課題曲レッスン 703
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「あなたに口づけを」
「チャオチャオ バンビーナ」
「恋のジプシー」
「アンコーラ」
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「この胸のときめきを」 360923
布施明さんの歌は、以前は使用しなかったのですが、今の皆さんと同じくらいの年齢、体、キャリアの人たちが、この時期どのように歌っていたかを聞く方が、自分とかけはなれているものを聞くより、判断しやすいのではないかと思ったからです。
正直言って、この歌い方は私の立場上、あまり皆さんには勧められないものです。彼のものだからです。そこの当時までの歌は、荒っぽく歌っています。ただ、こういう人が、ここに出たとしたら、その器の大きさを感じさせるでしょう。
観客は、ある意味で可能性をみています。奥がわからないところに魅力を感じるのです。先がみえてしまうのは、おもしろみがないのです。
できたら、彼のデビュー曲「霧の摩周湖」に学んでください。
技術的には、もっとうまい人もいるし、歌を聞かせたらもっと心地よく聞かせられる人もいるでしょう。しかし、その人でなければ絶対出せない表現、その人間の体の寸法に完全に合っていて、その人間のこみあげてきた以上の表現が出せれば、多少、技術がなくても、誰も文句は言えないのです。その時代と、その人が一致して表現が出てきます。
同じ曲を、いろいろなヴォーカリストで聞いてください。リズム、パターン、ヴォーカリストの音の捉え方、フレーズの捉え方、そこからはずしてはいけない共通点を捉えていくことと、違うところ、オリジナルなところを捉えていってください。
体によみ込むということは、どの見本がやっていることが自分はどこまでできていて、どれができなくて、どれがセンスに合うのか、または合わなくてどうしたいのかを体で感じるということです。たくさんよいものを取り入れて、音の世界とはどう組み立てられているのか学んでください。また、ヴォーカリストだけでなく、楽器の演奏でも聞いてみるともっとわかりやすいと思います。
「シィアモ クイノイ ソーリ」(ラーシ ドー ミー ファミレ)
出だしと考えず、フレーズのトレーニングだと思って、思い切り入ってみてください。また、出だしで入るところは、きちんと呼吸を整えてから声にすることです。いきなり入って「シィアモ」が乱れないようにしてください。
なるべく、音声フレーズで捉えてください。コピーするのではなく、押さえるポイントがいくつかあるのでそれをつかみ、つなげていけばよいのです。ことば、音が横に広がっていかないようにしてください。音程が「ラシド」と上降しても、イメージは上降すると思わないことです。
今捉えて欲しいのは、「ハイ ハイ ハイ」と一つずつ押さえて、次に「ハァ~イ」と一つに握ったものをフレーズで捉えることです。よい音楽をたくさん聞けばわかってきますし、体の感覚が線上にのるようになると、それ以外のことはできなくなって、何を歌っても正されます。
声、体を突き詰めてやっていくことは、音楽の世界の表現をするための手段だと思ってください。表現したいことがあり、それを伝えるための技術が足りないから、体、声のトレーニングをするのです。
体や声に関して、明確な原理がありますが、歌にも歌が歌になる基準というものがあります。そのベースの部分が、日本人のヴォーカリストには、あまりないのです。日本のヴォーカリストの場合、どうしても表現だけをトータルサウンドに高めて音楽のところだけでつくってしまい、ベースがありません。そのことは、間違いではありませんが、その体の原理、そして体に密着したところのその人間でないとできないという部分とは少し違います。その原理に根ざしていれば、当然、表現したときに価値が生じます。それは、ふしぜんなものではなく、しぜんなものです。
よく日本人のヴォーカリストのステージを見て、感動はしたけれど、明日もまた次の日も何回も見たいとは思わないという話を聞きます。タイプにもよるでしょう。
本当の感動とは、勝手に腰が浮いてきて、抱きしめたくなり、ずっとその場に居たくなって、次の日もまた次の日も見に行ってしまう。そのエネルギーの違いは何なのか。
それは、最終的にその人間にしかできない部分をやっているかどうかなのです。
外国のものをみたら、そうなってしまうレベルのも多いでしょう。
そういうオリジナルの部分は、自分で発掘していかなくてはなりません。そのために、参考になる見本をここで聞かせているつもりです。技術とオリジナル、両方もてることが一番よいのですが、最終的にどちらをもつかといえば、オリジナルの方だということを覚えておいてください。
そうしたら、オリジナルを出してきたヴォーカリストたちが、それを確立するまでにどんな歌い方をし、どういう考え方をしてきたのか考えてみてください。結局、何を表現したいのかということです。そして、オリジナルをとり出すために基本が必要だということです。オリジナルとは、その人の原型で、基本の内にあります。
発声、あるいはヴォイストレーニングから表現を考えるのは、愚かなことです。どんな表現も、その人の寸法に合っていれば、妙な説得性を帯びてきます。そのことを忘れないでください。
間違えたくなければ、伝える意志が常に発声を上回っていることです。声が出てきて、体も使えることにより、発声だけが前に出てきてしまったら、オリジナルも何もでてきません。
スポーツで強い学校というのは、最初からトレーニングさせるということはしません。グラウンドの外から、上級生のプレーや試合を見せ、最後まで残して、後かたづけをさせます。これは、全体の流れというものをきちんと把握させるためです。
そのときに、伸びない選手はボーッと見ていますし、伸びる選手は、上級生の体の動きと共に、自分も動いています。
ヴォーカリストも同じです。音楽を聞いているときも、バラバラで行なわれていることを一つで全体を捉え、自分のなかに一つにとり込むことをしなければなりません。本当にトレーニングができている人というのは、聞いているだけでどんどん疲れてきて、体が痛くなってきます。それをほぐすために、体が動いてきます。耳や頭でしか聞けないと、最後までヴォイストレーニングできませんし、声も出ず、歌も歌えないということです。これは、知識の世界とは全く別のことです。
トレーニングは、一所懸命がんばらなければいけない部分もありますが、音楽には「楽しむ」ものであって、そのことを忘れてはいけません。最終的に、楽しむために音楽をやるのだし、トレーニングするのです。
10代のアイドルをみていても、一所懸命やっているのをみるだけで、こちら側も楽しくなるし、それで30分、もつのです。それに劣ることをやらないことです。
彼らには彼らなりの才能があります。ただ、ベースの部分は、ありません。上の部分だけでやっています。だから、いずれやめるし、続けられないということもわかります。
そうならないためにベースをやるのだから、その先のことをきちんとよみ込む、窓を開けておいてやらないと自滅してしまいます。練習であろうとトレーニングであろうと、自分で楽しく設定できることも才能の一つです。
どの舞台もレッスンも「人前での場」です。そういう意識、責任感が大切です。伸びていく人は、その目的意識が大変、明確です。そういうものがあると、それでクリアしていけるものです。
その目的がないと、一所懸命トレーニングしてもオンしていけないことがあります。
声は、精神的なきっかけが大きいものです。人前に立つことを目標にするのなら、そういう意識を始めからもっていることです。芸ごとの分野は、一所懸命やることはあたりまえです。その上での感覚を早くつかんでいく必要があります。
舞台で声のことを気にかけたり、胸に手をあてて振動を確認することは、表現でも何でもありません。人前に立つステージでこうやっていれば、いつかそのうちできるだろうという形で出すのはおかしな話です。トレーニングでやることと、舞台の場でやることを混同しないでください。
人前に出るためには、なりふり構わないことです。どんなに観客にうけなくても、間がつかめなくても、ひるんだり、照れ笑いをした時点ですべては終わりです。ある意味では、とても強さが必要だし、それがなければ表現がゆるんでしまいます。
人前に出るということは、その日に全力をつくすということです。
たとえば、私は軽井沢の合宿で3日間合わせて5時間くらいの睡眠しかとりません。
そのときに3日間あるから3分の1ずつ調整しようという“大人”の考え方はしません。1日目、全力を尽くしてしまう。すると、普通、2日目で体調をくずしそうなものですが、現に何人かそういう参加者はいます、が、どこかの部分でギリギリに止めなければいけないところで無意識の調整ができてくるものなのです。
人前に出るということは、逃げることができないという覚悟を決めてしまえば、体がそう動いてくるものなのです。本当に必要性があれば、よけるべきことは、しぜんに回避するものなのです。
人前に出るのに、次の日を考えてセーブすることなど許されません。だからといって、その日に全力でやって次の日、のどがガラガラで歌えないのもいけません。
ギリギリの選択を迫られたとき、頭は働かず体が動いてくれるのです。
日頃のトレーニングも、そこまでの意識でやっているかということです。
トレーニングのなかに、はまってしまい、体を使うことがトレーニングだなどといつまでも思っていると、そういう意識は宿りません。
皆さんが、あるレベル以上のことをやっていきたいと思っているのなら、一流のレベルのものを聞いて、材料にくみ込んでいくのが一番よいでしょう。
それなのに、体が動かない、息が入らない、表情が無表情になるのは、体や感覚を使って学んでいくことの学び方を間違えているからです。今やらなくて、いつやるのかという話です。
それと共に、音の聞き方は難しいですが、国際的に通用したければ、声を音でもっていくことです。トレーニングからいうのなら、きちんと体のついたところでやっていくことです。
いろいろな形からの入り方があると思いますが、なかに入ってやるときはやらなければいけないときも、視野は広くもっておいて欲しいと思います。
声、息を使うこと、それ自体が、快感になりかねません。
そのこと自体はよいことですが、それを人に与えることと自分だけが気持ちよいこととを混同しないようにしてください。目的は何かを、常に自分に問うて、忘れないでください。
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テーマは、オリジナルのフレーズの探求と、歌の色づけです。
まず、オリジナルの声をとり出し、それを展開していくことです。そのために、いつもことばと、フレーズをやっています。
レッスンのときの1フレーズならできる人も、1曲になると急にできなくなります。その原因は、フレーズとフレーズのつなぎ、ブリッジの部分ができていないからだと思います。さらに、構成、くみたてが問われます。
ことば、音、フレーズは、すべて音の世界の部分です。ことばが声になり、音がフレーズになる、そのニュアンス、色の勉強が必要です。
今回は、日本の名唱や演歌を中心に材料にします。演歌のなかでも勉強できる曲はありますし、しっかり歌っている人もいます。特に、ことばの処理の仕方、ことばの聞かせ方は、日本でこの分野があるだけのことはあり、ノウハウがたくさんあるということです。その部分を勉強してください。
「あなたなしに いきてゆけない」(レミファ♯レソファ♯ ミレミファ♯ミファ♯ラ)
フレーズがとても大きいので、ここまでのテンポをきちんともってください。フレーズを自分でつくり、深さと高さをつくっていくことです。
高低アクセントで「あ・な・た」とならないようにしましょう。
「あなたなしに」の「し」と「に」のイ段をきちんと深くとってください。次の「いきて」まで、イ段が続くところはひびきでもっていきましょう。見本の歌手は「ゆけない」の「い」はころして歌っています。
「ひとりでどうして くらせましょう」(ファ♯ソララシラソファ♯ ソラソラソー)
課題を聞いたとき、なるべく遠くにおいて体で捉えて、最後までフレーズをつかみ、そしてもう一度、バラバラに置き換えていってください。「ひとりでどうして」と、すべてを深くとり、ひきずっていくことはトレーニングにはなりますが、離さないと体がもちませんし、地に足をズルズルとひきずったようになります。しかし、離す距離がはかれずに離すと戻れずに、浅いままになってしまいます。そのギリギリでのバランスを保つことです。
「きいてほしいの」(レミファラシ♭ラソ)
見本の、この歌い方がいやらしく聞えないのは、その前までのフレーズがきちんと大きくつくってあるからです。その部分がくずれると、演歌の下手な人のようなニュアンスになりかねません。技をしっかりもった上で、このニュアンスを出すのはよいでしょう。
「きいて」はしっかり入れて、くずさないようにしてください。「きいて」でフレーズをつくっておいて、そこからひきあげのところだけ、泣きを入れてください。こびないようにしてください。「きいて」と「ほしいの」の差をはっきりつけてください。「きいて」より「ほしいの」の方のフレーズが大きくなりやすいので注意しましょう。
「おねがいだから ここにいてよ」(シ♭ドレファソファミ ファソファミミレ)
このフレーズの難しさを感じてください。一つそらすと、すべてがそれていってしまいます。オリジナル歌手は、のどを開いているのがわかると思います。
「ここにいてよ」の「いてよ」の部分は、普通の感覚、あるいは日本の演歌だとひいてしまいますが、当時のポップスの人たちは、ここで押していきます。歌の大きさを保っために、器としてのペースを保ち、フレーズとして終わらせています。表現上、マイナスになるところもありますが、次のフレーズに入るために必要なことです。
「むねの ときめき」(ドレミ ソラソファ)
ことばが、リズムだけで動いているところです。ベースの音を体に完全に入れているところに、どうつけていくかです。歌わず、止まって聞えるところです。
「わたしのものよ あなたなしに」(ファ♯ラファ♯ラファ♯シラシ ド♯シラソ♯ラソ♯)
リズム感がありながら、フレーズはきちんと切っています。
「ものよ あなたなしに」の「あ」のところに「よ<ああなた」と7割方、大きく配分してください。ポジションをはずさず、そして止めることです。「ものよ」の「よ」から、のどを開けていくイメージです。ただし、横に広がってしまわないようにしてください。「あ」と突っぱって言える力をつけてください。
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「あなたに口づけを」
「バラのあこがれは よいしれるこい」
(ドーーーーーシ♭レ♭ シ♭ーーーーシ♭ラ♭ド)
今やって欲しいのは、この曲すべてを歌えなくてもよいから、見本の歌い手が一つの表現を出していたら、それをよみ込んでいくことです。そして、その気持ちのテンション、声の表現の感覚をつかんでください。
声の表情はいろいろあります。柔らかさ、息とのミックス具合、出し方など、それは気持ちや心に左右されることが多いです。トレーニングだけに気をとられると、内にこもってしまいます。そうすると、発声のよいところまでが失われてしまいます。そのことで、呼吸がとれなくなったり、バランスがくずれるのはよくありません。
ですから、前に出してください。歌のイメージを残し、トレーニング(声)と歌のイメージをミックスして完成させるのです。
「バラの」の「バ」は、きちんと決めて出してください。声を急に出すのではなく、呼吸に合せて準備するようにします。
「あなたのてにー バラのくちづーけ もえあがるこいのひを しずめて」
(ドーーレミミ(ファミ)レ ドーーレミミ(ファミ)レ レーーミファミドレミレ シ♭ドレド)
ここは、サビ前のブリッジの部分です。サビへもっていけるよう構成してください。
やって欲しいのは、音のイメージの部分です。単純に言うと、もっと息を吐いて欲しいということです。そして、ひきつけることです。
吐くこととひきつけることは、一見、矛盾しているようですが、吐くことによってよりひきつけていく。しぼり込むところ、止めるところを止めること。それに近い感覚が捉えられるとよいです。今はできなくてもよいです。
音程の感覚ではなく、曲の構成、ことばのはめ方を学んで欲しいと思います。
歌を一度、放り出さないと難しいです。そして、歌の最大限での大きさをとってください。
単純に、なぜ、この歌が名曲といわれるのか考えてもらえばよいです。
「あなただけが いまはすべてー」
(ファーーミーレ レーードーレドシ♭)
この歌詞の気分、テンションがつくれるかが、この曲の勝負どころです。ここにピークをもってきます。前の「しずめて」から「あなたの」の「あ」できちんと入れるかどうかがポイントです。
「あなただけが」を置き換えて「あーだーがー」と練習してみます。
「あーだーがー」で「あなただけが」というイメージを伝えるようにしなければなりません。この3つの音をどうおくかが、音楽の世界なのです。まず、「あー」を正しくおいてください。「あっだっがっ」と頭打ちしたり、「あーだーがー」と同じヴォリュームで出してしまうと、歌になりません。しかし、感情移入しすぎると、声がひいてしまいますので、そのギリギリのところで出していってください。まず、そのイメージをきちんとつくってから、声を出してください。
音程を感じさせないようなフレーズ感があり、音がおかれている。そういう大きな動きを捉えてください。また、どの部分に入れていくかはその人の自由です。しかし、どこかに入れ、伝えていかないと、そのまま終わってしまいます。それを助けてくれるのが、フレーズ、音の動きです。
急に、声には表われてこないかもしれませんが、イメージがベースに流れているかどうかで、差が生じます。流れていると、テンポ感、おき方をはずさなくなってきます。
しばらくの間は、遠くから曲を聞く耳をきちんとつけることです。
声の基準はあっても、歌の基準はあるのかという質問がありましたが、もちろん、歌の基準はあります。むしろ、歌の基準の方が厳しいくらいです。よい悪い、また好みの問題の前に、人の前に出したとき価値をもつという、最低限の基準を満たすことが必要なのです。
人が、人前でやって価値を生じさせ、その場限りだけではなく、その活動が継続できるということに関しては、基準がなければできないことです。むしろ、声の基準というよりも、歌の基準から考えて声を身につけるべきです。
特に、ポップスの場合は最小限で最大の効果をあげていかなければなりません。ですから、極端な話、声などできていなくても、いっこうに構わないのです。磨き抜かれた声だけとったら、クラシック歌手にはかないません。しかし、クラシックの人とは全然、違うところで勝負をしているのが、ポピュラーの歌い手です。
それは、確実に押さえるところは押さえ、引くところは引く。出すべきところは出すというかけひきが、マイクがある分、繊細に生に近い感覚でできるというところです。その感覚を覚えて欲しいと思います。
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「チャオチャオ バンビーナ」
①
「そらのかなたになないろの きれいなにじが かかるとき」
(ラーーーーーシーーファ♯ーー ファ♯ーーーファ♯ーー ファ♯ーラララ)
まず、ことばで言ってみます。ことばを間違えても忘れてしまっても構いません。何かを見ながらやると、国語の読み方のように読んで終わってしまいますので、なるべく覚えて、頭のなかでイメージを構築して出すというトレーニングをしてください。
楽譜もみません。耳、体で捉えてください。この場でやることは、何もないところに何か課題を与えたとき、それをきっかけにして、皆さん自身が表現を音声で出すということです。
音は、コードのなかで合っていれば、どうつけても自由です。フレーズは、見本を参考にし、なるべくことば、音符をはずしたところの感覚で捉えていってください。そして、ことばは流れないように、雰囲気だけで捉えないように、きちんと止めていくようにしてください。
ふまなければいけないところの音できちんと止まらないと、次へ上がっていけません。たとえば「なないろの」の二つ目の「な」で止められないと、全体がだらだらしてしまいます。基本的には、一つの表現に集約されているように聞こえていればよいです。
「チャオ チャオ バンビーナ」
(ラーー シーー ド♯ーシーー)
「バンビーナ」の「ビ」にアクセントが入る感じです。「ビ」が、バラバラにならないように注意しましょう。歌らしくなるように、語ってください。「チャオ」の「チ」「オ」どちらに入れても構いませんが、2回目の「チャオ」に展開していってください。
「ぎんのあめが やむけれど むねのなかには あめがふる」
(ラーーーーー ラララレレ レド♯ド♯ド♯ シシド♯ ソ♯ーラシド♯)
声だけを展開させて、もっていっているところなので、わかりやすいでしょう。アカペラに近いところです。
何か課題を与えたときに、何を聞き、何を出すかをいつも考えながらやってください。まず一つは、声の音色をとっていくこと。
「ハイ」とやっている「ハ」の近いところ、体からストレートに声が出ているところと同じポジションで捉え、展開すること。1音の展開です。
1年目は、同じポジション、ヴォリュームできちんとそろえて体をつけ、体とともに出していくやり方です。その方法でトレーニングしていくと、すべてに力が必要となってくるので、とても体が強くなります。声で体を鍛えるのです。それが充分にわかってから、声を握る、離すこと、そしてバランスをとることにいった方がよいです。
二つ目は、曲の構成です。「あめがふる」までをどう構成するか。どこで一番、体を使い、ピークをもっていくか考えてください。トレーニングのなかでは、そのメリハリを大きめに捉えておきましょう。
表現意欲もなくことばを発し簡単に課題をこなしていても、何の勉強にもならないし、場がだらけたものになります。意欲がないままやることは、却って感性を鈍らせます。体も使えず表現から離れていくので、のどを消耗していくだけです。それならば、歌いたくなったときに歌う方がましです。何のためにやるのかを、いつも考えてください。
他の人のことば、歌を聞き、何かが違うと思ったら、その雰囲気や場を自分で壊すくらいの気構えをもってやってください。そのなかに、自分も埋もれてしまうと、場も死んでいきます。お互いが、お互いのよいところを出さなくてはなりません。ただ、この課題を消費していくだけなら、小学生でもできます。
表現できた人がよいのですが、表現できなくても、しようという意欲がそこに宿っているかどうかが問われるのです。その結果、声が伴わなかったり、息が足りないのなら、トレーニングの課題もみえてくるし、トレーニングに来ている意味も出てくるのです。
2フレーズでよいのです。なぜプロはプロとして成り立っていて、自分が歌うともたついてしまうのか、その差をわかり、つめていくことです。
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「ぎんのあめがやむけれど むねのなかには あめがふる」
(ラーーーーーーーラレレ レド♯ド♯ド♯シシド♯ ソ♯ラシド♯ー)
フレーズの感覚を、まず自分の呼吸だけでコントロールします。そうすると、いろいろな音色が出てきます。今は、どの音色を選ぶかは定めず、歌の方から考えていってください。もっとのどを柔らかくしていったり、使いやすくするという調整をしていってください。いろんなフレーズの展開や音色が出てくるはずです。
「やむけれど」の「けれど」があいまいになっても、次の「むねの」で、きちんと戻してください。「けれど」は、少しあいまいになっても、「れ」が横に広がってしまわないように注意しましょう。
「あめがふる」は、「あーめーがー」と同じ長さ、ヴォリュームにするよりも、どこかに踏みこむところをつくった方がよいでしょう。
「アダルジェンド マ ピヨベピヨ(オ)ベ スルノストロアモール」
(ラーラーレレ レ ド♯ーー ド♯シド♯ド♯ ソ♯ーラー シーード♯ーー)
原語(イタリア語)です。日本語よりも、声をどう展開して強弱アクセントをおき、音色をとっているかがわかるでしょう。皆さんも、線はできていますが、その線をどう太くしたり細くしたりしてダイナミックに展開するかということを学んでください。
「チャオ チャオ バンビーナ」
(ラーー シーー ド♯ーシーシ)
ことばから、音楽へ移るところです。「バンビーナ」の「ビ」からが音楽です。最初の「チャオ」は、ことばの形で入っているので、基本的にひびきにはもっていっていません。だから、最初からあまり音楽的にはしないところです。
二つ目の「チャオ」は、音楽的にならざるを得ないと思います。「チャオ チャオ バン」までには、それぞれフェルマータがついていて、自分の呼吸に合せて伸ばせるところで「ビーナ」からリズムが入ります。だらだら伸ばせということではありません。呼吸の間をとるところです。
この曲は、4分の4拍子ですが、感覚は2分の2拍子です。
「ウン バーチョアンコーラ エ ポイペル センプレ」
(ソー ファ♯ーミーーソーー ラ シード♯ー ラーーー)
表現は途切れていても、体は一つに捉えています。だらだらさせない感覚を、体でつかんでください。また、握るところと離すところを明確にし、それ以外のつなぎのところでは、あまり強く打ち出さないようにしましょう。
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「恋のジプシー」
音程とリズムとことばの要素のうち、ことばは間違えないで言えばよいでしょう。
転調のところまでは、基本的にはことばでもっていかないといけないところです。
「なぜなの」あたりも、ことばと曲のギリギリのところです。本当に歌えるところというのは「ジプシー」から次の「どこへゆく」ところぐらいです。
常に気をつけないといけないのは、こういう歌というのは全部、声自体を宿してそれを転がしていくしかないわけです。そうしたら、ことばからとっていく方がよいわけです。
ことばからとっていった上で、リズムと音程をきちんとふんでいく。これは、みればわかる通り、4拍目の裏から全部、弱起で入っていますから、日本語がついてくると矛盾してくるのです。イタリア語ならそんなに強く言わなくても息をミックスして普通で話しているぐらいで入れるわけです。
そのあたりが日本語の場合は不利なのですが、今日の課題では1回、音程でとってみて、それからリズムでとってみて、ことばでとってみて、それで声のなかに入れてみる。その声のなかからことばをおいてみる。それから、音の感覚をおいてみる。リズムの感覚をおいてみるということです。
どうしても、4拍目の裏を頭の出だしとして日本語では、はっきり言わないと、わからなくなってしまう。日本語は、最初を明瞭に入っていくからです。
途中で転調しますが、この「あぁ」ということばが大きなポイントです。これを大きく出しすぎたら失敗するわけです。「ふたたび出会った」のあたりは、ことばでまとめていくしかないでしょう。
「元気そうね 今も」音符を見ていたらわかる通り、全部4拍目の裏で切っていけばわかりやすいでしょう。イタリア語はつながっているけれど、日本語は全部ずれています。
たとえば「きずつきにくんだのに」の「き」は、4拍目の裏から始まる。そうしたら「きずつきにくんだ」のところで切ってしまえばよいわけです。歌うときに切るのではなく、気持ち的に切るのです。そこまでが一つのことばで「のに」あたりは、日本語がうまくついていると思います。
ここで次のところに移行するわけです。気持ち的にいうと「きずつきにくんだ」ここまでが一つ、「のに」で二つ、「ふしぎね」で三つ、「むねが」のところで四つとなって、「もえる」の終止のところで五つ。この「もえる」をきちんと終止しておいて、「あぁ」に入らないといけないです。
その「あぁ」も次のきっかけ音のところです。
それから感じとして難しいのは、1拍目と3拍目を強弱、あるいは中強拍ととっていくことに対してひっぱっていかないといけないのです。そこの感覚がなかなか出ないのですが、こういう歌の場合は、勉強がしやすい方です。
「きずつきにくんだのに」、ここはことばが言いにくいです。「にくんだのに」の「く」はイタリア語だと、「ガルダ」のところにアクセントがつくわけです。
だいたい2音節目につくのが多いので、どうしても弱起になります。「きずつき」の「ず」のところ、「にくんだ」の「く」のところ。1拍目、3拍目に全部、日本語のところに丸でも囲んでいけばよいわけです。
それと同時に、これがダウンビートになって「に」のところ、「だ」こういうところは全部、アップビートになりますから、これを次のフレーズのところにひっぱっていかないといけないです。
それから「むねがもえる」のところ、このあたりは若干、ゆっくりになっています。テンポはそんなに変えていないか、おとしているのです。「もえる」のところで終止させて変化させ、つめているわけです。
というのも「なぜなの」からメジャーにいきなり入ろうというのも無理だからです。これを匂わすために、そのまえの「あぁ」というところにシャープがついているわけです。
経過音、装飾音でそこで転調はしているわけです。
そのまえの「もえる」のところで、すでに次の転調にうつるということを予感させているわけです。ことば自体も同じです。「もえるー」こういう形になって、そこで終わらないということです。
フレーズからいうと、次のサビは、もっとはっきりしています。メロディとリズムだけでもっていく。「なぜなの」でひっぱっていく。
「こころは」あたりは日本語だと難しいのですが、感覚的に音にしていかないといけない。いつも考えて欲しいのは、これだけ声が出る人がどうして声量を出して歌わないのか。何でここまで声を殺したり、息をまぜたり、かすれさせたりするのかということです。
わざと計算してやっているわけではないのです。感情を表現しようとするとそうなってしまうのです。100回も200回も歌ったなかで、何でこれを一番よいものとしたのかという評価を考えていけば、もう少しわかりやすいと思います。
一番わかりにくいのは、強弱アクセントの感覚と、音程アクセントです。どういうところで情緒を感じるかという感覚が違うので、難しいのです。たとえば、単調に歌っているようなところ、それから歌い上げているところに外人は色気、セクシーさを感じ、大人の男、女を感じ、情緒を感じる。
日本の場合は、声がない分、形でつくって、そういうつくりにならされている。本物は素朴、シンプルなものです。
だから、そこでのギリギリの表現というのは、どういうのかを学びましょう。
「こころはジプシー」のあたりをどういうふうに表現するのか、本当の何の感情も入れないようにしているようでも、微妙に変えているところがあります。
「きずつきにくんだのに ふしぎね むねがもえる」あたりの音の大きさか音色の使い方、声の使い方は、単純にやっていますが、操作してしまうとできません。
出た表現そのもののなかに伝えるものが完全に宿っているわけです。そういうものを聞いて欲しいと思います。声と中心に音感、リズム、音程。それからよく言うのですが、一本調子だ、展開がわからない、方向性がわからないという問題の解決法も、ここにあります。計算してやるわけではないにしろ、聞くときにはいろいろ解釈して聞く方が、勉強になると思います。
簡単なことでいうと、こういうのを聞くと「Zingara」とか「どこへゆく」ができるかできないかと、高音のところのサビのところばかり考えるわけです。こういうところはものすごく抑えて歌っているわけですが、これは思いっきり出しても抑えて歌っても、できないのです。
それでもそれなりに盛り上がるし、声さえ届いていて、音が届いたら何とかもつのです。それよりも大切なことは、そこの前の「なぜなの こころは」が問題です。もっと言うのなら、そこのもっと前の方が問題なわけです。
よく課題と勘違いするのは、音が張れるところとか、高くいっているところですが、そんなところは歌えればよいというだけの話です。届いていれば何か伝わりますから、大切なのは、それをより効果的にみせる、そこまでのもっていき方なのです。
「きずつきにくんだのに ふしぎね むねがもえる あぁ」
チェックのポイントを言うと、「きずつきにくんだのに」が難しいです。「だ」ここから「のに」、これが4拍目の裏です。どこかでひっぱっておいて、だらだらとなってはいけない。こういう盛り上げが一番、大切です。「のに」に、きちんとおちるようにしておく。
「ふしぎね むねがもえる」ここも皆さんが思っている以上に、ゆっくりした感覚で、テンポ的にはそんなに早くないないけれど、聞いている人にはゆっくり聞こえるわけです。「もえる」できちんと終わらないと、次の「あぁ」も始まらないし、ただ終わってしまうと全然、違う形で始まってしまうので難しいものです。
リズムでつながっていながら音の感覚でキープしておいて、ことばだけで切っていく歌い方です。ことばに強さが出てきたところは、リズムをとっていけば「なぜなの」「こころは」このあたりは日本語が死んでしまいますが、ある程度、音感とリズムの方で合わせていかないとサビにはいけないのです。
途中から、雰囲気が変わっていきます。曲の変化、リズムの変化によって変わっていくという感覚を出していく。100回ぐらい歌い込んで、方向性とチェックのポイントをつけていけば、いろいろともっと変わってくると思うのです。
変わってきたときにことばを変えるかリズムを変えるか、音感を変えるかというのは、理屈でないのです。楽譜通りに歌っていくとうまくいくのがプロです。
基本的に向こうのことばに翻訳調にことばをつけているわけですから、当然、日本語をつけ代え音をつけ代え、ずらした方がよいでしょう。しかし、よほどうまくつけている人以外は、合わない場合が多いです。
これは比較的、無茶なつけ方をしているわりには、動かしやすいようです。シャンソン的なつけ方をしています。ことばを3割ぐらい殺す分、その上に5割、7割のメロディの情感やリズムに出していき、よりよくなる方で変えていってもよいと思うのです。それが変えるときの原則です。
簡単なのは、まとめていくことです。正しいテンポのなかで緩急をつけるのは許されていることです。しかし、日本人はなかなか変えられないのです。いろんな表現のパターンが、あまりにも入っていないからです。
自分で何回も何回も歌い込んでいるうちに、歌い込んでいるために狂っていくのではなくて、感覚をより優先させていくのです。最終的にその感覚でずらしたことをもう一度、この音符に置き換えてみてできるかできないか、ギリギリの葛藤をする。そのくらいは、作曲家と作詞家をたててもやるべきだと思うのです。
やって絶対、妥協できないということであれば、変えてよいです。ただ、そのニュアンスを何とか楽譜のなかで出せるのであれば、楽譜通りに戻せて歌えた方がよいでしょう。曲や詞のセンスが彼らよりもあると絶対の自信をもっているものであれば、それは自分のスタイルでやればよいのですが、この頃の歌は解釈がきちんとできるように、しっかりとつくられています。
コードのつけ方にしろ、アレンジの仕方にしろ、最終的には戻してやった方がよいでしょう。あるいは何でこうついているのだろうということを考えた方が勉強になることが多いのです。声をサーッと出しているようでも、転調とかマイナーからメジャーのところとかいたる箇所に仕掛けがあります。
それが、がらっと変わっていてもだめだし、トーンとして同じでありながら、曲が動いている、あるいは動かしていくことです。高音になればなるほど張り上げたり、元気よく出したりするのが多いのですが、必ずしもそうではなくて、上をかなり抑えて歌っている人たちがいるし、やわらかく出している人もいます。感情をより相手に伝えるために抑えるやり方で歌うこともあるわけです。
このへんは、中近東から西南アジア、それからアジアにも近い感覚です。だから、ここでめざしている声に合うと思います。ここでは、パヴァロッティみたいな声をめざしているわけではないからです。彼らほどの声がなくても勝負できる声をもつことです。声楽家みたいに歌ったらクラシックにかなうわけないですから、そうではない人たちが作品としても完成度をもっている理由を考えていけばよいと思うのです。
いつも言っているように、誰かに比べて強くなってもよいのですが、誰からも侵されない部分で一つをもっておくというようなことです。
歌唱的にもテクニックということでも、難しいです。
「あぁ こころはジプシー」あたりも、発声練習の代わりにはならないぐらい、いろいろな細かい意味がついています。イタリア語からやればよいと思うのです。
「あぁ」というところも、歌らしくしぜんになります。それをふまえてやっていきましょう。こういうところから英語にいった歌を、原曲の方で聞いておいて原曲でとっていけばよいのです。原曲を聞くとよいのは、まずリズムや音の色あいが聞こえるのです。
それでしぜんと入れ込んでいけます。そこから日本語にあてはめていく。英語は、メジャー志向にショーアップした分、個人の力、民族の血が消えています。それを日本人がさらにうわっつらだけまねした今の歌ですから、根本的な力はつきにくいでしょう。
先に口が走ってしまって、よほど英語をやっていないと、あのリズム感、どこを強くというレベルから、次の少し裏切って強くとかいった組み合わせというのも入っていないとできないのです。それが、曲になると、もっとややこしくなります。
そういうところは基本、スタンダード曲で勉強してください。日本でもこの頃の人たちの吹き込んだもの、この時代の人はそれだけ耳がよかったし、音のおき方も優れています。
だから、もう一回、こういう人たちを評価し直さないといけないと思います。シャウトしないとか、張り上げないで歌うというのは難しいのです。そういうことを技術としてできる、本当の見せ方としてできるまで、試してみるべきだと思います。
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カンツォーネでやっているのは、現代のアメリカの音楽のものまねでなく、そこに人間の体や声のベースがみえやすいからです。
たとえば、1オクターブの声で話せる人が2オクターブにして声を使っているのが歌です。1360年代なら、ヴォーカリストがヴォーカリストとしての基本の技術だけでやっています。
だいたい1オクターブで話していて1オクターブちょっとぐらいで歌っているのです。だから、体と息の上にある声と歌声が一致します。そのベースをふんで、そこに飾りをつければ歌になります。
飾りというのは、音楽的効果です。声などなくても飾りだけ完全にあれば、歌というのは成り立つのですが、それではいかにも日本人らしい安っぽい飾りだらけの歌になってしまうわけです。
感情の表現の仕方も違います。向こうの人たちというのは、飾らないのです。悲しいものを悲しくみせようと歌わない、楽しいものを明るくみせようと歌わないのです。
音色に関しては、深くて説得力があるものをしっかりと体から出すという感覚だけで伝えているのです。
聞いている人に主体性があるから、それを聞いて悲しい気分のときには悲しく聞こえる。歌い手がステージでその世界に入り、苦しく思うときには苦しくなって聞こえる、だからこそ、歌は自由で、多くの人がそこに感情移入するわけです。
「ラララ」とスキャットするだけで、その声に感情が宿り、聞いている人がその感情を音からとり出す。日本の場合は悲しいものは悲しいのだとわからせながら歌わないと伝わらないから、飾りの部分が大きくなるのです。これは、声が体や感情をストレートに伝えられるレベルにないからです。
基本をやるときには、先に飾りをやるのはいけません。飾りというのはある意味では、くせなわけです。1音ぐらいしか正しい声のない人が、1オクターブ歌うと声が伸びきってしまうのです。たとえば、歌いはじめることによって違うイメージをつくってしまうのです。だから、そのイメージを直すことが第一の課題です。
イメージが悪いと、体や息ができてこないのです。歌うこと自体が何かをつくる、その上に飾りをつくるということで、できているからです。そのイメージがあると、いくら体とか息を鍛えていっても、押しつけるかぶつけるしか出せません。できることがないわけです。だから、できることからやっていかなければいけません。それは、感情を宿すに足る声をとり出すことです。
ところが多くの人は、体という楽器を息という調律で使うという問題に戻らず、声を浮かしたりひびかしたり加工して、くせをつけて飾りをつくることが歌うことだと思っています。声がないから、そうしてしまうのです。
「わすれていた」
ことばの読みと歌とを相互に聞き比べたらわかるのですが、ことばでは半分くらいできるわけです。だから、歌では無理でも、ことばとして皆に伝えることです。何で伝わるのかというと、飾りがないから伝わるわけです。入ってきたばかりで歌がうまい人は結構いるのですが、そこで本物と何が違うのかというと、くせでまとめすぎていることです。
将来的に伸びるためには、飾りがなくて自分の素のところだけで中間の音をすべてもっていけるところからです。そこから飾りをつけていったら、いくらでもできるわけです。もっと単純なことでいうと、歌も何にも知らなくとも、大きな声だけは体から出る人の方が、可能性としてはあるわけです。しかし、そこまでの条件を整えて、歌に入る方が早いのです。4年、6年とみれば、飾りだけでやっていくのは逆に伸びなくなっていくのです。
ことばをきちんと伝えようとして、伝える必要があって表現しようとしたら、フレーズがつくわけです。外に、はみ出してコントロールできなくても、それがつかまえやすくなるわけです。そうしたら、「わすれていた」とよむのと、「ラララララ」と楽譜を読むのとどのぐらい違うかを比べてみればよいのです。音がついた方が体がいるわけです。
同じ音を出して表現を保つというのは、「わすれていた」のに対して「ララララララ」これだけでも体がいるわけです。ここに音がついても、今まで歌っている感覚がくると、「わすれていた」と言えていない声でやるから、だいたいの人は伸ばしてしまうのです。
あたりまえの話ですが、伸ばすとか強くする、あるいは高くするとかいうことは、普通のところで話して大きくする以上に、体を使わないとおかしいのです。何かを試みたら、必ず体を必要とするわけです。だから、体を使うべきところを体を使わないところでカバーしていたら、それは飾りになり、くせになっているわけです。
この問題は、徹底してとり組まないと、なかなか解決できないのです。これはできる、次はできないというところでやってみたら、少し力が入るわけです。そうしたら、ここではイメージの問題が大半です。ところが、そのイメージの問題の解決を口先の加工にすると、普通に話すよりも、体が離れてしまうのです。
ことばですから「わすれていた」と言ったときについたフレーズを、そのままつけていった方がよいわけです。音の方にひっぱられると日本人は均等に切ってしまいます。ことばで言っているときは、絶対に均等ではないわけです。どこかにふみ込んでいるし、どこかで離しているのです。その感覚をなるだけ音のうえに残しておくわけです。
宿った音を展開させるだけで、それ以上に余計につくっていってはいけません。一つに捉えることです。どうしても、日本の歌ではバラバラになります。いろんな曲を聞いて、参考にしましょう。原曲でみると、伴奏のないところで歌い手が歌いあげるところ、ピアノ一本とかアコーディオンだけで歌うところで聞くと、トレーニングとしてはわかりやすいということです。
「わすれていたはずの」
外国語でやっていくと、なぜやりやすいのかというと、たとえば「アベツク」なら、2音目の方にアクセントがくるわけです。英語でも、何で歌いやすいのかというと、ふみ込んでいるダウンビートのまえに、アップビートがくるからです。
音楽のリズムと発声のアクセントが一致している、というよりも、音楽をつくるときに必ずそうなるわけです。日本語の場合は、高低アクセント、リズムや強拍はどこでも構わないのです。そうすると、ことばとリズムと拍が合わず、それていくことが多いわけです。
「わすれて」ではなく「いた」の方にアクセントをつけます。これのくり返しになります。「はずの」を同じ音程でとってみましょう。ここで歌い上げてしまうと、歌はどんどん大きくなっていって体が使えなくなるから、「はずの」と自分で言っているつもりでやります。
この「の」が大きくならないというのは、結局、離しているからです。歌がこんなところで大きくなってしまってもどうしようもありません。
まず一つの条件が、なるだけ一つから二つで捉えるということです。これは、捉えなおしていくしかないわけです。こういう歌をたくさん聞いて、それを日本語の歌にしていくと、ここだけ歌うのでも結構、大変なのです。コードで捉えてというよりも、ことばとしての大きさをもつということです。
これを初歩の段階でやろうとすると、「はずのー」とひろがってきます。そこでいれようとすると、先に下のポジションをとらないといけないのです。「の」がはずれないし、その流れの中にあるわけです。このポジションのキープが、出しているだけでできるのはベースがあるということです。
皆さんにやって欲しいのは、これをきちんと入れることです。何が違うかというと、体の使い方とイメージが違うわけです。飾りで音楽らしく歌いあげていくというのとは、全然違うのです。音楽とか歌にするのでなく、表現したら音楽や歌になっていることが大切です。
「こいなのに」
ここに強弱があり、「ソミミファレレ」というような感覚ではないわけです。日本人はどうしても高低アクセントで音を平均的にならしていきます。メロディをとらないといけない、体が弱いから音にだけでもどうしても届かせないといけないという方にいきます。
先に音程をとっていくのです。音程をとるのでなく、とれていくこと、そのためにはまず、一つに捉えていくことです。音程で歌い上げるわけではないのです。楽譜を音にするのではなく、イメージを変え、音楽にする、そうしないと声も変わっていかないということです。
そのときに、ふみ込みとかインパクトと言っているのは、どこかでふみ込んでおいたら、そこでフレーズができますから、次に移りやすくなるわけです。大曲にならないでサラリとやっていながら、口先ではなくてきちんと体がついているのが理想です。だから、大きめに歌った方がよいわけです。
「わすれていたはずの こいなのに」
今は、これができていないということがわかればよいです。歌えているのに何をこんなにしつこくやっているのだろうと思わないでください。「こいなのに」のなかで動かさないということです。表現が宿り、動いてこなくてはなりません。それと、下のポジションをとっていけないのに、上で飾りをつくっていくことをやるから息が入らず、表現力がなくなるのです。
そこで息を使ったり、のどを使ったりすると、のども壊れるので、結局、声もひいていき、ひびきに逃してしまいます。たとえば「わすれて」とことばで言ったら、そんなに悪いところに声はこないわけです。息は声になっているし、体もついているわけです。だから、大きく出せるしフレーズもあるわけです。ところがそこで強く歌にすると、それは無理にのどをしめることになります。
そのバランスがくずれないところでトレーニングをやっていくしかないのです。これは、あたりまえの話で、1オクターブある人が1オクターブの中で処理していることを、3度しかない人が音のところで、はみ出たところをやろうとしたら、飾りに逃がすしかないわけです。
もっと単純に言うと、向こうの人たちが1オクターブあって1オクターブ半でやっていることを、皆さんは1、2音しかなければ半オクターブのなかでやることが、正しいトレーニングです。飾りと正しい表現とを区別することです。音楽的にもっていきにくいなら、ラップとか読みでやっていた方がフレーズということがわかるようになってきます。そうでないと、1オクターブの中でどんどんそれていってしまうのです。
「わすれて」の「す」にアクセントをつけて、どこかのところで声をまず体に宿します。このなかで出し入れをしないこと。流れをつくることです。特に歌の場合はレガートとか全部、流れでのせていきますから、そうしたら、どこかでふみ込むのが一番、流れがつくりやすいのです。
「今夜は二人でいようと」
声の音質を変えないことです。同じ音をそこに通わせていく。息がキーピングできていないと非常に難しいです。わからない人は、高いところでの5度音程と、低いところでの5度音程との感覚の差を考えてみてください。
普通の人が聞いても3度ぐらいしか聞こえない感覚で、プロは7度とっているわけです。これをまねていくと、日本人の場合は音からとらないといけなくなります。音を小さくしていって、コントロールするのはもっと難しいわけです。
皆さんもすぐに、まねできそうでも全くできないのは、深いところでブレスがきちんと支えているわけです。今は声を小さく使うことよりも、大きく使っていくようなことをやりましょう。
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「わすれていたはずの こいなのに」
この曲も展開して広い音域になっていくのですが、この1オクターブを歌い上げていたら、どうにもできません。ここでやることの基本は、1オクターブのなかでポジションをそろえること。それから声を体に宿して、その感覚で出していくことです。これを話すようにして歌うのです。
その段階でない体で同じことをやろうとすると絶対、無理があります。しかし、課題をはっきりさせていかないと、目的がわかないから、こうして感覚から入れていくのです。声を朗々と出していくことは、気持ちのよいことだし、歌った感じがするのですが、そのこととは、全く違うことを早く気づいてください。
発声トレーニングをやりはじめると、ややもすると歌でも声の方に全部、集中してしまいます。その時期も必要なのですが、表現が決まってこないと声は伸びません。特に中間音から高音に関してはイメージが拡散してしまいます。これが、多くの人がポピュラーの高音域が使いきれない理由です。
低音に関してはシャンソン、中間音から高音に関しては、カンツォーネの北のものを聞き込んでください。南の方のものは、ナポリターナですが、そのナポリターナの延長上に、声楽があると考えてください。プレスリーとか、トム・ジョーンズとか60年代のリカバーされ世界的にヒットされたもの、原曲を聞いてみると、しっかりと歌っているのです。
だから、その時点をふまえて、90年代に歌うことです。
最初にゴスペルやジャズの感覚から入って、60年代のオールディーズを通しておいて(世代のなかの遺伝は一人の個体に順に出てくるのと同じように)、ふまえていけばよいのです。50~60年代で、この頃の人はひびきに抜けば、もっと高いところへもっていけるのですが、真正面に捉えて歌っていました。
そこで、浮いている声を抜かすとわかりやすいのです。全く同じポジションのところでコントロールしています。だから、その1オクターブの感覚というのはどういうことかを捉えていくのが高音発声です。ソぐらいだと日常会話でも使っています。ところが、さらに上まで歌い上げないようにして声を転がして表現するのです。
日本語の問題を抜いて、ことばをフレーズにしてそれを歌にしていきましょう。高低のアクセントをなるだけ強弱に置き換えてみます。1拍目、3拍目を強くおさえて、2拍目、4拍目にアフタービートがつくわけです。どちらの感覚を活かしてもよいのですが、どこかで声をまとめていく。
「わすれて」「いたはずの」「こいなのに」三つぐらいでまとめていけばよいと思います。この「こい」のところで統一できないとはずれてしまいます。そうすると、次の「なのに」がはずれてしまうのです。それを全部、同じ感覚でもつというのが、難しいのです。
ことばで言うときには体がついていても、歌ったら最後、芸にならないのは、息が宿っていないからです。ことばのところでのトレーニングは表現力が保たれているのに、歌うということで、そこの感覚を間違ってしまうのです。日本の歌は、歌い上げています。
しかし、ベースをもっていてその上の変化で歌うことです。そのベースの歌い方というのが、日本人の考える歌い方ではないから、難しいのです。声に感情をわりこみ、声にヴォリュームをためにためて、全身で動かしていきます。
イタリア語は、ふみこむところでふみこんでおいて、口先に浮いたことばをもう一度、入れて処理するような形のことばです。ことばでのフレーズというのは、日常レベルでできているわけです。ポップスは、ことばのフレーズから音楽に入るのです。
こういった音声文化でできている国と日本が一番違うところは、形をつくらないと聞いている人が関わってくれないことです。つくられたものを見て決まるように決まったというところで拍手するのですから、どうしてもこういう歌い方だと素朴で、味も何にもないと思われます。もっと加工しないと伝わらないと思われているのです。
しかし、歌っている人たちというのは、淡々と感情をおいていき、聞いている人がその気分で悲しく聞いてみたり、あるいはおもしろく聞いてみたりするというように、その解釈を聴き手にゆだねているのです。聴き手に解釈を押しつけるようなところまで歌い手がつくるということは、過保護すぎます。
ただ、飾りをつけるなら、その分だけ本道のところがそれてはいけないのです。本道をやっていた上に飾りが浮いてくるのはよいのです。日本の場合は、本道がないところに飾りだけで全部やっているから、限界が出てきます。そういうことでいうと、なるだけシンプルに考えることです。
皆さんのなかにも歌がうまい人はいます。ぱっと聞くにはよいのですが、飾りがとれていないと、続けて聞く気になりません。逆に一見、皆さんが聞くと「うまくないや」「へたじゃないか」と思うかもうような歌、飾りがないということは、その人の本当のものが出てきているから、よい歌なのです。
そのあとにそれが伸びていくと、飾りがついてくるのです。その操作までのところを突き詰めたいものです。皆さんが歌っているとか、歌うという感覚というのは、かなり飾りつけから入ってしまう場合が多いです。体に1回、戻してやるというところで捉えていくことです。
歌も最初に戻してください。
「わすれていた」と何回もいっているところに、感覚に強弱がついて、音がついているところから入ります。
まず、ことばでいってみてください。ことばでいうとふみこめるはずです。なるだけ数えられないように一つにします。どういうことかというと、俳句や短歌のようにきちんとつくろうとすればするほど、全部を分けていってしまうのです。
これは日本語の特色なので仕方ないのですが、「わすれていたはずの」が8でなく一つに聞こえるように、なるだけ「わ」「す」「れ」「て」という形で数えられないように聞こえるように表現します。イメージの問題です。
練習の方法としては、「す」のところに入るので、「わすーれて」となるのですが、日本語はそうはなりにくいので、自分でつかんで巻いていかないといけない。
「わすー」と声がつかめたら、線はある程度、通っています。
ことばでやってみて、ことばを違えないように同じ音をつけるのです。「わすーれていた」ことばでいってみて、そのテンポでよいです。そのテンポでやっても、それだけ音を保つには、それだけ体を使わないといけないわけです。
単純にいうと、ことばで10の力でやったら同じ寸法にしたときに12とか15、体で使えることようにします。「わすれーていた」ここまでもたせようとした、今度は20とか30使わないといけないのです。音楽の方にも体を使っていくと考えてください。
単純に、ことばでいうことです。ことばを歌い上げるには、もっと集中力、体でのコントロール力も体力もいるのです。日本人の場合は、これが完全に逆転してしまうのです。
大きな声で話しているときには体を使うし、お腹から声を出しているし、フレーズもつくっているのに、歌になった途端に全部ひいてしまうわけです。
口のなかの操作になり、難しくなってくるのです。だから、それをポジション的に変えているのが「ハイ」とか「ララ」です。これも「ハイ ララー」ぐらいです。
「わすれていたはずの こいなのに」
これで1オクターブあるわけですから、これが同じ感覚で処理できれば、1オクターブをもっているということです。これは上がっていきます。
「の」の練習方法としてはいろいろありますが、「はずの」といっている「の」は小さくしているけれど、体の支えとしては「わすれて」より大きくとっているのです。体を使っているとはいえなくて上に抜いているようでも、それをトレーニングの段階だと「はずの」が強くなります。そこまで入れておいて、「のー」と歌うと歌らしくはならなくとも、トレーニングのベースのフレーズはできます。
日本人の歌い方というのは表面上で流れがちですが、線をキープしながら歌うときにひびかせて歌えばカバーできます。ひびかせるだけだとあてたり、裏声になります。線だけをとっている人は、のどで締め出さないように注意します。感覚からいうと、高く深くなる分だけ支えることです。
それが息の支えとか、体の支えとかいわれるところです。
「の」といって、今やっていることは体づくり、息づくりです。それと、息の感覚でできてしまうと、ある時期は「はずの」と入れる、それだけの感覚があるのです。「の」がきちんと自分のなかに入ってきたら、「こい」は狂わなくなるわけです。今はできるかできないかというより音色感での問題です。どういう音色の感覚をもつかで、今はできるだけ下の「ラ」と同じぐらいに1オクターブ、キープしていく。
ポジションが安定しないと、結局、上になったり下になったりします。そこは一番みえないところなのですが、人によっていろいろとあります。「ソ~ラ」のところまでではなくて、「ファ」でも「ミ」でもよいのですが、1オクターブのうち高いところの半オクターブ、いわば中音域です。
人の体からいうのであれば、音色は人によって違いますが、深さでいうと「ソ」の感覚ぐらいで聞いておけばよいと思います。ここは大きな問題で、何がキャリアのある人と違うのかと言うと、そこでのキープの力なのです。それは素朴に出したら、飾りを出さなければ出さなくなるほど、あまり聞こえなくはなるのです。粗っぽくはなりますし、ただその段階をふんだ方が確実だし、違いがわかりやすいのです。
低音の感覚のところでより深い音色を低くではなくつくるところです。だいたい、2オクターブを歌おうとすると、精一杯、歌わざるを得なくなります。
音の高低ではなく音質の問題です。それを同じに捉えられるようになってくれば、変わってくるのです。
日本人にとっての1オクターブというのは高さの階段があるのです。低音での半オクターブの感じが中間音のところの1オクターブで感じるようになってくれば、楽になります。その分、息と体で支えないといけないです。
大きな曲から入った方が伝えやすいです。小さな曲になると、センスとか別の問題が入ってくるので、大きな曲をたくさん聞くとよいと思います。ビートルズ以前くらいまでは、歌い手はすべてオリジナリティのある音質をもって歌っているはずです。
ペリー・コモやペギー・リーとか、きれいにきちんと出していける人たちは別ですが、生まれつきよい声とかベルベットヴォイスは、その人のものです。フランク・シナトラあたりも若いときから聞くと、わかりやすいかもしれません。
マイケル・ジャクソンは、小さい頃のジャクソン5のときの声とかはわかりやすいと思います。何がよいのかということです。小さい子の声が音楽的に完成されているというのはどういうことなのかというのは、ジャクソン5を聞いてください。
何で5人いて、上の人たちも結構うまいけれど、マイケルがリードをとったのかというようなことを見ると、声ではないところでの魅力となる何かがあるはずです。勉強してみてください。
今日の課題は1オクターブというより、低音域の感覚の1オクターブを中音域の1オクターブにすりかえていくことです。そのイメージをもってやれば、もう少し「ハイ」とか「ラオ」とか「ララ」も変わってくると思います。
本当の声が1音か2音しかない人に、半オクターブや1オクターブの体で出している2オクターブや声のひびき、のりが理解できないものですから、半オクターブとか1オクターブの体をつくっていくところからめざすべきだということです。そうでないと、体からはみ出したところというのは必ずあとで問題になるのです。
3音ぐらいしかそろわない人にとってみたら、3音を越えたところはひびかしていくか、まわしていくしかないわけです。声が、1オクターブがあって、それを話すように出せる人の音色と、その使い方の技術をいくら比べても仕方ないのです。
歌いたければ回すか、あてるかで1オクターブとることにいつも意識がいくわけです。音域というのが、重視されてしまうところで、負けてしまうのです。
ことばで言うところまでは作品になっていたり、技術が感じられたり、体と一体になっているのが、歌わせるやいなや、その出だしから変わってしまう人ばかりです。
体のことからいったら、イメージさえ同じであれば出だしは変わらないはずです。サビで変わるのは1オクターブ高いところが出ないからですが、出だしは1オクターブないわけです。
そうしたら本来、できることができていないわけです。それは、体や息の問題より、イメージの問題です。このイメージの問題を直さないことには、正しくトレーニングできません。
イメージを正しくやったら出だしは歌えるけれども、上の方にいったら歌えなくなるというのがあたりまえです。
外人とヴォイストレーニングをしていたら、最初、歌っていない人は音域が狭いけれど、その代わり出している声域が全部しぜんに歌に使えるのです。息が通っているからです。その方が確実に伸びていけるのです。
日本人みたいに、1オクターブ半ぐらい出しているのにどれも使えないというよりは、よほど早く上達していくのです。
大切なのは、去年より体が強くなることです。1音ずつやっていく方が確実にものになって使えるのです。音を届かせることよりも、確実に使える音を常に体に宿していくことができること、そのプロセスを学ぶべきです。一番まずいのは、中途半端に体を使って発声した状態で力を入れることです。
中間音からのどをつぶすことになるわけです。その頭にあてたり胸に押しつけた発声になります。そのときには、切り替えないとだめです。
つまり、できるところでトレーニングをして、できないところはそれが確実にできたときにだけ応用していく。できるところができないときは、できるところを確実にできるようにすることに専心することです。
その日によって調子が変わるなら、メニュも変えるべきです。大胆かつ細心の注意を払ってやりましょう。のどをきちんとキープしながら息を吐くことを技術にしていたら、できるわけです。できないということは、声をつぶすトレーニングになっています。
声を出せばトレーニングということではありません。自分で今日のトレーニングの目的をわけてやることです。やみくもに全部やったらできるのなら、日本人も皆、できているはずなのです。
いくらでも昔から本物は聞いてきているわけです。何で本当に限られた人しかできないのかというと、プロの耳と体に置き換えるのが、とても難しいからです。その置き換え方を学んでください。
ここまでやってみてつぶした、これでつぶれるのがわかったというのもよいと思います。つぶした声が自分の発声だと思わないこと、練習をやめた途端にのどは楽になって前と同じ細い声に戻ります。それは、発声の原理に全然かなっていないことですから、やらないようにしましょう。のどが疲れた状態のところに、さらに力を使うと、ライブでやっているのと同じで、つぶすトレーニングになります。
声は、力では出せません。授業は、体と耳とイメージを学びにくる場です。スポーツを一人でトレーニングできる人は、一流の技術と舞台をもった人だけです。そうでなく、多くの人はプロの100分の1のこともやっていないのに、精一杯やっているつもりになり、伸びません。
だから、場が必要なのです。同じことができないのは、同じことのできる条件が足らないからです。そして、それは多くの場合、才能や本質というより、感情表現、イマジネーションの問題です。
講師と同じことができないなら、ここに学ぶことは山のようになり、学べない人の力がないのです。同じことができてはじめて、さらに大きな差があることに気づきます。そこからが、やっとトレーニングへのスタートラインなのです。
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「アンコーラ」
「アンコーラ アンコーラ アンコーラ ラーーーーーーーーーーーアモレ センツァテ」
(レードーシ♭ ミ♭ーレード ファーミ♭ーレ ミ♭ファソソソソファ♯ソラシ♭シ♭シ♭シ♭シ♭ド シ♭ーラーシ♭)
上昇感の練習です。3回同じことのくり返しをどうやるか、練習してみてください。