一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

『クリエイティブたれ』  321            

『クリエイティブたれ』  321            

 

声も一人の人間が全力をかけて人様に勝負できるものは、結局、一つだろう。

それがいくつもあるというのは、低いレベルにすぎぬ。

日本のライブ、テレビ、ステージでやられているのがよいと思うなら、

わざわざここに来る必要もない。

そのくらいのことは、多くの人がやれるはずだ。

 

私が疑問に思うのは、なぜ、各人においていろんなことを決めつけないと、

安心できないのかということだ。

歌と発声を分ける必要も、歌い方を「変える」必要もない。

 

ステージ実習はアカペラのレコーディングのように、

ライブ実習はライブのようにといった違いくらいに思っておくとよいだろう。

ヴォーカリス卜が歌う以上、それは歌であり、クリエイティブなものでなくてはいけないと私は思っている(プレーの場で、腕立て伏せするのを誰も見たがってはいない)。

 

「ここ的」とやらいう言葉がよく聞かれるが、

そんなものは、各人が勝手にここにワクをつけ、その中で甘んじている結果であろう。

個人としてのヴォーカルは存在するが、ここ的に共通の正解などない。

あえて言うなら、世界の一流のヴォーカリストは、ほぼ100パーセント、ここの求めている条件は満たしているということだけだ。

そのレベルを満たそうとするのが、ここでのトレーニングにすぎない。

必要な人には必要であっても、それだけでは絶対に充分ではない。

 

だから、個人差やキャリアの時間の違いはあっても、

ここで、うまいとかへただとか考えるのは愚かである。

こんなところで埋もれていられるかと、ダントツ、超越して、歌っていって欲しい。

 

ここに来ていること自体には、価値のないことを一人ひとりが自覚して欲しい。

厳しいようだが、これだけの時間をかけた、お金をかけた、曲をこなした、

マニュアルを読んだ、ここに通った、それは自己満足の世界、コレクターと同じである。

こういうものが一つになって歌に表れないのなら、勉強で終わる。

創造に至るまでやりとおさなくては、ただ、ハイご苦労さん、なのだ。

 

ということは、ここに来なくとも、素晴らしく歌えれば、それでよい。

それだけだ。

 

(私としては、素晴らしく歌う、人を魅了させて歌う—ということが何であり、どうすればよいのか

それを知るためにこういう場の必要を感じている。そういう意味では、共同研究の場である。

すぐれたヴォーカリストなら、ここで一人では感じえないものを感じ、取り込んでいくことができるでしょう。そういう機会になっていないとしたら甚だ残念である)。

 

カラオケ上達者や日本のライブに出ているヴォーカリストの多くがアーティストらしくないのは、自分の歌を若さ任せで消費しているだけで、日々、クリエイティブでないことだ。

だから、私は魅了されない。

そこに冒険もリスクも賣任も感動もない。

いや、声や歌にないだけで、その分、ステージや演出では、クリエイティブである。

 

そういったものがのる基本という土台がないからだ。

こういうことがわからぬ人は、海外に行ってみるとよい。

まあ、日本は日本だというなら、それはそれでよい。

 

言うまでもないことだが、老人ホームや務所まわりしている歌い手も、

中高生相手に人気のあるヴォーカリストも、

地域に密着して活躍しているヴォーカリストも。貴賤はない。

自分の思うところ、求めるところまでやればよいのだし、

分野など超えて表現活動している、「している」ということが重要なのだ。

〔ただ、より力をつけたい人のために、ここはオープンしているだけだ〕

 

「人を魅了できる歌が歌えるなら、そうすればよい。

それ以外にヴォーカルにはいったい、何が必要だというのだろうか一?」

 

 

 

 

どうやら人は絶望と希望のなかで生きるらしい。

その幅の大きさが、哀しくも器となる。

 

嵐山の美空ひばり館で、ひばりのLPレコードの傷に、

それを聞きに聞いた人の心が伝わってきた。

「これだけ聞くということは、ひばりに、生きる力を与えてもらっただけではない、

私もひばりに生きる力を創り出したのよ、

だから、私の人生はひばり、ひばりの人生が私」

 

苦労して手にいれたであろうLP一枚は、

今、皆が手にしているCD100枚よりもずっと重いだろう。

聞き込むことによって、言葉には表わせないが、出てくるものがある。

 

情報を多くなった分、今の方が心(受けとめ、創り出すカ)が貧しくなった。

楽しませてもらうより、楽しむ。

それしか楽しみがないから、皆、唄った。

 

今だって、そうじゃないか。

何が本当に楽しい?

何に感動できる?

 

私がここで伝えたいのは、沈黙だ。

声に耳を傾けることだ。

そのなかにどれだけ多くの声が入っているか、

それを聞きとれる人、

そして迷わぬ人が一つのことをものにできる。

 

ヴォーカルや歌について教えている人はたくさんいる。

しかし、私は“演じている”つもりだ。

そういえばもう一人、レッスンを“演じている弟子も

ロスから戻ってきたようだ。

 

 

PS

暑い(寒い)、狭い、汚い—、

こういうことで集中が妨げられるほどのパワーしかないとしたら情けない。

人間弱いものだからこそ、歌うとき歌に関わるときには、絶対的な強さをもって欲しい。

いつから、日本には温室から出られないヴォーガリストばかりになった?

冷房のきいたところでゆったり腰かけて、

楽しく歌うなら、カラオケボックスに行けばよい。

3Kに触れる機会があれば、神に感謝せよと言いたい。