ある人物になり得るはずだと思うからです。

そうすれば、熾烈極まりないと言われる、音楽業界の生き残り合戦に乗り込んでも、しっかりとしたプロデュース方法を練り上げるなどすれば、差し詰め左うちわといったところで、しっかりと渡り合い、ちゃんと生き残って行くことができるのではないかと思うからです。

 

アーノルド・シュワルツネッガー 

アーノルドは、その壮大な計画をその頃から綿密に計算していた。そうそれが、彼が生みだした最高の哲学、「マスタープラン」なのだ。それはまるでニーチェの哲学とソビエトの五ヶ年計画を混ぜ合わせたようなプランだ。アーノルドがその壮大な計画を友人に話し始めると友人たちは、彼が何を言っているのか全く訳がわからず、頭をかきむしっていた。しかし彼の頭の中でその計画の現実化に向けゆっくりとしかも着実に、石橋をたたいて渡るように、そしてはしごを一段一段登っていくように、彼の計画はきちんと整理されていた。

「まずアメリカで市民権を取る。何しろアメリカが僕の生涯の舞台となるからね。そしてとりあえずボディビル界でナンバーワンになる。その間に完璧に英語をマスターする。知識と教養を身につけるために学校に行くんだ。大学で学位を取り経営を学ぶ。同時にボディビル界で金儲けのために何ができるかを見つけ出すんだ。もちろんボディビルだけで儲かるとは思えないから、不動産を手に入れて大金をつくる。そして、ビルダーとしての知名度が上がり始めたら、機を逃さずに映画俳優、プロデューサー、監督業に手を出すんだよ。おそらくその頃は僕も三十代に入っているだろうしね。でも一番最初に作る映楽はは監督と主役を両立させて膨大なお金を手にするんだ。カリフォルニアでお金持ちになることは、すなわち権力にもつながることだから、家、美術品、車を片っ端から手に入れるんだ。

世界が次第に僕に注目し始める。そして、いつの間にか僕を中心に回るようになるんだ。そのうち、たくさんの人に影響を与えるにはどうしたらいいのかが身につくと思うし、自分の感性を研ぎすまし、周りを巧くだませるようになると思う。そして、自分の「マスタープラン」に邪魔な存在は、すべて自分の歩む道から取り除いていくんだ。僕の過去を知っている人間、三流の法律家、スパイ、同盟国の人間などね。そして知的で魅力的な女性との結婚。三十二歳までにホワイトハウスに招待されるような権力のある人物にのしあがる…。」

結論から言えば彼にここまでの計画をほぼ実現させてきた。教養、知識を得るために、ウィスコンシン大学商学部と経済学部の卒業証書を持ち、俳優としての数々の名作、そして、最近ついに監督主演映画、「ラスト・アクション・ヒロー」を撮り、結婚に関しては、あのJFK(ジョン・F・ケネディ)の甥むすめとの結婚、その事により政界への強いパイプもでき、ブッシュ大統領の時に「大統領のフィットネス評議会」の議長を努めていた。しかし、アーノルドのあの雄々しい身体がなければ、もしかするともっと早く夢は現実のものになっていたかもしれない。「とりあえずボディビル界でナンバーワンになる。」ことがなければ…。

つまり、アーノルドと言えば肉体を売りものにする無学、無教養の筋肉の塊としてのイメージがあまりにも強すぎて、当時からボディビルダーといえば筋肉だけを発達させ、脳のほうはそれに反比例しているかのごとく思われていたのだ。アーノルドの前では、にこやかに話す人も、一度背を向けると舌を出して嘲笑するのだった。まさかその軽蔑の対象であった貧しくて、無教養で、肉体を武器にするオーストリアの移民が、アメリカの頂点に立つような人物になることは、誰が想像したことであろう。そもそも彼がボディビルダーとしてスター卜したこと自体が皮肉なことに、マスタープランの最終ゴールの障害となっていたのだった。