レッスン感想2 747
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課題曲レッスン感想
ステージ実習感想
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課題曲レッスン感想
雲が流れる空をあなたの胸を~と、話してることばが音楽になってるようなフレーズは、先生は先ずことばに戻って、基本的な条件を身につけること、と言われて納得。ことばできちんと表現できれば音はおのずとついてくるものだと思った。その、ことばを言う、ことばの表現が私は徹底的に鍛えなければならないところ。ことばに、どうしたら命を吹き込むことができるのか。自分の気持ちを入れるまで、どんなイメージをしていったらいいのか…。“ことばの演劇”の授業があったらおもしろそうだ。その前に、自分一人のことばでその場を変えられなければならないことが先決だが。
カンツォーネ・シャンソン特集の、“あなたと私はランデブー”の歌詞をあてて歌ってみるメニューは凄くおもしろかった。ステージ実習の曲を覚える時、(特に元は外国の曲で日本語で歌う曲などは)いつも、この繰り返した。本当にハマらなくて、何回やっても不しぜんで、“やっぱりことばだ!”とか思ったり。いろいろあるけれど、今まで“コピー人間”だった私が、コピーではなく、自分の歌う曲として“創っていこう”としていることが最近大きく変わったところだ。自分自身と息と相談するようになった課題曲でも、“覚えよう”ではなくて(もちろん始めは覚えるが)じゃあ、どう創ろうかな···と考える。
元の曲のイメージ、メロディーは大幅にくずすとやはりカッコ悪くなる場合が多い。やはり、作品としてできあがってるメロディーというのは、作曲家により、考えられて作られているもので、それを崩すということは、あまり好まないし、やはりオリジナルを生かさなければあまり意味はない。しかし、ことばは、各人言い回しとか、ほんの少しの伸ばし方、切り方で、これはあまり計算をするものではないと思うが)素晴らしい歌に変化する。しかしオリジナルのままという…。まだ、自分のことばが、未完成な身体の中で動いているだけなので、今の私には計算をしないと仕上げられない。しかし、それが、しぜんに出るように、出たものが、私のオリジナルになるように、この作業を重ねていきたい。
歌の始めから一つひとつ魂を込めて作っていくという作業が全くできていない。自分で作るというのと歌詞を覚えてメロディにのせるだけというのは全く違うと頭で分かっていてもできていない。一つひとつ全力で作って、それをトータルー曲でみたときにダメなところ、もっと変えたほうがいいところ、それをやらないと何のために歌うのか。ただ歌う歌とアーティストの歌は全然違う。自分はただ歌っているだけだ。うまくことばにできないけれど、「作る」ということ、作品を出すということ、魂を歌で表していること、歌というのはあくまで手段であって目的ではないこと。
最近の自分は歌を上手に歌おうとかいい声で歌おうとか、のど声でなく歌おうとか口では伝えることが一番大事とかいって、心の底からそう思っていたのか。歌うことが目的になって、歌えば伝わると大きな勘違いをしていた。でもそんなものはくそだと思った。ピアノとかサックスとかトランペットとか聞いていると、決してその楽器の良さとか大きい音で弾いているとか聞いているわけはなくて、その意志とか気持ちとかもっと大きな汗ばった何かを聞いているんだ。それで感動しているんだ。またぽたぽた流れる汗でなくて、じとーっとしてくる、にじんでくる汗とか、ほとばしる魂を聞いてるんだ。演るほうもそのつもりでやっているに違いない。
途中で音楽の聞き方として、外人とかは20才ぐらいまでに20年かけて、ここでやっているようなことを完成させているから、私たちは外人の20年分を考えて聴かなきゃいけないとおっしゃったのがすごい頭に残っている。そう考えると途方もないように感じる。
最初に言われたことばに、何回も来ることがよいわけじゃない、とおっしゃられて、どきっとした。今月遅れをとるまいと、とれる限りびっしり取ってしまい、自分の練習がおろそかになって、アテンダンスも追いつかない状態で焦っていた。そこへドカーンと見抜かれたようなことばがきて驚いた。その時はじめて自分を振り返ることができて、「焦り」に押しつぶされている自分に気づく。自分の中にあるレベルをもってやること、自分がどこにいて、どこに行けばいいかをわかってないとだめ。と言われ、すごい反省した。前回と同じ曲を使って、同じ課題をやった。2のクラスの人のを聞いたが、ことばを早口でいわなければいけないようなフレーズでもしっかりリズムに入り込んで聞いてて不快さを感じない人が一人いた。クラスでも前回一緒に授業を受けたときより、うまくなっていると感じた人がいた。フレーズのつくりと、リズムの速度感、あと何か分からないけれど、先生の言うように決してうまくないけど、続きを聞きたくなる歌、という感じだった。
最低の材料で最高をつくる。そのためには、自分を殺す、自分を出し切る。99%捨てて残りの1%にヒントがある。そのうまくなっていた人は、自分でリズムを体で作って、自分の歌のことをどうだすかを考えているようにみえた。私はどうも邪念が入って、発声のことなど気にしてしまう。自分を殺したことなんて、今まで一度もない。最初の時、学ぶ方がギリギリまでやって初めてアドバイスすることができる、といわれたのに、頭でわかってても実行できなかった。できなかったら、何が足りないのかを分かり、後は家でやる。といわれた。こういうことをしっかりやってきた人が一週間でこんな差がひらくのだと思う。仲間から学ぶ方が勉強になるから仲間の声にも集中する。と言われたその意味を実感した。
言っている意味は正直よく解らないけど出だしの部分、または前奏が始まれば一流の人たちは顔つきが違って見えることを思い出した。
弱超から、強拍をびしっととっていく。あまりその他のところは歌ってしまわない。見るところ。見せるところ。勝ちにいくところ。そして行く先を把握していること。そらさない。ベクトルの流れの中で。母音でつなげる。強弱は体で読み込みにいく。体でとったもの。オリジナル。ひびきでもりあげるのとちがう構成。Power、スピード。伝わるもの。Popsの要素。
声は伝わったものなら正しい。その歌の時代の空気を流す。歌や歌い手に抱きしめられること。けれど入り込んでしまわず自分のものを出す。ひびきはある程度統一できる。ことばに息を通わせる。何か一つでも“触れる”ものを読み込んでいく。。その時代の空気/きっかけ/音でもっていっているのか。心をとりにいく。その人間がやったもの。本物は非常にシンプルである。クリエイティブな心を刺激する本物の力。人よりよりやっている人がPowerを受けるもの=時代で残ってきたもの。
肉体の強化。強い声を求めても体が対応できなければ形が崩れてしまう。感覚を鍛える。。見えないもの、聞こえない音音の根っこ(歌唱法や声ではなく、もっと根元的なもの)。気がつかないうちに習得し、気付かないうちに発揮するもの)音楽とは立体的なもの。音の高低によるメロディに表せないもの。メロディ以外の動き。時間的、空間的。声が不足している?。では心で…。
結局、声を出しているときの体(筋肉)の動きを肉眼で確認することはできない。手足を動かすスポーツならばある程度視覚的にフォームのチェックを行い、それを実動作に反映していくことができる。良い結果(早く走る、豪速球を投げる)⇔正しいフォーム⇔正しい感覚発声の動作は感覚と結果を直接つなげていくしかない。良い結果(良い声、正確な音)⇔正しい感覚。当然「正しいフォーム」も「正しい肉体」も必要だが、直接矯正していくことはできない。何度も声をだして、良い結果のでたときの感覚を記憶する。そのパターンを肉体に登録する。つまり「悟る」。先は長いなぁ。
自分の中で考え方が変化したことは多いのですが、中でも「声」に関しては随分意識が変わりました。以前は素晴らしい声さえ手に入れば!と思っていました。もちろん今でも、美しく、すばらしい声が欲しいと思っていることに変わりはないのですが、声とは歌に必要なたくさんの要素のうちの一つにすぎないといことも理解できるようになりました。
そして今まで好きだった歌い手は、単にきれいな声だったから好きなわけではなく、その中にある表現に魅かれていたということも分かりました。だから、以前は「汚い声」というだけで片づけて、聞こうとしなかったミュージシャンの歌も、今では、積極的に聞きその素晴らしさもわかるようになってきました。
すごく静かな、素直な気持ちでトレーニングに臨むことができた。走り込みの成果で腰が安定してきた。背筋もシャンとしてきたみたいだ。ワンフレーズごとにしっかり注意して、身体の動きを実感した。三回くらい立ち眩みがした。(真剣にやった証明だ【まだ身体ができていない!!】)できるかぎり最大限の声を出した。もっと、もっと出せるはずだ!!
先生がすごく的確なアドバイスとリードをして下さった。ライブだった。すごくスリリングな一時間だった。細かい音選びは全然できなかった。まだまだだ。でも楽しかった。嬉しかった。少しではあったけど、自分の身体をとして何か別の声がわき出てくるのを感じた気がする。もっと感情をフレーズに繰り込みたい。・硬く歌ったり、やわらかく歌ったりも試してみよう。鮮やかな流れを描いたり、一言一言ぶつけるみたいにちぎってみたり・一息で数フレーズ続けてみたり。
自分や人の発声することばに気をつけたり、大切にすると、発したことばに責任を持つように(と言おうか、持たざるを得ないので)なり人との付き合い方(自分が)変わっていく。自分のことばを探すようになる。
身体を使って(腰を据えて)胸の奥から声を出す感覚がすごく実感できるようになった気がする。声を(無理に)押し出すのでなく、息が身体に入ってきた反動のようなリズムでボンとミートする感覚が解る気がする。息を吐ききるとしぜんに空気が入ってくる感覚も解り始めた。リズムをとらえてやるとより感じられる。サッチモやジョー・コッカーのように息を吐ききる。最後までしっかりと放さず。魚の形で吐いてみる。イイイイアアアア~を一息で速く動かす。難しい。くやしい。。できるようになる。する。歌っている気持ちを込めてフレージング。
人前に立っている気持ちを常に持っていよう。
初心者気分を捨てろ。初心者をいいわけにするな。
仕掛けろ、撃ち込め、受け身になるな。(生徒気分でいるな)
自分をへンな型にはめるな。もっとふくらませろ。自分の色にしろ。できる。(トレーニング通り忠実に歌え、とは誰も言っていない。)
常に見せる(魅せる)意識を持つ。そのための準備をおこたるな。まだまだ普通のことしかやっていないな。
聞き流すのなら何千曲聞いたところで意味がない。
歌い流すのなら何万曲歌っても何の意味もない。もっと歌の中に入れるように、感じられるようになろう。なる。自分の歌にする。自分のものにする。
若葉マークをちらつかせて、いかにも初心者ですよと言わんばかりの態度ではいけない。甘えを依頼心を捨てなければならない。なぜならここは教えてもらう場ではなく、自ら学ぶ場であり、相互啓発の場であるのだから、一人のアーティストとしての自覚を持ち続けなければならないということ。
歌は感じなければ歌えない。うまく歌うということがどういうことなのか考えてしまう。自分の心からでてくるものでなければ歌う意味もない。歌うということ自体伝えたいという思いに他ならないのだから。声の表情、フレーズの表情を計算しているようで計算していないように聴かせるにはやはり技術がなければ無理だ。自分の生の感情をそのまま歌で表現することはできても繰り返して歌うことはできないだろう。
自分の部屋でやっていることがいかに作られたもので嘘だらけだということ。自分の部屋ではできているのに本番では、人前ではできないということはやっぱり嘘で自分の部屋でもできていないということを痛感した。今出ているその声を聞かないで頭の中の理想の型を聞いていてはダメだ。オリジナルを創っていくのもそうかもしれないが、自分の歌、トレーニングを判断するのは悲しいほどに自分一人だけですることなのだ。だから厳しい基準を持つことが必要なんだ。
「ハイ」だけやっていればいいということではない。歌ってみて、自分のできないところをトレーニングすることが大事。歌ってみてそれをトレーニングに落とす作業。そのためにステージ実習があるんだということに初めて納得というか気づいたというかステージ実習の大事さ有益さに何だか頭が下がる思いになった。そうしないと発声のための声になったり、おかしな歌になったりする。それと同時に表現することを第一の目標としてやっているのだから、ただ単に声が良ければということはなく、本当にトータルでみなくてはならないのだ。
身ぶり手ぶり、表情。表現、歌のために足りないところを補い、そのためにトレーニングして、そのために時間のほとんどを割くということに対する情熱、執念、こだわり、それを一つのステージにねじ込んで、悩みに悩んで声を出す。練習で厳しく、悩み、自分に失望し、絶望しかけても、またトレーニングする。そしてそれをステージで考えもせず開放、放出、奇跡を起こす。これがステージに出る最低条件で、プロなら皆やっていることで、そんなこともしない自分の歌を金払って見ようなどという奇特な人はどこにもいない。同情なれ合い以外は。この条件の上にオリジナルをつくっていくこと。できなくてもそれが何か気づくことさえできたらと思った。
ヴォイスコントロールの技術や考え方にばかり気持ちがいき、頭で計算するようなことばかりしていた。もちろんトレーニング時はそれが必要なのだ。が、ある歌を聞き、それから受けた想いを持って自分はどう歌いたいのか歌ってみる。そして足りないものを知り、補う。「技術を備えたらいい歌が歌えるだろうか?」それは本末転倒だということ。
自分の最低限の音階までハイ・ララなどで下げていき、ひびきを実感する。そのひびきを失わぬよう身体でささえながら高音へ移していく。
腹回りを外側にふくらませつつ、息を吐くのが難しく硬く縮めてしまいがち。
息を吸いながらふくらます。息をはきながらふくらます。両方やってみるといいかも。
声をより深いところから出そうとするとこもってしまうようだ。
息を強く吐けるようになること。そして声と息のタイミングが合ってくれば、声が前に向かって出せるようになる。息はきをとにかくしっかりやる。
第一声をクリアに出すべき、という意味、理由が少しわかる気がした。アォイイォイラララを例にとると、やはり最初の音に後のことばメロディーが引っ張られてつながって流れる感じ。ジェットコースターか、長いフンをつけた金魚のようなイメージかな、と現在は考えている。ピアノのリズムにドンピシャで当てようとした。福島先生がリズムを打つ少し前から予想しつつ身体は動き始めている、ということばを思い出し、実践。バッティングセンターのマシンをイメージして腹の底からあらかじめ準備した息を胸板のあたりで声に当ててみた。
トレーナーの皆さんも語ることばをたくさん持っているなあと、よく感心させられるけれど、1つのものを、アーティスティックなものに換えるには、“例えば~”と言って、次から次へとイメージが広がっていく。ただ単に、歌詞を乗せても歌は歌だけれど、あんなにも深く、その曲に込められたメッセージをつかんで、それを覆線として歌に託す彼の歌は芸術の世界だと思った。歌詞を読み込むってどういうことか、自分の考えがまだまだ全然甘いことが浮き彫りになった。
レッスンで先生に“ウソ”と言われるのは当然だし、曲を聞いていないと言われるのは更に当然だと思った。よく、曲紹介で“~こんな歌です”と言うが、彼の言う“こんな”はとても具体的だ。現実に起こっている、人間社会での諸々のことを曲に重ねてイメージさせてくれる。
息を吐いてみる(曲ききながら)。一曲から多くを学べる。2年でどれだけ多くを体験しつかんでゆくか。1については、頭の声からすごい迫力があり、そのパワー(声の)に圧倒された。とても濃密な太くしっかりした声で、リズムもノッて歌っているということは気付いたことだった。しかし、これぐらいしかわからないことが問題。もっと聞き込んで、具体的にどこがすごいところなのかが、先生の様に分かるようにしてゆきたい。もっと自分の体に置き換えて、取り入れてみてゆかなくてはならない。2については、わかりやすかったせいか、すごさがわかった。
英語のことをよく理解していないといけない(発音アクセント等)というのも痛感。この歌はその力強さと感情のこもった歌で、目頭が熱くなってしまった。3については、子供でこれだけ歌えているのはすごいと改めて感じた。リズムに正確なのはもちろん、一曲の中での歌の動かし方、伴奏と合ったシャウトの仕方、声での表情の付け方などすごく一つの作品によくまとまっていると思った。
「太陽は~」
歌い続ける中、いろいろ考えてやりながらももう一つどこかでほんと抜けた瞬間があった。Bandがみえた。“演る”という感覚がライブできた。なのに体がのどが、どんどん落ちてゆく。パワーは出続けているのに遠ざかってゆくミーナの歌。それは入り込んでゆくことによってより具体的な距離がみえたのかもしれないと今思う。、
「あなたはいつでも笑顔で答える」を12個に聞こえないようにすること。
“心が聞こえるように表現することが人に伝わる”
子供から“お母さん”と叫ぶこと以下のことはやらないこと。上のは非常に重要なこと。特にそれ以下のことはやらないといっても“それ”がとても難しい大変なことであるので、まずその素直な原点に戻らなければならない。信頼とすがるような気持ちの中で、それがベースにあって心の底から溢れ出てしまうような“叫び。媚びることも、周囲を気にすることも何も考えず、障害になるものが全くない状況での“叫び"。結局、そこにたどり着いてしまう。
ピアフ
こういう話になると説得力がある。
ピアフの声について、以前“楽器のようだというお話があったが、今日意味が分かった気がする。それにピアフに「ちりめんビブラートをとって下さい」といってお願いしてもすぐにそのとぎすまされた声が一本芯になって我々の前に現れるだろうという風に思う。ピアフの表現は豊か。彫りも深みも広がりも大きさもすべて。ここまで技術も声も使いこなさないと、彼女の表現はできないのだなあと思った。ピアフの前には、自分がまっさらになって向いてしまう。相手の心にまっすぐに飛び込んでくる。やっぱり偉人です。
カルーソ
ふと思い出したことだが、イタリアの昔の名テノール、エンリーコ・カルーソーは、英語の歌詞を歌う時、一度イタリア語風に変えて(書き直して)それを元にして歌っていたそうである。加えて、そのことが書いてあった本によると、イタリア語は歌う(話す)のに最も無駄の無いことばだそうで、今回の授業でそれもそうなのかもしれないとふと感じた。ことばとして成立し得ない音のみの表現をつきつめていく。声のみで通用するものを考える。「表現の技術のみでつたわる部分」がり「つたえたいという意志のみで伝わる部分」がある。
スタンドバイミー
ベース音は1小節言うのが足りなくて失敗した。リズムとれているかどうかをチェックするのに、ベース音を口で言ってみることは、大変役に立つことがわかった。感じがつかめる人そうでない人がはっきり出る。つまり歌う以前に歌をきかくてもその人がどの程度歌えるのかがわかる気がした。
「太陽はひとりぼっち」
プロの声はするどく、つややかに私に向かってくる。とにかく少しでもそれに近いものを出そうとイメージしてやっているが、自分から出てくるものはなんともまあどんくさい。声を出すときの「構え」が違っている。こういう曲をまず、同じようにやってみると、足りないところだらけということと、埋めていくべき課題がたくさん見つかる。鋭く、つややかに、お客さんに向かって投げよう、という心ももちろん大切。でも心だけじゃ伝わらないからそれを伝えたい形で伝えられるように、基本トレーニングを続ける必要があるのだ。声をよく聞き何でもそうなのかをきく。そして歌へつなぐ。
Joe Turner
跳ねすぎず、ぶっきらぼうに言っているようで普通に聞こえるところ。棒歌いではなく、どっかにポイントを置いてある所。息を流しておいて、ポイントの音をおいている歌い方。体使えていないと跳ねてしまうのである。どこもとぎれていないにもかかわらずふくらみある感じ。そこに息つまっている。声そのものに音色ある所。などをきいてまなべるように。
Gladys Knight&thePips
体に力が入っている動きがわかりやすので、よく聞く。どこをふみこんではなしているか。線(一本の)の中心も揺れを作っている所。こんなに体の動きが聞こえてくるほど、それ以上によっぽど体の中に入れて動いて歌っているということがわかること。サビのことばがわかりやすい。曲の入り方、もっていき方。3.ジャクソン5からは、子供でこのリズム感と歌がうたえる実力があって今の音楽があるということ。キャリア30年から生まれてきているアーティスト性であることを学ぶ。
青空に住もう
「アモール・ノンピアンジェレ・ペルメ」日本語「アモール・泣いてはだめ」日本語だと均等に切れるのに対して、外国語は線を読み込んでゆく。カラダを使って外人が喋っているのを思い出してやってみる。ことばの中にリズムの強弱をとる。外国語の踏み込んで出すのをよく捉える。日本語は頭にくること多い。にぎるというのは落ちるところ、はなすというのははずむところのこと。これらのことは徐々にわかるようにしてゆく。
1「ア(モ)ーレ」〜きちっとカラダに入れて(意識して)やり、息をはくこと。「レ」とはっきり言わない。2「ノン(ピア)ンジェレ」~声の観を作る。親とは体の親であり、音の親でもある。線が止まってはいけない。転がらないといけない。あまりカタカナのイメージでとらえない。「ビィ」の「ィ」を意識しない。「レ」をハッキリ言わない。「ペルメ」の「メ」は伸ばさない。3「セクエスト(モン)ド」4「ノナッソ(リー)ジィ」「モン」「リィ」はアクセントがきて少し伸ばすとどこか早くなるところある。日本語の場合、どこかぼかしてうたった方が線が作れる。
「ノアの箱船」
ことばから入ると分かり易い材料。1「死んだ貝殻集めて船につめる(砂に埋める)水夫達」〜一つの線を体で捉えられるようにする。2「枯れた花と白い月、船を飾る」~言う前に呼吸の準備をしないといけない。「人という名の船、積んだ荷物は苦労だけ」〜アナウンサーの場合。だが、この場合1オクターブ以上になるので、一〇の感じの方がよい。○のところはスピード付けて言う。頭で作りすぎて引っ込んでは駄目。「ノアの箱船それは人生」51~4を順に音付けてみる。~1の前半は「ラ・ソ・ファ」にことばをのせて歌う。「ハイ・ハイ・ハイ」または「ラー・ラー・ラン」と同じように体で一つに捉えられるようにして歌う。2や3にある「と」にアクセントをとらない様にする。高く入らない様にする。なるだけストレートにするのだるが、音を単調にしないで、動かせる感覚が必要。3は「名の船」にアクセントくるのでそこは絶対はずさないで歌うようにする。大きく捉える。息で読む。ことばの読み込みをもっと行い、ことばに意識を入れられるように感覚を柔軟にしておくことが大事。
“太陽はひとりぼっち”
テンポのはやさに、意識がついていかなかった。アクセントで強く体を使うだけでせいいっぱい。でも、それ以上にちゃんとフレーズをつけてる人もいて、できる人にはできるんだ、と反省。何が足りない?もっと、息をしっかりよみこむこと?表面の中の内側の線をはっきりととらえられるように。勢いの強い"太陽はひとりぼっち”に比べると、かなり勢いをおさえ、きかせる方に重心をおいている“さよならも言わずに”が私には歌いにくく思えてしまった。結局、体をコントロールしきっていないから、音程差があるところで、いつの間にか体がはずれている。体がまだまだ使えていない。中音域で使えるくらいの体を低音域でも楽に使いこなせることが課題だ。
「男が女を愛するとき」
ベース音をきいてから、曲をきいたら、そのベース音がずっと流れているのがきけてすごく嬉しかった。上にメロディをのせたくなるベースを刻めるとよい。ガイドに楽譜があって安心して音を把握できたし、ジョニーエンジェルでコードをいってくれたので音をイメージしやすかった。どんな声、どのキーでと考えてしまった。ベースをコーラスすることはできるが、1人でStain By Meのベース音を作り出すとなると何の音で、どのキーでと考えると把握していないのですっかりわからなくなった。きいたままをそのままできるはずだ。新しく入った子たちの4分はリズム感がないのがわかった。自分のは8分が無意識にやったらずれてしまった。常に意識して練習を繰り返す必要を感じた。すごく得るものの多い授業でした。最後に皆で輪になってベース音で歌ったのがすごく良かった。思い切りやってもそれに重ねてくれるし、一緒に盛り上がってくれるのでいい方に回った気がする。「男が女を愛するとき」のソロベースをやったとき、慣れててうまいのに本人はあがって固くなっちゃってる子とかいたので井伊さんの笑顔は本当、リラックスして安心します。
メルセデス・ソーサ
集団的意識という歌はすごく異質だった。印象に残った。もとはRockの歌手の歌だと聞いてなんか納得した。サイケデリックな民謡(?)という感じでおもしろかった。
クリスコナー
本当にこうやって軽く歌っているように見えて実際はものすごい体があるからこそこういう風に歌えるのだと思う。
息の流れや声やリズム感、フレーズの動かし方、歌の背景等を学ぶ。声そのものの魅力がある(のびもつやも明るさなど)。余裕ある柔らかい歌になっていること。テンポが早いのに余裕をもって動かしている所、フレーズのふくらませ方が立体的な感じをつかむ。サビでの音を置いて、開放しているところ(音を置けないと開放できない)。伴奏とのからみで気持ちよくなる所。感情入れるがクールに歌って体の踏ん張りや動きをきわめていって結果的にそこはかとないものを表現しているところを聞き取る。世界の一流の歌をもっとたくさん聞いていろいろなことを学ばなくてはいけない。曲を深く聞き取れるようにする。もっと体や息の流れや声などを注意して聞くこと。一曲一曲新鮮な感覚でとらえるように(素直に)しないと得られないし、発見もないということ。黒人ヴォーカルのソウルフルな歌い方ということで皆一色にとらえては決していけない。自分には聞こえてくるものを判断する以前の姿勢のところで、そのような感覚を間違って持っていることに気付く。
「Flying Easy」
リズム感のすごさとそれを歌にあれだけ表現していることに大変驚いた。今まで知らなかったことが恥ずかしく思うほど、凄い歌手だと思った。ただ正確に難しいリズムで歌っているのではなく、しっかり歌を聞く人に届けようとする気持ちから、歌詞にメリハリがつけられたり、リズムのノリの良いところをもっとオーバーにやったり、効果的にやったり、伴奏との掛け合いで聞き所を作ったり、一つ一つのフレーズを詩の意味を最大限伝えるべくいろいろな動かし方をしたり等々しているのだと感じた。また歌(音楽)とは聞いて気持ちが良くならなければいけないので、そのためにはプレイヤーが気持ちよいところ、ツボなどをよく知っていて、それを体と感覚を使って表現しているのだということをとてもストレートに教えてくれた。
「Someday We'l AllBe Free」
歌詞の意味やその歌詞が出来た歴史的背景を詳しく説明していただいた上、曲を改めて聞いたり、フレーズの取り組みをしたりしたので、大変勉強になった。フレーズを学ぶために、その前にいろいろなことを知り、考え、詩の意味を深く理解することがいかに大切なことなのかを学んだ。表面的なことでなく、歌の心なり、本質的な部分を捉えなければいけない。
カルメン・マキ
私は大げさな人間なのでこんな書き方になってしまうが、「運命の出会いだ」と思った。感動した。ことばが音楽になってる。この、カルメン・マキの伝えたいこと、歌に込めた思い、そしその歌(詩)が音楽に乗って入ってきた。というか、音楽はとてもハードに鳴っているがそれよりも、ことばが、気持ちが、もうそれしか聞こえなかった。声もとても気持ちがいい。今まで福島先生も、いろいろな方法でことばをフレーズにするという説明をしてくれましたが、改めて“だから、ああいう説明だったのか”と何か理解し始めてきた。例えば、カルメン・マキの歌のフレーズで“(私の)(心の)(隙間に)(6月の(風が吹いても)”こんな感じで、フレーズに大きな()をつけてこの塊を1つにするという説明や、“ハイ"と言った後、“私の”と言うとか、ことばで“私の"と言った後、メロディーをつけるとか今までぜーんぜん理解してなかった。その意味が分かってなかった。でも、詩を読み込み、その歌での“(私の)(心の)"という感情はことばで何回も言わないと出てこないし、出てきたところに、力を加え、音程になる。高名先生の今日の説明でことばを強くすると言っていたのが先生は実践も交えてやってくれたので、凄くよくわかった。“歌おうとしない”という意味も、少しつかんできた。伝えたいと思う気持ちは、歌の中ではとても強い力が必要になるので、だからトレーニングがある、というアドヴァイスがとても身に染みた。
“Summertime”
曲が全く異なる雰囲気になっていて驚きました。フレーズ、'50年代のアメリカのポップス、暗い感じなど様々でした(一部歌詞も異なっていました)が、曲を通しての一貫性は、どのアーティストにもあり、独自の世界を造り上げていることを学びました。baby baby…と、ライブで同じことばを繰り返していましたが、自分の声を知り尽くしているのだと思いました。同じフレーズを積み重ねる練習を繰り返し行った成果であろうと思いました。
ロネッツ「Be my Baby」低いところから高いところまで胸でとり続けるということ感じた。ウオッウオッウオッウオッの部分。高いのだけれど深く、胸についていて、全然浮いていない。私がやったら深くとろうとするために押しつけた暗い、ベターッとした「ウオッ」になってしまうし、軽くしようとすると頭の方に響いてしまうだろうと思う。
マイケルジャクソン「I'll be There」とオーテイス「Try a little Tenderness」では、「空間」というものを聞きましたが、これはすごいと思いました。感動します。曲全体をつかんだうえで、空間を使える。普通に歌ったらここで入るという部分で、待てるのです。ほんの少しの間によって気持ちが伝わってきます。演奏があってそれに歌がのっかるのではなくヴォーカリストが歌を作り、リズムを創り、そして曲ができる。本当にすごいと思います。
「愛、さんさんと」
まずリズムをしっかり刻んだつもり。声がもたついていると思う。メロディーラインがとぎれてしまっているかもしれない。気持ちがしっかりと歌の中へ落ちていないあるいは歌が身体の中へ落ちきれない、入りきれない。自分自身が一番嫌う「技術に頼ろうとするような」歌になってき。きっと。短時間に歌を取り込まず、無難な、それらしいフレーズにまとめようとしているか?なにはともあれまだ頭で考えるレベルということか。身体が動いていないんだ。先生が言うようにとにかく歌い込むことだ。
「そして親父は」
何度か聞いて身になじんできた。(なれあいはいけない)どの辺まで深く聞けているか、というとまだうわっつらしか聞けてない。・1拍・3拍をしっかりとして、踏み込み、飛ばす(泳ぐ?)○つまりグッと引きつけ、ゆるやかに踊らせる(社交ダンス的←タンゴだ。)メリハリ、気持ちの抑揚○それは絶対に楽譜通り均等にいくものではない。・基本の型と試合・実践の違いを知れ!!詞を感じ、同化する。ことばを読む。1000回読めば100通りのフレーズが出る。それを10に絞った中から1つのフレーズを選び出せているか?〇フレーズのブレーンストーミングだ。サムネイルだ。そうか!!歌に自分をはめこまない。歌を自分のものにする。食って消化する。歌が自分自身になる。
あたりまえのことですが、曲によってきちんと彼女の世界が雰囲気としてでていて、声の色が違う。これはすごいことだと思う。私がやったらきっとただ曲が違うだけになてしまうだろう。「声の明るさ」の違いは、なんとなくわかるけれども、何がどう違うのか何度も言うことができません。聞きこみが、ぜんぜんできていないのだと思いました。実感として自分でとらえることができなければ、自分のものにならないものでしょう。また「息の流れ」のすごさにも驚きます。
「Don't it Rain」では息の回転がすごく、一緒にやってみるとどんどん遅れるし、ものすごく疲れました。
「Take My Hand ,Precious Road」は息がものすごく長く吐かれていて、私にはとうていできませんでした。苦しくなってしまいます。これも体にくる負担がすごくてこんな状態で何曲も歌えないだろうと思いました。「Walk on by face」も深いところから息が、声がでていること、またとらえていることを感じ、そのうえ盛り上がれるのはすごいと思います。
いつも思うのですが、ゴスペルやソウルなどを歌う女性は皆、すごく太い声をしていて、音質も似ているようですが、私もゴスペルやソウルを歌ってみたいと思うものの、もちろん私なりにですが、歌えるのかなという不安が起こります。できるでいないとかの問題ではないのですが、私なりのものがでてくる、だせるのだろうか…と。それから、今日の反省というか後悔ですが、もっと曲を体全体で感じる姿勢でなければと思いました。音楽に入ろうと、すわって聞いていただけだったし、すわりながらやってみても実感なんかでていないということです。音楽に入れるかという以前の問題でした。
Quick。Slow。Deep息がDeepではゆれやすい。声もゆれる。ごまかしがきかない。フレーズの最後とか。歌い手として使えない息はどこからなのか聞きわける。フルフルしはじめてしまうようなところはもうダメだということ。おなかに息をとらえられるということは、コントロール可ということ。前からみるだけでも胸に力が入ってしまっているかどうかわかる。、
Black Man
すごい速いリズムの中に、いろいろ遊びながら、でも気持ちのいいところで歌が入っていた。真似してみようとしたけど、できなかった。リズムに追いつくのが大変。軽すぎてしまう。深さがないから、メリハリがなく聞こえてしまう。これだけのものをこれから自分は身につけていかなくてはいけないんだなあと、しみじみと考えてしまい、技量の凄さを知った。
先生は自分に入ってないからできないというのではなく、自分で探すしかない。と言った。そうだ、と思った。嘆く前にとにかくやってみなくては。
“Isn't She Lovely”
感動した。ブラインドだけど、子供が産まれたとき、何もかも吹き飛んで本当に嬉しかったんだと思う。子供の顔を見ることができる人以上に喜んでいるようなすごい喜びがあふれていて、涙が出そうなくらいに感動した。ハーモニカの音色が愛しく感じた。
"Living for the City"
声の重さについてだったが、聞いていてつらいほどの重さはなく、リズムが気持ちよく入ってくる。先生がバーベルを持ち上げる感じの重さがあるとおっしゃったけど、まさにそのとおり重い。ポイントが一定一直線に流れるというか、Keepされつづけている。歌ってみると、難しいポジションを一定にしようとすると苦しそうに聞こえ、重苦しくて、リズム感が消えた。For the Cityのtyのときに、深くスティーヴィーワンダーは入っているのがわかったけど、それを意識してやろうとすると、リズム感が消えて、体、特に背中の上の方とか前の肩や首に力が入りまくっていたのに気づいた。抜こうと思っても、歌うと、どうしても力が入って最後まで抜いた感覚を得ることができなかった。自分の体の動きを意識することができたので、今度から抜いて、下の方のおなかを意識してやることにしよう。
「昔の恋うた〜わびしく」と転回しているのだが、昔のうた〜わびしくの間にどういった呼吸でおわり次へとつなげているのか、聞かなければいけないと思った。自分でやってみて形だけ真似たような結果になっていた。「昔のうた」でおわりではなく続くようなおわり方をしないと次の転回が不しぜんになってしまう。
仲代さんと生徒の読みの違い。「目に見えてもさわらせぬというのか」生徒の言い方は「さわらせぬ〜」の「わ」のところですっと息があがってしまって「ら」からまた言い直した。仲代さんはしっかりとにぎったままひとつのことばとして言い切っていた。表現するにはことばをひとつにとらえることが技術として必要だしそれができるからこそそのことばの裏にある感情を表現できるのだと思う。仲代さんは作品をどこまで深くよみこんでいるかが表現につながるといっていた。読み込みの時点で文章の奥にあるものをよみとるとも。今やろうとしていることと全く同じ事だと思う。頭でわかったからといって伝えられるものではないと思う。芝居も歌も表現したものを伝えるということにおいては全く同じだしこの表現するということは永遠の課題なのかもしれない。仲代さんは技術の面でひとつひとつの音を押しているというか息にしっかりとのった音になっていてぐーんと声が飛び出してくる感じがしたけど生徒の方は一音を押す力がないからことばになってものってこない。だからメリハリも感じられないしただ喋っているという感じになってしまうのだと思う。仲代さんが低い声で胸でとるようにさせその後生徒の声の高さに戻したら最初とは違ってなんとか一つのまとまりとして聞こえていた。芝居も歌も何度も同じことを表現するわけだからどうしたって技術が必要だ。そしてことばも繰り返し繰り返し読むことで自分の中にすべていれこんでゆくのだと思う。ステージの上では声もことばも意識せずただ表現のみに集中する。
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ステージ・ライブ実習感想
またしてもマイクの力に頼ってしまった部分が何カ所かあった。気持ちよいときほど危ない。何度やってもまたやってしまうのは困ったものだ。曲が自分の中でピンと来ないからかもしれないが、こんな風に歌っていいの?何が正解なの?そもそも、形が見えないなと歌いながら思ってしまった。ことばの語尾の処理にもう少し気を配ること。それをして助きを止めないこと。人を圧倒するほどに愉快に歌えなくて残念だ。私が歌うと、何とせかせか聞こえるのだろう。
この曲をゆったり歌うのにはまだまだ全然体の力が足りないのがわかる。英語の発音も難しかったが、S・ワンダーを観て、勉強になったので良かった。お腹から口まで開いていなければ、発音できないし、母音を腹で発音するかのような感覚が少しつかめた。同志がたくさんいたんだな。少し嬉しい。
自由曲は意識した訳では決してないが、引き技になってしまう選曲だった。いつも曲を選ぶときはちゃんと自分が唄いたいのを選んでいるが、今回は課題曲とは逆の意味でメチャクチャ難しかった。唯、いつも思っているように、話すように唄っただけで、西洋人のように深く胸について声になっていれば?もっと何かが伝わるものに出来たと思うし、あんな平面的なメロディーでメッセージを発信したボブ・ディランやトリビュート・コンサートで同曲を唄っているトレイシー・チャップマンは、あたりまえのことだけれど、本当にすごいと思う。「声がいいなあ」とか「唄が上手いなあ」とか、そんな部分的な感想を決して言わせないモノ。それをもう一回考え直せたという意味では、やって良かったという事にはなる。そして最初に、“引き技”と書いたが、課題曲をもう少しまともに出来ていれば相撲のセオリーではないけれど、一度思いっきりぶつかっておいてから引くという形になって、効果があったかもしれないが(こういう曲も唄なんですよというメッセージとして)、あんな出来ではただの敵前逃亡だった。
「インパクト」人それぞれ武器にしているものが違うと感じた。声のパワーでどんどん押してゆく人、表情、しぐさで表現を強調しようとしている人、人とは違う構成で引きつける人と様々だった。個人差はあっても皆挑んでくるという姿勢が見えていた。絶対にひかずどんなことがあっても常に前へ前へと出し続けてゆかなければあれだけ真剣な観客の視親に負けてしまう。声量があるからといってそれがよいインパクトになるとは限らない。課題曲を聞き自由曲も聞きたいと思わせるには一曲目にその人らしさがみられないとだめなのだと思う。
一つの曲を自分のものとして歌っている人はわかる。歌うことに対して余裕が見られる。それはゆるんだものではなくきちっと張りつめたものがあり、その上にその人の自信らしきものがみえるから余裕となって客を安心させるのだろう。声のパワーを手に入れてそれをただそのまま使うだけでは「声量がある」という印象は残るけれどその人の歌への思いとか伝えたいという思いはどこかにそれていってしまう気がした。ことばや声に自分の思いをすべてこめているからこそ伝わってゆくのだと思う。ステージというのは恐ろしいものがある。とにかく前へ前へ出てゆかないと崖から落ちてしまうような感覚。今私があのステージに立ったとしたらあの空気にのまれてしまうかもしれない。いろんなタイプの人がいたが、自分が評価している要素が私の中にも確実にあると思う。
一人一ステージ。よい意味でひとくくりにできないばらばらさがあったと思います。見ていた順に思いつくままに。それなりに続けてきた人は凡庸になろうともぎりぎり踏みはずさないやっとのところでも。ぎりぎりOKだなと言った仲代さんのことばのように、ラインをたぐり乱れながらものせてくる。自分の中のリズムを取り出しながら一般化してゆくことを知ってやろうとする。ただはめどころが固定され、安全圏や、踏みしめられて歩きやすくなった(自分で踏んだ)コースをたどる時、緊張感が薄れて形に向かってひびきが固定されてゆく。本当のところ?つかみ所のない広がりの予想を裏切るひびき。安全圏手慣れた失敗のない範囲。定型フォームに近い予想範囲内のひびき。本当であっても、届かないと動きを生まない。フレーズの途中で逃げてはいけない。自分の中の逃げたさから、歌の鼓動を勇気を持って守る。一瞬のことではあるが、歌全体の格が決まってしまう大切なことだと思う。まっすぐなものは伝わる。たくまざるまっすぐ。客が重い。客を引きずっても行こうとする歌い手。足を離陸させようとする。はずみさえついてしまえばこの重さは推進力になれるのに。縄跳びの縄はだらりと客席の中に垂れたまま。後ろ隅で、私は縄の端を勝手に手にとり、うんたうんたとのってみるが。歌い手は歌と客から逃げない。うねりは歌い手と歌の対話になっても不思議ではないのに、あきらめない。ジェット機は飛ぶ。届くものときちんとはまっているものは、イコールではない。見事な技術も、そこに本人の注意がはらわれ、誇りの中心とされると、ガラスケースに入る。客席で聞いている一人が、歌い手を突き抜けて曲と対話しはじめて揺れている。そこで心で聞いている人の背中からの方が伝わる。腹の底までさわる。腹の底にはずませて放す。まなざしがななめに逃がす。目がはずれる。自分もやっている気がする。客を求めるとき、社交辞令のように距離を保って何の結果を求めているのか。歌に程々も手加減もない。行きすぎることはないが…行き過ぎるというのはベクトルの方向だろう。まっすぐに自分から取り出されたものだけが、まっすぐにのびてゆけるのかもしれない。ラインを平行に保とうとするとコーナーがなくなる。うねらない上手なフォーム。決まっているのだろうと思えるもの。こんなに大きくても動かせないもの。、
今日の客はほとんどみんなわかっていた。拍手が表す。繰り返しのテンションは歌い手の心地よさだけでは保てない。聞き手として歌ってしまっている。歌い手がいなくなる。訳がわからないのに逃がしてくれなかった歌い手と歌うことを愛する歌い手。思いだそうとしなくても浮かんでくる二人。今日は反省はしない。歌い手としてなら何も言えなくなる程遠いから。客として金を払って参加した。あの場を客という立場から高めたいと、目と耳と心をこらして聞いた。一方では楽しんだ部分も持てた。ばらばらの可能性が乱数のようにちらばっていた。どちらへころがるか(ダメになるか、抜けてゆくのか)わからないものがいくつもあったように思う。平凡の中にも乱れの中にも。可もなく不可もなくと言うことばを否定的でなくて、使えるのではないかと思った。期待も失望もいらない。素のままの過程。厳しく正解もない深く果てのない世界の中の一瞬の中のまたほんの一瞬。ただそれだけの時間。また一番思い通りにならず、見えず聞けない“自分”との毎日に戻る。-自分自身のためにはなりました。おもしろかったです。-ありがとうございました。、
オリジナリティというものを意識した結果、自分なりのフレーズを持つということに気がいくのだが、なんだかそれがわざとらしくなることが多い。オリジナルのフレーズをもとうとした時、それを実現するだけの声がないから、他人と差をつけるために曲調にアレンジを加えることで、オリジナリティが出せたと錯覚してしまうのではないだろうか。少なくとも私はそうであると気付いた。しかもそのアレンジが、自分が歌いこむ上で生まれたものではなく、どこかで聞いた他の歌手の歌い回しを盗んで切り貼りしたようなものだから、底の部分だけ代わり物であり、わざとらしく聞こえるのだ。
以前TVで、松崎しげるがF.シナトラの魅力について「メロディーを崩さず、譜面どおりに歌ってくれる」と話していた。それでもシナトラの歌は誰にも真似できない。オリジナリティと、メロディにアレンジを加えることとはイコールではない。その曲を大いに理解し、今まで培ってきたセンスや、経験、しぜんとわく感情etc.自分にしかないエッセンスを加えた結果、しぜんと生まれてくる物がオリジナリティなのではないか?と感じている。ただ、これを実現することは非常に難しい。理想と現実のギャップをもどかしく思う。
歌い手の心の中で起きている自意識が、せめぎあいが見て取れて、いたたまれない。少なくとも本人が音楽に入り込んでいることが最低条件だと思う。出だしの1フレーズが本当に丁寧で、心がこもっていて、立派だと思う。出だしは、自分にとって大きな課題だけに、この出だしを実現するためにどれだけの努力があったのか想像が出来る。頭が下がる。グルーブはただノルことではなく、こんなにも頑張って産み出すものと知る。気持ちの良さはそのご褒美だ。もし80%の力で歌うのなら、その意味が欲しい。
課題曲だから歌うというのではなく、どんな曲であれその人と曲が感応し合う箇所がどこかあるはずで、それを教えて欲しい。そこを力一杯じゃなく、80%で歌うことによって、そこがより良くなると、少なくとも本人は感じているという事を観せて欲しい。ある特定の歌詞を歌うときの息の深さが、そのことばこそ、その曲のKEY WORDであることを感じさせてくれる。そのことばによって、歌い手の心と曲が深く結びついていることがわかる。その人にとってその時点で出来る限りの最大の構成だったんじゃないかと想像される。「よくがんばったな」という感じ。
音楽の出方は一定ではない。光り方も一定ではない。歌い手の気持ちとうまくよりそって、ぐんぐん温度を増すときもあれば、しゅるしゅると収束してしまうこともある。これを完全にコントロールできたら素晴らしいのだろうが、簡単なことではない。もし、途中までうまくいっていたとしても、どこかで音楽が逃げていくのを感じたら、すぐに自分の方向を考え直すべきだ。いつまでも過去の(直前までの)感触にすがってはいけない。ズルズルになって、結局構成が失われてしまう。今、今、今を瞬時に感じていくことの難しさ。でもそれをしないと、前へ進む力がだんだん弱ってくる。
1.マイクを武器として使う、うまく使うリハーサルのときにいろいろ試してチェックする。自分のスピーカーから出てくる声をよく聞きながら歌うことを気をつける。マイクを近づけた方がよく聞こえる。少し話した方がよく聞こえる。声がゆれていないか、マイクを揺らしてるから、ゆれて聞こえる声のノイズ。低音をよく聞かせるために口に近づける。などいろいろある。2.気持ちが盛り上がるとキーが上がる-スピーカーからの声に耳を傾ける。
1.ことばの練り込み不足2.声ことばにねばりがない一体で楽にさせている。3.細かい部分、語尾、出だしなどが雑。ただ出しているだけ、もっと丁寧に練り込む。4息が不足。出したいところで出てこない。5.プロのステージとしての魅せ方を考える-余計な動き、無意味な動きが多い。6.息が充分に声になっていない。息もれ。7.浮ついた声にならないためにはことばの練り込みが大切だ。このとき、体の負担がある。8.何が出したかったのかというビジョンが不明確。だから何を歌ってもいいということであり、逆に言うと歌わなくてもいいということになる。9.声に嘘がある。いい声をつくって出そうとしている。今は根を深くするときだ。ガマンガマン。10.体の奥深くから出る、体にひびく声ではない。ひびきかたが単純すぎる、単調すぎる感じがする。
こういう曲は、声のポジショニング、集中力、声の力の問題としてトレーニングする。流れ、展開を感じること。入りのポジションのキープ大切。次に入るために切っていくことも大切。基本は元に戻れること。(呼吸)聞き手のイマジネーションに働きかけ大切。スピード、角度、方向性を示せること。<リズムの取り方のトレーニング>1.踏み込み易いことば(ex.ダガヤバなど)で13拍目を感じて、メロディに合わせて歌う。こういう音楽は均等ににラララとかなってはダメ。早く遅くとか速度を変えてやってみる。アフタービートの所をどう伸ばすかを工夫してみる。こういうトレーニングしておくと聞き方が変わっていく。
音楽に反応できないといけない。自分の体を自由に動かせること。リズムに声あてていけるのは最低の基準である。入れると動いてる。2.サビをことばで言ってみる。フレーズをつくる(息が入っていること)。心と体を意識的に入れなくてはいけない。何回もやって動いた所(伝わるところ)に気付くこと。頭で入ってはダメで、何通りものパターンがあって、それを出せること(選んで)。心と体をしぜんな動きでやること。接点をみつけること。オリジナルフレーズへとつながる。与えられた課題に入れること。一行ももたなければ一曲は無理。まずは100%出すことからスタートする。この曲は何がおもしろいのか、から入ること。3.音つけてまわす。
1.「ダ」でやってみる、バシっと決まらなかった。アフタービートの動きがつけられなかった。呼吸がしっかり取れていなかった。メロディを気にしすぎて、リズムにノレてできなかった。2.棒読みはしなかったが、まだフレーズ感が弱い。体にもっと入れなくては動きが出ないと思った。パターンが自分の中に少ししかないような気がした。読み込みが不足。そして一番合っていて決まるフレーズを出せるようにしていく。3.この曲のおもしろさは、リズム感がとても動きのあるところだと自分なりに解釈。リズムにノッて聞いていると、横になった「8の字」を描きながら踊りたくなるのに気付く。特に裏拍のアコーデイオンの音が自分にはとても気持ちよく感じた。音をつけて歌ったところ、まだことばに負けているというか、早口ことばになってしまい、自分の意志で動かした感じがしなかった。流れになっていなかった。ポジションをキープできていない。
踊って歌ったが、心も本当に入り切れてやれていなかった。歌が前に出ていない。緊張して固くなっていた。もっとリズムに慣れてリラックスした心で歌いたい。今日のレッスンでは「遊ばせる」ということばが気になった。「遊びの気持ち・心」そこから生まれる自由な動き、自由な感性、イマジネーションのふくらみが、聞き手の心に伝わる源となりえるということだと思う。マニュアルにとらわれないで、トレーニングするということも大切だということかもしれない。また、フレーズとして自分から出すことば声にも遊ばせてあげる必要もある(まるで自分の分身・子供のよう(?))ということかもしれない。確かに「動かす」と固く考えがちなことも、「遊ばせる」の方が、意味はよくわからなくてもとらえやすいような感じがする。
お客さんと目を合わせない、というのは、お客さんとの間を閉じている、ということ。曲の中で理由があって…しぜんに「目を閉じる」のはもちろん何も思わない。本当は開けていたいのに何かの理由でできないのだれば、それはもうドボン!と頭までつかるしかない。たとえ、目を白黒させても、ひきつっても、どんなにおそろしくてもとにかく一回ドボン!しないと駄目なんだ、きっと。なぜなら、その一曲の中でお客との間を新たに創り出そうという気持ちなどないと、全く反対の方に誤解されてしまう。目を開けて微笑んでこっちを見てくれたら、全く違ってくる。動き出す、何かがうごめく。生き始める。お客と歌い手とでつくる新しい生命が。そうか歌とは新しい生命をお客と歌い手で創り出すことか!歌い手が投げかけてくる、投げかけられて何かを感じたその瞬間でその歌い手と対する。それはどうしたって歌い手に伝わる。伝わったところから、その場その一瞬での他のどのときにもあり得ないその一瞬がまたお客に投げかけられる。両者のコミュニケーションで成り立つ。お客は投げかけ、投げつけられることを待ってる。キャッチボールか。だからまずなげなきゃいけないんだけ。これが生。CDじゃない。生身の人間同志。聞き手になって自分との間を創って!創って欲しい!とはっきり思えた。目を閉じるのは、ある意味でお客との間を閉じること。見て!見て!私はここにいる。どこに歌っているのコミュニケーションとりたい!でも、これは今日歌った人があるレベルまで歌い込んでいたから他のことがあまり気にならずに、ここに目がいったのだろう。まず、そこまで自分の場合はいかなきゃ駄目だ。でも、いや、いつでもなのかもしれない。どんなレベルでもだ。大事なこと。少なくとも、こう意識してやったことは今までなかったのだから。
先生に言われた通り、力ずくでくせに逃げ込んでしまったこと。結局何一つできていない。声なんか出たってしょうがない。声量でなくて、息の量、深さ、流れが大事でそれに声、歌がのっかっているだけなんだと思う。先生が言っている“まとめようとしないこと”と“純化すること”というのは同じ事を言っているのかもと思った。小さくまとまらないように器を広げていくという事と、いらないものをどんどんなくして純化することというのは一見矛盾しているようだが、つめこめるだけつめこんでその袋をぶんぶん振り回してやると、いらないものが落ちて、否が応でも大事なものが残っていくということなのだと思った。それを持てるかどうかというのも大切だ。
私は今まで“表現する"=“感情を露にする”=“一人よがりになる”“見苦しい”という見方しか出来なかった。今日、福島先生のコメントで感情を出しすぎると、自分にまとわりついてくるから、これを技術で離して、前に出していくのだというようなものがあった。
伝える力のある人にはこれが備わっているのだろう。恥ずかしいからと感情を押し殺す方向へ行こうとしている自分は完全に間違いであったと気付いた。出すものもないのに、前に出て行くはずはないのだから。
フリートークは、歌から比べたらウソではない。
1.自分のこと、自分のことば
2.朗読は他人の作品を読み込み自分の音声を入れてゆく。ここは、音声で表現する舞台である。ステージ実習は音を付けてゆく。
3.自由曲を選ぶことのむずかしさにつきあたる。
4.音がつく。
ライブ実習。1~4への課題の中進むほど本当のことを出そうとすると大変になる。本当のことを出そうとしなければ、逆にどんどん楽になってゆく。自分のことをきちっと見つめることが(1)でほとんどの人が終わってしまう。
“客のベテラン”ではなく、いかに音楽と出会ってきたかということである。100人中10人もいない(?)。出会ってこなかったことのフォローは、レッスンでやっていく。自分自身に対して自分自身でシステムを活用する。自分を見つめるところに戻る。
レッスンが進行するのではいけない。教わることをプログラム化してはいけない。わかったつもりが一番いけない。わかったつもりになっていても。できていないということはわかっていない。気迫と、自分自身をどうつかんでいるか、でしかステージは乗り切れない。そのためには“何か”がわかってここに来た。今ここにいる。この“何か”を生かしてゆかないとだめになる。
それをおさえていないということは、たまたま道に来たタクシーに乗っただけになってしまう。自分の行く先がわかっていないと動かない。どこへも行けない。自分が正しく自分を知らなくてはいけない。ただ、わからないならわからないままやってゆけばよい。自分でわかるわかってゆくためにやっている。自分で分かったことは他の何かに似たりしない。自分で対話する。コンスタントにやる。応用してゆく。自分で状況を活かす。体の動かし方なども結果がよく出ていればOK。
“ハイ"だけすごくても何にもならない。人に伝える努力が大切。音楽的要素も、基本として役立てればよい。ベースの力にする。自分で自分に限界をもうけてしまってはもう終わり。そこまでになってしまう。一流の音楽家の言うことは耳を傾ける。見ている人は見ている。アーティストが売れるということはやはり付加価値をちゃんと持っている。続けることも才能である。その人達の体の中で何がおこっているかを読む。自分で分かったことはできることできていないことはわかっていないこと。自分でわかったこと以外はわかっていないこと。歌と一緒で、読み込んでオリジナルの“わかった”にしなくてはならない。“本当にわかる”ために、自分で“きづいたこと”“わかること”をへ練り上げるのが練習で努力。たりないからわからない。できない。あたりまえで、たった一つの道。たりていない。、
今日やったところはサビということもあったが、歌は結局「ピークを見せる」ものだと最近思う。自分の練習での課題も、モロにそうで、いかに一番盛り上げたいところを盛り上がりのピークとして聞かせられるか。
気付いてきたのは、ステージ実習の課題曲を歌ってきて、課題曲というのは、今まで歌ったことのない曲ばかり。自分で選ぶ曲というのは、ある程度選んでいるときに思い入れや気持ちが込められているから、聴かせどころが自分の個性と合うところにあるので、少しは自分のものになりやすい場合がある。が、課題曲をやってきていると、“なんてウソつきなのかしら私”と、すべてがガラガラと崩れてくる。でも、それを続けていくことで、自分の声や、自分のフレーズ、ことばを改めて考えるようになる。勉強するなら、やはり、こういう形で未知なところに入っていかないと、全然身にならないんだなとつくづく思う。これで、好きな歌ばかり歌っていたら、何も気付かなかっただろう。
99%を捨てて1%のいいところを残し、生かしていく。落とす。ハイ。にも音色を生じさせる。感覚に音色をとらえようとしない。一音目でオリジナルの声をとらえてゆかないとオリジナルフレーズは出せない。一つの始点で始める。動かしすぎても自分の中で作りものになる。集中力/体力/気力で出せていくもの一出てゆかなければ放つところまえに100%行かない。こびてはいけない。重いが込もりすぎて、大きく作っても通用しない。大きくつかめなかったら捨ててしまうくらいの厳しい判断を。計算間違い計算するほど間違う。わからなくなる。(読み込みを感じるまでは?)丸見えのものもだめ。たくさんやってみて選んでいく。自分の中で厳しい基準を持つ。抱え込む。あれもこれもで両手からこぼれての中に残ったものも不安定な状態になる。捨てる。コントロールまですてる。フランスパンをバリバリ手でちぎるような断面。ベクトルのみの声。立ち上がりも終わりも雑なので、結局大きかろうが何しようが方向性が見えない。見えたとしても音声表現としては何も伝わらない。ヒステリーをおこしてまわりの人間の迷惑も考えずにわめきちらすだけみたいなもの。かといって余分なものを捨て、テンションをあげて出せるところ。ここから先に予期せぬことがおこるところ。まで行かなくては絶対に出ないのだから。“フルバワーでちゃんときめ細かくコントロール”するという単純なこと。単純だから難しい。言われて気づいたが、自分が声を出そうとするときの体の準備が全くできていなかった。フレーズのことを考えているうちにこうした基本的なことができなくなっていた。いや、こういうことはすでに無意識のうちにできるよう体に覚えこませていなければならなかったのだ。未だにこうした基本中の基本ができていない自分に腹が立った。また頭で計算するとやはり体が動かない。これを自己トレーニングの中で頭の中で考えなくても体がしぜんに動いてくるように練習しなければならない。まず一曲の中の一フレーズを完全に自分のオリジナルフレーズにすることから始めてみようと思った。こう思うことさえかなり遅いことなのだが。、
聞いていいと思う曲、好きな曲と歌える曲、歌って良い曲、ちゃんとわかること。色としては、合わなくてもある程度自分の土俵に引き込んで色を移していくことができるが、できもしないもの、体の呼吸のリズムと合わないものを選ばない。自分の曲と創唱の歌い手の歌った歌そしてスタンダードナンバーとの位置関係をとらえる。ただのマネにしない。オリジナルの声(オリジナルの呼吸)でオリジナルのフレーズを出していく。意志やベースの部分からはなれられないでいくと歌にならない。そこから音が動くところ/その状態にいかなくてはいけない。オリジナルの声でくせなどとの区別。同じにしておいていいものと悪いところをわかっておく。自分のリズム/音感/ことばをスルーさせることによってオリジナルに。そこをスルーさせてさらに音を動かして出ていくようにしなくてはいけない。ずれや距離も計算したら、計算したところまでしか行かない。計算しない。思わぬファインプレー。これを常に取り出せるようにするのがプロ。ファインプレーを出す状況までの感覚に対する本能のようなものを身につけていく。意志に支配されたり計算することは動きを止める。but計算しないで偶然出た“うごき”は安定しないのでフラフラしてしまう。ビークに向かっていく感覚を身につけてしまうこと。“一度死ぬ”にしてもピークまで行かなくては死にきれない。ピークまでいく道の外側に生まれてくるのが“うごき”である。“うごいてしまった”に近いもの。“音”というものの特性。表現。音をとってゆこうとしたとたんに死んでしまうもの。フルで玉砕覚悟でやらないとその道筋の外側ににじみ出、生まれ出ないもの。自由になるためにはオリジナルな声できちんととっていく。自分の“コイル”の道すがら音をおいていく。曲を選ぶとき合っていないのは。歌い手に合っていない以外には処理が間違っている。人前でやることはだらだらしてはいけない。退屈させるかさせないかの差がプロ・アマの差、テンションの低い状態からは決して取り出せない。精神的はいり込み以外でも技術的に非常に高いテンションによるコントロールが必要とされそれで、勝負する力もある。、
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アドライブ。まず、3人の皆さんに共通して思ったのは、声が太いということ。ポジションの深さ(低さ)高低差を感じさせない点が印象的だった。パッと耳に飛び込んでくる声のイメージとして、「低」「太」という感じで、声としての存在感が大きかった。稚拙な子供っぽさのない大人っぽいところがよかった。練られた声とは、こういうものかとおもった。
ステージ実習などのコメントで先生のおっしゃる「熱」とか「自分を前に出す」ということばの意味の一端が垣間見えるようなステージだった。その場で発信されているものは、具体的には歌なのだけれど、それを発信するまでのプロセスの深さ、幅広さ、そしてその量そんな並々ならぬものが、ひしひしと伝わってきて結果としてステージという一つの世界を作り出していることにとても感動した。この前のオープンライブ実習の時、先生がおっしゃった「プロセスが見える」とはこのことなのだろうか。
彼女だけ歌に入っているのか。彼女だけより歌を理解してその中に入り込めているだけなのだろうか。他の2人よりも。何かそれ以外の要因があるように思えてきてしまう。具体的に何かと言われてもよくわからないが、何か歌とか声とかそういうことになる前のその人の気迫とか度胸とかそういう内面的なもののような気がする。また、歌を聞いているときに、その歌を通じてイメージが広がり気持ちが良くなった瞬間があった。そのイメージはその歌の世界の中のものである場合もあるが、自分の中のイメージの世界のものである場合もあった。ちょうど歌というものを通して、歌い手の人と会話をしているという感じだ。これは歌い手にとっても聞き手にとっても気持ちのいいことだ。また歌い手の狙い通りという気もする。理想は歌の世界に聞いている者を連れていくという事なのだろうか。具体的にはどうすればいいのだろうか。前記したが、その歌に入り込んで浸りきるということなのだろうか。しかし、浸りきるというのも容易なことではない。さらに進んでその歌そのものの世界に生きてしまうと言うこともこの先あるのだろうか。
ここにくるまで歌うということがこんなにも体を動かすことと関係があるとは思っていなかった。そもそも歌うということが肉体芸術だとか、体は楽器だなどという考えはもったことがなかったもの。でもそういうものだからこそ歌うことによって自分が生きているということを実感できるのだと思う。自分が長い間スポーツをやってきたことはとても役立っているのか今はよくわからないのだが、体を動かすことが苦もなくしぜんにできるということは体をつくっていくうえでいいことだと思っている。
スポーツの中であらゆる体の動きを経験してきたから自分の体がしぜんと覚えていることがたくさんある。私の意志ではなく体が勝手に動いてくれる。歌うということでは私の体はまだ身についていないし、一晩寝たら忘れているだろう。繰り返すことでしか身についていかないと思うから、毎日教え込んでいかなくてはいけない。こういうことを考えていると自分の肉体は自分のものなんだけど自分のものではないという気になってくるから不思議だ。瞑想の世界かなんかで、自分のなかの意識がもうひとりの自分をじっと見守っているというような状態だろうか。柔軟性ということで、最近体の内側から感じるものがある。もともと体はやわらかかったのだがその柔軟性とは違い、手足の先や顔が内側からやわらかくなっているという感覚がある。細胞の一つひとつに酸素がいきとどいているような感じでこの体の変化を不思議な気持ちでみつめている。
その声には意志がある。声自体に意志がある。声がことばにまだなっていないのに何か感じる。例えば「ウォー!」と一声上げただけで、何か言っているように感じる、聞ここえる。他の2人にはそれはなかった。僕以外の聴衆もそう感じているのだろうか。なぜそう聞こえるのだろうか。声自体が生き物のようだ。福島先生の言うように、結局人間のからだで何かをおこしているはずなのだろうが、ぼくにはわかりません。そこに息、息吹からだがあると言っているが、僕が感じたものは息、息吹だったのだろうか。それでは、そうだとして、何故他の2人には感じなかったのだろうか。ぼくに感性がないのか(これは原因の一つだと思う)でもそれもひとつの原因には違いないが、それが全てではないと思う。他の2人には声に意志が感じられなかった。声自体が生き物のように感情を持って何かを言ってるように思えなかった。この2人に息、息吹を感じることがでいなかっただけなのだろうか。わからない。前からずっとわからなかった。前からずっとわかりいと思っている。でもわからない。とことん追求してみたいテーマだ。結局ただの息だけだったりして。
広い世界にはもっと凄いのがいるのだろうか。きっといるのだろう。世界の一流ともなると、声だけで聴衆を酔わすことができるんじゃないのだろうかと思ってしまう。生の声だけで聴衆を酔わすぐらいのレベルにいる人はマイクを使って、ことばになって、歌になって、伴奏もあって、なんてことになったら、聞き取りにいろいろなものを伝えることぐらい簡単なのだろうか。いや、奥に行けば行くだけ奥行きを感じるものなのだろうから、そこまで行った人にはその人なりの感じかたがあるのだろう。歌と対話をする必要があると感じた。歌いながら歌と会話をする。何となくこんなことが頭に浮かんできたが、要するに歌の中に入り込むということなのだろう。
このヴォーカルの声はかなり高いと思ったが、外国の歌手は性別に関係なく、さまざまな音色をもっている。日本は性別で枠をつくることによって人間の可能性を閉ざしてしまっていると思う。「女らしさ」「男らしさ」なんてことばをいつまでも大事にしている。そういうものを超えた世界で生きるには、性別を超えた人間の大きさをもっていかなければいけない(女を忘れるということではない)。この国では、あらゆる行動が性別で判断されかねない。枠をつくるということは枠の中にいたい人にとっては都合のいい世界だ。枠の中にいたくない人間にとっては闘い。柵の外を見るには柵の外に出るしかない。柵の中からじゃ本当の柵の外の世界をみることはできない。歌っていくということはいろんんことを考えさせられる、というより考えざるを得ない。それは、あるときは苦しみであり、あるときは喜びでもある。結局、離れられないということだ。本物の集団は何てひとりひとりが輝いているのだろうか。
日本のバンドのようにヴォーカル以外の人たちが目立たないというのではなく皆、強烈に自分をアピールしている。そして誰ひとりとして埋もれることはない。それは、それぞれが自分の世界をもっているからだ。自分の能力をどこまでも追求した者たちが一つのものをつくる。もちろん日本だってそういう人はたくさんいるだろうけど、パワーの差は認めなくてはいけない。その差というのは何か一つを究めていくというエネルギーの差ではないだろうか。歌うことと生きることに境界線のない人がつくりだすものには、凄味を感じる。手を合わせて拝みたくなってしまうような心境になる。なかなかできることじゃないとわかるから凄いと思うのだ。楽器の音も声の音も段々、同じように聞ここえてくる。それぞれがとても高いテンションで、渦を巻いていく。音というものは人の心を酔わせてくれる。音の中に入っていけばいくほど、気持ちよくなっていく。たぶん、人間の本能の血が騒ぐのかもしれない。
日本にいると音というものに鈍感になってしまうのだろうか。私は今まで音楽を音として聞くより、詞やメロディで聞くことの方がずっと多かった。私以外の日本人も似たりよったりだと思うが、どうだろうか。彼らは自分たちが最高に楽しむことで多くの人を楽しませると言っていた。そりゃそうだ、楽しんでない人のステージなぞみていてつまらないもの。こういう人はステージをおりても人生を楽しんでいると思う。人生を心の底から楽しめるという人はなかなかいない。自分の好きなことをやっている者にとっては、人からみたらつらそうでも、本人はとても楽しいものなのだ。自分の心に嘘がないからしぜんなままの自分でいられる。そういう心をもっていればステージの上は最高に楽しいものとなるだろう。ステージというものは人間の心がつくりあげていくものなんだなと痛感する。心と心の触れ合いがいろんなステージとなる。ことばを交わすわけではないけれどお互いの気持ちが通じ合う。心のないステージはただの見せ物に過ぎない。ステージにあがるには、一期一会の気持ちで望まなければいけないと思う。そこの時の時間も空間も出会う人もそして自分も、その場限りのものだから。「一期一会」を大切にしよう。
「耳がない」今回もそう感じた。一番最初に歌っていた女性がサビの部分を歌ったとき、観客がものすごく盛り上がっていたけれど、私は「なんで。」という思いしかもてなかった。「かわいらしい人だな」というぐらいにしかみえない。その人間の魅力みたいなものを感じても歌のこと、声のことがよくわからない。
クラウディオ・ビルラはあの声を聞けばものすごいはりと伸び、呼吸の長さに驚かされる。耳がないということは認めた上で書いていかないと何も書けなくなりそうなので、ひとまずおいておいて書くことにする。ステージの上と下をみていたら、その態度が逆じゃなかろうかという感じがした。ステージの上の歌手はまるで歌わせてもらっているという感じで、客席の人々は聞いてやるという態度だった。言い方を変えれば客が皆、堂々としているといったらいいのか。ヴォーカルは皆、素朴で「私、歌を歌いたいの!」という顔をしていてみていて心があったかくなった。歌ってそんなに肩に力入れて歌うものじゃない。「歌が好きだ」とか「この歌を聞いて」とか「私をみて」とか本当にシンプルな思いがみている者に伝わっていくんじゃないだろうか。この人、歌が好きなんだろうかとか本当に歌いたいのだろうかと、みている人に思わせるような歌は歌ってはいけない。その表情にも体から出るエネルギーにも滲み出てくるものだ。いろんな想いで皆、歌いはじめるのだろうけど、歌うということを大切に思わなきゃ人に伝わる歌は歌えないだろう。
スティービー・ワンダーやルイ・アームストロングが歌うと、アメリカのパワーを感じる。国民性というのかパワーで押しまくっていく歌い方をもっている。それにまるで自分のオン・ステージかのように歌い動いている。本当にそういう感覚で歌っているのだろう。ハーモニカやトランペットを使いながら歌うなんて、いろんな見せ場をつくるところがショ一的な感じがする。それがいいとか悪いとかではなく表現のスタイルの違いだと思う。音に対する感覚の違いというのはどういうことか。外国人は本物と言われる人々の歌を聞いて何にあんなにも感動しているのか。
私は今になってやっと本当に最初にもつべき素朴な疑問にたどり着けた気がする。会報は、何度も何度も読んでもわからないものだ。でも繰り返し読むなかで、その都度ひっかかることばがある。そのひっかかりを大事にして考え続けていくしかない。それ以外に気づいていく方法はないような気がする。
地球は一つといいながら、同じものに感動できないなんて嫌だ。日本は島国だけど心まで離れることはない。地球を渡り歩きたいと思ったら地球に住む大半の人々がもつ感覚をもたなくては。自分の感覚の世界は磨いていけるし、それは自分の努力次第だ。どういう感覚になっていくのか想像できないけれど無限の広がりを感じる。自分を創っていくということは、感覚を磨いていくということだと思う。感覚は鍛えれば鍛えられるのだ。ただこの自分ができると思いさえすればできていくという単純なことだと思う。ただ、本気で思うということは、できそうでいてなかなかできないことだ。
人はいろんなことを考えるけれど、本気で『できる」と思うことってなかなかないのではないだろうか。思うことと思わないことの間には、大きな差がある。本気で思い、考え、行動することの大切さを知る。
これを見て、歌はパワーがなくても歌えるなんて言う人はいないよ。あの中にパワーのない人がひとりでもいたら浮き上がってしまう。人に何かを与えるということは並大抵のエネルギーじゃだめだ。これでもか、これでもかというくらい表に出していかなきゃ届きやしない。歌うということは「私はここにいて、歌っています」じゃだめなんだ。「ここにいるぞー!ガオー!ガオー!」と叫んでいるようなものだもの。それぐらいエネルギーのある人じゃなきゃ、歌えたとしてもその人間の溢れ出る命のエネルギーは伝わっていかない。
声があるからってそれで歌は完璧なんてことは、絶対にないけれど、これがなきゃ今、日本人が歌っているようなレベルでしか歌えない。日本の歌手は声がないかもしれないけれど、このあきられやすい時代の中で、生き残っている歌手は何かしら大きなものを与え続けているということだ。与えることも声もないしその辺の人と何の変わりもないな。なぜ声を手に入れたいかといえば、日本の音楽の世界を変えていきたい、世界のレベルと同じところで歌いたいと思うからであって、そういう思いがなければ声を手に入れようという気持ちは続かない。必要のないものはどんなにいいものでも邪魔なだけだ。邪魔になる云々の前に手に入らないか。
いい声を聞けば聞くほど、日本人の声は何て、何て薄っぺらで苦しそうに話すんだろうと思ってしまう。そしてこの自分もその苦しさの中にいるひとりなのだと気づく。多くの人々はその苦しさ、気持ち悪さを感じないから平気な顔して、日々過ごしていけるのだと思う。気づいてしまった人間は、人の声にも自分の感覚にもしぜんなものを求めていくのが当然だ。感じないものを感じろと言ったって無理なことだけど、感じるものがあれば、どうしたらしぜんになれるか、自分が気持ちよくなれるか探すだろう。だって生きていること自体、自分が気持ちよくなることだと思うから、そうならないのは生きている気がしない。自分が自分でいないということだから。
叫べる人間は何て自由なのだろうと思った。ステージに立ち、歌で心を伝えられる者は幸せだ。その瞬間、生きていることを実感できるのだから。一流のアーティストは、男も女も関係なく文句なしにかっこいい。その人間の命が輝いている。輝いている者は、太陽や月のように人々にエネルギーとパワーを与える。自分が、かっこいいと思う人間のモデルをもつことは大切だと思う。それは姿形の問題ではなく、生き方やポリシーといった精神的なもの。そういうモデルを何ももてな自分の中でこう生きたいという方向性がつかめないかもしれない。身近な人がモデルになるのが一番いいと思うが、なかなかいないだろうから自分で探すことだ。
私の思うかっこいい人というのは、強烈な光を放って立っている人。ひとり立つことのできる人は群衆のなかにいてもわかる(でも、そういう人は群衆のなかにはいないかもしれない)。ひとり立つ人間は、自分の声でことばでいろいろなことを主張する。自分を打ち出していくことを恐れない。あらゆることを恐れず立ち向かっていく人なのだ。そして人間としての誇りをもち度胸のある人。そういう人間になりたい。
このステージは本当にすごい。炎が立ちのぼったかと思うと波になり消えることがない。音楽は人間の内に秘められているパワーをひきだす。ステージの上も下もなくすべての人間が一体となっている。それも後になればなるほど高まっていく。多くのアーテイストが登場したが、皆ものすごい気で包まれていた。あの人たちが日本のステージで歌ったら、ちょっと太刀打ちできないものがあると思う。とにかく体を動かすと歌うことが半端じゃないのだ。これでもかというぐらい走り回り、ジャンプし、声を絞り出す。人間のパワーって皆体の中にあるものだと思うけれど、それを大きなものにつくりあげていくには、だしていかなければいけないのだと思う。パワーは出すとなくなるのではなく増えていくのだから。ヴォーカルは次々と変わっていったが、バンドのメンバーが最後まで同じだった。ドラムなんて腕がおかしくなるんじゃないかと思った。
誰もかれも一つのステージを成功させようと今、出せる自分の力を出し切っている。一流のアーティストは皆、限られた時間の中いろんなことをしていると思う。それを思うと今自分がどれだけ、こういう人たちと同じような精神的環境をもてるかということは重要だと思う。一日の時間はどの人間にとっても同じだ。でもそれをどう使うかによって大きな違いがあると思う。限られた時間の中でやってもやってもやり尽くせないものがあれば、どうしたって優先順位を決め、集中してやらなければならないと思うだろう。やりたいことがあればあるほど、自分の大事な時間を粗末にはできない。別に寝なくとも、食事をしなくとも死ななきゃいいと思う。そういう状態でも楽しいと思えるからこそ続けていけるのだろう。歌うことだけが大切なのではなく、それ以外のことの方にこそ歌に生きてくるものがたくさんあると思う。出演していたアーティストは皆メッセージをもっていた。そして自分の愛する歌をもっている。
なぜ歌じゃなくてはだめなのか。自分の心の中にはいろんな思いがあり、それをことばで伝えるには限界がある。私は自分の思いを自分のことばで、より多くの人々に伝えたいと思ったから歌を選んだ。小説や絵だって伝えることに変わりはないけれど、歌に比べたら間接的だし作品からつくり手を想像してもらう面が大きい。歌だって作品を通してのコミュニケーションだが、そこには生きている人間と人間の触れ合いがある。普通に生活していたら一生に出会える人なんてたかが知れている。どんなに輪を広げようとしたって限界があるだろう。一つの曲が多くの人間を出会わせ、そこから波紋は広がっていく。
生きていくことは出会いと別れみたいなものだから、私は生きている限り少しでもいい出会いをしたい。そしてこの世を去るとき、いい別れをしたい。歌は歌っていた人間が死んでも残っていく。本物の歌は世代を超えて聞かれ続けていく。歌手にとっては生きているうちが花かもしれないけれど、歌にとっては歌い手がいなくなってからが花なのかもしれない。一つの歌の受けとり方、感じ方は人それぞれ違うからこそ、多くの人々の心に残っていくのだと思う。出演した人間すべて個性的だが、女性3人は特に印象に残った。
声のパワーに男も女もない。太い声にこしたことないかもしれないが、命が宿っているような声なら必ず伝わっていく。声の芯というものがその人のポリシーであり命であるのかもしれない。女らしい声、男らしい声なんていうことを言っているのは日本ぐらいじゃないだろうか。なぜそんな考えが未だ消えずに残っているのか不思議だ。国際化なんて言うけれど、この国のどこが国際化されているというのか。視点は外国ではなく隣の人のままだし、外国と触れ合っても表面だけで心の中をみようとしない。島国だからこそ一致団結してこれたというが、本当に団結しているのだろうか。日本が世界の音楽の仲間入りをするには、日本人ではなく地球人にならなければいけないと思う。広い視野でいろんなものを見ることのできる目。これは限られた人間しかもつことができないように思う。人は驚くほど身近なことしか考えていない気がするし、大きなことを考えても大したことないように思える。いろんなものみるたび、自分の考えたように生きようと思う。それじゃなければ命がもったいない。
体をいかに柔らかく使うことが大切かとメラが強調しているのが印象に残っている。ソプラノの生徒が、指導を受けているとき、確かに私の目から見ても、歌っている姿勢がかなり不しぜんでぎこちなく見える。肩が上がってしまい、状態も前傾気味で胸が狭くなっていた。これでは体の共鳴は難しく、音質も固くなると思う。下アゴを柔らかく使うということも言われていたが、起きているときは、難しい。力を抜こうと意識すればするほど、力が入ってしまうからだ(寝ているときは、口が半開きになって、涎が垂れてしまうなんてことがよくあるのに)。
まず思ったのは、3人でこの音の厚さはすごいということだ。ドラムはたたけるものは何でもたたいてやろうという感じだし、ベース、ヴォーカル、キーボードを一人でやってしまうのには驚いた。また彼の言っていたことばも勉強になった。アーティストは観客よりもまず自分を感動させるためにやっている。音楽は常に楽しみ、より複雑な領域にも入っていく。そして自分たちの好きなもの興味をもったものだけを追求してそれと同じ考えを持っている人がいると信じる。これは理想だし、今の自分がその段階にいないということは充分わかっているが、常に心に留めながらレッスンに出なければと思う。特に私は盲目的なトレーニングになりやすいので、なおさらこのことばをかみしめたい。彼の声は自分からするとややキイが高いが、決してのどにひっかかることなく出ていて、支える力がやはりすごいのだと思った。
レッスンで過ごす時間がとても有意義なものに思えました。けれども、私は大切なことを見ようとしていなかった。常々日頃の自分のあり方が問われているにも関わらず、“レッスン”にスポットライトを当ててしまっていた自分が今日、明らかになりました。レッスンに出るまでの方こそ、有意義でなければ。3ヶ月やってみて、色々なことに触れて、こんなあたりまえのことが見えなくなっていました。理屈でわかったつもりになり、レポートにも色々書いたけれど、全然わかっていませんでした。自分のやっていたトレーニングではレッスンに出る資格なんてなかったと思います。トレーニングの真剣勝負でなく、ただこなすもの“カリキュラム”になっていた。その内容にも迷いだらけで、何をどうやればいいか、自分で決められずにいたくせにわかった様なつもりになっていました。
今日のレッスンが私にとって本当に大きなことでした。トレーナー自身もあまりレッスンに行けなかったことを聞き、目が覚める思いでした。自分で色々納得させようとしても、どうしても迷ってしまうのが私の弱いところ。バシッと言ってもらって踏ん切りがつきました。自分が迷ったりもやもやとたまっていく思いを聞いてもらいたかった気持ちがあるだろうことは確かでした。私を個人として認めて欲しかったのでしょう。が、レッスンの場で認めて欲しければ、その中でトレーニングの成果を発揮すれば自然に認められるはず。人に頼りたいとか、泣きつきたいとか、そんな思いをかかえて、私は根本的に勝負すべきことをはき違えていたと思います。もう一度トレーニングを見直し、頂いたアドバイスを忘れずに毎日必死に取り組んでみようと思います。小さなこともとことん向き合ってみて、そして絶対につかみとりたい。全ては音楽・歌につながっていることを見失わないようコツコツと積み上げていきたいと思います。