一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

ステージ実習コメント  324

ステージ実習コメント  324

 

総評を述べます。歌い方、歌う意味が分かってきた人と、そうでない人の差がずいぶんあると思いました。それは、表面的な歌のうまさからは分からないところです。

ですから、もう一度、歌の歌う意味を見直す時期にきていると思います。考えてみてください。

 

私はライブの感覚でみています。例えば、ここは異国でバンドも協力的でないとします。そこで歌ったときに最後まで歌いきれるかどうかです。

勢いで歌うということではないです。下手であれば、バックは演奏をやめてしまう。お客は協力的でない。そういう場に立たされたとする。すると、もう少し何かが変わってくるのではないでしょうか。

緊張であがるということとは違います。

 

ヴォーカルの要素というものははっきりしています。簡単にいうと、どこか危険な地帯に、誰か一人か二人ヴォーカルを連れていって、その人に歌わせたら私が逃げられるような、それだけの間を持たせられるかということです。

別に歌でなくてもよいのですが、なんでもいいから、芸、特技を披露して相手の関心をひき続ける、ということは大変なことです。心を奪うことができるか。ステージというものはそういうものです。

 

ただ声質だけでもだめです。もっと単純にいうと一人の人間として誰にも負けないものを出していってほしいと思います。大声で脅せといっているのではありません。

そこには表情とかの要素も入ってくると思います。自分のベストの顔をつくるだけでもずいぶん違ってくるのではないでしょうか。

 

声に関しては、いつもいっているように、息とともに流れでるようになってきているかということです。声が身体の底からでていってそれを口がせき止めて、もうこれ以上でてくれるなという形で音楽に結び付いているかということです。

歌は、聞かせどころというところを一箇所決めて、そこで勝負球を投げられるか投げられないかということです。本当に一箇所でよいです。

 

一カ月ためにためたものを爆発させたものか、「明日だな」と、急に用意したのかも、全然違ってきます。お客さんはバカではないので、その辺のことをちゃんと感じています。

この人の歌、聞こうかな、やめようかなというのは、うまさの前の段階で判断しています。

なんだこいつダラダラッとでてきて、じゃあ、ダラダラ聞かずに流してやろうということに当然なります。ですから、信頼を裏切らないだけのことは準備してほしいです。

 

課題については、シビアなことをいうようですが、こなすだけでは意味がないのです。そこで何を作り上げるかが問題です。

この場にくると一番目の人と十番目と最後に歌う人とでは違うわけです。

雰囲気も、温度も、空気も。するとその場で作らなくてはいけない。他の人のを聞いていいと思ったらどんどん取り入れていくとか、変えていってしかるべきだと思います。なんとなく型どおりと、やり終えただけという感じがします。

 

歌もそうですね。ここでやることは、完成させて、お客さんからお金を取ることではありません。お金を払って出ているわけですから、好きにやってよいのです。間違えないということよりも何をそこでやったかということが大切です。間違ってもよい。印象を残していけということです。

 

要は、二十人が歌い終わった後に、誰が印象に残ったかという、そこの部分を着実に貯金していけということです。自分自身の中に。歌いきっても、終わらせたのか終わらせてないのかわからないところで、「ありがとうございました」では、本人にとって自己満足にさえならないでしょう。とにかく自分自身に満足感を、感じられるようにやってほしいと思います。

それが、観客に対しての最低限のマナーでもあります。そのためには相当の準備をしなくてはならないのです。

 

 

「ケセラ」に関しては、歌の解釈からもう一度やり直してほしいです。

これは希望的観測の歌です。「どうにかなるや」「やっていけばやっていけるや」というような雰囲気は出てなかったという気がします。

 

自分なりに変えていってもよいですが、それに変わる何かも、あまり出てなかったと思います。勝負できてないという感じがありますね。隙だらけです。

何が隙だらけかというと、私はとってつけで課題を作っていますけれども、それは課題を作る人の勝手であって、受け止めて実践にやる人は、そこで何があっても深く考えなくてはなりません。

 

「ラララ」があって、「ケセラ」があって、自由曲がある。ということは、三回のチャンスがあったわけです。オーディションで二回失敗してももう一回チャンスがある。

二十人だからいいけれども、これが百人いたら「ラララ」をきいて、「君もういいよ、きかないよ」といわれます。

わざわざ三つやっているのは、形式を整えているんではなくて、「ラララ」を持ち出されたら、そこに何か意味があるんだと思わなければ、怠慢です。それを自分で見つけてこちらが思っている以上のものを返してこないといけないと思います。

 

このくらいの人数は、あがりやすいですし、自分を出しにくいというのはあります。ただ、考えてみれば、月に何回かここで授業をやっているわけですから、逆です。

いつもやっているときにあまりに無神経にやっているのではないか、いつもここで本当に真剣にやっていればここに立つのにそんなに変わるはずはないのです。同じ場所ですから。

だから逆に今日ここに立ったくらいの真剣さで(固さとかあがりは除いて)この場に立ってもらいたいと思います。そういうことが大事だと思います。

 

授業の質は結局こちらの方で決めるのではなく、みんなが詰めていくものです。芸事ですから。こちらがこのレベルでやりましょうといっても無理な話です。だからその前にみんなが演じてくれないと、全力で目いっぱいやってくれないと難しいです。

 

このステージ実習もアカペラ形式のコンサートだと思っています。順番が回ってきたときは一つのチャンスです。自分の精一杯のものをそこで出す。その出している体験の中からつかみ取っていくしかないのです。そのためには裏の方でどのくらいやっているかということです。

 

グレードは、歌のよしあしよりも、そういった取り組み方などが卜ータルとして表情に出てくるでしょう。AからBに早くいけばいいというものではなくて、むしろAに長く留まっていろんなものをつかんでくれた方が得だとも思います。

Bというのは、どちらかというと先にいってしまうので、本人がわかってなければわかってないまま進みます。そんな中にいると、おいてきぼりをくってしまったことさえ、わからないまま終わってしまうことも多いのです。

Aはこのように細かくいっていますから、そのなかで、充分に自分の判断力とか耳を鍛えていってほしいと思います。

 

声をきかせるということは一つのベースですが、声以外の何かを忘れてはいけないと思います。当然人前で舞台に立ちますから、聞いている人間が何を求めているか、何でもいいから三分間持たせて、なおもう一度出てきてほしいと思わせる何かをどうやってつくっていくか。結局プロとの違いはそのなかで出てくる密度です。密度があって、隙がなくて、しかも開放されているという矛盾した条件をすべて満たさなければいけないのです。

 

簡単にいうと、自分と歌との一体化がはかれているかどうかです。口先だけやことばだけで歌っていてはいけないのです。スポーツと一緒で、身体でまみれてみるのが一番早いのです。そういう時間をどこにも取っていないと難しいです。レッスンでもなるべくそうしようと思っているんですが、六十分間本当に汗だくになってまみれられるというのは、自分の中で時間を取っていかなくてはならないと思います。

 

息を吐くだけでも相当汗だくになるでしょう。そういうことの積み重ねが正直に出てくると思います。

編曲については自分で直すのは全然構いません。ただその中で安定した形で落ち着かせて歌わないと通じません。毎回即興でやるのであれば、よほどセンスがない限り、評価されるものを出すということは非常に難しいです。だから形をはずす人は、形をはずした分だけ相当練習してこないと形のあるものよりもまともなものは出てきません。

 

ここで最高のものを出していってほしいです。そうでなければもったいないです。二十名の前でやるということの重要性や意義を考えないと、何年経ってもお客を二十名も集められません。これだけ真剣に二十名が見ていてくれる前で、なおざりにやっていたのでは、どこでまともにやるのだといいたいです。

 

自分の型を一度壊すと、当然のことながら何もなくなります。何もなくなったところからやるので大変だし、歌も歌えなくなるかも知れません。一オクターブでしっかりと歌えていたら、ここにきていないでしょう。皆さんは、歌えていないことを知ったところで救いがあります。しかし、さらに自らに厳しく、本物を求めなくてはなりません。こういうものは少しずつうまくなることはあまりないのです。

 

スポーツと同じです。どこかでどん底を見てそこからはね返るということを繰り返していくのです。「駄目だ、伸びない、どうして駄目なんだろう」と思っているとき、自分の評価基準が上がっているんですね。「ああ、うまくなったな」などと思うのは自分の評価基準が全然かわっていないということです。

 

ここに入ったときに、ここ以上の評価基準をもって入った人はいないと思います。だから、ここにいたら普通であっても、下手に思えてくるのがあたりまえで、実質、下手になっていってよいのです。そこをつき詰めてどん底までいくと、上の方にはね返って、あるときレベルが上がります。

それは他人から指摘されたり、身体自体が変わったりすることでわかります。下手に小細工をしてカラオケのうまい人になってしまうのではなく、もっともっと本物を追求していってほしいです。

 

身体があって、息があって、ことばがあって、そこから歌が出てくるのを待つ時間を大切にしてください。身体の根本には、心や精神があって、その部分をもっていかなくてはならないと思います。そうするとスタイルもまとまってくるんじゃないかと思います。